Home > Reviews > Film Reviews > 彼女がその名を知らない鳥たち
東日本大震災が起きる前だったか、作家の保坂和志が会うたびに「たとえば蒼井優がさあ」を連発していた時期がある。「たとえば」というのだから、続く名前はほかの人になっていてもいいじゃないかと思うし、「蒼井優」と言いたいのなら「たとえば」はいらないじゃないかとも思うんだけど、なぜかいつも「たとえば蒼井優がさあ」なのである。その後にどんな話が続いたのかは忘れてしまった。きっと楽しい会話だったのだろう。「たとえば蒼井優がさあ」で始まる会話があり、それが地震で吹っ飛んでしまっただけ。とはいえ、そのことが妙に懐かしい。
昨年、『オーバー・フェンス』で場末のキャバ嬢役を務めた蒼井優が久々の主演作となる『彼女がその名を知らない鳥たち』でまたしてもディープな汚れ役に挑んでいた。働かず、男からもらう小遣いで遊びまわり、自堕落な日々と荒みきった仏頂面。寝っ転がってデパートにクレームの電話を入れるオープニングからして様子が違う。ああ、蒼井優も着実に芸風を広げようとしてるんだなと最初は思いかける。『オーバー・フェンス』で見せた強烈なイメージの変化に引きずられたのだろう。
いや、そうではないのではないか。蒼井優のデビュー作は『リリイ・シュシュのすべて』(01)である。有名なエピソードのようだけれど、蒼井が演じた津田詩織は援助交際を強要されていたにもかかわらず、それをものともせずたくましく生きていくという設定だった。ところが、レイプされ、自殺する予定だった久野陽子を演じる伊藤歩の演技と蒼井のそれを観ていた監督(岩井俊二)は二人の演技に突き動かされ、撮影の途中で二人の運命を入れ替えてしまったというのである。簡単にいうと岩井俊二は蒼井優の中にタナトスを見たということで、蒼井の演技が自殺というストーリーを引き寄せたことになる。保坂さんが「たとえば蒼井優がさあ」を繰り返していた時期は『ハチミツとクローバー』や『フラガール』がヒットし(共に06年)、蒼井のイメージがメジャーなフィールドで定着しつつあった頃だった。そうなると蒼井の中でタナトスは眠りにつかざるを得なくなるだろう。実際、黒柳徹子は蒼井を清純派と呼んでいたし(トリビア:蒼井は役名が黒柳徹子だったことがある)、そうしないとTVをつければ「ビオフェルミン!」などと発音しているタレントにはなれなかっただろう。しかし、蒼井はいま、その時に封印したタナトスを解禁しつつあるのではないだろうか。初期衝動が再燃しつつあるのではないだろうか。
最も心に残ったセリフは「生きていたくない」だった。蒼井が演じる北原十和子は「死にたい」とは一度も言っていなかった(はず)。生きてはいるけれど、そのことをまったく楽しんではいない。自分のために何でもするという佐野陣治(阿部サダヲ)が北原十和子の生活を支え、家事から何からすべてのことは彼がやってくれる。ヴィリエ・ド・リラダンいわく「生きることはすべて召使いがやってくれる」という状態である。佐野がどうしてそこまで北原に尽くすのか、最初はまったくわからない。結論からいうと最後まで観ても解釈はひとつに絞れない。むしろ、この男の存在はファンタジーではないかと思えてくる。一緒に共同生活を始めた男がどれだけダメかという例をあげつらった『深夜のダメ恋図鑑』(小学館)のようなマンガを読んでしまうと、いまの日本の現実とは真逆ではないかと思ってしまう。しかし、阿部サダヲの演技がこれをありにしてしまう。これはちょっとしたマジックで、『夢売るふたり』を観ている時にも思ったことだけれど、阿部という役者にはどこか女性を前近代的なお姫様として成立させてしまうところがある。かたちは変えているかもしれないけれど、阿部は女性の夢を異次元で成立させてしまう白馬の王子様なのである。『彼女がその名を知らない鳥たち』も阿部以外の役者で説得力を持ったかどうかは興味深い。すぐに思い出したのは『春琴抄』で、男女関係はいわゆる対等ではなく、主従の関係も見た目通りに機能しているわけではない。マゾヒズムをテーマとした『春琴抄』も最後は現実の春琴は素通りして佐助が崇めるのは観念としての春琴にすり替わっている。マゾヒズムの方が現実よりも優先されている。阿部サダヲ演じる佐野陣治も現実の北原十和子を自立した女性として扱っているわけではなく、彼女の好きにさせているようで、言ってみれば彼女に仕事もさせず、社会との接点を失わせ、「生きていたくない」と感じさせる状態に追いやっているともいえる。この映画はそこにミステリーのエッセンスを詰め込んだ。春琴の晩年と同様、プライドを失った女性の心理をミステリー形式で肥大させてみたと言った方がいいだろうか。物語は、そして、北原がデパートの店員に色目を使い出し、佐野の寛容さにストップがかかるところから急激に転がり始める。佐野は異常なのか、それとも北原があまりに誠実さに欠けるのか。
佐野が取っていた行動の謎は最後に一応は解ける。それしかなかったようには思えてくる。問題なのは、いや、観たいのは「このあと」ではないかという気持ちが残ったまま、そして、街に放り出される。「生きていたくない」と言っていた北原十和子はどうなっていくのか。観終わった後にそれを考えさせる映画だと言われてしまえば、これはもうミステリー映画の範疇ではない。そして、僕は必ずしも蒼井優の演技がポジティヴな方向にものを考えさせるばかりではないと思ってしまった。岩井俊二と同じく、彼女の表情にタナトスを読み取ってしまう方が自然なのではないかと。一緒に観に行った友人(アメリカ人でもわかる関西弁!)が「さすがに可哀想だと思った」と同情心をあらわにしていたのが印象的で、最後まで蒼井演じる北原十和子には強さが感じられない。この世から消えてなくなってしまうしかないような表情に思えて仕方がなかった(監督の白石和彌は逆に蒼井を撮りながら強さを感じていたという)。
この映画が意地悪なのは北原十和子の姉がシングルマザーで、しかもバリバリに仕事をこなしているワーママとして設定されていることで、周囲に男がいない女は成功し、いろいろな意味で男に取り巻かれている妹は何ひとつうまくいかないといった対比が強調されていることである。それこそ白馬の王子様に空振りを食らわせた『アナと雪の女王』を現実へと引き戻したミサンドリー(ミソジニーの反対語)の映画ではないかと考えたくなってくる。登場する男たちはことごとくヒドいし(とくに國枝?)、男としてはこの映画のどこにも身の置き場がないではないかと思ってしまう。そのような世界観を剥き出しにしているにもかかわらず、それでも「白馬の王子様」を必要とするのかという疑問もあるし、最後まで観ても佐野陣治の存在をどう捉えればいいのかわからないというのは、そのせいではないだろうか。監督はしかし、佐野の取った行動は無償の愛だという解釈でアプローチしたらしい。そうなのかー。うむー(ちなみに白石和彌の前々作『日本で一番悪い奴ら』は個人的には昨年の邦画ベスト・スリーに入ります。スコセッシを思わせるロック的な皮肉が素晴らしいです)。
邦画でどうしようもないなと思うのは、とくに予告編の作り方と音楽が使われ過ぎだということ。『彼女がその名を知らない鳥たち』で驚かされたのは音楽をほとんど使用せず、ある一点に凝縮させて流したことだろう。音楽はまるで洪水のようで、その流れに呑み込まれていることが自覚できるのにどうすることもできない。これにはやられた。邦画でこういう経験は珍しい。
三田格