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初めてルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』(74)を観たときは「なんてスゴい映画なんだ」とトリハダ大感動だったにもかかわらず、2~30年してもう一度観たら、ぜんぜん意味がわからなかったことがある。とくに後半の政治談義はさっぱりで、なんで、学生時代の自分にはこれが面白かったのか、それもまたナゾであった。二度観ることで印象が変わってしまう映画はざらにあるし、間隔が空いていればそれはなおさら。ちゃんと楽しめるようになっていたり、前よりも深く没入できた時はいいけれど、たいていは前に観た時よりもヒドいと感じてしまい、好きな映画がどんどん減っていくのはけっこう笑える。こんなものに長く囚われていたのかと。意味もなく大切にしていたゴミをついに捨てた気分。
アレハンドロ・ホドロフスキー『エル・トポ』(69)にも同じようなところがあり、最初に観た時はそれこそ圧倒された。そして、その記憶だけが増幅されていった。難解な映画の代表作のように言われる作品だし、それ以上、自分の言葉にできなかったというのはやはりダメなのだろう。これもやはり30年ぐらいしてからもう一度観たことで何かが頭の上からどいた気分になった。もう一度観ることがないとは思わないけれど、とりあえずいったんは捨て去ることができた。もう一度観るにはやはり新たなキーワードが必要である。『アモーレス・ペロス』や『散歩する惑星』が「虚無」をアップデートした時代に『エル・トポ』というのはどれだけ応えてくれる作品なのか、それを説いてくれる言葉が。『クスクス粒の秘密』や『パラダイス:愛』が束になってかかってくる現代に。
とはいえ『エル・トポ』を観直そうと思ったのは、4年前、『リアリティのダンス』(13)にまたしても異様な感動を覚えたからだった。同作はホドロフスキーが23年ぶりに映画界に舞い戻った凱旋作で、強権的で異常なほど抑圧的だった父親(スターリン主義者)の半生を受け入れるためにどうしてもつくらざるを得なかったとしか思えない自伝作であり、世界というものがどんなところかわかり始めてきた少年の視点と実際の時代背景が絶妙に入り混じった自己セラピー映画だった(悪くいえば捏造記憶の映像化)。『リアリティのダンス』を観れば氷解することだけれど、『エル・トポ』は父親のやったことはすべて徒労でしかなく、あげくに焼身自殺させてしまうというストレートな父殺しの映画だった。それと同じようなことを今度はコミカルにやり直したのが『リアリティのダンス』で、人というものは幼少期に感じた恐怖を笑いにすることでしか乗り越えられないという学説を裏付けているようなところがある。そういうことを80歳過ぎてもやったと。しかもそれが無類に面白かった。さらには父親の人生をテロリストとして再生することでそれなりの意義も認めているところは大きな変化である。もともと『エル・トポ』でも父に捨てられた息子は再会した父に向かって「殺す」と告げたにもかかわらず実際には殺せず、自分の手で父殺しはできないという留保は付けられていた。このちょっとしたためらいを彼の人生という別なスケールの中に移し変えてみると、ホドロフスキーが創作へと向かうエネルギーはすべて父親がくれたようなものだと無意識に理解していたということにはならないだろうか。『エル・トポ』で父を殺せなかった自分という図式は『リアリティのダンス』ではイバニェス大統領を暗殺できなかった父親という関係でもう一度リピートされる。権力が強大であればあるほどカウンターの力も増すという図式を彼は温存したかったのだろう。そう、『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を読んでいただいた方には伝わったかもしれないけれど、戸川純は同じように幼少期に父親から受けた暴力を“好き好き大好き”という曲にして、早々と笑いに転化していた。ホドロフスキーよりもぜんぜん早熟である。しかも“シアー・ラバーズ”という曲では父との距離感を次のステップまで進めている。ホドロフスキーが生きている間にその境地まで辿り着くとは思えない。そんなことはないのかな。どうだろう。そう思っていたら『リアリティのダンス』の続編にあたる『エンドレス・ポエトリー』が公開されることに。青年期の始まりである。
『リアリティのダンス』と同じくシュールレアリズムというものの方法論を再認識させられる作品である。しかし、父親との確執を前面に押し出した前作と違い、貧しい暮らしを背景に芸術を求める青年像という筋書きはややありきたりに感じられた。まったく様式性の異なる演出にしてしまえばよかったのかも知れないけれど、やはりイメージを喚起する力はさすがなので観ている間は圧倒されっぱなし。モノクロとカラーを組み合わせて異なる時間軸を共存させ、ギターケースには肉を、巨大なアトリエにカーニバルを詰め込んだり。それらが洪水のように流れていくものの、彼にとっての父親と違い、目の前を流れていく風景はトラウマには発展していかない。どちらかというとホドロフスキーにも普通の時期があったんだなという感慨の方が僕には強く残ってしまった。チリからパリに移り、シュールレアリズムから神秘主義へ転じ、最初にハプニングを始めたアート・パフォーマーとも言われ、メキシコでは前衛演劇、さらにはLSD、映画、コミック、マジックショーと知れば知るほどこんな人間が本当に存在するのかと思うような才能がともすると『ゲゲゲの女房』や『苦役列車』と同じ地点に立っていたことがわかるような映画なのである。これは微妙である。いっそのこと自分とは完全にかけ離れたような存在でいて欲しかったような気もしてしまうし、共通点がないとそもそもこの人に興味を抱かなかったかも知れないし。ただし、経歴からもわかるようにホドロフスキーの作品は徹底的に身体性から発しているものなので、一見、整合性のないストーリーでも、なるほどダンスを踊るかのように意識も持って行かれてしまい、体を動かすことが嫌いではない人たちは興味の有無とは別に作品には同調しやすいのではないかと。それこそ身体性のまったく欠如したデヴィッド・リンチの映画が苦手だという人にはアピールしやすいとも(ホドロフスキーもリンチも同じように好きだという人はちょっと信用できない)。全身を真っ赤なタイツで包んだ人々の行進と同じように黒と白でドクロ模様が描かれたタイツを着た人たちの行進が混じり合い、めくるめく血と骨のイリュージョンに包み込まれたかと思うと赤と黒と白がナチスの旗に変換される刹那など政治的に支配されていくプロセスを的確にコントロールされたようで、恐怖感は倍増だった。あのシーンにはほんとに逆らえなかった。
『エンドレス・ポエトリー』では父親との確執を前面に押し出さなかったと先に書いた。しかし、エンディングはパリに向かおうとしたホドロフスキーが港で父親とケンカになるシーンである。両者ともに罵りまくる。これもホドロフスキーにしては普通すぎる。『リアリティのダンス』では暴力でしかなかったものがコミュニケイションに変化している。実際に父と息子はこの時が今生の別れとなったらしく、もしかするとリアルに再現したのかも知れないけれど、『リアリティのダンス』をつくったからこのような屈託のない描き方もできるようになったのだろう。セラピー後の表現というのは概して面白くないものである。それは仕方がない。それに第3部としてパリ編もこの後につくられるらしく、つなぎとしてはどうしても必要なシーンだったのだろう。「父親」後の世界が始めるためには。
僕は『スター・ウォーズ』を一本も観たことがない。同シリーズはホドロフスキーがハリウッドに持ち込んだアイディアの残骸だったと明かされる『ホドロフスキーのDUNE』を観た時、僕はそのことをちょっと誇りに思った。
三田格