「Noton」と一致するもの

DJ Doppelgenger - ele-king

 Dj doppelgengerを形容すると鬱蒼と生い茂っている樹海に住んでいる鷹というところだろうか。普段は上空高く優雅に飛んでいながらも、広い視野で常に獲物を狙っている。そしていちど踏み入れたら決して抜け出せないような、誰もが恐れをなす樹海へとひとり飛び込み、狙った獲物は必ず捕らえる。その視野の広さと獲物を狙う嗅覚は、彼の音楽に対する前向きで実直な姿勢にこそ反映されているのではないかと思う。
 デビュー・アルバム『パラダイム・シフト』は、世界各国を旅した彼がその五感によって得た世界観を余すことなく体現した作品だ。その名のとおりシーンに「革命的変化」を与えるアルバムである。

 ダブステップに照準を合わせながらも、本人いわく「細分化するダブステップのなか、新たなるスタイルを提唱する」ものであって、無国籍的で能動的で哲学的、オリジナリティあるサウンドが生まれている。ベース・ミュージックを根底に持ったディープなサウンドから、ジャングル的なアッパー・グルーヴ、民族音楽特有なメロディックなサウンド。
 3曲目の『カーマ・スートラ』は、インドの熱い気候のなか、砂漠を彷徨い歩いているかのような気持ちにトリップさせられる。曲名の『カーマ・スートラ』は、現存するインド最古の三大性典のひとつ、性愛学の文献の名だ。こういうところにも彼の哲学観、旅の意義を見出すことができるだろう。
 全曲を通して聴いてみると、東南アジア、中南米などさまざまな国にトリップさせられ、気づいたら現実により戻されている。9曲め、表題曲の『パラダイム・シフト』では長旅の疲れを洗い流しながらも、また「革命的変化」でもって空っぽになった身体に中毒性を植えつける。そしてその中毒性のために、再度「革命的変化」を求め旅にでる。この「革命的変化」は貪欲に歩みをとめない。そして彼もまた「革命的変化」を求め、強靭な意志を持って永劫回帰を続けていくだろう。

 けっしてDJユースなだけのアルバムではなく、家でのBGMとしても聴ける。曲名の意味を理解し曲と照らし合わせながら自分なりの解釈で聴いたりするのも面白いだろう。旅中のBGMとして聴くのもいいかもしれない。さまざまなシチュエーションで聴いてみてほしい。そして彼のDJを現場へ聴きにいって、世界観を体感してほしい。これからも彼の旅が新たなサウンドとして、言い換えるならば「新しい文明」として日本に持ち込まれ、抽象度をあげ、その世界観がドッペルゲンガー・サウンドとして世界に発信されていくことになるだろう。

 アリストテレスの名言に「革命は小事にあらざるも、小事より発生する。」というのがある。まさに彼のアルバム『パラダイム・シフト』がその言葉を体現しているように感じられる。

Nils Frahm - ele-king

 ポスト・クラシカルと呼ばれるような音のなかでも、ゴンザレスとかニルス・フラームなどを個人的に敬遠しがちだったのは、なんとなく安直なイメージがあったというか、たとえばハーレクインのような具合に、聴く者の欲望にたやすく奉仕するような、あるいは聴く者の抱いている複雑な感情におおざっぱな出口を与えて思考停止させてしまうようなメロドラマ性があると決めてかかっていたからである。彼らの音楽を再生すれば、たちまちにしてわれわれは映画やドラマの主人公になることができる。目の前の生々しく面倒くさいことがらにも少し洒落たヴェールがかかる、みたいな。

 それからわたし自身が、以前は、音楽が他の何ものにもよらずに自立するものでなければならない――映像やストーリーや、聴かれる状況などに寄り添ったりおもねったりするものであってはならない――というような、驚くべき偏狭さにとらわれていた、という事情もある。音楽は生まれてしまったあとは人から独立して存在し、人を感化するものでなければならない、みたいな。
それなのに彼らの音ときたら――われわれが切ないと感じたり、苦しいと感じたり、気持ちいいと感じたり、そのすべてがまじりあったように感じたりする、言葉によっては形容できない繊細なエモーションに寄生して、そこから養分を吸い上げて成立しているように見える。何といったか、動物の死体から直接生えるあの美しい植物に似て、彼らの音使い、コード進行、旋律、アレンジ、そういったすべてが、たとえば失恋の痛みやメランコリーといった、人の心を強く支配するような気分の上に、胞子のようにとりついて根をおろし、そのメンタルをまるごと利用するように存在しているではないか、みたいな。

 いまでも半分はそう思っている。だが、この『スクリュース』を聴いてひとつ気づいたこともある。フラームの音楽はわれわれの気分を巧みに利用するが、フラーム自身はそう器用でもなさそうだということである。われわれの、切なくて苦しいけどそれが気持いい、みたいな気分を絶妙に助長し刺激しているのは、けっして技巧ではなくて、彼自身のエモーションなのだなということが感じられる。単音の旋律がつづき、伴奏にも和音があまり用いられない。ゆっくりと気持ちを押し込めていくように鍵盤が下ろされる。それがピアノ演奏というよりも歌のように聴こえ、つまりはこれはフラームの声なのだろうと感じさせる。音のつづく3分ほどのあいだは、彼自身が彼という聴き手に向けたちょっとしたなぐさめや癒しの時間なのではないか。フラームはそこで、自分に向けて二言三言のいたわりの言葉をかけているのではないか。

 フラームはこのアルバム制作の前に、事故により左指の1本に大けがを負ってしまったという。高名なピアニストに師事していたというたしかなわざを身につけた人間が、よりにもよって指を痛めるとは悲劇的な話である。医者からピアノを弾くことを止められていた彼だが、残りの9本の指で毎晩寝る前に少しずつ録音したという9曲が本作になった。2011年の『フェルト』は、ローファイなプロダクションが話題になった作品で、ラフな録音を叙情的なフィールドレコーディング作品へと転換するような、空間性を意識した方法がとられていたが、本作はそこに、夜な夜なレコーダーを回したという事実、つまり「事故後」という時間性の記録が加わることになった。そのような情報やコンセプトが加わることで、ピアノのフレーズの隙間にはさまった小さな物音までが、とてもイマジナティヴに立ち上がってくる。トラック名も泣かせる。"ド""レ""ミ""ファ""ソ""ラ""シ"の7曲を"ユー"と"ミー"がはさむ。フラーム自身をなぐさめ、いたわる音楽は、あなた......聴き手自身のなぐさめといたわりによって補完され、完成される。自覚的なのか無自覚なのか、彼自身の音楽の成り立ちを解くような趣向であって、ちょっと泣ける。

Fidlar - ele-king

 去年、アメリカのサンタナにあるライヴハウスの、〈バーガー・レコーズ〉主催のイヴェント、「バーガーアマ」に行った僕は、オープニング・アクトを飾ったひとつのバンドにぶっ飛ばされた。
  小柄なメキシコ系のヴォーカルは、へったくそなギターをひたすらかき鳴らし、「起きたら! キメて! スケート!」なんて絶叫してる。他のメンバーもバカみたいなテンションでステージ上をのけぞり回り、シャウト! 曲が終わるとヴォーカルは中指を立てながら「お前ら全員ファックだ!」と言って、小さな笑みをこぼした。「さ、最高だ......!!!」   
 僕はやりきれない思いに塗れたアメリカの典型的なキッズたちが鳴らす、フラストレーションをヤケクソな勢いで爆発させたような、ジャンク・ガレージ・パンク・ポップにただただ興奮していた。当日のお目当てはトリを務めるウェイヴスだってのに(他にもタイ・セガール、キング・タフ、オフ!なども出演)、最初のバンドでピークを迎えてしまいそうな僕は、飲めないビールをすかさず一気飲みし、地元のやんちゃそうな連中に混じってひたすらモッシュ! 会場のキッズたちは120%のテンションでダイヴを繰り返し、こう叫び続けていた。「フィドラー(くそったれ! 人生は賭けだ)!!!!!!!!!!!!!!!」 

 どうしようもない4人の負け犬で結成された、LA出身のフィドラーは、ギター・ヴォーカルのザック、リード・ギターのエルヴィス、ベースのブランドン、ドラムのマックスの4ピース・バンド。ファースト・アルバム『フィドラー』では、ニルヴァーナとピクシーズ、そしてブラック・リップスに大きな影響を受けたという、キャッチーで弾みの良いガレージ・サウンドが、ウェイヴスやベスト・コーストにも通じるごきげんな西海岸特有のテンションで、最後の曲"コカイン"までひたすら鳴り響いている。
 ほとんどの歌詞の内容は"ドラッグ、スケート、アルコール"。マジでバカ全快で、アホ丸出しだが、そこが良い。

 彼らは現地のキッズにもに人気だった。演奏が終わると、キッズたちはぞろぞろと物販に移動し、Tシャツやレコードを夢中になって買っていた。そんな光景を見ていた僕は、自分が中学生の頃、ザ・ヴァインズのアルバムをスキップしながらCDショップに買いに行った時代を思い出し、胸が熱くなっていたが、そんな僕の横ではウェイヴスのネイサン・ウィリアムスがひたすらハッパを(合法的に)吸っていた。
 イヴェントが終わり、僕はフィドラーのヴォーカルのザックに恐る恐る先ほど買ったレコードにサインを求めると、彼は気さくにそれに応じてくれた。「俺、じつは昔、静岡にちょっと滞在してたんだ。コンニチハ! だろ? へへ。日本には本当に行きたいんだ。いまそんな話もしてるんだぜ? だからちょっと待っててよ」
 この言葉の通り、2月、ホステス・クラブ・ウィークエンダーでフィドラーは来日する。

Yo La Tengo - ele-king

 私が高校時代のUSインディのイメージってのはもう本当にダサいもんでして。土臭くて、眼鏡かけちゃって、天然パーマで、帰宅一直線で、ネルシャツとジーパンでしょ、パンパンすると埃出ちゃうような。......にくらべて、キュアとかスミスとかスタイル・カウンシルとかジーザス&メリー・チェインとかアズテック・カメラとか、まあ! 輝いてましたわ! これぞスター! 最先端! ビバ英国! だったわけです。
 結局その頃はアメリカのインディ・シーンの情報がまったく日本に入って来てなかっただけの話でして、実際にはソニック・ユースもスワンズもダイナソーJRも、さらにはバッド・ブレインズ、ブラック・フラッグ、マイナー・スレット、ミニットメンなどのハードコア勢も、その後訪れるオルタネイティヴ・ムーヴメントの源として地下でモシャモシャと動きはじめていたのですが、なのに地方のレコード屋で手に入る物と言ったらR,E.M.やらキャンパー・ヴァン・ベートーベンやらドリーム・シンジケートやらスミザリーンズやらレッツ・アクティヴや......って、もう! 全然前向きになんかなれない! 女の子にダビングするなんてこともちろん皆無だったわけです。そんなダメダメ・チームの若頭がヨ・ラ・テンゴでした。
 名前も損してましたねぇ。英語じゃないし、テンゴって何だよ......って感じで。もちろん完全無視だったわけですが、のちのオルタナ爆発によってUSインディの歴史とか奥深さを知っていくうちにとんでもないことが起こっていたんだと。地下でがっちり育って繋がっていたんだと。本当にヤバかったのは帰宅部チーム。「普通の顔、普通の格好した人がいちばん怖い」......誰だったかの名言ですが、まさに等身大の音で、そのまんまの格好で、リスクなんて考えずに己の素を全部さらけ出す。やりたいことをやる。裸になる。その潔さ、馬鹿正直さ、そして確実に勘違いからも生まれた奇跡のセンスに溢れまくったアメリカ人に完全にノックアウトされちゃったんですね。だから成人式にも出なかったッスよ。プロム・パーティに出なかったであろうパイセンたちに習って......。

 なーんてことを思い出しました。テンゴの新作を聴いてたら。あの頃のまんまー。全裸ですよ。4年ぶり14枚目の作品はジョン・マッケンタイア・プロデュースのソーマ・スタジオ録音。ロブ・マズレク、ジェフ・パーカーといったお馴染みのシカゴ勢も参加しており、ホーンとかストリングスが彩りを添えております。もちノイズ・ギターもガン! とかね。たしかにジョンマケっぽいなぁ〜と。質感はシー&ケイクとかアルミナム・グループとか、あとティーンエイジ・ファンクラブの『マン-メイド』とかね。透明感溢れながらタイト&クール。蒼い夜空から星屑がカリコリとぶつかりながら舞い降りては、優しく柔らかく足下に積もっていって。3人のハーモニーによるオープニング曲「ohm」だけでもうニンマリ。
 また、前作では15分を越えるナンバーも収められていましたが、今作は全体的にコンパクトな内容で(10曲45分!)、雰囲気は大好きな『アンド・ゼン・ナッシング・ターンド・イットセルフ・インサイド-アウト』に近いでしょうか。だからどっちかというと地味なサイドになるのかな。でももちろん彼らはそれらを意図的にやっているのでなくて、そのとき、その場の彼らにとっていちばんナチュラルな音、演りたい音、そして聴きたい音を作っているだけ。それが毎度のことなんだけれど、私たちはいつも新しい彼らの音楽、つまりは彼らがいま考えていること、楽しんでいること、感じていることを一緒に味わいたいと思っていると。テンゴは安定じゃなくて安心です。いまを一緒に呼吸しているだけでこんな素敵な気持ちになれちゃう。裸をさらけ出した続けた結果、なんとも奇妙でおかしなアーティストとリスナーの関係が生まれちゃったなァ〜とつくづく思って、嬉しくって、ねぇ。

 もう15年も前にインタヴューさせてもらったんですが、ジョージアはニヤニヤと赤ら顔でずっと缶ビールを手放さなくて、ありゃ、完全に帰ってくれない親戚のババアだな......とチョッと怖かったんですが、2年ほど前に会ったときもまったく同じでした。ちょっとシワは増えてたけど、それはこっちもおんなじ。これからもどうぞよろしくお願いします。私もフルチンでずっと御一緒します。

Nosaj Thing - ele-king

 このアルバムを聴き終えて、思わず、「home」という小学生でも知っている単語を英和辞典で引いてしまった。1.家庭,自宅;生家、2.故郷,郷里;本国,故国、3.療養所;収容所;宿泊所、4.(動物の)生息地;(植物の)自生地......。この音楽の作り手は、そのどれを指してそう名づけたのだろうか。まず強く興味を引かれたのはそのことで、不思議に思いながらも同時に、その感性に反射的にシンパシーを覚えた。ここには帰るべき安住の場所としてのhomeはなく、けれども特定されるものではなく茫漠としたイメージにおいてのhomeを持ち出して、とにかくそう名づけたのではないか。つまりそれは、ありとあらゆる音楽が無秩序に広がる荒野に生きるわたしたちの時代のhomeである、と。

 『ホーム』はその掴みどころのなさゆえに、何度もリピートしてしまうアルバムだ。〈ワープ〉の第一世代に代表されるようなIDMの記憶はいまや数多の音楽に発見できるようになったが、ノサッジ・シングを名乗る韓国系アメリカ人であるジェイソン・チャングが生み出す音楽は、そこを基点のひとつとしながらも現在までに至る様々な音楽的記憶へ滑らかにスライドしていく。〈ロウ・エンド・セオリー〉に象徴されるようなLAビート・シーン周辺から出てきたひとであるためそう説明されることが多いのだが、まず感触として思い出すのは、フォー・テットの近作やローンに代表されるようなボーズ・オブ・カナダ・チルドレンの繊細な作りのエレクトロニック・ミュージックだ。だがたしかにビートはアブストラクト・ヒップホップ譲りのものも強く見受けられるし、ブロンド・レッドヘッドのカズ・マキノをヴォーカルとして招聘した2曲目"エクリプス/ブルー"では早速イーブン・キックのテクノとインディ・ロックのフィーリングを接続する。"グルー"のようにスペイシーな質感のテクノもあれば、"ディスタンス"のようなアンビエントも難なくこなし、"テル"ではプレフューズ的なグリッチ・ホップをモダナイズする。メロディアスな"スナップ"はベース・ミュージックとフュージョンが合体したかのようだ。なかでも面白いのはトロ・イ・モワが長音を歌う"トライ"で、チャズ・バンディックが登場すればたしかにチルなムードが広がっていく......が、ドリーミーと呼ぶにはどこか醒めたトーンは保つ冷静さがある。特定の何かに溺れる瞬間はない。現行のアンビエント・テクノと見事に響き合うような"フェイズIII"を挟めば、ラスト・トラックは誰もがエイフェックス・ツインを連想するであろう、高速のブレイクビーツとピアノの和音が戯れる"ライト3"だ。このアルバムにはさまざまなアーティストやその作品群が姿を見せているようだが、ただ、チャング本人がそのどこにいるのかがわからない。個性がない、ではなく、敢えて個体をぼやかすような奥ゆかしさでもって、多様な音楽的語彙の波の上を涼しげに漂っていく。
 デビュー作でそのような自身のあり方を『ドリフト(漂う)』と名づけたことは、自覚的な態度だったと言えるだろう。けれども、決まった居場所のなさをhomeと言ってみた反転こそが、自らの表現の核心により迫っているように僕には感じられる。このアルバムを貫いているものがあるとすれば、そのどこか物悲しいフィーリング、いまにも破れてしまいそうな薄い膜が張ってあるかのようなフラジャイルな感触である。それすらもことさらに強調せず、重すぎないビートとたしかに印象に残るメロディを用いてスムースに聴かせてしまう。それはまるで、帰る場所を持たない人びとが無意識に抱くメランコリーに寄り添うようだ......というのはいささか飛躍かもしれないが、自らに内在する多様性とその矛盾を認めるという意味で魅力的だ。
 そこに現代性を見出すとすれば、本作もまた、いまという時代を捉えたものとして新たな音楽的記憶のいち部へと溶け込んでいく。チャングの一見ささやかで繊細なエレクトロニック・ミュージックのそのざわめきは、雑多さそのものを静かに受容し、そこにこそ身を捧げるようなロマンティシズムの気配を湛えている。

坂本慎太郎 - ele-king

 歌詞という点でいまいちばん共感できるのが坂本慎太郎の「まともがわからない」である。この曲の影響下で、僕は「わからない」という原稿を2本書いた。人間はわからないと安心できないので、本を読んでわかった気になるか、人によってはわからないものを否定したり、たたきつぶしたくなるようだが、坂本慎太郎ときたら......「まともがわからない/ああう~/まともがわからない/ぼくには今は」、そしてこう続ける。「また会いたい人たち また見たい あの場面/もどりたい場所など はたしてあったっけ?/今も」
 この美しい曲を聴いた夜、僕は、「もどりたい場所など はたしてあったっけ?」というところで、不覚にも涙腺がゆるんでしまった。いま日本の音楽で、これほど辛辣で、絶望的で、反抗的で、それがゆえに勇気づけられる言葉が他にあるのだろうか。あったとしても、これほどの潔さは滅多にないだろう。サッチャー時代にザ・スミスを心から聴いていた英国人のリスナーもこんな気持ちだったのかもしれないが、サッチャー時代のイギリスといまの日本の社会はあまりにも違っている。
 そもそもアートワークが、いままでの坂本慎太郎を思えば説明的過ぎる。テレビ、スマートフォン、そしてパソコン。今日の、わかりやすくノーマルな風景のようだ。しかしこのわかりやすさに、むしろ坂本慎太郎の軽快で柔らかい音楽の裏側に隠されている、メラメラとしたものの抑えがたさを僕は感じてしまうのだ。
 坂本慎太郎は、まともさを疑っているのではない。まともは、実はまともではないと思っている。ノーマルだと思っている世界は、ノーマルだと思い込まされ、思い込んでいる世界であることは言うまでもないが、刺激好きな人にとってこの世界は、いまのところ次から次へと刺激を与えてくれるから、依存症や中毒者のように、それが無感覚=ノーマルとなる。貧しい者のために富める者から税金を取ったオバマは貧乏人から批判され、アルバイト暮らしの貧乏人はグローバル企業の抱えたスポーツ・チームになけなしの金を払う。エコを推奨するオーガニック系のイヴェントの駐車場には高級車が止まって、アンダーグラウンドのレーベルは、無名の才能に夢見ることを止め、歴史的に評価の定まった権威を喜ぶ。

 坂本慎太郎は、いやったらしいほど、刺激のない音楽を追究している。EPに収録されたほかの2曲、"死者より"と"悲しみのない世界"も秀逸だ。"悲しみのない世界"は70年代の深夜番組でかかっていそうな甘ったるいMORだが、とにかくこれも言葉が面白い。「あなたの声が 聞こえない/もしかして今 ほかのとこどこか/ああ 見てたの?」というフレーズは、あなたが生きていると思っている人生は人生ではないと言われているようで、あー良かったと、気持ちが安らぐ。
 「まともがわからない」は、こうした、言葉に表象される逆説的な脱力感がメロウな音楽と見事に噛み合っているわけだが、彼の演じているソフト・ロックが成り行きで生まれたウブな代物ではないことは言うまでもない。これはコンセプチュアルに生まれたものだろうし、ゆえにクリストファー・オウェンスが歌詞を理解できないことが残念だ。アメリカ人にも、いや、アメリカ人にこそ聴いてほしい歌詞である。

 初回限定盤についている「まほろ駅前番外地」のサントラ盤が、特典とするにはあまりにも素晴らしすぎる出来で、40分弱のこのインスト+歌が聴けてEP1枚の値段で売られている点にも坂本慎太郎の、強い意志のようなものを感じる。

Toro Y Moi - ele-king

 彼の心は彼のもの。チャズ・バンディックが体現するのは、一種の純潔ではないだろうか。"スティル・サウンド"で彼がくるくると踊るとき、"タラマック"で花火を振り回すとき、"ソー・メニー・ディテイルズ"で池に小石を投げるとき、間違いなく彼の心は彼だけのためにある。何ものもそれに触れ、それを汚すことができない......。

 バンディックが歌い、動き、踊るのをみていると、心というものはどこまでも自分のものであっていい、いや、そうでなければならない、というふうに思えてくる。心というとわかりにくいだろうか。人の思惑のために簡単に動いてしまうものは、人のなかに何かを残したりしない。それはよくもわるくもだ。彼がわれわれを惹きつけるのは、そうした何か動かざるもののためであると感じる。そうでなければ音楽オタクでも方法オタクでもない、そうテクニカルでもない、一大トレンドとして類似した音も多い、はや3作目にもなるトロ・イ・モワの音楽が、こんなに特別な存在感を持つことの説明は他にはつかない。彼のセンスや嗅覚は高く評価するとしても、音の足し算や引き算では説明のつかない魅力のために、われわれはまたアルバムを手にしている。

 ふわふわとした話ですみません。もちろん足し算と引き算の話も重要だ。今作、彼はさらにブラコン路線を強め、純粋なリヴァイヴァル気運を伴いつつチルウェイヴの展開形のひとつとしても浮上してきた90年代風R&Bの潮流(野田努が「チル&ビーって言うらしいよ~」と言っていた)に、完璧にシンクロしている。今回もホーム・レコーディングだということだが、ローファイの名残をとどめながらもぐっと洗練され、よりクリアなプロダクションを得ることになった。インクやハウ・トゥ・ドレス・ウェルなども同様の傾向を深めており、それらはいまもっとも気にされているトレンドのひとつになっている。

 実際のところよく聴き比べれば、トロ・イ・モワ自体、音楽の骨子の部分ではあまり変わっていないとも言える。だが、たとえばアマゾンの商品説明で『コージャーズ・オブ・ディス』がパッション・ピットやヴァンパイア・ウィークエンド、MGMTなどと比較されているのを見ると時代の変遷ぶりに驚いてしまう。アニコレも加え、当時はブルックリン勢の最後尾のように理解されていたわけだ(たしかにそういう感じもあった)。そしてミスター・チルウェイヴとしてウォッシュト・アウトと並び称された記憶もまだ払拭されたわけではない。同時にいまはインクハウ・トゥ・ドレス・ウェルに比較される。要するに音楽性自体はそう変わらないまま、彼はその代その代のもっともヴィヴィッドな流れにつねに比較されているのである。

 まわりに同調してくるくると音楽性を変えたりはできない。毎度、少し洗練されたなというような、自身のキャリアとしてまっとうな進歩を見せるだけのことである。周囲の思惑は、そう簡単には彼を動かせない。それは"ソー・メニー・ディテイルズ"のPVにもよく表れている。女優を用いて、大掛かりな道具立てやロケによって撮られてた、トロ・イ・モワとしてはかなり異色の作品だ。高級車や豪華な別荘や自家用ジェット、そしてハイクラスな美女に取り囲まれながら、そのどれにも染まず漂ってしまうバンディックの肢体は、その心そのものでもある。高級だからなじまないというのとも少し違う。彼自身に干渉しようとする異物に対する、潔癖的な恐れや違和感が画や姿からありありとたちのぼっている。石を池に投げる何気ないシーンでは、その動きが、彼が自分自身の領域を防護しようとするものであるように感じられないだろうか。彼の心は彼のもの、なのだ。
 ヒットチャートもののR&Bのミュージック・ヴィデオのパロディでもあるだろうが、その思惑すら越えてバンディックの静かな視線がカメラに注がれる。"セイ・ザット"も皮肉めいた笑いを誘うとても好きな映像だ。謎の大自然のモチーフもふざけているようでいて、カーティス・メイフィールドの『ルーツ』などを思い起こさせもする。バンディックに政治的なテーマはまるでないだろうが、ソウル・ミュージック全体のなかに自身のアイデンティティや立脚点を探ろうとするような意図は見える。ジャケットにも明瞭だ。彼の純潔はさまざまな雑音を洗い、払って、自分のゆくべきひとつの道を見つけ出そうとしているのかもしれない。

※蛇足ですが本文冒頭は昨年の傑作ドラマに出てきた名ゼリフの引用です。(https://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/heike.html#h_shigeko

「食らう」一冊──。

2010年代のヒップホップ・アーティスト9人のインタヴュー集。
ルードでも閉鎖的でも教条的でもない、自由で新しいフィーリングを持ったラッパーたちが、いまのびのびとヒップホップの歴史を塗り替えようとしている!

次世代を担う、新しいラッパーたちが語ってくれた言葉と物語。
リリックを贅沢に引用しながら、生活のこと、これまでのこと、未来のこと、じっくりと語りおろした珠玉の9編。スタイリッシュな撮りおろし写真、2000年代のシーンをトピックごとに振り返る対談コラムを収め、新しい世代の入門書として、新しい時代のスケッチとして日本の音楽史にあらたな補助線を引く一冊が登場!

☆★収録アーティスト★☆
OMSB / THE OTOGIBANASHI'S / PUNPEE / AKLO / MARIA / 田我流 / ERA / 宇多丸 / Mummy-D

Pantha du Prince - ele-king

 鐘(ベル)をチューニングするためには、鐘自体を削るしかないそうだ。音響構造上、ベルの音はさまざまな波動が入り組んでいて、非常に困難な作業だという。鐘の歴史は紀元前2000年ごろまでさかのぼることができるようだが、そのころチューニングの概念があったかどうかはわからない。もちろん、なにか「いい音」にしたいという気持ちはあっただろうけれども、ドレミが登場するのはずっと後のこと。まったくの想像だが、鐘において当初重要だったのは、むしろあの強すぎるほどの倍音だったのではないかと思う。

 鐘の音に人の一生や運命のイメージを結びつけるのは自然なことだ。ラフマニノフには人生における四季を鐘のモチーフで描き出す名作があるし、「祇園精舎の鐘の声......」も人の世の理を説く一節である。キリスト教圏はことのほかそうであろうが、洋の東西を問わず、寺社には人々の生活を取り仕切ってきた歴史がある。しかしそれだけではない。カーンと鳴ってその後もわんわんと様態を変えて残りつづけるあの複雑な倍音の響きに、われわれはなにより人の生き死にやその象徴を見てしまうのではないだろうか。弦を巻いたり皮を張ったりするのとはわけが違う、音色の修正の困難さ、取り返しのつかなさ、ままならなさ。学校チャイムでもおなじみ、ビッグ・ベンの「キンコンカンコン」が、どこか調子はずれな音程をたどりつつも重くはかない響きを持っているのは、まさにそのためである。チューニングのままならなさそのものが、一生(ひとよ)の喩に似つかわしい。

 パンタ・デュ・プランスはベルの音をフェティッシュとして並ならぬ美学のもとに音響構築するプロデューサーである。独自の美意識をすべりこませたミニマル・ハウスは、リズムや展開や音のテクスチャーよりも、その「ベル」というコンセプトにこだわることで成立しているように思われる。本名義では2007年の『ディス・ブリス』からその傾向を深めた。"シュタイナー・イム・フリューク"などは、ベルが用いられていない部分でも、それが持つ共鳴運動や倍音を比喩的に再現するような反復表現が用いられている。彼のミニマリズムはベルそのもののミニマリズムによって加速する。ちらちらとガラスや雪片のように輝く音、そのひとつひとつに、調性音楽にそもそもなじまないような音痴さ――ままならなさ、多様さ――が宿っている。一音だけで音楽として無限に成立しているような音が、無限に連なっていく、そうした複雑すぎるシンプルさという逆説を前作では新古今の美学に比較したが、間違いではないように思う。

 本作はそのベル・フェティシズムを限界まで振り切る会心の一枚となった。ベルやマリンバなどの打楽器のパフォーマンスを行うノルウェーのアーティスト、ザ・ベル・ラボラトリーとのコラボレーション作である。ピッチフォークが公開しているトレーラーからは、ヴィブラフォンや大小のゴングにカリヨンやスティールパン、チューブラーベルなどありとあらゆるベルを用いたステージングが窺われる。この"スペクトラル・スプリット"はベース音が楽曲のシークエンスを描き、マリンバなどの鍵盤楽器は音程をふくめて秩序正しくそれぞれのフレーズをリフレインし、4/4のビートもピタリときまっているが、テーマを奏でるカリヨンにやはり途方もない存在感がある。やはり鐘のかたちをしたものに鐘のもっとも魅力的で度し難い響きが宿るという確信があるのだろう。
 楽曲の出来もさることながら、やはりこのコンセプトが思いつきのイロモノとはまったく異なる説得力を持っているところに敬服してしまう。美学的な音楽ではなく美学そのものなのだ。前者が陥りやすい単調さや脆さはここには感じられない。彼にはフィリップ・グラス"マッド・ラッシュ"のリミックス・ワークがあるが、今作はスティーヴ・ライヒやラ・モンテ・ヤングからの影響も一層強く感じさせるものになった。"パーティクル" "スペクトラル・スプリット"など長尺のトラックは力が入っているが、わたしは"クヮントゥム"などのただただベル三昧な小品にとくに心惹かれる。ビートもない。パンタ・デュ・プランスにビートを外す決意をさせた点には、彼のザ・ベル・ラボラトリーへ寄せる信頼もうかがわれるだろう。だが、いつものストイックなハウスを少し外した、彼なりのデレであるようにも思われる。ミラー・トゥ・ミラーのハッピーなアンビエントや、メデリン・マーキーのヴォコーダー・アートにも近いフィーリングを感じた。ひとつとして同じものは複製できないというベルの、あのままならない倍音を味わう感度は、もしかするとメデリンの感情豊かな音声合成を楽しむメカニズムと同じものなのかもしれない。

Eaux - ele-king

■で、オー(Eaux)は「水」を表すフランス語だよね。
ベン:そう。
 
■バンド名を見ても、みんな「オークス(Okes)って読むの?」ってなるんじゃない?
ベン:そう。
 
■で、きみが「いや、『オー』だよ」っていう。
ベン:そう。
 
■でも、みんなは、「おー、オー!」って。
ベン:そう、残念ながら。
 
■じゃあ、きみたちバンドが近くにいたとき、みんな「あー、おー!」ってしょっちゅう言ってることになるわけだよね?
ベン:あるラジオのひとは「イイイイユウウ」みたいなことを言ってた。
 
■「よー、デュードゥ」みたいな
ベン:そんな感じ。
 
■おー、ノー(NEAUX)!
ベン:母音だね。
ベン・クルック、『ヴァイス』内の『ノイジー』誌でのインタヴューで

 「it」という単語が象徴するように、英語とは主語ありきの文法で成り立っている――というように学校教育のどこかで教えられて(政見放送における安倍晋三の教育論にしたがえば「植えつけて」いただ。)いたので、イギリス人とメールのやりとりをしはじめたときに主語が省略されて返事が来たことにはすこし驚かされた(←そしてこの文の主語は?)。ただし主語が省略できるのはその文に主語が隠れていることがしっかり念頭にあるからで、主語という概念自体が危ういらしい日本語とは主語がないことの意味がおそらく違うのだろう。

 しかし主語だけで完結する文というのはありえない。「アイ」がどうしたのよと問うても、とくに発展もなく過ぎる7分間の表題曲"i"を聴いていると、虚しさのようなものがすこしばかり心にざわつく。ダークで、感情の欠片もあらわれない。ベースとリズムの骨格がただでさえ浮き彫りだというのに、ガリガリのエレキギターのように肉を削がれ、痩せ細った禁欲的な身体が冷たく暗闇のなかで浮かび上がる。というとすこしホラーめいてしまったかもしれないが、そういうわけではない。

 オーのメンバーはテクノやクラウトロックからの影響を語っているけども、どちらかといえばミニマルなハウスにより近い感触があるのが印象的だ。ジ・XXの『コエグジスト』において聴き取れるハウス・ミュージックの吸収とは似て非なるというか、親密な空間での愛(あるいは人肌)のムードが薫っていたジ・XXに対し、オーは胃の消化がよくなかったのだろうか、システマチックな四つ打ちのキックとハイハットがその骨っぽさを際立たせている。メンバー3人が狭い場所にこもって録音したらしく、この音楽も親密なシチュエーションではあるのだろうが、触れた手の冷たさとか弱さに思わず胸が痛んでしまう。しかし、きっとその肌に宿る精神は強さを持ち合わせているのだろう。"ニュー・ピークス"などを聴いていると、冷たいシンセサイザーの裏には歩みをとめようとしないポジティヴな意志が青く燃えているのを感じる。部屋が暗ければ心も暗いというわけではない。この音楽は、冷えきった冬の夜道に沈んでしまいそうなあなたを、しっかり歩かせるだろう。
 寒い。今日(1/14)は豪雪だ。たしかに寒い。寒いけども、着るコートやジャケットがあるうちは、意志さえ弱らなければ......。

 オーは、レーベル〈ザ・ソーシャル・レジストリー〉からリリースを重ねながらも2010年に活動を止めたシアン・アリス・グループ(以下「SAG」)のメンバーふたりとプラスひとりからなるトリオだ。2010年半ば以降の音沙汰がいっさいないなか、2011年の秋にSAGのトートバッグを筆者が注文したところ、それを受けてなのか、はたまたオーの始動タイミングと重なったからなのか、ツイッターやフェイスブックで「Sian Alice Group is no more」とひっそりと発表した
 どういう経緯でSAGが解散したのかは知らない。ベンは音楽趣味の相違だと語っているが、その相違がもたらすものは人間関係の変化でもあるだろう。大好きなバンドが解散してゆくさまを近くで見届けてしまった経験のある人間には痛切にわかるかもしれないが、バンドの解散の経緯など知るだけ悲しくなるものだったりする。それに、メンバーが新しく音楽をはじめているのであれば、それがなにより大事なことだ。音楽が続くのは演奏する人がいるから、そしてそれを聴く人間がいるがゆえである。

 SAGを演奏だけでなくプロデュース面でも支えていた設立メンバー=ルパート・クレヴォーがオーには参加していないことは、おそらく残されたメンバー=ベンとシアンのふたりに新たな歩み方を模索させたことだろう。SAGはほんとうに気高く美しかった。オーはまだまだラフなダーク(もしくはコールド)ウェイヴだが、たたずむ音楽だったSAGにはなかった推進力を感じられる。オーを、SAGに残されたメンバーの歩みのはじまりだと見るとすれば、これから彼らがどういう道をどう歩くのかを筆者はなるべく近くで見届けたいと思う。

参照

『ノー・デイズ・オフ・ブログ』 - 「オー」
https://nodaysoff.com/blog/?p=944

『ブウレッグス』 - 「オー - インタヴュー」
https://www.bowlegsmusic.com/features/interviews/euax-interview-27962

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