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interview with Eiko Ishibashi - ele-king


石橋英子
キャラペイス

felicity/Pヴァイン・レコード E王

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 孤独を好む少女だったのだろう。同世代が子供に見えて仕方がなかったのかもしれない。エレガントなピアノとこの音楽のアトモスフィアが伝えるものは、より濃密なひとりの時間である。真夜中の永遠の物思いに耽るように、石橋英子の『キャラペイス』はゆっくり流れていく。美しい響きをもった控えめなこの音楽は、ただ何も思わず聴き流しこともできるが、こちらが熱心に耳を傾ければ強く応えてくる。
 女性でピアノで歌と言えばジョニ・ミッチェルだろうというのはあまりにも早計だ。彼女の音楽はカンタベリーやクラウトロックといった1970年代の偉大なる冒険の系譜にある。つまりジャズやクラシック、現代音楽などさまざまな要素がなりふりかまわず混在している。ジム・オルークがプロデュースした今作では、そうした彼女の音楽性のなかに彼女自身の歌がミックスされている。一見、シンガーソングライターを装っているようにも聴こえるが、声は透明でピアノの音が耳にこびり付く。そして、こちらがより熱心に耳を傾ければ『キャラペイス』はまったく別の世界を見せてくれる。要するにこれは、奥が深いアルバムなのだ。
 何よりも秀逸なアートワークが雄弁に中身を教えてくれる。暗い道の濃い霧のなかから、エレガントなピアノが聴こえてくる......。

人から「あー、プログレや変拍子が好きだね」って言われることはありますけど、でも、作っているときはそういうものを作ろうと思って作ってないんですよ。自分では、大きく見て4とか8だと思ってやっている場合もあって、でも達久くんから「これ9じゃないの」って言われたり(笑)。

前作も好きだったんですけど、新作はさらに好きです。

石橋:ありがとうございます。

ここ1~2年、石橋さんのプレイは、七尾旅人くんやphewさんのバックでの演奏を聴いているんですけど、なんか四六時中ライヴをやっているような印象があるんですよね。

石橋:そうですよね(笑)。

:いろいろな方々のサポートをしたり、コラボレートしていますよね。年間100本以上のライヴをこなしているという話ですが、そうなると1週間に2回というか、3日に1回はステージに立っていることになります。

石橋:今年(2010年)はそうでもなかったんですけどね。でも、前の年は本当にそんな感じでしたね。今年は......数えてないけど、ヨーロッパで1ヶ月で22公演というのはありましたね(笑)。

ヨーロッパへは何で行かれたんですか?

石橋:向こうで、イタリアのサックス奏者といっしょに即興のセッションがあって。現地でいろんな人たちとセッションしたり。

石橋さんは本当にいろんな方とそうしたセッションをされていますが、ご自身で思う自分の属性としては、他人とコラボレートしたりサポートにまわるほうが自分らしく思えるのか、あるいは、今回の作品のように自分がフロントに立っているほうが「らしく」思えるのか、どちらなんでしょうか?

石橋:自分らしいと思えるのは、家で録音しているときですね。人に見られることなく、誰もいない空間で曲を作っているのが自分らしいかなと思うんですよね。それが誰かのサポートであれ、自分がフロントに立つのであれ、いまでも人前に出ることには抵抗があるんですよ。

その発言は誰も信じないですよ(笑)。

石橋:実はそうなんですよ(笑)。で、人前に出ることを前提とするなら、サポートであったり、バックで演奏しているほうが自分らしいのかなと思っています。

演奏行為そのものはお好きですか?  ピアノを弾いているときがいちばん幸せだとか?

石橋:ぜんぜんそれもないですね(笑)。演奏が大好きって感じではないんですよ。楽器自体にも興味がないし。

それはとても意外ですね。

石橋:ピアノの種類も知らないし、演奏することが「楽しい!」っていう感じじゃないんですよね。演奏する前も演奏した後も、「楽しかった」という感じじゃないんです。それはライヴで私の様子を見ればわかると思いますが、なんか淡々としている......。

ハハハハ。新作を聴かせていただいて、資料を読むと「歌に挑戦した」みたいなことが書かれているんですけど、曲を聴くとどうしてもピアノの音のほうが耳に入ってきてしまって、たとえば1曲目のようにピアノのリフが踊っているような演奏を聴くと、やっぱ演奏することに快楽を感じてらっしゃるのかなと思ってしまうんですけどね。

石橋:いや、もし自分がそれを感じてしまったら寒いと思うんですよね。そこでカタルシスみたいなものを得てしまったら自分に対して寒いというか......。今回のアルバムも、曲を作っているときに気持ちいいものを求めたいと思っていると絶対にしっぺ返しをくらって、ピアノから「違うよ」と言われて、それで何回も曲を捨ててはまた作ってと、そんなことを繰り返しながらできがあった感じです。

4歳のときからピアノを習っていたという話ですけど、幼稚園の年少ですよね。英才教育じゃないですけど、小さい頃から楽器演奏を追求してきたという経験から来るいまの言葉なんでしょうかね?

石橋:たしかに小さい頃からふたりの先生について習ってきたんですけど、どちらも近所のおばちゃんみたいな感じの人たちで、いわゆる"音大を出てます"という感じの先生とはちょっと違った先生だったんです。ふたりとも変わった先生でした。で、16歳までクラシックをやるんですけど、16歳でピタッと止めてしまったんです。それから10年以上人前でピアノを弾かなくなってしまって。弾かなかった時期も長いんです。バンドをやっていたときもドラムだったし。

クラシックを止めたのは、練習が厳しいから?

石橋:単純に飽きてしまったんです。高校生になったら、何だか急に無気力になり、ひたすら音楽聴いたり、映画をみているばかりでした。

コンクールには出てたですか?

石橋:コンクールには出ましたが、そういうところで賞を獲ることに興味がなかったし、音大に行くことにも興味がなかった。ピアノを弾くことやクラシックに単純に飽きてしまったんです。

16歳というと高校生ですよね。

石橋:そうですね。

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子供の頃から、感情に振り回されたくなかったんですよね。親に今日はどうだった?」と言われてもなんと答えていいのかわからないというか、いちどに複雑な感情や表情を表にできない子供だったし、ずっとそのまま来ているというか、昔からの癖みたいなもので。感情を表に出すのが苦手だというのもあると思うんですよね。

それではリスナーとして感動的な体験をした作品をいくつか教えていただければ。

石橋:最近では、ギャビン・ブライヤーズの『タイタニック号の沈没』、あれのライヴ盤ですね。

あれ良かったんですか?

石橋:良かったです。あとはセシル・テイラー。彼のドキュメンタリーを観て、それから彼のレコードを買い漁っているんですけど、どれも素晴らしいです。フリー・ジャズですけど、すべての音に鮮やかな色があって、一音一音がすべて深いんです。すごく速くて、すごく複雑な和音を使っているんですけど、音がすごくクリアなんです。あとは5年前に初めて聴いたんですけど、アルベール・マルクールというフランス人の作品も良かったですね。

どんなジャンルの方なんですか?

石橋:フランスのキャプテン・ビーフハートみたいに言われている人で、私はもっとユーモアを感じるんですけど。まあ、キャプテン・ビーフハートもユーモアがありますけどね。ただもっとフランス人ぽいというか、ちょっとオシャレなんですね。とにかく、聴いてとても驚きました。

10代の頃は?

石橋:キャプテン・ビーフハート。

先日亡くなりましたね。

石橋:キャプテン・ビーフハートとカンと......。

ハハハハ。

石橋:10ccとか。

フランク・ザッパの系譜ですね。

石橋:あと、ジョニ・ミチェル、ロバート・ワイアット......。

追体験というか、過去の作品なんですね。

石橋:そうです。そのときにリアルタイムで聴いていたものは、音楽が好きになってから逆に興味がなくなった。

そういうマニアックな音楽をどうして知ったんですか?

石橋:ほとんどラジオですね。ラジオでかかっているのを録音して、でも、ラジオでかかっている曲って、アーティスト名とかよくわからいから録音したテープを持って近所のレンタル・レコード屋さんに行そこのおじちゃんに教えてもらったり。

へー、貸しレコード屋の世代なんですね。

石橋:そうなんです。

すいません、もっとお若いのかと思っていました(笑)。

石橋:けっこうババアなんです(笑)。

いやいや(笑)、そんなことはないですけど、でも、旅人くんぐらいなのかなと思ってました。

石橋:旅人くんとは5つ違うんですよ。

なるほど。しかし、カンやビーフハートみたいなマニアックな音楽はアクセスしやすいものではありませんが、ラジオだけが情報源だったんですか?

石橋:あとは雑誌ですね。ホントに田舎だったので。

どちらなんですか?

石橋:千葉の茂原市というところです。

ぜんぜん関東じゃないですか。

石橋:いまでも電車が1時間に数本しかないし、外房のほうは取り残されているんですよ。埼玉や神奈川みたいな東京に近い感じとは違うんですよ。レコード店もないし。だから、『レコード・コレクターズ』で情報を得て、東京に行ったときに探したりとか、そんな感じでしたね。

石橋さんにとって音楽体験とはどこを刺激されるモノだったんですか?

石橋:どこ?

感情なのか、想像力なのか、あるいは音楽的な知識欲とか、知的好奇心とか......。

石橋:私、自転車で放浪するのが大好きだったんですね。徘徊するのが好きだったんです。高校生のときにいろんなことをするのが嫌になって、諦めというか......何にもなりたくなくなっちゃって、ただただ自転車で徘徊していることが多くて、それがいつも音楽を聴きながらだったんですよ。だから、そういう音楽が私に必要だったんですね。

なるほど。キャプテン・ビーフハートを聴きながら千葉の田舎を自転車で走る女子高生というのもシュールですね(笑)。

石橋:そうなんですよ(笑)。

はははは。

石橋:部屋で聴いていると親に怒られるし。

まあとにかく、ジャズはワイアットやビーフーハートといったロックを入り口にして入ったわけですね。

石橋:そうです。ただ、10代のときに聴いていたわけじゃないし、いまでもジャズに詳しいわけではないんですけどね。

しかし、なんでピアノではなく、ドラマーとしてプロデビューしたんですか?

石橋:プロ・デビューしてないですけどね。メジャー・デビューしてませんから(笑)。大学生のときもね......まあ、ぜんぜんダメな大学生でして、音楽やるつもりもなくて、8ミリの映画を撮っていたんですね。それで上映会のとき、アフレコするのが嫌だということで、生演奏をつけようという話になったんですね。とはいえ、音楽経験がない人ばっかりで、そういう人たちとバンドを組むことになったんですね。私は当時すでに宅録とかも好きだったから、4トラックのMTRで録音した曲をみんなで演奏することになった。で、ドラマーがいないから私がドラマーになった。

ヤッキ・リーヴェツァイトやクリス・カトラーの役を引き受けたと(笑)。

石橋:いやいや(笑)。そんないいものじゃなかったですけど、子供の頃の音楽教室にたまたまドラムセットも置いてあって、ピアノのレッスンが終わるとドラムを叩かせてもらってて、そういう経験があったから。それでドラムをはじめて、学生とのときにそのバンドで〈20000V〉とかに出ていたんです。それであるときパニック・スマイルと対バンになって、で、九州に呼んでもらったりもして。しばらしくてそのバンドも解散して、24歳くらいまで、3年くらい何もしていない時期があって、で、25歳のときにたまたま灰野敬二を観に行ったら〈20000V〉でパニック・スマイルの人が働いていて、「何でいるんですか?」って言ったら「上京してきたので、一緒にバンドをやらないか」って言われて、「じゃあ、やります」と(笑)。

なるほど(笑)。石橋さんが年間100本くらいのライヴに参加するようになったのは、何かきっかけがあったんですか? いつの間にかそうなっていたって感じなんですか。

石橋:けっこうふたつ返事なんですよね。

断れない性格なんですね(笑)。

石橋:はははは。だからいつの間にかそうなっていた。自分でも企画をやっていたんです。セッションの企画とか。人から誘われて、自分でも企画して、サポートもして、パニック・スマイルもやって......っていう感じでいたらいつの間にかそうなっていた(笑)。

自分でやっていた企画とはどういうものだったんですか?

石橋:それこそ七尾さんとか、チューバの高岡(大祐)さんとか、梅津(数時)さんのサックスとか、組み合わせを考えて即興のセッションを何セットかやるという。

即興に対する興味はいつからなんですか?

石橋:即興はわりと最近で、3年前くらいですね。吉田達也さんのデュオに参加するようになってからですね。吉田達也さんはしょっちゅう即興やっているので、吉田さんや、吉田さんの周りのミュージシャンの方々と即興やるようになって、あとは山本達久くんと知り合って。

今回、ドラムを叩いている。

石橋:そうです。山本達久くんも即興やりたいって人なので、ふたりで即興やったり、あとは......内橋(和久)さんとの出会いも大きいですね。

即興はどういうところが面白いんですか?

石橋:チャレンジというか、思いがけない自分が引き出されるというか。無意識を引っ張り出すというか、一瞬の輝きでもそれを出すというところが好きですね。

即興も一時は過去の遺物になったかのように思われましたが、アメリカの若いバンドでも多いし、ここ10年でまた復活してますよね。デジタル時代に入って、日常生活のなかのインプロヴィゼーションみたいなことがなかなかできなくなったということで、新たに価値を高めているんじゃないかと思うんですよね。

石橋:本当にそうかもしれないですね。

いっかい限りの演奏の面白さというか。

石橋:これからますます価値が出てくるんじゃないかと思いますけどね。ただそれを観に来るお客さんはまだ少ないと思いますけどね(笑)。今後も多くなるのかと言えば多くならない気がするし......。ある程度一定の、絶対数みたいなのが昔からあって、そういう人たちが確保できれば成り立っていくものだと思うんですけど。あとはネーミングとかに凝って、お客さんをうまく騙すというか。

絶対数はそんな変わらないけど、お客さんの世代交代が起きるかなと思うんですよね。

石橋:そうですね。

ところで、前作の『ドリフティング・デヴィル』がソロとしてはデビュー作になるんですか?

石橋:あれは2作目です。

あの前に1枚あったんですか?

石橋:ただ実質、あれがファーストと言ってもいいかもしれないですね。その前に出したアルバムは、映画のために作った曲やいろんな人のために作ったCDRなんかを集めたものだったんです。

編集盤だったんですね。

石橋:はい。だから作品として最初に作ったのはセカンド(『ドリフティング・デヴィル』)です。

あのアルバムを出した動機みたいなものは何だったんですか?  やっぱりいろんな人と競演するなかで、自分のソロを作ってみたいという欲望がどんどん高まっていって......。

石橋:実は人から言われて。

ハハハハ。そうだったんですね。

石橋:友だちがレーベルをやって、「そろそろ2作目を作ったほうがいいんじゃない」と言って、私は「そうか」って感じで、だけど私は右から左に聞き流していった、「あー」とか言って(笑)。ただ、その年、妙な夢を見ることが多くて、それで「作れるかも」と思ったんですね。ちょうど作ろうと思っていた時期に、七尾さんと出会って......。

それで彼が歌うことになったと。

石橋:七尾さんと出会って、3ヶ月か4ヶ月後に彼に歌ってもらうことになったんです。

いろんな人たちとやっていくなかで、自分の音楽のスタイルみたいなことは考えていましたか?

石橋:ないです。いまでも自分のスタイルというものがわからないです。なんだろう?

奇数拍子とか(笑)。

石橋:それは自分のスタイルじゃないですよね。

はい、スタイルじゃないですよね(笑)。

石橋:人から「あー、プログレや変拍子が好きだね」って言われることはありますけど、でも、作っているときはそういうものを作ろうと思って作ってないんですよ。

奇数拍子や変拍子を偏愛しているわけじゃないですね。

石橋:はははは。なんかね、昔からそういうのが好きだったのかもしれないんですけど、やっているときは意識していないんですよ。自分では、大きく見て4とか8だと思ってやっている場合もあって、でも達久くんから「これ9じゃないの」って言われたり(笑)。そういう風に気がつくことが多いんですよね。

ある種の癖みたいなものなんですね。

石橋:癖というか、体に入っているものですよね。

さすがですね。

石橋:いや、そんなにいいものでもないので。

すごく滑らかに聴こえるんですよね。いかにもプログレっぽい、「うわ、変拍子!」って感じではないじゃないですか。

石橋:私、そういうプログレはあまり好きじゃないんです。実はクリムゾンはあまり好きじゃなかったりする(笑)。

ハハハハ。そういうのって、ホントにキング・クリムゾンですよね(笑)。

石橋:だから実はマグマもあまり好きじゃなかったりとか......。

はははは。クリムゾンはどこがダメなんですか?

石橋:かちっとし過ぎているし、スクウェアな感じがするんですよね。

そしてあの大げさな世界観というか(笑)。

石橋:ある意味、笑えるんですけど。裏面白くもあるんですけど(笑)。

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死は大きなテーマなんですね。友だちの死、自分に近い人間の死、あるいは自分の死とか......。想像のなかの死、想像のなかで人を殺したりとか。前作でもそれはけっこうあったんですけど、今回ではより明確になったというか、強いと思います。曲を作っているときにつねにつきまとうものですね。

いまとなってはそういう感じですよね。20世紀だなーという感じがしますよね。ところで、石橋さんのインスピレーションはどこから来るんですか?

石橋:子供のときの心象風景だったり、まわりの出来事だったり......ですかね。

感情についてはどうですか?

石橋:感情の扱い方は難しいです。いつもバランスを考えています。感情はすごく大事なものだけど、ある意味では危険なモノというか。あまり感情に流されると面白くなくなるんですよね。それをパッション、情熱という言葉に置き換えたら私のなかではすごく扱いやすいものなんですけど、でも感情となると一筋縄にはいかない。もちろん大事なものだと思うんですけど。心が出発点でなければぜんぶが嘘になるし。

いまおっしゃったことって、石橋さんの音楽にも出ていると思います。Phewさんも感情を決して露わにしないことのすごさみたいなのがあると思いますけど、石橋さんはなぜ感情に支配されたくないんですか?

石橋:子供の頃から、感情に振り回されたくなかったんですよね。親に今日はどうだった?」と言われてもなんと答えていいのかわからないというか、いちどに複雑な感情や表情を表にできない子供だったし、ずっとそのまま来ているというか、昔からの癖みたいなもので。感情を表に出すのが苦手だというのもあると思うんですよね。

なるほど。曲のテ-マはどういうものが多いんですか?

石橋:死ですね。

し?

石橋:死です。死ぬこと。

それはどうしてまた?

石橋:死は大きなテーマなんですね。

非常に抽象的な言葉ですけど、どんな文脈における死なんですか?

石橋:友だちの死、自分に近い人間の死、あるいは自分の死とか......。想像のなかの死、想像のなかで人を殺したりとか。

なるほど。死か......死をテーマにしているという話は初めて聞いたなぁ。

石橋:前作でもそれはけっこうあったんですけど、今回ではより明確になったというか、強いと思います。

それは主に歌詞に出てくるんですか?

石橋:曲を作っているときにつねにつきまとうものですね。

僕は聴いてて、死は感じなかったなぁ。重たくなるような死は。

石橋:それは良かったなと思います。

1曲目なんかはむしろ軽やかな感じさえしたのですが......。

石橋:良かった。

歌詞を書くのは好きですか?

石橋:書き溜めするほうじゃないし、好きじゃないんだと思います。好きな人はつねに書いているでしょう。ただ、歌は言葉があったほうがいいので、それで書いてるって感じですね。歌詞となると歌い回しもあるし、言葉がそのまま使えるわけではないので、難しいですよね。

演奏と歌のバランスで言うと、繰り返し聴いていると演奏のほうが耳に残るんですよね。そこは意識されたんですか?

石橋:意識してないですね。音量のバランスで言えば、ジム(・オルーク)さんがミックスしているんですけど、ジムさんも、いわゆる歌手という感じの方ではないので、そういうバランスになったかと思います。私自身も恥ずかしいとうのもありますし(笑)。

恥ずかしいんですか(笑)?

石橋:恥ずかしいですね(笑)。

メロディは残るんですが、言葉が残らないんですよね。あえてそうしたミックスにしているんですか?

石橋:あー、そこは私が滑舌が悪いんです。とあるピアニストの方に言われたことがあって。「あなた滑舌が悪いからもっとはっきり歌ったほうがいいわよ」って(笑)。

親しみやすさみたいなことは意識しましたか?

石橋:そこはまったく意識してませんね。そういうことを意識するといい結果を生まないので。

ピアノを強調しようとかも?

石橋:前もって考えないですね。

前もって考えたことはないですか?

石橋:ピアノと歌だけでデモを作ろうと。それが自分にとっての決まりで、大きな縛りでしたね。前作はもっと自由でしたね。ドラムから作った曲もあった......。

さっき録音のバランスについて話してくれましたが、ジム・オルークが関わることによって他に変わったところはどんなところですか?

石橋:私の実感だけなんですが、デモは産みの苦しみがあったというか、曲もボツにしたいくらいの勢いだったというか......。

なんでですか?

石橋:やっぱひとりで作っているからじゃないですかね。ずっとひとりでやっているとわからなくなってしまうんです。「こんな作品を出す意味があるのだろうか」とか、「なぜ出すのだろうか」とか、「多くの名作があるなかでこんな駄作を出しても仕方がないじゃないか」とか......。そういうことを考えてしまうんですね。ジムさんにデモを渡すまでなんの確信も持てなくて、大丈夫かなと思ってて、それでジムさんに聴いてもらって、そうしたらジムさんが1曲づつアイデアを書いてくださって。そのときはまだプロデュースするとかぜんぜん決まってなかったんですけど、録音の何日か前だったのかな......、録音と演奏を手伝ってくれることぐらしか決まってなかったんです。それで、まさか彼がいろんなアイデアを出してくださるとは思わなかったんです。でも、ジムさんがいろんなアイデアを出してくださって、彼のアイデアを聞いているだけで曲が生き返ってくるというか......。

細かいアレンジまで?

石橋:そうです。ここにホーンセクションがあって、ここにはヴァイオリンだとか。曲のデモを聴いて、そこからいろんなことを感じ取ってくださって、上っ面ではないアイデアをどんどん出してくれて、そうしたら曲が息をしはじめたというか......。それは私の実感としての彼がもたらしてくれた"変化"です。

本当に彼がプロデュースした、ということなんですね。

石橋:そうです。

つまりコニー・プランクだったんですね(笑)。

石橋:ジムさん、コニー・プランク大好きで、コニー・プランクのTシャツ着てましたからね(笑)。

ハハハハ。それはすごい。石橋さんから見て、ジム・オルークのどこが突出していると思いますか?

石橋:うーん、難しいなぁ......。作曲家としても演奏家としても、プロデューサーとしても、どれとっても優れてますけど、私がいちばん驚いたのは......、ジムさんは自分が良いと思った埋もれた作品をリイシューするレーベルを作っていたんですね。私、それを知らなくて。で、彼のそういう精神が、すべてに反映されているんですね。演奏するときにも、プロデュースするときにも、ジムさん自身を大切にしないというか、捧げている感じがあるんですね。カヒミさんのサポートをいっしょにやっていてもわかるんですけど、すごいさりげないんですね、演奏も。実はすごいことやっているんだけど、あまり表立たないというか......、つねに音楽の全体像が見えている。そのなかにジムさんという人間が埋もれたとしてもそれを良しとする清らかさみたいなものがあるんです。音楽に対する清らかさがあると思います。それが素晴らしい。ジムさんのおかげでこの作品もできたと思っているし。ジムさんは「私は何もしてない」と言うけど、かなりいろんなことをしているんです(笑)。

なるほど。ところで、歌うのが恥ずかしいとのことですが、前作はたしかに旅人くんの力を借りたりしてましたよね。でも、今回はすべて自分で歌っていますよね。

石橋:前作から今作にかけての期間は、ひとりでライヴをやることが多かったんです。小さなライヴハウスで25人くらいのお客さんを前に2時間くらいやるんです。それを定期的にやってました。そのときはすごく緊張するんです。緊張しながらも、自分の作品は自分が歌うべきじゃないかという気持ちが芽生えたんでしょうね。自分の声とつきあうようになってきたということかな。そういう心構えができた(笑)。

いろんなゲスト・ヴォーカルを招いてやるという考えはなかったんですね。

石橋:まったくなかったです。今回はなかったです。

しかし、25人を前に2時間というのは緊張感ありそうですね(笑)。

石橋:観ているお客さんも緊張すると思いますよ。私の緊張感がフィードバックされて、お客さんと私で緊張のキャッチボールになるとういか(笑)。

アルバムのタイトルの『キャラペイス(carapace)』はどういう意味が込められているんですか? 言葉自体は「甲羅」という意味でいいんですか?

石橋:甲羅......殻のなかに閉じ籠もって作った感じだったのと、歌詞が最初、生々しかったので、それでぜんぶ亀が歌ったことにしてやろうかとか(笑)。自分が子供の頃から亀は特別な動物だったので......。

いちばん大きな理由は?

石橋:作っているときの自分の状態ですね。甲羅のなかでいろんな景色を見たというか......人それぞれの甲羅のなかにはどんな景色があるのか、とか。

アルバムのなかでとくに思い入れがある曲はどれですか?

石橋:3曲目の"rhthm"か、最後の"hum"ですね。

それは曲自体に対する思い入れですか?

石橋:そうです。"hum"に関しては、いちばん最後にできた曲だったというのもあrますけど。

アートワークの写真もとても良いですね。まるで闇のなかに佇んでいるようですけど、この音楽に暗闇があるとしたら、それはさっきも言った死という言葉に集約されるものですか?

石橋:そうですね。それと、夜中によく徘徊しているので。闇のなかを歩いて行く感覚......そういうのって誰にでもあると思います。そういうものに興味があります。

じゃ、最後に石橋さんの2011年の抱負を聞かせてください。

石橋:企画を仕掛けたいですね。2010年は自分の作品に時間を費やしたので、企画をやる時間がなかったから。それから、勉強したいですね。自分には足りない部分がなくさんあって、次に向けて勉強しなければならないことがたくさんあります。

どこが足りないと思ったんですか?

石橋:演奏もそうですし、曲を作ると言うことを一から見直したいと思っています。もっといろんな音楽を知って、知ったうえで自分の作品を作っていきたいです。ミックスも自分でやりたいし、自分の演奏できない楽器も弾けるようになりたいし(笑)。

なるほど(笑)。今日はどうもありがとうございました。

BITCHFORK - ele-king

 『ゼロ年代の音楽――ビッチフォーク編』がいよいよ発売されます。ビッチとは何者か? ――女とポップ・ミュージックの抵抗をめぐる冒険の書......というつもりで作りました。以下、目次を載せますので、どうぞよろしくお願いします!


photo by Yasuhiro Ohara

■contents

02 Foreword
そんなビッチ殺っちまえよ――本書はいかにして生まれたか    
野田 努

07 Bitch Talk 01
もうひとつの、しかし極めて重要な物語――ボヘミアン・ガールの系譜
五所純子×水越真紀×田中宗一郎×野田努 (司会・構成 三田格)

46 Column 01
私たちの革命――ライオット・ガールというムーヴメント
大垣有香

54 Column 02
強きもの、汝の名は弱さ――ジンライムのお月さまは「ひどい乗り方」を許していたんだ
水越真紀

57 Bitch Talk 02
ノー・ウーマン、ノー・クライム―― ヒップホップ文化に見る性について
RUMI×磯部涼×二木信  
オブザーバー 水越真紀(司会・構成 野田努)

83 Column 03
ビッチの領分――ミソジニー論争への一考察
新田啓子

91 Column 04
Bガールの逆襲 Return Of The B-GIRL
二木 信

95 Bitch Talk 03
コギャルの出て来た日 ――消費社会がもたらす女性の変化
湯山玲子×三田格  オブザーバー 野田努 (司会・構成 松村正人)

120 Interview  戸川純、インタヴュー
たぶん、女にしか書けないことを、と思ったんじゃないかな。「バーバラ」にしても女にしか出来ないことと思った。(取材:水越真紀)

128 Column 05
安室奈美恵はいつ死んだのだろう
五所純子

135 BITCHFORK DISC REVIEW
CLASSIC 1955-1999/00'S 2000-2010
(磯部涼、大垣有香、野田努、橋元優歩、二木信、松村正人、水越真紀、三田格)

188  Column 05
律はビッチ!
三田 格

Lone - ele-king

 ビビオのメロディアスなIDMスタイルが好きな人が間違いなく気に入るのがローンによる『レムリアン(Lemurian)』(2008年)と『エクスタシー&フレンズ(Ecstasy & Friends)』(2009年)で、ノッティンガムの夏を記録したという前者にしても、彼の名声を高めた後者にしても、その音楽を特徴づけるのはドリーミーな感覚だ。ボーズ・オブ・カナダの影響下で発展したモダンなスタイルのひとつにマウント・キンビーがいるけれど、ローンも大きくはそのひとつ。手法的にはビビオで、感覚的にはボーズ・オブ・カナダである。サイケデリックで、恍惚としている。だいたい1月の7日というのはまだ正月気分が抜けていないので、こういう夢うつつな音楽がちょうどいい。

 2010年はフォー・テットカリブーといった、最初に注目された頃はフォークトロニカと呼ばれたスタイルの人たちの作品がずいぶんと評判がよかったけれど、マウント・キンビーやローンを聴いていると、ダブステップとフライング・ロータスを通過したフォークトロニカではないかと思うときがある。ローンの場合は、綺麗なアルペジオがあって、そしてグリッチがある。そして、フォー・テットやカリブーよりもさらに夢想的である。12歳でボーズ・オブ・カナダに感動したというエピソードは伊達じゃない。

 『エメラルド・ファンタジー・トラックス』はしかし、フォー・テットとカリブーとすっかり歩調を合わせるように、彼にとって最初のダンス・アルバムと言える作品だ。4/4ビートが入った、デトロイティッシュな作品であると言える。『エクスタシー&フレンズ』はいま聴くとマウント・キンビーを先取りしていたような音楽性だったので、その続編を楽しみにしていたファンも多かったと思うけれど、過去の2枚とは目的意識が違っているようだ。アントールドやラマダンマンのような世代がシカゴのアシッド・ハウスの面白さを発見したように、彼はメロディアスなデトロイト・テクノにアプローチすることで彼自身のダンストラックを作っている。そういう意味では、2010年のフォー・テットとカリブーが好きだった人には推薦できるアルバムである。もちろん正月ボケが抜けていない人にも嬉しい音だろう。100%の逃避音楽だ。

 2010年は欧米のクラブ系のメディアを見ても、その前年よりもさらにテクノやハウスといった昔ながらのDJミュージックが目立たなくなった年でもある。『FACT』の年間ベストの1位がUSのインディ・ロックの部類に入るであろうフォレスト・スウォーズ(2位がカニエ・ウェスト)で、『Resident Advisor』の1位がカリブー(2位がフライング・ロータス)というのも、よほど他にないのかと正直ビビってしまった。まあ、DJミュージックの場合はトラック単位で見るべきなのだろうけれど、それにしても......。
 個人的なことを言えばクラブ系ではダブステップ以降を追うのに手一杯ではあるけれど、テクノとハウスは自分にとっては故郷みたいなものなので、このサイトでも面白いものがあればぜひ紹介したいと思っている。が、しかしコンスタントに書いてくれる人が見つからない。昔はDJ連中もシーンをアピールするために一生懸命に文章を書いたものだったが、庭付きの大邸宅で伸び伸びと正月を迎えているであろうメタルのように、いまさらそんな努力など必要ないほどシーンは自立しているということなのだろう。
 ......だったらいいのだけれど、経験的に言えば、シーンには作り手や送り手といっしょに情熱を持ったライターが必要。どこかに情熱をもっていらっしゃる方がいれば、僕はぜひお願いしたいと思っています。ご一報ください。件名は「ele-kingライター募集」にて、ele-king@dommune.comまで。試しに書いた3枚分のレヴュー原稿(文字数自由)を貼り付けていただければ幸いです(もちろんヒップホップ、ロックなど他ジャンルの方も歓迎しますよ)。

Mist - ele-king

 カラード・マッシュルーム・アンド・ザ・メディシン・ロックスのキノコ・ジャケに続いてエメラルズからジョン・エリオットレイディオ・ピープルことサム・ゴールドバーグによるセカンド・コラボレイション。EPと銘打たれ、45回転というフォーマットにもかかわらず、かつてなく濃厚な構成と全体を大きく突き動かすダイナミズムが一気に聴き手を引き込んで離さない。ムーグやコルグをメインとしたアナログ・シンセサイザーが序盤から大きく波打ち、ベースのうねりは70年代の記憶をくすぐりかねないほどレトロ色を帯びつつも、メディテイションとは違う事態へと発展している。まったく新しいとまではいわないけれど、チルアウトやクラウトロックとはまた違ったテクスチャーに向かって一歩を踏み出そうというものになりつつあるというか。タイトル曲ではジュリアン・コープによるアンビエント・プロジェクト、クイーン・エリザベスを思わせるアブストラクなドローイングを先達と同じく心のままに楽しんでいる感じがよく伝わってくる(叙情性に関して屈託のない曲ほど古さを帯びて感じられるというのは、はて、なぜなのか)。

 また、オリジナルのカセット・リリースを09年に〈ディジタリス〉が6種類のジャケットでアナログ化していたイマジナリー・ソフトウッズ名義のドローン作も、新たにジェイムズ・プロトキンのリマスターを得て同時期にリイッシュー。アナログ2枚組のヴォリウムで展開されるアンビエント・ドローンはイーノを思わせるスタティックな世界観に貫かれ、最近になってアウター・スペースや上記のコラボレイションなどで躍動感を強く押し出している面とは違う側面を強く印象づける(たまたま、年末の行事が立て込んでいるときに、疲れ果ててぼんやりと聴いていたら、これが効いてしまいましたね)。音数を抑え、ドローン本来の単音だけで展開される「延び」にすべての神経を集中させた感じは単純なドローンから様々に変容を遂げつつある現在において、シンプルな表現の強さを奪い返すような出来と言えるだろう......って、2年前に制作されたものだから、ある意味、当たり前か。あるいは、そこにスティーヴ・ライヒを思わせる弦楽の響きが漣のようにループされ、その残響音だけで聴かせるシークエンスや『ミュージック・フォー・エアポート』をドローン化したような"アンタイトルド(B3)"など、静謐をつくり出すヴァリエイションにもどこか考え抜かれた風情がある。リマスター以前のヴァージョンを聴いていないので、プロトキンの力量がどれほどのものかはわからないけれど、それなりのものがあるのだろうと思いつつ......(プロトキンに関してはOPNからサン・アローまで、このところの大事な作品では彼の名前を見ないものはないというほど気になる存在となっているので、復活版『ele-king』でインタヴューをオファー。この10年のUSアンダーグラウンドについて広く話を訊いているので、お楽しみに)。

 それにしても2010年はエメラルズにはじまり、エメラルズで終わっていくなー。2011年は誰がこれに匹敵する大量リリースで振り回してくれることだろうか。
 それではよいお年を。

#9:Flashback 2010 - ele-king

 先日『NME』が20もの音楽メディアによるアルバム・オブ・ザ・イヤーの集計を発表した。対象となったのは『NME』をはじめ『ピッチフォーク』、『ガーディアン』、『ローリング・ストーン』、『スピン』、『Q』、『モジョ』、『アンカット』ほか、ブルックリンで圧倒的に支持されている『ステレオガム』やUKのウェブマガジン『ドローンド・イン・サウンズ』、あるいは超メジャーの『MTV』などなど、主にロック系のメディア。

1. Arcade Fire - The Suburbs
2. Kanye West - My Beautiful Dark Twisted Fantasy
3. LCD Soundsytem - This Is Happening
4. The National - High Violet
5. Beach House - Teen Dream
6. Vampire Weekend - Contra
7. These New Puritans - Hidden
8. Deerhunter - Halcyon Digest
9. Big Boi - Sir Lucious Left Foot: The Son Of Chico Dusty
10. The Black Keys - Brothers
11. Robyn - Body Talk
12. Yeasayer - Odd Blood
13. Caribou - Swim
14. John Grant - Queen of Denmark
15. Joanna Newsom - Have One On Me
16. Sufjan Stevens - The Age Of Adz
17. Janelle Monae - The ArchAndroid
18. Drake - Thank Me Later
19. Sleigh Bells - Treats
20. Ariel Pink's Haunted Graffiti - Before Today

 自分の好みはさておき、まあ納得のいく20枚だ。ちなみに僕の個人的なトップ10は以下の通り。

1. Beach House -Teen Dream
2. Darkstar - North
3. 神聖かまってちゃん-みんな死ね
4. Gold Panda - Lucky Shiner
5. Emeralds - Does It Look Like I'm Here?
6. Oneohtrix Point Never - Returnal
7. Factory Floor - Lying / A Wooden Box
8. M.I.A. - /\/\/\Y/\
9. Gayngs - Related
10. Mount Kimbie - Crooks & Lovers

 ビーチ・ハウス以外は『NME』が集計した20枚に入っていないけれど、好みで言えば、ビッグ・ボーイ、ドレイク、ジャネール・モネイ、カリブー......ジョアンナ・ニューサムとディアハンターとアリエル・ピンクに関しては今作がとくにずば抜けているとも思えなかったけれど、もちろん嫌いなわけではない。アーケイド・ファイアーの3枚目は実は最近になってようやく聴けたが、過去の2枚に顕著だった重さはなく、いままででもっとも親しみやすい音楽性だと感じられた。このバンドに関して言えば、対イラク戦争の真っ直なかに発表した反ネオコンの決定版とも言える『ネオン・バイブル』によって、音楽と社会との関わりを重視する欧米での評価を確固たるものにしている。こういうバンドがいまでも一目置かれるのは、欧米の音楽ジャーナリズムが音楽に何を期待しているかの表れである。
 そう、アルバム・オブ・ザ・イヤーとは、その作品の価値や誰かのセンスを主張するものではなく、ジャーナリズムがいまどこに期待しているのか、という観点で読むと面白い。そのセンで言えば、僕にとって2010年に興味深いのはカニエ・ウェストとジーズ・ニュー・ピューリタンズだ。どちらも個人的には好みではないけれど、僕がふだん読んでいるメディアではどこも評価している。おかしなもので、LCDサウンドシステムがいくら評価されても気にもとめないというのに、気にくわないと感じているカニエ・ウェストとジーズ・ニュー・ピューリタンズが高評価だと気になるのだ。
 以下、『ピッチフォーク』、『NME』、『ガーディアン』のトップ10を並べてみよう。

Pitchfork
1. Kanye West - My Beautiful Dark Twisted Fantasy
2. LCD Soundsystem - This is Happening
3. Deerhunter - Halcyon Digest
4. Big Boi - Sir Lucious Left Foot: The Son of Chico Dusty
5. Beach House - Teen Dream
6. Vampire Weekend - Contra
7. Joanna Newsom - Have One on Me
8. James Blake - The Bells Sketch EP/ CMYK EP/ Klavierwerke EP
9. Ariel Pink's Haunted Graffiti - Before Today
10. Titus Andronicus - The Monitor

NME
1. These New Puritans - Hidden
2. Arcade Fire - The Suburbs
3. Beach House - Teen Dream
4. LCD Soundsytem - This Is Happening
5. Laura Marling -I Speak Because I Can
6. Foals - Total Life Forever
7. Zola Jesus -Stridulum II
8. Salem - King Night
9. Liars - Sisterworld
10.The Drums - The Drums

The Guardian
1. Janelle Monae- The ArchAndroid
2. Kanye West - My Beautiful Dark Twisted Fantasy
3. Hot Chip - One Life Stand
4. Arcade Fire - The Suburbs
5. These New Puritans - Hidden
6. Robyn - Body Talk
7. Caribou - Swim
8. Laura Marling - I Speak Because I can
9. Ariel Pink's Haunted Graffiti - Before Today
10.John Grant - Queen of Denmark

 カニエ・ウェストのアルバムでまずはっきりしているのは、それがヒップホップのフォーマットから離れていること。「イントローヴァースーフックーヴァースーフックーアウトロ」といった公式をチャラにして、膨大なサンプル(60年代のサイケデリックからゴスペルまで)によって新しい何かを生み出そうとしている......ある種のプログレッシヴな音楽と言えよう(実際プログレだろ、あれは......と僕は思ってしまったのだが)。僕や二木信のような保守的なブラック・ミュージック・リスナーの裏をかいているアルバムとも言えるし、そしてこれはジーズ・ニュー・ピューリタンズへの評価とも重なることなのだが、欧米の音楽ジャーナリズムが知的興奮を知らないチンピラにはもう期待していないということでもある。そしてそれでも(カニエ・ウェストの対極とも言える)ビッグ・ボーイが愛されているのは、暴力性というものに何のロマンスも見てはいないということでもある。まあ、要するにそれだけマッチョイズムと暴力性を日常的に身近に感じているからだろう。

 日本の音楽シーンに関しては、2010年は面白かったと思っている。それはポップ・フィールドにおける相対性理論と神聖かまってちゃんのふたつに象徴されるだろう。どちらもインテレクチュアルなポップで、2010年の日本に対する両極端の、際だった態度表明と言える。つまり、かたやナンセンスでかたやパンク、かたや"あえて抵抗しない"でかたや"とりあえず抵抗してみる"というか......そして好むと好まざるとに関わらず、時代は更新される。僕にとって興味深かったのは、神聖かまってちゃんへの表には出ない嫌悪感だった。それは僕が中学生のときに見てきたセックス・ピストルズやパンクに寄せられた嫌悪感、RCサクセションに寄せられた嫌悪感と見事にオーヴァーラップする。何か、自分の理解や価値観の範疇からはみ出したものが世のなかの文化的な勢力として強くなろうとするとき、それを受け入れる人と拒絶する人にはっきり分かれるものだが、同じことがいま起きているようだ。そして、気にくわないというのは、それだけ気にしているということでもある。(笑)

 エメラルズに関しては、面白いことに『ドローンド・イン・サウンズ』が1位にしている。こうしたチャートの見方というのは、「ではエメラルズを1位にするようなメディアは2位以下を何にするのだろうか」という点にもあるのだが、2位がザ・ナショナルで3位がデフトーンズというのはがっかりした。シューゲイザー好きな編集部のなかの偏執的な編集長があるときエメラルズで壮大なトリップをしてしまったのかもしれない。もちろん、多くの場合は個人的な経験が大切であって、『ガーディアン』の読者が言うように「メディアが選ぶトップ20をわれわれが聴かなければならないという義務はない」わけだが、話のネタとしては大いにアリなのだ。その年何が良かったのかについて話すことは、音楽ファンにとっては楽しみのひとつである。

#3 "アガる音を求めて" - ele-king

2010/11/20
Soundcrash Presents
"プラッド vs レッド・スナッパー"@KOKO, London

 〈ワープ〉の重鎮、プラッドとレッド・スナッパーをヘッドラ イナーに据えたパーティにて、サポート・アクトのひとりとして出演しました。
 この日トップバッターとして出演したのは、〈ニンジャ・チューン〉から 1stフルアルバム を発表したばかりのエスクモ。レーベルメイトであるアモン・トビンを彷彿とさせるグリッチサウンドを基軸としながらも、ダブステップやウォンキーといった、現在のUKアンダーグラウンドシーンにも共鳴するビートを鳴らす彼の音楽は、ここロンドンでも多くのリスナーの耳を惹きつけはじめています。彼のパフォーマンスはその音楽性に負けず劣らず個性的なもので、 ラップトップをメインにしながらも、マイクを通してその歌声を惜しげもなく披露したり、缶ジュースの開栓音やペットボトルを握りつぶす音をその場でサンプリングしてループさせるなど、ライブならではの演出がたくさん用意されていて、彼を観るために早い時間から来場していた大勢のオーディエンスを 湧かせていました。


来日も果たしたエスクモ

 続いて登場したのは、来年2月に同じく〈ニンジャ・チューン〉から 2ndアルバムの発表が予定されているリーズ出身のバンド、ステイトレス。かつてのトリップホップを彷彿とさせるビートに、美麗なメロディ が絡むそのスタイルはDJシャドウをして「過去数年に耳にしたもののなかで、もっとも完璧に近い音のひとつ」と言わしめ、ヴォーカリストであるChris Jamesは実際にDJシャドウの3rd アルバム『The Outsider』の数曲で、その歌声を披露しています。当日はギター/ヴォーカル、ベース、ドラム、そしてラップトップの4ピースバンドとして出演し、先行シングル「Ariel」を含む、来るフル・アルバムに収録され る楽曲の数々を披露していました。グリッチーでダークでありながらも、ロック・バンドとしてのダイナ ミックなサウンドも同時に期待できる彼らのサウンドは、今年20周年を迎えた〈ニンジャ・チューン〉が提示する、新たな方向性を象徴していると言えるかも知れません。


盛りあがるオーディエンス

 午後11時30分、僕は3番手として出演しました。今回はとくにゲストを迎えず、基本のスタイルであるソロとして演奏しました。よくも悪くも、僕はどのイヴェントに出演しても、音楽的にアウトサイダーになることが多く、前後の出演者との流れを考えてセットリストを組むことが多いのですが、この日は文字通りの異種混合ラインナップで、とくにそういった必要がなかったため、個人的にいま現在モチベーションの高い曲のみをチョイスして演奏しました。必然的にミニマルをテーマにした新曲群が大半を占めたのですが、フロアからの好意的なリアクションに、大きな手応えを感じました。


いつものように熱演するアンカーソング

 ヘッドライナーとして先陣を切ったのはレッド・スナッパー。かつてはいかにも〈ワープ〉のアーティストらしい、ミニ マルでエレクトロニックな音楽性を標榜していた彼らですが、現在はウッドベース、サックス、ギター、ドラム、エレクトロニクスという5人編成のバンドとして活動しており、音楽的にはテクノというよりは、プログレッシブなジャズに近いと言えます。メンバーの平均年齢は40代前半~後半といったところです が、彼らの若干渋めの演奏に対しても、フロアを埋め尽くした若いオーディエンスはとても素直に反応していました。


ダブルベースが目印のレッド・スナッパー

 深夜1時半、もう一組のヘッドライナー、プラッドの登場。アンディ・ターナー、エド・ハンドレイのふたりによるユニットは、10年以上に渡って〈ワープ〉から作品を発表し続けているほか、メンバーがそれぞれ他名義で方向性の異なる作品を発表したり、日本でも2006年に『鉄コン筋クリート』にサウンドトラックを提供したりと、その活動は多岐に渡ります。当日は巨大なデジタル・コンソールをステージに持ち込み、それを2台のラップトップでコントロールするという大がかりなものでしたが、セット内容はフロアを意識したミニマルなテクノに終始し、最 高潮を迎えたフロアのオーディエンスは一心不乱に踊り続けていました。


つねに最高のエレクトロニック・ミュージックを演奏するプラッド

 そしてこの日のトリを飾ったのはルーク・ヴァイバート。別名儀のワゴン・クライストとしての作品を含め、非常に多作なこ とで知られる彼は、〈ワープ〉と〈ニンジャ・チューン〉の両方から作品を発表している数少ないアーティストのひとりです。かのエイフェックス・ツインをして、「尊敬できる数少ないアーティストのひとり」と言わしめたりと、少しインテリジェント気味のテクノやブレイクビーツをトレードマークとしている彼ですが、当日はすっ かり酔いが回ったオーディエンスの気分を察してか、自身の曲はいっさい披露せず、ミニマルなテクノにベタベタのサンプリングネタを絡ませるという、いかにも明け方のクラバーたちが喜びそうなセットで、大いに盛り 上げていました。


貫禄充分のルーク・ヴァイバート

 音楽性という面では、一見あまり一貫性のないラインナップでは あったものの、蓋を開けてみれば興行的には大盛況で、耳の肥えた週末のロンドンっこの間では、音楽性うんぬんよりも、「アゲてくれる音ならなんでもいい」という、とても健康的でオー プンマインドな姿勢が共有されているのだということを、改めて気付かせてくれた夜でした。

神聖かまってちゃん
ワンマンライヴ2010
- ele-king

 喧嘩したり骨折ったりパソコン壊したり途中で終わったりやる曲を決めてなかったり、ざっくばらんかつスキャンダラスな無法地帯であるやに漏れ聞いていた神聖かまってちゃんのライヴもリキッドルームでのワンマンということで、アルバム発売日の12月22日に早くも仕事納めを終えたつもりで出かけたが、知り合いには会わなかった。やっぱまだ仕事納める日じゃなかったんだな......。

 2曲続けて演奏されるということがない。1曲終わると何かしゃべり、次の曲をの子が決めてmonoに伝え、それをmonoはなんとか秘密裏にメンバーだけに伝えようとするのだが、monoのジタバタをあっさり無視しての子はマイクでこれからなにを演奏するかを呟いたり宣言したりする。2番目にやった"あるてぃめっとレイザー"を何度も初めてのように提案するの子にそれはもうやったからと説得しつつ、その繰り返しで進むライヴは、けれども別にほのぼのアットホームというわけではない。ギクシャクもしていないが、花壇や曲がり角や風鈴や洗濯物に気を取られながら、気になるたびに座って覗き込んでまた歩き出す散歩のようにいつの間にか進んでいる。

 男性客の多さが意外だった。パンクというジャンルではたいてい、怒りは他者に向かうことが多いだろう。反戦や政治のことでなくても、情けない自分がいれば必ずその対照に何らかの他者がいて、自分の内面への言及もその他者を意識したものになる。けれどもの子の詞に他者の存在はほとんどない。ひたすら内心の描写が続き、しかもそれを変えたい、変えようという願望も明確には表されてはいない。
 神聖かまってちゃんのライヴの雰囲気は、このの子の詩の世界を具現化したもののように思える。多くの若い男性客がバンドのなにに惹かれているのかは分からないが、ここでだけは他者のいる世界を抜け出し、自分を変えたいなどと神経をすり減らすこともなく、かといって非現実的な希望や"あるべき自分像"を押し付けられるようなストレスにさらされることもない。

 それから私は初めて観た神聖かまってちゃんのそのライヴで、なによりもの子という〈ヴォーカリスト〉を発見した、と思った。CDでは絶妙なバランスで整理され、美しく、爽快なまでに「完璧」と思えるほどのバランス感覚で施されているミックスが、当然だがライヴではある程度は混沌とする。そんな行儀がいいとは言えない空間で、意図的な混沌が塊と広がりのせめぎあいでフロアを包み込もうとしている。
 細い体でバイセクシャルの雰囲気をもつロックンロール・ヴォーカリストというのは珍しい存在ではない。ミック・ジャガーにイギー・ポップ、マーク・ボランとかジョニー・ロットンとか忌野清志郎とかね。の子はその系譜にいるとてもステージ映えのするヴォーカリストだ。曲間のMCというのはきっとけっこう難しいんだろう。でも煽るMC(例えば清志郎)であれ畏まるMC(例えばどんと)であれ、長話であれ小咄であれ愚痴であれ、気取っていても素顔を見せても、「板(ステージ)」についているMCとついていないMCがあるだけで、それは最初からかなり運命づけられているように思う。22日のの子はAラインのシャツがさらに華奢なシルエットを際立たせ、さながら、えー、森のこびとのようだった。そして1000人を前にしてそのファンタジックなパンク・ヴォーカリストはまるごと板についていた。

 そもそもが穿ち過ぎだったと言われるかもしれないが、音程を変えて女性のような声を使うのは、CDを聴いているときには、そのまま性別不明感、あるいはバイセックスを表すものとして聴こえていた。けれどもステージから発せられるの子の声は少し違って聴こえたのだった。熱いがなり声が突然平坦、あるいは冷淡なつぶやきに転換することもそうだが、そうした独特なヴォーカルの変化は、CDで聴こえていたような、例えばことにジェンダーを含んだ多重人格的なキャラクターの使い分けのようなものとしてではなく、の子というひとりの人格としてのヴォーカリストのつながりのある心象表現として届いてきた。両者の違いはけっきょくのところ些細なことでもあるが、歌の届き方の点で私はずいぶんと違った印象を受けた。

 数個の人格がさまざまな感情や気分を持っている、いわば小さな社会があるのではなく、あくまでもひとりの人間のなかにそれだけ複雑な感情や気分が去来するのだということを生々しく突きつける。激しく、まっすぐに。なぜだろう。ひとつには、ライヴならではのミックスで制御からはみ出してくる地声の存在感があったかもしれない。そしてなにより「板」に着くヴォーカリストの説得力があったと思う。

 後半、の子の声はますますよく出てくるようになっていった。"いかれたニート""怒鳴るゆめ""ねこラジ"、そしてただでさえヴォーカルが多くを語る"いくつになっても"と、"しょっちゅう座り込みながらの散歩"というペースは少しも変わっていないのに、気持ちは耳は目はまっすぐにステージに、の子に貼り付いたままになっていく。"東京では初めて"だし、ちゃんとできるか自信がないと言ってはじめた"いくつになっても"はたしかに歌詞は間違っていたけれど、神聖かまってちゃんの、の子の、具体的な形としてではないにしても、過去から未来までのその心象風景にちらちら揺れる光や影を見晴らすように強く迫るものがあった。

 その後の"天使じゃ地上じゃちっそく死"から本編ラストの"学校に行きたくない"までは、気ままに曲を選んでいるようでいて実は明晰に考えてるんじゃん! と確信したくなる圧倒的な構成となった。の子が、会場の終焉予定時刻を牽制するようにアンコールの延長をほのめかす気持ちも分かる気がするほど、彼の"声"はまだまだこれから、って言っていた。

手前ミソで恐縮ですが、久しぶりに自分の単行本が出たので報告させてください。『もしもパンクがなかったら』という我ながら青いタイトルの本は、雑誌『EYESCERAM』に2005年から連載中のコラム「SHOUT TO THE POP」をまとめたものです。自己解説すると、ざっくり言って、ゼロ年代後半の大きなムーヴメントのない時代のレポートのようになっているかと思います。正直言いまして、過去の自分の原稿を読むほど過酷な作業はないので、実はまだしっかり直視できていないのですが、「ムーヴメントがない時代」をテーマに宇川直宏のマイクロオフィスで三田格とトークショーをはじめた話なんかも書かれていて感慨深いものです。以下、目次を載せて、自己宣伝を終わらせいただきます。ちなみに、年明けの1月は復活!『ele-king』が1月17日に刊行予定、また、『ゼロ年代の音楽――ビッチフォーク編』という怒濤の刊行が続きます。自分で言うのも何ですが、どちらもかなり面白い本ですよ。(野田)

■Part 1
パンク・バンドが通俗的なディスコをカヴァーするとき――!!!『ラウデン・アップ・ナウ』は素晴らしい 14/「これは私が生きていくために必要なモノなの」と女性MCのシェイスティーは言う――グライムという新しいムーヴメント 18/ダフト・パンクのように、人生の無意味さをはしゃいでみせる屈折した陽気さはないけれど――LCDサウンドシステムの快進撃 22/「ワン、トゥ、スリー、ヘイメン!」、そしてリキッドルームには・インスピレーション・が鳴り響いた――来日したマッド・マイクとUR 26/ 私には、あんたをぶっぱなす爆弾がある――M.I.A.登場! 30/ スペイン語によるヒップホップで、イケイケで、猥褻で、とにかく最高に好色なダンス・ミュージックである――拡大するレゲトン・ブーム 34/それは「フェスティヴァルというよりは社会的集会に近い」と『ワイアー』は形容している――フリー・フォークなる新しいアンダーグラウンド 38/「それらは残酷な人生を送っている人たちによる日常生活の年代記なのよ」と彼女は語った――バイリ・ファンクの時代 42/音楽が時代への反抗心を内包するものであり、少数派の意見を反映するものであること――コールドカット『サウンド・ミラーズ』の挑戦 46/見事なほどに、これといった取り柄を持たないダメな人間たちを描いている――賛否両論のザ・ストリーツ『ザ・ハーディスト・ウェイ・トゥ・メイク・アン・イージー・リヴィング』 50/フロイト心理学を持ち出しながら健康のためのグループ・セックスを試行錯誤したヤッピーに比べたら――ディプロとボルチモア・ブレイク、あるいはDJシャドウの新作 54/「夜に似合う感じなのはたしかだよな。雨だな。雨がたくさん含まれてて、夜で、悲しくて......」――ブリアルとダブステップ 58/それが毎週末さまざまな場所で繰り返されるとなると、週末その街の繁華街から若者が消えてしまう――ニュー・レイヴなるトレンド 62/夏だ、「それは究極のバカ騒ぎよ」、MCのマリナは語っている――リオのホンヂ・ドー・ホレに注目 66/僕は夜が来るのを待つ。夏の終わりを待つ。外が暗くなるのを待つ――ダブステップのネクスト・ステップ 70/上品な子供たちの陰気なポップが聴こえる──ニュー・エキセントリックなるムーヴメントについて 74/すべての人びとは踊らなければならない──ヘラクレス&ラヴ・アフェアが訴えている 78/一九七〇年代にザ・ストゥージズのレコードを探すことは困難だった。しかしいまは違う──レトロ・ポップの時代 82/ユース・カルチャーはいまとにかく踊りたがっている、それもかなり強烈に──更新されつつあるUKの音楽シーン 86/ソニック・ユースには・スメルズ・ライク・ティーン・スピリット・がない──ニューヨークのアヴァン・ロック最前線 90/彼はいま、なんとしてでも人生を誉めてみたかったのだろう──ザ・ストリーツの最後から二番目の新作について 94/彼のなかの・彼女・が歌うとき――アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズを聴け 98/もしもパンクがなかったら......――ザ・キング・ブルースは素晴らしい! 102/それは大胆で口汚く、淫らでバカなスリム・シェイディを演じた彼にしては弱々しい言葉に思える――エミネムのカムバック作『リラプス』 106/UKクラブ・カルチャーの系譜において現在もっとも最良な結実であり......――ダブステップが迎える新局面 110/騒々しくて、目まぐるしくて、しかもスタイリッシュで、エンニオ・モリコーネとジャマイカの脈絡のない混合物で――ダンスホールのミュータントたち 114/大量生産されるロボットDJに抵抗するように......――デリック・メイの十三年のぶりのミックスCD 118/「無垢」、これはここ数年のUSインディにおけるキーワードである――ビーチ・ハウスというエレガントで憂鬱なポップ 122/この新ジャンルは、南アフリカで開催されるワールド・カップへの熱狂とも相まっているのだろうか?――UKファンキーなるダンスのモードを紹介しよう 126/二〇一〇年のティーンエイジ・ライオット――拡大するダブステップ 130/幸福は・余暇・にしか見出せないという切ない悲しみが、陶酔的なディスコビートによって表されているようじゃないか――チルウェイヴなる新しいムーヴメント 134

■Part 2
「だけどさ、嘘でもいいからメール欲しいよな? 嘘でもいいからメールをくれよ」――こだま和文『In The Studio』 140/この国で最高のロックンロール――RCサクセション『ラプソディー・ネイキッド』 144/公園通りには「チケット、売ってください」などと書かれたプラカードを持った若いファンが何人もいた――フィッシュマンズの七年ぶりのライヴ  148/街で遊ぶ――ストラグル・フォー・プライド『YOU BARK WE BITE』 152/彼らは一日を楽しく生きるために、くだらない冗談を言い合い、熱く語り、笑い、そして大声で歌う――泉谷しげるとギターウルフ 156/こんなご時世、信じるに値するのは愛の悦楽のみ――曽我部恵一『ラヴ・シティ』を聴きながら 160/世のなかはもう変わらないと諦めてしまっては、人は家畜みたいになってしまう――一九八〇年からのロックンロール・ショー 164/彼はバースデー・パーティの・ソニーズ・バーニング・を「坊やは燃えている」と歌った――石野卓球とWIRE 170/かつてジョー・ストラマーは新聞やニュース番組を見ながら歌詞を書いたと言うけれど......――鎮座ドープネスなるラッパーの『100%RAP』 174/俺は自分の足でクラブに行き、自分でフレンズを選び、自分で曲を作る、シーンのルールには興味もない、ただミュージックのみ――S.L.A.C.K.というラッパーについて 178/リリー・アレン、彼女もそう、もろにロンドン訛りだって言うね――あるぱちかぶと、そして彼の『◎≠(マルカイキ)』 182/この夏が終わったとしても......――やけのはらの『THIS NIGHT IS STILL YOUNG』 186

■Part 3
「奴らを殺せ/おかまは死ななければならない/奴らの頭を撃ち抜け/おまえらも連中には死んで欲しいだろ」――ダンスホールとゲイ差別 192/ポップ・カルチャーのなかで同性愛に対する憎悪がここまで顕在化したことは、六〇年代以降なかったのではないだろうか――ますます加熱するゲイ憎悪 196/パーティで人を集めるには、昔から特別な音楽が必要なのだ――一枚一万円のディープ・ファンク 200/ブラジルの生んだフットボールの王様は、現役時代に五百曲以上の曲を書いている――ペレ『ジンガ』 204/アンダーグラウンドとは必ずしもアンダーグラウンドに閉じていくことではない。アンダーグラウンドとは可能性の追求である――ムーヴメント不在の時代 208/「これは新たなるサマー・オブ・ラヴか?」、サラはその真偽を確認するために侵入する――ニュー・レイヴ・ジェネレーション 212/その場にいた二百人は明日が月曜日であることを考えもせずに、雄叫びをあげ、激しく踊った――デリック・メイが静岡にやって来た! 216/遅刻したかのように私たちは駆け込む、秘密のレイヴ、内緒にしておいて、よろしくね――一九九二年のレイヴ・カルチャー 220/ぶっ飛んだままトイレに入って、山状に盛り上がった大便の海に財布を落とし、そしてどうしたと思う?――グラストンベリー・フェスティヴァルの思い出 224/悲しい日なのに、そのとんでもない状況にみんなから微笑みがこぼれた――渋谷のシスコ閉店 228/それは「ロックンロール選挙」であり「ヒップホップ選挙」でもあった──バラク・オバマとポップ・カルチャー 232/エイミー・ワインハウスのファースト・アルバムの内ジャケットの写真を見てごらんよ──エスカレートする大麻報道について思うこと 236/それもまた、スマイリーをめぐる冒険のアイロニカルな通過点だった――再刊されたコミック『ウォッチメン』を読みながら 240/ガソリンの涙がキミの目に浮かぶ、早くセックスしよう、死んでしまう前に――J・G・バラードが音楽に与えた影響 244

■Part 4
『ワシントン・ポスト』はジョニーについてこう結論づけている。「彼は反抗の世界における反抗者だったのだ」――パンクが右翼になるとき 250/ダグラス・クープランドは「買った経験は数に入らない」と八〇年代の高度消費文化を自虐的に批評したけれど――パンク三〇周年 254/狂人ではなく、人はそれを何故・並はずれた感受性・と言えなかったのだろう――シド・バレットに捧ぐ 256/いま僕たちが暴動を起こすとしたら、いったい誰に向けて石を投げればいい?――映画『ロンドン・コーリング』を見ながら 260/音楽は現世的な愉楽、幸福、微笑みの化けの皮をひっぺがす力を持っている――ロバート・ワイアット『コミックオペラ』、ゆらゆら帝国『空洞です』、七尾旅人『911FANTASIA』 264/セックス・ピストルズにもザ・クラッシュにも言うことができなかったメッセージを彼女は言った――初来日したザ・スリッツ 268/彼は描く、僕たちはどうしてロックンロールを手放せなくなってしまったのかを──ジュリアン・コープの『ジャップロックサンプラー』の翻訳を読んで 272/激しく燃え尽きるように、狂気を友としながら十代を生き急いだその人生に――シド・ヴィシャス三〇回忌 276/あのとき彼女たちを触発したのがクール・ハークやファブ・ファイヴ・フレディ、要するにヒップホップだった――ザ・スリッツの新作があまりにも良いので 280/いま、北京に行ってもパンクの店を見つけることができる。マルコムとヴィヴィアンなしではありえなかったことだ――マルコム・マクラレン、R.I.P. 284/彼女たちはショービジネスの世界で女性がありのままの普通でいることが、どれだけ異様に見えるかを証明した――ザ・レインコーツの初来日 288

神聖かまってちゃん - ele-king

まるで聞き分けの悪い子供の我がままのようだ文:加藤綾一


神聖かまってちゃん / みんな死ね
パーフェクト・ミュージック E王

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神聖かまってちゃん / つまんね
ワーナーミュージック・ジャパン E王

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 『つまんね』『みんな死ね』だって、わはは、最高じゃん!  AKB48と嵐が年間チャートを独占するこの国の予定調和に対するオルタナティヴとして、2010年にもっとも待ち焦がれられたであろう、彼らのアルバムのタイトルを目にしたときに僕は思った。もちろん、よく言われるような現代社会に対する虚無感ややり切れなさもあったが、それ以上に、僕はこの上なく痛快な気分になった。
 彼らがそのおどけた言葉遣いと態度で、フラストレーションを不器用にも解放しながら突き進んでいくさまには、僕は特別な同時代性を感じる。"天使じゃ地上じゃちっそく死"や"芋虫さん"での「死にたいな/苦しい嫌だ」「生きたいなあ」という叫びは、いつからか頻繁に耳にするようになったが、〈にちゃんねる〉のような掲示板では、日々、やり場のない苛つきや卑屈なまでの劣等感が、ジョークを織り交ぜながら生々しく吐露されている。それは現代のルサンチマンの縮図とも言えなくもないが、神聖かまってちゃんの鋭い批評眼の出自はここにあることは間違いないだろう。僕は〈マルチネ〉周辺の自分よりも若いトラックメイカーやDJたちをtwitterで数人フォローしているが、彼らも〈にちゃんねる〉的な人を食ったような言葉遣いをしている。僕は、それはこの時代の空気をリアルにパッケージングするために生まれた、優れた言語感覚じゃないかと思っている

 "いかれたNeet"では、「朝から晩まで僕は楽しい歌を歌う/それが日記だから」という自虐的な叫びがある。いったい何の甘えだと思うかもしれないが、ほとんどワーキング・プアのような状態でここ数年を過ごし、今年初めてしばしのあいだニートを体験した僕のような人間にとっては、決して冗談として笑い飛ばすことが出来ない。そういった言葉たちを、耳をつんざくノイズに塗れながら、それとは裏腹の耳馴染みのいい歌謡曲風のポップ・パンクに乗せて吐き出すさまは、まるで聞き分けの悪い子供の我がままのようだ。度の過ぎた被害者意識だと一蹴することも出来るかもしれないが、こうしなければやっていられないのもまた事実。クソみたいな世のなかと同化して堪るかという彼らの悲痛な叫びを無視するほうが、もはや難しい状況になりつつある。
 "美ちなる方へ"とはよく言ったもので、その危ういピュアネスが行き着く先は僕にもわからない。だが、"男はロマンだぜ! たけだ君っ"のように、彼らの鳴らす音楽が、「ポンコツな心のギアをあげて」生きる僕らが抱えた歪んだ鬱憤を晴らすものとして機能するのであれば、これほど美しいことはないと思う。

文:加藤綾一

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120%の真実であり、しかし120%の真実ではない文:野田 努


神聖かまってちゃん / みんな死ね
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神聖かまってちゃん / つまんね
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「生きる日々、ずる休み/それはただ、燃えないゴミ」"口ずさめる様に"
 神聖かまってちゃんは虚無を生きているかもしれないが、虚無的ではない。千葉ニュータウンから登場したいかれたオアシスに聴こえるときもあるけれど、メロドラマティックな感情移入を拒絶するという意味でアンチ青春的とも言えるこの青春の音楽は、聞き捨てならない巧妙な言葉とメリハリのあるメロディ、際どい風刺精神とポップ志向、そしての子の変幻自在の声によって面白いように混乱を巻き起こす。おまえらの言ってることは何か違うんだよ、頭をかきむしりながら鋭い目で苛立ちを露わにするステージのの子を思い浮かべる。
「知っているからたまに狂っちまうんだ 」......"美ちなる方へ"
 ライヴで初めて"天使じゃ地上じゃちっそく死"を聴いたときには本当に身震いした。重たいベースラインに導かれて発せられる「いやだ!」という声は、華やかな渋谷の街を一瞬にして黙らせるようだった。露わになったとめどない感情......そして「死にたいな」という叫びが会場内のいたるところに突き刺さる。それは120%の真実であり、しかし120%の真実ではない。矛盾が爆発する。その瞬間、新しい「生きたい」が鼓動するのを僕は感じる。

 「ノー」と言うことで開ける未来がある、というパンクのクリシェにならって言えば、神聖かまってちゃんはこの国の支配的な力――「強い者しか生き残れない」という価値観に強烈な「ノー」を叫んでいる、と言えるだろう。弱さ、け落とされる感情、抑えつけられた思い、ヘドの塊や心療内科で処方される向精神薬......そんなものを寄せ集めながら、しかしそうした負を逆転していくような衝動を、あるいはその仕掛けを彼らの音楽から感じることができる。笑えるようで、しかし笑うに笑えない言葉が、ものすごい本気とものすごい冗談のあいだを素早く往復しているようだ。あるいはまた、男らさしや女らしさといったジェンダーを越えたところから聴こえるの子の中性的な声によるシャウトが、その「ノー」にさらに複数の意味を持たせているようにも思う。それから......ものの喩えとして、"ツイスト&シャウト"→"アナーキー・イン・ザ・UK"→"天使じゃ地上じゃちっそく死"と並べることもできるかもしれないけれど、当たり前の話、生きている時代も社会も違う。セックス・ピストルズの時代はもうちょっとシンプルだった。ステージの上でネットの書き込みを晒す必要などなかったのだから......。

 騒々しい『みんな死ね』、ポップに毒づく『つまんね』、どちらもマスターピースだ。"神様それではひどいなり"を聴く。「神様貴様はどこにいる /神様てめぇぶっ殺してやる /殺してやる」、ハハハハ、暗い気持ちも明るくなる。他にも良い曲がたくさんある。マッチョな時代へのアイロニー"男はロマンだぜ!たけだ君っ"、鬱病時代をシニカルに描く"僕のブルース"や"最悪な少女の将来"、そしてパワフルな"いかれたNeet"や"口ずさめる様に"......。2010年の12月、神聖かまってちゃんは世界の見方を変えてしまった。 

文:野田 努

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調子に乗ってすみません。べつにいいじゃねえかよぉ、調子に乗ってもよぉ文:橋元優歩


神聖かまってちゃん / みんな死ね
パーフェクト・ミュージック E王

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神聖かまってちゃん / つまんね
ワーナーミュージック・ジャパン E王

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 神聖かまってちゃんの音楽は、村上隆氏の言葉を借りれば「様々なコンテキストが串刺しに」されており、そのために音楽の枠を超えて大きな存在感を持ち、狂おしいバズを巻き起こすのだが、またそのために正当な評価を損なっている部分があると感じる。ユーチューブやストリーミング配信の重用、またそのためにファンがライヴ会場ではなくネット空間に多く存在するといった、インターネットにおける新しいコミュニケーションの問題。共同体、とりわけ学校共同体への違和や怨恨、トラウマという主題。自傷的なパフォーマンス。平成不況や旧来型の社会モデルの解体状況のなかで育った「奇怪な自意識を持つ」ゆとり世代のイメージ。NHK『ミュージック・ジャパン』出演時などの有名な暴走エピソードなども、こうしたイメージを補強する材料になってしまうだろう。「ネオテニー・ジャパン」的な成熟の問題ともリンクするかもしれない。また出身地である千葉、集合住宅といったキーワードが喚起する郊外的(ゼロ年代的)風景。さらには、ニート/非リア充問題として語られることさえあり、ゼロ年代と若者論をめぐって本当におびただしい文脈を串刺しにしている。
 だが実際に音に耳を傾けると、それらが部分であり全体ではないということがよくわかる。どれかひとつのトピックから眺めていては彼らを取り逃すばかりだろう。私のように後聴きの人間にはとくにそうだ。の子はじつに瑞々しく正統的なロック・ヒーローである。忌野清志郎や甲本ヒロトにも比肩できるだろう。音や資質は異なり、の子にはむしろ彼らのような頼もしい男性性に対する批評を感じるが、自らの内に渦巻く負の記憶やエネルギーを強度のある表現に転化できる点では共通する。歌っていることが、「ああ、ほんとうのことなんだな」と感じられる。

 さて、同時リリースとなった『つまんね』と『みんな死ね』。前者はグローファイ的なムードまでとらえたエレクトロ・サイドのアルバム、後者はわりとストレートなパンク・アルバムである。さらに、前者は「運命は変わらない」というアルバム、後者は「僕は素直に生きる」というアルバムだ。あわせると「運命は変わらないが僕は素直に生きる」になる。色の異なるふたつのキャラクターが、『仮面ライダーW』のようにきっちり半々に合体する。緑っぽい黒、とかではなく緑と黒半々の身体が、の子の身体ではないだろうか。意図されたものではないかもしれないが、2作がかなりくっきりとした対照性を持っていることはたしかだ。

 まず驚くのは『つまんね』。とても風変わりなプロダクションで、ピクシーズとアリエル・ピンクをドラム式乾燥機で一緒に回したかのようにいびつなローファイぶりである。ベースは重め。雄弁なキーボードは、今作でも忘れがたくメランコリックなリフを繰り返す。アニメソングさながらのくっきりとした対旋律を描き出すのも彼だ。"天使じゃ地上じゃちっそく死"や"笛吹き花ちゃん"などでは、ベースとドラムによってライド的な疾走感が生み出されている。の子が歌うのはおもに「君はどうしようもないだろうね/どうにもならないだろうね」("黒いたまご")という運命を静観する態度だ。「黒いたまご」は、イコール「花ちゃん」であり、「芋虫さん」であり、「僕」、そしてノット・イコール「白いたまご」だ。醜くて不気味で、死んだほうがいい。だが「白いたまご」とてくだらない、しょぼい命である。生まれてきても「黒いたまご」をいじめたりして終了。いますぐ壊したほうがいい。こうした希望の薄い世界認識や、そこからとくに踏み出すことのない非積極性のモチーフは、チルウェイヴ的な音となじみがよい。"夜空の虫とどこまでも"は、絶妙のタイミングで挟まれるドリーミー・シンセ・ナンバー。悲観的で逃避的、しかし切ない。ケトルばりの感傷を持った、ミドル・テンポのインスト曲である。他の曲より秀でているとは言わないが、この曲が全体の腰の部分にあることで、アルバムの表情と方向性がバシッと決まっているように思う。つづく"通学LOW"もエレクトロで、クリスタル・キャッスルズのようないかれたバイオレンスを思いきり内向させる。いっぽうで、"いかれたNeet"もとても好きだ。ぎこちないファンク・ビートがどことなくデヴィッド・ボウイを思わせる。不気味で醜い「僕」が日課として歌をうたいつづけるという詞。の子が発音する「ニート」はすさまじい情報量に満ちている。心のすみずみから掻き出した声と言えばいいだろうか。苦しい、怖い、いやだ、死にたい、そうでもない、どうでもいい、生きたい、それらがすべて含まれている。この曲は、この「ニート」を聴く曲だ。何度も何度も繰り返されるし、一個一個身にしみる。ただの名詞なのに、無限に動詞や形容詞を感じるだろう。声変わりが終わりきらないような危ういバランスは、昔の七尾旅人にも重なる。七尾も「不気味で醜い」黒いたまごのような声を出した。運命は変わらない。だがこの声が歌う「死にたい」は、かぎりなく「生きたい」に近い。

 『みんな死ね』は曲にヴァリエーションもあり、『つまんね』の内省に比べてより攻撃的だ。前述のように音としてもかなり素直なパンク・アルバムで、前に向かうような気持ちが感じられる。
「上へ上へ駈けのぼってく/....../僕はゆきます/....../そんな感じです」("ねこラジ") 
「男にも女にもなれやしない僕だから/みんなの目が厳しいとちょっとつらい/男にも女にも嫌われてる僕だから/自分らしく生きたい/....../嫌われても人間らしく/素直に今歌いたいのです」("自分らしく") 
「さんざんな目にあっても/忘れ方を知らなくても/僕は行くのだ/僕を笑わせんなと」("怒鳴るゆめ") 
 "自分らしく"は、「男の子」にも「女の子」にもなれない「の子」の由来に言及しているようで、かつそのことを承認してほしい、してくれなくてもの子として生きる、という力強い表明がある。"スピード"や"男はロマンだぜ!たけだ君っ"では提案すらある。
「独りぼっちが好きだったら/走れ走れスピードで走れ走れスピードで/誰にも見えないスピードで」
 いずれも、歪んだギターとかまってちゃんらしいシークエンスを持った疾走ナンバーである。ヴォイス・チェンジャーも目立っては使用されない。そしてストレートなメッセージや決意がある。もちろん「そんな感じです」のような照れ隠しというか、メタな自己言及も忘れない。神様に世界の残酷な不平等を訴える"神さまそれではひどいなり"では、神様に意義申し立てをおこない、「ぶっ殺してやる」とまで叫んでおきながら、「調子に乗ってすみません。べつにいいじゃねえかよぉ、調子に乗ってもよぉ。すみません」というつぶやきで締めるのだ。コロ助の真似とおぼしき口調のしょぼい存在が、まっとうな望みを抱いてすみません。シニカルで切ないこの感覚はつねにある。もしかすると自虐を偽装することで誇りを守っているのかもしれない。必死でバランスを保ちつつ......。

 しかし最終的に耳に残るのは「最悪、みんな死んでしまえ」("最悪な少女の将来")ではないだろうか。よく動くベースと、デイヴ・フリッドマン的な、ガスが充満して爆発しているような音像、そして旋律がぴったりと言葉に合っている。思いの強さと真実さが、この旋律を導いたのだと思える。私は前向きなメッセージを100パーセント支持するものであるが、現時点では「最悪、みんな死んでしまえ」のほうがかまってちゃんの最大出力を引き出せるのかもしれない。ただし、かまってちゃんの「死んでしまえ」はナイーヴな自己完結には終わらない。定型に則ったメンヘラー的ポーズではなく、全霊で外にぶつける「死んでしまえ」であり、そのはね返りを受けてみずからも大きなダメージを受けるように見える。「死ね」と言うとき、そこに生々しい相手を想定できるだろうか。固有名でなくてもかまわない。肉体と心とをたしかに持った存在を感じながら「死ね」と言えるだろうか。それができるのなら、倫理的な問題にはパスしているのではないかと思う。「素直に生きる」ことはかくも難しい。両作はまぎれもなく傑作で、私はとても考え、一生懸命聴いた。終曲も美しいが、次はほんとに、しょぼい我々にも"口ずさめる様"に、「死んでしまえ」を逆転してほしい。

文:橋元優歩

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毟り取られ、攻撃され続けてきた思春期のなかから文:水越真紀


神聖かまってちゃん / みんな死ね
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神聖かまってちゃん / つまんね
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 神聖かまってちゃんについては『ele-king』復刊号に掲載予定の戸川純×の子の対談記事で純ちゃんがすべてを言っている。簡潔に、切実に、的確に。まったくそれ以上なにを言うことがあるのかというほどに......。
それは本当に感動的な対談だった。司会などほとんど必要もないままにふたりの話は続いた。「親子ほど違う」なんて言い方をする人もいるかも知れないが、出会った瞬間から最後まで、そんなことを感じることは一度もなかった。同じ時代を生きて同じように歌を作りバンドで歌う、共感と憧れが交錯する幸福な時間だった。
 というわけで、まったくいったい、ほかになにを言えばいいのか、あとはすべて蛇足ではないかと思いあぐねているというわけだ。

  えー、なので好きな歌を上げます。『つまんね』は傑作だと思いながら、気がつくと口ずさんでいるのは『みんな死ね』の曲が多い気がする。

 まずは"神様それはひどいなり"(『みんな死ね』)。傑作だと思う。すいません、語彙が貧困で。バンド名の「神聖」は、の子が「宗教っぽいものが好きだし......」ということで冠されたという話だけれど、それでいてこの歌。アンチクライスト、ではない。まさしく神の子の歌だ。どんな神? それは知らない。神様に甘えて甘えてねだってねだって異議を申し立て、最後には「ぶっころしてやる!」とがなり声を上げる。ああ、ほんとに久しぶりの爽快感。一緒になってがなりたくなる。がなっている。
「甘える」ことは難しい。子どもが大人に甘えた時代なんて人間にはきっとそんなになかったろうと思いつつ、それでもなお、この歌は歌われて正しい。断固支持する。甘えているのだ。どこにもいない神に、いないくせにえらそーに間違えてばかりいる神に、徹頭徹尾役立たずの神に。甘えられないから、それを知ってるから。
 聴くたびに最初から気持ちをたどり直してしまえる。これを私はパンクと呼びたい。

 それから"ねこラジ"(『みんな死ね』)。RCサクセションの"トランジスタ・ラジオ"を思い出す。あるいはこないだ見たジョン・レノンの青春映画"ノーウェアボーイ"とか。
 孤独な若者は、半生記前もいまも変わらずに、遠いところで鳴ってる音楽をとらえようとしている。たとえ"電波"の意味が変わっても。それさえも彼はとらえようとする。けれども過去の若者たちも言葉を知らずにとらえていたのではないか。誰かが勧めてくれたからでもお父さんが聴いていたからでもなく、体中から溢れて止まらない「新しい音楽」を求める心が、シーンにおける「新しい音楽」の役割が退化しても退化しても、新しい人には湧き上がる。
 私はそれがなによりもなによりも好きな光景だ。

 ほかにもある。まだまだある。あー、これもいいのよ、あっちもすごいのよと。けれどもこの調子で「好き」だと打ち明け続けるのには少しためらいがある。
 そしてこのためらい、私をためらわせるナニモノかこそが、たぶん神聖かまってちゃんが寅年生まれの私に発している力だ。たぶん。
 神聖かまってちゃんの歌は「なつかしい」。このバンドのほとんどなにもかもが、"いま"生まれてきたことの必然性を感じさせながら、同時に私は「なつかしさ」を感じるところがある。80年代初頭に私を刺激してくれたサブカルチャーのなかに、たしかに同じナニモノかがあったのではないかと感じ、だから「好き」って言うのが照れくさくなってるんじゃないかと......。

 思い出せば90年代後半以降、思春期には不遇時代が続いていた。80年代中盤には「最近の子どもには思春期がないらしい」説が出はじめていたが、90年代後半以降に比べたらまだ思春期のゆりかごだったと言っても良かった。いま思えば。なにしろそれが見えなくなったことに疑問が呈されていたのだから。校内暴力や特殊な事件が少しずつ社会のムードを変えていって、"思春期"は肩身の狭いものになってきた。
 実際には、思春期は子供たちから自然に蒸発してしまったのではなくて、毟り取られていたのだ。子供のままで服従しながら、頭のなかはクールに大人のように割り切ることを命じることで。オウム事件や神戸の殺人事件を機に、思春期はさらなる攻撃を浴びていた。そんなモノはいまでは不要だ、ダサくて情けなくて時代遅れでカッコ悪い、そんなモノを抱えているからいじめられるのだ人を殺すのだ中二病だメンヘルだと言わんばかりの攻撃だった。
 いまも基本的にはそれは変わっていない。
 さらにいえば、80年代初頭のサブカルチャーさえ、この思春期虐殺への最後の抵抗が大量に含まれていたのだ。相対化されながら、あるいは自らそうしながら、クールとポップをまとって......。

 この10年、「親が聴いていた」音楽を好む若者というものを見てきた。このことがことさらサブカルチャーから対抗文化性を奪ったとは必ずしも思わないけれど、思春期特有の感情の表現は奪ってきたと感じる。それだけが僅かな時間に生み出せるリリカルで無力なその表現は、40代までみんな青春サブカルチャー世代のなかでさえ、ユースカルチャーとして"サブカル"に埋め尽くされる地上から飛び立てるものだというのに。

 戸川との対談で「不安定になる自分を緩和するために歌を作る」との子は言ってた。の子も25歳ですから、思春期と言うにはトウが立ちすぎているわけですが、個々の思春期は実はどんどん延長されてきたのではないか。封じられれば封じられるほど、ある人びとの心にその根は蔓延り続けていたのかもしれない。
 の子の戦略と技巧に満ちた"カミングアウト"は、この四半世紀を全身で受け止めながらくぐり抜けてきた綱渡りのような思春期が混ざっている。だから私は"なつかしさ"を感じるのではないかと思った。「親子ほど違う」彼のなかに、同じ時間を生きてきたナニモノかを感じるのではないかと。

文:水越真紀

»Next 三田 格

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飽きた。つまんね。そういうことだろう。飽きたんだよ、ホントに文:三田 格


神聖かまってちゃん / みんな死ね
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「それだったらオレもいろいろありますよ」と、の子は言った。すごんだようにも見えた。テープはとっくに止まっている。同じ曲でも戸川純が歌うと違うんだよねといって、僕は"電車でGO!"のタイトルを挙げたのである。の子がこだわっていたのは歌唱方法で、最も軽薄に言い換えれば、それはどれだけ感情が表現されているかということだろう。いろいろあるんだろう。そうなんだろう。"いかれたNeet"を聴いて、それは僕にものりうつる。僕は「いかれて」もいないし、「NEET」でもないのに、"いかれたNeet"という叫びに同調し、意味もなくマネをしたくなる。深夜アニメ『けいおん!』でも第1回で「部活していないだけでニート!」といって平沢唯が涙目になるシーンがある。三毛猫ホームレスにもそんな曲はあった。NEETという言葉は明らかに小泉・竹中政権が国民をひとり残らず労働に駆り立てようとして編み出された汚いコンセプトでしかない。働かないでゴロゴロしている人なんて、昔はいくらでもいた。誰かが誰とどんな人間を築こうが国家にいちいち口を出されるようなものではなかった。それを犯罪者でもあるかのように扱うための言葉にどれだけ思春期を汚されたか。新自由主義は多少は鳴りを潜めたのかもしれないけれど、傷を付けられた方はそれでおしまいとは行かない。神聖かまってちゃんの"いかれたNeet"はそんな悲しいアイデンティティを振り切ろうとする叫びであり、なぜか世代を超えて僕の心にも響く。
「いかれたNEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEET」と、可能な限り、語尾を引っ張りたくなる。「ツイスト・アンド・シャーーーーーーーーーウト」とジョン・レノンが語尾を引っ張り、「デーーーストローーーーーーーーーーーーーイ」とジョニー・ロットンが語尾を延ばしたように。疲れた体を引っ張り挙げるように。


神聖かまってちゃん / つまんね
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 SFなどではよく感情に左右されない冷徹な人間が進化した人間として描かれる。大脳皮質の発達からいえば、動物と人間を隔てる最も特徴的な差は前頭葉が発達しているかどうかで、人間にはその結果、感情の豊かさというものがもたらされたはずなのに、それを捨て去った状態を進化した人間としてイメージする根拠は謎でしかない。動物にはない複雑な感情を手に入れたはいいけれど、むしろ、そのことによって振り回されてしまう状態をよしとできないということならば、それはせっかく手に入れたコンピュータがうまく使えないからといって放り出してしまうのと同じだろう。豊かな感情を楽しみ、複雑な感情と格闘しないのならば、そういう人は動物に戻ってしまえばいい。AKB48やイグザイルの音楽はもちろん、そういう人たちのためにある。8つぐらいの感情でしかあの辺りの音楽はつくられていない(8つというのは小さな子どもがTVを観たときに認識できる感情の数だそうです)。僕はもっと自分の感情に振り回され、絶望し、死ぬほどの思いから這い上がってみたい。そうでない世界は「つまんね」ー。プライドのない人生は「つまんね」-。アッセンブリー・ラインから一度もはみ出さない人生はどう考えたってやっぱり「つまんね」ー。

 90年代後半、J・ポップにもけっこう複雑な感情が渦巻いていた。アンダーグラウンドがやりにくくなるほど、それは音楽として真っ当な事態に思えた。そして、そこから逸早く離脱を告げたのがモーニング娘。"抱いてホールド・オン・ミー"だった。感情に振り回されたくない人たちはこれに飛びつき、これを機にゼロ年代の基調は様式性へと移っていった。何度も書いたことなので、省略するけれど、これ以上行くとマズいという感じがあったことは否めない。だけど、パフュームから相対性理論へと、スタイリッシュな音楽の飽和が神聖かまってちゃんを呼び寄せたことは間違いない。飽きた。つまんね。そういうことだろう。飽きたんだよ、ホントに。前頭葉がヒマなんだよー。
『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク篇』(1月発売)のために戸川純にインタヴューをオファーし、後日、少し訂正があるからといって彼女から電話がかかってきた。そのときに「明日、ガーデンで神聖かまってちゃんと対バンをやる」と聞き、僕は近所だったので、せっかくだと思ってリハを覗きに行った。「万全の体勢ではないから観ないでね」と戸川さんがいっていたので、僕はステージの袖に隠れて見ていた。しばらくして駅前でゲリラ・ライヴをやっていたはずのの子がやはりリハを覗きに来た。ステージ衣装に着替えていたの子はまるで81/2の久保田慎吾を髣髴とさせた。ステージの上には本物の久保田慎吾もいた。なんか、ハレーションを起こしたような感じだった。もしかしたら、戸川純と神聖かまってちゃんはスゴく似合うのもかもしれない。そこからはすべてが"電車でGO!"だった。一体、何が起きたのか。『ele-king』復刊第1号(1月発売)をお楽しみに。

文:三田 格

ゆらゆら帝国 - ele-king

 去る11月に渋谷のディスクユニオンに入ったら、早速、『LIVE 2005-2009』のライヴ盤が店内でかかっていた。「順番には逆らえない~/順番には逆らえない~/希望~/絶望~」......自然と聞き耳を立ててしまう。
 思えば、昨年2009年の12月の末に恵比寿のリキッドルームでゆらゆら帝国のライヴ(それとヘア・スタイリスティックスのライヴ)を見て、えらく感動したものだった。まったく無駄のない、緊張感のあるライヴを観たあとでは、バンドが解散するとはとても思えなかった......が、ゆらゆら帝国は解散して、11年にもおよぶ活動に終止符を打った。国際的な成功もつかみつつあった時期だったが、このバンドらしく実にあっけない終わりだった。そして2010年の11月に2枚のライヴCD+ライヴDVD『YURA YURA TEIKOKU LIVE 2005-2009』、12月に2枚のライヴDVD『YURA YURA TEIKOKU LIVE 1997-2004』がリリースされた。

 まず『YURA YURA TEIKOKU LIVE 2005-2009』の2枚のライヴCDが素晴らしい。この2枚のライヴはドキュメントというよりも作品であり、バンドの最後のリリースに相応しい出来である。
 このライヴでのゆらゆら帝国は、サイケ・ガラージというよりもパンクに聴こえる。ペル・ウブが奏でる怪しい生物のようなアヴァン・ガレージである。具象性を拒否する坂本慎太郎の歌詞は、アブストラクトの迷路のなかにリスナーを誘い、気がついたら出れなくなっていることが多いが、ライヴ演奏におけるエモーションが仮面を被ったこのバンドの素顔を見せるようだ。「正気でいられない/もうまともじゃいられない/正気でいるのがつらい」......"男は不安定"をいまあらためて聴いていると神聖かまってちゃんと結びつけてみたいという衝動に駆られる。ゆらゆら帝国の"ソフトに死んでいる"という感覚を継承しながら、それを突破しようとする音楽がいま他にあるとしたら"天使じゃ地上じゃちっそく死"ではないだろうか......(いや、マジな話)。
 2009年、坂本慎太郎は小山田圭吾との対談で「変態として生きる覚悟」について語っていた。それはゆらゆら帝国のすべての表現に当てはまる言葉だ。メインストリームの文化からのけ者である自分をなかばユーモラスに捉え直すことで開けていく感覚は、このディストピアン・ロック・バンドの音楽の素晴らしい個性となっている。それはサイケデリックと言えばサイケデリックだが、しかしサイケデリックと呼ぶにはあまりにも不気味で、間違っても何か美しい虚構を見せているわけではない。"つぎの夜へ"の打ちひしがれた展開では、このかったるい日常がどうしようもなく続いていく。どうしようもなく、ただ......ただ、繰り返される。"おはようまだやろう"......「何も求めず/何も期待せず/全てを諦めたあとでまだまだ続く/ビートがノックする/君の窓を」......矛盾した言い方をすれば、このセンチメンタルなニヒリズムがやけに心地よく響くとき、リスナーは陶酔と齟齬感のふたつに引き裂かれる。
 言うまでもないことだが、ゆらゆら帝国は手の込んだ音楽をやっていた。メジャーでもアンダーグラウンドでも、この10年あまりの日本の音楽の、たんなる誠実商売と化した姿を思えば、ゆらゆら帝国は時代のマイノリティを代表していたと言える。"あえて抵抗しない"という複雑な感情を抱えた非協調主義的ボヘミアンという観点で言えば、ニューウェイヴ的な感性を坂本の言葉は先駆けていた......といまとなっては言えるだろう。
 2枚のDVDが入った『YURA YURA TEIKOKU LIVE 1997-2004』には、1997年という初期のライヴ映像がある。バンドのグルーヴにはブギを基調としたものが多いが、DVDではその若々しい疾走感をあらためて見ることができる。坂本慎太郎のギターは、ロケットのように発射して、ソニー時代の2枚の作品からは削ぎ落とされたストレートなノリが展開されている。僕はこの時期をぜんぜん知らないので新鮮に感じる。もう1枚のDVDは、2001年の野音でのライヴだ。ロックのクリシェを復習しながら、しかしどこかずれているこのバンドの演奏を受け止めているオーディエンスの神妙な顔つきが面白い。心底熱狂しているわけではないが、つまらないというわけでもない。実に居心地が曖昧な、妙な空気感が流れている......。グロテスクなイメージ、不吉な予感、悪夢への誘いを想起させながら、次の瞬間にはロックのカタルシスが手がかりを消す......。それは時代におけるバンドの存在を表している。つまり、おさまりが悪く、そしてバンドはあくまでも自分たちの声明をリスナーの想像力のなかに預けている。

「無い!」と、「できない」と、彼ははっきり言った。この言葉もまた時代を先回りしていたかもしれない。ライヴ・ヴァージョンの"まだ生きている"や"なんとなく夢を"を聴いていると、ゆらゆら帝国はペル・ウブでかまってちゃんがセッ......いや、止めておこう。ゆらゆら帝国は間違いなく偉大なロック・バンドだった。ライヴには格別な味があった。ライヴ盤の最後の"空洞です"のナメクジのような坂本慎太郎のギターが頭にこびり付く。いまもまだ......こびり付いている。

 ところで2009年12月の恵比寿リキッドルームでのライヴはDVD化しないのだろうか。あのときのヘア・スタイリスティックスのライヴとともにリリースして欲しいな。

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