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涼味がある。ウォッシュト・アウトやネオン・インディアンが実際にはより多く暑気を感じさせるのに対して、バスは涼しい。それどころか、時折は耳のうしろにあてられたかみそりのようにひやりとする。
デイデラス人脈のビート・メイカー、バス。本名をウィル・ウィーゼンフェルドという弱冠21歳の俊英は、ポスト・フィータスというなめたような名義で今年1月に初めてのアルバムをリリースしている。本作はデイデラスの薦めもあったようで、〈アンチコン〉からリリースとなったバス名義でのファースト・アルバムだ。時流に外れずグローファイ/チルウェイヴ的な文脈をとらえた、非常にリリカルなIDM。しかし吃りのはげしいビートや、込み入ったエディットのなされたサンプリング音には、前掲アーティストのレイジーな感覚とは対照的な攻撃性があると言わずにいられない。
やんちゃな音という意味でない。むしろひたすら内向的でドリーミーだ。が、ベッドルームから出てやるものかという雰囲気がある。あるいはかなり尖った音楽的な探求がある。なるほどこのあたりが〈アンチコン〉なのだろう。モラトリアムな空間で純粋過剰にスピード培養されたビート・センス......心地よいサウンドの裏側には、そうしたかすかな薄気味悪さが貼り付いている。ピアノ、ヴィオラ、ギターなど何でもこなすマルチな才能といい、ある種の豊かさがある。あまり学校にも行かず好きなことにだけ没頭してきたのではないだろうか......そんなことさえ想わせる音楽だ。パッション・ピットをうんと気難しくして、ケトルやデイデラス、フライング・ロータスを交け合わせたと言えば近いかもしれない。
『セルリアン』は、グリーグの宗教的合唱曲を思わせるようなほの明るい和声でもって幕を開ける。絡みあうファルセットには厳かな雰囲気がある。おもむろに打ち鳴らされるキック。もつれたようなリズムはバスがバスたるゆえんだと言いたい。実際のところ、バスを聴くというのはこのリズムを聴くということに相違ないと思われるのだから。コミカルな効果音を交えて、天からシャワーのように降ってくる多幸感。これはアニマル・コレクティヴを筆頭とし、ドードースやル・ループやジャンク・カルチャー、トロ・イ・モアらに表象される、まどろみの2000年代サイケデリアをくぐった音だ。
あるいはルシアーノの"セレスシャル"。教会的なコーラスのイメージは、ダーティー・プロジェクターズやジュリアナ・バーウィックなどに通じる。調性音楽へのこうした再帰的なまなざしは、トライバル・ブームと裏表の関係にあるのだろう。マイ・スペースではトップにアップされているトラックで、本作のハイライトのひとつである。ウェブ・マガジン『ユアーズ・トゥルーリー』や『ピッチフォーク』では、これをプレイするバスの姿をヴィデオで観ることができる。トトロ型のトートバッグでスタジオに入る様子には、誰もが「やっぱりオタクだったか」とつぶやかずにいられないだろう。
感触の似たトラックとしては"アミナルズ"。クリア・トーンのギターを用いた、エコー・タイムの長いリフがじつに涼しい。音のひとつひとつが氷の粒のようだ。子どものヴォイス・サンプリングが挟まれ、やはりおもむろにドラム・パートがはじまる。この曲ではベースもよく跳ね、歌っていて、甘く切ないメランコリアをうまく醸している。叙情のインフレーションが止まらない。かつ、最終的にはアブストラクトなビートに支配される。作品中でも出色の出来ではないだろうか。このトラックに説得されてアルバムを購入する方も多いだろう。デイデラスとケトルを軸に取った座標、その第一象限をギターとトイ・ピアノが金属的に駆け回る。
"マキシマリスト"や"ホール"などは、ヒップホップのビート・メイキングという色合いが濃い。いずれもゆったりとした拍を刻みながら中盤ではっとするようなテーマが鮮やかに展開される。"インドアジー"はそうしたイヴォルヴィングなテーマだけを抽出したような曲で、ハイパーな子守唄といった佇まい。"レイン・スメル"のビターな味わいもアルバム全体に奥行きを与えていて、好ましい。シンプルなシークエンスに濡れたようなピアノが映える美しいトラックで、雨の音や鳥のさえずりが外界のノイズとともに挿入されている。本当に心の繊毛をひとつひとつ刺激してくるような、デリケートなメロディ感覚を備えた人物だと感心してしまう。
「どうでもいい」という念仏を唱える坊主がちまたでウケていると聞く。人間関係において、または社会生活を営む上で、うまくいかないような事態が出来した折に「どうでもいい」と唱えて納得せよといった教えらしい。これがウケるのはよくわかる。ウォッシュト・アウトの投げやりさやネオン・インディアンに感じる現実軽視は、これと同じレイヤーに属した感覚だと思うが、どうだろう。問題の解決どころか問題点の特定すら複雑すぎてままならない成熟社会においては、それもひとつのマナーであるように思われる。が、あくまで引きこもって爪を研ぎつづけるというバスのような存在には、退却と反撃が同居したような奇妙なエッジがある。それはそれでオルタナティヴなヒーロー像が宿っているようで、頼もしい。
橋元優歩