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interview with Creation Rebel(Crucial Tony) - ele-king

 いまやDUBそれ自体がひとつのジャンルのようなものになっている。もちろん、このスタイルが1970年代のジャマイカで発明されたことを忘れてはならない。しかし、DUBを説明するときに、いつまでもそれを「オリジナル」に対する「ヴァージョン」であると繰り返す必要はないだろう。というのも、DUBはひとつの、オーディエンスを惹きつけるための遊び心あるギミックではなく、まあ、良くも悪くも西欧の枠組みのなかの「アート作品」として評価され、ジャマイカとは別の回路で発展している。
 UKは、DUBのそうした創造的転用に関する最初の拠点だった。『DUB入門』のなかのコラム原稿で少し詳しく書いたけれど、2020年にはロンドン博物館で『DUB LONDON』という、いかにUKにおけるDUBがひとつの文化現象として重要であるのかを多角的に展示する展覧会が開催されている。面白いのは、UKでは、とくに女性には、ルーツよりもDUBのほうが好まれたという話だ。人種的アイデンティティを覚醒させてくれた意味では、ルーツに対する尊敬の念は大いにあった。が、その家父長制的な女性観には当時口には出せない抵抗を感じていたと。アレサ・フランクリンなどUSソウルに親しみながらUKの都会で暮らすジャマイカ移民の女性たちがDUBに向かうのは、なるほどたしかに理解できる。また、西欧のサイケデリック文化とそれが接合されたことも、欧米におけるDUBの展開においては大きかった。ジ・オーブもマッシヴ・アタックも、ジャングルもダブステップも、その回路なくして生まれなかったのだから。
 いよいよ来週からはじまる〈DUB SESSIONS 2024〉、名歌手ホレス・アンディとともに今回の目玉であるUKダブ・バンドの大御所……というか生きる伝説……というか、とにかく、来日直前にクリエイション・レベルのリーダー、クルーシャル・トニーことトニー・フィリップに話を聞くことができた。クリエイション・レベルとは(エイドリアン・シャーウッドとのスタジオ作業を通じて)、それこそDUBを「ヴァージョン」ではなく、こっちを「オリジナル」にしてしまったバンドだ。また、クリエイション・レベルは70年代、ザ・クラッシュやザ・スリッツなど、パンクとも共演している。デニス・ボーヴェルやジャー・シャカなどと並ぶ、UKレゲエ史そのもののような存在だ。
 ぼくが推薦するクリエイション・レベルの作品は、まずは『Starship Africa』(1980)、そしてニューエイジ・ステッパーズとの共作『Threat to Creation』(1981)、この2枚は必聴盤として、ほかにも最初期の『Dub From Creation』(1978)、ジョン・ライドンが参加した『Psychotic Jonkanoo』(1982)も大好きだし、クルーシャル・トニーが参加した作品でフェイヴァリットを挙げようものなら、プリンス・ファーライ&ジ・アラブス、ニューエイジ・ステッパーズの全作品、シンガーズ&プレイヤーズの全作品、マーク・スチュワートの初期作品など、もうキリがない。すなわち、トニーさんの話を紹介できることが嬉しい。面白いので読んでください。


そしていま現在もクールなクリエイション・レベル。左から、ランキン・マグー、エスキモー・フォックス、そしてトニー。

来日前のお忙しいとき、時間を作ってくれてありがとうございます。数年前にロンドンでは、「DUB LONDON」という大掛かりな展覧会が開催されて、UKにおいてDUBがいかに重要な文化であり、重要なアートであるのかを多角的に見せていましたよね。DUBはジャマイカで発明された手法/スタイルですが、それがUKではいまではひとつのジャンル/独自の文化として認識されている。1970年代には考えられなかったことだと思いますが、こうした現在の現状に関しての、あなたの感想を聞かせてください。

クルーシャル・トニー:いま、DUBはとてもいいよ。老いも若きも興味を持っている。DUBの昔のアルバムを手に入れて聴いている人もいる。DUBをプレイする機会が多くなっているというのが、いまのDUBの文化だ。DUBに関してはとても良い状況が続いている。アナログ盤もリヴァイヴァルしているし。

70年代のUKではジャマイカ移民が多く、レゲエは故郷の音楽として人気があった。とはいえUKで暮らす黒人がレゲエを演奏することは、たとえば、UKのレゲエは「オーセンティック」ではないということでサウンドマンにはかけてもらえなかったり、いろんな壁があったと聞いています。ジャマイカのルーツ・レゲエの影響を受けながら、UK独自のサウンドがどのように生まれていったのでしょうか?

トニー:最初はジャマイカ出身の人たちは同じスタイルの音楽に興味を持っていたけど、ちまたでいろんな音楽が溢れかえって飽和状態になると、みんなDUBに向かうようになったんだ。みんなが興味を示すようになったんだよ。一流のエンジニアがいたからだ。サイエンティスト、エロル・トンプソンとかがいろいろなことを試していた。ロンドン、もしくはイギリスに住んでいる西インド諸島出身者のなかには、ジャマイカの文化をフォローしている人たちが多かったんだ。

UKにおいてDUBがなぜ重要なのか、「DUB LONDON」のホームページに掲載されたそのひとつの理由に、女性が入りやすかったという話があって、興味深く思いました。ルーツには家父長制的なところがあったから、女性はどこか抵抗があったけれど、DUBはもっと間口が広がったという話なんですが。

トニー:同感だね。

他にも、たとえば現代のジャングルやベース・ミュージックに与えた影響も大きいです。ある意味、ほとんどUK独自のダンス・ミュージックの基礎はDUBの応用によって作られているように思います。

トニー:間違いないね。

というわけで、「UKにおいてDUBがなぜ重要なのか」、あなたの意見を聞かせてください。

トニー:いろんなサウンド・システムがあったなかで、DUBがプレイされていた。みんな、DUBが大好きだったんだ。レコードをプロデュースした人たちの音のミックスの仕方が気に入られたんだな。キング・タビーはかなり人気があった。〈Studio One〉にだってDUBはあった。DUBは、レゲエとともに入ってきた。DUBは、ヴォーカルにも音楽にもリヴァーブといったエフェクトを思いっきりかけていた。クリエイティヴになりたくて、独特の音作り、周波数作りをしていた人たちがいたからだ。いろんなスピーカーを使って、パワー全開でガツンと来る音作りをしていたんだよ。

それがUKのダンス・ミュージックに影響を与えたと?

トニー:ああ、もちろんだとも。

クリエイション・レベルは、もともとはジャマイカの大物歌手がイギリスでライヴをやる際のバックバンドとして結成されたそうですね。

トニー:たしかに彼らのバックでプレイしていたけど、もともとはクリエイション・レベルとしてのアルバムをレコーディングしたんだ。そしてそれがヨーロッパでかなりウケたんで、我々はクリエイション・レベルとしてツアーに出かけていた。その同時期に、プリンス・ファーライやビム・シャーマンといったアーティストと出会って、彼らがプロモーションなり何なりでヨーロッパに来ると彼らとツアーするようになった。

通訳:最初はバックバンドだったのが、その後自身のバンドとしてアルバムを作ることになったのだと思いましたが、まずはアルバムをレコーディングして、それに伴うヨーロッパ・ツアーを行なっていたときにジャマイカのアーティストと出会ったんですね?

トニー:そうだ。

では、クリエイション・レベルを結成したのはいつのことでしたか?

トニー:1977年のことだった。ずいぶん前だな。

そもそもなぜ、DUBを生演奏するバンドを組もうと思ったのですか?

トニー:元々リリースしたアルバム『Dub From Creation』は実験的だったけど、人びとはそれに魅了された。それでずっと続けたんだ。みんなが聞きたかったのが、バンドがプレイするDUBだったんだよ。みんなが楽しんでくれていると思ったし、大いに興味を示されたんで、我々は続けて、どんどん作っていったんだ。ライヴをどんどんやるようになったんだよ。

でも、DUBバンドという発想はジャマイカにはなかったUK独自のハイブリッドなスタイルへと繋がっていったと思います。

トニー:そうだな。

通訳:たとえば、ポスト・パンクの接続という点で言えば、とても大きかったと思いますが、いかがでしょうか?

トニー:あの頃はパンク・バンドがたくさんいたけど、スキンヘッズとか、イギリスのパンク・バンドの多くはレゲエをプレイしていたんだ。彼らはあのビート・サウンドに馴染むようになったんだよ。

通訳:パンク・バンドは、最初からレゲエが好きだったわけですね?

トニー:そう、彼らにとってレゲエは第二の音楽だったんだ。二番目に好きな音楽だったんだよ。

通訳:それはなぜだったと思いますか? パンクとレゲエに何らかの共通点があったとか?

トニー:う〜ん、あったんじゃないかな(笑)。

通訳:たとえばどんな?

トニー:あまり統一されていなかったことかな。我々はザ・クラッシュと共演した。彼らはとっても気に入っていたよ。彼らはレゲエをプレイするのが大好きだった。DUBが大好きだったんだ。それで共演したんだろう。ザ・スリッツとも共演した。彼女たちともよくやったよ。

通訳:PILとも共演しましたよね?

トニー:PILもそうだったな。

通訳:あなたは音楽としてのパンクがお好きでしたか?

トニー:う〜ん、いいや(笑)。

通訳:(笑)

トニー:僕はアヴァンギャルドが好きだからけっこう興味深かったけど、あまり好きとは言えなかったな。

通訳:ではどうして、彼らとコラボしたのですか? 彼らの方があなた方を好きだったからですか?

トニー:そう、彼らが我々の音楽を好きだったし、我々を称賛してくれたんだ。

通訳:なるほど。でも結果的に、パンク・バンドとの共演はあなたにとって楽しい経験でしたか?

トニー:いま振り返ってみれば、そうだね。いろんな人と出会えたし、みんなに評価もされたからね。いい経験だったよ。(※ちなみに「レゲエとパンクは似たもの同士ではない」というコラムを野田が『DUB入門』で書いているので、興味のある方はぜひ)

通訳:『Dub From Creation』をリリースする以前からあなた方はライヴをやったりツアーを行なっていたのですか?

トニー:いやいや。リリースしてからだよ。

通訳:そのアルバムが売れたので、あなた方はツアーに出ることができたわけですか?

トニー:その通り。

通訳:そのツアーでジャマイカのアーティストと出会ったのですか?

トニー:そうだよ。

『Starship Africa』は、レゲエ・ピュアリストからは批判されるような、常識破りの作品でした。あの傑作はどのように生まれたのでしょうか?

トニー:たくさんレコーディングしたものをテープに収めたんだ。あれはエイドリアン・シャーウッドのアイディアだったんだよ。

通訳:あなた方はそのアイディアを気に入ったのですか?

トニー:いいや(笑)。

通訳:(笑)またですか? じゃあ、なぜ受け入れたのですか?

トニー:それでもやっぱりクリエイティヴになりたかったんだ。私自身のまた別の道だったからね。私はプレイするのが大好きだけど、予測できないものが好きなんだ。だから、この手のものをやってみたんだよ。でも君が言ったように、たしかにピュアリストは気に入らなかった。彼らには耐えられなかった。でも、これは我々のアルバム中もっとも売れたものなんだ。いまとなってはクラシックだよ。

通訳:その通りですね。いま振り返ってみると、あのアルバムを作って良かったとあなたも思いますよね?

トニー:思うよ(笑)!

あのアルバムのSF的なアートワークは、Pファンクやサン・ラーなど、70年代のアメリカの黒人音楽には見られた傾向ですが、ラスタの思想を重んじ、アーシーであることに重点を置いたジャマイカのルーツ・レゲエにはなかった発想だと思います。

トニー:我々がDUBを第一線に押し出したんだよ。

先ほどエイドリアン・シャーウッドの名前が出ましたが、18歳の彼はどんな青年でしたか?

トニー:いまと変わらないよ(笑)。彼はレゲエに対してとても熱心で、当時は若者の中心になってレゲエを盛り上げていた。私も若かった。どっちもこの音楽を盛り上げたいと思って一緒にやっていたんだ。

通訳:そしてその関係は今日に至るまで続いていますね。すごいですね。

トニー:そうなんだよ、驚くことにね! 我々はたくさんのプロジェクトを一緒にやってきた。いまのプレイヤーともたくさんやってきたんだ。

先ほど、プリンス・ファーライやビム・シャーマンといった名前を挙げられましたが、彼らとの思い出について聞かせてください。

トニー:プリンス・ファーライと初めて会ったときのことは一生忘れないよ。ロンドンでプリンス・ファーライと出会ったんだ。ライヴの2〜3日前に会ったんだよ。あれは我々にとってエキサイティングなことだった。彼のことは知っていて、その彼と会えたんだからね。彼と一緒に仕事ができて良かったよ。スタイル・スコットもいたな。プリンス・ファーライがジャマイカから連れてきたんだ。スタイルはルーツ・ラディックスのドラマーだったけど、私ちが会ったときの彼はまだラディックスに加入する前だった。彼も若かったんでね、エキサイティングだったよ。プリンス・ファーライとビム・シャーマンは、我々が一緒に仕事をした最初のアーティストだった。

通訳:ビム・シャーマンとも、プリンス・ファーライと同じ頃に出会ったのですか?

トニー:そうだよ、同じ頃だった。

アリ・アップは?

トニー:ザ・スリッツの人だね。彼女たちともツアーで出会ったんだ。ザ・スリッツと一緒にツアーしていたんだよ。もちろん、あれも良かった。

そして昨年は『Hostile Environment』で、ほとんど40年振りにバンドが復活しました。本国ではとても温かく迎えられていましたが、80年代のクリエイション・レベルと比較して、現在のバンドはどこが進化していると思いますか?

トニー:進化したと思う。経験を積んだからね。でも、DUBのやり方は変わっていないな。ただ、いまはもっとうまくなったよ。各楽器の弾き方も経験を積んできたから。大勢のアーティストやミュージシャンと一緒にやって来たからうまくなったんだ。この40年のあいだに、私はいろんなことをやってきた。プロデューサーなんだ。私が1980年にロンドンで共同設立した〈Ruff Cut〉のプロデュースを手がけている。いろいろなものを手がけてきたよ。スタジオワークもたくさんやって、ギターのオーヴァーダブをやってきたし、各種レーベルのためのプロデュースも手がけてきたし、いろんなアーティストと数え切れないほどのライヴをやってきた。250近くのアーティストと一緒にやってきたんだ。ジャマイカのバンドともやってきた。

通訳:それでも去年、クリエイション・レベルを復活させたかったんですね?

トニー:そうなんだ。これは、しばらく前からやりたいと思っていたことだったけど、みんなそれぞれいろんなプロジェクトに関わっていたんで、去年やっと実現したんだ。みんなが死ぬ前に、ぜひともやっておきたかったんだよ(笑)。

日本のファンのために、あらためてDUBの魅力、UK独自のDUB文化の魅力について話してもらえますか? 

トニー:とっても興味深いものだ。ほとんどの場合、我々はただ自分たちの音楽をプレイしているだけだけど、過去じつにいろんなアーティストと共演してきた。一流のレゲエ・シーンでやってきたんだ。デニス・ブラウン、リー・ペリー、大勢いる。ミステリアスで、予測不能で、興味をそそるよ。

今回の日本でのライヴに関しての、あなたの意気込みを聞かせてください。

トニー:とにかくみんなにはありのままの自分を出して音楽を楽しんで欲しい。我々がもうすぐ行って、ディープなルーツ・レゲエとDUBを披露するよ!

ADRIAN SHERWOOD PRESENTS
DUB SESSIONS 2024

HORACE ANDY [live mix by Adrian Sherwood]
CREATION REBEL [live DUB mix by Adrian Sherwood]
Crucial Tony (G)、Charlie Eskimo Fox (Ds)、Ranking Magoo (Perc)、Kenton "Fish" Brown (B)、Cyrus Richards (Keys)
Horns:icchie (Tp), Hashimoto “Kids” Takehide (Sax), Umeken (Tb)
ADRIAN SHERWOOD [DJ Set]

OPENING DJ: MASAmida from audio active [ON-U Set]
OSAKA - 09.12(THU) Umeda CLUB QUATTRO
NAGOYA - 09.13(FRI) ReNY limited
【SOLDOUT】TOKYO - 09.14(SAT) O-EAST

OPEN/START 18:00 前売:8,500円(税込 / 別途1ドリンク代 / オールスタンディング)
※未就学児童入場不可

【TICKETS チケット詳細】
前売¥8,500(税込/別途1ドリンク代 /オールスタンディング) ※整理番号付 ※未就学児童入場不可

[東京] SOLDOUT
INFO: BEATINK www.beatink.com

[大阪]
イープラス
チケットぴあ (P:270-870)
LAWSON TICKET (L:53380)
BEATINK
INFO: SMASH WEST 06-6535-5569

[名古屋]
イープラス
チケットぴあ (P:270-951)
LAWSON TICKET (L:43138)
BEATINK
INFO: JAILHOUSE 052-936-6041

Undefined meets こだま和文 - ele-king

 まさか“Requiem Dub”を聴けるとは思いも寄らなかった。もしもフランクフルト学派がこの日のこだま和文のライヴを見ていたら、泣いて喜んだことだろう。20世紀前半のもっとも重要な文化研究グループとされる彼らは、アートがこの資本主義社会で果たす役割があるとすれば、それは「耐え難いこの世界を告発することだ」とした。「偉大なる拒絶」の一部になること。2024年8月24日の21時、渋谷のWWWで、いまだにそれをやっているひとがいた。
 ぼくはフランクフルト学派ではないが、泣いた。同じように、たぶんフランクフルト学派ではないマヒトゥ・ザ・ピーポーも「泣いた」と言って、ライヴ終了後に楽屋でこだまさんをハグしていた。ほかにも、多くのひとが泣いたに違いない。ひょっとしたらその涙は、こだまさんが自分の詩を朗読しながら訴えたパレスチナの現実および自分たちが生きているこの悲しい世界に対する憤りの涙で、と同時にそれは、悲しくも美しいダブをバックにそれを表現するひとがいま目の前にいることの嬉しさでもあって、あるいは、まあ、いろいろだろう。個人的には松岡正剛さんのことがあったので、悼みながら聴きいていたが、いつしか無心になって、ただただ聴き入っていた。
 
 その夜ぼくと編集部コバヤシは、河村祐介監修『DUB入門』の先行発売という口実で、渋谷のWWWで開催の、虎子食堂の15周年記念イベント「SUPER TIGER」に混ぜてもらった。天候も不安定だったし、ライヴ・イベント会場だし、多くは売れないだろうなと思っていたら、ありがたいことに完売した(DUBの未来は明るい。いや、河村人気なのかな? とにかく、あのとき購入していただいた方々、どうもありがとうございました。DUBが女性に人気というのはほんとうでした)。そんなわけでぼくとコバヤシは物販スペースで本の売り子をしながら、SOUL FIREのライヴ、1TA&Element、HIKARUらのDJタイムは代わりばんこにフロアに出入りしていたのだけれど、Undefined とこだま和文のライヴ前には売り切っていたので、幸いなことに最初から集中して聴くことができたのである。

 『A Silent Prayer』からは“T-Dub”(“Move”だったかも?)と“One-Two”をやった。この日はUndefinedとのライヴなので、ほとんどのひとがあの素晴らしい『2 Years』の曲を待っていたと思う。しかしこだまさんは、既発作品の再生ではなく、“いま現在のこだまさんの思い”を表現した。
 そんなことをしても変わりっこない、そういうシニシズムがアートを支配しはじめたのは1980年代後半のことだった。メッセージなどダサい、どうせ変わらないのだから受け入れた方がいい、笑えればいい、格好よければいい、それがミュート・ビートが輝いていた1980年代後半に芽生えた新しい表情のひとつだった。美術館の売店でモネのスカーフが5千円で売られても誰も気にすることもなくなった時代、やがてルイ・ヴィトンとタッグを組むジェフ・クーンズが登場した時代、要するにフランクフルト学派みたいなことをいうのはもうダサくなりはじめた時代のムードに、こだまさんが違和感を覚えていたという話はこれまでの取材で知っている。そう、知っているけれど、それをブレることなくずっとやり続けていることは、やはり、すごいことだという思うし、ぼくはこだまさんのいまも変わらない「悲しみを隠さないDUB」をますます愛おしく思う。この国に、こだま和文がいてくれてほんとうに良かった。

 たとえば、以前松島君がreviewしたA. G. Cookの〈PC Music〉は、言うなれば、J-POPもAFXも同じだろうというある種のなかば熱狂的な相対主義をいまの時代に全開した代表的なレーベルだ。ぼくはその考え方も善し悪しだと思っているが、じつはいろんなことがどうでもよくなっていて、楽しさをもとめた挙げ句に不正なゲームのうえで踊らされるのはまっぴらだとも思っている。この夜の、虎子食堂15周年のお祝いに駆けつけたひとたちも同じ思いだろう。アートはそれを失うべきではない。小さなことだけれど、最高に美しい夜だった。

interview with Toru Hashimoto - ele-king

 私たちは皆、「Free Soul」以後のパラダイムにいる。何を大げさなことを、と思うかも知れないが、こればかりは確実にそうなのだ。音楽を楽しむにあたって、そこに聞こえているグルーヴや、ハーモニーの色彩、耳(肌)触りを、その楽曲なり作り手であるアーティストの「思想」や「本質」に先んじる存在として、自分なりの星座盤とともに味わい、愛で、体を揺らすというありようは、現在では(どんなにエリート主義的なリスナーだとしても、あるいは、当然、どんなに「イージー」なリスナーだとしても)多くの音楽ファンが無意識的に共有するエートスとなっている。だからこそ、その革新性にかえって気付きづらいのだ。しかしながら、そうした音楽の楽しみ方というのは、元々は1990年代に少数のトレンドセッターたちによって試みられてきた、(こういってよければ)「ラジカル」な価値転換によって切り開かれてきたものなのである。その事実を忘れてしまってもいまとなってはそこまで困ることはないだろうが、同時に、その事実を丁寧に噛み砕きながらリスニング文化のこれまでを振り返ってみる行為にも、思いの外に巨大な楽しみがあるものだ。
 そう。Free Soulとは、あなたと私にとって、紛れもない「空気」なのだ。それも、いざ思い切り吸い込んで味わってみれば、その爽快感と美味が病みつきになってしまうたぐいの。
 いまから30年余り前。Free Soulという「発明」は、いったいどうやって成されたのか。「発明家」橋本徹は、そのときにどんなことを考え、何を提案しようとしていたのか。そしていま、どんな思いでFree Soulという我が子と対面するのか。30周年を記念する「ベスト・オブ・ベストFree Soul」なコンピレーション・アルバム2作品=『Legendary Free Soul ~ Premium』(Pヴァイン)と、同『Supreme』(ソニー)の発売に際し、じっくりと話を訊いた。

マニアの狭いコミュニティの中での評価とかレア度とかで何を載せるのかを決めるんじゃなくて、どういうふうに紹介するか、もっといえばどういうふうに「見せる」かということをすごく意識していました。

橋本さんは「Free Soul」というコンセプトを立ち上げる前に「Suburbia」のシリーズや同名のレコード・ガイドを展開されていますが、どういった経緯でFree Soulというコンセプトが生まれてきたんでしょうか?

橋本:Suburbiaでは、フリーペーパーの時代から、基本的にソフトでスマート、スウィートでソフィスティケートされた音楽――具体的には、フレンチやボッサ、カクテル感覚のジャズ、映画音楽、ソフトロックなど――を新しい感覚で楽しむことを提案していたんです。それで、渋谷のDJ Bar Inkstickでやっていたパーティや、TOKYO FMの番組「Suburbia’s Party」の集大成的なものとして、1992年末に『Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise』という本を出したんですが、いろんな中古レコード・ショップが本に載っているタイトルを掻き集めて売るようになったり、各レコード会社から再発の相談を受けたり、とても大きな反響があって。まずはそれが前段階ですね。

それまではあくまでメーカー側主導のリイシューが主流だったことからすると、リスナーの側が作ったカタログ本が再発のきっかけになったというのはかなり革新的なことですよね。

橋本:そうですね。業界からリスナーへと情報が降りてくる従来のルートとは反対の矢印だったんです。そしてそれは、1990年代のいろんなカルチャー・シーンで同時に起こっていたことでもありますね。ありがたいことにたくさんのリイシュー監修のオファーをいただいて、すごく充実した1993年を過ごしていたんですが、そもそもSuburbiaで紹介していた音楽というのは、僕の嗜好の中のあくまで一部分だったんです。次第に、自分がリスナーとして熱心に聴いていたUKソウルやアシッド・ジャズと共振するテイストと、一冊目のレコード・ガイドで提示した過去の音楽の新たな解釈とか、当時の東京ならではのリスニング・スタイルを合流させていきたいなと思うようになって。

そこで、70年代のソウル・ミュージックとその周辺の音楽をFree Soulというタームとともに提案するようになった、ということですね。

橋本:はい。一冊目のSuburbia本の続編や縮小版みたいなものをもう一度やるよりも、そのときの自分の熱い気持ちを反映したコンセプトにしたいと思っていたんです。ある種のコントラストを見せたかったということですね。そこから、1994年の3月に「Free Soul Underground」というDJパーティをはじめて、翌月に二冊目の本『Suburbia Suite; Welcome To Free Soul Generation』と、Free Soulのコンピレーション・シリーズ第一弾である『Impressions』と『Visions』が出たんです。もともと、『Impressions』と『Visions』も、〈BMG〉のディレクターがサントラ~ラウンジ系のレコードの再発企画を持ちかけてきたのに対して、こちらから「次はソウルで行きませんか?」と逆提案したものなんです。

周囲からの反応はどんなものでしたか?

橋本:最初の頃は「え? ソウル?」みたいな反応がかなりありましたね。けれど、NANAの小野英作くんがデザインしてくれたロゴやアートワークの魅力も大きかったと思うんですが、若い女性含めて、それまでソウル・ミュージックに馴染みのなかったリスナーがこぞって手に取ってくれたんです。

まさに、「切り口」の勝利。

橋本:そういう意味では、僕が1992年に初めて手掛けたコンピレーション『'Tis Blue Drops; A Sense Of Suburbia Sweet』が好評だったというのも、前夜的な流れとしてとても重要でした。ウィリアム・デヴォーンとかカーティス・メイフィールドのメロウ&グルーヴィーな曲が入っているんですが、いかにもソウルっぽいヴィジュアルは避けて、スタイリッシュで洒落たジャケットにしたんです。

それまで、ソウルやブラック・ミュージックのファンといえば、一方ではマニアックなおじさんたちが蠢いていて、片や六本木あたりのディスコでちょっとやんちゃな人たちが楽しんでいて……というイメージだったわけですよね。

橋本:そうそう。頑固なコレクター的な世界と、「ボビ男」くん的な世界がほとんど(笑)。そういうイメージが強固にあったからこそ、いわゆる渋谷系的なセンスと重なり合うヴィジュアル面での工夫がとても重要だったんです。

その辺り、Suburbiaの活動と並行して出版社に勤めていた橋本さんならではのエディトリアルなセンスを感じます。

橋本:そういう感覚はフリーペーパーの時代から特に意識せずとも自然と大切にしていましたね。マニアの狭いコミュニティの中での評価とかレア度とかで何を載せるのかを決めるんじゃなくて、どういうふうに紹介するか、もっといえばどういうふうに「見せる」かということをすごく意識していました。だからこそ、当時ブラック・ミュージックの大御所の評論家の方から「まったく、重箱の隅をつついて……」みたいな小言も言われましたけどね(笑)。

日常の全てが幸せなわけではないけど、前向きなマインドになれたり、輝く瞬間があって。そういうありふれた日常を励ましてくれるのがFree Soulであり、『LIFE』だったんじゃないでしょうか。

ご自身のソウル原体験はどんな感じだったんですか?

橋本:80年代前半にイギリスのインディ・シーンから出てきたアーティスト、例えばアズテック・カメラやペイル・ファウンテンズ、エヴリシング・バット・ザ・ガールなどの影響元を探っていくうちにっていう流れですね。いちばん大きかったのはスタイル・カウンシル。ポール・ウェラーはソウルからの影響を特に頻繁に公言していたし、実際にカーティス(・メイフィールド)をカヴァーしているので、高校生くらいから自然と興味を持つようになったんです。オレンジ・ジュースもアル・グリーンのカヴァーをやっていたりとか。そこからまずはマーヴィン・ゲイ、ダニー・ハサウェイ、スティーヴィー・ワンダー、ビル・ウィザース、スライ(&ザ・ファミリー・ストーン)あたりを好きになって。

日本で言うところの「ニューソウル」系ですね。

橋本:はい。一応は当時出ていたブラック・ミュージック評論家の方たちの本も買って読んだりはしていたんですけど、激賞されているものがあまり刺さらなかったり、反対に、自分が素晴らしいと感じたものが軽視されたり無視されていたりして(笑)。やっぱり、物差しというか価値観が違うんだなとその時点から思っていました。

レアグルーヴとの出会いはいつ頃ですか?

橋本:80年代後半、大学生の頃でした。ダンス・ジャズやアシッド・ジャズのムーヴメントもあまり時差なく日本に伝わってきて、自分と近い感覚だなと感じていましたし、フィロソフィー的にもシンパシーを抱くようになっていきました。

DJという存在を意識するようになったのは?

橋本:少し後、1990年前後だと思います。大学3、4年くらいから渋谷や青山、西麻布あたりの小箱に遊びに行くようになって、徐々に意識するようになりました。けど、その頃は後に自分でもDJをするようになるとは思っていなかったですね。むしろ、〈アーバン〉とか〈チャーリー〉とか、UKのいろんなレーベルから出ているレアグルーヴ系のコンピレーションを通じて、コンパイラーという存在に先に興味を持っていました。もともとプライベートな選曲テープを作るのが好きだったので、それと同じ感覚で楽しんでいましたね。「これはバズ・フェ・ジャズっていう人が選曲していて、こっちはジャイルス・ピーターソンがやっているんだな」っていうふうに。

ある種の統一的なセンスを元に、一見無関係そうな曲を並べるっていうコンピレーションのあり方自体が新鮮だったということですよね。

橋本:そうです。当時は、単純にビッグヒットを並べただけとか、単体アーティストのベスト盤にしても、律儀に年代順に並べたものばかりだったので。いちばんわかりやすいのがジェイムス・ブラウンのベスト盤ですね。既存のものは、ほとんどが「プリーズ、プリーズ、プリーズ」はじまりなわけですよ。こっちはもっとファンキーなものを聴きたいのに(笑)。だからこそ、クリフ・ホワイトがレアグルーヴ~ヒップホップ世代に受けそうな曲を中心に選んだコンピ『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』(1986年)が新鮮だったんです。後にFree Soulでアーティスト単体のコンピを出すにあたっても、そういった発想にはかなり影響を受けていると思います。

音楽ファンの全員がそのアーティストのことをクロノジカルに研究したいと思っているわけじゃないですもんね。

橋本:まさにそうですよね。

ロックを中心とした旧来の音楽ジャーナリズムやエリート主義的な音楽リスナーのコミュニティでは、それって「不都合な真実」でもあったわけですよね。それを、レコード好きの視点から鮮やかに提示してみせちゃったというのは、ある意味でパラダイム転換だったと思うんですよ。

橋本:評論的な観点から音楽を聴く人なんて、音楽好きの中でもごく一部だけでしょう。大勢の人はあくまで感覚先行で聴いているんですよね。Free Soulが大事にしてきたのも、まさにそういうリスニングのあり方なんです。

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やっぱりFree Soulの全盛期である90年代半ばの熱気や輝きがダイレクトに感じられるようなものにしましょうという話になって。

今回の30周年コンピレーションを聴いても、改めてFree Soul的な感覚の核には、オーガニックなサウンドというか、反デジタル的なカラーがあるなと感じたんですが、そういう志向には、1990年代当時の主流シーンへのアンチテーゼも込められていたんでしょうか?

橋本:じつはそこはあまり意識していなかったんです。単純に、僕の好みがそういう生っぽいサウンドだったということですね。いわゆるネオ・アコースティック系のサウンドが原体験にあるので、どうしても生楽器の質感への愛着が選曲に反映されがちなんじゃないかと思います。だから、一口に70 年代ソウルといっても、同時期のシンガーソングライターものとの接点にあるような音楽が特に好きなんですよね。象徴的な例を挙げるとしたら、アイズレー・ブラザーズ。彼らの例えば、キャロル・キングやジェイムス・テイラー、スティーヴン・スティルスやトッド・ラングレンのカヴァーをやったりしている時期が好みなんですよ。

ちなみに、その辺りの作品も旧来のディスクガイドの評価だと……。

橋本:ほとんど相手にされていないどころか、綺麗にスルーされていたり(笑)。でも、自分にとっては本当に大切な曲たち。ラティモアのアル・クーパー “ジョリー” のカヴァーも昔は完全に敵視されていたし、リロイ・ハトソンやダニー・ハサウェイみたいに大好きな声の持ち主が、「歌が弱い」って切られていたり。テリー・キャリアーにしても全く無視されていたり、といった感じだったんですけど、自分は死ぬほど好きで。だから、その人が感覚的に好きであれば、なんでもFree Soulと言えちゃうんですよね。でもその一方で、アコースティック・ギターのカッティングとか、心地よい16ビートのグルーヴとか、ある種のスタイルを指す言葉として広まっていったのも確かですね。

“ジョリー” のオリジネーターであるアル・クーパーとか、他にもトッド・ラングレンとか、エレン・マキルウェインとか、メリサ・マンチェスターとか、ロック~フォーク~ポップス系、あるいはコーク・エスコヴェードのようなラテン系のアーティストの曲に、ソウルの視点から光を当ててみせたというのも、とても大きな意義があったと思います。

橋本:ブルー・アイド・ソウルって言葉が好きだったんですよね。でも基本的に、旧来のロック批評というのは、特定のアーティストをカリスマ的な存在として絶対視するようなものが多かったですからね。だから、当時はベテランのロック・ファンからもいろいろと言われたりしました(笑)。

先ほども渋谷系の話が少し出ましたけど、リアルタイムの音楽シーンとの連動感もとても印象に残っています。小沢健二さんの『LIFE』(1994年)なんて、モロにFree Soul的なサウンドですよね。

橋本:当時からそれはよく指摘されましたね。「何々の曲が引用されている」ということ以上に、あのアルバムで表現されていた街の空気感だったり、当時の20代の若者たちが感じていた気持ちっていう面で、すごく共鳴するところがあったんだと思います。もちろん、日常の全てが幸せなわけではないけど、前向きなマインドになれたり、輝く瞬間があって。そういうありふれた日常を励ましてくれるのがFree Soulであり、『LIFE』だったんじゃないでしょうか。

いきなり生々しい質問になっちゃいますが、第一弾リリースの『Impressions』と『Visions』ってどれくらい売れたんですか?

橋本:『Visions』は把握していないんですけど、『Impressions』はイニシャルは2,000枚弱だったんですが、1990年代の後半の時点で3万枚を超えたと聞きました。

CD売上の全盛期とはいえ、旧曲を集めたコンピでそれは相当すごい数字ですよね。

橋本:この間、稲垣吾郎さんがパーソナリティをやっているTOKYO FMの『THE TRAD』っていう番組のFree Soul特集にゲストに呼ばれて出演したんですが、彼も当時『Impressions』を買ったって言っていました。その後も、渋谷のタワーレコードでFree Soulのジャケットがずらっと並んでいるのを仲間と手分けして集めていたらしくて。

へえ! 当時のSMAPのあのサウンドはプロダクション・チームに限らずちゃんと一部メンバーの志向と合致していたってことなんですかね。それこそ時代に共有された空気の濃さを感じさせる話ですね。

橋本:ちなみに、売上数で言うと、共にHMV渋谷の邦楽売り場でも売上チャート1位になった、〈ポリドール〉の『Parade』(1995年)と『Lights』(1996年)の方がもっと売れているんですよ。特に『Lights』はジャクソン・シスターズが入っている効果もあってか、2000年代初頭の時点で5万枚以上売れていると聞きました。アーティスト単体ものだと、アイズレー・ブラザーズのコンピ二枚(1995年)、『メロウ・アイズレーズ』と『グルーヴィー・アイズレーズ』はかなり売れましたね。それ以上に爆発的に売れたのが、1999年にFree Soulベストを編んだジャクソン・ファイヴでしたけど。

いやはやすごいなあ。

橋本:さっきの『LIFE』の話しかり、Free Soul的なサウンドとか価値観っていうのは、1990年代の時代的なムードと深いところで響き合っていたんだと思うんです。バンド・ブームやユーロビートが収束したあと、渋谷系に限らず、同時代の邦楽アーティストの曲に横揺れのグルーヴが浸透して行きましたよね。もちろんそこには、ニュー・クラシック・ソウルの流行とか、他にも要因があったと思いますけど。

そういう意味では、1995年という早い段階から『Free Soul '90s』というシリーズを立ち上げて、同時代の曲をコンパイルしていったというのも、とても重要な動きだったと思います。

橋本:同時代のシーンとの連動という意味でもプラスでしたし、旧曲のコンピであるそれまでのFree Soulのシリーズとも良い補完関係を築けましたね。「古いものの掘り起こし」である以上に、あくまで「90年代の感覚から楽しむ」という、現在から過去を見渡したときに輝いているものに光を当てるというパースペクティヴがベースにあることを、カヴァーやサンプリングを通してわかりやすく提示できましたので。

橋本さんはその後、「Cafe Apres-midi」や「Mellow Beats」、「Jazz Supreme」や「Good Mellows」など、Free Soul以外にもたくさんのシリーズを手掛けられていくわけですが、それぞれのシリーズをどう差異化していったんでしょうか?

橋本:自分の中で明確な線引きがあるわけじゃないんですよね。もちろん、カフェで聴いて心地よい音楽というコンセプトや、ジャズとヒップホップの蜜月をテーマにしたりとか、大きなくくりはありますけど、あくまでその時代々々の感覚で選曲していくイメージで。あえて各シリーズの境目をグラデーション状にして互いにイメージが広がっていくようにしたり、リスナーが親和性を感じられるようにしたりすることもありましたし。贅沢を承知で言わせてもらうと、僕の手掛けてきたコンピレーション全てを連続した物語として捉えてくれたらすごく嬉しいという気持ちがあって。

1990年代当時に、学生の頃からイギリスの音楽に親しんできた東京の普通の若者が過去の音楽をこうやって再解釈して提示したっていうこと自体がいまやひとつの歴史だと思うし、そこで提示されたパースペクティヴがいかにフレッシュだったのかというのを伝えられればと思っていて。

今回のFree Soul 30周年コンピ盤はどういうコンセプトで選曲されたんですか?

橋本:まず、〈Pヴァイン〉の山崎真央さんから「30周年で何かやりましょう」と声をかけてもらって、アイデア出しをしたんです。そのときはもっと現代寄りのコンセプトを提案したんですが、話し合っているうちに、やっぱりFree Soulの全盛期である90年代半ばの熱気や輝きがダイレクトに感じられるようなものにしましょうという話になって、2作品合計4枚にわたって人気曲やキラーチューンを惜しげもなく入れる方向に転換していきました。結果的に、Free Soulのまさに「ベスト・オブ・ベスト」的な選曲になりましたね。

Free Soulシリーズを初めて知るリスナーにもビシバシ響きそうな選曲だと思いました。

橋本:そう、セレクションを見れば自明なように、今回いちばん大事にしているのは、「次世代につなぐ」という意識なんです。昔からのFree Soulファンにニュー・ディスカヴァリーを提示するというよりは、このアニヴァーサリーのタイミングで、若い世代にFree Soulは魅力的だと思ってもらえるようなものを形として残しておきたいという気持ちになれたというか。音楽好きの若い人たちはすごく多いし、好奇心や興味もたくさん持っていると思うんですが、ただ点と点があるだけじゃ伝わりづらいので、それを繋いで線にしてみせたり、星座を描いてみせたり、あるカラーを提示するっていうことができればいいなと思っていて。

「なんでもあり」的に断片化した今のメディア環境や情報流通の速度からしても、そういう行為の重要性はかえって大きくなっている気がします。

橋本:そうなんですよね。正直、僕らの世代からしたら「まだこの曲をプッシュするのか」って思ってしまいがちだし、自分の最新の関心に基づいてプレゼンテーションしたくなるところなんだけど、もっと俯瞰して次へ繋ぐっていうことを大切に考えると、「確かにド直球もありなのかな」と思えるようになってきたんです。1990年代当時に、学生の頃からイギリスの音楽に親しんできた東京の普通の若者が過去の音楽をこうやって再解釈して提示したっていうこと自体がいまやひとつの歴史だと思うし、そこで提示されたパースペクティヴがいかにフレッシュだったのかというのを伝えられればと思っていて。これまでFree Soulという看板を背負っていろんな経験をさせてもらった身としても、これはやり続ける価値のあることだよなっていう気持ちがありますね。

ある種の責任感のような?

橋本:そうかもしれませんね。あの当時、「フリー・ソウル・ルサンチマン」って言葉がよく使われたくらいで(笑)、他のDJやコレクターやマニアの人たちからしてみれば、ひがみややっかみも含め「なにがFree Soulだよ、やりたいことやって」っていう気持ちもあったと思うんです。もともと好きだったものが、突然出てきたFree Soulっていう言葉のせいで他人のもの、一般的なものになってしまったような気持ちを抱いた人もいるだろうし、実際、労力とお金をかけて同じような領域を僕以上に深く掘っている人だっていたはずなんですよね。そういう中で自分はたまたま、やりたいことをやらせてもらえる恵まれた立場だったので、ちょっとでも注目されなくなったらすぐにやめちゃうんじゃなくて、そういう人たちに対しての責任も果たしたいなという気持ちもありますね。

手掛けられた仕事の数々に触れていても、なおかつこうしてお話を伺っていても、橋本さんの30年余りの仕事って、聴く人の時間の積み重ねやライフステージの変化に並走してくれている感じがするんですよね。クラブ・カルチャーに限らず、ライフステージの変化によって音楽とかカルチャーから離れちゃう例って、本当にたくさんあるじゃないですか。でも、Free SoulやCafe Apres-midiは、移り変わりや変化の中でも、気づけばそこにある感じがして。

橋本:それは自分でも意識している部分ですね。僕は歌も歌えないし楽器も弾けないし、ただレコードが好きなだけでいろんな提案をしてきたわけですけど、音楽ファンとして時々の生活のシチュエーションやシーンと結びつけて提案するというスタイルこそが自分の立ち位置だと思ってやってきたんです。僕が選んだ音楽を聴いてもらうことによって、日々の暮らしの中である情景とかシチュエーションが素敵なものになったり、大切な瞬間が再生されるようになったら、すごく嬉しいですね。

音楽を愛し続けるのも、案外エネルギーがいることですよね。若い頃に熱烈な体験をしていたりすると、加齢とともに余計にそう思ってしまう気もします。

橋本:周りからも、レコード買うのをやめてしまったっていう声が聴こえてきたりするんですけど、そういう話を聞くと、前までは「え~」って思っていたけど、僕も50代になって結婚をして初めてその気持ちが理解できました(笑)。けど、せっかく大好きだった音楽から離れちゃうのはやっぱり残念じゃないですか。一回やめてしまった習慣をまたはじめるのは本当にエネルギーがいりますけど、だからこそ、サブスクでもコンピでもいいから、もっとみんな毎日のシチュエーションの中で気軽に音楽に触れて欲しいなと思いますね。

単純に心がウキウキしたり、リラックスしたり……って、あまりにも当たり前のことかもしれないですが、よくよく考えればめちゃくちゃスゴいことですよね。育児しながらBGMとして聴いてもいいし、家事や通勤の最中に聴いてもいいし。

橋本:そうそう。まさにFree Soulなんて、そういうときに輝いて聴こえたり、胸に沁みたりするエヴァーグリーンな音楽だと思いますしね。僕自身、あくまでカジュアルに手にとってもらいたいなと思ってやってきましたし、つねにイージーリスナーズに優しいっていう意識を大切に、クリエイティヴと向き合ってきましたから。Suburbiaの最初のフリーペーパーのサブキャッチからして、トット・テイラー主宰の〈コンパクト・オーガニゼーション〉に倣って、“Earbenders for Easy Listeners”だったくらいですし。

そして、あくまでパッケージで出すというのも改めて意義深いと思います。ストリーミングは間違いなく便利だしイージーリスナーズに優しいけれど、音楽という文化によりコミットしているという実感を促す装置という視点でいっても、なんだかんだ「物体を所有すること」の価値は減じてないと思うんです。

橋本:もしかすると、ライトなリスナーの方ほど、「モノ」に敏感かもしれないなと最近思うことがありますね。「なんかカッコいい」とか「お洒落だな」で全然いいと思うし、雰囲気で聴いていいと思うし、レコード会社もあきらめずに、そういう人たちへぜひ音楽を届けるべきですよね。

橋本徹(SUBURBIA)
編集者/選曲家/DJ/プロデューサー。サバービア・ファクトリー主宰。渋谷の「カフェ・アプレミディ」「アプレミディ・セレソン」店主。『Free Soul』『Mellow Beats』『Cafe Apres-midi』『Jazz Supreme』『音楽のある風景』シリーズなど、選曲を手がけたコンピCDは350枚を越え世界一。USENでは音楽放送チャンネル「usen for Cafe Apres-midi」「usen for Free Soul」を監修・制作、1990年代から日本の都市型音楽シーンに多大なる影響力を持つ。最近はメロウ・チルアウトをテーマにした『Good Mellows』シリーズや、香りと音楽のマリアージュをテーマにした『Incense Music』シリーズが国内・海外で大好評を博している。

COMPUMA - ele-king

 アンビエント、ダブ、エレクトロニカ、ダウンテンポ、それらが混じり合いながらゆっくりと景色が立ち上がっていく。コンピューマ、2022年の『A View』以来のアルバム、『horizons』を9月20日にリリースする。ヴォコーダー使いの歌もあり、心地よいリズミックなトラックもあり、何気に新境地です。ぜひチェックしてみてください。

COMPUMA
horizons

SOMETHING ABOUT
発売日:9月20日(金)

【COMPUMA】
DJ / 選曲 / レコードバイヤーとして、さらにはスマーフ男組、その前身となったAsteroid Desert Songs、竹久圏(KIRIHITO)とのデュオ作品、DJポッセ、悪魔の沼など、さまざまな活動を続けるCOMPUMAによる、2022年リリースのソロ名義アルバム『A View』以来2年ぶりとなるニュー・アルバム『horizons』。自身のルーツとなる、熊本・江津湖のほとりや、各地の様々な場所を散策時に、その景色や環境にインスピレーションを得て制作されたもので、共同制作者のhacchi(Urban Volcano Sounds/David Soul)と共に作り上げた7曲を収録。マスタリングには中村宗一郎、COMPUMA作品のアートワークでおなじみデザイナー鈴木聖によるジャケットCD(デジパック+4Pブックレット)として自身のレーベル〈Something About〉よりリリースされる。

interview with Fontaines D.C. (Conor Deegan III) - ele-king

 2019年の『DOGREL』の衝撃から5年、4枚目のアルバム『Romance』へと至る道、フォンテインズD.C.はもはや単純にポスト・パンクという言葉でくくれるようなバンドではない。レーベルが変わり、バンドの立つステージは大きくなり、周囲の環境も変わった。アイルランドを離れてのツアー生活、3枚のアルバムのプロテュースを務めたダン・キャリーのレコーディングから、アークティック・モンキーズやゴリラズを手がけるジェイムズ・フォードとともにフランスの大きく古いスタジオで収録した4thアルバム。作曲方法も変わり、年齢を重ねた感性も変化しバンドはまた違うものになっていく。変わらないのは暗さを抱えた憧れるようなフォンテインズのロマンだけだ。00年代後半のニュー・メタルのサウンドを解釈した “Starburster” の衝動に、80年代のギター・ポップ・バンドのようなきらめきを持った “Favourite”。それらは心を躍らせ、そうして自問自答を繰り返すフォンテインズの渦の中に返っていく。アルバムのなかで繰り広げられる探求、「ロマンスとは場所なのかもしれない」。最初に配置されたタイトル・トラックのなかで響くグリアンのその声がアルバム全体を通してずっと頭に残り続ける。場所と記憶と概念、そして感情、それらが交じり合うポイントにこそロマンスはあるのかもしれない。それは決して甘いだけのものではなく闇を感じさせもするもので……。

 23年2月の単独公演以来、フジロックのために来日したフォンテインズ。だが取材を予定していたカルロス・オコンネルは現れず、取材時刻から少し遅れてギターのコナー・カーリー、 ベースのコナー・ディーガン、 そしてドラムのトム・コールの3人が到着。カルロスが時間内に来ることは難しいという状況のなかで、カルロスに代わり急遽ベーシストのコナー・ディーガンがこのインタヴューに答えてくれた。彼は終始ご機嫌で、撮影の待ち時間に「パーパパッパパッパパー、パパパッパー」とフィッシュマンズの “LONG SEASON” を口ずさみながら歩き回っていた(取材後1時間ほどしてカルロスとグリアン・チャッテンが姿を見せ、撮影はメンバー全員でおこなわれた)。ディーガンが口ずさむ唄のように季節は変わり、ダブリンのこのバンドは新たな段階に入っていく。来夏の4万人規模の公演も決まり、大きくなっていくフォンテインズに4thアルバム『Romance』のその探求について話を聞いた。

過去のいろんな時代から見た未来というか、過去の時代に想像していたような未来の姿を表現したかった。残念だけどいまの時代に未来を想像しても、いい感じの未来が見えて来そうにないからさ。でも過去のある地点、たとえば90年代に思い描かれていた未来っていうのはもっと面白く、もっといいものだったような気がするんだよ。

今日はよろしくお願いします。フォンテインズとしては去年2月の単独公演以来の来日で。そのときとは季節も変わってまた違うかと思いますが、日本の夏の印象はどうですか?

コナー・ディーガン(Conor Deegan、以下CD):そうだね冬に来たときとは全然違う体験をさせてもらっているよ。なんていうかな前に来たときはもうちょっと穏やかな感じだったから。いまはまぁちょっと暑いよね。暑すぎ。

来てからどこかに行ったりしましたか?

CD:まだどこにも行ってないんだ。なにしろ着いてからまだ13時間くらいだから。

変化といえばバンドとしてもレーベルが〈XL Recording〉に変わりましたよね。音楽的に、あるいはその他の面でも違いを感じるところはありますか?

CD:うん、変化はいろんな面で感じているよ。仕切り直しっていうか新たなスタートを切りたいって考えていたから。音楽自体もそうだけど、それ以前に創作に対する空気が変わったって感じかな。〈XL〉は伝統あるレーベルで、いろんなバンドと契約してきた歴史があるから独特な空気があると思う。その一部になれたっていうのは光栄だし、うまくいっているんじゃないかって感じてる。もちろん前のレーベルもよかったんだけどね。

XLに所属しているアーティストで影響を受けた人はいますか?

CD:最初に名前を挙げるとしたら当然、キング・クルールかな。あと、影響を受けたっていうんならプロディジーも。

XL以外の人だと、最近はどんな音楽を聴いているんですか?

CD:ちょっと待って見てみるから(スマホを取り出してSpotifyの画面を見せる)。うん、いまはこんな感じかな。J・ディラ、チャーリー・XCX。あとはジェシカ・プラットの新しいアルバム『Here in the Pitch』、これはめちゃくちゃよかったよね。それにテス・パークス。

当時、ビートルズがメロトロンを使って表現しようとしたのは未来の音だったはずなのに、いまそれを聴いて僕らが感じるのが懐かしさなんだって思うとなんだか変な感じだけど。

今回からプレスショットの感じも変わりましたよね? いままでの落ち着いたものから一気にポップになったような感じで。あなたとグリアンがプレゼンのパワポの資料にスパイス・ガールズの写真が並んでいて~みたいなことを言っていたインタヴューの動画を見て……

CD:(笑)違う、違う。あれは冗談だよ、冗談。マジじゃないから。

あっそうだったんですね(笑)。実際はどんな感じだったんですか? かなりモードを切り替えたみたいな印象がありますけど、どのような意図であのプレスショットを撮ったんですか?

CD:僕たちが考えたことというか話し合ったことは「違った未来についての視点」を表現したいってことだったんだ。過去のいろんな時代から見た未来というか、過去の時代に想像していたような未来の姿を表現したかった。残念だけどいまの時代に未来を想像しても、いい感じの未来が見えて来そうにないからさ。でも過去のある地点、たとえば90年代に思い描かれていた未来っていうのはもっと面白く、もっといいものだったような気がするんだよ。映画の『12モンキーズ』(1996年/テリー・ギリアム監督)でも素晴らしい想像力で未来を描いていたし、1920年代の『メトロポリス』(1927年/フリッツ・ラング監督)も凄かった。そういう20世紀の映画のなかで描かれたような未来っていうのが大きなインスピレーションのもとになっている。グリアンのクリップで止めた髪っていうのはまさに1920年代の映画を参考にしているし、僕のとかカルロスの髪形はそれよりも先の時代、90年代に考えられていた未来の姿になっていると思うんだ。

過去から見た未来の表現っていうのは凄く面白いですね。未来のことでありながら同時にノスタルジックな感覚もあるという。話を聞いていて、アルバムに収録されている “Starburster” についてカルロスが「14歳のときに大好きでその後聴かなくなった曲をいま、再び愛するみたいなもの」と言っていたのにも近いものがあるのかなと思ったのですが、この過去と未来が交わるような感覚というのは曲を作る上でもありましたか?

CD:ノスタルジックっていうのはそうだね。“Starburster” にはそのアティチュードがあると思う。でもノスタルジックってだけじゃなくサウンド的にはもっと暗くて悲観的な部分もあってそれが混ざったような感じなんだけど。たとえば曲の真ん中くらいの部分にメロトロンを使ったところがあるんだけど、僕らにとってメロトロンの音は凄く懐かしさを感じさせる音なんだ。60年代のビートルズ気分になるみたいな。でもそれをもう少し、溶けたような感じにいじっていくと、喪失感のある、何かを失ったような感じにもなって……ダーク・ヴァージョンのノスタルジアって感じかな。当時、ビートルズがメロトロンを使って表現しようとしたのは未来の音だったはずなのに、いまそれを聴いて僕らが感じるのが懐かしさなんだって思うとなんだか変な感じだけど。
あとは90年代後半から00年代前半にかけてのニュー・メタル、たとえばコーンとかトゥールみたいな音楽の影響もある。そういう音楽を聴いていたときは子どもだったからその曲の持つテーマとかムーヴメントとかをよくわかっていなかったんだけど、いま聴くとミソジニーだって思えるところもあって。そういうよくない部分を取り除いてサウンドのクールなアイデアをいまの時代に合わせて再構築したって感じかな。

この言葉にはいろんな側面があって単にロマティックなものだけじゃないと思うから。毎日の生活のなかでロマンを感じるものだったり、人生における大切なものだと感じるようなものでもある。「ロマンス」には言葉にできない、きちんととらえられないような感情があって、痛みや悲劇的な側面だってあるんだ。

先行シングルとして発表された “Favourite” はこれまでのフォンテインズの曲とは印象が全然違って、80年代のギター・バンドみたいな疾走感や青春感がある曲でした。最初に聴いたときにこの曲からアルバムがはじまるのかなと思っていたのですが、実際には最後の曲で。アルバムはダークな “Romance” からはじまりますが、この曲順にはどんな意図があるのですか?

CD:アルバム全体のテーマとして「ロマンス」を探求するっていうのがあったんだ。ロマンスという概念はなんなんだってアルバムのなかでもう一回考えているみたいな。この言葉にはいろんな側面があって単にロマティックなものだけじゃないと思うから。毎日の生活のなかでロマンを感じるものだったり、人生における大切なものだと感じるようなものでもある。「ロマンス」には言葉にできない、きちんととらえられないような感情があって、痛みや悲劇的な側面だってあるんだ。だから “Romance” という曲からアルバムをはじめることで全体を通してそうした感情を探し、理解していく形にしたいって思いがあった。 ロマンスのポジティヴな面とネガティヴな面、両方に触れたアルバムになるように。
“Favourite” が最後なのは「ロマンス」という言葉の持つポジティヴな感情をアルバムの終わりで提示したかったからなんだ。「ロマンス」というものを探求した上で、僕たちにはそれができるんだってメッセージを最後に伝えたいって思いがあった。


photographer: YUKI KAWASHIMA collage: Ria Arai

レコーディングはどんな感じだったのでしょうか? 今回はジェイムズ・フォードとのフランスでのレコーディングだったということですが。

CD:うん。僕らにとってこれが初めてのイングランド外でのレコーディングだったんだ。大きな古いフレンチ・ハウスで、まぁ言ってしまうと幽霊が出そうな感じの場所だったんだけど。70年代の素晴らしい機材がいっぱいある大きな部屋で、音楽にインパクトを残せるようなスペースがたくさんあった。いままで僕らは小さな部屋の限られた空間のなか、ライヴ・セッティングで生々しさを閉じこめたみたいなレコーディングをしていたんだけど、今回は部屋の大きさに引っ張られてサウンドの大きさも変わっていったんだ。たとえばU2みたいにアリーナやスタジアムに響かせるような曲を録るにはレコーディングのやり方を変えなくちゃいけないよね。そんなふうに引っ張られていった結果としてアルバムの音も大きなサウンドになったと思う。

最近出演したフェスの映像などを見てもバンドとしてどんどん大きくなっているように感じていますが、曲作りにおいて1stアルバムを発表した当時と変化したような部分はありますか?

CD:曲作りに関して言うと、最初の頃はひとつの部屋に集まって演奏しながらみんなで作っていくってスタイルだった。ラップトップで誰かがデモを作ったのを持ち込んでみたいなことはやってなかったから。ライヴのための曲作りで、誰かの演奏がインスピレーションになってそこから曲が生まれたりもした。でも活動を続けていく内にツアーに出ることも増えて、みんなで一緒に集まって曲を作るってことが難しくなっていったんだ。だからここ数年はホテルの部屋でひとりで曲を作ることがほとんどになった。ラップトップで音楽を作るといろんな楽器を使うことができるよね? 実際には演奏できなくてもシンセとかストリングスとかトランペットとかを簡単に追加できる。昔は自分たちで演奏できないものは作れなかったけどいまは違って、選択肢がかなり広がった。そこから今度はライヴで実際に演奏するために調整するって過程が入ったりするわけだけど。とにかく、昔と違った形で曲を作っているっていうのは確かだね。このアルバムの曲は特にそうで、大胆なサウンドがたくさん入っている。そういう仕上がりになっていると思うよ。

今回のアルバムの曲で、ライヴで演奏するときに印象が異なったような曲はありましたか?

CD:うーん、今回のアルバムの曲はまだそこまでライヴでやっているわけじゃないからいまのところはなんとも言えない。ただやっぱり観客の反応が入ると印象が変わるよね。過去の曲で言えば2ndアルバムの “Lucid Dream” なんかはまさにそうで、作ったときにはこんなふうにライヴで大きく盛り上がる曲になるだなんて思わなかった。だから今度のアルバムの曲もそんなふうに変化していくと思うよ。“Starburster” はもう何度かライヴで演っているけど1stアルバムとか昔のアルバムの曲とは全然違う盛り上がり方をしていて。モッシュが起こるんじゃなくて合唱が発生するみたいな、そういう変化が起こっているかもしれない。

最後にアルバムのジャケットの話を聞きたいです。アートワークもいままでのものとガラッと雰囲気が変わりましたよね? ハートマークに涙を流した人の顔が写った、ある種異様とも思えるようなアートワークで。これはどういうものなんですか?

CD:このデザインはルー・リンって人が手がけたものなんだけど、僕も最初に見たときはほんとストレンジだなって思った。それこそ従来のものとは全然違う感じのものだったし。でも僕たちがやりたかった音楽、今回のアルバムのテーマを表すものとして考えると、このアートワークは凄くフィットしているって思うんだ。「ロマンスの形っていうのはこういうものなのか?」「本当にこれで合っているのか?」と問いを投げ掛けるようなものになっていて。それってまさに僕たちがこのアルバムでやろうとしていたことだから。ロマンスというものについて問いかけてくる、凄く良いアートワークだと思うよ。

Andrés - ele-king

 Andrés(アンドレス)、久しぶりの来日です。Moodymannのレーベル〈KDJ〉や〈Mahogani Music〉を中心にリリースを重ね、2023年には5作目のアルバム『Andrés V』をリリース。DJ Dez名義では、デトロイトのヒップホップ・シーンで活躍、Slum VillageのプロダクションやツアーDJとしても参加している。ハウス、ソウルやファンク、ジャズ、そしてキューバをルーツに持つ彼はサルサにも深い知識を持っている。この機会に、彼の深みのあるブラック/ラテンの世界を堪能しよう。

Andrés Japan Tour 2024

9.14(Sat))福島 @NEO Fukushima
K.I.S.S.#84 - 15th Anniversary Party -


Special Guest
Andrés aka DJ Dez

DJ
STILLMOMENT
MONKEY Sequence.19

Dance Session
Outside Elements

FOOD
バン才 - BANZAI -

Open 22:00
ADV 4,500yen with 1Drink
Door 4,500yen
U-23 3,500yen with 1Drink

Info: Club NEO www.neojpn.com
福島市本町5-1 パートナーズビルBF1 TEL 024-522-3125


9.15(Sun))東京 @DJ BAR Bridge Shibuya

DJ: Andrés aka DJ Dez, Kza, DJ MAS aka SENJU-FRESH!

Open 20:00
Door 2,000yen

Info: DJ BAR Bridge Shibuya https://djbar-bridge.com/shibuya/
東京都渋谷区渋谷1丁目25−6 渋谷パークサイド共同ビル10F Tel 03-6427-6568


9.20(Fri))大阪 @Club Joule

< 2F >
Andrés aka DJ Dez
HOOFIT (QUESTA, MASH, DY, KAZIKIYO)
STEW (TUFF DISCO)

VFX: catchpulse
Sound: Kabamix

< 4F >
IKEDA-IKERU
SHUNPURI
ORGTKD
NEGAN
PISAPPLE

THAT'S PIZZA
たこやきしんちゃん
Edenico

Open 22:00
ADV 3,000yen (e+ / Clubberia)
W/F 3,500yen
Door 4,000yen

Info: Club Joule www.club-joule.com
大阪市中央区西心斎橋2-11-7 南炭屋町ビル2F Tel 06-6214-1223


9.21(Sat)名古屋 @Club Mago

DJ: Andrés aka DJ Dez, Sonic Weapon

Open/Start 23:00
ADV 3,500yen
Door 4,500yen

Info: Club Mago http://club-mago.co.jp
名古屋市中区新栄2-1-9 雲竜フレックスビル西館B2F Tel 052-243-1818


最新アルバム『Andrés V』リンク
https://andres.bandcamp.com/album/andr-s-v


Andrés (aka DJ Dez / Mahogani Music, LA VIDA)from Detroit

 Andrés (アンドレス)はMoodymann主宰のレーベルKDJ Recordsから1997年デビュー。DJ Dezというアーティスト名でも活動し、デトロイトのHip HopチームSlum Villageのアルバム『Trinity』、『Dirty District』ではスクラッチを担当し、Slum VillageのツアーDJとしても活動歴あり。Underground Resistance傘下のレーベルHipnotechからも作品を発表しており、その才能は今だ未知数である。
 2012年、主宰レーベルLA VIDAを始動し、第1弾リリース『New For U』はResident Advisor Top 50 tracks of 2012の第1位に選ばれた。
2014年、DJ ButterとのアルバムDJ Dez & DJ Butter‎『A Piece Of The Action』をリリース。
 ラテンジャズパーカッショニストである父、Humberto ”Nengue” Hernandezからアフロ・キューバンリズムを継承し、アンドレス本人もパーカッショニストとしてAmp FiddlerやMoodymannのライヴや、Erykah Badu “Didn’t Cha Know” (produced by Jay Dee)の録音に参加している。地元デトロイトではミュージシャンを交えたジャムセッション・パーティーをSpot Lite Detroitで定期的に開催している。
 2023年、Andrésとして通算5枚目となるアルバム『Andrés V』をMahogani Musicよりリリースする。

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interview with Shun Ishiwaka & Chihei Hatakeyama - ele-king

 10年代後半、いろんなところで彼の名前を見かけるようになった。若くして才を発揮したジャズ・ドラマーの石若駿は今年で活動20周年を迎える。といってもぼくが最初に彼の存在を意識したのはちょっと遅くて、小川充によるローニン・アーケストラ(2019)やAnswer To Remember(2020)のレヴューがきっかけだった。とくに後者のフュージョン・サウンドにおける多彩なアプローチとその技巧派ぶりには大いに驚かされた覚えがある。
 ほかにもCRCK/LCKSやSongbook Trioといったプロジェクトを抱える石若は共演数・参加作品数も尋常ではなく、日野皓正を皮切りにテイラー・マクファーリンカート・ローゼンウィンケルに……いや、ここまではわかるのだけれど、安住をよしとしない彼は軽々とジャズの領域を飛びこえ、くるりに岡田拓郎KID FRESINOにはては米津玄師まで、まさに八面六臂の活躍を見せている(角銅真実作品にもピアノで参加)。おそらく、2010年代後半以降の日本においてもっともその動向が注目されたドラマーが石若駿ではないだろうか。そんな彼がまだ足を踏み入れたことのない分野がアンビエントだった、と。

 打楽器奏者による演奏とアンビエントの組みあわせは、たとえばイーライ・ケスラーローレル・ヘイロー、山本達久と伊達伯欣のようにすでにこれまでも試みられてきているわけだが、こと日本においてはまだまだ探求しがいのあるアイディアかもしれない。石若駿と畠山地平によるほぼ即興そのままだという共作『Magnificent Little Dudes Vol.1』もまた、ふたりにとっての新境地であるのみならず、この列島でエクスペリメンタルな音楽を追究する冒険者たちにとってひとつの指針となりうる作品だ。以下でも語られているように、ドラムスの手数が多くなっているときでも激しすぎない音空間が創出されているのは本作の大きな魅力で、Hatis Noitのヴォーカルがフィーチャーされた “M4” や石若がジャズとクラシカルのあわいを行くようなピアノを演奏する “M7” など、アルバム全体としても趣向が凝らされている。
 なお、「Vol.1」と題されていることからもうかがえるように、10月には『Vol.2』もリリースされることになっている。アウトテイクなしの録音全出し、阿吽の呼吸を堪能したい。

できないことができるようになるときの感じに似てるというか、逆上がりが突然できるようになるみたいな(笑)。(石若)

石若さんは活動20周年記念のイヴェントが決定していますね。くるりやermhoi、KID FRESINOなど多彩な出演者が発表されています。それに向けいまはどんなお気持ちですか? 準備にとりかかっているところでしょうか。

石若:楽しみにしています。セトリももうまもなく決まりそうですが、こういうふうにできたらいいなってイメージはそれぞれ考えているところです。ライブナタリーの制作チームもいろいろ練ってくれているんだろうなと。

石若さんはかなり多くのプロジェクトを抱えています。じっさいのところ、どれくらいのお忙しさなんですか?

石若:東京にいるときは、1日を3、4分割したりしてますね。

そういうとき、気持ちの切り替えはすんなりできるものなんですか?

石若:できますね。あんまり深く考えてないというか、そういうふうに(切り替えることを)考えなくてもできるようになっていった自分もいますね。ありのままでいろんなことができるようになった。

活動20年を迎えることの感慨はありますか?

石若:ついこのあいだ、札幌の道新ホールっていう閉館しちゃう会場でコンサートをやってきまして(6月末閉館)。そのときの共演者が映画『BLUE GIANT』のサウンドトラックでも一緒だったサックスの馬場智章っていう、おなじ札幌出身で、小学校3、4年生くらいのときに札幌ジュニアジャズスクールでジャズをはじめたひとで。あれから数えて20年っていうのもあったし、道新ホールにも小学校のときから出てましたし、20年の重み……って言ったらちょっと違うかもしれないけど、歳を重ねたっていうことが身に染みてジーンと来ましたね。馬場くんとも20年一緒にやってるんだなって思ったし、そんな仲間なかなかいないな、と思いますし。
 今回の「ライブナタリー 石若駿20周年ワッツアップ祭り」については、僕も自分が20周年だって知らなかったんですよ(笑)。ライブナタリーの中に札幌出身で同い年のスタッフがいて、彼から言われて気づいたぐらいで。一緒にやろうって誘ってくれたのもあって今回のライヴが決まりました。ぼくの活動期間は2004年からはじまっていて、その年のなかでいちばん大きなトピックっていうのは日野皓正クインテットのライヴに参加したこと。それが2004年の5月の7日か8日だったかな。そこから数えて20年っていう。結果、いまも日野さんと一緒に活動できてるし、馬場くんとも一緒にやってるし。最近『怪獣8号』ってアニメのサウンドトラックを担当した坂東祐大くんとも、考えてみれば高校1年生のときから15年ほど一緒にやってることになります。そういうふうに15年とか20年、いろんなひとたちとともに音楽をつくってきたな、っていうのは最近いろんなシチュエーションでしみじみ感じますね。

この20年の中でいちばん大きな転機になったことは?

石若:いちばんの転機はやっぱり日野さんに会ったことですかね。最近『リズム&ドラム・マガジン』で20周年イヴェントに関連するインタヴューがあったんですけど、そこで人生について第一章から第五章に分けて説明しているので、もしよかったらそちらを見てください。

今回は畠山地平さんとのコラボレーションですが、畠山さんのことはどの段階で知ったんですか?

石若:最初はInterFMの共演がきっかけなんですけど、2021年でしたっけ。

畠山:2022年の正月かな。

石若:そこで初共演をして。ラジオを企画してくれた「Song X」の方だったり御茶ノ水のRITTOR BASEの方だったり、いろんな方が地平さんと演奏してるのを聴きたいとか、絶対いい放送になると言ってくれて。そうした期待もあったなかでじっさい演奏してみて、すごく手応えがありました。ふだん自分ができなかったような演奏ができる感覚にもなりましたし。
 きっかけはそれなんですけど、じつはその前に高円寺でたまたま一緒に飲みまして。コロナの前で2018年とか17年ごろかな。ちょっと定かではないんですけど。焼き鳥屋でけっこう飲んだあと、飲み足りなくてコンビニの前でもちょっと一杯やったりとかして。そういう思い出もありつつ共演するに至りました。あとは君島大空の「午後の反射光」っていうファーストEPのマスタリング・エンジニアが畠山地平さんということもあって、君島からの話も聞いてましたし、そういう縁を感じる方ですね。

石若さんは、出会うまえから畠山さんや〈White Paddy Mountain〉の作品を日常的に聴いていたんでしょうか?

石若:いや、じつは出会うまでは畠山さんの音楽はぜんぜん聞いたことはなかったんです。でも共演して「最近どういう音楽つくってますか」とか「今度こういうことやるんだけどいいヴァイオリニストいない?」っていう相談をしてくれたりとか、そういうやりとりをとおしてミュージシャン同士としてのつながりが生まれた感覚はあります。一緒に演奏するまではあまり聴いたことがなくて、演奏してから聴き返して「あのとき話してたのはこの音楽だったかな」っていろいろ探したりとかして、だんだん聴くようになっていった感じです。


photo by makoto ebi

地平さんが風だったらぼくは葉っぱだな、というような、立場というかキャラクターとしてのあり方を考えました。(石若)

畠山さんは、石若さんのことをどのタイミングで知ったんですか?

畠山:「石若くんっていうすごいドラマーがいて……」みたいな噂は以前から聞いてて、2010年代の初めくらいから名前は知ってました。石若くんの活動もかなり多岐に渡っているんで、クレジットを見たらドラムが石若くんだったなんてこともありました。そうしたかたちで音源とかは聴いたことがあって、君島大空くんのマスタリングのときも「ポップスなのにすごいドラムが入ってるな」と思ったら、それも石若くんだったっていう。そんな感じで存在は知ってて、2022年に石若くんからラジオの出演依頼が来て共演がはじまったという流れですね。

畠山さんのなかで石若さんのいちばん印象に残っているプレイ、あるいは作品はなんでしょうか。

畠山:いろいろ聴いたんですけど、さっき話したようにやっぱり君島くんの音源はインパクトがあったかな。君島くんは中性的なヴォーカリストで、アンビエント感っていうかリラックス感があって、そこに暴力的というか異世界のようなドラムがぐわっと入ってくるんですけど、それでも曲全体のリラックス・ムードが保たれていて。音はすごく鳴っているはずなのに曲の印象がぜんぜん変わらないのがすごいなと。マスタリングをしてて、これはいったいどうなってるんだ! と思いましたね。

今回のコラボレーションは、具体的にはどういう流れではじまっていったんですか?

畠山:ラジオの放送があって、それを聴いてくれた「Each Story」っていう野外フェスのイヴェンターの方からフェスの出演依頼が来てそうして初めて「Each Story」に出演した際、〈ギアボックス・レコーズ〉の日本支社の担当者が演奏を知って、ぼくもなんとなくふたりでレコーディングしたいな、なんて雑談してたら、その方が〈ギアボックス〉の社長に「これ絶対出したほうがいいんじゃないの?」って言ってくれて、「じゃあ、うちで全部レコーディング代も出すんで、レコーディングしてみませんか?」みたいな感じになって。自然な流れというか、わらしべ長者的にトントン拍子に進んでいくみたいな感じでした(笑)。

アンビエントって基本的にはビートレスな音楽ですが、そこにドラムを入れていくっていう今回の試みについて、石若さんはどう思われましたか?

石若:自分にとってすごく未体験な音楽だとは思ったので、その新鮮さというか、自分でやったことがないものに携わって音楽をつくれる状況が嬉しかったっていうのが最初にあって。ラジオでじっさいに共演したとき、「いままでやったことなかったけど自分はこういう演奏ができるんだ」って発見した感覚もありまして。それは放送されたものを聴いたり演奏したりしてるときもそういうふうに思って。できないことができるようになるときの感じに似てるというか、逆上がりが突然できるようになるみたいな(笑)。まあ、新しい気分でしたね。

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あえてドラムを聴かないようにしてやってみようかなとか、合わせるんじゃなくて反対のことしてみようって音を入れたりとかして、近づいたり離れたりするアプローチをとりましたね。(畠山)

石若さんはふだん日常でアンビエントは聴くんですか?

石若:アンビエントって呼ばれてるものは好きですね。ただ、アンビエント・ミュージックを聴こうっていうふうには聴いてはいないと思いますけど。でもそう呼ばれるであろうものは自然と好きで、よく聴いてるものが多いかもしれないです。詳しいアーティスト名とかはぜんぜん覚えてないんですけど、聴くのは好きです。ぼくはApple Musicユーザーなんですが、ステーション作成という自分の好きなアーティストからどんどん派生していく機能みたいなのがあって、気分じゃないものは飛ばして聴けるんですよね。だけどアンビエントみたいに……僕はアンビエントって呼びたくはないんですけど、みんながアンビエントって呼んでるものは飛ばさず聴くことは多いかもしれないです。

なるほど。今回のコラボレーションをやるにあたって、ドラムを入れていくうえで苦労したこと、あるいは注意したこと、意識したことはありますか?

石若:「自分がなぜそのときにその音色を選択するか」みたいなことを客観的に考えるようになったというか。音に責任を持つことに注意を払ってはいましたね。自分がいま出してる音が地平さんの音像やハーモニーにたいしてどの立ち位置でどの立場になるのか、みたいな。それがたとえば直線的な、面と向かったことなのか、密度みたいなものなのか、高さだったり、という。地平さんが風だったらぼくは葉っぱだな、というような、立場というかキャラクターとしてのあり方を考えました。ただ、それはじっさいにやってみて終わったあとに感じたたとえかもしれないですけど。そういう立ち位置、密度、空間の広さとかにたいしてちゃんと向き合ってる状態であるっていうことは意識してたと思うし、完成してできあがったのを聴くと、「葉っぱと風」みたいな、キャラクターや環境の違いみたいなものになっているのかもしれないな、と思ったり。そういう感覚ですかね。

畠山さんは、今回ドラムが入ってくる前提のなか、どういう点に注意しましたか?

畠山:いつも演奏してる自分のスタイルがいくつかあるかなとは思うんですけど、たとえばアンビエント的なミュージシャンの方とコラボレーションして演奏を同時にするとか、インプロ系の方とやるときには、相手の演奏するスペースについて考えますね。ドローンってあまりにも(音を)埋めちゃうと、相手が演奏するスペースがなくなっちゃったり、この音しか聴こえないという状況になってしまいがちで、それはどうかなと思うので、そういうバランスも考えながら演奏します。石若くんのドラムを聴いたり、一緒に演奏したりしていくと、ドラムとギター・ドローンなので、(双方が)使わないスペースを埋め合ってるっていうのもあって、ふだんの自分の演奏でいちばんやりたい感じのものをそのままぶつけても成立するので、演奏しやすいなと第一に思いました。
 あとは、ふだん以上にドローンの渦みたいな、なんとなくあるリズムというか、周期の流れみたいなものをドラムのリズムに合わせながら演奏したりとか、ディレイのタイミングとかをタップ機能で石若くんが叩いているのに合わせてみたりとか、そんな感じでやりました。あえてドラムを聴かないようにしてやってみようかなとか、合わせるんじゃなくて反対のことしてみようって音を入れたりとかして、近づいたり離れたりするアプローチをとりましたね。演奏は本当にやりやすかったです。

事前の打ち合わせはあったんでしょうか。

石若:レコーディングする前にテイクのコンセプトは共有しながらやりましたね。でもぼくの演奏はコンセプトを共有している状態でもとにかく自由なものなので、テンポだったりフィールというか、そういうものの選択もぼくは地平さんの音を聴こえるがままに演奏してました。ふたりで共有している部分はあったけど、中身はそのときの自然の摂理っていう(笑)。

その共有したコンセプトというのは?

石若:20分間くらいのテイクで、たとえば最初は静かなところからはじまって、このぐらいの熱量になって、またおなじ時間かけて静かに戻ろうとか、そういう感じです。音数多めでとか。音数かなり少なくしてやろうか、とか。

録音したあとのポスト・プロダクション、エディットの比重は大きかったですか?

畠山:今回エディット的なことは、ドラムとギターにはほぼしてないんですよね。ここをちょっと変えようとか、こことここをつなげようとかっていうのはほぼなくて、もうほんとうに演奏したままなんですよ。それはまさに石若くんのなせる技というか。ぼくは自分の作品でもけっこうエディットするんですけど、今回はギターとドラムにかんしては、ミックスは〈ギアボックス〉のエンジニアの方にやってもらって。ただ、石若くんがピアノでぼくがギターの録音については、ぼくがちょっとループつくったり。そんなにはしてないですけど。

石若さんがピアノを弾かれている曲、ありましたね! ピアノが入ると雰囲気が変わって印象に残ったんですけど、ドラムとギター・ドローン以外の要素も入れるという構想は最初からあったんでしょうか。

畠山:いや、スタジオにピアノがあって、ちょっと遊びで弾いてみたら音がすごくよかったので、いい録音エンジニアもいるし「石若くん、弾けるんじゃないかな?」って思って。ちょっと無茶振りかなと思いつつ「ピアノ弾いてみない?」みたいな感じで誘ったら「やります」って言ってくれて。あのときはどんな気持ちだったのかな?

石若:アンビエント・ミュージックと呼ばれるものにピアノで携わったことがなかったので、急に初体験がみんなの前でおこなわれてよかったですよね。なんというか、メモリアルなテイクになったんじゃないでしょうか(笑)。やってる最中もすごく楽しかったです。自分はクラシック的なピアノも好きだしジャズ的なものも好きだけど、そういったものを連想させないよう導かれた感じはあります。ジャズ・ピアノでもクラシックでもない、どう呼ばれるかわからないことを自然に導かれて弾いてるのかもしれないな、みたいな感覚でしたね。音のチョイスだったり、和音のコードだったり、音色の選択だったり。

ヴォーカルが入ってる曲もありますよね。これも事前に決めていたことなんでしょうか?

畠山:ふたりでちゃんと共有してたわけじゃないんですけど、なんとなくこの演奏に女性ヴォーカルが合いそうだな、みたいな予感があって。昔から知り合いだったハチスノイトさんが歌ってくれました。彼女はロンドンに移住してから、ロンドンやアメリカでライヴをするようになって、自分の歌の幅を拡げてインプロとかいろいろな表現もできるひとで。リリース元の〈ギアボックス・レコーズ〉はロンドンにあるので、レコーディングもロンドンのスタジオでやってると思うんですけど、「どういう歌を入れたらいいの?」って言われたとき、ぼくがどう言ってもその場にはいられないしわからないなと思ったので、プロデューサーで社長のダレルさんと本人のふたりで相談しながら決めてくださいって言って。もうそこはふたりのセンスにお任せするんで、って。それでどんなものができるのかな、って楽しみにしていました。アブストラクトな感じで来るのかなって思ってたんですけど、意外とストレートな歌で来ましたね。でもすごくそれがよかった。

3人でおなじ空間でレコーディングしたわけではなかったんですね。

畠山:録音されたギターとドラムにヴォーカルをオーヴァーダビングしたってことです。石若くんは聴いてみてどうだった?

石若:すごい驚きでした。さっき言った密度とか空間、奥行きみたいなのがさらに何次元も拡がっているような感覚で、びっくりしましたね。でもたしかに、3人で同時に一円でやったら生まれるものじゃなかったかもしれないですね。こういうレコーディングだからさらに予想を上まわるというか、想像を超えたトラックになったんじゃないかなと思います。


photo by yusei takahashi

今回エディット的なことは、ドラムとギターにはほぼしてないんですよね。もうほんとうに演奏したままなんですよ。それはまさに石若くんのなせる技というか。(畠山)

石若さんは先ほど自分の新しい扉ということをおっしゃってましたけど、今回のコラボレーションとこれまでの数々のコラボレーションとでとくに違ったこと、あるいは新しく発見したことってありましたか?

石若:地平さんの音色に導かれて自分のドラミングがどんどん移り変わっていくような、そういうレコーディングの仕方ってあんまりいままでなかったんですよね。たとえばジャズのなかではフリー・ジャズとか、テーマはあるけど中身はインプロで、ということはこれまでやってきたんですけど、それよりもっと広い枠組み……というか枠組みがなくて、地平さんのドローンの重なった音色とハーモニーによって自分のドラミングが変わっていくみたいな体験ができました。アルバム1枚をとおしてそのやり方で演奏したっていうのはこれまでやったことがありませんでしたね。完成したものを聴いても、エディットされた感じではなく、そのとき演奏した一筆書きのような、ここからここまでという時間軸でとらえたものだったので、すごくフレッシュなものが記録されていると同時に濃厚な印象も強いです。さらっと即興でやりました、というものではなく、濃厚なものをフレッシュにできた。いままでにない貴重な体験だったと思います。

畠山さんは今回、石若さんのドラミングでいちばんよかったのはどういうところでしたか?

畠山:ぼくからすると、石若くんのドラムっていうのはつねに素晴らしいんです。ここがっていうよりは、ずっとすごく気持ちいいというか。手数が多くなって盛り上がってるときでもうるさい感じじゃないのが不思議だなと。いつもすごい音楽的なんですよね。ぼくからすると演奏しやすいっていうのは石若くんの性格にもよるのかな。アンビエントだからって考えこんでやっちゃうと逆に考えすぎたことが出ちゃうかもしれない。けど石若くんは感じたままに演奏して返してくれるから、それをもう一度フィードバックするとさらにまた違うかたちで返ってきて、自然なサイクルがありました。

今回のコラボに臨むにあたって、とくに聴いたり参考にしたりイメージしたりしていた音楽ってありますか?

石若:ぼくはとくにはないですね。

畠山:ぼくはその時々のマイブームみたいなものがあって。たまたま裸のラリーズのLPの再発が続いてたときがあって、それでよく聴いてましたね。今回のアルバムには未収録なんですけど「Vol.2」に収録予定の曲でじつはディストーションを使った激しめの曲とかもあるんですよ。ちょっとサイケ・ロック的なアプローチもしてみようかなと。

パート1とパート2に分けた理由はなんでしょうか。

畠山:今回レコーディングは1日だけだったんですね。ゲスト以外は。アルバム1枚分くらい録れればいいなって思ってて。それで何曲か録音したなかから取捨選択して、2テイクだけリリースしてあとはお蔵入り、というつもりで録音したんですけど、プロデューサー兼レーベル社長のダレルさんが気に入って、録音したもの全部出しちゃおうよって(笑)。彼のなかでは最初はボックスを出す気だったみたいですけど、ボックスで出すより2枚に分けた方がいいか、ということで2LPを2回出すのがおもしろそうだねということで、こうなりましたね。

これまでいろいろ考えてプロジェクトを分けてやってきたはずなんですが、それでいいのかなと。よかった部分もあるんですけど、じゃあマイルスはそうやったかな? とか、キース・ジャレットは? とか。(石若)

ちょっと話が逸れてしまうんですが、畠山さんには先日紙版ele-kingのインタヴューで、日本の好きな音楽について語ってもらっています。そこで土取利行さんを挙げていましが、ご自身の音楽性と土取さんの音楽性で通じているものはあると思いますか?

畠山:土取さんの歩みは、最初はフリー・ジャズやフリー・インプロのドラマーで、その後銅鐸や古代の石や笛を演奏したりしていくんですね。そのなかで音楽に宿る精神性のようなものに魅かれていったのかな。ぼくは古代史や邪馬台国が大好きという方向から土取さんの銅鐸の演奏が好きで。古代史好きからすると畝傍山〔編注:うねびやま。奈良県中部に位置する。その東南の橿原で神武天皇が都を開いたとされる〕で銅鐸の演奏! というだけで悶絶モノに興奮しました。土取さんの著書によると銅鐸は楽器だという話なんですね。たしかにそれはあるだろうなと思っています。古代の豊穣のお祭りとかで使われていたと思いますが、どんな雰囲気だったのか想像するだけで楽しいですよね。それで土取さんの銅鐸演奏ですが、あれはパーカッショニスト、ドラマーとしての土取さんの腕ありきの演奏で、現代的なというかアフリカ的なリズムなんですね。そこには若干の違和感がないことはないんですか、まあ古来の日本のリズムもじつは意外とガムランみたいな南方系のリズムかもなと想像したり。というのはこの銅鐸を使っていた民族の子孫はもう残ってないかもしれないんですね。どうやら大和民族に滅ぼされた形跡もある。なので、銅鐸とともに音楽を現代に伝えられずに消えたと、これは最近『人類の起源』という新書を読んで思ったんです。そこには現代に残らなかった遺伝子を持つホモ・サピエンスの話が載っていて、たしかに普通に考えたら、過酷な自然環境や戦争などで滅亡した人びとは普通にいたんだろうなと。なので、銅鐸の演奏がどのようなモノだったのかは完全にミステリーですよね。
 今回のアルバムに戻ると自然なドラミングみたいなところで石若くんと通じるものもあるんじゃないかなとぼくは思うんですよね。自分の音楽にとってどうかというと、もちろんパーカッショニストとギタリストでかなり違うので、直接的にこういう音色に影響受けましたということはないんですけど、音楽と向き合う姿勢やメンタル的なところは好きです。土鳥さんの思想自体をぼくははっきりとはつかみきれてないんで、なんとも言えないところはあるんですけど、演奏から感じる雰囲気には共感する部分があるかもしれません。

おなじ紙版ele-kingには角銅真実さんと蓮沼執太さんの対談も載っているんですが、石若さんは角銅さんと一緒にやられていますよね。石若さんから見て角銅さんの魅力はどこにありますか?

石若:ふだん感じていることをあらためて教えてくれる存在というか……たとえば、グラスを持ったら皮膚が冷たいって感じて、それが冷たいってことがわかることだったり。そういうことをいつも彼女の表現で実感しますね。そういうことを忘れちゃだめだよって気づかせてくれる存在ですかね。やっぱり忘れがちなんですよ。たとえばこうやってだれかの肩をポンって触ったとき、そこにどれくらいの力がかかっていて、それを相手はどう受けてるのか、というようなことをあらためて思い出させてくれるというか。

なるほど。

石若:(角銅さんとは)高校時代から10年、15年くらいになりますかね。東京藝大への入学のタイミングが一緒だったんですよ。ぼくが藝大附属高校の管打楽器専攻に入学したとき、大学1年生の入学式も一緒で、そこからの縁で。角銅さんとは、ぼくがピアノを弾いて彼女の音楽に携わるって関係がメインで、角銅さんのこれまでのアルバムには全部ピアノで参加しています。音楽の関わり方の自由さとか果てしなさみたいなことを、すごく気づかせてくれるというか。いろいろ砕いてくれるひとですよね。悩んだりすると自然に助けてくれる、そんな存在です。

石若さんのお名前はほんとうにいろんなところで見かけますが、個人的に最初に意識したのはAnswer to Rememberのアルバムでした。メイン・プロジェクトという認識でいいんでしょうか。

石若:まあそうですかね。大きな音楽をつくりたいっていう気持ちがあるんです。そろそろAnswer to Rememberの新しいアルバムが出るんですけど(『Answer to Remember II』、8月7日発売)、いまその作業もしていて。なんというか、はみでちゃう音楽みたいな。基盤はジャズなんですけど、やりたいことを実現できる場所っていう感じですね。最近思うのは、これまでいろいろ考えてプロジェクトを分けてやってきたはずなんですが、それでいいのかなと。分けたことを後悔することもあります。たとえば、Answer to RememberのコンサートがあるとしたらSongbookはできない。SMTKのメンツではアンリメの音楽はできない。バンドでつくる音楽もまったく違うんですよね。「このバンドのための曲」っていうふうに分けてつくってきちゃって。だからそういうふうに分けることがよかったのかなと。いや、よかった部分もあるんですけど、じゃあマイルスはそうやったかな? とか、キース・ジャレットは? とか、そんな感じです(笑)。けど、そのとき後悔したとしても、もうちょっと時間が経てばそれでやっぱ正解だったって思うようになるかもしれないし。

石若さんは今後、やってみたいことはありますか?

石若:SONGBOOK PROJECTが10周年を迎えたら、記念に、全曲演奏じゃなくても1から10までの中から抜粋して大編成でホール公演、みたいなことをやりたいですね。

では最後にリスナーに向けて、今回のコラボレーション作品についてメッセージをいただければと思います。

石若:今回のアルバムを聴いて「あれすごいよかったね」とか「すごい好きだった」とか言ってくれるひとが身のまわりに多くて、それにまず感謝したいです。こうして届けられたってこともよかったですし、地平さんと2024年の音楽にこういう作品を刻めたことも嬉しいなって思いますし。ずっと先にこのアルバムを聴いたりとかしても誇れる音楽になってるなと、自分ですごい思いましたね。マスターピースですってことをあらためて伝えたい。あと、ライヴも楽しみにしていただけたら。
 そういえば去年の10月に、地平さんとピットインでライヴをやったんですよ。そしたら喋りがおもしろくなっちゃって、ふたりで目が合っちゃって(笑)。コンビ感もあるかな? と思ったり、またピットインでやろうかって話もあるので、そういうふたりの動向もぜひチェックしていただけたら。

Chihei Hatakeyama & Shun Ishiwaka
Magnificent Little Dudues Vol.2

2024年10月18日(金)デジタル配信!

トラックリスト
1. M3 (feat. Cecilia Bignall)
2. M2
3. M5
4. M6

アルバム『Magnificent Little Dudes Vol.2』予約受付中!
https://bfan.link/magnificent-little-dudes-volume-02

シングル「M6」配信中:
https://bfan.link/m6

今年5月にリリースされ、好評発売中のアンビエント/ドローン·ミュージシャンChihei Hatakeyama(畠山地平)とジャズ・ドラマーの石若駿とのコラボレーション。その第二弾となる『Magnificent Little Dudes Vol.2』のデジタル・リリースが、10月18日(金)に決定したことが明らかになった。

ラジオ番組の収録で出会って以来、ライヴ活動などでステージを共にすることはあった2人だが、今回のプロジェクトが初めての作品リリースとなった。二部作の第一弾、『Magnificent Little Dudes Vol.1』には日本人ヴォーカリストのHatis Noitが「M4」でゲスト参加していた。

そして今回のVol.2について、畠山は次のように話している。

「Vol.2にはセッションの後半が収められています。その日は3月のある日の午後でした。長い冬が終わろうとしているのを感じましたし、日本ではコロナの影響が諸外国より長く続いていたので、そんな マスクを付けた日々も終わろうとしていました。『M3』では私たちの演奏にセシリア・ビッグナルがチェロで参加してくれました。これは遥か昔に私がアメリカ人シンガー・ソングライターのデヴィッド・グラブスから受けた影響が見え隠れしています。彼のアルバムの『ザ・スペクトラム・ビトウィーン』に入っている『Stanwell Perpetual』という曲です。しかしこの曲は私が頭の中で何度も形を変えてしまったので、今回の『M3』とは直接は関係がないように思いえます」。

『Magnificent Little Dudes Vol.2』は10月18日(金)にデジタルで先行リリース。その後、CD /2LP(140g)フォーマットでもリリース予定となっている。

interview with Keiji Haino - ele-king

 灰野敬二さん(以下、敬称略)の伝記本執筆のためにおこなってきたインタヴューの中から、編集前の素の対話を公開するシリーズ。前回(第4回)は、紙版エレキングに掲載したが、第5回は再びウェブ版で。
 今回は、80年代初頭のフレッド・フリスとの出会い、そして初渡米の時のエピソードを語ってもらった。

81年7月21日、池袋の「スタジオ200」でおこなわれた「通俗―異端―音楽実験室 Beat Complex 2」なるイヴェントでフレッド・フリスと初共演しましたが、どういう経緯だったんですか?

灰野:俺の初ソロ・アルバム『わたしだけ?』がピナコテカから出る直前だったけど、マイナーの佐藤隆史さんが俺のいろんな音源を入れたカセットをフリスに送ったら、日本に行った時に共演してみたいと彼が言ったらしい。でも……もしかしたら、それ以前からフリスとやりとりしていた盛岡の即興演奏家・金野吉晃さん(第五列)が、佐藤さんから渡された俺の音源をフリスに送ったのかもしれない。


フレッド・フリス初来日公演チラシ

この時フリスを招聘したのはフールズ・メイト誌の北村昌士さんで、7月10日から日本各地でライヴをやりました。突然ダンボールやグンジョーガクレヨンとも共演したり。翌年には『Live In Japan』というフリスのアルバムも出た。

灰野:この21日は、たぶん佐藤さんか「スタジオ200」が1日だけ公演を買いとってセッティングしたのかもしれないね。

フリスはこの後、フールズ・メイトのインタヴューで「灰野はロックのインプロヴィゼイションの本質をつかんでる非凡なアーティストだ」と絶賛したそうですが、ライヴはどんな感じだったんですか?

灰野:フリスの希望で、最初から最後までずっとデュオだった。フリスはテーブル・ギターで、俺はギターとヴォイス、そして天井からもう1本別のギターをぶら下げた。ギターをただ弾くのではなく、吊り下げたギターにバスケットボールをぶつけて、転がってきたボールを更に手元のギターにこすりつけて別の音を出したり、それを一つのリフとして提示して繰り返した。サウンド・インスタレイションのように思われるだろうけど、当時から俺の中では、あらゆるものはつながっているという意識があって、それら全体が演奏だと思っていた。フリスも当時既に、いろんな方法でギターの音を出していたけど、その後まもなく始めたスケルトン・クルー(Skeleton Crew)では、演奏形態を一段と拡張し始めたよね。この時の俺との共演も大きなヒントになったんじゃないかな。このデュオ・ライヴの音源はディスク・ユニオンの関係者が持っているようだから、いつかリリースされるかもしれないね。


Skeleton Crew 『Learn To Talk』より「It's Fine」(1984)

その後85年にフリスがプロデュースした日本のアヴァン・ロックのコンピ盤『Welcome To Dreamland (Another Japan)』にも、灰野さんの演奏が収録されましたよね。

灰野:俺の曲「As It Is, I Will Never Let It End...」は84年に GOK Studio で録音したもので、本当は30分ぐらいあったものをフリスが3分に編集したんだ。だからフリスは「Scissors (はさみ)」とクレジットされている。

初共演後、フリスとのつきあいは?

灰野:俺の最初の渡米は彼がサポートしてくれたんだよ。82年の7~8月。フリスにアメリカでライヴをやりたいと言ったら、ライヴや宿泊のサポートをするから、前年に出た『わたしだけ?』を10枚持ってきてくれと言われた。関係者に配りたいと。実際、ジョン・ゾーンやデイヴィッド・モス、クリスティアン・マークレイ、アート・リンゼイ、エリオット・シャープなど、当時フリスが親しかったNYのミュージシャンたちは全員、フリスから受け取ったみたい。

まずLAに着いたんでしたっけ?

灰野:そう。実験音楽集団の「LAFMS」 (Los Angeles Free Music Society) のメンバーだったジョン・ダンカンを最初に訪ねた。ジョンとは渡米の2ヵ月前に、例の「通俗―異端―音楽実験室 Beat Complex」のVol.9 で共演しており、彼もいろいろとサポートしてくれたの。
 当時のレートは1ドル=250円で大変だったけど、何よりも準備に一番苦労したんだ。米大使館からヴィザをなかなかもらえなくてね。当時は観光ヴィザでも、東京の米大使館で面接があった。運悪く、その直前にNYで核兵器反対運動の大規模なデモがあり、日本人は歓迎されざる国民というムードになっていたから、それも関係あったんだと思うけど、なかなかヴィザが下りなかった。どういう人間なのかを説明するために、雑誌の記事を10本ぐらいコピーして持って行ったけど、9時から5時まで待たされたあげく面接もなく、翌週また行った。不法滞在をしない証拠として、帰国後のライヴの出演依頼書をライヴハウスの担当者などから書いてもらって。で、やっと45日間のヴィザが下りた。でも、渡米予定日が計画から1週間ズレてしまったため、フリスとジョン・ダンカンがいろいろとお膳立てしてくれていたLAとNYのライヴのスケジュールなどが全部ダメになってしまった。
 LAでは急遽ダンカンが新たにライヴをセッティングしてくれたんだけど、その会場はたくさんの人間がスクワットしている怪しいビルの地下スペースで、かなりのトラブルになった。
 次のオークランドでは、森の中にあるヘンリー・カイザーの自宅に1週間ほど泊めてもらった。ラルフ・レコードからLPを出していたアヴァンギャルド・バンド、MX-80 SOUND のメンバーとヘンリーの自宅でセッションをやったんだけど、そのメンバーの一人がやっている爬虫類屋さんに前日遊びに行った時、そこでニシキヘビにネズミを食べさせるという、俺にとってはとても許せないものを見せられたんだ。俺は激怒して、セッションの時、おそらく宇宙いっぱいの怒りをこめて演奏したら、そいつはビビって途中で逃げていってしまった。ヘンリー・カイザーは笑っていたけどね。


MX-80 Sound 『Crowd Control』より「Why Are We Here」 (1981)

ヘンリー・カイザーとはこの渡米時に初めて会ったんですよね?

灰野:そう。フリスが俺のレコードを事前に渡していてくれたので、泊めてもらえたんだ。彼からは「飛行機に乗る時は、ギターは絶対に預けないで機内に持ち込め」とアドヴァイスされ、それ以来ずっと守っている。
 オークランドの後はNYに行き、最後に再び西海岸のパサディナに移動して、LAから帰国したんだけど、パサディナでは「LAFMS」の中心メンバーのリック・ポッツのところに1週間ほど泊めてもらった。その時にドゥードゥエッツやリック・ポッツとやったセッション・ライヴが、2002年に出た『Free Rock』というアルバムだよ。パサディナは、小さなカフェが1軒あるだけのすごい田舎で、ボーッとして過ごすしかなかった。


Doo-Dooettes with Keiji Haino & Rick Potts『Free Rock』

オークランドの次に行ったNYでは、フリスが待っていたわけですね?

灰野:そう。でも、計画が1週間ズレたせいで、会えるはずだった人たちともほとんど会えず、ライヴもフリスが急遽セットしたものが1度だけになった。エリオット・シャープのバンドのオープニング・アクトをフリスと一緒にやったんだけど、客席は超満員だった。俺はいろいろと鬱憤がたまっていたこともあって、かなりワイルドなプレイになり、フリスもちょっとあたふたしていた。終わった後、フリスは「Keiji is from hell」と言って笑っていたけど、客席にいたフリスのファンからは「フリスはとてもいいやつだから、あんまりいじめないでくれ」と言われてしまった(笑)。

いろいろとトラブルが多く、アメリカはこりごりだと思ったんじゃないですか?

灰野:いや、そんなことはない。そのまま不法滞在しようかなとも思ったぐらいだよ。計画どおりにはいかなかったけど、NYはやはり面白かった。ジョン・ゾーンからも、ライヴが素晴らしかったと言われたし、フリスが配った『わたしだけ?』も評判がよく、共演したがっている奴が多いと聞かされた。単純に、他でやってない音楽、聴いたことのない音楽ということで興味を持たれたんだと思う。実際、そういう空気を自分でも肌で感じた。でも俺は、とりあえず帰国した。いろいろ準備を整えてから改めて渡米しようと思って。

アメリカで活動したいという気持ちは、滞米時に初めて芽生えたんですか?

灰野:いや、既に70年代後半には、アメリカでどれぐらい通用するのかやってみたい、英語以外では絶対に負けないぞ(笑)という気持ちがあった。『No New York』やテレヴィジョンのレコードを聴いて、こういうのが成立するんだったら大丈夫だなと、ある種の自信を持ったんだ。俺はその10年近く前にロスト・アラーフをやってたわけで。これはもうアメリカに行かなくちゃいけないな、勝負してみたいなと。だから、フリスから声がかかって81年に初めて共演した時は、これがいいきっかけになるといいなという期待もあった。

実際行ってみると、西海岸と東海岸は人間の気質も文化もだいぶ違いますよね。灰野さんが活動の場として考えていたのはやはりNYでしょうね。

灰野:そうだね。LAとNYは人間も文化も全然違う。西海岸は気候も人間もあったかい。泊まるところがないんだったらうちに来いよと気軽に声をかけてくれるし。1週間予定がズレたせいで、NYの初日なんて、ひどいところに泊まったんだよ。スタジオ・ヘンリーという地下のライヴハウスの楽屋で石の床に新聞紙を敷いて寝た。スタジオ・ヘンリーの経営者は、グレン・ブランカの『The Ascension』(81年)でドラムを叩いていたスティーヴン・ウィッシャース (Stephan Wischerth) だった。最初の夜、ヘトヘトになって楽屋で熟睡したんだけど、翌日の昼に突然聴こえてきた爆音でたたき起こされた。楽屋から出ると、ジョン・ゾーンとアート・リンゼイとデイヴィッド・モスがリハーサルをやっていた。3人と会ったのは、その時が初めてだった。


Glenn Branca 『The Ascension』より「Light Field (In Consonance)」(1981)

 NYで一番強く感じたのは「速い」ということ。なにもかもが。東京の速度もかなりだけど、レヴェルが違う。気分がガガガーっと押される感じ。煽られるというか。その後何度もNYに行き、ダメな点もいろいろわかったけど、他の街と比べるとやっぱり腐ってもNYだと思う。新陳代謝がすごい。くやしいけど、NYだけはやはり特別だよ。あそこはNYという一つの国だと思う。

予想外のうれしい出会いはなかったんですか?

灰野:オークランドでクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのジョン・シポリナに会えたことがうれしい驚きだった。ヘンリー・カイザーがライヴに連れて行ってくれて、楽屋で挨拶、握手したんだ。そのライヴは、クイックシルヴァーにちょっと関わっていたミュージシャンのバンドにジョン・シポリナも加わったもので、特に面白いとは思わなかったけど、シポリナがギターを弾くシーンは特に大きくフィーチャーされていた。当時彼は地味にソロ活動をしている時期だったけど、伝説的スターのオーラがあった。楽屋で会ってみると、思ったより小柄な人で、ドラッグでボロボロになっている感じではあったけど、やはりカッコ良かったね。


John Cipollina 1981年のライヴから

NYではいろんなライヴを観たんじゃないですか?

灰野:いや、さっき言ったアート・リンゼイ、ジョン・ゾーン、デイヴィッド・モスのトリオ以外には何も観なかった。NYの連中は西海岸みたいに親切に世話をしてくれる感じではなく、ほっとかれていたし。
 レコード屋にも行ったけど、ひどい目にあったんだよ。実は、レコードのトレードをしようと思って、『わたしだけ?』10枚のほかに30枚ぐらいのLPを持って行ってたの。バーズやプロコル・ハルムなどのきれいな日本盤ばかり。ザ・フーとジミヘンの缶セット(『Battle Of The Who & Jimi Hendrix』)もあった。そういうのがあっちではすごく高値で売買されるという情報を耳にしていたから。で、トレードをしてくれるというマンハッタンの中古レコード屋に持っていったら、店員の目の色が変わった。店の在庫のどんなレコードとトレードできそうか調べるので、一時預からせてくれと言われ、全部彼に預けた。数日後に店に行ったら、そいつが、面と向かって「いや、預かってない」と言って、返してくれないんだ。あんた、誰? みたいな感じ。ひどいんだよ。日本では考えられないでしょう。らちがあかないので、フレッド・フリスに相談したら、彼が激怒して弁護士を連れて店に乗り込んでくれ、それでようやく全部取りもどせたんだよ。

 なお、今回は本文を書き上げた後、一つだけ追加質問をさせてもらった。

今日までずっと日本で活動を続けてきたわけですが、この初渡米の後、もし活動拠点をNYに移していたら、その後のキャリアはどうなっていたと思いますか? 希望も含めて想像してください。

灰野:私はこの国、日本に住んでいます。最近、とても日本ということを意識します。もし、私がNYに移って、そこでずっと活動していたら、この戦争に負けた国と言われている民族に対して、戦争に勝った民族の人間たちと共に生きていられることが、私にできたでしょうか。

Sahara - ele-king

 こだま和文との共作『2 Years / 2 Years in Silence』でより広い層へとその名を知らしめたダブ・ユニット、Undefined。その片割れであるサハラによるソロEP「Whole Earth Dub / In The Wall」がリリースされている。リリース元は、本人主宰の〈Newdubhall〉(デジタルで出すのはレーベル初の試みだそうだ)。
 なおSaharaは、8月28日に発売される河村祐介監修のディスクガイド『DUB入門』に掲載された座談会にも参加している。ぜひそちらもチェックを。

国内外の先鋭的なダブ・アーティストをリリースしてきたNewdubhall初のデジタル・リリースはUndefined サハラによるソロ・プロジェクト!

これまで国内外の先鋭的なダブ・アーティストをリリースしてきたNewdubhall。2024年の2作目は、Newdubhall主宰、Undefinedのキーボード、エレクトロニクス、Saharaによるソロ・プロジェクト、2曲のEP“Whole Earth Dub / In The Wall”となる。レーベル発足以来アナログ・リリースが続いたが、ここで初のデジタル・リリース。

そこに存在しないベースラインをクラックル・ノイズとエコーの余韻だけで導き出す静寂なダブ“Whole Earth Dub”。
そしてテープ・エコーのノイズからイメージを膨らませたという、ゆっくりとした鼓動のようなビートと差し色のシンセがホワイトノイズのレイヤーとともにミニマル・ダブの亡霊を呼び出す“In The Wall”の2曲だ。

どちらの曲もこだま和文& Undefined『2 Years / 2 Years in Silence』における「in Silence」サイドの「次」を感じさせるサウンド。マスタリングはレーベル作品にはおなじみのe-mura(Bim One Production)が手がけている。またNewdubhallでは、Undefinedのジ・アザー、ドラマーのOhkumaのソロを9月にリリースする模様だ。

河村 祐介

発売日:8月8日 各種配信、データ販売開始
Sahara
1. Whole Earth Dub
2. In The Wall
released from newdubhall - ndh-d-001
特設サイト:https://solo.newdubhall.com

HISTORY OF TECHNO - ele-king

 オルタナティヴな夜の社交生活が東京でいちだんと活発化したのは、悪名高き1992年の夏を過ぎてから1〜2年後のことだった。アンダーグラウンド ・パーティの足場は築かれ、ナイトクラブ文化はドラスティックに変わろうとしていた。なによりも音楽、世代、着る服、踊り方、それ以外のすべても。踊るためにひとは集まり、朝が来て、明け方の、あのいい感じで汚れた渋谷の街を駅に向かって歩く足が軽かったのは、みんなまだ若かったからだ。20代後半のぼくがシーンのなかでは年上だったのだから、いかに若かったことか。
 音楽の主役はテクノ/トランス。街の支配的なナイトクラブ文化も、ディスコの徒弟制も、ほとんどの音楽メディアもそのことをまだ知らなかった。まあ、これは一笑に付していただきたい話だが、ぼくたちはアニエスベーで気取った渋谷系とは違う惑星にいたわけだ。なにしろこちとら「808」と書いてあるTシャツだったりする。こりゃあ、まあたしかに、ファッション誌が相手にするはずもない。それでも自信を持って言おうじゃないか。あの時代、テクノ/トランス・シーンほどパワフルでエネルギッシュなシーンはなかった。ダンスの熱量にしても集まる人数にしても、そしてパーティの数やなんかにしても、だ。スピーカーの上によじ登って踊ることは、熱狂に対する純粋なリアクションだった。
 テクノ/トランス・シーンはある時代までは、完璧な、あり得ないほど100%アンダーグラウンドだった。この点においては、すでに業界のサポートを受けていたハウスとは決定的に位相が違っていた。ディスコ業界の伝統とも隔絶された自由、DIY的で、庶民的で、草の根的なシーン。それでいて、エレクトロニックで、抽象的で、ミニマルなサウンド。どこの馬の骨ともわからぬ若者たちがガキっぽい音楽で騒いでいる、こんな印象をもたれていたのだろう、メディアで仕事をしていたぼくは、自分よりも年上のクラブ関係者からたまに皮肉を言われたものだった。しかし、我らが暴走は止まることを知らなかった。たとえテクノ・ポップ原理主義者が嫌悪を口にしても、このシーンの勢いの根幹にあったのは、そのときそのときの「喜び」だったのだから。
 深夜の解放区。闇のなかの天使と悪魔といっしょに、ぼくたちは、30人が数ヶ月後には100人になって、一年後には1000人規模へと発展していくシーンの渦中にいた。1993年、一週間に最低二回は複数のレコード店に通い、欧米から届く12インチ・シングルの溝に掘られたサウンドにいちいち驚嘆していた頃、シーンをさらに若返らせ、さらに大きくした起爆剤がフミヤと卓球だった。フミヤは大阪出身のDIY主義者、20歳そこそこながらも腕の立つDJだった。卓球はもうポップスターだったが、ゆえにアンダーグラウンドでの活動にはいろんな障害があった。アンダーグラウンドは光明ばかりではない、暗黒面もある。しかしまあ、話を端折れば、いずれにしても彼らの情熱がすべてを乗り越えていったのだが。

 テクノ/トランス・シーンは、言うなればYMOがやらなかったことをやった。それは、クラフトワークやYMOらに影響されたアメリカの黒人たちやその音楽を触媒とした欧州のダンス文化にリンクすることだった。ふたりに「華」があったとしても、まずはDJとしての技術、アイデア、音楽作品に関する知識や思い切りの良さも持ち合わせていた。あの時代の、デトロイトの〈ミュージック・インスティテュート〉におけるデリック・メイ、シカゴの〈パワー・プラント〉におけるロン・ハーディのような存在だったと、ダンスフロアを知らなかった多くの若者たちを惹きつけたという点においてなら、そのように喩えてもあながち大げさではないはずだ。
 90年代の日本には、ほかにも良いDJが何人もいたことは、当たり前の話である。究極的に言えば、良いDJとはそのひとにとっての良いDJであって、絶対的な司祭などいない。だから、彼らが日本で最高のテクノDJとは言わないが、ただし、こうは言えるだろう。おおよそ30年後の2024年の夏になっても、あの時代と同じようにリキッドルームを満員にし、DJプレイによって素晴らしいダンスのパーティを演出したと。安心したまえ。会場を埋めていたのは、もちろん、ぼくと同様、命がけの90年代世代もいたにはいた。が、おそらく多くは、ぼくたちが夜な夜なダンスしていた頃には、まだ生まれていないか赤ちゃんだったような人たちである。

 この夜の祝賀者たち、ファンキーな快楽主義たちに混じってぼくが会場に入ったのは、我が同世代人たちがパジャマに着替えているであろう、23時過ぎのことだった。フロアには、フミヤのターンテーブルから、ミックスされた “リコズ・ヘリー” のごろごろしたベースラインが響いていた。で、それから数十分後には “ステップ・トゥ・エンチャントメント” のリフだ。もうおわかりだろう、その夜のテーマが何だったのか。
 細かいことを言えば、あくまでレコード盤を使ってミックスするふたりのプレイを聴きながら、あらためて彼らの技術の高さ、アイデアの面白さ、などなどに感服した。プロ相手に言うのも失礼な話だが、PC一台でもDJができてしまう時代だからあえて強調しておきたい、ふたりとも圧倒的にうまい。
 彼らは、魅力的な音楽をかける黒子としてのDJであり、ミキシングの表現者だ。卓球が“ザ・ダンス”と“アイム・ア・ディスコ・ダンサー”をミックスしたときにフロアから聞こえた絶叫や大笑いは、グランドマスター・フラッシュから連なるDJイング(ターンテーブルによるサウンドコラージュ)に対するリアクションであり、また、我々が「アンセム」と言うところの、知っている曲がかかったことへの嬉しさの表れだ。こうした妙技が、ひとをフロアから離さないのである。だいたい、深夜の明け方までの音楽の旅は、何が起こるかわからないものだ。この夜もちょっとした事件があった。フミヤが“ソニック・デストロイヤー”のリフをカットインした瞬間、なんと田中宗一郎といっしょに踊り、絶叫することになるとは、いやはや、人生わからないものである。
 思わず笑いがこみ上げてくるとはまさにそれだ。いまさら言うのはためらわれるが、DJイングは、その手法にフォーカスすればポストモダンではある。が、それがポストモダン的な皮肉やスカした冷笑主義に陥らないのは、ターンテーブルとミキサーを使ったあの時代のDJが人前に出るには、ひたむきな修練が必要だったからだろう。トランス状態を誘発するには、それ相応の代償があったのだ。ダンスするほうだってそう。
 もっとも、ひと晩二杯までという個人的な基準値を優に超え、“アイ・フィール・ラヴ”で燃え尽きたぼくは明るくなる前に離脱したわけだが、午前6時過ぎの生存者たちにはご褒美の“アマゾン”が待っていたと、編集部コバヤシから翌々日に教えてもらった。良かった良かった。しかしほんとうに重要なのは、踊ること。イシュメール・リードの歴史捏造小説『マンボ・ジャンボ』のジェス・グルーに感染すること、あるいはジョージ・クリントンが言ったように、踊っていれば水のなかでも濡れないと、そういうことだ。なぜなら、ひとは音楽を感じて、サウンドの渦に巻き込まれながら踊るために集まっているのだから。そして、当然のことながら疲れて、やがては、明るくなったぼろぼろの街角へと放り出されて、いずれは現実へと戻っていく。ただそれだけのことなのだが、まこと不思議なことに、そのときのサウンドが長いときで一週間は頭のどこかで鳴り響いている。そういうものだったりもする。


ステージ後方では、AIを使ったVJで場にシュールな花を添える宇川直宏&REAL Rock DESIGNがいた。

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