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Home >  Interviews > interview with Keiji Haino - 灰野敬二 インタヴュー抜粋シリーズ 第5回

interview with Keiji Haino

interview with Keiji Haino

灰野敬二 インタヴュー抜粋シリーズ 第5回

フレッド・フリスとの出会い、そして初めてのアメリカ

 灰野敬二さん(以下、敬称略)の伝記本執筆のためにおこなってきたインタヴューの中から、編集前の素の対話を公開するシリーズ。前回(第4回)は、紙版エレキングに掲載したが、第5回は再びウェブ版で。
 今回は、80年代初頭のフレッド・フリスとの出会い、そして初渡米の時のエピソードを語ってもらった。

81年7月21日、池袋の「スタジオ200」でおこなわれた「通俗―異端―音楽実験室 Beat Complex 2」なるイヴェントでフレッド・フリスと初共演しましたが、どういう経緯だったんですか?

灰野:俺の初ソロ・アルバム『わたしだけ?』がピナコテカから出る直前だったけど、マイナーの佐藤隆史さんが俺のいろんな音源を入れたカセットをフリスに送ったら、日本に行った時に共演してみたいと彼が言ったらしい。でも……もしかしたら、それ以前からフリスとやりとりしていた盛岡の即興演奏家・金野吉晃さん(第五列)が、佐藤さんから渡された俺の音源をフリスに送ったのかもしれない。


フレッド・フリス初来日公演チラシ

この時フリスを招聘したのはフールズ・メイト誌の北村昌士さんで、7月10日から日本各地でライヴをやりました。突然ダンボールやグンジョーガクレヨンとも共演したり。翌年には『Live In Japan』というフリスのアルバムも出た。

灰野:この21日は、たぶん佐藤さんか「スタジオ200」が1日だけ公演を買いとってセッティングしたのかもしれないね。

フリスはこの後、フールズ・メイトのインタヴューで「灰野はロックのインプロヴィゼイションの本質をつかんでる非凡なアーティストだ」と絶賛したそうですが、ライヴはどんな感じだったんですか?

灰野:フリスの希望で、最初から最後までずっとデュオだった。フリスはテーブル・ギターで、俺はギターとヴォイス、そして天井からもう1本別のギターをぶら下げた。ギターをただ弾くのではなく、吊り下げたギターにバスケットボールをぶつけて、転がってきたボールを更に手元のギターにこすりつけて別の音を出したり、それを一つのリフとして提示して繰り返した。サウンド・インスタレイションのように思われるだろうけど、当時から俺の中では、あらゆるものはつながっているという意識があって、それら全体が演奏だと思っていた。フリスも当時既に、いろんな方法でギターの音を出していたけど、その後まもなく始めたスケルトン・クルー(Skeleton Crew)では、演奏形態を一段と拡張し始めたよね。この時の俺との共演も大きなヒントになったんじゃないかな。このデュオ・ライヴの音源はディスク・ユニオンの関係者が持っているようだから、いつかリリースされるかもしれないね。


Skeleton Crew 『Learn To Talk』より「It's Fine」(1984)

その後85年にフリスがプロデュースした日本のアヴァン・ロックのコンピ盤『Welcome To Dreamland (Another Japan)』にも、灰野さんの演奏が収録されましたよね。

灰野:俺の曲「As It Is, I Will Never Let It End...」は84年に GOK Studio で録音したもので、本当は30分ぐらいあったものをフリスが3分に編集したんだ。だからフリスは「Scissors (はさみ)」とクレジットされている。

初共演後、フリスとのつきあいは?

灰野:俺の最初の渡米は彼がサポートしてくれたんだよ。82年の7~8月。フリスにアメリカでライヴをやりたいと言ったら、ライヴや宿泊のサポートをするから、前年に出た『わたしだけ?』を10枚持ってきてくれと言われた。関係者に配りたいと。実際、ジョン・ゾーンやデイヴィッド・モス、クリスティアン・マークレイ、アート・リンゼイ、エリオット・シャープなど、当時フリスが親しかったNYのミュージシャンたちは全員、フリスから受け取ったみたい。

まずLAに着いたんでしたっけ?

灰野:そう。実験音楽集団の「LAFMS」 (Los Angeles Free Music Society) のメンバーだったジョン・ダンカンを最初に訪ねた。ジョンとは渡米の2ヵ月前に、例の「通俗―異端―音楽実験室 Beat Complex」のVol.9 で共演しており、彼もいろいろとサポートしてくれたの。
 当時のレートは1ドル=250円で大変だったけど、何よりも準備に一番苦労したんだ。米大使館からヴィザをなかなかもらえなくてね。当時は観光ヴィザでも、東京の米大使館で面接があった。運悪く、その直前にNYで核兵器反対運動の大規模なデモがあり、日本人は歓迎されざる国民というムードになっていたから、それも関係あったんだと思うけど、なかなかヴィザが下りなかった。どういう人間なのかを説明するために、雑誌の記事を10本ぐらいコピーして持って行ったけど、9時から5時まで待たされたあげく面接もなく、翌週また行った。不法滞在をしない証拠として、帰国後のライヴの出演依頼書をライヴハウスの担当者などから書いてもらって。で、やっと45日間のヴィザが下りた。でも、渡米予定日が計画から1週間ズレてしまったため、フリスとジョン・ダンカンがいろいろとお膳立てしてくれていたLAとNYのライヴのスケジュールなどが全部ダメになってしまった。
 LAでは急遽ダンカンが新たにライヴをセッティングしてくれたんだけど、その会場はたくさんの人間がスクワットしている怪しいビルの地下スペースで、かなりのトラブルになった。
 次のオークランドでは、森の中にあるヘンリー・カイザーの自宅に1週間ほど泊めてもらった。ラルフ・レコードからLPを出していたアヴァンギャルド・バンド、MX-80 SOUND のメンバーとヘンリーの自宅でセッションをやったんだけど、そのメンバーの一人がやっている爬虫類屋さんに前日遊びに行った時、そこでニシキヘビにネズミを食べさせるという、俺にとってはとても許せないものを見せられたんだ。俺は激怒して、セッションの時、おそらく宇宙いっぱいの怒りをこめて演奏したら、そいつはビビって途中で逃げていってしまった。ヘンリー・カイザーは笑っていたけどね。


MX-80 Sound 『Crowd Control』より「Why Are We Here」 (1981)

ヘンリー・カイザーとはこの渡米時に初めて会ったんですよね?

灰野:そう。フリスが俺のレコードを事前に渡していてくれたので、泊めてもらえたんだ。彼からは「飛行機に乗る時は、ギターは絶対に預けないで機内に持ち込め」とアドヴァイスされ、それ以来ずっと守っている。
 オークランドの後はNYに行き、最後に再び西海岸のパサディナに移動して、LAから帰国したんだけど、パサディナでは「LAFMS」の中心メンバーのリック・ポッツのところに1週間ほど泊めてもらった。その時にドゥードゥエッツやリック・ポッツとやったセッション・ライヴが、2002年に出た『Free Rock』というアルバムだよ。パサディナは、小さなカフェが1軒あるだけのすごい田舎で、ボーッとして過ごすしかなかった。


Doo-Dooettes with Keiji Haino & Rick Potts『Free Rock』

オークランドの次に行ったNYでは、フリスが待っていたわけですね?

灰野:そう。でも、計画が1週間ズレたせいで、会えるはずだった人たちともほとんど会えず、ライヴもフリスが急遽セットしたものが1度だけになった。エリオット・シャープのバンドのオープニング・アクトをフリスと一緒にやったんだけど、客席は超満員だった。俺はいろいろと鬱憤がたまっていたこともあって、かなりワイルドなプレイになり、フリスもちょっとあたふたしていた。終わった後、フリスは「Keiji is from hell」と言って笑っていたけど、客席にいたフリスのファンからは「フリスはとてもいいやつだから、あんまりいじめないでくれ」と言われてしまった(笑)。

いろいろとトラブルが多く、アメリカはこりごりだと思ったんじゃないですか?

灰野:いや、そんなことはない。そのまま不法滞在しようかなとも思ったぐらいだよ。計画どおりにはいかなかったけど、NYはやはり面白かった。ジョン・ゾーンからも、ライヴが素晴らしかったと言われたし、フリスが配った『わたしだけ?』も評判がよく、共演したがっている奴が多いと聞かされた。単純に、他でやってない音楽、聴いたことのない音楽ということで興味を持たれたんだと思う。実際、そういう空気を自分でも肌で感じた。でも俺は、とりあえず帰国した。いろいろ準備を整えてから改めて渡米しようと思って。

アメリカで活動したいという気持ちは、滞米時に初めて芽生えたんですか?

灰野:いや、既に70年代後半には、アメリカでどれぐらい通用するのかやってみたい、英語以外では絶対に負けないぞ(笑)という気持ちがあった。『No New York』やテレヴィジョンのレコードを聴いて、こういうのが成立するんだったら大丈夫だなと、ある種の自信を持ったんだ。俺はその10年近く前にロスト・アラーフをやってたわけで。これはもうアメリカに行かなくちゃいけないな、勝負してみたいなと。だから、フリスから声がかかって81年に初めて共演した時は、これがいいきっかけになるといいなという期待もあった。

実際行ってみると、西海岸と東海岸は人間の気質も文化もだいぶ違いますよね。灰野さんが活動の場として考えていたのはやはりNYでしょうね。

灰野:そうだね。LAとNYは人間も文化も全然違う。西海岸は気候も人間もあったかい。泊まるところがないんだったらうちに来いよと気軽に声をかけてくれるし。1週間予定がズレたせいで、NYの初日なんて、ひどいところに泊まったんだよ。スタジオ・ヘンリーという地下のライヴハウスの楽屋で石の床に新聞紙を敷いて寝た。スタジオ・ヘンリーの経営者は、グレン・ブランカの『The Ascension』(81年)でドラムを叩いていたスティーヴン・ウィッシャース (Stephan Wischerth) だった。最初の夜、ヘトヘトになって楽屋で熟睡したんだけど、翌日の昼に突然聴こえてきた爆音でたたき起こされた。楽屋から出ると、ジョン・ゾーンとアート・リンゼイとデイヴィッド・モスがリハーサルをやっていた。3人と会ったのは、その時が初めてだった。


Glenn Branca 『The Ascension』より「Light Field (In Consonance)」(1981)

 NYで一番強く感じたのは「速い」ということ。なにもかもが。東京の速度もかなりだけど、レヴェルが違う。気分がガガガーっと押される感じ。煽られるというか。その後何度もNYに行き、ダメな点もいろいろわかったけど、他の街と比べるとやっぱり腐ってもNYだと思う。新陳代謝がすごい。くやしいけど、NYだけはやはり特別だよ。あそこはNYという一つの国だと思う。

予想外のうれしい出会いはなかったんですか?

灰野:オークランドでクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのジョン・シポリナに会えたことがうれしい驚きだった。ヘンリー・カイザーがライヴに連れて行ってくれて、楽屋で挨拶、握手したんだ。そのライヴは、クイックシルヴァーにちょっと関わっていたミュージシャンのバンドにジョン・シポリナも加わったもので、特に面白いとは思わなかったけど、シポリナがギターを弾くシーンは特に大きくフィーチャーされていた。当時彼は地味にソロ活動をしている時期だったけど、伝説的スターのオーラがあった。楽屋で会ってみると、思ったより小柄な人で、ドラッグでボロボロになっている感じではあったけど、やはりカッコ良かったね。


John Cipollina 1981年のライヴから

NYではいろんなライヴを観たんじゃないですか?

灰野:いや、さっき言ったアート・リンゼイ、ジョン・ゾーン、デイヴィッド・モスのトリオ以外には何も観なかった。NYの連中は西海岸みたいに親切に世話をしてくれる感じではなく、ほっとかれていたし。
 レコード屋にも行ったけど、ひどい目にあったんだよ。実は、レコードのトレードをしようと思って、『わたしだけ?』10枚のほかに30枚ぐらいのLPを持って行ってたの。バーズやプロコル・ハルムなどのきれいな日本盤ばかり。ザ・フーとジミヘンの缶セット(『Battle Of The Who & Jimi Hendrix』)もあった。そういうのがあっちではすごく高値で売買されるという情報を耳にしていたから。で、トレードをしてくれるというマンハッタンの中古レコード屋に持っていったら、店員の目の色が変わった。店の在庫のどんなレコードとトレードできそうか調べるので、一時預からせてくれと言われ、全部彼に預けた。数日後に店に行ったら、そいつが、面と向かって「いや、預かってない」と言って、返してくれないんだ。あんた、誰? みたいな感じ。ひどいんだよ。日本では考えられないでしょう。らちがあかないので、フレッド・フリスに相談したら、彼が激怒して弁護士を連れて店に乗り込んでくれ、それでようやく全部取りもどせたんだよ。

 なお、今回は本文を書き上げた後、一つだけ追加質問をさせてもらった。

今日までずっと日本で活動を続けてきたわけですが、この初渡米の後、もし活動拠点をNYに移していたら、その後のキャリアはどうなっていたと思いますか? 希望も含めて想像してください。

灰野:私はこの国、日本に住んでいます。最近、とても日本ということを意識します。もし、私がNYに移って、そこでずっと活動していたら、この戦争に負けた国と言われている民族に対して、戦争に勝った民族の人間たちと共に生きていられることが、私にできたでしょうか。

取材・写真・文=松山晋也 (2024年8月19日)

Profile

松山晋也/Shinya Matsuyama 松山晋也/Shinya Matsuyama
1958年鹿児島市生まれ。音楽評論家。著書『ピエール・バルーとサラヴァの時代』、『めかくしプレイ:Blind Jukebox』、編・共著『カン大全~永遠の未来派』、『プログレのパースペクティヴ』。その他、音楽関係のガイドブックやムック類多数。

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