Home > Live Reviews > Party Report > HISTORY OF TECHNO- DJ:田中フミヤ、石野卓球
オルタナティヴな夜の社交生活が東京でいちだんと活発化したのは、悪名高き1992年の夏を過ぎてから1〜2年後のことだった。アンダーグラウンド ・パーティの足場は築かれ、ナイトクラブ文化はドラスティックに変わろうとしていた。なによりも音楽、世代、着る服、踊り方、それ以外のすべても。踊るためにひとは集まり、朝が来て、明け方の、あのいい感じで汚れた渋谷の街を駅に向かって歩く足が軽かったのは、みんなまだ若かったからだ。20代後半のぼくがシーンのなかでは年上だったのだから、いかに若かったことか。
音楽の主役はテクノ/トランス。街の支配的なナイトクラブ文化も、ディスコの徒弟制も、ほとんどの音楽メディアもそのことをまだ知らなかった。まあ、これは一笑に付していただきたい話だが、ぼくたちはアニエスベーで気取った渋谷系とは違う惑星にいたわけだ。なにしろこちとら「808」と書いてあるTシャツだったりする。こりゃあ、まあたしかに、ファッション誌が相手にするはずもない。それでも自信を持って言おうじゃないか。あの時代、テクノ/トランス・シーンほどパワフルでエネルギッシュなシーンはなかった。ダンスの熱量にしても集まる人数にしても、そしてパーティの数やなんかにしても、だ。スピーカーの上によじ登って踊ることは、熱狂に対する純粋なリアクションだった。
テクノ/トランス・シーンはある時代までは、完璧な、あり得ないほど100%アンダーグラウンドだった。この点においては、すでに業界のサポートを受けていたハウスとは決定的に位相が違っていた。ディスコ業界の伝統とも隔絶された自由、DIY的で、庶民的で、草の根的なシーン。それでいて、エレクトロニックで、抽象的で、ミニマルなサウンド。どこの馬の骨ともわからぬ若者たちがガキっぽい音楽で騒いでいる、こんな印象をもたれていたのだろう、メディアで仕事をしていたぼくは、自分よりも年上のクラブ関係者からたまに皮肉を言われたものだった。しかし、我らが暴走は止まることを知らなかった。たとえテクノ・ポップ原理主義者が嫌悪を口にしても、このシーンの勢いの根幹にあったのは、そのときそのときの「喜び」だったのだから。
深夜の解放区。闇のなかの天使と悪魔といっしょに、ぼくたちは、30人が数ヶ月後には100人になって、一年後には1000人規模へと発展していくシーンの渦中にいた。1993年、一週間に最低二回は複数のレコード店に通い、欧米から届く12インチ・シングルの溝に掘られたサウンドにいちいち驚嘆していた頃、シーンをさらに若返らせ、さらに大きくした起爆剤がフミヤと卓球だった。フミヤは大阪出身のDIY主義者、20歳そこそこながらも腕の立つDJだった。卓球はもうポップスターだったが、ゆえにアンダーグラウンドでの活動にはいろんな障害があった。アンダーグラウンドは光明ばかりではない、暗黒面もある。しかしまあ、話を端折れば、いずれにしても彼らの情熱がすべてを乗り越えていったのだが。
テクノ/トランス・シーンは、言うなればYMOがやらなかったことをやった。それは、クラフトワークやYMOらに影響されたアメリカの黒人たちやその音楽を触媒とした欧州のダンス文化にリンクすることだった。ふたりに「華」があったとしても、まずはDJとしての技術、アイデア、音楽作品に関する知識や思い切りの良さも持ち合わせていた。あの時代の、デトロイトの〈ミュージック・インスティテュート〉におけるデリック・メイ、シカゴの〈パワー・プラント〉におけるロン・ハーディのような存在だったと、ダンスフロアを知らなかった多くの若者たちを惹きつけたという点においてなら、そのように喩えてもあながち大げさではないはずだ。
90年代の日本には、ほかにも良いDJが何人もいたことは、当たり前の話である。究極的に言えば、良いDJとはそのひとにとっての良いDJであって、絶対的な司祭などいない。だから、彼らが日本で最高のテクノDJとは言わないが、ただし、こうは言えるだろう。おおよそ30年後の2024年の夏になっても、あの時代と同じようにリキッドルームを満員にし、DJプレイによって素晴らしいダンスのパーティを演出したと。安心したまえ。会場を埋めていたのは、もちろん、ぼくと同様、命がけの90年代世代もいたにはいた。が、おそらく多くは、ぼくたちが夜な夜なダンスしていた頃には、まだ生まれていないか赤ちゃんだったような人たちである。
この夜の祝賀者たち、ファンキーな快楽主義たちに混じってぼくが会場に入ったのは、我が同世代人たちがパジャマに着替えているであろう、23時過ぎのことだった。フロアには、フミヤのターンテーブルから、ミックスされた “リコズ・ヘリー” のごろごろしたベースラインが響いていた。で、それから数十分後には “ステップ・トゥ・エンチャントメント” のリフだ。もうおわかりだろう、その夜のテーマが何だったのか。
細かいことを言えば、あくまでレコード盤を使ってミックスするふたりのプレイを聴きながら、あらためて彼らの技術の高さ、アイデアの面白さ、などなどに感服した。プロ相手に言うのも失礼な話だが、PC一台でもDJができてしまう時代だからあえて強調しておきたい、ふたりとも圧倒的にうまい。
彼らは、魅力的な音楽をかける黒子としてのDJであり、ミキシングの表現者だ。卓球が“ザ・ダンス”と“アイム・ア・ディスコ・ダンサー”をミックスしたときにフロアから聞こえた絶叫や大笑いは、グランドマスター・フラッシュから連なるDJイング(ターンテーブルによるサウンドコラージュ)に対するリアクションであり、また、我々が「アンセム」と言うところの、知っている曲がかかったことへの嬉しさの表れだ。こうした妙技が、ひとをフロアから離さないのである。だいたい、深夜の明け方までの音楽の旅は、何が起こるかわからないものだ。この夜もちょっとした事件があった。フミヤが“ソニック・デストロイヤー”のリフをカットインした瞬間、なんと田中宗一郎といっしょに踊り、絶叫することになるとは、いやはや、人生わからないものである。
思わず笑いがこみ上げてくるとはまさにそれだ。いまさら言うのはためらわれるが、DJイングは、その手法にフォーカスすればポストモダンではある。が、それがポストモダン的な皮肉やスカした冷笑主義に陥らないのは、ターンテーブルとミキサーを使ったあの時代のDJが人前に出るには、ひたむきな修練が必要だったからだろう。トランス状態を誘発するには、それ相応の代償があったのだ。ダンスするほうだってそう。
もっとも、ひと晩二杯までという個人的な基準値を優に超え、“アイ・フィール・ラヴ”で燃え尽きたぼくは明るくなる前に離脱したわけだが、午前6時過ぎの生存者たちにはご褒美の“アマゾン”が待っていたと、編集部コバヤシから翌々日に教えてもらった。良かった良かった。しかしほんとうに重要なのは、踊ること。イシュメール・リードの歴史捏造小説『マンボ・ジャンボ』のジェス・グルーに感染すること、あるいはジョージ・クリントンが言ったように、踊っていれば水のなかでも濡れないと、そういうことだ。なぜなら、ひとは音楽を感じて、サウンドの渦に巻き込まれながら踊るために集まっているのだから。そして、当然のことながら疲れて、やがては、明るくなったぼろぼろの街角へと放り出されて、いずれは現実へと戻っていく。ただそれだけのことなのだが、まこと不思議なことに、そのときのサウンドが長いときで一週間は頭のどこかで鳴り響いている。そういうものだったりもする。
ステージ後方では、AIを使ったVJで場にシュールな花を添える宇川直宏&REAL Rock DESIGNがいた。
野田努