「S」と一致するもの

Teebs - ele-king

 〈Brainfeeder〉のティーブスが約12年ぶりとなる来日を発表している。2月21日(金)に渋谷・WWW Xにて開催されるイベント〈4D with Teebs + Yuma Kishi〉に出演。空間/映像表現にスポットを当てるイベントシリーズ「4D」の特別編として、みずから開発したAIを用いた表現をおこなう現代美術家・岸裕真とのコラボレーションとなるようだ。

 本公演はメイン・フロアの全出演者がオーディオ・ビジュアル・セットでのライヴを披露する特別な内容となり、日本からはDaisuke Tanabe + Reiji Saito、E.O.U + jvnpey、Friday Night Plans + Leo Iizukaが出演し、ヴェテランから新星までが出揃う形となる。また、WWW Xのサブ・フロアとしてしばしば開かれる4階フロアにもさらなる出演者の追加が予定されているとのこと。こちらは後日発表となる。

 前売チケットはすでに発売中。さらなる公演詳細については下記を参照いただきたい。

4D with Teebs + Yuma Kishi

2025/02/21 FRI 17:00 at WWW X
U23 ¥3,000 / ADV ¥3,800 / DOOR ¥4,300 (+1D)
TICKET: https://t.livepocket.jp/e/20250221wwwx

LIVE A/V

Teebs [LA / Brainfeeder] + Yuma Kishi
Daisuke Tanabe + Reiji Saito
E.O.U + jvnpey
Friday Night Plans + Leo Iizuka
(+ 4F FLOOR TBA)

協賛: Cyran

Teebs [LA / Brainfeeder]

 長年にわたりTeebsは完璧なアーティストとしての地位を確立してきた。圧倒的なユニークなスタイルで、彼のアイデアは、エーテルの曇った隠された領域から、媒体を通してキャンバスにまっすぐ流れてくるようだ。プロデューサーとして、また画家としてのスキルを反映した彼のプロジェクトは、完璧な一貫性を持ち、人を彼の創り出す世界に深く引き込む。何層にも重なり、果てしなく瑞々しいTeebsの音楽は、超現実的な方法で心と体に語りかけ、最終的にはリラックスし、好奇心と戸惑いを同時に残す。My Hollow Drumコレクティブ、Dublab、Low End Theoryをルーツに持つTeebsは、ロサンゼルスの音楽界を代表する存在だ。Flying LotusのレーベルBrainfeederのレーベルメイトの協力のもと、彼は間違いなくLA内外から進化し続ける多くの新しいサウンドにインスピレーションを与えてきた。Brainfeederからの2枚のフル・アルバムと1枚のミニ・アルバム、DaedelusやJeremiah Jaeらとの複数のスプリット・アルバムやコラボレーションEP、My Hollow Drumからの2枚の限定CDなど、過去9年間にリリースされた作品には畏敬の念を抱かせている。また、ビートのパイオニアであるPrefuse 73と共にSons of Morningの片割れでもある。

 2010年に絶賛されたデビュー作「Ardour」に続き、Teebsは「Collections」(2011年)、「Estara」(2014年)、そして5年間の活動休止を経て2019年に最新アルバム「Anicca」をPanda Bear (Animal Collective)、Sudan Archives、Ringgo Ancheta aka MNDSGN, Miguel Atwood-Ferguson, Anna Wise等の多くの音楽仲間の協力を得てリリースしている。

https://www.instagram.com/teebs__

eat-girls - ele-king

 「それってたんにおまえの好みだろ」と言われてしまわないためにも、これからイート・ガールズがいかに素晴らしいかを説明しなければならない。自分で言うのもなんだが、ぼくはイート・ガールズをかなり気に入っている。そのアルバムは、以下のバンドが好きな人には必聴である。ザ・レインコーツのセカンド、ダブをやったときのザ・スリッツ、アント・サリー、ポカホーンテッド、スティル・ハウス・プランツ……ハルモニアやクラスター的なエレクトロニックなアプローチも見受けられるが、しかし上記のどれとも違っている。ただ、発売レーベルがドイツの〈ビューロー・B〉(クラスターなどのリリースで知られる)は偶然ではない。さあ、説明するぞ。

 イート・ガールズが良い理由、そのひとつはすぐに言える。『アレア・シレンツィオ』とは、優れたポスト・パンク再評価である。既述したザ・レインコーツのセカンド(1981年の『オディシェイプ』)は、コーラジュやダブを応用した当時としては実験作だった。ヴァース/コーラスというポップソングの慣習的な構造を解体したという点で、その後のポスト・パンクに多大な影響を与えた『アンノウン・プレジャー』や『メタル・ボックス』といったインパクトとは別のアプローチによってサウンドの冒険を具現化したアルバムである。いまでこそ評価されているが、リアルタイムでJDやPILと同じように大絶賛されたかと言えば違った。ザ・スリッツのよりダビーな作品は、エイドリアン・シャーウッドがリミックスした“マン・ネクスト・ドア”(1980)だが、これもまた両雄たちのような賛辞があったわけではない。この路線の同胞には、最初期のスクリッティ・ポリッティの“スカンク・ブロック・ボローニャ”(1978)がある。
 これらポスト・パンクにおけるミニマリズムとダブの密約めいた神秘的な音響工作は、当時のほんの一瞬のカルトに留まり、ザ・レインコーツもスクリッティ・ポリッティもそれを続けて発展させようとはしなかった。イート・ガールズは、1980年あたりのUKポスト・パンクがわずかに試み、忘れられたそうしたダブの応用(On-Uのインダストリアル路線でもジャマイカ路線でもない)を引っ張り出して、それがまだ拡張可能なスタイルであることを証明している。チープなドラムマシン、反復するベースライン、モノトニーなヴォーカリゼーション、冷たいギターという、言うなればポスト・パンクの常套手段を踏襲し、自分たちのサウンドを模索することは決して安易ではないが、それを具現化しているのがイート・ガールズのデビュー・アルバム『アレア・シレンツィオ』なのだ。

 ザ・レインコーツは方向転換したがうまくいかずバンドは消滅し、スクリッティ・ポリッティは態度を反転させ、その数年後にはコマーシャル路線へと突進した。これが意味することは、ポスト・パンクにおける音響実験が数年後、いかに袋小路に陥っていたかという話だ。サウンドを更新したことが新しいリスナーを増やすことには繋がるとは限らない。伝統的なヴァース/コーラス形式を好むリスナーがその当時も多かったことは、インディ・ロックの興隆やポール・ウェラーのような人の音楽が人気だったことを鑑みればあきらかだ。しかし、21世紀の現在、スティル・ハウス・プランツやイート・ガールズのようなバンドは、すでに終わったその頃の実験を完全に甦生させている。

 イート・ガールズは、フランスのリヨンで暮らすアリサとエミリで2021年に始動し、アルバムはマクサンスが加入した三人で制作された。スティル・ハウス・プランツよりもキャリアは短いが、本人たちいわく「昆虫学者の忍耐力をもって」ここに到達したそうだ。少なくとも「アシッド・トラックス」のように遊んでいたら偶然生まれたものではないことはたしかだ。そのサウンドはアトモスフェリックで抑揚がないとはいえソングライティングにはメロディがある。ここではエレクトロニックの要素も重要だが、三人いっしょに歌っている感じも良いし、ザ・レインコーツ直系とも言える飾り気のなさ、普段着なのも良い。無理してセクシャリティを見せつけることもないしがんばって人目をひくヴィジュアルをしたためることもない
 そして冒頭の “On A Crooked Swing” から全開の気怠さ……どんな競争や狂騒からも滑り落ちていくような感覚がたまらない。バンドはそれを没入感有するサウンドに仕立てているわけだが、 なかでも“Canine”という曲が白眉だ。「あなたが私に電話したので、私は恐くなって地下鉄のレールの上に落としてしまった/パンケーキが焼ける匂いのなかで愛し合ったのがまるで昨日のよう/いや、違う。私は誰も愛していない」
 英語で歌っている曲が多いが、スペイン語のパンク・ダンス・ソングで、マラリア!を彷彿させる “Para los Pies Cansados(疲れた足のために)” なんていう威勢の良い曲もある。
 アルバム名はイタリア語で、その意味は「静かなエリア」。ヤング・マーブル・ジャイアンツ風の静寂は、アルバムの多くに、こと“earthcore”なる曲に受け継がれている。それは眠たい目をこすりながらパジャマのまま世界を眺める不快感にも似ているが、“Trauschaft”なる曲の荒削りの疾走感でアルバムが締めくくられるとき、リスナーは自分の世界が少しだけ、でも確実に広がった気持ちを抱くだろう。

aya - ele-king

 aya——2021年年末のデビュー・アルバム『im hole』のインパクトがいまだに忘れられない人も多いでしょう。そこで、嬉しいニュース。待望のayaのセカンド・アルバム『hexed!』が出るのですが、これ、期待にじゅうぶんに応えている。2025年、動き出しています……

 以下、レーベル資料から

 『hexed!』は——ayaのセカンド・アルバムは依存の絶望と崩壊に真正面から向き合う。内面化された恐怖症や抑圧されたトラウマが、かつて2021年の『im hole』でロマンティックに描かれた廊下や“ゴールデンアワー”をさまよう。夜通しのアフター巡りやキー・バッグの輪の中に隠された白昼の悪夢。『hexed!』とは、ayaがその明かりを灯したときに起こるすべてのこ。。
 私たちは早朝からクラブに押し寄せ、最初のシングル「off to the ESSO」をリリースした。ラップの歌詞は、チューブラインやライフラインを包み込む弾力性のあるもので、蛇行するベースの揺れはドラッグ中毒者の欲望の道を切り開く。全盛期のHatebreedがKevin Martinのミキサーにかけられ、ハードダンスフロアへと召喚されたサークルピット。クィアな献身の甘やかな果実——「リンゴを半分に切って / 交互にかじりながら午後を過ごす」——はゆっくりと腐りゆく。互いの“sic(病)”を育みながら、自傷のサイクルに絡み合うカップル。“peach”はBDSMコアであり、マルキ・ド・サド装置としてのayaは、プログラムされた鞭で主人と奴隷の二元論を斜めに叩く。一方で彼女は痰を絡ませながら呟く“navel gazer”。鼻から漏れるephlegmera(痰とエフェメラ)、皮肉たっぷりのワードプレイ、そして過渡期以前の過去が、濃縮されたBASSの魔法釜のなかで煮えたぎる。
 “heat death”は静的/静止の黒ミサで、その熱狂的なパニック発作は崇高なものとの交わりを引き起こす。それは“hexed!”と“The Petard is my Hoister”においてフーガのようなノイズを伴いながらドローンの不協和音として響き渡る————まるでPortalやKralliceを生み出した虚無が吐き出したかのように。パルサーの爆発を呼び寄せ、重厚なブラスを打ち鳴らすayaは、暗黒の玉座にまたがっている。ガシャガシャと鳴る打楽器、錆びついた軋み、闇の中の囁き——“droplets”は、まるで95〜99年のSlipknotを息苦しいTotal Freedomのエディットに押し込めたようなものだ。敗血症を患ったIncubusが巣食うこのニューメタルの物語は、かゆみを伴い、煮えたぎり、膿み、息づいている。ayaが再訪するのはヨークシャーの村で迎えた悲しい11月、あの10代の記憶だ。
 反抗的なDeftonesのメロディが解放へと導く。それは、エンジェルダストの注射のように、彼女の“vaynes”から毒の泥を洗い流していく。引き裂かれる喉が叫ぶ“Time at the Bar”ではBABYMETAL的な「カワイイ」が交差する。(sl)ayaは、郊外の退屈な2.4人家族的均質性に呪いの乾杯を捧げながら、ジェットコースターのようなJoey Jordisonのドラムソロ、SOPHIEのウォータースライド、テク・ガバ・グラインドのドッジム(バンパーカー)の pileup、そしてトリルを響かせるArca-deゲームの中を駆け巡る。彼女は、捨て去られた自分の亡霊たちの首を掲げ、金属的すぎるブラストビート/ブレイクビートの左手の小道へと分岐する——

aya
hexed!

Hyperdub – March 28, 2025
HDBDLP069 – LP / Digital

FKA twigs - ele-king

 00年代前半、サウス・ロンドンから勃興したグライムは警察権力の介入を何度も受けていた。建前は暴力の取締りで、本当のところは人種差別が根底にあったとされている。同時期にシェフィールドではグライムと同じくUKガラージから派生したベースラインが同じ憂き目に合っていた。具体的にはベースラインの中心地だったクラブ、ザ・ニッチ(the Niche)が05年に強制捜査の末に閉鎖され、4年後に再オープンしたものの、19年には完全に閉鎖へと追い込まれている。グライムはパーティやイベントを行う際に主催者の個人情報をすべて警察に提出し、想定される客層の人種も報告しなければならなかったものが、09年までにはそのような規約が表面的には撤廃されると発表されただけで、実際には似たよう措置が続けられたため、「家で聞くグライム」が提唱されたり、USヒップホップと結びつくことで過剰にマッチョ化するなど音楽性に多大な混乱をきたしたのに対し、ベースラインは10年代に入るとハウスの比重を増した音楽として生き残りを図ったことで急速に退屈な音楽になってしまう。ペイルフェイスやビッグ・アング(Big Ang)が生み出した魅惑のチューンは08年を境に雲散霧消し、グライムのように粘りに粘ってナショナル・チャートに届く曲を生み出すどころか立ち消えとなってしまったのである(ちなみにグライムの騎手だったディジー・ラスカルがやはり08年にベースラインのリミックスを含む “Dance Wiv Me” をリリースしたことはちょっとした驚き)。

 流れを変えたのは05年に艶やかな “Rider / Random” というヒット・チューンを出したDJ Qが、ザ・ニッチのクローズする2年前に『Pure Bassline』と題してベースラインの新曲をまとめたミックスCDをリリースしたこと。どん底に落ちていたベースラインはここから徐々に息を吹き返し、21~22年にはパーリス『Soaked in Indigo Moonlight Can You Feel The Sun』、シャイガール『Nymph』、ヴィーガン(Vegyn)『Don't Follow Me Because I'm Lost Too!! 』と、ベースラインを少なからず取り入れたアルバムが立て続けに話題をさらう。さらにトゥー・シェルが同じ22年にビッグ・アング “Bassline Burn” を高速にしたような “Home” をリリースし、これがアンダーグラウンドで大注目を浴びる。あるいは独特の音楽性に落とし込んだクラップ!クラップ!『Liquid Portraits』やイオマック(Eomac)『Cracks』、ハードで高圧的なコード9 “The Jackpot” や誰よりも官能的で豊かな感性を覗かせたジョイ・オービソン “Pinky Ring” と一気にイノヴェーションが進み、昨年はスペシャル・リクエスト『Portal 1』にソウル・マス・トランジット・システムによる “Hectic” のベースライン・リミックスがフィーチャーされるなど他ジャンルへの侵入も止まらなくなっている(トゥー・シェルのデビュー・アルバムも昨年末にリリースされ、ダークな方向性をUKファンキーに示唆した)。

 FKAツイッグスことダリア・バーネットがコロナ禍にリリースしたミックステープ『Caprisongs』(22)は、こうした動きに反応し、あからさまに “Home” を意識した “Pamplemousse” をはじめ、多少のひねりを加えた “Jealousy” や “Darjeeling” でベースラインを取り入れ、これまでのスローな曲調とは異なったモードを展開。シンプルな構成でそれほど多くは音が重ねられていなかった『Caprisongs 』を青写真と捉えるなら、こうしたシフトをアルバムの半分近くまで増大させたものが新作の『Eusexua』で、これはストレートな発展形と捉えることができる。ベースラインに振り切った動機は映画『ザ・クロウ』の撮影のために訪れたプラハで経験したクラブの一夜が素晴らしかったからだと本人はコメントしているけれど、ベースラインに対する興味は『Caprisongs』ですでに始まっていたのであり、プラハでの一夜はこれを確信に変えたということなのだろう。バーネットのダンスはモダン・バレエに基づき、ここ数年、ヴォーグやヴァレンティノのショーで展開してきた体の動かし方を彼女自身が「体は芸術」だとする考え方に具体性を与えるものだったとしたら、プラハでの一夜はおそらくクラブでひたすらダンスに没頭することにあったのではないかと考えられる。最終的にMVに落とし込まれる段階では投影されることはないにしても、モダン・バレエにストリート・ダンスを組み合わせてきた彼女の価値観とは異なる体の動かし方に音楽性も影響を受けて、簡単にいえばいままではあり得なかったテンポに『Eusexua』は染まっているのである(『ザ・クロウ』のリメイク作はちなみに『ゴースト・イン・ザ・シェル(攻殻機動隊)』を撮ったルパート・サンダーズ監督の3作目で、FKAツイッグスがヒロイン役を務めたホラー映画)。

 オープニングからまるでトランスである。『Eusexua』にはアディショナル・プロデューサーとしてトゥー・シェルの名が5曲でクレジットされていてUKガラージのカラーを強めようという意図は明確だけれど、タイトル曲となるオープニングは筆頭プロデューサーとしてアースイーターが起用され、このところエシリアル(エーテル)と形容されることが増えた優美で幽玄な雰囲気を出すことに成功している。バス・ドラムの位置が少しだけずれているのでさすがにトランスとは同じではないものの、スロー・テンポで官能性を際立たせることが多かったバーネットがテンポを加速させてもこれまでと同様に官能性を導き出そうとする姿勢には一貫性というよりもはや業のようなものを感じてしまう。「私は空を飛んでいる、言葉にはできない、私もあなたも孤独ではない」と歌う “Eusexua” は多幸感を意味するEuphoriaにsexを混ぜ合わせた造語だそうで、マイアミの男性ストリッパーたちを描いた映画『マジック・マイク』にマイケル・ジャクソン “Thriller” を掛け合わせたようなMVは彼女の多幸感に対するイメージがそのまま投影されているようで、ちと怖い。

 前述した “Pamplemousse” は少しテンポを落としただけで “Room Of Fools” や “Perfect Stranger” にあっさりと生まれ変わっている。ベースとコーラスがアップテンポのまま同期し続けている感じはベースラインというよりもはやスピード・ガラージまで戻った感もあり、悪くいえば “Home” にバーネットのヴォーカルとブレイクを加えただけの前者にはトゥー・シェルを中心に元ブロウ・モンキーズのモーリス・デ・フリースも参加(デ・フリースはビヨークやU2でキーボードを弾き、ネリー・フーパーと組んでソング・ライターのチームとしても活躍)。後者のプロダクションにはリアーナとのロング・コラボレイターでUSヒップホップとの絡みも多いノルウェーのスターゲイトとカニエ・ウエストの人脈からオジヴォルタ(ojivolta)が参加している(ちなみに週刊誌的な話題としてはカニエ・ウエストとキム・カーダシアンの娘、ノース・ウエストが “Childlike Things” にヘンな日本語ヴォーカルで参加)。デビュー当初から凝りに凝ったプロダクションで攻めてきたバーネットが「あなたが何者でも構わない、気にしない」と簡単なことしか歌わない “Perfect Stranger” のようなシンプルな曲を乱発するわけもなく、 “Keep It, Hold It” では前半と後半で曲調が変わり、早くもベースラインをそのままでは扱わなくなっている。なんというのか、2ステップとアンビエントを交互に配しながらいきなりベースラインで走り出すというイビツな構成で、何回も聴くと慣れてくるけれど、最初はなかなか曲のイメージがつかめない不思議な曲である。それこそこの人は音楽をナラティヴなものとして捉えている時に力を発揮するタイプなのだなと強く思わせるものがあり、このままシンプルなガラージのアルバムをつくる方向には進まないだろうということを確信させる。 “Keep It, Hold It” にはアディショナル・プロデューサーとして『Magdalene』から引き続きニコラス・ジャーが参加。また、同曲はFKAツイッグスのバック・バンドでキーボードを担当するカリ・マローンではなく、なぜかケリー・モーランがピアノを弾いている。

 “Keep It, Hold It” のようなヒネリはやはりバーネットがアルカやOPN、最近だとレヤ(Leya)やメキシコのアヤ・アイルランドといったグロテスクな価値観を担ってきた存在だからこそ生じる表現なのだろう。グロテスクの向こうに美を見るというのが彼女の理想だとしても、『Eusexua』を飾るヴィジュアルやヴィデオにはやはりバッド・テイストが過多で、どこかホラーじみたものさえ漂っている。レイプされた女性たちが破れた衣装のままランウェイを歩くというファッション・ショーで一躍知名度を得たアレキサンダー・マックイーンが生きていたら必ずやコラボレーションが成立しただろうと思ってしまう彼女の美意識は、しかし、もしかしたら現在、シャイア・ラブーフのDVを告発して係争中の裁判からヒントを得ている可能性もなくはない。スピルバーグの秘蔵っ子として知られ、『ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男』ではマッケンロー役を見事に演じたラブーフはアルコール依存症で何度も社会的地位を失いかけ、ダコタ・アクセス・パイプラインの建設運動やトランプへの抗議活動で逮捕されたりと私生活があまりに波乱万丈であり、バーネットと数ヶ月の交際の間にもレイプや虐待があったとして1000万ドルの賠償請求を起こされている(2人のスケジュールがあまりに忙しすぎて一回も公判が開かれていないというニュースを読んでからもだいぶ時間が経っている)。バーネットの訴えにはラブーフから性病を移されたという項目もあり、『Eusexua』のダーティでナスティなヴィジュアルを見ていると、どうしてもそのことが頭をよぎってしまう。むしられたようにしか見えない髪型や奴隷のような出で立ち。支配と非支配の転倒や幸福への違和感。真意はわからないけれど、黒人奴隷を鞭打つ時にどこかSM的な快楽とダブらせて表現するなど政治的なテーマと性的な文脈をわざと混乱させて描くスティーヴ・マックイーンとは妙にイメージが重なり、ここ最近のイギリスが生んだ黒人の才能という意味でFKAツイッグスとスティーヴ・マックイーンには同時代的な感性が共通点として存在していることは間違いない。

 『Caprisongs』からあらかた削ぎ落とされたヒップホップの要素をカヴァーするように『Eusexua』にはまた、イーノのアンビエントを思わせるのイントロの “24hr Dog” や、かつての “Water Me” を大袈裟にしたような “Sticky” など奇妙な変化球もそこかしこに挟まれ、大幅にベースラインを取り入れたアルバムという印象は持たせない。メジャーもアンダーグラウンドもない人選の嵐は続き、長い付き合いとなるメイン・プロデューサーのコアレスとビッグバンのG-ドラゴンが組んだ “Drums of Death” はなかでもかなり異色で……こういうのはなんていうのだろう……わからない……ので省略。オーケストレーションをふんだんに加えた “Striptease” 、カラフルなトリップ・ホップの “Girl Feels Good” 、カントリー・ソウルで締められる “Wanderlust” と、とにかく曲調は多岐に渡り、それでいて支離滅裂ではなく、むしろ統一感はありまくる。何よりも自分の美意識を優先した結果、自然とそうなったとしか思えないし、これまでやってきた音楽性とは正反対ともいえるベースラインを自分の感覚に引きずり込んでしまう力技はやはり大したものである。

 冬の澄み渡るような空とは裏腹に、なんとなくパッとしない気分が続いていた。というよりは世間の年末年始の祝祭ムードにやられていた。
 早足で街を抜けながら、ダークグリーンのレンズで目に入る光量を絞り、耳にはカナル型のイヤホンをねじ込んで、ザ・キュアーの新譜やザ・シスターズ・オブ・マーシーのファースト・アルバムで外のノイズをキャンセルしようと試みたり、私のような者たちを収容してくれるパーティを探したりしたが、例年通り世間の躁状態を反映したイベントやパーティで溢れ、「せっかくのホリディなんだからさ、GOOD VIBES ONLYでいこうよ!」みたいな、私がひそかにハッピーニューイヤーウォッシングと呼んでいるムードを再確認するに終わった。街のそんなムードの中で私をブッキングしたパーティを作ってくれる箱やオーガナイザーに、私はとても感謝している。今年こそは(実は去年頭からずっと思っていたが)、HOPE PUNK的なノリで行くんだと決めていたのに、躁状態の街に出鼻をくじかれてしまった。そして、追い討ちをかけるようにデイヴィッド・リンチの死の知らせが届いた。

 好きな彼の作品をあげよと言われたら、まず思い浮かぶのが『ロスト・ハイウェイ』か『インランド・エンパイア』なのだが、ずっと不思議な引力を感じている作品は『マルホランド・ドライブ』だ。ハリウッドという虚飾の街を舞台にしたブルースに、奇妙な居心地の良さを感じてしまうのだ。坂口安吾は「孤独は、人のふるさとだ」と書いたが、悪夢のような世界で夢を見つづけることの孤独さに、なんとなく懐かしく優しい抱擁のような、悲しい快感を覚えたのかもしれない。最後まで観てから再びオープニングを見返すと、さらにその気持ちが強くなる。リンチの作品の中では、(彼の作品にそんなものは求めていないが)最も共感を呼び起こす作品かもしれない。
 『マルホランド・ドライブ』と共通点はありつつも、私にほぼ正反対の印象を与えた作品が『インランド・エンパイア』だ。作中で唐突に登場するうさぎたちは、私に作品とルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』とを瞬間的に結びつけさせた。マーク・フィッシャーは『不思議の国のアリス』から資本主義社会の不条理な様を見てとったが、私は『インランド・エンパイア』のエンディングへの向かい方と、そこで流れるニーナ・シモンの『シナーマン』から、躁状態で走り続けなくてはいけない、不条理な世界への恐怖を感じた。この世界で罪人とは、悪魔とは何なのか。救いはあるのか。約10分のエンディングは、私にそんなことを考えさせた。そしてこの作品からも私はブルースを感じた。『マルホランド・ドライブ』のブルースが都市に飲み込まれる地方出身者のブルースだとしたら、『インランド・エンパイア』のブルースは、不可視化されることの恐怖と悲しみだろうか。彼の作り出す世界はとても不条理なものばかりだが、彼の不条理な世界に生きるキャラクターたち——『ワイルド・アット・ハート』や『ツイン・ピークス』がわかりやすい例だろう——が、その不条理な世界を各々の方法で生き抜く姿が、私の目にはとても魅力的に映るのだ。
 そして『ロスト・ハイウェイ』が好きな理由はとても単純。カッコ良いからだ。暗闇の中をわずかなヘッドライトの光を頼りに疾走する様、砂漠で燃える小屋、電撃、マスタング、黒いシルクのベッドカバーに映えるクリムゾンレッドのネイル。そしてエンディングでのボウイの曲への入り方。はじめて観たのはまだ10代の頃だったろうか。笑顔を浮かべながら画面に釘付けになったのを覚えている。

 音楽的な面でも、私は彼の作品がとても好きだ。彼の死を機にアルバムをいくつか聞き返しているが、やはりアンジェロ・バダラメンティと共にソート・ギャング名義で出したアルバムが、私にもっともフィットしているように思う。ジャズ、ロック、ダブが融合し、ゴシックでニューウェイヴでインダストリアルな精神を感じさせるからだろうか。奥底に横たわる低音と、その上を走るハットから、『インランド・エンパイア』で感じたような悲壮感や、『Twin Peaks: The Return』の前半にあったような世界の展開を感じ、より抽象的にリンチの作品に触れられたような気がした。

 そういえば、彼はコロナ禍にYouTubeで天気予報の配信をしていたのだが、その中での「I’m wearing dark glasses today. Because I’m seeing the future and it’s looking very bright.」という言葉は、ちょっとしたミームにもなった。先の見えないコロナ禍で、明るい未来が見えるという彼の発言に、ほんの少し救われたことを覚えている。もしかしたら、これはHOPE PUNK的なことなのかもしれない。
 HOPE PUNKという言葉は、SF作家ベッキー・チェンバースのインタヴュー記事で知った。曰く、それはディストピアに抵抗することだそうだ。権力は抵抗する者たちを何度も叩き潰すことによって再帰的無能感を植え付け、オルタナティヴなど存在しないというメッセージを発し続けてきた。そしてそれはとても上手く成功し、絶望的な状況ができあがった。しかし、そこでただ絶望を嘆くだけでは、再帰的無能感の再生産に寄与してしまうだけだろう。ディストピアは権力によって一方的につくられるわけではなく、絶望し、無能感を植え付けられた市民との相互関係によって完成するが、そのフィードバック・ループから脱するヒントがHOPE PUNKにはあると思う。HOPE PUNKとは、希望をイメージしたり、違う世界の可能性を考えてみること。もしかしたらそれは、ベルベットのカーテンの向こう側を想像したり、悪夢の中で夢を見たり、ということなのかもしれない。

 デイヴィッド・リンチ、いろいろな世界を見せてくれてありがとう。わたしも悪夢の中でも、夢を見続けようと思う。

Lambrini Girls - ele-king

 ランブリーニ・ガールズという、遊び心と反抗心、快楽とアイロニー、および現代英語圏の若者言葉のセンスが込められた名前(洗練されていない、大衆的で安物アルコールを飲んでいる少女たちといったニュアンスで、いかにも英国風のウィットがある)を名乗るブライトンのパンク・バンドのデビュー・アルバムが英国で話題になっている。最近の流れでいえばニュー・オーリンズのスペシャル・インタレスト、あるいはメルボルンのアミル・アンド・ザ・スニッファーズなんかのパーティのりにも似ている。怒っているが、楽しんでもいるのだ。この享楽性は、世のなかが暗くなると、とかく禁欲的になりがちな日本にはちょうどいいかもしれない。

 とくに目新しいトピックはないものの、ポジティヴなメッセージがアルバムを通底し、「えー、それ言っちゃうの」みたいな言い方や現代の若者スラングが多そうなので、歌詞がわかるとより楽しめるのだろうけれど、バンド(中心はヴォーカル兼ギターのフィービー・ラニーとベーシストのリリー・マシエラ)の気迫およびユーモアはサウンドだけでもじゅうぶんに伝わってくる。とにかくむちゃくちゃ威勢がいい。ライオット・ガールの影響を受けていることは言われなくてもわかるけれど、この、エクレクティックではない一本調子のサウンドがいまは新鮮に聴こえるから不思議だ。

 そしてアルバムを聴きながら、どういうわけかぼくはここで、1990年代の英国にオアシスというバンドがいたことを思い出した。彼らがすごかったことのひとつに、自分たちの主要な影響源をビートルズとピンク・フロイドの『ザ・ウォール』であると堂々と言ったことがある。あの当時の英国インディ・ロック・バンドは、プライマル・スクリームがいい例だが、音楽に詳しかった。ジョン・ライドンが音楽マニアでレゲエやクラウトロックの知識を持っていたように、ジョニー・マーには60年代ポップスの知識があった。トニー・ウィルソンいわく「なぜマンチェスターから良いバンドが出てくるのか知りたければ、彼らのレコード棚を見ればいい」
 この流れにオアシスというのは、いま考えると一周回って面白い。男らしさというか潔さというか、オアシスはポスト・パンクからのひとつの流れ、頭でっかちでナードなところを遮断した。彼らはビートルズの青盤/赤盤しか知らなかったという説もあって、実際にはストーン・ローゼズやセックス・ピストルズの影響も受けているからそれはさすがに都市伝説だろうが、それにしてもベタだ。そして、わずかそれだけの影響であれだけ良い曲を作れたのだから、やはり突出した才能があったのだろう。

 デジタル時代の英国のインディ・ロック・バンドたちは、じつに広く、20世紀の若者にはあり得なかったほど、いろんな過去の音楽をよくご存じだ。マニアックな音楽からメインストリームの音楽、ジャンルを問わず英米以外の音楽も分け隔てなくフラットに聴いている。もう、オアシスのようなバンドが出てくる可能性はだいぶ低いが、こんな状況だから、ぼくは一本調子のサウンドで押し切るバンドに対して奇妙な関心を抱くようになってしまったのである。(*)

 ずいぶんと話が脱線してしまったが、ランブリーニ・ガールズの『Who Let the Dogs Out(こいつらを連れてきたのは誰だ)』は、ひょっとしたら、オアシスのような男性的な男性バンドをおちょくってもいるようにも思われる。が、しかし日本人のぼくは、ここに同じような英国風「やったれ」感を感じてしまう。偏見かもしれないけれど、ぼくはその英国風「やったれ」感が好きなのだ。まあ、だからといって、それをサッカー場やパブなんかでビールを片手に壁を作る労働者階級の男たちを連想させるオアシス的世界のZ世代ヴァージョンとはさすがに言いません。まったくあの感じではない! スリーフォード・モッズのようにここには「泣き」はないし、ウィット重視で、爽快なまでに一本調子のサウンドで走り抜いている。とはいえ、曲のヴァリエーションのなかにエレクトロニックな要素も入っていて、ひょっとしたらこの先ダンス・ミュージックよりの展開を見せるかもしれない。現時点でもアゲアゲで、スピーディーで、パーティな感じ全開だし。

 まあ、なんにしてもトランプ政権が世界に与える文化的影響を思えば、このぐらいの先制パンチは必要だろうと、しかしねぇ……「抗議し、デモをやって、労働組合を結成しろ」とか「グレート・ブリテイン、マジにそう?」とか、「ケイト・モスが私の人生を台無しにした、クソ、炭水化物を食べさせろ」くらいならまだしも、「デカチン・エネルギー、デカチン・エネルギー、ねえ、私から離れてくれる?」「 上司が私をファックしたがっていることを無視して笑おう」──男らしさを罵倒し、富裕層に牙をむくランブリーニ・ガールズだが、たまに出てくるその下品な表現がSNSに散見される罵詈雑言とどこが違うのかぼくの英語力では判別つかない。過去に男性ロッカーが同じようなことをやってきてはいるが、しかしスラヴォイ・ジジェクが言うところの「猥褻なものが公の場に浸透」している現在。「礼儀正しさ」や「誠実さ」が却下され、勝利に酔った下品な笑いがこだまするこんにちにおける口汚い抵抗に、このおいぼれは一抹の危うさを覚えている。それでもいまは、パンク好きのひとりとして、この音楽にほとばしっているエネルギーに一票入れたいと思う。

(*)ちなみに、オアシス以前にパンク以降の若いバンドがその影響源として「ビートルズ」の名前を大々的に出したバンドはおそらくいない(テレヴィジョン・パーソナリティーズがアルバム名で使っているくらいじゃないかな)。みんなビートルズの偉大さは知っているけど、大き過ぎてそれを影響として言うのはちょっと違うかなと思っていたのだろう。


【2月4日追記】
2月1日、ロンドン中心部では「極右を止めろ(STOP THE FAR RIGHT)」デモに約5,000人が集まった。これは、同日おこなわれた「トミー・ロビンソン」(極右活動家)を支持するデモ(こともあろうか、ザ・クラッシュの“ロンドン・コーリング”が演奏されたらしい)に反対するためであり、LGBTおよび人種差別、そしてファシズムへの反対集会だった。ランブリーニ・ガールズは、この集会でスピーチした。

パソコン音楽クラブ - ele-king

 大成功を収めた〈Boiler Room Tokyo〉の誇張されきった世界観については、別段良いとも悪いとも思わない。ただ、プラスの影響と懸念すべき点が表裏一体となって現行のクラブ・シーンに大きな刺激を与えているのは事実ではあると思う。そういうお客さんを毎週のように間近で観測しているし、それをきっかけにクラブに通いはじめたユースが徐々に別の分岐点に立ちはじめているような気配もする。でも、とりあえずは、語るべき言葉がスッと出てこないおとぎ話のようなクラブ像についてより、今昔どちらから生まれた物事にも等しくまっすぐ愛情を注ぐような、地に足のついた作品の話をしようと思う。

 パソコン音楽クラブは、かつては空想を抱えて逃避する先であり、いまは社会インフラそのものとなった(そして耐用年数を迎えはじめ荒れ果てている)インターネットから出発し、今年で結成10年を迎える電子音楽ユニット。彼らが昨年夏にリリースした5thアルバム『Love Flutter』は、結成当初から掲げてきた「DTMの新時代が到来する!」というポップなキャッチフレーズの残り香はそのままに、よりディープに身体性へと訴えかけるような気概を感じさせる、ダンス・ミュージックへ真正面から挑戦した意欲作だった。ただ、より硬質なサウンドを追い求める一方で、本作においても引き続きユニットの根底にあるポップ・センスは存分に発揮されてもいる。コロナ禍の真っ只中にリリースされたアンビエンスを感じさせる3rdアルバム『See-Voice』にて徹底的に内面と向き合った際にも薄皮一枚でポップス「でも」あることは保っていたし、終息直後のタイミングでリリースされた4thアルバム『FINE LINE』では一転して切なさすら感じさせる全力のポップ・センスを発揮していた。

 しかしながら、本作『Love Flutter』は上述したようなポップさを残しつつも、決して全面には押し出さず装飾として機能させることを徹底した仕上がりになっていることが特徴的だ。それはおそらく、パソコン音楽クラブが長きにわたる活動のなかで宅録的な音像の持つ繊細な温かみから、サウンドシステムで鳴らされることに耐えうる強固な音像へと接近していったこと、そしてなによりメンバー両名が30代を迎えて「大人になる」決意を固めたことが関係しているように思える。「キッチュなポップスから卒業」する必要はもちろん一切ないけれど、そこに終始するだけでは伝わるべきことも伝わらない、ということは、同年代の自分にも痛いほどわかる。だからこそ、強い共感をもって本作を聴き、いまの彼らのライヴを観て、DJセットにも積極的に組み込んでいる。これはある種、未来を見据えた決意表明のような作品でもあるのだろう。

 客演に参加したCwondo(No Buses)、柴田聡子tofubeats、MFS、Mei Takahashi(LAUSBUB)、Haruy、Le Makeupといったヴァラエティに富んだ面々が辣腕をふるったトラックでは、これまでのパソコン音楽クラブの辿った足跡と、その過程でひたすら研ぎ澄まされていった「J-POP/邦楽的なエッセンスを電子音楽に昇華する」という彼らの持ち味が両立しきっている。だから、これらをピックアップして一聴するだけでも、いままでのファンとこれからのリスナー双方を満足させる仕上がりであることは伝わるはずだ。

 ただ、本作『Love Flutter』の本懐は決してそこではない。制作において主に使用されたのは、いままでのパソコン音楽クラブのシグネチャー・サウンドであったローランド・SC-88Proに代表されるPCM音源モジュールではなく、ブックラやムーグのモジュラー・シンセサイザーであったという。モジュラー・シンセサイザーにはその性質上、使い手の想定外のサウンドが発生しうる。そうした偶発的に生じる揺らぎを、生の楽器の細かなチューニングの差異のように取り入れ、時には鍵盤を手弾きして、フィールド・レコーディング的なサンプリングも実践してみる、といったアプローチから、ダンサブル=身体的、といった短絡的な解釈にとどまらない「音楽的な身体性」を随所に散りばめることに成功している。それは、10年を通した活動のなかでパソコン音楽クラブが円熟期を迎えはじめていることの証左でもあるだろう。

 リファレンスとまではいかないものの、本作の制作過程でふたりがよく聴いていたのはオーヴァーモノフローティング・ポインツフレッド・アゲイン‥ボーズ・オブ・カナダといったアーティストだったという。そうした面々にも電子音的な「揺らぎ」という成分が作風を下支えする要素として共通しているし、そのようなサウンド・デザインに邦楽らしさを残しつつも漸近しているという点も興味深い。ごく個人的なハイライトは128BPMで徐々に視界が開けるような展開を見せるヒプノティックなハウス・トラックの “Fabric” で、アウトロのピアノがスッと消えてすぐにJ-POP的なスウィートな切なさを伴うメロディックなジャングル “Child Replay” (feat. 柴田聡子)へと繋がる展開の切り替わりも素晴らしい。ほかにも、客演陣が華やかさを発揮する楽曲の間にリヴァーブの効いたアンビエント・トラック “Observe” や、彼らには珍しく荒々しさも見え隠れするバウンシーなブレイクス・チューンの “Boredom”、プログレッシヴ・ハウスとトランス、UKベースの中間点を探る “Memory of the moment”、モジュラー・シンセシスのざらついた音像にフィールド・レコーディング的なサンプルが光るノンビートの “僥倖” といったインストが、インタールードとしてではなくポップスと並列的に散りばめられていることが、本作最大の魅力であり美点であるように思える。

 初期衝動的な楽しさのことは決して片時も忘れることなく、それでもその居心地の良さの外側に向かい、大局的な心情でこの先もずっと続いていく音楽家としての道を、ロールモデルを参照するのではなく、自分たちで引いていく気概とともに粛々と進んでいく。そんな決意を、肩の力を抜いたままに秘めているような作品なのかもしれないな、と本稿を書くことになったとき、改めて強く感じた。今後のライヴ・セットの指針になるようなものを作りたかった、といったことも昨年別の媒体で僕が実施したインタヴュー(https://avyss-magazine.com/2024/08/29/52983/)で彼らは明かしていて、ドラスティックな変化ではなくひとつずつ積み上げていくような、遠大な時間を要する進化と深化を目指そうとする姿勢も感じられる。アルバム・タイトルの「フラッター」とは、音響機器の回転ムラに起因する音の歪みといった意味から、ときめきやざわつきといった心の機微まで、広い意味が託されているとのこと。それはまさしく、パソコン音楽クラブが発足以来常に重要視してきた要素であるとも読み取れなくはない。

Lifted - ele-king

 アンドリュー・フィールド・ピカリング(マックス・D)とマット・パピッチ(コ・ラ)によるリフテッドの新作『Trellis』(Peak Oil)は、彼らの音楽的探求が成熟に達したことを示すアルバムだ。

 彼らは10年代を象徴する音楽の本質を理解し体現してきた。それを一言で表せば「楽園への/からの逃走」ではないかと私は考える。われわれは「楽園」を失った楽園」という言葉を「過去」や「未来」と置き換えてもいいだろう。
 膨大な情報がノイズのように蔓延し、感情や記憶が生成される間もなく泡となって消え去る時代。その中でノスタルジアや未来への希望は、生まれる前に消滅する運命にあった。それが10年代という時代の特徴だった。奇妙なニヒリズムが社会に蔓延し、人々の脳は数値的な評価や即時的な動員の思想に毒され、一瞬のデータに一喜一憂する。彼らの音楽は、このような時代背景と共にあった。
A
 リフテッドの音楽は、そのような「失われた過去と未来」を収集するかのように構築され、音を通して「心をどのように休めることができるのか」という問いを投げかけていた。彼らの作品は、いわばヴェイパーウェイヴ的なムードに寄り添いながらも、同時にその枠を少しだけ逸脱する個性を持っていた。
 その音楽には、電子音、テクノ、ジャズ、アンビエントといった要素が折り重なり、それらは形式ではなく、むしろ失われた記憶の断片のようなムードとして音楽全体に溶け込んでいた。それは陶酔というより、安息の音響であり、同時にそれは現代の技術で精巧に作られた過去のイミテーションのようであった。だからこそ私たちはそこに失われた未来を聴き取った。
 2015年に〈PAN〉からリリースされた『1』と、2019年にリリースされた『2』は、どちらも当時の音楽的潮流を反映した作品だった。現在、改めて聴き直してみると、ジャズの要素が想像以上に多く含まれていることに気付く。おそらく20世紀のムード音楽とジャズが密接な感性にあるからともいえる。いわば音全体は「フュージョン・アンビエント」とでも呼ぶべき心地よさに満ちており、その一方でその心地よさを一瞬で破壊するような意地悪な仕掛けも存在していた。この相反する要素の交錯こそが、極めて10年代的であり、ヴェイパーウェイヴ的と言えるかもしれない。
 2022年に〈Future〉からリリースされた『3』では、ジャズやフュージョン的な要素がより前面に押し出された。リリース当時はその変化に戸惑いを覚えたが、今になってみると、『3』が示した変化の意味がようやく腑に落ちる。
 本作『Trellis』も『3』までと同様にエレクトロニカとフュージョンの交錯のようなサウンドを構成している。いや、より生楽器が取り入れられているともいえよう。
 まず最初の1曲目“All Right”のギターとドラムのアンサンブルに驚かされた。まるで60年代末期のフリージャズを思わせる大胆な演奏なのだ。エレクトリック・ギターが加わり、どこかサイケデリックなムードを感じさせる。エレクトロニック・ミュージックの要素はほとんど姿を消しており、この音楽が本当にリフテッドの作品かと疑うほどの変化を遂げていた。ジャズとサイケデリック。それがこのアルバムの最大の特徴に思える。
 2曲目“Open Door”はミニマルなピアノを中心とするムーディーな曲だ。その音は深い残響に包まれている。1曲目“All Right”とは異なった音だが、同時にサイケデリックな浮遊感があり、アルバムはそのようなトーンで進行していく。
 アルバム中、実験的な成果が聴かれる曲は4曲目“Warmer Cooler”と6曲目“The Latecomer”だろう。“Warmer Cooler”では、どこかフラジャイルなシンセパッドと微細なノイズによってサウンドのテクスチャーが生成されていく曲だ。“The Latecomer”は、アトモスフィアなブラシ・パーカッションと不安定な電子音と管楽器のソロによるアンビエント・ジャズな曲である。7曲目はクリッキーなリズムが流れる曲だ。アルバム中、もっともエレクトロニカな曲だ。“The Latecomer”の不穏な感覚から、明るさを感じさせるトーンになっている。
 本アルバムは、ギタリストのダスティン・ウォンやドラマーのジェレミー・ハイマン、さらにはマルチインストゥルメンタリストのベンジャミン・ボールトらとともに録音された。また、モーショングラフィックスもピアノで参加している。2021年にメリーランド州のスタジオ「テンポハウス」で録音された。

 アルバム全体を通して、エレクトロニクスとアコースティックの要素が絶妙に絡み合い、聴き手に新たな感覚をもたらす波動を生み出している。しかし、それはかつてのように楽園への逃走を目指す音楽ではないように思える。失われた未来を追い求めるだけでは、最後には虚しさしか残らない。大切なのは「いまここ」で「音楽」をどう突き詰めるかということではないか。
 それは逃避でも、過去や未来への回帰でもない。10年代的なペシミズムはすでに過去のものだ。「いま、ここ」に音楽があることの証明すること。これがリフテッドの「現在地」であり、音楽を通して時代を超えて響く新たな「場所」を示している。

 いや、だから「インディ・ロック」というものはだね、そもそもは……えー、そもそもは……そもそもはあれですよ、あれ、……そう、「あれ」で通じるよね、いまとなっては。だからここでは自省を込めて、あらためて「インディ・ロック」というものがそもそもなんだったのかを振り返ってみたい。なにぶん私奴は「ポスト・パンク」から「インディ・ロック」の時代、70年代末から80年代なかばのUKの自主制作によるアンダーグラウンドな音楽にけっこう漬かってもいたので当時のことは憶えている。「インディ・ロック」とは、単純なところでは1980年代の英国のインディペンデント・レーベルに所属するギター・バンドのことを意味していたが、文脈というものがあったし、文脈こそが重要だった。そこには、固有の繊細さ、固有の美意識、そして希望を秘めた敗北感という興味深いパラドックスがあった。〈サン〉や〈モータウン〉をインディーズとは呼ばないように、独立系レーベルの音楽というだけの定義ではないのだ。

 かつてキース・レヴィンは言った。「自分がロックンロールをどれほど嫌悪していたのかわからなかったけれど、その感情はPiLの動機の一部だった」
 パンクが成し遂げられなかったロックの古い伝統との断絶を実行するか、ロックを別の何かに書き換えるか、とにかくサウンドの可能性を重視しながら、メインストリームや業界とは距離を持って、わざわざ首都に出向くことなく、地元にいながらにして自分たちの創造的な活動を実行したのが、1979年以降の「ポスト・パンク」だった。その基盤となったのは〈ラフ・トレード〉や〈ファクトリー〉のようなインディペンデント・レーベルで、当時こうした自主制作の音楽を聴くことは、メジャーにはないただ変わった音楽を聴くこと以上の新しい体験で、最近の例で言うなら最初にヴェイパーウェイヴを聴いたときのような、少し昔の話で言えば最初にシカゴ・ハウスを聴いたときのような、ちょっとやばいものに手を出してしまったんじゃないかとハラハラするようなあの感覚だ。ザ・レインコーツやザ・スリッツやザ・ポップ・グループの7インチなんて、もう、とにかくミステリアスで、そこから漂うのは、ラジオから流れるアバやYMOのポップ・ヒット、ロッド・スチュワートやクイーンが何万もの人間に向けて歌う音楽とはあきらかに異質の、ある特定の文化圏を拒絶する、前向きな閉鎖性と呼べるような気配だった。八方美人ではないからこそ生まれる強度、それが思春期特有の自意識とばっちり重なっただけの話でないのは、ポスト・パンクが変えた文化がその後どのように発展していったのかを歴史的に振り返ればわかる。ディスコがその後のポップ・ミュージックのあり方を永遠に変えてしまったように、ポスト・パンクはこの文化の新しい未来像を描いた地殻変動だった。

 ポスト・パンク以降の新しい文化土壌──DIY主義、地方主義、意図的に主流から外れることで得られる自由などなど──こうした文脈から生まれのが「インディ・ロック」だった。「インディ・ロック」におけるもっとも重要な始祖を挙げるなら、何よりもまず、グラスゴーの〈ポストカード〉という1979年に始動したレーベルを拠点に登場したオレンジ・ジュースになるだろう。ほかには、ロンドンではサブウェイ・セクトやテレヴィジョン・パーソナリティーズほか。そしてもうひとつ重要な「インディ・ロック」はマンチェスターで生まれている。オレンジ・ジュースのファンだった(*1)ジョニー・マーがスティーヴン・モリッシーを誘って結成したバンド、ザ・スミスだ。
 これらのバンドに共通するのは、ロックのフォーマットに忠実で、ポスト・パンクが腐心したサウンドの変革よりもポップであることを優先させたところにある。彼らのように過去のポップス(シャングリラスからバーズ、ヴェルヴェッツなど)からの影響をつつみ隠さず取り入れるなんてことは、ポスト・パンクにはなかった。ジーザス・アンド・メリー・チェインのフィードバック・ノイズの背後から60年代ポップスの引用を聴き取れたとしても、ワイヤーのなかにロネッツやビーチ・ボーイズを見つけることなど絶対にあり得ない。
 ディスコやソウルが注がれたオレンジ・ジュースのギター・サウンドは荒削りだが力強く、そして何よりも当時としては新鮮なくらいにロマンティックだった。敗北感にみちた歌詞を歌うザ・スミスにはジャングリーな(きらきらした)ギターと陶酔感をもった旋律があった。サウンドだけ見れば、ポスト・パンクの革新性から後退したように思えるかもしれないが、DIY精神と前向きな閉鎖性は継承されているし、図書館に通うような学生にも突き刺さる言葉があった。もうひとつのポイントは、ザ・スミスが当初プロモーション・ヴィデオを作らなかったこと、多くのバンドが初期のニュー・オーダーのように自分たちの顔写真をジャケットに載せなかったことだ。
 初期のインディ・ロック・バンド界隈が活気づいた1980年代半ばのポップ・ミュージックの世界はMTV時代の真っ直中で、メジャー・レーベルでは新作を出すたびに不特定多数の人目を惹くための凝ったPVが作られていた。マドンナ、プリンス、マイケル・ジャクソンのようなポップ・モンスターばかりでなく、ピーター・ゲイブリルからカジャグーグーのような落ちぶれたニューウェイヴまで、手の込んだPVを使ってその凡庸な曲をチャートに載せていた。「インディ・ロック」はこうしたやり方も拒絶した。この姿勢は、「セレブになるために音楽をやった」と敢えて堂々と言うことを選んだマドンナのアプローチとは真っ向から対立する。「インディ・ロック」はたくさんのポップ・ソングの名作を作ったけれど、フィル・コリンズのそれとは違う何かであった。
 「インディ・ロック」は、アメリカでは「オルタナティヴ」という言葉に翻訳されるが、意味を考えればこれは妥当な言い換えである。たしかにそれはオルタナティヴな、しかしアヴァンギャルドでもエクスペリメンタルでもないポップ・シーンだったのだから(*2)。1986年に『NME』は、ザ・スミス以降における「インディ・ロック」の広がりを『C86』という、いまとなっては時代の分水嶺を象徴するカセットにまとめた。ここにはプライマル・スクリームやザ・パステルズをはじめとする22組のバンドの音源が収録されている。
  初期の「インディ・ロック」にはそれなりに強い信念はあったと思うが、オレンジ・ジュースの1982年のデビュー・アルバムはメジャー・レーベルからのリリースだった。厳密に言えばその時点でインディ・ロックではないし、『C86』に参加した多くのバンドもそうだった。つまりインディ・ロックという枠組みは早くも揺れたわけだが、オレンジ・ジュースはインディ・ロックであり続けた。バンドにとってもファンにとっても、インディペンデント・レーベルに所属していること以上に、ポスト・パンク以降の流れを汲んでいたかどうかがその定義により大きく影響していたからだろう。ファンション面から見みても、当時のインディ・キッズが高価なブランドものを着ることはあり得なかった。男女ともにドレスダウン志向で、ビート族のようにアンチ・エレガント、古着や軍の払い下げ(*3)を工夫して着ることのほうが、キャサリン・ハムネットがデザインしたワム!のTシャツよりも格好いいという自負があった。周知のように服に対するこうしたアプローチをアメリカで受け継いだのがグランジやライオット・ガール(あるいはオルタナ・カントリー)だ。

 ところで80年代には、「インディ・ロック」と並走して、もうひとつの閉鎖的な一群が存在した。「ゴス」である。スージー・アンド・ザ・バンシーズやジョイ・ディヴィジョン、マガジンを起点としながら、キュアー、バウハウス、キリング・ジョーク……(ほか多数)、USからはリディア・ランチにザ・クランプス、オーストラリアからはバースデー・パーティー……これらアドロジニアスで黒装束の社会不適合者たちによる秘密めいた集会もまた、ポール・マッカートニーやビリー・ジョエルの歌のように誰に対しても開かれてはいなかった。こうした「インディ・ロック」や「ゴス」──日本では「根暗なニューウェイヴ」などと嘲笑された音楽が、いやー、ぼくは大好きだったなぁ。

 2000年代はポップ界の大物たち、たとえばコールドプレイがリアーナと、カニエ・ウェストがケイティ・ペリーと、ニッキ・ミナージュが誰それと……といった具合になんだかやたらと交流するようになった。それが常態化し、たいして話題にもならなくなってくると、10年代はカニエ作品にボン・イヴェール、ビヨンセ作品にジェイムス・ブレイク・ソランジュにパンダ・ベアとか、大物と元インディの交流がはじまった。話題作りのためではなく、互いにリスペクトあっての交流だとは思うけれど、どれほど意味のあることだったのかは議論の余地がある。あの時代、ベン・ワットの作品にロバート・ワイアットが参加することはあっても、モリッシーやビリー・ブラッグがスプリングスティーンのアルバムに参加することなど500%考えられなかった。だいたいインディーズはメジャー・レーベルへの対抗意識を露わにしていたし、自分たちのほうが数段格好いいと思っていた。ポップ・ミュージック・シーン全体から見れば、これは良き対抗意識で、良き緊張関係にあったと言えるんじゃないだろうか。そう、誰かが言ったように、「逆張りなくして進歩はない」のだ。

 かのデイヴィッド・ボウイが「バイセクシャルと言ったのは人生最大の失敗」と、70年代の偉業を自ら突き放したのが1983年──ボウイが保守的なポップスへの迎合を果たした『レッツ・ダンス』の年──だった。その前の年にオレンジ・ジュースがデビュー・アルバムを発表し、84年にザ・スミスが “ヘヴン・ノウズ”を歌っている。「仕事を探して、やっとこさ仕事を見つけたけれど、天もご存じ、ぼくは惨めだ。ぼくが生きているか死んでいるかなど気にしないような連中のために、何故ぼくは自分の時間を割いているのだろう?」。こういうキラーなフレーズは、インディの世界からしか生まれなかった。
 80年代の「インディ・ロック」は、70年代末の「ポスト・パンク」の流れをもって、自分たちのリスナー像が見えていた。もちろんフィル・コリンズだってひとりバーで佇む傷心のオヤジに向けて歌っていたのだろうし、スプリングスティーンが汗水ながす労働者階級に向けて歌っていたのは言うまでもない。しかし80年代「インディ・ロック」の焦点はもっと絞られていたし、メインストリームでは歌われないであろう題材(政治的なものからあいつやあの娘のほんとうの感情)に意識的で、それが等身大であることの強みだった。

 あの時代の「インディ・ロック」の功績はここでは書ききれないほど大きい。ボサノヴァを取り入れたペイル・ファウンテンズやEBTG、暗い雨の夜からはエコー・アンド・ザ・バニーメン、誰よりもドラッグについての曲を書いたスペースメン3、不本意ながらシューゲイザーと括られるマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、エーテル系の始祖コクトー・ツインズのようなバンドは、ポスト・パンクからインディーズへと展開した1980年代のアンダーグラウンド・シーンから出てきている。さらにまた、80年代末のレイヴ・カルチャーに集合した主要成分が元インディーズや元ゴスだったことを思えば、閉鎖性を持つことは次なる大爆発へのプロセスだったと言える。
  あるいは、こんな考えもできるだろう。1980年代〜90年代のデトロイトのテクノ・シーンは、UKの86年型インディーズの黒人版のようだ。じっさいこの世代のデトロイト・ブラックは、80年代の欧州ニューウェイヴが大好きだったし(*4)、ハリウッドに魂を売ったモータウンに対する複雑な感情のみならず、オリジナルUKインディーズのようにメインストリーム(ジミー・ジャムとテリー・ルイス──デトロイト・テクノがプリンスを愛したことを思えば皮肉な話だが──みたいな爽快なR&B)への対抗意識をあきらかに持っていた。メッセージ・トゥ・メジャーズ。あの時代のあの閉鎖性、あの特権意識、自分たちの美意識に関するあの自信が、まったく違う国の違う人種における未来の音楽の活力の醸成にひと役買ったとしたら、それはやはり、逆説的に開かれていたということなのだ。 “モダン・ラヴ” や“イントゥ・ザ・グルーヴ”がどれほど売れようと、こうした変革力に与していない。(*5)

 昨年ある人物から日本の有望な若手グループについて説明を受けたとき、その人は、「彼らが良いのは、自分たちがやっているのは “J-POP” だと主張しているところなんですよ!」と語気を強めた。これがぼくには、「彼らはインディよりもメインストリームを格好いいと思っているんですよ!」に聞こえた。いや、ぼくはその価値観に賛同はしないが尊重はするし、そういう考えのほうが日本では共感されやすいことも理解している。ただぼくは、バンド/ミュージシャンのキャリアをインディーズ時代/メジャー・デビュー以降という風に分ける日本の価値基準にはかねてからずっと違和感を覚えている。だってこれがいかにナンセンスであるかは、たとえば80年代のニュー・オーダーの功績、あるいはR.E.M.のインディーズ時代の作品を鑑みても瞭然でしょう。
 まあ、R.E.M.もいまとなってはレディオヘッドやコールドプレイらと肩を並べるダッド・ロック・バンドの代表格であって86年インディーズの価値観とはだいぶ遠いのだが……。が、しかしその86 型の理想とて霧散したのもあっという間の話で(その後のモリッシーに関しては……いまここでは省略です)、よって残されたのはそのサウンド、そのスタイルだけ──まあ、それはそれでじゅうぶんな恩恵ではある。かつてのインディーズのもうひとつのトレードマーク、主にジョイ・ディヴィジョンやザ・スミスがまき散らした内省的なメランコリーや倦怠感も90年代には時代遅れになったが、それでもこのフィーリングはしぶとくも90年代前半のブリストルのトリップホップやアンドリュー・ウェザオールにといったロック以外のところで受け継がれていった(あるいは、シアトルのニルヴァーナへと)。
 さらに輪をかけて今日では、既述したように「インディ・ロック」というターム自体はますます意味不明になっている。ギター・バンドであれば何でも「インディ・ロック」になっているし、かくいう私奴もかなりいい加減に使ってしまっている。まあ、それでなんとなく伝わることもあるのだろうし、アニマル・コレクティヴをインディ・ロックと呼んでも、もう、さほどの違和感はない。が、しかしぼくはある日突然、何故かわからないのだが、これはやはり、その源流に関しては、はっきりさせておきたいと思ってしまった。

 以上、ぼくと同世代人には「何をいまさら」という話であります。幸か不幸か現代の音楽リスニングでは古いものと新しいものとの境界線がますますなくなって、古くてもそれがその人にとって新しい衝撃になる機会は1980年代よりも確実に多くある(ぼく自身もそうです。サン・ラーやPファンクやアーサー・ラッセル他多数、過去の音楽に感動している)。というわけで、ザ・フォール、ニュー・オーダー、オレンジ・ジュース、サブウェイ・セクト、ヤング・マーブル・ジャイアンツ、テレヴィジョン・パーソナリティーズ、アズティック・カメラ、ザ・スミスなどなど……あの時代のバンドとわりと最近出会った人にはぜひとも当時の「文脈」を知っておいてもらいたいなと、はい、インディよもやま話、ではまた来週お会いしましょう。

(*1)
ジョイ・ディヴィジョンの影響力もすごいが、オレンジ・ジュースのそれもでかい。同郷のベル・アンド・セバスチャンにとっても大きな影響源だった。

(*2)
アメリカのオルタナティヴは、その時代のカレッジ・ロックという括りにも近い。カレッジ・チャートは、メインストリームに価値観に対する反論でもあった。

(*3)
古着はかつて安かった。安いからインディ・キッズは着ていた。軍の払い下げもそう。面白いことに、かつて軍の払い下げのミニタリー・ウェアは60年代末から反戦運動家のファッションになり(一時期のジョン・レノンを参照)、そして80年代のインディ・キッズがダボダボのパンツを穿いたのも、安くて丈夫で、着方を考えれば格好良かったからだった。それがいまではすっかり高価なファッション・アイテムになっていることにお父さんは面食らいます。

(*4)
ホアン・アトキンスはリエゾン・ダンジュールズ、デリック・メイはデペッシュ・モードにニュー・オーダーとエレクトロニック・ミュージック系ではあったが、カール・クレイグはザ・キュアーが好きだった。

(*5)
エクスキューズをひとつ。何もこの原稿で、マイケルやマドンナを貶めるつもりはない。ぼくはデトロイトのクラブで高速にミックスされた “ビリー・ジーン” で踊っているし、『オフ・ザ・ウォール』は良いアルバムだと思います。マドンナに関してもとくにファンだったことは一度もないが、ただ、後にコートニー・ラヴが評価したことは憶えているし、フランキー・ナックルズへの尊敬を込めて、1990年の “ヴォーグ” の世界的なヒットがハウス・ミュージックが世界に認められた瞬間であったという説には賛同しておこう。 “イントゥ・ザ・グルーヴ” や “ライク・ア・プレイヤー”も良い曲だと思いますけどね。

1月のジャズ - ele-king

Emile Londonien
Inwards

Naïve

 本誌ムック本の2023年のジャズ・ベスト・アルバムにも挙げたエミール・ロンドニアン。フランスのストラスブールを拠点とするトリオで、マテュー・ドラゴ(ドラムス)、ミドヴァことニルス・ボイニー(ピアノ)、セオ・トリッチ(ベース)という構成。2021年頃から作品エリリースを始め、2023年のファースト・アルバム『Legacy』ではホーン・セクションやシンガーも配し、ロバート・グラスパー的なジャズとヒップホップを融合したスタイルから、よりエレクトロニックでブロークンビーツなどにも接近したスタイルを見せた。同じトリオ形式のゴーゴー・ペンギンなどに比べてさらにクラブ・ミュージック的なアプローチが強く、またヴォーカル作品などでは極めてソウルフルな要素が際立っていた。『Legacy』にも参加したサックス奏者のレオン・ファルも同系のジャズとクラブ・サウンドが融合したアルバム『Stress Killer』をリリースするなど、現在のサウス・ロンドンに呼応するかのようなシーンをフランスで形成している。

 そして、この度『Legacy』に続くセカンド・アルバム『Inwards』がリリースされた。前作に続いてレオン・ファルのほか、ジョウィ・オミシル、ローラン・バルデンヌとフランス人サックス奏者がホーン・セクションを固めるほか、サウス・ロンドンからアシュリー・ヘンリーやシンガーのチェリス・アダムス・ヴァーネットもゲスト参加。アシュリーは昨年リリースしたアルバム『Who We Are』が同じレーベルなので、そうした関係もあって参加したのかもしれない。ブロークンビーツ調のダイナミックなジャズ・ファンクの “Catch The Light”、ダブの影響を感じさせる “Early Days” や “In Motion”、ドラムンベースのビートを取り入れたコズミックな “Inside”、ポエトリー・リーディングを配したディープな “Shades” など、前作以上にジャズとクラブ・ミュージックの融合が進んだ内容となっている。“Crossing Path” のようにホーン・セクションとエレピが絶妙のマッチングを見せるサウンドは、1970年代のハービー・ハンコックやロニー・リストン・スミスあたりのフュージョンを彷彿とさせるところもある。そして、アシュリー・ヘンリーが歌う “Another Galaxy” はR&B的な要素が強く、UKで比較するならジョー・アーモン・ジョーンズからブルー・ラブ・ビーツなどが思い浮かぶアルバムだ。


Ganavya
Daughter Of A Temple

Leiter

 ガナーヴィヤ・ドライスワミーはニューヨーク生まれ、南インドのタミル・ナードゥ州育ちのシンガー/ダブル・ベース奏者/作曲家。祖母がインドのカナルティック音楽の大家で、幼少期から宗教儀式を通じて音楽を学び、即興演奏家、学者、ダンサー、マルチ・インストゥルメンタリストとしての教育も受けてきた。アメリカに戻って大学では演劇や心理学の学位も取得し、民族音楽からコンテンポラリー・パフォーマンスなど芸術を多角的に学んだ。キューバ人ピアニストの名手アルフレッド・ロドリゲスのアルバム『Tocororo』(2012年)に参加して名前を知られるようになり、2018年にファースト・ソロ・アルバム『Aikyam: One』をリリース。エスペランサ・スプルディングの『Songwrights Apothecary Lab』(2021年)では、南インド音楽の専門家としてヴォーカルなどに携わり、同作がグラミー賞に輝くことにも貢献した。また、演劇や映画に関わる音楽活動も多く、ピーター・セラーズ監督の映画『This Body Is So Impermanent…』(2021年)にサントラの作曲で参加している。

 2023年にブラジル出身のギター/ベース奏者/作曲家のムニール・オッスンと共演作『Sister, Idea』を発表し、2024年春にはシャバカ・ハッチングスら南ロンドンのミュージシャンから、カルロス・ニーニョフローティング・ポインツまで参加した『Like The Sky I’ve Been To Quiet』を発表。より幅広いリスナーから注目を集めたガナーヴィヤが2024年末に発表したアルバムが『Daughter Of A Temple』である。ガナーヴィヤはヴォイス、ダブル・ベース、カリンバを担当し、エスペランサ・スポルディング、ヴィジェイ・アイヤー、シャバカ・ハッチングス、イマニュエル・ウィルキンス、ピーター・セラーズほか、音楽家やそうでない人も含め約30名の人たちが声、ダンス、写真などで参加する。なかには故人のウェイン・ショーターも含まれるが、生前の彼の声などをサンプリング素材で用いているようだ。アリス・コルトレーンの “Journey in Satchidananda”、“Ghana Nila”、“Om Supreme”、ジョン・コルトレーンの “A Love Supreme” を取り上げるなど、全編に渡ってアリス&ジョン・コルトレーンに対する敬意や愛情に包まれたアルバムである。シャバカ・ハッチングスをフィーチャーした “Prema Muditha” は、近年の彼が傾倒するアンビエントな世界が展開される。


Raffi Garabedian
The Crazy Dog

RG Music

 ラフィ・ガラベディアンはアメリカ西海岸のベイアリアを拠点とするサックス奏者/作曲家。ホルヘ・ロッシー、ベン・ストリート、デイナ・スティーヴンス、ジョニー・タルボットなどと共演し、ベイアリアの集団即興演奏集団のインセクト・ライフやフリー・ジャズ・グループのスティックラーフォニックでも活動するほか、最近ではクロノス・カルテットのサン・ラー・トリビュート・アルバムにも参加していた。ラフィの祖先は1915年にオスマン帝国でおこなわれたアルメニア人虐殺の生存者の末裔で、彼の祖父母はアメリカへ難民として逃れ、苦難の生活を続けていったのだが、そうした民族の悲しい歴史はラフィの家族へも代々伝えられてきて、このたびリリースした通算3枚目のソロ・アルバム『The Crazy Dog』は祖国アルメニアや彼の家族の歴史を題材としたものとなっている。

 トリオ編成のファースト・アルバム(2017年)、カルテット編成のセカンド・アルバム『Melodies In Silence』(2021年)に対し、『The Crazy Dog』はヴィブラフォン、クラリネット、トロンボーンなどを交えた7人編成の演奏で、より色彩豊かなアルバムになっている。特に重要な点は初めてヴォーカリストを加えた点で、2015年セロニアス・モンク国際ジャズ・ヴォーカル・コンペティションのセミファイナリストに選ばれたダニエル・ウェルツをフィーチャーしている。本作でのダニエルはジャズ・ヴォーカルというよりもヴォイスに近いもので、クラシックの声楽のような要素を感じさせる。ジャズにアルメニア民謡を取り入れたアーティストとしてはティグラン・ハマシアンが有名だが、音楽的に本作はことさらアルメニア的な要素を前面に出すのではなく、基本は西洋音楽としてのジャズの技法に則ったもの。ただ、変拍子のモーダルな “Escape To Erzurum” のメロディなどにはアルメニア民謡の影響も感じられ、ラフィの遺伝子のなかにあるものが顔を出す場面もある。この “Escape To Erzurum” はじめ、西洋音楽の技法である対位法をテーマとした “Contrapuntal Bewilderment”、ほとんどスキャットのみで綴る神秘的な “The American Question” など、ノーマ・ウィンストンやジェイ・クレイトンあたりを彷彿とさせるダニエル・ウェルツのヴォイス・パフォーマンスが印象的だ。


Rowan Oliver
Quickbeam

Soundweight

 1990年代末から2000年代にかけて活動したゴールドフラップは、ポーティスヘッドの再来と評されたこともある男女ペアのエレクトロニック・ユニットだったが、そのゴールドフラップのサウンドを7年間に渡って支えたドラマーがローワン・オリヴァー。プロデューサーでマルチ・ミュージシャンでもある彼は、ゴールドフラップ以外にもプラッド、ポール・オーケンフォールド、スペーサー、アドゥン・トゥ・エックス、マーラ・カーライル、マリリン・マンソン、マックス・デ・ヴァルデナーらの作品に参加し、〈ソウル・ジャズ〉〈ミュート〉〈ワープ〉〈フリーレンジ〉〈プッシーフット〉といったレーベルで仕事をするなど、長年に渡ってUKの音楽シーンで活動してきている。そんなローワン・オリヴァーが初のソロ・アルバム『Quickbeam』をリリースした。

 基本的にローワンが全ての楽器やプロダクションを担当しているが、一部楽器で兄弟のアーロやジェイコブが演奏し、ファンク・バンドのスピードメーターからサックス奏者のマット・マッケイも参加する。スリリングなストリングスを配した “Burning Boat” に代表されるように、1960年代から1970年代にかけてロータリー・コネクションやドロシー・アシュビーなどの作品プロデュースで活躍したリチャード・エヴァンスや、ヒップホップのサンプリング・ソースとして名高いデヴィッド・アクセルロッドなどの作品群を彷彿とさせる。基本的にはドラマーなので、“Wheeling”“Road Of Dreams” のように、ビート感覚に優れたドラムが軸となるジャズ・ファンク、ジャズ・ロック系の作品が中心となるわけだが、“Onwards & Upwards” におけるダークでミステリアスな感覚はトリップホップやダウンテンポなどを通過してきたUKのミュージシャンらしいと言える。

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