「PAN」と一致するもの

interview with Isayahh Wuddha - ele-king

シティ・ポップ特有の一部のハイソな出来事や愛を聞いたり歌うのは、どこか虚しさでもあるし、満たされない欲求でもある。でもそれがエンターテイメントでもあるのだけど、決定的にあれはリアルではないし共感なんかできないと思っていました。

 京都の秘宝……いや、もしかするとこれは世界に誇る秘宝かもしれない。去年偶然に、本当に偶然に手にとった1本のカセットテープを繰り返し聴く中で、ふとそんな予感がした。そしてあれから約1年半、その予感は次第に確証になりつつある。

 Isayahh Wuddha(イサヤー・ウッダ)。台湾と日本にルーツを持ち、現在は京都に暮らすインナートリップ・シンガー・ソングライター。昨年、カセットテープのみでひっそりとリリースされたファースト・アルバム『アーバン・ブリュー』が口コミでじわじわと広がり、気がつくとジャイルス・ピーターソンがアルバム収録の “something in blue” をオンエアし、イギリスのディープ・ガラージ系レーベルの〈Wot Not〉からアナログ・レコードでもリリースされるに至った。BTS や BLACKPINK から、Yaeji や CHAI まで、メジャー/インディー問わず若き東アジア産のポップ・ミュージックが世界規模で注目を集め、細野晴臣や山下達郎の旧作もまた欧米の若い世代に聴かれている2020年。年齢も素性も謎に包まれた Isayahh Wuddha が飄々と国境を超えている様子は痛快極まりない。

 もちろん、DJやクラブ・ミュージックのフィールドでは古くから日本のクリエイターたちが海外で評価されていたし、YMO やサディスティック・ミカ・バンドのような例外もあるにはある。だが、竹内まりやの “Plastic Love” が近年、ネットミームで拡散されているような状況を目の当たりにするにつけ、この曲がリリースされた80年代にタイムラグなく海外でも聴かれていたらどうなっていただろう……と思う。そういう意味では、YouTube はもとより、SoundCloud や Bandcamp を通じ、全ての国の音楽にリスナーがどこからでも自在にアクセスできるようになった現代は幸せな時代だとも言えるだろう。実際、Isayahh Wuddha の『アーバン・ブリュー』が海外リリースされることになったのも、Bandcamp を通じてレーベルから直接連絡があったからなのだという。派手なプロモーションもない、ライヴも滅多にやらない、そんな彼が京都の自室でカセットテープのMTRでひっそりと作った曲が、世界中でじわじわと面白がられている状況は、そもそもが「海外リリース」という古くからの戦略概念をニヒリスティックに嘲笑しているかのようだ。

 公表されている Isayahh Wuddha の経歴は、「第二次世界大戦中に日本統治下の台湾にて徴兵され、衛生兵として日本へ従軍した台湾人の祖父と、日本人の祖母の孫にあたるということと、自身は日本に生まれ、現在は京都に暮らしていて、今も時々台湾におもむく……」ということくらい。2019年にトラックメイカーとして活動を開始し、自ら歌も歌いながら曲を作るようになった彼は、しかしながら、かなり確信犯的にポップ・ミュージック制作を視野に入れている。アーサー・ラッセル、プリンス、エイドリアン・シャーウッド、スリッツ、カエターノ・ヴェローゾ、デヴェンドラ・バンハート、クルアンビン、あるいはフランク・オーシャンやジェイムス・ブレイクあたりまでもチラつかせる豊かな音楽体験を武器としつつも、どこか人を食ったようなシニシズムとユーモアを掲げ、同時にロマンティシズムと妄想を抱えたまま、それでもポップな存在であろうとする開かれた感覚が魅力だ。

 そんな Isayahh Wuddha がセカンド・アルバム『Inner city pop』を12月16日にリリースする。ファーストはカセットテープでの販売だったが、今回はCDでの発売。ファンク、ダブ、トロピカリズモ、アシッド・サイケ、ディスコなど様々な音楽性を横断させながらも、深く語られることからスルリと抜け出してしまうような自嘲的軽やかさがさらに際立っているのがいい。曲そのものもキャッチーだし、呟くようにリフやフレーズに寄り添わせながらラップするメロウなヴォーカルも健在だ。

僕が目指しているのはマイケル・ジャクソンのようなキング・オブ・ポップ。より多く消費されて楽しんでもらえたら嬉しい限り。諸行無常

 タイトルにあるインナーシティについて、Isayahh 本人はこう話してくれた。
「日本の事、貧困、スラム化している現状です。通常インナーシティとくればマーヴィン・ゲイの “Inner City Blues” になりますが、ここはシティ・ポップにかけてポップを付けました。音楽家・プロデューサーの冥丁さんが言っていたことなんですが、架空の東京の音楽が溢れて、日本の地方どこでもそんな架空の東京の音楽ばかり鳴らしているという話がありまして。まさに2010年代のシティ・ポップ・ブーム、ヴェイパーウェイヴと重なるように思います」

 アルバムは11曲入り。ライヴでも使用するカセットテープMTRのチープな音像を生かしているからか、音自体は極めて不安定に揺らいでいる。ファースト以上にジャストなリズム、ジャストなメロディとは最も遠い位置で鳴らされ、アウトラインのハッキリした音処理を嫌って仕上げられたとんでもないアルバムだ。それは1970年代のタイやベトナムで制作されていた無国籍ファンクやソウルの持っていた妖しい歌謡性をも連想させ、ひいては Isayahh のルーツが台湾にあることを再認識させられる。実際、近年の台湾から登場している 9m88、落日飛車など新しい世代のシティ・ポップ系、AOR系アーティストとのシンクロもここにはあると言っていい。もっとも、Isayahh の作品は全くハイファイではないが。

「シティ・ポップ特有の一部のハイソ(上流社会)な出来事や愛を聞いたり歌うのは、どこか虚しさでもあるし、満たされない欲求でもある。でもそれがエンターテイメントでもあるのだけど、決定的にあれはリアルではないし共感なんかできないと思っていました。それは多様化ではなくてソフトに形骸化した音楽の様に感じます。アク抜きされたホウレンソウみたいな、一斉に栽培された味の薄い野菜みたいなものです。自分にとってそれらは美味しく感じませんでした。そもそも自分の音楽は歪で、世間一般からみて不完全だと思われるでしょうが、音像の歪さ、不完全さ未完成さが逆説的にリアルを体現していると思うのです。それは有名アーティストのデモ・テイクやライヴ盤に魅力を感じるのと同じかと思います。目に見えない息遣いがそこにあるような感覚なんです。自分はひねくれているから、誰かができる事を自分がやる必要はないと思いますし、自分が出せる音があるからそれをやると、音質もカセットテープMTRだから下手くそに音が割れたりする、そこも含めて誰も僕の音を鳴らす事はできないだろうって勝手な自信があります」

「僕が目指しているのはマイケル・ジャクソンのようなキング・オブ・ポップ。より多く消費されて楽しんでもらえたら嬉しい限り。諸行無常」と自虐的に話す Isayahh Wuddha。超絶にウィアードで超絶にミステリアスで超絶にフリーキーで、超絶にポップでチャーミング。新型ウイルスで人間ありきの社会が転覆した今、人間様の鼻っ柱を排除したところから始まる資本主義葬送行進曲のためのこのアンチ・ポップが、最後の消費文化の一つとして世界中でユラユラと鳴らされることを待ち望んでいたい。


プロフィール

■台湾と日本にルーツを持つ蠱惑(こわく)のインナートリップ・シンガーソングライター、Isayahh Wuddha(イサヤー・ウッダ)による 2nd Full Album『Inner city pop』が完成。
どこにも属さずサイケデリックに揺らぎながら鳴らされる、愛と狂気の密室ドラムマシーン歌曲集。

カセットテープとアナログレコードで発表された前作『urban brew』(2019)に引き続き、ヴィンテージのカセットテープMTRを用いて制作された Isayahh Wuddha(イサヤー・ウッダ)の2ndアルバム『Inner city pop』。演奏、録音はすべて本人が行った密室ドラムマシーン歌曲集がここに完成。本作にも収録の先行 7inch シングル「I shit ill」でもみられるサイケデリックなリズムに揺らぐ LO-FI サウンドは、音楽の深層に触れる喜びを想起させる。ミュージック・マガジン誌2020年9月号特集「日本音楽の新世代 2020」では注目の10組に選出され注目を集めながらも、未だ所在不明の彼から焙りだされる陰りを帯びた天然色の煙は社会と対峙するサウンドトラックになるだろう。

2nd album 『Inner city pop』
2020年12月16日リリース
形態:CD maquis-008
価格:2000円+TAX

01. In to r
02. for ever
03. agricultural road
04. i shit ill
05. celebretions
06. need
07. spacey
08. guitar
09. sexy healing beats
10. together
11. wait

校了しました - ele-king

 恒例の『ele-king』年末号、無事校了しました。今年はコロナの影響で夏号を出せませんでしたが(かわりに臨増や別冊をたくさん刊行)、年末号はしっかり12月25日に発売します。

 先に白状しておくと、これまでより定価が50円アップしています。ただしそのぶんヴォリュームも増量、いつもより32ページ多い特別仕様です。

 巻頭は、鮮やかな新作を2枚も送り出したオウテカの超ロング・インタヴュー。なんと、4万5千字もあります。
 ふたりの出会いについて、ヒップホップやエレクトロについて、かつてやっていた海賊放送について、シュトックハウゼンについて、レイヴについて……どれもこれまで語られていない貴重かつわくわくする話ばかりで、カットしてお蔵入りにしてしまうのがもったいなかったため、ページ数を増やすことにした次第です。50円の値上げ、お許しください。

 それと関連して、特集は「エレクトロニック・リスニング・ミュージック」。1992年に提唱されたこの概念を周回しつつ、90年代リヴァイヴァル+コロナ禍の現在、家で聴く電子音楽の名盤たちにフォーカスした、一家に一冊の保存版に仕上がっています。アンディ・ウェザオールの追悼やマイク・パラディナスのインタヴューもアリ。

 そしてもちろん、お待ちかねの年間ベスト・アルバム30枚も発表。総勢32名のライター/アーティスト/DJたちによるジャンル別ベストおよび2020年の個人チャートも掲載しています。この激動の1年、もっとも心を揺さぶる音楽はなんだったのか?

 発売は12月25日、どうぞご期待ください。

【寄稿者一覧】
●オウテカ特集
 河村祐介、久保正樹、COM.A、小林拓音、Numb、野田努、松本昭彦、松村正人
●ELM特集
 河村祐介、KEN=GO→、小林拓音、佐藤大、杉田元一、髙橋勇人、野田努、三田格
●ジャンル別ベスト&個人チャート
 Midori Aoyama、天野龍太郎、磯部涼、荏開津広、大前至、小川充、小熊俊哉、海法進平、河村祐介、木津毅、クロネコ(さよならポニーテール)、坂本麻里子、佐藤吉春(TECHNIQUE)、篠田ミル(yahyel)、柴崎祐二、高島鈴、髙橋勇人、デンシノオト、tofubeats、德茂悠(Wool & The Pants)、ジェイムズ・ハッドフィールド(James Hadfield)、原摩利彦、ジャイルス・ピーターソン(Gilles Peterson)、二木信、細田成嗣、Mars89、イアン・F・マーティン(Ian F. Martin)、増村和彦、松村正人、三田格、yukinoise、米澤慎太朗

Brandee Younger & Dezron Douglas - ele-king

 ハープ、来てる。近年メアリー・ラティモアアーニェ・オドワイアーなど、ハーピストたちが良質な音楽を生み出しているが、ジャズの分野におけるその筆頭はブランディ・ヤンガーだろう(昨秋コットンクラブで観た来日公演でもすばらしい演奏を披露してくれた)。
 マカヤ・マクレイヴン『Universal Beings』や、2020年の特筆すべきジャズ・アルバムの1枚、カッサ・オーヴァーオール『I Think I'm Good』にも参加している彼女だが、来年1月21日、ベーシストのデズロン・ダグラスとともに録音したライヴ盤がリリースされる。
 今年3月のロックダウン中に配信されたセッションのハイライトを集めた内容で、アリス・コルトレーン “Gospel Trane” やファラオ・サンダース “The Creator Has A Master Plan”、ジョン・コルトレーン “Wise One” などのカヴァーも収録。ハープで再演される名曲たちの美しき息吹に耳を傾けたい。

Dezron Douglas & Brandee Younger
Force Majeure

ラヴィ・コルトレーンからマカヤ・マクレイヴンまで支持されてきた実力派ベーシスト、デズロン・ダグラスとジャズ、ヒップホップ~R&Bのフィールドを中心に華やかな共演歴を誇る話題の女性ハープ奏者、ブランディ・ヤンガーによる伝説的なロックダウン・ライブストリーム・ブランチ・セッションアルバム。ボーナストラックを加え、日本限定盤ハイレゾMQA対応仕様のCDでリリース!!

Official HP : https://www.ringstokyo.com/dezrondouglasbrandeeyoungerfm

マカヤ・マクレイヴンの力作『Universal Beings』のNYセッションにも共に参加した旧知の仲であるベーシストのデズロン・ダグラスとハープ奏者のブランディ・ヤンガーが、2020年3月、リビングルームでライブストリームを開催した。彼らがリビングルームで奏でる美しく自然な音は、多くの友人や家族を励まし、勇気づけた。このアルバム『フォース・マジュール』に収録されているのは、二人による伝説的なロックダウン・ライブストリーム・ブランチ・セッションのハイライトを集めた作品で、日本盤はボーナストラックを加え、ハイレゾMQA対応仕様のCDでリリース。アリス&ジョン・コルトレーン、スタイリスティックス、ジャクソン5、ファラオ・サンダース、ケイト・ブッシュ、スティング、カーペンターズなどの名曲のカバーも含まれている。ニューヨーク、ハーレムの聖域の暖かさを醸し出している、精神的な癒しの音楽である。

ブランディ・ヤンガーのハープとデズロン・ダグラスのダブルベースとのデュオ演奏は、毎週金曜日の朝にリビングルームから配信された。コロナ禍での、このロックダウン・ライヴストリーム・ブランチ・セッションは、ソーシャルメディアで絶大な支持を得た。彼らは人々に親しみのある楽曲を選び、静かな高揚感と歓びを与える演奏をおこなってみせたからだ。このアルバムでその素晴らしいハイライトを楽しむことができる。(原 雅明 rings プロデューサー)

アーティスト : Dezron Douglas & Brandee Younger (デズロン・ダグラス&ブランディ・ヤンガー)
タイトル : Force Majeure (フォース・マジュール)
発売日 : 2021/1/20
価格 : 2,800円+税
レーベル/品番 : rings (RINC72)
フォーマット : MQA-CD (日本企画限定盤)

* MQA-CDとは?
通常のプレーヤーで再生できるCDでありながら、MQAフォーマット対応機器で再生することにより、元となっているマスター・クオリティのハイレゾ音源をお楽しみいただけるCDです。

All music arranged by Brandee Younger & Dezron Douglas;
except "Inshallah" arranged by Dezron Douglas.
Dezron Douglas - double bass, bass guitar, voice
Brandee Younger - harp, voice
Recorded between March and June, 2020, at Dezron & Brandee's apartment in Harlem, New York.
Engineered by Brandee Younger.
Remote Recording Assistance by David Allen.
Edited & Sequenced by Scott McNiece.
Mixed & Mastered by Dave Vettraino.
Cover Art by Esther Sibiude.
Design & Layout by Craig Hansen.

Tracklist :
01. Coffee (intro)
02. Gospel Trane
03. Equinox
04. The Creator Has A Master Plan
05. Sing
06. You Make Me Feel Brand New
07. We'll Be Right Black
08. Never Can Say Goodbye
09. This Woman's Work
10. Nothing Stupid
11. Inshallah
12. Wise One
13. Force Majeure
14. Toilet Paper Romance
15. Flatten The Curve (outro)
16. Body and Soul (Japan Bonus Track)

interview with Young Marble Giants - ele-king

 最小限の音数で、静かで、そしてその音楽は部屋の影からそっと現れたようだった。抑揚のない声のヴォーカル、隙間だらけのベースとギター、ときにリズムボックスとオルガン。曲がはじまると、気が付けば終わっている。終わった後にはまた沈黙。実際、1980年に登場したヤング・マーブル・ジャイアンツ(YMG)は成功したにも関わらず、わずか1年でシーンからそそくさと退席した。
 YMGはウェールズのカーディフという街にて、1979年に結成された。スチュアート・モックスハム(g)とフィリップ・モックスハム(b)という兄弟を軸とし、シンガーのアリソン・スタットンが加わり、バンドは始動した。「若い大理石の巨人」というバンド名は、彼らがたまたま古典彫刻の本から見つけたものだった。
 地元で活動しつつ、〈ラフトレード〉に送ったデモテープが気に入られて、1980年にまずはアルバム『Colossal Youth』、そしてシングル「Final Day」という2枚の傑作を発表する。CNDが大規模な反核集会を開いたその年のシングル「Final Day」では、オルガンのドローンをバックに、核戦争後の世界、世界の終末の、その終わりの最期の日が圧倒的に簡素で静かな演奏によって表現されている。また、アルバムのほうには、秀逸なアイデアとコンセプトを持ったバンドの魅力がしっかり記録されている。

 ポスト・パンクが許可した「非完全さ」ゆえの独創性を指摘したのはサイモン・レイノルズだが、個性豊かなバンドが数多く出現した当時においても、YMGはあまりにも、ホントあまりにも独創的だった。たとえばそれは70年代末のクラフトワークをギターとベースでカヴァーしたかのようなタイトな演奏だったり、お茶の間に流れてきそうなメロディを擁しながらどこまでも孤独な響きだったり、賛美歌のパロディのようだったり、鼻歌のようだったり、だった。そういったトラックにアリソンの涼しげで、そして甘美な声が挿入される。
 レイノルズが『アナザー・グリーン・ワールド』のポスト・パンク・ヴァージョンと評した『Colossal Youth』は、その年もっともヒットしたインディ作品だったし、人気も評価も、ファンからのバンドへの期待も高かった。彼らはれっきとした成功したバンドだったのだ。それからYMGは、アルバムとは別方向の、TV音楽にインスパイアされた実験的なインストルメンタル集「Testcard EP」をリリースすると、しかし成功など知らなかったかのように、その数か月後にバンドは消滅するのである。

 このたび『Colossal Youth』の40周年を記念して〈ドミノ〉からスペシャル・エディションがリリースされた。貴重なEPやコンピレーションからの楽曲も収録し、ライヴ映像収録のDVDまである。まあ、これでYMGの音源は完璧に揃っていると言えよう。では、40周年を記念してのインタヴューをどうぞ。

私にとっては間違いなくイーノの作品における雰囲気っていうものが大きかったし、それはYMGの曲の雰囲気にも影響していると思うわ。ソングライティング全般もそうだけどね。
──アリソン・スタットン

コロナがまだたいへんなことになっていますが、いまどんな風に過ごされていますか?

スチュアート・モクサム(以下S):実は僕の場合は普段とそれほど変わらない。なにせ自営業で、ひとり暮らしで、仕事までの移動も許容範囲内の距離で、自宅から15kmくらいのレコーディング・スタジオにも行けている。そっちはどう、アル?

アリソン・スタットン(以下A):こっちはかなり影響があって、私はカイロプラクターだから仕事ができない時期があったわ。いまは営業を再開してるけど、密な接触だからまだ多くの人は躊躇していて、やっぱり客足はまばら。マスクや手袋といった対策はしているけどね。夫と一緒に住んでるから話し相手はいるけど、まあ冬眠状態といったところ。

S:僕のパートナーが徒歩10分ほどのところに住んでいて、彼女は95歳の父親の介護をしているんだ。そのふたりと同じバブルにいるから、まったくひとりというわけではない。それから経済的な話でいうと奇妙なことに好調なんだ。Tiny Global Productionsや他のレーベルのマスタリングの仕事をやっているからね。

YMGがプログレやクラウトロック、あるいは70年フォーク・ロックからの影響を受けていた話は知られていますが、そのなかで、もっとも重要な影響となったアーティストを3人挙げてください。ぼくの予想では、クラフトワークは間違いなく入ると思いますが。

A:イーノ。

S:クラフトワーク。それから、当たり前だけどビートルズ。どう?

A:そうね。当たり前すぎて忘れるところだった。ビートルズってもうDNAに組み込まれてるから。

S:そうだね。3組と訊いてくれてよかったよ。

ちなみに、イーノから受けた影響でもっとも大きなことはなんだったのでしょう? 音楽の考え方?

A:ひとつには、彼が自分の曲中で生み出した雰囲気というか。時にすごく広々とした空気感というか。私にとっては間違いなくイーノの作品における雰囲気っていうものが大きかったし、それはYMGの曲の雰囲気にも影響していると思うわ。ソングライティング全般もそうだけどね。

S:同感。それについてちゃんと考えたことがなかったな。訊いてくれてありがとう。まず、ブライアン・イーノのような人物は彼の前にはいなかったということ。それに彼はものすごくたくさんのアイデアを持っていて、彼の音楽は何百万人という人を刺激したと思う。“Baby’s On Fire”にしてもどの曲にしても、ストーリーではなくてほとんどファンタジーのような歌詞で、物語ではない形での言葉がある。カットアップという手法を用いたボウイもそうだけど、個人的にはイーノの方が優れていると思ったね。

A:すごく抽象的でね。スチュアートの曲にも、たとえば“Choci Loni”だったり、そういう部分はあったと思う。

S:たしかに。それからイーノはアート的だったと思う。ロックンロールでもないし、どの音楽ジャンルでもなく……最初はかなりポップだったけどね。とにかく全体的なあの雰囲気にすごく魅力を感じたね。ポップ・ミュージックは単に牛乳配達員が口ずさむためのものだというような言われ方をすることがあるけど、れっきとした現代のアートなんだよ。そしてイーノは間違いなくそのアート的な側面の頂点に位置づけられると思う。そしてさらにトーキング・ヘッズのようなバンドがいる。僕が聴いてきたのは50年代、60年代、70年代の音楽でありポップ・ミュージックで、なかにはヒドい代物もあったけど、素晴らしいものも多かった。キンクスにしてもほかの何にしても。ただ当時のポップ・ミュージックにはまだアートが入り込んでいなかった。まあブライアン・ウィルソンが最初かもしれないな。

パンクやロックンロールが好きになれなかった理由はなんだったのでしょう?

A:私は別に嫌いだったわけじゃなくて、ロックンロールも聴いてたし、パンクやロックのギグにも行っていた。クラッシュもセックス・ピストルズもね。エネルギーに溢れてて本当にエキサイティングだった。ただ家のターンテーブルに乗せて聴きたくなるような音楽ではなかったというだけ。いわば栄養たっぷりのものを食べたいのと同じで、イーノやトーキング・ヘッズといった音楽のなかにはものすごくたくさん入っているし、ジョニ・ミッチェルでもニール・ヤングでも、中身がたっぷり詰まってるのよ。たとえばロックンロールを聴きながらすごく難解な本を読んでも気が散らないけど、イーノのような音楽は意識が引き裂かれてしまう。まあでも、たんにいちばん好きな音楽ではなかったというだけで、実際はどのジャンルも好きなのよ。ただ、燃え盛るビルから逃げ出すときにどのアルバムを持って行くかとなったら、パンクとロックンロールは置いていくわね(笑)。

S:フハハハ。こういったインタヴューではあらためてアリソンのことが知れて面白い。僕はロックンロールも大好きだよ。僕がチャック・ベリーの悪口を言ったとされて、それが僕の発言として引用されたことがあったけど、実際はチャック・ベリーも大好きだ。最高じゃないか。ただ70年代なば頃にはロックンロールはオーソドックスになっていて、ある意味飽きていたんだよね。多くの工業都市と同じようにカーディフでもヘヴィ・ロックやブルースが人気で、それ自体は何ら問題ではないし、僕もそういったものもすごく好きなんだよ。ただ自分はもうちょっとイーノ的な、興味深いことがやりたかった。プリファブ・スプラウトのパディ・マクアルーンが言ったように、人生は車と女の子だけじゃないんだ。もちろん女の子について書いてもいいけど、同じような書き方をする必要はない。たとえばトーキング・ヘッズも面と向かってズバッと言うというよりはもうちょい鈍角的にくるというか。よりクリエイティヴな表現でね。
 これは僕の先入観だけど、パンク・ロックはちょっと速くなっただけのロックンロールだと思ってたんだよね。本当に偏見もいいとこだけどさ(笑)。当時〈Domino〉に短いコメントを書けって言われたんだ。でもパンク・ロックがなかったら我々はどこへも行き着かなかっただろうし、存在しなかっただろうね。

A:そうね。

S:パンク・ロックが人びとのアティテュードを根本的に変えたんだ。そして我々が始動する頃にインディペンデント・レーベルができてきたわけだよ。

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静かさというのも哲学の一部で、他の人たちがやっていることは何だろうかと考えて、その反対のことをやればいいだけだった。みんながうるさいから自分たちは静かにしよう、みんなはディストーションかけてるからディストーションはなし、という具合に。
──スチュアート・モックスハム

個人的な話をさせていただくと、自分が16歳の高校生だったときに〈Rough Trade〉のアメリカ盤のコンピレーションを買ったんですね。ザ・ポップ・グループ、スクリティック・ポリッティにザ・スリッツ、キャブスにロバート・ワイヤットと、錚々たるメンツの素晴らしいラインナップのコンピですが、そのなかでもっとも曲の時間が短かったのが、YMGの“Final Day”でした。1分40秒でしたっけ? しかも静かな曲で、あっという間に終わるのに、あの曲には忘れられないインパクトがありました。極度に音数のない演奏もアリソンさんの抑揚のない歌い方もすごくて、歌詞に関してはずいぶんあとで知ったのですが、世界が終わる直前を歌っています。いったいどうしたらあんな曲が生まれるのでしょう?

S:あの曲はまさに当時のバンドの哲学を示しているいい例で、我々は、物事の核心部分だけを提示すればいいと考えていたんだ。物事の本質というか。邪魔なものを入れず装飾を施さず、なぜならいいアイデアがあればそういったものは不要で、だから必然的に短くもなる。
 静かさというのも哲学の一部で、というのも僕は、やっぱり地方都市在住というのは不利だと感じていたんだよ。音楽業界はイングランドに集中していたし、そこで成功した地元の知り合いなんてひとりもいなかった。だから注目されるためには人と極端に違うことをしなければならないと思っていたんだ。そしてそれはごく簡単なことだったんだよ。他の人たちがやっていることは何だろうかと考えて、その反対のことをやればいいだけだった。みんながうるさいから自分たちは静かにしよう、みんなはディストーションかけてるからディストーションはなし、という具合に。そうやって余分なものを削いでいって完全に必要最低限な要素だけにしたというわけさ。みんなが叫んでいるときに囁けば、まあ気になってくるだろうと(笑)。YMGの場合、みんなからこっちに来てくれたんだよ。そこが素晴らしかった。そう思わないアル?

A:本当にそうで、YMGの音楽は深いところで多くの人に響いて、音楽を通してたくさんの素敵な出会いがあった。音楽から受けた感動は一生残るものなのよ。

今のお話から、ウェールズ出身であることも、あの作品に影響していたように思いますが、いかがでしょうか?

S:お先にどうぞ、アル。

A:サウンドに関しては、当時私たちが知っていたウェールズのどのバンドとも違ってたわね。スチュアートが言ったように、地元では本当にもうロックンロール、R&Bといったものが主流だった。周辺は炭鉱地帯で、町もそれと関連した工業都市だったけれど、ヤング・マーブル・ジャイアンツが結成する頃にはそういったものが終わりを迎えようとしていたのよ。炭鉱が閉鎖されたり、でもその時点では地域の再生計画が立てられるのはまだ当分先のことで、だから町はかなりさびれていた。機会は減って、失業や貧困が蔓延っていた。ただ……これはスチュアートはたぶん違う意見だろうけど、そこには独特の魅力があったと思う。当時は、世界の他の炭鉱地帯やイングランド北部なんかでも同じ問題は起きていたけど、ある意味それが私たちを駆り立てたんじゃないかとも思うのよ。若いというのもあったと思うんだけど、それほど疲れ切ってるわけでもなく、シニカルでもなくて、何か違うことができるんじゃないかっていう希望を持っていた。
 とにかく、そうね、たしかにサウンドにもそういった荒涼感が若干あった気がするし、何らかの形でウェールズの文化が紛れ込んでいたと思うわ。何というか、ウェールズの魅力みたいなものがあるというか。スチュアートの方がもっとわかりやすく答えられるかもね。

S:僕も同意見だよ。僕は自分のウェールズ人であることについて葛藤があるというか、ウェールズを離れて長いことイングランドに住んでいるんだけど、でもウェールズは故郷であり、カーディフは大好きな場所で、心はウェールズ人なんだ。モリッシーの曲じゃないけど、僕はウェールズの心を持ち、イングランドの血が流れてるんだ(笑)。それからウェールズは“LAnd of Song”として知られていて、基本的にはケルト的なものなんだけど、そういった文化や気質もあるんだよね。

もし戦争になったら自分たちは机の下に隠れるとか窓に新聞を貼るくらいしかできないけど、金持ちと権力者はどこかにコンクリートの避難壕があって核汚染から身を守るんだろうっていう。それだけのことをたった1行で言うなんて素晴らしいわよね。
──アリソン・スタットン

歌詞で、もっとも好きなのはどれですか? それはどんな内容の歌詞なのでしょうか。

S:これまでいつも“N.I.T.A.”がもっとも好きな曲だと言ってきて、というのもこの曲には僕の子供時代への憧憬が込められているからなんだけど、でもさっきの話に出た“Final Day”かもしれないな。この歌詞は核戦争の恐怖について実際に何かを語っているからね。

A:私も同じ、“Final Day”。スチュアートの歌詞は本当に好きでリスペクトしてる曲がたくさんあるけど、“Final Day”は……私たちは核戦争の脅威のなかで大人になって、それは当時ホットな話題だったの。だからそういった「もし本当に戦争になったら……」といったことを熟考して、想像したシナリオを言葉にするというのはすごく難しいことだったはず。私はこれまでの人生で、たとえば事故だったり、誰かと死別したり、あまりの衝撃で物事がスローモーションに感じられるような体験をしたことが何度かあるけど、何と言うか、あの曲にはそういった感じがあって。変性意識状態に入るような、シナプスの働きがゆっくりになって、それによってものすごくシンプルなことがはっきりと見えてきて、たとえば赤ちゃんが泣いているだとか、そういう単純なことに気づいて、美しい単純さが生まれる。スチュアートはあの歌詞で、それを見事にやったんだと思うわ。

S:いまの話を聞いてて子どもの頃に家族に起こったひどい出来事を思い出したよ。そのときにものすごく動揺してたしかにスローモーションになったんだ。あの歌詞を書いていたときも無意識のうちにそうなっていたのかもしれないね。普段はほとんどあのアルバムを聴かないからこうやってインタヴューで訊かれてあらためて考えるわけだけど、あの歌詞にはかなり皮肉も込められていたと思うよ。出だしの“When the rich die last(金持ちが最後に死ぬとき)”には怒りと皮肉が込められているよね。何だろう、エッジがあるというか。

A:実際私たちはそう思ってたのよ。もし戦争になったら自分たちは机の下に隠れるとか窓に新聞を貼るくらいしかできないけど、金持ちと権力者はどこかにコンクリートの避難壕があって核汚染から身を守るんだろうっていう。それだけのことをたった一行で言うなんて素晴らしいわよね。

S:ありがとう。

YMGは成功したにもかかわらずあっけなく解散してしまいました。アメリカ・ツアー中に3人の気持ちがバラバラになってしまったという話を読んだことがありますが、じつはあの頃、あなたのなかにはセカンド・アルバムのヴィジョンが描かれていたんじゃないでしょうか?

A:それはなかったと思う。

S:実際に何が起こったかと言うと、まったく何の考えもなしに、口を開いて、バンドは終わりだと言ってしまったんだよ。終わりっていう直接的な言葉ではなく、実際どう言ったのかは覚えてないけど、そんなこと言うつもりはなかったのに口をついて出た。でもいま考えてみると、それは避けられなかったんだと思う。マネージャーがいなかったことが残念だね。もしマネージャーがいて、「君たちは本当によくがんばった。たくさん働いた。3ヶ月ほど休んで山登りでも釣りでもして、それから次を考えよう」なんて言われてたら違ってたかもしれない。でもあの頃はとにかくみんなものすごいストレスを抱えていたんだ。

A:本当にね。

S:しかも僕らはあまりコミュニケーションを取らないタイプだったしね。僕にとってあのプロジェクトは、大袈裟ではなく生きるか死ぬかくらいのものでとにかく必死だったから、控えめに言っても思いやりに欠けていたと思う。とくにアリソンに対してはそうで、そのことは本当に申し訳なく思っているよ。でも若い頃はとにかく未熟だったりするもので。そもそもはじめたときはうまくいくと思ってなかったし、失敗するものとばかり思っていたんだ。カーディフ、あるいは南ウェールズから成功したやつなんて誰もいなかったから。トム・ジョーンズとシャーリー・バッシー以外はね。ただ、失敗するだろうと思いつつも、でも生きるか死ぬかくらいに思い詰めているという、真逆の気持ちが自分のなかにあって、まるでかみそりの刃の上に立っているような気分だったんだ。

解散したことを後悔しませんでしたか?

S:もちろん後悔したよ。創造的なユニットとして、素晴らしいものが作れたかもしれないと思うからね。理論上は今でも可能かもしれないけど、まあないだろうな。その後もそれぞれが自分なりにクリエイティヴな活動をしてきたし、それにあの作品を作ってそれが特別なものとなった、それでいいじゃないかっていう考え方にも多くの真実が含まれていると思うんだよ。

ちょっと大きな質問で申し訳ないのですが、解散後、アリソンさんはWeekendで歌ったりしてましたが、お二人はその後の40年という年月をどのようにお過ごしだったのでしょうか? 

S:僕は歳をとって太った(笑)。

A:私はYMGのあとかなり頭が混乱していたから自分を見つめる必要があって、それが何年かかかって、いちどロンドンに引っ越してWeekendを結成してアルバムを1枚とEP2枚、ライヴ・アルバムを作ったんだけど、まだ頭のなかで整理がつかなかったからウェールズに戻ってWeekendを終わらせて。それでもう今後音楽をやることはないだろうと思ったのよ。音楽や、ライヴや、当時多くのミュージシャンが送っていたような快楽主義的なライフスタイル、そういったものが自分には合わないんだと思ったからね。それでケアワーカーとして働いたり、太極拳を教えたりしていた。そしたら思いがけずレコーディングの誘いがきて、音楽はもうやらないと決めてたのに、やりたいという誘惑を無視することはできなかった。そしてイアンと2枚作って、スパイクとも一緒に作り続けたという。ただそれは私の人生においてヤング・マーブル・ジャイアンツやWeekendほど大きな比重を占めるものではなくて、サイド・プロジェクト的なもので、カイロプラクターというのがたぶん私の主な役割ね。いまのところ音楽面の計画は何もないし、数年前に今後何かやることは絶対ないと言ったけど、絶対ないなんて絶対言うべきじゃないということは学んだわ。

S:僕はさっき言った通りだけど、途中で美しい女性に熱烈に恋をして結婚して18年間ともに過ごして3人の子どもを授かって離婚したんだけど、子どもの頃からすごく結婚したかったからそれは本当に重要なことだったよ。音楽に関してはYMGのあと何年も精神的に参っていてものすごく落ち込んでいた。高所恐怖症にもなって、どうすすることもできず、非常に静かに暮らしていたね。外出もせず仕事もせず、でも音楽だけは作っていた。音楽を作ってレコーディングすることだけは止めなかったんだ。ここ数年でその頃の音源がThe Gist名義でリリースされているんだけどね。
僕にとっては最初にギターを手に取ったときというのが人生を決定づける瞬間で、アリソンがカイロプラクターになったということは、彼女という人間について多くのことを物語っていて、アリソンは本当に思いやりがある人なんだよ。そして僕にとってはソングライティング、そして詩を書くことなんだ。だから最終的にはそれぞれ生き延びて成功したと言えるんじゃないかな。

ファンとしては今回のようなコンプリートなものが出るのは嬉しい限りですが、みなさんのなかで、音楽への情熱という点ではいま盛り上がっている感じなのでしょうか? 何度か再結成ライヴをやられていますが、久しぶりにみんなと会ったときはどんな感じで、ライヴ自体はどんなでしたか? もうこれ以上の再結成はまったく可能性がないですか?

S:さっきアリソンが言ったように、絶対ないとは言わないよ。

今里(STRUGGLE FOR PRIDE/LPS) - ele-king

敷居を高くしていないとご飯が食べられない人達のお茶碗を、
夜な夜な割っていく作業に従事しています。

1.META FLOWER /DOOM FRIENDS
誠実な人柄が全ての作品に現れていて、動向がとても気になる。LSBOYZのALBUMも最高でした。

2.JUMANJI/DAWN
くそみたいな気分で目が覚めた朝方でも、再生した瞬間にFRESHにしてくれる。

3.YOUNG GUV/RIPE 4 LUV
AOYAMA BOOK CENTERの店員さんが教えてくれた。どうもありがとうございます。

4.HATCHIE/KEEPSAKE
今は亡きBONJEUR RECORDS LUMINE新宿店の店員さんが教えてくれた。どうもありがとうございます。

5.ISAAC/RESUME
こういう気持ちにさせてくれる音楽が身近にあることに、心から感謝しています。

6.MULBE/FAST&SLOW
DO ORIGINOOを聴きながら豊洲を歩いていたら、一瞬どこに居るか解らなくなった。

7.SHOKO&THE AKILLA/SHOKO&THE AKILLA
武道館ライブ楽しみにしてます!

8.HIKARI SAKASHITA/IN CASUAL DAYS
誕生日を過剰にアピールしたら送ってくれた。どうもありがとう。

9.CAMPANELLA/AMULUE
今になって思うと待ち続けてた時間も楽しかったし、
聴いてすぐに報われた。

10.CENJU/CAKEZ
「もしもVINがいたらあんなもんじゃ済まなかった」って笑って帰宅して、
すぐに再生した。
発売には立ち会えなかったけど、当時の我々の空気が全て詰まってる。

interview with Richard H. Kirk(Cabaret Voltaire) - ele-king

 ドイツ人のフーゴー・バルがチューリヒにダダイズムの拠点として〈キャバレー・ヴォルテール〉を開店したのは第一次大戦中の1916年のことだったが、イギリス人の当時18歳のリチャード・H・カークがシェフィールドでスティーブン・マリンダーとクリス・ワトソンの3人でキャバレー・ヴォルテールなるバンドをはじめたのはロックがますます拡張しつつあった1973年のことだった。そもそもキャブスは、イーノが提言する〈ノン・ミュージシャン〉の考え(楽器が弾けなくても音楽はできる)に共感して生まれたミュージック・コンクレートのガレージ版だった。テープ・コラージュ、そして電子ノイズとドラムマシンとの交流によってスパークするそのサウンドが、やがては“インダストリアル”と呼ばれることになるものの原点となる。
 それから歳月は流れ、リチャード・H・カークがキャバレ-・ヴォルテールの26年ぶりのアルバムをリリースするのはコロナ禍の2020年11月のこととなった。ほかの2人はとうにバンドを離れている(ワトソンは録音技師。マリンダーは大学の教職)。いまや、というか20年以上前からキャブスはカークのユニットになっているし、カークはいまもシェフィールドで暮らしている。

 キャブスにとっては、サーカスティックな楽器演奏よりも機械じみた単調なビートのほうが、煌びやかな音色よりもノイズのほうが、こ洒落たカフェよりも灰色の廃墟のほうがスタイリッシュで魅力だった。そうした美学/コンセプトを守りながら、時代に応じてそのサウンドを変えてきたキャブスだが、喜ばしいことに新作『Shadow Of Fear』においてまたあらたな局面を見せている。聴いて思わず、ワォって感じである。つまり、音が鳴って1分後にはその世界に引きずり込まれているのだ。初期のざらついたサウンドコラージュに強力なインダストリアル・ファンクが合体したそれは、ひと言で言えばパワフルで、圧倒的だ。26年ぶりに駆動したエンジンは、錆びていないどころか、むしろ活動休止前よりも、烈しく回転している。
 リズムの根幹にあるのはエレクトロやテクノだが、アルバムにおいてブラック・ミュージックからの影響が伺えることは、キャブスの新作を聴くにあたって興味深かった。1曲目の“Be Free”などは“Nag Nag Nag”をシカゴ・ハウスに落とし込んだかのようだし、最後の曲“What's Goin' On”は、その曲名からも70年代ソウル/ファンクのキャブス版とさえ言える。つまり、ディストピアを描いてはいるが、『Shadow Of Fear』は素晴らしくエモーショナルだったりするのだ。
 彼に電話した坂本麻里子さんよれば、取材中は苦笑いが多く、いかにも北部人らしいアイロニーとペーソスが感じられたとのこと。要するに、あんま偉そうなことは言わないし、尊大でもない。それがまあ、インダストリアル・サウンドのゴッドファーザーの言葉なのだ。

あからさまなスローガンをやるのは自分はごめんだ。なにもかもが政治的なんだしね……。ただ、いまの状況の在り方というのは……人びとも政治を意識せざるを得なくなっているんだと思う。

もしもし、カーク氏ですか。

リチャード・H・カーク(RHK):やあ!

今日はお時間いただきまして、ありがとうございます。

RHK:どういたしまして。

まずはアルバムの完成とリリース、おめでとうございます。

RHK:うん。

ソロ名義でも長らく活動され、なおかつご自身のレーベル〈Intone〉からは多数の名義での作品を出されているあなたが、26年ぶりにキャバレー・ヴォルテール名義でのアルバムを出すとは嬉しい驚きでした。

RHK:ああ、それはよかった。君が作品をエンジョイしてくれたらいいなと思っているよ。

はい、とても楽しんでいますので。

RHK:そうか、それはいい!

(笑)で、2014年にベルリンのフェスティヴァルで行われたキャバレー・ヴォルテールの12年振りのライヴが契機となったそうですが、もはやオリジナル・メンバーがひとりとなったキャブスと、あなたのソロ活動との違いについて、どのように考えていたのですか?

RHK:フーム、まあ、かなり区別しにくいってことももたまにある。ただ、今回の作品に関しては……主にキャバレー・ヴォルテールとして作ったね。というのも、いま言われたように、2014年以来、わたしは毎年ライヴをやってきたし、1年ごとにキャバレー・ヴォルテール向けのライヴ・セットをアップデートし続けていたんだ。で、その結果として3時間にのぼる新たなマテリアルが、純粋にキャバレー・ヴォルテールとしての音源が手元に集まった、と。キャバレー・ヴォルテールとして、ステージ上で、実際に生で演奏してきた素材がね。
 ただ、この話題についはあまり長く引きずりたくないな。というのも、この点(キャバレー・ヴォルテール名義を用いること)について自己正当化をやる必然性は感じないから。実際、キャバレー・ヴォルテールの他のメンバーの2名は……うちのひとり、クリス・ワトソン、彼は1981年にやめてしまったんだし(苦笑)──

(笑)大昔ですね。

RHK:(笑)そう、その通り。だから彼はまったく関与していない。それにもうひとりのスティーヴン・マリンダー、彼も1993年にはバンドをやめている。というわけで、自分の立ち位置を正当化しようとするのは自分にとって意味のないことだ、ほとんどそれに近い思いをわたしが抱いているのはどうしてかを君にも理解してもらえるはずだよ。それに、彼ら2名が関わるのをやめて以降の歳月のなかで、わたしは旧カタログの再発や(ゴホッ!と咳き込む)リミックス制作といった諸作業をこなしてきたし……キャバレー・ヴォルテールの過去全体を管理監督してきたんだよね。
 だから、この段階に進むのは自然なことと思えた──いやもちろん、このプロジェクトをライヴの場で再び提示することに興味を惹かれた、というのはあったよ。でも、わたしはこれまでキャバレー・ヴォルテールのキュレーションを担当してきたわけで……とにかく思ったんだよ、(「すまないね」とゴホンと咳き込みつつ)……となれば、次のステップとして理にかなっているのは、過去に留まるのはもうやめにして新たなレコーディング音源をいくつか作ることだろう、と。その結果生まれたのが『Shadow Of Fear』というわけだ。(ゴホゴホッと咳き込む)

1曲目の“Be Free”を聞いたときに、正直感動しました。紛れもなくキャブスの音でしたし、しかも、そのリズムにはフレッシュで力強いモノを感じました。

RHK:なるほど。

また、ナレーションのカットアップがありますよね。部分的に聴き取れる「I did it, I killed it, by mistake(俺はやった。間違えて殺した)」「This city is falling apart(街が崩れ落ちていく)」といった言葉があって、ディストピックなイメージをもたせながら──

RHK:うん、思うにあれは……おそらくあれは、偶然ああなったのかもしれないし、あるいはもしかしたら自分には……なにかが起こりつつある、そうわかっていたのかもしれない。で、ほら、我々はいまやああいうディストピア的な立場に立たされているわけだろう? ブレクジットがあり、そしてミスター・トランプが登場し……そのアメリカは、(苦笑)あと4年も彼につきあわされるかもしれない、と。

それは考えたくないです。

RHK:どうなるかわかないとはいえ、実に憂鬱にさせられる。それにヨーロッパでは──日本に行ったことはないけど、あちらではウイルス禍を越えたようだよね? でも、こちらでは……いままさに……本当に、何千人もが日々感染している状態で、病院のベッドが足りなくなるかもしれない。要するに、コロナ禍の初期段階のイタリアがどうだったか、という状態に戻りつつあるということだよ。一方、イギリスでは、政府が……やれやれ(苦笑)、英政府はこれにどう対処すればいいかさっぱりわかっていないらしくて。無能だね(苦笑)。

ええ……。で、先ほどの質問の続きなのですが、暗いムードに抗うように「be free」という前向きさ/楽天性を仄めかすような言葉がミックスされる。強度のあるビートのなか、相反するふたつのヴィジョンが衝突しているかのようなこの1曲は、今回のアルバム全体を象徴しているように思うのですが、いかがでしょうか?

RHK:うん、それは非常にいい解釈だよ! ただまあ、わたしはあまりはっきりとさせたくない方だし(苦笑)──

ですよね。

RHK:それよりも、聴いた人間がそれぞれに解釈し、自分自身で判断してもらう方が好きなんだ。そうした解釈の方が、(苦笑)わたし自身が言わんとすることよりもはるかに興味深いことだってときにあるからね。わたしのやっていることというのは、実のところ、「ムード」を作り出しているに過ぎない。そうやって、雰囲気であったりテーマめいたものを設定しようとトライしているし、その上で、それがどこに向かっていくかを見てみよう、と。

今作を制作するうえでのあなたのパッションの背景にはなにがあったのでしょうか? ひとつは、とにかく新しいキャブスを2020年代に見せることだと思うのですが──

RHK:もちろん。

テーマであったりコンセプトを決めるうえで、あなたにインスピレーションを与えたものになにがありますか?

RHK:(ゴホンゴホンと咳き込む)失礼……あー(と、言いかけて再び激しく咳き込む)。

大丈夫ですか?

RHK:水を飲み過ぎて……あー、そのせいで(盛んに咳払いしながら)喉がいがらっぽくなってしまったな……ウイルスに感染してはいないはずなんだが(苦笑)。

咳が落ち着くまで、少し待ちましょうか?

RHK:いや、大丈夫だ、続けよう! で……そう、インスピレーションはなにか?という質問だったよね。んー、わからない。

はあ。

RHK:(苦笑)。だから……作っていくうちになにかが浮かび上がってきた、としか言いようがないというのかなぁ。先ほども言ったように、素材の多くはライヴ・ショウ向けに作り出したものだったわけで、それは本当に、非常に……実に剥き出しの未加工な状態であって、いま、君がアルバムとして耳にしているものほど聴きやすくて、磨かれたものではなかったから。
 というわけで、このプロジェクトのそもそものインスピレーションは、ライヴ・パフォーマンスのために作り、書いたコンポジション群をCDなりヴァイナル・アルバムの形で何度でも繰り返し聴くことのできるものに作り変えよう、というものだったんだ。したがって、その素材からなにかを取り去る一方で、特定のヴォイス群を始めとする様々なディテールをそこにつけ足していく、という作業になった。でも……うーん、「ああ! そう言えばこれにインスパイアされたっけ」といった具合に、この場でちゃんと君に答えられるようななにか、それは本当に、とくにないんだ。

なるほど。いや、特定したくないということであれば構いませんのでお気になさらず。

RHK:いやだから、言えるのは……直観にしたがって作った、ということだね。ほとんどもう……スタジオに入った時点で、自分はなにをすべきかがわかっていた、みたいな? ただし、その直観がどこからやって来たのか、その出どころは自分でもわからない、という(苦笑)。

(笑)あなたにはシャーマンや霊媒みたいなところもあるのでは?

RHK:ん~~? うん……まあ、その考え方はあんまり間違っていないかもしれない。とにかく自分自身の意識のなかで起きていること、そしてその次元を越えたところで起きていることとチャネリングしているだけだし……で、それらを自分以外の他の人びとも理解し、そのなかに飲み込まれることのできるなにかへと翻訳していこうとしている、という意味ではね。

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で、ほら、我々はいまやああいうディストピア的な立場に立たされているわけだろう? ブレクジットがあり、そしてミスター・トランプが登場し……

あなたは昨年9月のPOP MATTERSの取材で、「I think it's more necessary now to be politicized(いまはより政治化することが必要だと思う)」と語っていますが、時期的に、おそらくは、それは今作を作っているときのあなたのスタンスでもあったと思います。先ほどもおっしゃっていたように、キャブスはこれまで政治に関しては直裁的な表現よりも、仄めかしであったり、リスナーに考える契機やテーマを与えるみたいなやり方をしてきましたが、今作では政治的な意識がより強く出ているとみていいのでしょうか?

RHK:どうなんだろう。自分じゃわからないな……だから、作品をダイレクトに政治的なものにするか云々に関しては、ずいぶん前に決めたからね──たとえば、70年代後期にはザ・クラッシュのような、政治的なスローガンをがんがん掲げるバンドがいたけれども、それよりもむしろもっと、自分は影響を与える、あるいは暗示することを通じてそれをやろう、と。わかるかな?

はい。

RHK:うん。あからさまなスローガンをやるのは自分はごめんだ。なにもかもが政治的なんだしね……。ただ、いまの状況の在り方というのは……人びとも政治を意識せざるを得なくなっているんだと思う。だからまあ……(嘆息して苦笑)ヒトラーが政権をとってナチス・ドイツが生まれた頃のようなものだ、と。ヨーロッパからブラジルに至るまで、非常に右翼思想の強い連中が存在しているし。

世界中にいますね。

RHK:うん、どこにでもいる。というわけで、その状況は……だから、(ゴホゴホと軽く咳き込む)ほら、生涯ずっとファシズムに対して憎しみを抱えてきた自分のような人間とっては……それこそ、(苦笑)「義務だ」とでも言うのかなぁ、この現状に抵抗・対峙しようとするのは! というのも、そうなったらいずれどうなっていくかを我々はもう知っているんだし。たくさんの人間が死ぬことになり、人びとは服従させられながら生きることになる。

ということは、このアルバムは一種の警告?

RHK:んー……そうなのかもしれない。そうなのかもね……?

というか、警告どころか、既に起きているとも言えますが。

RHK:イエス。

“Night Of The Jackal”という曲名の由来を教えて下さい。映画『ジャッカルの日』(“The Day Of The Jackal”/1973。フレデリック・フォーサイス原作の政治スリラー小説の映画化)を思い起こしましたが、この由来は?

RHK:……まあ……あの曲、“Night Of The Jackal”には、とにかくこう、この曲の起源はアフリカにあるなと思わされるなにかがあった、というか……。

(笑)なるほど。

RHK:だから、いま言われた映画とは直接関係はない。そうは言いつつ、『ジャッカルの日』は、大好きな映画のひとつだけどね。あれは本当にいい映画だ。とても、ある意味とても興味深い映画だよ。でも……残念ながら、申し訳ないけれども、あの映画はこの曲のインスピレーションではないんだ。ただ、たしかあれはイラクかイラン産の映画だったと思うけれども、『Night Of The Jackal』みたいな題名の作品があったはずだな……?

そうなんですね。後でチェックしてみます。

──いやいや、おぼろげな記憶だから、確証はないけれども。(訳注:サーチしてみましたが、当方ではそれに該当しそうな作品は見つけられませんでした)

了解です。

──ただ、こう……あの曲にはなにかしら、一種の緊張感がそのなかにあった、というのかな。ジャッカルはアフリカに生息する動物だし、大型のキツネみたいなもので、狩猟好きな動物で、しかもすごく鋭い牙の持ち主なわけだから(笑)。

もう1曲、“Papa Nine Zero Delta United”のタイトルの由来はいかがでしょう。「もしや9.11のことか?」とも感じましたが?

RHK:いや、そうではないよ。あれは実際の……以前にもああいうタイプの声を作品で使ったことはあったけれども、あれは基本的に、飛行機のパイロット同士がやり取りしている模様で。短縮された用語を使って対話している、と。あの用語がなんと呼ばれるのかは知らないが、短波ラジオを持っているからあの手の会話を傍受できるんだ。とても薄気味悪いんだよ(笑)、喋っているのがどこの誰かも、その人間がどこにいるのかもわからないからね! 実はあれは……かなり前の話になってしまうけれども、マレーシア航空の旅客機が2機、墜落したのは覚えているかな?

ありましたね。

RHK:1機はたしか、ロシアかウクライナの発射したブーク・ミサイルに撃ち落とされ、もう1機はこつ然と消えてしまった(訳注:前者は2014年7月に起きたマレーシア航空17便撃墜事件。後者は同年3月に370便がインド洋に墜落したと推測される事件)。あの事件が、自分の頭のレーダーにあったんだよ。それもあるし、わたしは飛行機嫌いでね。空旅はやりたくないんだ。

そうなんですか。飛ぶのが怖い?

RHK:ああ、もちろん。もう20年も飛行機には乗っていないよ。移動には列車を使うから。

ある意味いまの状況には合っていますね。COVID-19絡みの規制が多く、海外に飛ぶ旅客は減っていますし。

RHK:そう。でも、ラジオで誰かが言っていたのを聞いたけど……COVID感染に関して言えば明らかに、旅客機内の環境はそれほど危険じゃないらしいよ。エアコン設備のおかげでウイルスが四散するんだそうで。

(笑)なんか眉唾ものの説に思えるんですけど……。

RHK:いやだから、そもそもその説はアメリカ軍の唱えているものだっていうね、ハッハッハッハッハッ!

(苦笑)信じない方がいいですね。

RHK:そうだね、信じられない(笑)。

(笑)。『Shadow Of Fear』というタイトルはどこから来たのでしょうか?

RHK:(ゴホッ、ゴホッと咳き込んで)それは、あれがとてもいいタイトルだからであって(笑)……実に心になにかを喚起するタイトルだし、それに……自分でもわからないな。とにかくあれが、このアルバムを作っていた当時の自分の感じ方だった、としか言えない。まとめに取り組みはじめたのは……昨年9月のことだったし、そこから作品を完成させた4月までの間に……イギリスにはこの、ブレクジットというものがあってね。いまもまだ続いているけれども(訳注:イギリスは2016年の国民投票の結果2020年1月31日をもって名目上EUから離脱したが、今年は移行準備期間で離脱に伴う諸交渉は現在も続いている)、もうかれこれ3、4年になる……。で、その間にメディアは多くの悪をもたらしてね。数多くの嘘、そしてフェイク・ニュースだのなんだのが……(苦笑)。
 かと思えば、アメリカにはトランプがいて、彼は……あいつを、北朝鮮の金正恩を挑発して煽るのに近いことをやってしまうような人物なわけでさ(苦笑)……。だから、そういった(ゴホンゴホンと咳払いしつつ)、とにかく(苦笑)総じて自分の感じる、世界の状況がどこに向かっているかについて抱く全般的な不安というのかな……。で、さっきも話したように、アルバムをまさに仕上げつつあった時点で、イギリスは全国的なコロナ・ロックダウンに入ったわけで(3月23日)。そうしたすべてに、どこかこう、このアルバムはなにかによって「書かれた」という感じがするね。

過去4、5年の間、あなたはそうした「恐怖の影」──いまおっしゃったようなことはもちろん、政治の変化や監視社会の影のなかで生き、それに常に脅かされていた、と?

RHK:ああ、そうなんだと思う。まあ、それは……おそらくそんなことを感じていたのは自分だけだったのかもしれないけれども……どうなんだろうね? たとえば、わたしはソーシャル・メディアの類いやインターネットは好きではない。ツィッター等々を見ると、本当に多くのヘイトに出くわすなと思うし、とにかく……いやだからさ、こうなる以前だったら、たぶん、不機嫌な男どもが2、3人バーにたむろして飲みながら不平を垂れる、程度のものだったんじゃないのかな?

(笑)ええ。

RHK:それがいまや、全世界もその不平を耳にすることができるようになった、というねぇ(苦笑)。とにかくまあ、わからないけれども?……人びとには実にぞっとさせられる、そんな感じがする。あらゆる類いのネガティヴさがネット/SNS上に存在しているから。

有毒なカルチャーがありますよね。

RHK:ああ。というか、カルチャーの欠如と言っていいくらいだ(苦笑)。

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ああ、とにかく興味があるってことだよ──だから、リズムのパワーに、それが人びととコミュニケーションを持つ力に興味がある。

ダンス・ミュージックのリズムを取り入れているのは、いまにはじまったことではない、もう、80年代からずっとそうなんですが、今作でもリズムの創造に注力していますよね?

RHK:うん。

ダンス・ミュージックにこだわったのはどんな理由からですか?

RHK:ああ、とにかく興味があるってことだよ──だから、リズムのパワーに、それが人びととコミュニケーションを持つ力に興味がある。というのも、リズムの歴史は何千年も前にさかのぼるものだと思うし(笑)、それこそ人類が存在し始めて以来、人間が2本の棒切れを叩き合わせるようになり、そしてドラムを叩くようになって以来存在しているわけで……。となれば、きっとそこにはなにかしら、(笑)大事な世界があるんだろう、と。だからわたしが基本的に思っているのは、言葉を使えるようになる以前は、人びとはリズム、そして音楽を通じてお互いと意思伝達をおこなっていた、ということなんだ。

たとえば“Universal Energy”にはデトロイトのアンダーグラウンド・レジスタンスにも似た力強さを感じます。

RHK:ああ。まあ、自分としてはアンダーグラウンド・レジスタンスとは似ても似つかない曲だと思うけれども……ただ、わたしは彼らのファンだよ。非常にラッキーなことに、2015年に、イタリアでマイク・バンクスに会う機会に恵まれてね。彼はアンダーグラウンド・レジスタンスの“Timeline”、ジャズ版URのような、あのユニットとしてプレイしたんだよ。それに、あのフェス(訳注:Dancity Festival の2015版と思われる)の同じ顔ぶれでは……彼が……クソッ! ど忘れしてしまって名前が浮かばないなぁ、ほら、あの人?……マイクと一緒にやっていた……

とっさに思い出せなければ大丈夫です、後でネットで調べますので。

RHK:うん、そうしてよ……彼の名前を思い出せないなんて、我ながらなんと間抜けだなぁ、情けないと思うけど……。

いえいえ、よくあることですから、どうかお気になさらず。

RHK:うん。で、とにかくまあ、彼らの音楽は90年代初期から知っていたし、12インチ・シングルも山ほど持っているとはいえ、あれ以降、彼らがどんなことをやってきたかについてはよく知らなかった、みたいな。でも、改めて彼らの音楽を探りはじめてね……(ゴホゴホッと咳き込む)失礼。うん、オンラインを通じて、彼らの音楽を探りはじめたんだよ。そうしたら、実にファンタスティックな、素晴らしい音源やヴィデオ群を彼らがポストしているのを発見してね。あれらは本当に、本当に素晴らしいものだよ、うん。

なるほど。で、質問の続きなんですが、クロージング・トラックの“What's Goin’ On”のホーンのコラージュには黒人音楽へのシンパシーがありますよね? あなたはもともとソウルやレゲエのクラブに出入りするような10代を過ごしてきたわけですが──

RHK:その通り。

いまもキャバレー・ヴォルテールの音楽のなかに黒人音楽からの影響はあると思いますか?

RHK:……まあ、いま君の言ったことがそのまま質問の回答になっているんじゃないの?

(笑)あ、なるほど。

RHK:君自身がその影響を作品から聴き取っているわけだから!

ですね。では、当方の読みは当たっている、と。

RHK:そう。それに、思い出したよ、さっき名前を思い出せなかったのはジェフ・ミルズ! 彼ともあのフェスで会えたんだ。たしか彼は、一時期日本で暮らしていたこともあったんじゃないのかな……? ともかくまあ、うん、あれは本当にこう、ツアー生活に戻ったことに伴うグレイトな体験のひとつだった、みたいな。ヨーロッパ各地で開催される色んなフェスティヴァルに出演するようになるし、おかげでその場で素晴らしい人びとと実際に会えることになる、というね(笑)! うんうん……。

今作は、明らかに悪化していく状況に対してのキャブスの反応と見ているのですが、ただディストピアを描くだけではなく、アルバムの終盤の、希望めいたものも表現しているところに感動を覚えました。

RHK:なるほど。

アルバムの最後の3曲には、アップリフティングな展開の曲を配置しています。その意図について教えて下さい。

RHK:まあ、誰だってハッピー・エンドが好きなものだからね!

(笑)。

RHK:いやだから、あの流れはほとんどもう……ライヴで体験したことから出て来たものだ、みたいな。たとえば……“Universal Energy”、あのトラックを観衆相手にプレイすると、とても妙な効果がオーディエンスのなかに起きるのに気づいてね。すごい数の人間が、狂ったように踊っていた。というわけで、このアルバムになんらかの構造をもたせるに当たって、そのクレイジーさに向けてビルドアップしていくのはいいんじゃないか、と思ったんだ。とは言っても、自分としては(ゴホン!)……“What’s Goin’ On”は高揚するタイプの曲だとは思わないけれども。あの曲に含まれるブラスやホーン・セクションのせいで、たぶんそんな印象が生まれるんだろうな……。というのも、よくよく聴けば、あれはかなりダークな曲でもあるからさ(苦笑)。でも……どうなのかな? あのトラックを仕上げたとき、自分でも思ったんだよ、「これだな、出来た」と。このアルバムを世に出せるようになった、準備完了、とね。

手応えがあった、と。

RHK:と言いつつ、妙な話でもあるんだ。というのも、あの曲を書き始めたときは……たしか、このプロジェクト(=ライヴおよび、その結果としてのアルバム)のために実際に書いた曲としては、あれが1曲目だったはずなんだ。けれども、書いたものの、生であの曲をパフォームすることはなかなかなくてね。2、3回以上、ライヴで演奏する機会を逃してきたと思う。というのも、あの曲にはまだなにか決め手が欠けているなと自分では思っていたから。あれをぐっと持ち上げるのにはもっとなにかが必要だなと感じていたし……アルバムとしてまとめる最後の最後の段階まで、それがなにかを自分にはつかめなかったんだと思う。

いま「希望めいたものも表現している」と言いましたが、具体的にいま現在のあなたが希望を感じていることになにがありますか?

RHK:まあ……とりあえず自分の生は確保しているし──(苦笑)そこには常にありがたい希望を感じているよ! ただ、いまの世界がどうかという点に関して言えば、正直あんまり希望は感じないな(苦笑)!

いまもシェフィールドにお住まいだと思いますが、いま現在のシェフィールドも昔と同じようにお好きですか?

RHK:ノー。まあ、それについてはこの取材の2、3日前にも他の場で話したばかりだけれども……かつてのシェフィールドの多くは解体・撤去されてしまっていてね。古い建物等々、それらは取り壊されてしまった。で、とにかく、いまやシェフィールドの街並は……どことも変わりがない。イギリス北部にあるタウンのどことも差のない、ありふれた景観になってしまった、という。
 それはとにかく悲しいことだと思うし、そもそも自分はあまり表に出歩かないしね(苦笑)、シェフィールドでコロナウイルス問題云々が起きる以前から、あまり外出しないタチだったし、こっちでの他人との社交もやめてしまって。うん……まあ、それは、たぶん自分が年寄り過ぎだからなのかもしれないけどね? ハハハッ! でも、とにかく──いまのシェフィールドには自分が育った街としての面影は見当たらないんだ。まあ、そう感じるのはたぶん老いのせいだろうし……どうなんだろう? 要するに、この街がどうなっているのか、自分にはもうわからない、と。もちろん、シェフィールドにはクラブもたくさんあるし──そうは言いつつ、そのすべてが現時点では閉鎖中なわけだけど──音楽系のヴェニューはたくさんあるんだよ。ただ、そうしたクラブのなかに、かつてそうだったように、実際の「シーン」が存在するのかどうか?というのは、わからないなぁ。それでも、この街には実験的なエレクトロニック・ミュージックをやっている連中がまだいるというのは知っているよ。ただ、これまでのところ、その音楽はわたしの耳にはあまり届いていないね。

シェフィールドはかつてのキャラクター/個性を失ってしまったと思いますか?

RHK:だからまあ、わたしにとってはそうだ、ということだよ。でも、シェフィールドで育った、いま20歳くらいの若者は、また違う世代であって、彼らにとってはそうではないだろうし……ただ、いまどきは余りにも多くがコンピュータやその手のテクノロジー頼みになっているよね。それに対して、キャバレー・ヴォルテールの初期の頃は……ちゃんとしたコンピュータというものがそもそもなかったし(苦笑)、あれらの音楽は一種のシンセサイザーや、ギターや様々な楽器をシンセサイザーのプロセッサを通して変化させて作ったものだったんだ。そうやって新しい、ユニークなサウンドを作り出そうとしていた、という。

手作りの機材等で工夫して音を作っていた、と。

RHK:そう。

と言っても、これは批判でもなんでもないですし、パソコンがあれば買ったその日から音楽を作れるのは素晴らしいことだと思います。ただ、便利過ぎるというか、努力せずに済む、というところはあるかもしれません。

RHK:いや、だから、そこの問題は(苦笑)──

どれも似たり寄ったりな音になってしまう、と?

RHK:そう、その通り。そうなってしまう可能性はあるよね。

コロナがいつ収束するのか見えない現在ですが、この先の予定になにかあれば教えて下さい。

RHK:(ゴホン!)そうだな、この時点でいくつか明かせることがあるから話そうかな。

(笑)予定通りに進めば、ということで。

RHK:いやいや、そうなるはずだよ! まず、これからツアーに出てライヴ・パフォーマンスをやれないのははっきりしているから……『Shadow Of Fear』を拡張することにしたんだ。

ほう?

RHK:なので、来年1月に3曲入りの12インチ・シングルを出す予定なんだ。それらのトラックもライヴ・ショウを元にしているけれども、アルバムにはどうにもフィットしなかったものでね。で、その後にアルバムがもう2枚控えている。どちらもわたしが「Drowns」と呼んでいるタイプの作品で、60分にのぼる瞑想型の音楽ピースみたいなもので。それらは、2月と3月に出せればいいなと思っている。というわけで、『Shadow Of Fear』は(ゴホゴホと咳払いして)、一種のシリーズ作のようなものなんだ。だから、ストーリーはまだあるんだよ。

なるほど。徐々に物語が明らかになっていく、と。

RHK:そういうことだね。でも、そこから先はどうなるか自分にもわからないな。というのも、去年の9月から今年4月にかけて猛烈に働いたわけで……いずれ、どこかの時点でまた新しい音楽を書き始めるだろうけれども、自分としてはまだ「そのタイミングがきたぞ」とは感じていないんだ。だから、ここしばらくは仕事を減らして少しのんびり過ごしていた、ということ。そうやって、とにかく自分の健康管理に気を遣おうとしているし……あまりやり過ぎないようにしよう、とね。それに、アルバム3枚に12インチを1枚というのは──年寄りにしちゃ悪くないだろう? アッハッハッハッハッ!

いや、すごいと思います。質問は以上です。ありがとうございました。

RHK:オーケイ。話せて楽しかったよ。

こちらこそ、面白いお話を聞けてよかったです。どうぞ、くれぐれもお体には気をつけてください。

RHK:うん。どうもありがとう。バイバーイ!

男は天才であり、稀代の悪党だった
10代なかばでサウンドクラウドに上げた曲が
そしてビルボードで1位になるときには獄中だった
ポップスターになる条件がすべて揃ったところで
過去がものすごい速さで彼を元いた場所へと引きずり戻した
20歳になる前に彼は社会的制裁を受け
そして20歳になると彼は首に銃弾を撃ち込まれて死んだ
しかし彼の死後、彼の曲はヒットした
サブスクではクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」を抜くほどに

つまりこういうことだ。
人の為し遂げることに報いなど存在しはしない。
地位、権力、名声、金。
すべてクソだ。
だから僕はこうアドヴァイスする。
ゲームに疑いようもなく裏があり、
しかも、目に見えない社会的圧力が
こちらの行動まで規定してくるような場面では、
できることは一つしかない。
ぜんぶ間違ってやれ。
──本書より

くたばれインターネット』の著者が描く
異色のXXXテンタシオンの評伝
夭折したラッパーの生涯を通して問う
ネット社会や音楽シーンの意味と人種問題、
あるいは、
現代への痛烈な批判とテンタシオンへの思い

解説:二木信

目次

一章 今再びこのアメリカを驚愕せしめん
二章 本当っぽい方がいい
三章 息絶え絶えになお叫びつつ
四章 汝(なれ)は吸血鬼(ヴァンパイア)なるか?
   嬰児(みどりご)の我は死と歩む
五章 保護観察
六章 ♯予期せぬ結
七章 魔女とのまXぐXわXい
八章 歩哨(センティネル)の丘──ウィルバー・ウェイトリーと限りない空虚(ヨグ=ソトース)とともに
九章 ベイビー・イッツ・ユー
十章 ジュネーヴァ
十一章 我痛みを知るより先に朽ち果つるを望む
十二章 死走

訳者あとがき
解説(二木信)

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Oneohtrix Point Never - ele-king

 本作『MAGIC ONEOHTRIX POINT NEVER』は、この10年余りの間様々な作品をリリースしてきた主要プロジェクト名(OPN)がセルフ・タイトルとして冠されている通り、自己言及的で、かつ内省的な作品だ。この間のコロナ禍において、ニューヨーク在住のダニエル・ロパティンは、日に日に深刻化する感染状況に怯えながら、多くの人びとと同じように長引く自粛期間中ひたすら自宅へこもり、しばらく無為の時間を過ごしていたらしい(そのあたり、先んじて公開された本人へのインタヴューでも語られている)。好きな映画を観るのもままならず(登場人物たちが物理的に触れ合ったり、モブが登場する場面を観る気になれなかったという)、かといってもちろんオーディエンスを前にしたパフォーマンスを行なえるわけでもない。こうした期間において彼の心身を癒やしたのがネット・ラジオだった。本作は、そこで受けたインスピレーションを元に制作されているようで、実際、「架空のラジオ局から送り出される一日の放送」というコンセプトが据えられている。

 幼い頃ラジオ・エア・チェックによるミックス・テープ作りに勤しんだ経験もあり、自然とこのコンセプトは彼のアーティスト活動の原点を掘り返すような意味合いも含み持つことになっていったようだ。そもそもからして、のちのヴェイパーウェイヴ発展の起点となった(とされる)Eccojams なるスタイルの先駆者とされているロパティンのこと、ラジオ放送を模して様々な音の断片をセルフ・サンプリングするように一個の作品を作り上げるという手法を用いることは、当然彼自身の原点のひとつへ回帰することでもあったろう。前作『Age Of』(2018年)での強く思弁的な作風や、このところの映画スコア仕事などで聞かせる電子音楽家としての多彩なキャラクターに鑑みると、かなり「素直」な転回であるともいえる。
 かつて世に出た、「文化の遺構」としてのチージーなニューエイジ音楽やジングルめいたコラージュがぶつ切りに漏れ出してくるような本作の感覚は、確かに『Chuck Person's Eccojams Vol. 1』(2010年)とも近しいとは思う。そしてその後、主に諧謔性の部分が外科的に取り出されて前景化していくことになったのが後のヴェイパーウェイヴだったという見方もできるであろうが、そのヴェイパーウェイヴにおいては、あくまでニューエイジなどの「ジャンク」は、「ジャンク」としての性格を増幅されながらハックされ、流用され、(本来消費主義を揶揄する目的もあったとはいえ)逆説的な消費を被るという光景も観察された。
 しかしながら、(ヴェイパーウェイヴの文化と自分は本質的に無関係であると嘯く)ロパティンはここで、その「ジャンク性」に対していまもう一度だけプライマルな態度を取り直してみようとしているかのようだ。それは、ニューエイジ的陳腐に対しての極限化された冷徹さと、その一方でニューエイジ音楽が持つ(主に電子音楽的)快楽を切り分けながら、その両面を自らの内において鋭く自覚し直そうとする目論見にも思える。ニューエイジからの安易な快楽主義的呼び声を彼本来の批評性をもって退けながら、「いったいこの音のどこに、なぜ惹かれてしまうのか」について、粘り強い思考を放棄しようとしない。
 上述のインタヴューでは、「そうした類い(筆者注:ニューエイジなど)のテープを利用すること、それらをサンプリングするのって、自分からすればほとんどもうアメリカの質感(テクスチャー)を使うことに近い」とも言っている。これは、素直に解釈すれば、「あの時代のバックグラウンド・ミュージック」たるそうした音楽が、いまもなおそのバックグラウンド性を延命しているということなのかもしれないが、むしろここで彼は、「テクスチャーとなり果てたニューエイジ」それ自体を通して現在のアメリカ社会との接続面を確保しているようにも思えるのだ。

 一方で、架空のラジオ局というコンセプトの通り、様々な音楽要素が(バックグラウンド的に)寄せては消えるこのアルバムは、その実、ニューエイジに限らない豊富な音楽語彙が投入されていることもすぐわかる。特に、ザ・ウィークエンド、アルカ、キャロライン・ポラチェック、NOLANBEROLLIN、ネイト・ボイスというゲスト陣が参加した各曲において、かなり「現代的」かつポップな表現が行なわれていることが象徴的だが、いびつなヴォーカル変調や飽きっぽい子供のようにコロコロと音楽を展開していく断続感などから、これらのポップネスも実は「現代のアメリカというテクスチャー」を現すために配備されているにすぎないような気がしてくる。要は、ほとんどにおいて「〇〇調」と形容可能な、感情や内面を重視するような表現主義的欲動の欠乏した表徴が人工のさざ波のように寄せ、返し、消えていくのだ。
 このように論じてくると、有り体には、この作品でロパティンはすべてが断片化してしまった先にある歴史観の終末を描いているとみるのが、もっともインスタントに導き出される理解となるのだろう。しかし、それはおそらく前作『Age Of』で試されていた世界把握の仕方であって、むしろ本作では、ジャンクの氾濫とそれが呼び寄せる「テクスチャー化」の現象に、「終末の引き伸ばし」というべき狙いが注入されているように感じる。そもそもからしてごく思慮深い(語義のもっとも豊かな意味での「ナード」である)彼は、一創作家が歴史に対して随時終焉を宣告し続けることの不遜に気づいていないはずはないだろう。それなぞは結局、歴史を診断するふりをして終末を恣意的に措定し、結果チャイルディッシュに現在の拒絶を続けてきたようなある種の反動(それはまさに加速主義等の「思想」も含まれるだろうし、ニューエイジ復権への安直な没入なども射程に収めることが可能だろう)へ回収されてしまうということに、彼はいまかつてないほど敏感になっているのかもしれぬ。「ジャンク」の波状攻撃によって終末を引き伸ばすことで、逃避から逃避し、「どうしていまこうなのか?」を問おうとする……。

 「ジャンク」と戯れ「ジャンク」を再解釈する行き方は、ある種のシニシズムとすぐさま蜜月を結びたがるものだ。しかしいま、ロパティンは内なるシニシズムをひとまずはより包括的なシニシズムで抑え込もうとしているようにも見えるし、一方で、シニシズムのプライマルな対象化を究めることで、内破的にそれと決別しようとしているようにもみえる。そして、その究明の後、彼の眼前に現れてくるであろう剥き出しの生/実存へ、自らを投げ込んでいくのかどうか……。「ジャンク」と戯れ尽くし、そこに自らも統御しえない輝きを思いがけず見出すことで、どうやらいまロパティンは自らを投企する心構えを整えはじめたのかもしれない。少なくとも、歴史の再開は深い内省からはじまるということを彼は知っているようだ。
 彼はもちろんシンガーでも、狭義の意味でのソングライターでもないが、このアルバムは、きわめてシンガー・ソングライター的である。まことに2020年的で、真摯な作品だ。

interview with Yoh Ohyama - ele-king

 ゲーム音楽に対する風向きが変わった。あるいは、ゲーム音楽が現在一線で活躍する様々なミュージシャンたちのルーツになっていることが、多くの人びとに理解されはじめた。そのきっかけのひとつを作ったのが、2014年のドキュメンタリ作品「Diggin' In The Carts」だったことは間違いないだろう。同ドキュメンタリのディレクターであるニック・ドワイヤーは2017年、〈Hyperdub〉主宰コード9と共同で「Diggin'~」のレトロゲーム音楽コンピレーションを制作する。このとき ele-king はニックへの取材を通してゲーム音楽研究家 hally こと田中治久の存在を知り、そこから『ゲーム音楽ディスクガイド』の刊行へと歩みを進めるのである。
 同書はゲーム音楽を「ゲームプレイの追体験装置」ではなく、ゲームを知らなくても楽しみうる「一個の音楽」として捉え直し、40年に及ぶ歴史のなかから950枚の名盤を選びぬいた。ありがたいことにこの試みは高く評価され、本年には続刊を実現するとともに、〈Pヴァイン〉もゲーム音盤の復刻を手掛けるようになった。
 その第一弾となったのが、名だたるレア盤のひとつ「ガデュリン」(スーパーファミコン)のサウンドトラックである。大山曜氏はそのBGMの生みの親のひとり。ゲーム音楽家であると同時にプログレ・バンド、アストゥーリアスでの活動でも高名だが、その人物像には謎も多い。ふたつのシーンをまたいで活動してきた大山氏の歩みを、この機に改めて追いかけてみよう。

「ドラゴンクエスト」しか聴いていなかったんですよ。参考にしつつも、似たようには作れないと思いました。そこに自分の色が出たのが「ガデュリン」をはじめとする当時の音だったのではないかなと。

まずは、「ガデュリン」サントラ再発、おめでとうございます。

大山:古いサントラにまた光を当てていただいて、ありがとうございます。聴いて喜んでくださる方、思い出に思ってくださっている方がいらっしゃるなんて夢にも思いませんでした。実は「ガデュリン」のサントラが当時出ていたことを、ほとんど覚えていなかったんですよ。正直なところ、作ったまま埋もれているものだと思っていました。

当時のゲームサントラはアーティストではなくゲームメーカー主導で作られることも多かったので、そのせいかもしれませんね。

大山:そもそも実際にゲーム中で鳴っている音を聴いたことがなかったんですよ。僕たちは作曲だけで、データ化は別の方々がやっていたんですね。今回のリイシューにあたって初めて聴かせていただいたんですが、自分でも十何年ぶりに聴いて、面白いなと思いました。まだ「ゲーム音楽はこう作る」みたいなセオリーを持っていなかったので、戦闘シーンひとつとっても、作り方にいろいろな工夫がされていて、頑張ってるなと。むしろ、こういう尖った感じをいまやっていることに活かしたいなと思いました。

いまのご自身の作風とはだいぶ違っていると思われますか?

大山:いえ、基本は一緒だと思うんですよ。ただ、いまのゲーム音楽はまず発注があって、「なんとか風にしてくれ」と言われることが多いですが、当時はそういった依頼がなくて、何もないところから形にしていっているのが面白いなと思いました。プログレが大好きなので、出てくる音はやっぱりプログレのエッセンスがどこかに詰まっているのだと思います。変なところで変拍子が使われていたりとか、ホールトーンの音階が使われていたりとか(笑)。

旧サントラの未収録曲も、今回ご自身のアレンジという形で収録しました。

大山:ゲームの音がすごく素朴な印象だったので、それに近づけたものを今回5曲作らせていただきました。やっぱり同じCDに入る以上、あまり音質的に差が付いちゃいけないなと思ったので、チープな感じも出しつつ、いま聴いても面白いかなと思えるギリギリの線でやってみました。どうやったら当時の音源に近づくか、色々試しながら作りました。

データ化は別の方々だったとのことですが、そのあたりをもう少し。

大山:当時手掛けたゲーム音楽は、すべてそうですね。ゲーム会社さんのほうに耳コピーでデータ作成するチームがあったんです。僕らはカモンミュージック(MIDIソフト)を使っていて、作った楽曲はそのデータをお渡ししたり、あるいはテープに録音してお渡ししたりしていました。音色などもデータ作成の方々に作っていただいています。ドラムのなかった曲に、後からスネアっぽい音を足してもらったりもしましたね。

そういう意味では、アレンジャー的な役割も担ってもらっていたわけですね。

大山:ただそんな流れだったので、実は耳コピーが間違えていたのか、僕が作った曲とは音符が違ってしまっているところがあったりもします。和音が変わって、逆に面白い感じになっている曲もありましたね。あとは仕様の関係か本来16分音符のリズムが8分音符になっていたりもしました。いずれにしても、もうその音で世に出たわけだし、ゲームをプレイした皆さんはむしろその音に馴染んでいらっしゃるわけだし、そのままでいいかなと思っています。

データ作成の人と顔を合わせることは、あまりなかったのでしょうか?

大山:そうなんです。「ディガンの魔石」(1988)のデータ作成が崎元仁さんだったことなども、だいぶ後になってから知りました。もう崎元さんがすっかり有名になった後にお会いする機会があって、そのときに「実は僕がやっていました」と教えていただいたんです。

ちなみに、当時のテープがいまも残っていたりは……。

大山:今回探してみたら見つかったんですが、いや、ひどいものです(笑)。YAMAHA DX-7 などで作っていますが、いま聴かせるのはお恥ずかしいところがあります。リメイクであれば喜んでやらせていただきます(笑)。「シルヴァ・サーガ」(1992)の頃まではそういうやり方でした。Performer とかを使いだしたのは少し後で、ZIZZ STUDIO の時代になってから Cubase に乗り換えて、以降ずっと Cubase ですね。

「ガデュリン」は「ディガンの魔石」と世界観が繋がっていて、楽曲も半分ほどは「ディガンの魔石」からのリメイクになっています。やはり音楽制作にあたっても「ディガンの魔石」と関連付けてほしいというオーダーがあったのでしょうか。

大山:確かあったと思います。スーパーファミコンで出すにあたって足りない部分を補った感じだったのかなと。仕様が変わって作り替えた部分もあるかもしれません。発注の流れは同じでしたね。

リメイクとあわせて、同時に「ガデュリン」のための新曲を書き下ろして、みたいな。

大山:そういうことだったと思います。たしか「こういうシーンにこういう曲を書いて欲しい」というクライアントとの打ち合わせがあったと思うんですよ。津田(治彦、当時のフォノジェニック・スタジオの責任者)さんは全然覚えてないとおっしゃっていましたけど。ともあれ、全体の流れはプロデューサーである津田さんが把握しておられて、僕は「こういう音楽を」という指示を受けて作っていたというのが正しいと思います。

「湖のシーンです」というような文章が三つぐらいあるだけで、それを見て曲をどんどん作っていく。ゲームとほぼ同時進行で作っているので、制作途中にゲーム画面を見ることはほとんどありません。

大山さんといえば、やはりルーツであるプログレについてお聴きしないわけにはいきません。まずはプログレッシヴ・ロックとの出会いについてお教えください。

大山:14歳、中学二年生のときに『クリムゾン・キングの宮殿』と出会ったのが最初です。それからマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』。この二枚をほとんど同時期に聴いて、それまでポップスばかり聴いていたので非常に衝撃を受けたのをおぼえています。それからいろいろと漁り初めて。

エグベルト・ジスモンチにも傾倒されていたそうですね。そのあたりもアストゥーリアスのアルバムには反映されていますよね。

大山:はい。だいぶ影響を受けたと思います。

プログレ以前はミッシェル・ポルナレフにハマっておられたとか。

大山:プログレに行く少し前ですね。ポップスも色々好きだったなかで、ポルナレフがいちばん気に入っていました。アメリカンなロックよりもヨーロッパの香りのほうが好きな性分だったみたいで、それでプログレに見事にハマってしまったという感じですね。

中学生時代からバンド活動をされていたそうですが、当時はハードロックやフュージョンなどを?

大山:そうですね。友達が好きなバンドとかを。でも、四人囃子もやっていましたね。中学生のときに初めてやったバンドで。ファースト・アルバムの曲などをカヴァーしていました。四人囃子はリアルタイムで聴いていたんですが、1976~77年ぐらいからですね。『Printed Jelly』以降なので、森園(勝敏)さんが抜けた後ですね。

その少し後に、マルチカセットレコーダーで多重録音の実験をはじめられたと。

大山:18~19歳の頃ですね。高校時代はバンド活動ばかりやっていました。この頃はスペース・サーカスが好きでしたね。当時はちょうどフュージョン・ブームで、テクニカルなベーシストにあこがれたころもありました。

そこからフォノジェニック・スタジオ入社に至ったのは?

大山:23歳のときに脱サラをしまして、音楽関係の仕事を探していたところ、津田さんの会社の張り紙が石橋楽器にあったんです。レコーディングとシンセサイザー・マニュピレートの両方をやっているということで、話をうかがいに行ったら「じゃあ、来なよ」ということになって、そこで働きはじめたんです。津田さんから「実は僕もプログレ・バンドをやっていたんだ」という話を聞いたのは、その後なんです。新月の名前は知っていましたけど、門を叩いたのは本当に偶然だったんです。そこでプログレ好きに改めて火がついたという。普通のジャンルの方だともう少し違う生き方になっていたんじゃないかなといま思います。

ご入社が1985年ですね。しばらくはマニュピレータ業務が主だったのでしょうか?

大山:そうですね。特にカモンミュージックでの打ち込みが多かったです。あの頃はスタジオに呼ばれて行って、譜面を渡されて「一時間後にみんな来るからそれまでに全部打ち込んでおいて」というのが多かったです。バンド・メンバーがいるときだと大変でしたね。こっちのせいで遅れてはいけないので、必死でした。いろんな現場に行って、おかげ様でだいぶ鍛えられました。猛スピードで入力していると、見ている皆さん圧倒されて驚かれるんですよ。それで場の雰囲気が変わったりすることもありましたね。とにかく毎日やっていたので、相当早かったと思います。

マニュピレータ時代には、レベッカのお仕事を多くされていますね。

大山:呼ばれればどこにでも行っていたんですけど、そのなかで、当時とても売れていたレベッカのお仕事を数多くさせていただきました。リーダーの土橋安騎夫さんとはそれ以来の付き合いで、バンドが解散してからもお仕事でご一緒させていただいております。弊スタジオ(ZIZZ STUDIO)代表の磯江(俊道)も、その流れでレベッカと一緒に回っていたことがあったりして。ファミリーのような感じというか、僕らは土橋さんの人脈から派生した子分たちがやっている会社みたいな感じではありますね。最近はご一緒に仕事をすることはなくなっていますけど、最もお世話になったバンドかもしれません。

そうした業務のなかに「ゲーム音楽の制作」が舞い込んでくるようになったのは?

大山:単純に、当時ゲームの音を作る音楽会社が少なかったというのが、まずあると思うんです。最初に「ミネルバトンサーガ」(1987/ファミコン)の音楽をやって、それを気に入っていただけたので、続けてお仕事をいただくようになりました。フォノジェニックで請けていたのは、たぶんアーテックさんの仕事だけだと思います。

発売時期でいえば「獣神ローガス」(1987/PC-9801)が先ですが、制作そのものは「ミネルバトンサーガ」のほうが先だったのですね。

大山:そうだったと記憶しています。ゲームの音楽を作るのはもちろんこのときが初めてでした。セオリーみたいなものがまだない時代だったので、すぎやまこういち先生の作品を参考にして、どうやって三つの音で全部作ればいいのかなど、音の組み立て方を研究したりしましたね。逆にいうと、「ドラゴンクエスト」しか聴いていなかったんですよ。参考にしつつも、似たようには作れないと思いました。そこに自分の色が出たのが「ガデュリン」をはじめとする当時の音だったのではないかなと。FM音源ならもう少し多く音数を使えたと思いますが、効果音で使うから結局3音だけになったりもしましたね(筆者注:たとえば「獣神ローガス」が3音のみ)。

1987年ごろにアストゥーリアスを結成しておられます。80年代に3回ライヴがおこなわれて、第1回のライヴのときに後にバッファロー・ドーターを結成する大野由美子さんが参加しておられました。

大山:大野さんは津田さんの知り合いといいますか、フォノジェニック・スタジオに彼女のバンドがよく出入りしていたんです。それで仲良くさせていただいて。僕の曲はピアノがけっこう大変なので、大野さんにピアノを頼んで、花本(彰。新月メンバー)さんにも割と簡単なところを弾いてもらう形で、当時ライヴをやりました。彼女はピアノもヴァイオリンも弾ける方で、クラシカルな素養があるんです。当時、20歳ぐらいだったんじゃないですかね。大野さんのバンドは津田さんのところに録音に来て、色々学んでいたんだと思います。僕自身も多くを学ばせてもらいました。いい環境の仕事場だったと思います。

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現代のプログレってプログレ・メタルが主流で、いわばドリーム・シアター系列のすごく巧い人たちも数多くいるわけですが、それは真似はできないですし、そういう人たちとは違うなというのをいつも思いますね。

2回目のライヴでは、桜庭統さんの DEJA-VU と対バンをされていますね。

大山:桜庭さんとは、当時はレーベルメイトのような感じで仲良くさせてもらっていました。その後すっかり大物になられて、最近はお会いしていませんが、「竜星のヴァルニール」(2018)では桜庭さんと ZIZZ STUDIO が一緒に音楽をやらせていただいたりもして。

桜庭さんが楽曲を手がけた「アイルロード」(1992/メガCD)という作品では、音楽録音がフォノジェニック・スタジオでした。

大山:ああ、そういうこともあったかもしれません。これは僕がエンジニアをしていますね。桜庭さんがここで録らせて欲しいと相談に来たと思うんです。DEJA-VU をやっていた頃。彼はまだ学生で、フォノジェニックに手伝いにきたこともあったんですよ。

アストゥーリアス結成当時にデモ・テープを制作しておられますね。あれは市販もされたのでしょうか?

大山:そうです。ファースト・ライヴをやったときに一本いくらかで売って。売上はみなさんへのギャラに回したような気がします。音のほうはいま聴くとお恥ずかしいですね。

後の作風にはない、プログレハードっぽい曲もあったりして新鮮でした。

大山:当時作っていた曲を色々入れていたんだと思います。

デモテープには「ミネルバトンサーガ」や「ディガンの魔石」の楽曲、それに、後に「シルヴァ・サーガ」に使われる曲なども入っていますね。順序としては、ゲーム用に作った曲をアストゥーリアスに持ってきたのか、それともその逆か、どちらになりのでしょうか?

大山:まずゲームの音楽として作って、気に入ったものをアストゥーリアスで使わせていただいたという形です。フレーズを使わせていただいたりもしていますね。アストゥーリアスでの作曲とゲームでの作曲は、僕のなかですごく似ているところがあるんです。特にRPGの世界観とは通じるものがあるんですよね。湖のシーンや森のシーン、そういったもののために作るというお題があると、すごくイマジネーションが湧いてきて、自分でもお気に入りのメロディがたくさんできたんです。これはぜひ使わせてほしいと(ゲーム制作サイドに)言って、入れさせていただいたと思います。

ゲームのために作曲する場合、まず何かしら資料が来るわけですよね。

大山:当時はペラ1枚くらいの紙資料しかいただいていなくて。少しは絵もあったと思いますけど、基本的には「湖のシーンです」というような文章が三つぐらいあるだけで、それを見て曲をどんどん作っていくという。これはいまでもそうなんですけど、ゲームとほぼ同時進行で作っているので、制作途中にゲーム画面を見ることはほとんどありません。画面をみるのはほとんど最後ですね。もっとも僕自身はゲームが下手で、「獣神ローガス」も最初の面どまりだったんですけどね。

しっかり画面と合致しているかどうかは、終わってみるまで自分ではわからない。

大山:逆にいえば、こちらの思う通りに作って、それが気に入っていただけたからよかったというところですね。気に入ってもらえると、若かったので調子づいちゃって、じゃあ次はもっと気に入ってもらおうと、楽しく前向きに作らせていただいたのを覚えています。

当時はあまりリテイクなどもない感じだったのでしょうか。

大山:いまと比べるとだいぶ少ないかもしれません(笑)。昔はシーンの指定などもいまほど細かくありませんでしたし、アーテックさんもあまり発注した経験がなく、お互い手探りだったなかででき上がったものを気に入っていただいたので。ただ、「ガデュリン」のサントラはいま聴くとすごく短いなと思いますね。あれっ? もうこれで終わり? みたいな。当時はデータサイズの問題があったのかもしれません。

アーテック作品では「サイコソニック」という名義を使っておられましたが、あれはバンド名か何かでしょうか?

大山:津田さんがフォノジェニック・スタジオを会社登録するときに、音楽スタジオ以外の業務はサイコソニックという株式会社名にしたんです。それでサイコソニックとフォノジェニックを使い分けていたんだと思います。どちらも一緒なんです。

サイコソニックからシリウスAというユニットのアルバムが出たりもしていました。

大山:僕はお手伝いしただけだったのであまり記憶にないのですけど、ありましたね。津田さんが手がけてCDになっていましたね。ああ、そういえば津田さんのバンドで「Phonogenix」というのがありましたね。

1988年に岡野玲子原作コミック『ファンシィダンス』のイメージ・アルバムで『雲遊歌舞』というのが出ているのですが、そこに Phonogenix 名義の楽曲が1曲ありますね。手塚眞さんがプロデュースされていて、メンツがかなり豪華なんですよね。

大山:これ面白いですよね。サエキけんぞうさんとかも入っていて。ライヴをやった記憶もありますね。

Phonogenix の活動はどのような感じだったのでしょうか。

大山:津田さんと花本(彰。新月メンバー)さんが中心で、バンドとしてレコードを出していた他に、手塚眞さんと仲が良かったこともあって、そちらからお仕事をいただいたりとかしていましたね。そんなにしょっちゅうライヴをやったり制作をしたりということはなかったかと思います。依頼があればチームでやっていました。

アストゥーリアスで3枚のアルバムを発表しておられますが、その後しばらく休眠期間に入っておられます。

大山:アルバムがあまり売れなくて、〈キングレコード〉との契約期間も終わり、それでいじけて9年間休んでいたというところです。

1996年ごろに、Soul Bossa Trio のアルバムに参加しておられましたね。

大山:はい。(東京パノラマ)マンボボーイズの方ですよね。マニュピレートで参加させていただきました。スタジワーク中心で。この頃は呼ばれればどこへでも行って、ということが多かったですね。ゲーム音楽を再び作るようになったのは、ZIZZ STUDIO がはじまったあたりからですね。色々と依頼をいただいて再び作るようになりました。

ZIZZ STUDIO が初参加したニトロプラス作品「Phantom -PHANTOM OF INFERNO-」が2000年ですね。大山さんが ZIZZ STUDIO に参加することになった経緯は?

大山:僕は1994年ごろにフォノジェニック・スタジオを辞めていて、磯江くんもその後に辞めているんですが、彼がゲーム音楽業界を開拓していって、ニトロプラスさんとお付き合いができて、それで手伝ってくれないかみたいな話が来たのが「Phantom」あたりからだったと思います。いまは社員ですが、当時はお手伝いだけだったんです。磯江くんがいなければゲーム音楽の世界とは交流がなかったですね。ZIZZ STUDIO と出会えたことを感謝しています。

ニトロプラスさんという先鋭的なメーカーとのタッグで、ZIZZ STUDIO の存在感はより強まったように思います。

大山:そうみたいですね。当時新進メーカーだったニトロさんは、すごく音楽に力を入れている会社で、とことんやってくれと言われて。BGMを打ち込みだけで済ませてしまうところも多かったなかで、とにかく全部に生楽器を入れてくれと。そんなに予算がなかったので、自宅でギターやベースを弾いたりして。それでニトロさんやお客さんに喜んでいただいたのが、いまにつながっている感じがします。

とても低予算とは思わせない、高密度な音だったと思います。

大山:実際のところは、採算度外視でやっていたようです(笑)。弊スタジオが現在の場所に移転したのは7~8年前なんですけど、それ以前は磯江くんの自宅でした。いまこの場所で使っている2畳の防音ブースが、当時は古ぼけた一軒家にありまして、そこで何でも録っていましたね。いまは下の階にフォーリズムを録れる広いスタジオがあって、このブースではたまに歌を録ったりするくらいですが、2000年ごろはこれがフル稼働していました。何かというとこれで録って、生楽器を使っているぞというのを売りにして、ZIZZ STUDIO は頑張っていたのだと思います。

アコースティック・アストゥーリアスの結成もその流れですよね。生楽器のアコースティック編成でのバンドというのが、素晴らしいなと思いました。

大山:ZIZZ の仕事で、ヴァイオリン、クラリネット、ピアノの方々と知り合いまして、それでチームを組んだんです。最初はお願いしてやってもらっていたんですけど、やがてうまく息が合ってきたという感じですね。とにかく生楽器を売りにしている会社ですので、ここにいると色んなミュージシャンとの出会いがあります。

1980年代のアストゥーリアス結成時のプログレ観と、2000年以降のエレクトリック・アストゥーリアスの結成以後とでは、プログレ観は変わりましたか?

大山:だいぶ変わったと思います。多重録音でもやってはいますけど、基本的に4~5人編成の生演奏ですから、それだけしかパートがないという構造的な違いもありますし、実際にライヴでやると緊張感もありますし。海外にもけっこう行かせていただきまして、反応を見るにつけ、変わったバンドなんだなというのは実感しますね。現代では「ロック・バンドの人たちによるプログレ」が多いと思いますが、うちのメンバーはそうじゃないので、そこも変わっていますね。そういう人たちが作る音というのが出てくるんだろうなと思います。

アコースティック・アストゥーリアスも他にない感じですよね。

大山:ああいう形でプログレをやろうとはなかなか思わないですよね(笑)。海外のお客さんはビックリしていましたね。なんだこれはという感じで。現代のプログレってプログレ・メタルが主流で、いわばドリーム・シアター系列のすごく巧い人たちも数多くいるわけですが、それは真似はできないですし、そういう人たちとは違うなというのをいつも思いますね。

いまはなんでもヴァーチャルで出せるようになりましたが、やっぱりアナログ・シンセが使っていて楽しいですね。

ゲーム音楽のなかでプログレをやるということについてはどう思っておられますでしょうか? ゲーム業界には隠れプログレ・ファンが多いような気がします。

大山:ゲーム音楽はそれを避けては通れない感じがありますね。

そのなかでもキース・エマーソンの影響はかなり大きいのではないかと思います。大山さんもその影響を受けたものを作られていますよね。

大山:はい。もちろん僕も大好きですね。いまやゲーム音楽だけじゃなく、NHK大河ドラマの「平清盛」に “タルカス” が使われたりもして、昔だと考えられない状況ですよね。いま思えば90年代は冬の時代で、これは裏話ですけど、当時は仕事のときに「普段プログレをやっています」とは言いにくい空気もすごくあったんですよ。2000年代からは、ゲームとのつながりでプログレが認められてきたというところもありますよね。

ゲーム音楽ってジャンル的になんでもありというところがあるので、それで受け入れる人も増えてきているのではないかと思います。

大山:クラシックとかジャズとか、いろんな素養が必要になってくるので、普通のロック・バンドの人ではちょっと対応できないのがゲーム音楽というか。プログレあがりの人がみんなこっちに流れてきますね(笑)。

近年は、プログレ・フェス《PROG FLIGHT》にも携わっておられますよね。

大山:主催の栗原務さん(Lu7)に頼まれて、企画のお手伝いをさせていただいている感じですね。栗原さんと僕とで好きなプログレが違うので、互いの意見をすり合わせて出演バンドを決めたりしています。今年はちょっとできないですけど。

空港のなかにある会場もいいですよね。

大山:ありがとうございます。250人のキャパですけど、第1回(2017年)をやるときに「お客さんを満員にできるかな?」という相談を受けて、難波弘之さんを呼んだりしたんですよ。満員になってよかったです。あの規模で席が埋まるのは素晴らしいですね。90年代には考えられなかったです。老若男女、若い人も増えていますね。

ゲーム音楽経由でプログレを知る若い人は増えていると思います。最後に、お好きなシンセサイザーはなんでしょうか?

大山:一通り使っていましたけど、Roland の SUPER JUPITER とか、あれはいまでも持っていますね。いまはなんでもヴァーチャルで出せるようになりましたが、やっぱりアナログ・シンセが使っていて楽しいですね。

ありがとうございました!

R.I.P. 近藤等則 - ele-king

 近藤等則にインタヴューする機会はたった1度しかなかったが、その時の印象は今なお鮮烈に残っている。とにかく、目力の強い人なのだ。そして語気も荒い。会った瞬間に「極道」という文字が頭をよぎった。本人は普通にしゃべっているのだろうが、あの鋭い眼光と話し方は、傍から見ればケンカをふっかけているように思われるはずだ。私のひとつ前のインタヴュワーだった知人と後日会った時、彼は「ビビッちゃって何を話したのか全然記憶にない」と笑っていた。もちろん私も緊張マックスだった。この時の取材(2015年2月)は、“枯葉” や “サマータイム” といったお馴染みのスタンダード・ナンバーばかりを近藤のエレクトリック・トランペットとイタリア人トラックメイカーのエレクトロニク・サウンドでカヴァしたムーディーなアルバム『Toshinori Kondo plays Standards~あなたは恋を知らない』に関するものだったのだが、私が開口一番「闘う男というパブリック・イメージからすると、意外ですね」と言い終わる前に「俺はこのアルバムでも闘ってるつもりだよ!」と語気荒く返され、冷や汗がタラリと流れたのだった。そう、実際、近藤等則は70年代のデビュー時から一貫して闘い続けた男なのだ。

 1948年12月15日、愛媛県今治市で生まれた近藤等則(本名は俊則)は京都大学(工学部に入学後、文学部に転部・卒業)在学中からジャズ・トランペットに本格的にのめりこんでゆき、やがて日米のフリー・ジャズ/フリー・ミュージック・シーンで頭角を現してゆく。その雌伏期──60年代末期から70年代半ばのことを、当時の近藤の盟友・土取利行(ピーター・ブルック劇団の音楽監督その他、世界的に活躍してきたパーカッショニスト)はかつて私にこう語ってくれた。いい機会なので紹介しておこう。
 「私(土取)はGSバンドのドラマーを経てジャズに転向し、70年に大阪にできたSUB(サブ)というジャズ喫茶で働き始めた。その頃、サブによくセッションに来ていた京大生の近藤等則と仲良くなったが、当時彼は、オーネット・コールマンに刺激されてフリーに傾きつつあった。間もなく私と近藤はベイシストを加えて、トリオでフリー・ジャズをやりだした。72年、近藤の大学卒業を機に、私たちは一緒に東京に出た。深夜バスに乗って。私は住み込みで新聞配達を始め、近藤は奥さんと一緒に幼稚園で住み込みの守衛をやった。私たちはその幼稚園や、多摩川の河原、鶴川の和光大学の軽音楽部などで練習を続けた。
 近藤と私は、新宿ピットインのそばにあった〈ニュー・ジャズ・ホール〉のオーディションを受け、デュオで昼間演奏するようになった。当時そこには、まだ無名の阿部薫、高木元輝、沖至、坂田明なども出ていた。私たちはすぐに『ジャズ批評』誌などで “山下洋輔を超えるフリー・ジャズの猛禽獣” などと紹介され、徐々に名前を知られるようになっていった。そして近藤は山下洋輔と、私は高木元輝と一緒にやり始めた。それが73~74年頃のことだ」

 75~76年にはレコーディングもスタート。近藤が録音に参加した最初の作品は、筒井康隆の小説をモティーフにした山下洋輔のアルバム『家』(76年)で、次が、同じく山下を中心とするユニット、ジャム・ライス・セクステット(Jam Rice Sextet)の『Jam Rice Relaxin'』(76年)。また、それらと前後して浅川マキのライヴ盤『灯ともし頃』(76年)にも坂本龍一などと共に参加している。ちなみに、盟友の土取も、76年に坂本との即興コラボ・アルバム『ディスアポイントメント - ハテルマ』をリリースしている。
 当時の近藤は、いわゆるフリー・ジャズ畑の新星トランペッターと目されていたわけだが、しかし彼は(そして土取も)60年代以降のある種のマナー(手くせ)が滲みついたフリー・ジャズには当時から息苦しさを感じており、その先にあるもっと自由な音楽を目指していたという。その思いを形にした最初の試みが、エヴォリューション・アンサンブル・ユニティ(Evolution Ensemble Unity)だ。これは75年、故・間章が組織したフリー・ミュージック・コレクティヴで、高木元輝、近藤等則、土取利行、徳弘崇、豊住芳三郎などのメンバーがデレク・ベイリーや小杉武久(タージ・マハル旅行団)などとも交流しつつ、“即興とは何か” という大テーマの下に新しい表現を探求した。


EEUの旗揚げコンサート(75年8月13日、青山タワー・ホール)から

翌76年に近藤(tp)、高木(sax)、吉田盛雄(b)のトリオ編成で制作されたEEU唯一のアルバム『Concrete Voices』では、隙間を意識した脱フリー・ジャズ的表現がより明確に志向されている。

 そして78年、近藤はよりヴィヴィッドなフリー・ミュージックの戦場を求めて渡米。80年代初頭までの数年間、ニューヨークのロウワー・イースト・サイドを拠点にたくさんの音楽家たちと共演を重ねていった。“マッド・ワールド・ミュージック” と呼ばれていたという当時の仲間たちのサークル──ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、ユージン・チャドボーン、ウィリアム・パーカー、ヘンリー・カイザー、トリスタン・ホイジンガー、ビル・ラズウェル、ジョン・オズワルド(プランダーフォニックス!)等々の顔ぶれからも、近藤が目指していた新しい世界が窺える。NY時代には、ジャズ・クラブよりもCBGBなどロック系のハコによく通い(スーサイドが一番のお気に入りだったという)、台頭しつつあったヒップホップ/DJカルチャーにも強く惹かれたという。この時期、近藤は自身で設立したインディ・レーベル〈Bellows〉を中心に、たくさんのアルバムをリリースしているが、ジャズでもロックでもない実験を通して、“フリー” であることの自由さと不自由さ、限界と可能性を体得していったのだった。


ジョン・オズワルド、ヘンリー・カイザーとのトリオによる『Moose And Salmon』(78年)から



スティーヴ・ベレスフォード+トリスタン・ホイジンガー+デイヴィッド・トゥープ+近藤のクァルテットが英Yレコーズから出したアルバム『Imitation Of Life』(81年)から “Whoosshh”

 その成果と新しいヴィジョンを具現化していくのが、82年の帰国後だ。83年には、豊住芳三郎やセシル・モンローらとチベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンド(Tibetan Blue Air Liquid Band)を結成(渡辺香津美もゲスト・ギタリストとして参加)し、初のメジャー・アルバム『空中浮遊』を発表。NYロフト・ジャズやファンク、ニューウェイヴ/ノー・ウェイヴ、ヒップホップ、レゲエ、純邦楽など各種民族音楽を煮詰めたこのフュージョン作品によって、近藤等則という音楽家の名はジャズ・マニア以外のリスナーの間でも注目されるようになった。


チベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンド『空中浮遊』(83年)

 そして翌84年には、チベタン・ブルー・エアー・リキッド・バンドを発展解消して近藤等則IMA(International Music Activism の略)を結成し、アルバム『大変』を発表。フリクションのレック(ギターとベイスを随時スイッチ)、ドラムの山木秀夫、キーボードの富樫春生などの才人たちをメンバーに擁したこのパワー・ユニットは、10年弱の間に10枚のアルバムを発表し、商業的にもかなりの成功を収めた。日本や韓国などの伝統音楽家やDJをゲストに招き入れるなど、新しい才能、新しいモード、新しいテクノロジーを積極的に取り入れながら時代に対峙するその姿勢は、マイルズ・デイヴィスのエレクトリック・ジャズ・ロック期(60年代末~70年代半ば)を思い出させたりもする。というか、近藤自身もきっと意識していたはずだ。都市のコンクリートと共振するハイパー・モダンなサウンドとそれを支える広範な文化的視野を特徴とする近藤の表現は、YMOファミリーやムーンライダーズ、マライア/清水靖晃などと並び、80年代日本ならではの音楽文化遺産と言っていいだろう。


近藤等則IMA『Konton』から “Gan” (86年)


近藤等則IMA『Tokyo Rose』(90年)

 また、この時代の近藤は、TVの深夜番組の司会者をやったり、CMにも出演するなど、お茶の間にまで顔を売る一方、海外のミュージシャンとのコラボレイション(グローブ・ユニティ・オーケストラへの参加など)も積極的に続け、活動の幅を地球規模に広げていった。70年代からの仲間ビル・ラズウェルがプロデュースしたハービー・ハンコックの『Sound-System』(84年)などは、参加作品の中でも特に有名だ。


資生堂 CM(88年)


ハービー・ハンコック『Sound-System』の近藤参加曲 “Sound System”

 人気も金もあった近藤は、しかし93年に突然IMAを解散し、アムステルダムへ移住。そして〈地球を吹く〉という新しいプロジェクトを掲げて、大自然の中で空や山や海や砂漠や星に向かってラッパを吹き始めたのだった。件のインタヴューの中では、当時のことをこう回想している。
 「80年代にIMAを作った理由は、20世紀のすべての音楽を日本人の自分なりに統合してやろうと思ったからなんだ。フリー・ジャズ、ファンク、パンク、ロック、日本の民俗音楽……そういったすべての要素を混ぜ合わせて、我々日本人がどんなグルーヴの音楽を作れるのか、挑戦した。実際、その目論見以上の反響があったけど、それは元々俺にとっては最後のまとめだった。だからIMAも90年代初頭にはおしまいにして、次に行った。21世紀の音楽をイメージして」
 つまり近藤の中では、“21世紀の音楽をイメージする”=“大自然に向けて演奏する” ことだったわけだ。彼は「ねえちゃんからネイチャーだな」と笑いをとりつつ、こう続ける。
 「21世紀の音楽と20世紀の音楽の決定的な違いは何か……その一つは、ネイチャーだ。人類史上最大の都市文明が開化したのが20世紀であり、その音楽は都市の中で生まれ、消費された。音楽は人間どうしのコミュニケイション・ツールになった。99.9%の20世紀音楽は、客に聴かせるためのものだった。神に向かって演奏したり、火山に向けて祈るような音楽は、20世紀には誰もやらなかった。そこで、“自然との関係性を考えた音楽” というテーマが俺の中で出てきたわけだけど、それは、昔から目指していた “日本人ならではの音楽” というもうひとつのテーマとも矛盾することなく、そのまま〈地球を吹く〉プロジェクトにつながっていったんだ。当然テクノロジーの発達を認めた上でなくては新しい表現もないと思うので、トランペットもエレクトリックにしなくてはいけないし、デジタル・サウンドもはずせない」


〈Blow The Earth ~地球を吹く〉シリーズからペルー編

 ちなみに、〈Apollo/R&S〉からもリリースされ評判になったDJクラッシュとのコラボ・アルバム『記憶 Ki-Oku』(96年)や、端唄の栄芝師匠との共演作『The 吉原』(03年)なども、彼の中では何の違和感もなく「21世紀の音楽」として生まれた企画だったはずだ。
 こうして20年近く世界各地で大自然とひとりで格闘し続けた近藤は、2012年には再び東京に拠点を戻し、既に始めていた〈地球を吹く~日本編〉を続行。翌13年にはドキュメンタリー映画『地球を吹く in Japan』を発表した。


『地球を吹く in Japan』から

 近年は、アムス時代に録りためた膨大な量の音源を自身の〈Toshinori Kondo Recordings〉から次々とリリースしつつ、2018年にはIMAを再編(近藤等則IMA21)するなど、旺盛な活動を続けた。亡くなった2020年10月17日の翌日にも、イラストレイターの黒田征太郎、ドラマーの中村達也とのコラボでライヴ・ペインティング・パフォーマンスをやることになっていた。何の前触れもなく逝ってしまったのは悲しくはある。だが、その唐突さもまた、一瞬も立ち止まることなく走り続けた近藤らしい最期だとも思える。
 「俺は21世紀の音楽という自分のコンセプト、ヴィジョンを人に語ることはなかったけど、これからはしっかりと語りかけてゆきたい。ネイチャー、スピリット、テクノロジーという三位一体をベイスにして新しい音楽を作ろうと呼びかけてゆきたい」とギラついた目で語られた力強い言葉の先にどんな風景が現れるのか、見たかったけど。黙祷。

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