Home > Interviews > interview with Yoh Ohyama - プログレからゲーム音楽へ
ゲーム音楽に対する風向きが変わった。あるいは、ゲーム音楽が現在一線で活躍する様々なミュージシャンたちのルーツになっていることが、多くの人びとに理解されはじめた。そのきっかけのひとつを作ったのが、2014年のドキュメンタリ作品「Diggin' In The Carts」だったことは間違いないだろう。同ドキュメンタリのディレクターであるニック・ドワイヤーは2017年、〈Hyperdub〉主宰コード9と共同で「Diggin'~」のレトロゲーム音楽コンピレーションを制作する。このとき ele-king はニックへの取材を通してゲーム音楽研究家 hally こと田中治久の存在を知り、そこから『ゲーム音楽ディスクガイド』の刊行へと歩みを進めるのである。
同書はゲーム音楽を「ゲームプレイの追体験装置」ではなく、ゲームを知らなくても楽しみうる「一個の音楽」として捉え直し、40年に及ぶ歴史のなかから950枚の名盤を選びぬいた。ありがたいことにこの試みは高く評価され、本年には続刊を実現するとともに、〈Pヴァイン〉もゲーム音盤の復刻を手掛けるようになった。
その第一弾となったのが、名だたるレア盤のひとつ「ガデュリン」(スーパーファミコン)のサウンドトラックである。大山曜氏はそのBGMの生みの親のひとり。ゲーム音楽家であると同時にプログレ・バンド、アストゥーリアスでの活動でも高名だが、その人物像には謎も多い。ふたつのシーンをまたいで活動してきた大山氏の歩みを、この機に改めて追いかけてみよう。
「ドラゴンクエスト」しか聴いていなかったんですよ。参考にしつつも、似たようには作れないと思いました。そこに自分の色が出たのが「ガデュリン」をはじめとする当時の音だったのではないかなと。
■まずは、「ガデュリン」サントラ再発、おめでとうございます。
大山:古いサントラにまた光を当てていただいて、ありがとうございます。聴いて喜んでくださる方、思い出に思ってくださっている方がいらっしゃるなんて夢にも思いませんでした。実は「ガデュリン」のサントラが当時出ていたことを、ほとんど覚えていなかったんですよ。正直なところ、作ったまま埋もれているものだと思っていました。
■当時のゲームサントラはアーティストではなくゲームメーカー主導で作られることも多かったので、そのせいかもしれませんね。
大山:そもそも実際にゲーム中で鳴っている音を聴いたことがなかったんですよ。僕たちは作曲だけで、データ化は別の方々がやっていたんですね。今回のリイシューにあたって初めて聴かせていただいたんですが、自分でも十何年ぶりに聴いて、面白いなと思いました。まだ「ゲーム音楽はこう作る」みたいなセオリーを持っていなかったので、戦闘シーンひとつとっても、作り方にいろいろな工夫がされていて、頑張ってるなと。むしろ、こういう尖った感じをいまやっていることに活かしたいなと思いました。
■いまのご自身の作風とはだいぶ違っていると思われますか?
大山:いえ、基本は一緒だと思うんですよ。ただ、いまのゲーム音楽はまず発注があって、「なんとか風にしてくれ」と言われることが多いですが、当時はそういった依頼がなくて、何もないところから形にしていっているのが面白いなと思いました。プログレが大好きなので、出てくる音はやっぱりプログレのエッセンスがどこかに詰まっているのだと思います。変なところで変拍子が使われていたりとか、ホールトーンの音階が使われていたりとか(笑)。
■旧サントラの未収録曲も、今回ご自身のアレンジという形で収録しました。
大山:ゲームの音がすごく素朴な印象だったので、それに近づけたものを今回5曲作らせていただきました。やっぱり同じCDに入る以上、あまり音質的に差が付いちゃいけないなと思ったので、チープな感じも出しつつ、いま聴いても面白いかなと思えるギリギリの線でやってみました。どうやったら当時の音源に近づくか、色々試しながら作りました。
■データ化は別の方々だったとのことですが、そのあたりをもう少し。
大山:当時手掛けたゲーム音楽は、すべてそうですね。ゲーム会社さんのほうに耳コピーでデータ作成するチームがあったんです。僕らはカモンミュージック(MIDIソフト)を使っていて、作った楽曲はそのデータをお渡ししたり、あるいはテープに録音してお渡ししたりしていました。音色などもデータ作成の方々に作っていただいています。ドラムのなかった曲に、後からスネアっぽい音を足してもらったりもしましたね。
■そういう意味では、アレンジャー的な役割も担ってもらっていたわけですね。
大山:ただそんな流れだったので、実は耳コピーが間違えていたのか、僕が作った曲とは音符が違ってしまっているところがあったりもします。和音が変わって、逆に面白い感じになっている曲もありましたね。あとは仕様の関係か本来16分音符のリズムが8分音符になっていたりもしました。いずれにしても、もうその音で世に出たわけだし、ゲームをプレイした皆さんはむしろその音に馴染んでいらっしゃるわけだし、そのままでいいかなと思っています。
■データ作成の人と顔を合わせることは、あまりなかったのでしょうか?
大山:そうなんです。「ディガンの魔石」(1988)のデータ作成が崎元仁さんだったことなども、だいぶ後になってから知りました。もう崎元さんがすっかり有名になった後にお会いする機会があって、そのときに「実は僕がやっていました」と教えていただいたんです。
■ちなみに、当時のテープがいまも残っていたりは……。
大山:今回探してみたら見つかったんですが、いや、ひどいものです(笑)。YAMAHA DX-7 などで作っていますが、いま聴かせるのはお恥ずかしいところがあります。リメイクであれば喜んでやらせていただきます(笑)。「シルヴァ・サーガ」(1992)の頃まではそういうやり方でした。Performer とかを使いだしたのは少し後で、ZIZZ STUDIO の時代になってから Cubase に乗り換えて、以降ずっと Cubase ですね。
■「ガデュリン」は「ディガンの魔石」と世界観が繋がっていて、楽曲も半分ほどは「ディガンの魔石」からのリメイクになっています。やはり音楽制作にあたっても「ディガンの魔石」と関連付けてほしいというオーダーがあったのでしょうか。
大山:確かあったと思います。スーパーファミコンで出すにあたって足りない部分を補った感じだったのかなと。仕様が変わって作り替えた部分もあるかもしれません。発注の流れは同じでしたね。
■リメイクとあわせて、同時に「ガデュリン」のための新曲を書き下ろして、みたいな。
大山:そういうことだったと思います。たしか「こういうシーンにこういう曲を書いて欲しい」というクライアントとの打ち合わせがあったと思うんですよ。津田(治彦、当時のフォノジェニック・スタジオの責任者)さんは全然覚えてないとおっしゃっていましたけど。ともあれ、全体の流れはプロデューサーである津田さんが把握しておられて、僕は「こういう音楽を」という指示を受けて作っていたというのが正しいと思います。
「湖のシーンです」というような文章が三つぐらいあるだけで、それを見て曲をどんどん作っていく。ゲームとほぼ同時進行で作っているので、制作途中にゲーム画面を見ることはほとんどありません。
■大山さんといえば、やはりルーツであるプログレについてお聴きしないわけにはいきません。まずはプログレッシヴ・ロックとの出会いについてお教えください。
大山:14歳、中学二年生のときに『クリムゾン・キングの宮殿』と出会ったのが最初です。それからマイク・オールドフィールドの『チューブラー・ベルズ』。この二枚をほとんど同時期に聴いて、それまでポップスばかり聴いていたので非常に衝撃を受けたのをおぼえています。それからいろいろと漁り初めて。
■エグベルト・ジスモンチにも傾倒されていたそうですね。そのあたりもアストゥーリアスのアルバムには反映されていますよね。
大山:はい。だいぶ影響を受けたと思います。
■プログレ以前はミッシェル・ポルナレフにハマっておられたとか。
大山:プログレに行く少し前ですね。ポップスも色々好きだったなかで、ポルナレフがいちばん気に入っていました。アメリカンなロックよりもヨーロッパの香りのほうが好きな性分だったみたいで、それでプログレに見事にハマってしまったという感じですね。
■中学生時代からバンド活動をされていたそうですが、当時はハードロックやフュージョンなどを?
大山:そうですね。友達が好きなバンドとかを。でも、四人囃子もやっていましたね。中学生のときに初めてやったバンドで。ファースト・アルバムの曲などをカヴァーしていました。四人囃子はリアルタイムで聴いていたんですが、1976~77年ぐらいからですね。『Printed Jelly』以降なので、森園(勝敏)さんが抜けた後ですね。
■その少し後に、マルチカセットレコーダーで多重録音の実験をはじめられたと。
大山:18~19歳の頃ですね。高校時代はバンド活動ばかりやっていました。この頃はスペース・サーカスが好きでしたね。当時はちょうどフュージョン・ブームで、テクニカルなベーシストにあこがれたころもありました。
■そこからフォノジェニック・スタジオ入社に至ったのは?
大山:23歳のときに脱サラをしまして、音楽関係の仕事を探していたところ、津田さんの会社の張り紙が石橋楽器にあったんです。レコーディングとシンセサイザー・マニュピレートの両方をやっているということで、話をうかがいに行ったら「じゃあ、来なよ」ということになって、そこで働きはじめたんです。津田さんから「実は僕もプログレ・バンドをやっていたんだ」という話を聞いたのは、その後なんです。新月の名前は知っていましたけど、門を叩いたのは本当に偶然だったんです。そこでプログレ好きに改めて火がついたという。普通のジャンルの方だともう少し違う生き方になっていたんじゃないかなといま思います。
■ご入社が1985年ですね。しばらくはマニュピレータ業務が主だったのでしょうか?
大山:そうですね。特にカモンミュージックでの打ち込みが多かったです。あの頃はスタジオに呼ばれて行って、譜面を渡されて「一時間後にみんな来るからそれまでに全部打ち込んでおいて」というのが多かったです。バンド・メンバーがいるときだと大変でしたね。こっちのせいで遅れてはいけないので、必死でした。いろんな現場に行って、おかげ様でだいぶ鍛えられました。猛スピードで入力していると、見ている皆さん圧倒されて驚かれるんですよ。それで場の雰囲気が変わったりすることもありましたね。とにかく毎日やっていたので、相当早かったと思います。
■マニュピレータ時代には、レベッカのお仕事を多くされていますね。
大山:呼ばれればどこにでも行っていたんですけど、そのなかで、当時とても売れていたレベッカのお仕事を数多くさせていただきました。リーダーの土橋安騎夫さんとはそれ以来の付き合いで、バンドが解散してからもお仕事でご一緒させていただいております。弊スタジオ(ZIZZ STUDIO)代表の磯江(俊道)も、その流れでレベッカと一緒に回っていたことがあったりして。ファミリーのような感じというか、僕らは土橋さんの人脈から派生した子分たちがやっている会社みたいな感じではありますね。最近はご一緒に仕事をすることはなくなっていますけど、最もお世話になったバンドかもしれません。
■そうした業務のなかに「ゲーム音楽の制作」が舞い込んでくるようになったのは?
大山:単純に、当時ゲームの音を作る音楽会社が少なかったというのが、まずあると思うんです。最初に「ミネルバトンサーガ」(1987/ファミコン)の音楽をやって、それを気に入っていただけたので、続けてお仕事をいただくようになりました。フォノジェニックで請けていたのは、たぶんアーテックさんの仕事だけだと思います。
■発売時期でいえば「獣神ローガス」(1987/PC-9801)が先ですが、制作そのものは「ミネルバトンサーガ」のほうが先だったのですね。
大山:そうだったと記憶しています。ゲームの音楽を作るのはもちろんこのときが初めてでした。セオリーみたいなものがまだない時代だったので、すぎやまこういち先生の作品を参考にして、どうやって三つの音で全部作ればいいのかなど、音の組み立て方を研究したりしましたね。逆にいうと、「ドラゴンクエスト」しか聴いていなかったんですよ。参考にしつつも、似たようには作れないと思いました。そこに自分の色が出たのが「ガデュリン」をはじめとする当時の音だったのではないかなと。FM音源ならもう少し多く音数を使えたと思いますが、効果音で使うから結局3音だけになったりもしましたね(筆者注:たとえば「獣神ローガス」が3音のみ)。
■1987年ごろにアストゥーリアスを結成しておられます。80年代に3回ライヴがおこなわれて、第1回のライヴのときに後にバッファロー・ドーターを結成する大野由美子さんが参加しておられました。
大山:大野さんは津田さんの知り合いといいますか、フォノジェニック・スタジオに彼女のバンドがよく出入りしていたんです。それで仲良くさせていただいて。僕の曲はピアノがけっこう大変なので、大野さんにピアノを頼んで、花本(彰。新月メンバー)さんにも割と簡単なところを弾いてもらう形で、当時ライヴをやりました。彼女はピアノもヴァイオリンも弾ける方で、クラシカルな素養があるんです。当時、20歳ぐらいだったんじゃないですかね。大野さんのバンドは津田さんのところに録音に来て、色々学んでいたんだと思います。僕自身も多くを学ばせてもらいました。いい環境の仕事場だったと思います。
取材:糸田屯+田中 “hally” 治久(2020年11月04日)
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