「ele-king」と一致するもの

 ここ何年か、K-POPにはまる友人がたくさんいて、なんだか友だちの一人や二人がつねに韓国にいるような錯覚を覚えるほどなのだが、ぼく自身もチャン・ギハと顔たちやヤマガタ・ツイークスター、フェギドン・タンピョンソンといった面々の来日ライヴやら、顔たちのメンバーにしてプロデューサーである長谷川陽平の『大韓ロック探訪記』(DU BOOKS)などを通じて新旧の韓国ロックには大いに興味のあるところなのだ。
 最近だと、韓国でも数少ない(と思われる)D-BEATノイズ・クラスト・バンド、スカムレイドのライヴが素晴らしかったですよね。新宿ロフトのバーステージがぐっちゃぐちゃになる盛り上がりっぷりで。

https://scumraid.bandcamp.com/album/rip-up-2015-ep

 さて、そんな韓国インディの中でもヤマガタやタンピョンソンら、ホンデ(弘大)地区で活動する「51+系」とも言われるシーンには音楽的なおもしろさとトンチのきいたポリティカルなメッセージ性を特徴とするバンドが現れている。紙版『ele-king』vol.9のヤマガタ・インタヴューにも出てくるが、彼らのそうした政治的スタンスには〈トゥリバン〉という食堂の強制撤去に反対する運動の経験が大きく影響しているという。
 その運動の経緯を記録したドキュメンタリー映画があるというので前々から見たくて仕方がなかったのだ(新宿のIrregular Rhythm Asylumで自主上映が行わていたのだが情弱なもんで行けなくて……)。その映画、『Party51』がいよいよ正式に日本公開される。

 一連の運動はホンデのうどん屋〈トゥリバン〉が、再開発のため一方的に「300万ウォンやるから出て行け」と宣告されたことに端を発する。しかし、女主人(これがまた肝っ玉母さんな感じでかっこいいんですよ)はそこで諦めずに立て籠りを開始。それを支援するミュージシャンたちがそこに集まり、毎週ライヴを行うようになる。

 もともとライヴハウスみたいなところだったのかなと思ってたのだけど、この映画で観るかぎりどうも普通に食堂だったようだ。彼らを動かしているのは「こういうことを許してしまうと、また同じことが起こる」という危機意識である。この「明日は我が身」っていう感覚はすごく大事だと思う。他人事だと思っているうちに取り返しのつかないところまで動いてしまってることって普通にありますからね。

 やがてライヴ以外にも活発な議論が展開されていき、「インディ」に替わる「自立音楽」を名乗って「自立音楽生産者組合」を立ち上げ、メーデーには51組のバンドを集めたフェス〈Newtown Culture Pary 51+〉を開催。運動は店内にとどまらず、食えないミュージシャンたちが自分たちの環境を改善するために情報や意見を活発に交換していく。労組の大会で演奏して会場のおばさんたちにドン引きされる場面なども(笑)。

 ヤマガタ・ツイークスターがライヴでラーメンを作るパフォーマンスは〈トゥリバン〉での経験がルーツにある。また、後に韓国のレコード大賞みたいなので新人賞を受賞するほどの成功を収める404などは、初ライヴが〈トゥリバン〉だった。〈トゥリバン〉での運動が終わった後もさまざまなかたちで「自分たちの場所を作る」ための工夫を続けている姿が映画では描かれており、東京でいう桜台の〈pool〉や落合の〈Soup〉といったオルタナティヴ・スペースを思い起こさせもする。

 そういえば、〈トゥリバン〉の運動でも大きな役割を演じたノイズ・ミュージシャンのパク・ダハムはレーベル・オーナー兼オーガナイザーとして日韓を頻繁に行き来している(磯部亮・九龍ジョー『遊びつかれた朝に』でも言及されてますね)のだが、ぼくがパクさんに初めて会ったのは〈pool〉で行われたジンのイベントだった。

 ブラックジョーク満載のステージングがとくに印象的なパンク・バンド「バムサム海賊団」と素人の乱の交流も描かれているけれど、こうした国際企業や国家主導のグローバリゼーションとはちがった等身大の草の根コミュニケーションがアジアの地下シーンで活発に行われている最近の状況は個人的にいちばんワクワクするところ。

 ということで、すごく身近ですごく勇気のもらえる映画である。日本でもある程度なじみのあるバンドマンたちがたくさん登場するので、まずはそんな彼らの考えや歌詞の内容を知ろうという興味で観にいってもいいと思う。映像祭〈オール・ピスト〉の一環として東京と京都で先行公開された後、10月に全国上映が行われる予定。(大久保潤)



『Party 51』
ドキュメンタリー映画 2013年/韓国/101分/韓国語/日本語字幕
監督:정용택 JUNG Yong-Taek
製作:パク・ダハム(Helicopter Records主宰)

韓国ソウル、弘大(ホンデ)地区で自立した活動を続けるソウルの音楽家たち。都市開発により弘大の家賃は上昇。ライブハウスの数も年々減少。30歳前後の年齢になった彼らは、不安定な収入に不安も抱く。2010年頃、音楽家たちは不動産屋からの立ち退き要請を拒否し立てこもった弘大の食堂オーナー夫婦と出会う。彼らはお互いに協力し、立てこもり真っ最中の食堂で連日あらゆる音楽ライブを開催する──。
『Party 51』は、ユーモアを取り入れながら自分たちの場づくりと人集めに奔走するソウルの音楽家たちを追った力強いドキュメンタリー作品。来日公演が話題を呼んだYamagata Tweaksterやタンビョンソン、日本の即興・実験音楽シーンとの交流の深いパク・ダハムといった、韓国インディー音楽シーンのキーパーソンたちが多数出演。

■HORS PISTES 2015 / オールピスト2015
https://www.horspistestokyo.com/ja/

東京 TOKYO
『Party 51』 上映+トーク
〈UPLINKセレクション〉
6月20日(土)
at UPLINK FACTORY(東京都渋谷区宇田川町37-18 トツネビル1階)
★上映終了後 トーク(Skype出演:パク・ダハム、聞き手:山本佳奈子/Offshore)
18:45開場 / 19:00上映開始
料金:¥1,800 一律
チケット予約:https://www.uplink.co.jp/event/2015/37967

京都 KYOTO
『Party 51』プレミア上映
6月21日(日)
at アンスティチュ・フランセ関西・京都
※上映前後のトークはありません。
14:30上映開始
料金:¥800


■『遊びつかれた朝に
──10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』

磯部涼×九龍ジョー

ホンデのシーンや韓国のインディ・ミュージックについても、興味深い情報や状況の紹介、また、東京のシーンと比較しながらの深い考察が加えられています。
詳しくは第2章を。
刊行から1年、まったく内容に古さを感じさせない、いや、ますます予言じみてくる言葉の数々に驚かされる対話集!

一体奴らは誰なんだ!? - ele-king

 先日行われたジョイ・オービソンとウィル・バンクヘッドの来日イベントで、ステージのスクリーンに映しだされた謎の映像に目を奪われた方は多いハズ。あれを作っているひとたちはもっと謎です。本サイトでも過去に取り上げてきた、インターネットを拠点とする集団BACON。ここでは多くは語らないので、ご存知ない方は拠点のサイトを見てきてください。(これが話題の「ポスト・インターネット」ってやつか!?)
 強烈なヴィジュアルを作り出す「彼ら」が、意外にも今回初となる展示会を開催します。今週6月19日金曜日より、場所は神保町のSOBOにて開催! 画面の外でBACONは何を繰り広げるのでしょうか?

BACON EXHIBITION「unknown dào fú」
会期:
2015年6月19(金) ~ 7/1(水)
時間:
12:00 ~ 20:00
※ 月・火休廊
特設ウェブサイト:
https://bacon-index.tumblr.com/unknowndaofu

会場:
SOBO
住所:
〒 101-0054
東京都千代田区神田錦町3-20
アイゼンビル 2F/3F
TEL:03-5244-5297
URL:https://sobo.tokyo

BACON
BACONはインターネットを活動拠点とする集団で、Tシャツやナップサック、靴下、ステッカーの制作、クラブイベントの主催、映像のディレクションを行う。昨年のMercedes-Benz Fashion Week TOKYOにおいて、ファッションブランド「C.E」が渋谷ヒカリエで開催しましたプレゼンテーション(https://vimeo.com/113405346)でも同ブランドと共に映像をディレクションするなど、多岐にわたる活動で知られる。


interview with KGDR(ex. キングギドラ) - ele-king


キングギドラ
空からの力

Pヴァイン

Hip Hop

20周年記念
デラックス・エディション

Tower HMV Amazon

20周年記念エディション

Tower HMV Amazon iTunes

 80年生まれのサイプレス上野と79年生まれの東京ブロンクス a.k.a SITEが日本のラップ・ミュージックの名盤を解説した単行本『LEGENDオブ日本語ラップ伝説』(リットーミュージック、2011年)の、キング・ギドラ(現・KGDR)『空からの力』の回には、「やっと渡されたラップ教科書」というタイトルが付けられている。95年12月10日に同作が発表された頃には、日本のラップ・ミュージックはすでに10年以上の歴史を持っていたが――たとえば、黎明期の重要作である、いとうせいこうがラップを、ヤン富田がプロデュースを担当した楽曲“業界こんなもんだラップ”収録作『業界くん物語』は、そのちょうど10年前にあたる85年12月21日に発表――言わば、長い試行錯誤の時代に終わりを告げ、初めて表現の定型を提示し得たのが『空からの力』だったのだ。

 くだんの回において、東京ブロンクスは「オン・ビートで、韻は固く踏むっていう、誰でも真似できる基本スタイルをギドラはハッキリ打ち出した」「これが日本語ラップの骨格になってるのは間違いね」と振り返っている。そして、サイプレス上野は言う。「だからギドラは教科書でしたよね。〈やっと渡された教科書〉って感じ」。しかし、単純だが重要なのは、同作が教科書に喩えられるとしても、それは、押し付けられるものではなく、キッズが自ら進んで学びたくなる格好良さに満ちあふれていたということだ。

以後、20年。『空からの力』に感化された高校生が、〝サイプレス上野とロベルト吉野〟として5枚のオリジナル・アルバムを発表し、ベテラン・ラッパーとして認知されているように、日本のラップ・ミュージックの歴史を変えた同作は、そこからまた長い歴史を紡いできた。もしくは、『空からの力』に、戦後の歴史観が変容しつつあった90年代半ばという時代の空気が影響を与えていることについてはもっと検証されなければならないだろう。『20周年記念デラックス・エディション』のリリースを機にKGDRの3人――Kダブシャイン、Zeebra、DJ OASIS――に、グループ及び日本のラップ・ミュージックの、また、彼らが青春時代を過ごした80年代から彼らが世に出た90年代までのこの国の、歴史を振り返ってもらった。

■KGDR(ex. キングギドラ)『空からの力:20周年記念エディション』
Kダブシャイン、Zeebra、DJ OASISによって1993年に結成され、日本のヒップホップ・シーンにおいて大きな影響力を示してきたグループのひとつ、キング・ギドラ。その「日本語ラップの金字塔」とも称えられる95年のデビュー・アルバム『空からの力』が、リリース20周年を記念したリマスタリング盤となって登場。リマスタリングを施されたレアなリミックス音源やデモ音源、また当時の映像作品「影 The Video」のDVDがカップリング(DVDはデラックス盤のみ)されるばかりでなく、リマスタリングをトム・コイン(ビヨンセ、サム・スミスなどを手掛ける)が担当するなど、名盤を祝福するメモリアルな仕様になっている。

オレが〈ジャクベ〉に溜まり出したのは中2で、ディスコに行くようになったのもその頃。そこに、当時の中学生とか高校生とかが溜まってたんだよ。(Zeebra)

まず、3人の出会いからうかがいたいのですが、Zeebraさんは著作『ZEEBRA自伝』(ぴあ、2008年)で、中学生のときに渋谷で出会った3歳上のKダブさんについて「Kダブはいつもチャリで現れた」と書いていましたね。

Zeebra(以下Z):うん。いつもチャリだったね。

「チャリで現れた」っていうのは、要するに、地元だったと。

Kダブシャイン(以下K):そうそう。公園通りの〈ジャクベ〉を覗くといつもヒデ(Zeebra)たちがいて。

〈ジャクベ〉?

K:〈ジャック&ベティ〉。

Z:いま、〈ディズニー・ストア〉が建ってるとこにあったカフェ・テラス。

K:セルフ・サービスのね。

Z:そこに、当時の中学生とか高校生とかが溜まってたんだよ。オレが〈ジャクベ〉に溜まり出したのは中2で、ディスコに行くようになったのもその頃。まだ慶應(義塾普通部)に通ってて、一個上について遊び回ってた。

K:ということは、オレは17だね。一回、アメリカに留学して、帰ってきたときぐらい。〈ジャクベ〉には同じ学年の女子が溜まってたから覗きにいったら、ヒデたちもいて、「中学生なのにすげぇチャラいなぁこいつら」みたいな感じで見てた。

Z:ははははは。

そして、ZeebraさんとOASISさんは幼馴染み。

Z:小学校からずっといっしょで。

DJ OASIS(以下O):知り合ったのは5年ぐらいだったかな? それから遊ぶようになって……。

Z:6年とか中1とかの頃にはずっといっしょにいるっていう感じになってた。ほら、小学生って、はじめのうちは自分のクラスの奴としか遊ばないけど、高学年になってくるとクラスを跨いで趣味の合う奴と遊ぶようになるじゃん。オア(OASIS)とも、もともとはクラスがちがって。

遊んでいるうちにクラスを越境し、学校を越境し、地域を越境し……そして、いまにいたるまで仲間が増えているわけですよね。

Z:そうだね。その越境していく過程の最初の頃にオアと知り合ったのかな。

O:ガキの頃、オレはメタルが好きで。エレキを買ったりもしてたし、その頃から「音楽をやりたい」ってぼんやりと思ってたんだけど、明確になったのが5年の頃で、そこから、クラスを跨いでレコードの貸し借りをするようになったんだ。それで、ヒデとも仲良くなったんじゃないかな。

Kダブさんと、Zeebraさん、OASISさんは3歳ちがうわけですが、それぐらい空いていると世代がちがうという感覚なのでしょうか?

K:出会ったときは高校生と中学生だからね。その頃はだいぶギャップがあったと思う。でも、あとで話してみると『ベストヒットUSA』(テレビ朝日/81年~87年)とか、音楽の情報ソースは同じだったし、聴いていたものもそんなに変わらなかったんじゃないかな。

Z:まぁ、オレたちもちょっと早熟だったっていうか。

O:オレはコッタくん(Kダブ)と同い年の兄貴がいたから。もともと、音楽はその兄貴に教えてもらって。

Z:オレも親が家でそういうアメリカのヒット・チャートものをかけてたし、5、6年になるとクラスで目立つやつはみんなわっと洋楽を聴き出す感じもあったよね。その流れで、“スリラー”や“ロック・イット”のヴィデオを観てムーン・ウォークやブレイク・ダンスを真似てみたり、ヒップホップにもハマっていった。

〈ジャクベ〉ではまだ音楽の話にはなってないですよね?

K:そのときはまだ。でも、それから1、2年する間にラップ好きだっていうことがわかって。ヒデはオレの後輩だったライムヘッド(現・T.A.K THE RHHHYME)とツルんでたから、あいつに「ヒデもラップ好きなんですよ」みたいな話は聞いてたんだよね。

Z:オレはオレで、「コッタくん家にR&Bのレコード、すげぇいっぱいあるよ」「マジで? 行ってみたい!」みたいな感じで遊びに行って、「すげぇすげぇ、これ何? 聴かして?」って感じで仲良くなった。

渋谷によく溜まっていたビルがあったんですよね。

Z:あぁ、〈Rビル〉? コッタ君の一個上にとんでもなく悪い先輩がいて(笑)。オレがそのひとに会いに行くとコッタくんもいて、みたいな感じだったかな。〈Rビル〉に溜まってたから「Rズ」って呼ばれてたもん。

K:自称でもあるんだけどね。最初は〈Rビルディングス〉だった。

Z:それは初めて知った(笑)。


イタロ・ディスコなんかは、やっぱり、遊びながら知っていったし、そういった中で「音楽はディグるもの」っていう感覚が身に付いていったよね。先輩のテープが回ってきて、「格好いい!」と思った曲を自分でも必死で探すみたいな。(Zeebra)

当時の渋谷は、いわゆる「チーマー」文化の前夜と言っていいですよね。90年代に入って、チーマーがマス・メディアに取り上げられ、暴力的なイメージが再生産されていきますが、『渋谷不良20年史~Culture編』(少年画報社、2009)で、Zeebraさんに、それ以前のチーマー文化は、流行に敏感な私立校生を中心としたムーヴメントだったというようなことを語ってもらったことがありました。

Z:エイティーズのチーマーはそんなに暴力的ではなかったよ。もちろん、たまに喧嘩はあったけど、そんなに大事には至らなかった。

K:まぁ、遊び人の集まりだよね。

興味深いのは、いま、遊び人の若者が新しい音楽を聴いているとはかぎらないと思うんですけど、初期のチーマーは音楽にも詳しかったということで。

Z:それは、まず、当時は「ディスコでしかかからない音楽」っていうのがあったじゃん。それこそ、ユーロ・ビートにしてもハイ・エナジーにしても、普通に生活してたら聴くことがないような曲。デッド・オア・アライヴとかニュー・オーダーとか、ディスコでかかる曲がチャートに入ったりもしてたけど、イタロ・ディスコなんかは、やっぱり、遊びながら知っていったし、そういった中で「音楽はディグるもの」っていう感覚が身に付いていったよね。先輩のテープが回ってきて、「格好いい!」と思った曲を自分でも必死で探すみたいな。

遊び場に足を運ばないと聴くことができない音楽があったからこそ、遊び人の若者たちが音楽に詳しかったと。

Z:格好もそうだよ。遊んでいる奴らなでらはのコードみたいなものがあって、たとえば、みんなブーツを履いてたりとか。チームでスタジャンをお揃いで着たりとか。あと、スタジャンの下にジージャンを重ね着したりとかさ。

K:はいはい。ジャケットの下にジージャンを着たり、とにかく、ジージャンを重ね着してたよね(笑)。

Z:ポケットからバンダナを垂らしたりね。

そのコードの中で、いかに着こなすか、着崩すかが重要なわけですよね。

Z:そうそう。そのために、服もディグるし、音楽もディグるし。で、ディグりきれてないやつは浅いやつ、ダサいやつって感じで見られてた。

そうやって、街の中で遊んでいるうちに、3人は出会っていった。

Z:ここ(Z)とここ(K)はそうだね。

O:オレとコッタくんが会ったのは、ギドラを結成するちょっと前ぐらいだから。

なるほど。では、キャリアに関して、順を追って訊いていきたいと思います。


とりあえず、弦巻(世田谷)だよね。「ふたりで曲をつくろう」って話をして、実際にやりだしたのは。(DJ OASIS)

ZeebraさんとOASISさんはキング・ギドラの前に「ポジティヴ・ヴァイブ」というラップ・グループを組んでいましたが、『ZEEBRA自伝』には「ポジティヴ・ヴァイブという名前をいつ、どうしてつけたのか。はっきりは覚えてない」と書かれていますね。だいたい、いつぐらいの話なのでしょう?

Z:17、8だから、88年、89年ぐらいなのかな? そこから、2、3年はやってたと思う。

O:とりあえず、弦巻(世田谷)だよね。「ふたりで曲をつくろう」って話をして、実際にやりだしたのは。

Z:オレが17ぐらいから弦巻でひとり暮らしをしだして、88年の暮れにニューヨークに行った後、リリックを書き出したんで、正確には結成は89年か。

ポジティヴ・ヴァイブでは英語でラップをしていたんですよね?

Z:そう。ただ、ラップも、並行してやっていたDJも、20歳ぐらいでいったん、止めちゃうんだよね。ニューヨークに行って帰ってきて、89年の1月か2月ぐらいから〈六J〉(ディスコ〈J TRIP BAR〉の通称)でDJをはじめることになったんだけど、オレは89年の4月で18だから、本当は駄目で、ただ、店の方も「まぁ、もうすぐ18だから平気だろう」って感じで採用してくれたんだ。ところが、20歳でガキができて、向こうの親から「水商売の奴にうちの娘はやれねぇ!」って言われちゃって。当時、DJは水商売だったのよ。それで、ちゃんと9 to 5の仕事に着かなきゃいけなくなって、一回、DJもラップも諦めた。その頃って、ZOOの影響でヒップホップが盛り上がりはじめてたし、もったいなかったよ。オレは〈六J〉の火曜日をひとりで任されてたんだけど、そこも誰かに継がなきゃいけないっていうことになって、当時、オアもDJを本格的にはじめてたし、「代わりにやってくんない?」って頼んだんだ。

O:でも、〈六J〉ではヒップホップをかけてたといっても、客はBPMが早い曲にしか反応しなかったね。

Z:そうだね。オレらとしては、もっと遅い、カンカンタッ(BPM90)みたいなのが大好きだったんだけど、それはさすがに……。

O:好きなんだけどかけられない曲がたくさんあった頃だったな。現場では普通にハウスとかもかけてたし。

Z:ニュージャック(・スウィング)とかね。ある程度、音が固くないとノってくれない。ジャンブラ(ジャングル・ブラザーズ)でも反応があるのは“アイル・ハウス・ユー”(88年)だけみたいな。

一方、Kダブさんがリリックを書きはじめたのは?

K:英語で、真似事みたいな感じでやりはじめたのは、オレも、88年の終わりとか、89年の頭とかなのかな。もちろん、その前からラップは聴いてて、ラン・DMCとかLL・クール・Jとかが好きだったんだけど、(LLの)“ゴーイング・バック・トゥ・キャリ”(88年)を聴いて、「よし、オレもやってみよう」って英語でライムを書きだした。

やはり、ZeebraさんとKダブさんの重要な共通点として、まずは英語でリリックを書きはじめたということがあると思うんですが。

K:まぁ、正直、日本人でヒップホップをやれてる奴がいるとは思ってなかったから、アメリカのシーンだけを見てたし、向こうで人気のあるラッパーを好きだったしね。


要するに、当時の日本のヒップホップにはストリートを感じさせるものがなかったんだよね。(Kダブシャイン)

Kダブさんは著作『渋谷のドン』(講談社、2007年)で、「1980年代後半から世界中で隆盛していったヒップホップだが、果たして日本はどうだったか。藤原ヒロシや近田春夫、いとうせいこうら、ロンドン経由の軟弱なアパレル系のものしかなく、それはファッションのひとつとして紹介された」と書いています。また、Zeebraさんも『ZEEBRA自伝』で、「1988年にはメジャー・フォース(高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太などが参加したヒップホップのインディーズ・レーベル)ができた。/その前にも近田春夫さん、いとうせいこうさんがヒップホップを取り入れたりはしていた。/ただ、それはあくまでもミュージシャンが新しいジャンルを取り入れているというスタンスだったと思う」「自分のやりたいものとはちょっと違う。向こうのとっぽいヤツらとは確実に雰囲気が違う」と、日本語ラップ第一世代の表現に対して、違和感を感じていたことを振り返っています。2人がラップをするにあたって英語を選択したのは、彼らに対するカウンターの意味もあったのでしょうか?

Z:そもそも、当時の日本で、ラップでビッグになるってことなんて想像もつかなかったし、「日本の奴らにヒップホップが伝わるのはいつのことなんだろう?」ぐらいに思ってたからね。というか、はっきり、「伝わらないだろう」と思って、向こうでデビューしたいって考えてた。だから、英語でやりはじめたってことなのかな。

87年には〈ヴェスタックス・オール・ジャパン・DJ・バトル〉が、翌年には〈DJ・アンダーグラウンド・コンテスト〉がはじまり、前者ではECDが優勝、後者ではスチャダラパーが入賞するなど、日本語ラップ第2世代が登場しはじめていた時期でしたが、そういったシーンとは関わるつもりがなかった?

Z:まぁ、結局、オレらが日本のラッパーをどこで観ることになるかっていうと、外タレが来たときの前座で、ただ、そのパフォーマンスがどうにも「うーん……」っていう。

K:オレも〈メジャー・フォース〉のレコードを買ってみたりしたけど……。

O:オレも買ったよ。

Z:オレだって(タイニー・パンクスの)「ラスト・オージー」(88年)を買ってみて、プロダクションに関しては、DJ的観点でつくってあっておもしろかったんだけど、ラップに関しては「もうちょっと格好良くならないもんかねぇ」と思ってしまって。都々逸みたいに聴こえたっていうか。(高木)完ちゃん、いますげぇ仲いいからこういうこと言うのは気まずいんだけど(笑)。正直、当時はそう感じちゃったからさ。「いやいや、いまのヒップホップってもうちょっとフリーキーなフロウもあるし」って。だから、ラップに関しては、オレがやりたいと考えてたことの2歩ぐらい手前の感じがしたし、「これはちょっとちがうかなぁ」と思ったっていうところかな。

たとえば、いとうせいこうや近田春夫、タイニー・パンクス等にとっては、80年代半ばのラン・DMCに感化された部分が大きかったと思うんですよね。ただ、80年代も後半になるとラキムが出てきたり、ラップという表現がより進化していきましたよね。そういった現行のラップ・ミュージックを熱心に追っていただろうZeebraさんやKダブさんにとっては、ラン・DMCを引きずり続けているような日本のラッパーたちが古臭く思えたんじゃないでしょうか?

Z:もちろんそれはあったよね。話がいきなり飛ぶけど、『ソラチカ』(『空からの力』)でやっているデリヴァリー、ラップの譜割に関して言えば、収録曲のほとんどをつくった94年当時、向こうで流行っていた韻を置く場所を予測させないようなスタイルをすごく意識した。たとえばジェルー(・ザ・ダマジャ)とか、ケツ・ケツで踏まずに、ランダムに踏むっていう。そういう視点は英語でラップしていた80年代末から変わってない。

K:オレは85年にアメリカに留学して、地元の黒人と友だちになって。彼らと遊ぶ中で、アメリカにおける黒人の歴史や現在置かれている状況を知ったし、ブラック・ミュージックがそれに影響を受けていることも肌で感じて。それで、日本に帰ってきて日本人のラップを聴いたら、やっぱり、ブラック・ミュージックとしては物足りないと思っちゃったよね。

Z:本当にその通りだね。

K:そこに不満を感じて、日本でヒップホップをやることっていうか、日本語でラップをやること自体、不可能なんだなって決めつけちゃったんだ。英語もわかりはじめてたし、そもそも、文法がちがうじゃんって。80年代はそんな感じだったな。

Z:オレが思うに……当時、日本のヒップホップには2ラインあったじゃない? ひとつは、〈メジャー・フォース〉に代表される、ヒップホップにたどり着くまでにパンク/ニュー・ウェーヴを経て来たタイプ。もうひとつは、ユタカ君(DJ YUTAKA)たちみたいなブラック・ミュージックを経て来たタイプ。かたやファッション誌やカルチャー誌みたいなメディアに頻繁に登場するような華やかな世界で。片やディスコが現場で、客は基地のブラザーだったりして、いなたさもあって。オレにとっては、前者はコッタくんが言うようにブラック感が足りなかったし、後者はちょっと〝いま感〟が足りなかった。

そのどちらにも馴染めなかったと。

K:別の言い方をすると、当時、ヒップホップをカウンター・カルチャー的なものとして捉えるか、ポスト・モダン的なものとして捉えるかっていうちがいもあったと思うんだ。〈メジャー・フォース〉は後者だけど、オレはさっき話したようにアメリカでルーム・メイトの黒人からいろいろと聞かされたからさ。それで、ヒップホップのカウンター・カルチャー的な部分に共感するようになったし、ポスト・モダン的な見方っていうのはあまり好きじゃなかったんだよね。

Z:あとはあれだな。デ・ラ・ソウルの“ミー、マイセルフ・アンド・アイ”(89年)のPVがあるじゃん。学校でイジメられるやつ。あれのイジメる側だったからさ、オレらは(笑)。だから、スチャダラパーとかがステージに上がってるところの最前列でこう(煽るジェスチャー)やってるのがオレらの立ち位置だったの。どっちかっていうと。あと、当時、渋谷だの六本木だのでふらふらしてると、気がつけばひと回り上の先輩と知り合ってたりするじゃん。それで、そのひとたちは、車屋とかやってて、儲かってて、派手に遊んでるわけ。でも、日本のヒップホップの現場に行くと、そういう、悪い先輩と繋がってるひとはいないっていうか、こっちもとにかく若くて、何も知らないから、「お前ら誰なんだよ。オレはもっとヤバいひとたち知ってるし」みたいな感じもあったよね。

K:要するに、当時の日本のヒップホップにはストリートを感じさせるものがなかったんだよね。

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日本は日本の……いまで言うガラパゴス的なシーンで、そこに「ちゃんと本物を持って帰って来る」みたいな使命感はあった。(Kダブシャイン)

日本では〈メジャー・フォース〉のように、本来、オルタナティヴであるはずのものがメインになってしまっていたということでしょうか?

Z:イメージとしては、やっぱり、ファッションな感じがしてたかな。たとえば、オレがどーしても受け入れられなかったのが〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉。だから、あれがイイと言っているひとたちとは感覚がちがうわっていうのはあった。オレは〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉だったら、〈フットロッカー〉のほうが好きだったから(笑)。

タイニー・パンクス時代の藤原ヒロシはヴィヴィアンにアディダスを合わせたりしていましたよね。

Z:オシャレだとは思うけど、オーセンティックな、ストレートなヒップホップではないっていうところが自分の好みとはちがったな。

K:クイーンズ・ブリッジじゃそんな格好してるやついないよ、みたいなさ。

〈メジャー・フォース〉系には「ブラック感」が足りない。ディスコ系には「いま感」が足りない。自分たちがど真ん中だと思うもの〝だけ〟が日本のラップ・ミュージックからは欠けていたと。

K:ただ、オレはいとうせいこうさんがCMでやってた「ネッスルの朝ごはん」のラップ(87年)、あれは許容範囲だったんだよね(笑)。あと、88年か89年の年末に、横浜にあった〈グラン・スラム〉ってプリンスがプロデュースしたディスコでB-FRESHのライヴを観て、「こっちは〈メジャー・フォース〉よりはありだな」と思ったな。立ち居振る舞いとかも含めて。

Z:ちょっと悪そうだったもんね。

K:ブラザー感出てるっていうか、ファンキーな感じがして、可能性を感じた記憶がある。

Z:それで言ったら、オレは『ダンス!ダンス!ダンス』(フジテレビ、90年)を観てたらクラッシュ・ポッセが出てきて、オケが“ワイ・イズ・ザット?”(ブギー・ダウン・プロダクションズ、89年)か何かを使ってたのかな? 「おー、こういうやつらいるんだ!」ってアガったな。

K:実際には、いろいろなタイプのラッパーが出てきてたんだろうけど、自分のことで精一杯だったから目がいってなかったのもあるのかもしれないね。

ただ、〈メジャー・フォース〉は日本ならではのヒップホップの形を模索していたようなところもあったと思うんですよ。また、『ZEEBRA自伝』には、80年代のことを振り返る、「一時期、黒人になりたくて、なりたくて、しょうがなかった/もちろん無理なんだけどさ」という一節がありますが、ZeebraさんもKダブさんも、当初は英語でラップしていたのが、ある時期から日本語にスウィッチして、独自の表現を目指していきますよね。

Z:もちろん、それはいちばんはじめからわかっていたことであって、オレもブレイクダンスからヒップホップに入ってるし、「黒人ばかりじゃねぇよな」って印象はあって。「プエルトリカン、多いな」とか、何だったらアジア人のブレイカーだって、白人のブレイカーだっていたわけだし、オレは、もともと、この文化を黒人だけのものとしては捉えてない。だからこそ、「日本人の自分だって入っていけるはずだ」と思ってたっていうか。デカかったのは、88年に初めてニューヨークに行ったときに、ボビー・ブラウンとニュー・エディションとアル・ビー・シュアの3組がいっしょにやるっていうんで〈マディソン・スクエア・ガーデン〉に観にいったんだけど、真ん中のPA・ブースはエリック・Bをはじめヒップホップ・スターだらけで、「わー、ハンパねー」って感じで。それで、フロアは見渡す限りシスター。しかも、いまのビヨンセみたいな感じじゃなくて、みんな、格好が小汚いんだよ(笑)。そんな中で本編がはじまる前にビースティ・ボーイズがかかったら、どーん! どーん! って超盛り上がって。しかも、“ファイト・フォー・ユア・ライト”(87年)とかじゃなくて、“ポール・リヴェア”(86年)とかだよ? そのときに、「あ、ビースティ・ボーイズはちゃんと受け入れられてるんだ? ……ほう」と思った。オレはそれにだいぶ、背中を押された感じがある。

なるほど。つまり、名誉黒人になりたかったから英語でラップすることを選んだわけではなく、アメリカのヒップホップ・シーンは人種を問わず参戦可能だと思ったからこそ、共通言語である英語でラップすることを選んだのだと。

K:オレなんかは、高校の頃からアメリカで黒人とつるんでたし、なんとなく自分はもうアメリカ人だって気分でヒップホップを聴いてたんだよね。

Z:オレもそうだったな。

K:だから、キング・ギドラにしても、アメリカのヒップホップから枝分かれした存在というイメージで、対して日本は日本の……いまで言うガラパゴス的なシーンで、そこに「ちゃんと本物を持って帰って来る」みたいな使命感はあった。

O:ふたりの話を聞いてて思ったのは、『ソラチカ』をつくる上で、もちろん、刺激を受けた音楽が同じだったっていうのも重要なんだけど、昔の日本語ラップを聴いたときの違和感が同じだったっていうのもデカいのかなって。


キングギドラ
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『空からの力』は、いまでこそ「名盤」だとか「教科書」だとか「王道」だとか言われますけど、やはり、リリース当時は日本のシーンに対するカウンターとしての側面も持っていたということですよね。

K:うん、そうなんだよね。


黒人の友だちに英語のラップを聴かせると、「まぁ、それはそれでいいけど、なんで日本語でラップしないの?」みたいなことを言われたしね。(Kダブシャイン)

Kダブさんが、「日本語でラップをやること自体、不可能なんだなって決めつけちゃったんだ。英語もわかりはじめてたし、そもそも、文法がちがうじゃんって」というところから方向転換をしたのはどうしてだったのでしょうか?

K:やっぱり、アメリカのラップを聴いてると、みんな、メイン・ターゲットが自分のコミュニティの人たちなんだよね。ブルックリンの奴らはブルックリンに向けて、クイーンズの奴らはクイーンズに向けて、サウスブロンクスの奴らはサウスブロンクスに向けてラップしている。西じゃ「ウェッサーイ!」とかさ。そういうふうに、自分の地域をレップして、その地域の奴らに聴かせるっていうのが基本なんだなっていうことがわかってくると、「〝日本から来て、アメリカに住んでいる日本人〟みたいなアイデンティティでは限界があるなぁ」と思いはじめて。あと、黒人の友だちに英語のラップを聴かせると、「まぁ、それはそれでいいけど、なんで日本語でラップしないの?」みたいなことを言われたしね。その意見が、自分の中で「どうするんだ、お前は?」っていう自問自答の声になっていってさ。それで、ある日、「じゃあ、日本語でやってみようかな」ってリリックを書きなぐってるうちになんとなく原型になるものができて。「あ、こういう感じで続けていけばいいのかな」って気づいたときにはもう夢中になっていて、半年とか1年とかひたすらやりつづけてたっていう感じかな。

つまり、先ほど、Zeebraさんが言っていたようにラップはマルチ・エスニックな、あるいは、グローバルなカルチャーでもあるわけですが、同時にローカルなカルチャーでもあって、それについて考えている中で、「やはり、日本語でやるしかない」という動機づけがされていったと。

K:そうだね。あと、やっぱり、アメリカに長くいることで、望郷の念みたいなものも膨らんでいってさ。日本人でいることを意識するようになったし、もちろん、アメリカにもいいところはいっぱいあるけど、「こういうところは日本のほうが良いよなぁ」と思うことも多くて、より日本を好きになっていったわけ。一方で、日本に帰るたびに、友だちがジャンキーになってたり、パクられてたり、死んじゃってたり、「ええー? 日本、大変なことになってるじゃん」って感じて。「いま、渋谷でこうなってるってことは、そのうち、全国的にこうなっていくんだろう」と思ったし、あるいは、アメリカでスラムを見て、「日本がこうなったらどうしよう」っていう危機感も持つようになった。そういうふうに、変わっていく日本に対して自分ができることはなんだろうって考えはじめた時期と、日本語のラップに取り組みはじめた時期がちょうど重なったんだよね。

アメリカがある種のディストピアに思えた。日本がこれから向かっていくような。

Z:当時、「日本が危ない感」みたいなものはいろんなところに感じてたよね。


当時、「日本が危ない感」みたいなものはいろんなところに感じてたよね。(Zeebra)

『空からの力』に顕著な雰囲気ですよね。

Z:それと、賛否両論はあると思うんだけど、当時、『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり、92年~)とか、実際、おもしろかったし。

K:あぁ、オウムとか薬害エイズについて描いてたころだよね。

Z:隠されている真実をあからさまにするっていうことを、ヒップホップではパブリック・エナミーだったりがやってきたわけだけど、当時、『ゴー宣』にはそれに近い感覚があると思ったし、日本でもそういうものがパブリッシュされることで、そういう目線で物を見るひとが増えてるってことは、逆に言えば、「いま、パブリック・エナミーみたいなことを日本でやってもいけるんじゃねぇの?」って思わせてくれたし。

K:本当のことを言ったり、言いたいこと言ったりするのは当たり前だろうっていう。

『空からの力』をつくるにあたって、『ゴーマニズム宣言』に刺激を受けたようなところがあった?

Z:すごいでかいなぁと思って。たとえば、自虐史観みたいなことに関しても、「本当のことに気づかせてくれたな」っていう感じが、正直、オレはしたし。どこまでが真実で、どこまでが誰かがつくった虚構なのかっていうことはわからないけど、100%悪くないわけじゃないし、100%悪いわけじゃないしってことを知るだけでも、本当に意識が変わった。台湾のひとたちが日本をリスペクトしてるんだって知ったのも『ゴー宣』だったりするから。「あぁ、こういうことを、エンターテイメントとして世の中に伝えていくやり方があるのか。だったら、オレらもラップでそれをやればいいんじゃないか」っていうことは、当時、すげぇ思った。

なるほど。では、日本語でラップをはじめた頃に話を戻すと、『ZEEBRA自伝』には、「T.A.K THE RHHHYMEの家にたまに遊びに行った時に、(略)/「そういえば、この前、コッタ君(Kダブ)から電話あってさ」みたいな話になった。/「コッタ君、ラップ始めたらしいよ」/「しかも日本語でやってて、結構ライムがちゃんとしてたんだよ」って。/(略)その当時、Kダブはオークランドに住んでいたから、国際電話でラップを聴いたのかな。/あっ、これはこれまでの日本語ラップとは違うな。/聴いた瞬間に、そう思った」というエピソードが書かれています。そして、感化されたZeebraさん自身も日本語のリリックを書きはじめるという流れですよね。

Z:そうだね。(Kダブのラップは)ライムヘッド邸で聴いたんだと思う。

それって具体的に何年だったか覚えていますか?

Z:たぶん……92年くらい?

K:アメリカで黒人の友だちに聴かせて「何言ってるかわからないけど、いい感じだよ」みたいなことを言われたりとか、アメリカに住んでる日本人や、日本の友だちにも感想を求めたりとか、そういうふうにして、試行錯誤しながら自信をつけていってたんだよね。その流れでヒデにも聴かせたんだと思う。

ちなみに、『渋谷のドン』には、「次第にアメリカでオレの日本語ラップが認められるようになり、帰国した際にも、それを友だちに披露していたりした。その頃、汐留のレイブパーティでヒデ――Zeebraと再会」という記述があります。この、〝レイブパーティ〟とは?

Z:えー、何だっけそれ?

K:ああー、その電話のあとで偶然会ったのが、汐留っていうか、新橋の線路の下みたいなところでやってたレイヴで。

Z:はいはい。日本ではレイヴがまだこれからっていう頃だったんだけど、それはゲスト・リストに載ってないと入れないようなクローズドのパーティで、オレは友だちがみんな行くっていうからついていったら、たまたま、コッタくんに会って。

K:オレがうんざりして、「アメリカから帰ってきたばっかりなのに、こんな音楽聴くのエグいんだけど」って言ったら、「車の中でヒップホップ聴こうよ」みたいな話になったんだ。

いい話ですね!

K:当時、オレはオークランドの地元のファンク・バンドとかラッパーと交流があって、ちょうど、ベイエリアのシーンが目立ちはじめていた時期だったから、その車の中で、「とりあえず、日本よりはおもしろいことになってるよ。ラップやるなら、オークランドに来れば?」みたいに誘ったんじゃないかな。あと、同じ頃、友だちの結婚式の二次会で、ヒデとノリでワン・ヴァースづつラップしたらすげぇ場が盛り上がって、いいケミストリーだなっていうのを感じたこともあった。


オレは韻をハメて気持ちよくさせることがラップの愉しさなんだって考えながら、92年からリリックを書いてるんで、言いたいことをとりあえず言って、後から韻を踏んで聴こえるように細工してるものとはレヴェルがちがう。(Zeebra)

ところで、ZeebraさんがKダブさんのラップで惹かれたのはどんな部分だったのでしょうか? 『ZEEBRA自伝』には、Kダブさんにラップを聴かされた当時、「RHHHYMEは3Aブラザーズっていうグループを組んでいて、UBG(アーバリアンジム)のINOVADERと1-Low(イチロウ)というMCと一緒に日本語のラップをやってたんで、たまに聴かせてもらったりしてた。/でもライムに関しては、もっと違うやり方があるんじゃないかって思っていた」という一文があるように、周囲でも同時多発的に日本語による新しいライミングの仕方が模索されていたと思うのですが。

Z:当時のライムヘッドたちはまだ最後の1文字を合わせるぐらいで。それに対して、コッタくんが聴かせてくれたのは、単語単位で、3文字とか4文字とかで踏んでたから、「あ、ちゃんと韻として成立してるじゃん」と感じた上に、「これだったらオレにもできるじゃん」と思わせてくれたんだよね。

ただ、それまでの日本にも、単語で踏んでいたラッパーはいましたよね。たとえば、いとうせいこうのアルバム『MESS/AGE』(89年)に付属されていた、〝福韻書〟と題したアルバムの中で使ったライミングのインデックスには、単語がずらっと並んでいます。

Z:いや、それまで、3文字、4文字の単語で、すべて母音を合わせるってことをやってたひとは、そんなにはいなかったんじゃないかな。4文字の単語で、最後の2文字が合ってるとかはあったかもしれないけど。たとえば「~の剣幕」と「~が開幕」とか。

K:「逆境」と「東京」とか。

Z:でも、「剣幕」と「円卓」みたいな踏み方はあまりなかった。

K:オレは、それまでの日本語ラップは、語尾を毎回、「あ~」とか「わ~」とか「ど~」とか延ばして響きを似せることを韻と定義しているという印象があって、ただ、それは韻じゃないって英語のラップを聴いてわかっていたから、自分としては英語の韻の構造を日本語に当てはめたみたんだよね。

Z:オレたちとそれまでのひとたちとは韻に対する考え方がちがったんじゃないかな。オレたちにとっては踏むことがメイン。だから、それまでのひとが「ここは踏めないけど、言いたいことがあるからいいか」ってスルーしちゃうのは、オレらにとってはおもしろくも何ともない。そこをなんとか踏んで、なんとか意味を通すことがアートだって考えてるから。

K:それまでの日本のラップは、作文の途中に韻を踏む言葉が入ってたりするぐらいの感じだったと思うんだよ。

Z:以前、ラキムが「ラップのデリヴァリーは、ジャズでトランぺッターやサキソフォニストがソロを吹くときのパターンと同じだ」っていう話をしてたんだけど、まったくその通りで、たとえば、パララ♪、ツッタタッタ、パララ♪、ツッタタッタ、パララ♪の〝パララ♪〟ってところがラップにとっては韻なんだ。そういうふうに、オレは韻をハメて気持ちよくさせることがラップの愉しさなんだって考えながら、92年からリリックを書いてるんで、言いたいことをとりあえず言って、後から韻を踏んで聴こえるように細工してるものとはレヴェルがちがう。

ライミングをひとつの演奏として捉える。

K:欧米で詩を書くときに使う思考法を、それまでの日本人が持ち合わせていなかったのに対して、たまたま、アメリカに行って、英語でものを考えるくせがついていた若者がその思考法をパッと日本語に置き換えたのが、当初のオレのラップだったと思うんだよね。

『渋谷のドン』には「日本語のラップが成立するかもしれない。そう思い、ひとりで研究をはじめた。そして、中国の漢文が韻を踏んでいることを思い出す。漢文にならって音読みを用い、倒置法や体現止めを試してみた」とも書かれていますね。

K:うん。大学生のときに、日本語って「~です」とか「~でした」とか「~ました」とか、いわゆる韻ではないけれど、韻律を合わせた語尾で終わるようになっているから、そもそも、韻を踏む必要がない言語だっていうことに気づいたのね。でも、新聞の見出しみたいに体現止めにして、漢文みたいに熟語で踏んで行けば、日本語でも韻のおもしろさがわかりやすく伝えられるんじゃないかと思ったんだ。ただ、研究しているうちに、「~なった」と「~あった」でも踏めるとかさ、「有り触れた言い回しでも、しっかりしたラインだったらOK」とか、自分の中でのルールができていって。だって、“スタア誕生”の「スターになる夢見育った/素直でかわいい女の子だった」とか、ぜんぜん、体現止めでもないし、普通の1ラインじゃない。だから、体現止めや熟語で踏むことにこだわってると思われがちだけど、そうではなくて。

Z:でも、「育った」と「子だった」って、ちゃんと、「そ」と「こ」から踏んでるんだよね。

K:そうそう。そこが気がきいてるのを汲み取ってよ、みたいなさ(笑)。


大体のやつが「I Rhyme」って言うわけ。だから、オレは「ラップしてる」って言い方はあまり格好良くないんだなと思って。「I Rhyme」っていうのは、要するに、韻踏んでなきゃラップじゃないってことでしょう。(Kダブシャイン)

『空からの力』のいちばんのメッセージは「韻を踏むことがモラルである」ということだと言っていいと思うんですけど、それが、日本のラップ・ミュージックを変え、ひいては日本語を変えていったわけですよね。

K:オレがアメリカに行った頃、ラップしてるらしきやつに会うたびに、当時の拙い英語で「Do You Rap?」って訊いてたのよ。そうすると、大体のやつが「I Rhyme」って言うわけ。だから、オレは「ラップしてる」って言い方はあまり格好良くないんだなと思って。「I Rhyme」っていうのは、要するに、韻踏んでなきゃラップじゃないってことでしょう。実際、向こうのラップを聴くと、「Rhyming」「Rhyming」「Rhyming」ってみんな言ってるからさ。それで、オレの中で韻を踏むっていうことが大前提になっちゃったんだよ。

OASISさんは、最初にKダブさんとZeebraさんのラップを聴いたときどう思いましたか?

O:まず、「日本語でもこういうふうになるんだ」と思ったし、同時に「ラップってこういうことなんだ」とも思った。それまで、パブリック・エナミーのラップを聴くにしても、対訳を読んだり、辞書を引いたり、理解しようとはしてたんだけど、やっぱり、ちゃんとは理解できてなかったし、どうしても、音として聴いてるようなところがあって。でも、コッタくんとヒデのラップは、向こうのラップがそのまま日本語になっているような感じで、それを聴くことによって、ヒップホップっていうものをより深く理解できたし、もっとヒップホップを聴きたいって欲が出てきた。そういうことは、それまでの日本語ラップではなかったよね。

そして、OASISさんもラップを始めます。

O:うん。『ソラチカ』を聴いて「ラップをやりたい」と思ったひとがたくさんいたのと同じように、オレはリリースの1年前とか2年前にそれを体験していて。ふたりのラップを聴かなければ、自分がマイクを持つようなことにはならなかったんじゃないかな。

Z:オレらも、その後、先人たちがやってきたことを振り返って、「あぁ、もうこの段階でこういうことをやってるんだ」「あぁ、こういうこともやってるんだ」って気づいたし、ただ、当時のオレらにそれが届かなかったのは、たとえば〈ヴィヴィアン・ウェストウッド〉を着てたからとか、フロウがちょっと古かったとか、それだけのことだったのかもしれない。あるいは、彼らが試行錯誤を公開してくれたからこそ、オレらは同じ轍を踏まずに済んだし、オレらは試行錯誤を公開せずにスタイルが完成した後、『ソラチカ』として世に出したからこそ、あのアルバムがラップの教科書として機能したのかもしれないよね。

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日本のシーンはシーンで、ある程度動きはじめてたから、「その中でやっていった方がいいんじゃないか」っていう話はしてたよね。(Zeebra)


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95年12月18日刊行のヒップホップ専門雑誌『FRONT』(シンコーミュージック)6号に掲載されたキング・ギドラのインタヴューの聞き手は佐々木士郎(現・宇多丸/ライムスター)で、リードにはこう書かれています。「そのデモ・テープが東京のヒップホップ・シーンを駆け巡ったのは、今からちょうど2年前のことだ」「一聴した者はその瞬間から、実体すらはっきりしないこのグループの名前をしっかりと記憶せざるを得なかった。カセット・レーベルにはこう印刷されていたのだ。「KING GIDDRA 見まわそう/空からの力」」「彼らのファースト・アルバム『空からの力』は、あらかじめジャパニーズ・ヒップホップの新たなクラシックとなるべく義務づけられた作品だったと言っていい」。つまり、日本のシーンの中では、93年末頃から出回りはじめたデモ・テープによって、すでに『空からの力』の方向性は周知されていたということですけど、その「デモ・テープ」というのが、今回、ボーナス・トラックとして収録される音源なのでしょうか?

Z:そう。93年の3月にオークランドに行ってギドラを結成して、日本に帰ってきてから録ったデモだね。当時、UZIのお兄さんが練習スタジオをやってて、ひと部屋だけレコーディングもできるところがあって、そこを借りて。

キング・ギドラ 『空からの力:20周年記念エディション』 Trailer

なるほど。では、そのデモについて訊く前に、オークランドでギドラ結成に至った経緯を教えてください。

K:ヒデがオークランドに着いて、何日かいっしょにヒップホップ活動をしている内に、「グループになろうか?」っていう話になって。それまでは、お互いにひとりでやってたし、ソロMCっていう自覚もあって、ソロのヴァースも書いてたんだけど、ちょうど、ラン・DMCが『ダウン・ウィズ・ザ・キング』(93年)でカムバックした頃で、「やっぱり、2MCのライヴって1MCより迫力あるなぁ」と思ってたところだったんだ。あと、なんとなく、「オレたちだったらうまくいくんじゃないかな?」っていう予感もあって。そうしたら、ヒデが「もう1人いいやつがいるんだよ」ってオアの名前を挙げて、その2ヶ月後ぐらいに会ったのかな?

そのときにはすでに、日本でリリースするということは決めていたんでしょうか?」

K:うーん、とにかく「つくる」ってことしか考えてなかったかな。もちろん、日本の皆に聴かせたいけど、具体的に日本での音楽活動の仕方をイメージしてたわけではなく。オレが向こうで仲がよかったエレメンツ・オブ・チェンジってラップ・グループの片割れの彼女が『ギャビン』って雑誌で働いてて業界に詳しくて、「ショッピングしてみるわ」って言うから任せたら、1個か2個いい話を持ってきたりして。

〈デフ・アメリカン〉からデビューするという予定もあったみたいですね。

K:もう1個あったんだけど、何だったっけ? あぁ、〈イモータル(・レコーズ)〉って〈エピック〉系のレーベルかな。でも、やっぱり、ターゲットはなんとなく日本って決めてたから。

Z:もうその時点で、日本のシーンはシーンで、ある程度動きはじめてたから、「その中でやっていった方がいいんじゃないか」っていう話はしてたよね。

『空からの力』は、もちろん、傑作なんですが、必ずしもその時期における異端的な作品ではなくて、同じ年の6月にはライムスターの『エゴトピア』が、10月にはコンピレーション『悪名』がリリースされていますし、ギドラとライミングの方法論が近いラッパーたちが集まりはじめていたという印象があるのですが?

Z:たとえば、(『悪名』に収録されたラッパ我リヤの)Qなんかは「ギドラのデモ・テープを1000回ぐらい聴いた」と言ってて、そこから、あんな韻フェチが生まれたってことだと思うし。

K:三木道三も同じようなことを言ってたよね。

つまり、ギドラのデモ・テープとアルバムの間が2年空いたことで、デモ・テープの影響が表出するのと、アルバムのリリースとが重なり、ギドラとライミングの方法論が近いラッパーが同時多発的に現れたように見えた側面もあったと。

Z:そうなんじゃないかなって気はするんだけど。あと、それだけデモ・テープが広まったのは、(DJ)KEN-BOがオレらのプロモーションをやってくれたからでもあるんだよね。「とにかく、韻がヤバいんだよ」みたいな説明をしながらデモ・テープを配りまくってくれて。

K:あと、『Fine』(日之出出版)としっかり組んだのも大きかったよね。あの雑誌は、マニアックなラップ好きとか音楽好きだけじゃない、遊び人の子たちが読んでた雑誌だったから。

Z:それこそ、ギャル全盛期でさ。みんな『Fine』読んでますって時代だったし、あの雑誌に載ったり、〈Fine Night〉に出ることによってファン層も幅広くなった。


だからこそ、「これ(『空からの力』)を聴いたら変わるよ」ぐらいに思ってたし。(Kダブシャイン)

一方、『FRONT』の、ギドラのインタヴューが掲載されたのと同じ号では、佐々木士郎が連載「B-BOYIZM」において、「日本のヒップホップ・アーティストを取り上げるのを快く思っていない層」に対する反論を書いていたりと、遊び人の中で、日本語ラップに対するイメージはそこまでよくなかったのかなとも思うんですが。

Z:士郎くんが言ってたのは、おそらく、遊び人っていうよりは、いわゆる〝ブラパン〟みたいな層に対してだね。当時、「ブラック・ミュージックが好き、ヒップホップが好き、だけど、日本語ラップは……」っていう奴がけっこういたんだ。

K:いや、気持ちはわからなくもないんだよ、オレらだってそうだったんだから(笑)。だからこそ、「これ(『空からの力』)を聴いたら変わるよ」ぐらいに思ってたし。

Z:外タレのフロント・アクトに出まくったのも、「っていうか、オレらのほうがぜんぜん格好よくねぇ?」ってことをわからせたかったからだしね。

K:まぁ、エリック・サーモンにしても、ショウビズ&AGにしても、みんな、「何言ってるかわかんないけどイイよ」「これならぜんぜん行けるよ」って言ってくれたからね。

80年代末に、Zeebraさんは外タレの前座をやっていた日本人ラッパーたちに違和感を感じてたいたという話がありましたが、そこで、ギドラがUSと日本の差を埋めたとも言えますよね。

Z:そうだね。エド・O.G.に至ってはオレらが完全に食っちゃたし。あと、その頃のことで印象に残ってるのが、グレイヴディガズが〈ジャングルベース〉(六本木のクラブ)でライヴをやったとき、オレはバーカウンターに寄っ掛かって観てたの。そうしたら、途中でプリンス・ポールが「この中でラップできるやついないのか?」みたいなことを言って、前のほうにいた基地の奴が、まぁ、どうってことのないラップをしだして。だから、「しょうがねぇな」ってオレがマイクを持ったらフロアも盛り上がったし、グレイヴディガズも「おー」みたいな感じになってさ。それで、ステージから降りたら、黒人に後ろから抱きつかれてるブラパンが「やるじゃーん」って言ってきて。そのとき、「ついに勝ったぜ、ブラパンに」にと思ったよね(笑)。

K:そういう意味では、〈Pヴァイン〉からリリースしたのもよかったよね。ブラック・ミュージック好きに認められてたレーベルだからさ。

そして、ライムスターの『エゴトピア』で「口からでまかせ」にソウル・スクリームとともにフィーチャリングされたあと、95年7月にリリースされたコンピレーション『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP VOL.2』収録のSAGA OF K.G.名義「未確認非行物体接近中」のアウトロでは「ライムスター、メロー・イエロー、イースト・エンド、ソウル・スクリーム、マイクロフォン・ペイジャー、ランプ・アイ、ユー・ザ・ロック&DJベン、雷クルー、ECD、キミドリ、ガス・ボーイズ、クレイジーA、DJビート、DJ KEN-BO、ライムヘッド」といったアーティストたちにシャウトアウトを送っていますね。

K:うわ、そういえば、言ったね~!

Z:うん。この頃には、皆でやっていこうという意識の中で動いてたから。

『空からの力』をレコーディングしはじめたのもその頃でしょうか?

K:95年の夏からスタジオに入ったんじゃなかったかな。暑かった記憶がある。

アルバムには、それまでデモ・テープに収録していた曲は全部入ってる?

Z:いや、入ってない曲もある。


「いくら日本で悪い子ちゃんだって言っても、ガンを持ってるわけじゃないし、ひとを殺したわけでもないし、向こうに行ったら普通だよ」と思ったら、ファーサイドの具合がちょうどいいなって感じたんだよね。(Zeebra)

今回、「見まわそう」のデモ・ヴァージョンだけ、事前に聴かせてもらったんですけど、Kダブさんがアルバムとあまり変わらないのに対して、Zeebraさんの発声はぜんぜんちがいますよね。

Z:そうなんだよね。まったくちがう。

Zeebraさんは、その時代その時代の、ラップのモードに合わせてスタイルを変化させてきたと思うのですが……。

Z:ただ、そのデモの頃は、それこそ試行錯誤している最中だったかな。自分のラップ・スタイルはどれがベストなのか探ってた感じ。あと、ファーサイドの影響がモロに出てる。いま振り返ると、自分たちとしては、不良っぽかったり、ストリートっぽさを持ってたりっていうのは大前提だったんだけど、もともとはUSでやろうとしていたので、「いくら日本で悪い子ちゃんだって言っても、ガンを持ってるわけじゃないし、ひとを殺したわけでもないし、向こうに行ったら普通だよ」と思ったら、ファーサイドの具合がちょうどいいなって感じたんだよね。

あの声の高さはファーサイドですか。

Z:ファーストの『ビザール・ライド・トゥ・ザ・ファーサイド』(92年)が出て、「パック・ザ・パイプ」って曲もあったり、楽しそうだったり、ドロドロしてたり、「何かおもしろいなぁ」と思ったのが、まさに、デモ・テープをつくる半年前ぐらいだったんだよね。でも、「日本のシーンの中でやる」っていうことを考えるんだったら、もっとストリート性みたいなものを出した方がいいかなと思って、だんだん、声のトーンも下がっていった。だから、デモ・テープから、ソロのセカンドの『BASED ON A TRUE STORY』(2000年)までをひとつの流れとして見ると、オレのラップがどんどん男っぽくなっていくのがよくわかるんじゃないかな。

なるほど。ちなみに、『空からの力』は、リリース当時、どれぐらい売れたんでしょうか?

Z:気がついたら、20000枚か30000枚ぐらいは売れてたよね。

では、長い時間をかけて浸透していったという感じではなく。

K:うん、最初の2、3ヶ月でけっこう売れたんじゃないかな。HMV渋谷店のチャートでは6週ぐらい連続で1位になったり、大騒ぎになってたって言ったら大袈裟かもしれないけど……。

最初に影響を自覚したのはいつですか?

K:やっぱり、〈さんピンCAMP〉(96年)のときは、あの大雨の中、満員の客が盛り上がっていて……もちろん、自分たちだけが出てたわけじゃないけど、「あぁ、日本でもヒップホップがここまで影響力を持つようになったんだな」と思ったよね。ちょっと怖いぐらい熱狂的な感じ。

『ZEEBRA自伝』では、「あの頃はデカいイベントが月に1回くらいのペースであったんで、いつものルーティンな感じだった」とも書いてありましたが。

Z:いや、それは、〈さんピンCAMP〉だけのおかげで日本のヒップホップが盛り上がったわけではなく、〈(クラブ)チッタ〉でやっていたようなオムニバスのイベントだったり、〈イエロー〉や〈ゴールド〉でやっていたようなパーティだったりの積み重ねでシーンが出来上がったってことを言いたかったんであって。ただ、〈さんピンCAMP〉のキャパがそれまでで最大だったのはたしかだから。それこそ、“未確認非行物体接近中”のイントロが鳴り出して、ぐわーって歓声が上がったときはゾクゾクッときたよね。「よっしゃー!」って。

K:オレはどのアーティストも同じぐらい盛り上がったっていう印象だったんだけど、ひとによっては、「ギドラのときがいちばんだった」って言ってくれるのはうれしいよね。それだけ、アルバムが受け入れられてたんだなって思った。

ただ、そのステージにOASISさんはいませんでしたよね。

O:あのときはKENSEIがDJをやったんだっけ?

K:KENSEIとKEN-BO。

O:あぁ、ダブルDJだったんだ。オレは現場にすらいなかったから。あとから映像で観た。

K:当時、オアは音楽から身を引こうとすら思ってたみたい。


アルバムの中では自分の役割を果たせたと思ってるし、やりたいことができてるなって、今回、聴き直して感じたね。(DJ OASIS)

当時の文字情報……たとえば、『HIP HOP BEST100』(Bad News、96年)を読むと、「もともとあまり表舞台に出ることは少なかったトラック・メーカーのDJ OASIS」というふうに書かれています。

O:うん。ほぼ、表舞台には出てないかな。アルバムを出した年に結婚もしたし、生活を取ったっていう感じで。音楽で金を稼ぐっていうことにまだピンときてなくて、バイトもしてたからね。

自分が参加していないうちに、キング・ギドラがどんどん大きくなっていったことに対して、何か感じることはありましたか?

O:やっぱり、すごい感じてたよ。音楽雑誌に出ることは当たり前かもしれないけど、その頃から、一般誌にも出るようになってたからね。何気なく雑誌をパラパラめくってて、パッとふたりの写真が出てくると、「あぁ、オレも本当だったらここにいたんだよな」っていうことは思ったし。だからと言って、自分が選んだ道は後悔してなかったから、日々の仕事を淡々とこなしてたけど、ギドラがでかくなっていく一方で、いつまでも変わらない自分には違和感を感じてたね。「悔しい」とか「クソ!」みたいな感じではなく、心にポカンと穴が空いてるような……。

なるほど。

O:ただ、たしかにライヴに関しては何年も参加できなかったし、『ソラチカ』に関しても仕事でスタジオに行けなかったときもあったんだけど、アルバムの中では自分の役割を果たせたと思ってるし、やりたいことができてるなって、今回、聴き直して感じたね。

一方で、ZeebraさんとKダブさんは、後年、『空からの力』のレコーディングの時期を、グループとしてはあまりいい関係ではなかったと振り返っていますね。たとえば、『渋谷のドン』には「空中分解の状態」だったと、『ZEEBRA自伝』にはKダブさんに対して「うーんと思うことも増えてきた」と書かれています。

K:うーん……蜜月が終わったというか……。最初は一気に近づいていっしょにやるようになったわけだけど、そりゃあ、時間が経つごとに意見の相違も出てくるし……。

名盤と言われている作品の裏では、じつは、OASISさんが音楽から離れようと考えていたり、KダブさんとZeebraさんの関係がよくなかったりしたというのは、リスナーとして興味深いです。

K:たぶん、オレもヒデも本能的に「これを出さないと次につながらない」ってことがわかってたから、アルバムに関しては「ビジネス・ネヴァー・パーソナル」でとにかく完成させようと。ただし、その後は袂を分かつことにはなるんだろうな……みたいな予感はしつつ、レコーディングは無我夢中だったよね。もし、完成させられなかったら、それまで積み重ねてきた努力も台無しになるし、他の奴らにもデモで影響を与えたんだとしたら彼らにも申し訳が立たないし。『エゴトピア』の「口からでまかせ」は言わば予告編みたいなものだったので、その後、本編が幻になっちゃうようなことだけはやっちゃいけないなっていうのもあって。そこは、〈Pヴァイン〉もよくサポートしてくれてたと思うよ。

(『空からの力』のブックレットを熟読しているZeebraに対して)当時、Zeebraさんはどんなことを考えていましたか?

Z:……いま考えてたのは、この写真を見ると、オアがいちばん顔が変わったかなって(笑)。

K:あー、たしかに。

O:……わかんないけど、2人がぶつかった時期があったんだとしたら、それは、たぶん、オレがいない時期で。だから、もしかしてオレがいたら、和らいだりもしたのかなって思うことはあるね。

Z:もしかしたらそれはあったかもしれないね。

K:そうだね。

Z:ただ、オレが、正直に思うのは、ギドラ以降もいろんなアーティストと友だちになったけど、いま話してたようなことは、アーティストは誰しもが持つ問題だと思う。

K:うん。

Z:やっぱり、エゴじゃん、アートって。自分が表現したいものを100%表現したいと思うのがアートだから。もちろん、ギドラみたいに3人でひとつのアートを完成させるっていうことも大事なんだけど、それと同時に、「オレはこういうことをやってみたい!」っていうエゴもあって、「ただ、それにはコッタくんは合わないかも」って思うかもしれないし、コッタくんはコッタくんで「ヒデは合わないかも」って思うかもしれないし、オアはオアで思うかもしれない。そういうエゴのぶつかり合いは、アーティストが集まれば必ず起こることで、だから、すごく健康的なことなんじゃないかな。その後、『最終兵器』(キング・ギドラのセカンド・アルバム、2002年)もつくって、いま、こうしていい関係になってるわけだし。


たとえば93年にはウータンのアルバムが出てるわけで、オレたちにしても、全員がソロというスタンスを守りながらユニットとしてやっていくっていうのは、最初から何となく決めていたことではあったんだよね。(Kダブシャイン)

そのぶつかりあいこそがケミストリーを生んだのかもしれないですよね。

O:ふたりとも、性格もちがうし、表現したいこともちがうんだけど、ヒップホップの意識レヴェルみたいなものは同じ高さで。だからこそ、どんなに喧嘩しても「もう絶対会わねぇ」みたいなことにはならない。たぶん、ヒップホップに関して、いちばん刺激的に反応してくれるのがお互いなんだよ。なので、当時も、いろんなひとがふたりの関係のことを訊いてきたけど、「ふたりは根底では同じだから、最終的には割れないだろうな」って思ってたよ。

Z:それこそ、「あれ聴いた?」とかいう話をするときに、いちばんオン・ポイントで意見を交換できるのがコッタくん。以前、Twitterでもつぶやいたけど「俺とコッタくんはヒップホップに対して持ってる尺度がちょっと違うからたまに相反するんだけど、根っこは一緒」みたいな。本当にそういうところはすごいあって。

K:あと、さっきのオレの言い方はちょっとネガティヴに聞こえたかもしれないけど、たとえば93年にはウータンのアルバムが出てるわけで、オレたちにしても、全員がソロというスタンスを守りながらユニットとしてやっていくっていうのは、最初から何となく決めていたことではあったんだよね。その方がお互いに依存しなくなるし、そもそも、それぞれに才能があるし。だから、このアルバムにもふたりともソロが入ってるわけじゃん?

Z:だって、デモの段階でコッタくんのソロが入ってたんだもん。この、『空からの力』を出すまでは、オレらにとってはギドラしか表現する場所がなかったから、どうしても、エゴのぶつかり合いにもなったんだよね。でも、その後、ソロで3者3様の表現をしたから、もうぶつかり合うことはなくて。『最終兵器』で「じゃあ、キング・ギドラでまた1枚つくりましょうか」ってなったときは、もうノー・エゴで、100%、グループとしてのアルバムをつくることに集中できた。


『最終兵器』はいろいろと物議も醸したわけだけど、それも、「パブリック・エナミーのようなグループを日本でやりたい」っていう、『空からの力』の頃の目標が、ようやく、達成できたんだとも言える。(Zeebra)

『ZEEBRA自伝』には「『最終兵器』は『空からの力』完成版という意識でつくった」とあります。

Z:そういう意識はものすごくあったね。

O:オレもようやくがっつり参加できたし。

K:ヒデがフィーチャリングされたドラゴン・アッシュ(『Grateful Days』、99年)のヒットの余波もあったりとか、映画(『凶気の桜』、2002年)も巻き込んだりとか、レーベルの〈デフ・スター〉が本気で金を使ってくれたりとか、大きいプロジェクトにできたし、やっぱり、あのときの達成感は何ものにも換えられないものがあったね。

Z:オレだって、セールス・レヴェルの話で言ったら、いちばん売れてるのはあのアルバムだし。あと、『最終兵器』はいろいろと物議も醸したわけだけど、それも、「パブリック・エナミーのようなグループを日本でやりたい」っていう、『空からの力』の頃の目標が、ようやく、達成できたんだとも言える。

K:だから、ここで『最終兵器』の話をするのは変かもしれないけど、あれがなかったら、この20周年記念盤も出せてなかったかもしれないから。

O:それはそうだね。

Z:「あー、20年経ったかぁ」なんて言って、そっぽ向いてたかもしれない(笑)。

K:『空からの力』をクラシックとして確実なものにしてくれたのは、じつは『最終兵器』なんだよね。というわけで、7年後にはまたインタヴューをお願いします。

えっ、『最終兵器』20周年記念盤? それも論じがいがありそうですね……。ちなみに、3人とも表現を更新しつづけているアーティストであるわけですけど、今回、『空からの力』という20年前のアルバムをあらためて聴き直してみてどう感じたのでしょうか?

Z:まぁ、可愛いな、よくやってるな、頑張ってるな、って感じ。これをつくってた24歳のオレに向けて「けっこう、頑張ってんじゃん」って思う。

K:10年前は子供の頃の写真みたいで恥ずかしいから閉まっときたい感じだったけど、それからまた10年ぐらい経って、「あぁ、ここが原点だったんだな」って思うし、本当に感慨深いよね。

O:昔からクラシックだって言ってくれるひとは多かったけど、自分としても20年経って初めて「すごいことやってたんだな」って認められるようになったね。

Z:それにしても、デラックス・エディションを出してもらえるっていうのはものすごい誇らしいよ。だって、そんなアーティストなんてほとんどいないし。オレは王道のアーティストが大好きだから、R&Bにしたって、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーの「○○周年記念盤」とか「○○周年ボックス」とかよく買ってたもんね。自分たちがそこに並ぶことができたのは本当にうれしい。


■KGDR(ex.キングギドラ) 〜「空からの力」20th Anniversary〜

7月18日(土) 「NAMIMONOGATARI 2015」 @ Zepp Nagoya
https://www.namimonogatari.com/

8月15日(土) 「SUMMER BOMB produced by Zeebra」 @ Zepp DiverCity TOKYO
https://summer-bomb.com/

9月6日(日) 「23rd Sunset Live 2015 -Love & Unity-」 @ 福岡県・芥屋海水浴場
https://www.sunsetlive-info.com

interview with Hudson Mohawke - ele-king

 ハドソン・モホークがシーンに華々しく登場したときのことはよく覚えている。プレステで12歳のときからビートを作っていたとか、その数年後にはDJチャンピオンになっていたとかいうエピソードや、まだ少年っぽさを残す風貌もあって、若くして登場することの多いビート・メイカーのなかでもとりわけ神童めいた扱いを受けていた。「すごい子どもがいる!」というような。当時熱い注目を浴びていたグラスゴーのシーンのなかでも、ジャンルを無邪気に無視してのみ込む様は「ウォンキー」(くらくらする)なんて言葉で無理矢理言い表れされたものだ。
 それからは引っ張りだこの活躍を見せていたことは周知だが、ソロ・アルバムとしては5年以上のブランクが空いたため彼の近影を久しぶりに見て思わず口をついて出た言葉は「痩せたなー!」だった。もとい、ずいぶんシャープになった。ルニスと組んだTNGHT(トゥナイト)やカニエ・ウェストに抜擢されたことは見聞きしていたつもりだったが、その経験は佇まいまで神童から世界的なプロデューサーへと変えてしまったことを思い知らされたのだった。


Hudson Mohawke
Lantern

Warp / ビート

ElectronicIDMHip-Hop

Tower HMV Amazon iTunes

 そして彼の新作『ランタン』は彼のアメリカでの成功体験がよく反映されたものとなっていて、とくに前半でメジャーなヒップホップやR&Bを思わせるプロダクションが目立っている。いや、そうではなくて、その近年のトレンドに関与したのがハドソン・モホークそのひとであったことの証明だろう。イアフェインがシンセ・サウンドとともに派手にブチかます“ヴェリー・ファスト・ブリーズ”、ラッカゾイドがゴージャスなコーラスを引き連れるような“ウォリアーズ”、そしてミゲルが切なく歌い上げる“ディープスペース”と、ポップスとしての強度を備えたトラックが並ぶ。そのなかでもアブストラクトかつウォームな質感のトラックの上でアントニー・ハガティが例の深い声で歌う“インディアン・ステップス”はアルバムのなかでももっとも美しい瞬間を演出しているし、インタールード的なトラックとはいえオーケストラを導入した“ケトルズ”など、いままで聴いたことのないハド・モーもここにはある。インタールード的、というのは要するにアルバムの構成も凝っているということで、通して聴いたときの起伏とストーリー性にも富んでいる。ソウル、ゴスペル、R&Bにチップチューン、フュージョン、それにトラップ……と雑食性は相変わらずだが、ハチャメチャさが魅力だった『バター』よりはるかにうまくコントロールされている。

 そう思うと、ラスト・トラックのタイトルが“ブランド・ニュー・ワールド”というのはなんとも清々しい。そのシンセ・トラックの無闇な高揚は、ハドソン・モホークらしい根拠なき無敵感を放っている。それは彼のトラックを聴くといつも感じずにはいられない、自由であることの喜びそのものだ。

グラスゴーを拠点とするプロデューサー。2007年に〈ユビキティ・レコーズ〉のコンピ『チョイセズ・ヴォリューム1』に"フリー・モー"が収録されたことにはじまり、翌2008年には〈ラッキー・ミー〉などからたてつづけにシングルをリリース。2009年には〈ワープ〉からデビュー・アルバム『バター』が発表された。その後はTNGHT(トゥナイト)での活動や、カニエ・ウェストのレーベル〈GOOD Music〉とプロデューサー契約を経て、プロデューサーとしてカニエ・ウェスト、ドレイク、ジョン・レジェンド、R・ケリー、ビッグ・ショーン、2チェインズ、プシャ・T、リック・ロス、フレンチ・モンタナ、フューチャー、ヤング・サグ、トラヴィス・スコットなどUSメインストリームの錚々たるビッグネームと関わり活動を展開。2015年に6年ぶりの2枚めとなるフル・アルバム『ランタン』をリリースする。

だからなんだよ、今回のレコードにおいて僕が意識的に……自分自身のソロ・プロジェクトに立ち返ろう、焦点をそこに戻そうって決断を下さなくちゃいけなかったのは。

前作『バター』から6年経ちましたね。もちろんその間にEPもありましたし、他のミュージシャンとのコラボレーションやリミックス、それにTNGHTのヒットもありましたので活躍はつねに見ていたようにも思えますが。あなた自身にとって、この6年でもっとも大きかったトピックは何ですか?

ハドソン・モホーク(以下HM):そうだな……まあ、もっとも大きいプロジェクトって意味では、やっぱりTNGHTになるかな。

6年と言っても、いま言ったようにあなたは活動を続けていたわけで。

HM:ああ、そりゃもちろん! 思うに、いま言われた時期の間もツアーは続けていたんだし……とは言っても、必ずしも自分のソロ・キャリアだけに純粋にフォーカスしていた、そういう期間じゃなかったっていう。っていうのも、コラボレーション仕事を多くこなしていたし、それに「ハドソン・モホーク」ではなく、TNGHTとしてのツアーをかなりやったわけで。でまあ、そうやってこの期間中はハドソン・モホーク名義のショウをあまりやらなかったために、なんというかなあ、もしかしたら人びとに……僕はもうツアーしてないんじゃないか、活動をやめてしまったのかも? そういう印象を与えてしまったんじゃないかと思うんだよね。だからなんだよ、今回のレコードにおいて僕が意識的に……自分自身のソロ・プロジェクトに立ち返ろう、焦点をそこに戻そうって決断を下さなくちゃいけなかったのは。
で、思うに、この6年間って歳月は……自分にとってはなにも「6年も経った」って感覚じゃないんだよね。ってのも、その間も自分は休みなく働いていたし、ノンストップで活動していたわけで。ただまあ、他のひとたちの観点に立って考えてみれば、「6年ものギャップとは、長い!」ってふうに受け止められるのも、わかるんだけどさ(笑)。うん、っていうか、そうなんだろうね。ソロ・アルバムの間に6年も間を置くのってきっと長いんだろうけども(苦笑)、でもその間も、2枚のソロの間も、僕はノンストップで動いていたっていう。

今回のアルバム制作に取り掛かったきっかけ、スタート地点はどういったものだったのでしょうか?

HM:そうだね……、作品のはじまりは、とにかくいろんなアイデアの集合体からだった。だから、とくに「これはアルバムのために」ってふうに……「このトラックは自分のアルバム用に残しておこう、それからこのトラックも、それにこれも」なんて前もって考えながらやっていたわけではなくて、僕はただまあ、いろんなアイデアを思いつく端からひとつのフォルダに保存していたっていう。ほんと……たしか去年の半ばくらいだったと思うよ、やっと腰を落ち着けてそれらのさまざまなアイデア群をひとつにまとめてみて、そこから一枚のアルバムを作り出そうとトライしはじめたのは。
 で、まず、このアルバム全体のなかでは必ずしもよく響かないだろうってふうに自分が感じた、そういったトラックを省いていくことにして……それはどういうことかといえば、要するに、あたかも自分が「クラブ・ヒットだらけのノリのいい曲ばかりが詰まったアルバム」だけを目指したような、そういう選曲はしないってことで。だから、あのふるい落としの作業は間違いなく、「一枚のアルバムとしてひとつにまとめることによって、トータルで聴くことで機能する楽曲群を選ぼう」みたいな……ヒット向けの曲だけを選ぶのではなく、むしろいっしょに並べてアルバムとして通して聴くのに向いている、そういう観点で楽曲をセレクトするプロセスだった。だから、今回のアルバムにこそ入れなかったけど、これから先のレコードで日の目を見るかもしれない、そういう未収録曲もいくつかあるんだよ。

どこかの誰かがラップトップとにらめっこしながらひとりで作ってる、そういう響きの作品にしたくなかったっていう。

ではアルバムについて訊かせてください。これまでも多彩な音楽を吸収しているのがあなたの楽曲の特徴でしたが、今回はさらに広がっていて驚きました。まず、音色が非常に多様ですが、機材の環境というのもかなり変わったのでしょうか?

HM:うん、ちがうね。思うに、とにかく僕は……今回のレコードの多くに関して言えるのは、僕としてはこう、エレクトロニック・ミュージックによくある手法というよりも、むしろトラディショナルな音楽の作り方を用いたかったんだと思う。だから、どこかの誰かがラップトップとにらめっこしながらひとりで作ってる、そういう響きの作品にしたくなかったっていう。

(笑)なるほど。

HM:というのも、もちろん以前の僕はそういうやり方で多くの音楽を作ってきたわけだけど、今回のレコードではもっともっと……生楽器をたくさん使っているし、そうだね、間違いなく(ソフトウェア・シンセではなく)ハードウェアもいろいろと使って、いくつもの機材を用いて作業を進めた。だから、とにかく僕としては、ただラップトップを使って作るのではなく、より幅広く、バラエティに富んだ機材やサウンドなどを一体化させた、そういうプロジェクトをやってみたかったんだ。そういうわけで、今回はちゃんとしたスタジオ環境で作りたかったんだよ。

はじめにできた曲は?

HM:そうだなあ、んー(軽く息をついて考える)……このアルバムの曲で最初に出来上がったのは、“スカッド・ブックス”だったんじゃないかと思う。というのも、じつはあの曲は2、3年前から存在していた曲で、ただ、いままで正規な形で発表したことがなかったっていう。いやまあ、過去にあの曲をラジオ・ミックスか何かの場でプレイしたことは何度かあったんだけど、曲の正体は誰にも明かさなかったから。

長いこと「謎の曲」のままだった、と。

HM:(苦笑)そう。だから、聴いた人たちは「これはなんて曲だ?」と探ろうとしたし、「この曲はいつリリースされるのか?」なんて、いろいろと訊かれることになったよ。で……うん、そうだな、あの曲がいわば、僕にとっての「このレコードをどういうサウンドにすべきか」という基盤、あるいはスタート地点になったってことなんだろうね。

僕たちはさんざん長いこと“何かやろう、やろう”と話を続けてきたわけだけど、ただ話してるだけじゃなく実践に移そうぜ!」と(笑)。

今回のアルバムでは、コラボレーションしたヴォーカリストたちの人選はどのようにしたのですか?

HM:まあ、基本的には……ここでのアーティストたちはみんな、僕が長いこといろんな形で連絡をとりつづけてきた、いっしょに何か音楽をやろうよって話し合ってきた、そういうひとたちなんだよね。ところがお互いのスケジュールの調整がつかなかったり、あるいは他の仕事との兼ね合いがあったり、いままでどうにも共演が実現しなかった、と。僕みたいにロンドンにいるアーティストだとなおさらそうで、今回のように全員がアメリカ在住のゲスト勢とコラボレーションをするのは楽じゃないってこともあるわけで──とくに、同じスタジオ空間で顔を突き合わせていっしょに作業をしたいと思ったら、双方のスケジュールを合わせるのが難しかったりするよね。だけどまあ、彼らは全員、しばらくの間「ぜひいっしょに何かやろう」と話し合ってきた間柄な人たちだし、だからとにかく今回というのは……「オーケイ、最初のポイントに戻ろうじゃないか。僕たちはさんざん長いこと“何かやろう、やろう”と話を続けてきたわけだけど、ただ話してるだけじゃなく実践に移そうぜ!」と(笑)。

(笑)

HM:ラッカゾイドにアーフェインとはそうやってずっと話してきたし……アントニーにミゲル、ジェネイ・アイコもそんな感じで……そうだね、ゲストと僕のお互いが「これはぜひ実現させたい」と本腰を入れないかぎり、まず実現しっこないだろう、そういう共演だったというか。だからこっちとしても「もうじゅうぶん長いことコラボレーションを話し合ってきたんだし、口先だけじゃなくて今回こそ実際にやることにしよう」みたいな調子にならざるを得なかったんだよ。っていうのも、今回フィーチャーしたゲストの多くとはかれこれ2年くらい前から「いっしょに音楽をやろう」と会話をつづけてきたわけだけど、(レコードを作りはじめた)去年の半ばくらいまで、実際は何も手をつけてこなかったから。

だからまあ……要は「ソウル」のある音楽ってことじゃない?

なかでもアントニー・へガティの名前ははじめ意外でした。彼女の新作でもあなたはトラックに参加しているそうですが、もともと彼女の音楽はお好きだったのでしょうか?

HM:うんうん、ずっと大好きだったよ。アントニーは……それこそ初めてあの声を耳にしたときから、僕はなんというか、声に驚嘆させられたっていう。で、おもしろいことに……僕は自分自身の音楽のなかにおいて、あのヴォーカル・サウンドをどうやったら活かせるだろう? ってふうに試したり実験してみたかったんだよね。そうしたらこれまたおもしろいことに、それと同じ頃にアントニーもまた、「もっとエレクトロニック寄りのプロダクションや、あるいはハウス・ミュージックで実験してみたい」という旨の話をしていて。うん、それってふたつにひとつというか、まったく悲惨な結果に、ぜんぜんうまくいかないことになる可能性もあっただろうけども、アントニーとのコラボレーションはいいものになってくれたと思ってる。アントニーのヴォイスのトーンやサウンドを自分の音楽的なスコープの範疇で使ってみるっていう、それは僕にとってはとにかく実験してみたい事柄だったし、かつ、それと同時にアントニーの側でもまた、僕がやっているようなタイプのサウンドにトライしてみたいという思いがあったっていう。だから、僕たちはじつは何曲もいっしょにやってみたし、アントニーの次のアルバムには僕の書いた曲もいくつか含まれることになっているんだよ。

アントニーもソウル・ミュージックをやってきたと言えますが、先行して公開された“ライダーズ”ではウォームなソウルのサンプリングが聴けますね。あなたにとってよいソウル・ミュージックというのはどういったものですか?

HM:うーん……それって言葉で説明するのはかなり難しいものだなあ……。だからまあ……要は「ソウル」のある音楽ってことじゃない? うん、ソウルだよね。ソウルがある音楽ってことだし、だからこそ、それを聴いた人間も聴いてすぐに内側で感じることができるものであるべきだし、たとえばあの曲――“ライダーズ”のサンプル箇所を僕が耳にした時だって、あのパートを5秒ほど聴いただけでもう、僕には「これだ! 100%間違いない、絶対にこのサンプルは使おう!」ってわかったっていう。っていうのも、聴いてたちどころにざわっと鳥肌が立ちはじめるとか、そういうリアクションを生むのがソウル・ミュージックなんじゃないかな。要するに、聴く人間の内面に、魂に反応を引き起こす音楽、というか(笑)。うん、僕なりに説明すればそういうことになるよ。

DJ mew - ele-king

ここ最近のbass music10選

bass musicのミックスCDリリースしましたので「ここ最近のbass music10選」です。
この10選に入っている曲もいくつか収録されているミックス"BANGER"発売中です。
気になった方はお近くのレコード屋さんなどで聴いてみて下さい!!!
取り扱い店舗などはこちらのブログからどうぞ。(随時更新中)
https://djmew.exblog.jp/21301999/

Satomimagae - ele-king

 うっとおしい梅雨ですが、曇った空や雨降りを味方につけてしまいそうな音楽もあります。しかも、日本のお寺でそれを聴くことは、
まるでトラベルマシンです。いつも利用している電車から降りて歩くいつもの風景だというのに、そこは異次元の入口です。
 昨年、USのグルーパーに匹敵する作品をリリースしたサトミマガエが、その作品『koko』のリリース・ライヴをやる。場所は、東京は大田区大森の成田山圓能寺。
 共演者は、ele-kingではお馴染みですよ。Family Basikの加藤りま、34423=ミヨシ・フミ、そして畠山地平伊達先生オピトープです。
 そう、これ、かなかり良いメンツなんですよ。しかも、何度も書いているように、お寺でのライヴは、本当に気持ちいいです。


■開催日時場所■
2015年7月4(土曜日)
open 15:30 / Start 16:00
入場料:AD:2,500 Door 3,000
会場:大森 成田山圓能寺 Ennouji (Omori St JR)
住所:東京都大田区山王1丁目6-30
1-6-30 Sannou Ota-Ku Tokyo
 JR京浜東北線大森駅北口(山王口)より徒歩3分
ホームページ https://ennoji.or.jp/index.html
(当イベントについて圓能寺へのお問い合わせはお控え下さい)


■前売り応募方法
下記メールアドレスまでお名前、人数を書いて、メールを送ってください。
katsunagamouri@gmail.com


■Live■
Satomimagae
加藤りま (Rima Kato)
34423
Opitope + 智聲(Chisei)


■Satomimagae
Satomimagae は1989年に生まれ、2003年から現在まで作曲を続けています。東京を中心に活動中です。2012年3月に初のアルバム「awa」をリリース、11月に映画「耳をかく女」の音楽担当。2014年12月にセカンド・アルバム『koko』をWhite Paddy Mountainよりリリース。現在精力的にライヴ活動を展開中。

■加藤りま Rima Kato
2009年よりライヴ活動を始める。ローファイ・ポップを通過しフリー・フォークを経たような哀愁を帯びながらも透明感のある歌声は、ぽつぽつと進むシンプルなアレンジの楽曲によって際立って響く。2010年ASUNA 主宰のカセット・テープ・レーベル WFTTapes から2本の作品をリリース。2012年同氏による3インチCDレーベル aotoao からミニ・アルバム 『Harmless』をリリース。2015年1月、フル・アルバム『faintly lit』をflauよりリリース。2月から5月にかけて日本各地、韓国と断続的に続いたツアーを無事終える。2014年11月に実兄とのユニット Family Basikのファースト・アルバム『A False Dawn And Posthumous Notoriety』をWhite Paddy Mountainよりリリースしている。

■34423
愛媛県出身、東京都在住のサウンドアーティスト。幼少より録音機器や楽器にふれ、音創りと空想が生活の一部となる。 切り取られた日常はサウンドコラージュによって独自のリズムを構築し、電子音に混ざり合い、より空間の広がりを感じさせる。 過去7枚の作品発表し、容姿と相対する硬派なサウンドと鮮烈なヴィジュアルイメージで注目を集め、2013年7月17日に待望の世界デビュー盤"Tough and Tender"(邂逅)をリリースし話題をさらった。その後も都内の大型フェスなどの参加や、ビジュアル面を一任するアートディレクターYU­KA TANAKAとのコラボ作を発表するなど勢力的に活動を重ね、2015年2月に最新作”Masquerade”(邂逅)をリリースした。
また、今夏上映、鈴木光司原作のホラー映画「アイズ」などをはじめ様々な映画の劇伴をつとめている。

■Opitope
Opitope は2002年の秋に伊達伯欣と畠山地平により結成。伊達伯欣はソロやILLUHA、Melodiaとして活動するほか、中村としまる、KenIkeda、坂本龍一、TaylorDeupreeとも共作を重ね、世界各国のレーベルから14枚のフルアルバムをリリース。 西洋医学・東洋医学を併用する医師でもある。漢方と食事と精神の指南書『からだとこころと環境』をele-king booksより発売。畠山地平はKranky、Room40, Home Normal, Own Records, Under The Spire, hibernate, Students Of Decayなど世界中のレーベルから現在にいたるまで多数の作品を発表。デジタルとアナログの機材を駆使したサウンドが構築する美しいアンビエント・ドローン作品が特徴。ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカ、韓国など世界中でツアーを敢行し、2013年にはレーベルWhite Paddy Mountainを設立。

OUTLOOK FESTIVAL 2015 JAPAN LAUNCH PARTY - ele-king

 夏に入る直前のなんとも言えないこの時期に、恐ろしいまでに最高な低音を浴びせてくれるOutlook Festival。あのサウンド・システムは健在のまま、今年は会場を新木場から渋谷の〈VISION〉に移しての今週末開催されます。過去に開催された日本独自のラインナップやサウンドクラッシュの組み合わせを見ていると、このOutlookが数少ない「日本でベースを鳴らす意味」を教えてくれるパーティだと実感します。そして何よりもベース・ミュージックの面白さに触れることができるまたとないチャンス。デイ・イベントなので普段はクラブへ行けない10代の君もこの機会を見逃さないでほしい。
 本場クロアチアでのOutlookにも出演しているPart2Style SOUNDやGoth-Trad。UKベースの生き字引Zed Bias、香港のDJ Saiyan、若手グライム・ユニットのDouble Clapperzなど、本文には書ききれないほどの重要プレイヤーが6月14日に渋谷を低音で揺らします。それでは当日、巨大なサブ・ウーファーの前でお会いしましょう!

OUTLOOK FESTIVAL 2015 JAPAN LAUNCH PARTY

開催日時:2015.6.14 (SUN)
開催時間 : 14:00 - 22:00
料金 : ADV 4,000 / DOOR 4,800
会場:SOUND MUSEUM VISION , Tokyo
www.vision-tokyo.com
03-5728-2824(SOUND MUSEUM VISION)
OUTLOOK FESTIVAL 2015 JAPAN LAUNCH PARTY WEB
https://outlookfestival.jp

出演:
ZED BIAS (from UK)
MC FOX (from UK)
IRATION STEPPAS (from UK)
Hi5ghost (from UK)
JONNY DUB (from UK)
CHAZBO (from UK)
PART2STYLE SOUND
KURANAKA a.k.a 1945 (Zettai-Mu)
GOTH-TRAD (Deep Medi Music/Back To Chill)
LEF!!! CREW!!! & BINGO (HABANERO POSSE)
$OYCEE(CE$+tofubeats)
BROKEN HAZE
BLOOD DUNZA (from HK)
CHANGSIE
CLOCK HAZARD
Cocktail Boyz (INSIDEMAN&KENKEN)
CRZKNY
DJ Doppelgenger
DJ DON
DJ Saiyan (from HK)
DJ Shimamura + MC STONE
DJ YAS
Double Clapperz
G.RINA
hyper juice
JA-GE
Jinmenusagi
KAN TAKAHIKO
KILLA
MAXTONE Hi-Fi
MIDNIGHT ROCK
MISOИКОВ QUITAВИЧ
NUMB'N'DUB
PARKGOLF
QUARTA330
RUMI
SHORT-ARROW & Ninety-U
SKY FISH + CHUCK MORIS
TAKASHI-MEN
環ROY
TREKKIE TRAX
Tribal Connection
VAR$VS
YOCO ORGAN
ZEN-LA-ROCK

:: SOUND CLASH ::
XXX$$$(XLII&DJ SARASA) vs
DJ BAKU vs
GRIME.JP

:: SOUND SYSTEM ::
eastaudio SOUNDSYSTEM
MAXTONE Hi-Fi

:: VJ ::
MYCOPLASMA ( TREKKIE TRAX )

:: 主催 ::
PART2STYLE with ZETTAI-MU

WHAT IS OUTLOOK???

OUTLOOK FESTIVALとは? 毎年9月にクロアチアで開催される世界最大の“ベース・ミュージックとサウンドシステム・カルチャー”のフェスティバルである。UKではフェスティバル・アワードなどを受賞する人気フェスで、オーディエンスが世界各地から集まり、400組以上のアクトが登場。このフェスのローンチ・パーティは、世界各国100都市近くのクラブ/パーティと連携して開催され、その中でも本場UKまで噂が轟いているのが、日本でのOUTLOOK FESTIVAL JAPAN LAUNCH PARTYである。 

OUTLOOK FESTIVAL JAPAN LAUNCH PARTYは 日本を代表するベース・ミュージックのプレイヤーが集結し、アジア最高峰のサウンドシステムでプレイする、いわばアジア最強のベース・ミュージックの祭典である。さらに世界中で話題沸騰中の「Red Bull Culture Clash」の日本版ともいえる「OUTLOOK.JP SOUNDCLASH」も見どころのひとつであり、他のクラブ・イベントでは見れない企画が満載。日曜の昼間から開催することで幅広い年齢層が集い、今回の開催地「SOUND MUSEUM VISION」はアクセスの良い渋谷にあり気軽に遊べる“アジア最強の都市型ベース・ミュージック・フェス”だ。

PART2STYLE SOUND

世界を暴れ回るベース・ミュージック・クルー = PART2STYLE SOUND。ダンスホール・レゲエのサウンドシステム・スタイルを軸に、ジャングル、グライム、ダブステップ、トラップ等ベース・ミュージック全般を幅広くプレイ。独自のセンスでチョイスし録られたスペシャル・ダブプレートや、エクスクルーシブな楽曲によるプレイも特徴のひとつである。2011年よりは、活動の拠点を海外にひろげ、ヨーロッパにおける数々の最重要ダンスはもちろん、ビッグ・フェスティバルでの活躍がきっかけとなり、ヨーロッパ・シーンで最も注目をあびる存在となっている。海外のレーベル(JAHTARI、MAFFI、DREADSQUAD等)からのリリースやセルフ・レーベ ル〈FUTURE RAGGA〉の楽曲は、ヨーロッパ各地で話題沸騰、数々のビッグ・サウンドやラジオでヘビープレイされ、世界中のダンスホール・セールス・チャートにてトップを飾った。2013年には、日本初のGRIMEプロデューサー・オンライン・サウンドクラッシュ<War Dub Japan Cup 2013>で見事優勝を勝ち取り、国内においてもその存在感を示した。

Goth-Trad

ミキシングを自在に操り、様々なアプローチでダンス・ミュージックを生み出すサウンド・オリジネイター。2001 年、秋本"Heavy"武士とともに REBEL FAMILIA を結成。ソロとしては、2003 年に 1st ア ルバム『GOTH-TRAD I』を発表。国内でソロ活動を本格的にスタートし積極的に海外ツアーを始め る。2005 年には 2nd アルバム『The Inverted Perspective』をリリース。同年 11 月には Mad Rave と 称した新たなダンス・ミュージックへのアプローチを打ち出し、3rd アルバム『Mad Raver's Dance Floor』を発表。ヨーロッパそして国内 8 都市でリリース・ツアーを行なう。このアルバムに収録され た「Back To Chill」が、ロンドンの DUBSTEP シーンで話題となり、2007 年に UK の SKUD BEAT か ら『Back To Chill EP』を、DEEP MEDi MUSIK から、12”『Cut End / Flags』をリリース。8 カ国に及ぶ ヨーロッパツアーの中では UK 最高峰のパーティーDMZ にライブセットで出演し、地元オーディエン スを沸かした。以降、国内外からリリースを続け、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア等、世界中 でコンスタントにツアーを重ねる中、2012 年にはアルバム『New Epoch』をリリースし Fuji Rock Fes 2012 に出演。2011 年~2014 年にかけては、欧米のビッグ・ フェスにも出演してきた。2006 年より開始した自身のパーティーBack To Chill は今年で 8 年を迎え、ついにレーベルを始動する!

Zed Bias

数知れずの謎めいた変名を駆使する90年代後半を引率した、 Zed Bias aka DAVE JONESの活動履歴はそのままUKのダンスカルチャーそのものといえる。 2000年にUKチャートに送り込んだ2STEPの金字塔を打ち立てた彼の作品が 世代をこえてその重要性を再定義したROSKAにリミックスで去年再リリースまでされた。そんなアンダーグラウンドダンスミュージックの先駆者は常に動きを止めない、自宅スタジオで作られたあらゆる名義のサウンドは常にBBC1のスターDJによりプレイリストに加えられ、KODE9、ONEMAN、BENGA、Plastician、そしてSkreamによって瞬く間に広がっていった。 2002年に、より実験性をもったサウンドを目指すMaddslinky名義アルバムではWill White(Propellerheads)Kaidi Tathem,Luca Roccatagliati等をフューチャーしたDUBSTEPの礎を築くサウンドを展開、また2010年にはMr Scruff、Skream、Genna G、Omar等をゲストに”Make a Change”を発表。ジャイルスピーターソンが選ぶワールドワイド・アワードで”Further Away”が3位に入るなど、常に実験性を保ちながらも、UKチャートに食い込むようなビッグチューンを送り込むバランス感覚の優れたプロデューサーである。


interview with Herbert - ele-king


Herbert
The Shakes

Accidental/ホステス

HouseTechnoAnti-Neoliberalism Pop

Amazon iTunes

 音楽で世界は変えられないがひとりひとりの意識は変えられるというのは、いわゆる紋切り型の、いろんな場面で使われる一般論となっている。言葉としては面白くないが、まあ、そんなもんかーと思ったりする。はい、その通り、と言うしかない。
 言葉として面白くないのは、シニカルなのか、あるいは未来への期待、音楽への夢を込めたものなのかどうなのか、本気で世界を変えたいと思っているのかどうかが実にアブストラクトな点にあるからだろう(まあ、そのすべてを包含しているのだろうけれど)。ひとつ言えるのは、そして誰も音楽は世界を変えるとは言わなくなったことだ。マシュー・ハーバートを除いては。
 
 ハーバートはUKのハウス/テクノのプロデューサーで、90年代半ばにデビューしている。彼のミニマルで軽快なテック・ハウスは、まだ彼が何者かよくわかっていない最初から人気だった。ポップで、実験的。DJもかけたし、家聴きの人にも誰からも愛されるダンス・トラックだった。
 早すぎた初来日時のライヴも楽しかった。鍋やらフライパンやら料理道具をその場で鳴らし、サンプリングし、そしてその場でループさせて曲を作ってくという無邪気なもので、まさかこの人がその数年後、鬼のような左翼ヴィジョンを展開することになるとは、当時はまったく思いも寄らなかった。ただの愉快な人だと思っていた。
 欧米のミュージシャンは、思い切り商業的なフォーマットに合わせてデビューして、作品数を重ねる毎に、より非商業的でより実験的な道に進みたがると言われるが(日本はその逆とも)、ハーバートはまさにその通りの歩みを見せているひとりである。
 2001年、ライヴ会場で無料配布されたレディオ・ボーイ名義の『The Mechanics Of Destruction』の曲名にはマクドナルドやGAPなどグローバル企業の名前、もしくは実業家、TVや石油など資本主義を象徴するものが付けられている。音はすべてそれら商品の音などから来ている。それがいったい何のためになるのかわからないが、彼はとにかくそれをやり、同じように2003年のビッグ・バンドによる『Goodbye Swingtime』でも、はっきりと彼の政治的な意見を挟み込んだ。(このビッグ・バンドによるライヴも最高に笑えるものだった。たとえば曲のブレイクで演奏者全員がポケットから新聞を出しては破り、そしてまた素知らぬ顔でジャズを演奏しはじめるなど、彼の批評精神は、ほとんどの場合、喜劇的に表出する)
 その後も食事文化の側から多国籍企業を批判した『プラット・ドゥ・ジュール』、豚の一生を描いた『ワン・ピッグ』などなど、執拗なまでにグローバリゼーション批判を続けている。たまたまこの1枚は政治的になったけれど、その次はいつものようにハッピーに……なんてことはこの男に限って言えばない。ただ、先述したように、彼の音楽にはコメディタッチがあるので、説教臭くなることはない。要するに、リスナーを硬直化させることがない。『ワン・ピッグ』のときのライヴも面白かったしね

 ハーバートの作曲の方法論として一貫してあるのは、ミュジーク・コンクレートだ。その手法を意識してハウス・ミュージックに活かしたのがまさにハーバートで、『アラウンド・ザ・ハウス』(1998年)と『ボディリー・ファンクションズ』(2001年)は彼のユニークな音作りがもっともポップに展開されたものとして記憶されている。前者はハウス、後者はジャズの響きを打ち出した、より振り幅の広いエレクトロニック・サウンド。どちらもいまだハーバートの代表作として聴かれ続けているが、新作の『ザ・シェイクス』は、洗練された『ボディリー・ファンクションズ』に近い。つまり、ハイブローとはいえ大衆音楽であり、入りやすいのだ。もちろん、そこには以下の取材で語られているような彼の考え方が、確固たる思いがある。そんなわけでぼくは彼の頑なさ,ブレのなさ、その理想に、あらためて触発されたのである。


それでも音楽に世のなかを変える力があるとまだ100%信じているからだよ。でなければ音楽をやめて政治家になっている。「どうして政治家にならないのか」と訊かれることも多い。なぜかというと、政治家は大勢いるけど、政治的なメッセージを訴えるミュージシャンはあまりいない。だから責任を感じるんだ。


最近の『ガーディアン』に掲載されたあなたの発言のなかの「music’s propensity to noodle inconclusively can seem unhelpful at best(不平等が前例のないほど極端になり、我々が作り出したシステムが育むのではなく破壊するためにあるとき、最善の状況でも音楽は最終的には助けにならないように思える)」という言葉が気になっています。ここにはある種の絶望が込められているのでしょうか?

ハーバート:おそらく絶望ではなく、世のなかを変えたいという欲求を音楽が失ったしまったことへの失望と、いまの多くの音楽、とりわけダンス・ミュージックが退屈に感じることのふたつが込められている。散々ダンス・ミュージックは聴いてきたから、どれも同じようにしか聴こえないんだよ。初めてダンス・ミュージックと出会った人にとっては退屈でないかもしれないけど、30年以上ハウスやテクノを聴いてきた身としては、新しいアイディアや驚きのなさを退屈に感じてしまう。だからあの発言の裏には失望と退屈のふたつが込められているんだと思うな。

あなたが言うように、現在の行きすぎた資本主義社会で、音楽が政治的な局面において「unhelpful(助けにならない)」であったとしても、あなたは音楽を続け、そこに政治的な主張、左翼的なヴィジョンを織り込み続けるわけですよね? 

ハーバート:ああ。

それはあなたにとってアンビヴァレンツな行為なのでしょうか?

ハーバート:それでも音楽に世のなかを変える力があるとまだ100%信じているからだよ。でなければ音楽をやめて政治家になっている。「どうして政治家にならないのか」と訊かれることも多い。なぜかというと、政治家は大勢いるけど、政治的なメッセージを訴えるミュージシャンはあまりいない。だから責任を感じるんだ。何か社会や政治的な問題について強く感じているものがあったら、それを音楽を通して表現する責任があると感じているんだよ。
 ぼくは音楽に物事を変える力があると確信している。実際それをこの目で見てきた。16歳のときにNWAの“Fuck The Police”を聴いたのをいまでも覚えている。「なんで警察をやっつけたいんだ?」って思ったんだ。当時僕は小さな村に住んでいて、その村の警察官が家の向かいに住んでいて、たまに彼が訪ねてきて、紅茶を一杯飲んでいくんだ。彼が友だちだったとは言わないけど、いわゆるご近所さんで、親しみやすい人で優しそうな人だった。だから「なんで彼をやっつけたいなんて思うんだ?」と僕は思った。でもあの曲を通して、アメリカに住む黒人の若者たちの現状がわかった。それまで全く縁のない世界だった。彼らのことをBBCや新聞がわざわざ取り上げるわけじゃない。彼らの声を聞かせるメディアがなかった。音楽を通して知ることができたんだ。そういう力が音楽にはまだあると思っている。

年々、状況は悪くなっているという感覚があるのですね? 

ハーバート:はははは。そうだね。世界の現状に強い失望、憤慨、不信感を抱いている。たとえば女性の権利が自国も含めて世界のいろいろな国で後退していると感じる。宗教と人種の隔たりがさらに広がっている地域もある。世界の多くの地域で状況は悪くなっていると感じる。
 もちろん良くなっている場所もあるけど、例えば二酸化炭素の排出量だけを見てみても、1990年に確か京都議定書が締結されたわけだけど、それ以降61%排出量が増えているんだ。我々は狂っているよ。減らすどころか、悪化の一途を辿っている。肉の消費量は増え、遠くへ移動する人も増え、消費も増え、世界は完全に間違った方向に進んでいる。状況は確実に悪くなっている。

たとえば、“strong”、“battle”とったシンプルで、暗喩的な言葉の曲名を用いて、資本主義の、とくにマッチョなところへの批評性を含んでいると受け止めてよろしいでしょうか?

ハーバート:僕がなぜ音楽を作るかというと……、そもそも自分が満たされて幸せだったら何か作る必要はないよね。僕にとって創造することはすなわち、世のなかで何かが間違っていると思うことだったり、何かを変えたい、解決したいという思いだったり、変化をもたらすきっかけになりたいという思いから生まれるんだ。僕にとって創造することはふたつのことを象徴している。この世のなかがきっと良くなると信じる楽観性と「こうあるべきだ」という世界に対する不満だ。その楽観と不満のふたつの組み合わせが僕を創造へと掻き立てるんだね。

あなたの音楽では、資本主義への批判は一貫しています。『The Mechanics Of Destruction 』や『Goodbye Swingtime』以降、ずっとあるものです。『The Shakes』は、政治的批評性という観点において、これまでの作品とどこが違うのでしょうか? あるいは同じようなことを、あなたは意識して言い続けているのでしょうか?

ハーバート:僕が伝えようとしていることは一貫していて、それは根本的不公正だ。僕が解せないのは、経済危機はリスクをいとわない経済界の行き過ぎた行為によって巻き起こされたにも関わらず、その尻拭いを庶民がしている。貧しい人たち、社会の弱者である障害者や老人、失業者がその代償を払っている。まるで手品だ。最悪の手品だ。僕はそういう不公正が一貫したテーマになっている。
 僕は恵まれた生活ができている。その恩恵には責任がついてくると思っている。その責任のひとつが、その恩恵を疑問視し、それが何によってもたらされているのか理解することだ。例えば自分が日常使っているものを中国の工場で製造してくれている労働者に感謝をしなければいけない。あるいは僕の携帯の部品のためにアフリカで採掘作業を行っている人たちかもしれない。そういう人たちの存在をきちんと把握し、自分の生活が当たり前のものだと思わない責任があると思っている。

サンプリング・ソースについて、あなたはつねにこだわりを持っていますが、今作の「音」も、それぞれに意味があるんだと思います。しかし、それはあなたの説明を得るまでは、リスナーにはわかりえないことだと思います。それでもあなたは音のソースにこだわるのは、音を資本主義から遠ざけることがいかに重要なのかという話だと思いますが、今作における音のソースについて説明お願いします。

ハーバート:僕としては、なんとなくポンペイをイメージしたんだ。ポンペイには実際行ったことがないんだけど、ポンペイに対する僕のイメージは「時間が止った場所」だ。ある時点から全てが止ったまま、という。僕のとってこのアルバムは自分のスタジオあるいは生活がある時点で止った状態なんだ。つまり、自分の身の回りにあるものだけを使って音を作っている。
 例えばゴミ箱や、子供の学校鞄。2014年夏のある一瞬を切り取ったものにしたかった。他のサウンドももちろん取り入れている。“Safty”では、イラクやイスラエルで実際に録られた銃弾や爆弾の音をebayで手に入れて使っている。あの曲は非常に具体的な物語を伝えている。でも他の曲は、身の回りにある無駄なものや消耗品を使っている。例えば食べ物の包装や洋服や家具とか。昨年僕のスタジオと家にあったもののカタログみたいさ。

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僕が解せないのは、経済危機はリスクをいとわない経済界の行き過ぎた行為によって巻き起こされたにも関わらず、その尻拭いを庶民がしていること。貧しい人たち、社会の弱者である障害者や老人、失業者がその代償を払っている。まるで手品だ。最悪のね。



Herbert
The Shakes

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今回はヴォーカリストを起用して、細部において実験的ではありますが、いろんなタイプのポップ・ソングをやっていると言えると思います。たとえば、“stop”で歌われている主語の「僕」は資本主義の奴隷となった「僕」だと思うのですが、これをディスコ調の曲の「ドント・ストップ」というクリシェに結びつけたり、曲調と言葉がコンセプチュアルに結びついていますよね。それは今回のアルバムのコンセプトとどのような関係にあるのでしょうか? それは、『Goodbye Swingtime』のように、政治的であることと同時に娯楽を意識したということとも違うアプローチですよね。より、メタフィジカルにアプローチしているように思いました。

ハーバート:このアルバムはよりエモーショナルな作品だから、例えば“stop”といった曲なんかは、よりパーソナルな視点から見た「誘惑」が枠組みとしてある。我々は常に誘惑に囲まれて生活している。店に入っても、そう。日本ではどうかわからないけど、こっちではちょっとした店に入るとまず目につくところに山のようにチョコレートが並べてある。身体に悪いものを買わせようといちばん目の着くところに置いてある。
 広告も至るところにある。最新型の車や魅力的な旅行先といった広告がね。こういった資本主義的構造のなかで我々は常時誘惑に曝されている。ものを買うように、と。我々が消費しなければ経済は成長しないからって。現行の政治体制ではそれが唯一の経済対策だから。消費者に消費を促すだけ。
 で、僕からすると、それに対する責任は僕たちの肩に乗っかってくる。チョコレートにしても車にしても「要らない」と言えばいいんだ。ドラッグに対しても、あと一杯のワインに対しても「要らない」と言えばんだ。この曲に限らず今作はそういう政治的な考え、政治的枠組みをより個人の立場で捉えている。

アンビエント調のトラックの、古めかしいバラード、“bed”は不思議な曲ですよね。この曲で歌われているのは、それこそあなたの失意のようなものですよね? いままで以上に、あなたの感傷的な、エモーションが表現されているようにも思うのですが、いかがでしょう?

ハーバート:たしかに今回はすごエモーショナルな作品だと思う。この前の一連の作品はドキュメンタリーの要素が強かった。特定の状況だったり、事実を物語に構築して伝えようとしていた。でも今回は、同じようなテーマを、感情の面から伝えたかった。ある事象に対する感情的な反応を表現している。腐敗した政権がこの国を治めていることや、大企業が力を持ち過ぎていることやこの国で税金を免除されていることだったり、いまの社会の仕組みを変えない限り地球の破滅に繫がることだったり。扱っているテーマやインスピレーションはこれまでと変わらない。ただ、ただより感情的な表現をしている、という。

日本では左翼的なものは弱体化していると言われているのですが、UKはいかがでしょう? あなたから見てUKの左翼的な動きは、この時代において、どのような状態にあるとと思われますか? 

ハーバート:可能性としては良くなる見通しだ。明後日に選挙が行われるんだけど、政党を跨がって左翼政治家達が新たに連立を組む可能性がある。それはいいことだと思う(※取材は選挙前にやった、実際の選挙ではご存じのように保守党が勝利)。
 ただ問題は、この国に住んでいない億万長者がメディアを支配していることで、彼らは商売に有利なように政治を影で動かしている。情報操作が蔓延っている。非常に憂鬱な状況だ。他にも問題はあって、それは「究極の中道主義」と呼べる考えだ。つまり緊縮財政を受け入れ、進歩的な政策を受け入れ、成長は必要だ言い、合理的に考えるべきだと言う。でもそうではない。我々にいま必要なのはまったく新しい社会構造であり、現状からの打破であり、革命が必要なんだ。遠慮がちで柔な代替案ではなく、変化を本当に生む為には強く自信に満ちた代替案が必要なんだ。

総選挙を前に、スコットランドのSNPが大躍進をしているそうですね。この事態をあなたはどう見ていますか?

ハーバート:非常に難しい問題で、スコットランドにとってはイギリスから独立することが正解だと思うんだけど、イギリス人としてはスコットランドが脱けてしまったら大惨事だ。イギリス人であることを放棄したいくらいだ。僕は隣人よりもイラクにいる人のほうがよほど共感できる。いまの隣人は右翼政党の議員なんだ。そんな隣人よりもブラジルの工場で働いている労働者のほうがよほど気が合うと思っている。国を細かく区切っていくという発想は理解できない。人びとがもっと混ざり合ってしかるべきだと思う。国境なんてそもそも後でとってつけたようなものなんだから。

“safety”は、あなたのダンス・カルチャーへの期待が感じられる曲だと思いました。階級のないナイトクラブ文化、ハウス・ミュージック、暗に公共圏を主張するレイヴ・カルチャーを政治的抗議運動へと発展させるためには、これまで何が足りていないのでしょうか?

ハーバート:新しいヴィジョンを明確に述べる牽引者がいないんだと思う。例えばクラブに行っても音楽を止めて演説をする人を見たことがないようね。それに「木曜日に選挙があるから絶対に投票に行くように」と促す人もいない。「同性愛者だろうと、白人だろうと黒人だろうと関係ない、それよりも重要なことがある。だからこの人に投票べきだ」ということを語る人がクラブに行ってもいない。ダンス・ミュージックとクラブ・カルチャーの問題は絶え間なく続くことで、音楽が止むことがほとんどない。
 僕たちがやらなければいけないことは、行間を読むことなんだ。政治というのはまさに行間で何が行われるかが鍵なんだ。政治家が語る言葉ではなく、その言葉と言葉の行間に本質が隠されている。僕からするとダンス・ミュージックはそういう行間を読むのがあまり得意ではないと感じる。

“silence”は、いま失われているものとして描かれています。敢えてそれを“silence”はという言葉にしているのは、リスナーに考えて欲しいからですよね?

ハーバート:リスナーは言われなくても考えていると思うし、自分のリスナーの実体も僕にはわからない。誰に向かって音楽を作っているのかって考えはじめたらきりがない。リスナーというひとつの塊があるわけじゃない。なかには取材をしたジャーナリストがいるかもしれないし、自分の祖父かもしれないし、音楽アカデミーの学識者かもしれないし、政治記者かもしれない。その中の誰に向けて音楽を作っているのか、正解なんてないんだ。だからリスナーに何かを求めることは敢えてしたくないんだ。

これだけ政治的なあなたが、しかし単純なプロテストを好まないのは、なぜでしょうか? 

ハーバート:ハハハハ。好まないわけじゃないよ。ただ、同じ問題でも解決策はいくつもなきゃいけないと思っている。問題があまりにも大きい分、解決法もたくさんなければいけない。

ちなみに、AnonymousとSleaford Modsとでは、あなたはAnonymousのほうに共感するのでしょうか?

ハーバート:はははは。なるほど(笑)。Sleaford Modsついてそこまで知識があるわけじゃないから、これには答えるのが難しい。

今作においても、曲順は重要ですが、“warm”〜“peak”という流れは、あなたなりに楽天的なエンディングなのでしょうか?

ハーバート:“warm”はすごく切羽詰まっていると思う。「世界が変わり果ててしまったため、君を守りたいんだけど、その術がない」と訴えている。すごく悲しいよね。“Peak”のほうは楽天的かもしれない。いまはSNSがあって、大企業に依存することなく、自分たちなりの生き方ができる。自分たちの想像力を使っていまある問題を解決するのも自分たち次第だ。
 僕も根は楽天的な人間だ。世界がどうしようもない状況だっていうのはわかっている。そんななかで、さっきも言ったように音楽を作るという行為は楽天的な思いから来ている。だから楽天的なエンディングにするのは大事だった。とくにこれまでの2作はすごくダークな内容だったから。良い方向に物事を変えていけるだろうという確信を今回最後に持ってくることが大事だった。

4年前にUKで起きた暴動に関してはいろいろな意見がありますが、あなたはあの暴動をどのように解釈しているのでしょうか? 

ハーバート:あの暴動がUK全体に与えた影響はさほど大きいものではなかったものの、暴動に参加した人たちやそのコミュニティーにとっては大きな出来事だった。彼らは経済的に貧しく、社会のなかで蔑ろにされてきた人たちだ。コミュニティーは昔からドラッグで溢れ、選挙法の制約で選挙権も剥奪されている。家賃の高騰で家を追い出されたり、酷い労働条件の仕事を課せられている。政府の対応は酷いものだった。ペットボトルの水を盗んだだけで投獄される人もいた。
 その一方で、経済を破綻させた張本人は銀行家たちは何のお咎めもなした。何百万ポンドも盗んでおいてだ。政府からも、年金生活者からも、庶民からも。社会の底辺にいる人たちが立ち上がったときの政府の対応を見ると、そういう社会の仕組みに蔓延る偽善が浮き彫りにされる。暴動に参加した全員が善人だとは言わない。けれども、根深いフラストレーションから起きたことはたしかで、彼らが抱える問題への軽視が生んだものだと思う。

最後に、あなたがいま読むべきだと思う本は?

ハーバート:ナオミ・クラインの『This Changes Everything(これは全てを変える:資本主義Vs気候)』という本があって、これはいま非常に重要な本だと思う。資本主義と環境問題をひとつの大きな問題として捉えていて、資本主義こそが環境破壊の根本的原因だと指摘している。どちらかの問題を解決することは、もう片方の問題の解決にも繫がると。これは非常に重要な本だ。
 もう一冊は音楽本で、『In Search of a Concrete Music(具体音楽の探求について)』というピエール・シェフェールの本で、最近また再版された。サウンドと音楽に関する非常に面白い本だよ。

interview with Bill Kouligas - ele-king


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 〈PAN〉がこの先〈WARP〉や〈MEGO〉のような、なかばカリスマ的な、エポックメイキングなレーベルになるのかどうはわからないが、そのもっとも近い場所にいることは間違いない。妥協を許さない冒険的な電子音楽、アートワークへのこだわり、そしてうるさ型リスナーへの信頼度もすでにある。うちで言えば、倉本諒、高橋勇人、三田格、デンシノオト、そしてワタクシ野田がレヴューを書いていることからも(この5人は、それぞれ趣味が違っている)、〈PAN〉がいかにポテンシャルを秘めたレーベルなのか察していただけるだろう。
 さて、6月13日の初来日を控えた、レーベルの主宰者ビル・コーリガスを話をお届けしよう。こういうのもアレだが、ハウスの次には必ずテクノが来る。ホリー・ハードン(Holly Herndon)は4ADに、パウウェルは〈XL〉に引っこ抜かれた。数ヶ月前までテクノを小馬鹿にしていた倉本も(本人に自覚があるかどうかはわからないけれど、ま、ライヴがんばれよー)いまではテクノである。ことさら煽るつもりはないのだけれど、時代は動いているってことです。

〈PAN〉にとってロンドンの滞在記はいちばん重要かもしれない。音楽とアートがとても強くて、その背景には何10年もの歴史がある。アンダーグランドはそのシーンに大きな役割を果たしていたし、そこから影響もどんどん受けて、素晴らしい人びとや音楽に出会えた。

ギリシアで生まれたあなたは、最初はデザインを学び、ヴィジュアル・アートの方面に進んだと聞きます。どのように実験音楽、アヴァンギャルド、エレクトロニック・ミュージックと出会ったのでしょうか?

ビル:はじめはバンドでドラムをやっていて、リスナーでもありプレイヤーでもあったね。その後電子楽器に切り替えて、実験音楽や電子音楽と呼ばれるようなタイプの音楽にハマっていった。キャバレ・ヴォルテール、23 スキドゥー、クローム、その他のパンク〜ニューウェイヴ /ポストパンク期に出て来た80年代の有名なバンドが好きになって、それが電子音楽、アヴァンギャルドやインプロヴィゼーションといった実験音楽の入り口になった。

ギリシャには何歳まで住んでいたのですか?

ビル:アテネに20歳まで住んでいてそれからロンドンに引っ越した。もう12年前の話になるね。

財政危機の緊張感は、あなたがギリシアに住んでいた頃からあったものだと思いますが、アテネにはどのようなカタチでアンダーグラウンド・シーンは存在しているのですか?

ビル:財政問題はずっとギリシャの中心にあって、この状況は何10年も前からある。いまとなってそのシステムが完全に崩れて、メディアが全面的に取り上げるようになった。その影響で不安、緊張、自暴自棄な雰囲気が人びとのあいだに充満していて、波紋のように広がり、文化や創造性の全てに反映している。多くの若者はそこから逃げ出そうとしているけどその問題と戦っている人もいる。たくさんのアートを生み出されているし、ユニークで結束力の強いアンダーグランドなシーンが形成されているけど、そういった活動やアーティストはギリシャ以外では全く知られていなくて、単純にシーンをサポートやプロモーションをしてくれるインフラが全くないんだよ。

あなたにとって、最初のもっとも大きな影響は何でしたか?

ビル:何がっていうのをひとつに絞るのは難しいけど、若い頃からバンドで演奏したり、友だちとアイデアや好きなものを交換していって、結果いま自分が信じてやっていることに影響を与えてきたと思う。

あなたが15歳ぐらいの頃からの付き合いだというジャー・モフ(Jar Moff)やムハンマド(Mohammad)のメンバーとは、どのように知り合ったのですか? アテネでは、アヴァンギャルドなシーンは活発だったのですか? 

ビル:そうだね。ジャー・モスとの付き合いはかなり長い。僕らは90年代の10代の頃にパンク・バンドをやっていて、ずっと友だちでもある。15年経ってまた音楽を一緒にやることになったわけだから、とても特別な関係だよね。
 ムハンマドはもうちょっと後で、彼らは10年くらい前から知っている。僕は彼らとライヴをいっぱいやってきたんだけど、ムハンマドのメンバーであるイオリス(ILIOS)のアルバムをレーベルの初期に出した。ギリシャのアヴァンギャルド・ミュージックはとても活気的だけど、小さなコミュニティで、けど大きさに関わらずその背景にある歴史はとても深くて、作曲家で名前をあげるならクリストウ(Christou)、ヤニス・クセナキス、 アネスティス・ロゴセティス(Anestis Logothetis)、ミカエル・アダミス,(Michael Adamis)とか、たくさんいる。

2000年代初頭、あなたはアートを学ぶためにロンドンに移住しましたよね。その頃、あなたが経験したロンドンのアンダーグラウンドなシーンについて話してもらえますか? 

ビル:〈PAN〉にとってロンドンの滞在記はいちばん重要かもしれない。音楽とアートがとても強くて、その背景には何10年もの歴史がある。アンダーグランドはそのシーンに大きな役割を果たしていたし、そこから影響もどんどん受けて、素晴らしい人びとや音楽に出会えた。電子音楽、ダンス・ミュージックはもちろんノイズ・シーンも当時は人気があったから、かなり初期の段階で深くシーンと関わっていたんだ。イヴェントをたくさん企画して、海外のアーティストのツアーを組んだり、ヨーロッパでは自分も一緒になってツアーをしたり、エキシビジョンのキュレーションもやっていたから、上昇していくシーンの一員となってアクティヴに活動していた。ヘルム(Helm)リー・ギャンブル(Lee Gamble)、ヒートシック(Heatsick)もそのシーンを通してロンドンで出会った最初のアーティストなんだ。それから一緒になって活動を続けている。

あなたがロンドンに住んでいた頃は、ダブステップやベース・ミュージックの人気がすごかったと思うのですが、当時あなたはロンドンのクラブ・カルチャーには関心がなかったんじゃないですか? あなたから見て、それは商業的に見えたからですか?

ビル:ダブステップ全体はとても面白かったし、活気に満ちていた。とくに初期はね。それから業界がコマーシャルなものにして、シーンをメインストリームにさせていったわけだど、僕がそこに参加することも夢中になることも難しかったね。本当に良いダブステップを完全に理解するにはすごく時間がかかった。最近だと初期のUKベース期からすごく良いものをどんどん発見してるよ。

日本でも決して有名とは言えないマージナル・コンソート(Marginal Consort)のような前衛的なコレクティヴと、あなたはどうして知り合ったのでしょう?

ビル:僕は日本のインプロや実験音楽の大ファンだからね。彼らは知っていた。小杉武久さんの作品はしっかりフォローしていたし、イースト・バイオニック・シンフォニア(East Bionic Symhonia/※70年代に小杉武久が主宰したグループ)というマージナル・コンソートの前身となったグループもよく聞いていた。2008年にグラスゴーのインスタル・フェスティバルに行ったとき、マージナル・コンソートが初めてヨーロッパで演奏した。自分が見て来たライヴのなかでも格段に印象的で頭に残るユニークな体験だったね。
 その後オーガナイザーのBarry Essonとコンタクトを取って、ゆっくりと時間をかけて最後にはリリースすることができたし、その2年後に彼らをまたヨーロッパに連れて来れる機会が出来て、南ロンドンのギャラリーでライヴをやって貰った。あのリリースは自分にとってたくさんの意味があって、形にするのに時間がかかったから尚更だね。

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とくにノイズやテクノをリリースするためにレーベルをはじめたわけでなく、新しく出て来る“重要”なシーンをドキュメントにするためにレーベルをはじめたんだ。

2009年にベルリンに住む決意をした理由を教えて下さい。

ビル:ベルリンに移ったのは単純に生活しやすいからね。よりクリエイティヴなプロジェクトに集中できるし、家賃も生活のコストもかからないからベルリンは楽だよ。大きな部屋でも借りれるし、そこにスタジオを作れる、そういった環境が揃っているから多くのアーティストが引っ越すんじゃないかな。余裕ができたおかげで個人的にも自分のペースやちゃんとした生活をここで見つけられたし、とにかくベルリンは住みやすいということに限るね。
 あとベルリンを拠点にしたということで、〈PAN〉はその音楽シーンにある多国籍で実験的な部分を反映し、上手く入り込めたと思う。このユニークな環境はよく知られているけれど、この都市はクリエイティヴなリスクを取れるし、実験したいことを育てることができるんだ。〈PAN〉の役割はその育んできた実験を幅広いインターナショナルなシーンに繋げることでもある。

レーベルの拠点をロンドンやアテネやニューヨークにしなかったのは何故ですか?

ビル:レーベルは、実際は2008年にロンドンでスタートして、自分が引っ越したからいまのベルリンになった。

〈PAN〉に関してですが、最初は、ファミリー・バトル・スネーク(Family Battle Snake)の作品を出すためにレーベルをはじめたのでしょうか? それともレーベルとしてのヴィジョンが最初からあったのですか?

ビル:レーベルはファミリー・バトル・スネーク(Family Battle Snake)とAstro (Hiroshi Hasewaga)のスプリットLPを出すところから元々ははじまっていて、とくに何かそれ以上のヴィジョンや大きなアイデアがあったわけじゃない。はじめてみたらとても面白くて、他のアーティストと一緒に作るのが好きだったから、自然にレーベルが軌道に乗って、いまのようにどんどんリリースできるようになっていった。

CDではなくヴァイナルでリリースするというレーベルのポリシーはどうして生まれたのですか?

ビル:全くポリシーはない。はじめた当時はCDが全く売れなくなってアナログが戻って来た時期だったから。去年からヴァイナルとCD、デジタルも出してるよ。

ラシャド・ベッカー(Rashad Becker)やNHK'Koyxeиらとはベルリンで出会ったと思います。ラシャド・ベッカーはハードワックス(※ベルリンの有名なレコ屋)を通じてなんでしょうが、NHKコーヘイとはどんな風に知り合ったのでしょう?

ビル:ラシャドはベルリンで10年前に会った。僕が演奏しているアルバムをプロデュースしているときときだね。そのときはまだロンドンに住んでいたんだけど、2週間くらいラシャドのスタジオでレコーディングのためにベルリンに滞在していた。それから近い友だちになってレーベルの立ち上げ時からアドヴァイスを貰ったり、いろいろ助けて貰った。コーヘイはラシャドの友だちで、自分のベルリンにいる友だちの友だちでもあったんだ。同じグループにみんないたから、近しい関係になってアルバムを出すことになった。

NHKコーヘイがそうですが、最初、彼はより実験的な音響を持っていましたが、2012年の「Dance Classics Vol.I」を契機にダンス・ミュージックへとシフトしていきました。何故彼に「ダンス」というコンセプトを与えたのでしょう?

ビル:それはちょっと事情が違っている。彼はすでにその作品にとりかかっていて、僕はそれがすごく気に入った。そのとき彼はベルリンにいたからよく会っていたし、新しい作品も全てチェックしていた。彼は僕の知っているアーティストのなかでも抜群に才能のある多作家だね。

〈PAN〉は2012年以降、リー・ギャンブル(Lee Gamble)やメッシュ(M.E.S.H.)のように、実験的ではあるもののダンス・サウンドを持っている作品を出すようになります。あなたのなかにどんな変化があったのでしょうか?

ビル:僕はカルチャーが生み出す独自の空間に影響受けることに興味がある。どういったことが自分のまわりで起きていて、それがどう自分に作用するのか。ベルリンではそれがすべてエレクトロニック・ダンス・ミュージックなんだ。とてもシーンが大きい。ロンドンはロンドンで独自のシーンがあって、ニューヨークもまた別のシーンがある。自分が惹かれているものを探し出して、それを混ぜ合わせることが重要だと思っている。

ちなみにレーベルで最初にヒットしたのは、リー・ギャンブルの「Dutch Tvashar Plumes」ですか? 

ビル:リー・ギャンブルの『Diversions 1994-1996』とキース・フラートン(Keith Fullerton)の『Whitman's Disingenuity』は初期のリリースで、シーンをクロスして評価された作品だね。オーディエンスやプレスからそういった反応があったことはありがたい。けどそれはそれで、僕は自分がリリースしてきたものすべてが公平に大好きだよ。

あなたは、ジェフ・ミルズやサージョンは好きですか? もしそうなら、彼らのどんなところに惹かれるのですか?

ビル:もちろんふたりとも尊敬している。ジェフ・ミルズはどの時代であっても大きな影響を受けていて、一番最近だと彼の「Sleeper Wakes」シリーズは相当ハマったね。

デトロイト・テクノからの影響について話してもらえますか?

ビル:テレンス・ディクソン(Terrence Dixon)とアンソニー・シェイク・シェイカー(Anthony Shake Shakir)は最高だね。

メッシュの作品にリミキサーとしてロゴス(Logos)も参加しているように、あなたはUKのグライムを好きだと思いますが、とくにあなたが評価している人は誰でしょう?

ビル:初期のころからグライムの大ファンだよ。新しいアーティストでいったらヴィジョ二スト(Visionist)がずば抜けている。彼は新しいグライムのシーンから出てきて作品はもちろんその影響が大きいんだけど、それと切り離して自分自身のサウンドを作っているね。とても面白いアルバムがもうすぐ出せると思う。

ここ最近もアフリカ・サイエンシーズ(Afrikan Sciences)やオブジェクト(Objekt)などユニークなアーティストの作品を出していますが、リリースするにいたる基準について教えて下さい。

ビル:僕は発端という点で音楽と深く関わっているわけで、それは直感ではなく、どうやって個々のアイデアが形になるかを見ていく場所にいるような感じかな。〈PAN〉のすべてのリリースはフィジカルな場所で起きているものが形になってでき上った結果のようなもので、もしそのレヴェルで音楽を見ていれば、コンセプトやコンテキストという点でも、〈PAN〉が形成されていく過程は首尾一貫していてロジカルであるとわかると思う。とくにノイズやテクノをリリースするためにレーベルをはじめたわけでなく、新しく出て来る“重要”なシーンをドキュメントにするためにレーベルをはじめたんだ。

イルなラッパーとして知られるスペクター(Spectre)のリリースにも驚いたのですが、これはコーヘイ(※Sensational名義のプロジェクト)繋がりなのでしょうか? それともあなたにとって彼は影響のひとつだったのでしょうか?

ビル:いや、もともと〈WordSound〉の古くからのファンで、長いあいだレーベルをフォローしてた。あのテープはずっと持っていて、去年久しぶりに聴いたときに、ふとオーナーのスキッズにコンタクトをとってライナーを付けてマスタリングをして、ちゃんとレコードで再発しないかと話を持ちかけたら、彼は気に入ってくれて直ぐに出すことになった。

こんどリリースされるTCFについてのコメントをお願いします。

ビル:TCFはアカデミックなアーティストで、レーベルのこれからの発展にとって大きな鍵となる存在だね。彼のライヴとリリースはサウンドだけでなく、テキスト、ヴィジュアル/イメージ、映画といったさまざまなとKろに関わるだろうし、またそれらがすべて繋がった面白いことになると思う。

NHKやマージナル・コンソートのような日本人アーティストの作品を出していますが、今後、リリースしてみたいと考えている日本人アーティストはいますか?

ビル:もちろん! 日本のツアーで新しい人たちと出会えることが楽しみだね。

今週の初来日への抱負をお聞かせ下さい。

ビル:このツアーを実現してくれた全ての関係者と〈melting bot〉に感謝します。初めて行くところだから本当に楽しみでしょうがない。いろんな人に来て貰いたいし、僕らが発表するものにどんな形でも関わってくれたらうれしい。



PAN Japanツアー日程

experimental rooms #19 Lee Gamble
6.10 WED at Golden Pigs Yellow Stage 新潟
ADV 3,000 yen / Door 3,500 yen
OPEN / START 19:30
出演 : Lee Gamble, I Wonder When It Will End, Jacob

goat presents PAN SHOWCASE IN OSAKA
6.12 FRI at Conpass 大阪
ADV 3,500 yen / Door 4,000 yen
OPEN / START 17:30
出演 : Bill Kouligas, Lee Gamble, M.E.S.H., TCF, goat, Ryo Murakami, Yosuke Yukimatsu

PAN Japan Showcase
6.13 SAT at LIQUIDROOM 東京
ADV 4,000 yen / Door 4,500 yen
OPEN / START 23:30
出演 : Bill Kouligas, Lee Gamble, M.E.S.H., TCF, Soichi Terada, DJ Sufflemaster, Compuma, Chis SSG, ENA, D.J. Fulltono, goat, DREAMPV$HER, Madegg + Shun Ishizuka, セーラーかんな子, MARI SAKURAI

total Info:
https://meltingbot.net/event/pan-japan-showcase-bill-kouligas-lee-gamble-m-e-s-h/

 「ブラインド・ジョー・デス」とは2001年に他界したギタリスト、ジョン・フェイヒー(と映画ではこの表記を使っているので、ここではこう記す)の異名であり、彼はこの名を彼の好きなブラインド・ウィリー・ジョンスン、ブラインド・ボーイ・フォー、ブラインド・ジョージ・ハガートといった戦前の盲目のブルースマンたちに借り受けた、と作中、そのコメントを引用している。

 とはいえ、フェイヒーがブルースに関心をもったのは後年で、日本が敗戦を迎えたいまから70年前に、メリーランド州タコマパークに移り住んだ彼が音楽にめざめたきかっけはカントリーやブルーグラスだった。カントリーウェスタンを演奏する子がたくさんいたからね。それがやがて南部に傾倒したのは、ギターという楽器の欲望にしたがったのか、指が求めたのか、いずれにせよ、フェイヒーの遍歴に筋道はなく、彼が設立し、インディペンデント・レーベルの嚆矢とみなされることも多い〈タコマ・レーベル〉にせよ、すくなくともビジネス的な展望によるものではないことは、別エレ『ジム・オルーク完全読本』に再録したジムとフェイヒーの対談でもあきらかである。というより、なまなかな理路に沿わないことがジョン・フェイヒーの存在をナゾめいたものにした一因であり、『ブラインド・ジョー・デスを探して』では、ピート・タウンゼント、ステファン・グロスマン、キャレキシコのジョーイ・バーンズ、ノー・ネック・ブルース・バンドのキース・コノリーら、世代も音楽性も異にするミュージシャンやジャーナリスト、レーベル関係者がフェイヒーとの逸話や魅力を語るのだが、語るほどに実体をベールがつつむように感じさせるのは、カントリー、ブルース、バルトーク・ベラやチャールズ・アイヴズやハリー・パーチなどの現代音楽からノイズにいたる音楽史を横たえた、生き馬の目を抜く都会と生き馬くらいしかいない田舎からなるアメリカのフォークロアを、フェイヒーは体現するからなのかもしれない。

 望むと望まざるとにかかわらず、ナゾは奥深く、いまだ解けない。私はジョン・フェイヒーは彼が自身をなぞらえた旧約聖書中の亀よりもそれはゼノンのいうアキレスと亀にちかいと思う。ひとつのパラドックスであり、聴く者にパララックスを求める。このたびの『ブラインド・ジョー・デスを探して』上映+ライヴはその掟の門の前に私たちを運んでくれることでしょう。(松村正人)

■ブラインド・ジョー・デスを探して ジョン・フェイヒーの物語

会場:渋谷UPLINK

6月13日(土) 15:30開場 / 15:45開演(17:45頃終演予定)
トーク+上映(出演:ジェイムス・カリンガム監督+湯浅学+樋口泰人)
予約¥1,800 / 当日¥2,300(共に1ドリンク¥500別)

6月14日(日) 16:00開場 / 16:30開演(18:30頃終演予定)
LIVE+上映(出演:ダスティン・ウォング)
予約¥2,500 / 当日¥3,000(共に1ドリンク¥500別)

6月14日(日) 19:30開場/20:00開演(22:15頃終演予定)
LIVE+上映(出演:武末亮、牧野琢磨)
予約¥2,500 / 当日¥3,000(共に1ドリンク¥500別)

6月15日(月) 19:00開場/19:30開演(22:00頃終演予定)
LIVE(出演:ジム・オルーク)+上映+トーク(出演:ジェイムス・カリンガム監督)
予約¥2,500 / 当日¥3,000(共に1ドリンク¥500別)

※ご予約はUPLINKのHP(https://www.uplink.co.jp/)よりお願いします

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