Home > Interviews > interview with Bill Kouligas - テクノとノイズ、いまこの瞬間の実験
Lee Gamble Koch PAN / melting bot |
M.E.S.H. Scythians PAN / melting bot |
Object Flatland PAN / melting bot |
〈PAN〉がこの先〈WARP〉や〈MEGO〉のような、なかばカリスマ的な、エポックメイキングなレーベルになるのかどうはわからないが、そのもっとも近い場所にいることは間違いない。妥協を許さない冒険的な電子音楽、アートワークへのこだわり、そしてうるさ型リスナーへの信頼度もすでにある。うちで言えば、倉本諒、高橋勇人、三田格、デンシノオト、そしてワタクシ野田がレヴューを書いていることからも(この5人は、それぞれ趣味が違っている)、〈PAN〉がいかにポテンシャルを秘めたレーベルなのか察していただけるだろう。
さて、6月13日の初来日を控えた、レーベルの主宰者ビル・コーリガスを話をお届けしよう。こういうのもアレだが、ハウスの次には必ずテクノが来る。ホリー・ハードン(Holly Herndon)は4ADに、パウウェルは〈XL〉に引っこ抜かれた。数ヶ月前までテクノを小馬鹿にしていた倉本も(本人に自覚があるかどうかはわからないけれど、ま、ライヴがんばれよー)いまではテクノである。ことさら煽るつもりはないのだけれど、時代は動いているってことです。
〈PAN〉にとってロンドンの滞在記はいちばん重要かもしれない。音楽とアートがとても強くて、その背景には何10年もの歴史がある。アンダーグランドはそのシーンに大きな役割を果たしていたし、そこから影響もどんどん受けて、素晴らしい人びとや音楽に出会えた。
■ギリシアで生まれたあなたは、最初はデザインを学び、ヴィジュアル・アートの方面に進んだと聞きます。どのように実験音楽、アヴァンギャルド、エレクトロニック・ミュージックと出会ったのでしょうか?
ビル:はじめはバンドでドラムをやっていて、リスナーでもありプレイヤーでもあったね。その後電子楽器に切り替えて、実験音楽や電子音楽と呼ばれるようなタイプの音楽にハマっていった。キャバレ・ヴォルテール、23 スキドゥー、クローム、その他のパンク〜ニューウェイヴ /ポストパンク期に出て来た80年代の有名なバンドが好きになって、それが電子音楽、アヴァンギャルドやインプロヴィゼーションといった実験音楽の入り口になった。
■ギリシャには何歳まで住んでいたのですか?
ビル:アテネに20歳まで住んでいてそれからロンドンに引っ越した。もう12年前の話になるね。
■財政危機の緊張感は、あなたがギリシアに住んでいた頃からあったものだと思いますが、アテネにはどのようなカタチでアンダーグラウンド・シーンは存在しているのですか?
ビル:財政問題はずっとギリシャの中心にあって、この状況は何10年も前からある。いまとなってそのシステムが完全に崩れて、メディアが全面的に取り上げるようになった。その影響で不安、緊張、自暴自棄な雰囲気が人びとのあいだに充満していて、波紋のように広がり、文化や創造性の全てに反映している。多くの若者はそこから逃げ出そうとしているけどその問題と戦っている人もいる。たくさんのアートを生み出されているし、ユニークで結束力の強いアンダーグランドなシーンが形成されているけど、そういった活動やアーティストはギリシャ以外では全く知られていなくて、単純にシーンをサポートやプロモーションをしてくれるインフラが全くないんだよ。
■あなたにとって、最初のもっとも大きな影響は何でしたか?
ビル:何がっていうのをひとつに絞るのは難しいけど、若い頃からバンドで演奏したり、友だちとアイデアや好きなものを交換していって、結果いま自分が信じてやっていることに影響を与えてきたと思う。
■あなたが15歳ぐらいの頃からの付き合いだというジャー・モフ(Jar Moff)やムハンマド(Mohammad)のメンバーとは、どのように知り合ったのですか? アテネでは、アヴァンギャルドなシーンは活発だったのですか?
ビル:そうだね。ジャー・モスとの付き合いはかなり長い。僕らは90年代の10代の頃にパンク・バンドをやっていて、ずっと友だちでもある。15年経ってまた音楽を一緒にやることになったわけだから、とても特別な関係だよね。
ムハンマドはもうちょっと後で、彼らは10年くらい前から知っている。僕は彼らとライヴをいっぱいやってきたんだけど、ムハンマドのメンバーであるイオリス(ILIOS)のアルバムをレーベルの初期に出した。ギリシャのアヴァンギャルド・ミュージックはとても活気的だけど、小さなコミュニティで、けど大きさに関わらずその背景にある歴史はとても深くて、作曲家で名前をあげるならクリストウ(Christou)、ヤニス・クセナキス、 アネスティス・ロゴセティス(Anestis Logothetis)、ミカエル・アダミス,(Michael Adamis)とか、たくさんいる。
■2000年代初頭、あなたはアートを学ぶためにロンドンに移住しましたよね。その頃、あなたが経験したロンドンのアンダーグラウンドなシーンについて話してもらえますか?
ビル:〈PAN〉にとってロンドンの滞在記はいちばん重要かもしれない。音楽とアートがとても強くて、その背景には何10年もの歴史がある。アンダーグランドはそのシーンに大きな役割を果たしていたし、そこから影響もどんどん受けて、素晴らしい人びとや音楽に出会えた。電子音楽、ダンス・ミュージックはもちろんノイズ・シーンも当時は人気があったから、かなり初期の段階で深くシーンと関わっていたんだ。イヴェントをたくさん企画して、海外のアーティストのツアーを組んだり、ヨーロッパでは自分も一緒になってツアーをしたり、エキシビジョンのキュレーションもやっていたから、上昇していくシーンの一員となってアクティヴに活動していた。ヘルム(Helm)、リー・ギャンブル(Lee Gamble)、ヒートシック(Heatsick)もそのシーンを通してロンドンで出会った最初のアーティストなんだ。それから一緒になって活動を続けている。
■あなたがロンドンに住んでいた頃は、ダブステップやベース・ミュージックの人気がすごかったと思うのですが、当時あなたはロンドンのクラブ・カルチャーには関心がなかったんじゃないですか? あなたから見て、それは商業的に見えたからですか?
ビル:ダブステップ全体はとても面白かったし、活気に満ちていた。とくに初期はね。それから業界がコマーシャルなものにして、シーンをメインストリームにさせていったわけだど、僕がそこに参加することも夢中になることも難しかったね。本当に良いダブステップを完全に理解するにはすごく時間がかかった。最近だと初期のUKベース期からすごく良いものをどんどん発見してるよ。
■日本でも決して有名とは言えないマージナル・コンソート(Marginal Consort)のような前衛的なコレクティヴと、あなたはどうして知り合ったのでしょう?
ビル:僕は日本のインプロや実験音楽の大ファンだからね。彼らは知っていた。小杉武久さんの作品はしっかりフォローしていたし、イースト・バイオニック・シンフォニア(East Bionic Symhonia/※70年代に小杉武久が主宰したグループ)というマージナル・コンソートの前身となったグループもよく聞いていた。2008年にグラスゴーのインスタル・フェスティバルに行ったとき、マージナル・コンソートが初めてヨーロッパで演奏した。自分が見て来たライヴのなかでも格段に印象的で頭に残るユニークな体験だったね。
その後オーガナイザーのBarry Essonとコンタクトを取って、ゆっくりと時間をかけて最後にはリリースすることができたし、その2年後に彼らをまたヨーロッパに連れて来れる機会が出来て、南ロンドンのギャラリーでライヴをやって貰った。あのリリースは自分にとってたくさんの意味があって、形にするのに時間がかかったから尚更だね。
質問:野田努(2015年6月09日)
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