年明けからほどない1月7日夜、シンガーソングライターの南正人氏が亡くなられた。facebookの公式アカウントにご子息泰人氏がよせた動画内の説明によれば、横浜のライヴハウスでの演奏中、2曲目の途中でハーモニカを交換しようと椅子にすわりなおしたさい倒れ、バンドメンバーとしてドラムを叩いていた泰人氏の腕のなかで帰らぬひととなったという。直後からネットにも舞台で息をひきとった南氏をさして音楽家冥利につきるとする投稿も散見できたが、私は自由な反骨のひとがまたひとり、音楽の場を離れることに下唇を噛む思いだった。いや南氏の場合、「離れた」というより「旅立った」というべきかもしれない。なんとなれば、本邦音楽史彼ほど旅を愛し、愛された音楽家はいないからである。
南正人は終戦の1年前の1944年のひな祭りの日に杉並区阿佐ヶ谷で産声をあげた。中学、高校と順調な学生生活をおくるも、東京外語大のスペイン語学科に入学したころには身中に眠っていた旅への思いやみがたく、大学を休学した南は日本を飛び出したのが1965年あたり。前年の10月10日に東京ではオリンピックが開催し、さらにさかのぼること半年前の4月1日には渡航制限の緩和により海外旅行も自由化していた。すなわち南正人はみずからの目と足と意思で世界をみてまわった最初の世代だったのである。南北アメリカ大陸から欧州をめぐった旅をきりあげ帰国したのは1967年ごろ。滞在先のニューヨークではディランらピート・シーガーらのフォークを知り、大学を卒業するころにはギター片手に人前で歌いはじめていたという。68、69年の時代状況を背景にフォークは政治性と密接だったが、南の歌は直截的なプロテスト・ソングともちがう肌合いだったのは69年のデビュー・シングルのA面の “ジャン” に明らかである。無法と無情の物語を描き、等身大の心情吐露を述べるでも共感による結びつきをもとめるでもない “ジャン” は60年代当時、アンダーグラウンドを約めたアングラの呼び名でとおったオルタナティヴなフォーク・シンガーたちの歌でもどこか毛色のちがうものだった。じっさい南正人はこの時期、高田渡、遠藤賢司、のちに翻訳家に転身し多くの海外文学を日本に紹介する真崎義博らで結成したアゴラの一員として関西フォークキャンプなどにも参加したが、〈URC〉から次々とアルバムを世に問う高田、遠藤を尻目に、南はふたりのあとを追うことはなかった。手近の『G-Modern』1999年の20号のインタヴューによれば、〈URC〉に商業主義のにおいを感じたというのがいかにもこのひとらしいが、しんがりをつとめるかのようにファースト・アルバム『回帰線』を〈RCA〉からリリースしたのは1971年。このレコードと2年後の『南正人ファーストアルバム』(〈RCA〉)2作をさして南の代表作とみなすファンは少なくない。
細野晴臣、林立夫のリズムセクションに六文銭の石川鷹彦らが参加した前者のおさめる楽曲の基調はフォーク~ロックでブルージーな南の歌声とハードボイルドタッチなことばが加わった途端、サイケデリックな空間がひらけくる。真っ黒な汽車を語り手に歌いはじめる “Train Blue”、歌い手のみならず聴くものの来し方を彷彿させる “こんなに遠くまで”、“愛の絆” “青い面影” などにつづく後半では苦いラヴ・ソングが耳を惹くが、それらはやがて具体的な対象をもたず、無償の愛というより愛の象徴を歌い上げる終曲 “果てしない流れに咲く胸いっぱいの愛” の渦巻く混沌にのみこまれ幕を引く。この曲には裸のラリーズの水谷孝が客演しており、“ヘイ・ジュード” 風のリフレインに突入する後半で水谷がファズを踏み込むと同時に全体のタガは外れた具合になる。細野と水谷という本邦ロック史の両極ともいえるふたりが同居する楽曲のフェイドアウトはまことに惜しいが、私どもはこれが記録にのこったことを言祝ぐべきか。それもこれも南正人の存在あったればこそ。南正人は功績に比して作品数こそ多くはないが、黎明期から今日にいたる日本のロックの重要な局面にかかわり、幅広い人脈を交通させる媒介の役割も担っていた。
先にあげた水谷孝は73年のオムニバス『Oz Days Live』でも南と一緒になっている。70年代初頭のアンダーグラウンドなロックのドキュメントの風合いもあるこの2枚組のレコードは吉祥寺のロック喫茶OZの閉店を惜しみ制作した記念盤で、南のほかに裸のラリーズ、タージマハル旅行団からアシッドセブンや都おちなどをおさめている。南はここで『回帰線』から “愛の絆” や “夜をくぐり抜けるまで”、ディランとバンドの持ち歌 “I Shall Be Released” のカヴァーなどを披露し、名実ともに終の住処となったライヴという場での躍動ぶりを印象づけている。また『Oz Days Live』の出た73年は2作目にあたる『南正人ファーストアルバム』のリリース年でもあった。2作目なのにファーストなのは『回帰線』のリリース後に八王子の山に入り友人たちとの共同生活をおくったことで生まれ変わったということらしい。アルバムの録音も当地で演奏家をよびよせおこなった。メンバーは前作にも参加した細野、林に加え、鈴木茂と松任谷正隆、すなわちキャラメル・ママであり、その点では同年の荒井由実の『ひこうき雲』や吉田美奈子の『扉の冬』と『南正人ファーストアルバム』は遠い縁戚関係ともいえるが、中身と外見で一脈通じるのは同年同レーベル(〈ベルウッド〉)の『HOSONO HOUSE』のバックトゥカントリー感覚であろう。細野氏の名演は数多あれど、僭越ながら、音色ではリック・ダンコとチャック・レイニーが背中合わせになったようなこの時期が最高だと思う私としてはこの2作はあわせてお聴きいただきたい。むろんそこにはベアズヴィルないしウッドストックのニュアンスが篭もり、それらは『回帰線』のニューロック感覚とも異同があるが、米国を発祥とする対抗文化がわが国へ土着化する過程で必然的に土のにおいをたかめていく過程を記録した趣もある。
その後も、南正人は独立独歩のひととして音楽史を歩みつづけた。前例のない試みをつづけるなかでときに沈黙におちいっても、同伴者があらわれ、なににも似ていない人柄のつまった音を私たちにとどけてきた。昔なじみの浅川マキが音頭をとり、79年の『Lady Let Me Go』以来10年ぶりのアルバムとなった『スタートアゲイン』では柴田浩や白井幹夫などからなるリヴァーがおおらかに脇をかためていたし、93年に不破大輔、川下直広、大沼志朗のフェダインと、加藤崇之とジョイントし彼らの活動拠点だった〈ナツメグ〉から出した『Joint』なども、私はこの時期にナミさんの歌をナマではじめて聴いたので思い入れもひとしおである。
世紀の変わり目にもラリーズの高橋ヨーカイをふくむ布陣で〈キャプテン・トリップ〉から『馬尾・馬尾』をとどけ、衰えるどころか鈍色の光沢をますばかりのその歌声を耳にするにつけ、最長不倒距離はのびつづけるかにみえただけに、逝去の報は残念でならないが、南正人ののこした歌の数々はプレイヤーのスタートボタンを押すたび何度でもよみがえるだろう、まるではじめてのように訪れるだろう。
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まさに名は体を表す、そんな鋭利な刺激、そして躍動感に満ちたグルーヴに貫かれた、現行ベース・ミュージック~テクノの先鋭的なコンピといえるだろう。本作はブリストル出身のアーティスト、Batu 主宰の〈Timedance〉のレーベル・コンピで、コンピ・リリースは2018年の『Patina Echoes』から2作目となる。また本作はレーベル設立5周年目を象徴する、節目の作品でもあるようだ。収録曲に関してはアナログは8曲入りの2枚組LPと4曲入りのサンプラーEPで構成、デジタルのアルバムは両方の収録曲を合わせた形でリリースされている。LPには冒頭の Kit Seymour を除いて、Batu、Ploy、Bruce などレーベルの屋台骨と言えるアーティストを中心に、Happa やメキシコの新鋭、Nico といった他のレーベルなどで活躍するベース系のアーティスト、そしてゲスト的にテクノ・シーンから Peter Van Hoesen の楽曲を収録。そしてEPの収録アーティストは本レーベルと他レーベルからもリリースしている Metrist を除くと、ほぼニュー・カマーといって差し支えないアーティストが列んでいる。という感じなので、12曲総体で聴くならデジタル・アルバムをオススメする(が、音響的にすごいことになっているのでサブスクの圧縮音源ではなく、Bandcamp あたりでロスレス音源を買うことをオススメする)。
〈Timedance〉は、そのシングル・リリースですでにレフトフィールドなテクノとベース・ミュージックにおいてまさにトップ・レーベルといえる地位を築いている。Batu はブリストル出身、その他のリリースに関してもロンドンやリーズなどさまざまな出自のアーティストをリリースしているが、Bruce、Via Maris、本作には参加していないが Lurka などブリストル勢も多い。またBatu、Bruce、Via Maris あたりはざっくり言って〈Livity Sound〉(もしくはサブ・レーベル〈Dnuos Ytivil〉)からのリリースで注目されてきたアーティストだ。さまざまな出自のアーティストを出す〈Timedance〉をブリストル・サウンドのレーベルとくくってしまってはいけないが、ピンチの〈Tectonic〉を第一、さらにその下の世代を巻き込んだ〈Livity Sound〉を第二世代とすれば、イメージ的には半分はブリストル・ダブステップのそうした血脈の第三世代のレーベルと捉えることもできるラインナップでもある。2000年代にダブステップを養分にブリストル・サウンドをひとつ前に進めたピンチ。さらに、そのピンチも含めて2010年代のブリストル・サウンドの先鋭性が推し進められたのは、やはりアブストラクトな電子音響〜レフトフィールドなテクノをそこに飲み込んだことが要因にある。ペヴァリストの〈Livity Sound〉を筆頭に(そしてピンチの〈C.O.L.D.〉)、そして〈Timedance〉もその系譜にあることは間違いない。またアブストラクトな電子音響も含めて言えば、それはヤング・エコー周辺の音源にも言えるだろう。本作ではそんな血脈の上で醸成された、新たなベース・ミュージックとテクノの展開というものを聴くことができるのだ。
Batu の強烈なキックの連打によるインダストリアル・ダンスホール、プラスティックマンの “スパスティック” を彷彿とさせるスネア・ロールにハマる Ploy のトラック、前作コンピに続き本作でもアフロ・パーカッションの援用によるサイケデリックな空間を作り上げたメキシコの Nico、またニュー・カマーにしても、モジュラーシンセのヒプノティックなトラックをヘヴィー級のベースで痙攣させた Kit Seymour、エイフェックスなドリルンベース~ブレインダンスなジャングル・ビートを〈Timedance〉印の刺激的なビートに仕立てたような Cleyra、そして強烈な印象を持ったのはヴォイス・サンプルを使ったラフなグルーヴがネクスト・レベルなシカゴ・ハウスの転生を感じさせる Metrist のトラックだ。自身のテクノ・サイドな轟音グルーヴをそのままUKGなリズムへと導入した Peter Van Hoesen がむしろかすんでしまうような感覚すらある。それほどまでに刺激に満ちたビートと、電子音響的にダブを推し進めたレフトフィールドなサウンド・デザインが襲いかかってくる。とにかく本作は、テクノとベース・ミュージック、その現時点のアップデートされた最高の交点を聴くことができる、そんなコンピとなっている。
「まったく国民に自粛を押しつけといてさ」、いきつけのクリーニング屋の親仁は吐き捨てるように言った。「あいつらは好き勝手やってんだよ、とんでもないよね」。昨年末のことである。かれこれ10年以上世話になっている個人経営の店の、もう白髪さえ頭にまばらなこの爺様とは、いままでずっと天気の話しかしてこなかったから、突然の政治的憤怒にはフイを突かれる格好となった。ええ本当にそうですねと、そのぐらいの言葉しか返せなかったが、あんな温厚な年寄りさえも怒っているのだと念を押された思いだった。
このところニュースは、失業者、ホームレス、そして自殺者について報道している。コロナ第三波に対してとくになんの対策もなく、意味のある支援策も解雇防止策もないまま、だらだらと非常事態宣言がでたばかりだ。ニュースはそして最近では、トランプの信じがたい暴力的な脅しを報じている。この一大事に、他の先進国と違って我が国の政治リーダーはコメントすらできないようだが、まあ、ワシントンの議事堂における支持者たちの暴動では、警察の対応がBLMデモとは明らかに違っていることを世界に見せてしまったと。その点でもBLMの成果はあったと言えよう。だが、あの憎しみや怒りは、ぼくがアリエル・ピンクのCDをたたき割って捨てたところでは、とうてい消えはしない根深いものであることを知らしめてもいる(ジョン・ライドンに関しては……紙エレ年末号をどうぞ)。
さっきからテレビの画面では飲食店の店主たちが悲鳴をあげている。一家の稼ぎ手がまたひとり職を失っているときに自助(自分でなんとかせぇ)を第一とする菅政権は、就任以来中小企業の事業再構築をうながしているが、これは中小企業の何割かの淘汰を意味している。こんな与党を前に野党はいまもって存在感を示すことができず、その支持率は一向に上がらない。いま、目の前にあるのは幻滅ではない、絶望だ。
バズライトイヤーの髪型をしたおまんこ野郎が
労働者たちを呼びつける
自分の将来について考えたほうがいい
自分の首のことを考えたほうがいい
仲間を作ることやクソな髪型について考えたほうがいい
俺は25セントのパスタと
スミノフの温かいボトルの夢を叶える
“Fizzy”
ポップ・ミュージックにできること。気張らし。慰め。逃避。夢。熱狂。ダンス。カオス。笑い。快楽。幻覚。励まし。内省。趣味の競い合い。性の解放。愛の増幅。社会参加。孤独な魂に寄り添うこと。批評。罵倒。失意。絶望。悲しみの共有。挑発。炎上。攻撃。ヒーローはいつだって私をがっかりさせる。異議申し立て。疑問。気づき。目覚め。言いたくても言えないことを言うこと。頭のなかの革命。
俺はなぜ、穿いているブーツの二の次なのか?
俺はなぜ、着ているコートや髪型の二の次なのか?
俺はなぜ、自分の車の二の次なのか?
腕時計やジーンズ、ポロシャツよりも下
“Second”
スリーフォード・モッズは、間違いなくいまもっとも面白いバンドのひとつである。その立ち振る舞い、音楽性、言葉、ユーモア、見た目、政治的スタンス、勇気、ぶち切れ方……スリーフォード・モッズは怒りにかまけて理想を忘れるようなことはしない。ものごとは昔よりも複雑化している。だからスリーフォード・モッズは走っているが、ただ走っているわけでも、考えてから走っているわけでもなく、調査し、挑発し、不条理を受け入れて、真剣に考えながら走っている。ザ・KLFが、ポップ・ミュージックがその随所に渡って市場化され、金が神となった現代を見据えながら象徴的な意味合いとして100万ポンドを燃やしたのだとしたら、そのがんじがらめの資本主義リアリズムのなかで目一杯ジタバタして、泥にまみれてもがいているのがスリーフォード・モッズだ。彼らは、地元の保守的なコミュニティにも、居心地良さそうなリベラルのコミュニティにも属さない。言うだけ言って、やるだけやってやろうという腹づもりなのだろう。
また、いまのような時代ではスリーフォード・モッズには希少性という価値まである。パンク・アティチュードはほかにも、たとえばシェイムのような若いバンドやストームジーのような賢明なるMCにもあるのだろう。だが、ジェイソン&アンドリューというふたりのおっさんがそのなかで際だった存在であることは間違いない。昨年もロックダウン中にUKで起きた介護者への国民からの讃辞に対して、こうした美談は政府の怠惰を隠蔽すると発言したことで、当たり前だが物議を醸し、また、「階級の盗用」だとアイドルズを大批判したビーフはファット・ホワイト・ファミリーまで巻き込んでの騒ぎとなった。
それで、まあ、スリーフォード・モッズは進化しているのだ。新作『スペア・リブズ(Spare Ribs)』には、まずはサウンド面の変化がある。『オースタリティ・ドッグズ(Austerity Dogs)』の頃のモノクロームな煉獄ループに比べると音色も多彩で、曲もずいぶん親しみやすくなっている。セックス・ピストルズやストゥージズの幻影も霞んではいるが、ドイツの冷たいエレクトロや後期ザ・スペシャルズ風な内省とメランコリーもあったりで、曲のヴァリエーションが増えている。とはいえ、ジェイソンの激怒するヴォーカリゼーションとアンドリューのミニマルなトラックが古き良きロックに回収されることはない。
UKのモッド・カルチャーとは、本来の意味を思えば60年代回帰のレトロ志向のことではないはずだ。あれはモダンな(新しい)ものを好み、たとえば最先端のUSブラック・ミュージック(ないしはUK移民の音楽=レゲエ)を愛好する尖った文化だった。ノーマティヴな社会に溶け込みながら、人とは違った趣味を持ち、人とは違った方法で自分をしっかり着飾る文化。ジェイソンも服が大・大好だが、彼はウータン・クランに触発されたあくまで現代のモッドである。ポップ・ミュージックにできること。いまリアルに起きていることのレポート。
ここにアンセムなどない
あるのはコンクリート
チップス
汚れたソーセージ
3ポンドの花束
“The Wage Don’t Fit ”
スリーフォード・モッズはイギリスのノッティンガムの、ジェイソン・ウィリアムソンいわく「レイシストだらけ」の保守的な街で誕生した。2006年のある日のこと、パジャマ姿のまま近所に発泡酒とチョコバーを買いに行ったときにアイデアが閃いたという。ちなみにその名前だが、彼らがスリーフォードという土地に縁があるわけではない。ただその響きが良かったから採用したという。
ジェイソンは、他人の曲をループさせたトラックに自分のラップをかぶせるという初期スリーフォード・モッズのやり方で地元のスタジオエンジニアと4枚のCDR作品を出している。昔はストーン・ローゼズやオアシスが好きだったというジェイソンだが、彼が自分のパートナーに選んだのは地元のDJ/プロデューサーで、ソロでは荒涼としたエレクトロニカ作品を多発しているアンドリュー・ファーンだった。長身で痩せこけたアンドリューと5枚目のCDR作品を作ると、2013年には正式なアルバムとして『オースタリティ・ドッグズ(緊縮財政の犬たち)』をリリースする。時代をみごとに捉えたその勇敢で独創的な音楽はWire、NME、ガーディアン、Quietusなどなど、イギリスの有力メディアからいたってシリアスに、そして知的に評価され、翌年の『ディヴァイド・アンド・イグジスト(分断と出口)』にいたってはマーキュリー賞にもノミネートされた。(いまではブリストルの巨匠マーク・スチュワートからロビー・ウィリアムスのようなセレブにまで愛される人気バンドになったが、曲の歌詞でNMEをバカにしたので、同メディアが選ぶ最悪なバンドの1位にもなっている)
スリーフォード・モッズはその後3枚のアルバムを出している。2015年の『キー・マーケッツ』、2017年には〈ラフトレード〉から『イングリッシュ・タパス』、2019年には自分たちのレーベル〈Extreme Eating〉から『イートン・アライヴ』。再度〈ラフトレード〉からのリリースとなる『スペア・リブズ』は、昨年話題となったベスト盤『オール・ザット・グルー』を挟んでのアルバムで、ロックダウン中に録音された。まるでDAFのようなエレクトロなミニマリズムとともに『スペア・リブズ』はこんな風に、失意と疲弊感からはじまる。この気持ちは我々日本人もシェアできるのではないだろうか。
俺らみんなが保守党に疲れている
そのせこさにやられている
浜辺はファックされ、波もないから
ここじゃもう誰もサーフィンしない
“The New Brick”
イーノは全然好きじゃない。彼は、俺のハマってる連中の多くにすごく影響してきた人なわけだ。でも俺自身は一切影響を受けてない。彼にはまったく興味を惹かれたことがないな。だってさぁ、あのみてくれだぜ(笑)。
■新作、とても楽しませていただきました。音楽的にヴァリエーションが増えたことで、歌詞がわからずとも楽しめます。ある意味アクセスしやすい作品だなと。
JW:(うなずきながら)うん、それは間違いない。
■ロックダウン中に『スペア・リブズ』の録音に取りかかったそうですが、最近はどんな風に過ごされていますか?
JW:うん、なんとかやってる。ポジティヴであろうと努めているし……かなり妙だけどね、ただじっとして、働かずにいるってのは。いやだから、ギグをやれないわけでさ。でも──うん、俺たちは大丈夫だよ。とにかくいまは、他の多くの人びとに較べりゃ自分たちの状況はずっとマシなんだし、常にそれを思い起こすようにしなくちゃいけないな、と。
■日々、読書や映画鑑賞に明け暮れているとか?
JW:(笑)いやぁ、俺は読書が苦手でさ。マジにからっきしダメな読み手だよ。もっと本を読めればいいなとは思うけど、ほら、自分はものすごく──これ(と携帯をカメラにかざす)の中毒なわけで。
■おやおや。
JW:(携帯スクリーンを猛スピードでスクロールするふりをしながら)ピュッピュッピュッピュッ! 始終そんな感じで、何か見て「おっ、すげえ!」みたいな。わかるだろ? うん、よくないのは自分でもわかってるんだけど。それ以外だと、俺は子持ちだから、父親業だね。子供の面倒をみて過ごしてる。そうやってとにかく心持ちの面で忙しさを保とうとしているし、クリエイティヴな面で言うと、アルバム(=『スペア・リブズ』)以来、自分は実際何もやってないな。それでも何やかんやと時間はふさがっているし、きっとそれは親だと忙しいってことだろう。
■あなたがフランクフルト学派やマルクーゼを読んでいるとどこかの記事で見かけたんですけど、それは本当ですか? たしか『一元的人間』を読んでいる、とのことで。
JW:ああ、とてもいい本だ。あれは助けになったというか、本当に影響された。そうは言っても1、2章かじった程度だけどね、(顔をしかめながら)すごく、すご〜く難解でおいそれと読めない本だから。ただ、あれを読んだおかげで自分はものすごくこう──目覚めさせられたっていうのかな。この……国による支配ってものから、資本主義の抑圧から、我々は決して自由になれない、という観念を意識するようになった。彼らがこちらを欺き、資本主義の経済モデルに一生貢献し続けるように我々をだます、その様々なやり方からね。
■でもほんと、その管理・抑圧からは逃れられないですよね。たとえば、こうしていま素晴らしいテクノロジーを使って取材していますが、これですら資本主義モデルに準じた一種の社会的なコントロールじゃないかと感じることがありますし。
JW:うん……。だけど、と同時に俺はそれを気に入ってもいるんだ。金を使うのは好きだし、高価なスニーカーを買うのも好きだ。外食するのも、いい服を着るのも好き、と。だから俺はまた、そのモデルを自らに割り振ってもいるっていう。
■先ほど言ったように、まずは音楽的に以前よりもヴァリエーションが増えたと思います。そこは意識されましたか? 様々なヴォイスやサウンドがミックスされていますし、ギターを弾いているのはあなたですか?
JW:ああ。
■ギターを弾くのは本当に久しぶりだったと思いますが、どんな気分でした?
JW:たしかにずっと弾いてなかったけど、まあ、とにかく音楽の方がギターをいくらか必要としていると思えた。アンドリューは“Nudge It”でギターを弾いたし、俺は“Thick Ear”で弾いてる。だからときおり……そう、とにかく今回はギターが必要だって風に自分には感じられた、ギターをちょっと加えようと思ったっていう。だから、以前の自分ほどギターっていうアイディアに敵愾心を抱かなくなっているんだよ。
[[SplitPage]]モッズというのはいつだって真実を伝える連中だった。だから俺は自分のバンドに「モッズ」の単語を含めた。自分たちもその同じ流れに沿っている、俺はそう思ったから。
■スリーフォード・モッズのサウンドスケープを拡張するというのは──『Key Markets』以降、確実にその幅は広がってきていましたが──意識的でしたか? スリーフォード・モッズの音楽はそぎ落とされたミニマルなものになりがちですが、今回はもう少し聴き手に緩衝材を与えている気がします。
JW:ああ、そこは確実にそうだ。思うに、俺は……どう言ったらいいのかな、これまでよりもう少し層の重なった、もうちょっとカラフルなものにしたかったんだ。
■ちなみに、アンドリューがひたすらチープな機材を使って音楽を作っていますが、それは高価な機材でしかモノを作らないことへの反論なのでしょうか?
JW:そうは言っても、ここ数年で奴の機材の幅は間違いなく以前より広がったと思うけどね。でも、あいつは以前「ACID」っていうソフトを使ってビートを作っていたはずで、っていうかいまも使ってる(笑)。だから、そうね、あいつはこう……効果音だとか、奇妙なサウンドだのに入れ込んでるんだよ。で、それらを入手するのには、そんなに大枚はたかずに済むわけじゃない?
あいつのいま使ってるセットアップも、かつてに較べりゃずいぶんでかくなった。ただ、それでもあいつはいまだに、歌にビート/音楽を組み込む際は最小限の要素みたいなものにしか頼らない。あいつも近頃じゃ、いくつか良質な機材の一式をいつでも使えるよう、手元に揃えたがるようになってるけども。
■スリーフォード・モッズはある意味、音楽を作ることに、音楽界にインパクトを与えるのに大金を費やす必要はないという、その好例じゃないかと思うんですが。
JW:そうそう、その必要はまったくない。俺たちはそういうのに興味なし。とにかく俺たちは大抵ミニマルにまとめているし、アンドリューはそれにうってつけなんだ。というのもあいつの音楽は、たとえばソロでやってるExtnddntwrk(=extended network)にしても、どれも一種の音のランドスケープ、サウンドスケープ郡みたいなことをやっているし、やっぱりミニマルなわけで。だからほんと、あいつのやることはそこと完璧にマッチするんだ。
■Extnddntwrk名義の作品は、じゃあよくご存知なんですね。彼のアンビエントな側面もお好きですか?
JW:ああ、もちろん! 好きだしいいと思う。もっとも、あれは自分が普段聴くような類いの音楽じゃないけども。だから、そんなに聴かないけど、ちゃんと評価はしてる(笑)。
■ ちなみにアンビエントの巨匠イーノに関してはどんな印象をお持ちですか?
JW:ファンではないな。(苦手そうな表情を浮かべて)全然好きじゃない。でも彼は、俺のハマってる連中の多くにすごく影響してきた人なわけだよね? テクノだとか、エレクトロニカ全般なんかに多大な影響を与えてきた人だとされているけれども、俺自身は一切影響を受けてない。彼にはまったく興味を惹かれたことがないな、うん、それはない。だってさぁ、あのみてくれだぜ(と、頭を丸めた坊主頭のジェスチャーをする)? でかい頭で、すげえ妙なルックスでさ。フハッハッハッハッ……!
■(苦笑)。いや、イーノはあなたと同じようにコービン支持者ですし、政治的には共感できるんじゃないかなと。
JW:(真顔に戻って)ああ、うんうん、それはもちろんだよ。だから要は、俺はあの手のミュージシャンにエキサイトさせられることはまずない、ってこと。いつだってもっとこう、ストリート系な、「ウギャアアアァァッ!」みたく騒々しいバンドなんかの方に感心させられるっていうか、そういうのなら「おう、よっしゃ!」とそそられるっていうさ。
■2020年にはこれまでのキャリア総括盤『All That Glue』も出しましたし、自分たちを振り返る時間もあったかと思います。
JW:(うなずいている)
■あらためてスリーフォード・モッズの原点を、あなたが友人のサイモン・パーフと2006年か07年あたりにこのプロジェクトをはじめた、その当初のコンセプトを教えていただけないでしょうか?
JW:あれは本当に……いま君たちが耳にしているもの、そのごくごくベーシックなヴァージョンだったんだ。当時の俺たちは他の人間の作った音楽をループして使っていた、という意味でね。
■(笑)無断サンプリングしていた。
JW:(苦笑)そう! で、俺はとにかく……そのループにシャウトを被せていただけで。個人的な実体験の数々、酔っぱらった経験や失敗談、アルコールとドラッグへの依存、セックスとか、まあ何でもいんだけど、そういった事柄すべてについて語っていた。いまやそこは変化したけどね、それとは別のことを俺は歌ってる。ただ、それらは人生のなかのごくちっぽけな立ち位置/存在の観察だ、というのは常にあって。で、それが念頭にありつつも──うん、昔の自分の怒号ぶりを思うと、いまよりもうちょっと早口でまくしたてていたしラウドだったし、たまに自分で制しきれなくなることもあり、実はそんなによくはなかった、みたいな? だからとにかく、いまやっていることと基本的には同類の、でもその初期ヴァージョンだった、という。
■スリーフォード・モッズは、モッズと言いながらいわゆるモッズ・サウンドではありません。ポール・ウェラー的なネオ・モッズ、あるいはスモール・フェイセズといったタイプの音楽ではないわけですけど、そもそもなぜ「モッズ」を名乗ることにしたんでしょう?
JW:それは、俺たちは基本的に──いやまあ、俺自身はモッズ的なものには入れ込んでるんだけどね。あれは常に俺の興味をそそってきた。で、俺のモッズ観は、あれは他の何よりも際立つことができるものだ、ということで。もしもバンドがモッズなるものをばっちりモノにできれば、そいつらは他の何よりも抜きん出ることができる、みたいな。というのも、モッズ(モダーンズ)というのはいつだって真実を伝える連中だったし、クリエイティヴィティに対してもっとずっと正直なアプローチをとってきた連中なわけで。だからなんだ、自分たちのバンド名に俺が「モッズ」の単語を含めたのは。自分たちもその同じ流れに沿っている、俺はそう思ったから。
■で、今回のアルバムの“Nugde It”の歌詞は興味深いなと。
JW:へえ、オーケイ。
■あれはスリーフォード・モッズの現在の立ち位置を歌っていると思いますよね。で、スリーフォード・モッズに対する評価に対しても苛立っているように読めるのですが、もしそうだとしたら、これはどういうことなのでしょうか? ちょっと説明をお願いできますか?
JW:あの曲で言わんとしているのは、異なる生い立ちを持つ連中がいかにして、実際にその経験がないくせに自分たちとはバックグラウンドが違う者たちの物真似をしているか、ということだね。そうやって物真似することで、彼らは自分たちをもっとエッジーに、あるいは実際より興味深いものに見せようとしている、という。で、多くの場合、人びとはその点に気づいてすらいないわけ。そういった連中は、自分たちがやっているのは本当はなんなのかすら考えずに、他の人びとのユニフォームを借り着してるっていう。俺は、それってマジに無礼な侮辱だと思う。かつ、その物真似を鵜吞みにして支持する人間が山ほどいるって事実、それに対しても本当に怒りを感じる。そういうことをやってるバンドのいくつかは、とんでもなく人気が高いわけだろ? というわけで、あの曲で取り上げているのはそういうことだね、「階級見学ツアー(class tourism)」みたいなものについてだ。
(※ここでジェイソンの話しているのは、上流・中流・下層と階級が分かれる英国で、上位に位置する人間が不思議がりときにバカにする意味合いで一時的に=物見遊山で立ち寄るごとく下層階級のファッションやスラングやカルチャーを真似する行為を指す。「貧民見学ツアー」を意味するpoverty safariというタームもある)
だから、お前さん自身は繫がっていない、お前さんには実体験の一切ない、そういう人びとだったり彼らの生き様をお前は物真似しているんだろうが、と。お前がそれを利用するのは、そうやって真似ることで自分をパワフルに見せたいだけだろ、と。
■──それは、アイドルズみたいなバンドのことですか?
JW:ああ、まったくねぇ! うん、そう。
■ソーシャル・メディア他であなたと彼らとのビーフが広まりましたよね。先ほどもおっしゃっていたように、アイドルズはいますごい人気ですけれども──
JW:(苦虫をかみつぶしたような表情で)ああ。
■あなた自身は彼らの言うことは信じていない、と。
JW:信じないね。なんて言えばいいのかな、「学が足りない/ちゃんと勉強してない」っていうの? 一元的で浅薄だし、中身がまったくない。とにかくやたらポーズばっか、と。で、いまって本当にひどい時期なわけだし、「自分は生きているんだ」と実感できるような何かを求めるわけだろ。これは俺個人の思いだけど、ああしたかっこつけやポーズから、俺はそういう感覚を受けないんだ。
■ちなみに、主にCD-R作品を出していた初期のことをわたしは「スリーフォード・モッズMK.1」あるいは「Ver.01」と捉えているんですが──
JW:ああ、うん。
■で、アンドリューが加入し、いわば「スリーフォード・モッズ Ver.02」がはじまった、と。そのブレイク作である『オースタリティ・ドッグズ』以降とでは、音楽への向かい方はどう違っていますか?
JW:うん、変化したね。絶対にそう。だから……質問は、俺の音楽に対する姿勢がどう変化したか、ということ?
■ええ。基本は変わっていないと思うんですが、『オースタリティ・ドッグズ』を境に、それ以前に較べてもうちょっとプロっぽくなった、「これは自分たちのキャリアだ」と考えはじめたんじゃないかと。そこで、音楽作りや作詞へのアプローチは変化しましたか?
JW:ああ、なるほど。うん、変化した。それは、さっきも話に出たマルクーゼみたいな人の考えだとか、現代世界に対する様々な類いの批評等に触れたことが影響しているんだと思う。
それと同時に、俺自身のなかで育ち続けている、「自分はこの世界のどこに位置してきたのか」みたいな意識/目覚めもあるんだ。自分という存在はこの世界でどんな意味を持ってきたのか? 自分は自分にとってどんな意味があるのか? 自分は何を学んできたんだろう? と。ぶっちゃけて言えばケアしているのは唯一それだけ、ほんと、成功と物質的な豊かさに伴うあれこれがひたすら重要な世界のなかで、自分はこれまでどんな人間として生きてきたのか、そうしたすべてをひっくるめたあれこれが、『オースタリティ・ドッグズ』を作った後で、よりはっきりしたものになりはじめていった。
■それだけヘヴィになった、とも言えますね(苦笑)。
JW:ああ、もちろん! そりゃそうだって。歳を食えば食うほど、たくさんのことがかなり、こう……だから、ドラッグだのセックスだの、そんなんばっかの人生なんざもうご免だ、タイクツなんだよ! って風になり出すもので。それらがやがて問題になってくるし、となると自分の人生からその要素を取り去るよう努力する他なくなる。いや、セックスは残しておいていいな、タハッハッハッハッハッ! ただまあ、ドラッグ摂取/飲酒等々の問題面は取り除こうぜ、と。
アルコールとドラッグのツケは、最終的に非常に大きく俺に回ってきたから。あれを乗り越えるのには本当に長くかかった。で、そうしていったん克服してみると、この世界は自分にどんな意味を持つのかという面に関して、これまでとは違う物事が作用してくるようになって(※数年前からジェイソンは飲酒もドラッグも断っている)。
というわけで、スリーフォード・モッズに備わったメッセージはある意味『オースタリティ・ドッグズ』以降も変わっていないんだけど、ただそのコンテンツは常に変化し続けている。
■スリーフォード・モッズは、マルクス主義者やフランクフルト学派を研究するような知識人からも評価されていますよね。個人的には興味深く思っているのですが、こうした左翼的な分析に関しては、あなたはどんな感想をお持ちでしょうか?
JW:彼らの分析には大いに賛成だ。もっとも、自分を左翼人だとは思っちゃいないけどね。でも、右翼じゃないのは間違いない。
■(笑)それはありがたい!
JW:(爆笑)。うん、ああした分析は好きだよ。インテリの立場にいる人たち、おそらく俺も興味を抱くであろう、そういう人びとが俺たちのやっていることをすごく気に入ってくれてるのはいいことだと思ってる。
[[SplitPage]]彼らの分析には大いに賛成だ。もっとも、自分を左翼人だとは思っちゃいないけどね。でも、右翼じゃないのは間違いない。
■オーウェン・ジョーンズの『チャブ』は読んでいると思いますが、あの本は好きですか?
JW:もちろん読んだ。すごく気に入ったね。あの本もまた、俺が政治に関してもっと建設的なフォルムみたいなものへと浮上していく、その助けになったもののひとつだ。
■“Elocution”では誰かの偽善性を批判しているようですが、具体的に誰とかあるのでしょうか? それとも音楽シーンに対する観察?
JW:ああ、うん、あれは……だからこの国の音楽シーンじゃ、マジにがっくりさせられる、そういう手合いはいくらでも跡を絶たないわけで。
■(爆笑)
JW:ハッハッハッハッハッ! なんかこう、そういう連中がどこからともなく次々に湧いてくる。っていうか、ほぼ毎年出てくるな。本当にシャクに障りイラつかされる、そういうアクトが毎年かならず、1、2組は登場する。
■(苦笑)なるほど。
JW:で……あれはほんと、そうした連中をあれこれ組み合わせたコラージュだね。連中は社会正義を謳った色んなキャンペーン活動のフロントを張るわけだけど、たまに「こいつら、自分たちのキャリアを向上させるのが目的でこういう活動をやってるんじゃないの?」という印象を抱かされることがあって。音楽そのものの力じゃ勢いが足りないからそれをやってる、と。才能が平均以下のミュージシャンの多くは、人気者のポジションを狙うなかで、大抵はネットワーキングに頼るものなんだ。各種音楽賞だの、なんであれそのとき焦点の当たっている、メディアに取り上げてもらえる問題に対するキャンペーン活動を通じて、という意味でね。だから連中は多くの場合、自分たちの地位を向上させるために、そのメカニズムに相当に依存しているわけ。
そうは言っても、彼ら自身は自分たちがどういうことをやっているかに対する自覚がないのかもしれないよ? ただ──そういうのにはウンザリなんだって。そんなんクソだし、お前らの音楽は特にいいわけでもない。こっちにはそれはお見通しなのに、それでもお前は「音楽をケアしてます」って言うのかよ、と。まあ、彼らもたぶん少しは気にかけているんだろうな。けど、それ以上にお前が気にしているのは自身のキャリアだろ、っていうさ。
■そこはミュージシャンにとっての難問ですよね。たとえば『スペア・リブズ』が売れてあなたたちがさらにビッグになったら、「ソールドアウトした」と批判する人は出てくるでしょうし。
JW:ああもちろん! っていうか、その批判を俺たちはこれまでも受けてきたし、いまですらそうだ。ただ、俺たちがかっこつけた気取り屋ではないこと、セレブではないっていう事実、そこは人びとだって俺たちからもぎ取れない。俺たちは常に、自分たちのままであり続けてきたんだしさ。
■“Glimpses”や“Top Room”はロックダウン中の情景を歌っていますよね? で、“Glimpses”ですが、これは曲調こそパンク・ソングなのですが、歌詞がずいぶん抽象的というか詩的に思いました。ここにはどんな意図があるのでしょうか?
JW:“Glimpses”ね。あれは……もっとこう、子供を連れて近所の公園に出かけると、みたいな話だね。で、行ったもののCOVIDのせいで公園は封鎖されてた、と。それと、消費主義についての歌でもある。それがいかに……だから、とあるスニーカーの宣伝をちょこっとやっただけでそのスニーカーをタダで5足もらえる奴もいる、と。ところがこちらは、その同じスニーカーを買うのに500ポンドだのなんだの、大金をはたくことになる。となると、こっちはほとんどもうなんの価値もない人間だ、ってことになるよな。商品そのものの話ではなくて、マネーのことだよ。
でもいずれにせよ、俺たちだってみんな、そこは承知しているわけで。誇示的消費(=conspicuous consumption。富や地位を誇示するための消費)なんて、別に目新しいものでもなんでもないんだし。で、俺としてはある意味、その点をあそこで論議したかったんだけど──うん、果たしてそのふたつの意味合いをあの曲でちゃんと表せたか、それは我ながらよくわからないな。あれはとてもいい歌だし、すごく気に入ってる。ただ、曲のメッセージという意味では、まだほんの少し、言葉が足りないのかもしれない。
■2014年のガーディアン紙の取材であなたはスリーフォード・モッズの音楽の根幹には「怒り」があると話しています。いまでも「怒り」はモチベーションだと思いますが、それはあの頃とまったく同じ「怒り」がいまも持続している感じですか?
JW:うん……だから、俺の怒りのほとんどは、他の人びとに対して感じる苦々しさや嫉妬、うらやましさから派生したものなんだよ。それとか他人をおいそれと信じないところだったり、政府に対する軽蔑もその主な要因になっている。で、その点は変化していないと思う。それらのアイディアから、俺はいまだにこうしたエネルギーのすべてを得ているわけで。ネガティヴィティにシニシズム、そして自己批判もあるけど、そうしたものからエネルギーを得ている。
というわけで、そこはいまだに継続中だな。ただ、思うにほんと唯一、自分にとって重要なことという意味で……自分にどうしても語れないのは愛だなぁ。愛というのは、(歌にして)宣伝するよりも(苦笑)、実際に体験する方がずっといいアイディアだと俺は思っているから。だからまあ、ポジティヴィティがほとんど存在しない、ポジティヴさがわずかな隙間にちょこちょことしか見出せない状況で、常にポジティヴなことばかり語るのは、どうしたって興味深いこととは思えないだろう。
■トランプやボリス・ジョンソンのような右派ポピュリストは、新自由主義によるグローバリゼーション(安価の移民労働)と「Austerity」(福祉予算のカット)によって追いやられた労働者たちの心情にうまくコミットしていましたが、コロナによって、例えばトランプが選挙に負けたように、右派ポピュリズムにほころびが出てきています。しかし、それでも日本では、コロナを企業社会の新自由主義的な再編の機会として捉えている向きもあり、ますますやばい状況になりそうです。イギリスも失業者がハンパないと報道されていますが、そうした社会不安や追い詰められていくメンタリティの問題、見えない恐れの感覚は今回のアルバムに大きな影響を与えていると感じたのですが、いかがでしょうか?
JW:そうだと思うよ、うん。もちろん。だからこの、自由がみるみる奪われていくという実感に、疎外感に……日常的に同じ経験を繰り返しているなという感覚。終わりがどうにも見えてこないフィーリングに、いったい何を信じればいいのかわからないという感覚。情報よりもむしろ、「これは大丈夫だ」と思える自分のいい本能/直観に常に頼らなくてはならない状況だとか。正確な情報ってのは、誰にでもすぐ入手できるものであるべきだというのに。うん、そういったことが作品に影響したね。──と言いつつ、と同時にこれは……パンデミックが襲った際の人びとの振る舞い方とそこから生まれた結果というのは、資本主義システムの下では人びとはそう振る舞う以外にないんだし、いずれにせよそれと同じ結果になる、ということでもあって。だから今回の作品にしたって、ずっと継続している物語のエピソードのひとつというか、『オースタリティ・ドッグズ』以来俺たちが語り続けてきたこと、そのなかの一話なんだ。
というわけで、俺はその面はあまり述べたくなかった。この試練だって、後期資本主義のまた別の一面に過ぎないんだし、あまねく広がった腐敗の現れであり、遂に本当に真剣な決断を下さなくてはならない地点にまで達した文明の側面なんだから。自分たちは何を信じるのか、そして自分たちはどう振る舞っていくのか、そこについて人類はシリアスな決断を下さなくちゃならないところまで来ているわけでさ。うん、そうした思いはたしかに、アルバムにある程度までは影響を与えた。おっしゃる通りだ。
ネガティヴィティにシニシズム、そして自己批判もあるけど、そうしたものからエネルギーを得ている。というわけで、そこはいまだに継続中だな。ただ、思うにほんと唯一、自分にとって重要なことという意味で……自分にどうしても語れないのは愛だなぁ。
■たとえば、ビリー・ノーメイツが参加した“Mork n Mindy”なんかはそういう気味の悪い不安をうまく捉えた曲だと思いましたが、あの曲はあなたの子供時代を反映したものらしいですよね?
JW:ああ、そうだ。あの曲は俺が子供だった頃についての歌で、そうだな、あれと“Fish Cakes”の2曲は、子供時代について歌ってる。自分の子供時代や、子供のときはどう思うんだろうといったことを考えるようになりはじめて……。俺は生まれつき、難病の二分脊椎症(spina bifida)を患っていてね。11歳のときに脊椎の大手術を体験したんだ。
■ああ、そうだったんですか。
JW:うん。でも、当時は二分脊椎症だったとは知らなくて、今年の夏に(コロナの影響で)ジムが閉鎖され、自宅の庭でエクササイズ中に背中を怪我して、はじめてそうだったと知った。で……うん、そのおかげで、手術を受けた頃に引き戻されたね。あれは、かなりエモーショナルな時期だったから。というわけであの頃を思い返したし、子供だった自分のことをまた考えるようになって。それにもちろん、いまの自分には子供もできたし、彼らの子供時代と自分自身の子供時代とをしょっちゅう比較するようにもなったわけ。だから……あの曲はアルバムに入れたかったんだよ、子供時代を考えれば考えるほど、自分のなかに色んな思いがたまっていったから。
■ビリー・ノーメイツは今年アルバムを出しましたが、あなたも1曲参加していますよね。彼女は抜群だと思いますが、あなたは彼女のどんなところを評価していますか?
JW:やっぱ、あの声だよね。それと、彼女の曲の書き方も。彼女は本当に、すごく、すごく才能があるし……うん、ちゃんとした、本当にオリジナルな人で。それに、彼女を聴いていると自分の頭にかつてのグレイトなシンガーがたくさん思い浮かぶんだ。とくに、過去の優れたソウル・シンガーの数々を思い起こす。音楽という概念を実践する面でも非常に腕の長けた人だし……とにかく彼女には、どこかしらすごくソウルっぽいところがあるんだよなぁ。と同時に、80年代っぽいところもかなり備えていて。そうした点が、ほんといいなと思う。
■Amyl and the Sniffersのエイミー・テイラーも参加していますが、今回なぜ女性シンガー2名とコラボしようと思ったんでしょう?
JW:俺たちも女性の存在を求めていたんだよ、だから、ほら……全般的に、女性が欠けてるわけだしさ(苦笑)。
■(笑)テストステロン値が高過ぎる、と。
JW:そう(笑)! 野郎が多過ぎだって。ハッハッハッハッ……ぎゃあぎゃあ騒いでる男どもが多過ぎる(苦笑)。
■アルバム名は「肋骨」で、女性はアダムの肋骨(=リブ)から作られたと旧約聖書にありますよね。それで女性が必要だったのかな?と。
JW:ああ〜! たしかに! なるほどねぇ。(笑)いや、そういうわけじゃないけど、でも実に古典的なポイントだな、それって。そういう風に自分が考えたことはなかったけどさ。
■このアルバム・タイトルを知ったときに、イギリスで70年代に発刊されたフェミニスト雑誌『Spare Rib』を思い出したんですよ。その書名はもちろん、聖書の「女性は男性の一部である」という発想を茶化したもので。
JW:うん、うん(うなずく)
■とはいえ、このタイトルの「スペアリブ」は、まさしく我々のことを指しているわけですよね。一本くらいなくなっても平気なあばら骨、いわば使い捨てライターのように取り替え可能な存在、という。
JW:イエス! でも……君がそうやってアルバムの概要をまとめてくれた方が実際よりはるかに面白いかもな、クハッハッハッハッ!
■(笑)ふざけないでください。全部、ちゃんと考えてるんでしょ?
JW:いやいや、そうやってあれこれ言われると、俺は「違う」って言い出すっていうね! アッハッハッハッハッァ〜……!
(ひとしきり笑った後で真顔に戻って)いや、うん、そうだよ。あのタイトルは基本的に、俺たちの政府は2020年のはじまり以来人びとをどんな風に扱ってきたか、ということで。無駄死にした死者の数──だから、あれだけ(コロナで)死者が出たけど、そのある程度までは防げたはずだった、俺はそう思っていて。そこで考えさせられたんだよ、政府は経済モデルに貢献している人民の生命よりも、その経済モデルを維持することの方に心を砕いているんだな、と。いやもちろんこれは、政府側はその点を意識してそうやっている、という意味ではないんだ。ただ、世のなかには常に、この経済モデルに貢献する人間たちが絶え間なく流入してくるわけでさ。ということは、この経済モデルを保存するためにだったら、政府の側には20万人であれ百万人の命であれ、たまにちょっとばかり人口を削ってもなんとかなる、そういう余裕があるってことだよ。
で、2020年のはじめからイギリスの公衆に対しておこなわれてきた安全対策の数々を考えれば考えるほど──わかるだろ? 英政府は(人民よりも)経済モデル維持の方をもっとケアしてきたんだな、という印象を抱くわけ。だから、政府の考え方は「肋骨をいくつか取り除いても、身体そのものはなんとか機能するからOK」みたいなものにはるかに近い、と。ということは、俺たちはみんなスペアリブだってことだよ。でも……このタイトルは、イギリスではおなじみな、中華料理のテイクアウト・メニューにもちなんでいて。
■ほう。
JW:わかるかな、スペアリブ? イギリスじゃどこでもお目にかかるありふれた食い物なんだけど(※ばら肉を骨付きで揚げたりバーベキューした、イギリスのお持ち帰りチャイニーズの定番料理)。ある意味、そこにも目配せしているタイトルだし、子供時代とも繫がっていて。
■……あなたはよく、食べ物について書きますよね?
JW:うん。
■どうしてですか?
JW:当たり前だろ、それって。
■「スペアリブ」はもちろん、これまでも「マックフルーリー」とか「イングリッシュ・タパス」とか。あなたは身体を鍛えていて、大食いしなさそうですけど、歌詞には食べ物や食べることに関する妙な執着があるように感じるんですが(笑)?
JW:いやとにかく、多くの人間が食えるのってそれくらいなわけじゃない? たとえば……ひとり分のチップス、その人が手に入れられるのはそれだけ、みたいな(※チップスはフライド・ポテト。日本のそれより厚めにカットされていてボリュームがあるにも関わらずひと袋200〜300円程度なので、本来は副菜であるチップスを主食代わりにする人もいる)。それとか、食べられるのは卵サラダサンドだけ、とか。だから、それって人びとはいかに……んー、あまりお金がない状態にいると、そういう安くてしょうもない食べ物でも美味く感じて大事に味わえる、そこに落ち着くんじゃないかと思う。それに、俺とアンドリューがふたりで話すのって、ほんと、食い物についてばっかだし。
■(笑)マジですか。
JW:いやだから、そこはまた……さっき言われたイングリッシュ・タパスだとか、マックフルーリーだとか、まあなんでもいいんだけど、そうやって俺が歌で取り上げてきたことって、俺がそういった食い物を食ってる日常の周辺で起きた色んなことを表象するものでもあるんだよ。それは子供時代の話も同様で、ガキの頃はとんでもなくひどいものを食わされてたよなぁ、みたいな文句をね(笑)。その手の話はしょっちゅうやってる。
■表題曲の“Spare Ribs”の歌詞にエイフェックス・ツインが出て来ますが、お好きですか?
JW:うん、彼はいいんじゃない? いやだから、あの歌詞で彼の名前を持ち出したのは、あの曲で歌っているのは──
■──知ったかぶりの、マウントしたいタイプ?
JW:(顔をしかめて)うんうん、あの手合いはね〜、ほんと、もう……
■(歌詞を引用して)「エイフェックス・ツインや/スペインのアナキストについてえんえん語ってる奴」と。
JW:うん、そうそう! だからさ、ああいう難しそうなことをぺらぺら触れ回ってる連中って、いざ「それってどういうことですか?」と突っ込まれると、実はそれをよく知っていないのがバレるっていう。となると、やっぱ思うよね、お前は常に「自分はこの手の世界にどっぷり浸かってますよ、熟知してます」って雰囲気を醸してきたのに、なんで自分の言ってきたあれこれをよく知らないんだい?と。
■“Fish Cakes”で繰り返されている「At least we lived」という言葉に込められている感情は、やはり絶望感なのでしょうか? すごく悲しい曲だなと思いますし、「少なくとも自分たちは生きたんだから」という一節にあなたが込めたのもそういう思いなんでしょうか。
JW:うん、ある意味、そうなのかもしれない……。うん、そうした悲しみをあの曲で伝えたかったのかもね。というのも、俺が子供の頃は……いや、そんなに悲しい子供時代だったとは思わないな。それよりもこう、とにかく退屈だった。狭く限られていたし、周囲にも大して何もなくて。しかも大人たち、当時接することになった大人のほとんどは、子供たちよりもひどい状態で。だから、とにかく何もかもがつまらなくみじめだと思えたし、憂鬱に映った。そこを歌にしたいなと。それらの体験を曲に含めたいと思ったんだ。それをやるのには、本当に苦戦したけどね。というのも、俺はあれを哀れっぽい曲には、聴き手に憐憫の情を掻き立てるような曲にはしたくなかったから。そうではなく、あの情景を表に見せたかっただけで。
■今年亡くなったアンドリュー・ウェザオールから受けた影響についてお話しいただければ。Two Lone Swordsmenの“Sex Beat”(ガン・クラブのカヴァー)には影響を受けたという話は読みましたが、それ以外で彼について思うことがあればお願いします。
JW:TLSのアルバム『From the Double Gone Chapel』(2004)で、彼らは──あれはたぶん4枚目か5枚目だったはずじゃないかな? あれを聴いて、俺の抱いていた……シンガーが歌う際のいいバッキング・サウンドとはどういうものになり得るか、そこについての考え方を部分的に変えさせられた。いいサウンドってのは何かという、その見方をね。あの雷みたくゴロゴロと鳴るベース・ラインに、あのアルバムでのアンドリュー・ウェザオールの歌い方に……それにキース・テニスウッド。彼とは知り合いで、たまに話す間柄だよ。本当にいい人だけど、うん、彼の用いたプロダクションの手法だとか。そういや、彼もブライアン・イーノの大ファンなんだよな。彼に「あのアルバムであなたが影響されたのは何だったんです?」と尋ねたら、「ブライアン・イーノにめっちゃ影響されたぜ!」って答えが返ってきて、俺は「クソッ、そうなのか!」みたいな(笑)。
■(苦笑)それはもう、あなたもイーノを聴かないと。意地を張らず、諦めて聴きましょう。
JW:(笑)あー、そうだねぇ、聴かないと……。ともあれ、うん、そういう話で。それに、アンドリューとも2回くらい実際に会ったことがあって。ほんと、イイ奴でね。本当にナイス・ガイで。全然──お高くとまったところや自己中心的なところのまったくない、じつに愛すべき人だった。だからうん、そこはものすごく感銘を受けたよね。でも、それだけじゃなく、彼の佇まいも印象に残ったな。ほら、あのタトゥーだったり……着る服を通じて自己表現する彼のやり方だとか、あれは無類のものだったっていう。ああいうことをやる人は決して多くなかったし、そこからも本当に影響された。とにかく、「自分の頭で考えろ」っていうこと。もっとも、その点については、他の人たちからも俺は多く学んできたんだよ。ただ、アンドリュー・ウェザオールはそのなかでもグレイトな人物のひとりだと思ってる。
■ウェザオールには「彼のスタイル」がありましたよね。そこが、他の人とは違っていたんだと思います。
JW:(うなずく)ああ。
■来年の抱負をお願いします。
JW:それは……やっぱ、またライヴをやることだよね。俺たち、日本にぜひ行きたいと思ってるし。
■ぜひ!
JW:うん、ほんと、日本に行けたらいいなと思ってる。とにかく日本で演奏するだけでいいんだ。そうやって向こうに行って……ギグをやって守り立てることで、『スペア・リブズ』にふさわしいだけのことをちゃんとやってあげたいな、と。いまは視界も開けた状態なわけだし、うん、もっと後になってからではなく、できれば早めにそれを実現したいと思ってる。
■アルバム音源も好きですが、あなたたちのエネルギーはライヴだと一層パワフルなので、日本でのショウが実現するのを祈っています。というわけで、本日はお時間いただき、ありがとうございました。
JW:こちらこそ、ありがとう。
★了
(2020年12月17日取材)
この熱気。エナジー。爆発力。本誌26号で「またの機会」とした北アフリカのテクノからエジプトのフロントラインを凝縮したコンピレーションを。最初にレーベルについて説明しておくと、〈ナシャズフォン〉はこれまでアメリカのノイズ・ドローンやヨーロッパのサイケデリック・ロックなど、ダンス・ミュージックとは距離を置いたアヴァンギャルド・ミュージックをメインに手掛けてきたレーベルで、これがエレクトロ・シャアビと呼ばれるダンス・ミュージックのコンピレーションを企画するということは、ドイツの〈パン〉が辿った変化と同じ道を進み始めたことを意味している。アルジェリアやモロッコに起源を持つシャアビは70年代からエジプトに根付き、ユーモラスで極端に政治的なストリート・ミュージックとされ、これが「アラブの春」(と西側が称した政権交代)以降、エレクトロ・シャアビとして一気に先鋭化することになる。〈ナシャズフォン〉も2014年にE.E.K. のライヴ盤を世に送り出して打楽器の洪水がクラブの熱気を煽る一部始終を広くアナウンスし、エジプトのアンダーグラウンドがどうなっていくか大いに期待させたものの、それ以上シーンを追うことはなく、〈ナシャズフォン〉のリリースもラムレーやスカルフラワーといった昔のイメージに戻ってしまう。エレクトロ・シャアビをイギリスのDJでフォローしたのはマムダンスで、フィゴやサダトといった人気MCをフィーチャーしたミックステープがその熱気を伝えてくれた一方、エジプトからはヨーロッパのテクノを模倣するタイプも増え、ミコ・ヴァニアやサイクリック・バックウォッシュなど14の名義を使い分けるネリー・ファルーカ(Nelly Fulca)がパトリック・パルシンガーの〈チープ〉からねっとりとしたインダストリアル・テクノをリリースするなどエジプシャン・テクノのスキルと信用度も高めていく。そうした交点から、まずはズリ(Zuli)がリー・ギャンブルのレーベルからデビュー・アルバム『Terminal』をリリース。高橋勇人のレビューを引用すると「ここにあるのは、IDMの理念でもある、サウンドのカテゴライゼーションの魔の手からの逃避と、カイロという空間の激ローカルな視点からの再定義」(本誌23号)だという。一方的に外国に追随するわけでもなく、かといって自国でホームグロウンとして開き直るわけでもない環境が整ったということだろう。その上で3フェイズや1127が改めてエレクトロ・シャアビの新手として噴出し、〈ナシャズフォン〉もそれらを1枚にまとめたわけである。つーか、この熱気をまとめざるを得なかったほどシーンは沸騰していたのだろう。
オープニングは実験音楽の要素を残したアバディール。このあたりはレーベルの意地であり、〈パン〉がそうであったように音楽的な脈絡を重視したのだろう。ガッツガッツと繰り出されるインダストリアル・パーカッションはしかし、ベース・ミュージックのそれであり、実験音楽の要素がダンス・ミュージックの価値を削ぐものではない。続いて〈ナシャズフォン〉から昨年、デビュー・アルバム『Tqaseem Mqamat El Haram』をリリースした1127。“gharbala 2020”はインダストリアル・ポリリズミック・ミニマルというのか、ダンスホールのリズムを一応のメインとしながら、あちこちからリズムが降ってきてぐちゃぐちゃになった1曲。といってもいわゆるでたらめとか、ヤケクソではない。誰かの名前を出したいけれど、誰も思い浮かばない。リズムの背後ではアラビックな旋律も乱れ飛んでいる。続いて本誌でも取り上げた3フェイズ。デビュー・アルバム『Three Phase』でもそうだったけれど、甲高い打楽器の叩き方がハンパなく、ぶっといベースとの落差は常軌を逸している。実際、3フェイズはランニングしながら聴いていて意識が飛びかけ、運動しながら聴くのはやめたほど。『Terminal』に続いてリリースされた2枚のアルバムがコンセプチュアルすぎて僕にはよくわからなかったズリもここではエレクトロ・シャアビに取り組み、ノイジーなイントロダクションから怒涛のパーカッション・ストームになだれ込む。『ジャジューカ』でおなじみガイタがループされ流というか、まさに『ジャジューカ』のパンク・ヴァージョンである。激しい。どこからこんなパッションを得ているのだろう。ズリはまたラマと共にIDM寄りのコンピレーション『did you mean: irish』も昨年、パンデミック下の記録としてリリースしている。
「ホッサム・サイド」から「イブラヒム・サイド」に移ってKZLKは誰よりも混沌としたインダストリアル・シャアビをオファー。1127と同じくダンスホールを思わせるリズム・パターンを一応の柱としながら、これもポリリズミック過ぎて頭では処理が追いつかない……体に任せるしかない(このサウンドを形容するのに「メルツバウィアン」という単語を初めて見た)。なお、KZLKはは〈ニゲ・ニゲ・テープス〉が年末ギリギリにリリースしたダンスホールのコンピレーション『L'Esprit De Nyege 2020』(48曲入り)にも参加している。ナダ・エル・シャザリはまったくの新人だろうか。ナース・ウイズ・ウーントのようなサウンド・コラージュを導入に古代を思わせる勇壮としたコンポジションで、これもエナジーを隅々まで漲らせている。そして、最後にウォール・オブ・ガイタからブレイクコアともつれ込むユセフ・アブゼイド。ポスト・ロックやシューゲイズのアルバムをリリースしてきた人なので、少し毛色が異なるが、あらゆる種類の混沌を並べた後にさらに異質の混沌が配置されることで、これはこれで一気に異次元へと連れ去られる。エジプトでは、しかし、いったい何が起こっているのだろう……と思ってしまうほど、とにかく全体の熱気が凄まじい。ユーチューブにはヒドい音で全曲のライヴ・ヴァージョンが上がっていて、映像を見る限りはみんな楽しそうにクラブで踊っているだけなんだけれど……。
安倍政権はまるで70年代のインドネシア政府みたいだと思っていたけれど、年明け早々、アメリカの議事堂襲撃を見てドナルド・トランプはアフリカの大統領にしか見えなくなってしまった。大規模なデモによってムバーラク大統領が退いた後もエジプトの政治は混乱を極め、通貨の暴落に加えてエチオピアとの紛争が持ち上がったりしたことを思うと、アメリカでもこれからアンダーグラウンド・ミュージックが盛り上がるのかなあなどと思ってしまう。
UKにおけるラップ・ミュージックはアフロビーツ、ドリルがシーンを牽引し、もっとも影響力のあるポップ・カルチャーのひとつとなった。コロナの影響でストリーミングに軸足を移したメジャー・レーベルもその勢いを見逃すことはなく、多くのラッパーがメジャー・レーベルと契約し、リリースを行なっている。
その結果、歌詞の内容のみで頭ひとつ出ることはかなり難しくなってきているように思う。簡単に言えば似たような音楽が増えすぎてきているのだ。ラッパーは以前より音楽性を追求し、他にない「音」を創作するフェーズに入ってきている。とくに象徴的に感じたのはヘディー・ワンが昨年リリースしたミックステープ「GANG」で、Fred Again.. がプロデュースを手がけ、UKドリルを発展させた新たなエレクトロニック・ミュージックを追求していたことだ。
そして今回紹介する Pa Salieu も、ガンビアのルーツ、そして自らの「ブラックネス」に自覚的でありながら、それをトラックとラップの双方に落とし込むプロデュース能力が光る新たな才能だ。
ガンビアの両親のもとに生まれ、幼少期の一時期を親族の暮らすナイジェリアで過ごした Pa Salieu。その後UKに戻り、コヴェントリーで過ごしたギャングスタ・ライフが彼をラップの道へと導いた。彼自身、あまり過去のストーリーを押し出さないタイプなので詳しくはわからないものの、過去には頭と首に20発の銃撃を受けたこともあるという。その後まもなくロンドンに移住した彼が音楽制作を開始し、多くの目に触れたのは YouTube チャンネルの Mixtape Madness に公開された “Frontline” (アルバム3曲目収録)であった。
不穏すぎるトラックと宣言するように力強くラップするスタイルはこの時点ですでに確立していた。ガンビアとガーナのルーツを持つ「先輩」ともいえる J Hus をパクっていると揶揄されることもあったが、本デビュー作はむしろ J Hus と肩を並べる存在であることを証明している。
トラックはどれもフレッシュだ。スロータイの右腕である Kwes Darko が手がけた 1. “Block Boy” はシンセの質感・リズム共にジャンル分け不能な全く新しいギャングスタ・ラップであるし、“Frontline” をプロデュースした Jevon が手がけた 6. “Over There” もUKガラージとグライムのビート・パターンを拝借しながら、ドラムの音色を変えたり、グルーヴをずらしたり、コーラスを入れたりすることでアフロの感覚を滲ませている。分析的に書けば難しく聞こえるかもしれないが、シャッフルしたビートをさらりと乗りこなす Pa Salieu のスキルは素晴らしい。先行シングルであった 7. “Betty” も実験的なアフロビーツで攻めているし、全く出自が不明なラッパー4名を迎えたギャングスタ賛歌 10. “Active” はどこかオールドスクールで、ラップの肉体性を改めて感じさせる素晴らしい一曲だ。
BackRoad Gee を迎えた 13. “My Family” は温度の低く不穏なダンスホール・トラックで、ジャマイカと全く異なるノリでダンスホール・レゲエを更新している。14. “B***K” ではラップの方でアフロなノリを体得している。「この音楽は黒、肌の色は黒、ライフスタイルは黒、でもあいつらはその事実を恐れる」、と歌い上げUKの人種差別を間接的に揶揄しながら、ガンビアの叔母の歌唱がサンプリングとアフロ・グルーヴを染み込ませ、一貫した表現として提示している。
制作陣としては、UKラップのプロデューサーの他にも、カマール・ウィリアムスとのコラボで知られるジャズドラマー、ユセフ・デイズが参加していることからも、彼の耳の広さがうかがえる。
このデビュー作品で Pa Salieu が証明したのは、自身がUKの伝統に深く根を下ろしているアフロビーツ、ダンスホール・レゲエ、ジャングル、ガラージ、UKラップ、ジャズのブラックネスを吸収し、それを現在に更新する存在であるということだ。
2020年の顔、スピーカー・ミュージックことディフォレスト・ブラウン・ジュニアはそのすばらしいアルバム『Black Nationalist Sonic Weaponry』において、方法論的にフリー・ジャズを参照している。とくに大きな影響源として言及されているのは、ノア・ハワード、アーチー・シェップ、そしてアルバート・アイラーだ。添付のブックレットに掲載された推薦盤10枚のうち、1枚は『Spiritual Unity』である。かつてのラディカルな試みがべつのかたちで──それこそゴーストのように──みごと現代に蘇ったというわけだ。
60年代、フリー・ジャズの領野で重要な役割を果たしたアルバート・アイラー。2020年はちょうど彼の没後50周年でもあった。それにあわせ、このレジェンドの魅力を紐解く濃密な本が刊行される。題して『AA 五十年後のアルバート・アイラー』。編んだのは細田成嗣で、総勢30名以上のミュージシャン/批評家/研究者が参加している。
出版記念イベントも予定されているとのことなので、詳しくは下記をチェック。

AA 五十年後のアルバート・アイラー
編者 細田成嗣
装丁・組版 田中芳秀
四六判並製:512頁
発行日:2021年1月下旬
本体価格:3,800円(+税)
ISBN:978-4-910065-04-5
ニューヨークのイースト・リヴァーで変死体が発見されてから半世紀——未だ謎に包まれた天才音楽家アルバート・アイラーの魅力を解き明かす決定的な一冊が登場!
34歳で夭折したフリー・ジャズの伝説的存在、アルバート・アイラー。ジャズ、ロック、ファンク、R&B、カリプソ、民謡、ノイズ、インプロ、現代音楽、または映画や文学に至るまで、ジャンルを飛び越えて多大な影響を与え続けるアイラーの全貌を、2020年代の視点から詳らかにする国内初の書籍が完成した。
総勢30名以上のミュージシャン/批評家/研究者らによる、緻密な音楽分析をはじめ、既存の評論やジャーナリズムの再検討、または社会、文化、政治、宗教にまで広がる問題を多角的に考察した“今読まれるべきテキスト”を収録。さらに初の邦訳となるアイラーのインタビューのほか、アイラーのディスク紹介、ポスト・アイラー・ミュージックのディスクガイド、アイラーの年譜、全ディスコグラフィー、謎多きESP盤に関するマニアックなウンチクまで、500頁以上にも及ぶ超濃密な内容!
「今アイラーについてあらためて考えることは、“偉人”をその偉大さにおいて再評価することではなく、むしろわたしたちがどうすればよりよく生きることができるのかといった、きわめて卑近な問題について考えることでもあるのだ」——序文より
「かつて『AA』なるインタビュー映画を世に出した。 そのタイトルは「間章(あいだ・あきら)」を意味した。 そこにしばしの躊躇がなかったわけではない。 「AA」といえば「アルバート・アイラー」ではないか。 ダブルイニシャルの呪術の無闇な濫用への畏怖は、 それでもいま現れるこの書物とのさらなる「一にして多」を言祝ごう。」 ——青山真治(映画監督)
▼執筆者一覧
imdkm/大谷能生/大友良英/大西穣/菊地成孔/工藤遥/纐纈雅代/後藤雅洋/後藤護/齊藤聡/佐久間由梨/佐々木敦/竹田賢一/長門洋平/柳樂光隆/奈良真理子/蓮見令麻/原雅明/福島恵一/自由爵士音盤取調掛/不破大輔/細田成嗣/松村正人/村井康司/山﨑香穂/山田光/横井一江/吉田アミ/吉田野乃子/吉田隆一/吉本秀純/渡邊未帆
▼目次
●序文
Ⅰ アルバート・アイラーの実像
●アルバート・アイラーは語る
——天国への直通ホットラインを持つテナーの神秘主義者 取材・文=ヴァレリー・ウィルマー 訳=工藤遥
——真実は行進中 取材・文=ナット・ヘントフ 訳=工藤遥
——リロイ・ジョーンズへの手紙 訳=工藤遥
——アルバート・アイラーとの十二時間 取材・文=児山紀芳
●アルバート・アイラー 主要ディスク・ガイド 柳樂光隆 細田成嗣
Ⅱ コンテクストの整備/再考
▲鼎談 フリー・ジャズの再定義、あるいは個別の音楽に耳を傾けること 後藤雅洋 村井康司 柳樂光隆 取材・文=細田成嗣 註釈=山﨑香穂
●ユニバーサルなフォーク・ソング 竹田賢一
●星雲を象る幽霊たち——アルバート・アイラーのフォーメーションとサイドマン 松村正人
●抽象性という寛容の継承——アメリカの現代社会と前衛音楽の行く先 蓮見令麻
●英語圏でアイラーはどのように語られてきたか——海外のジャズ評論を読む 大西穣
【コラム】アルバート・アイラーを知るための基本文献
Ⅲ 音楽分析
▲対談 宇宙に行きかけた男、またはモダニズムとヒッピー文化を架橋する存在 菊地成孔 大谷能生 取材・文=細田成嗣 註釈=山﨑香穂
●アルバート・アイラーの音楽的ハイブリッド性について——〈Ghosts〉の様々な変奏に顕れるオーセンティシティ 原雅明
●カリプソとしてアイラーを聴く——根源的なカリブ性を内包する〝特別な響き〟 吉本秀純
●アルバート・アイラーの「ホーム」はどこなのか?——偽民謡としての〈ゴースツ〉 渡邊未帆
●アルバート・アイラーの技法——奏法分析:サックス奏者としての特徴について 吉田隆一
●サンプリング・ソースとしての《New Grass》 山田光
【コラム】シート・ミュージックとしてのアルバート・アイラー
Ⅳ 受容と広がり
●アルバート・アイラーへのオマージュ——ヨーロッパからの回答 横井一江
▲インタビュー 《スピリチュアル・ユニティ》に胚胎するフリー・ミュージックの可能性 不破大輔 取材・文=細田成嗣 註釈=山﨑香穂
●むかしむかし『スイングジャーナル』という雑誌でAAが注目を浴びていた——六〇年代日本のジャズ・ジャーナリズムにおけるアルバート・アイラーの受容過程について 細田成嗣
▲インタビュー ジャズ喫茶「アイラー」の軌跡——爆音で流れるフリー・ジャズのサウンド 奈良真理子 取材・文=細田成嗣 註釈=山﨑香穂
●アイラーとは普遍的な言語であり、体系をもたない方法論である——トリビュートを捧げるミュージシャンたち 齊藤聡
●ポスト・アイラー・ミュージック ディスク・ガイド 選・文=細田成嗣
Ⅴ 即興、ノイズ、映画、あるいは政治性
▲インタビュー 歌とノイズを行き来する、人類史のド真ん中をいく音楽 大友良英 取材・文=細田成嗣 註釈=山﨑香穂
●現代から再検証するアルバート・アイラーの政治性と宗教性——ブラック・ライヴズ・マター期のジャズの先駆者として 佐久間由梨
●録音/記録された声とヴァナキュラーのキルト 福島恵一
●アルバート・アイラーによる映画音楽——『ニューヨーク・アイ・アンド・イヤー・コントロール』をめぐって 長門洋平
●制約からの自由、あるいは自由へと向けた制約——アルバート・アイラーの即興性に関する覚書 細田成嗣
Ⅵ 想像力の展開
●破壊せよ、とアイラーは言った、と中上健次は書いた 佐々木敦
●少年は「じゆう」と叫び、沈みつづけた。 吉田アミ
▲対談 祈りとしての音楽、または個人の生を超えた意志の伝承 纐纈雅代 吉田野乃子 取材・文=細田成嗣 註釈=山﨑香穂
●ジャズとポスト・ドキュメンタリー的「ポップ」の体制——《ニュー・グラス》について imdkm
●アイラー的霊性——宗教のアウトサイダー 後藤護
【コラム】ドキュメンタリー映画『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』について
Ⅶ クロニクル・アイラー
●アルバート・アイラー 年譜 一九三六—一九七〇 作成=細田成嗣
●ALBERT AYLER DISCOGRAPHY 自由爵士音盤取調掛
——Index of Recording Dates
——第3巻の真実
——スピリッツ講話
——ベルズ報告
●後書
●索引 註釈=山﨑香穂
●執筆者プロフィール
編者:細田成嗣
1989年生まれ。ライター/音楽批評。早稲田大学文化構想学部文芸ジャーナリズム論系卒。2013年より執筆活動を開始。『ele-king』『intoxicate』『JazzTokyo』『Jazz The New Chapter』『ユリイカ』などに寄稿。主な論考に「即興音楽の新しい波」、「来たるべき『非在の音』に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。2018年5月より国分寺M’sにて「ポスト・インプロヴィゼーションの地平を探る」と題したイベント・シリーズを企画/開催。Twitter @HosodaNarushi
アルバート・アイラー
Albert Ayler(1936-1970)
1936年7月13日、米国オハイオ州クリーヴランドで生まれる。62年にスウェーデン・ストックホルムで最初のアルバム《サムシング・ディファレント!!!!!!》を録音。その後ニューヨークの前衛ジャズ・シーンに進出し、65年に名盤《スピリチュアル・ユニティ》をESPディスクからリリース。従来のジャズに囚われることのないフリーなアプローチと歌心溢れるサックス演奏が注目を集める。67年にはジャズの名門インパルス・レーベルと契約し、《イン・グリニッジ・ヴィレッジ》を発表。68年以降はヴォーカリスト/作曲家のメアリー・マリア・パークスとともにロック、ファンク、R&Bなどにも接近した音楽を展開。独自のフリー・ミュージックを追求するも、70年11月25日、謎の水死体となってニューヨークのイースト・リヴァーに浮かんでいるところを発見される。享年34歳。
『AA 五十年後のアルバート・アイラー』出版記念
国内初となるアルバート・アイラーに関する書籍『AA 五十年後のアルバート・アイラー』が2021年1月末にカンパニー社より刊行されます。そこで出版を記念し、編者の細田成嗣とカンパニー社代表・工藤遥によるリスニング&トーク・イベントを開催いたします。アイラーの名演を流し、その魅力に触れつつ、アイラー本の制作経緯や裏話などを語ります。また、会場では『AA 五十年後のアルバート・アイラー』を先行販売いたします。ぜひお越しください。なお、ご来場いただいた方には「①マスク着用でのご来店」「②ご来店時のアルコール消毒」「③休憩時間の店内換気」のご協力をお願いしております。
※イベントは定員15名・事前予約制となっております。ご来場をご希望される方は、お手数ですがcompanysha.aa@gmail.comまで、メールにて「来場者名」「人数」をご連絡ください。
出演:細田成嗣(ライター/音楽批評)、工藤遥(カンパニー社)
日時:1/23(土)18:00~
料金:チャージ1000円、別途1オーダー(学割:チャージ600円、別途1オーダー)
会場:ART×JAZZ「M’s」(エムズ)
東京都国分寺市本町2-7-5赤星ビルB1F
TEL:042-325-7767
https://www.ms-artjazz.com/
予約:companysha.aa@gmail.com
これは2021年、最初のビッグなコラボとなるだろう。先月ちょびっとだけ報じられていたマッドリブとフォー・テットによるアルバム『Sound Ancestors』の詳細が、本日公開されている(ちなみにふたりの関係がはじまったのは、先日その死が明らかになったばかりのMFドゥームとマッドリブが組んだユニット=マッドヴィランのリミックスがきっかけだったそう)。
マッドリブが作曲を、フォー・テットがエディットおよびアレンジを担当した同作は1月29日にリリース、それに先がけ BBC6 のメアリー・アン・ホッブズの番組で放送される予定。ほぼ同時期に頭角を現してきたLAアンダーグラウンド・ヒップホップの立役者と、UKエレクトロニック・ミュージックの奇才、両雄が引き起こす未知の化学反応に注目だ。
いったい何枚あるんだ? 昨年怒濤の勢いで作品を発表しつづけたムーア・マザーが去る12月、さらなる新作『BRASS』を送り出している。
今回はNYのヒップホップ・デュオ、アーマンド・ハマーの片割れたるビリー・ウッズとの共作で、ポエトリー・リーディングとラップの絡み合いが聴きどころだ(アーマンド・ハマーのもう片方、エリュシッドも参加)。さらに、アルバム冒頭の “Furies” では、なんとサンズ・オブ・ケメットの “My Queen Is Nanny Of The Maroons” をサンプリング! 世界がつながっていきますね(プロデューサーはウィリー・グリーン)。
ちなみに、ピンク・シーフも参加したアーマンド・ハマーの昨年のアルバム『Shrines』でムーア・マザーは、“ラムセスII世” という曲でアール・スウェットシャツとも共演しています。
元旦からサブスクを開始したKLFだが、今度は彼らの映画が公開され、話題だ。タイトルは『Welcome to the Dark Ages(暗黒時代へようこそ)』、彼らのピラミッド建設計画のドキュメンタリーとなっている。
どういうことか説明しよう。KLFが音楽業界を去り、100万ポンドを燃やしてから23年後、ビル・ドラモンドとジミー・コーティはふたたびタッグを組むことにした。しかしそれはポップ・グループとしてではなく葬儀屋としての新しい取り込みで、具体的には死者の灰を含む23グラムの34952個のレンガによってリヴァプールに巨大な人民のピラミッド(People's Pyramid)を造ること──。
彼らが100万ポンドを燃やした1994年8月23日からちょうど23年後となった2017年8月23日0時23秒のことである。60を過ぎた白髪のふたりは、改造したアイスクリームバンを運転し、リヴァプールの書店に到着した。
そこで彼らは〈Welcome to the Dark Ages〉の名のもと、3日間にわたって、「なぜKファウンデーションは100万ポンドを燃やしたのか」をテーマにジェレミー・デラーなど数人のパネラーを招いての討論会をふくむ400人限定のイベントを開催し、そのなかで彼らは人民のピラミッド計画についても説明している。
映画はこのプロジェクトのドキュメンタリーで、レンガを持ってきた人びとのインタヴューが編集されているそうだ。ハードコアなファンから8歳の女の子まで、いろんな人が登場する。
また、映画ではジャーヴィス・コッカーとKLFのコラボレーションによる“Justified And Ancient”のカヴァーも披露されているが、ほかにはPigs Pigs Pigs Pigs Pigs Pigs Pigsの音楽もかかっている。
ちなみにこのプロジェクトはMuMuficationと呼ばれて、現在までに3000人ほどがMumuficationに登録しているそうで、その最年少は当時5か月の赤ちゃん。残りのレンガは31592だという。
なお、映画のトレーラーおよび詳細はこちら。
2021年があけました、めでたい。ここはひとつ、装いもあらたに読者諸兄姉のおひきたてを願いたてまつるところなれど、年があらたまればなにもかもきれいさっぱり片づくとはいかないものらしい。旧年に突いた除夜の鐘の音が新年にひびきわたるように、三山ひろしのけん玉が歌の尺内におさまらないように、七輪にかけた餅がディジー・ガレスピーのほっぺたばりに膨らむように、事物と事象とを問わず、対象が予想の枠組みを越えるとき世界はざわめき、時間や空間、あるいは主体の連続性をあぶりだす──年初から胡乱なものいいで恐縮だが、新型コロナウイルス第三波にともなう緊急事態宣言という昨年からの重たいつみのこしを前に、暮れに脱稿するはずの原稿をしたためる私にとって正月とはなんだったのか。途方に暮れわれ知らず「去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如きもの」(虚子)の句をつぶやく私の面前のスピーカーから Line6 でピッチベンドしたギターの音色があたかも棒のごときもので押し出される心太(ところてん)のようににゅるりとはみだしてくる。
音源の主はコード・ガールを名乗るジャズ集団。かけているのは昨年暮れの新作『Artlessly Falling』である。グループをひきいるメアリー・ハルヴォーソンはウェズリアン大でアンソニー・ブラクストンの薫陶を受け、2000年代初頭に活動をはじめるやいなやニューヨークをハブにしたアヴァンギャルドなジャズの界隈で頭角をあらわしだした米国の女性ギタリストである。これまでトリオ編成による2008年の『Dragon's Head』を皮切りにすでに十指におよぶリーダー作をものしているが、ギター+ベース+ドラムのコンボを基本ユニットにときに七、八重奏団までふくらんだ編成をきりまわし、師匠格のブラクストンはもとよりエリオット・シャープ、マーク・リボー、ノエル・アクショテやジョン・ゾーンといった錚々たる面々と協働し、作曲と即興をよくする彼女をさして現代ジャズ界のキーパーソンと呼ぶことに異論のある方はおられまい。とはいえ上のような説明には難解さやとっつきにくさを感じられる方もおられるかもしれない。ジャズなる分野の性格上、うるさ型のリスナーを納得させないわけにもいかないが、同好の士の想定内にとどまっては元も子もない。彼女がそのように考えたかはさておき、2010年代後半ジャズの岸辺を洗った潮流もあいまって、ハルヴォーソンは新たな領野にむけて漕ぎ出していく、その最初の成果こそ2018年の『Code Girl』であり、この2枚組のレコードは彼女初の歌入りの作品でもあった、その詳細と私の所感は2018年の「別冊ele-king」のジャズ特集号をあたられたいが、その2年後にあたる2020年秋にハルヴォーソンはその続編ともいえる作品を世に問うた。
それこそがこの『Artlessly Falling』である。まずもって目につく変化は前作の表題だった「Code Girl」を明確にプロジェクト名に格上げしたところか。それによりギター・トリオに1管(トランペット)とヴォーカルを加えた編成にも意味的な比重と持続性が生まれた。ただしメンバーには異同がある。同じく昨年に〈ブルーノート〉からリーダー作を出したアンブローズ・アキンムシーレに変わりアダム・オファーリルが加わっている。ヴィジェイ・アイヤーのグループで名をあげたこのトランペット奏者は冒頭の “Lemon Tree” で、霊妙なコーラスとギターのアルペジオ、抑制的なベースにつづき、マリアッチ風のフレーズを奏で、本作への期待を高めるが、オファーリルのトランペットが鳴り止むやいなや、リスナーはハルヴォーソンが『Artlessly Falling』に仕込んだサプライズに出合うことになる。切々とした管の吹奏にもまして哀切な声がながれはじめる。レギュラーの女性ヴォーカリスト、アミーサ・キダンビともとりちがえようのないささやくような男声、やわらかく耳朶を撃つこの声の主こそ、だれあろう『Artlessly Falling』を基礎づけるロバート・ワイアットである。
楽曲にふれたことのない方でも名前はご存じかもしれない。プログレッシヴな音楽の道においてワイアットの名は道標である。道祖神のようなものといってもいい。その一方で、その道もなかばをすぎた古株たちからは彼はすでに引退したのではないかとの声が聞こえてきそうである。じっさい2014年の「Uncut」誌で音楽制作の停止(stopping)は明言しているが、停止は引退(retire)ともニュアンスが異なるようである。たしかにその後も参加作をちらほらみかけた気もする。あの声と存在感はなかなか放っておけないのだろう、とはいえ本作への参加もつけ焼き刃ではない。2018年の前作リリースのさい英国の「Wire」誌によせた、歌ものアルバムをつくるにあたっての参照楽曲のプレイリストの冒頭にハルヴォーソンは『Rock Bottom』(1974年)冒頭の “Sea Song” をあげている。今回の参加はハルヴォーソンのラブコールにワイアットが応えた構図だが、ワイアットが彼の音楽をとおして彼女にあたえた示唆とはなんだったのか。
“Sea Song” を例にとれば、点描的な歌と和声にたいしてポルタメント的なキーボードやコーラスとの位置関係、その総体がかもす持続と移行が私にはコード・ガールないしハルヴォーソンの音楽性を彷彿させる。むろんこれは基調の部分要素にすぎず、そのほかにも作曲の書法や各楽器の音色と合奏の強度、即興の質、歌ということをふまえると歌詞の中身まで、論点は多岐にわかれるが、そのぶん多角的な方向性をとりうるともいえる。もはや形式としてのジャズも埒外なのかもしれないが、しかし今日のジャズとはそのようなものなのだろう。細田成嗣氏の『Code Girl』のレヴューのくりかえしになってしまうが、ここ(https://www.thewire.co.uk/audio/tracks/wire-playlist-mary-halvorson)に選曲があるので興味のある方はご覧いただくと楽しいが、リストを眺めて最初に思うのは1980年生まれのハルヴォーソンらの世代にはジャズもロックもソウルも実験音楽もひとしなみに等価だったという、ありきたりな世代論である。とはいえそれらの参照項が加算的、単線的な働き方をするのではなく面的、領域的な現れ方なのもまた、音楽の内的な蓄積を体験とみるか遍歴と捉えるかという世代論を背景にした認識論に漸近するきらいがある。本稿の主旨をそれるので深追いはしないが、ハルヴォーソンにはネタバレ上等どころか、リスナーとリソースを共有して生まれる聴き方の変化に期待をかけるかまえがある。そしてじっさいコード・ガールの楽曲やハルヴォーソンのギター演奏にこれらの楽曲からの影響を聴きとるのはさほどむずかしいことではない。とはいえそれは下敷きにするというより、掠めるというか寄り道するというか迂回するというか、原典や系譜とのこの微妙な距離こそハルヴォーソンの旨味であろうと私は思う。
とりわけ歌という回路をもつコード・ガールは彼女の活動でももっとも制約のすくない形態であり、デビュー作である『Code Girl』ではそこに潜在するものをできるかぎり浚おうとしていた。2年後の『Artlessly Falling』もその延長線上だが、歌の比重は前作に積み増したかにみえる。先述の幕開け以外にも3曲目と5曲目でリード・ヴォーカルをとるワイアットの印象もあろうが、小節線を跨ぐハルヴォーソンの軟体めいたギターのごとく、前作の経験をもちこんだことで楽曲の意図と輪郭も明確になった。話題性はワイアットの参加曲に譲るにせよ、“Muzzling Unwashed” や “Mexican War Streets (Pittsburgh)” の後半3曲といったキダンビの歌う曲での充実ぶりも聴き逃せない。
コード・ガールの人的構成をあえて図式化するなら、ハルヴォーソン、トマス・フジワラのリズム・セクションとキダンビ、オファーリルのフロントにわかれるといえる。ハルヴォーソンはその緩衝地帯の役割を担うといえばよいだろか。バッキングでリズムの影に隠れたかと思えば、アンサンブルにちょっかいをかけ轟音を響かせる。プレイスタイルからはフリゼール、リボー、シャープ、アクショテなどの特異さもトラッドな教養もふまえていることもわかるが、強度だのみの闇雲さやテクニック信奉からくる変態性もない。どこか恬淡とした佇まいは転落事故で下半身不随になったワイアットの復帰後初のアルバムである1974年の『Rock Bottom』の収録曲を霊感源とみなすハルヴォーソンらしい感覚といえるだろうか。「どん底(Rock Bottom)」と名づけたあのアルバムでワイアットは私たちのよく知るワイアットになった。その幕開けの “Sea Song” のエーテルめいた肌ざわりがコード・ガールに通じるのは先に述べたとおりだが、ロックにかぎらず、ジャズや民俗音楽の要素を室内楽的な空間性におとしこむ、ワイアットの方法そのものに彼女たちは親和的だった。パンクとジャズとレゲエが同じカマのメシを食ったワイアットがいたころの〈ラフ・トレード〉みたく、ここでいう方法とは多義性、多様性の謂だが、90年代以降の記号的折衷とは核心においてすれちがう。ことば遊びを承知でいえば、越境的(across the border)というより学際的(Interdisciplinary)、ジャズやロックやソウルやフォークの意匠をシャッフルした上澄みを掬うのでなく、おのおのの領野から自律しつつ、全体を貫く、いわば棒のような一貫性をたくらみながら心太のようにふるまうということではないか。
ほとんど不条理めいたあり方だが、それらはすでに、規則、符号、暗号、和声など意味をもつコード(code)の語を掲げつつ、規範との奇妙な距離を保つ、彼女らの音楽にあらわれていた。2年ぶりの2作目でその度合いは亢進する一方だが、たやすく気どらせない密やかさも帯びている。この密やかさはハルヴォーソンの言語感覚にも通底し、表題は日本語では「巧まざる落下」とでもなるのだろうが、原題の「Art- less-ly Falling」を深読みすればいくつかの単語がうかびあがってくる。音楽において言語を感傷的に作用させたくなければ共感的、補完的な役割を押しつけてはならない──コード・ガールは音楽と同程度に入り組んだハルヴォーソンの言語感覚を堪能できるおそらく唯一の場でもある。だって “Artlessly Falling” のこざっぱりした韜晦と諧謔なんて “Rock Bottom” とタメをはるもんね。



