「!K7」と一致するもの

Пошлая Молли (Poshlaya Molly) - ele-king

 いちばん好きなバンドは? と聞かれるのがずっと苦手だった。世代に沿ったド定番のバンドはある程度聴いてきたし、流行りの曲や新譜のチェックもできるだけ欠かさないようにしてきた。だが、いまだにフェスの季節が来るたび新しいバンドの存在を知らされたり、お気に入りのアルバムがセカンドかサードかも曖昧になったり、素朴な質問にすら悩んでしまったりする。そう、自分はどのバンドのファンにもなったことがなかったのだ。ところが最近、ついに胸を張ってファンと名乗れるバンドができた。そのバンドこそが、ウクライナのポップ・パンク・バンド、ПОШЛАЯ МОЛЛИ (Poshlaya Molly:ポシュラヤ・モリー)だ。

 ロシア・ウクライナ語で「モリ―(MDMA)を贈る」という意味の名を冠し、甘やかされて育ったティーンエイジャーをコンセプトに活動する ПОШЛАЯ МОЛЛИ。日本ではまだ知名度が低いどころかほとんど知られていないが、彼らの活動拠点であるロシア・ウクライナでは人気急上昇中のバンドだ。グランジ、オルタナティヴ・ロックを軸に、エレクトロニック・サウンドをミックスしたキャッチーな楽曲と、現代のユース・カルチャーを映し出した特徴的な世界観で若者たちを魅了した。また、デビュー当時の2017年前後に流行したマンブル・ラップを、ポップなパンク・ロック・サウンドに落とし込み、よりユースの心情の解像度を高めたマンブル・ロックのシーンを構築した。その後も数々のライヴを重ね、2018年には〈Warner Music Russia〉に所属するなど、さらなる人気を集めている。

 彼らを知ったのは2017年の秋、ちょうどデビュー・アルバム『8 способов как бросить …』が出されてすぐの頃。収録曲 “Любимая песня твоей сестры” のMVを YouTube で偶然見つけたのがきっかけだった。このMVは計1,000万回もの再生数を記録し、現地のSNSサイト Vk.com を中心に話題となった。最初は耳慣れている、聴きやすいオルタナティヴ・ロック・バンドくらいの印象でしかなかったが、初めて触れるウクライナのシーンは退廃的ながらもどこか新鮮だった。

 その後もなんとなくチェックするようになり、気づけばデビューからいまこうして筆を執るまで彼らを追い続けている。現在のサウンドに近づきはじめたEP「Грустная девчонка с глазами как у собаки」、「ОЧЕНЬ СТРАШНАЯ МОЛЛИ 3」もすべてリリース当日に聴きこんだ。サブスクがある時代に生まれて本当に良かったと思う。楽曲ももちろんのこと、ユース・カルチャーをリスペクトしてるのか、はたまた皮肉ったかのようなMVも何度再生しただろうか。

 ここまで愛を語るとどれだけすごいバンドなのかと期待を持たせてしまうかもしれないが、彼らは特にこれと言って画期的なサウンドを奏でたり、新しいシーンを構築してるわけでもない。人によっては割と普通のポップ・パンクといった印象を受けるであろう。それでも彼らに惹かれてしまう理由が、最新作EP「PAYCHECK」でやっと解き明かされた。

 前作同様、お腹いっぱいになるほどポップ・パンクな楽曲が全6曲収録された本作。1曲目 “Самый лучший эмо панк” ではバンド名をコーラスさせたり、2曲目 “Беспечный рыцарь тьмы” の間奏ではいわゆるお決まりのようなブレイクダウンが挟まっていたりと、とにかくド定番な演出が詰まっている。ありきたりな演出と捉えられるかもしれないが、欲しい音を欲しいところでぶつけてくるところが彼らの魅力でもある。

 本作のリリースに先駆け、シングルとしてもリリースされた5曲目の “Мишка” は、ロシアのモデル・シンガーの KATERINA をフィーチャリングに起用。併せて公開された同作のMVでは、キャスケットにフレンチネイル、細身のスキニーとテーラードジャケットといった懐かしのファッションに身を包んだふたりの男女、レッドカーペットに集うパパラッチにアワードのトロフィー……と2000年代のセレブ、ゴシップ・ブームを彷彿させる世界観を、かつてのヒットチャート風の楽曲と共に披露した。

 ПОШЛАЯ МОЛЛИ のコンセプト「甘やかされて育ったティーンエイジャー」とは、まさに彼らが演じるキャラクターであり、それらを見て育った彼ら自身そのものだ。これまで影響を受けたロック・バンドやポップ・カルチャーをリスペクトし、過去の産物になってしまったスタイルを否定せず当時の憧れをサウンドにアップデートすることで、ПОШЛАЯ МОЛЛИ はいつまでもティーンエイジャーであり続けている。そんな彼らと同じ憧れを自分も持っていたからこそ、あの聴きやすいサウンドや新鮮ながらもどこか共感してしまう世界観に惹かれ、お決まりの展開ですら心地良く感じていたのだと、本作で気付かされてしまった。そして、かつての憧れに対して真剣に向き合う彼らの姿勢に、いま自分は憧れている。

 こうして愛を語れるようになったのも、実は彼らのおかげである。ライターとして活動をはじめたのも、自身の note にロシア・ウクライナのアーティストについて記したのがきっかけだった。新卒で出版社を受けたものの全滅した自分を、ライターというかたちで憧れの姿に近付かせてくれた彼らには頭が上がらない。もうすっかり彼らの虜になってしまったいまなら、いちばん好きなバンドを問われたとしても躊躇なく答えられる、ПОШЛАЯ МОЛЛИ であると。

井上鑑 - ele-king

 シティポップやアンビエント(環境音楽)をはじめとして、かつて日本で生まれた音楽が後追い世代の国内外リスナーから熱い注目を浴びるようになって久しい。既に色々なところで語られている通り、こうした状況を用意したのには、ディスコ/ブギー・リヴァイバルを経由した「和モノ」再発見であったり、世界的なニューエイジ音楽への関心の高まりであったり、従来の「バレアリック」という概念を特定の聴取感覚としてライトに再解釈していく流れであったり、YouTube のすぐれたオートレコメンド機能であったり、多層的な要因があった。
 昨年 ele-king books より刊行された『和レアリック・ディスクガイド』は、まさしくそういった流れのひとつの極点を画するものだったと言えるだろう。各DJやディガーによるブログやSNS、あるいはレコードショップの商品紹介ページなど、様々に散らばっていた、「和モノ」への関心が、ついにひとつの刊行物として集約されたという意義は実に大きかったように思う。ある種、旧来のレアグルーヴ・ムーヴメントの末裔にして深化形のようでいながら、そこには明らかに10年代を通して育まれてきた新たな聴取感覚が横溢していた。リアルタイムにひっそりとリリースされながら、永く忘れられてきたレコードの数々が、2019年という時代に向けてオブスキュリティの虹彩を興味深く投げかけてきたのだった。
 数々の「隠れたる」盤の中には、一般のオリジナル作品として流通することのなかった教則/劇伴作品なども多く含まれている。それらがいまや平等な「ディグ」の審美眼のなかで、今日的評価を冠されているわけだが、なかでも、いかにも「あの時代」的な意匠をまとったパッケージ形態である「カセットブック」が放つ魅力は特殊めいている。

 冬樹社によるカセットブック・シリーズ『SEED』は、細野晴臣『花に水』、矢口博康『観光地楽団』、ムーンライダーズ『マニア・マニエラ』、南佳孝『昨日のつづき』といった刮目すべきラインナップを誇る、かねてよりその手のマニアの収集欲をそそってきたシリーズだ。YouTube 上にアップロードされた音源によってワールドワイドに「再発見」され、ついにはヴァンパイア・ウィークエンドの直近作にサンプリングされるに至った細野晴臣『花に水』をはじめとして、各刊、同シリーズのために録り下ろされたオリジナル音源入カセットと、関連するテキストを冊子として同梱するという豪奢な仕様だ。浅田彰らが責任編集を務めた季刊誌『GS たのしい知識』の版元である冬樹社のカラーを反映した “知識を軽くポータブルにする” というテーマの同シリーズは、その濃密なニューアカデミズム色が相対化された現在においては、当時の文化/思想界を知る資料としても大変貴重だといえる。
 昨今、各作のオリジナル・カセットブックを求めるリスナー/DJ諸氏も増加するなか、細野作と並んで後年世代から特に人気の高い、井上鑑による『カルサヴィーナ』が今回CD再発されることになったのは、誠に慶賀すべきことだ。

 井上鑑は、1953年9月8日チェロ奏者井上頼豊の長男として東京に生まれた作編曲家/ピアノ、キーボード奏者。桐朋学園大学作曲科にて三善晃に師事、その後大森昭男との出会いから在学中よりCM音楽界で活躍してきた早熟の才人だが、一般的には寺尾聰 “ルビーの指環” などをはじめとする数々のヒット曲を手掛けた編曲家としてその名が知られているだろう。大滝詠一との邂逅を通じてマルチトラック・レコーディングへの関心を育み鍛錬を積んできた彼は、82年のデビュー・アルバム『預言者の夢』をはじめとして、単独作にも非常に優れたものが多く、ジャズやAOR、現代音楽を含むクラシック、ニューウェーヴ、民族音楽などを取り込んだそのサウンドは、近年のレコード市場で大きな人気を集めている。この『カルサヴィーナ』は、『SPLASH』(83年)と『架空庭園論』(85年)という充実作の間に挟まれる形で発表されたもので、同時代の先鋭的な音楽要素を貪欲に取り込みオリジナル作品を創出していた彼が、わけても鮮烈な作家性を発揮した作品といえる。
 タイトルの『カルサヴィーナ』とは、20世紀初頭に国際的に活躍したセルゲイ・ディアギレフ主宰のバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)に所属した花形ダンサー、タマーラ・カルサヴィナのこと。カセットブックという形態ゆえ、音楽とテキストを貫通するなにがしかのモチーフ設定を求められた井上自身が挙げたのが、このタマーラ・カルサヴィナと、同じくバレエ・リュス所属の不幸のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーだったという。特に、後年狂気の淵に陥ったニジンスキーが記した『ニジンスキーの手記』における錯綜した文章表現に強い刺激を受けていたようだ。そのため、音楽自体も架空のバレエ音楽とでもいうべき、「ダンス」を大きなテーマとしたものとなっている。往時、西洋音楽界に大きな物議を醸したストラヴィンスキーのバレエ曲とバレエ・リュスの浅からぬ関係性に思いを馳せるなら、このテーマ設定がいかに野心的なものだったかがわかるだろう。

 井上をはじめとして、今剛(ギター)、高水健司(ベース)、山木秀夫(ドラム)、浦田恵司(シンセサイザープログラマー)という当時日本セッション・ミュージシャン界の最高峰というべき面子で作りあげた本作を聴いてまず驚嘆するのが、その奔放な実験精神の噴出ぶりだ(いまでは想像し難しい話だが、カセットブックというニッチなプロダクトのために、国内随意の録音環境を誇っていた一口坂スタジオにて時間制限を気にせず連日作業をおこなっていたというのだから、当時の音楽産業の資金的充実と長閑さに感じ入ってしまう)。編曲家や演奏家としてのプロフェッショナルな仕事の傍ら、単独作においては常にほとばしるクリエイティヴィティを鮮烈なままに叩きつけてきた彼ではあるが、これほどまでにいわゆる「アヴァンギャルド」な作風に挑めたというのも、この「カセットブック」という特殊な形態とそのテーマ性ゆえだろう。ときに海外ミュージシャン(ベラフォン奏者のカクラバ・ロビ)を交えたそのサウンドの新奇性は、世界的な地平で考えてみても明らかに当時最高峰のものだと断言できる。
 浦田恵司(この人こそはある意味で本作の影の主役であるともいえるかもしれない。彼の仕事の偉大さはまだまだ一般的に知れ渡ってはおらず、いずれどこかに寄稿したいと思っている)のセッティングを経た各種シンセサイザーや、サンプラー、ドラムマシンを駆使し、アナログとデジタルのあわいを貫くループ構造が敷かれるなかで練達のミュージシャンの生演奏が炸裂していく様子は、DAWでの音楽制作が完全普及した現在だからこそ、その魅力をよりよく伝えるだろう。同時代のヒップホップのビート感覚や、テクノポップからテクノの時代へと変遷していく先端音楽シーンの揺籃と呼応しながらも、アカデミックな見識もふんだんに投げ込まれている作曲/編曲術も一級品というほかない。一方で、ピーター・ゲイブリエルやジョン・ハッセルらに通じるような、品の良い(文化収奪的な手付きを慎重に避けようとする)民族音楽嗜好も色濃く、様々な角度から今日的興奮を焚き付けてくれる。またもちろん、ピアノフォルテ奏者としての非常な卓越を聴かせる井上独奏曲の美麗な味わいも特筆しておくべきだろう。

 ちなみに、本再発CDには、上述の『和レアリック・ディスクガイド』監修者である松本章太郎氏によるライナーノーツの他、井上自身による「断章」と名付けられた最新書き下ろしエッセイや今作の録音/マスタリングエンジニアを務めた藤田厚生氏の解説が収録されたライナーノーツと、オリジナル・カセットブック版コンテンツたる井上鑑と佐野元春による「踊り」についての対談(めっぽう面白い!)や、舞踏評論家:市川雅による小伝「ニジンスキーとカルサビナ」をweb上で読むことのできるアクセスコードも付属しているので、購入の後には是非チェックするとよいだろう。本作が生まれた背景や、ダンス音楽としての本作の本質に迫る、大変興味深い内容となっている。

 さてはて、今回のリイシューを機会に、今後も様々な「和モノ」の秘宝が世に再び出ることになるのかどうか。今作のように、その文化的文脈にまで切り込みながら現代的価値を世に問う「丁寧」な再発が続けられていくことを願っている。

pararainy - ele-king

 いまもっとも勢いに乗るラッパーのひとり、釈迦坊主の主宰する《TOKIO SHAMAN》にも出演を果たすなど、じょじょに知名度を高めつつある仙台のラッパー/シンガー pararainy が、本日5月13日に初めてのミニ・アルバムをリリースする。すでに20万回以上の再生数をたたき出している “rainy HANABI” をはじめ、先週ドロップされたばかりの新曲 “約束” も収録。叙情的な旋律とギターを武器に、現行ヒップホップ・シーンに新たな風を吹き込むか? 注目です。


 1980年代はいわゆるインディ・ブームがあり、楽器なんて弾けなくたって音楽は作れるというわけで、パンクやニューウェイヴに影響を受けたバンドが日本列島津々浦々、無数に存在し、たくさんの音源を残しては消えていったのではないかと推測されるわけだが、この度、ノイエ・ドイチェ・ヴェレの再発で知られる〈Suezan Studio〉がその時代の新潟の音源を発掘し、編集して1枚のコンピレーションとしてリリースする。
 『フロム・バックサイド・ジャパン:アンダーグラウンド・ミュージック・シーン・イン 新潟 1980's-90's』には20組による20曲が収録。J・ニューウェイヴというか、まさにあの時代の音。新潟以外にもこんなシーンありました。90年代に入ってDIYシーンもどんどん洗練されていく前夜です。
 はからずともCOVID -19は、日本における“ローカル”に目を向けてさせている。多くの音楽ファンが、自分の“ローカル”なヴェニュー存続のために寄付したりしている、地方自治体がもう中央の言うことを聞かなくなったことと似ているかもしれないし、それは新しい日本の姿をもたらすかもしれない。
 とまれ。発掘モノのインディ音源をお探しの方は必聴でしょう。丁寧に作られたブックレットには新潟文化論が展開されており、そっちも一読の価値ありです。

https://suezan.com/newrelease#4000

Horatio Luna - ele-king

 昨年末にアルバム『フルイド・モーション』をリリースしたばかりの30/70だが、それ以降はメンバーのソロ活動や別プロジェクトがはじまっていて、ドラマーのジギー・ツァイトガイストはツァイトガイスト・フリーダム・エナジー・エクスチェンジの新作をリリースし、サックスのジョシュ・ケリーはJKグループという新しいバンドでアルバムを発表している。一方、ベーシストのホレイショ・ルナことヘンリー・ヒックスもソロ・アルバムの『イエス・ドクター』を出すと同時に、フォシェというユニットと一緒に『ナイス・トゥ・ミーチャ』を作るなど精力的に動いている。
 ホレイショは30/70のコア・メンバーのベーシストで、ジギー・ツァイトガイストと共に彼らの有機的でヴァイタルなリズムを司ってきた。ビート的に見ると、30/70にはジャズ、ファンク、ヒップホップ、ハウス、ブロークンビーツなどが混じり合っているのだが、そうした要素を繋ぐにはホレイショのエレキ・ベースを欠くことはできない。そして彼のベースはおとなしくリズムやグルーヴをキープするだけでなく、ときにギターのように雄弁にソロやインプロヴィゼイションを展開し、サイド・ギターがリズム楽器の役割を果たすということも少なくない。古くはジャコ・パストリアスを彷彿とさせ、現在であればサンダーキャットスクエアプッシャーのようなタイプのベーシストの彼は、ジャズやファンクという領域を飛び越えるフットワークの軽さも持っている。さらに彼はビートメイカー/リミキサーとしても活動していて、そうした点ではマーク・ド・クライヴ・ローなどに近い立ち位置とも言える。

 ホレイショ・ルナはこれまでオーストラリアの地元メルボルンのレーベルである〈ワックス・ミュージアム〉から、『ローカル・ハニー』(2017年)というミニ・アルバムをリリースしている。30/70がジャズ・ファンクとネオ・ソウルの中間的な方向性で、アリーシャ・ジョイのヴォーカルを持ち味のひとつに打ち出しているのに対し、この『ローカル・ハニー』はよりクラブ・ミュージック的な方向性を持つインスト・トラック集で、ハウス、テクノ、ビートダウンなどを咀嚼したサウンドとなっていた。〈リズム・セクション・インターナショナル〉におけるヘンリー・ウー(カマール・ウィリアムズ)あたりに非常に近いサウンドで、そうした方面からホレイショの音楽に触れたファンも多いだろう。
 ほかにも数枚のシングルやリミックス集をリリースし、ジャイルス・ピーターソンによるオーストラリア産アーティストを集めたコンピ『サニー・サイド・アップ』(2019年)にも、ツァイトガイスト・フリーダム・エナジー・エクスチェンジ、アリーシャ・ジョイと並んで楽曲提供をおこなった。そして今年に入って、ファースト・アルバムとなる『イエス・ドクター』を〈ワックス・ミュージアム〉と同じくメルボルンの新興レーベルの〈ラ・セイプ〉からリリースした。
 参加するミュージシャンは30/70のメンバーではなく、ソロ・アルバムもリリースしているフィル・ストラウド(ドラムス)、これまでホレイショのシングルやリミックスに参加してきたデュフレーヌ(シンセサイザー)、アイキー(ギター)を軸に、ゲスト・プレイヤーでセットゥン(ギター)、マンゴ(キーボード)、スローン・ボーイ(ヴォイス)などがフィーチャーされる。フィルとデュフレーヌはそれぞれ『サニー・サイド・アップ』にも楽曲提供をおこない、またホレイショはこの中の何名かとイースト・コースト・コレクティヴというユニットも結成して楽曲リリースをおこなっているが、彼らはメルボルン、シドニー、ブリスベンなどオーストラリア東海岸の主にクラブ~エレクトロニック・サウンド方面で活動する人たちだ。『イエス・ドクター』リリース後にはこのバンドでライヴ・パフォーマンスもおこなっていて、現在のホレイショの主軸プロジェクトと言えるだろう。

 モー・カラーズレジナルド・オマス・マモード4世などに通じる、スモーキーなダブとヒップホップが結びついた “サム・ライク・イット・ホット” にはじまり、ホレイショの本領は続くタイトル曲 “イエス・ドクター” で全開となる。粗削りなジャズ・ファンクとディープ・ハウス~ブロークンビーツが一体化したようなこのナンバーは、地響きを立てるホレイショのベース、デュフレーヌのコズミックなシンセ、フィル・ストラウドのトライバルなパーカッションによって漆黒のグルーヴを作り出していく。ユセフ・カマールの名作『ブラック・フォーカス』(2016年)を彷彿とさせるような世界を持つ曲だ。
 ホレイショ自身の言葉によると、いろいろな音楽が融合する彼の中でも、『イエス・ドクター』は特にハウスにフォーカスしたアルバムとのことで、“ルナ・ランディング” のしなやかなハウス・ビートと律動的なベース・ランニングの融合が彼の理想とするものだろう。ゴリゴリとしたベース・ラインを刻む “バブリー” にしても、見事にダンス・ミュージックとしてのグルーヴを持続しつつも、そこにベーシストとしてのスキルを遺憾なく発揮しているところがホラシオの魅力と言える。エキゾティックなラテン・テイストの “ゴールデン” は、やはりモー・カラーズのように民族音楽的な趣味が伺え、パーカッシヴなビートとダンス・グルーヴが眩暈のように交錯していく。ボッサ・リズムが哀愁を誘う “ノーザン・ビーチズ” ではキーボードと一緒にベース・ソロが展開され、夕暮れどきのバレアリックな風景を生む。深みのある音色のピアノを配した “ブランズウィック・マッシヴ” は人力ブロークンビーツ的な楽曲で、同曲のパート2では強烈なダブ・ヴァージョンへと転じるなど、ジョー・アーモン・ジョーンズらサウス・ロンドンのアーティストたちにも繋がるようなところも見せる。

 もう一枚の『ナイス・トゥ・ミーチャ』のほうは、ジギ・ブラウ(キーボード、シンセサイザー)、マイク・ベントレイ(ドラムス)によるフォシェというユニットとの共演で、よりインプロヴィゼイションに重きを置いたジャム・セッション的な作品である。エクスペリメンタルなジャズ演奏を基調にポストロックなども交えた濃密な演奏を展開しており、不調和で急速なリズム・チェンジもあったりと、『イエス・ドクター』のようなハウスをはじめとしたダンス・サウンドとはまた異なるベクトルを持っている。3人の即興演奏のみで構成されて多重録音や編集は一切おこなっていないが、生まれてくるサウンドは極めてダビーでエフェクティヴであり、ホレイショの実験性が色濃く反映されたアルバムだ。30/70のアルバムと『イエス・ドクター』、そして『ナイス・トゥ・ミーチャ』はそれぞれ異なる性質のものであるが、そうした幅広い音楽性やいろいろなタイプの演奏もこなす技量をホレイショが持つことを見せてくれる。

 緊急事態宣言が出された日の夜の月は、とても大きく眩しかった。(ピンクムーンと言うらしい。色は全然ピンクじゃなかったけど。)どうしても家にいたくない気分だった僕は、ガールフレンドと共に夜のドライブに出かけた。いつもより大きな月が影響しているのか、僕たちは無性に高揚する気持ちを抱えながら夜行性の動物のようにひたすら南へと向かった。閉鎖された立体駐車場。人の気配が消え失せたメインストリート。幼さが残るヤンキーたちが交差点のど真ん中に車を止めて記念撮影をしている。カーステレオから聞こえてくる Nocturnal Emissions の “Imaginary Time” をBGMにその全てが後方に過ぎ去って行く。

 普段なら観光客や観光客相手の露天商でごった返す歓楽街も、今は灰色のシャッターで全て閉ざされ、人間は自分たち以外にはコンビニの店員ぐらいしかいない状態だった。街灯脇につけられた小型スピーカーからは絶えず微かな音楽が流れ続け、街が賑わっていた頃の興奮と混沌が、街に対する未練を捨てきれずに亡霊となって彷徨っているかのようだった。この現状に対する冷めた諦めの気持ちと、これから何かが起こりそうだ(起こすんだ)という無謀な熱の両方を身体に感じ、圧倒的な現実を前にしつつもどこか少し現実離れした気分になった不思議な夜だった。

 「自粛」という言葉はあてたくないが、いつの間にか僕の生活の中心は13.3インチの長方形のフレームの中に収まるようになってしまっていた。そこには過去の失われた世界から、リアルタイムで供給されるエンターテインメントの数々までが隙間なくストックされていて、数回クリックすればそんなに悪くないものに出会える。SNSでは優しいアーティストたちがソフトで摂取しやすいトランキライザを大量生産し、人々は恍惚とした表情で化学調味料漬けのノスタルジーをシェアし合っている。僕自身、80~90年代のイリーガル・レイヴの映像を一日中流したり、当時のスナップ写真を見たり、在りし日の人類の姿を記録した資料に浸っている日もあった。僕はノスタルジーに溺れて死にたくない。僕はこれまでに受けたインタヴューの多くでも大量生産される癒しと安楽死的世界への嫌悪感を語ってきた。今このパンデミック下でその需要も供給も爆発的に増加している。癒しは良いもの。健康は良いこと。自粛が良いことなら外出は悪いこと? 「癒し」「健康」「自粛」と、「良いこと」を選んでいけば天国へ行けて、それができなければ地獄行きだとでも言わんばかりの空気が、いつの間にかしっかりとできあがっている。地獄行きの者達を探して懲らしめる聖戦士たちによる「監視と処罰」。ハーモニーと虐殺器官の世界が同時にやってきた。収束後もあらゆるストレスに対してそれを麻痺させる癒しは量産され続けそうだ。JRの駅に設置された可愛らしい動物の写真や青色LEDの電飾が街を侵食しはじめる日もそう遠くないだろう。年中クリスマスみたいになったら結構キツいな。なんて、ぼーっと考えてしまっている。まあ当面の間は癒しもオンラインに投入され続けるだろう。隔離/自粛/Stay Home でオンラインに浸れるものだけが救済の対象だからだ。

 そんな癒しを嫌悪する僕を救ってくれたのは、やはりダンス・ミュージックだった。そして、自分で意外だったのは、そのダンス・ミュージックがIDM(この名称は好きじゃないけど)系のアーティストの曲たちだったことだ。この隔離された世界になる以前は、Aphex TwinSquarepusher の曲はマトリックス・ワールドへのゲートとして機能していたような感覚があったが、このゲートは一方通行のものではないらしい。思いきりフロア仕様のテクノを聞いてもなんとなく非現実的に思えて虚しい気持ちになっていた中で、正直彼らの曲がマトリックス・ワールドからの生還に役立つとは思ってもいなかった。(よく考えれば当たり前な気もする)

 不可抗力的ではあるが、良くも悪くもあらゆるものがオンラインへ移行した。それは抗議活動も例外ではない。別にネオになろうってわけじゃないけど、マトリックス・ワールドでの戦い方も体得しなきゃと思って、Protest Rave の舞台も路上からオンラインに移した。友人に「社会運動とは可視化だ」と言われ、オンラインでの「可視化」の方法を探った結果、路上の代わりに官邸の意見フォームや、首相のSNSのコメント欄を使うというものになった。自分たちのエコーチェンバーを突き破り、存在を見せつけたい相手のエコーチェンバーの中へと入って行かなければいけない。これがどれほど効果的なのかは正直まだまだ分からないが、やらないよりはマシだろう。少しづつマシを積み上げていくしかない。少なくとも為政者が支持者のコメントに囲まれてハイになれる場所のいくつかは消えたと思う。

 Protest Rave をオンラインでやったときもそうだし、Contact からの配信番組を見てくれた人からも「早く現場に行きたい!」と言う声が届いたのは嬉しかった。オンラインにはオンラインのやり方や楽しみがあるけど、それは現場の代わりにはならない。だからオンラインではオンラインに特化したこと、オンラインだからこそできることをやって、現場向けのとっておきは現場のためにとっておくんだ。この隔離期間はキックとキックの間の長い長いブレイクだと思ってもいいかもしれない。早くキックが欲しいけど、このブレイクの間も僕は自分の踊り方で踊り続けようと思う。この肉体を持て余してる余裕はない。

 とにかく今月は How to fight, How to survive in the Matrix world. って感じで、そしていつかは Escapin' out the Matrix world.

 おっと! 政府が発表した科学技術のムーンショット目標、マトリックス・ワールドの話じゃないか! 次回もまたこの話……?
 続く!

Laurine Frost - ele-king

 エディプス・コンプレックスとは男の子が母親との仲を裂かれまいとして無意識に父を敵視することで、フロイトはこれを誰にでもある普遍的な概念として定義した(女の子と父親の場合はエレクトラ・コンプレックス)。しかし、子どもが(年齢とは関係なく)そうした感情を自覚できないうちに父が病気になったり、死んだりすると、父が倒れたのは自分自身の敵意が原因だという罪悪感を持ってしまったり、悪くすれば「対象喪失」という感覚に陥るなど場合によっては生きる意欲を失ってしまう可能性もある。自分を「完璧な子ども」に育てようとした「父」を題材に、初めて本人名義のアルバム制作に乗り出したローリン・フロストはその途中で実際に父を失うこととなった。「半分まで完成したところで父が自殺した。このプロジェクトのことは知らずに」。死後ではなく、その前から制作を進めていたことで、彼は「対象喪失」に陥ることはなく、むしろ完成度の高いアルバムに仕上げられたのだろう。ヒーローだった父親が日に日に信念や尊厳を失っていく──その姿を描こうとしたのだから。

 ペトレ・インスピレスクがルーマニアン・ミニマルの「表の顔」ならローリン・フロストは「裏の顔」だろう。ルーマニアで〈オール・イン・レコーズ〉を立ち上げ(後にハンガリーに移動)、ロシアや東欧のプロデューサーを広くフック・アップし、〈オール・イン〉を逆から読んだサブ・レーベル、〈Nilla〉でもフランスのアフリクァ(Afriqua)や最近ではスウェーデンのアルカホ(Arkajo)など素晴らしいリリースを続けている。フロスト自身は13年にコールドフィッシュ名義でリリースしたアルバム『The Orphans』がブレイク作となり、同じ年に本人名義のシングル「Metafora Of The Wolves」や、とりわけ「Swings Of Liberty」では作風もミニマルにジャズを取り入れるなど『Lena』への大いなる助走は早くから始まっていた(『The Orphans』は孤児という意味で、やはりチャウセスク政権下で軍事訓練を受けていた子どもたちのことなのかしらと思いながら、いまだにどうなのかわからない。険しい表情で何かを睨みつけている少年の表情が印象的なジャケット・デザイン)。

 父を題材にするといいながら『Lena』のコンセプトはかなり複雑である。ベースとなっているのはドストエフスキーの短編「おかしな人間の夢」で、自殺しようとしている男を彼の父に置き換えたという。男は夢を見る。そして、「真理を発見」して自殺はやめにするというストーリーで、実際には起きなかったことがシュールリアリスティックに展開されている。これを音楽に移し替えたとフロストは解説している。現実には父は自殺しているわけだから「起きなかったこと」とは、父が夢を見て啓示を得ることである。そのようにして父に生きていて欲しかったということかもしれないし、あくまでも弱さを認めなかった父の存在を否定しているとも考えられる。どちらの解釈であれエディプス・コンプレックスの克服を通り越して作者が「成熟」に至ったことは確かである。テクノに美学が持ち込まれることは頻繁にあったかもしれないけれど、ここまで文学趣味を作品に押し被せた作品は珍しい。うがった見方をすれば、父はソ連(現ロシア)で、連邦体制が崩れなかった場合の東欧がフロストたちルーマニアン・ミニマルとして投影されていると見なすことも可能だろう。ルーマニアン・ミニマルの異常なまでの暗さは「対象喪失」に由来し、それは計画経済が破綻したという「歴史」を受け入れるプロセスだというか(いつのまにか話がユング的になってしまった)。

 ここまで書いたことは忘れて虚心坦懐に『Lena』を聴いてみよう。ドラムン・ベースを簡素化したようなジャズ・ドラムとヴィラロボス流ミニマルの衝突。ハットとベースが絡みつき、ドラムでアクセントをつけた退屈ギリギリの2コード・ミニマルと獰猛なベース・ライン。不協和音を響かせるピアノのループと緊張感のあるホーンに無機質なダブと、フロストが醸し出す雰囲気にはいつも「余地」が確保され、それこそ息がつまるような交響曲の暗闇へと引きずりこむペトレ・インスピレスクとは対照的である。「このアルバムはクリシェに逆らい、単なる過去の再生産に抗っている」「最も大事なことは過去に学び、未来へ繋げていくこと」とフロストは力強く書き記し、ポップ・カルチャーにおける歴史意識を強調する。そう、できることなら彼にザ・ポップ・グループ『Y』のリミックス・アルバムをつくらせてみたい。

Shabaka And The Ancestors - ele-king

舞い戻ってくる過去、そこから想像されるオルタナティヴな現在

髙橋勇人

 本作『We Are Sent Here By History』は、バルバドス/イギリス出身でロンドンを拠点に活動するサックス奏者シャバカ・ハッチングスが率いるバンド、シャバカ・アンド・ジ・アンセスターズ(以下、ジ・アンセスターズ)による、2016年作のファースト『Wisdom of Elders』に続く二枚目となるスタジオ・アルバムである。タイトルを直訳すれば「我々は歴史によってここに送られる」となる。ハッチングスの思想的探求が結実した作品となっている。
 これは、現在において途方もない問題に直面している我々とは誰なのかを、アフロ・ルーツへと立ち返り、それを人類規模で思考する壮大なサウンド・プロジェクトだ。合評ということなので、僕のテキストは今作の思想的な背景に焦点を絞って読み解いていきたいと思う。

 今作に関するインタヴューでハッチングスが述べるように、西アフリカ文化に伝わるグリオ(Griot)と呼ばれる、物語の語り手や音楽家が主にその役を担う存在が、今作に着想を与えている。グリオは国家の歴史や教訓を切り取り、それを楽曲や物語のなかに生きながらえさせ、人々に伝える。ハッチングスはそれに着想を得て、過去の一部分を違った角度から語り、それを保存していくことの意義を今作で示しているのだという。
 また、『CRACK』などの媒体で引用されているように、ハッチングスはこのアルバムを以下のようにも説明している。「(今作は)我々がひとつの種として絶滅しかかっている事実に関する熟考である。それは、廃墟からの、あるいは燃え盛るものからの内省だ。もしその終焉が悲劇的な敗北以外の何かであるとしたら、個人的な、あるいは社会的な我々の転換において取られるべき方向への問いだ」。経済的、環境的、パンデミック的な災害は、惑星規模で人類を蝕んでいる。ジ・アンセスターズは、そこに希望を見出すために歴史の概念にアフリカを経由して向かっているのだろうか。そして、「歴史によって我々はここに送られる」とはどういうことなのか。

 この点を考えていく上でヒントになるのは、ハッチングスがインスタグラムで最近読んでいる一冊に挙げていた、ロンドン拠点の地理学者カトリン・ユゾフの2018年発表の著書『十億の黒い人新世たち、もしくは無(A Billion Black Anthropocenes or None)』である。
 人類が地球環境に甚大な影響を及ぼす時代区分を示す人新世という地質学的な時代区分に対して、賛否を含めて多くの議論がある。そのなかでもひときわ重要なのは、人新世における「人間」とは誰なのか、という問いである。種としての人類はたしかにひとつかもしれないが、そこで文化的にも形成される「人間」の定義はひとつではありえない。その形成過程は文化が生じる歴史の経路によっても多元化しているからだ。
 「人新世」というタームが西洋のアカデミズムから出てきていて、その論理の根拠となるデータがそのコミュニティから派生しているのならば、その時代における「人間」とは西洋白人というカテゴリーに限定されてしまってはいないだろうか? その場合、地球規模の問題として人類が直面する天候クライシスなどのイシューに関わる主語としての「人間」の定義は、そんな狭義でよいのだろうか?
 ユゾフの『黒い人新世』は、そういった観点から、地球環境を把握する地質学(geology)という手法が、どのように特定の「人間」、あるいは「人種」に作用しているかを、ポストコロニアリズム研究などを経由して発展したブラック・スタディーズを武器に、果敢に切り込んでいく。先行する研究が説いてきたように、近代化の過程において、特定の他者を排除する奴隷制や、植民地主義といったシステムが、そういった「人間」のあり方を規定してきた。
 その文脈において、現代において惑星規模で危機に直面する者たちが誰なのかを、そして、その存在が活動する場所について考えるためには、現代のグローバルシステムにおいて形成される単一的な「白」ではなく、その歴史的な背後にうごめく制度によって除外されてきた数十億の「黒」を含めた「人間」を描かなければいかない。ざっくりいえば、それがユゾフの主張である。

 このクリティークがハッチングスの基本姿勢に通底している。彼が『The Quietus』に語っているように、アフリカの宇宙論において、時間は直線的にではなく、循環的に存在している。冒頭で引いたように、グリオたちを経由して過去が現在に舞い戻ってくる歴史観がまさにそれである。すでに起きてしまったことも、グリオたちの焦点の当て方によって変化していく。ハッチングスが参照する歴史観において、過去とは一様のものではなく、このようにして、いく通りにも変化していく潜在性の貯蔵庫のようなものだ。
 「我々は歴史によってここに送られる」。つまり、「ここ」を形作るのは歴史である。そして、「ここ」に問題があるならば、それを形成する歴史という潜在性に目を向け、その問題を打ち消すようなべつの「ここ」を想像しなければならない。
 ジ・アンセスターズは「ここ」を生きる「人間」の概念にも焦点を当てている。8曲目の “We Will Work (On Redefining Manhood)” のタイトルにある「Manhood」は「男らしさ」とも解釈できるが、この文脈では「人間としてのman」の再定義としても理解することができるだろう。
 サウンドにもこの思考は顕在化している。ジ・アンセスターズはクラブ・ミュージックのように、しばし反復的なメロディを刻む。加えて、今作で歌唱を担当する詩人のシヤボンガ・ムセンブが、消えゆく人間の末路が歌われている冒頭曲 “They Who Must Die” で最初に口にする「We are sent here by history」というラインは、二曲目 “You’ve Been Called” でメロディとともに現れ、その旋律が終曲の “Teach Me How To Be Vulnerable” で、哀愁を帯びたハッチングスのテナーから溢れてくる。言葉とサウンドで自己参照を繰り返し、ジ・アンセスターズは事象の多元性を描いてみせる。
 冒頭のハッチングスの言葉にあるように、語り部は、歴史のタイムラインを複数化させ、来るべき未来の可能性を示すことができる。この意味において、去年日本版が出た『わが人生の幽霊たち』でマーク・フィッシャーが描いた、息が詰まる資本主義リアリズムの現実の外側から「ノイズ」として到来する、別様の未来の可能性を内包した希望としての幽霊たちとも、『We Are Sent Here By History』のテーマは重なると言ってもいい。彼らはサウンドを通して、「ここ」と、その場所を生きる者たちの別の姿を、歴史的な潜在性に立脚し描こうとしている。

 ジ・アンセスターズが横断するジャズの地平線において、このアプローチは全く斬新なもの、というわけではない。2019年に再発された数あるジャズの名作のなかで、ひときわ注目された一枚は、サックス奏者ジョー・マクフィーの1971年作『Nation Time』だった。アミリ・バラカに触発され世の中に送り込まれたこの起爆剤は、当時のブラック・ムーヴメントに共振したものである。
 そこでは「time」は「時代」を表している。そのダブル・ミーニングでマクフィーが冒頭で叫ぶ「いま何時だ!?(What time is it!?)」という問いは、いまは奴らのじゃない、俺たちが作る国の時代なんだぜ、というアジテーションだった。観客はそのコールに「Nation Time!」とレスポンスし、マクフィーの怒涛のサックスが鳴り響く。
 『We Are Sent Here By History』は、異なる現実を示唆/提示するという意味ではマクフィー的なブラック・パワーともオーバーラップしている。しかし、ジ・アンセスターズの射程はそれだけではない。焦点の当て方で変わる過去の事象と現在、という歴史のシステムにも向かっている。この、現実を作り出すシステムを鳥瞰図的に描くと言う意味で、彼らには形而上学的なユニークさがある。
 ジャケットのヴィジュアルにも、それに通じる点がある。黒い四角形の後方部には、歴史の存在容態とその複数性を表しているであろう円形の模様が蠢いている。その前方に位置する、ひとりの黒人の姿。その歴史/人間が放つアフリカ時間と視線を合わせ、現在から我々の視点は、数十億の黒がひしめき合う過去へと引きずり込まれていく。そのようにしてしか、過去と未来が到来し続ける現在を考えることができない。身体は斜め前に向かいつつも、その眼光は力強く、こちらを向いている。

髙橋勇人

Next >> 細田成嗣

[[SplitPage]]

口述的/非筆記的な「グリオ」というテーマに映る英国自由即興音楽の経験

細田成嗣

 英国現代ジャズ・シーンの中心的存在として活躍するサックス/クラリネット奏者シャバカ・ハッチングスが率いるシャバカ・アンド・ジ・アンセスターズ(以下:アンセスターズ)による4年ぶり2枚めのアルバムが発表された。リリースもとは〈インパルス!〉で、これでサンズ・オブ・ケメットザ・コメット・イズ・カミングに続き、シャバカが現在取り組んでいる3つの主要プロジェクトすべてが米国の名門ジャズ・レーベルからデビューを果たすこととなった。

 アンセスターズはシャバカが南アフリカのジャズ・ミュージシャンとともに2016年に結成したグループである。以前よりエチオ・ジャズの巨匠ムラートゥ・アスタトゥケとコラボレートするほか、南アフリカ出身のドラマーであるルイス・モホロと共演するなど、シャバカはアフリカをルーツに持つミュージシャンと関わりを持っていた。モホロといえば、かつて1960年代後半に南アフリカ出身のピアニスト/作曲家クリス・マクレガーが英国の先鋭的なジャズ・ミュージシャンらと結成したビッグバンド、ブラザーフッド・オブ・ブレスのメンバーとしても知られている。むろんアパルトヘイトによって祖国を追われた当時の南アフリカのミュージシャンと英国の関係をそのまま現代に置き換えることはできないものの、少なくとも英国と南アフリカのつながりから生まれたジャズの系譜は長い歴史を経て現在のアンセスターズへと流れ着いたと言うことはできる。ただしシャバカはアフリカを唯一のルーツとして考えているわけではない。1984年にロンドンで生まれながらも少年時代をカリブ海の島国バルバドスで過ごした彼は、アフリカン/カリビアン・ディアスポラとして自身の音楽活動を捉えている。

 シャバカが推し進める主要3グループのなかで、アンセスターズは編成も内容もいわゆるジャズにもっとも近しいプロジェクトだと言っていい。それも執拗に反復するベースラインと力強く詩を叫びあげるヴォイス、そして陶酔的/祝祭的なサウンド・メイキングは、サン・ラやファラオ・サンダースをはじめとしたスピリチュアル・ジャズを彷彿させる音楽性となっている。今作は西アフリカにおいて物語や教訓などの口頭伝承を担う演奏家を意味する「グリオ」およびカリブ海でカリプソをもとに時事問題を歌いあげる即興詩人を意味する「カリプソニアン」になることを目し、人類の絶滅をテーマに制作したというものの、そのサウンド面に着目するだけでも前作からの音響的変化を聴き取ることができる。

 真っ先に耳が引かれるのは、前作において複数の楽曲でシャバカがメインのサックスを朗々と吹いていたのに対し、今作ではアルト・サックスのムトゥンジ・ムヴブとともに対位法的に2管の旋律を絡み合わせていく演奏が主体となっていることである。前作の4曲め “The Sea” の方向性がより洗練されたかたちで前景化したと言ってもいい。さらに今作ではシャバカ自身による不定形な即興性が前作に比して抑えられている。言い換えればコンポジションの比重が高まったということでもあり、それは2管が絡み合う旋律を構築的に聴かせるということとも無縁ではないだろう。そしてこうした諸々の変化は、グループにおけるシャバカの演奏家としての立ち位置が突出することなく、あくまでも他のメンバーと共同でアンサンブルを編み上げていくことを重視するようになったと受け取れるとともに、その表面的な構築性とは裏腹に、口述的で非筆記的な「グリオ」や即興歌唱を行なう「カリプソニアン」をテーマとして取り上げたことを考え合わせるならば、記譜作品とは異なる快楽を求めてきたシャバカのもうひとつの顔、すなわち即興演奏家としての経験がリフレクトされた音楽としても聴き取れるように思う。

 シャバカ・ハッチングスは2007年にロンドンの芸術大学ギルドホール音楽院を卒業後、一方では英国カリビアンの先達でもあるサックス奏者コートニー・パイン率いるジャズ・ウォーリアーズに参加しつつ、他方ではいまや英国即興シーンの拠点のひとつとなっているロンドンのカフェ・オト(2008年設立)周辺のミュージシャンたち、たとえばエヴァン・パーカーやスティーヴ・ベレスフォード、アレキサンダー・ホーキンス、ルイス・モホロらと共演することで即興音楽の世界との関わりを深めていった。のちにサンズ・オブ・ケメットで活躍するドラマーのトム・スキナーらとその頃に結成したトリオ・Zed-Uでは、こうした自由即興の文脈を取り入れたアルバムも制作している。

 即興演奏家としてのシャバカの足跡を辿るうえでひときわ注目に価するイベントがある。2011年10月6日から8日にかけてドイツ・ベルリンを舞台に開催された《Just Not Cricket!》という音楽フェスティヴァルである。テーマは他でもなく英国自由即興音楽だった。当日の模様は4枚組のレコードとしてアーカイヴされている。ドキュメンタリー映画も製作が進められていたものの、現時点ではまだ完成していないようだ。同映画は仮の副題として「英国自由即興音楽のマッピング」を掲げており、ジョン・ブッチャー、スティーヴ・ベレスフォード、ロードリ・デイヴィス、アダム・ボーマンの4人をシーンの主要人物として捉え、四世代にわたる英国自由即興音楽の担い手たちをカメラに収めているという。そのうち最も若い世代にあたるのが、当時20代のシャバカ・ハッチングスだった。

 英国は自由即興音楽が盛んな土地としても知られている。かつて60年代にはリトル・シアター・クラブを拠点に多くのミュージシャンが新たなフリー・フォームの音楽を探求し、デレク・ベイリーやエヴァン・パーカー、ジョン・スティーヴンスらを輩出した。なかでもスティーヴンスはスポンティニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)を組織しつつ、さらに即興演奏のワークショップを行なうことで後進の育成にも貢献した。ベイリーとパーカーはトニー・オクスリーらとともにミュージシャンによるレーベル〈インカス〉を創設したことでも知られている。
 またこうした交流とは別の文脈で、キース・ロウやエディ・プレヴォらによるグループ・AMM も活動を行なっていた。70年代半ばからは、のちにオルタレーションズとしても活躍するデイヴィッド・トゥープやスティーヴ・ベレスフォードらが参加したロンドン・ミュージシャンズ・コレクティヴ(LMC)が始動し、コンサートやワークショップが継続的に開催された。トゥープやベレスフォードに加え、ジョン・ブッチャー、ジョン・ラッセルらを含めたミュージシャンが第二世代と言われている。90年代終わりにはコンダクションを用いた即興アンサンブルのロンドン・インプロヴァイザーズ・オーケストラ(LIO)が組織され、数多くのミュージシャンが去来した同グループにはのちにシャバカも参加している。90年代後半からゼロ年代にかけてはベルリンやウィーンにおけるリダクショニズム、あるいは東京の音響系/音響的即興と同時代的な潮流もあらわれ、ロードリ・デイヴィスやマーク・ウォステルら第三世代の立役者たちは「ニュー・ロンドン・サイレンス」という言葉とともに語られた。

 シャバカはそのような英国即興音楽の系譜のなかではゼロ年代後半からテン年代にかけて頭角をあらわした第四世代に位置している。レコードとしてリリースされた『Just Not Cricket!』で彼は3つのトラックに参加しており、なかでも同じく第四世代にあたり、ジャズ・グループのほかヴァンデルヴァイザー楽派をはじめとした現代音楽作品を再解釈する試みを行なっているセット・アンサンブルの一員でもあるコントラバス奏者ドミニク・ラッシュと、第三世代のハープ奏者ロードリ・デイヴィスとのトリオ・セッションで顕著なのだが、点描的な弦楽器のサウンドに対してシャバカは流麗なメロディをクラリネットで淀みなく演奏していく。それは特殊奏法を駆使した音色の探求や力強い咆哮によって生じるノイズ、あるいはメロディやリズムを巧妙に避けるノン・イディオマティックなアプローチといった自由即興の文脈とはやや異なるサウンドであり、クラシックとジャズをバックグラウンドに持ちつつ背後に仄かにグルーヴが流れ続けているような演奏とでも言えばいいだろうか。いずれにしてもこのように活動領域や文脈が大きく異なる3人がセッションを行なうことができるのは、英国においてミュージシャン同士を結びつける自由即興音楽のコミュニティが強く根づいていることの証左でもあるのだろう。

 アンセスターズの作品、とりわけこのたびリリースされたセカンド・アルバムでは、こうしたシャバカの即興演奏家としての側面は明示的なサウンドとしてはあらわれていない。もとより即興セッションにおいても構築的な演奏を重視していたと言うこともできる。むろんなかには深い残響処理が施されたアコースティック・ピアノのアブストラクトな響きから幕を開ける2曲め “You’ve Been Called” や、激しく飛び交うトランペットの即物的かつストレンジな音色が印象的な7曲め “Beast Too Spoke Of Suffering” といった楽曲も収録されている。だがいずれもその裏では骨子となるようなポエトリー・リーディングやテーマ・メロディが奏でられており、演奏全体が音響的にカオティックな状態に陥ることはなく、かえってそのコンポジションのありようを際立たせている。このことはしかし本盤が固定された構築美を示しているというよりも、むしろ「グリオ」のように口述的/非筆記的に、すなわち即興的にさまざまな変化を遂げていくことの原型となり得ることを示唆している。そこにはシャバカが自由即興の世界で幾度も出会ってきたはずの、音楽における記譜の伝統とは別種の快楽に対する志向がうかがえる。

 そしてそのような音楽へと赴くことができた背景には、ミュージシャンが修練を積むためのさまざまなコミュニティが、誰でも参入可能な開かれたかたちで存在しているという英国ならではの土壌があることを見落としてはならない。英国において自由即興音楽は特権的で閉鎖的なものではなく、おそらくミュージシャンを志す誰もが小さなきっかけから自然と触れることができ、学ぶことができるようなものとしてある。少なくともこれまで見てきたように、英国には即興音楽を実践するためのコミュニティが歴史的に数多く存在してきたのである。ジャズに目を転ずれば、若手ミュージシャンの育成機関であるトゥモローズ・ウォーリアーズがそのような役割の一端を担っており、他でもなくシャバカはそこでも音楽を学んでいたのであった。彼の音楽はこうしたさまざまなコミュニティのアマルガムとして産み落とされている。それはアフリカン/カリビアン・ディアスポラとしての音楽を模索する彼が、一方では英国という土地で歩んできた固有の経験を自らの音楽に刻んでいることを意味しているとも言えるのではないだろうか。

細田成嗣

R.I.P Florian Schneider - ele-king

談:ダニエル・ミラー

 クラフトワークがいなければ、いま巷で聞かれるようなタッチのサウンドや音楽はなかっただろうし、彼らなしにはMUTEも存在しなかったでしょう。彼らは単に私にインスピレーションを与えただけでなく、エレクトロニック・ミュージックを生み出すプロセスそれ自体を理解させてくれたのです。
 私はここ数年、フローリアンと数多く会うことが出来てすごく幸運でした。彼と最後に会ったのはデュッセルドルフで、彼が持っているスタジオ近辺を熱心にしかも面白おかしく案内してくれたのでした。例えば彼が見せてくれたのは戦前に作られた電子機器で、それは当時ひと山幾らといったガラクタのなかから買ったそうなのですが、結局一度もちゃんと動かなかったそうです。
 また私がフローリアンからオリジナルのクラフトワークのヴォコーダーを購入したのも、とても幸運な出来事でした。実は、そのヴォコーダーはイーベイを通して購入したのですが、私たちがお互いの存在に気づいたのは、なんと購入が成立した後だったのです! 彼はそのヴォコーダーは一度もきちんと機能したことがないんだけどそれでもよければ、と説明してくれたのですが、その説明はさらっとお茶でも飲むみたいに簡単に済ませたかったようです。普段の私たちの間では、そんな大事なことを簡単に済ませることなど絶対になかったので、その後私たちが会うときには当時の話が必ず会話のネタとなりました。

---

野田努

 クラフトワークのオリジナルメンバーとして、1970年から2008年までの長きにわたって活動したことで知られるフローリアン・シュナイダーが5月6日ガンのため73年の生涯を終えた。
 著名な建築家を父に持つシュナイダーと、医者の息子として生まれいまでもクラフトワークとして活動するひとつ歳上のラルフ_ヒュッター──自らを(メタファーとして)父無し子であると公言することになるふたりが出会ったのは1968年だとされている。面白いことにそこはデュッセルドルフ音楽学校のジャズ・インプロヴィゼーション・コースだった。彼らはフルクサスの影響下で、ヨゼフ・ボイスの生徒たちやのちにクラウトロックのシーンに関わることになるミュージシャンたちとセッションしている。ヒュッターがオルガンを弾いて、シュナイダーはフルートを演奏した。
 さて、今日我々が使う「クラウトロック」なる、主に70年代西ドイツで生まれた実験的なロックを意味するジャンル用語を普及させた第一人者にジュリアン・コープというUKのロック・ミュージシャンがいる。この男は裸のラリーズ神話を欧米に広めた人物としても知られているが、コープによればクラフトワークでもっとも良かった時期は1stから3枚目の『ラルフ&フローリアン』までとなっている。つまり『アウトバーン』以前の、彼らがマンマシーンとなるより前のクラフトワークこそ真のクラフトワークというのである。現在、廃盤となっている3枚のアルバムこそが最良の作品だというのだ。
 ぼくはこの意見に大いに賛成していた時期があった。ヒュッターがいうところの〈クラフトワークの初期段階〉、すなわちまだほぼすべての演奏をエレクトロニクスで統一する以前の彼らの音楽の初期にはやがてノイ!を結成するふたり(M.ローターとK.ディンガー)が関わっていたこともあるし、生演奏が楽曲における重要な成分として機能していた。いまとなっては公式には聴くことができない〈初期段階〉はまさに失われた宝であり、この眩しい喪失における楽曲たちの魅力を演出していたひとつの(そして極めて印象的な)要素にシュナイダーのフルートがあることは、“ルックツック(Ruckzuck)”や“クリングクラング(Klingklang)”のような曲を100回以上聴いている人には痛いほどよくわかる話だろう。〈初期段階〉を喩えるなら、それこそ広がる田園地帯にそびえる発電所であり、シュトックハウゼンからイーノへの橋渡しであり、美しい軌道を描きながら旋回する惑星であり、ワクワクする未来そのものだった。そして〈初期段階〉の最終章となる『ラルフ&フローリアン』(1973)は、戦略性を欠いたもっとも純粋な形での実験が反映されたエレクトロ・ポップとしてのマスターピースである。いまならIDMの最初期の作品として位置づけることもでるだろう。
 クラウトロックを研究しているUKの音楽ジャーナリスト、デヴィッド・スタッブスによれば、フローリアン・シュナイダーは、クラフトワークのメンバーにおいてもっとも洗練されたファッション・センスがあって、明らかにステージのうえで存在感をはなっていたという。とはいえ、マンマシーンと化してからのバンドでは、そうした外見的な個性は削除されてしまったのだが、クラフトワークのエンジンがシュナイダーとヒュッターのふたりであったことは言うまでもないことである。
 アメリカの高名なロック・ジャーナリスト、レスター・バングスは初めて会ったシュナイダーについてこう表現している。「コンピュータを作ることができ、ボタンを押せばわずかな感情表現だけで世界の半分を吹き飛ばすことができるみたいだ」
 半分どころか、世界のほとんどがクラフトワークが創出したエレクトロニック・ポップ・ミュージックないしはテクノというジャンルの恩恵に授かっている。旧来のロックの概念に真っ正面から対抗する未来の価値観、その創造過程においてもっとも貢献したひとりがこの世を去った。しかし、ボタンを押せばたったいまだって彼の演奏が聴ける。なので大丈夫、どうか安らかに。

interview with Kensuke Ide - ele-king

 シンガーソングライターの井手健介率いる不定形バンド「井手健介と母船」による5年ぶり2枚めのアルバムがリリースされた。前作『井手健介と母船』が発表されたのは2015年。それまで吉祥寺の映画館・バウスシアターでスタッフを務め、「爆音映画祭」の運営にも携わっていた井手は、2014年6月の同映画館の閉館をひとつのきっかけとしてファースト・アルバムの制作をスタートさせたという。繊細に揺蕩う音響の襞が重なり合い、あくまでも「歌もの」の体裁を保ちながらも、聴き手にミクロなサウンド世界を顕微鏡で覗いているかのような感覚にさえ陥らせる作品内容は、石橋英子や山本達久、須藤俊明らジム・オルークのバンドでも活躍する当時の参加メンバーの音楽性とも決して無縁ではないだろう──なかでも際立つ8曲め “ふたりの海” で聴かれるミニマルなインプロヴィゼーションからは、カフカ鼾やザ・ネックスの即興性を想起することもできるはずだ。

 『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists (エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト)』と題したセカンド・アルバムは参加メンバーも音楽性もガラリと様相を変え、まったく新鮮な音楽として結実することとなった。とりわけ注目すべきはサウンド・プロデューサーとして参加している石原洋の存在だろう。石原はこれまでゆらゆら帝国をはじめ BORIS や OGRE YOU ASSHOLE などのプロデュースを手がけてきた一方で、自らもホワイト・ヘヴンやスターズといったバンドで音楽活動をおこない、サイケデリックなロック・ミュージックを発信し続けてきた。今年2月にはソロ・アルバム『formula』を発表し、本誌『ele-king』ウェブ版のインタヴュー記事で自身のロック哲学を披瀝したことも記憶に新しい。このたびリリースされた井手健介と母船によるアルバムも、テーマは他でもなくロックだという。

 だが取材を通じて筆者は井手健介の背景にロックというよりも映画の世界の広がりを強く感じた。もちろん彼にとってロックの文脈は欠かせないものであるに違いない。しかしながら同時に、ロックをアルバム・コンセプトとして取り上げるにしても、映画の構造なくしては生まれ得ないようなかたちを取っているのである。前作が映画における音響体験と関連性がある作品だとしたら、今作は映画における物語のありようと強く関わりを持っている。すなわち音楽としてアウトプットされる形態が音響的アプローチになろうとも物語的アプローチになろうとも、ものごとを映画的に捉え表現していくという思考と感性の枠組みがある点において前作と今作は一貫しており、そしてそれこそが井手健介というミュージシャンの特異な作家性であるとも言えるのではないだろうか。彼は映画の世界を構造的に把握することによって新たな音楽の世界を生み出していく。

 架空の人物エクスネ・ケディを井手が演じた今作では、歌詞やサウンドの節々に幽霊との接触の機会が訪れる。幽霊と接触することは、わたしたちの日常空間が一変してしまうような非日常的な体験だと言い換えることもできる。こうした体験の強度はおそらく、現実それ自体が非日常的な空間で覆われていたとしても変わらない。むしろ自由な移動が制限され、集会することもできず、多くの人々にとって〈いま・ここ〉に留まることを余儀なくされる状況であればこそ、別の時間と別の場所に対する想像力を秘めた作品に立ち会うことによって、〈いま・ここ〉から離れる経験を耳に焼きつけておく必要があるとも言える。インターネット上のビデオ通話を介して井手健介が語る言葉は、そのような想像力の在り処を指し示しているようにも思えたのだった。

オーガニックとか自然体な要素をなるべく排除した、人工的でギラッとしたロックをやろうという話になりました。そして出てきたのが「グラム・ロック」というキーワードでした。

ファースト・アルバム『井手健介と母船』(2015)は、井手さんが運営に携わっていた映画館・吉祥寺バウスシアターの閉館が制作の大きなきっかけになっていましたよね。今回のセカンド・アルバム『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists』はどのような経緯で制作がはじまったのでしょうか?

井手:実はファーストを出したあと、すぐにセカンドを作りたいという思いはあったんです。でも気づいたら5年くらい経ってしまいましたね。今回のアルバム制作に取りかかりはじめたいちばん大きなきっかけは、プロデュースをお願いした石原洋さんの存在でした。僕はもともと石原さんがプロデュースしてきたバンドが好きでしたし、石原さん自身の音楽活動も好きで、レコードを聴いたりライヴを観に行ったりしていたんです。そんなある日、石原さんがDJをしているイベントに行ったらお話しする機会があって。それからちょくちょく交流するようになりました。で、いよいよセカンド・アルバムを録ろうと動き出したとき、思い切って石原さんにプロデュースを依頼してみようと考えたんです。

それはいつ頃のことでしたか?

井手:アルバムのプロデュースを最初に依頼したのはたしか2018年です。その少し前、とある人から「養命酒のCM音楽を作ってほしい」って言われていたんですよ。面白そうだなと思って、たまたま石原さんと会ったときに「こんど養命酒のCM音楽を作るので、プロデュースしていただけませんか?」って言ったら、「いいよ」って引き受けていただけたんです。「これはめちゃくちゃサイケな曲が養命酒のCMで流れるぞ……」と思っていたんですが、あっさりその仕事が流れてしまって。でもいちどプロデュースのお願いをしてますし、せっかくの機会なのでアルバムのプロデュースをしていただこうと話を切り出したら「やりますよ」と言ってもらえた。早速デモ音源を送ろうとしたんですけど、なかなか曲ができなくて、本格的に始動したのは2019年の6月ごろでした。

今回のセカンド・アルバムでは、ファースト・アルバムの頃とはバンド・メンバーがガラリと変わっていますよね。どのように新メンバーを集めたのでしょうか?

井手:山本達久くんや石橋英子さん、須藤俊明さんたちと一緒にやったのはファーストのレコ発が最後でした。あの素晴らしいメンバーがいたからこそあのファースト・アルバムを制作することができたので、セカンド・アルバムへの道のりが険しくなるのは想像できました。ただ、時間がかかってもいいので、ファーストとは違う新しいアルバムが作れたらと考えていました。先程と矛盾するようですが、もともと僕は矢継ぎ早に作品を出していくタイプでもないので、納得がいくかたちを探してみようと。そこから、ライヴの現場ですごいなと思った人に直接声をかけて新しいメンバーを集めていきました。

ドラマーの北山ゆう子さんに声をかけたとき、どういったところに魅力を感じていましたか?

井手:ゆう子さんも生の演奏を観て「この人の音がいい!」と思って声をかけたんです。ゆう子さんのライヴは以前から観たことがあったんですが、2016年に神保町試聴室で見汐麻衣さんと一緒に「埋火の楽曲だけでライヴする」という企画をやったんですね。そのときに僕がギターで、ゆう子さんがドラムで、初めて一緒に演奏したんですよ。一打一打の音が、単純な音量的な意味だけではなく「デカい!」と感じて、驚いたのを覚えています。達久くんもそうなのですが、僕はロック・バンドの中でドラムがいちばんかっこいいと思っていて、ドラマーの音に触発されるようにバンドの勢いが上がっていく快感がゆう子さんの音にもあったんですね。

ファーストを出した直後からセカンドを作ろうと考えていたとのことですが、新しいメンバーを集める際にすでにセカンド・アルバムのビジョンはあったのでしょうか?

井手:いや、ビジョンはまったくなかったですね。曲すらできていない状態でした。

セカンド・アルバムはファースト・アルバムとは音楽性が大きく変化しましたよね。今回の作品はどのようなコンセプトで制作されたのでしょうか?

井手:サウンドのコンセプトとしてはロックです。最初に石原さんと話をしたときにT・レックスやルー・リード、デヴィッド・ボウイが好きだという話題で盛り上がったんですよね。ファーストのときはサイケデリックやアシッドフォークをやりたいという気持ちがあったんですが、セカンドは石原さんと会話を重ねていくうちに、オーガニックとか自然体な要素をなるべく排除した、人工的でギラッとしたロックをやろうという話になりました。そして出てきたのが「グラム・ロック」というキーワードでした。制作を経てもっと広がって、70年代の黄金期のブリティッシュ・ロックを意識するようになりました。

デヴィッド・ボウイのように、ジギー・スターダストという架空の人物の物語をアルバム全体を通じて構成していくというのは、非常に映画的なものでもありますよね。自分にとってのそれがエクスネ・ケディだったということです。

先日『ele-king』に掲載されたインタヴューでも、石原さんは「僕はどうしてもロックの属性からは逃れられない」とおっしゃっていましたけど、井手さんにもそうした側面はあるのでしょうか?

井手:そうですね。ファーストも、あくまでロックの文脈で作ったつもりです。

井手さんは以前吉祥寺バウスシアターの運営に携わっていましたが、映画についてもロックとの関わりから考えていらっしゃるのでしょうか? たとえば爆音映画祭という、ライヴハウス並みの音響設備で映画を観るという試みもありました。

井手:いや、映画はそこまでロックとの関わりを考えている訳ではないですね。「ロックとは何か」という話にもなるので表現が難しいですが、爆音映画祭に関して言うと、実は「繊細さ」にフォーカスした上映の仕方だと思っています。音量を大きくするのは、単純に音量を上げるというよりも、音の繊細な部分を持ち上げるためなんですよね。通常の映画館では聴こえてこないような小さな音がはっきりと聴こえてくることによって、映画そのものの見え方まで変わってしまうという、本来ありえない体験。なので爆音映画祭はロックというよりも、もっと繊細なものとして考えています。もちろん、元々大きな音がさらに爆音になり、こちらを圧倒するような音の壁が現れてくる瞬間も、ロックに触れたときのような快感があることも確かです。

なるほど、つまり爆音映画祭はむしろファースト・アルバムにおける「小さな音の繊細な重なり合い」というところに通じるんですね。

井手:そうですね。「音の繊細さ、その重なりから大きなうねりへ流れ込んでいく快感に面白さを見出す」という意味では、爆音映画祭で自分が培った感覚はファースト・アルバムと繋がりがあるかもしれません。

それは映画での経験が音楽に活かされているということのようにも思います。セカンド・アルバムに関して、映画の経験からフィードバックしたものはありますか?

井手:実はセカンドの方が映画との繋がりがあると思っています。今回のアルバムは一本の映画のような作品にしたいなと思って制作したんです。映像のない映画と言ってもいいかもしれないです。たとえばビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』やデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』みたいに、架空のバンドがアルバムの中に登場するような、コンセプチュアルな作品にしようと考えていました。デヴィッド・ボウイのように、ジギー・スターダストという架空の人物の物語をアルバム全体を通じて構成していくというのは、非常に映画的なものでもありますよね。自分にとってのそれがエクスネ・ケディだったということです。

[[SplitPage]]

「脚本・主演は井手くんで、監督は僕ね」って石原さんに言われたんですよね。僕としてはとても納得がいって、アルバムが完成するまでその考え方がずっと軸になっていました。

つまり一枚のアルバムを通して物語を提示しようと考えたということでしょうか?

井手:ある意味ではそうですね。ただ、アルバムではそんなにはっきりとストーリーを提示してはいないんです。映画でもそうなんですけど、ストーリーを伝えることがメインになりすぎてはいけない。それよりも作品内時間のそれぞれの瞬間に快楽があるものにしたいと思っていて。とはいえ、実は裏にはちゃんと物語があるので、曲順もすべて意味があるんですよね。物語の内容はバンド・メンバーにも共有しています。

映画的であり、演劇的でもありますよね。演劇って、役者がそこにはいないはずの人物を演じて、あたかもいるかのように観客に思わせるというパフォーマンスじゃないですか。井手さんの作品には、これまで「幽霊の集会」や「ポルターガイスト」など幽霊的なものがテーマとして出てくることがありましたが、幽霊というのも「本当はいないはずのものを、あたかもいるかのように感じる」という意味で演劇と似たところがあります。井手さんはなぜ、幽霊的なものに対して興味を抱いているのでしょうか?

井手:映画でも音楽でも、サイケデリックな感覚、つまり「今・ここにいる場所からどこかに飛んで、今・ここではない場所に行ける」という快楽を求めて観たり聴いたりしているんですよ。なのでそうした体験をもたらす要素を自分の作品にも取り入れたいとは思っています。幽霊という存在においては「目には見えないけれど、いる」という存在の仕方が成立しますが、そういう現実の成り立ちが揺らぐような感覚を音楽に取り入れられたらと思っています。

幽霊的なものを感じるという意味で影響を受けたミュージシャンや作品はありますか?

井手:色々あります。このアルバムを作るうえで影響を受けた音楽はたくさんあるんですが、映画も結構あるんです。「この曲ってあの映画みたいだな」とか、「この曲順はあの映画のエンディングだよな」とか、そういうふうに、つねに頭の中で映画と結びつけると、僕にとっては制作が進めやすいところがあるんです。このことは石原さんとも話してて、セカンドを作りはじめた最初のころに「脚本・主演は井手くんで、監督は僕ね」って石原さんに言われたんですよね。僕としてはとても納得がいって、アルバムが完成するまでその考え方がずっと軸になっていました。また、ロバート・ゼメキスという映画監督がとても好きなんですが、セカンドを制作しているときは彼の作品がなんども頭のなかに浮かんでいましたね。なかでもいちばん結びつきが大きいのは『コンタクト』(1997年)というSF映画でした。あの作品からはものすごく影響を受けたと思います。

どういう点で影響を受けたのでしょうか?

井手:『コンタクト』は地球外生命体と人類の接触をテーマにした物語なんですが、これから観る人の楽しみを損なわないように簡単に説明すると、最終的にジョディ・フォスター演じるエリー・アロウェイが宇宙に行ってものすごいトリップ体験をするんですよ。そこで、会うことがありえない存在に会う訳ですね。でも、同時に、見る人から見たら宇宙には行っていないとも言えるような、とにかくそんなトリップなんです。僕はこの映画がとても好きで、そこから着想を得たのがセカンド・アルバムの2曲めの “妖精たち” っていう曲なんです。他にも4曲めの “ポルターガイスト” や9曲めの “ぼくの灯台” もそうなんですが、「もうここにいない存在に会う」というのがアルバムの節々でテーマになっていきました。なので『コンタクト』からはものすごく影響を受けていて、アルバム・タイトルにも「コンタクト」という言葉を入れているんです。

たしかにタイトル(『Contact From Exne Kedy And The Poltergeists』)にも「コンタクト」というワードが入っていますよね。ちなみにタイトルにあるエクスネ・ケディという名前も映画と関係があるんでしょうか?

井手:内緒です(笑)。これは石原さんと話している間に偶然生まれました。ロックをテーマにアルバムを制作するにあたって、僕が僕のままではダメで、僕以外の誰かになる必要があると思ったんです。自然体ではなく、自分に何らかの圧を加えて歌ったり、グラム化した楽曲が求める歌手を演じたいと思ったときに、別人格を作る必要があったんですね。自然な流れでそう考えたので、「あ、おそらくジギー・スターダストもマーク・ボランもこうだったんじゃないか」と思ったりしました。とにかくエクスネ・ケディという別人格が生まれて、そして曲のアレンジもまるで別人格を持ったように生まれ変わっていきました。不思議だったのは、どんなにアレンジを変えて、いろんなものがそぎ落とされていっても、曲が持つ純粋な部分だけは残ったんです。むしろ、たとえば寂しい曲を明るく歌うことで、逆にその寂しさが浮かび上がってきた。「架空の自分を通して本当の自分を見つける」という体験ができたことは非常に新鮮でした。

高尚そうなアート寄りのものではなく、昔のパルプ・マガジンとかタブロイド新聞に載ってる小説みたいな、いわばキッチュさ・安っぽさが必要だと。道端で風に吹かれて舞っている捨てられた新聞の芸能欄、のような。

セカンド・アルバムでは楽曲ごとに異なる歌い方に挑戦されてますよね。それも「演じる」という意味で意識的に取り組んでいるのでしょうか?

井手:そうですね。石原さん、レコーディング・エンジニアの中村宗一郎さんとみんなで模索しながらやった結果、ああいうかたちになりました。歌い方を曲ごとに変えるというのは初めての試みでした。

楽曲ごとにモチーフとなるような歌手はいたのでしょうか?

井手:基本的にはいませんでした。とにかくロック的なるものとはなんだろうということを考えていて。それは自然体ではなく人工的なものだろうと思っていました。歌について石原さんが言っていたことでなるほどなと思ったのは、一見どんなに優しげな声で歌っていても、その中にある種の怒気や苛立ち、歪みを内包しているべきだ、と。

いろんな歌い方をされたなかで、井手さんにとっていちばんしっくりくるものはありましたか?

井手:1曲めの “イエデン” のファルセット・ヴォイスは、なかなか気持ち悪いんですけど(笑)、その気持ち悪さが気持ち良いなとは思いました。逆に4曲めの “ポルターガイスト” は、気持ち悪さがそのまま気持ち悪さとして出てるというか(笑)。あと今回は曲によって、自分が歌わなくてもいいと思ったものもあるんですよね。それは自分よりも作品に奉仕しようと思っているからです。僕よりも mmm (ミーマイモー)やメイちゃん(mei ehara)が歌った方が良い作品になると思ったら、僕はあくまでも後ろでかすかに歌うだけにしたり。そういうふうに、曲によって何がいちばんふさわしいかを考えていましたね。

ファーストのときも井手さんの個性を前面に押し出すというよりは、当時のメンバーと協働作業をおこなうなかで初めて生まれてくるような作品だったと思います。その意味では、自己表現よりも作品を重視するというセカンドのあり方と共通しているのではないでしょうか。

井手:そうですね。それは基本的には変わってないと思います。とはいえ一方で今回は架空の自分を演じるというところがあったので、自己表現でもありましたが。架空の自己表現。“イエデン” で僕はファルセットで白痴のように歌ってますけど、バンド・メンバーはそれを無視するように淡々と演奏しているんですよ。そういう、ロック・バンドとして面白いかたちはなんだろうと探しながら制作しましたね。

プロデュースを務めた石原洋さんの存在が今回のアルバムでは非常に大きいと思うんですが、サウンド面で石原さんの味が出ているなと井手さんが思うポイントはどういったところになりますか?

井手:やっぱり石原さんのプロデュースでアレンジが大きく変わりましたね。石原さんがあっと驚くようなイメージを伝え、それを中村さんが捉えて具現化する、僕やメンバーは演じる。マジカルな瞬間がたくさんありました。それまでの自分の曲が、より都会的に、退廃的に、流麗に、人工的になりました。なんて言ったらいいんでしょう、いい意味でサウンドに「軽さ」が出るっていうか……。僕の曲にまとわりついていた余計な重みが全て石原さんによって剥がされましたね。そしてキッチュな服を着て、夜の都会に出ていきました。あとは、石原さんは常にアルバム全体の流れ、起承転結を考えていらっしゃいましたね。先にできてきた曲を見ながら隣接する曲のアレンジを変えていく感じです。「僕はコンセプト・アルバムしか作れない」とおっしゃってました。

楽曲制作のときに石原さんと交わした言葉で特に印象に残っているものはありますか?

井手:それはいろいろありますよ。まさしく自分の財産になるようなものです。石原さんが今回よくおっしゃっていたのは「ギラギラした感じ」という言葉と、あと「安っぽさ」「野卑なムード」ということでした。それは非常に新鮮でしたね。作曲者である僕は、どうしてもアート作品としてかっこよく見える方を選んでしまうんですが、石原さんは、高尚そうなアート寄りのものではなく、昔のパルプ・マガジンとかタブロイド新聞に載ってる小説みたいな、いわばキッチュさ・安っぽさが必要だと。道端で風に吹かれて舞っている捨てられた新聞の芸能欄、のような。

石原さんと井手さんで意見が衝突することもあったのでしょうか?

井手:もちろん意見が異なることはありましたけど、今回は「脚本と主演が僕で、監督は石原さん」ということがその都度拠り所になりました。石原さんがアレンジをいろいろと提案してくださって、自分の提案と組み合わせながらやっていったんですが、やっぱりメロディと歌詞は脚本なのです。アレンジがどれだけ変わっても残る、曲の本質の強さみたいなものがあるんだなと思いました。あと僕はもともとコーラスワークが好きで、よくメロディにハモりをつけるんですけど、今回はとにかく徹底的にハモリが排除されましたね(笑)。何曲かに残っているだけです。ほっとくと僕はすべての曲にほぼ無意識にハモりを入れてしまうので、その度に石原さんに却下されました。でもいまアルバムを聴いてみるとやめて正解だったと思います。

最後にひとつお訊きしたいことがあります。アルバムの話から外れてしまうんですが、現在、音楽業界をはじめ社会全体が大変深刻な状況に直面しています。スペースの運営に携わった経験があり、音楽家でもある井手さんにとって、いまの事態はどのように見えていますか?

井手:うーん……今回のことは本当にどうしたらいいかわからないですよね。芸術が生命維持に必要不可欠である、と自国の政府は言ってはくれませんが、僕は必要不可欠であると思います。本当に信じ難い政府だなと思いますね。ただ、自分はレベル・ミュージックをやることはないでしょう。しかしそれでもなお、この嘘みたいな現実の中に、こういった壮大な狂った冗談のようなフィクションが、存在してもいいのではないか。難しいですけど。

急に難しい質問を投げかけてしまい、失礼いたしました。本日はどうもありがとうございました。

井手:ありがとうございました。初めてテレビ電話で取材を受けたんですけど、なかなか慣れないですね(笑)。やっぱり喋るときは同じ空間にいた方がやりやすいです。話を盛り上げていくうえで、ちょっとしたタイムラグがコミュニケーションにおいて結構大きな壁になるような気がします。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972 973 974 975 976 977 978 979 980 981 982 983 984 985 986 987 988 989 990 991 992 993 994 995 996 997 998 999 1000 1001 1002 1003 1004 1005 1006 1007 1008 1009 1010 1011 1012 1013 1014 1015 1016 1017 1018 1019 1020 1021 1022 1023 1024 1025 1026 1027 1028 1029 1030 1031 1032 1033 1034 1035 1036 1037 1038 1039 1040 1041 1042 1043 1044 1045 1046 1047 1048 1049 1050 1051 1052 1053 1054 1055 1056 1057 1058 1059 1060 1061 1062 1063 1064 1065 1066 1067 1068 1069 1070 1071 1072 1073 1074 1075 1076 1077 1078 1079 1080 1081 1082 1083 1084 1085 1086 1087 1088 1089 1090 1091 1092 1093 1094 1095 1096 1097 1098 1099 1100 1101 1102 1103 1104 1105 1106 1107 1108 1109 1110 1111 1112 1113 1114 1115 1116 1117 1118 1119 1120 1121 1122