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光と闇がそなわり最強に見えるレヴュー

光と闇がそなわり最強に見えるレヴュー

vol.2 NHK大河ドラマ『平清盛』

清盛の文法、清盛の美学(後編)

文:金田淳子 Sep 14,2012 UP

前編はこちら。
大好評『清盛紙芝居』も掲載中!!


 『平清盛』は現在、第35話まできたところだが、皆さまもしっかとご視聴されているであろうか。後白河上皇が昏睡状態の清盛を気づかい、豪雨のなか、鴨川の水をものともせず見舞いに来てしまったくだりには、また崇徳院のごとくローリングしそうになったわたしである。さしずめ、「源義朝亡きあとの、ズッ強敵(ずっとも)担当は朕、ツンデレ担当も朕」と、あらためて宣言しにきたというところか。後白河上皇の背中のできものが「さいころ」に似ているという、さりげなくジョースター家を思わせる設定も追加された。こういうエピソードを、このドラマを観ていない人がたてつづけに聞かされると、わたしが好き勝手に捏造しているのだろうと疑うかもしれないが、日本放送協会に誓って事実である。ele-kingよ、これが『平清盛』だ。
 
 さて、前半ではひとつめの清盛文法として、キーワードが反復、変奏されることによって、ドラマに深みが与えられていることに触れた。今回は少し違った方向から、このドラマのもたらす独特の違和感、そしてそれを読み解くための清盛文法に迫ってみよう。

■清盛文法その弐.清盛空間へようこそ

 ふたつめの注目すべき違和感は、特有の異空間表現である。すなわちこのドラマでは、二者間のやりとりが、第三者がほとんど介在しない謎の異空間で、説明もなく長々と演じられることがある。飛びぬけて異空間だったのは、鳥羽院が平清盛のエア弓矢を受けるシーン(第13話)や、平清盛と源義朝の謎の一騎打ちシーン(第27話)である。

 エア弓矢の一件は、鍛え抜かれた『平清盛』視聴者でも、多くが度肝を抜かれたであろう。ある意味、歴史に残る名シーンなので、未見の方はぜひオンデマンドなどで視聴してほしい(どういう場面なのかは、「エア弓矢」という言葉から想像できるイメージにかなり近いと思うので、ここでは説明しない)。しかしながら、このとき生じた違和感は、「鳥羽法皇と清盛のその行動はありなのか」という、人物の行動の一貫性に関する違和感が主だったので、万事に演劇的な鳥羽法皇と、万事に流されやすい清盛だったら、まあありかもしれないと、変な納得の仕方をさせられた。さらに鳥羽法皇役の三上博史氏の演技が、狂気をも感じさせる切れ味で、視聴者に有無を言わせぬ迫力があった。

 しかし清盛と義朝の一騎打ちに関しては、さっきまで川を挟んで向かい合っていた両軍の総大将が、次のカットでは謎の河原で完全にふたりきりになって一騎打ちしているわけだから、人物の個性で言い逃れしようにも、状況的に無理がある。普通のドラマで総大将の一騎打ちシーンを見せたければ、乱戦に持ち込むとか、ベタに一騎打ちを申し込むなど、ともかくもう少し自然にことを運ぶのではないか。『平清盛』の他の部分には、この手の無難な表現もちゃんとあって、第21話での平清盛と平忠正との一騎打ちがそれにあたる。こちらは、戦いの描写で一般によくみられる「乱戦なのに、周囲の人間が異様に空気を読んでいて、会話しながらの一騎打ちが成り立っている」パターンで、その空気はいかがなものかとは思うが、まだ話の流れとしては理解しやすい。いま問題としている第27話のほうは、何の説明もなくふたりだけが異空間に飛ばされるところが尋常でない。家政婦のごとく入念に一部始終を見てきた視聴者は、いちように小首をかしげたに違いない。

 このような場面の評価については意見が分かれるところだろうが、ドラマに舞台の手法を導入したものとして解釈する向きが多いのではないか。舞台上で、話の流れを切断して主要人物だけにスポットをあて、第三者を排した異空間を切り出す手法はよくみられよう。そもそも舞台的には、合戦など現実には多数の人間が関与したであろう場面を、少数の主要人物だけで演じきることは、不自然でないどころか常道である。

 しかしわたしは、舞台的というのとも何か違うように思う。そもそも、それまでの話の流れからあまりにも切断されているので、たとえ舞台であっても違和感が残ると思われる。いったいこの空間は何なのか。重要なのは、物語の中でのその空間の位置づけ(いったいいつ、どのような経緯でこの場面に至ったのか)が完全に謎なのに、そこで表現されている内容(ふたりのやりとり、感情)はとてもよくわかる、ということだ。もちろん、この空間では後者のほうが圧倒的に重要なのである。いつからか、わたしはこのような空間を「清盛空間」と呼ぶようになった。

 清盛空間は、ドラマの表現としてはブロークンかもしれない。しかし物語の整合性ばかりにとらわれず、効率よく何かを伝える技法としては、王道の表現とも言える。ちょうど、ある種の刑事ドラマの終盤で、刑事と犯人がなぜか崖っぷちで向かい合ってしまうのと似ている。「謎の崖っぷち」は、いちいち舞台的な表現であるのどうのと考察されなくても、刑事と犯人の駆け引きや、追い込んだ・追い詰められた感情を堂々と表現するのだ。伝えるべきものが伝わりさえすれば、その空間はどこに位置してもいいのだろう。どこに位置するかを追及するのは、野暮、もしくは風狂の域だ。

 あえて風狂を試みるなら、わたしの解釈では、第27話の清盛空間(謎の河原)は、実は物質世界には存在しない空間で、川を挟んで遠く視線を交わした清盛と義朝の、心の中にだけつかのま現出した空間だったのではなかろうか。われながら胸を打つ名解釈だと思うが、後に、その空間で「髭切」(源氏重代の太刀)の受け渡しが物理的に行われていたことが判明して、けっこう困った。だが清盛空間であれば、精神世界であっても太刀だけ物質世界で受け渡すぐらいのことは、やってしまってもいいはずだ。

 清盛空間らしきものは、第30話でも生じる。これも未見の方はオンデマンドで見てほしい名場面で、崇徳上皇が恨みのあまり魔物と化し、平家を呪詛するくだりであるが、いったい本当に起こったことなのか、またドラマ内で本当に起こったのなら、なぜ上皇の従者は何もしないのか、どれぐらいの時間が経過しているのか、もしかしたら上皇はすでに死んでいるのか、等、詳細が皆目わからぬという、きわめて潔い清盛空間である。これも、崇徳上皇の荒れ狂う心中が伝わればそれでよいのだ。

 また、実はわたしはかなり初期から、清盛が出てくるたびにどこか違和感を持たずにはいられなかったが、これもある種の清盛空間だったのかもしれない。違和感が生じるのは、清盛が神輿に弓を射るなどの重大な行動を、しばしば唐突に行うせいでもあるが、おとなしくしているときもどこか浮いている。他者と同じ画面にいてさえ、別の時空間にいるような気配がある。端的に言えば清盛は、何を考えているのか、台詞や表情からはわかりづらい。彼の心中は、状況証拠で推測するしかないのだ。本来の清盛空間は、状況はわからないけど登場人物の感情がよくわかるというものだから、真逆のこの現象は、「裏・清盛空間」というべきかもしれない。これはなにも松ケンの演技力を否定しているので はなく、このドラマにおいて、清盛とはそのような登場人物だということだ。

 この裏・清盛空間は、完全に意図的な演出・演技ではないかとすらわたしは思っている。なぜなら、歴史上の人物とはそもそも、後世のわれわれからは感情や考えなどを見てとることはできず、もしそれを推測するのなら、状況証拠から判断するしかないからだ。すなわちこのドラマにおいて主人公の清盛は、際立って「歴史上の人物」なのだ。第35話までむくむくと観てきたわたしも、他の登場人物の性格はそれなりに把握したのに、平清盛という登場人物がどのような性格なのか、いまひとつわからない。それこそ賽の目のように場面ごとに変わるというイメージだ。専門用語では「キャラがぶれている」というのかもしれないが、現実の人間は通常、場面や相手によってキャラがぶれるのが当たり前だ 。清盛もこのドラマでは、物語の登場人物(キャラクター)というよりは、「歴史上の人物」なのだから、それでいいのである。唯一いえるとすれば、目を離した隙に何をしだすかわからないから、ガン見(み)しておかねばならぬ男、それが清盛だ。

 そんなこんなで、いろいろな意味で目が離せない『平清盛』も、いよいよ残りあと10数話。平家と他勢力との争いがますます盛り上がるとともに、クライマックスで清盛空間が発生しまくる可能性は高い。清盛が死ぬときに意識が未来に飛んで、謎の空間で源頼朝や義経と切り結んだりしてほしいが、あながち夢想でもない気がする。最近も出家という重大行動をわりと唐突にやってくれた清盛だから、裏・清盛空間のほうも、惜しみなく展開されるであろう。
 他のドラマでは味わえぬ独特の違和感と、観るほどにその違和感が氷解していく知的快感が、いまならタダで手に入る。それが『平清盛』だ。
 言うまでもないが、とびきりのいい男たちやいい女たち、猫、犬、鸚鵡といった萌え要素も満載だ。全裸で思う存分ローリングするため、床面積を確保してから視聴することを薦めたい。

以上

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