Home > Interviews > interview with Elliot Galvin - エリオット・ガルヴィンはUKジャズの新しい方向性を切り拓いている
イギリスの作曲家/即興演奏家エリオット・ガルヴィンは、マーキュリー賞にノミネートされたジャズ・バンド、ダイナソーの一員であり、またシャバカ・ハッチングスのピアニストとしても知られている。彼の『廃墟』と題された新作に注目しよう。
イギリスの現代ジャズ・シーンに新たな地殻変動が起きつつある。そう感じさせるに足るアルバムが〈ギアボックス・レコーズ〉からリリースされた。鬼才ピアニスト、エリオット・ガルヴィンによる5年ぶり6枚目のリーダー作『The Ruin』である。
エリオット・ガルヴィンは1991年生まれ。トム・マクレディー(b)、サイモン・ロス(ds)と組んだピアノ・トリオ編成で2014年にデビュー・アルバム『Dreamland』をリリースしている。アヴァンギャルドかつキャッチーで、月並みな言い方だがおもちゃ箱をひっくり返したような爽快さに満ちた──という点でオルタレーションズとの親和性も感じさせる──ジャズ・ミュージックは、続く2016年のセカンド・アルバム『Punch』では使用楽器の種類も増してさらなる深化を遂げた。その一方でガルヴィンはロンドンのフリー・インプロヴィゼーションのシーンでも頭角を現し、重鎮ドラマーのマーク・サンダースとデュオ作『Weather』を2017年に残している。さらにはトランペット奏者/作曲家のローラ・ジャード率いる4人組バンド「ダイナソー」の一員としても活躍、同じく2017年に発表したファースト・アルバム『Together, As One』はマーキュリー・プライズにノミネートされた。世間的にはこの作品が最も知られているだろうか。あるいはエマ=ジーン・サックレイのグループに加わり、デビューEP「Walrus」(2016)から名前を連ねている。
ジャズを基調としたストレンジなピアノ・トリオ、インプロヴァイザーとしての活動、そしてさまざまなグループでの演奏と、ガルヴィンはテン年代半ば頃より目覚ましく活躍してきた。ちょうど同時期、イギリスの新世代ジャズ・ミュージシャンたちが注目され始めていた。ジャイルス・ピーターソンによるコンピレーション・アルバム『We Out Here』が出たのは2018年。2020年には『Blue Note Re:imagined』がリリースされた。これらのアルバムにはまさにイギリスの新世代が集っていたわけだが、そこにガルヴィンは参加していなかった。彼はいわばオルタナティヴな道を歩んでいた。
2018年、3枚目のアルバムとしてリリースした『The Influencing Machine』は、作家で文化史家のマイク・ジェイによる同名書籍からインスピレーションを得たコンセプチュアルな作品だった。ドラマーがサイモン・ロスからダイナソーのメンバーでもあるコリー・ディックに代わり、ベースのトム・マクレディーはエレキギターも手に取り、ガルヴィンはシンセサイザーの電子音を大胆に導入した。翌2019年に発表した4枚目のアルバム『Modern Times』では一転、一発録りでレコードにダイレクトに録音するというアナログな手法をあえて用いることによって、デジタル化に突き進む時代の向こうを張るようなライヴ感溢れるアルバムを仕上げてみせた。そしてコロナ・パンデミック直前の2020年1月には初のソロ・インプロヴィゼーション・ライヴ・アルバム『Live In Paris, At Fondation Louis Vuitton』を世に送り出した。
それから5年の歳月が過ぎ、新世代と呼ばれたジャズ・ミュージシャンたちもキャリアを積み重ね、さまざまに変化していった。象徴的なのはシャバカ・ハッチングスの「方向転換」だろう。エリオット・ガルヴィンもまた新たなステージへと歩を進めた。最新作『The Ruin』は、これまでのトリオを一新し、ベース&ヴォイスでルース・ゴラー、ドラムでセバスチャン・ロックフォードが参加。さらにリゲティ弦楽四重奏団、そして一部楽曲ではシャバカも客演している。サウンドはダークな質感を纏い、緻密なポストプロダクションが施され、まるでドゥームメタルのような重苦しささえ漂わせている──ローファイなピアノの響きから苛烈なブラストビートまで実に幅広い音楽性を呑み込みつつ、しかし、その中でガルヴィンのインプロヴァイザーとしての資質がピアノおよびシンセサイザーを通じて刻まれてもいる。まさに新境地である。そしてこのコンテンポラリーなエクスペリメンタル・ミュージックとでも言うしかないサウンドが、イギリスの現代ジャズ・シーンのもう一つの新たな方向性を切り拓いているようにも思うのだ。
ならばエリオット・ガルヴィンはこれまでどのような道のりを歩き、そしてどのようにして現在地に辿り着いたのか。あるいはジャズ・ミュージシャンである彼はイギリスにおけるフリー・インプロヴィゼーションの歴史とどのように関わり、テン年代を通じてどのように変化していったのか。まずは彼の出身大学であり、多数のジャズ・ミュージシャンを輩出してきた名門校として知られるトリニティ・ラバンでの話を突端に、その足跡を紐解いていった。
ジャズだけではなくて、副コースとして作曲も学んでいたので、クラシックの作曲家をよく聴いていました。たとえばジェルジ・リゲティやイーゴリ・ストラヴィンスキーをたくさん研究しましたね。
■まずは音楽的なバックグラウンドについて教えてください。あなたはトリニティ・ラバンのジャズ・コース出身ですよね?
エリオット・ガルヴィン(Elliot Galvin、以下EG):そうです。トリニティ・ラバンに通っていました。ちょうど時代が良かったのか、僕と同時期に優秀なミュージシャンがたくさんいたので、とてもいい勉強になったと思ってます。僕が参加しているバンドのダイナソーで長年一緒に演奏してきたローラ・ジャードもそうだし、2年ほど下にはジョー・アーモン=ジョーンズやヌバイア・ガルシアもいて、本当に素晴らしい雰囲気がありました。先生も素晴らしかった。僕が習ったピアノの先生はリアム・ノーブルという人で、とても優れた演奏家です。他にも、ルース・チューブスやポーラー・ベアのメンバーとしても知られるサックス奏者のマーク・ロックハートもいました。そういう人たちから学ぶことができて、とても良い環境でした。
■ジャズは進学前から演奏していましたか?
EG:最初にピアノを習い始めたのは6歳で、いわゆるクラシックの先生に就いていました。11歳頃まで習っていたんですが、結構厳格なやり方を教える人だったので、実を言うと途中であまり面白くなくなってしまった。これは自分には向いていないかもしれない、少しコントロールされすぎているなと思って。で、その次に習ったのがジャズ・ピアノの先生でした。そしたら今度はインプロヴィゼーションで自分で勝手に音楽を創っていいという、そういう教え方をしてくれたので、僕がやりたいことはこれじゃないかなと思うようになり、ピアノを弾くことに夢中になりました。それが12歳の頃。幸運なことに僕の両親はかなりのレコード・コレクターでもあったので、たとえばウェイン・ショーターを聴いたりして、どんどんジャズの世界が広がっていきました。だからトリニティ・ラバンに進学する頃には、もうすでに、ジャズこそが自分のやりたいことだという考えは固まっていました。
■ジャズ・コースで特に研究したミュージシャンやピアニストはいましたか?
EG:当時興味を持っていたということで言うと、ジャズだけではなくて、副コースとして作曲も学んでいたので、クラシックの作曲家をよく聴いていました。たとえばジェルジ・リゲティやイーゴリ・ストラヴィンスキーをたくさん研究しましたね。ジャズで言うと、キース・ジャレットやハービー・ハンコックのようなジャズ・ジャイアンツはもちろん、もっとコンテンポラリーなところではジェリ・アレンにハマりました。あとセシル・テイラーのような実験的なミュージシャンも好きでした。幅広いスペクトラムのさまざまな音楽を聴いてました。
■デビュー当時、あなたの音楽とジャンゴ・ベイツを並べて評する人もいました。ジャンゴ・ベイツはイギリスの一風変わった作曲家/ピアニストとして独特の音楽を創ってきた人物ですが、彼に関して特に研究したり、聴き込んだりした時期はありましたか?
EG:実は大学に入る前は、あまりジャンゴ・ベイツのことを知らなかったんです。大学に入ってから、ローラをはじめ一緒に勉強してる仲間たちが彼の音楽を教えてくれて。それ以来、かなりインスピレーションを受けていることはたしかです。なぜなら彼は素晴らしいインプロヴァイザーであり、かつ作曲家でもあるからです。彼もやはり、さまざまな場所から影響を受け、ジャズでありながらユニークな音楽を創り出す人として、僕も尊敬していました。実際、ジャンゴ・ベイツがロンドンに住んでいた時、何回かレッスンを受けたこともあるんですよ。彼がどんなふうに考えているのか直接知ることができて、とても貴重な経験になりました。
僕がいつも立ち戻ってくる作曲家はバッハなんです。メロディーをどう作曲し、音楽をどう構築するかという点で、やっぱりバッハに戻っていく傾向はあります。
■トリニティ・ラバンの修士課程ではクラシックの作曲を専攻していますよね。なぜジャズではなくてクラシックの作曲に進んだのでしょうか?
EG:それはいい質問ですね。いわゆる大学という環境でジャズを学んでいると、ある特定の音楽のセクションだけを学ばなければならないことがあります。そのように特化することは、それはそれでとても興味深いものですけど、僕はそれ以外にどんなものがあるのか、他にどんな音楽を聴いて、どんなものからインスピレーションを得られるのかを見てみたいと思いました。それで修士課程では作曲を専攻することにしました。先ほど説明したように修士課程の前にクラシックの作曲を学ぶ機会があって、そういう中で自分が普段ジャズでやっているのとは違うアプローチに触れることができて、興味を持つようになりました。いわゆる自分の音楽的な視野を広げたかったということですね。
■先ほどリゲティやストラヴィンスキーの名前が挙がりましたが、クラシックで言うと、他にどんな作曲家を研究していましたか?
EG:やっぱり20世紀の作曲家が多かったかなと思います。ヤニス・クセナキスとか、ミニマル・ミュージックの作曲家たち、スティーヴ・ライヒとか。あとは19世紀以前の作曲家、たとえばルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやヨハン・ゼバスティアン・バッハ。僕がいつも立ち戻ってくる作曲家はバッハなんです。おそらく僕もピアノ奏者だからだと思うんですが、メロディーをどう作曲し、音楽をどう構築するかという点で、やっぱりバッハに戻っていく傾向はあります。
■トリニティ・ラバンでは同時期に才能溢れたミュージシャンがたくさんいたとおっしゃいました。ダイナソーというバンドも、トリニティ・ラバンの同級生を中心に生まれたグループですよね?
EG:そうです。リーダーがトランペットのローラ、キーボードが僕で、ローラと僕は同級生。ドラムのコリー・ディックとベースのコナー・チャップリンは一つ下の学年です。コナーと僕はノルウェーのサックス奏者マリウス・ネセットのバンドでも一緒に演奏しています。それと僕はローラと会うことがとても多くて、なぜなら結婚しているから(笑)。それはともかく、みんな大学で出会ったんです。
僕自身の過去を掘り下げるようなもの、アルバム全体がほぼ自伝的なものになるようなパーソナルな音楽を創りたかったんです。
■ダイナソーというバンドについてもう少し詳しく聞かせてください。どのようなバンドで、どのような音楽を実現しようとしているのでしょうか?
EG:基本的にはリーダーのローラが曲を書いて渡してきて、それを僕らがどうやって音にしていくのか、どうやってアプローチするのが一番良いのかを考えるというやり方です。最初の2枚のアルバムでは僕はキーボードで参加していたんですが、特に2枚目の『Wonder Trail』(2018)では、シンセ・サウンドを作ったり、どういう音が特定の状況でより効果的かを考えたりして、僕からのインプットがかなり多く入り込んだアルバムになったんじゃないかと思います。でも、基本はローラが書いた曲に僕たちが命を吹き込む、曲の中に自分たちの声を見つけ出すという作業をしていました。
■トリニティ・ラバンに通っていた同世代のミュージシャンで言うと、ヌバイア・ガルシアやジョー・アーモン=ジョーンズ、モーゼス・ボイドもいましたよね。彼らはジャイルス・ピーターソンの〈ブラウンズウッド〉からリリースされた『We Out Here』(2018)というコンピレーション・アルバムに参加しています。一方でダイナソーのメンバーはそこには参加していないものの、ファースト・アルバム『Together, As One』(2016)がマーキュリー・プライズにノミネートされるなど、同じく2010年代に頭角を現したイギリスのジャズ界の新世代として注目を集めてきました。それぞれ別々の文脈で活動してきたように見えるのですが、大学時代、彼らとの交流はなかったのでしょうか?
EG:単純にこれは学年差なんじゃないかと思ってます。ローラをはじめ僕らダイナソー組に関しては、ヌバイアたちより2~3上なんですよね。なので僕らの方が先に始めて、自分たちのやりたい方向性で音楽を作っていった。それからちょっと遅れて入学したヌバイアたちの世代が、僕らとは違うものを作り始めたっていうことなんじゃないかと思う。でも狭い世界なので、もういまとなってはお互いのことをみんなが知っています。当初は、僕らはすでに音楽的に探求したい方向性を定めていたから、僕らが作ったものと彼らが作ったものとの間にクロスオーバーするところはあまりなかったけれど、お互いにだんだん一緒にやる機会も増えて、いまではお互いの音楽を聴いたりサポートし合ったりするようになりました。
■もうひとつ大学関係で言うと、あなたがずっと一緒に活動しているエマ=ジーン・サックレイもトリニティ・ラバン出身ですよね。彼女とは学年が違うと思いますが、どういうきっかけで繋がりができたのですか?
EG:出会ったのはトリニティ・ラバンです。僕が学部生のときに、彼女はもう作曲の修士課程に在籍していました。で、トリニティ・ラバンで始まったロンドン・サウンドペインティング・オーケストラという即興アンサンブルがあって、そこにエマも僕も参加していたんです。他にもたくさんの人が参加していて、いま一緒に活動しているようなミュージシャンたちもいました。その後、エマがトリニティ・ラバンでの最後の演奏を終えたとき、「これから自分のバンドを始めるのだけど、一緒にやらない?」と僕に声をかけてきてくれて。それで彼女のバンドで演奏することになりました。彼女の最初のレコーディングにも参加して、僕はキーボードで、たくさんのツアーを一緒に回りました。いまでも仲のいい友だちですよ。
取材・文:細田成嗣 Narushi Hosoda(2025年3月04日)
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