Home > Interviews > interview with Nate Chinen - アリス・コルトレーンは20年前とはまったく違う意味を備えた存在になっている
元NYタイムズ紙のジャズ批評家、後編では女性ミュージシャンの躍進、UKジャズの重要性、本人が「ソフト・ラディカルズ」と名づけた潮流、フリー・ジャズなどなど、著書『変わりゆくものを奏でる』が刊行された2018年以降に台頭してきた潮流やアーティストについて語る。
[※前編からつづく]
あの本で打ち出したかった所信表明というか、そのひとつは、「ジャズはいまもばっちり健在である」と皆に示したかった、ということで。
■あなたの本を読んで、アメリカのジャズの過去数ディケイドの動向がとてもヴィヴィッドに把握できました。あなたは全米各地に飛び、ミュージシャンに直接取材し、いくつものショウを観て、さまざまな文脈や繫がりを提供している。もちろんあの本を読んですべてが理解できるなどとは思っていませんが、レコード評だけではわからない、幅広いコネクションが見えたと思っています。
ネイト・チネン(Nate Chinen、以下NC):そう言ってもらえると嬉しいです。間違いなく、それは意図でしたね。というのも、音楽の背後にはじつに多くの素晴らしいストーリーが潜んでいるわけで。
■たとえばヴィジェイ・アイヤーを取り上げた章は、彼のような出自の人にしか語れないアメリカのジャズのストーリーがあり、多くを学ばせてもらいました。
NC:なるほど。ですから、この本の全体図を計画するに当たって私に大事だった点は……章ごとに入れ替わる構成なんですよね。基本的に、ある章ではミュージシャンの肖像を描き、次の章ではアイデア/概念について探る、といった具合に。ですが確実にやりたかったのは、アーティストの略歴を取り上げる際も、それぞれのプロフィールの背後にアイデアが存在する、ということでした。そんなわけで、ブラッド・メルドーについて書いた章も、ジャズの伝統を相手にしながらも、ちゃんと「その人だ」とわかるパーソナルなヴィジョンを作り出す際の葛藤についての話になっていますし、ヴィジェイ・アイヤーの章は、とある文化的遺産と、クラシック音楽やジャズの体制とのシンセーシスについての話になったわけです。で、そのアプローチの仕方は本の焦点を定めるという意味でとても役に立ちましたし、それだけではなく――ですから、私が心底好きで、プロフィールを書きたいアーティストは他にもたくさんいますよ! けれども彼らを取り上げなかったのは、彼らの背後にあるアイデアはすでに他の場で論じられているので、敢えてここでは述べなかった、という。
どんな植物も、ちゃんと根が張っていないとすぐ枯れてしまうのは、周知の通りですよね(苦笑)? ですから歴史を学ぶのはとても大切です。私のやりたかったことのひとつがそれ、読み手に文脈をもたらすことでしたね。
■アーティストのプロフィールと言えば、エスペランサ・スポルディングやメアリー・ハルヴァーソンといった女性ミュージシャンにそれぞれ1章が設けられていることも本書の特徴です。これまでのジャズ史では女性ミュージシャンが不当に軽視される、またはヴォーカリストなどに役割が限定されるといった現実はあったと思います。いま、歴史の中であらためて注目すべき女性ミュージシャン、もしくはこのトピックに関連してあなたが重要視している動向などはありますか?
NC:イエス。言うことがじつに多い質問ですね! まずひとつめの質問、あらためて注目すべき/もっと称賛されるべき女性は、歴史上に数多くいます。たとえばちょうどいま、リッキー・リカーディの書いたルイ・アームストロングの初期を綴った素晴らしい本を読んでいるところなんですが、あの時期について知れば知るほど、リル・ハーディン(※アームストロングの2番目の妻。ピアニスト/作曲家/シンガー/バンド・リーダー)がどれほど重要な存在だったかがわかります。なので、彼女はそんなひとりです。それから、『Playing Changes』原書版の出版直前に、ジェリ・アレンが世を去りました。あのとき、痛烈な悲しみと共に悟りましたね、自分はおそらく彼女のことを、ウィントン・マルサリス時代についての文脈でもっと大きく取り上げるべきだった、と。彼女は本に登場しますが、彼女に1章割いてもおかしくなかった。ですから、彼女は……その貢献の深さは、ミュージシャンや聴き手にはつねに明白だった、そういうミュージシャンのひとりだったわけですが、批評家としてつい、「ああっ、自分は何でこうしなかったんだろう?」と感じずにいられない。この本で展開される対話の中心にもっと近いところに彼女を据えれば良かった、本当にそう思います。間違いなく、彼女はそれにふさわしい人でした。それから……存命中にカーラ・ブレイに関する記事を書く素晴らしい機会にも恵まれましたし、まだ、じつにたくさんの女性がいます。かつ、私はジョージ・ウィーンとコラボしたので、穐吉(秋吉)敏子がどれだけ早い時期にニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演したかも知っています。初めてニューポートに出たとき、彼女はまだ若いピアニストだったんですよ! もちろん、いまやジャズ・マスターですし、重要なバンド・リーダー/作曲家として非常に長い間活躍されてきた方です。もちろん、彼女は日本で称えられているでしょうし、ここアメリカでも名は知られているとはいえ、今後もっと称えられる必要のある存在だと思います。で、この本がアメリカで初版された2018年以来、私が強く感じるのは……ということは、そんなに昔の話ではないわけですよね? でも、その7年ほどの間ですら、我々は本当に素晴らしい、音楽界の女性による仕事をもっともっと目にしてきた。もちろん、彼女たちはいつだって存在していました。ですが、いまはもうちょっとその受容度が高くなっているんじゃないか、と。ですから、中にはバンドを結成して、「あれ、このバンド、何で男だらけなんだ?」と思う人だっているかもしれません(苦笑)。
■(笑)
NC:たぶん、我々はそこを考え直すべきでしょうね。でも、私が貢献している〈WRTI〉(※フィラデルフィアの非営利ラジオ局)で、つい最近リニー・ロスネスを迎えてポッドキャストをやったばかりなんですが、本当に素晴らしいグレイトなバンド、アルテミスについてリニーに話を聞きました。あれは興味深かったですね。彼女たちは『ダウンビート』誌読者投票で最優秀ジャズ・アンサンブル賞を2 年連続獲得し、〈ブルーノート〉からの3枚目を出したばかりです。ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルやヴィレッジ・ヴァンガードに出演し、ツアーも回り……という具合で、とても成功しているわけです。ところがリニーと話した際に、彼女は「いまだにプロモーターからの抵抗に出くわす」と述べていた。それって、完全に後ろ向きな姿勢ですよね? つまりプロモーターの感覚は、「我々のフェスにはもう女性パフォーマーが他に出演するから、アルテミスは要らないか……」みたいな(苦笑)。とにかくそういった、まだ調整しなくちゃいけない感覚が存在するわけです。変化は散発的に訪れるもので、我々が求めるよりもそのスピードはときにずっとスローですが、過去数年で確実にいくらかのシフトチェンジが起きたと思っていますし、その動きは大いに歓迎されています。
アリス・コルトレーン、彼女は現在では、20年ほど前とはまったく違う意味を備える存在なわけです。
■本書は21世紀のジャズが中心になっています。一方で、現在のジャズをジャーナリスティックに紹介するだけでなく、つねに過去との関係が、つまり歴史への眼差しが織り込まれている点が特徴にもなっています。加えて、その「歴史」が博物館的ないわゆる「ケン・バーンズ・ジャズ史観」ではなく、現在のジャズを起点に置くことで見えてくる系譜がある、という点がさらに特徴的だと感じました。その上でお聞きしたいのですが、音楽はただ楽しければいいという意見がある一方、あなたにとって「歴史」を学ぶことにはどんな必要性や重要性があると考えていますか?
NC:ジャズの歴史と我々との関係は、つねに複雑です。というのも、過去の中で生きることだけを望むリスナーだっているくらいですしね(笑)。で、私の本もある程度までは――自分にとってのあの本で打ち出したかった所信表明というか、そのひとつは、「ジャズはいまもばっちり健在である」と皆に示したかった、ということで。というのも、「ああ、もう新しいことは何も起きていないよね。ジャズは○△のディケイドから勢いが衰えて……」という声をさんざん耳にしてきたからです。人によってはそれは60年代以来ですし、あるいは70年代と言う人もいますが。けれども、歴史を学ぶことの重要性は何か? というあなたの質問に答えれば、ジャズというのは先人のやってきたことの上に積み重なってきた音楽です。文脈、および連続性(continuum)ですね。で、ジャズの連続性とはアフリカ文化からやって来たものである、その点を思い起こす必要があると思います。先祖を称え、代々の家系を忘れないというこの概念は、ジャズを作り出したものの中核にあるわけですし。そして、ジャズが成熟し進化するのに伴い、その芸術形態をルーツ・起源から引き離そうとする勢力も存在してきました。指導者(メンター)の教えや直接伝授のスタイルからの乖離とも言えますね、というのもいまや、教則本やハウツーのヴィデオ映像はいくらでもありますし、制度化されたジャズ教育も学校/院でおこなわれていますから。ゆえに、根が深くてややこしく絡み合ったルーツ・システムにはタッチせずに、かなり高度な技能の数々を習得することも可能です。ところが、私の経験から言わせてもらえば――これは本当に信じていますが――私が取材させてもらったミュージシャン、「この人のやっていることは本当に、自分の心をつかんで離さない」と感じる人々の音楽を聴くと、彼らは皆、過去について、そうした昔のコミュニケーションの様式・スタイルについてじっくり考えてきた人ばかりです。たとえ自らの作品を通じてそれをやっていないとしても、彼らはその様式を実体験したことがある。ですから私にとってそれはとても、とても重要ですし、どういうわけか、若いミュージシャンが「自分にそんなもの必要ない」と考えながらシーンに登場するとしたら、それはジャズのためにならないだろう、そう思います。というのも、そういったルーツ・システムに関わらずにいると、その人自身のルーツも、本当に浅いものになってしまいます。どんな植物も、ちゃんと根が張っていないとすぐ枯れてしまうのは、周知の通りですよね(苦笑)? ですから歴史を学ぶのはとても大切ですし、私のように音楽について執筆する人間にとっては、間違いなく重要です。そうした理解が必要ですから。また、聴き手にとっても――別に「必要」ではありませんが、その音楽の出どころ・来歴をもっと知れば、どれだけリスニング体験が豊かになることか。私のやりたかったことのひとつがそれ、読み手に文脈をもたらすことでしたね。それによって、もうちょっとだけ理解が深まる、という。
■『Playing Changes』の原著刊行から7年が経過しました。この間、ジャズの世界にはさまざまな新しい動きが起こりました。それについて聞かせてください。まず、UKのジャズ・シーンの興隆について、どう捉えていますか?
NC:ああ、すごいですよね。ですから、本の中で少なくともその動向のヒントを示せて、本当に良かったなと(苦笑)。あの本が出版された時点では、ヌバイア・ガルシアは観たことがありました。彼女はアルバム『Nubya's 5ive』を出したばかりでしたが、いやほんと、以降も本当に素晴らしい仕事を続けています。でも、他にもじつに多くの連中がいる。だから、いまロンドンで起こっていることはとても豊かなストーリーですし、そこには独自の複雑な文化的次元が備わっている。ですから、あのシーンに焦点を当てた本を誰かが書いてくれることを切に願っています。というわけで、本の出版以降のUKジャズの動向を見守るのはとてもクールでしたし、特に、英国生まれのブリティッシュ・ミュージシャンとして、アフロ・カリビアンなディアスポラの伝統から影響を引っ張ってきている面々に興味があります。シャバカもそうですし、ヌバイアもそうです。というのも、ここアメリカ合衆国では、アフリカン・アメリカンの経験を考えるのはごく当たり前ですが、それ以外にも色々な経験があるわけです。たとえばシャバカの場合はバルバドスですし、ヌバイアはガイアナとトリニダード・トバゴと、本当に豊かです。ロンドンはじつにコスモポリタンな都市だと思いますし、即興音楽がロンドンで集合した、その様は――しかもダブ・ミュージックやエレクトロニック/クラブ・ミュージックの歴史からも影響を受けているわけで、仮に私があの本をもう何年か後に書いていたとしたら、UKジャズは間違いなく、もっと大きな部分を占めていただろうと思います。それに近いのが、〈インターナショナル・アンセム〉およびマカヤ・マクレイヴン~ジェフ・パーカー周辺ですね。本の中でも少し触れたとはいえ、あのシーンも本の出版以降伸び続けてきてきたので。で、今日だと、いわゆる「スピリチュアル・ジャズ」にまつわる会話が非常に盛んで、それもたどっていくのが興味深いルートです。それまでジャズを聴いたことのなかったたくさんの人々が、いかにしてファラオ・サンダースやアリス・コルトレーンという筋道経由でジャズに触れることになったか、その点を考えるのはとてもおもしろい。というのもその因子は、70年代に起きたある種アフロセントリックな、スピリチュアル志向の、民族自決的なものだったわけです。つまり当時の、大半が白人だったジャズ批評家の関心事の中心ではなかった。そう思うと、興味深いコレクティヴ的な動きが続いていますし、そこは私も魅了される点です。ですからアリス・コルトレーン、彼女は現在では、20年ほど前とはまったく違う意味を備える存在なわけです。
質問・構成・序文:細田成嗣 Narushi Hosoda(2025年5月02日)
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