快進撃をつづけるロレイン・ジェイムズが、グラスゴーの新人DJ/プロデューサー、TAAHLIAHとのコラボ・シングルをリリースしている。“Fuck It!” と題されたそれは、〈Warp〉のオフィスでのスタジオ・セッションにて着想されたものだという。ワットエヴァー・ザ・ウェザー名義のアルバム、〈AD 93〉から出たTSVIとの共作、NYの不遇の前衛音楽家ジュリアス・イーストマンへのトリビュートと、すばらしい作品ばかりを送りだし、日本公演も成功させたジェイムズにとって、どうやらこの新曲が2022年の締めくくりになるようだ。
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エクスペリメンタル・ロック・バンドの空間現代が、グラフィックデザイナー三重野龍とのコラボレーションによる、またしても特別なライヴを試みる。
前作「ZOU」は、2020 年に開催され、入場規制も行うほどの注目を集めた。「ZOU」では、空間現代の1時間1曲の「象」に三重野が描きおろしたグラフィックを、ライヴの VJ で重ねるという形でだったが、第二弾となる本作は互いに協動し、一から創作する完全新作となる。バンドの生演奏とスクリーン投影される三重野のタイポグラフィ、そして舞台装置などあらゆる要素が融合されたもので、新たな舞台芸術作品をへと向かう。
12月9日〜11日の3日間、ロームシアター京都にて開催。
なお、この公演は、若手アーティストの発掘と育成を目的にもしている。ロームシアター京都と京都芸術センターが協働して行うU35創作支援プログラム“KIPPU”の2022年度に選抜され、上演されるものでもある。

また本公演の上演にあわせ、ロームシアター京都の2020年度自主事業として上演された前作、KYOTO PARK STAGE 2022「ZOU」の記録映像を期間限定・無料で再配信。
https://rohmtheatrekyoto.jp/event/71183/
空間現代×三重野龍の初めてのコラボレーション「ZOU」の記録映像を期間限定・無料で再配信します!
配信日時:2022年11月15日10:00~12月11日24:00
配信場所:ロームシアター京都公式 YouTube チャンネル
https://www.youtube.com/@ROHMTheatreKyoto2016
https://youtu.be/PPD_Dwi_K-8

【公演概要】
ロームシアター京都×京都芸術センター U35 創造支援プログラム “KIPPU”
空間現代×三重野龍『汽』
日程:2022年12月9日(金)~ 12月11日(日)
9日(金)19:00開演、10日(土)19:00開演、11日(日)15:00開演
会場:ロームシアター京都 ノースホール
音楽:空間現代
グラフィック:三重野龍
https://rohmtheatrekyoto.jp/event/71183/
ポスト・パンクの草分け、ザ・レインコーツのジーナ・バーチが来年の2月、ソロ・デビュー・アルバムをリリースすることを発表した。アルバムのタイトルは『I Play My Bass Loud』、レーベルはジャック・ホワイトの〈Third Man Records〉。「長年にわたる自分の音楽的、政治的、芸術的人生を抽出したもので、音と言葉の、楽しさと怒りのストーリーテリングによる個人的な日記になる」と彼女は声明を出している。
なお、サーストン・ムーアをフィーチャーしたリードトラックが公開されている。
Low(ロウ)のドラマー兼ヴォーカリストであるミミ・パーカーが55歳で亡くなったことを昨日の6日、海外のメディアが報じている。2020年より患った子宮癌が悪化しという。
1994年にデビューしたLowは、最初はスローコアと括られ、数少ない熱心なファンに支えられながら、しかし90年代を通じて、アメリカにおけるもっとも重要なオルタナティヴなロック・バンドへと発展した(最初の3枚はじつに素晴らしい)。途中から〈Kranky〉を拠点として、素晴らしい作品を何枚も発表している。とくに近年の『Double Negative』と最新作『Hey What』は傑出していた。
ミネソタ州ベミジー郊外の小学校で出会い、高校時代から交際していたという、パートナーでありバンドメイトのアラン・スパーホークは次のようにコメントしている。「友よ、宇宙を言語化し、短いメッセージにするのは難しいけれど、彼女は昨夜、あなたを含む家族と愛に囲まれて亡くなりました。彼女の名前を身近に、そして神聖に感じてください。この瞬間をあなたを必要とする誰かと分かち合ってください。愛はたしかに、もっとも大切なものです」
サウス・ロンドンのジャズ・シーンで活動するミュージシャンの多くは音楽家育成機関のトゥモローズ・ウォリアーズ出身者で、なかにはエズラ・コレクティヴやネリヤといったトゥモローズ・ウォリアーズ内のメンバーで結成されたバンドもある。エズラ・コレクティヴは2012年に結成され、いまのようにサウス・ロンドン・シーンが注目を集める以前からこの界隈を牽引してきた存在だ。フェミ・コレオソ(ドラムス)とTJ・コレオソ(ベース)の兄弟を中心に、ジョー・アーモン・ジョーンズ(ピアノ、キーボード)、ディラン・ジョーンズ(トランペット)、ジェイムズ・モリソン(サックス)からなる彼らは、まずライヴ活動で評判を呼ぶようになり、2016年に初のEP「チャプター7」をリリース。バンド活動と並行してメンバーのソロ・ワークや別プロジェクトでの活動などもあり、バンドとしてのレコーディングの時間を確保することが難しく、ファースト・アルバムの『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』をリリースしたのはようやく2019年に入ってのことだった。
アフリカ系のコレオソ兄弟、ラテン系のジェイムズ・モリソン、アングロ・サクソン系のジョー・アーモン・ジョーンズ、ディラン・ジョーンズという多民族集団である彼らの特徴は、ジャズを基調とした上でルーツである民族音楽を融合している点。サウス・ロンドンにはこうした民族的なカラーを反映したミュージシャンが多く、アフロ、カリビアン、インド、中近東などさまざまなルーツとジャズを結び付けた音楽が生まれているわけだが、エズラ・コレクティヴの場合はリズム・セクションがアフリカ系のコレオソ兄弟ということもあり、アフリカ音楽のビートが骨格となることが多い。アフリカ音楽を取り入れたサウス・ロンドンのジャズ・バンドやミュージシャンではココロコやシャバカ&ジ・アンセスターズなどもいるが、エズラ・コレクティヴは純粋なアフリカ音楽やアフロ・ジャズというより、そもそもアフリカ音楽とファンクを結び付けたアフロビートが基盤となっていて、すなわち雑食性の高いミクスチャー・バンドである。
その雑食性の高さからアフロビート専門のバンドとも異なって、アフロ以外の音楽やリズムもふんだんに取り入れている。『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』においてはラテンやブラジル音楽、そしてヒップホップやブロークンビーツなどクラブ・サウンドも幅広く融合し、極めてダンサブルで明解なサウンドを見せていた。ダンサブルで明解というのはシャバカ&ジ・アンセスターズなどとは対極にあるもので、フェスやライヴなどで観客が踊ることを予め想定したような曲作りをおこなっている。生粋のダンス・バンド、クラブ・ジャズ・バンドと言えるのがエズラ・コレクティヴなのである。
そんなエズラ・コレクティヴが約2年半ぶりのセカンド・アルバム『ホェア・アイム・メント・トゥ・ビー』をリリースした。今回メンバー変更があり、トランペットがディラン・ジョーンズからイフェ・オグンジョビへ変わっている。イフェはナイジェリアをルーツとするミュージシャンで、モーゼス・ボイドの『ダーク・マター』(2020年)などに参加してきた。エズラ・コレクティヴには2019年6月のグラストンベリー・フェスの時点で既に参加しており、〈ブルーノート〉の企画作品『ブルーノート・リイマジンド』(2020年)でエズラが演奏したウェイン・ショーターの “フットプリンツ” のカヴァーから正式に加入した模様だ。
なお、ディラン・ジョーンズの方は現在、Pyjean(パイジャン)というグループで主に活動している。前作では5人のメンバー以外に楽曲によってココロコがコラボし、ロイル・カーナーとジョルジャ・スミスのゲスト・シンガーを迎えて歌モノのヴァリエーションも見せていたが、今回はゲスト・シンガー、ゲストMCの数も増え、サンパ・ザ・グレイト、コージェイ・ラディカル、エミリー・サンデー、ネイオが参加している。ちなみに、メンバーが部屋でセッションする光景を収めたジャケット写真は、セロニアス・モンクの『アンダーグランド』(1968年)の構図をモチーフにしたものだ。
アルバムの冒頭はヒップホップMCのサンパ・ザ・グレイトをフィーチャーした “ライフ・ゴーズ・オン”。アフロ・サンバを軸とした曲調で、アフリカのザンビア出身のサンパはこうしたトライバルなグライム調の楽曲にマッチしている。“ヴィクトリー・ダンス” は「勝利の舞」というタイトル通りアッパーでダンサブルな楽曲。アフリカ音楽というより、サルサのようなラテン音楽をベースとした楽曲で、ジョー・アーモン・ジョーンズのピアノ、イフェ・オグンジョビのトランペットもラテンの奏法である。レア・グルーヴとしても名高いハー・ユー・パーカション・グループの “ウェルカム・トゥ・ザ・パーティー” を彷彿とさせる楽曲で、“ライフ・ゴーズ・オン” での冒頭のざわめきもハー・ユー・パーカション・グループ風である。何せ50年以上も前のバンドなので、エズラ・コレクティヴがどこまでハー・ユー・パーカション・グループのことを知っているのかわからないが、どこか参考にしているのではないかと勘繰りたくなる。
コージェイ・ラディカルが「ジャズ・イズ・マイ・ウェイ」とMCする “ノー・コンフュージョン” は、アフロビートとグライムをミックスしたエズラ・コレクティヴらしい楽曲。ナイジェリア警察の腐敗や暴力を題材にしたフェラ・クティの “コンフュージョン”(1975年)を下敷きとしたような曲調である。収録時間は3分ほどと短く、途中で終わってしまうような展開だが、ライヴなどでは10分以上も続いていくようなグルーヴを感じさせる。
なお、リリース元の〈パルチザン〉はフェラ・クティのリイシューをおこなったり、息子と孫にあたるフェミ・クティ/メイド・クティの『レガシー+』(2021年)をリリースしていて、エズラ・コレクティヴのようなバンドをリリースするのも何かの縁かもしれない。
“ウェルカム・トゥ・マイ・ワールド” もハー・ユー・パーカション・グループの “ウェルカム・トゥ・ザ・パーティー” と繋がりがあるのか、アフロビートとラテン・ジャズがミックスしたような楽曲。ジェイムズ・モリソンのメランコリックなサックス・ソロがあり、エズラ・コレクティヴの売りのひとつであるホーン・セクションの魅力が大きくフィーチャーされている。“トゥゲザーネス” はレゲエ/ダブの色合いが濃く、同じサウス・ロンドンではサンズ・オブ・ケメットに共通するような楽曲だ。続く “エゴ・キラー” はスカ調の楽曲で、このあたりはロンドンを拠点とするダンス・バンドらしいところだ。
一方、メロウなホーン・アンサンブルを聴かせる “スマイル” は、グレン・ミラー楽団によるジャズ・スタンダードの “ムーンライト・セレナーデ” のテーマを基に、ジャズ・ヒップホップ的なアレンジを施したナンバー。ジョー・アーモン・ジョーンズのピアノ・ソロも聴きどころで、全体的にはムーディーなスイング・ジャズを下敷きとしながら、ピアノ・ソロだけは新主流派時代のハービー・ハンコックを思わせる感じとなっていて面白い。前述の『ブルーノート・リイマジンド』におけるウェイン・ショーターの “フットプリンツ” でピアノを演奏するのはハービー・ハンコックで、実際そこで聴くことのできるフレーズにもかなり似ているので、ジョー・アーモン・ジョーンズのなかに何らかの意識があったのかもしれない。
エミリー・サンデーをフィーチャーした “シエスタ” は、哀愁に満ちたスパニッシュ風味と透明感溢れる歌声により、かつてのクァンティックとアリス・ラッセルのコラボを思わせる。ストリングスとホーンのコンビネーションでメランコリックな旋律を奏でる “ネヴァー・ザ・セイム・アゲイン” も、ラテンやスパニッシュのアクセントを感じさせるナンバー。ゆったりとしたムードから一転して急速テンポへ移行し、イフェ・オグンジョビのトランペットが高らかなフレーズを奏でる。
ネイオのネオ・ソウル調のヴォーカルをフィーチャーした “ラヴ・イン・アウター・スペース” は、たとえば1970年代にディー・ディー・ブリッジウォーターが歌った “ラヴ・フロム・ザ・サン”(自身のソロ・アルバム、ノーマン・コナーズ、ロイ・エアーズのアルバムでもそれぞれ歌った)あたりを彷彿とさせる。スピリチュアル・ジャズとコズミック・ソウルの蜜月的なナンバーだ。今回もジャズ、アフロ、レゲエ、スカ、ヒップホップ、ソウルなどさまざまな要素が結びついたアルバムだが、そのなかでも特にラテンからの影響が印象深い内容となっている。
ヘヴンリー・ミュージック、そんな言葉が相応しいライヴだった。アンビエントと呼ぶには、あまりにも繊細で美しい音楽に思えた。この人は、なんでこんなにも美しい音楽を作ることができるのだろう。その美しさは、いったい彼女のどこから来ているのだろう。彼女の内面からわき上がる何か、希求してやまないもの、もしくは本当に桃源郷。
ひとまず通り一遍のことを書いておくと、まず、クラブにおけるライヴで、派手なリズムを入れないアンビエント・スタイルをもって1時間のあいだオーディエンスを釘付けにすることは、難易度が高い。期待に満ちた満員のフロアなら、キックの音でも連打すればそれなりに盛り上がりもする。そしてそれをついついやりたくもなる。だが、ロレイン・ジェイムスのワエヴァー・ザ・ウェザー(WTW)のライヴは、そういう安易なのせ方をしなかった。前半で演奏したビートレスのピアノ・アンビエント“14℃”で愕然とするほどの崇高さを表現し、最高の見せ場としたことが、昨晩のライヴを象徴している。(ダンス・ミュージックに特化した前の晩の演奏もすこぶる良かったそうだが、ぼくは行っていない)
ロレイン・ジェイムスが夢見人であることは、彼女の諸作から充分にうかがえる話だが、“17℃”のような曲で時折入る細かに分解されたジャングルのリズムは、かろうじてこの音楽の出自を仄めかしてもいた。とはいえWTWは、こうした分析が無駄に思えるほど、ただただ美しかった。そう、涙が流れるほどに……前から言っていることだが、年を取ると涙もろくなるのだ。さらに言っておくとオーディエンスの多くは若く、この手の音楽のライヴにしては女性は多かったし、アフリカ系の女性もいた。
そんなわけで、ロレイン・ジェイムスの初来日は、後ろを振り返るものではなく、未来に開けていたと言えよう。アンコールもあって、終わったのは10時過ぎ、渋谷の外の気温は15℃くらいだった。
なお、彼女へのインタヴューは紙エレキング年末号にて掲載(インタヴュアーはジェイムズ・ハッドフィールド)。
サン・ラーとその相棒であったサックス奏者のジョン・ギルモア亡き後(それぞれ1993年、1995年に没)、彼らの楽団のアーケストラはサックス奏者のマーシャル・アレンによって引き継がれている。マーシャル・アレンは1958年にアーケストラに加入し、ジョン・ギルモアとともに楽団の柱としてサン・ラーを支えてきた。当時の彼らはシカゴを拠点としていて、その後ニューヨーク、フィラデルフィア、カリフォルニアと拠点を移すとともに、ヨーロッパやエジプトなどでもツアーをおこなっている。そんなマーシャル・アレンは1924年生まれの現在98歳。間もなく100歳を迎えようという彼が、現役で音楽活動をおこなっていることにまず驚かされるが、個人の演奏のみならずアーケストラという総勢20名ほどの大楽団を束ね、世界中をツアーし(2014年に来日公演をおこなっている)、そして新作まで発表してしまうのだから恐れ入る。
マーシャル・アレン率いるアーケストラとしての最初のアルバムは、1999年リリースの『ア・ソング・フォー・ザ・サン』となる。〈ストラタ・イースト〉などの仕事で知られるジミー・ホップスやディック・グリフィンも加わったこのアルバムで、アレンは作曲家としてほとんどの楽曲を書いた。その後はフェスなどのライヴ音源や昔の録音物を発表することはあったものの、基本的にライヴ活動が主である彼らのスタジオ録音盤はずっと途絶え、2020年に発表された『スウィアリング』が20年ぶりの新録アルバムとして話題を呼んだ。
『スウィアリング』の楽曲は表題曲を除いてすべてサン・ラーが書いたもので、すなわち過去半世紀にも及ぶアーケストラの代表的なレパートリーを新しく再演したものであった。演劇ではシェイクスピアやチェーホフなどの古典がいまも新たな解釈を交えて再演され続けているが、サン・ラーの音楽もそれと同じで、時を超え、演奏者を超えてずっと演奏され続けている。コール・ポーターやグレン・ミラーなどジャズには多くのスタンダードの作曲家がいるが、一見すると前衛音楽家に見られがちなサン・ラーが書く楽曲も、対極にあるようでじつはそうしたジャズ・スタンダードと同じなのである。
この度発表された『リヴィング・スカイ』は、『スウィアリング』から2年ぶりとなるアーケストラの新録だ。録音は2021年の6月、フィラデルフィアにあるスタジオでおこなわれた。演奏メンバーは『スウィアリング』を基本的に継承し、1970年代に加入したノエル・スコット、マイケル・レイ、ヴィンセント・チャンセイ、1980年代加入のタイラー・ミッチェル、カッシュ・キリオン、1990年代加入のデイヴ・デイヴィス、エルソン・ナシメント、2000年代加入のデイヴ・ホテップといった具合に、さまざまな年代や人種のミュージシャンが参加している。逆に『スウィアリング』に参加していたダニー・レイ・トンプソンやアタカチューンは録音後に他界していて、アーケストラのメンバーの変遷もある。そのように時代によってミュージシャンの入れ替わりがあっても、サン・ラーが提唱した音楽や思想を継承していくのがアーケストラである。
なお、このアルバムはサン・ラーのほか、サン・ラーとの共演経験があるドイツの前衛音楽家/作家/劇作家/映像作家のハルトムート・ゲールケン、サン・ラーのツアーにも関わっていたトルコの音楽プロデューサー/プロモーターで、今回のリリース元である〈オムニ・サウンド〉の設立者であるメフメッツ・ウルグという3名の故人に捧げられている。また、アルバムのアートワークを手がけるのはシカゴを拠点に活動する音楽家/プロデューサー/ヴィジュアル・アーティストのデイモン・ロックスで、彼はかつてサン・ラーの未発表音源を用いたサウンド・アニメーションを制作したり、ブラック・モニュメント・アンサンブルというグループを率いてアルバムをリリースすることでも知られる。
収録曲はこれまでのアーケストラのレパートリーと、マーシャル・アレンが新たに書き起こした楽曲、そしてショパンやスタンダードのカヴァーが織り交ぜられた構成となっている。リズム・セクションやホーン・セクションなどは『スウィアリング』と大差ないものの、今回はストリングスとパーカッションの人数が増えた点が特徴である。
そうしたなかでまず目を引くのは、サン・ラーの名作のひとつである “サムバディ・エルシーズ・ワールド” のインスト版となる “サムバディーズ・エルシーズ・アイディア”。原曲は1955年初演で、アルバムとしては1971年の『マイ・ブラザー・ザ・ウィンド・ヴォリュームII』に収録されており、ジューン・タイソンによるクラシックの声楽的なヴォーカルが印象的だった。このエキゾティシズムに富む楽曲を、今回はゆったりと神秘的なムードで演奏する。パーカッションによるアフロ・キューバン的なモチーフと、ピアノとワードレス・ヴォイスによる宗教的な雰囲気は、たとえばキューバのサンテリアを連想させるものだ。
“デイ・オブ・ザ・リヴィング・スカイ” でマーシャル・アレンはコラを演奏しており、アフリカの民族音楽のモチーフが大きく表われている。ストリングスとホーンによる土着性に富む演奏はとても瞑想的だ。“ナイト・オブ・ザ・リヴィング・スカイ” もミステリアスでエキゾティックなムードに包まれ、コズミックなパーカッションとシンセサイザー使いが随所で見られる。1950~60年代のマーティン・デニーやアーサー・ライマンなどのスペースエイジ・ミュージック、古典的なSF映画の音楽やジャングルなど未開地を舞台としたミュージカル、B級のモンド音楽などのエッセンスが詰まったよう不思議な作品だ。
“マーシャルズ・グルーヴ” はブルース形式のモーダルな楽曲で、ホーン・セクションがレイジーで不穏なムードを演出する。アーケストラならではのスペイシーなアレンジも加えられ、ビッグ・バンド・ジャズに前衛的なスパイスを振りかけたような楽曲だ。一方で “ファイアーフライ” はグレン・ミラー楽団のようにムーディーなジャズ・オーケストラだが、そのなかでマーシャル・アレンのアルト・サックスがフリーキーな唸りを上げて異彩を放つ。続く “ウィッシュ・アポン・ア・スター” はディズニー映画でも有名なスタンダード・カヴァー。こちらも基本的にはムーディーなバラードであるが、調子はずれなサックスが絡むことによって、水と油が交わるような演奏となっている。
そんな調子でショパンの “前奏曲第7番イ長調 op28-7” も(“ショパン” のタイトルで)演奏している。異色のカヴァーだが、実はこれもサン・ラー・アーケストラのレパートリーのひとつ。これまでにもライヴ録音などでは披露してきたが、今回が初めてのスタジオ録音となる。アーケストラは至って大真面目に演奏するなかで、唯一サックスだけが異質なブロウを繰り広げる。こうした本気とも冗談ともつかないユーモア精神も、サン・ラーの世界の魅力のひとつである。
香川照之主演というだけで観ようと思っていたら、「銀座のクラブでご乱行」という報道が出た。3人がかりでホステスに強制猥褻を働き、その映像をスマホで送信する。どこかの医大生みたいな振る舞いだったという。すぐにも銀座とはそういうところだという擁護論が出たかと思えば、銀座はそういうところではないという別な声も同業者から浮上する。僕は銀座育ちだけれど、子どもの頃の話なので、夜の銀座も最近の銀座もぜんぜん知らない。何が本当なのかまるでわからず、「僕がその場にいれば……(収められたのに)と思った」というオズワルド伊藤のコメントを聞いていると店側に客を遊ばせるスキルがなかった気もしてくるし、「ママの髪をめちゃくちゃにした」とまで聞くと、香川の嗜虐的な性格はもっと根深いところから出ている可能性もあると思えてくる。女性をモノとして扱うとなるとサイコパシーも疑わなければいけないし、そうした気質が役者としての成功をもたらしたという指摘も最近は増えている。いずれにしろ、この騒ぎのせいで昆虫採集に明け暮れる番組『昆虫すごいぜ!』まで見方が変わり、昆虫をつまむ時の手つきがエロチックな動作に思え、脳内イメージは手塚治虫の描くマンガのように官能性を帯びていく。『時計じかけのオレンジ』のアレックスや『カリギュラ』を演じたマルコム・マクダウェル、あるいは『アメリカン・サイコ』のベイトマンや『マシニスト』のトレバーを演じたクリスチャン・ベールと同じタイプに香川の分類も変わっていったというか。同じく残虐非道な役をやっても長門裕之や緒形拳にはなかった肉感があり、がっちりと体重がのしかかってくる迫力が香川照之にはある。とはいえ、西田敏行や勝新太郎ほど威圧感はなく、家庭内に収まりながら『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスを演じられるという意味では『クリーピー 偽りの隣人』(16)で演じた西野は最も適役で、隣に座られたホステスの恐怖まで想像できる気がしてきた。

以前は香川照之のことはまったく好きではなかった。西川美和監督『ゆれる』(06)の兄役がそれまでとは180度異なる役回りで、もしかしたら思ったよりいい役者じゃないかと思えたのも束の間、以後は何をやっても『ゆれる』のコピーで、『アンフェア』(06)でも『カイジ』(09)でもまったく同じ顔つきで出てくる。それは役を与える側にも問題があるんだろうけれど、引き受けなければいいとも思うし、『トウキョウソナタ』(08)も1回目は素直に観られず、『映画 ひみつのアッコちゃん』(12)で鏡の精として出てきた時はさすがにブチギレてしまった。顔の筋肉から力を抜いた表情というのか、あれがもういやでいやでたまらなかった。赤塚不二夫の原作ではもっとハンサムな設定だったと記憶していたし、香川がやる必要はないだろーと思って、頭の中でCGを駆使し、ほかの顔に描き変えながら観ていたほどだった。そのようにネガティヴな感情を伴わなくなったのはやはり『半沢直樹』がきっかけで、似たような役回りでも過剰な演出によって戯画化することによって、不思議なことに面白く見えてきたのである。それはもしかするとあの表情に笑いの要素が加味されたということであり、なるほど『昆虫すごいぜ!』やフマキラーのCMがそれに拍車をかけることとなった。そうなると「もっと観たい」に切り替わってしまうところが大衆心理の浅はかなところ。そこに「香川照之主演」のクレジットである。つまり、これはと思う絶妙のタイミングで『宮松と山下』という作品の情報が舞い込んできたのである。というわけで全世界の性被害に遭われた女性たちやセクハラで人生を台無しにされた女性の皆さん、あるいは伊藤詩織さんにも申し訳ないですと思いながら『宮松と山下』を観てしまいました。ちなみに僕も高校生の頃に痴漢の被害に逢ったことがあります。なので、女性たちが感じる屈辱は少しはわかるつもりだし、あまりの驚きに瞬間的に声は出せないという意見には100%同意です。

ここからは作品だけに集中。そして、その価値があることを伝えたい。オープニングは瓦屋根のアップ。あまりにも強調するので、なぜかアン・リー監督『グリーン・デスティニー』を思い出す。カメラが遠景を映すと時代劇のセットで映画の撮影がおこなわれていることがわかってくる。香川演じる宮松は映画のエキストラで斬られ役を演じ、ひと続きの殺陣で殺されては着替え、主人公が行く場所に移動してはまた殺される。何度も殺される。上手いも下手もない。淡々とした作業のように殺される。映画の前半はまるで騙し絵のようで、「地」と「図」の関係がまったく見えてこない。壁のない美術館で絵だけしか存在しない状態を思い浮かべることが難しいように、しかし、この映画では「図」だけを見せることに成功している。舞台でも可能かもしれないけれど、映画ならではのイリュージョンが延々と続く。騙されたことがわかると思わず笑ってしまうほど、それはもうお見事。「地」とは、この場合、現実を意味していて、騙し絵から転出し、ストーリーが新たな局面に入ると映画のテイストはまったく違うものになっていく。作品全体の構成という意味では『カメラを止めるな!』(17)に近いものがあり、しかし、物事を別な側面から捉え返す視点の移動があるわけではない。宮松はいわば後半で歴史と出会い、エキストラでいた方がどれだけよかったかを思い知らされる。日本がこれまで戦争の加害者でいたことを忘却し、主体性を持たないことで平和に過ごしてきたように。香川の表情はこれまでに観たどの演技とも異なっていて、無表情をつくっていたときとは比べものにならないほど「無」を感じさせる。『ゆれる』でつくっていた無表情にはまだ外部との関係を拒もうとする意志が感じられ、それが何度もコピーされることで僕にはうるさく感じられたのだけれど、『宮松と山下』で見せる無表情に外部はなく、何も語りかけてこない恐ろしさと完成された孤独が漂っている。近いといえば『ひかりごけ』(92)の三國連太郎だろうか。エキストラの出番が終わり、谷(尾美としのり)に話しかけられるシーンで、人が自分に話しかけてくること自体に驚いた様子を見せるシーンはとくに秀逸で、「他者」を描くとはこういうことかなと思う。

ストーリーを書くとそれ自体がネタバレになってしまうので、抽象的に書いていくしかないのだけれど、この映画で扱われるテーマは家族である。日本の映画がもうひとつ面白くないと思う理由のひとつにメジャーであれマイナーであれ家族映画ばかりつくるということがあって、『宮松と山下』もそのテンプレートからは脱していない。またか……と思うのだけれど、統一教会と自民党が個人を家族の檻に閉じ込めて外に出すまいとしてきた歴史が明るみに出てきた現在、どのような形であっても日本人が個人でいることは許さないという構図が『宮松と山下』にも投影されているように観えてしまい、後半を覆い尽くす閉塞感はその分厚さを動かしがたいものとして印象づける。僕がとくに面白かったのは、メタ視点ではあるけれど、宮松が映画の撮影では楽しそうに自撮りをするなど自然な家族を演じているのに、現実の世界では他人行儀になりがちで、家族だからといって一緒に住むことが必ずしも当然のことのようには描かれていなかったという対比と、兄と再会した妹(中越典子)が思わず兄を抱きしめるシーンは冒頭の瓦屋根のように最初はアップにせず、ロイ・アンダーソンばりに遠景で見せたこと。エモーショナルに訴えるという感覚を明らかに削いでいて、家族が再会しても大した感動はなく、これはもはや意地悪だったとしか思えない。家族は個人の集まりではなく、常に命令を待っている予備隊のようなもの(そもそも日本では教育政策や税制度がそれを促すようにできている)として描かれ、主体性は宙ぶらりんのロープウェイに喩えられる。そう、『宮松と山下』は個人主義の孤独か家族主義の束縛のどちらかを選べと観客に圧力をかけてくる。少し意味は違うけれど、安倍晋三銃撃事件を起こした山上容疑者の伯父が、こうなると山上の母は洗脳が解けてしまう方が可哀想でしょうというコメントをしていて、なるほどと納得してしまったのだけれど、そのような優しさがこの作品にはない。実に厳しい。エキストラというのは、日本国民全体の比喩のようであり、そうした国民の1人1人が政治的主体になるということはどのような精神状態を引き起こすかということをシミュレーションしているかのような気さえしてきた。それこそ日本が軍事的主体になるという思想を後押ししていたのが『シン・ゴジラ』(16)なら、それは同時に加害者であった責任も思い出せというのが『宮松と山下』ではないかと。『シン・ゴジラ』の能天気ぶりが『宮松と山下』の前では際立ってくる。ちなみに香川照之はどことなくゴジラに似ている。そりゃあ銀座も壊すわな。

ジェフ・ミルズのレーベル〈アクシス〉が始動して30年目の今年、その記念としてミルズのリリースにおいてもっとも芸術的レコードの1枚に挙げられる「Cycle 30」を300枚のみ再発することをレーベルは発表した。
同12インチ・シングルのA面には8つの1本溝が掘られており、それぞれが無限にループする1トラックとなっている。これは、デトロイト・テクノにおける貢献者のひとり、故ロン・マーフィーの技術があって具現化できた、まさにレコード芸術だ。レーベル面には樹木のシンボルがデザインされているが、樹木の幹を水平に切断し、露出させたときに現れるサイクルがその8本溝でもある。
レコードを製造するときに使うスタンプラー(鋳型)には寿命があるが、オリジナルがまだかろうじて使える現在、レーベルはこの機会に600枚をプレスした。残りの300枚は、レーベルが60周年を迎えたときに発売予定。
とりあえず、欲しい人は、迷わずプレオーダーすること。
