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宮松と山下

宮松と山下

監督・脚本・編集:関友太郎 平瀬謙太朗 佐藤雅彦
企画:5月
出演:香川照之 津田寛治 尾美としのり 中越典子
制作プロダクション:ギークサイト
製作幹事:電通
製作:『宮松と山下』製作委員会(電通/TBSテレビ/ギークピクチュアズ/ビターズ・エンド/TOPICS)
配給:ビターズ・エンド
2022/85分/日本/カラー/ヴィスタ
https://bitters.co.jp/miyamatsu_yamashita/
【公式SNSリンク】
Twitter: https://twitter.com/miya_yama_movie
Facebook: https://www.facebook.com/miyamatsu.yamashita
 
©2022『宮松と山下』製作委員会
 
11/18(金)新宿武蔵野館、渋谷シネクイント、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー

三田格 Oct 25,2022 UP

 香川照之主演というだけで観ようと思っていたら、「銀座のクラブでご乱行」という報道が出た。3人がかりでホステスに強制猥褻を働き、その映像をスマホで送信する。どこかの医大生みたいな振る舞いだったという。すぐにも銀座とはそういうところだという擁護論が出たかと思えば、銀座はそういうところではないという別な声も同業者から浮上する。僕は銀座育ちだけれど、子どもの頃の話なので、夜の銀座も最近の銀座もぜんぜん知らない。何が本当なのかまるでわからず、「僕がその場にいれば……(収められたのに)と思った」というオズワルド伊藤のコメントを聞いていると店側に客を遊ばせるスキルがなかった気もしてくるし、「ママの髪をめちゃくちゃにした」とまで聞くと、香川の嗜虐的な性格はもっと根深いところから出ている可能性もあると思えてくる。女性をモノとして扱うとなるとサイコパシーも疑わなければいけないし、そうした気質が役者としての成功をもたらしたという指摘も最近は増えている。いずれにしろ、この騒ぎのせいで昆虫採集に明け暮れる番組『昆虫すごいぜ!』まで見方が変わり、昆虫をつまむ時の手つきがエロチックな動作に思え、脳内イメージは手塚治虫の描くマンガのように官能性を帯びていく。『時計じかけのオレンジ』のアレックスや『カリギュラ』を演じたマルコム・マクダウェル、あるいは『アメリカン・サイコ』のベイトマンや『マシニスト』のトレバーを演じたクリスチャン・ベールと同じタイプに香川の分類も変わっていったというか。同じく残虐非道な役をやっても長門裕之や緒形拳にはなかった肉感があり、がっちりと体重がのしかかってくる迫力が香川照之にはある。とはいえ、西田敏行や勝新太郎ほど威圧感はなく、家庭内に収まりながら『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスを演じられるという意味では『クリーピー 偽りの隣人』(16)で演じた西野は最も適役で、隣に座られたホステスの恐怖まで想像できる気がしてきた。

 以前は香川照之のことはまったく好きではなかった。西川美和監督『ゆれる』(06)の兄役がそれまでとは180度異なる役回りで、もしかしたら思ったよりいい役者じゃないかと思えたのも束の間、以後は何をやっても『ゆれる』のコピーで、『アンフェア』(06)でも『カイジ』(09)でもまったく同じ顔つきで出てくる。それは役を与える側にも問題があるんだろうけれど、引き受けなければいいとも思うし、『トウキョウソナタ』(08)も1回目は素直に観られず、『映画 ひみつのアッコちゃん』(12)で鏡の精として出てきた時はさすがにブチギレてしまった。顔の筋肉から力を抜いた表情というのか、あれがもういやでいやでたまらなかった。赤塚不二夫の原作ではもっとハンサムな設定だったと記憶していたし、香川がやる必要はないだろーと思って、頭の中でCGを駆使し、ほかの顔に描き変えながら観ていたほどだった。そのようにネガティヴな感情を伴わなくなったのはやはり『半沢直樹』がきっかけで、似たような役回りでも過剰な演出によって戯画化することによって、不思議なことに面白く見えてきたのである。それはもしかするとあの表情に笑いの要素が加味されたということであり、なるほど『昆虫すごいぜ!』やフマキラーのCMがそれに拍車をかけることとなった。そうなると「もっと観たい」に切り替わってしまうところが大衆心理の浅はかなところ。そこに「香川照之主演」のクレジットである。つまり、これはと思う絶妙のタイミングで『宮松と山下』という作品の情報が舞い込んできたのである。というわけで全世界の性被害に遭われた女性たちやセクハラで人生を台無しにされた女性の皆さん、あるいは伊藤詩織さんにも申し訳ないですと思いながら『宮松と山下』を観てしまいました。ちなみに僕も高校生の頃に痴漢の被害に逢ったことがあります。なので、女性たちが感じる屈辱は少しはわかるつもりだし、あまりの驚きに瞬間的に声は出せないという意見には100%同意です。

 ここからは作品だけに集中。そして、その価値があることを伝えたい。オープニングは瓦屋根のアップ。あまりにも強調するので、なぜかアン・リー監督『グリーン・デスティニー』を思い出す。カメラが遠景を映すと時代劇のセットで映画の撮影がおこなわれていることがわかってくる。香川演じる宮松は映画のエキストラで斬られ役を演じ、ひと続きの殺陣で殺されては着替え、主人公が行く場所に移動してはまた殺される。何度も殺される。上手いも下手もない。淡々とした作業のように殺される。映画の前半はまるで騙し絵のようで、「地」と「図」の関係がまったく見えてこない。壁のない美術館で絵だけしか存在しない状態を思い浮かべることが難しいように、しかし、この映画では「図」だけを見せることに成功している。舞台でも可能かもしれないけれど、映画ならではのイリュージョンが延々と続く。騙されたことがわかると思わず笑ってしまうほど、それはもうお見事。「地」とは、この場合、現実を意味していて、騙し絵から転出し、ストーリーが新たな局面に入ると映画のテイストはまったく違うものになっていく。作品全体の構成という意味では『カメラを止めるな!』(17)に近いものがあり、しかし、物事を別な側面から捉え返す視点の移動があるわけではない。宮松はいわば後半で歴史と出会い、エキストラでいた方がどれだけよかったかを思い知らされる。日本がこれまで戦争の加害者でいたことを忘却し、主体性を持たないことで平和に過ごしてきたように。香川の表情はこれまでに観たどの演技とも異なっていて、無表情をつくっていたときとは比べものにならないほど「無」を感じさせる。『ゆれる』でつくっていた無表情にはまだ外部との関係を拒もうとする意志が感じられ、それが何度もコピーされることで僕にはうるさく感じられたのだけれど、『宮松と山下』で見せる無表情に外部はなく、何も語りかけてこない恐ろしさと完成された孤独が漂っている。近いといえば『ひかりごけ』(92)の三國連太郎だろうか。エキストラの出番が終わり、谷(尾美としのり)に話しかけられるシーンで、人が自分に話しかけてくること自体に驚いた様子を見せるシーンはとくに秀逸で、「他者」を描くとはこういうことかなと思う。

 ストーリーを書くとそれ自体がネタバレになってしまうので、抽象的に書いていくしかないのだけれど、この映画で扱われるテーマは家族である。日本の映画がもうひとつ面白くないと思う理由のひとつにメジャーであれマイナーであれ家族映画ばかりつくるということがあって、『宮松と山下』もそのテンプレートからは脱していない。またか……と思うのだけれど、統一教会と自民党が個人を家族の檻に閉じ込めて外に出すまいとしてきた歴史が明るみに出てきた現在、どのような形であっても日本人が個人でいることは許さないという構図が『宮松と山下』にも投影されているように観えてしまい、後半を覆い尽くす閉塞感はその分厚さを動かしがたいものとして印象づける。僕がとくに面白かったのは、メタ視点ではあるけれど、宮松が映画の撮影では楽しそうに自撮りをするなど自然な家族を演じているのに、現実の世界では他人行儀になりがちで、家族だからといって一緒に住むことが必ずしも当然のことのようには描かれていなかったという対比と、兄と再会した妹(中越典子)が思わず兄を抱きしめるシーンは冒頭の瓦屋根のように最初はアップにせず、ロイ・アンダーソンばりに遠景で見せたこと。エモーショナルに訴えるという感覚を明らかに削いでいて、家族が再会しても大した感動はなく、これはもはや意地悪だったとしか思えない。家族は個人の集まりではなく、常に命令を待っている予備隊のようなもの(そもそも日本では教育政策や税制度がそれを促すようにできている)として描かれ、主体性は宙ぶらりんのロープウェイに喩えられる。そう、『宮松と山下』は個人主義の孤独か家族主義の束縛のどちらかを選べと観客に圧力をかけてくる。少し意味は違うけれど、安倍晋三銃撃事件を起こした山上容疑者の伯父が、こうなると山上の母は洗脳が解けてしまう方が可哀想でしょうというコメントをしていて、なるほどと納得してしまったのだけれど、そのような優しさがこの作品にはない。実に厳しい。エキストラというのは、日本国民全体の比喩のようであり、そうした国民の1人1人が政治的主体になるということはどのような精神状態を引き起こすかということをシミュレーションしているかのような気さえしてきた。それこそ日本が軍事的主体になるという思想を後押ししていたのが『シン・ゴジラ』(16)なら、それは同時に加害者であった責任も思い出せというのが『宮松と山下』ではないかと。『シン・ゴジラ』の能天気ぶりが『宮松と山下』の前では際立ってくる。ちなみに香川照之はどことなくゴジラに似ている。そりゃあ銀座も壊すわな。

三田格