「Noton」と一致するもの

Ezra Collective - ele-king

 今年もサウス・ロンドンを中心とするUKジャズ勢は精力的に活動をおこなっていて、先日紹介したザ・コメット・イズ・カミングヌビヤン・ツイストのほか、ココロコ、シード・アンサンブル、テオン・クロス、サラ・タンディ、ロージー・タートン、イル・コンシダード、ルビー・ラシュトン、アルファ・ミスト、シカダなどのアルバムがリリースされている。そうした中でもっとも注目を集めるのがエズラ・コレクティヴによる初のアルバム『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』だ。
 エズラ・コレクティヴはフェミ・コレオソ(ドラムス)とTJ・コレオソ(ベース)の兄弟を中心に、ジョー・アーモン・ジョーンズ(ピアノ、キーボード)、ディラン・ジョーンズ(トランペット)、ジェイムズ・モリソン(サックス)からなる5人組で、これまでサウス・ロンドンのジャズ・シーンを牽引してきたバンドである。トゥモローズ・ウォリアーズで出会った彼らは2012年にバンドを結成し、ライヴ活動中心に名を上げていき、ファラオ・モンチのヨーロッパ・ツアーでも演奏を務めた。作品はこれまでに「チャプター7」(2016年)、「ファン・パブロ:ザ・フィロソファー」(2017年)という2枚のEPをリリースしており、後者はジャイルス・ピーターソンの「ワールドワイド・アワーズ」で2018年度のベスト・アルバムに輝いている(便宜的にアルバムとカテゴライズされているが、実際にはミニ・アルバムだった)。南ロンドン勢の中でも特に高い人気を誇るグループで、ジョー・アーモン・ジョーンズは既にソロ・アルバムの『スターティング・トゥデイ』(2018年)をリリースし、他のメンバーも様々な作品に客演していたのだが、なかなかファースト・アルバムがリリースされてこなかったので、この『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』はまさに待望の一枚だ。

 エズラ・コレクティヴの音楽性の柱はジャズ、ジャズ・ファンク、アフロで、そこにレゲエ、ラテン、カリビアン、ヒップホップ、ブロークンビーツなどの要素も混ざってくる。特にアフリカ系のコレオソ兄弟が作り出すビートは、トニー・アレンをルーツとするアフロビートの影響を色濃く受けており、それがエズラ・コレクティヴ最大の特徴とも言える。そうしたアフロビートとジャズの結びつきに、扇情的なホーン・セクションが組み合わさって、エズラ・コレクティヴのサウンドは南ロンドン勢の中でもっともパワフルでダンサンブルなものとなっている。『ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ』はそうした彼らの姿を余すところなく伝えてくれる。演奏は5人のメンバーのほか、“ホワット・アム・アイ・トゥ・ドゥ?”でロイル・カーナーがヴォーカル参加。彼もちょうど『ノット・ウェイヴング、バット・ドローイング』を出したばかりと話題の人だが、そのアルバムにも参加していたシンガー・ソングライターのジョルジャ・スミスも“リーズン・イン・ディスガイズ”で歌っている。ほかにフェラ・クティのカヴァーの“シャカラ”にはココロコのメンバーも参加。パーカッションはファン・パブロというローマ教皇ヨハネ・パウロと同名のミュージシャンになっているが、これは「ファン・パブロ:ザ・フィロソファー」のときと同じくメンバーの変名クレジットだろう。

 オープニングの“スペース・イズ・ザ・プレイス”はサン・ラーのカヴァーで、「ファン・パブロ:ザ・フィロソファー」でもやっていたのだが、今回はそれとは異なるヒップホップ的アプローチによる演奏で、アルバム全体のイントロダクション的な役割を果たしている。アート・アンサンブル・オブ・シカゴを思わせるようなフリーキーなジャズから、最後はヒップホップ・ビートで締め括られる“ホワイ・ユー・マッド?”、レゲエ調の“レッド・ワイン”を経て、“クエスト・フォー・コイン”はブロークンビーツを取り入れた演奏で、クラブ・ジャズとの親和性の高いエズラ・コレクティヴらしいナンバーと言える。ジョルジャ・スミスをフィーチャーした“リーズン・イン・ディスガイズ”はネオ・ソウルを取り入れたもので、ロイル・カーナーをフィーチャーした“ホワット・アム・アイ・トゥ・ドゥ?”はヒップホップと、今のジャズらしいアプローチが続く。
 ここまでの前半の流れも悪くはないが、エズラ・コレクティヴらしさという点では後半のアフロビートを中心とした作品群に圧倒されるだろう。一口にアフロビートと言っても様々なリズムを繰り出しており、“ピープル・セイヴド”のようなロー・テンポのディープなタイプあり、“クリス・アンド・ジェーン”や“サン・パウロ”のようにラテンやカリビアン、サンバ・ビートと組み合わせた躍動的なタイプありと、とても幅広くて表情豊かだ。“キング・オブ・ザ・ジャングル”はスピリチュアルなアフロ・ジャズ、“ユー・キャント・スティール・マイ・ジョイ”はブロークンビーツ+アフロビートというダンサブルなサウンドだ。一方でジョー・アーモン・ジョーンズのソロ・ピアノによる“フィロソファーII”はスパニッシュ調のメロディによるクラシカルな作品。この曲の「ファン・パブロ:ザ・フィロソファー」でのヴァージョンはアッパーなアフロビートだったので、表現力の幅広さに驚かされる。最後はフェラ・クティの作品の中でも屈指の人気曲の“シャカラ”をカヴァーしていて、ココロコを交えた分厚いホーン・セクションが活躍する。エズラ・コレクティヴのライヴ・バンドとしての魅力が最大限に発揮された演奏と言えるだろう。彼らの演奏はリズムから組み立てられることが多く、アフロビートはその端的なものだが、そうしたビートが持つ生命力に貫かれたアルバムだ。

『バンドやめようぜ!』 - ele-king

 6月1日(土曜日)、新宿のロフト・カフェ〈ロフト〉にて、ele-kingでも活躍中のライター/レーベル主宰者のイアン・マーティンとライター/写真家の久保憲司によるトークがあります。テーマは「日本と欧米のインディ・シーンは完全に死んでしまったのか」。熱いトークになるのか、あるいは捻くれ英国文化と直球日本文化の大いなるすれ違いになるのか……、まあ、たぶんその両方でしょうな。お酒でも飲んでひやかしに行きましょう。

https://www.loft-prj.co.jp/schedule/rockcafe/116752

OPEN 18:00 / START 19:00
前売(web予約)¥1,500/当日¥2,000(+要1オーダー)
チケット予約
【ナビゲーター】イアン・F・マーティン vs 久保憲司
日本と欧米のインディ・シーンは完全に死んでしまったのか、ポップ・ミュージックに占領された
音楽シーンに未来はあるのか、こんな難しい話をしながらも今本当に面白い音楽を紹介しながら楽しくお酒でも飲みましょう。松田聖子から渋谷系、ナンバーガールからAKB48までを論じるイアン・F・マーティンに日本、欧米の音楽の問題点を聞きまくります。

Daniel Haaksman - ele-king

 もはや多様性は販促の道具である。ダイヴァーシティの称揚が「なんでもあり」の状況を誘発しかねないというのはだいぶまえから言われていた気がするけれど、いまやそれは完全に企業や資本にとってこそ有用な、使い勝手のいい概念に成り下がっている。多様性を褒めそやすことの何が問題かといえば、それが社会における異質なもの同士の敵対性や、そのような軋轢を生み出す構造それじたいを隠蔽してしまう点で、極論すれば「貧困だってひとつの個性でしょ」なんてことになりかねない。いや、「自己責任」が大人気のこの国ではすでにそうなってしまっているのかもしれないが、とまれ企業は多様な価値観を推奨しさえすれば善良なるイメージを獲得することができ、己が与し支えるシステムの歪みなんか気にせず、思う存分営利活動に邁進できるというわけだ。多様性は収益を生む。素晴らしい。

 ダニエル・ハークスマンはベルリンを拠点に活動するベテランのDJ/プロデューサーである。レーベル〈Man〉の運営などをとおしていわゆるワールド・ミュージックとベース・ミュージックとの境界を更新し続けてきた彼は、かつてコンピレイション『Rio Baile Funk』を編むことで世界じゅうにバイリ・ファンキを広めた陰の重要人物でもあるが、そのハークスマンにとって3枚目のスタジオ・アルバムとなるこの『With Love, From Berlin』は、国際都市としてのベルリンをテーマに掲げている。ベルリンという街がロンドンやパリと異なるのは、その国際性がグローバル企業や金融産業によってではなく、観光や外国人の(自然な)流入によって担保されている点である、とレーベルのインフォメイションは説明していて、ほんとうにそう言えるのかどうかは判断がつかないけれど、少なくともハークスマンはそのようにベルリンをレプリゼントしたいということだろう。ようするにベルリンは、資本主導ではないかたちで多様性が花開いた稀有な都市なんだよと、そういう話である。

 まずはシベーリの起用に嬉しくなる。彼女は偉大なるブラジル音楽の遺産とエレクトロニカの音響的冒険とを両立させるサンパウロ出身のシンガーソングライターで、2006年に『The Shine Of Dried Electric Leaves』という良作を残しているが(日本盤にはハーバートによるリミックスも収録、『21世紀ブラジル音楽ガイド』をお持ちの方は34頁を参照)、彼女を迎えた冒頭の“Corpo Sujeito”や、それに続く“La Añoranza”(こちらのゲストはバルカン・ビート・ボックスのサックス奏者オリ・カプランとペルーのデング・デング・デングなるグループ、そしてジャイルス・ピーターソンの「ワールドワイドFM」でも番組を持つ中南米音楽セレクターのココ・マリア)がもっともよく体現しているように、ソカなどアフロ・カリビアンのリズムを流用して骨格を成形しながら、そこにダブステップ以降のベースを注入、上モノや言語で世界各地の要素を際立たせつつ、それらすべてをリズム&サウンド的なベルリン式ダブの音響で包み込む──というのがアルバム全体の基本路線なのだけれど、ストリングスとコーラスが印象的な3曲目“Overture”によく表れているように、どの曲も音と音のあいだの空隙がほんとうに豊かだ。この音の間合いは、それぞれのマテリアルが互いに異なるもの同士であることを確認させる役割を担っていると言える。そのおかげで、さまざまな素材が同居しているにもかかわらず、ごちゃごちゃした感じはいっさいない。

 取り合わせの妙もまたこのアルバムの醍醐味だ。ポール・セント・ヒレアーを招いた4曲目“City Life”やトリを飾る“Wolkenreise”のバンドネオンとダブ、ザップ・ママの娘だというK・ズィアとシカゴの大物ロバート・オーウェンズを同時に呼び寄せたシングル曲“24-7”のレゲトン・ハウスなど、どの曲も巧みなさじ加減によりサウンド相互の異質性がしっかりと保護されている。全体の鍵を握るのは8曲目の“Occupy Berlin”だろう。タイトルからして反金融・反資本の機運に同調するこの曲は、背後に敷かれたシンセの持続音とブラカ・ソム・システマのカラフによる言の葉が、随所で乱れ舞うパーカッションの独特な響きとリズムを引き立てていて、音同士の闘いとでも言おうか、われわれリスナーの耳を大いに楽しませてくれる。

 とまあそんなふうにこのアルバムにはなんとも多彩な要素がぎゅうぎゅうに詰め込まれているわけだけど、ぜんぜんこれ見よがしじゃないというか、エキゾ感を売りにするような側面は皆無で、かといって相対的な並列化に与するわけでもなく、すべての音がきわめてクールな佇まいで互いの特異性を示し合っている。多様性の称揚によって覆い隠される、個々の対立それじたいを救うこと──それはグローバル資本とはべつの角度からダイヴァーシティを捉え返そうとするハークスマンの、静かに燃えたぎるアティテュードの表れにほかなるまい。ベース・ミュージックのグローバルなあり方、ひいては安易な多様性の讃美それじたいを問い直す、刺戟に満ちたアルバムだ。

Panda Bear - ele-king

 リリースから3か月遅れのレヴュー。なので好きなひとはとっくに聴いておのおの感想を持っていることだろう。聴いてないひとは、パンダ・ベアが嫌いか,もう彼の表現に興味を持てないか、飽きたか、もしくは生活のなかに取るに足らない、役に立たない、無用な喜びを見出さないひとかもしれない。しかし彼のまったくぶれない夢想癖が好きなひとにとっては、じつはこの『Panda Bear Meets The Grim Reaper』以来、6枚目のソロ・アルバム『ブーイ』はけっこう良かったりする。評判の良かった『Panda Bear Meets The Grim Reaper』と『Tomboy』よりも、ぼくは新作のほうが良いと思っている。昨年、最初に“Dolphin”を聴いたときにそう思った。

 オートチューンを使って昨今のR&B/ヒップホップの影響を取り入れているからではない。パンダ・ベアの作品を特徴付ける音のがちゃがちゃした感じ、空間を埋めたがるやかましい感じが綺麗に整理されて、より奥行きのある音像になっているのがひとつ、で、もうひとつの長所はメロディラインが良い。音響工作にに関しては、思うに、前作でダブを意識したとはいえは、キング・タビーの最小限の音による広がる空間とはほど遠いダブをやったパンダ・ベアも、いやまてよ、ダブにはもっと空間(スペース)とミニマリズムが必要であると気がついたのかもしれない。
 アルバムは、“Dolphin”に続く“Cranked”と“Token”も良い流れになっている。

 この2曲にも魅力的なメロディがあるわけだが、本作のひとつのスタイルが明らかになっている。それはアコースティック・ギターと歌を基調にし、サンプル音か電子音が控え目にミックスされるというシンプルな構造だ。それはフリー・フォークと括られた時代の、在りし日のアニマル・コレクティヴを思い出させるかもしれないが、『ブーイ』に収録された9曲は1曲1曲が成熟している。
 なるべく良い音響再生装置で聴いて欲しいというのが〈ドミノ〉からのリクエストのようだが、それはたしかで、間違ってもPCやイヤフォンで満足しないように。なるべく大きな音量で、独立したスピーカーから音を出そう。わかっていると思うけど、パンダ・ベアの音楽に自己救済なんて求めても無駄。たとえあなたが窮していようとも、空想力で楽しいことや嬉しいことで頭を満たして、ただただ純粋に楽しめば良い。

第5回 反誕生日会主義 - ele-king

 ハッピバースデートゥーユーハッピバースデートゥーユーハッピバースデーディーーーーーア/あああああああああああああああああああ!/●ーーーーーーーーーーちゃーーーーーーーーーん。
 逃げ出したい/暗がり/ロウソクの火/コマンドが見える/「吹き消せ!」/逆らわない=吹き消す/おめでと~~う/ああああああああああああああああああああああああああああああああ!/逃げ出したい。
 電気がつく。ケーキ=好きではない食べ物=祝福のアイコン/切り分ける/皿に盛る/横倒しになる/食べる。
 ちゃぶ台を囲む=父/母/姉/私。
 家族。「誕生日に」・「ケーキを食べる」・「家族」=ドラマで見た/優しい父/優しい母/優しい子/みんなが仲良し/実情と合致しない。
 誕生日会が不愉快だと気がついたのは小学生のころだった。それ以前は記憶にないので素直に喜んでいたのだと思う。不意に「ハッピーバースデー」の歌を歌う自分の身体が、喉を残して全部消えているような気になっているのを自覚した。喉は単独で震えている。声だけが浮いている。自分の声ではないみたいだ。歌いたくない/ここにいたくない/すぐに立ち上がって外へ逃げ出したい。

 儀礼が耐え難いほど嫌いだ。誕生日に限らず、私は成人式も卒業式も、形式化された祝福は全て嫌いである。
 空間を以て「祝福」を示すという「意向」が発生したとき、空間に参与する(させられる)人たちは、儀礼空間という大きな機械を動かすための歯車として所定の役割を果たすよう強いられる。さっきまで意志を持つ人間だった私は、急に物言わぬ歯車に変えられる。「誕生日会」なんだからここに座れ、歌を歌え、拍手しろ、ろうそく吹き消せ、ケーキを食え……これらの行動1つ1つに切実な意味はあるのか? 多くの場合ない。少なくとも私の場合はなかった。個人から個人へ祝福を伝える方法はこれ以外にも大量にあるはずなのだから、こんな決まり切った形式を真似させられるいわれはない。それでも別に歌いたくない歌を歌い、叩きたくないのに拍手し、興味のないろうそくを吹き消し、好きでもないケーキを食べるのは、「場の空気」に流されるからである。
「あるべき姿」「普通はこう」……特段説明もされない、ただそういう風に「ある」。笑みを浮かべた相手から無言で手渡されたものをつい受け取ってしまうように、儀礼は基本的に「善意」で運営されている。悪意由来のものを断るより善意由来のものを断る方がはるかに難しい。善意で生きている人間のエネルギーを前に拒絶で立ち向かうには、相手の数倍のエネルギーが必要になる。そして儀礼を切実に必要としている人もいるのだろうし、悪いと言いたいわけではない。でも私は嫌いだ。本当に嫌いだ。編まれたくない。パーツにされたくない。ロールプレイングなんてやりたくない。私は己の切実な意志を尊重し、表明の方法はその都度その都度考えたい。全てを私の関係ないところでやってほしい。全てを任意に。全てを自由参加に。

 しかし世間は「儀礼への不参加」に意味を見出す。強い意味である。たとえ「任意」「自由参加」という建前があったとしても、それは1つの異常事態として認識される(「●●ちゃん、どうしちゃったんだろうね」)。求められる行動を拒絶すると「めんどうなやつ」認定がすぐさま下される。わかっている。祝福がミーム化されていることによって、特に祝福する気持ちのない相手に対しても祝っているかのように見せかける行為がある程度可能で、それが社会の非常に面倒な人間関係を取り持っている側面は、確実にある。見せかけの祝福で救われる人がたくさんいるのもわかる。それでも「そういうのを全部やめる」選択が許される世の中でなければ、やはりおかしい。明文化されぬまま存在する同調圧力を抜け出すとき、そこに特別な意味を感じないでほしい。

 この同調圧力が最大限強くなるのは、やはり家族関係の儀礼である。私はかつて姉の結婚相手との顔合わせを強く拒絶したことがあった(今も気まずいのでなるべく避けている)。会ったことも私の意志で関わりを持ったわけでもない相手から「配偶者〈の〉妹」として従属的存在へ記号化される状況に、私は耐えられなかった。本当に耐えられなかった。「姉の結婚相手が来るなら行かない」を繰り返していた私の逃げについて父はこう言った。「お前さあ、いいかげん大人になれよ」。
 ……そういうことじゃないんだぜ、本当にそういうことじゃない。もちろん意味はわかる、「大人になれ」とは「子どもじゃないんだから」とも言い換えが可能だ。私の不参加の意志が「わがまま」であり、「子ども」のものであるから改めよということだ。儀礼空間の潤滑な運営に与するのが「大人」であり、人はもれなくこの「大人」の道に入り前に進むべきなのだと本気で思っているのだろう。そんなわけない。自ら利用されるための存在に成り下がることが成熟なら、許されなくても一生赤ちゃんでいる方がはるかにいい。この世自体、もはや途方もなく巨大な儀礼空間である。クソ息苦しい。

 つまるところ私は、あらゆるものに対して「それ本気で思ってんの?」と感じているのだと思う。本気じゃないものが嫌いなのだ。やるなと言っているわけじゃない。誕生日を祝うなら真剣に相手にとってよいと思うことをやりたいし、形式的な「祝福」を無理やりやらされるような状況を作る社会はクソだと思っているのだ。突き詰めて突き詰めて突き詰めて突き詰めて、やっと見える何かが、私にとっては何よりも重要である。雑な気持ちで臨みたくない。全額ベット、これに尽きる。
 この文章を書いているのは2019年4月下旬で、ちょうどちまたに横溢する改元の話題にとてもいらだっているところだ。三島由紀夫ばりに天皇を愛している人が改元を全力で祝っているならそれはそれで個人の自由じゃねと思うのみだが(ただ友達になれる気はしない)、そういうわけでもなさそうなのになんとなく「平成最後の●●」「令和初めての●●」を連呼しているやつらにはヘドが出るのだ。本気で考えろ、お前にとって元号って何なんだよ! 天皇制と元号について本気で考えたうえで祝福してるのか? 天皇家の人間に人権がないのを承知した上で代替わりを祝ってるのか? いまだに社会に「支配者」の係累を「象徴」として戴いている状況に何も思うところはないのか? 本気で祝うならこういう質問をちゃんと胸を張って回答するなり最低限自信を持ってはねのけるなりした上で祝え!

 ……。
 わかってはいる、この気持ちが深く考えていることが偉いとか考えないやつはバカだとか、そういう思想に転化してしまったら元も子もないし、現時点でも偉そうなことを言っていると思われる場合はあるだろうし、実際人によって「本気」の尺度が違うことも重々理解している。私のものの考え方が「重い」ことも自覚している。今まで何度も「楽しんでいるんだから水をさすな」と言われた経験がある。抗っても抗いきれないときはいくらでもある。
 それでも「これが嫌いなんだよ!」と一人称ではっきり書いているのは、意思表示する野良犬はいればいるほどよいという考えを前提として、絶対にこの儀礼社会にムカついている人がいるはずだと考えているからだ。これを読んで共感してくれた人がいたら、ぜひ最低限1年に1回ぐらいは儀礼への参与をさりげなく拒否してほしい。
 アナキスト人類学者のジェームズ・C・スコットは、著書『実践 日々のアナキズム──世界に抗う土着の秩序の作り方』(岩波書店)の中で、「アナキスト柔軟体操」なる仕草を提唱している。いわく、いつか自らの信条のために重大なルール違反をする日がくる。そのXデイにスムーズに法を犯すためには、常日頃からささいな法律違反をして身体を柔軟にほぐしておくべきだろうというのだ。スコットが具体的にやっているのは信号無視である。車がいないのに赤信号が灯っているとき、あえて待たずにさっさと渡ってしまうとか、そういうちょっとした行為でいい。それを意識的にやる。この柔軟体操の積み重ねが、少しずつトップダウンのクソな秩序に風穴を開けるきっかけになり得る。儀礼空間の歯車を積極的に辞任していくことが、いつか大きな自由に向けた崩壊を招く可能性は大いにある。
 式典への参加拒否だけでなくてもいい。巨大な儀礼空間としての社会に抗うためには、例えば突然意味不明な言葉を叫ぶとか、帰り道で突然靴を脱ぐとか、社会のなかで想定されている行為の外へ逸脱していく行為が重要だと私は思っている。結局会話でも移動でも生活のなかには「普通こうする」という明文化されていないルールが潜んでいて、それらがどこかで誰かを追い詰める。あらゆるものがミーム化された社会とは、結局「普通」しか許さない社会、「異常」をつまはじきにする社会なんじゃないかと思う。殺意、怒り、イラつきは、自分の首を絞めるためだけではなく、柔軟体操に使うべきだ。誰もしない話をし、嫌いなものを大いに指摘し、式典をフケて、何の前触れもなく走り出す。秩序だって古アパートの壁紙みたいに端っこから毎日爪でちまちまめくっていけば、いつかべろっと全部剥がれる日が来るはずだ。

荒野にて - ele-king

 ひとりの少年が一匹の馬と荒野を歩いている。どこまでもどこまでも……。だがこれは西部劇ではない。現代アメリカの物語だ。
 オルタナティヴ・カントリー・バンドのリッチモンド・フォンテーンのフロントマンでもあったウィリー・ヴローティンの原作小説を、イギリス人監督アンドリュー・ヘイが映画化した『荒野にて』は、いわば現代のアメリカ文学の在りかを探る作品だ。それは社会が見放した場所にあると、この映画は言う。主人公は貧しい暮らしをする15歳の少年で、彼はふとしたことから簡単に現代社会のセーフティネットから滑落してしまう。インヴィジブルな存在の彼(ら)の姿を、カメラだけが捉えうるということだ。

 一見、少年が馬と出会って成長していく昔ながらの物語のようでいて、そうではないというところに本作の立脚点はある。主人公チャーリーは明らかに養育能力がない父親とのふたり暮らしで、学校にも通っていない。あるとき競走馬の世話をする男デルと出会い、仕事を手伝うようになる。そのなかで、若くはない競走馬であるピートに特別な感情を抱き始めるチャーリー。だが同時期に父親が手を出した女の夫に撲殺され、チャーリーは保護者を失ってしまう。そしてもう勝てなくなったピートが売られてしまうと知ると、長い間会っていない叔母に助けを求めるため、ポートランドからワイオミングに向けてひとりで車を走らせる。つまり、これは少年がアイデンティティを探すための通過儀礼としての旅ではまったくなく、ただ庇護を求めるための命懸けの道程なのである。
 貧しさゆえに養育能力のない親は『フロリダ・プロジェクト』でも描かれていたが、現代アメリカのリアルな問題なのだろう。そして本作では、チャーリーを救済するシステムや組織のようなものさえ登場しない。大人も彼を救うことはできない。一瞬、アウトサイダーを演じることに長けたスティーヴ・ブシェミが扮するデルが父親代わりを務めるかに見えるが、彼もまた自分の生活に困窮しているため、その役目を引き受けることもない(できない)。ケン・ローチやアキ・カウリスマキの映画でいつも見られる貧しき者たちが手を取り合うコミュニティのあり方は、あくまで古き良きヨーロッパ的理想主義なのだと本作を見ていると身に染みる。ここでは誰もが生き延びるのに必死で、だからチャーリーも自力で生き延びる術を探さねばならない。スマートフォンにもインターネットにも無縁の彼の行く道は、あまりにも過酷だ。

 アンドリュー・ヘイは前作『さざなみ』で長く寝食をともにした夫がいながらも孤独に直面することになる老いた女性を繊細に描いていたが、21世紀のゲイ映画史に残る傑作『ウィークエンド』でもまた、じつに親密な映像で主人公たちの心の動きを捕まえていた。『荒野にて』においてもチャーリーとピートだけのシーンの叙情性が際立っており、彼らが向き合うときのカメラのふとした切り返しにさえ特別なものが宿っている。良い教育を受けてこなかったためだろう、大人の前ではあまり言葉を持たないチャーリーがピートだけに向けて想いを吐露する場面もまた、か弱い存在への優しい眼差しに貫かれている。その、誰も知らないその瞬間を共有するのが映画であると……ヘイはよくわかっている。そのとき、世界から見捨てられたチャーリーの寄る辺なさ、それでも沸き起こる生への渇望は観客ひとりひとりのものになる。
 そして、ラストで流れるボニー・プリンス・ビリーによるR. ケリーのカヴァー“The World's Greatest”が立ち上げるいじらしいまでのリリシズム。原曲では自分の存在を誇示するものだったはずが、フラジャイルなフォーク・ソングとなったこのヴァージョンでは、現代における敗残者をギリギリのところで支える歌になる。ウィル・オールダムが小さな声で歌う──僕は巨人、僕はワシ、僕はジャングルを駆けていくライオン、僕はこの世界の偉大な者……。それは、この世界から滑落する者がそれでも「偉大な者」であることを希求する祈りの声だ。

(ここから物語の結末に触れています)

 それにしても、チャーリーは保護者となる叔母に救われたからまだ良かったものの、そうでなければどうなっていたのだろう? あのままホームレスになっていたか、命を失っていたか……。途中、病院の医師や警察官が子どもを保護する施設の存在を言及するが、本作ではどうも信頼できないものとして扱われていたように感じる。そしてそれは、何だかんだ言って自助が良しとされるアメリカの現実を反映させたものなのだろう。車に跳ねられ死んでしまうピートは、保護者を見つけられなかった場合のチャーリーの姿にほかならない。
 アメリカにはいまも広大な荒野がある。そのなかで、並んで彼方を見つめるチャーリーとピートの姿は本当は「見えない存在」などではなく、誰もが見ようとしない存在ということだ。わたしたちは彼らの姿を探さなければない。その声に、耳を澄まさなければならない。

予告編

Shafiq Husayn - ele-king

 ジュラシック5、ファラオ・モンチからN.E.R.D.、エリカ・バドゥまで、様々なアーティストのプロデュースやリミックスを手がけ、さらに自らの名義でもシングルやアルバムを多数リリースし、一時はカニエ・ウェストのレーベル、〈グッド・ミュージック〉と契約を結ぶなど、2000年代のLAシーンにて飛ぶ鳥を落とす勢いであった、オマス・キース、タズ・アーノルド、シャフィーク・フセインからなるグループ、サーラー・クリエイティブ・パートナーズ(以下、サーラー)。ヒップホップをバックボーンにしながら、フューチャリスティックなR&Bやファンクの要素も巧みにミックスしたサーラーのサウンドは、まさに時代を先取ったものであった。さらにサーラーの活動停止後も、メンバー3人の幅広い人脈によって、ケンドリック・ラマーアンダーソン・パーク、さらに現行のLAジャズ・シーンに至るまで、実に幅広く影響を及ぼしている。そんなサーラーのメンバーの中で、当時はキャラクター的に一番目立たない存在でありながらも、実はサウンド的には最も重要なポジションにいたのがシャフィーク・フセインだ。その彼がソロ・アルバムとしては約10年ぶりとなるセカンド・アルバム『The Loop』をリリースした。

 前作『Shafiq En' A-Free-Ka』ではサーラーのサウンドから、さらにアフロビートやミニマルなエレクトロニック・サウンドの要素を強く取り入れるなど、攻めた音作りを行なっていたシャフィークだが、時代がようやくサーラーに追いついたとも言えるこのタイミングだからこそ、本作での彼のサウンドはいまの時代のムードに見事にフィットしている。サンダーキャットカマシ・ワシントンクリス・デイヴ、ミゲル・アトウッド・ファーガソンといった名うてのミュージシャンとのセッションを基盤に、エリカ・バドゥ、アンダーソン・パーク、ロバート・グラスパー、ビラル、ハイエイタス・カイヨーテ、ファティマ、ジメッタ・ローズなど実に多彩なゲスト・アーティストを迎え(さらにフライング・ロータスが一曲プロデュースで参加)、この有機的なコネクションによって構築されたサウンドには、プリミティヴでありながらも、宇宙や未来、あるいは宗教的な要素までも、全てを内包する。日本人アーティストの青山トキオ氏が手がけたジャケット・カバーも、本作のそんなイメージを見事に表現しており、アルバム全体から溢れ出る厚みと温もりのある豊かな音の広がりは、ダイレクトに聴き手の心を揺さぶる。さらに加えると、低音の効いたシャフィークの声もひとつの大きな魅力になっており、要所要所で出てくる彼のヴォーカルと女性コーラスとの絡みは、実に刺激的だ。3曲目の“My-Story Of Love”はそんな彼の声の魅力を堪能出来る一曲であり、さらにこの曲から“DTM (The Whill)”、ビラルをフィーチャした“Between Us 2”へと続く流れは、個人的にも本作のピークとも言えるほどの輝きを放つ。

 アルバム後半にはサーラーのオマス・キースもゲスト参加しているが、本作リリースから数日後にシャフィークは自らのサウンドクラウドのアカウントで、オマス・キースとタズ・アーノルドのふたりがゲスト参加した“If You Miss You Kiss You”という曲を公開した。サーラー的スローバラードとも言えるこの曲は、おそらく本作のために制作されたものの残念ながら未収録となった一曲と思われるが、彼らのSNS上ではサーラーの復活を匂わせるような投稿も見られ、彼らのファンとして、今後の動きに期待したい。

The Comet Is Coming - ele-king

 エレキングの紙媒体で2018年の年間ベスト・アルバムのトップ2に輝いたのが、シャバカ・ハッチングスの参加するサンズ・オブ・ケメットの『ユア・クイーン・イズ・ア・レプタイル』だった。アフリカ系女性活動家たちの名前をそれぞれ曲名につけたこのアルバムは、アフリカをルーツとするディアスポラを立脚点に、音楽を通してアフロフューチャリズムを表現した作品だ。南ロンドンのジャズ・シーンを、コンピの『ウィ・アウト・ヒア』のプロデュースなどを通じて文字どおり引っ張るシャバカ・ハッチングスにとって、ディアスポラ的な視点やアフロフューチャリズムはたびたび作品に投影されてきたものであるが、サンズ・オブ・ケメットの音楽面や演奏面を見ると、ブラス・アンサンブルとアフロ・カリビアン・サウンドの融合ということがまずある。『ユア・クイーン・イズ・ア・レプタイル』については、そのカリビアン系の中でもジャマイカのサウンドシステム文化と結びついた点が顕著で、コンゴ・ナッティなどのラガマフィン~ジャングルMCを交えていた。ディル・ハリスのミキシングも通常のジャズのアルバムとは異なるレゲエ~ダブ的な録音スタイルで、個人的にはかつてのザ・クラッシュとかザ・ポップ・グループ、ピッグバッグやマッドネスあたりを想起させたわけだが、ジャズというよりもそうしたポストパンクとかニューウェイヴに近いアルバムだったと思う。シャバカが関わるユニットでは、メルト・ユアセルフ・ダウンもパンク~ノーウェイヴ色の強い演奏だが、彼のもうひとつのユニットであるザ・コメット・イズ・カミングの新作『トラスト・イン・ザ・ライフフォーズ・オブ・ザ・ディープ・ミステリー』は、もはやジャズという音楽的形式を完全に形骸化させてしまうような作品と言えるだろう。

 ザ・コメット・イズ・カミングはキング・シャバカを名乗るシャバカのほかに、シンセサイザー演奏やエレクトロニクスを操るダン・リーヴァーズ(ダナローグ)とドラマー兼ビートメイカーのマックスウェル・ホウレット(ベータマックス)がいる。ダナローグとベータマックスはもともとサッカー96というユニット名で、エレクトロ・ジャズ・ファンク~コズミック・シンセ・ブギーとでも形容すべき音楽をやっていたが、成り立ち的にはそのサッカー96とシャバカが合体したものと言える。プロデュースやアレンジはダナローグとベータマックスがだいたいおこなっていて、どちらかと言えば彼らふたりが主導権を握るユニットと言えそうだ。メルト・ユアセルフ・ダウンはポストパンクやノーウェイヴ的な演奏と述べたが、同じ〈リーフ〉からリリースとなるザ・コメット・イズ・カミングの方は、シンセやエレクトロニクスがサウンドの軸となっており、そのあたりが違いと言えるだろう。ファースト・アルバムは2016年の『チャンネル・ザ・スピリッツ』で、“ジャーニー・スルー・ジ・アステロイド・ベルト”や“スペース・カーニヴァル”といった楽曲名に示されるように、サン・ラーの精神を継承するようなエレクトリック・ジャズ・ファンク、サイケデリック・ジャズ・ロックを展開していた。スペイシーなSEとシンセによるアシッドなベース・ラインを持ち、シャバカ関連のユニットの中でもエレクトロニック度がひときわ強いので、クラブ~DJサウンドともっとも親和性が高いとも言える。2017年のEP「デス・トゥ・ザ・プラネット」に収録された“アセンション”という曲などは、デリック・メイによるスエノ・ラティーニョのジャズ版とでも言うような輝きを放っていた。

 『トラスト・イン・ザ・ライフフォーズ・オブ・ザ・ディープ・ミステリー』はその『デス・トゥ・ザ・プラネット』以来の新作となるセカンド・アルバムだが、サンズ・オブ・ケメットと同様にジャズの名門〈インパルス〉へ移籍してリリースしている。とは言っても『ユア・クイーン・イズ・ア・レプタイル』がそうだったように、一般的なジャズからはかなり乖離したものとなっている。録音は少し前の2017年2月と8月にトータル・リフレッシュメント・センターのスタジオでおこなわれ、〈ビッグ・ダダ〉からアルバムも出していたシンガー・ソングライターのケイト・テンペストがゲスト参加。そのほか面白い繋がりとして、ロウ・エンド・セオリーを主催していたダディ・ケヴがマスタリングをやっている。
 SF映画のサントラのようにアトモスフィアリックなビートレス・ナンバーの“ビコーズ・ジ・エンド・イズ・リアリー・ザ・ビギニング”でアルバムは幕を開け、続く“バース・オブ・クリエイション”もまるで異星人が奏でるようなスペイシーなダウンテンポ。このあたりはサン・ラー譲りのコズミックな感覚が支配しつつ、1960年代にディック・ハイマンとかピエール・アンリあたりがやっていたスペース・エイジ・ジャズの面影も感じられる。ここまではシャバカのテナー・サックス、もしくはバス・クラリネットも控えめだが、“サモン・ザ・ファイア”では曲名どおりに火を噴く。地響きのように不穏な唸りを上げるシンセ・ベースは、ベルギーのマルク・ムーランがテレックス以前にやっていた伝説のジャズ・ロック・バンド、プラシーボの“バレク”を彷彿とさせるもので、思いっきりエフェクトをかけたシャバカのサックスはまるでサイレン音のようだ。“スーパー・ゾディアック”はアンビエントな出だしながら、律動的なジャズ・ロックのビートへと変わる。グループ名どおりハレー彗星を思わせる曲で、シャバカのエモーショナルなサックスのブロウで終わる。そこから浮遊感に満ちた“アストラル・フライング”へという動と静の対比も見事だ。ベータマックスの変幻自在のドラミングが映える変則ブロークンビーツ調の“タイムウェイヴ・ゼロ”、ケイト・テンペストのスポークンワードをフィーチャーした重量級コズミック・ジャズ・ファンクの“ブラッド・オブ・ザ・パスト”、アフロ・リズムとアンビエントが出会ったニュー・エイジ的な“ユニティ”、そしてファラオ・サンダースを想起させるシャバカのサックスによる“ザ・ユニヴァース・ウェイクス・アップ”でアルバムは幕を閉じる。かつてアフリカ・バンバータがクラフトワークの影響を受けて“プラネット・ロック”を作り、ヒップホップとエレクトロの道を切り開いていったが、そうした異文化の衝突から新しいものが生み出されていく初期衝動に満ちたアルバムである。


Nivhek - ele-king

 13歳でパンク・ロックを好きになることは、メインストリームの大衆文化から外れて生きることを決断するしかないということだったが、21世紀も20年近くが経過した現在においてはかつてと同じことを意味しない。60年代にサイケデリック・ロックに心酔することは映画『モア』のような人生が待っていたかもしれないが、柴崎祐二の論によればそれは新種のイージーリスニングとして機能しているらしいし。
 かつて普通じゃなかったものは、やがて普通の大衆文化のなかに組み込まれる。世のなか保守的になったと言われるが、じつは他方で、かつて普通じゃなかったものへの許容度は上がっているといえるのかも。逆にいえば普通じゃないものを探すのは難しく、メインストリームから外れて生きることも、生き方を選び取ることも困難な時代だとは思う。リズ・ハリスは、いまでも、メインストリームから外れて生きることを決断するしかないと思わせてくれる数少ないひとりである。

 リズ・ハリスの、Nivhekという名義によるアルバムが彼女自身のレーベルからリリースされた。グルーパー名義で知られる彼女だが、これまでもいくつかのプロジェクト名義でも作品をだしてきている。とはいえそれらは複数人によるプロジェクトで、ソロではグルーパー名義のみだった。
 グルーパーというのは、彼女が幼少期に属していたグルジェフ系のコミューンにおける共同体の単位のようなものが“グループ”で、“グルーパー”とはグループを構成する個人の名称だった。ピッチフォークのインタヴューによれば、彼女は11歳で“グループ”を去っている。彼女はそれまでポップ・ミュージックに触れる機会を持たなかった。が、やがて彼女はニルヴァーナを好きになり、大学にも進学して環境科学を学んだ。彼女はソーシャルワーカーとなって、アニマル・コレクティヴのツアーに誘われるまで音楽は趣味/余興だった。いまでは彼女はマネージャーも雇わず、ツアーはひとりで出かけ、通販のアナログ盤を自分で郵送する完全なDIYインディ・ミュージシャンとして生きている。彼女はソロ活動の名義はすべてグルーパーで統一している。
 Nivhek、ニヴヘックと読めばいいのかどうかわからないがとりあえずそう表記しておく。それはおそらくはひとの名前で(女性の名前かもしれない)、リズ・ハリスの新しいソロ名義である。ニヴヘックは、ただし、リズ・ハリスの旅の記録でもある。このアルバムにはポルトガルのアゾーレス諸島、ロシアのムルマンスクでのセッションが含まれているそうだ。
 アルバムは、『Grid of Points』よりも実験的である。曲は“死”にリンクしている。生を謳歌するのがポップ・ミュージックの大前提としてある。しかしリズ・ハリスの音楽は“死”に優しく寄り添っているようだ。

 『After Its Own Death/Walking In A Spiral Towards The House』はアナログ盤で2枚組、1枚目が“After Its Own Death(それ自身の死のあとで)”、2枚目が“Walking In A Spiral Towards The House(家に向かってうずまきを歩く)”。どちらの曲も組曲的な展開で、歌ではなく声が、聖歌隊が、ビブラフォンの音に溶け込んで、ときおり挟み込まれる電子音やギターやピアノ、フィールド・レコーディングなどと重ねられている。とくにビブラフォンはこのアルバムを特徴付けている。それは全編にわたって響き、かろうじてメロディを奏でている。
 音は遠くで鳴っているようだ。スピーカーから虚空が映し出される。来世からの音響だというひともいれば、睡魔を誘うというひともいれば、憑依した場所の音楽、あるいは夢に支配された音楽というひともいる。
 ぼくは彼女の音楽を聴いていると取り残されたような気分になる。まったく自分がこの日常に馴染めてないことに気が付いて、いや、まずいまずい、そんなことでは生活をやっていけないぞとその感覚を追い払おうとする。が、しかしリズ・ハリスの音楽はまさに幽霊のように、ひとをその日常から引きはがそうとする。静かだが強力な残響によって。

ビューティフル・ボーイ - ele-king

 シガー・ロスの“Svefn-g-englar”をここまで恐ろしい曲に聴かせてしまうとは。フェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン監督『ビューティフル・ボーイ』はティモシー・シャラメ演じるニック・シェフがふとしたきっかけで何度もドラッグに手を出してしまう重度の依存症を扱った作品。ようやくドラッグと縁が切れたと思ったニック・シェフがみんなと食卓を囲み、それなりに楽しい時間を過ごしているかと思いきや、彼はまるで“Svefn-g-englar”の中盤から渦を巻き始めるサイケデリック・ギターに引きずられるようにしてスプーンでドラッグを炙り始めている。シガー・ロスは確かに日常とドラッグによるトリップのボーダーをさらりと飛び越えるような曲作りがうまく、ドラッグ・カルチャーを抜きにして語れない存在ではあるけれど、ここまで悪魔のように描くことはないだろうと思うほど説得力があり、音楽とドラッグの結びつきをナチュラルに印象付けるシーンとなった。
『ビューティフル・ボーイ』には原作がふたつある。ニック・シェフのドラッグ依存に頭を痛める父親が書いたニューヨーク・タイムズの記事(後に単行本化されベストセラーに)と息子本人が書いた回顧録。これらを擦り合わせてひとつの作品としている。つまり、両者の視点が交錯したつくりとなり、ニック・シェフには自分の行動を説明する言葉が足りない分、息子から見た父親への批判的視線は父親役のスティーヴ・カレルがしっかりと演技に反映させている。誰に対してもすぐに怒鳴り、声のトーンが高すぎて言葉に説得力がないところなど、まったくといっていいほど愛される存在ではない父親をカレルは巧みに造形し、困り果てて頭を抱えるシーンにはパン・ソニックの重苦しいドローンが鳴り渡るなど音楽による心理描写はここでも実に効果的。おかげでドラッグに依存しているニック・シェフだけが悪という一面的な見方は最初から通用しない。

 父親のデヴィッド・シェフは生前最後にジョン・レノンのインタビューを取ったという実在のジャーナリストで、寄稿先には「ローリング・ストーン」のようなカウンター・カルチャーの媒体も含まれる。要はドラッグ・カルチャーを世に広めてきた側にかつては立っていたと想像でき、それを知っている息子は最初は父親と一緒にマリファナを吸おうと誘ったり、世界観を共有してこようとしたエピソードもいくつか挟み込まれている。ニック・シェフは6つの大学に合格するなど、ある時期まではけっこうな優等生で、それがプライマスのTシャツを着たり、ニルヴァーナ“Territorial Pissings”をシャウトしたり、フィッツジェラルドの『美しく呪われしもの』を読みふけるなど、ある時期を境に「反抗的になっていった」末のドラッグ・アディクトであった。ニック・シェフはことあるごとに「自立したい」と口にし、それは「家族から離れたい」と同義ではあっても、実際に自立するわけではなく、自立とドラッグが異次元で入れ替わったような生活態度に終始する。アメリカでは家から出て行かない子どもを親が裁判で訴えるケースもあるほどミレニアル世代は自立に対する欲求が低くなっているそうで、ニック・シェフの矛盾は未来に希望が持てず、無気力になりやすい世代の問題意識にもオーヴァーラップするところが大なのだろう。『ベニスに死す』のタジオ役、ビョルン・アンドレセンの再来とまで言われているティモシー・シャラメは理想だけが空回りし、気分の浮き沈みが激しいアディクトの様相をなかなか上手く演じている。

 父親は息子を理解したい、あるいは自分がロック・カルチャーを世に伝えてきたという自覚もあるから、息子のことを理解しようと自分でもクリスタル・メスを試してみたりもする(コルトレーンを鳴らしてみるものの、それはおよそドラッグによるトリップとは思えない描写に終始する)。そして彼は過去の回想ばかりにふけっている。ニック・シェフがまだ幼かった頃の仕草を思い出し、これにジョン・レノン「ビューティフル・ボーイ」の歌声が柔らかく重なっていく。なんとも後ろ向きなシーンで、ジョン・レノンがもはや現代には役立たずであるかのような印象さえ受けてしまう。ニック・シェフがサンフランシスコはイヤな雰囲気だといってドラッグ・カルチャーの聖地だった同地を離れニューヨークに行きたがる感覚も示唆的と言える。ニック・シェフは父親を責めて「管理するな」という言葉を投げつけたりもするけれど、(以下、ネタバレ)行方が分からなくなった息子を何度も探しに行く父親の動機は支配欲でしかないのかもしれず、子離れができていなかったのは実は父親の方だったということがこの辺りから濃厚に伝わってくるようになる。そして、家族というものの境界線がどこにあるかを見極めたかのようなクライマックスを経て、父親は「家に帰りたい」と懇願する息子に「戻ってくるな」と告げ、息子が死んでしまったとしてもそれは息子が自分で判断することだと考えを変えていく。これは父親が初めて息子が自立することを認めた瞬間といえ、実際、ニック・シェフは『トレインスポッティング』よろしくトイレの個室でそのまま動かなくなってしまう。ここではドラッグがもたらす天国的な気分がダイレクトに伝わり、この前後に停滞した親子関係に一定の距離感を与えるように響くペリー・コモ「サンセット・サンライズ」という選曲も見事だった。全編に渡って美しい自然の構図と選曲の妙はこの映画をとても品のある作品に昇華させていると思う。

 驚いたのは続けて公開されるピーター・ヘッジス監督『ベン・イズ・バック』との相似形である。『ビューティフル・ボーイ』はニック・シェフが麻薬更生施設に入院するところから始まり、『ベン・イズ・バック』はルーカス・ヘッジス演じるベンが麻薬更生施設から戻ってくるところから話は始まる。ニック・シェフもベンも、そして、どちらも前妻の子どもであり、親が再婚した家庭に馴染めないというところが共通している。ベンがドラッグに手を出した原因は医者による過剰な鎮痛剤の乱発であり、察するところそれがプリンスやリル・ピープの命を奪った合成アヘン(フェンタニル)へと向かう引き金になったのだろう。『ビューティフル・ボーイ』では父と息子の葛藤として描かれていた関係性は『ベン・イズ・バック』ではジュリア・ロバーツ演じる母親ホリーとのそれに置き換わり、ホリーの対処の仕方は、ここまで書いてきた文脈でいえば息子に自立を促すようなものではなく、息子が死んでしまっても仕方がないとは彼女は考えない。単純に比較はできない設定の違いはあるものの、ステップ・ファミリーとドラッグが深く結びつけられた作品を立て続けに観たことで、思ったよりも血の繋がりが実生活に影響を及ぼすアメリカというものを目撃してしまった感もあり、『俺たちステップ・ブラザーズ』や『なんちゃって家族』といった作品はやはり理想でしかないことも思い知らされた(あれはあれで面白かったけど)。

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