「UR」と一致するもの

φonon - ele-king

 昨年スタートしたEP-4の佐藤薫によるレーベル〈φonon(フォノン)〉が、初となるショウケース・イベントを開催する。題して《φonon 2days 2eras》。4月30日はDOMMUNEにて、5月2日は神楽音にて、と2日間にわたっての開催だ。詳しくは下記をご覧いただきたいが、Radio ensembles Aiida、Singū-IEGUTI、HOSOI Hisato、森田潤、EP-4 [fn.ψ]といった同レーベルからリリースのある面々のみならず、DOMMUNEには学者の市田良彦や毛利嘉孝も出演するとのことで、なんとも興味深い。GWの予定は空けておこう。


〈φonon〉初のレーベル・ショーケース・イベントが2デイズ開催決定!

2018年初頭に発動した〈φonon (フォノン)〉レーベル初の本格的ショーケースイベント「φonon 2days 2eras」が、4月30日と5月2日の元号をまたぐ2日間にわたりDOMMUNEと神楽坂の神楽音で催されることが決まった。

〈φonon〉はEP-4の佐藤薫がディレクターを務め、CDメディアを中心にエレクトロニクス/ノイズ/アンビエント──系のアルバム作品をリリースしている先鋭的レーベルだ。これまでに8枚のCDアルバムをリリースし、4月19日に2枚の最新リリースを控えている。

〈φonon〉試聴リンク:https://audiomack.com/artist/onon-1

そんな〈φonon〉のすべてがわかる2デイズだが、普段一同に会することの稀な東西のアーティストによる2日間のパフォーマンスに加え、4月30日のDOMMUNEでは思想史家・市田良彦と社会学者・毛利嘉孝を迎えたトークタイムも用意され、音と時代を超えるマニフェストが言葉と音量子によって語られることになる。(市田によるφonon 2018 活動報告は事前に必読! https://www.webdice.jp/dice/detail/5727/

出演アーティストは、Radio ensembles Aiida、Singū-IEGUTI、HOSOI Hisato、森田潤、EP-4 [fn.ψ](佐藤薫+家口成樹)──など、〈φonon〉から単独CDをリリースした面々を中心に、コンピレーションに参加したZVIZMO(テンテンコ+伊東篤宏)、4月19日にCDをリリースするbonnounomukuroとHeteroduplexなど、その顔ぶれはとても多彩。特に半数は関西圏のアーティストなので、めったにないこの機会を逃す手はないだろう。

両日のラインアップや詳細は以下のとおり。

《φonon 2days 2eras 概要》

■day 1(talk & live):
日時:2019年4月30日 (火・祝) 19:00〜
場所:DOMMUNE( https://www.dommune.com )
料金:¥3,000(要予約)

出演:
市田良彦
毛利嘉孝
佐藤薫
伊東篤宏
ほか…… (以上talk)

Radio ensembles Aiida
Singū-IEGUTI
HOSOI Hisato
森田潤
Heteroduplex
bonnounomukuro
ZVIZMO (以上live)

■day 2(live):
日時:2019年5月2日 (木) 18:00 open / 19:00 start performance
場所:神楽音( https://kagurane.com )
料金:Adv. ¥2,800 Door. ¥3,000

出演:
Radio ensembles Aiida
HOSOI Hisato
Heteroduplex
bonnounomukuro
EP-4 [fn.ψ]
伊東篤宏
森田潤
DJ 小林径

問い合わせ
φonon
sp4non@gmail.com

φonon オフィシャルサイト
https://www.slogan.co.jp/skatingpears/


Cosey Fanni Tutti - ele-king

 『トゥッティ』のなかに一貫して存在している、不吉で、ゾッとするような、何かを引きずって滑っていくような感覚──いいかえるなら、すぐ側にまで迫りくる湿り気のある暗さが生む、閉所恐怖症的な強度。オープニング曲“トゥッティ”の単調なベースラインと機械的でガタガタと騒々しいパーカッションのなかにはそうしたものがあり、そしてそれはそのままずっと、クロージング曲“オレンダ”のもつ、近づきがたいような重い足どりのリズムのなかにも存在しつづけている。最初から最後までこのアルバムは、息苦しいほどの霧に、隙間なく包まれている。

 この霧をとおして、おぼろげな影がかたちを結んでいく──ときに現れた瞬間に消えてしまうほどかすかに、そしてときに水晶のような明るさのなかにある舞台を貫き、それを照らしだしながら。オープニング曲では、トランペットのような音が暗闇を引き裂いていく一方で、5曲目の“スプリット”における、音の薄闇のなかを進んでいく、かすかに光る金属の線のような粒子は、おぼろげだが、しかし距離をおいてたしかに聞こえてくる天上的な雰囲気をもったコーラスによって、悪しきもののヴェールを貫いてるそのメランコリックな美しさによって、そのまま次の曲“ヘイリー”へと繋がっていく。

 おそらくはきっと、メランコリーの感覚へとつづいていく、ガス状のノスタルジーのフィルターのようなものが存在していて、それがトゥッティのこのサード・アルバムに入りこんでいるのだろう。このアルバムは、コージー・ファニー・トゥッティの2017年の回想録『アート・セックス・ミュージック』のあとに作られる作品としては、またとないほどにふさわしいものとなっている。というのもそれは、部分的に、彼女の生まれ故郷であるイングランド東部の街ハルで、同年に開催された文化祭のために作られたものをもとにしているからだ。やがてロンドンにおいてインダストリアルの先駆者となるバンド、スロッビング・グリッスルを結成する前の時代を、彼女はその街を中心にして過ごしていたわけである。

 1969年における、パフォーマンス・アート集団COMUトランスミッションの結成からはじまり、スロッビング・グリッスルやクリス&コージーによるインダストリアルでエレクトロニックな音の実験を経由する、過去50年にわたる経験と影響関係を描いていくなかで、過去について内省し、ふかく考えるそうした期間が、『トゥッティ』という作品の性格を、根本的な次元において決定づけているようにおもわれる。その回想録や近年に見られるその他の回想的な作品をふまえると、トゥッティはこのじしんの名を冠したアルバムによって、ひとつの円環を──はじめてじしんの名義のみでリリースした1983年の『タイム・トゥ・テル』以来の円環を、閉じようとしているのだという感覚がもたらされる。

 だが、コージー・ファニー・トゥッティはまた、まとまりのあるひとつの物語のなかに収めるにはあまりに複雑で、たえずその先へと向かっていくアーティストでもある。たしかにトゥッティは、幽霊的な風景をとおって進むビートとともに、彼女の作品のなかに一貫して拍動している人間と機械の連続性のようなものを、じしんの過去から引きだしている。だが彼女にとって過去とは、みずからの作品を前方へと進めていく力をもったエンジンなのである。『タイム・トゥ・テル』におけるリズムは、捉えがたく、ときに純粋なアンビエントのなかに消えさっていくようなものだったが、それに比べると『トゥッティ』は、はるかに攻撃的で躊躇を感じさせないものとなっている。こうした意味で、この作品に直接繋がっている過去の作品はおそらく、比較的近年にリリースされた、クリス・カーターと、ファクトリー・フロアーのニック・コルク・ヴォイドとともに制作された、2015年のカーター・トゥッティ・ヴォイドでのアルバムだろう。とはいえこの作品と比べると『トゥッティ』は、より精密に研ぎすまされ、より洗練されたものとなっていて、その攻撃性や落ちつきのなさは、節度をもって抑えられている。

 ゾッとするような暗さをもつものであるにもかかわらず、そうした落ちつきのなさと節度の組みあわせのなかで、『トゥッティ』はまた、これ以上ないほどに力強い希望の道を描きだしてもいる。というのも、このアルバムが強力で完成されたものであればあるほど、そこらからさらに多くのものがもたらされるのだという兆しが高まっていくからだ。
(訳:五井健太郎)


A sinister, creeping darkness slithers through “Tutti” – the claustrophobic intensity of humid darkness that clings too close. It’s there in the grinding bassline and mechanical, clattering percussion of opening track “Tutti”, and it lingers on in the grimly trudging rhythm of the closing “Orenda”. From start to finish, the album is wrapped tight in a suffocating fog.

Through this fog, shapes take form – sometimes faintly, fading away as quickly as they appeared, sometimes piercing through and illuminating the scene in a moment of crystal clarity. On the opening track, a trumpet cuts through the darkness, while on “Split”, solar winds seem to shimmer matallic through the sonic murk, joined on “Heliy” by a celestial chorus, blurred but distantly chiming, a touch of melancholy beauty piercing the veil of evil.

There’s perhaps a gauzy filter of nostalgia to the melancholy that creeps into the Tutti’s later third, which is fitting for an album that comes off the back of Cosey Fanni Tutti’s 2017 memoir “Art Sex Music” and has some of its roots in work she created for a culture festival in her hometown of Hull that same year, which she based around her own early years before leaving for London with her then-band, industrial pioneers Throbbing Gristle.

This period of introspection and reflection seems to have informed “Tutti” on a fundamental level, drawing on five decades of experiences and influences from the founding of the COUM Transmissions performance art collective in 1969, through the industrial and electronic sonic experimentations of Throbbing Gristle and Chris & Cosey. Taken together with her memoir and other recent reflective works, there is a sense that Tutti is closing a loop with with this self-titled release – her first album solely under her own name since 1983’s “Time to Tell”.

But Cosey Fanny Tutti is also too complex and forward-thinking an artist to let that be the whole story. Certainly “Tutti” draws from the past, with the beats punding through the ghostly soundscapes a continuation of a man-machine heartbeat that has always pulsed through her work. However, for her the past is an engine powering her work ahead into the future. Where the rhythms of “Time to Tell” were subtle, occasionally dissolving into pure ambient, “Tutti” is far more aggressively forthright. In that sense, the release it hews closest to is perhaps the comparatively recent 2015 “Carter Tutti Void” work, produced with Chris Carter and Factory Floor’s Nik Colk Void. Still, “Tutti” is a more finely honed, more refined work, its aggression and restlessness tempered by restraint.

Through its creeping darkness, it’s in that combination of restlessness and restraint that “Tutti” also holds out its strongest line of hope, because as powerful and accomplished as this album is, it also extends the promise of more to come.

Kode9 - ele-king

 アルバム『Nothing』から4年、スペースエイプとのEPから数えると5年。最近はローレンス・レックによるインスタレイションの音楽を担当したり、ベリアルとのミックスを発表したりしていたコード9が、いま新たな動きを見せている。彼とニック・ドワイヤーが監修を務め、2017年に〈Hyperdub〉よりリリースされたコンピレイション『Diggin In The Carts』は、日本のゲーム音楽に特化するというそのコンセプトから少なからぬ注目を集めたわけだけれど、来る5月、同作のリミックスEPが発売されることとなった。全4曲のリミックスを手がけているのはコード9で、ソロ作品としては久しぶりのリリースである。素材に選ばれたのは細井聡司(『The麻雀・闘牌伝』)、石橋浩一(『デザエモン』)、古代祐三(『アクトレイザー』)、新田忠弘(『サークII』)の計4組。現在そのなかから1曲が先行公開されている。か、かっこいい……。

チップチューン黎明期アーカイヴが80/160bpmで踊りだす!
KODE9 と森本晃司による伝説のA/Vライヴで使用されたリミックス音源が遂に公式リリース!

Nick Dwyer と Kode9 が監修を行い、80年代後期から90年代中期にかけて、日本のゲーム・ミュージックが生んだ貴重かつ革命的な楽曲ばかりを集め、世界を驚愕させたコンピレーション作品『Diggin’ In The Carts』。同作のアートワークも手掛けたアニメーション作家、森本晃司と Kode9 によるオーディオ・ヴィジュアル・ライヴは東京からバルセロナの SonarFestival まで多くのフリークスを熱狂させた。そして、同セットで披露され、音源化が熱望されてきたリミックス・トラックが遂に Kode9 にとって実に5年ぶりとなるEP作品としてリリース!! 一見で虜になるスリーヴ・デザインは、森本晃司のアニメーションを操った Konx-om-Pax が手掛けている。

title: Diggin In The Carts Kode9 Remixes
release: 2019.05.03
label: Hyperdub
format: 12inch, Digital
link: https://fanlink.to/digginremix

Tracklisting:
A1. Soshi Hosoi - Mister Diviner [The Mahjong Touhaiden] Kode9 Remix
A2. Koichi Ishibashi - Bad Data [Dezaemon] Kode9 Remix
B1. Yuzo Koshiro - Temple [Actraiser] Kode9 Remix
B2. Tadahiro Nitta - An-Un (Ominous Clouds) [Xak II] Kode9 Remix

Yves Jarvis - ele-king

 今期はTVドラマに面白い作品が多く、最終回まで見てしまったものが5作品もあった(最後の最後まで低視聴率だった『スキャンダル専門弁護士 QUEEN』が個人的にはダントツでした)。興味深かったのは登場人物が人の悪いやつばかりという『グッドワイフ』が面白かったのは、まあ、当然だったとして(オリジナルはアメリカ作品なのでキャラクターは日本人離れし過ぎだったけれど)、逆にいい人しか出てこない『初めて恋をした日に読む話』は面白くなるはずがないと思ったにもかかわらず、なぜか最後まで楽しめてしまった。いい人しか出てこないなんて、話に陰影のつけようがないし、そもそも世界が単調で嘘くさいだけだと頭ではわかっているのに……(それこそ『3年A組』は人間の裏表だけで突っ走ったようなドラマだったし……)。音楽も同じくで、少しは毒だったりネガティヴな要素がないとリアリティのあるものにはならないのではないかと頭では思うのに、どういうわけかごくごくたまにピュアなムードだけで押し切られてしまうこともある。ここ1ヶ月ほど繰り返し聴いていたイヴ・ジャーヴィスもそうで、あまりに無防備で素直な作風なのに、それとなく心に引っかかり、何度も聴いてしまったというか。こういう人もたまにはいるんだよな。

 世田谷の空が狭すぎるならケベックの空はもっと狭いのか。弾け出すには何か足りないどころか、弾け出すという考えにも至らないのだろう。モントリオールのジャン・セバスチャン・オーデットが、これまで使っていたアン・ブロンド(Un Blonde)の名義からイヴ・ジャーヴィスに名義を切り替えて1作目はソウルフルな宅録風のアコースティック・ポップで、これがとても心地よく優しい響き。サーラ・クリエイティヴが腰砕けになったようなヘロヘロのヒップホップ調だった初期のアン・ブロンドは、最終的に『Good Will Come To You』(18)でサイケデリック・フォークを志向するようになり、それまでは「楽観的で朝の喜び」を表現していたものにフィールド・レコーディングやエレクトロニックな処理を増やし、さらには「寝る前に感じる苦痛」というテーマを与えることで『The Same But By Different Means(違う意味で同じ)』へとヴァージョン・アップを果たすこととなった。1曲だけヒップホップに揺り戻したようなビートもありつつ(“That Don't Make It So”)、全体としてはソフトで温かみのあるフォーク・ロックを軸に、しんみりと落ち着いた気分にさせてくれる全22曲という構成(曲の長さは14秒から8分12秒までかなり幅がある)。エアリアル・ピンクがスティーヴィー・ワンダーを取り入れたといえば少しは雰囲気が伝わるだろうか。

 ノワール・フォーク・シュールレアリズムと称されたりもしているので歌詞にはけっこう不穏な部分もあるのかもしれないけれど、何を歌っているのかはよくわからない&とくに話題にもされていない。ジャム・セッション風の“Blue V“、鳥の声だらけの“Dew of the Dusk”に“Exercise E”はとても美しいアンビエント・ドローン。よく聴くとかなりハイブリッドな音楽性で、これらを見事にまとめあげているというか、全体を貫くイメージがしっかりとしているので、それらが手法によって引き裂かれてしまうということがない。自分だけに接近して語りかけてくるかのような歌い方のことを枕を意味するピロウィーと形容するらしいけれど、オーデッドのそれはまさに耳元で囁かれているかのごとく。声の調子を変えることもなく、ひたすら穏やかにメランコリーが煮詰められていく。彼の音楽ヴィデオにはいつも彼だけしか映し出されず、ほかはすべて死に絶えたかのようで、まるで地球上で生き残ったのはこの人と僕だけ……みたいな。そんな聴き方も悪くない気がして。

『違う意味で同じ』というタイトルは、なんか、しかし、ジレ・ジョーヌのことみたいだな。

音楽性が豊か(very musical)で、直球(direct)で、そして簡潔(concise)ね。
(オフィシャル・インタヴューより)

 というのが、「ニューアルバム『GREY Area』を3語で表すなら?」という質問に対しての、リトル・シムズ本人による回答だ。本作の、たとえば“Selfish” “Pressure”や“Flowers”で聞かれるピアノとフックの歌メロが印象的な、内省的でメロウな楽曲群に「豊かな音楽性」を見出すのは難しくない。しかし何よりも“Offense”や“Boss”のように生ドラムのサウンドが印象的な生楽器で構築されたビート群に絡みつく、単にメロディックという意味だけでなく、リズムと発声が完全にコントールされた「音楽的」としか言いようのない彼女のフロウは、僕たちの鼓膜を「直球」で捉える。そしてそのリリックは、タイトルのシンプルさが示すようにとても「簡潔」で、曲のコンセプトもまた直球でストンと落ちてくる。

 しかしこの3語の回答は、リトル・シムズというラッパーの本質を突いているようでもある。

 ロンドン出身の25歳、ケンドリック・ラマーをして「一番ヤバい(=illest)」アーティストだと言わしめる彼女は、プロのラッパーを志して大学を中退してから、ひたすら走り続けてきた。前作『Stillness In Wonderland』──『不思議の国のアリス』に目配せするコンセプト・アルバムでもある──でその実力を見せつけ、アンダーソン・パークゴリラズ、そして憧れのローリン・ヒルらとツアーを重ね、数あるMV群でも独特のレトロ・モダンなヴィジュアルイメージをまとってファッションアイコンとしても認知され、絶対数の圧倒的に少ない女性ラッパーの中でも順風満帆に成功への道を辿っているように見えた。しかし、彼女を待っていた「ワンダーランド」は単に夢見ていたファンタジックな世界ではなかった。

周りに有名人が増えてくると彼らの成功と自分を比べてしまったり。そして「これじゃダメだ。ああなりたい」と思ってしまったり。そんなことにばかり目が向いてしまいがち。自分の足場を固めないといけないのに。
(オフィシャル・インタヴューより)

 成功への階段を上ることで、自分を見失う。あるいは、ツアーばかりの生活も、彼女にとっては厳しい経験だった。

家を離れている時間が長いのは、ホント大変。すごく寂しいし孤独を感じるし、色んなものを見逃している気がする。それだけじゃなくて、前は普通だった体験を共有できないっていうか、ね? それがキツかったな。
(オフィシャル・インタヴューより)

 しかしそれらも含めて、彼女は自身の経験を音楽という形に造形し、世界と共有する。それらを溜め込まずに、リリックにしたためる。

ほとんどもう、セラピーみたいなものよ、そうやって…うーん、なんだろ、形に残してケリをつける、かな、それができるのはセラピーのようなもの。 (オフィシャル・インタヴューより)

 本作に収録の“Therapy”もそんな彼女の曲作りについての歌だろうか。しかし聞こえてくるのは、「なんでセラピーに来る時間を作ったのかも分からない/あんたの言葉に助けられることなんてないんだから/あんたが何かを理解してるなんて信じない」といった、むしろセラピーを咎めるようなリリックだった。そうだ。彼女は誰のものでもない、自身の経験に基づいて、創作活動というセラピーを見つけたのだ。だから、紋切り型の表面的な言葉を発する人々をセラピストになぞらえながら警鐘を鳴らしつつ、「私たちは欺瞞と虚構に満ちた社会に生きてる/なんとかヒット曲を生もうと、人々は必死になってる/大きな声で言うべきことじゃないかもしれない/もう言っちゃったけどね」と毒づく。

 何よりも今作における彼女は「直球」だ。たとえば「Tiny Desktop」に出演する彼女の、いかにも人懐っこい笑顔やその物腰から、無防備に彼女のライムに近寄ってはならない。制作に
サンダーキャットとモノポリーも迎えた、その名も“Venom(=毒)”で驚異的なスキルを見せつける彼女のライムに噛みつかれるのがオチだ。

男たちはプッシーを舐めてる、ケツの穴もね/あら、怒ったの? なら私のところに来てみなさいよ、ディックヘッド
“Venom”より

 “Offense”や“Boss”にも通底している攻撃性には、ロクサーヌ・シャンテからニッキー・ミナージュまで引き継がれるフォーミュラが息衝いている。“Therapy”の韻を踏みまくるスタイルといい、“Venom”のアカペラが映えるいかにもスキルフルな高速フロウといい、彼女がヒップホップらしいスキルフルなラップに魅了されたラッパーであろうことは一目瞭然だが、フェイヴァリットは誰なのだろう。

間違いなくビギー・スモールズ、ナズ、ジェイZ、カニエ・ウエスト、あと…モズ・デフ、ウータン、それと…2パック…ミッシー・エリオット、バスタ・ライムス、ルダクリス…その他諸々。
(オフィシャル・インタヴューより)

 なんとも頼もしい。確かにブレイドにも、ルーツ・マヌーヴァにも、あるいはダーティ・ダイクにも、要所要所で僕たちはUKのアーティストたちにヒップホップの良心を見てきた。このアルバムには、そんな彼女のラッパー/ヒップホップ観が表れている。つまりここには、しばしば現在のヒップホップが失ってしまったと嘆かれるクリエイティヴィティが満ち溢れているのだ。
ではそれは、どのように生まれたのか。成功への道に導かれつつも自身を見失ってしまいそうになったときに彼女が選択したのは、「コラボレーション」だった。本作は、同じロンドン出身で彼女のことを9歳から知っているという Inflo をプロデューサーに迎え、何人かのゲストをフィーチャーしつつも基本的にはふたりのコラボレーションで制作された。

全部最初から一緒に作っていったから、本当の意味でのコラボレーションだった。ビートが送られてくるのとは違って…いや、それだってコラボレーションには違いないけど、今回みたいに本格的に誰かと共同作業をしたことは今までなかった。それもプロジェクトの最初から最後まで。相手のアイデア、私のアイデア、と出し合って、私が相手の作ったものを気に入らなかったり、相手が私に作ったものを気に入らなかったりすることがあっても、お互いに歩み寄って納得のいくところを探し出すっていうのは単純にやり方が違ったし、おかげで本当に強力なプロジェクトになったと思う。
(オフィシャル・インタヴューより)

 結果生まれた、ファンキーかつアトモスフェリックな生楽器の演奏を中心に据えたプロダクションと彼女のラップの相乗効果はどうか。一聴してすぐに分かるのは、それが現行のアメリカのヒップホップ・チャートからは決して聞こえてこないであろうサウンドだということだ。

今度のアルバムのサウンドは完全に異質だと思う。私の前のアルバムとも全然違うし、今耳にする音楽と比べても違うし、なんて言うんだろう…とにかく個性的。
(オフィシャル・インタヴューより)

 生楽器中心ということもあり、それは恐ろしく「簡潔」なサウンドだ。しかしそれは単調というのは違う。むしろそれは、「簡潔かつ複雑」とでも言うべき音空間なのだ。たとえばオープニングの“Offense”を貫くのはファンキーなブレイクビーツとブリブリのシンセベースだが、シムズのために十分に空けられた音の隙間に挿入されるフルートやストリングス、あるいはコーラスといったウワネタは、どれもオーヴァードライヴで歪まされ、かつリヴァーブでさらに空間性を強調されている。しかしどの音も互いに埋没することなく、しっかりとフレーズ単位でその輪郭を主張しながら絡み合うのだ。そしてビートの隙間を縫うように、彼女は一ライン毎に十分に間を空けながら、ここしかありえないという絶妙な位置にライムを配置していく。いつの間にかラッパーたちは、隙間を空けることを怖がり、強迫症にかかったように言葉数を多くして息継ぎをする間もないヴァースを量産してきた(そんな状況に疑問を呈したのがトラップというジャンルだという捉え方もできるかもしれないが)。“Venom”のようにリスナーを窒息させるラップにもスキルが必要なら、この“Offense”のように行間のグルーヴに語らせる「簡潔」なヴァースもまた、並々ならぬスキルに裏打ちされたものだ。

 さらに「簡潔」なビートを「複雑」に彩る、“Wounds”や“Sherbet Sunset”、“Flowers”で聞こえてくるギターは、独学で身につけてきたという、彼女自身によるものと思われる。

こんなにメンタルがおかしい世界でどうやって正気でいられるか/世界は十分病んでるわ/ヴードゥー・チャイルドがパープル・ヘイズで遊ぶほどに/一人でいる時は決して安息できない/これは一時的なものじゃない
(“Flowers”より)

 彼女が以前からリスペクトを公言しているジミ・ヘンドリクスと共に、カート・コベインやバスキア、ジャニス・ジョプリンといった27歳で亡くなったアーティストたちに花を手向ける“Flowers”で幕を閉じる本作(日本盤には去年の来日のことだろうか、渋谷を訪問した様子もリリックに登場するボーナス・トラック“She”が収録)は、確かに「音楽性が豊か」で、「直球」で、そして「簡潔」な作品だ。しかしそのような作品を、彼女はなぜ『GREY Area』と命名したのだろうか。

SNSの時代は特に、あっという間に本来の自分じゃないものになってしまいかねないから、とにかく自分に正直に、自分の気持ちに正直に、そして自分は完璧じゃないということをオープンに受け入れて、みんなと同じで間違いも犯すし、まだ24才で自分が何者でこの世界で何をしようとしているのかわからないまま模索していて…女性としてもはっきりしないことがまだ沢山あって、世の中は白黒はっきりしたことばかりじゃなくてグレーゾーンがたっぷりあるってことをそれでヨシとしたい。だからアルバムのタイトルもグレー・エリアにしたの。白黒で割り切れるものなんかなくて、見た目ほどシンプルじゃないから混乱もするし、そこで迷うことも多いけど、それが人生なんじゃない?
(オフィシャル・インタヴューより)

 世界を前にして、ときにはグレーの無限のグラデーションのなかで方向性を見失うことすらも、率直に示すこと。本作を形作る濃淡様々なグレーのピースたちは、彼女の足跡だ。そのようなグレーのなかで迷い、引き裂かれるラッパー像といえば、やはりケンドリックを思い起こしてしまうが、果たして彼女は、どこへ向かうのだろう。しかし今はまず、本作の直球で簡潔な表現の底を流れるそのグレーな豊かさに、耳を澄ますことにしよう。

Roma/ローマ - ele-king

 スティーヴン・スピルバーグがストリーミング・サーヴィスはアカデミー賞ではなく、TVドラマを対象としたエミー賞で扱うべきだったと提言を下した『ローマ』。世界で同時配信される前に3週間の劇場公開をしているのでアカデミー賞を競う条件は満たしていると反論するネットフリックス(カンヌは選考外としている)。前にも書いたようにNHKニュースでも『グリーンブック』はほぼスルーで、『ローマ』を観ること=映画はもはや映画館で観る時代ではなくなるという論点ばかりが語られ、それはもしかすると最大で66億円もつぎ込んだというキャンペーンの成果なのかもしれないけれど、いずれにしろ横長のスクリーンで観たいと思ったこともあり、遠くの映画館まで足を延ばしてきた(都心ではやっていない~)。結論からいうと『トゥモロー・ワールド』よろしく横に水平移動するカメラが多用され、それも視点が移動したりしなかったりと効果も臨機応変で、画面の右側を三分の一しか使わない構図など、バカでかいTVを持っていない僕としてはスクリーンで観たことは完全に正解だった(ちなみに僕が行った回はガラガラで、珍しくおっさんばっかり)。

 オープニングがまず美しい。画面いっぱいに敷石が映し出され、やがてそれが水浸しになっていく。水たまりには空が映り、はるか上空を飛行機の陰が飛んでいく。いつまででも観ていられるアート・フィルムのようで、真上から撮っていたカメラが視点を上昇させていくとヤリッツァ・アパリシオ演じるクレオが掃除を終えて家に入っていくシーン。この質感はヌエーヴォ・シネ・メヒカーノそのもの。ハリウッド以前は世界の映画シーンをリードしていたメキシコが50年ぶりに再生を賭けて起こした芸術運動がヌエーヴォ・シネ・メヒカーノで、イニャリトゥ『アモーレス・ペロス』(00)が代表作とされている。カルロス・レイガダス『闇のあとの光』(12)のようなマジック・リアリズムは一切なく、端正なモノクロ仕上げはキュアロンが製作したフェルナンド・エインビッケ『ダック・シーズン』(04)と同じくルイス・ブニュエルの精神に立ち返ったことを表している。クレオは同じく先住民のアデラと共に家政婦として働いていることがだんだんとわかってくる。彼女たちが住み込みで働いているのはアントニオとソフィア夫妻に子どもが4人とグランマのテレサを加えた7人構成の中産階級の上……ぐらいの家。アントニオが車で帰ってくるシーンが序盤のハイライトになるだろうか。ただの車庫入れをここまで誇張して描くかと思うほどバカみたいなアップが笑ってしまう。それはおそらく子どもにはそう見えていたということで、この映画は実際、キュアロン自身の子ども時代を描いたものらしく、舞台はメキシコのローマ地区、時代は1970年から71年にかけて。ちなみにキュアロンは自分が特権階級として育ったことに罪悪感があるとも語っている。

 クレオとアデラはこまめに働き、休みになるとボーイフレンドたちとドイツ映画を見たり、ベッドを共にしたり。繁華街のにぎやかさといかがわしい物売りたちのデモンストレーションは念入りに再現されていて、TVに登場するビックリ人間なども含めて、それらは子どもたちに見えていた世界観が色濃く反映されているのだろう。子どもたちが様々な遊びに興じるなか、そして、アントニオはカナダに出張で出掛けていく。(ここからはネタバレというと大袈裟だけれど、知らない方が楽しめるストーリー展開で)雹に打たれて遊んでいる子どもたちを呼び寄せ、出張中の父親に手紙を書くよう指示したソフィアにクレオは自分が妊娠したこと、そして、そのことを話すとボーイフレンドは行方をくらませてしまったことを告げる。「クビですか?」と尋ねるクレオにソフィアはそんなことはしないといって翌日、かかりつけの病院にクレオを連れていき、自分は別な医者とベタベタしている。診察を済ませたクレオは「新生児室を見てくれば」とソフィアに促されるまま生まれたばかりの赤ちゃんたちを眺めているといきなり大地震に襲われる(前の日にTVで3・11特番を目にしていた僕はこの場面、本気で怖かったです)。

『ローマ』には様々な音楽が流れているものの、それらはすべて作中で鳴っている音楽であって、いわゆる劇伴はまったくつけられていない(最後にエンドロールでクレジットされている曲の多さにはあッと驚くものがあった)。にもかかわらず、場面転換は非常にリズミカルで、どちらかといえばミニマリズムに近い作風ながら、だらだらとして思わせぶりなカットが多いデヴィッド・リンチとは対照的に編集のテンポだけで淀みなく日常は織り成されていく。先住民たちが住むゲットー地区の描写を経てクレオがテレサに伴われて家具店に赤ちゃん用具を探しに行くと、外で渦巻いていた学生たちのデモ隊が政府に支援された武装組織と衝突し、後に120人が殺害されたことが判明する「血の木曜日事件」が勃発。家具店の中に「殺さないでくれ」と逃げ込んできた学生を撃ち殺したひとりがクレオに銃を向けたまま、しばらく微動だにせず、やがて走り去っていく。それはクレオを妊娠させたフェルミンであった。クレオはそのショックで破水し、病院に運び込まれる。テレサは病院のスタッフにクレオの名前や家族のことを訊かれるものの、ミドルネームすらわからず、ほとんどのことには答えられない。そして分娩室でクレオが産んだ子どもは死産であった(新生児のベッドが地震で瓦礫に埋まったり、新年のお祝いでコップを割ってしまうなど予兆はいくらでもあった)。

 打ち沈んだクレオには休暇のつもりで、ソフィアは子どもたちと海辺の避暑地へ行こうと提案する。実は出張だといっていたアントニオはそのまま別な女性と駆け落ちし、留守の間に本棚を運び出しに来ることになっていた。ソフィアもクレオも男に裏切られたと言う意味では同じ境遇になったのである。キュアロンは前作『ノー・グラヴィティ』で生きることに絶望した宇宙飛行士ライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)がもう一度生きようという意志を持った時に「重力」がその助けとなるという設定を与えていた(原題は『グラヴィティ』で、邦題が『ノー・グラヴィティ』だと教えると英語圏の人たちにはバカ受けします)。しかし、もう一度生きてみようとストーンが思い直す時に彼女は幻覚を見ていて、ジョージ・クルーニー演じるマット・コワルスキー(=男)がそのアシスト役になっている。それが『ローマ』ではアントニオとフェルミンだけでなく、他の細かいシーンでも男性は役立たずか裏切り者として描かれ、男たちは見事に女性が生きることを邪魔する存在でしかない。それは意図的なのかもしれないし、キュアロンにとっての過去が偶然にも#MeTooと共振しただけなのかもしれない。ビーチで繰り広げられるクライマックスではソフィアとクレオには階級差がなくなったともとれるような場面が逆光の中に映し出される。そして、死産がクレオにとって悲劇ではなかったことが明かされる。

 ソフィアはしかし、あまりにも強い女性として描かれすぎな気もしないではない。母親に求めるものが多過ぎると批判された細田守『おおかみこどもの雨と雪』(12)と同じく、妊娠したことで戸惑うクレオと比較して何に対してもめげる様子を見せないソフィアの気丈さはさすがに尋常ではない。女性がその意志を貫くという意味では初期の代表作『天国の口、終りの楽園。』にも通じるものがあるのかもしれないけれど、この作品が扱っている人種問題や経済格差、あるいは#MeTooに通じる部分よりも僕はどうしてもそこが気になってしまった。マザコンをよしとするメキシコの気風なのかもしれないし、キュアロンが母親の弱い面を見ないで育ったというだけのことかもしれない。わからない。ちなみに最初から最後まで犬だらけで、犬と人間の距離感も僕にはナゾだらけでした。

『ROMA/ローマ』予告編
                  

Myriam Bleau - ele-king

 零秒の音楽は可能なのか。始まった瞬間に終わり、時間を超えて記憶の層に永遠に格納されるような音楽。色彩と線の交錯による時間の凍結のよう抽象絵画のごとき音響。例えるならあのサイ・トゥオンブリの絵画のような時間と空間を越境するようなアブストラクトな音楽/音響。そんな音響音楽を希求するのは、ただの夢なのか。
 いや、そうではない。例えば池田亮司、カールステン・ニコライ、そしてリチャード・シャルティエ、クリスチャン・フェネス、マーク・フェルなどのマイクロスコピックなサウンドアート作家・電子音響作家たちは、いずれもそのような不可能性を希求し追求してきたアーティストではないか。それらは21世紀的なコンピューター音楽による未来の追求でもあった。コンピューターと電子音とグリッチノイズによる人間を超えた細やかで繊細で多層的な強靭な音響たちである。
 今回、取り上げるカナダはモントリオールを活動拠点とするサウンド・アーティストであるミリアン・ブローのファースト・アルバム『Lumens & Profits』もまたそんなマイクロスコピック電子音響作品の系譜にある作品である。アンビエント/ドローンやインダストリアル/テクノ以降の先端的電子音楽においては珍しい作風ではないかと思う。

 リリースはUKの先端レーベル〈Where To Now?〉。同レーベルはこれまでも KETEV(Yair Elazar Glotman)、ニコラ・ラッティ(Nicola Ratti)、CVN、デール・コーニッシュ(Dale Cornish)、N1L、YPY、ルット・レント(Lutto Lento)、アゼール(Assel)、H.Takahashi、ベン・ヴィンス(Ben Vince)など2010年代のエクスペリメンタルな先端音楽の注目作のリリースを連発してきたが、ミリアン・ブローの本アルバムは2019年以降の電子音響のモードを体現している。せわしなく、かつ細やかに接続・変化していくマーク・フェル的なグリッチ音響は「テクノ以降の音楽的記憶」が一気に圧縮されているような印象ももたらすが、同時にデータの流動化というよりは、その音からは「モノ的」な存在感も増している。マテリアルな質感を有しているのだ。まずはライヴ動画を観て頂きたい。

 手とデバイス=モノを駆使することで彼女はマテリアルとデジタルの領域を交錯させたサウンドを生成している。レーベルも「彼女のハイブリッドな電子音は、文化的表現としてのパフォーマンスを探求し、ポップカルチャーの要素と音楽の歴史の傾向を再文脈化する」と書き記しているが、良く聴き込むとテクノのキック、ヒップホップのグルーヴ、エレクトロニカのサウンドなどの電子音楽の痕跡が解体され、細やかにスライスされてコンポジションされていることも分かってくる。結果、聴くほどに音楽の記憶が刺激され、同時に記憶が喪失する感覚も生れてくる。そこには00年代的な電子音響作品のコンピューターによるエラー=グリッチとは違う不思議な「身体性」が蠢いているように感じられた。彼女のパフォーマンス動画を観ても分かるように、マテリアルとデジタルの領域を再交錯させているのだ。その意味で同じくカナダ出身のニコラ・ベルニエ(nicolas bernier)(https://vimeo.com/48493242)の系譜に連なる現代の電子音響作家ともいえよう。いわば2010年代後半のミュジーク・コンクレートである。

 そしてミリアン・ブローのサウンドは、まるで鳥の鳴き声のように軽やかな電子音だが、そのサウンドは直観と構築の往復のように偶然と構築の両極を行き来している。断続的なキックは解体されたテクノのようだし、優雅な舞踏のようにスライスされた電子音の運動はポスト・グリッチ的で、短い数秒のサウンドの中にいくつもの電子音楽が圧縮されている。
 その意味で細切れに編集されたヴォイスとコードが鳴り響く2曲め“Constructivism”、細やかな音の粒子と時間が浮遊するようなアンビエンスが端正にミックスされる美しい3曲め“Hidden Centuries”、鳥の鳴き声のような電子音が軽やかに反復と非反復のあいだを行き来する4曲め“Vapid Luxury”などは本アルバムを象徴するトラックだ。
 むろん、これらの雰囲気はアルバム全トラックに共通する感覚でもある。時間軸を超えて音響を摂取するような感覚はマイクロスコピックな電子音響作品の系譜に連なるサウンドだ。中でも微細な電子ノイズが非反復的に構成されることでマーク・フェル以降の偶発的なグリッチ・サウンドを超越する電子音響空間を生みだす7曲め“Shapes”などは、そんな時間軸を超えて音響を聴くような感覚をもたらしてくれるニュー・マイクロスコピックなトラックに仕上がっていた。そして静謐なラスト8曲め“Darling”によって幕を閉じる。ミニマムに解体されたループは、どこかグリッチ化したヒップホップのトラックのように響く。

 そして本作のように00年代的な電子音響を基調にしつつも、そのスタイルもジャンルも解体されたような、いわばテクノ以降の音楽のエレメントが圧縮・再構成されている電子音響作品が、〈LINE〉や〈Entr'acte〉などのサウンドアート・レーベルからではなく、〈Where To Now?〉のようなクラブ・ミュージックを進化・解体する先端的なレーベルから発表されたことも重要に思える。
 2010年代前半のエクスペリメンタル・ミュージックと2010年代後半のエクスペリメンタル・ミュージックを繋ぐ存在とでもいうべきだろうか。電子音の欠片が高速で、軽やかに、優雅に、舞踏のように、踊り、駆け抜けていくようなサウンドを一気に聴取するような感覚をぜひとも体験して頂きたい。

JPEGMAFIA『Veteran』の衝撃とは何だったのか - ele-king

 ヒップホップは、個人のオリジナリティやアイデンティティを尊重するが、ひとつの音楽ジャンルとしてのヒップホップは、集団性によって更新されてきた。トレンドセッターが切り開いた方法論を共通のルールとするかのように、ヒップホップ・ゲームの競技場のプレイヤーたちが集団となって更新されたルールをフォローし、互いの似姿に多かれ少なかれ擬態し合い、互いのヴァースのみならずスタイルをもフィーチャーし合い、互いに切磋琢磨し、表現を洗練させ、ジャンル全体(あるいは各サブジャンル)を発展させる。隣の仲間が進行方向を変えれば自分も向きを変える、ムクドリの群れさながらに。数え切れないほどのビートが、フロウが、僅かな差異を積み重ねグラデーションを描きながら上方に堆積していく。より高み(ネクストプラトゥー)を指向して。しかし、そのような集団性のなかで、トレンドをセットするわけではないほどにアヴァンギャルドさを持ち合わせているがために、単独で逸脱する、ベクトルを異にする個体が、突如として現れる。
 たとえば2000年前後のアンダーグラウンド・ヒップホップの興隆の中でも、特にアンチ・ポップ・コンソーティアムやアンチコンの作品群の記憶が鮮烈に蘇るし、ゴールデンエイジにおけるビズ・マーキーやクール・キースを端緒に、ODB(オール・ダーティ・バスタード)の孤高を思い出してもいい。もっと近年ではクリッピングクラムス・カジノリー・バノンデス・グリップスヤング・ファーザーズシャバズ・パレセズらのビートとフロウがもたらす異化、ダニー・ブラウンジェレマイア・ジェイ、スペース・ゴースト・パープの変態性、そしてタイラー・ザ・クリエイターやアール・スウェットシャーツらオッド・フューチャー勢の快進撃がこのジャンルの外縁を示し、僕たちはその稜線を祈るような思いでみつめてきた。「ヒップホップ・イズ・ノット・デッド」と呪文のように繰り返しながら。特に近年、ネットというインフラ上で発光するエレクトリック・ミュージックの多面体と、その乱反射するジャンルレスの煌めきは、明らかに、ヒップホップの集団性からの逸脱を誘引する磁力として働いている。

 ルイジアナ出身の28歳のペギー(Peggy)こと JPEGMAFIA は、その乱反射を吸引し尽くし、自らが多面体化するのを最早留められなくなった如き異能の人だ。彼のオフィシャルでは2枚目のアルバム『Veteran』は、エスクペリメンタルなトラップ以降のビートをベースに、ローファイに歪ませたサウンドのバラバラの欠片やグリッチーに暴走するリズムをあちこちに地雷のように仕組んで、全体を多重人格的な──多声による──メタラップで塗り固めた怪作だった。
 メタラップというのは、前作『Black Ben Carson』収録の“Drake Era”に“This That Shit Kid Cudi Coulda Been”や、シングルの“Puff Daddy”、そして“Thug Tear”といったようにラップ・ゲームやリリックで歌われることをメタ視点で俯瞰する、人を食ったようなタイトル群を見ても明らかだろう。
 しかし彼がそのメタ視点を用いて差し出すのは、モリッシーをディスったことで大きな話題をさらった“I Cannot Fucking Wait Until Morrissey Dies”に代表されるような、ポリティカルなメッセージ群だ。初めはインスト音楽を作っていたペギーは、自分がラップすべき本当に言いたいことがあるのかという懐疑に捉われていた。多くのラップのリリックを聞いても、所詮皆同じことを歌っているだけではないかと。だがジャーナリズムで修士号を持つ彼は、アイス・キューブのやり方と出会うことで、ポリティカル・ラップに活路を見出したという。
 1990年にリリースしたファースト・ソロ・アルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』において、フッドの現実を過激な言葉で描写したアイス・キューブは、実存というよりも、「アイス・キューブ」という視座を仮構してみせた。そして同アルバムのオープニング“The Nigga Ya Love To Hate”では、人々が「ファック・ユー・アイス・キューブ!」と叫ぶ様をフックとした。
 一方のペギーはオフィシャルのファースト・アルバム『Black Ben Carson』で、2015年に共和党から初の大統領選への黒人立候補者となり早くからトランプ支持を表明、現在アメリカ合衆国住宅都市開発長官を務めるベン・カーソンにあえて「Black」を付けて、リリックのなかで「white boys」を煽ってみせる。ここには確かに、キューブの方法論と通底するメタ視点が働いてはいないか。さらに後述するように、彼は表現のレベルにおいても、従来のコンシャス・ラップを俯瞰するように、異なる方法で実装してみせる。

 『Veteran』というタイトルは二重の意味を持つ。文字通りペギーは元空軍出身(=退役軍人/veteran)だということ。そして14歳から音楽制作を始めていた彼は、クリエイターとしてキャリアを積んでいるということ。自身、インタヴューで次のように語っている。曰く、この世界には誰にも知られることなく長い間音楽を作り続けている人間(=ベテラン)がいるし、『Veteran』収録曲の中にもどうせ誰も聞くことはないと思って作ったものもある、と。
 かつての MySpace はそのような音楽家たちが論理上は万人に開かれるインフラとして機能したし、SoundCloud や Bandcamp においてもその点は同様だ。しかし星の数ほど存在するアカウントの小宇宙を相手取り、衆目を集めるのは簡単ではない。『Veteran』は高評価で受け入れられたが、このようなメッセージ面でもサウンド面でもエッジィな作品が受け入れられたのは、たまたまタイミングが合ったからだと本人は分析している。
 しかし逆に、誰にも聞かれることがないと思っているからこそ、クレイジーな音楽が生まれる可能性もまた、存在するだろう。そしてそのようにして作られた音楽が世界に接続されうるメディウムとして、インターネットは、かつての人々が抱いた理想像の残滓を担保したまま、そこに存在し続けている。
 2019年3月9日現在ペギーの SoundCloud のアカウントにアップされている最も古い楽曲は“Fatal Fury”で、アップの日付は7年前と表示されている。総再生回数は6478回と、決して多いとは言えない数字で、5件のコメントが付いているがどれもこの10ヶ月以内だ。つまり、この楽曲は2012~2018年まで、具体的には『Veteran』のブレイクまで、ほとんど誰にも発見されずにインターネットの小宇宙の片隅に鎮座していたのではないか。
 しかしその〈黙殺〉にも関わらず/のおかげで、彼のエッジィな創作意欲は『Veteran』と名付けられた作品にまで昇華された。そう考えることはできないだろうか。この作品は幸運にも、巨大な迷宮として、その姿をはっきりと僕たちの前に示している。

 この『Veteran』という複雑に入り組んで先の読めない迷宮はしかし、いかにも平熱を保った表情で幕を開ける。冒頭の“1539 N. Calvert”は、ウワモノのメロウな響きが支配する耳障りの良いオープニングだが、そこかしこに痙攣するように乱打されるビートが顔を覗かせ、様々な素材からサンプリングされ引用される短い文言の断片や、多重人格さを披露するペギーのヴァースがジャブのように繰り出される小曲だ。だが決して、その喉越しの爽やかさに騙されてはいけない。いや、一旦は彼の策略に乗ってみてもいい。すぐにやってくる狂乱とのギャップを楽しむために。
 ODBの喉ぼとけの震えのループがトライバルなドラムを狂気に駆り立ててしまう2曲目“Real Nega”を前に、僕たちはどんな風に四肢を振り回しながら踊ればいいのか? しかも、ベッドルームで。というのも、彼の表現はクラブのダンスフロアよりも、僕たちの薄汚れたベッドルームで踊り狂う想像力を掻き立ててくれるからだ。これらのビートの雨あられに身を曝し、どうしようもなくエレクトするプリミティヴな欲求を必死に隠し薄ら笑いを浮かべながら、僕たちは終盤の子供声のようなハイピッチ・ヴォイスが煽るフレーズに頷くしかない。こいつは「ホンモノのxx」だ。
 続く“Thug Tears”でも、分裂症の残酷さが開陳される。冒頭のキックと逆回転で乱射されるグリッチの雨から、転がる電子音のリフとその間を埋め尽くすボンゴのリズムに楔を打つゴミ箱を叩くようなローファイなスネアに、僕たちのダンスステップはもつれる。今度は体を揺らさずに黙って聞いていろと? ペギーの透明感溢れるコーラスと捻くれたシャウトの対比をベースにしつつも、そこに次々と闖入してくるサンプリングされた文言の数々が、綿密にデザインされたコラージュの語りを駆動する。しかし突然ビートのスカスカな時空間を埋めるブリブリに潰れたベースラインが現れる中盤以降、今度はペギーの語り口は一気にクールを気取り、剃刀のフロウで溌剌とビートを乗りこなす。
 シングル曲“Baby I'm Bleeding”が匿う快楽。冒頭から僕たちのアテンションをコルクボードに画鋲で止めてしまうミニマルなヴォイスの反復の上に、ペギーのフロウが先行して絡まり、やがてキックとスネアが後を追うようにビートに飛び込んでくる瞬間のカタルシスよ。さらに1分35秒で聞かせるハードコアなシンガロングとEDMのアゲアゲシークエンスの超ローファイ版を挟み、またもやモードを変化させるキックとスネアの上で何が歌われているのか。もともとは“Black Kanye West”という曲名だったというヴァースは、「ペギーをキメる田舎者/俺は次のビヨンセさ/俺の銃には悪魔が憑いてる/ダンテのように切り裂く(カプコンのヴィデオゲーム、デビルメイクライのキャラクター)/絶対カニエのように金髪にはしないと約束するぜ(カニエ は2016年、ライブ中にトランプを賛美する演説をしてツアーの残り日程をキャンセル、その後金髪にして再びその姿を見せた)/その代わり俺はたくさんのスタイル(so many styles)を持ってるからペギーAJと呼んでくれ(WWEのチャンピオン、AJ Stylesと掛けたワードプレイ)」とのこと。分かった。しかしこの男が匿っているスタイルの数は「so many」じゃない、「too many」だ。

 そのスタイルの多声性は、ビートのサウンドにも、リズムにも、旋律にも充満している。そして勿論ラップのサウンドにも、ライムにも、デリヴァリーにもだ。そしてメッセージという観点で見れば、前述の通り、いわゆるコンシャス・ラップと呼ばれうる、ポリティカルなスタンスを表明するライムが混沌としたサウンドに包囲され異彩を放っている。しかし彼曰く、彼はそれをコンシャス・ラップの括りではなく、「イケてる」曲として援用できるというのだ。そう聞いて想起されるのは、次の事実かもしれない。パブリック・エネミーがあれだけ人気を博した大きな原因のひとつは、彼らのヴィジュアル面を含めた方法論が「イケて」いたからだ。しかしペギーのアプローチはそれとは異なる。
 モリッシーを直接的にディスったことで話題となった“I Cannot Fucking Wait Until Morrissey Dies”では、その直球なタイトルそのまま、右翼的発言を繰り返し、ジェイムズ・ボールドウィンをデザインしたTシャツを売るモリッシーに対し「俺は左翼のハデスさ、フレッシュな.380ACP弾で武装した26歳のね」と怒りを爆発させる。しかしそれはあくまでも「イケてる」方法でだ。確かにビートを牽引するシンセのアルペジオがポップかつ美しく、音楽的な洗練とペギー自身の歌唱の先鋭さが、ある種のコンシャスなメッセージに含まれる鈍重さを無化してしまうようだ。
 他にも“Germs”ではトランプをメイフィールドのようにのしてしまいたいと批判するし、“Rainbow Six”でも銃とフラッグを掲げて集会を開くオルタナ右翼をからかう。それらはどれも、サウンドや歌唱の徹底的にエクスペリメンタルな展開のなかにあって、多重に張り巡らされたレイヤーのひとつとして、受け取られる。
 かつてタリブ・クウェリは、コンシャス・ラッパーとしてレッテルを貼られることへの違和感を指摘した。一旦そのイメージが付いてしまうと、リスナーを著しく限定してしまうことになるというのだ。しかしペギーのやり方はどうか。厳めしい顔で説教めいたライムをドロップするでもない。パンチラインとしてリフレインするでもない。あくまでもそれらは多くのレイヤーのうち、次々と通り過ぎていく一行として、表明される。そしてその言葉が発される声色やフロウも、それを支えるビートも、音楽的かつ現在進行形のテクスチャーが担保された──こう言ってよければ──「ポップさ」に満ちている。イケてるコンシャス・ラップとは、そのような多才さ=多重人格性の所以と言えるのではないか。

 しかし、、、数え上げればキリがないほど、このアルバムには豊かな細部が溢れている。折角なのでもういくつか数え上げておこう。またもや逆回転攻勢のアトモスフェリック・コラージュ・アンビエントの上で、何度目か数え切れないが明らかにペギーがロックを殺す瞬間を目撃できる“Rock N Roll Is Dead”。ペギー流のイカれたメロウネスが炸裂する“DD Form 214”では、ドリーミーなフィメール・ヴォーカルやウワモノを提出したそばから、下卑たキックと割れたベースのコンビネーションがくぐもったニュアンスを加えるために、いつまで経ってもドリームに到達できないという、つまりイキ切れない一曲。シャワーでパニック発作に襲われた際にレコーディングしたという“Panic Emoji”では、文字通りシャワーの環境音と並走するメロウなアルペジオにブーミンなベースがこれまでないエモい、エクスペリメンタル・トラップチューン。パニック発作に襲われ「俺は厄介者で/使えない奴だ/最悪だ/苦しい」と嘆く抑えたフロウが悲痛に響く。
 最後にもう一度触れておきたいのは、ペギーのサウンドの質感だ。たとえばノイジーなアンビエント・ラップ“Williamsburg”では、アクトレスことダレン・カンニガムばりに粗いヤスリで磨かれたノイズの層が、ビートにこれでもかと言わんばかりに馴染んでいる。組み合わされているサウンドのひとつひとつが、元々そのようなロービットな音像で、生まれ落ちたものであるかのように。しかしローファイをデザインするとき、ここまで馴染みのよい肌理を見つけ出すことのできる所以は? それこそが、JPEGという非可逆圧縮方式をその名に持つ彼の、天賦の才なのだろう。
 繰り返し、繰り返し、決して飽くことなくイメージをJPEG変換するように、サウンドの粒子は荒く膨張していく。この奇才の脳内に溢れ返るロービットの想像力に押しつぶされないよう、僕たちは、本作を噛みしだく、噛みしだく。

中原昌也 - ele-king

 先週のDOMMUNEで宇川直宏、『前衛音楽入門』を刊行したばかりの松村正人とともに、目の覚めるようなトーク&ライヴを披露してくれた中原昌也。彼の作家デビュー20周年を記念し、最新の小説が河出書房新社より刊行される。……だけではない。さらになんと、さまざまなアーティストが中原の小説を“リミックス”したというトリビュート作品集までリリース! 朝吹真理子、OMSB、五所純子、柴崎友香、曽我部恵一、高橋源一郎、町田康、三宅唱、やくしまるえつこ、湯浅学と、そうそうたる顔ぶれである。発売は3月26日。詳細は下記を。

日本列島を震撼させた話題作、
『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』
から20年!!
中原昌也最新作、2冊同時リリース決定!

【最新小説】
『パートタイム・デスライフ』
職場から逃亡した男に次々と襲いかかる正体不明の暴力――。
圧倒的スピード感で押し寄せる悪夢の洪水に、終わりはあるのか?
中原昌也のマスターピース、ついに刊行!

巻末に「中原昌也の世界」を特別収録。青山真治、小山田圭吾、椹木野衣が異才20年の軌跡と奇蹟を描く。

【あらすじ】
MIT仕込みのノウハウによって完璧に管理された職場から逃亡したパートタイムで働く男に次々と襲いかかる正体不明の暴力。NHKのビデオテープ紛失事件、アウトドアショップでの定員の諍い、スクランブル交差点で遭遇したサポーターの狂乱と警官からの痛打……。この悪夢に終わりはあるのか!? 徹底的な絶望を生きる男の悲劇的な人生が怒涛の笑いと爽やかな感動を誘う、中原昌也の最新小説。

【仕様】
タイトル:中原昌也『パートタイム・デスライフ』
解説  :青山真治・小山田圭吾・椹木野衣(巻末別丁「中原昌也の世界」に掲載)
刊行予定:2019年3月26日(予定)
仕様  :168ページ/仮フランス装/定価本体2,200円
AD  :前田晃伸+馬渡亮剛
Art work:中原昌也

【トリビュート作品集】
『虐殺ソングブック remix』
remixed by 朝吹真理子、OMSB、五所純子、柴崎友香、曽我部恵一、高橋源一郎、町田康、三宅唱、やくしまるえつこ、湯浅学

前代未聞!!! 既存のテクストをコラージュし、文学を、世界を震撼させる作家・中原昌也。その破壊的作品群を、各界第一線の才能が大胆不敵にリミックス。いま、中原昌也の新たな衝撃が鳴り響く!

【目次】
Ⅰ remix edition
待望の短篇は忘却の彼方に(町田康 tabure remix)
独り言は、人間をより孤独にするだけだ(OMSB’s “路傍の結石” remix)
子猫が読む乱暴者日記×レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー(柴崎友香 Kittens remix)
天真爛漫な女性(曽我部恵一 “Tell her No” remix)
怪力の文芸編集者×誰も映っていない(朝吹真理子 remix)
『待望の短篇は忘却の彼方に』文庫版あとがき(三宅唱 “小日本” remix)
鳩嫌い(五所純子 tinnitus remix)
子猫が読む乱暴者日記(湯浅学 “博愛断食” mix)
『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(やくしまるえつこ “type_ナカハラ_BOT_Log” remix)
『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(高橋源一郎 “こんな日もある” remix)
Ⅱ Original version
待望の短篇は忘却の彼方に/独り言は、人間をより孤独にするだけだ/路傍の墓石/子猫が読む乱暴者日記/天真爛漫な女性/怪力の文芸編集者/誰も映っていない/『待望の短篇は忘却の彼方に』文庫版あとがき/鳩嫌い/『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(抄)

中原昌也と同じく文学と音楽を横断する町田康やドゥ・マゴ文学賞で『作業日誌』を支持した高橋源一郎を始め、柴崎友香や朝吹真理子など豪華な小説家が結集。音楽シーンからは「すべての若き動物たち HAIR STYLISTICS REMIX」の記憶も新しい曽我部恵一(サニーデイ・サービス)、SIMI LAB で活躍するラッパーOMSB(初小説)、そして相対性理論などを手がけ美術や文筆でも注目を集めるアーティスト・やくしまるえつこが参加。映画『きみの鳥は歌える』の監督・三宅唱(初小説)や文筆家・五所純子(初小説)ら新たな才能に、音楽仲間の湯浅学(音楽評論)も加わった。さらにカバーではコラージュアーティストとして活躍する河村康輔が中原のデビュー作『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』単行本カバーをリミックス。20周年を記念した豪華なグルーヴが響き渡る!!

【仕様】
タイトル:中原昌也ほか『虐殺ソングブック remix』
刊行予定:2019年3月26日(予定)
仕様  :288ページ/並製/定価本体2,400円
AD  :前田晃伸+馬渡亮剛
Art work:河村康輔 (Mari & Fifi's Massacre Songbook Re-ILL-mix)

ビール・ストリートの恋人たち - ele-king

She's just like you and me (彼女はあなたや私と別に変わらない)
But she's homeless, she's homeless (だけど彼女はホームレス、彼女に家はない) ──クリスタル・ウォーターズ『ジプシー・ウーマン』1991

 #OscarsSoWhite(アカデミー賞は白人ばかり)というハッシュタグが出始めてから少なくとも3年は経っていますが、さてそれから今までの間に何があったか。と雑に思い出すとまず『ムーンライト』が2017年2月に米アカデミー賞で作品賞を獲って狼煙が上がり、『ドリーム(原題 “Hidden Figures”)』『ゲット・アウト』『ブラックパンサー』『クリードⅡ』『クレイジー・リッチ!(原題 “Crazy Rich Asians”)』などの「非白人がメイン」である映画がでかいヒットを飛ばしたのち、2019年2月のアカデミー賞はさてどうなったか。

 『ムーンライト』を監督したバリー・ジェンキンスの新作『ビール・ストリートの恋人たち』は今年のアカデミー賞ではレジーナ・キングが助演女優賞を受けたものの、ノミネートは他に作曲部門と脚色部門のみで、混戦と評された賞レースの中では実にひっそりとした佇まいだった。ジェイムズ・ボールドウィンが1974年に発表した同名小説を原作とした映画『ビール・ストリートの恋人たち』の主人公はニューヨーク、ハーレムに暮らす若い男女のカップル、ティッシュ(キキ・レイン)とファニー(ステファン・ジェームス、2016年制作の長編『栄光のランナー』(1936年、ベルリン、原題 “Race”)で主演)。2人はもともと幼馴染で、19歳のティッシュはデパートの香水売り場で店員として働き、22歳のファニーは独学で彫刻を制作している……言ってみればアーティスト志望のプー太郎。ティッシュの家族はファニーとの交際を受け入れているが、ファニーの(父親を除く)家族はそうではない。

 物語内の時間構成はやや変則的で、映画の中の「現在」におけるファニーは既に強姦罪の容疑で逮捕・収監されており、ガラス越しに面会にやってくるティッシュはファニーとの子供を妊娠している。ファニーの冤罪を晴らすべくティッシュと彼女の両親が文字通り駆けずり回るシーンと、2人が交際を始めた時期の情景が交互にスイッチバックするのだが、とりわけ印象的なのが逮捕前に2人で住むための物件がさっぱり見つからなかった諸々のエピソードである。若い黒人女性であるティッシュが一人で白人の家主に会いに行き、家が借りられそうになったところへファニー(黒人男性)が同居人です、と現れた途端にキャンセルされるとか、やっと黒人カップルでも貸すよ、と言ってくれたユダヤ人の青年に出会えたんだけど肝心の物件が住居というよりは廃工場だったり(ティッシュが「でも、一体ここにどうやって住むの?」と困惑するような物件である)で結局、何ひとつうまいこといかない。パートナーの片方が刑務所に入ってしまった「現在」から考えれば過去の家探しの詳細などどうでも良さそうなものではあるが、住む家が容易に見つからない、という現実が執拗に挿入される事により浮かび上がるのは、ある特定の属性を持った人を自由に移動させないことによって押さえつけている社会構造であり、白人の警官に目を付けられて適当な感じで立件されてしまうような行政であり、無罪を証明するために必要な作業を国が何も援助などしてくれない「70年代の黒人庶民が暮らすアメリカの日常」である。

 ファニーは快活で真っ直ぐな眼をしたハンサムな青年として描かれてはいるが、彼の彫刻作品が素晴らしいかどうか、についての評価は劇中でも曖昧にはぐらかされている。それは飛び抜けた才能を持った芸術家であるゆえの特別な受難、といったあざとい底上げを避けた結果でもあるだろうし、もっと言えばそれこそ何処にでも居そうな、ひょっとすると可能性を秘めているかもしれない若者がくだらない理由で簡単に叩き潰されてしまう社会への異議申し立てでもあるだろう。どこから文句を付けたらいいのか判らなくなるほどの理不尽がまかり通る日々を暮らさざるを得ない人々の重く、息継ぎなしのひとつながりの溜息であるかのような諦めを、『ビール・ストリートの恋人たち』は全ての事件が起こってしまった後のささやかな「ドラマ」だけを繊細に縫い合わせることによって描く。2年前、『ムーンライト』を観てその圧倒的な質感に打たれながらも、どこか現在との接続をおっかなびっくりでやっているような気配だったのが、『ビール・ストリートの恋人たち』では舞台を過去に設定することにより、バリー・ジェンキンスはこれ程までに豊穣な――スクリーン上では劇的なことなど大して起こりはしないのに――語りを引き出した。

 『ムーンライト』においてドラッグと暴力はだから何? くらいの日常として出てくる一方で、ゲイのセックスはきわめて観念的な、いわばお伽噺を構成する一要素のように扱われていた。米国のクィア黒人写真家、シキース・キャシー(Shikeith Cathey) の言葉を借りれば「ある意味、単純な映画である。(It was in some ways simple.)」

シキース・キャシーへのインタヴュー記事はこちら

 おそらくその図体がでかすぎるために鈍くて重くならざるを得ないアカデミー賞は『ムーンライト』には早々と作品賞を与えた。が同じ監督の、より軽やかで鋭敏な感覚に満ちた新作『ビール・ストリートの恋人たち』はノミネートすらされず、今年の作品賞は『ムーンライト』よりも単純な、「いろいろあるけど、実際に会ってみたらイイ奴だった(だからずっと友達だよな、俺ら)」てな感動作『グリーンブック』に与えられた。鈍くて野暮ったいものにもそれなりの役割はある。あるがしかし、『ビール・ストリートの恋人たち』の、ストリートを歩くティッシュとファニーの冒頭シーンに始まる、しびれるような映像の繊細さと、それに伴走するニコラス・ブリテル(『ムーンライト』に続きスコア担当)の淡い哀しみを帯びたサウンドトラックに静かに打ちのめされていた観客としては、「アカデミー賞、まだまだじゃね?」くらいの事は言いたくもなるのです。

                                   
『ビール・ストリートの恋人たち』日本版本予告

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