Home > Reviews > Album Reviews > Nicolas Bernier- Frequencies (a / fragments)
2013年、世界的なメディア・アートの祭典〈アルス・エレクトロニカ〉において「デジタル・ミュージックス・アンド・サウンド・アート」を受賞したアーティストがモントリオールのニコラス・ベルニエである。作品の名は「フリークエンシーズ (a)」。「音叉」の震動を音響的に拡張させる装置/テクノロジーを用いたサウンド・アートだ。
音叉の物質的な震動によって生成する響きは、既存の(90年代後半以降、PCのHD内での音色生成・エディットや、エラーによる偶然性の活用=グリッチを用いた)ポスト・デジタル・ミュージック作品と似て非なる魅力の音を生み出すことに成功している。氷のようなクールなビジュアルと、透明なガラスに反射する光のようなクリスタルな音の生成と持続は、観るものに静かな衝撃を与えるだろう。インターネットでダイジェスト映像が公開されているので、そちらをご覧になっていただきたい。この装置の概要がわかるはずだ。
frequencies (a) | nicolas bernier from Nicolas Bernier
本盤は「フリークエンシーズ (a)」の音源化である。リリースはリチャード・シェルティエが主宰するサウンド・アート・レーベル〈ライン〉。タイトルに「フラグメンツ」とついていることからも、実際のインスタレーションの音をエディットしたものと思われる。
ニコラ・ベルニエは、この作品を「純と不純の二分法に関するシリーズ」と述べている。この「純」とは何か。音叉によって生まれる響きのことか。事実、彼は「音叉は純粋な正弦波に近いサウンドを生成するオブジェクト」と語ってもいる。では「不純」とは何か。それが人間によるエディット・コンポジション、もしくはコンピューターによるフリーケンシーな音色の生成のことであろうか。純=音叉とアナログ、不純=コントロールとマシンとは、いささか粗雑な解釈だろうが、ひとつの補助線を引くことくらいはできるだろう(それにしても音叉という本来、調律を行う器具を用いて、このような非平均律的なノイズを生み出すというコンセプトがユニークだ)。
私見だが、「純と不純の二分法」という概念は、本シリーズ作品のテーマでもあるようにも思える。そう「フリークエンシーズ」はシリーズ作品なのだ。アルス・エレクトロニカ受賞作品「フリークエンシーズ (a)」は、音叉による震動を音に変換する独自のシステムを用いたインスタレーション/サウンド・アート作品。そしてシリーズ2作め「フリークエンシーズ(シンセティック・バージョン)」は、同じシステムを用いたラップトップによるデジタル・ミュージック作品。こちらも動画がある。
frequencies (synthetic variations) | nicolas bernier from Nicolas Bernier
本シリーズの音源化は、まずは、2013年に、フランスの実験音楽レーベル〈エントラクト〉から「フリークエンシーズ(シンセティック・バージョン)」がリリースされたことにはじまる。〈ラスター・ノトン〉的な律動感に満ちたトラックばかりの傑作で、コンピューター制御されたトラックが脳髄をバキバキに刺激していくアディクティヴなアルバムである。そして2014年、〈ライン〉から『フリークエンシーズ (a / フラグメンツ)』も発表された。これでまだ発表されていない第3部を除き、第1部「(a)」と第2部「(シンセティック・バージョン)」が音盤/音源化されたことになる。
個人的には、ニコラス・ベルニエの新作が〈ライン〉から出るというアナウンスを知ったときは軽い驚きを感じたものだが、同時に納得もした。ベルニエは〈ホーム・ノーマル〉などからポストクラシカル/アンビエントな、可憐なアルバム『Music For A Piano / Music For A Book』(2012)などもリリースしていたので、〈ライン〉からのリリースは意外に感じるものの、彼のライヴやインスタレーションの動画を観ると、エクスペリメンタルな楽曲をコンスタントに発表していたし(こちらにいくつかの動画がまとまっている。http://vimeo.com/nicolasbernier)、そのうえ13年のアルス・エレクトロニカ受賞が追い風にもなったであろう。さらに〈エントラクト〉からの本シリーズの別バージョン音源の完成度の高さを考えると、〈ライン〉のラインナップに加わることは納得がいく。そして〈ライン〉としても、そのレーベル・カラーに大きな変革をもたらす重要なアルバムになるのではないかとも思えるのだ。
では〈ライン〉的なるものとは何か。それは音響の建築的(アーキテクチャー)設計によるサウンド/アートの再設定というものではなかったか。聴こえないほどの微音=震えを、建築的な音の構造論から設定し、新たな音環境を構築すること。それがレーベル初期の思想であったように思われる。それらは主宰リチャード・シェルティエらの作品のようにロウワーケース・サウンドなどと呼ばれもした。
そのブームのようなものが去った後も〈ライン〉はいくつもの方法論を模索しながら、やはり「音/響のアーキテクト的な再設定の思考」を進めてきた。00年代中盤以降〈ライン〉はもはや微音量にこだわってはいなかった。彼らが、その時期以降に実践してきたことは、「音楽的ではないドローン」の環境的・美学的な音響生成であったように思う。12kが「音楽的なドローン」=アンビエントへと向かっていたこととは対照的であった。
しかしこの2014年最初のリリースにおいて、〈ライン〉は、非音楽的ドローンをエステティックなレベルに持っていくという一連の実験・実践とは異なるコンセプトをプレゼンテーションしてきたように思う。それはどのような変化なのか。一言で言うならば、音の物質的な震動を再生成することではないか。同時リリースされたディスクが、環境音からほとんど鳴っていないような静寂と震えを生み出すフランシスコ・ロペスの音源データ(7時間分)を収録したクロニクルDVDであったことも示唆的だ。そう、2014年、〈ライン〉は、音の「震動」に焦点を当ててきた。
となると、ベルニエのこの作品のどこが「震動」的なのか。いうまでもなく、音叉の震えから純粋な電子音響を生成しているところである。この作品は、一聴したところ透明な電子音が持続と変化と切断の中でコンポジションされるポスト・デジタル・ミュージック作品に聴こえるし、たしかに、コンピューターによって制御されてもいるのだが、しかし、その音は、音叉とその装置の接触による物質的な震動なのだ。それこそが、ほか(の電子音響作品)にはない、新しさに思える。事実、本盤の響きをよく聴いてみると、そのトラックを満たしている震動には、微細なアナログ感があり、それがフェティッシュな音の快楽を生んでいる。デジタルな音の生成とアナログで物質的な音の震動の交錯とでもいうべきか。
アルバムは33分程の1トラックだが、音は変化を繰り返すので飽きることはない。冒頭からガラスを弾くような響きが間をおいて繰り返され、残響から別の音の層が空気のように生まれ出ていく。さらに打撃音が持続の中に打ち込まれ、光のようなアンビエンスの層と融合する。透明な打撃と持続。微細なノイズの粒。微かなノイズから生まれるクリッキーなリズム。パチパチとした細かいリズムに、ガラスのカーテンのような音の交錯。それらはまたも非反復的な打撃音ともに消え去っていくのだが、そこからさらに氷のように冷たく透明なサウンド・カーテンやマイクロ・ノイズが幾層にも生まれ出る……。
個人的には、やはり9分から12分あたりで展開されるクリッキーなリズムと、砂時計のような微細なノイズと空間を揺らすような透明な音が交錯するあたりが好みだが、全33分、どの瞬間も、透きとおっていて、美しい緊張感がある。そのクリスタルな音の持続は電子音楽と非電子音楽の間を越境し、音の磁場・震動・環境は、マシニックな緊張と官能性の中で見事に刷新されている。まさに2014年、ポスト・デジタル・ミュージックの最前線。必聴のアルバムである。
最後になったが、ニコラ・ベルニエは、ボールドというインプロ・ノイズ・ユニットとしても活動しており、昨年はカセット作品『FMV/SHR』を発表した。こちらもインターネットにパフォーマンス動画がアップされている。まるでボードゲームをプレイするかのように3人向かい合ってのラップトップでパフォーマンス。ユニーク極まりない。
デンシノオト