「Noton」と一致するもの

Kassel Jaeger & Jim O’Rourke - ele-king

 カッセル・イエーガーとジム・オルークのコラボレーション・アルバム『ウェイクス・オン・セルリアン』が、〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた。近年のこの種の音響作品にあって、特筆すべき出来栄えであり、このアルバムを機にカッセル・イエーガーという稀有なサウンド・アーティストの名は、さらに広まっていくことになるのではないか。

 そこでまず、カッセル・イエーガーについて、若干の素描を試みたい(ジム・オルークについては、いまさら説明する必要もないだろう)。彼は、1981年生まれのフランス人サウンド・アーティストである。INA-GRMのエンジニアとしても知られている。INA-GRMは、フランス国立視聴覚研究所・音楽研究グループ(Le Groupe de Recherches Musicales)のことで、あのピエール・シェフェールによって1958年に設立されたことでも知られる組織・機関(1975年にフランス国立視聴覚研究所と統合)。フランソワ・ベイル、リュック・フェラーリ、ベルナール・パルメジャーニ、ヤニス・クセナキスら錚々たる音楽家たちがメンバーとして関わってきたことからも分かるように、電子音楽やミュジーク・コンクレートの歴史においても極めて重要な機関である。と、書くだけでもINA-GRMのエンジニアであることがいかに特別な存在であるかが分かってくるだろう。
 カッセル・イエーガーは、フランソワ・ボネ名義で〈エディションズ・メゴ〉傘下でGRMの電子音楽再発レーベル〈リコレクション・ジー・アール・エム〉のコーディネイションからエンジニアリングにまで関わり、困難であろう数々の再発に尽力してきた。いわば2010年代において「電子音楽/ミュジーク・コンクレート」の歴史を、われわれに再発見させてきた重要人物のひとりである。

 むろん、ソロ・アーティスト、カッセル・イエーガーとしての活動も活発である。ジュゼッペ・イエラシ主宰〈セヌフォ・エディションズ〉や、フランスの実験音楽レーベル〈シェルター・プレス〉、老舗〈エディションズ・メゴ〉などから着実にアルバムなどのリリースを重ねてきた。昨年は〈シャルター・プレス〉から発売されたステファン・マシューやアキラ・ラブレーとの共作『ザウバーバーグ』も傑作であった。
 カッセル・イエーガーのサウンドは、ミュジーク・コンクレート的な技法を主体としつつも、どこか不可思議な空気感が特徴である。どこか謎めいた物語性を感じる音響構成とでもいうべきか(『ザウバーバーグ』は、トーマス・マンの小説をモチーフにした作品だった)。
 その意味で、本作『ウェイクス・オン・セルリアン』におけるジム・オルークとの共演は、個性の近いアーティストの共作といえる。オルークの音響作品もまた物語性が濃厚だからだ。ただ、カッセル・イエーガーは、物語性が音響のレイヤー=縦軸から生まれていくのに対して、オルークは、音楽の進行=横軸によって生まれるという差異がある。本作においては、その差異が良い方向に作用している。縦軸と横軸、つまりレイヤーと時間の交錯が、とても濃厚なのである。音楽的な旋律の欠片、環境録音、アンビエントな持続音、それらが縦軸と時間軸に絶妙にコンポジションされていくことで、とても充実した音響空間と音楽的時間が生まれているのだ。

 本作『ウェイクス・オン・セルリアン』は、ミュジーク・コンクレートであり、アンビエントであり、ドローンであり、フィールド・レコーディング作品でもある。泡のように飛び散る電子音、遠くのカモメのような鳴き声、水の音、時間の結晶のような持続音が交錯し、結晶していく。まるで「映像のない映画」のように、美しくも、どこか物悲しい音響世界。そこには、地中海的な「海」的なものへの詩的な感覚があるようにも思えた。「紺碧の目覚め」にふさわしいサウンドスケープが、ここにある。

Kingdom - ele-king

 示唆的なタイトルである。注目を集めてからすでにずいぶん経つプロデューサーによる満を持してのデビュー・アルバムにしては、なにやら物悲しげではないか? クラブでの涙――それはここでは、クラブ音楽の高揚がもたらす歓喜によるものではなさそうである。そのひとつの理由として、昨年のオーランドのゲイ・クラブでの銃乱射事件をはじめとするクラブで噴出する暴力に胸を痛めたことがあるそうだが、それに限らずキングダムが現在抱くクラブ・カルチャーへのアンビヴァレントな想いが反映されたアルバムだと言えるだろう。
 美しい恍惚の瞬間が舞い降りる、ケレラをフィーチャーした名トラック“Bank Head”とそれに伴うEP「ヴァーティカルXL」が2013年。そのことを思うとやはり遅すぎたデビュー・アルバムだが、いま一度ここで強調したいのはその間の4年おこなわれ続けたR&Bにおけるアンダーグラウンドからメインストリームをまたがる音の冒険の立役者のひとりは、間違いなくこのキングダムことエズラ・ルービンであるということだ。彼が主宰する〈フェイド・トゥ・マインド〉が担うベース・ミュージックやジュークからの連続性、インダストリアル・リヴァイヴァルとの共振、タイミングにおいてアルカと連動したことは彼がプロデューサーとして時代の突端にいたことを証明しているし、あるいはルービンがフックアップしたシンガーであるドーン・リチャード(D∆WN)がダーティ・プロジェクターズの新作に登場していることを考えればなおさら疑いようがない。現在なぜR&Bが広大な音の実験場と化したかにはさまざまな要因があるだろうが、そのヒントのひとつはキングダムの仕事にあると自分は考えている。ルービンは女性シンガーをフィーチャーすることによってゲイである彼が普段隠しがちな女性性を解放していると説明しているが、それはたとえばハウ・トゥ・ドレス・ウェルやオート・ヌ・ヴ、ブラッド・オレンジそしてフランク・オーシャンに至るまで共通する重要なテーゼだと言えるだろう。ジェンダーとセクシュアリティの揺らぎとその新しい自由、それを追求するためにはR&Bのフェミニンさと音の更新が必要だったのである。
 そうした成果は『ティアーズ・イン・ザ・クラブ』においてやはりヴォーカル・トラックに表れている。オープニング、SZAを迎えた“What Is Love?”はリヴァービーな音響のなかメロウなフィメール・ヴォーカルが愛について憂う1曲で、特別新しいというわけではない代わりにこの数年のR&Bの探究が総括されているような印象すら受ける。続くナジー・ダニエルスをフィーチャーした“Each & Every Day”はルービンのトラックメイキングにおけるアイデアがわかりやすく出現しており、ごく限られたビートの音色を変えることでスカスカのループを存分に耳を楽しませるものにしてみせる。もう1曲SZAが登場する終曲“Down 4 Whatever”のエナジェティックなグルーヴも捨てがたいが、白眉はジ・インターネットのシドが悩ましげな声を披露する“Nothin”だろう。ルービンはこの曲について「ゲイ・ピープルが必ずしもゲイ・アイデンティティに拠らないポップ・ソングをいっしょに作るっていうアイデアが気に入ってるんだ」と説明しているが(シドはレズビアンであることをカミングアウトしている)、つまり、ジェンダーにおけるアイデンティティがポップ・ミュージックにおいてより開かれたものであるべきだという考え方と同調している点できわめて現代的だと言える。そしてこれらのヴォーカル・トラックは総じてセクシーで、R&Bにおける性愛の新しい表現が自然に表れていると思えるのである。

 いっぽうで問題の“Tears in the Club”は一転してダークなビート・トラックで、アルカを思わせる耽美なメロディが低音に陰鬱に呼応する。沈み込むような“Haunted Gate”、インダストリアルな触感を残す“Into the Fold”も同様で、そこでは非常に内面的なメランコリーが抽象的に展開されている。
 ただ、こうした二面性がアルバム全体を魅力的なものにしているとは正直言い難く、中心がどこにあるのか見えづらい作品ではある。トラックメイカーとしての自らの先鋭性を追求してきたこれまでもキングダムのキャリアを思えば、『ティアーズ・イン・ザ・クラブ』ではどうも一度立ち止まってルービン自身の内面に降りていくことも避けられなかったようだ。アルカがその新作『アルカ』において内面を追求した結果さらに新しい領域に向かったのに後れを取ったようにも見えるし、あるいはもっと彼独自のR&Bにフォーカスした作品にしても良かったようにも思えるが、一度そうした分裂を吐き出しておきたかったのかもしれない。クラブ・ミュージックから一定の距離をおいた(海外のレヴューでは「ポスト・クラブ・ミュージック」とも表現されている)このデビュー作の内省は、「プロデューサー」のキングダムではなく個人の迷いが滲んだものである。それがいまの時点での彼のリアリティとは思いこそすれ、(これまでの功績を鑑みれば)そうした葛藤がもっと生々しく音に表れたもの、もしくはそれすらを昇華するものを彼にはこの先期待したい。

Gábor Lázár - ele-king

 マーク・フェルやラッセル・ハズウェルなどとコラボレーション・アルバムをリリースし、そのうえロレンツォ・セニの〈プレスト!?〉からアルバムを発表しているなど、現在のエクスペリメンタル・ミュージック・シーンにおける(隠れた?)キーパーソン、ガボール・ラザールが〈シェルター・プレス〉からソロ・アルバムをリリースした。〈シェルター・プレス〉は、フランスはブルターニュを拠点として、個性的な電子音楽/エクスペリメンタル・ミュージック作品をコンスタントに送り出しているレーベルである。

 それにしても「危機の表象」とは、なんとも意味深なアルバム・タイトルではないか。じっさい、その名が示すように、本アルバムにおいては、どの曲もグリッチされたテクノの残骸が高速に展開していくわけである。となれば、この「危機の表象」とは、グリッチ・サウンド/ノイズのことだろうか。それを示すかのように、アルバム全曲に“クライシス・オブ・リプレゼンテーション”と共通の名前が付けられており、それぞれ「#」記号のあとに、1から8までがナンバリングされている(“クライシス・オブ・リプレゼンテーション #8”はCD盤ボーナス・トラック)。
 じじつ、このアルバムの各トラックは、ノイズ・モチーフが反復され、そしてそれが少しずつ壊れていく構成になっている。まるでグリッチ・ノイズ・サウンドの実験報告のような構成である。エラーの生成がリズムとなり、刺激的な電子ノイズ・サウンドを生成・展開していくのだ(ちなみにマスタリングはラシャド・ベッカー)。

 一聴して分かるように、本作は、SND/マーク・フェル直系のサウンドである。しかしグリッチが、新奇性やフェティシズムの対象ではなく、手法として「当たり前のもの」として存在している点に注目したい。オートマティックでありながら、じつに流麗にコンポジションなされているのである。「無意識」をコントロールするかのように。
 むろん、これはガボール・ラザールだけの特質ではない。たとえばリー・ギャンブル、イヴ・ド・メイ、ロレンツォ・セニなど、新世代エクスペリメンタル・テクノ・アーティスト全般の特徴といえる。彼らはテクノ・アーティストでありながら、同時に(90年代末期から)00年代初頭のグリッチ・サウンドに多大な影響を受けている世代なのである。じじつリー・ギャンブルは〈エディションズ・メゴ〉のマニアだという。
 そう、この10年代初頭においてエクスペリメンタルな電子音響/テクノを創りだしているアーティストたちは、テクノという形式を愛しながらも、しかしそれがグリッチというエラー・ノイズで破壊されていくさまから始まっている。いわば、あらかじめ引き裂かれた「表象の危機」の世代。その「危機」への感覚は、グリッチ以降を生きる者を貫通する意識/無意識ではないかと思う。
 前提となるべき条件がすでに壊れていること。この『クライシス・オブ・リプレゼンテーション』において生成するグリッチ・ノイズは、壊れた時代・世代における(無)意識の発露とはいえないか。私には、この精密で整ったグリッチ・サウンドに、今の時代特有の引き裂かれた無意識と、しかし、その意識を「引き裂かれたまま」統御しようとする強い欲望=意志が感じられてならないのである。

 また、アートワークを手掛けるのは ソフィア・ボダ(Zsófia Boda)。彼女の作品もまた「壊れていることが前提」という時代のアトモスフィアを感じさせる(https://zsofiaboda.tumblr.com/)。こちらも必見だ。


Rebound Tenderness No.2

Daymé Arocena - ele-king

 2015年7月20日にキューバはアメリカと54年ぶりの国交回復を果たし、その後オバマ前大統領や安倍首相がキューバを訪問し、ラウル・カストロ国家評議会議長との首脳会談をおこなった。そして、2016年11月25日にフィデル・カストロ前議長死去のニュースが世界を駆け巡ったが、近年のキューバの自由化は世界の政治・経済に大きな影響を与えている。一方、音楽やスポーツの面では、キューバの世界に対する影響力は昔から計り知れない。キューバ音楽はラテン音楽の中枢をなすもので、たとえば20世紀前半に誕生したソンはその後のラテン・ダンス音楽の基盤となり、そこからルンバ、マンボなどがアメリカはじめ世界でも流行した。1959年にキューバ革命が起こり、アメリカとの国交が断絶するものの、ニューヨークを中心にアメリカのキューバ移民はラテン音楽の発展に大きく貢献している。また、1970年代はイラケレがキューバ音楽にファンクやフュージョンを取り入れた電化サウンドで、旧ソ連など共産圏でも人気を得た。そして、1990年代後半にブエナビスタ・ソシアル・クラブが誕生し、再度キューバ音楽にスポットが当たる。一方、クラブ・サイドから登場したニューヨリカン・ソウルも、その源流を辿ればキューバ音楽にたどり着く。さらに、ジャイルス・ピーターソンによるプロジェクトの「ハバナ・カルチュラ」が2008年にスタートし、伝統的なキューバ音楽とクラブ・サウンドの融合が試みられ、キューバ音楽の新しい時代が始まった。そこから発展してマーラの『マーラ・イン・キューバ』(2012年)が生まれ、「ハバナ・カルチュラ」にも参加したシンガーのダイメ・アロセナがソロ・デビューした。

 ダイメ・アロセナは20代前半の若手女性シンガーだが、8歳からセミ・プロ活動をおこない、14歳でビッグ・バンドのロス・プリモスのリード・シンガーに抜擢され、キューバを訪れたウィントン・マルサリスとも共演するなど、ソロ・デビュー前から既に実績は十分だった。キューバの国立音楽学校でクラシックとキューバ音楽を学び、クワイアで宗教音楽のサンテリアを歌う一方、ジャズからネオ・ソウル、R&Bといったアメリカ音楽にも親しんできた。キューバ音楽やジャズの伝統的な技法やフィーリングを身につけながら、同時に現代的な手法や表現も理解し、その融合や発展を示していくことができるシンガーだ。音楽学校で基礎から学んでいるため、歌だけでなく作曲やアレンジもおこない、コーラスの指揮者やバンド・リーダーとしての顔も持つ。ジャイルスの〈ブラウンズウッド〉からリリースされたファースト・アルバム『ヌエヴァ・エラ』(2015年)は、キューバ音楽にジャズやソウルの要素を交えた意欲作で、そうした彼女の試みやライヴでの迫力あるパフォーマンスは高い評価を得た。『ヌエヴァ・エラ』発表後は、ワールド・ツアーをおこなってさまざまなフェスにも出演してきたが、そうした合間の中で新作『キューバフォニア』は録音された。

 タイトルが示すように、本作はキューバと米国カリフォルニア州ロサンゼルス録音が収められる。LA録音では、ビルド・アン・アーク、ライフ・フォース・トリオなど、2000年代からカルロス・ニーニョ関連の多くのプロジェクトに参加してきたドラマー、デクスター・ストーリーが共同プロデュースをおこなう。彼はドラム以外にも数多くの楽器を演奏するマルチ・ミュージシャン/プロデューサーで、ソロ・アルバムの『ウォンデム』(2016年)ではエチオピアン・ジャズに傾倒した世界も見せるなど、民族音楽に通じたところもある。従って、ダイメのようなキューバ音楽についても十分に理解した上でのレコーディングだったのだろう。また、デクスター・ストーリーとは数多く共演する盟友のミゲル・アトウッド・ファーガソンが、ストリングスを担当しているという点も心強い。キューバ録音は、日頃からダイメと一緒に演奏をおこなう若手ミュージシャンたちが参加。現在のキューバ音楽を担う実力派によるビッグ・バンドで、ダイメがもっとも得意とする演奏形態となっている。

 『ヌエヴァ・エラ』はジャイルスと「ハバナ・カルチュラ」などにも関わったシンバッドとの共同プロデュースで、ロンドン録音にキューバでのレコーディング素材も混じったものだった。それによってキューバ音楽の伝統に現代性を融合した作品となっていたわけだが、本作はビッグ・バンドというダイナミックな演奏形態により、キューバ音楽の真髄である祭事のようなパワフルさが強調されている。神が降臨するがごときドラマ性に満ちた“エレグア”が好例で、往年のイラケレやロス・バン・バンを思わせる迫力の演奏とヨルバ語による霊的なコーラスは、キューバという土壌がなければ生み出せないものだろう。“ラ・ルンバ・メ・ラーモ・ヨ”のダイメのヴォーカルには、ジャズやネオ・ソウルの影響が見出せるものの、演奏自体は伝統的なルンバ形式に則っている。後半のインプロヴィゼイション感に富むリード・ヴォーカル&コーラスも圧巻で、キューバ音楽が持つ高揚感を見事に表現している。これら冒頭の2曲からもわかるように、『キューバフォニア』は『ヌエヴァ・エラ』よりさらに、ルンバやマンボなど古典的な音楽形式を踏襲し、20世紀の黄金時代を彷彿とさせるキューバ音楽ルネッサンスを謳ったものとなっている。そうした音楽的ベースを確立させた上で、マンボ形式の“マンボ・ナ・マ”ではパーカッシヴなビートにリズミカルなヴォーカルを組み合わせ、ニューヨリカン・ソウルにも通じるクラブ・サウンド的要素も垣間見せる。メロウネスに富む“コモ”ではミゲル・アトウッド・ファーガソンのストリングスが効果的で、ソウルにラテン音楽特有の哀愁を巧みに織り交ぜた作品となっている。キューバ音楽を軸にいろいろな音楽を融合し、また伝統性と革新性を同居させる点が、ダイメ・アロセナの真骨頂なのである。

Thundercat - ele-king

 カマシ・ワシントンの『ザ・エピック』はじめ、ブランドン・コールマンの『セルフ・トウト』、テラス・マーティンの『ヴェルヴェット・ポートレイツ』、ジョセフ・ライムバーグの『アストラル・プログレッションズ』、マイルス・モズレイの『アップライジング』と、ロサンゼルスのジャズ集団のウェスト・コースト・ゲット・ダウン(WCGD)周辺作品が、ここ1、2年で続々とリリースされている。これらの作品は現在のLAジャズ・シーンの活況ぶりを物語るに十分だが、同じジャズ・サークルで共演も多い彼らの作品でも、たとえばスピリチュアル・ジャズのカマシ・ワシントンと、ファンク色の濃いブランドン・コールマンの作品では、たとえ演奏するメンツが同じような顔ぶれであっても、リーダーによって全く異なる作品、演奏になるところがジャズの面白さ、多様性を示している。このたび3枚目のソロ・アルバム『ドランク』を発表するベーシストのサンダーキャットことスティーヴン・ブルーナー、その兄で初のソロ・アルバム『トライアンフ』をリリースするドラマーのロナルド・ブルーナー・ジュニアも、このWCGDのメンバー。前述の『ザ・エピック』はじめ、フライング・ロータスの『ユー・アー・デッド』、ケンドリック・ラマーの『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』などにも参加している。彼ら兄弟の作品が奇しくも同じ時期にリリースされるのだが、やはり兄弟ということもあって共通項を見出せるアルバムである。

 とはいえ、今回のブルーナー兄弟の共演は、『トライアンフ』に収録された“テイク・ザ・タイム”でサンダーキャットが客演するのみ。『ドランク』には盟友のフライング・ロータスに、今までもサンダーキャット作品に参加してきたカマシ・ワシントン、テイラー・グレイヴスらが参加しているが、WCGD周辺メンバー自体はそれほど多く参加していない。サンダーキャットの前作『アポカリプス』(2013年)にも参加したチャールズ・ディッカーソンのほか、ディアントニ・パークス、ルイス・コール、デニス・ハムといった腕利きのセッション・ミュージシャンらが脇を固め、ミゲル・アトウッド・ファーガソンがストリングスを手掛ける。ケンドリック・ラマー、ファレル、ウィズ・カリファなどヒップホップ方面のゲストのほか(国内盤ボーナス曲にはマック・ミラーも)、“ショウ・ユー・ザ・ウェイ”ではドゥービー・ブラザーズのマイケル・マクドナルド、ロギンス&メッシーナのケニー・ロギンスと、1970年代初頭よりウェスト・コースト・ロックやAORを作り上げてきたシンガー・ソングライターふたりの参加が話題だ。ジャズ/フュージョンを軸に、ビート・ミュージックやドラムンベースなどクラブ・サウンドの要素も取り入れ、さらにAORをミックスさせてバレアリックなムードの作品も作ってきたサンダーキャットだが、そうしたAOR路線の拡大がマイケル・マクドナルドとケニー・ロギンスの参加に象徴されている。“ア・ファンズ・メイル”や“ラヴァ・ランプ”などもそうしたAOR路線の曲だ。しかしながら、サンダーキャット自身はAOR路線拡大の狙いからマクドナルドとロギンスにゲスト要請をしたわけではなく、単純に昔から彼らの大ファンだったことが理由だそうだ。サンダーキャットは1984年生まれの黒人だが、LAのようなミクスチャーが盛んな土地では、彼らの世代の黒人はAORや白人音楽を普通に聴いていたようで、我々が日本で想像するようなブラック・ミュージックのイメージも、実際はやや異なるものなのかもしれない。『ドランク』は一般的なブラック・ミュージックというより、ロックやAOR通過後のそれと言えるだろう。サンダーキャットが昔から影響を受けたと述べるジョージ・デュークやスタンリー・クラークにしろ、ジャズ畑出身の黒人ミュージシャンではあるが、ロックをはじめとした白人音楽を柔軟に取り入れ、いわゆるブラコン的な音でメジャーな成功を掴んだ人たちだ。今まではどちらかと言えばベース・プレイに第一の主眼点を置き、いかにその技巧を目立たせるかに注意を払ってきた感がなくもないサンダーキャットだが、シンセ・ファンク系の“フレンド・ゾーン”や“トーキョー”に顕著なように、今回はトータル・サウンドのプロデュースや作曲に重きを置き、同時にシンガーとしての能力を今まで以上に発揮したものとなっている。そうした音楽に対する軸足の置き方という点でも、ちょうど1970年代後半から1980年代にかけて、フュージョンからディスコ、ブラコン方面へシフトするジョージ・デュークの足跡とダブるところもある。余談だが、アルバム・ジャケットの写真は『地獄の黙示録』へのオマージュといったところで、今までの2枚のアルバムに「アポカリプス」という言葉を入れていたサンダーキャットの遊び心が表われている。

 一方、ロナルド・ブルーナー・ジュニアの『トライアンフ』には、前述のとおりサンダーキャットのほか、“センセーション”でマック・ミラーと黒人女性シンガーのダニエル・ウィザースがゲスト参加。そして、“ジオーム・ディオーム”にはジョージ・デューク本人がフィーチャーされている(ジョージ・デュークは2013年8月に亡くなっているので、恐らくそれ以前のセッションか、録音素材をもとに完成させた作品だろう)。彼のドラムはジャズやブラック・ミュージック的なそれと言うより、ロックの影響が強いものだ(ロナルドはサンダーキャットとともにスラッシュ・メタルのスイサイダル・テンデンシーズでも演奏してきた)。“トゥルー・ストーリー”や“テイク・ザ・タイム”あたりにそうした特性が表われており、またこれらではサンダーキャット同様にシンガーとしてもアピールをおこなっている。“チックス・ウェブ”はインストのフュージョン・ナンバーだが、これもロックからの影響が色濃い。ジョージ・デュークとの“ジオーム・ディオーム”もそうだ。ジョージ・デュークはジャン・リュック・ポンティと共演し、フランク・ザッパのマザーズで演奏したり、ビリー・コブハムとの双頭ユニットを組んだ時期もあるのだが、そうしたことを思い起こさせる曲と言えよう。そして、“シール・ネヴァー・チェンジ”や“ホエンエヴァー”あたりはウェスト・コースト・ロックの文脈から出てきたような曲だ。サンダーキャットの『ドランク』のAOR路線に呼応する曲と言えるかもしれない。長尺の“オープン・ザ・ゲート”は、AOR的な導入からフュージョン、プログレ風のジャズ・ロックへと展開していく。ほかにハウス・ビートにシンクロしたような“ダズント・マター”、シンセ・ファンク~シンセ・ポップ路線の“トゥ・ユー/フォー・ユー”があり、“センセーション”ではあたかもアース・ウィンド&ファイアを想起させるコーラスがフィーチャーされる。アースはLAのミクスチャー・カルチャーを象徴するような存在であり、真の意味でのフュージョン・バンドだった。ブラック・ミュージックにロックやAORの要素も取り入れた先駆と言える。ジョージ・デュークにしろ、アースにしろ、そうしたLAの音楽文化が、サンダーキャットにも、ロナルド・ブルーナー・ジュニアにも受け継がれていると言えよう。

Emptyset - ele-king

 爆風のような強靭なノイズ・リフと地響きのような重厚なベース。このふたつが絡み合うことで生成するサウンドは、聴き手の感覚に、あらゆるものが消失したゼロ地点を想起させる。あらゆる知覚が爆音とともに一瞬の光の最中、消失してしまうような感覚。それは廃墟へと至る直前のフラッシュである。もしかするとこれは死の欲動に近いものかもしれない。
 冷たいコンクリートのようなエンプティセットのサウンドには、不思議とそのような光と死の感覚が横溢している。つまり、とてもヘビーで、しかし快楽的なノイズの反復と逸脱が、この新作『ボーダーズ』には横溢しているのだ。

 ノイズによる不安定かつ硬質かつ重厚なサウンドのリフによってトラックを構成し、聴き手の聴覚に強靭に刺激を与えること。ラディアンの新作『オン・ダーク・サイレント・オフ』が、音響的に処理されたリフを導入した(ポスト)ロックの現在とするならば、この エンプティセットの新作はノイズ・リフの刺激によって知覚を支配するような電子の(アフター)ロックだ。そのふたつのバンド/ユニットの追及において共通している点は、ノイズ=音響をリフなどのパターン化を通じて、ノイズの意味をもう一度、問い直している点にある。ラディアンは演奏を解体してみせる。エンプティセットは、ノイズ/パターンを一瞬の光のように炸裂してみせる。加えてベースの存在感が、彼らの音楽がベース・ミュージックへと至るブリストルのクラブ・ミュージックをルーツに持っていることを象徴している。

 そう考えるとエンプティセットの新作が、ラディアンと同じく〈スリル・ジョッキー〉からリリースされたことは、やはり象徴的な出来事に思える。〈サブテクスト〉、〈ラスター・ノートン〉、そして〈スリル・ジョッキー〉。いっけんブリストルの轟音電子ノイズ・ユニットの行き着く先としては意外のように思えるが、しかし〈スリル・ジョッキー〉は、ザ・ボディのアルバムもリリースしており、いわゆるシカゴ音響派(今さらの名称だが)的な音楽性のみなずらず、パンク以降のロックを追及しているレーベルなのだから必然といえよう。

 昨年リリースされたラディアンの『オン・ダーク・サイレント・オフ』が、音響派以降におけるロックの現在を追及した音楽であるとするならば、このエンプティセットの本作は、電子音響以降のロックの現在を追及している。まさしく2010年代的なインダトリーなサウンドを象徴するユニットであり、アルバムだ。前作『リキュア』から足掛け4年、エンプティセットは、確実に進化を遂げている。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』 - ele-king


文:坂本麻里子

 『麦の穂をゆらす風』(2006年)に続き、社会派の英監督ケン・ローチと彼の長年のコラボ相手である脚本家ポール・ラヴァーティに二度目のカンヌ映画祭パルム•ドールをもたらした『わたしは、ダニエル・ブレイク』。心臓発作に襲われ休職中59歳の指物師ダニエルが福祉制度の冷酷なメカニズム、些細なミスにより求職活動を余儀なくされる矛盾といった「お役所仕事」の迷路を相手に葛藤する様と、家主の横暴で住居を失いやむなくロンドンからニューカッスル(2都市間の距離は約400km、電車でほぼ3時間)に引っ越して来たシングル・マザー:ケイティーと彼女の子供たちと彼の出会いから生まれる疑似家族的な触れ合いを描いている。
 労働者に降り掛かる悲劇、そして住宅問題というのは、庶民を主役に多くの作品を撮ってきたローチにとって目新しいテーマではない。前者に関しては、国鉄民営化に伴いリストラされたシェフィールドの鉄道工たちの悲劇を群像的に描いた『ナビゲーター:ある鉄道員の物語』(01年)。キャストの多くを地方クラブ回りの芸人が演じた意味でもニューカッスル出身の漫談師デイヴ・ジョンズを初主役に抜擢した本作がだぶるし、暗いストーリーへの反発としてコミック・リリーフが効いているのも同様だ。
 テレビ映画作品ゆえ日本への浸透度は低いかもしれないが、後者はイギリスで『ケス』と並ぶローチの初期の代表作とされる『Cathy Come Home』。家出し結婚したものの、事故による夫の失職他次々に襲う悲劇で路頭に迷い、遂には社会福祉課に愛児たちを取り上げられる主人公キャシーの零落をドキュメンタリー調で綴ったこの作品はBBC放映時に賛否双方大きな反響を呼び、ホームレス・チャリティ団体の発足にも繫がったとされる。しかし『Cathy〜』が放映されたのは奇しくも1966年。前作『ジミー、野を駆ける伝説』後に長編フィクション映画制作からの勇退もささやかれたローチは、50年後の自作の伴奏部にこの問題を再び含めずにいられなかったことになる。そのフラストレーションと怒りは大きかったはずだ。
 そうしたいくつかの前知識や「観るのがきつそう」というメンタル面での覚悟は、しかし実際に『ダニエル・ブレイク』を観るに当たって必要ではない。メッセージこそ重いものの、その伝え方はある意味ぶっきらぼうなほどストレート、小細工なしの情熱的なものであるため観る側も武装解除されてしまう。細かな観察眼や息を飲まされる静かな衝撃といったローチ味も健在ながら、一部にぎこちなさはあるし「完璧な映画」ではない。映画の読み方に慣れている人であれば前半を観れば結末がどうなるかだいたい予想がつくであろう、実にシンプルな筋書きの100分だったりする。
 だが、積み重なっていく出来事、行動、そこに生じる結果を有り体に見せることに徹した本作の大文字な作り──白黒明快キャラクターや曖昧さゼロのストーリーは寓話すら思わせる──は意図的なアプローチであり、「伝えたいことの本質にまで映画をそぎ落とせる」、80歳のベテランならではの腕ではないかと思う。泣かされる作品なのだが、ストイックなゆえにメロドラマに陥ってはいない。思わずこぼれた涙は悲しみで濁っただけのそれはなく、同時に怒りに沸騰させられ、一滴の希望にまで蒸溜された、とても透明度の高い涙だった。
 ゆえに、システムに小突き回され何もかも失っていく人間を追った「惨めなだけ」の作品という印象は残らない。ダニエルの優しさや思いやり、底辺にあっても捨てない誇りは、周囲に様々な形で影響を与えていく。そこから広がる小さな助け合いと「半径5メートルの共同体」は観る者の中に希望の灯りを点す。主役のキャラ造型に対し、「酒も飲まず、清廉潔白。こんな聖人みたいな『労働者階級』が現実に存在するはずがない」との批判する声もイギリスの右派メディアから上がっていた。だが、そんな風に他者を信じられない=誰もが同じく人間である事実を回避し偏見を助長するシニシズムこそ、社会を様々な形で分断していく見えないガンのようなものだろう。

 ダニエルが「わたしは、ダニエル・ブレイク」と訴える姿に、キューブリックの史劇『スパルタカス』の有名な場面を思い起こした。奴隷の反乱を鎮圧すべく、ローマ軍は首謀者スパルタカスさえ差し出せば他の連中の命は救ってやる、と脅しをかける。しかし奴隷たちは次々と「I'm Spartacus!(わたしがスパルタカスです)」と名乗りをあげ、ローマ軍の奸計は無為に終わる。非力な存在でも、連帯し太い綱になれば抵抗は可能。筆者が本作を観たのは地元の映画クラブ主宰の無料上映会だったが、上映後、会場のパブに詰めかけた200人以上の観衆からわき起こった大きな拍手はダニエルの境遇を「自分には他人事、関係ない」と片付けられない人々の良心、そして「わたしも、ダニエル・ブレイク」の共感の現れだと思った。大予算やビッグ・ネームなキャストとは無縁のこの実にささやかな映画は、大きな励ましの声を響かせている。

文:平田周

 映画を含むあらゆる芸術は社会的効用という基準とは独立した価値基準を有する、と言われる。こんなことは、ハイカルチャー/サブカルチャーの区別なく、小説、映画、漫画に没頭しているうちに気づいたら朝を迎えていたり、あるいはなぜか思わず夜を踊り明かしたりしてしまったような「頽廃的な」経験のある人間にとっては、あまりにも自明なので意識にすらのぼらないことかもしれない。そこにはまず快楽とその肯定だけがあればいいのであって、共有される意味や普遍的な価値など別になくてよい。ましてや、いまはファシズムの時代でもあるまいし、特定の政治的目的への奉仕のための手段としての芸術、いわゆる〈プロパガンダ芸術〉という言葉で了解されていたものを「楽しい」と思う人間はそう多くはない。
 他方で、映画にかぎって話をすれば、どんな作品も、ジョン・カーペンターの傑作SF映画『遊星からの物体X』(1982年)の未知の生物のようにまったく見知らぬ惑星で生まれたというわけではなく、特定の社会的時代背景のなかで産み出される。翻って、どんな映画作品も、実話に基づいたものであれ、フィクションであれ、何らかのかたちで社会関係を演出し、社会を映し出し、それについて吟味し、判断を下している。映画にはすでに社会への視線が、こう言ってよければ、〈社会批判〉的な観点が備わっている。社会批判はけっして映画というメディアそれ自体の目的でも責務でもないが、そこに潜在的な次元として孕まれている。社会派、あるいはリアリズム映画と呼ばれるジャンルは、そうした映画にある社会批判のポテンシャルを引き出し、現実に働きかけようとするものである。リアリズム映画は、声なきものに声を与え、人が目を向けない人々の日々の生活を可視化し、迷宮のように張り巡らされている社会関係の網の目のなかで作動している現実のメカニズムを浮かび上がらせようとする。
 2016年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したケン・ローチの新作『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、大工である主人公ダニエル・ブレイクが出口のないカフカ的な状況にはまり込んでいくところから物語が始まる。建設現場での心臓発作のために倒れたブレイクは、医者に仕事をやめるように言われ、社会保険の給付の申請を行う。しかし「ヘルス・ケア・プロフェッショナル」なる受給の可否の査定に関わる職員には就労可能と見なされる。結果、ブレイクの申請は受理されず、ジョブセンター(「公共職業安定所」と訳されることもあるが、ハローワークのような雇用の斡旋のみならず社会保障サービスも行うイギリス特有の事務所)に行けば失業者扱いされ、ただセンターの規則に従うことが求められ、最終的に職探しを行う以外の活動の選択肢を奪われる。こうした不可解な状況は、他人に事情を説明することも困難なために、いっそう強められる。実際、ダニエルは制度の規則にしたがって、履歴書を小さな会社の雇用者たちに渡し歩いた結果、ある雇用者から採用の電話を受けるが、病気なので働くことができない旨を伝えざるをえない。それに対するある意味当然の反応として、「じゃあなぜ履歴書を渡したんだ」と怒って相手は電話を切るのである。
 このようなある種の不条理なダブル・バインドの下、ダニエルの生活を不安定なものにする社会関係がある一方で、映画が不思議と賑やかで温かみをもつのは、「チャイナ」という愛称の隣人、そして映画のもう一人の主人公と言ってよい、ディランとデイジーという名の二人の子供をもつシングルマザー、ケイティとのあいだにダニエルが紡ぐユーモアあふれる人間関係によるものである。とはいえ、二人の生活もブレイクと同様に不安定である。チャイナはちょっとした闇商売にダニエルを少し関係させる。ロンドンの社会住宅が不足しているという理由で、映画の舞台であるニュー・カッスルの社会住宅を割り当てられたケイティは、越してきたばかりで道に迷い、また二人の子供を連れていたため、ジョブセンターの職員との約束の時間に遅れ、ペナルティとして福祉の給付を停止される。生活に困った人間同士がそれぞれのニーズに合わせて助け合う一方で、本来そうした人々を助ける側の制度の人間は規則にがんじがらめにされて、身動きが取ることができなくなっている様子がスクリーンには映し出される。この対比がよく示されているのは、「IT弱者」のブレイクがオンラインでの社会保険の申請するのを助けようとした心あるセンターの女性職員が、規則に反するとして上司にきつくとがめられる一方で、中国の友人とスカイプするチャイナがその申請を助ける一連の場面である。それは硬直したシステムと人々の相互扶助的な関係とのコントラストなのである。
 だが、貧しい者たちが互いに肩を寄せ合うという現実と、それだけでは生活を送るのには不十分であるという現実はなにも矛盾しない。この映画もこれまでのケン・ローチの多くの作品と同じく大団円やハッピー・エンドを迎えることはない。ただ彼の映画は、幸福であれ不幸であれ、「終わりのない」現実の社会に観客を立ち返らせ、問題を意識させようとする。ローチはどんな社会への批判的な眼差しを投げかけているだろうか。映画では、登場人物たちが生活のなかで経験する苦しみを個人の心理的・病理的次元で説明することが徹底的に拒否される。なぜチャイナが少しばかり違法な商売に手を出すかと言えば、怠け者だからではなく、朝の5時に呼び出されて1時間だけ働かせられ4ポンドしか稼げないという労働条件のためである。ある印象的な場面で、ケイティがあまりにも「無様な」行為に及んだ後で恥じ入るとき、ブレイクが彼女に伝えるのは、「これは君のせいではない」、「なにも恥ずかしいことなんかない」といった言葉である。

 こうした貧困、過ち、苦悩の様々なかたちを通じてローチが示そうとするのは、それらが社会のなかで産み出されているという当たり前のことである。裏返しに言えば、社会は、まるで自らが存在しないかのように、あまりにも社会で起きた問題を個人に帰し、背負わせている。それは、サッチャー政権による新自由主義政策のもとでの社会福祉の後退と自己責任の強化の結果であり、ローチがラジオで戯画的に語ったことの大意を要約すれば、「家がない人間がいるとすれば、それはそいつが働かないからだと説明し、そして、社会的紐帯を破壊し、その社会的費用を個人や家族に転嫁すべく個人主義や家族主義のイデオロギーを強化するというのが新自由主義の論理なのです」。映画での社会問題の提示は、楽観的と言っていいぐらい明快である。自分は、税金も払って、市民の務めを果たしてきた。病気になって市民の権利を要求しているだけなのに、なぜフリーライダーのように扱われなければならないのか。なぜそんな理不尽な要求や手続きに従わなければならないのか。なぜセルフ・リスペクト(自らに対する尊厳)を押し殺して生きなければならないのか。自分は、消費者でも物乞いでも犬でもない、人間なのである、といったように。
 日本でも、経済的諸条件や技術的環境の変化とともに、社会に格差が広がり、労働の問題が表面化している。学生のなかで「ブラック」という言葉が盛んに用いられているのを見ても、ほとんど誰もがそうした不安の存在が確かであると感じている。とはいえ、そうした問題を個人レベルでなく集団レベルでどのように解決していくのかといった議論に関しては、「これからの社会を生き延びるのにこれを学べ」式の個人間の競争を煽る書籍が本屋で平積みにされている光景を見ると、それほど確かではないように思える。では、ローチの映画がただちに解決策を与えるかと言えば、それはもっと確かではない。ただ映画が観客に鋭く強烈に社会の現実を突きつけるというのは、本当だ。彼がリアリズムよりも「オーセンティシティ(本物であること)」という言葉で好んで自らの作品を形容するように、映画はオーセンティックな(唯一無二の)演出で社会の現実を体験させる。
 ローチは、生涯の映画のベスト3の1本にヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』(1946年)を挙げている。この事実は、映画が、ネオリアリズモの精神に沿って、日常の平易な言葉を採用しながら、ハッと息をのませるようなしかたで、社会のなかで日々生まれる苦しみや怒りを見事に撮っていることの一端をよく説明してくれているように思える。本国イギリスに続いて昨年の10月から映画が公開されたフランスでのプロモーションでは、老若男女それぞれが、ブレイクに自らの姿を重ね合わせ、「わたしは、ダニエル・ブレイク」と発する声が用いられていた。映画を見れば、そんな共感とともに、日本ではしばしば恥ずかしいもの、もっと言えば、なにか非現実的なものとして蔑まれ、不信感さえもたれている「絆」や「連帯」、そして「平等」といった言葉の意味を見直し、社会感覚を研ぎすます機会に必ずやなることを請け合いたい。

Chip Wickham - ele-king

 昔からジャズの管楽や吹奏楽の世界では、フルートというのはサックスやトランペットに比べてマイナーな楽器であり、専門のプレイヤーも少ない。エリック・ドルフィーやジェイムズ・ムーディーのように、サックス奏者が第二楽器として演奏するケースが多く、フルート専門で有名なのはハービー・マンとかヒューバート・ロウズ、ジェレミー・スタイグあたりだろうか。それからユセフ・ラティーフ、ローランド・カーク、サヒブ・シハブのようにマルチ・リード奏者から名手が出ている。ヨーロッパに目を移せば、英国のハロルド・マクネア、イタリアのジノ・マリナッチ、スウェーデンのビョン・イーソン・リンド、ブルガリアのシメオン・シュトレーエフなど、個性的なプレイヤーが生まれている。クラシックの伝統があるヨーロッパであるから、フルートの演奏技術も高いと言えるし、また民族音楽やジプシー音楽などの要素を取り入れる際にも効果的な楽器である。でも、やはりマイナーな楽器ということに代わりはなく、今もフルート奏者がリーダーのアルバムは滅多にお目にかかることはない。本作はそんな珍しいフルートが主役のアルバムである。

 チップ・ウィッカムは本名をロジャー・ウィッカムといい、英国出身のミュージシャンである。テナー・サックス、バリトン・サックスなども演奏するマルチ・リード奏者だが、メインとする楽器はフルートである。1990年代半ばよりマンチェスターを拠点に演奏活動をおこない、ジンプスター、ジャージー・ストリート、レイ&クリスチャン、エイム、スクエア・ワンなど、主にクラブ・シーンのアーティストの作品に客演している。そうしたクラブ・ミュージックだけでなく、地元マンチェスターのマシュー・ハルソールのファースト・アルバムにも参加するなど、純粋なジャズ・ミュージシャンとしても活動。マンチェスターのジャズ・シーンでは、マシュー・ハルソールの〈ゴンドワナ・レコーズ〉からも作品を出すナット・バーチャルや、ゴー・ゴー・ペンギン結成前のロブ・ターナーたちとも共演している。他の共演者はファーサイドやロイ・エアーズなどから、ナイトメアズ・オン・ワックスにニュー・マスターサウンズと実に様々なタイプに渡り、それだけ音楽性の幅が広く、どんな演奏にも対応できる技術の高さがあるということだ。

 セッション・ミュージシャンとしての活動が主だったチップ・ウィッカムだが、2007年にマレーナというスペインのラテン・ハウス系プロジェクトに参加し、それを機にマドリッドへ移住している。マレーナではフルート演奏のみならず、プロダクション方面も手掛け、そこから発展してキッド・コスタ名義でリミックスなどもおこなうようになる。また、地元マドリッドのミュージシャンたちとファイアー・イーターズというジャズ・ファンク・バンドを組み、英国時代からの旧友であるエディ・ロバーツ(ニュー・マスターサウンズ)のバックを務め、アルバム・リリースもおこなっている。その頃のマドリッドではディープ・ファンクの人気が強く、自然とファイアー・イーターズのようなファンク寄りのサウンドへと傾倒し、自身の名義でも2010年前後に地元の〈ラヴモンク〉からレア・グルーヴやラテン・ファンクの7インチを出していた。

 そうした時期から5年ほど経過し、このたび自身名義では初となるソロ・アルバム『ラ・ソンブラ』をリリース。今回はディープ・ファンクやレア・グルーヴではなく、純粋なジャズ演奏に終始している。音楽シーンの移り変わりということもあるのだろうが、そもそもマシュー・ハルソールたちと演奏していたというジャズ・ミュージシャンとしてのチップ・ウィッカムの生い立ちを、素直に作品として残したかったという気持ちが強かったのではないだろうか。表題曲や“トーキョー・スロー・モー”、“プッシュド・トゥー・ファー”など、ベースにあるのは1960年代頃のモード・ジャズ。これらには幻想的で高貴なムードが漂っており、そうした作品にはやはりサックスなどよりもフルートの神秘的な音色がピッタリである。また、伴奏はピアノのほかにヴィブラフォンがあり、土着的でミステリアスな雰囲気を作り出すときには、フルートとヴィブラフォンのコンビネーションが最適だ。そのあたりの楽器の特性をチップ・ウィッカムはよく理解しており、そうしたプロデューサー・センスがよく表われた作品でもある。

 そして、長年クラブ・シーンで演奏しているだけあり、クラブ・ジャズとしても通用する作品も多い。“スリング・ショット”“レッド・プラネット”“ザ・デェトゥール”“ラ・ルイェンダ・デル・ティエンポ”がそれで、モーダルなテイストの変拍子や、ラテン・ジャズ的な演奏をおこなっている。ワルツ・テンポの“レッド・プラネット”は、ハロルド・マクネアのダンス・ジャズ古典である“ヒップスター”を彷彿とさせるところもある。恐らく意図的にそうした作曲や演奏をおこなっているのだろうが、クラブ・ジャズというものをいかにチップ・ウィッカムが理解しているかの証ではないだろうか。

Lawrence English - ele-king

 ローレンス・イングリッシュは、自身が主宰する〈ルーム40〉からヘキサ(ローレンス・イングリッシュとジェイミー・スチュワートのユニット)名義で『ファクトリー・フォトグラフス』というアルバムを2016年にリリースしている。これはデヴィッド・リンチの工場・廃墟写真集と音響作品を同梱した作品集で、もともとはリンチの展覧会で展示された写真作品のサウンドトラックであった。この『ファクトリー・フォトグラフス』のドローンは、リンチの写真イメージと同様に、インダストリーな廃墟感覚を醸し出しており、いかにもローレンス・イングリッシュ的な不定形なアンビエンスを称えた秀逸な音響作品である。

 不定形なアンビエンス。ローレンス・イングリッシュのドローンは、空気か雲のように、つまりは天候のように不定形だ。それは自然回帰などではなく、都市や文明空間のはざまに不意に表出するような不安定さや空虚さに似ている。いや、そもそも現代のアンビエント/ドローンとは、そういった「空虚さ」を、日々の生活や人生の中に導入する音楽とはいえないか。
 空虚であることの豊穣さ。この矛盾した言葉にこそドローン・リスニングの魅力があるように思える。だからこそリンチの工場・廃墟写真作品とイングリッシュらのサウンドは絶妙にマッチしたのだ。つまり、都市のなかにある空虚。ここに21世紀初頭を生きている「われわれ」の無意識に作用する文明観と音響感覚があるように思える。

 本年にリリースされたローレンス・イングリッシュの新作『クルーエル・オプティミズム』もまた同様の不定形なドローンの魅惑に満ちている。2014年にリリースされた『ウィルダネス・オブ・ミラーズ』は、ローレンス・イングリッシュの転換点ともいえるダーク・ドローン・アルバムだったが、この『クルーエル・オプティミズム』では、『ウィルダネス・オブ・ミラーズ』の方法論を継続しつつも、ゲスト参加したマッツ・グスタフソン 、クリス・アブラハムス(ザ・ネックス)、 トニー・バック(ザ・ネックス)、ノーマン・ウエストバーグ(スワンズ)、ソー・ハリス、ヴェァナー・ダフェルデッカーなど多彩なゲストとともに、現在の世界のムードを深遠に表現するようなアンビエント/ドローンを鳴らしている。それは不穏な世界への予兆のようでもあるし、不穏な世界を浮遊させる瞑想のようでもある。1曲め“ハード・レイン”冒頭、遠くの雷鳴のごとき衝撃音から、降り注ぐ雨のようなアンビエンスへの転換は、まさに荒れる気候、地球環境、世界状況を表象する音のようだ。
 さらに、本アルバムに収録されたトラックは、これまでのイングリッシュの、どの楽曲よりも明確なコンポジションを感じる仕上がりである。その頂点ともいえる楽曲が、6曲め“オブジェクト・オブ・プロジェクション”と7曲め“ネガティヴ・ドローン”であろう。持続音、環境音、ノイズ、それら「音楽」の痕跡が複雑に交錯し、ひとつ/複雑な音楽/音響を紡ぎ、構築しているのだ。まるでドローン・オーケストラのように。

 『ウィルダネス・オブ・ミラーズ』の制作時は「不安の雲が頭上にあった」と語るイングリッシュだが、数年の時を経て、彼は『クルーエル・オプティミズム』=「残酷な楽観主義」という名前のアルバムをリリースした。まるで残酷な楽観主義によって、不安の雲が世界を覆い尽くしたといわんばかりに。そう思うと、本作のアートワークや雨をモチーフにしたサウンドの意味も分かってくる(ちなみに「残酷な楽観主義」とは、アメリカの理論家=シカゴ大学教授ローレン・バラントの書名から取られたもの)。
 「不安定な天候」のように世界を覆う「残酷な楽観主義」。この必然としての合衆国の大統領選挙問題、難民問題、中東の戦争、UKのEU離脱、ジェンダー、人種差別など、21世紀初頭により表面化する深刻な世界情勢・問題。不穏。不安。本作のドローンは、そのような不安・不穏の世界に生きるわれわれの無意識にアジャストするメディテーションとして鳴らされているように思えてならない。

 結果的に、ここ数年でもっともショッキングなアカデミー賞授賞式になってしまった。自分もリアルタイムの放送を観ていたのだが、作品賞が『ラ・ラ・ランド』だと発表されて「今年もアカデミー賞は驚くようなことはなかったなー」と横になろうとしたら「間違いです。作品賞は『ムーンライト』です」との騒ぎに飛び起きてしまった。だが、まるでコントのような顛末以上に本当に驚くべきことは、貧しい黒人ゲイ少年を主役に据えた低予算の作品を、その古い体質を批判され続けるアカデミー賞が選んだことだろう。昨年の「白すぎるオスカー」から急旋回し、ビヨンセではなくアデルを選んだグラミー賞との差を見せつけた格好だ。昨年アメリカのエンターテイメント産業がもっとも評価した作品は、ビヨンセ『レモネード』でありフランク・オーシャン『ブロンド』でありそして『ムーンライト』であることはすでに確定していたが、それにしてもあのアカデミー賞までもが……。
 大本命と言われた『ラ・ラ・ランド』は、非常によくできたカラフルなミュージカル映画として多くの観客を楽しませたいっぽうで、「やはり白すぎる」という声も一部で上がっていた。曰く、ジャズを描いてるわりに黒人が白人カップルの背景として扱われている、というわけだ。もちろんそれに対する言いがかりだとか、行きすぎたポリティカル・コレクトネスだという反論もあったが、それでも客観的に見ると『ラ・ラ・ランド』は何だかんだ言って白人のおじさんが多くを占めるアカデミー会員には安全だろうなと想像できるものではある。僕自身、個人としては『ラ・ラ・ランド』よりも『ムーンライト』のほうをはるかに支持すると言いながら、後者がアカデミー賞の作品賞を獲ることなど絶対にないだろうと思っていた。だから、『ムーンライト』が大方の予想を裏切って作品賞に選ばれたのは、旧態然とした組織までもを動かす時代の要請があったのだろうと思わざるを得ない。

 ただ逆に言うと、それ以外に今年のアカデミー賞に驚きはあっただろうか? 自分にはどうもそうは思えない。司会のジミー・キンメルがトランプをからかうジョークを言えば言うほど気持ちが冷めていった。「リベラルも保守も関係ない」とキンメルはたしかに同じ口で言ったが、スターやセレブがゴージャスな格好をしてお互いの政治的立場を確認し合う仲良し会のように見えてしまう場面が多々あった。昨年の賞では、ノミネートに関わらずいかにハリウッドが業界全体でマイノリティを無視してきたかが浮き彫りになっていたわけだが、今年のノミネートのラインアップは一見様々な人種や階層の人間を描いた作品にスポットが当たっているように見える。それは多様性という観点では有効だし、たしかな前進と判断することもできるだろう。が、今年のアカデミー賞が決定的にオミットしていたものがある――それはクリント・イーストウッドだ。
 年末の紙ele-kingの年間ベストにイーストウッドの『ハドソン川の奇跡』を選んだのは、一般的には共和党支持者として知られる彼のその作品のなかで、政治的分断をも無効にする危機が取り上げられていたからである。それは、アメリカという国が直面する倫理的問題を見つめ続けてきた監督だからこそできる現状認識だろう。『ハドソン川の奇跡』が作品としてアカデミー賞にふさわしいかどうかはここで判断することは(アカデミー賞会員でもなくアメリカ人でもない自分には)できないが、しかし、それにしても彼の存在がかなり意図的に排除されているように見えてしまう場面があったのだ。それは、メリル・ストリープの過去の演技を讃える際に流された『マディソン郡の橋』の映像で、そこでは共演のイーストウッドの後ろ姿が数度映されるのみであった。映画監督としてはハリウッドに尊敬される存在であるから余計にややこしいが、政治的にはともかくこの場にふさわしくないとされる判断があったのではないかと邪推せずにはいられなかった。
 いっぽうでそのメリル・ストリープは大喝采である。ゴールデン・グローブ賞のスピーチでトランプを批判し、そしてそのことでトランプから攻撃されたことは彼女の「勲章」となった。キンメルが「過大評価された女優」とトランプの発言を引用してジョークを言うと、会場はスタンディング・オベーションで拍手を送る。それはしかし、業界の内輪のノリではないのか? 視聴率は今年も芳しくなかったそうだが、もちろん、トランプに投票した人びとのほとんどは大女優が讃えられるその映像を見ることもなかっただろう。だが『ハドソン川の奇跡』は、そうした人びとに向けても開かれた映画であったように自分には思えてならないのだ。

 7カ国からの入国を禁止する大統領令への反発として出席をボイコットしたイラン人監督、アスガー・ファルハディのスピーチには切実なものがあったと思う。問題はそうではなく、本人が望もうが望むまいが特権的な立場にいるスターたちが何にトライするか、だ。その点、『それでも夜は明ける』や『ムーンライト』に出資したブラッド・ピットは出席していなかったのか映像には映っていなかったと思うが、着飾って壇上で立派なスピーチをするよりも実践的だと言える。アンチ・トランプをセレモニーで叫ぶような単純な振る舞いではなく、いま起きていることを表現のなかに見つけたい。ショウが政治的になり過ぎるがゆえに、あるいは政治がショウとして消費されるがゆえに、作品本来の価値がそれに左右されることは避けられてしかるべきだ。

 だから、どうか、『ムーンライト』が「本命の『ラ・ラ・ランド』を抑えて政治的配慮からアカデミー賞に選ばれた作品」として残らないでほしい。『ハドソン川の奇跡』がそうであるように、賞の結果などに関係なく観られる価値のある映画だからだ。ここまで書いてきて何だが、本質的には賞などどうでもいいのである。
 『ムーンライト』はマイアミの貧しい家庭で……麻薬中毒の母親のもとで育った黒人少年が、父親代わりのドラッグ・ディーラーと交流し、やがて男に惹かれる様を叙情的に描いた作品だ。まるきりフランク・オーシャンの『チャンネル・オレンジ』であり、つまり、「わたしはゲイである」という社会的な表明ではなく、そのはるか前の段階としての恋の純粋な痛みを封じこめている。それこそがいままで見落とされてきた生から弱々しくも立ち上がるエモーションであり、その美しさに少なくないひとが気づき始めてきた時代の記憶としてそこに残されるだろう。

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