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今年のアカデミー賞のステージに、クリス・ロックは白いタキシードを着て現れた。#OscarSoWhite――「白すぎるオスカー」は何もいまに始まった話ではない。少なくとも去年も話題になったが、今年騒ぎになったのはやはり2015年がはっきりと政治の年だったからだろう。クリス・ロックが司会者に選ばれた時点でそれはスーパーボウルのビヨンセやグラミー賞のケンドリック・ラマーから続くパフォーマンスだったと言えるし、ボイコットも続くなかアカデミー賞側も何かしなければ格好がつかなかったわけだ。が、その「何か」はなかなか見応えがあった。クリス・ロックがあっさりと「司会もノミネート制だったら僕は選ばれなかったね」と言ってポリティカル・コレクトネスを皮肉ったように、ガチガチに正しいことからは外れようとする態度があったのだ。授賞式の間では人種ネタ――ほとんどはブラック関係だった――のジョークがしつこく挟まれ、そこに集まった白人のスターたちの表情を固くさせていた。「今年の追悼映像は、映画館に行く途中で警官に殺された黒人を集めた」というジョークなどはたしかに重いものがあったし……。あるいは、「黄色くて小さいひとはノミネートされてないよね? ……ミニオンズのことだよ」と言ったサシャ・バロン・コーエンもなかなかに光っていた。
いまドナルド・トランプのようなひとが面白がられているのは、強固になっていくPCに対する反発だという見方もある。たしかにアメリカン・カルチャーからきわどいジョークが減ったなというのは僕も感じていたところで、そういう意味ではレオナルド・ディカプリオが環境問題について語ったり、サム・スミスがLGBTライツについて訴えたり、あるいはレディ・ガガがレイプの被害者たちを連れてステージに立ったりしたことは、非常に2016年的な振る舞いに見えた。何か社会正義を訴えなければならない空気がアメリカのポップ・カルチャーにはいまあるのだろう。だからこそ、社会的意識を持ったままそのような堅苦しさからどのように脱却するのか、が課題であるように感じられるのである。
そうした観点からすると、誰もが認める大物黒人俳優であるモーガン・フリーマンがプレゼンターとして作品賞を『スポットライト 世紀のスクープ』に渡したのは象徴的な一幕だった。同作は膨大な人数のカトリック神父が児童に性的虐待を行っていたことを暴いたジャーナリスト・チームを描いたものであり、とても正しく、骨太で、リベラルな政治的主張があり、そしてとても白い映画である。マッカーシー監督の代表作『扉をたたく人』(07)のように義憤があり、真面目な作品だ。個人的にどの作品を評価するかを別とすれば、本作が今年のアカデミー賞作品賞を獲得したのは妥当なところだと思う。
ただ、では『スポットライト』が退屈な作品かと言えばそうではないのが、アメリカのエンターテインメント産業の足腰の強さなのだろう。品行方正すぎるという向きもあるだろうが、それでも社会派エンターテインメントとしての完成度は非常に高く、ひとつの極としてこうしたものが絶対にあったほうがいいと思わされる。とくに被害者の感情に捕まり過ぎることなく、現場で明らかになっていくこと自体をエンジンとしてドライヴしていく様はなかなかにスリリングだ。何よりも「メディアは何を報道するべきか?」というごく真っ当な問いがある。ボストン・グローブ誌のコラム<スポットライト>チームはある種のふるき良きジャーナリズムとして描かれており、全員がヒーローのように映される。俳優陣が渋めなのもいい(しかも一番いい役がリーヴ・シュレイヴァーという地味さ)。そもそも冒頭の場面が1976年から始まる時点で、ロバート・レッドフォード『大統領の陰謀』との繋がりを強調したかったのだろう。
来年アカデミー賞はどうなるのだろう? わざとらしい配慮がされたノミネートになったら、それこそ炎上するのではないか? ボストン・グローブのジャーナリストたち、ひいては『スポットライト』が暴いたのは一部の悪人の行いではなくて、組織的な腐敗そのものだった。#OscarSoWhiteにおいても同じように、ポップ・カルチャー産業の構造自体が歪なものであることがあらためて浮き彫りにされたわけであって、多様なカルチャーに根差した作品が作られていくことこそがこれから求められていくことだろう。授賞式はたんなるお祭に過ぎないのである。
大統領選を見ていても思うが、政治がポップ・カルチャーのなかに否応なく食いこんでくるアメリカという国には呆れつつも感心してしまう。アカデミー賞の最後、『スポットライト』チームが授賞に喜ぶなか出てきたクリス・ロックが最後にあのにやけた顔で放った言葉はもちろん、「Black lives matter!」だった。
予告編
木津毅