「Noton」と一致するもの

Blue Hawaii - ele-king

 グライムスを生んだカナダのD.I.Yなアート・スペース〈アルバタス〉から、ブルー・ハワイのセカンド・アルバムが届けられた。彼らの名は2010年のデビュー作(『ブルーミング・サマー』)において、当時ピークを迎えつつあったチルウェイヴの一端として知った方も多いのではないだろうか。2013年を迎えるいま、その多くは次の方向を模索しながら、あるいはアンビエントへ、あるいはハウスへ、R&Bへ等々とさまざまに拡散する状況を迎えているが、たとえばトロ・イ・モワハウ・トゥ・ドレス・ウェル、そしていくつかのレーベルがそうであるように、より自らのアイデンティティを深く彫り出しながらテクニックの洗練を目指すものが多いことは間違いない。

 ブルー・ハワイもまたその例外ではない。彼らの場合は、〈4AD〉的な幽玄、スタンデルプレストンのアシッディなヴォーカルに焦点が絞られつつある印象だ。エレクトロニックなアシッド・フォークと言ってしまってよいかもしれない。"デイジー"のようにミニマルなビートを追求したダンス・トラックもあるが、リンダ・パーハックスのポスト・チルウェイヴ版といった趣もある。要するに、歌もの志向を強めたエレクトロニックなサイケ・アルバムに仕上がっており、迷いないディレクションがなされていると感じる良盤だ。

 さて、ブルー・ハワイは男女デュオであるが、今作『アントゥゲザー』のジャケット写真には多少驚かされる。いや、これが映画DVDのアートワークならば驚くには当たらず、「何か恋人たちの物語なのだろう」で終了なのだが、アー写から判断するにこれは本人たち自身なのである(ですよね?)。加工が施されているとはいえ、モデルではなく自身らが抱き合うフォトグラフを用いるのは、それなりに勇気を必要とすることではないだろうか。しかもトリオ以上の編成におけるふたりならともかく、デュオ中のふたりという他者性を容れない関係性や、視点が相互の間で完結する抱擁のコンポジションが意味するところは、本作が愛をめぐるコンセプチュアルなアルバムであるか、彼らがとにかく愛しあっているか、しかない。そこで急に男女デュオという編成が気になりはじめる。

 インディ・シーンにおいて男女や夫婦のユニットは多く見かけるが、ピーキング・ライツやハラランビデスのようにドープなフィーリングを持った夫婦デュオの一方には、ピュリティ・リングやハウシーズのようにペアかどうか曖昧な、そのあたりみずみずしい微妙さを残した年若いアーティストたちもいる。男女デュオがパートナー同士であることは、そうでない場合とはやはり異なってくるのではないだろうか。男女ペアで過度な接触を生みながら行われるアイス・ダンスなどを見ていると、競技者同士がつきあっている場合、互いをプライヴェートに知るからこそ生まれる表現やアドバンテージがあったりするのではないかという気がしてくる。デイデラスとそのパートナー、ローラ・ダーリントンによるユニット、ザ・ロング・ロストなどは、非常にインティメットで睦まじいムードのドリーム・ポップ作品をリリースしている。彼らのアルバムほどラブラブであることが全面化されていて、かつそれがストレートに音を研磨している作品は珍しいが、ブルー・ハワイの今作には、色合いは違えどそれに近いものを感じる。

 と思っていたら、国内盤のライナーにふたりがカップルであることが明記されていたので膝を打った。しかも、トラックメイカーであるアレックス・アゴー・コワン(男性側)が、ラファエル・スタンデルプレストンに片思いをしていたという顛末まであえて明記されているから素晴らしい。ナイスな解説だ。このことは、ゴシップであるようでいてじつは本質的なトピックなのだ。スタンデルプレストンのヴォーカルをいかにコワンのトラックがサポートし、彼女が光となるように注意を払っているか、そのことを裏付けるようなエピソードである。もともとブレイズのヴォーカルとしても知られる存在だが、キャリアの有無を超えて、コワンの音やビートメイクには彼女への憧れや優しさのようなものがにじんでいる。自らは影として、歌がより自由に、より遠くまで届くためにふるまうときに最大値を示す、というような......。トラックメイカーのエゴは相応には必要なものだが、サポートするという非エゴイスティックな行為に全エゴが振り向けられるというあり方は、やはりカップルならではの持ち味ではないかと思う。前作よりもエディット感が出ていて、ベース・ミュージックからの影響もスマートに消化され、かなりテクニカルなものではあるのだが、この「出すぎない美」の正体はなるほど相手への想いであったかと納得した。

 そのわりにタイトルが『アントゥゲザー』、詞がいやに暗鬱な調子を帯びているところもなかなか好みだ。さまざまに拒絶と保留の態度を描写し、「刑務所の愛」とまで形容しながら、「わたしはもっとあなたを愛しに来た」と結ぶなんというヤンデレ。グライムスが天を舞う小悪魔だとすれば、スタンデルプレストンは地を這う天使というところだろうか。「アン」をつけることでしか「トゥゲザー」を表現できない彼女の詞は、彼女のヴォーカルのなかにほんとうによく表現されている。

Autechre - ele-king

 さすがにこの新作でオウテカにはじめて出会うというひとは少ないとは思う。だが、『エクサイ』はすべてのリスナーに、はじめて彼らの音と出会ったときのことを思い出させるだろう。

 僕の場合、リアルタイムでの出会いが01年の『コンフィールド』であり、ただ面食らった、そんな印象を覚えている。決定的だったのは翌年の『ガンツ・グラフ』で、そこで奔放に暴れまわる金属音の生み出す躍動を「ファンク」と呼ぶのなら、サウンドの実験は何かしかめ面のものではない、決まった枠組みからはみ出そうとする獰猛な力のためにこそあるのだと......気づかされ、そして勇気づけられた気分だった。
 もちろんその後の作品も順に追ってはいたのだが、僕が惹かれたのはむしろ、遡って聴いていった過去の作品群であった。『LP5』から『キアスティック・スライド』へ、『トライ・レペテー』から『アンバー』へ、そして『インキュナブラ』......そこにあった(そしてゼロ年代にはあまりなかった)アンビエンスや美が、オウテカの進歩への欲求によって姿を変えていった道程が逆算的に浮かび上がるようでスリリングだったし、何よりも時間を忘れて聴覚をすべて預けたくなるような快感がたまらなかった。そして、彼らが影響を公言するマントロニクスにも、その後ようやく出会うこととなった。
 当たり前の話だが、音の歴史はリスナーに対して不平等である。オウテカのように20年のキャリアを通してつねに前に進み続けてきたようなアーティストとは、いつ、どこで出会うかによって聴こえ方が変わってくることも大いにあるだろう。だが、それが少し覆されたように思えたのが前作『オーヴァーステップス』で、そこでは初期の彼らの美しい和音やメロディ、アンビエンスが、オウテカが長い時間をかけて歩んできた音を踏まえた上で合流しているように聞こえた。それまでの数作では頭ひとつ出た出来だったといまも感じるし、そこには何か、時間の蓄積がオウテカという究極の進歩主義者にも及ぼすものがあったのではないか......と勘ぐってみたくもなった。

 『エクサイ』は2枚組の2時間を超える超大作で、結果として、ここではリスナーにかなり平等に近い立場がはじめて与えられているのではないだろうか。ここには初期を思わせる美しいメロディがあり、あるいはアシッド・ハウスめいたトリップ感があり、インダストリアルなランダム・ビートがあり、エレクトロへの忠誠がある。図式的に大作イコール集大成、と言いたいわけではない。それらオウテカを象ってきた要素たちが順列組み合わせではなく接続されミックスされ、実に複雑な混合体として生み出されている。1枚目の2曲目"irlite(get 0)"に端的に表れているが、10分に及ぶ組曲めいた構成のなかでインダストリアルとアンビエントとノイズとファンクが重なり合いすれ違い、混淆する。それはまるで、時系列を無視してオウテカのディスコグラフィを行き来するかのような、そしてオウテカの持つ多面性と複雑さをさらに推し進めた形で味わうような体験だ。明言できる統一されたムードはない。BPMもムードも音色もバラバラ、非常に振れ幅の広いアルバムだ。比較的1枚目は曲ごとのカラーがはっきりとしているが、不穏なダウンテンポ・エレクトロ "bladelores"における余韻たっぷりの長音で1枚目が幕を閉じても、『エクサイ』は終わらない。そこから2枚目へと突入し、さらなるオウテカの深淵へと入り込んでいく。かなり進んだところで出くわす、通して13曲目の"spl9"などは『ガンツ・グラフ』を容赦なく鋭利にしたようなメタリックかつカオティックなファンクで、長旅を気楽に楽しむことなど出来やしない。
 さらに言えば『エクサイ』は、オウテカの歴史だけに留まる作品ではない。"T ess xi"のスペイシーな電子音にはデトロイト・テクノが遠景に見えるようだし、"jatevee C"にはたしかにかつてのレイヴのようなアシッディな感覚がある。もちろん、オールドスクールのエレクトロはもはや切り離せないほど深く根を張っている。新しい音好きのB-Boyだった彼らの出自の、その過去まで時空はワープする。いったい何度聴けば全貌を掴めるのだろうか。オウテカが交錯させてきた聴覚体験の道のり、その記憶と出会い直し続けるような濃密さがここにはある。

 けっして気楽に聴けるアルバムではないし、オウテカで2枚組という時点で尻込みしてしまう人間も少ないないだろう。けれども、これはアーティストがエゴによって理性を失った結果の作品ではない。2枚組にした理由を訊けば、ロブ・ブラウンははっきりとこう答えてくれた。「今の時代、どの音楽も短いものばかりだ。それとは対極にあるものを作った」
 その意味では、頑固なショーン・ブースとロブ・ブラウンのふたりはその精神性においてまったく変わっていない。『エクサイ』は、リスナーの音への探究心を挑発し、そして信頼してきた彼らの20年の結実である。険しい道のりを経てようやくたどり着く(ボーナス・トラックを除く)ラスト・トラックの"YJY UX"がはじまった瞬間の慄然とするほど美しさは『LP5』の幕を閉じる名曲"Drane2"を想起させ、しかしそこにノイズとファットなビートが合流することで、わたしたちがまだ知らない領域へと連れて行ってくれる。『エクサイ』は、消費主義を徹底的に拒絶する大がかりなトリップだ。膨大な過去が2時間のなかで行き交い、そしてオウテカは、さらなる音の冒険を進めることを迷わない。

 先日僕は、テレビの前で、録画放送でACミランとバルセロナの試合を複雑な思いで見ていた。試合は、ACミランが、いかにもイタリアらしいカテナッチオで、とにかくひたすら守って守って、そして相手のミスから幸運な1点(明らかにミランの選手のハンドだった)、後半にもショート・カウンターでもう1点追加と、UEFAチャンピンズ・リーグのベスト16のファーストレグをモノにした。試合中には、ベルルスコーニ名誉会長と現チーム・オーナーであるその娘の姿も映し出された。
 試合自体はそれなりに見応えのあるものだったが、ACミランへの投資がベルルスコーニの支持率アップに繋がったと聞けば、いっぽうでは醒めた自分がいたのもたしかだ。別に僕はバルセロのファンではないが、このときばかりは応援した。イギリスの有名な言葉で、「女房は変えられても好きなチームは変えられない」というのがあるが、これはもう、理屈で考えれば、洒落にもならないのだろう。が、しかし......、もし自分がミラニスタだったら、どうだったろう。かのアントニオ・ネグリでさえ、それがわかっていながらミラニスタであることを止めなかったのだから......(彼はその政治的矛盾を受け入れたのである)。

 311は、我々をずいぶんと慎重にさせた。僕は、かねてから自分をノンポリだと自覚していたものだが(自分ごときが政治的だとは言えない)、結局のところ、納税者として暮らし、現代の消費社会を生きているということが、実は否応なしに政治的な行為であるということを思い知っている。こと大企業の商品を買うとき(ないしは銀行への預金など)には気をつけたほうがいい。自分ががんばって働いて稼いだ金が、人殺しの道具開発のために使われているなんてことは珍しいことではないのだ。
 逆に言えば、世界を変えることは日常的な行為を慎重すれば可能だとも言える。マティルド・セレルの『コンバ』は、そうした日々の政治的なおこないに関する最新の金言集だと言っていい。

 マティルド・セレルは、パリのラジオ・ノヴァで朝の10時に番組を持っている女性だというが、ラジオ・ノヴァといえば、『リベラシオン』紙の系譜であり、我々音楽ファンには、フランスで最初にハウス・ミュージックを紹介して、そしてまだ若いロラン・ガルニエにチャンスを与えたラジオ局として知られている。
 それにしても、朝の10時から、ラジオで、シャンゼリゼ通りの広告への落書きや職場での昼寝、バイコット(不買)運動を賞揚し、昨晩の吸い残し大麻の寄付を勧めたかと思えば、どの企業が真面目に環境問題に取り組んでいるのかのランキングを発表するフランスという国は......コンピュータからメディアの常套句の削除の呼びかけ、家庭平和のための職場での罵り合いの奨励、反抗を表明するキーボードの打ち方まで、彼女は短い文章で簡潔に小気味よく、愉快な反抗のアイデアを話しかける。ラジカルなことを言っていても、洒落が効いているので、政治アレルギーの人も楽しめるだろう。
 テヘランのイスラム教導師カゼム・セディーギの「薄着を来た女性のために男を道を踏み外し、地震を引き起こす」という声明に抵抗するためにアメリカの女性生物学者が呼びかけた実験──敢えてみんなでセクシーな服装をする呼びかけ運動の紹介、あるいは女性のマスターベーションについて、あるいはマグロの漁獲高の数値とその繁殖力を比較しての「分別あるスシの食べ方」、路上のパーキングスペースに金を払って自由に私有化する話、同性愛カップルのキスの仕方などなど......本書は、今日的な問題提起を──環境問題、フェミニズム、そして新自由主義とゲイ問題──、洒落た言葉で解説して、それらに抗する実践の方法を紹介していく。僕が気に入った話のひとつは......というか、自分で実践しているのは、エスカレーターの話。あんなものに電力を使い、健康を気にするくらいなら、5~6階の階段は歩いたほうが良いに決まっている。

 訳者の鈴木孝弥は、信頼できるレゲエ評論家のひとりとして知られているが、彼はまた、デモ隊で打楽器を鳴らし、あるいはまた都内で暮らしながらラジオ・ノヴァを愛聴している珍しい人である。彼は、フランス語の言葉遊びの激しいこのエッセイ集に詳細な注釈を付けているが、なにげにそのなかに自分の意見まで入れてしまうところもフランスらしい。世界を見渡したとき、とにかく働かない国民はフランス人、次にカナダ人だそうだが、カナダには多くのフランス人が移住しているので、結局、「働かない遺伝子」の根源はここ、市民革命を実現した国の首都にあるのだろう。
 だいたい、シャンゼリゼ通りの広告板に落書きして、それが裁判所で「表現の自由」として犯罪にならなかったというのは、なんともフランスらしい良いエピソードだ......が、しかし、これを「フランスらしい」で終わらせるにはあまりにも面白い話なので、鈴木孝弥もがんばって日本語に変換したのだろう。たしかにこの本、面白いわ。笑った。笑いは健康に良い。

Fragment - ele-king

 昨年は、キャリア10年にして初のインストゥルメンタル・アルバムをリリースしたフラグメントによる6作目。ブレイクビーツを軸にヒップホップとエレクトロニカを繋ぐ「架け橋」になろうとしているアルバムだろう......か。それは雑多な傾向のミュージシャンを一同に集めたササクレ・フェスティヴァルにも通じている。そして、ササクレ・フェスティヴァルが彼らの趣旨をもうひとつ誰にでも理解できるようなコンテキストに落としこめたとはいえないように、このアルバムもどのような価値観でジャンルを横断しようとしているのか、直観的に把握できるコンテキストは見えてこない。フラグメントというユニット名が示す通り、どこか「断片的」なのである。

 いいところはたくさんある。しかし、なかなか腑に落ちなかったので、この1ヵ月、何度か聴き返しているうちに、ふと逆から聴いてみることを思いついた。そして、「あッ」と思うほどアルバムの表情が変わってしまったのである(すでに持っているという人は一度、お試しあれ)。厳密にいうと、M12、M11、M10、M9、M8、M5、M7,M6、M4、M3、M2、M1の順かな(似たようなことは、過去にパフィのアルバムを聴いていた時にもあった。逆から聴いたら、言いたいことが急にはっきりしたような気がしたのである。フィッシュマンズ『空中キャンプ』でも最初と最後はそのままにして、ほかの曲順をいじくってみるとかなり発見があります。とくに"ベイビー・ブルー"を最後から2曲目に置くととんでもないですから!)。

 ひと言でいえば、フラグメントの考えた構成は内省的な面を隠すような曲順になっている。逆から聴くと、それが剥き出しになる。たまたま、僕も5月にリリースされるホワイ・シープ?『リアル・タイムス』の曲順を考えるはめになり、同じ問題にぶつかっていたので、ここはよくわかるところなんだけれど、少しでも東北大震災や福島原発に触れる部分がある場合、それとは相反する部分から誘っていって、そこに導こうとするよりも、現状はすでに内省や後悔に満たされているんだから、そこから入って違う世界へと導いた方が、自分たちがどう考えているかということが伝わるのではないかと思うのである。『感覚として。+ササクレ』には福島に住む狐火が福島の日常を淡々とラップしている曲があり、これが良くも悪くも重みがあり、それまでの流れを一変させてしまう。現在の曲順では、そうなると、それまでの曲がなかったことのようになってしまう。悪くすると、それまでの陽気さに反省さえ促しているとも受け取れない。

 最初にキャッチーな曲を置くという強迫観念があるのではないかと思う。これは、なにもフラグメントに限ったことではない。リスナーに対する期待値が低くなるのは仕方がないと思える音楽産業の低迷ぶりではあるし、サーヴィスがそれ以上の意味を持ってしまった現状では、ごく当たり前のことがリスクに思えてくるのだろう。しかし、最後のところでリスナーを信じなければ音楽をつくっている意味がどこかに行ってしまうんじゃないだろうか。その通り、僕は少しフラグメントを見失いかけた。それが言いすぎならば、新作で何を伝えたいのか、すぐにはわからなかった。そして、リリースから1ヶ月が経っていた。

 逆から聴いてみる。

 とても優しい雰囲気ではじまる。落ち着いて暖かい気持ちになれる。このまま1時間ぐらい続いてもいいと思っていたのに、急にドアの閉まる音。前の曲の余韻を受けて少しばかり身を引き締めるビート・ナンバーへ。気分が大きく変わることはない。物悲しさが増し、それを待っていたかのように新人の泉まくらをフィーチャーしたM10"このきもち"へ続く。ドアを開けて、しばらく歩いていたら、泉まくらに出会ったような感じ。その日、初めて会った人がこの人でよかったというか。そのことを反芻しているようなインスト曲に続いて、2人目が狐火。いつもなら、どこかでムダな抵抗をわめいているようにしか聴こえない狐火のフロウは、福島の日常を淡々と語ることで、それまではみ出していた部分が整理されたように聴こえ、不思議なほど静かなものに感じられる。冒頭で感じられた優しさがとても残酷なものを内包していたようにも思えてくる。2曲とばしてM5"Individuality?"へ。知らず知らずのうちにのしかかっていた重さから逃れるために、無理のない気分転換を試み、この曲ならそれが可能になる。余韻を打ち消してしまうわけではない。この微妙なニュアンスからM7"Rat Race"へ戻り、まったく意味のないSEをしばらく受け止め損ねていると、なにもかもをひっくり返すようなM6"調整"へ。躍動感に満ちたMacka-chinのラップはすべてを台無しにするほどは振り切れず、むしろデリカシーが狐火との連続性を保障してくれる(でも、少し、暴力的に感じられる人もいるかもしれない)。M4"Sharpens Pendulum"でスラップスティックに笑い転げ、M3"香車"で疾走モード、さらにM2"豚の頭"と、調子にのって飛ばすだけである。難しいのはM1"Rebel Rhythm"の置きどころ。フラグメントらしい曲なので、もったいないけど、外してしまうのも可かな。でも、それじゃ物足りないか......。

 久しぶりに原稿を書いたらレヴューにならなかった。「静かな生活から騒がしい場所へ出てきて、ツラい話でも人の話を聞いたことで、むしろその次に進むことができた」という構成案です。ということは、現在の曲順で聴くと、その逆の展開になるということです。大騒ぎしてたら、やがて、いたたまれなくなって、ひとりで......(すいません)。

 「ローマ教皇がやめるんだってさ」とわたしが言うと、
 「そら、よっぽどヤバイことが明るみに出るんだろうな。これから」と連合いは言った。
 先週、アイリッシュ系のご家庭では、わりとこういう会話が交わされたのではないだろうか。

 「聞いた? 教皇のニュース」とわたしが言うと、
 「まるで『Father Ted』のネタみたいだよね。リタイアした教皇が、プールサイドに寝そべって、ビキニ姿の女の子たちを回りにはべらせてたりしそう、あの番組だったら」
と、あるダブリン出身の女性は言った。
 『Father Ted』というのは、英国C4が誇るカルト・コメディであり、アイルランドに住むカトリック聖職者たちの日常を辛らつにおちょくったシットコムだ。90年代に制作された番組だが、実に先鋭的で、あれを見ていると、あの国の聖職者たちはみなアイリッシュ・マフィアのようである。

 その内容があまりに過激なため、当初アイルランドでは放送されなかったが、「おもしろい」という噂が海外から入ってくるにつれ、衛星のパラボラアンテナで受信して見る人が増え、済し崩し的にアイルランドでも放映がはじまったという経緯があった。
 80年代には、「完璧な人間などいないからね。司教様を除けば」というようなことを一般市民が普通に言っていた国である。その国の人びとが、「ドリンク! ガールズ! ファック!」と年がら年中叫んでいるアル中の神父や、カリフォルニアにセクシーな愛人と子供を囲っている司教を見てげらげら笑う時代になったというのだから、わずか10年やそこらであの国で起きた価値観の転換には劇的なものがある。

 とは言え、アイルランド系のミュージシャンたちは、昔から教会の荒廃ぶりについて告発してきた。
 ロンドンのカトリック校で修道女たちに折檻された悲惨な経験を繰り返し語ってきたのがジョン・ライドン(『Father Ted』では、ジャック神父が若い頃にこうした学校で猛威をふるい、教え子のなかからシリアルキラーを出したという設定になっている)なら、カトリック系感化院で聖職者に虐待されたというシネイド・オコナーは、ステージで教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破ったことがある。「教皇ベネディクト16世の最大の功績は辞任すること。これから、最悪の教会の恥部が明らかになるから」と、シネイドは最近『ガーディアン』紙に語っている。
 とはいえ、教皇退任やカソリック教会のスキャンダルはアイルランド系限定の問題なのかというとそうではない。実は英国でも最近、英国国教会の信徒数をカトリック教会の信徒数が上回るといった逆転状況が起きている。これは英国人がカトリックに改宗しているというわけではなく、ポーランド人などの移民が増えたからだ。うちの息子も公立のカトリック校に通っているが、彼の級友なども、アイリッシュ、アフリカン、ポーリッシュなど、実にインターナショナルである。この国のカトリック人口を押し上げているのは、移民とその子供たちなのだと実感できる。

        *********

 過日、某アナキスト団体で活躍しているインテリ・ヒッピー系の英国人女性とスーパーマーケットで数年ぶりに会った。とても普通の学校には通ってなさそうなドレッドヘアの娘の手を引いている彼女は、制服の白シャツにネクタイを締めているうちの息子を見て、言った。
 「Kは、カトリックの小学校に行ってるんだよね?」
 「うん」
 「いいわねえ」
 へっ? 天下のアナキストが、カトリック校を羨ましがるわけ? と拍子抜けしていると、彼女は言う。
 「うちは結局、ホーム・エデュケーションよ。行かせたい学校には入れなくて。厳格に躾けてくれるカトリックの学校に行かせたかったんだけど」

 彼女の見解は、近年、この国の人びとのコンセンサスになっているとも言える。
 たとえ生徒に罵声を浴びせられようとも殴られようとも、ただ微笑んで耐えるしかない教員たちにとり、「何よりも子供の人権優先」のリベラルな学校現場は地獄のような職場になっているとも聞く。そんな学校教育が生み出したのが、2年前のロンドン暴動で暴れていた野獣のような子供たちだ。というようなマスコミの見方が浸透するにつれ、「一般の学校より厳格」と言われるカトリック校の人気が上昇しており、子供をカトリック校に通わせるために改宗する家庭もあるらしい(在英日本人ですら、そういうご家庭があるようだ)。
 しかし、聖職者による子供たちへの性的虐待が一大スキャンダルになったカトリックの学校が、いまなぜかペアレンツたちのあいだで大人気。というのも、考えてみればアナキーな話だ。
 と、アナキスト女性が抱えたショッピング・バスケットのなかに、毒々しい色のパッケージのチョコレートやポテトチップスが入っているのが見えた。あれ? と思う。彼女の子供が赤ん坊だった時分は、娘をスリングで胸元にさげて、アナキスト団体の無農薬菜園でせっせと働いていた人だったように記憶している。
 徹底抗戦。はもうやめたのだろうか。
 「この子を学校に通わせられたら、自分の時間ができて、もっと活動もできるんだろうけど、ホーム・エデュケーションだからそうも行かない」
疲れた顔つきで彼女はそう言い、「バーイ」と手を振って買い物を続けた。
 徹底抗戦。には暇もいるんだろう、と思った。
 が、レリジョンやポリティクスといった分野の権威が悉く『Father Ted』化して溶解している時代に、アナキストを自称する人びとは、いったい何と戦おうというのだろう。突き崩さなくともいろんなものがガラガラ崩れ落ちている、現実が一番アナキーな時代に、アナキストでいるというのもけっこう大変そうである。

 仕事帰りや学校帰りの人びとに混じり、バスケットに食品を詰め続けるアナキスト母子の姿はわりと普通の消費者に見えた。
 彼女はきっと、自分のバスケットに入っている食品のすべてが有害だと思っている。思っていながら、食らうために有害物を籠に入れ続ける。それは、アナキックではないが、アイロニックだ。抗戦ではないが、生きる。ということだ。
 「でも、ヒッピーの女の子って可愛い子が多いよね」
 と、にやにやしている息子の手を引いて、わたしもショッピングを続けた。
 夕方のスーパーマーケットは、まるで禊でも受けるような陰鬱な顔で下を向き、黙々とバスケットに物を入れ続ける人間で溢れている。

Jamie Lidell - ele-king

 今年は夏が来るまでに、わたしたちの耳は溶けてしまうだろう。トロ・イ・モワやオート・ヌ・ヴ、インクの新作に代表される「チル&ビー」路線だけでもなく、ダウンテンポ・ソウルの新たなる洗練であるRhye(ライ)には期待せずにはいられないし、グラミーでのフランク・オーシャンに象徴されるようなメインストリームのムード、あるいは下手したらジャスティン・ティンバレークの新しいシングルの恐るべき完成度だって、まったく無関係ではないのかもしれない......現在大いに繰り広げられるR&Bの新解釈に共通しているのは結局のところ、その甘さ、いや甘ったるさの復権である。ブリアルがR&Bを歪曲した皮肉ではなく、もっと衒いない愛情でそれらラヴ・ソングのソウルを呼び起こして、現在の音の地平で鳴らしてみせること。この潮流がいったい時代のどんな気分を反映しているのか、あるいはどこに向かっていくのか......を考えるのはもう少し後にするのを許していただきたい。いまはただ、春の気配を待ちながら、それらの過剰気味なスウィートネスに酔っていたい。

 そんななか、〈ワープ〉の奇人、ジェイミー・リデルだけは独自のR&Bで踊り、歌っている。IDMからキャリアを出発し、あるとき突然歌いだしたこのフェイク感溢れるソウル・シンガー/プロデューサーの音は、作品を重ねるごとにその姿のキッチュさの度合いを強めているように見える。『ジム』でオーセンティックな60sソウルをやっていたときは、ブラック・ミュージックをファッショナブルに着こなすためのちょっとした流儀のようなものだと感じていたが、ベックとのセッション・アルバムの色合いが強かった『コンパス』を経たこの新作を聴くと、どうやらもっと抜き差しならないパーソナルな動機が彼にはありそうである。
 『ジェイミー・リデル』では『ジム』や『コンパス』のような甘さはあまり目立っておらず、プリンスの黄金期のサウンドを貴重としながら、80sシンセ・サウンドのエレクトロニックR&Bを扱っている。オープニングの"アイム・セルフィッシュ"から"ビッグ・ラヴ"であれば、ゴージャスでスペイシーにいかがわしシンセ・ファンクを衣装としてステージに立っていると言えるのだが、続く"ホワット・ア・シェイム"になるとIDMの実験主義がそこに合流し、なにやら捻じ曲がったビート・トラックが出来上がっている。ただ、これがジェイミー・リデルが持つ多様な音楽的作法を駆使した、化学実験を目的としたものにはあまり感じられない。80年代生まれが繰り広げる捏造された80sリヴァイヴァルではなく、実際にその時代を知る者の愛着がここにはあり、その思い入れの強さこそが彼の独自性を生み出しているように見えるからだ。ここには現代の音を携えながらそれでも過去への憧れに立ち返ってしまうような複雑な回路があり、それは単純なモノマネよりも真摯なものであるだろう。ジャジーなソウルのパロディのような歌から、曲の中盤でハードにエレクトロ的な展開へと突入していく"ホワイ・ヤ・ホワイ"などは、自らのなかで分断される要素をジョージ・クリントンの作法に倣いつつどうにか統合するかのようだ。
 そうして聴くと、このアルバム・タイトルが『ジェイミー・リデル』となっているのは示唆的だ。本人いわく深い意味はないそうだが、シンガーとしてオーセンティックなソウルに素朴に挑戦した『ジム』は彼の愛称であり、その次作である他ミュージシャンとのコラボレーション・アルバムが『コンパス(羅針盤)』、そして本作が本名となっていることは、より自らの内側に入り込んでいるように見える。ある意味ではコラージュ的なシュールさが聴きにくさをもたらしているアルバムではあるが、この散らかった音こそを自分だと言ってのける腹の据わり方が清々しい。その意味では、"ブレイミング・サムシング"や"ソー・コールド"のようにファンキーなエレクトロニック・ソウルも非常に楽しく聴けるし踊れるが、僕のベストはやはり"ホヮット・ア・シェイム"。バック・バンドがコンピューターであってもグリッターに身を包み歌い踊るその奇妙な姿にこそ、IDM以降の現代の感覚では共感してしまう。当たり前の話、アコースティック・ギターを抱えて誠実に内面を吐露するフォーク・シンガーや、甘い歌を甘く歌い上げるソウル・シンガーだけが自分をさらけ出しているわけではない。この異形のラヴ・ソング集、キッチュなR&Bにもまた、フェイクではない愛が息づいているはずである。

Death Grips - ele-king

 ザック・ヒルの壮絶なドラミングを最後に見たのは確か2009年、LAでのFYFこと〈ファック・イェアー!・フェスト〉だったと記憶している。
 その日の僕は某メタル・レーベルが出店するマーチ・テーブルの売り子を手伝うという大義名分を振りかざしてフェスに忍び込んでいた。テント内はカリフォルニアの炎天下の紫外線を遮るものの、ヒゲ、ロン毛、巨漢、もしくはそれ全部、のレーベルの運営者達が発する漢気で画的に非常に暑苦しく、マーチ・テーブルとそれに群がるこれまた暑苦しいメタル・ヘッズ越しに容赦なく日差しが降り注ぐ向こう側にはパツキン・チャンネーが巨乳、巨尻を惜しげも無く露出する絵に描いたような爽やかかつ涼しげなフェスの模様、この不思議に分割、逆転した世界にあって僕はロクに仕事もせずストーンしていた。
 ふいに横で同じく売り子をしていた熊のような男、といっても働いている奴は僕以外全員熊のようなのだけれどもそのなかでも通称「甘党熊」と呼ばれる男に声をかけられて狼狽した。

僕「あ、ごめん......もう仕事中には吸わないよ。」
甘熊「いや違うよ。ウェイヴス見にいかないのか?」
僕「ウェイヴス? あのキモめのバンド好きなの?」
甘熊「いや好きかどうかはわからんけどザック・ヒルだぜ?」
僕「あぁそうか。じゃあ行くよ。」

 僕らは仕事を放擲し足早にウェイヴスのステージに向かった。
 予想通り初めて観るウェイヴスはキモかった。ちなみにすでにこれを読んでいる彼らのファンはさぞかし憤慨しておられるであろうが僕の個人的な見解においてウェイヴスはサーフとガレージとエモのキモさをあえて全面的に押し出したダサ・カッコイイ美学を追求した希有なバンドだったと言うに尽きるのだ。まぁ好きか嫌いかと訊かれれば嫌いなんだけど......。
 ......キモかったけれども甘熊の言う通りザックはそれを力技で超一級のエンターテイメントに仕上げていた。
 終演後に去ってゆくオーディエンスや甘熊はみな口を揃えて「いやー、ザックすごかったねー」などと呻きながら感無量な表情を浮かべていた。
 ......ってウェイヴス自体はどうなんだよお前ら!

「デス・グリップス行かないんスか?」
と自分のヘボバンドのヘボドラマーに訊かれ、先の思い出が頭を過った。いっやーどうだろーなどと嘯いている僕に彼は、
「......でもザック・ヒルっすよ?」
お前もそれかい!

 ......でもザック・ヒルっすよ? ......ック・ヒルっすよ? ......っすよ? しかし頭のなかでヘボドラマーのセリフがテープ・エコーにのってリピートされるのを結局止められなかった僕は自身の忌まわしき過去と対峙する思いで彼らのライヴに足を運んだ。

 昨年末のエレキング座談会にて後半少し触れたが、僕はデス・グリップスを素直に受け入れられない何かが常にある。彼らをいま認めてしまうということは結局のところ、いまでこそエクスペリメンタルだなんだと抜かしてる僕が封印してきた「10代だった90年代後半はこんなものを聴いてました」的ハズカシ・ヒストリーを白日の元に晒している気がしてならないのだ。だっていくら文脈は違えどやっぱりラップ・メタルなんですもの......。

 しかし結果から言うと彼らのショウは僕が恐れていたラップ・メタル/ミクスチャー感を彷彿させるものはなかった。てか皆無だった。本国のツアーではキーボードで参加しているはずのモーリンが欠席なのも相まってか、(少なくともステージには見当たらなかった。しかしFXはリアルタイムで足し引きされていたし、ザックのドラムのトリガーがシーケンスに反映されているときとそうでないときがあったのでマニュピュレーターとして裏で参加していたのだろうか? スマッシュさん教えてください)そのステージは異常なまでにプリミティヴな仕上がりであった。太鼓とラップでのみ魅せる超一級のエンターテインメント。ザックは徹底された足し算の美意識とも言えるドラミングを休むことなく披露し、MCライドのハードコアなライヴ・アクトがフロアをカオスに導く(個人的にライドのリリックの随所から感じる自暴自棄なイメージを彼のパフォーマンスから垣間みれるかと期待していたのだが、そこまで無茶苦茶なモノではなかった)。

 完璧だ。いや完璧すぎるのだ。彼らの音源を聴いたときから感じていた懸念は確信へと変わった。技術力を習得するというミュージシャンとしての基本的な行為をそもそもかなり早い段階で諦めてしまった僕のヒガミからくるのであろうか、ツッコミ所のない音楽に対してイマイチ入り込めない自分。ポテンシャル、技術、ソングライティング、パフォーマンス、どれをとっても比類なき完成度を誇るデス・グリップスに僕は自分のダメ人間っぷりを反省させられている気がするのかもしれないし、人生のどんなシビアな局面もマジメに受け止めてこなかったが故に最近はなるべくユーモラスなものにヘラヘラしていたいのかもしれない......。そしてそういう意味では数年前に見たウェイヴスにおいて、あのダサさとザックのドラムは僕にとって良い塩梅のバランスだったのかもしれない。

 なんだかレヴューがネガティヴかつヒロイックだな。これがパキシルの効果とやらなのだろうか。みなさんもインフルには気をつけましょう。

 しかし日本盤を1枚も出していないバンドにこれほどまで集客があるのは驚くべきことである。おそらくデス・グリップスにおいて最も評価されるべき点は、バンド及びミュージシャンとメディアの関係性のここ数年の大きな変化を象徴し、それのもとに大きな成功を収めていることだ。盛況に終わったこの興行が意味するのは、マーケットの確固たる変化だといえよう。

Gum - ele-king

 マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの新作を不思議な思いで聴いた。あまりにも変わらないままのマイブラだったが、ではかりそめの新しさを狙ってエレクトロニックにしてみました、アンビエントをやってみました、ビートに凝ってみました、といった変化を見せたとして誰が納得しただろうかと考えてみると、やはりこれしかない。"オンリー・トゥモロウ"は最適解だ。というか、「10年1作」(22年ぶりだが)のような時間を生きる彼らにとって、「変化」ということほど軽薄な概念はないのかもしれない。
 ロックという価値観において「変わらない」ことはとても両義的な意味を持つ。若く、既成の価値の枠組みを揺さぶるようなエネルギーをその本懐と考えるなら、変化や進歩のないものは基本的には謗りを受けるだろう。だが、ただほいほいとフォームを変えるのではファッションでしかないということになる。『mbv』には、昔の焼き直しという印象ではなく、そのフォームの古びなさ強靭さをあらためて確認させられたように感じた。変わらなさにおいてひとつの徹底と説得力を持っている。というか、ケヴィン・シールズの音がいまだ完成への途上を歩むものであり、またそれが跨ぎ越された跡もとくに見つからないという意味においては、まだその道の先駆であるとも言える。彼らのフォームは生きた形式ともいうべき、奇跡的な矛盾として存在している。

 だから、マイブラとはバンドであると同時にジャンルでもある。作り手の多くは自分の音楽にタグ付けされることを嫌うものだが、この界隈ばかりはどうだろうか。そのようなことに頓着せず、フォロワーであるとかないとかいう意識もはじめからとくにないような、迷いのない後続を生みつづけている。例を挙げればキリがないが、たとえば2008年、パンダ・ライオットのデビュー作はよく売れていた。リリースはその前年だったが、じっくりと途絶えることなく、3年くらいは売れつづけたと思う。そのころ勤めていたレコード屋では店頭で音をかけるたびに問い合わせを受け、そのまま買っていくというお客さんも多かった。在庫を切らすと「いまかけている開封品でいいから買っていく」なんて言われた。

 いまガムをかけたなら、同じようなことが起こるのではないかと思う。それは5年といわずその何倍ものあいだ更新のないシーンの存在と、更新の意味をナンセンスなものにしてしまうほど愛でられている音の存在を意味している。どうしてわれわれはこうした音がかかると一種の思考停止状態に陥ってしまうのだろうか――ドリーミーなファズ・ポップ、ディストーションのきいたメランコリック・ポップ、いろいろな言い方で間接的に語ることはできるが、要はマイ・ブラッディ・ヴァレンタインだ。リヴァービーな音響を持ったバンド・サウンド、フィードバック・ノイズ、中性的なウィスパー・ヴォイス、あるいは男女ヴォーカルの気だるげな絡み、メランコリックでミディアム・スローな楽曲、こうした音に対してほとんど脊髄反射的に反応してしまうという経験があるならば、ガムもまた抗しがたい力でもってその耳と心に押し入ってくるだろう。
 もちろんライドの疾走感、スローダイヴの蒼みがかった叙情性も十分に発露されている。シューゲイザーと名のつく作品群の上に存在する、優れて美しい2次創作、そのように言うのがしっくりくるだろうか。新しい音楽観を提示する、シーンを牽引する新騎手、といった意識で作品を世に問うているのではなく、そのあり方は同人作家のように控えめなものだ。だが彼らに脚光が集まった背景には、デビューEPがヤックからの賞賛を受けたり、日本でもとくに支持の厚いシューゲイズ・ポップ・バンド、リンゴ・デススターのサポートを行ったりしているほか、この界隈ばかりでなく、当時折からのローファイ再燃の機運やジャングリー・ポップの盛り上がり、チルウェイヴ前後のドリーミーなサイケ・ポップへの注目のなかでジャンル外へと大きく波及していった重要バンド、ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートからの賛辞まで得ているというような経緯があるようだ。彼らのような活動をするバンドはUSに多いが、ガムはUKから出てきたバンドであることも頼もしい。そして今作のプロデュースに関わるというロリー・アットウェルは、テスト・アイシクルズでの活躍のほか、いままさに活動の旬を迎えているパーマ・ヴァイオレッツや、ザ・ヴァクシーンズ、ヴェロニカ・フォールズなどUKの良質なインディ・バンドを手がけてきたプロデューサーでもある。おそらくはガムにとってもプラスとなるディレクションがなされているのではないだろうか。

 まだまだ情報の少ないバンドでありながら日本盤(日本企画編集盤)まで出てしまうというのは、こうしたアーティスト群、そしてそのファン層が日本でもいかに厚いかということを物語っている。彼らの何かと細やかなセンサーがコレだと推している点からしても注意したいバンドである。無論、あり方や精神性においてマイブラそのものとはまったく違う。だが、好みに合わせて好みの音を再組織するセンスや手腕において彼らが抜きん出ていることは疑いない。二十数年もの時間とおびただしいフォロワーたちの末端で、『セヴンティーン』というタイトルのパラレル・ワールドを描いているようにも思われる。二次創作(絵や映像とは単純に比較できないが)には二次創作の楽しみかたがあるのだ。

Autre Ne Veut - ele-king

 オート・ヌ・ヴの音楽、そして彼のR&Bの前に、性愛が肉体的なものか精神的なものかという問いはじつに粗暴に感じられる。アーサー・エイシンが歌いたいのは、肉の表面に宿る彼の心である。多くのレヴュワーが女性器ではないかと解釈した『ボディ』のアートワークを、それでも誰も単純なポルノグラフィとしてとらえなかったのは、それが肉体的なものであると同時に彼の心そのものの表現だと感じたからだろう。「圧倒的でグロテスク、しかしそれと同じだけ繊細で美しく、優しいもの」とエイシンは表現しているが、それはおそらく彼にとってのR&Bと同様のものだ。肉であり心、そのように聴くとき、エイシンの歌のエロティシズムは音楽というボディ自体の強度となる。そして今作『アンギザエティ』は、そのダイナミズムをシンプルに取り出すことに成功している。

 昨年のハウ・トゥ・ドレス・ウェルのセカンド・フル、今年に入ってすぐのトロ・イ・モワのサード・フル、そしてもうじき発表されるインクのファースト・フル。少なからずインディ・ミュージック・ファンには意識されていることだろうが、ポスト・チルウェイヴやその傍流にある音などの一部が、ストレートなR&B志向を強めている。挙げればもう少しあるが、アンダーグラウンド・シーンから誕生したシンガーたちによるポップス回帰の流れは、一種のノスタルジーを巻き込みながらも、確実に新しくリアルな息づかいを感じさせている。オート・ヌ・ヴによる本作も、まずは同種の傾向を深めている点を指摘しなければならないだろう。ティンバランドや、もしくはケシャやケイティ・ペリーを手がけるドクター・ルークなど、ヒットチャートを参照するかのようなリッチでクリアなプロダクションが手にされ、スムーズな手触りのソング・ライティングが行われ、アンダーグラウンドなムードを紙一重のところで抑えている。

 だがオート・ヌ・ヴは、そもそもはインディ・ロックとインディ・ダンス、シンセ・ポップなどの混交点に忽然と湧きあがり、チルウェイヴのムードと併走しながら思い思いにアンビエントやドローンやノイズ・ミュージックなどへと散開していった、2010年前後の大きな流れを背景に登場してきたアーティストである。2010年のデビュー・アルバムは〈オールド・イングリッシュ・スペリング・ビー〉から、2011年のEP『ボディ』は〈ヒッポス・イン・タンクス〉から、2011年には、〈ロー・レコーディングス〉主宰ジョン・タイが参加するバレアリック・デュオ、シーホークスとのスプリット・シングルを発表していることも記憶に新しく、今作は〈ソフトウェア〉だ。これらの名称からも彼が活動してきた文脈や背景がアンダーグラウンドなシーンに根ざしていることは明らかだろう。

 だから〈ソフトウェア〉からリリースされていることは、本作から彼らを聴きはじめる人にとっては最大の紛らわしさかもしれない。エイシンは、主宰のフォード&ロパーティンの片割れ、鬼才ダニエル・ロパーティン(ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー)とは大学時代のルーム・メイトであり、少なからぬ影響を受けているようである。だが、彼らのように硬質で冷たい批評性を光らせたエイティーズ・レトロスぺクティヴとエイシンのそれはまったく違う。そして今作のストレートなポップ志向も、ロパーティンらの諧謔とはまるで異なるものだ。それはもっと衝動的で、同時にそれを抑圧しようとするような奇妙な苦しさが漂っている。両者はともに知的な存在だが、ふたりの盟友の間のこの熱と冷気の対照には、思わずぐっときてしまう。

 ひりひりと胸をしめつけるようなエイシンの熱情(とその苦しさ)は、アルバムすべてを細く強い糸となって結んでいる。その糸の名を「アンギザエティ」と呼ぶことができるだろう。エイシンが慢性的なうつ病であるというだけでなく、このタイトルには彼がここ数年抱いてきた対人不安や家族不安、社会不安などが反映しているという。エイシンの音楽に暗さは感じられないが、彼のヴォーカルからはそのエモーションのありったけを受け取ることができるだろう。その過剰なエネルギーとエモーションが不安の裏返しであることは想像に難くない。緩急をつけながらも音数を少なくしていく後半の展開は、メロディの肉感的な美しさをむき出しにしていく。プリンスのようにウォーミーなシンセ・サウンドも健在だ。
 "エゴ・フリー・セックス・フリー"というタイトルにはまた彼の身体観がよく表れている。肉体を自由にすれば、精神も自由になる......通りすがりの男性が話していた言葉から拝借したということだが、それは肉と精神がほとんど不可分なものとして捉えられているということだ。この曲はきわめてエモーショナルでありながら激しいシンコペートによって身体的な吃音を揺さぶり出す、当世最高のボディ・ミュージックでもあるかもしれない。

 蛇足ながらアート・ワークについて。本来この額縁のなかにはエドゥアルト・ムンクの『叫び』が収められていた。サザビーでのオークションにかけられた模様を再現し、現代人の不安(=『叫び』そのもの)を取り出して、現代の資本家たちのフレームのなかに収めてしまえという意味をこめたものだそうだ。奇妙なところでとんちをきかせるのも彼らしい。
 それから、国内盤の価格はここまできている。価格の決定には努力だけではままならない事情が様々にあるとはいえ、1600円台には頭が下がる。

interview with Unknown Mortal Orchestra - ele-king

 いったいいつからそこに洗いざらされていたのかわからない......何十年も風雨を凌いだようにも、またつい昨日そこに置かれたばかりのようにも感じられるUMOのサウンドは、タイムレスという表現ではなく、ロスト・タイムと形容するのがふさわしいかもしれない。
 オープンリール式のテープ・レコーダーやディクタフォンなどを用いながら、丹念に音を作っていくというルーバン・ニールセンは、アリエル・ピンクからえぐみをとったような、ヴィンテージだがトレンドを突いたローファイ感をトレード・マークに、サイケデリックなファンク・ロックを展開し10年代シーンに頭角を現した。今月リリースされたセカンド・アルバムでは、グラム・ロック風の楽曲などUKロック的なアプローチをさらに強め、ポップ・アルバムとしての幅を広げた印象だ。
 しかしUMOの音は、懐古趣味というにはあまりにいびつで、ニュー・スタイルだというにはあまりに時代掛かっている。どこに置いても少しずつ違和感を生んでしまうような、いつの時代からもロストされ、どの思い出にも安住できないような、微量の孤独を感じさせるところに筆者は無限の共感を抱くのだが、その心は実のところは如何ばかりか。

 今回、ホステス・クラブ・ウィークエンダーへの出演のため来日していたメンバーに話をきくことができた。中心人物であるルーバン・ニールセンと、ベースのジェイコブ・ポートレイト。ルーバンはよく知られるように、以前はニュージーランドの老舗インディ・レーベル〈フライング・ナン〉の重要バンド、ザ・ミント・チックスを率いて活躍していた人物でもある。場所をアメリカに移し、ひっそりとこのサイケ・プロジェクトをはじめていたわけだが、ルーバンのソングライティングの底にあるものは、自身が述べているように、どこにも属することなく渡り歩くブルースマンのそれに似通ったところがあるのかもしれない。古今東西の音が審級もなく膨大に蓄積されつづけるネットワークのなかを、静かな光を放ちながら漂泊するUMOの音楽に、そのイメージはいくばくか重なっている。われわれが惹きつけられ、共感を抱くのは、ルーバンのそのようなあり方に対してでもあるだろう。

古い機材にこだわっているわけでもないんだけど、いまの時代、きれいな音を出すほうが簡単だったりするからね。そうじゃないことをやろうとすると、やっぱり時間がかかるよ。でもそもそもそのままでおいしい肉がそこにあるのに、わざわざマヨネーズをつけたりいろいろな手を加えたりしてるだけかもしれないよね。

“ファニー・フレンズ”(ファースト・アルバム『アンノウン・モータル・オーケストラ』収録)が聴けて感激しましたよ。あの作品が出た頃はレコード屋で働いていたんですが、それはもう毎日店頭でかけて......

ルーバン:それは素敵だね!

はい(笑)。あの頃は〈ウッジスト〉とか〈メキシカン・サマー〉とかがまさに旬で、そのあたりと部分的に共振しながら、チルウェイヴというトレンドも爛熟期にありました。

ルーバン:そうだよね。

グレッグ:たしかに。

で、UMOのちょっとガレージーな感じ、ローファイな感じ、こもった感じ、リヴァービーな感じっていうのは、そうした当時のシーンの雰囲気ととてもシンクロしていた部分があると思うのですが、あなたがたのファンクネスは、ちょっとめずらしくて、際立っていました。UMOには、ミント・チックスの体験を引いている部分もあるかとは思うのですが、パンクからファンクへというリズムの変化があるのは、ミント・チックスやパンクに対するひとつの批評なのでしょうか?

ルーバン:基本的には、前のバンドのドラマーがあんまりファンクできる人じゃなかったんだよね(笑)。どっちかというとパワー・プレイが持ち味で。僕自身は、いまやっているような音に昔から興味があったし、父親がジャズ・ミュージシャンだったこともあって、馴染みもあったんだ。でもはじめたのはたまたまパンク・バンドだった。パンクのなかに徐々にファンキーな要素とかを入れていきたかったんだけど、なかなかああいうグルーヴは腕のある人じゃないと出せないんだよね。当時はまあ、無理だったんだ。だからバンドを離れてひとりで音楽を作ることになったときに、どうしてもちょっと古風なグルーヴを持ったものへと変わっちゃったんだよね。

なるほど、古風なグルーヴという認識なんですね。今作はちょっとグラムっぽいいうか、UKロック的な音楽性が特徴になってるかなと思います。〈ファット・ポッサム〉にはヤックとかロンドンのバンドもいますけど、アメリカでいまUKロックというのはどんなふうに聴かれているんですか?

ルーバン:ヤックとかはたしかに人気があるよね。バンドによると思うけど、「ブレイクした」って規模の話になると、アークティック・モンキーズくらいかな。

ジェイク:でも、イギリスのバンドがいまアメリカで人気を高めているかっていうと、それは疑問だね。いま「きてる」のは、やっぱりサンフランシスコのガレージ・ロック・シーンだと思うよ。ガールズとかタイ・セガールとか......。

ルーバン:アメリカでイギリスのバンドが成功するのは難しいよね。ビッグにはじけるのは、アデルとかエイミー・ワインハウスとかポップなものでさ。

そうですよね。ガールズやタイ・セガールなんかは、ちょっとヴィンテージな音づくりをしますね。UMOにも共通するところはあると思うんですが、そんなふうにレトロな音楽性に向かうのは、一種のノスタルジーからなんですか? それともいまの時代に疎外感のようなものがあったりするんでしょうか?

ルーバン:ノスタルジーっていうのはぜんぜんちがうかな。その昔を知っていないと感じられないものだからね。僕らがいま好きで聴いているサイケなものっていうのは、実際は僕らが知らない昔のものだ。ここ8年くらい、そういうものが気になってよく聴いてるんだ。僕にとってリアルにノスタルジックなのは、TLC、ブランディ(笑)、あのへんのR&Bだったら若い頃の思い出とともに懐かしむことができるよね。
 サイケデリックな音楽を聴き込めば聴き込むほど思うのは、たとえばピンク・フロイドの『夜明けの口笛吹き』とかが典型だけど、あれですべてが変わったなと思えるぐらいの衝撃度――新たなクオリティ、新たなスタンダードを設定したようなね――を伴っているところがすごいんだ。あの当時の作品のすばらしさはそこにあると思う。バンドとしての僕らのありかたは、機材だって新しいしモダンだと思うんだけど、好みのサウンドはたまたま60年代のものとかが多くなってしまうんだ。

なるほど。モダンだっていうのはすごくよくわかります。曲についてなんですが、前作も今作も、あなた(ルーバン)がとても優れたソングライターなのだなということがよくわかるのですが、プロダクションについてはどうなんでしょう? ローファイっぽさを大切にしながら、とてもこだわり抜かれた音作りがされていると思うんですね。実際のところどのくらいの時間をかけて、どんなふうにサウンド・メイキングを行っていらっしゃるんですか?

ルーバン:ドモ、アリガトウゴザイマス(笑)。すごく時間はかかるんだ。いっさい妥協しないから。古い機材にこだわっているわけでもないんだけど、いまの時代、きれいな音を出すほうが簡単だったりするからね。そうじゃないことをやろうとすると、やっぱり時間がかかるよ。そもそもそのままでおいしい肉がそこにあるのに、僕はわざわざマヨネーズをつけたりいろいろな手を加えたりしてるだけかもしれないよね。さらにはその料理の方法がすごくアナログだっていう。ローファイじゃなきゃいけないと思っているわけではないんだ。

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ゾンビーズの『オデッセイ・アンド・オラクル』はとっても好きなアルバムだけど、あれだとちょっとロックさが足りない。キャプテン・ビーフハートも好きだけど、そうするとちょっとプリティさが足りない。そのちょっとの足りなさを自分で補いながらアルバムを作っていくんだよ。

うーん、なるほどなあ。では曲についてなんですが、 “フェイデッド・イン・ザ・モーニング”などのブルージーなサイケ・ナンバーがある一方で、“ドーン”のようなシンセ・アンビエントが収録されていることは、この作品の持つサイケデリアが単純なものではないことを証明するようにも思います。“ドーン”はどのようにでき、どのような意図で収録されているのでしょうか?

ルーバン:いじりかけの曲を、すごくたくさんPCのフォルダにまとめてるんだけど“ドーン”はそのなかのひとつだったんだ。すごくいい感じにできてるから、もったいないし何かに使いたいって思ってた。今回はアルバムをぶっ通しで聴いてもらうんじゃなくて、何か箸休めというか、ブレイクがあるといいかなと考えてもいたんだよね。そんなときだよ、“フェイデッド・イン・ザ・モーニング”の詞のなかに「徹夜明けで日差しがまぶしい」って部分があるんだけど、あの時間で日がまぶしいってことは、その前に夜明けが来てなきゃおかしいよなって思って、いじりかけの曲に“ドーン”って名前をつけて、そこに入れることにしたんだ。ちょうどね(笑)。
 とにかく好きなレコードがたくさんあるから、それに触発されて作りたいと思った音を、自分のレコードのなかに落とし込んでいく、そういうやり方なんだ。ゾンビーズの『オデッセイ・アンド・オラクル』はとっても好きなアルバムだけど、あれだとちょっとロックさが足りない。キャプテン・ビーフハートも好きだけど、そうするとちょっとプリティさが足りない。そのちょっとの足りなさを自分で補いながらアルバムを作っていくんだよ。

ああー。プリティさは大事ですね。UMOにはありますよ。“ソー・グッド・アット・ビーイング・イン・トラブル”“ノー・ニード・フォー・ア・リーダー”などは、ダックテイルズやジェイムス・フェラーロなどともどこか共鳴するような、どろっとして白昼夢的な音作りがされていると思います。〈ウッジスト〉や〈ノット・ノット・ファン〉〈ヒッポス・イン・タンクス〉といったようなレーベルに共感する部分があったりしますか?

ルーバン:いやー、ほんとにいまは才能ある人々に囲まれている時代だなという気がして、いま言ってくれたようなレーベルとか、この時代の人たちといっしょに名前を語られるのはうれしいよ。ただ、新しく出るレコードをチェックしきれてない部分はあるから、ほんとに新しいものは追いきれてなかったりはするんだよ。で、ふと気がつくと友だちのレコードだったり。

友だちのレコード、教えてくださいよ。

ルーバン:ええとね、フォキシジェン(Foxygen)、彼らはレーベル・メイトでもあるけどね。あと、ワンパイア。ジェイクがプロデュースしたんだ。

ああ!

ジェイク:仲良しなんだよね。ポートランドのバンドなんだ。

うわあ、やっぱりポートランドはいいですね。

ルーバン:なんか力になれればなって思って、ツアーに連れて行ったりしてる。

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ある意味、自分のアイデンティティを目立たないように消していくのが、いまの僕のあり方なのかもしれないな......。でもアメリカに住むこともアメリカの音楽も大好きだから、問題はないよ。

ちょうどポートランドの話題が出ましたけど、ニュージーランドからポートランドに移住したというのは、日本人からすればまあけっこう大きな決断にも見えるんですが、実際のところなぜアメリカだったのか、そしてなぜポートランドだっだのか教えてもらえますか?

ルーバン:前のバンドのツアーで来たのがきっかけかな。たまたま叔父がポートランドに住んでたというのもあったんだけど、当時は例の『ポートランディア』っていうテレビ番組がはじまる前だったから、べつに有名でもなかったし、とくに何か特別な期待は抱いていなかったんだ。でも街を歩いてみるとみんな着ているものはオシャレだし、かっこいいし、バーに行けば好きなアルバムがかかっているし、ちょっとここに住んでみようかなって気持ちになったんだよね。ニュージーランドの友人たちからは「なんで?」って言われたよ、たしかに。ほんとにポートランドはいまみたいに有名じゃなかったんだもん。でも、いまはわかるんじゃないかな。

みんな住んでないけどよく知ってますよ。ニュージーランドのローカルな音楽シーンって、ポートランドのローカルなシーンと似てたりしますか?

ルーバン:まず、生活のペースは似てるかな。それから、ニュージーランド時代からインディ・シーンに興味があったから、ザ・クリーンとかザ・チルズとかはチェックしてたんだけど、彼らの雰囲気とこちらのインディ・シーンの感じも似ているといえば似ていると思う。〈K〉と〈フライング・ナン〉のノリとかね。ただ、ニュージーランドのほうが、バンド同士が競い合うムードが強かったと思う。ポートランドのほうが仲間意識やコミュニティ感覚が強いかな。

今作のように〈ジャグジャグウォー〉からリリースということになると、UMOも世界的にはUSインディの重要バンドとして認識されていくことになると思います。ご自身のアイデンティティの問題として、こうした点に何か思いはありますか? 

ルーバン:ある意味、自分のアイデンティティを目立たないように消していくのが、いまの僕のあり方なのかもしれないな......。でもアメリカに住むこともアメリカの音楽も大好きだから、問題はないよ。それがパーフェクトなあり方だとは思わないんだけどね。でも、アメリカはミュージシャンとしては活動しやすい国だし、そもそもニュージーランドは小さな国で、音楽をやっている人に限らず、いつかはそこを出ていくというのがカルチャーの一部としてあるんだよね。外に出ていろんなものを発見して、はじめて自国の良さにも気づくっていう(笑)。そういう、外側から国を見つめてその価値を再認識するという昔ながらのニュージーランドのやり方を、いま僕もやっているのかもしれないね。

なるほど、日本とは違いますね。UMOの曲って基本的にはすごくポップなんですけど、どことなく孤独とか諦念のようなものが漂うように感じます。暗いわけじゃないけど、けっしてハッピーというわけでもない。あなたには実際に「Swim and sleep like a shark does」(“スウィム・アンド・スリープ(ライク・ア・シャーク・ダズ)”)していた時期があるのでしょうか?

ルーバン:いまでもそういう気分になることがあるよ。でもそういう気持ちを曲に書くことでどうしたいかというと、みんなに「こういう思いをしている人が他にもいるんだよ」ってふうに共感してほしいってことなんだ。孤独や疎外感みたいなものを助長しようと思っているわけではなくてね。この気分にはまり込んでもらいたくはない。
昔からブルースのアーティストなんかが悩みを歌にしたりしているのは、悲しい音楽の役割として、悪い状況からの救いになる部分があるからだと思うんだ。同じような思いをしている人が他にいるってわかることで救われるというのが、悲しい音楽の役割のひとつだと僕は思っていて。基本的に、僕が曲を書く根本には音楽を通じてみんなとつながりたい、コミュニケートしたいという思いがあるんだ。ただ、自分の気持ちに正直であればあるほど、ダークなものが表に出てくる。けどそこで終わらずにどこか明るいところを見せたい、見てほしいって思ってるよ。

ああ、いいお話が聞けました。ありがとうございます。最後にひとつだけ、前作のジャケットの写真ってユーゴスラビアの建物なんですか?

ルーバン:あれはクロアチアだね。もともとああいうふうな写真をベルギーの写真家が撮っていて、いいなと思ってたんだ。だけどその写真を買わせてくれって言ったらあまりにも高い値段を提示されて(笑)。だから観光客の撮った写真をいくつか探して、それをフォトショップで作り直したんだ。もともとのものと似た感じのアングルにして、モニュメントの前に立ってる人間は、僕のまわりの人を撮って組み合わせたりしてね。

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