「Noton」と一致するもの

Ital - ele-king

 ダンス・ミュージックといっても、アイタルの場合はまるで首根っこを押さえて踊らされるような抑圧的なものがあって、それが身体的な快楽へと結びついていくのは先のことになる。解放するビートではなく、制圧するビートと言えばよいだろうか。筆者にはダブル・バインドの感覚に近いように思われる。ビートは踊れと言ってくるが、音全体としては踊るなと言う......深刻な精神の危機に結びつくともされるこの二重拘束のプレッシャー、そのなんとも消耗的な抑圧ののちには、わあっと叫びながら踊り出してしまいたいような危険な快楽が待っている。
 実際にブラック・アイズからミ・アミまで、彼アイタルことダニエル・マーティン-マコーミックの異様なヴォーカル・スタイルには、一貫して同種の分裂が感じられる。女性かと思うほど高く、カンの強い声でけたたましく叫びまくる彼のヴォーカルは、けっしてハードコア由来のものとばかりは言えない。もっと彼の存在そのものに根ざすような、スタイルを超えた衝迫がある。ライヴにおいても感じたが、それは唐突にはじまって止む。制御のきかない、彼自身の精神のいち部であるようにきこえる。ゆえにあらゆる形式性から逃れ、シャウトでもスクリームでもない、未確認のノイズとして鮮やかな印象を頭に焼きつける。
 今作ならば、たとえば"エンリケル"後半の掻き傷のような高音ノイズがその代理だ。殺伐としたドローンとインダストリアルなビートが、相反する信号を発しながら二重拘束を強いてくる。その割れ目から漏れ出すキリキリと不快なノイズは、嫌がらせるようにじりじりと音程を上げ、なかなか止まない。
 あるいは"ホワット・ア・メス"。今度は冒頭からうんざりするようなファルセットの嘆願――嘆願かどうかは知らないが、しつこくねちねちと、リヴァーブで増幅しスクリューで減速しながら、何事かしゃべりつづけている――に圧迫され、すっかり滅入りながらも身体はダンス・ビートでハイに刺激されるという、逃れたくてたまらないダブル・バインドが襲ってくる。これをヘラヘラとクールに聴けるほど筆者はタフではない。だが、"ディープ・カット"の冒頭までには、その不快さから去りがたいほど骨抜きにされて、ぐったりしながらも音に身をもたせざるを得ない。

 こうした感覚については、マーティン-マコーミックは自覚的な発言を残している。「身体的な嫌悪についてよく考えていて、その表現を自身のなかや他人に見つけたように、精神にあるむき出しの神経に直接触るような、そんなプロジェクトをはじめたいと思った」。これは彼がソロ・プロジェクトとしてセックス・ワーカーを名のりはじめるにあたって考えたことだというが、アイタルにおいてもじゅうぶんにその性質を語るものである。つづけて彼は、それらが彼自身のなかの嫌悪に対するアート・セラピーだとも述べる。薄気味が悪いほど冷静な自己分析だが、おそらくそのとおりなのだろう。こうした分裂によって、彼は何かを縫合しているのかもしれない。
 そうすると"ディープ・カット"における救いが見えてくる。強すぎない4つ打ち、ノイジーだがどこか抜けのある音響。ライヴ・エディットが用いられているのは、適度なチルアウトによって、この「治療」を完結させるためではないだろうか。じつに巧妙な構成をしている。

 彼は〈タッチ・アンド・ゴー〉から〈ノット・ノット・ファン〉、そして〈プラネット・ミュー〉を渡ってきた。彼のなかの異形のハードコアは、〈タッチ・アンド・ゴー〉の象徴的な幕引きとともにバンドのスタイルを解かれ、ダンスに、ハウスに、ドローンに、ダブに拡散し、また凝縮していった。〈ノット・ノット・ファン〉や傘下の〈100%シルク〉は、こうした不定形のハウスを受け止めて発信する柔軟さと先鋭性とでインディ・シーンを大きく動かした。本人も言うように、ベッドルーム・ミュージックを作るプロデューサーと、DJと機材オタクとがいっしょにいるような、ゆるやかなコミュニティであることがこのレーベルの性格をよく表している。そしてポリシックのサイケデリアやルーディ・ザイガドロのクラシック趣味とR&Bなど、今年も幅を広げている〈プラネット・ミュー〉にも冴えがあった。彼は狙ったわけではなく、自然に時代のモードと併走している。この数年における重要なレーベルをつなぐ数奇な精神/身体として、アイタル名義で2作めとなる本作には説得力ある完成度が宿っている。OPNなどとの共通性も強くうかがわれるが、マーティン-マコーミックには粗野で抑制のきかないカルマがあり、それが方法においてはラフでありながらも強い魅力になっている。インディ・ダンスと言わず、この数年のインディ・シーンを見渡したときに、ぜひとも捉えておくべき1点である。

「いま楽しまないで、いつ楽しむの?」 - ele-king

 あのー、実は僕、今年、初めて国内のオールナイト・イヴェントの代表格とも言える、〈ワイアー2012〉に行ってみたんです。ふだんライヴハウスでバンドばっかり見てる人間がなぜレイヴに行ったかというと、これは〈フリー・ドミューン2012〉と、マニュエル・ゲッチングの影響がかなり大きい。やっぱり大きな会場でしか感じ得ない迫力、熱気、スリル(笑)、朝型のおかしなテンションで踊るっていう快感みたいなものの至高性を、初めて確認したひと夏だったんです。
 そもそもレイヴ・イヴェント自体が初体験だったので、かなりドキドキでしたが、行って良かったです。はい、衝撃を受けました! とにかく、その場の雑多な感じがライヴハウスにはないです。たとえば変なおっさんがブリブリになって発狂してるし、いっぽうフロアではモンブランみたいな髪型したキャバ嬢っぽい女性がデリック・メイで踊ってるわけ! もう本当にいろいろな人たちが集まってる。もう衝撃すぎて、朦朧とした状態で帰りの電車に揺られて帰りました。ああいういろいろな人たちがいるのって、やっぱオールナイトのフェスやレイヴならではだよなーと。でも、ちょっと待って。あとから思ったんだけど、僕と同世代の20歳ぐらいの子がもっと多ければ良いのに。なぜもっといねーんだよー!

 わかりますわかります。たしかに都内などで開かれている深夜のオールナイト・イヴェントは敷居が高いっていう風に思われてるのはわかります。レイヴとかだとなおさらです。僕もゴス・トラッド主宰の〈バック・トゥー・チル〉にずっと行きたいと思ってるけど、まだ行けてません。やっぱり、ひとりは心細いし、ちょっとビビってるっていうのが本音です。
 しかし、大きな会場で開催されるイヴェントはアクセスしやすいんです。僕のような初心者に優しいんですね。楽しみ方もいろいろで、自由度が高いんです。欧米でレイヴが盛り上がっている理由はよくわかります。だって、面白いからでしょうね!

 最近は「若者の夜遊び事情、深刻化」など、いろいろ言われているけど、実際、わかるよ! だって、お金ないし、平日から飲んだら次の日やばいし、わざわざ夜出かけるのってけっこう面倒くさいよね(ちなみに、こういう人間を最近は、草食系を超えた絶食系と呼ぶらしいよ! ひゃー!!!!)。 

 これからの僕らの生活って、へたしたら、いま以上に制限されるかもしれない。そして身体も、だんだんいうことが利かなくなるかもしれないw。やっぱどう考えても、楽しむのはいましかないよな。来年まで......とか、あわよくば......とか言ってる場合ではない。
 ワクワクする感情ってとっても大切だ。そのワクワクも、きっといろんな経験や出会いによって、形が変わってしまうかもしれない。僕らが抱いているワクワクは、「いましか感じ得ないワクワク」だっていうことを、もう一度ここで一緒に考えたい。そのワクワクが解放された瞬間、何かがきっと動きだすんじゃないかな、などと夢想するのはバカ過ぎる? でも、何を言われても、そんなエネルギーが、僕はもっともっと必要だと思うのです。
 二度と繰り返されることのない、ひと晩の物語があるんです。ブリブリになって踊っているおっさんや、キャバ嬢風の女性はきっとわかってるんですね。こんなしょーもない社会から、いっときだけ逃避して、音楽に興奮して、踊りまくって、それが明日へのモチベーションに繋がるっていうことを。ライヴ行きませんか? 一緒にオールしませんか? 2012年、もう終わっちゃうとか言ってないで、もう少しだけ楽しみません? いまは、いましかないし、きっかけならここにある!! 
 っということで、祝エレクトラグライド3年ぶり復活!!!! 受験期ということで、涙を呑んだ2009年の〈エレクトラグライド・プレゼンツ・ワープ20〉から早いもので3年が経ち、今年ついに僕も初めて行きます(当日、エレキングで物販を出す予定!)!! これだけ見れて前売り8800円というのも嬉しいです。

 
 新旧さまざまな実力派のアーティストが出演するエレクトラグライドですが、フライング・ロータスがやっぱりいちばん見たいかなぁ~。9月に発売された『アンティル・ザ・クワイエット・カムス』から、いったいどんなパフォーマンスを見せてくれるのか期待です! 
 あと、相模原で今年も開催された〈エックスランド・フェスティヴァル2012〉で、雨が降るなか、怒濤のパフォーマンスを見せてくれた、DJクラッシュも楽しみです!!(このライヴは僕が今年見たベスト・パフォーマンスのひとつ!)

 あ! そうそう、〈フリー・ドミューン2012〉や〈ワイアー2012〉はヴィジュアル・コンセプトが本当にしっかりしていて、会場に入った瞬間、もうその世界に入っていけました。音が鳴っていたんです(まだ演奏もはじまっていない段階で)!   
 エレクトラグライドは〈幕張メッセ〉開催なので、大きな会場だからこその見せ方や、いろんな仕掛けにも注目したいです! 

 では、11月23日〈幕張メッセ〉で会いましょう!!!!!

Andy Stott - ele-king

 カタログ本というのはこれがあるからキリがない。あと数週間早くアンディ・ストットのセカンド・アルバム『ラグジュアリー・プロブレムズ』を聴いていたら、最後の1ページに加えた。

 アンディ・ストットはマンチェスターの〈モダン・ラヴ〉を拠点に活動しているDJで、デムダイク・ステアの(レコード蒐集家として知られる)マイルズ・ウィテカーとのコンビでダブステップの作品も出している。ストットは、2011年には「We Stay Together」と「Passed Me By」の2枚のシングルによって、デムダイク・ステア(紙ele-king vol.5参照)や〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉のレイムあたりとも共振しながら、マンネリ気味だったミニマル・ダブに「ダーク・アンビエント/ポスト・インダストリアル」なるテイストを見せたひとりだった。
 彼らの怪奇趣味の先人にはサム・シャックルトンがいて、新作『ミュージック・フォー・ザ・クワイエット・アワー』......これがホントに、「ここまでやるのか」と、正直、聴覚体験でそれほどの驚きを感じにくくなっている中年の耳を充分に震え上がらせた。今年のテクノの大きな衝撃だ。こんなに怖い音響を他に知らない。
 アンディ・ストットの音響/残響には『ミュージック・フォー・ザ・クウィエット・アワー』のような、1枚通してヘッドフォンで聴くと頭がおかしくなるようなことはないが、それでも充分に面白い。クラウトロックの巨星のひとつ、ファウストの最初のアルバムの幻覚性の高いカット・アップを彷彿させながら、ミニマルとダブとインダストリアルの3点を結んでいるようだ。ニック・エドワーズのソロもキャバレ・ヴォルテールがダブをやったみたいだったけれど、彼らにはどこかしら共通する感覚がある。数字のような正確性ではなく、曖昧で比喩的な表現に逃げながら、何か確実な声を発しているように見受けられる。

 1曲目の"Numb"が良い。歌声の断片の残響を巧妙に反復させ、霊妙なループをミキシングしながら、空間を広げていく。曲の終わりでは、歌の断片の反復にあらたに言葉の断片が繋がる。その美しい瞬間は見事で、ある意味ダブのネクストとも言えよう。
 リズムのアクセントにダブステップの痕跡も見られる。スクリューを混ぜながら、ダンス・ビートとしての機能も見失わない。気体のような女性ヴォーカルとの絡みはイヴェイドを思わせるが、タイトル曲の"Luxury Problems"ではしっかりハウスのビートを取り入れつつ、やはりシャックルトン的な音響的な倒錯を試みている。この曲がまた良くて、カール・クレイグの"クラックダウン"をスクリューしながらダブミキシングしたようだ。
 正直言って、10月のあいだ350枚以上のアルバムを聴いたので、テクノはしばらく聴きたくないと思っていたのだが、無理だった。"Up The Box"のリズム・エディットも実に新鮮。素晴らしいことに、テクノにはまだ前進する余地がある。まったく贅沢な問題だ。

 ブライトンという街は、日本のガイド本などを見ると「海辺の保養地」と書かれており、それもある程度は本当のことだが、国内では「ゲイとアナキストの街」と言われる一面も持っている。
 で、わたしの職場は、英国のゲイ・キャピタルと呼ばれるブライトンのゲイ街にあるのだが、ゲイの方々というのは美意識が発達している人が多いため、ストリートを占拠するとそこにセンスのいいカフェだの、アーティーなショップだのを次々と開くものだから、地域全体が「お洒落」と見なされることになり、そういう場所に住みたがるストレートも集まってきて住宅価格が高騰。ブライトンのゲイ街は市内随一の高級住宅街になっている。

 んなわけで、わが勤務先なんかも、預けられている子供たちは圧倒的にミドルクラス家庭の子女が多く、同性カップルの両親を持つ子供たちがけっこういる。
 だから、園のほうでは様々の気配りを行う。例えば、絵本なんかでも、男性と女性のカップルが両親として登場する本は置いてないし、子供たちをドールハウスで遊ばせる時にも、ダディ人形とマミイ人形のセットは使わない。ふたりのダディ人形や、ふたりのマミイ人形をそれとなく居間に座らせておくことはあったとしても。
 「そういう真綿にくるんだようなやり方は、本当は子供のためにならない」
 と、24歳のゲイの同僚Aは言う。
 「現実の社会は、全く違うから」
 という彼は、ヨークシャーの公営住宅地出身だ。
 ヨークシャーは英国で最も失業率の高いエリアのひとつである。「ひたすらホワイト・イングリッシュで、貧乏でマッチョだった」と彼が言うような公営住宅地で、ゲイがゲイとして生きるということは大変だったろうというのは容易に想像できる。彼がブライトンに南下して来た理由もそれだったらしい。

 実際、丘の上の公営住宅地から海辺のゲイ街に出勤しているわたしなんかも、毎日、両極端なふたつの世界を往復しているような感がある。
 例えば、ジュビリーやオリンピックで盛り上がった今年の夏は、英国中でユニオンジャックの旗が翻っていた夏でもあったが、公営住宅地ではさらにフットボール的で右翼的な聖ジョージの旗が目立ったし、ゲイ街には国家とはまるで関係のないレインボウ・フラッグがはためいていた。みたいな話をランチタイムにしていると、ゲイの同僚Aは言った。
 「英国全体がお祭りムードでなんとなくユニオンジャックを掲げていたときに、ゲイ・コミュニティと貧民街だけが違う旗を掲げていたっていうのは、面白いね」
 「それはやっぱり、正反対のようで似たところがあるから? 例えば、排斥されている意識とか」
 「そういう意識が強いグループほど、何かの旗の下に群れたがるからね」
 「でも、この街でゲイが排斥されてるとは言えないでしょ。経済的にも、影響力的にも、はっきり言って主流じゃん」
 「まあね。絶対数が多いから」
 というAは、ブライトンに来てから、鎧で全身を固めて生きるようなゲイ意識。というものを失くしてしまったらしい。
 彼はザ・スミスが涙ぐましいほど好きな青年なのだが、ヨークシャーの公営住宅地でマッチョなガキどもにいじめられながら身を固くして街を歩いていた頃、自室でガリガリ聞いていたのがモリッシーの歌だったと言っていた。
 が、そんな彼も、最近はまったくザ・スミスを聴いてないらしい。
 社会的にリスペクトされたゲイ街での暮らしは、その内部での人間関係などの問題はあるにせよ、総体的にはヘヴンだと言う。それはなんとなく、モリッシーの"I'm Throwing My Arms Around Paris"の中ジャケ写真の新宿2丁目的ムードを思い出させる。わたしの祖国の友人は、10年ぶりにモリッシーを見に行ったら、「さぶとマツコ・デラックスの世界になっていた。アイロニーだと思いたかったが、本人があまりに楽しそうだったので当惑した」と言っていた。
 思えば、いまでもモリッシーについて「居場所のなさを歌い続けている」と語るのは、ちょっと無理がある。英国のゲイにしても同様だ。彼らだってガラの悪い貧民街にでも近づかない限り、あからさまな排斥を受けることはないし、それにしたってAのように自分で動きさえすれば、居場所は探せる。
 「だいたい、僕は旗ってものが大嫌いなんだけど。旗を掲げるってのは、排他的な行為だ。レインボウ・フラッグにしても同じことだよ」
 とAは言う。
 たしかに、貧民街からゲイ街に入って来るとき、バスの窓から見るレインボウ・フラッグは、「さあここからは、ゲイとインテリが住むヒップな街ですよ。リベラルの概念がわからない人は来ないでね」と宣言しているようにも見える。
 逆に、ゲイ街から貧民街に帰るときに、公営住宅の窓から覗く聖ジョージの旗は、もう他には誇るものなど何もなくなったホワイト・トラッシュと呼ばれる人びとが、自分たちはイングリッシュであるという最後の砦を張り巡らせ、他者を威嚇しているようである。

 排除されている意識のある者に限って、旗を掲げて他者を排除しようとする。
 英国社会の階級は、もはや職業や収入だけで語れるものではなく、性的趣向や人種などの要素も入って来て著しく複雑になっており、例えば、ミドルクラスのストレートのパキスタン人とワーキングクラスのゲイのイングランド人はどっちがどっちを差別する側なのか。という風にぐちゃぐちゃになっているにも拘わらず、それでも階級が済し崩しにならないのは、人間の線引き願望というか、せつない旗揚げ願望のせいなのかも知れない。

 「そう考えると、レインボウ・フラッグも聖ジョージの旗も、なんかサッドだよね」
 わたしが言うと、Aは言った。
 「っつうか、バカだよね」
 レインボウ・フラッグをバカだと言い切るゲイには、わたしは他に会ったことがない。
 が、80年代に戦った世代のゲイと、現代の若いゲイには、明らかに温度的隔たりがある。時代は変わったのである。少なくともブライトンには彼らにとっての"ヘヴン"があるし、そこには、わたしたちの職場のような同性愛者の子女向け保育園さえ存在する。
 「とはいえ、そのバカな旗を揚げているグループの決定的な違いは、聖ジョージのほうの子供たちは、誰も真綿でなんかくるんでくれないということだよ」
 「・・・・・」
 「ヨークシャーでは、アンダークラスな地域の保育園で働いてたんだけど、あそこの子供たちは、現実を現実として直視しながら育って行くしかないもの」
 「わたしもそういうところで働いていたから、それは、わかる」
聖ジョージ旗とレインボウ・フラッグの世界に一本ずつ足を入れて生きてきたようなAが、心情的に着地するのは聖ジョージのほうなのだろうか。と思う。クラビングとダンス・ミュージックに明け暮れるゲイ街ライフを満喫しておきながら、ジェイク・バグがいい、いい、とわたしの耳元で囁き続けたのも、彼であった。
 ブライトンに移住して以来、"There Is A Light That Never Goes Out"が聴けなくなったと嘆くので、「そんなに聴きたいなら、うちに来る?」と誘うのだが、ぶんぶんと首を振る。公営住宅地には、強いラヴ&ヘイトの想いがあるようだ。
 2度と戻らない。と覚悟を決めている人ほど、そういうところがある。

             ***********

 英国では10月最後の週末から冬時間に切り替わっている。
 だから、1日の仕事を終えて職場を出る頃には世のなかは真っ暗だ。とはいえ、カフェやバーの灯りが揺れるゲイ街は明るい。そのにぎやかな灯りのど真んなかに戻って行くAに手を振り、バスの終点にあるわが貧民街に辿り着けば、そこには本物の暗闇が待っている。あまりに辺りが暗過ぎて車に轢かれた狐が路上に転がっていることもあり、動物にとっても危険なシーズンの到来だ。
 "There Is A Light That Never Goes Out"が似合うのは、こんな世界だ。
 市街の明るみの果てにある、闇の濃度が急に上がる世界。
 街灯が切れていても、地方自治体が取り替えにすら来てくれない、見捨てられた世界。

 There is a light and it never goes out
 頭上に生き残っている光はごく僅かであり、じーっ、じーっと不気味な音をたてている街灯は、あれはまた消え行く前兆なのだろう。
 There is a light and it never goes out
 じーっ、じーっと音をたてている街灯ではなく、安定感のある光を放っていた街灯のほうが、ぶつっと唐突に切れた。
 街灯がひとつ消えるたびに街の温度も下がって行き、今年の冬はのっけから底冷えがする。

 ちなみに、公営住宅地の灯りを消えっぱなしにしているこの国の首相は、2年前、ジョニー・マーからザ・スミス好きを禁止された男である。

Dum Dum Girls - ele-king

 名前を捨てた女。パンク・ロックに憧れ、イギー・ポップとラモーンズとヴァセリンズに徽章を借りて、カリフォルニアのリヴィング・ルームから世に現れた女。タイトなスカートにブラック・レザーをまとい、ファズの騒音とゴシックによる世界の暗転を好みながら、破れたストッキングを気にも留めずに、砕かれた愛を切々と歌うその女、ディー・ディーは、"ロード・ノウズ"でいま、神々しいまでのロック・バラードを歌う。男(ロック)への同一化願望や、母(保守)への反発といったライオット・ガール的なテーゼも、ここでは古くさいものに思える。ディー・ディーは、もっともっと遠い場所を仰ぎ見ているようだ。「ベイビー/これ以上、あなたを傷付けることはできない/神様なら知っているわ/私は自分の愛をずっと傷付けてきた/私の愛を」
 
 わたしはこの曲の感想を、もうロックなど聴いていないだろうと思っていた人とも共有した。それはとても久しぶりのことだった。流通環境的にも、単純に内容的にも、ポップ音楽ほど激しい変化にさらされつづけている文化も珍しいのかもしれない。もはや「特定のものが蒸し返される背景には、時代を支える無意識ではなくて個人的な動機が存在するだけだ」、橋元優歩が言うように。あるいはロックが自意識の容器になったと評されて20年以上経過しているが、別にいいではないか、それでも。ディー・ディーは、それこそごく個人的でしかない動機によって――この世界で生きることを引き受けようとするときに――ロックの緩衝を必要としているようにさえ見える。



 さて、このEP『エンド・オブ・デイズ』を何度か聴いてみて、良くも悪くも冒頭の"マイン・トゥナイト"と"アイ・ゴット・ナッシング"にどこか違和感を覚えたなら、あなたの直感は正しい。この2曲は前作、『オンリー・イン・ドリームス』のセッション時に生まれたもので、録音は2011年だ。既定のガレージ路線に沿って進む序盤の展開には、控えめに言っても、特筆すべき新鮮さはない。つづく"トゥリーズ・アンド・フラワーズ"の、輝くようなアンビエント・ギターで世界が一変するが、これはストロベリー・スウィッチブレイドが1983年にヒットさせたデビュー曲のカヴァー。母性の象徴としてか、「アイ・ヘイト・ザ・トゥリーズ/アンド・アイ・ヘイト・ザ・フラワーズ」というリリックをそのまま引き継ぎつつ、原曲に漂うある種の陽気さを取り払っている。地に根を張って、花に囲まれながらフォークを奏でることなどできない、とでも言うかのように。

 個人的なことを言えば、ダム・ダム・ガールズのレパートリーでは、アルバムに数曲だけ収録される、素直にポップで、センチメンタルで、狂おしいまでにロマンティックな曲を好いてきたが、その名も『オンリー・イン・ドリーム』(2011)のフォロー・アップにふさわしく、『エンド・オブ・デイズ』は、"トゥリーズ・アンド・フラワーズ"以降の3曲でドリーミーな時間をゆったりと過ごしている。同郷のガレージ・ポップ・デュオ、ベスト・コーストのセカンド『ジ・オンリー・プレイス』が演出していた、とろけるようなメロウ・アウトと共振するようでもあるが、あちらがミニマムな実人生に寄り添ったFMポップだったのに対し、本作の構えはもっと超然としている、啓示的なまでに。ホーリーでありながらドラッギーな傑作"ロード・ノウズ"のあと、EPをクローズするギター・ポップ"シーズン・イン・ヘル"は、バンドの結束とエナジーがまだ失われていないことを丁寧に補足している。


 彼女らはこの冬、ツアーを回っているが、その報告写真にしばし見とれた。そこに写されるのは、人生から逸脱しながらも、人生を引き受けて生きる女の姿である。単純なドロップアウトがアートにおける正義ならどんなに楽だろう。古いロック・スター・ライフへの同一化に誘惑されながら、そしてライオット・ガール史の現在地で引き裂かれながら、ディー・ディーは結局のところ、すべてを引き受けている。社会に含まれつつも真実に生きる逸脱者として、あるいはまた、夫を持つ一介の既婚者、妻として――。だからこそ『エンド・オブ・デイズ』は最高だ。つねにダブル・スタンダードを抱えてきたロック音楽の成熟と浄化、そして変わらぬ美しさを、ダム・ダム・ガールズは2012年に伝えている。

トクマルシューゴ - ele-king

 トクマルシューゴは、フレーズ頭の詞に「ア」母音と「オ」母音を用いることがじつに多い。これは彼が無意識にせよもっとも声が伸びるように言葉の選択を行っていることを想像させる。まず自由な発声があり、意味や感情は副次的なものだ......というか、発声そのもののなかにこそ意味や感情が生じてくるというような、ソングライティングにおけるひとつの逆説をふくむところが彼の歌の大きな特徴ではないだろうか。インタヴューを読んで深く納得したのだが、トクマルにとって詞は基本的にはひねり出すものであり、ことさら伝えたいことがあるわけではないという。圧倒的に緻密なプロダクションを持ち、高度な演奏テクニックをさりげなくめぐらせ、やすやすと多種の楽器と多種の音楽性をコマンドする録音スタイルは、すでに音が彼にとって言葉以上に自在な表現手段であることを物語っている。しかし、だからといってトクマルシューゴをインストとして聴く人はいないだろう。最終的に彼の楽曲をまとめ上げる紐帯となるのは、やはりあの得がたい声と旋律なのだ。多彩な音を束ねられるさらに強靭な音としてトクマルの歌はあり、そのなかからエモーションの芽が徐々に言葉や意味としてろ過され組織されていく。そうしたミュージシャンとしてのうらやましい才覚を、5作目となる本作ではあらためて感じさせられた。

 同時に、とくに日本のポップス観において意味や感情、観念といったものがいかに音に手綱をつけているか、いかに音がテーマ(恋など)ごとに様式化されているかといった様相を、日本と海外との間で相対的にあぶり出すことのできる稀有なアーティストのひとりであるということもわかる。悪い意味ではない。万葉の昔から日本人はテーマ別に歌を詠み、分類して楽しんできたのだから、それはわれわれの歌と娯楽のスタイルだったりするのかもしれない。しかし比較するならば、トクマルの音楽はその真逆ともいえる構造を持っており、そのことが海外のシーンに喜んで迎え入れられた理由のひとつであったこともまた間違いない。

 トクマルシューゴかシューゴ・トクマルか。彼の音楽を初めに評価したのは、国内の市場ではなく海外のメディアである。リリース元がニューヨークのレーベルだったという事情が大きいのだろうが、ヨーロッパもさることながら、USインディ・シーンからの反応はとくに多くの人の印象に深いはずだ。たとえばピッチフォークはその独特の点数評価によって「推し」を明確にするユニークな批評スタイルを築いてきたが、2005年の『L.S.T』からほぼ一貫してきわめて高い点数を送られてきたトクマルシューゴは確実に彼らの推しメンのひとりであったし、そうした反応や評価の強い影響下に、日本にあってもスフィアン・スティーヴンスやザ・シンズ、アンドリュー・バードなどと同じ土俵で聴かれてきた部分がある。フリー(ク)・フォークに数えるレヴューもあったが、これなども案外本質的な聴き方かもしれない。前作以降は国内での注目もさらに高まり、世界各地での演奏に加えて、CM音楽や舞台音楽を手がけるなど活動の幅も広がっているようだ。キャリアにおいてますますの充実を迎えようとしているタイミングである。

 いずれにせよ音楽が意味や感情の下にぶらさがるかたちで作られているならば、言語や文化の壁を越えることはむずかしい。またあまりに濃密に日本の文脈に依存したものは、そのおもしろさをなかなかうまく翻訳することができない。世界の人々に享受されるというのは、そのいずれの特殊性からも免れるようなある種の空洞をかかえる構造が必要なのではないかと思う。トクマルの詞における空洞はまさしくそれである。ラハハ""ラムヒー"などは曲名からして意味がないが、そのフレーズがリフレインされる部分にこそ強力なリズムの構造が可視化されているし、エモーションの奔流がある。

 本作『イン・フォーカス?』には、それらの祝祭的な6/8拍子を崩したようなせわしないリズムや高揚感と、対照的に"パラシュート"の面影を持ったのびやかな旋律とが綾を成してあらわれている。音も非常にクリアで立体的であり、『イクジット』などには色濃かったUSインディ色は前作を経由してより無国籍的でかつ耳なじみのよいポップスへと洗練されている。"デコレート"や"コール""カタチ""ポーカー"、あるいは"オードゲート"のような楽曲がその意味ではハイライトだと言えるかもしれない。コミカルなインスト・ナンバーをはさみながら、どの曲も隙のない展開を見せる。"タイトロープ"のシンプルな弾き語りや、それが響いている空気そのものを叙情的に切りとる録音はアルバム後半のへそとして際立っているし、"ダウン・ダウン"のブギーのように、遊び心やヴァリエーションも豊かに加えられている。マスタリング・エンジニアとしてクレジットされているのは、ジョアンナ・ニューサムやテニスコーツからザ・クークスにビートルズのリマスタリングまでを手がけるスティーヴ・ルーク(アビー・ロード・スタジオ)だ。

 個人的にはとくに"オードゲート"を好んで聴いた。A、B、サビというフォームをあまりにさりげなく聴かせるところがいいし、なにより「オードゲート」の「オー」が気持ちいい。「まっさら」の「さ」もそうだ。時間の尺が狂うように、その一音は長い。そしてこうした長さのなかに意味や感情のようなものが兆していると筆者には感じられる。発語を音に最適化させる、そのような能力に長けた人なのだろう。こうした瞬間を録音できるかぎり、トクマルシューゴには一生引退がこないのではないかと思う。若い、とくにロック系のバンドやアーティストにとって5枚のアルバムを出すのは大変なことであるし、メディアやリスナーからもつねに何かしらの変化を求められるものだが、トクマルシューゴの表情はすずしい。彼の目標はおそらくもっとじっくりしたところにあり、それはこれまでもこれからもとくに変わらないというふうに見える。ひとりで聴き、演奏し、曲を作り、楽器を集めることを喜びとする元祖ベッドルーム・ポッパーが、時間を経てもその喜びに忠実であり、そうであるかぎりは必ずよいアルバムを生むのだということを告げるような、とても締まった作品だ。

Chandeliers - ele-king

 この作品には蒸留されたノスタルジーがある、と言うのはメンバーのクリス・カリスである。それも「特定のアーティストのスタイルにではなく、音楽がもっとシンプルでミステリアスなものだった時代へのノスタルジー」である、と。

 筆者からすればこれは不正確な表現であるように思われる。音楽自体がシンプルさとミステリーとを喪失したのではない。音楽の聴き方からそれが失われたのだ。というか、そう述べる本人が、かつて音楽とのあいだに感じていた直接性――ピュアネスとあえて言い換えてもいい――を手放してしまったという苦い自覚に打たれているのではないか。問題は音楽の変質にではなく体験の変質にある。「ノスタルジー」だと言い切る背景には実際のところそのくらいメタな認識が忍び込んでいるように思う。そして、だからこそこのアルバムはつめたいファンクネスの裏側になんとも哀切なエモーションをたくしこんでいる。

 2008年の『ザ・スラッシュ』を記憶する方もいるかもしれない。シカゴの4人組、シャンデリアズの4枚めとなるフル・アルバムがリリースされた。カンやクラフトワークを思わせるクラウトロック志向に、〈イタリアンズ・ドゥー・イット・ベター〉などに通じるレトロで艶っぽいシンセ・ポップ、プリンスを彷彿させるシックなファンク・チューンはときにリキッド・リキッドのタイトなビート感覚に交差し、エイフェックス・ツインやケトルを思わせる叙情的なIDMがそこに浮遊感を与える。テクニカルである上にリスナーとしてもディープな体験を持つことがよくうかがわれ、2010年前後のモードにも敏感、ひと言で言って優秀なポップ作品だ。

 しかし今作をいいと思うのは、素直な感情表現がうまくなったように感じることだ。それは音楽的な技術でなされるものではない。わきの甘さというか、思考や感性などもっと総合的な部分で少し幅が生まれていて、エモーションと音楽とのよい距離が取れているように思う。『ザ・スラッシュ』にあったメランコリックなムードをテクニックで固めることなく、自然でかつ音と密接したかたちで表現している。その意味で"エンクレイヴス"をとても美しいと感じた。一方でアルバムを華やかに彩るのは"ニュー・タイムス"のビビッドで大胆なシンセづかいやダンスを踏み抜くようなビート、また"ル・コラージュ"や"ドメイン・オブ・ワンダー"のレトロかつ近未来的(死語だそうだ)なセンスの方である。どれもがなかなか隙を見せないが、その整い方や完成度にはとても気持ちのよいものがある。心を研ぎ澄ませることで音や方法を磨いていったというよりは、技術を洗練させるなかで新しく情緒が整えられていったのかもしれない。

 「いまの音楽は何を使ってどのように組み立てたかがすぐにわかってしまう」から好ましくないと語るクリスだが、それはシャンデリアズも例外ではないはずだ。もはやアナログな方法によっても、おそらくクリスの言う種類のミステリーは確保できない。『ファウンディング・ファーザーズ(建国の父祖)』とはおそらくそうしたミスティックな要素にまみれた根源への、あきらめ混じりの思慕である。何をどう組み立てて国(/音)が成り立つのか、それは明らかにはなりきらない種類のダイナミズムを持った問いである。音楽をそうした部分でとらえていた自らへの、そして表向きには「かつての偉大な音楽」への憧れや願いを織り込んだきわめてエモーショナルな作品である。

Tame Impala - ele-king

 彼らのはじめてのEPが出たころ、クリスタル・アントラーズやオール・ザ・セインツなど〈タッチ・アンド・ゴー〉の最後を飾ったアーティストたちも同じようなヴィンテージ・サイケを展開し、ウッデン・シップスのデビュー作のリリースによってドゥンエンらへの関心も再度高まりつつあったところへ、南アフリカからブラック・ジャックスが出てきてカオッシーなエネルギーを吹き込むなど、スペーシーなジャム・バンドやガレージ・サイケの系統は、ちょっとした盛り上がりをみせていた。

 エレクトロなイメージが定着していた〈モジュラー〉が、テイム・インパラのような音をリリースするというめぐりあわせにも時代の見えざる手を感じ、すくなからずときめきもした。あのEP『テイム・インパラ』の薄いスリーヴを手にしながら「キタな」とか「零サイケと呼ぼう」とか「13thリヴァイヴァルとかもこい」などと思っていたのが懐かしい......もはやくるもこないもない、5年を経て、いよいよあらゆる音楽が横一列に並んで享受されるようになり、リヴァイヴァルの意味など漂白されてしまったように見える。特定のものが蒸し返される背景には、時代を支える無意識ではなくて個人的な動機が存在するだけだ。「古いモノから新しいモノを創り出すのは僕らの世代にとって重要な要素だよ」と言うのはマシューデイヴィッドだが、リヴァイヴァルの連鎖で終わった先の10年を考えるときにこの言葉は重い。「どの」ムーヴメントを蒸し返すかは本質的な問題ではなく、そこから新しいものを引き出すことに焦点を当てた発言である。あとは空気を読まずに好きなものをやりつづけるか、読みに読んで流行ゲームを組織するか、どちらを好むかという選択の問題が残るだけだ。前者に与えられるチャンスが相対的に肥大した現在は、もしかすると音楽にとってはいい時代なのかもしれない。

 ともあれ、べつにわざわざ彼らを「ガレージサイケ・リヴァイヴァリスト」と呼ぶでもないなという状況の出来において、ようやく彼らの「セイム・インパラ(いつも同じじゃん? という彼らの楽曲への揶揄)」は、その一貫したフィーリングをあるがまま楽しみ、評価できるものになった。冒頭では13thフロア・エレベーターズやウッデン・シップスを引き合いに出したものの、そうした際限なきジャムの酩酊感よりは、ゾンビーズや『サージェント・ペパーズ~』などの英国的な翳りやソフトなサウンド・センス、またポップスとしての洗練に彼らの妙味があることが、いまではより見えやすくなっている。サイケデリックな音楽性を減速せずにポップスへと落とし込むことに長けたデイヴ・フリッドマンが前作に引き続きミックスを担当、あのにぶく爆ぜるような生々しすぎないローファイ感は、"アポカリプス・ドリームス"や"キープ・オン・ライイング"などの物憂げでしっとりとした、いかにも彼ららしい歌メロをクールに引き立てている。"エンドアズ・トワ"のヴァニラ・ファッジ的なオルガンの展開も現代性を帯びて聴こえる。"デザイア・ビー・デザイア・ゴー"を長らく愛してきた筆者にとって、そして多くのファンにとって、こうした曲はいずれもあらたな愛聴トラックとして記憶されることになるだろう。彼の音作りは、ダイナミックにファズを聴かせる"マインド・ミスチーフ"においても生きてくる。ラフすぎない、なんともシックなファズ(という形容矛盾をスマートに成立させるところもにくい)が、ベースのファンキーなグルーヴを個性的にドライヴさせていく。

 一方で、発展形としてはぜひとも"ナッシング・ザット・ハズ・ハプンド""サンズ・カミング・アップ"を挙げたい。前者で聴かれるアナログ・シンセには彼らなりの冒険があったはずだ。ケトルの、あるいはエイフェックス・ツインの叙情性とヴァニラ・ファッジやドアーズのハモンド・オルガンが交差するような、スリルある1曲。彼らの引き気味なスウィングもばっちりときまっている。酩酊ではなく叙情へとサイケデリアを操作する、本作のなかでももっとも果敢な姿勢を感じさせる名曲である。そして終曲のワルツにおいて強調されるアップライト・ピアノの質感、そしてジョン・レノンを彷彿させる節回し、ラフに挿入されたフィールド・レコーディング、ぐるぐると左右の耳を巡回するようなリヴァーブには、あきらかにノスタルジーとは異質の過去への飛翔がある。

禁断の多数決 - ele-king

 面白い。くだらない。そして、素晴らしい(田中宗一郎なら「ははは」と書くところだ)。てんぷらちゃん、尾苗愛、ローラーガール、シノザキサトシ、はましたまさし、ほうのきかずなり、処女ブラジルを名乗る、まったく名乗る気のない7人組=禁断の多数決のデビュー・フルレンス『はじめにアイがあった』は、最初からリミックス・アルバムとしてレコーディングされたような、奇妙な位相差を含んだ作品である。

 半年ほど前になるだろうか、編集部から送られた『禁断の予告編』なるプレ・デビュー作は、はっきり言ってパロディとしか思えなかったが、本作がそこから遥かに飛躍しているのは、すべての行為がパロディ/引用として振る舞ってしまうポストモダンの辛さを、前向きな貪欲さで迎撃しているからだろう。TSUTAYAで面陳されたJ-POPと、親の書棚から拝借したオールディーズと、YouTubeで聴き漁ったアニコレ以降のUSインディを片っ端からメガ・ミックスしたあと、派手なエディットでぶっ飛ばしたような......そうした音楽がここにある。
 あらゆる表現においてメモリがほぼ食い尽くされた同時代への意識がそうさせるのだろうか、そうした編集者目線は彼らのポップに奇妙な分裂性(リミックス感)をもたらすことになる。驚いたことに、もしかすると本人らは意識していないかもしれないが、"The Beach"や"Night Safari"は完全にヴェイパーウェイヴ・ポップで、人工度の高いオフィス・ミュージック(のフリをしたサイケデリック・ミュージック)の上に、メンバーの声が無表情に浮かんでいる(これがけっこう、コワい)。
 また、壊れたロックンロール、ないしブルックリンのフリーク・フォークを思い出させる"World's End"、ノイジーなハウス・ビートにクリーン・ギターが浮つくシンセ・ポップ"アナザーワールド"、フレーミング・リップスを思わせるハッピー・サッドなドリーム・ポップ"チェンジ・ザ・ワールド"と、目まぐるしいエディットのなかで世界というタームがクリシェのような使い方をされ、問題を提起する前にさらっと消費されているあたり、このバンドの身軽さを象徴するようだ。



 まんまオールディーズ・パロディな"Sweet Angel"もいい。けれども、教養主義的な名盤ガイドで仕込んだようなポップ音楽の記憶は、もしかしたらもう邪魔なだけなのかもしれない。昨今のポップ・ミュージックをめぐる膨大な情報量(https://www.ele-king.net/columns/002373/)は、これまでの常識からすれば、すでに一人の人間が体系的に俯瞰できる量を物理的に超えている。だから、極論すれば、iTunes/Soundcloud/Bandcampなどのネイティブ・ユーザーにとって、録音音楽の一義的な差異は、もはやURLやタグの違いでしかないわけだ。
 『はじめにアイがあった』は、あるいは音楽をそのように扱っている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとパフュームのどちらが偉いかなんて、まるで考えたこともない。そう、禁断の多数決は、例えばそのような狭量さの先へとずんずんカット・インしていく。批評性を失効させることで立ち上がる何か。正史が定められたかに見えるポップ音楽の記憶を、彼らはリズミックに改ざんしている。「ポップ(多数)」なき時代のポップはどこにある? 一見、軽薄に見える態度とは裏腹に、彼らの問いかけは切実である。

 もっとも、『はじめにアイがあった』に一票を投じるなら、村社会内での終わらない相互孫引き(=近親相姦)がこの国のポップ・ミュージックを疲弊させている事実にも目を向けなければならないだろう。ぐるぐると無限に再流通する音楽群を前にして、「俺たちは音楽を知らない」とシャウトすること。無限に可視化されてしまった情報を前に、目を閉じて叫び散らすこと。批評性と呼ぶのが大げさなら、神聖かまってちゃんが体現したそれは、何かしらのSOSとも言えただろうか。
 とするならば、禁断の多数決から感じるのは、この広い海を引用にまみれながらも泳ぎ切ってやろうとする前向きさである。どう聴いてみても、器用さやシニカルな愛情だけでなせる業ではない。彼らはここで、どこにも行けないその場所で、楽しんでやると決めたのだ、おそらくは満場一致の多数決で。みんなで寝そべって、ポップ音楽のアーカイブをフラットなトランプにして、ババ抜きでもして遊んでいるようじゃないか。副題を付けるなら「さらば相対性理論」。J-POPの退屈さを呪ったJ-POPによる逆襲である。

Kaoru Inoue - ele-king

 いまから130年前、ドビュッシーがパリの万博で聴いたガムランに触発されたという話は有名だが、そのとき音は、聴覚が享受する外部からの情報として機能している。宮沢賢治が風の音を聴くように、音には音のみが伝えうる情報がある。ゆえにURは北米のネイティヴの独特な音節をテクノに注ぎ、フライング・ロータスはサンパウロに思慕を寄せる。サン・アロウはまだ見ぬアフリカへの憧憬をダブ・ミキシングに込める。ブライアン・ジョーンズのジャジューカのエディット、シャックルトンの熱帯雨林の幻影、T++のアフリカの記憶......、20世紀の半ばまでの世界旅行者のほとんどが軍人か大商人だったことを思えば、我々の想像力には先人たちよりもずっと外在する音に関するニュアンスを知るようになった。もし耳を澄ましているのなら、より柔軟で寛容になっているはずである。

 井上薫は、すでに年季の入ったDJでありプロデューサーだが、たまたま日本で暮らしている旅行者のようである。90年代末、彼がチャリ・チャリ名義でデビューしたとき、彼は自身の民族音楽趣味をハウス・ミュージックのなかに注いだ。東南アジア圏内の民族楽器は代用のきかない音色を持っている。耳を澄ます人にはその響きを感じることができる。その気がない人には気にもとまらない。風の音のように。
 DJがワールド・ミュージック的なアプローチするとき、たとえばカリブに気が向いたときなどは、リズムの特性や楽器編成を取り入れたくなるかもしれない。現地の演奏家を招いたり、やり方を学んだり。井上薫の場合、音の構造はハウス・ミュージックのそれにほぼ統一されている。とくにDJとして精力的に活動をしてからは、ハウスのスタイルにこだわりを見せている。彼が聴いてもらいたいのは異国情緒ではない。外部に存在する「音」なのだ。

 『ア・ミッシング・ミス』は風の音のようなドローンからはじまる。そして空間的な音響を広げつつ、2曲目のミニマルな展開へと繋がる。このあたりのアンビエントなテイストは井上薫のもっとも得意とするところで、シャックルトンのサイケデリックな熱帯夜(今回のアートワークがまさにそんな感じ)を柔らかく変換したようである。
 2年の歳月をかけたというこのアルバムは、すべての曲が繋がっている。ハウスのリズムはさりげなくミックスされ、そしてじょじょにテンポを上げていく。アップリフティングな、昔ながらのDJ物語だが、ある種の前向きを表現したかったのだろう。曲のところどころからは緻密な録音(音の配置)を通して、例によって彼の民族音楽趣味が聴こえる。"サヴェージ"のような曲では複雑なリズムに催眠的だが耳障りの良い旋律もミックスして、バレアリックなフィーリングを引き出す。"スターゲイザー"では彼らしくロマンティックな、そしてコズミックなファンクも見せる。ムーチーの異文化混合とも似た感覚を思うファンもいるかもしれない。
 いずれにしても、井上薫は幻覚的なグルーヴを悪用することなく、礼儀正しいダンス・アルバムを作った。ダンスがなくても良いアルバムになったかもしれない。いずれにしても、耳が痛くならないからご安心を。

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