「IO」と一致するもの

K-PUNK 自分の武器を選べ──音楽・政治 - ele-king

「グラム・ロックこそパンクである──歴史的にもコンセプトにおいても」

彼を一躍人気作家にしたブログ「K-PUNK」から選集されたマーク・フィッシャーの原点にして最終作

21世紀初頭において、もっとも影響力のある
労働者階級出身の批評家によるエッセイ/論考集の「音楽・政治」編
資本主義の向こう側に突き抜けるための思考の記録

思想家/批評家、マーク・フィッシャーの人気を決定づけたブログ「K-PUNK」からのベスト・セレクションの第二弾。著書『資本主義リアリズム』で広く知られるフィッシャーだが、彼の批評活動の原点にあるのは音楽だ。その音楽批評には彼の政治思想が共鳴している。グラム・ロックやポスト・パンクからサッチャーにトランプまで。資本主義にも、音楽のレトロ化にも、頭でっかちなアカデミックな考えにも、左翼の高級化にも反対し続けた批評の数々。

本書で言及される音楽:
ロキシー・ミュージック、ブライアン・フェリー、デイヴィッド・ボウイ、グレイス・ジョーンズ、ケイト・ブッシュ、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、ジョイ・ディヴィジョン、マーク・スチュワート、ザ・フォール、ザ・バースデー・パーティ、ギャング・オブ・フォー、スクリッティ・ポリッティ、テスト・デパートメント、ザ・キュアー、アンダーグラウンド・レジスタンス、モロコ/ロイシン・マーフィ、カニエ・ウェスト、ジェイムス・ブレイク、ドレイク、ダークスター、DJラシャド、スリーフォード・モッズ、ほか。

本書で扱われるテーマなど:
ポスト・フォーディズム、新自由主義、サッチャー、9・11と監視社会、ブレアと新しい労働党、テロリズム、メンタル・ヘルス、トランプとブレグジット、「コミュニスト・リアリズム」、ほか。

四六判/648頁

目次

日本語版編者序文

第三部
自分の武器を選べ:音楽関連の著述 (坂本麻里子+髙橋勇人訳)

今や恒例、グラストンベリーに対する暴言
アート・ポップ、いや、これは本物のそれの話
k‐パンク、あるいはグラムパンクなアート・ポップの非連続体
反資本としてのノイズ──『アズ・ザ・ヴィニア・オブ・デモクラシー・スターツ・トゥ・フェイド(民主主義の虚飾が消え薄れはじめるにつれて)』
うたた寝から目覚めたライオン、あるいは今日における昇華とは?
今におけるすべての外部
あなたの不快楽のために──ゴスの尊大なオートクチュール
僕たちみんな死んでしまおうが構わない──ザ・キュアーの不浄なる三位一体
光を眺めてごらん
ポップは不死身なのか?
クラーケンのメモレックス──ザ・フォールのパルプ・モダニズム パート1~3
スクリッティの甘美な病い
病理としてのポストモダン主義、パート2
自分の武器を選べ
あるテーマの変奏
ランニング・オン・エンプティ
ユー・リマインド・ミー・オブ・ゴールド──マーク・フィッシャーとサイモン・レイノルズとの対話
戦闘的傾向は音楽を養う
オートノミー・イン・ザ・UK
二一世紀の隠れた悲しみ──ジェイムス・ブレイクの『オーヴァーグロウン』
デイヴィッド・ボウイ、『ザ・ネクスト・デイ』評
すべてを持っている男──ドレイクの『ナッシング・ワズ・ザ・セイム』
ブレイク・イット・ダウン――DJラシャドの『ダブル・カップ』
自分のナンセンスを始めろ!──イーエムエムプレックズとドリー・ドリーについて
スリーフォード・モッズの『ディヴァイド・アンド・イグジット』と『チャブド・アップ:ザ・シングルズ・コレクション』評
テスト・デパートメント──左派理想主義と大衆モダニズムが出会う場
融資なしじゃロマンスはあり得ない

第四部
今のところ、我々の欲望には名前がない:政治に関する文章 (五井健太郎訳)

投票するな、奴らをその気にさせるな
一九七九年十月六日──資本主義と双極性障害
彼らが抗議して、皆が参加したからといって、いったいそれで何になるというのか
ヒドラを退治すること
テロリズムの顔なき顔
衒示的武力と害虫化
私の人生、私のカード──アメックス・レッド・キャンペーンについての注解
グレート・ブリンドン・クラブ・スウィンドル
ストレスの民営化
囲い込み(ケトル)の論理
不満の冬2.0――戦闘性の一ヶ月に関するメモ
フットボール/資本主義リアリズム/ユートピア
ゲームは変化した
創造的資本主義
現実の管理経営(マネジメント)
UKタブロイド
未来はいまだ我々のもの――オートノミーとポスト資本主義
美学的な貧困
確実なのは死と資本だけ
メンタル・ヘルスはなぜ政治の問題なのか
ロンドン版ハンガー・ゲーム
時間戦争──新資本主義時代のオルタナティヴに向けて
上手く負けるのではなく、勝つために戦うこと
マーガレット・サッチャーの幸福
微笑みとともに苦しむこと
ゾンビの殺し方──新自由主義の終わりを戦略化する
殺人罪を逃れ切ること
誰も退屈していない、すべてが退屈させる
影のための時間
未決状態は終わった
コミュニスト・リアリズム
今こそ痛みを
希望を棄てろ(夏がやって来る)
今のところ、我々の欲望には名前がない
アンチ・セラピー
民主主義とは喜びである
サイバーゴシック対スチームパンク
マネキン・チャレンジ

索引

[著者]
マーク・フィッシャー(Mark Fisher)
1968年生まれ。ハル大学で哲学の学士課程、ウォーリック大学で博士課程修了。ゴールドスミス大学で教鞭をとりながら自身のブログ「K-PUNK」で音楽論、文化論、社会批評を展開する一方、『ガーディアン』や『ワイアー』などに寄稿。2009年に『資本主義リアリズム』を、2014年に『わが人生の幽霊たち』を、2016年に『奇妙なものとぞっとするもの』を上梓。2017年1月、48歳のときに自殺。邦訳にはほかに講義録『ポスト資本主義の欲望』、ブログからの選集第一弾『K-PUNK 夢想のメソッド──本・映画・ドラマ』がある。

[訳者]
坂本麻里子(さかもと・まりこ)
1970年東京生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。ライター/通訳/翻訳者として活動。ロンドン在住。訳書にコージー・ファニ・トゥッティ『アート セックス ミュージック』、ジョン・サヴェージ『この灼けるほどの光、この太陽、そしてそれ以外の何もかも』、マシュー・コリン『レイヴ・カルチャー』、マーク・フィッシャー『K-PUNK 夢想のメソッド』ほか多数。

髙橋勇人(たかはし・はやと)
1990年、静岡県浜松市出身。ロンドン在住。早稲田大学国際教養学部卒業後、ロンドン大学ゴールドスミス校で社会学修士課程と文化研究博士課程を修了。ウィンチェスター美術学校でメディア論を教える。音楽ライターとして、ハイパーダブの日本版ライナーノーツを執筆し、DJなどの音楽活動も行っている。

五井健太郎(ごい・けんたろう)
1984年生まれ。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はシュルレアリスム研究。訳書にマーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち』『奇妙なものとぞっとするもの』、ニック・ランド『暗黒の啓蒙書』『絶滅への渇望』、共著に『統べるもの/叛くもの』『ヒップホップ・アナムネーシス』など。

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しばてつ・山田光・荒井康太トリオ - ele-king

 自身のhikaru yamada and the librariansをはじめ、入江陽前野健太などの楽曲参加から「小さなポップ・ミュージック」をテーマにしたコンピレーション『tiny pop』の監修まで、フリー・ジャズ/即興演奏の分野に留まらぬ活動をつづけてきたサックス奏者/トラックメイカーの山田光。そんな彼の新プロジェクトは、80年代から活動するヴェテラン鍵盤奏者、しばてつと、さまざまな民族音楽から影響を受けたというドラマー、荒井康太とのトリオだ。『じゃフリージャズやろう』とのタイトルどおり、生々しいフリー・ジャズに挑んだ45分ノンストップのアルバムがすでにbandcampにて販売中。ぜひチェックしてみて。

しばてつ・山田光・荒井康太トリオによるアルバム“Jya, let​’​s play free jazz​.​”が2024年6月15日(土)にリリースされる。

hikaru yamada and the librariansやmcjeといった自身のユニットで活動するアルトサックス奏者/トラックメイカーの山田光。今回、彼はピアノのしばてつ、ドラムの荒井康太とともに、この時代に敢えて伝統のベースレストリオ編成でLPサイズのフリージャズ(ノンストップ45分間)を演奏する試みを始めた。

最初の作品となる“Jya, let​’​s play free jazz​.​”は2024年3月25日に行われたライブ録音でピアノ・サックス・ドラムの打点を生々しく捉えたオンマイクサウンドにより、フレッシュなフリージャズサウンドを聴かせる。

しばてつは1959年東京に生まれ、1980年代より活動を続けるピアノ / 鍵盤ハーモニカ奏者。2016年に鍵盤ハーモニカによる即興演奏集『Plastic Pneuma』をHitorriレーベルからリリースしているが、ピアノによるフリージャズ演奏の音源化は今回が初めて。

荒井康太は伊豆諸島最南端の孤島 青ヶ島出身。アフリカを代表するカメルーンのドラマーBrice wassyの演奏に衝撃を受けBriceと弟のVincentに師事。現地カメルーンに渡りトラディショナルのリズムをエッセンスとしたドラミングを学ぶ。ジャズ、ポップス、ロック、はたまた韓国の農楽やシャーマン音楽、台湾原住民音楽、ブラジル、アフリカなどの民族音楽から、即興音楽や実験音楽、ライブペイントやダンスとの共演など、現代音楽アートフェスや舞台音楽などジャンルにとらわれない幅広い演奏活動を行っている。現在は田中圭や奈緒らと共に舞台『Medicine メディスン』に出演中。

[リリース情報]
アーティスト名: shibatetsu (p) + Hikaru Yamada (sax) + Kota Arai (ds) Trio
タイトル: “Jya, let​’​s play free jazz​.​”
リリース日: 2024年6月15日(土)12:00(正午)
レーベル: OPAC
カタログナンバー: OPAC-1001
フォーマット: Bandcampでのダウンロードとストリーミング

https://opaclabel.bandcamp.com/album/jya-let-s-play-free-jazz

価格: 1000円

■曲目
1. movement1
2. movement2
3. movement3
4. movement4

ミックス/マスタリング: 山田光
アルバムジャケット: しばてつ

■参加ミュージシャン
しばてつ: piano
http://www4.plala.or.jp/soodemonai/

山田光: sax
https://ekytropics.blogspot.com/2024/04/httpswww.html

荒井康太: drums
https://kotatatakataton.jimdofree.com/

■プロフィール
山田光: 1988年生まれのアルトサックス奏者、トラックメイカー。サンプリングを主体とするトラックメイキングとサックスでのフリージャズ/即興演奏をおこなう。自身のユニットであるhikaru yamada and the librariansやfeather shuttles foreverで作品をリリースするほか、入江陽、前野健太、South Penguin、毛玉、んミィバンドなどの楽曲に参加している。監修作品にコンピレーションアルバム『tiny pop – here’s that tiny days』(2020年、P-VINE)がある。

interview with John Cale - ele-king

 ジョン・ケイルほどの充実したキャリアがあると、どこから話をはじめればいいのかわからない。ウェールズの小さな村ガーナントで、近所の教会でオルガンを弾き、地元の炭鉱労働組合の図書館が収蔵する楽譜に熱中したのがはじまりかもしれない。ロンドンでフルクサスの芸術家コミュニティと協働していた時期や、アメリカで名前の似たジョン・ケージやラ・モンテ・ヤングと一緒に活動していた時期もある。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでロックのオルタナティヴな領域まるごとの基盤を築きもした──そこから派生するもうひとつのロック史を、モダン・ラヴァーズやパティ・スミスやハッピー・マンデーズなどのプロデュース仕事を通じて育んだことは言うまでもない。彼の長く多彩なソロ活動のどの時点でも物語の入口となる。
 しかし、彼のすばらしい最新アルバム『Poptical Illusion』は、ジョン・ケイルの現在地とそこに至る歴史の両方への窓口として、ごく自然な出発点となるだろう。
 ケイルはこのアルバムのタイトルにあまり大きな意味を持たせたくないようだが、これは本当に内容を表している。『Poptical Illusion』をポップ・アルバムとして聴くことは可能だし、1曲目の “God Made Me Do It (Don't ask me again) ” から、フックとメロディーと結晶のように完璧なプロダクションが差し出される──その意味で、ここにはポップを求める人に発見されるべきものがたしかにある。
 幻想的な側面はより制約から自由だ。あらゆるポップは幻想やファンタジーの技なのだという感覚がある。それは悲しみの物語を伝えるときでさえ、すべて大丈夫だと嘘をつき、慣れ親しんだコードやメロディーであなたを心地よく抱擁し、期待通りに解決してくれる。だが、それはジョン・ケイルのやりかたではない。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの頃から、彼の音楽はつねに慣れ親しんだものを転覆させ期待を裏切るやりかたを見出してきた。彼のソロ活動はひとつの成功を定型化することを決してよしとしない道のりをたどってきた。初期にはテリー・ライリーと大部分がインストゥルメンタルのコラボレーションをおこない、評価の高い1973年のアルバム『Paris 1919』では繊細なチェンバー・ポップを、続く『Fear』や『Slow Dazzle』では全体的により荒涼とした、歪んで揺れる脱構築されたロックンロールを聴かせた。以降、彼はクラシックとアヴァンギャルドとポップの極致を探求し、決してひとつの場所に留まることなく、つねに次へと動き続けている。
 『Poptical Illusion』自体が多彩なアーティストたちとのコラボレーションを特徴とした前作『Mercy』からの変化を示しており、今回はより音楽的に自己充足した世界となっている。とはいえ、作品のテーマやケイル独自の豊かなヴォーカル、そして歌詞には連続性がある。初期にルー・リードとつながりがあったからだろうか、ケイルは作詞家としては十分に評価されていないようだが、彼はストーリーを理解するのに必要な情報のほとんどを行間に置いて語り人を惑わせる才能がある。曲中の登場人物が恐怖や不安や憂鬱を表現し、それらの文脈となる出来事や行動を断片的にしか明かさないやりかたは、M・ジョン・ハリスンやアラン・ロブ=グリエのような作家たちの不安げでありながら解き放たれた雰囲気を想起させる文学的な色合いを、この新しいアルバムにもたらしている。
 そしてケイルの音楽的な多様性に関して言えば、『Poptical Illusion』には、 “Calling You Out ” の途中でキーが外れて胃が痛くなるような急展開や、 “Shark Shark ” のキャッチーなフックのループを通して何層にも重なってゆくディストーションなど、彼の過去の作品に通じる慣れ親しんだものを脱臼させる感覚がある。
 このアルバムのリリースに先立って、ロサンゼルスの自宅にいるケイルにオンラインで話を聞いた(以下の会話は簡潔性と流れを重視して編集されている)。

図書館はすごく重要だった。あの小さな小さな建物の一室にあらゆる本が揃っていて、そこからたくさんのことを学んだ。

あなたの新しいアルバム『Poptical Illusion』は昨年の『Mercy』から間を置かずにリリースされますね。

JC:できるだけたくさんの仕事をしようとしているんだ。きっかけはロックダウンだった。あれが起こったとき一緒にやってくれる人が周りに誰もいなくて、突然、自分がいつまで仕事をやっていけるのかわからなくなった。本当に周りに人がいなかった。だから動き出したらできるだけたくさんの仕事をしようとした。その結果、プロジェクトの最後まで自分でかなり精力的に取り組むことになった。最終的にはこの成り行きにとても満足した──音楽にはたくさんのアイデアと、さまざまな種類の攻撃性があった。完成に至ったときにはたくさんの曲ができていた。期待していなかったことだけれど、とても満足していたんだ。

すべての曲が他のアーティストとのコラボレーションだった『Mercy』に比べると、新作はより自己充足している感じがします。それはパンデミックの影響ですか?

JC:そうだね。私はただ仕事に取りかかり、自分が音楽に求めるある種の攻撃性を掴んだ。ほんの少し楽になったよ。だけど、あのアルバムが完成してからたくさんの曲を書いたし、このアルバムがあったからすぐに出すのはまあ簡単なんだ。

ある種の攻撃性とおっしゃいましたが……

JC:まあ、それは作品を完成させられるか本当に不安だったから生まれたものだね。

これはまた違う種類の攻撃性かもしれませんが、いくつかのテーマは『Mercy』から続いているように感じます。歌詞はおそらく抽象的だったり斜めからアプローチしているのかもしれませんが、そこには現在進行中の社会の崩壊という一本の線が引かれているようです。

JC:そう、それが歌詞を書くことの魅力のひとつだ。さまざまな言葉の使いかたがある。ものごとの混沌とした側面が自分にとっては本当に魅力的なんだ。ただ要求に合わせようとして、自分の詩的な側面が無視されていることを確認するだけの話じゃない。

あなたは過去に、作詞家としてのルー・リードと曲を作ってよかったことに、彼がものごとの矛盾を扱うのがとても上手かったことがあると言っていましたね。

JC:ああ、そうとも言えるね。つまり、私はそれを心に刻んでいた。混沌が受け入れられるということが自分にとってとても重要だったんだ。

あなたの過去の作品にはディラン・トマスの影響もあるように感じます。

JC:というか、そうしようとしているんだよ! うまくいかないとき、「どうなろうがディラン・トマスの詩を全部音楽にしてやるぞ!」と言った。それは挑戦だった。すごく力強い詩の感覚を持っている人物を相手にしているわけだから、そこからできる限り吸収して学ぼうとしたけど、彼のリズム感はただただ圧倒的だ。ウェールズで育つと、「わあ、僕もこんなふうにできたらいいのに!」と思うようになることのひとつだね。すごく重要なことだ……「わかった、やってみろ! 心配しないで、やるしかない!」ってね。

ディラン・トマスの詩を音楽に合わせるのに本格的に取り組んだのは、『Words for the Dying』でしたね。

JC:そのとおり。

自分はウェールズ系の家庭で育ったので、彼の作品の重要性はよくわかります。つまり、ウェールズからの影響というのは、ずいぶん前にそこから離れているにもかかわらず、あなたがたびたび戻ってくる主題だと思うのですが。

JC:(笑)そうだね、それは認めるよ! ウェールズという土地のあたたかさと寛大さに一度気づくと、それはずっと心に残り続けるんだ。誰かに腹を立てるだけで無くなるものじゃない。特にその遊び心。 “Davies and Wales ” を書いたときはそういうユーモアの一面があらわれていて、自分としては満足だ。そして “Shark Shark ” にも、その領域に通じるある種の陽気さがある。

“Davies and Wales ” と聞いて思い出されたのは、自分の家族のウェールズ系の人びとが80年代から90年代にかけて、ジョナサン・デイヴィスがキャプテンを務めていた頃のラグビーを観戦していたことでした。

JC:私はラグビー的感性が織り込まれていることについて聞かれ続けてるよ!

年に一度、シックス・ネイションズ、当時はファイブ・ネイションズ(※ラグビーの国際選手権大会)の期間中に、母が「デイヴィスとウェールズ! カムリュ・アム・ベス!(※ウェールズ語で「ウェールズよ永遠に」)」と叫ぶのが聞こえてくるようでした。

JC:ファイブ・ネイションズ、ちょっと怖いね。ある意味笑えるし、活気と喜びに満ちあふれているけど、それと同時に他のどこでも同じような過ちが犯されてきた可能性がたくさんある。

そこにはある種の暴力性も潜んでいるかもしれませんね。

JC:間違いない。

ウェールズでの少年時代、あなたにとって故郷の村の図書館がとても重要だったと読んだことがあります。

JC:図書館はすごく重要だった。あの小さな小さな建物の一室にあらゆる本が揃っていて、そこからたくさんのことを学んだ。そこに行って探している本が見つからないときは、本の名前を言えば走って取ってきてくれた。バートランド・ラッセルやウィトゲンシュタインなんかの哲学者だったら1週間以内に手元に届いた。でも、音楽は(ロンドンの)メリルボーン公共図書館から取り寄せることになって、そこが楽譜を手配してくれたんだ。シェーンベルクやもっと無名の作曲家が欲しかったりすると彼らが買ってくれる。図書館はとても重要だった。たとえばハウベンシュトック=ラマティの音楽が欲しいとき──図書館のなかでもっともすばらしく、もっとも知られていない曲のひとつだった!──それが突然に自分の手のうちにやってくるんだから、すごくわくわくしたよ。

あの時点で私たちがやろうとしたことを本当にやった人はまだ誰もいなかった。つまり、ルーはそれに夢中になり、私はなんとしてもその境界線を壊してやろうとしていた。自分たちはいい線いってたと思う!

今朝起きてソーシャルメディアのフィードで目にした最初のニュースは、アイダホ州にあるそういう小さな図書館の話でした。新しい州法によって子どもが本にアクセスすることが法的に難しくなりすぎたという理由で、子どもが図書館を利用できなくなったというのです。あなたの新しいアルバムにある歌詞、「右翼が図書館を焼き払う」を思い出しました。

JC:その歌詞にはとても満足している。いい歌詞をいくつか書けたよ!

でも、混沌のなかに身を置いている割に、『Poptical Illusion』というタイトルは……

JC:ただの思いつきだよ! そこにユーモアのセンスが効いていたから、思いついたときに「こんなことを考えたんだけど……」と言ったら、その場にいた人が、「それ使わないと!」と言ったんだ。だから、いろいろなことにあてはまるし、そこに忍び込んできたんだ。

あなたの作品はつねにポップ・ミュージックとある種の関係を結んでいるように見えます。違いますか? あなたはキャリアの早い段階から、広い意味でポップ市場と呼べるようなところで仕事をすることを選んできましたね。したがって、ポップはクラシックやアヴァンギャルドと対話しているわけですよね。

JC:そう、それは豊穣な土地だ。人生で発見する最良のものごとをすごいスピードで吸収する──音楽や他のあらゆるもの、図書館やきみが必要なもの何もかも。アイダホのああいう人びとは思慮が浅い。人生に何が役立つのかについて考えが足りないんだ。私たちは何かを学んだり身の回りのものを吸収したりする機会があるからここにいるのであって、それを利用しなければただ時間を無駄にしているだけだってことを、彼らは考えたこともないんだろう。

この背後に潜んでいるのは子どもたちが学びすぎることへの恐れ、あるいは子どもたちが成長することへの恐れだと思います。子どもの自立に対する恐れです。

JC:そう! その通り! 恥ずべきことだ。愚かなことだ。はっきり言っていい、それはただの無知蒙昧だ!

この1週間あなたの旧譜を聴き直してみて、『Paris1919』の興味深い点は、表面的にはポジティヴだけれど、おそらくいまは抑えつけられているけれどふたたび表に出るのを待っている暗いものの種を体現しているところだと感じました。

JC:ある時点で、『Paris1919』は言ってみればその醜悪さを楽しませるようにして生き延びてきたと思うようになった。でも、あのアルバムが出たときには、「おまえは何をやってるんだ? 自分にとってヨーロッパとは何かを説明した、LAに住んでる、ワーナー・ブラザーズのために働いてる、すごく変わった感性を備えたアルバムを作った、自分がやってきたことのかなりの部分はウェールズからLAに行くことの意味をカタログ化し、そこに戻って何が起こっているかを語ることだ……『そこに戻って』が何であろうとも」と考えていた。

なるほど。自分があの作品に惹かれたのは、あれが参照している時代のためだと思います。第一次世界大戦が終わり、第二次世界大戦が未来に迫っている。ある意味、それはいまの私たちが経験していることに似ています。瓶詰めにされたものがふたたびこぼれはじめている。

JC:同感だ。でも、それは同時に……ひとつの設定なんだ。このまま続けるためにやっているのか、それともただ自分の周りのことを観察するためにやっているのか? これはそれ以上のものだと思う。避けては通れないものだ。これが私たちの持っているもの、つまり、さあ、やってみようという。

いま、私たちは少しばかり暗い時代の最中にいるように感じていますが、新しいアルバムではほんの少し希望や光を求めているところがあるのではないでしょうか?

JC:それほど頑張ってはいない。そんなに頑張ろうとはしていないよ。

“How We See The Light ” について考えているのですが、この歌詞は憎しみが溶けてゆくようなちょっとしたエンパシーの瞬間に触れているように思えます。

JC:ううむ……つまり、それはとても上品な言いかたで、自分にはまだその準備ができているとは思えないな!

音楽をやっていて年をとるのは避けられないことかと思うのですが、『Mercy』はいまは亡き人や、過去に一緒に仕事をした人、あなたにとって重要な人びとの亡霊たちに取り憑かれているような感じがします。

JC:亡くなった人びとというよりも自分にとって重要な人びとという言いかたがしっくりくるね。なぜかはわからないけれどそれを認識し、認識する行為が自分にとって必要なことのすべてであるように祈るんだ。

今回のアルバムにもそうした亡霊たちの一部がまだ残っているのでしょうか?

JC:たしかにいるだろうね。ただ自分がそれらを意識していないだけなんだ。自分には取り組むべきものがたくさんあると思うけど、ただやり続けるだけだ。というのも、自分のやってきたことは作曲や作詞のスタイルに関して手を出してみたことやアルバムのエネルギーそのものにあらわれていると思う。自分がどうやっているか、何をしているかにより多くの情熱が傾けられているんだ。

意識的に何かに取り組むことなく曲を書き、しばらく時間が経ってから「ああ! あれはこういうことだったんだ!」と思うようなことはありますか?

JC:あるある!『Paris1919』について言ったのはそういうことだ。

ブライアン・イーノが自身のファースト・アルバムについてコメントしたのを読んだことがあります。友だちに「あの曲でブライアン・フェリーについて書いたのはとても勇敢だ!」と言われて、「何だって? あの歌詞はただのナンセンスだ!」と思ったけれど、聴き返してみると「うわ、これは彼のことに違いない!」と思ったそうで。

JC:(笑)! ほらほら、認めろよ、ブライアン! ほら! 私たちは結局のところみんな嘘つきなんだ。

ある意味こっそりやるんだ。そこには狡猾さがある。文学的な側面に寛大な態度でアプローチしようとすると、人びとは曲から出てくる言葉に心地よい驚きを覚える。それは重要だった。

ポップという概念と、それがあなたが経験してきた他の分野といかに相互作用を起こしているかの話に戻ります。それがヴェルヴェット・アンダーグラウンドであなたが担った役割の一部だったのでしょうか? つまりある意味で耳慣れた心地よいロックンロールのようなものを採用し、それを複雑化させたり脱臼させたりする方法を見つけることが。

JC:そう。つまり、脱臼させることはとても重要だった。あの時点で私たちがやろうとしたことを本当にやった人はまだ誰もいなかった。つまり、ルーはそれに夢中になり、私はなんとしてもその境界線を壊してやろうとしていた。自分たちはいい線いってたと思う!

たしかに! その後、あなたはソロアルバムの制作に移行しましたが、『Vintage Violence』の際により馴染みのある伝統的なやりかたでの曲作りを学ぶ必要があるという感覚はありましたか?

JC:少しはあったけど、ロックの作曲法には取り止めなく実験的な部分もあって、それもちょっと邪魔になったな。

何かに斜めから取り組むことが、あなたがつねに追求しているアプローチなのでしょうか。そうでなければストレートでありふれたものになってしまいかねないような。

JC:私の問題は歌詞でも曲でもシンプルに完成させることができないことで、だからつねに何かにぶつかってしまうんだ。衣装棚か何かにつまづいて自分が追い求めていたのは何だったっけと考えなければならない。それは最近でも続いている。つまり、こんな話をするほど私の頭ははっきりしていないんだ。

なるほど。近頃では音楽制作技術の進歩によって、やりたいことに関して技術的な制約がほぼないようなものになって、無限の選択肢がありますよね。

JC:そうだね。自分が何をやってみたいかを選ぶことの方が問題になるね。

それについて今回はいかがでしたか?

JC:このレコードにどれだけ怒りを込めることができたか、かな。ただ、人に気づかれないようにね。

それをどのようにやりましたか?

JC:ある意味こっそりやるんだ。そこには狡猾さがある。文学的な側面に寛大な態度でアプローチしようとすると、人びとは曲から出てくる言葉に心地よい驚きを覚える。それは重要だった。

怒りに満ちたものによりソフトなアプローチを採用することで、力強いものが生まれるかもしれません。つまり、パンクとそれがノイズ・ミュージックに発展していく過程において、衝撃を与えるために音響的にできることには限界があると、かなり前に結論が出ています。

JC:かつてアヴァンギャルドはそれを大量に提供し、その背後にはジョン・ケージの微笑みがあった。それはきみの人生を少しだけ楽にしただろう。「これを理解しようとしなくてもいい」と言って。一方でシュトックハウゼンなら「これを聴こうが聴くまいがどうでもいい!」と言うだろう。だから、もうそういうゲームの時代は過ぎ去ったという意見には同意するよ。いずれにしてもヒップホップがすべてを追い越していったと思うね。

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“I think how much anger I could get into the record. But without people noticing it.”
interview with John Cale
by Ian F. Martin

In a career as rich as John Cale’s, it’s hard to know where to start. You could start at the beginning, in the small Welsh village of Garnant, playing organ in a nearby church and immersing himself in sheet music from the local miners’ union library. His early years in London collaborating with the Fluxus art community, or in America working with his near-namesake John Cage and La Monte Young. Creating the foundations for a whole alternative universe of rock with The Velvet Underground — not to mention fostering the parallel rock history that spun out from it through his production work for The Modern Lovers, Patti Smith, The Happy Mondays and more. Any point in his long and diverse solo career is the entry point into a story.

But for both a window into where John Cale is now and into the history that underscores it, his superb new album “Poptical Illusion” is the natural starting point.

For all Cale’s reluctance to attribute too much meaning to the album’s title, a big part of why it works is because it rings true. It’s possible to listen to “Poptical Illusion” as a pop album and it delivers right from the moment opening track “God Made Me Do It (don’t ask me again)” in the hooks, melodies, the crystalline perfection of its production — in that sense, there’s certainly a pop album in there to be found by those with a mind to seek it out.

The illusory aspect is more open-ended. There’s the sense in which all pop is the art of illusion or fantasy: that it lies to you that everything is OK, wrapping you in the comforting embrace of familiar chords and melodies that resolve just how you’re expecting them, even when relaying stories of of sadness. That’s not how John Cale does things, though. Ever since his days with The Velvet Underground, his music constantly finds ways to subvert the familiar and upend expectations. His solo career has followed a path of never letting one success become a formula. His early years took in a largely instrumental collaboration with Terry Riley and the delicate chamber pop of his well regarded 1973 album “Paris 1919”, followed by the deconstructed rock’n’roll and generally starker, lopsided lurch of the subsequent “Fear” and “Slow Dazzle”. From there, he has explored classical, avant-garde and pop extremes, never satisfied to stay in one place, constantly moving on to the next thing.

“Poptical Illusion” itself marks a shift from its predecessor, “Mercy”, which was characterised by its many collaborations with a wide variety of artists. Instead, it’s a far more musically self-contained world. There are nonetheless markers of continuity in the themes, Cale’s distinctive, rich vocal delivery, and also in his lyrics. Perhaps partly due to his early connection with Lou Reed, Cale seems like a songwriter who has never fully got his due as a lyricist, but he has a disorientating talent for telling stories that leave most of the information needed to fully understand them in the gaps between the lines. The way characters in the songs express their fears, anxieties and melancholy, rarely revealing more than fragments of the events and actions that give them context, lends this new album a literary hue recalling the queasy and untethered atmosphere of writers like M. John Harrison or maybe Alain Robbe-Grillet.

And for all Cale’s musical diversity, “Poptical Illusion” shares his past work’s sense of dislocating the familiar, from the stomach-turning lurch out of key in the middle of “Calling You Out” to the layers of distortion that build up through the catchy, looping hook of “Shark Shark”.

In advance of the album’s release, I spoke to Cale online from his home in Los Angeles (transcript edited for concision and flow):

IM:Your new album “Poptical Illusion” comes quite swiftly after last year’s “Mercy”.

JC:I’m trying to get as much work done as possible. It all started because of the lockdown. When that happened, all of a sudden I didn’t know how long it was going to be possible to get the work under my belt because there was no one around to work with me on it. A lot of people were really not around. So I tried to get as much work done as I could when I got going. It turned out that I was pretty aggressive about getting to the end of the project. In the end, I was very happy about how things were going — there were plenty of ideas around and different kinds of aggression in the music. By the time I finished it, I had a whole lot of songs. I didn’t expect it, but I was very happy about it.

IM:Compared with “Mercy”, where every track was a collaboration with other artists, the new one feels more self-contained. Was that the influence of the pandemic?

JC:Yeah. I just got to work, and I got a grip on the kind of aggression that I wanted in the music. And it just came a little bit easier. But the fact I wrote so many songs since that album was finished, and now I have this one so it’s a little easier to bring it out quickly.

IM:You say about a kind of aggression…

JC:Well that’s something that just happened because I was really anxious to get the work finished.

IM:Maybe this is a different sort of aggression, but it feels like some of the themes carry over from “Mercy”. The lyrics maybe approach it from an abstract or oblique angle, but there does seem to be this thread of an ongoing breakdown of society.

JC:Yeah, that’s one of the attractive things about writing lyrics. You have different ways of using language. The chaotic side of things are really attractive to me. It’s not just trying to fit the bill and make sure your poetic side is is ignored.

IM:You’ve said in the past that one of the great things about working with Lou Reed as a lyricist is that he was so good at teasing out the contradictions in things.

JC:Yeah, you could say that. I mean, I took it to heart. It was very important to me that chaos is acceptable.

IM:I feel like there’s also been this influence of Dylan Thomas that runs through your work in the past.

JC:I mean, I try to! And then when I didn’t quite get it together, I just said “To hell with it, I’m going to try to set all of Dylan Thomas’ poems to music!” That was a challenge. You’re really dealing with someone who has a very powerful sense of poetry, so I took what I could and tried to learn as much from it, but his sense of rhythm is just stunning. It’s just one of those things when you grow up in Wales that you… “Wow, I wish I could do that!” It’s very important… “OK, go ahead and do it! Don’t worry about it, get on with it!”

IM:It was on “Words for the Dying” that you went really hard into setting Dylan Thomas’ poetry to musig, wasn’t it?

JC:That’s right.

IM:Growing up with Welsh family, I understand exactly what you mean about the importance of his work. I mean, I think the influence of Wales generally is a topic you keep coming back to, despite having moved away a long time ago.

JC:(Laughs) Yeah, I confess to that! It’s really, once you’ve had that inkling of the warmth and generosity of that place, it stays with you. It’s not something you can get rid of just by getting angry at somebody. Especially the sense of fun. When I wrote “Davies and Wales”, that was something satisfying to me because it showed that side of humour. And “Shark Shark” too, there’s a certain frolic that goes with the territory.

IM:When I heard “Davies and Wales”, what it reminded me of was the Welsh side of my family watching the rugby in the 80s and 90s when Jonathan Davies was captain.

JC:I’ve been grilled about the tapestry of rugby sensibilities!

IM:I could kind of hear my mother crying out “Davies and Wales! Cymru am byth!” once a year during the Six Nations, or the Five Nations it was then.

JC:The Five Nations, it’s kind of scary. It’s kind of funny in a way, and full of life and joy, but at the same time, there’s so much potential there for the same sort of mistakes that have been made everywhere else.

IM:Maybe a kind of violence lurking inside there as well.

JC:No doubt.

IM:In your early days in Wales, I read that the library in your home village was very important.

JC:The library was very important, very important. I learned so much from that small, little building with one room in it that had all the books. And you could go in there and if you couldn’t find what you were looking for, you gave them the name of the book and they would run off and get it. Bertrand Russell, Wittgenstein, any of the philosophers, you would get within a week, but if you went and asked them for music, I would get the music from Marylebone Public Library (in London), who would make sure they got you the scores for the music. If I wanted Schoenberg or I wanted some obscure composers, they would go and buy it for you. The library was very important. It was very exciting for me if I wanted a piece of music by Haubenstock-Ramati, for instance — one of the finest, obscurest titles in the library! If you suddenly had it in the palm of your hand.

IM:The first piece of news I saw in my social media feed when I got up this morning was a story about a small library like that in Idaho that has just announced they can’t allow children anymore because new state laws make it too legally difficult to let children access books. It reminded me of the lyric on your new album about “the right wingers burning their libraries down”.

JC:I was very satisfied with that. I got a good few licks in there!

IM:But for all of this immersing yourself in chaos, the title “Poptical Illusion”…

JC:I just made that up! The thing with it was that it had a sense of humour that worked, so when I came up with it and said, “Here’s something to think about…” the other person in the room said, “You’ve got to use that!” So that covers a lot of ground, it sneaks in there.

IM:Your work does always seem to be in a sort of relationship with pop music though, doesn’t it? You chose from an early point in your career that you were going to work in what I suppose we could broadly call the marketplace of pop, so pop’s in this conversation with the classical and the avant-garde.

JC:Yeah, it’s a fertile ground. It’s the speed at which you can absorb the best things you can find in life — music and everything else. Libraries and whatever you need. These people are thoughtless: whoever these people are in Idaho are. They’ve no consideration for what is useful in life. I don’t think it ever occurred to them that you’re around here because you have a chance to learn something or absorb what’s available to you, and if you don’t take advantage of it, you’re just wasting time.

IM:I think what’s lurking behind this is almost a fear of children learning too much or a fear of children growing up. A fear of the independence of children.

JC:Yes! Absolutely! It’s shameful. It’s so stupid. You’ve got to call it what it is: it’s just ignorance!

IM:Listening back over your back catalogue this past week, I felt that an interesting aspect of “Paris 1919” was that it’s positive on the face of it but maybe it embodies the seeds of something dark that’s been repressed, waiting to come out again.

JC:I think at one point, Paris 1919 did have a life that had these uglinesses being entertained, shall we say, but by the time the album came out, I thought “What are you doing? You’ve now explained what Europe means to you, you live in L.A., you’re working for Warner Brothers, you’ve written an album that has very peculiar sensibilities in it, and pretty much what you’ve done is you’ve catalogued what it means to go from Wales to L.A. and talk about what’s happening back there… whatever ‘back there’ is.”

IM:I see. I suppose what caught me with it was the time period it references, between the end of the First World War and with the second looming in the future. And in some ways that feels like what we’re going through now, with things that had been bottled up starting to spill out again.

JC:I agree, but it’s also… it’s a set up. Are you doing this to carry on or are you doing this just to observe what’s around you? I think it’s more than that: it’s something you can’t evade. This is what we have: let’s get on with it.

IM:We’re in the midst of what feels like a bit of a dark period right now, but on the new album aren’t there perhaps places where you looking for a bit of hope or light?

JC:Not too hard. I’m not trying too hard.

IM:I’m thinking of “How We See The Light”, where the lyrics seems to touch on these little moments of empathy where the hatreds can dissolve.

JC:Hmm… I mean, that’s such a genteel way of putting it, I’m not sure I’m ready for that yet!

IM:I suppose this might be an inevitable feature of growing older in music, but “Mercy” seems like it was haunted by the ghosts of people who’ve now passed, or who you’ve worked with or were important to you.

JC:That’s the way to put it: not so much people who’ve passed but people who were important to me. You don’t know why, but you recognise it and you pray that the act of recognising it is everything that you need.

IM:Are some of those ghosts still present on this current album?

JC:I’m sure they are. I just haven’t addressed them. I think I’ve got plenty of stuff to work with, but I carry on. Because I think what I’ve done is I’ve put my finger on something in the style of writing and the lyrics, and the energy of the album itself, that’s a lot more passionate about how I’m doing and what I’m doing.

IM:Do you find something that happens is that you’ll write music without consciously addressing something and then after some time’s passed between you and the music’s passed, you think, “Ah! That’s what that was about!”

JC:Yes! Yeah, that’s what I was saying about “Paris 1919”.

IM:I remember reading a comment by Brian Eno about his first album and having a friend come up to him and say, “It’s so brave what you wrote about Bryan Ferry on that song!” and him thinking, “What? Those lyrics were just nonsense!” but then listening back and thinking, “Oh God, this is absolutely about him!”

JC:(Laughs!) Come on, own up, Brian! Come on! We’re all liars in the end.

IM:To come back to this idea of pop and how it interacts with the other disciplines you’ve experience in, was that part of your role in The Velvet Underground? To take something that could be kind of familiar, comforting rock’n’roll and to find some way of complicating or dislocating that?

JC:Yes. I mean, the dislocation was very important. No one had really done what we tried to do at that point. I mean, Lou was enthralled by it and I was hellbent on breaking the boundaries. I think we got somewhere with it!

IM:Definitely! When you moved onto making your solo album after that, with “Vintage Violence”, was there a sense where you had to learn how to write songs in that more familiar, traditional way as well?

JC:I mean, there were a few, but there were also some disjointed experiments in rock writing that got in the way a little bit as well.

IM:So is that approach of always looking for oblique approaches to something that otherwise might be straightforward and familiar something you always gravitate towards?

JC:My problem was that I couldn’t complete a verse or a song with simplicity, so there was always something that I was bumping into. I’d trip over a chest of drawers or something and I’d have to figure out what it was I was going after. And it kept going, even recently. I mean, I’m not clear-headed enough to talk about all of that.

IM:Sure. Though nowadays, with music production technology’s advances, it’s almost like there are almost no technical restrictions on what you want to do if you want to because there are so many options available.

JC:That’s true. It’s more a problem of choosing what it is you want to mess with.

IM:How about this time round?

JC:I think how much anger I could get into the record. But without people noticing it.

IM:How do you go about that?

JC:It’s kind of sly. There’s a trickiness to it. You try and approach the literature side of it in a forgiving way, and people can be pleasantly surprised by the kind of language that comes out of these songs. Not quite as understandable, which was important.

IM:It can be powerful to take a softer approach into something angry. I mean, with punk and how it evolved into noise music, it’s almost like the limits of what you could do sonically to shock reached their conclusion a while back anyway.

JC:The avant-garde used to provide this in reams, and behind it there would be a John Cage smile that would make your life a little easy, saying “Don’t worry about understanding this.” Whereas Stockhausen would have said, “Listen to this or get lost! I don’t care.” So I agree with you that the time has passed for that game. I mean anyway I think hip-hop has overtaken the whole lot.

A. G. Cook - ele-king

 2013年に発足され、2023年に新譜のリリースを終了した〈PC Music〉が現代のオルタナティヴなポップスに与えた影響はとてつもなく大きい、というのは言うまでもない事実だろう。少なくとも、私事ではあるけれど電子音楽への強い興味をぼくに抱かせてくれたのもA. G. クックがコロナ禍に発表したアルバム『7G』と『Apple』であり、そこから〈PC Music〉の諸作が見せてくれるきらびやかな世界に引きずり込まれていまがある。個人的な体験は省略するとして、〈PC Music〉とともにポップスを換骨奪胎する形で生まれたオルタナティヴなポップ・ソングの一群は故・ソフィーの躍進とともにバブルガム・ベースと呼ばれ、それらはいつしか #Hyperpop とタグづけされるようになった。そして、ハイパーポップという商業ラベリングの着想源となったこの巨大なムーヴメントを切り拓いたA. G. クックは、新たな一歩を踏み出すべく2024年に新レーベル〈New Alias〉(=直訳すると、新たな通称?)を設立。同時に4年ぶりのフル・アルバム『Britpop』を発表した──大量のエスプリやイースター・エッグ的仕掛けに富んだ3つのプロモーション・サイトとともに。

 まず、作品それ自体を語る前に、この一連のプロモーションにこそA. G. クックの美学が込められていることについて解説しておきたい。具体的には「音楽界で最も信頼されていない声」とうそぶくピッチフォークのパロディ・メディア「Witchfork」(ジョークながら読み応えあるテキストが潤沢に用意されている)、ウムルやメス・マス、DJ G2G などクックに近い音楽家の新リリースからファンによる投稿作まで、さまざまな音楽作品をフリーで提供するバンドキャンプのパロディ・サイト「Wandcamp」、そして「膨大な穀物ライブラリ」を取引するためのプラットフォームという(ダジャレのような名称の)ビートポートのパロディ・サイト「Wheatport」の3サイトを、アルバムのプロモーションを兼ねて4 月 24 日までの期間限定で更新していった(現在はいずれもサイトの入口に「当サーヴィスは非公開の多次元複合企業に買収されました」といった架空の声明が表示されているものの、音源のダウンロードや記事の購読は可能)。
 ちなみに、3サイトの頭文字はそれぞれ「W」で、3つ並べるとつまりワールド・ワイド・ウェブとなる。そしていずれも最終的な導線は「WWW」というクックが新たに立ち上げたディスコード上のサーバーと紐づけられており、こうした半オープン/半クローズドなコミュニティ・プラットフォームこそが現行のインターネットだよね? と示唆しているようにも受け取れる。

https://witchfork.com/Witchfork%2C-Wandcamp-and-Wheatport-Set-To-Close-As-Part-of-WWW-Merger-Mystery/662659afbe40536839947789

 この資本主義的な音楽プロモーションを皮肉ったような一連の動きのモチーフになっているのは、Witch=魔女、Wand=杖、ethereal entities=エーテル体などのファンタジックで呪術的なフレーズと、multidimensional=多次元、otherworld=別世界といったSFチックで非現実的なフレーズなど。なぜそうしたイメージで本作『Britpop』の作品世界を拡張しようとしたかといえば、それはこのアルバムが過去/現在/未来の3つの階層に分かれた24曲入・3枚組の重層的な作品だからだろう。霊的なものと並行世界、神秘的なものととテクノロジー、そしてそのどちらにも偏らない私たちが暮らすいま、ここについてをレイヤーを重ねるように並列化しているアルバムだ。

 「過去」パートと定義されたDisc 1、M1~M8までの各トラックはこれまでのクックのパブリック・イメージに近しい〈PC Music〉的なバブルガム・ベース~ユーフォリック・トランス~IDM的なサウンドで、「現在」パートとされるDisc 2のM9~M16には古びたオルタナティヴ・ロック──つまりはタイトル通り「ブリットポップ」への憧憬が感じられる歌を基調としたトラック、そして「未来」パートとされるDisc 3のM17~M24はそれぞれ「過去」パートを踏襲しつつ、それらを塗り替えていこうとする意欲に満ちたシンセ・ポップのニュー・スタンダードを提示している。楽曲単体にスポットを当てると、アルバムの入口となるM1 “Silver Thread Golden Needle” は135BPMのIDMライクなトランス・ナンバーとして抜群の完成度で、先行シングルとして2024年1月1日にリリースされたことにも納得できる。なお、こちらは2014年リリースの代表曲 “Beautiful” を9年越しにリエディットした “Beautiful (2023 Edit)” を引き継ぐ形で制作されたようで、10分弱のトラックに耳を傾けると同曲や同じく代表曲のひとつである “Show Me What” などのヴォーカルをカットアップ的にサンプリングしていることがうかがえる。
 「現在」パートの収録曲は表題通り、クックなりのブリットポップ愛/ブリットポップ観が感じられる脱構築的なインディ・ポップ~オルタナティヴ・ロックとして統一感を持っており、とくにM16 “Without” は急逝した才能、ソフィーに捧げられたディストーション・ギターの弾き語りとなっていることが印象的だ。Disc 2──「現在」の締めくくりにふさわしいこの曲が、現実からかけ離れたキッチュなサウンド・メイキングで世界を席巻したクックのもうひとつの側面である、ポップ・ソングの名手としての一面を際立たせていることは素朴な感動を与えてくれる。
 一転してDisc 3──「未来」パートではバブルガム・ベースの方法論を用いてよりオーヴァーグラウンドなシンセ・ポップへ挑戦する姿勢が見られ、ビヨンセチャーリーXCX、そして宇多田ヒカルといったポップ界の巨人たちと数々の仕事を重ねた彼が見ている新たな景色の一部を切り取ったかのような、いわば「メインストリーム的な実験」という矛盾を見事に成功させている。特筆すべきは先述したプロモーションの核に位置する「WWW」というキーワードと同じ題名を与えられたM22 “WWW” で、5分強のなかでいままでとこれからを一切合切マッシュ・アップしたような目まぐるしい展開が1曲にパッケージングされている。時折顔を見せる2ステップ的なハイハット使いやロック歌手のような歌声にも、やはりイギリス人としてポップスをつくることへの矜持のようなものを感じる。

 魔法とテクノロジーを並列化して、ベッドルームと外界に橋を架けて巨大なポップ・シーンを楽しげに塗り替えていったA. G. クックの10年を総括しつつ、予測不可能な未来へのヒントも散りばめた意欲作でありながらも、作品全体に通底しているのは「ポップ」であること。クックはリリースに伴い複数のインタヴューで、本作の着想を「パンデミック中に過ごしたアメリカ・モンタナ州の片田舎」で得たと語っている。田舎の牧場にはかつてイギリスからアメリカを開拓するべく渡った人たちの残滓として、古いイギリスを感じさせるシンボルが残っていたという。その前後、本国ではブレグジットや女王の死などの象徴的な出来事がいくつも起こり、彼は複雑な想いのなか、単なる愛国心ではなく矛盾した感情の狭間で揺れたそうだ。本作のプレス・リリースでは「自分自身のキャリア、“イギリスらしさ” の概念、そして時代を定義したムーヴメントへの敬意と否定を並列に描く」という、明確なコンセプトも示されている。ぼくたちが日本に抱く複雑な思いもきっとそうだろうし、どこにいたって人はつながっている、そんな時代でもフッドのことを捨て去るのは難しいのだろう。ならば、せめて疑いながら愛したい、という人の子のシンプルな気持ちがこのような大作に現れることも無理もないことだし、事実クックは4年ぶりのこの大作で自身の功績を総括しつつ新天地へと進むことを示した。

SOUL FIRE meets Chica/Undefined meets こだま和文 - ele-king

 いまダブの波が来ている。宇田川町に居を構える虎子食堂の15周年記念イベント特別編、強力な面子×2組による熱い一夜のお知らせだ。
 ひと組は、大阪のダブ・マスターHav率いるSOUL FIRE。バンドとしてはひさびさの東京でのライヴで、ヴォーカリストChicaとともに出演する。
 もうひと組はレジェンドこだま和文と、共作『2 Years / 2 Years In Silence』を残すUndefinedによるタッグ。こちらもひさびさのライヴとなる。
 DJ陣も抜かりない。レゲエ・セレクターのパイオニアのひとりである佐川修、blastheadのHIKARU、そして先日seekersinternational & juwanstocktonの強烈なダブ・アルバムを送り出したレーベル〈Riddim Chango〉(1TA&Element)の3組。
 さらに会場では、SOUL FIREの7インチが先行販売されるという。8月24日は渋谷WWWに集合です。

超の付くダビーな15周年、超虎子の宴開幕です!

うまい飯とうまい酒、そして音楽とそこに集まる人、人、人──宇田川町に居を構えて15年、虎子食堂、今年の周年のスペシャル・ヴァージョンは現地を飛び出し、同じく渋谷のWWWにて「これしかない」と店主熟考の下に集めたラインナップで開催決定!この国のダブのオリジネイターのひとり、こだま和文、そして海外のモダン・ダブの牙城〈ZamZam Sounds〉などからもリリースするダブ・ユニット、Undefined。2022年にコラボ・アルバム『2 Years / 2 Years In Silence』をリリースした両者が、同年の同じくWWWでのライヴ以来、ひさびさにライヴを行う。もう一方のスペシャルなライヴ・アクト、大阪のダブ・マスター、Hav率いるSOUL FIREがヴォーカリスト、Chicaと共に出演。バンドとしては虎子7周年記念以来の東京でのライヴ。この国の東西のある意味でレジェンダリーでありながら、現在進行形のダブ・サウンドが直撃する一夜となる。DJには、この国のレゲエ・セレクターのパイオニアのひとりであり、「溶け出したレコード箱」などここ数年、虎子食堂での出演が活発化している佐川修。想像の外側からエコーの残響にのってダビーにアシッドの熱風を呼び込む、HIKARU。国内外の現在進行形のダブ・サウンドをリリース、1TAとElement──今回会場で先行で販売されるSOUL FIREリイシュー7インチをリリースするなど過去の国内産ダブの遺産を紹介する1TA〈Rewind Dubs〉、そして I Jahbarとのコラボなどカッティング・エッジなダブ・サウンドをリリースするElementによる〈Parallel Line〉というサブ・レーベルもそれぞれ運営──によるセレクター・デュオ / レーベル、Riddim Changoも登場する。レゲエやダブを後景にしつつ、さまざま音楽とそれを愛する人が集まるあの場所の、15年の集大成、いわば超虎子食堂的な一夜を!(河村祐介)

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公演タイトル:SUPER TIGER

出演:
〈LIVE〉SOUL FIRE meets Chica/Undefined meets こだま和文
〈DJ〉佐川修/HIKARU (blasthead)/Riddim Chango (1TA & Element)

日時:2024年8月24日(土曜日)開場/開演 18:00
会場:WWW
前売券(2024年6月12日(水曜日)18:00発売):3,500円(税込・ドリンク代別)
前売券取扱箇所:イープラス、虎子食堂店頭
問い合わせ先:WWW 03-5458-7685

フライヤー画 : 西加奈子

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★国産Dubリイシュー・レーベル〈Rewind Dubs〉より、関西のレジェンドDubバンドSOUL FIREのアーカイブから7インチアナログレコードがリリース決定、そして本イベントにて先行販売!
2000年初期にリリースされたアルバム「SOUL FIRE」から煙立ち込めるルーディなステッパーチューン"Rizla”と、未発表曲"Who is DirtyHarry?"をカップリングした一枚。

7-inch Vinyl single
Soul Fire - Rizla w/ Who is DirtyHarry?
Catalog number : RWDS7-001
Price : ¥1,980 (tax in)

https://www-shibuya.jp/schedule/018020.php

James Hoff - ele-king

 ニューヨークのアーティスト、ジェイムス・ホフ(1975年生まれ)の新譜『Shadows Lifted from Invisible Hands』がフランスの実験音楽レーベル〈Shelter Press〉からリリースされた。アルバムとしては2014年にドイツのエクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈PAN〉から発表された『Blaster』以来なので実に10年ぶりにということになる。
 もっとも2022年にEP『Inverted Birds And Other Sirens』を〈PAN〉よりデジタルリリースしているので、ホフのサウンドアーティストとしての音源発表は2年ぶりなのだが、そもそも2022年のEPリリースもそれなりに驚きだったのだ。だいいちこの時点で8年ぶりだ。 
 というのもホフは現代アートの画家としても活動をしているし、さらには60年代以降の知られざる現在美術を発掘する独立系出版社「Primary Information」(https://primaryinformation.org)の共同設立者でありディレクターでもあるのだ。つまり現代アート/美術方面での活動がメインと言ってもよいかもしれない(ちなみに『Shadows Lifted from Invisible Hands』のアートワークは米国の画家・彫刻家のジャック・ウィッテン(Jack Whitten)の1979年作品「Mother's Day 1979 For Mom, 1979」)。だからもうサウンド・アーティストとしての音源はリリースされないのではないかと勝手に思っていた。ゆえに2022年の『Inverted Birds And Other Sirens』は驚きだったし、今回の『Shadows Lifted from Invisible Hands』も同様である。次のリリースまで10年近い月日が必要だったのだろう。
 
 テン年代エクスペリメンタルミュージックのリスナーにとって、〈PAN〉からリリースされたジェイムズ・ホフの『How Wheeling Feels When The Ground Walks Away』(2011)と『Blaster』(2014)は忘れ難いアルバムだった。新しいノイズ・ミュージックを提示する10年代前半の〈PAN〉とのノイズとポップの領域を拡張するような作品をリリースし始める10年代後半以降の〈PAN〉との「はざま」にあるような作品/アルバムだったからである。ノイズとポップ、実験とポップの領域を拡張するような作風だったというべきか。
 特に『Blaster』はダンス・ミュージック的な躍動感と強烈な電子ノイズが同居する躍動的なアルバムであり、コンピューターウイルスに感染させたサウンドファイルを用いるなどコンセプチュアルなアルバムでもあったのだ。あえていえばマーク・フェル直系のグリッチ/テクノ・サウンドだった。

 だが本作『Shadows Lifted from Invisible Hands』はやや趣が異なる。理由は3点ある。まずリリースが〈PAN〉からではなく、フランスの〈Shelter Press〉ということ。そしてピアノやドローンを用いたクラシカルなサウンドということ。加えてマシニックかつ無機的な『Blaster』と比べるとエモーショナルなこと。この3点である。
 むろんノーコンセプトというわけではない。「ここ数年頭から離れないポップソング(ブロンディ、マドンナ、ルー・リード、デイヴィッド・ボウイ)の断片と、何十年も経験してきた耳鳴りの周波数から作られた」という。だが同時にこれは「自伝的」ともホフが語っている。つまり「このアルバムは主に、現代の音響状況の中で、個人的、感情的、そしてもちろん批判的な新しいものを作ることをめざした自己肖像です」というのだ。
 ここで興味深いのは、この明晰な「コンセプト」が、そのまま自伝的な意味合いを帯びている点である。それが結果として静謐でエモーショナルなクラシカル/アンビエントになったことが自分には興味深い。この作風は確かにストリート・エクスペリメンタルな作風の〈PAN〉というより、室内楽的な音響作品を主とする〈Shelter Press〉的だ。
 
 アルバムは30分ほどの収録時間で全4曲収録している。先に書いたようにピアノ、シンセサイザーによるアンビエント調の楽曲だが、どこか中心点な曖昧で、音がゆっくりと崩壊していくようなムードがある。そこに微かなエモーションが息づいているという不思議な音楽だ。マシンからエモーショナルへ? ともあれ確かに現代はエモ・アンビエント(クレア・ラウジー)の時代なのかもしれない。
 1曲目“Eulogy for a Dead Jerk”は低音のシンセサイザーによる短い持続音から始まり、やがてそれが弾け飛ぶような音と共に本格的に幕を開ける。その一撃から音楽性は一変し、点描的なピアノと弦学風のシンセサイザーによるアンサンブルになる。やがて高音の電子音も絡みつく。実に見事な電子音のアンサンブルだ。
 2曲目“Everything You Want Less Time”はクラシカルなピアノから始まり、透明なシンセサイザーのフレーズが折り重なる短い楽曲だ。3曲目“The Lowest Form of Getting High”は1曲目“Eulogy for a Dead Jerk”のような高音の電子音にクラシカルなフレーズがレイヤーされるトラックで、その旋律はやがて誰もが耳にしたことがあるだろうメロディへと変化していく。4曲目“Half-After Life”は以前のホフ的な強烈なノイズからは始まり、すぐさま弦の音とピアノの音が絡み合うサウンドへ変化する。それがやがて美麗なシンセサイザーと加工された声や電子ノイズが応答するようなサウンドスケープを形成する。何より霞んだピアノの響きが美しい。

 このアルバムに自伝的な要素があるとすれば、先にあげたポップソングの引用だろう。しかしそれらの楽曲の音は徹底的に加工され、原型は消失し、もはやほぼ判別ができない。だから重要なのは「記憶」が溶け合っていく、そして「消失」してしまう、その感覚の表現にこそあるように思える。記憶、生成、消失。その音楽/音響化を、例えばザ・ケアテイカーとは異なる手法で実現したアルバムが、本作『Shadows Lifted from Invisible Hands』ではないかと思う。20年代のアンビエンスがここにある。

Tribute to Ryuichi Sakamoto “Micro Ambient Music” - ele-king

 坂本龍一への敬意を表する国内外 41 名の音楽家による未発表の 39 作品を収録した コンピレーション、2023 年ドイツ音楽評論家賞 Electronic & Experimental部門を受賞した『Tribute to Ryuichi Sakamoto “Micro Ambient Music”』が、2024 年5月29日から配信されている。また、同時にアナログ盤もリリースされる。以下、リリース・スケジュールとその内容です。

Tribute to Ryuichi Sakamoto “Micro Ambient Music”

Vol. 1 2024 年 5月31日 (水)発売
01. Tetuzi Akiyama / Transparent Encephalon
02. Otomo Yoshihide / Moonless Night
03. Toshimaru Nakamura / nimb#75
04. Sachiko M / to the sunny man
05. David Toop / Hearing Cries From the Lake
06. Rie Nakajima and David Cunningham / Slow Out
07. Lawrence English / It Is Night, Outside

Vol. 2 2024年7月31日 (水)発売
01. SUGAI KEN / Swallow & Electronic Swallow (2023 Rainy Season)
02. Kazuya Matsumoto / ice
03. Shuta Hasunuma / FL
04. Takashi Kokubo / Rainforest soloist
05. Miki Yui / Hotaru
06. Tomoko Sauvage / Weld
07. Christophe Charles / microguitar

Vol. 3 2024年9月25日 (水)発売
01. Alva Noto / für ryuichi
02. Yui Onodera / Untitled #1
03. Marihiko Hara / extr/action
04. Ken Ikeda / Circulation
05. Hideki Umezawa / Sculpting in Time
06. AOKI takamasa / UKIYO
07. ASUNA / Elephant Eye
Tribute to Ryuichi Sakamoto "Micro Ambient Music"

Vol. 4 2024年11月27日(水)発売
01. Stephen Vitiello / Motionless Wings
02. Sawako / Tokyo Rain Forest 35°40ʼ 25” N 139°45ʼ 21” E
03. Tujiko Noriko / Iʼ ll Name It Tomorrow
04. ILLUHA / Gratitude
05. Christopher Willits / Study for Sakamoto (March 2023)
06. Tomotsugu Nakamura / backword to blue
07. Kane Ikin / Pulsari
08. Bill Seaman / Tears Namida

Vol. 5 2025年1月29日(水発売
01. Tomoyoshi Date / Placement Of The Drops
02. Federico Durand / Alguien escribió su nombre en el vidrio empañado
03. Marcus Fischer / Overlapse
04. Taylor Deupree / A Small Morning Garden
05. Chihei Hatakeyama / Mexican Restaurant
06. Stijn Hüwels / Shinsetsu
07. hakobune / hotarubune


Vol. 6 2025年3月26日 (水)発売
収録曲未定

world's end girlfriend - 抵抗と祝福の夜 - ele-king

 その日は土砂降りと霧雨が交互に顔を出すような荒天とともにやってきた。昨年9月にworld's end girlfriend 7年ぶりのフル・アルバムとしてついに開花した大作『Resistance & The Blessing』の特別なリリース・ライヴ、題して「抵抗と祝福の夜」。人によってはいささか仰々しすぎるフレーズのように受け取ったかもしれないけれど、タイトル自体は8年前の『LAST WALTZ』期においてもWEGが一貫して掲げてきたイシューそのものであり、ごくシンプルで実直なメッセージだと自分は受け止めている。「抵抗と祝福の夜」は、WEG・前田氏が「音楽という巨大な喜びの中で、それがそのまま支援や寄付に繋がっていく形を作れないか?」という想いから、クラウドファンディングを活用したチケット販売がおこなわれていたことも特徴的だった。チケット売上の10%、ライヴ音源データ売上の80%、ライヴ映像データ売上の 80%、グッズ売上の40%をパレスチナ・ガザ地区へと寄付するプロジェクトとしても動いていた。その結果、756人の支援者を集め大成功という形でこの日を実現した。音楽表現という個人的な欲望からスタートするクリエイションを外側へとひたすら押し進め、一切の妥協なく「抵抗と祝福」を体現したという意味でもエポックな一夜だったと言えるだろう。

 本編SEが流れはじめたタイミングでなんとか会場にたどり着き、用意された2階席の後方からステージを見守る形で着座した。思えばこうして座ってライヴを鑑賞すること自体が久々の体験だ。自分が週末のほとんどを過ごす場所である小箱のそれとはなにもかもが違う音楽体験。ただ、体験におけるUI/UXの差異は大した問題ではなく、とにかく「どんな音が鳴らされるのか?」という点にまず期待と不安があった。全席指定の着座制でも1000人弱のキャパシティを誇る当会場は、果たして「鳴ってくれる」のだろうか? と。 とにかく、自分は基本的に野外でもないかぎりは大きすぎる規模の会場になにかを期待することはほとんどない。たとえば直近ならAdoのワンマン・ライヴの音響への文句は旧Twitterのフィードで嫌というほど目にしたし、一般的に大箱とされる1000人規模のヴェニューで「良い」以上のなにかを出音に感じる機会もほぼない。基本的に、いままで強く感銘を受けた音楽体験も、また単純に出音のサウンド・デザインへの感動も、そのほとんどは過剰にコンプレッサーの効いた、荒々しい、ボロボロの小さなクラブやライヴハウスで受けたものだったので、上質すぎる空間にはどうしても身構えてしまう育ちの悪さがある。

 けれど、そんな小箱のカビくささがまとわりついた懸念はただの杞憂でしかなかった。自分のなかの数少ないEX THEATERでの観覧体験(さいごにここを訪れたのはたしかムーンライダーズのワンマン)や、ここ数年浴びたあらゆる音響のなかでも突出した迫力と解像度を誇る音楽体験となった。ただのクリアで均整の取れたグッド・サウンドというわけでもなく、バンドセットとは思えない極低域の厚みと広がり方、痛覚化する寸前の高域の鋭利さと解像度の高さ、迫力と精緻さのバランス、どれをとっても極上だったと断言できる。聴覚的健康を一切顧みないアンダーグラウンドなクラブのそれに迫る荒々しさと、劇場的な空間だからこそ成立しうる上質さの矛盾した同居。WEGの集大成的な作品である『Resistance & The Blessing』のエッジーなサウンド・デザインの魅力を極限まで引き出すべく、薄氷を踏むように快と不快のスレスレを攻めた音響オペレーションを担った方々への賛辞をまずは記しておきたい。本当に素晴らしい仕事でした。

 ……という話ばかりをしていると、「で、ライヴの模様は? 曲目は?」と不特定多数にせっつかれるような被害妄想に駆られてしまうので、ここからは本編として内容の話を。
 オープニングSEを読み上げていた声に聴き覚えがあったけれど、後日それはWEGのポータルでもあるレーベル〈Virgin Babylon Records〉へ2年弱前に加わった窓辺リカというボーカロイド・IDMアーティストによるものだとわかった。誕生と輪廻について描いた作品のリリース・ライヴをはじめるにあたって、まずは生命体ではない導き手が必要だった、ということだろうか? 続けてアルバム冒頭を飾る2曲がプレイされ、その後に重要なリード・トラックのひとつである “IN THE NAME OF LOVE” が轟音のギターとともにスタート。ポスト・ロックや実験音楽といった枠組みを飛び越え、バンドセットならではの表現を突き詰めた結果、WEGの演奏がほとんどプログレッシヴ・ロックやシンフォニック・メタルの領域に入っていることに正直なところ面食らった。自分がWEGについて抱いていた印象はどちらかといえばポスト・ロック以降の電子音楽(の変異体)というものだったが、マニピュレーターだけでなくツイン・ギターにドラム、ヴァイオリン、チェロまでが入ったフルパワーでのライヴとなると、WEGの根底に横たわるゴシックな美学の濃度が高まるのだろうか。自分のふだんの趣向とメタルに類する音楽にはかなりの乖離があるため、その世界へ全編にわたって没入することは難しかったけれど、それでもそのスケール感には圧倒された。畑違いの音楽に頭から殴られるような体験も久々だ。

 前半の個人的なハイライトは、“歓喜の歌” をサンプリングした “Odd Joy” と “Black Box Fatal Fate Part.1+ Part.2 (feat. CRZKNY)” が立て続けにプレイされたことだった。アルバムのなかではよりエレクトロニクスに近接したこれらの楽曲たちがバンドのアンサンブルで再強化されていくさまは、今日この日しか味わえないものだっただろう。中盤以降には samayuzame 朗読によるポエトリー・トラックに、『LAST WALTZ』(2016)『The Lie Lay Land』(2005)『Starry Starry Night Soundtrack』(2012)などWEGの過去作からピックアップされた楽曲が織り交ぜられ、最新作のインタールードが異なる姿に再構成されていく様子も『Resistance & The Blessing』が掲げた「輪廻転生」というモチーフを想起させた。単なるファン・サービスとは一線を画す、本回のための特別な作劇としてかつての楽曲に光を当てる、という姿勢ひとつとっても、WEGの妥協なく万全を期して臨んでいるエネルギーが伝わってくる。

 後半部ではアルバムの持つポエジーと(手塚治虫『火の鳥』などを引き合いに出しても申し分ないほどの)遠大なスケール感がより強調されていき、しかしながら Smany、湯川潮音といったゲスト・ヴォーカルの歌も添えられることでディープに偏りすぎず、ポップにもならず、それでいて折衷的でもなくひたすらにWEGとしての美学に向かって突き抜けていくようなエッジーなアクトが続いていった。神聖さを帯びた “himitsu (feat. Smany)” からビープ音やクリック・ノイズで構成されたエクスペリメンタル・エレクトロニカ “Cosmic Fragments - Moon River”、ポエトリー・リーディング “Mobius” と続き、クライマックスにはWEGなりのアンセム・ラッシュが続いていく。アンセムというものは味の濃い食事のようなもので、ただ単に並べればいいものでは決してなく、無用な乱発は当然ながら熱気を削ぐ逆効果をもたらしてしまうものだが、その前提を背負ってなお “君をのせて” や “ナウシカ・レクイエム” のカヴァーを演奏したのち、“アヴェ・マリア” のアレンジを披露するようなライヴを、いったいだれが衒いなくできるだろうか。自分もこの一連の流れに面食らわなかったわけではないけれど、これまでの流れをたどると納得せざるを得なかった。アンセムを成立させるために必要なのは、とにかく妥当性ではなく正当性、偶然ではなく必然であること。正当/必然かどうかの答えは本人の頭のなかにしか存在しないので、その想いの容れ物として表現という営みが存在する。過去・現在・未来を並列化し再構成してみせたアルバムの世界を拡張する攻めの演出として受け止めた。

 終盤、WEGが轟音とともにシューゲイズ・モディファイを施した “Ave Maria” のフィードバック・ノイズを引き継いで披露されたのは “Two Alone” “unEpilogue JUBILEE” の2曲。アルバムの構成をなぞる形で着地していくのかな、と思った矢先に披露されたのは2010年作『Seven Idiots』から “Les enfants du paradis”。これには長年WEGの美学に触れてきている人ほど心を震わされたことだろう。そしてラストを飾ったのは、序盤披露された “IN THE NAME OF LOVE” と並ぶ重要な楽曲 “MEGURI” であった(本人解説曰く、この2曲こそがアルバムのコンセプトの根幹を成す「転生し続ける2つの魂」そのものとのこと)。極度の緊張感のもと進んだ2時間半以上にわたるライヴの最終局面で演奏にリテイクが初めて発生したのもラストのこのタイミング。シリアスなライヴ中のやり直しを、演出上の緩みと捉えるか魅力と捉えるかは人それぞれの話でしかないけれど、少なくとも自分は精緻なモノに発生するわずかな歪みに美を感じる人間なので、それも含め満足できた。いかに人間離れしたアクトを披露していたとて、だれもがただの人なのだということを思い出す安心感とともに。人間というのは常に間違い続ける存在でもあって、それゆえ世の中にはひどい歪みがたえず生まれ続けていて、ならいっそそんなもの喪失してしまえば……という危険な考えが頭をよぎることもなくはないけれど(もちろん、あくまでも「中二病」の時分の話)、そんなディストピアで観るライヴはおそらくライヴ足りえないし。間違いが起こることを否定しつつも、間違いを受容して前を向くこと。それもまた「抵抗と祝福」か。

 そんな形で、音楽ジャンルという切り口で観ると全編に対する没入感は得られずとも、趣味趣向を上回る圧倒的なクオリティで「抵抗と祝福の夜」は幕を閉じた。終演後、出口で会場に飾られた薔薇の花束の一輪が配られていたことも、また明日から生きていきましょうね、という小さな祝福のようで。これは取るに足らない私事にすぎないけど、その日は自分の誕生日で、ちょうど30歳を迎えたばかり。偶然にしては嬉しすぎるサプライズ・ノベルティだった。花は散り、枯れて、朽ちてもその鮮やかさの記憶は残り続ける。それ自体に意味はなくても普遍的な美を一瞬咲かせて、だれかの胸中に咲き続ける。ライヴという営みは、たとえそれが自己完結的な表現であったとしても、外に開かれている時点でだれかにとっての一輪となる。自身や世界のままならなさにつねに抵抗し続け、それと同時に自分と他者を祝福し続けること。そのサイクルを繰り返し続けていつか旅立つことができれば、次の道もあるかもしれない。ないだろうけど、なくてもそう生きたい。

Brian Eno, Holger Czukay & J. Peter Schwalm - ele-king

 ドナルド・トランプとの指名争いからいち早く降りたフロリダ州知事ロン・デサンティスはこの5月、州法から「気候変動」の文字をあらかた消し去った。この改定によってフロリダ州の企業は6月1日から二酸化炭素出し放題、風力発電は禁止、公用車も低燃費ではなくなるらしい。最高気温45度も5000億円の被害をもたらした暴風雨も20センチの海面上昇も左派の陰謀で、デサンティスはフロリダ州を左派や環境活動家から守ったと勝ち誇っている。トランプが再び大統領になれば同じことがアメリカ全土に広がっていくのだろうか。アメリカの消費社会は減速しない。前進あるのみ。『Climate Change(気候変動)』というタイトルを9年も前に付けていた以外、とくに評価できるポイントがなかったNYのハウス・ユニット、ビート・ディテクティブが4年ぐらい前からニューク・ウォッチというサイド・プロジェクトを始め、これがなかなか良かったので、前作から3ヶ月というハイペースでリリースされた新作のレヴューを書こうと準備を始めていたら編集部からイーノ、シューカイ&シュヴァルムの発掘音源について書いてくれというオファーが届いた。はいよと安請け合いしてすぐに聴いてみると、ニューク・ウォッチと同じ方向を向いていて、しかも36年も前の録音なのにぜんぜん完成度が高く、聴き込むほどに引き込まれるのでニューク・ウォッチには退場してもらうことに。ニューク・ウォッチ(核監視)というプロジェクト名は10年後に重みを増しているのかなと思いつつ。

『Sushi, Roti, Reibekuchen(寿司、パン、ポテト・パンケーキ)』と炭水化物の料理が並べられたライヴ音源(料理のイベントで演奏されたものだという)は3人の個性がぶつかり合っているのはいうまでもないことだけれど、シュヴァルムが用意したとされるサウンドの基調はどう聞いてもホルガー・シューカイの過去に規範を求めていて、大半はシューカイが長年にわたって試みてきた即興セッションをベースに、得意のラジオ・ノイズを間断なく挟むなど方法論的には80年代初頭の『On the Way to the Peak of Normal』やS.Y.P.H.のパフォーマンスを強く想起させる。セッションが行われた98年当時、シューカイはそれほど調子が良かったわけではなく、むしろ彼のキャリアのなかでは最悪ともいえるドクター・ウォーカーとのコラボレイト・アルバム『Clash』(97)をリリースした直後で、アンビエント志向の高まりと歩を揃えた『Moving Pictures』(93)以降、もうひとつ方向性を見出せなくなっていた時期にあたっている。テクノとの接点がドクター・ウォーカーだったということがすべてを物語っていて、シューカイほどの才能がなぜテクノの中心にいたマイク・インクやベーシック・チャンネルではなく、それらのフォロワーでしかないドクター・ウォーカーだったのか。テクノを聞き分ける能力がなかったか、テクノと呼ばれていればなんでもいいと思ってコラボレートしたとしか考えられない安易さである。実際、『Clash』以後、シューカイが積極的にテクノと関わっていく姿勢を見せることはなく、彼にとっては発展性のないプロジェクトで終わっている。完全に自分を見失っていた時期だったのだろう。

 ブライアン・イーノの90年代も同じようなもので、クラブ・カルチャーの狂騒や猥雑さに馴染まず、意図の伝わりにくい作品が続き、作品数も激減した時期である。よほどのファンならば理解を示しただろうけれど、リミックス・ワークもハズレが多く、新たなファンを獲得できる動きとはとても言えなかった(『The Shutov Assembly』がリリースされた当時、あまり面白くないという評を書いたら石野卓球に怒られてしまった)。イーノ自身が失敗だったと認めているリミックス・ワークにカン〝Pnoom (Moon Up Mix)〟がある。『Sushi, Roti, Reibekuchen』が行われる前年にリリースされたカンのリミックス・アルバム『Sacrilege(冒涜)』の冒頭に収録されたもので、失敗という以前に短くてすぐ終わっちゃうのでもうちょっと聴きたかったと思うリミックスである(これがきっかけで『Sushi, Roti, Reibekuchen』の共演が実現したのかもしれない)。さらにいえば『Sushi, Roti, Reibekuchen』の前夜にはイーノは思い切ってモート・ガーソンやレイモンド・スコットを思わせるスペース・エイジへと回帰し、エイフェックス・ツインやアトム・ハートらによるラウンジ・ミュージック・リヴァイヴァルにどこか文句を言いたげな『The Drop』をリリースする。しかし、これも大きなプロップスを得ることはなく、それどころかニック・パスカルやジム・ファセットに寄せたジャケット・デザインの意図も伝わらずに、ダサいと思われただけで、どちらかというとヤン富田の方が同時期にもっとうまく同じことをやっていたという印象が強い。シューカイほどひどくはないものの、『The Drop』もイーノが道を見失っていたことを記録した作品の一種ではあるだろう。

 そして、90年代と反りが合わなかった2人の前に現れたのがJ・ペーター・シュヴァルムだった。スロップ・ショップ名義でシュヴァルムが98年にリリースした『Makrodelia』はトリップ・ホップの最後尾につけたとされるデビュー作で、同じドイツ圏ではクルーダー&ドーフマイスターからドラッグ要素を差し引き、あっけらかんとさせたような作風がメインだった。はっきりいって『Makrodelia』は表層的で、ミュンヘンにはごろごろあるようなサウンドだし(実際にはシュヴァルムはフランクフルトが拠点)、イーノが関心を持つようなサウンドとは思えなかった。イーノが必要としたのは、しかし、ダブを思わせるドラミングや音の組み立て方、あるいはドラッグによる酩酊感とは別の価値観に支えられた “何か” だったのだろう。何度も書いてきたようにイーノは日常から離れることを良しとせず、90年代と肌があわなかったのもそのことに起因しているはずで、『Makrodelia』にはそのような条件を満たすものがあったに違いない。少なくとも『Makrodelia』の2曲目に収録された “Gone” には『Sushi, Roti, Reibekuchen』の基礎となるサウンドが聞き取れ、ここがセッションの起点となったことはなんとなく想像できる(『Makrodelia』ではなぜか “Gone” だけが飛び抜けている)。イーノもシューカイも袋小路にいて、明らかに未熟だったシュヴァルムがこの淀みに “何か” を加えたことで一気に全員のレヴェルが跳ね上がるというマジックが起きたのである。スポ根マンガでいえば起死回生の一打が放たれた。そんな感じがしてしまう。

 とはいえ、『Sushi, Roti, Reibekuchen』はオープニングの “Sushi” がまずはジ・オーブやスクエアプッシャーを想起させるところがある。回り道をしてようやくイーノがクラブ・カルチャーの成果と足並みを揃えたというか。これではイーノがアシッド・ハウスやチル・アウトに距離を置いてきた意味がない。曲の完成度は高いけれど、イーノにしてはヴィジョンに乏しく、クラブ・ミュージックに精通しているリスナーにはもうひとつ説得力がない。後半に入ってドラミングが後退するとアップデートされたカンみたいになり、続く “Roti” とともにそこからはなにも文句がなくなる。抑えたリズムで延々と聞かせるかと思えば、様々なSEを駆使して緊張感を高め、パンなど食べてる場合ではなくなっていく。後半から入ってくるドラムもクラブ・カルチャーのそれではなく、ジョン・ハッセルとの『Possible Musics』を彷彿とさせるものに変化している。炭水化物から離れて “Wasser(水)” と題された曲では緊張感を少しといて、穏やかな曲調になだれ込んでいく。おそらくイーノ主導なのだろう、ハウリングを起こしているようなドローンを軸に液体のなかを漂う感触はシューカイが持ち込んでいるのだろうか。背景に退きながら緊張感を残したドラムに “Gone” と同じようなリヴァーブをかけて効果を膨らませているのもおそらくイーノで、これを聞いているとサウンド全体のコントロールはイーノがイニシアティヴをとっていることを確信してしまう。 “Reibekuchen” もまたモロにカンを思わせるものがあり、この頃になると3人の持ち味が完全に融合した状態といえるのだろう。カンのようにパッションが迸らないところが時代の違いというか、それこそ部分的にはP.I.L.『Metal Box』やコールド・ファンク版のジ・オーブといった感じにも聞こえる。最後に “Wein(ワイン)” と題されたサウンド・コラージュ+ダブ。冒頭でイニシアティヴを取っているのはおそらくシューカイで、シューカイはどん底にいながら、この時期は10年をかけて『Good Morning Story』(99)を完成させていた時期でもあり、同作を製作している過程でカンの方法論から離れ、カン以前に取り組んでいたミュジーク・コンクレートに傾倒し始めた意識がこの曲にも見事に刻印されている。同じ時期にウィーンではフェネスがバイオアダプターという概念を音で置き換えるという作業を通してミュジーク・コンクレートを刷新し、ジム・オルーク&ピーター・レーバーグと組んだユニットによってドイツ全体を同じ道に引きずり込み、クリック・ハウスというモーメントとも同期しながらエレクトロニカというタームが幕をあけていた。シューカイがイーノに刺激を受けたかどうかはわからないけれど、00年には『La Luna』で自動生成による不穏で強迫的なドローンを構築し、フェネスたちとあまり変わらない地平にいたことは特筆すべきことである。

 イーノとシュヴァルムはこの後もタッグを組み続け、『Music For 陰陽師』(00)に『Drawn From Life』(01)と立て続けに作品を完成させていく。前者で幽霊じみたサウンドトラックを奏でたことはともかく、後者では『Sushi, Roti, Reibekuchen』を滑らかにしたテクスチャーが織り成され、かつてなくコード展開も華やかで、さらにはヘヴィなストリングスまで被せられていく。シュヴァルムはそれから12年後にワグナーを題材とした『Wagner Transformed』をリリースし(『アンビエント・ディフィニティヴ 増補改訂版』P200参照)、イーノは同作で “Tristan & Isolde(トリスタンとイゾルデ)” を演奏することになる。『別冊エレキング イーノ入門』で高橋智子が指摘するように、後期の代表作といえる『The Ship』(16)を製作するまでロマン主義に手を染めることがなかったイーノが、その禁を破った最初が『Wagner Transformed』であり、その予兆をなす作品が『Drawn From Life』なのである。同作はイーノのキャリアのなかでもかなり特異な作品で、ちょっと聴くとアンビエント作品の延長みたいだけれど、全体的には前半の活動からは想像できない要素に満ち溢れている。先に僕はイーノがシュヴァルムのサウンドに「ドラッグによる酩酊感とは別の価値観に支えられた “何か” 」に反応したという書き方をした。その “何か” とはロマン主義に通じるものではなかったのか。イーノが『Makrodelia』に見出したものはそれほどのものではなかったかと思う。シュヴァルムとの出会いからは『Sushi, Roti, Reibekuchen』~『Drawn From Life』~『Wagner Transformed』~『The Ship』という力強い系譜が導かれたのではないかと。

 素晴らしいパフォーマンスを展開しながら『Sushi, Roti, Reibekuchen』がこの当時、リリースされなかったのはなぜなのか。無意識のレヴェルで起きたことなのかもしれないけれど、ひとつにはイーノもシューカイもあまりうまくいっていない時期だったためにリハビリ以上の意味をセッションの効果として見出せず、自信を持って世に問う気になれなかったのではないかという推測が最初は浮かぶ。あるいはフィッシュ(Phish)やレイディオヘッドが全盛だった時期にはノスタルジックな響きが強く、その点でも気後れが生じたのかもしれない。うがっていえばゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラーもすでに胎動を始めていた時期なので、同じ即興でも強度に差があり過ぎて『Sushi, Roti, Reibekuchen』をリリースしても霞んでしまったことは想像に難くない。翻って現在はどうだろう。マクシミリアン・ダンバーことアンドリュー・フィールド~ピカリングが彼の運営する〈Future Times〉をハウスのレーベルから脱却させ、様々な実験的試みにトライするなかでプッシュしていたプロテクト-Uがその後にセッション専門の〈U-Udios〉を設立し、ここから生み出されるテープ群がカンのそれに近く、なかでも『別冊エレキング カン大全』で取り上げたオン・ザ・イフネス『U - Udios 4』(20)は新たな流れの始まりではなかったかと僕は思っている。細かく取り上げていけばきりがないけれど、これに冒頭で言及したニューク・ウォッチによる快進撃や、現在、フランスのカンと呼ばれているソシエテ・エトランゼが22年にリリースした『Chance』など即興で行われるセッションがひとつの流れとなってポスト・ロックの後にひと盛り上がりすれば『Sushi, Roti, Reibekuchen』は力強い導線のひとつとなることは間違いない。かつて荒木経惟は「いつ撮ったかではなく、いつ出すか」だと話していた。『Sushi, Roti, Reibekuchen』のリリースもまるでベスト・タイミングを図っていたかのようではないか。

Various - ele-king

ラップは聴く者にある種の奇妙さを与え、別の意味で、私たちを私たちの社会の社会的良心から排除された次元へと接触させる。 ——モニカ・ド・アマラル「エロプティカが侵食するブラジルの公立学校の現状」より

 

 我々とは異なる文化から発信される音楽が、ひどく奇妙なもの、「なんじゃこりゃあ」というものとして聴こえるとしたら、それは我々がまだよくわかっていない知恵による創造物であるということ、先方から見たら我々のほうが奇妙である、ということだ。先々週、三田さんが紹介したタンザニアのシッソのアルバムは、たしかに、まずこの国で流れることのない音楽ではある。とはいえ、すでにシャンガーンを聴いている耳にはアフリカの高速リズムは経験済みではあった。その点、『Funk.BR』なるコンピレーションは、20年前のバイレ・ファンキ(またはファンク・カリオカ)、要するにブラジリアン・ヒップホップを聴いている耳には、クセのあるリズムから、理屈ではその現在形と理解できる。が、バイレ・ファンキがディプロらを通じてグローバル化し、ポップスに感じられるようになっているこんにちにおいても、これは新たな「なんじゃこりゃあ」なのだ。なんとまあ多彩な、変態的ハイブリッドの数々だこと。日本の裏側の、人口2億人の国のリオデジャネイロという二重構造を持つ都市の貧困地帯で生まれ、同国内のもうひとつのメガロポリス、サンパウロに飛び火した「ファンキ(ファンク)」は、さらに独自の発展を遂げ、ブラジル国内はおろか、北半球の都市部の人たちをも魅了している。

 バイレ・ファンキは、USヒップホップ(とくにマイアミ・ベースやエレクトロなど)の影響を受けながら、貧民街のディアスポラ文化——アフロ・ブラジリアンとネイティヴ、そしてアフロ・アメリカンがぐしゃぐしゃに混じり合って生まれたラップ&ダンス・ミュージックだった。サンパウロにおけるその発展型は、USからのトラップやドリル(あるいはレイヴ・サウンド)の影響を受けつつも、またしても斬新なサウンドを複数のアーティストがクリエイトしている。現行のシーンを知るうえで、ぼくは英米メディアをはじめ、「ブラジルポップス観測所」という日本語サイトを参考にした。かいつまんで言えば、サンパウロのファンキには「ブルクザリア」なるスタイル、「マンデラン」と呼ばれる路上パーティなど、いくつかのサブジャンルや細部化されたシーンがある。『Funk.BR』はサンパウロのシーンのスナップショットで、ぼくのような初心者にはじゅうぶんに衝撃的と言える内容だ。

 「ファンキ」は、彼の地の現実(暴力、セックス、ドラッグetc)を反映しながらも、制度的な人種差別、都市部における貧困、そして精神的な抑圧からの解放(ないしは抑圧されたリビドーの解放)の音楽として機能している。バイレ・ファンキの刺激を受けて、サンパウロのシーンが急成長したのは2010年代に入ってからだという。保守派からは、公衆衛生犯罪だと非難されたこともあったという話だが、そうしたファンキを黙らせようとする反対派の声もなんのその、彼らの音楽への情熱はYouTubeチャンネル「KondZilla」やTikTokなどを通じて広がり、音楽の魅力をもってリスナーを増やしている。いまではブラジルでもっとも人気のジャンルのひとつへと成長しているそうだ。

 英国のジャーナリストのフェリペ・マイアとジョナサン・キムがキュレーションし、NTSからリリースされた『Funk.BR』は、22のトラックを通じてこのシーンに光を当てている。ここでは、そのさわりだけ紹介しよう。アルバムは、不吉なアートワークにぴったりな、DJ Patrick RとDJ Pikenoによるゴシックかつインダストリアル調クラーベの“Vai No Chão”にはじまる。そして、Mu540とMC GWの共作、呪文のような“A Culpa Eh da Cachac​̧​a”へと続き、DJ Aranaによる“Montagem Phonk Brasileiro”ときたらもう……、このミニマルな電子ノイズの歪みは(ほかの曲にも言えることだが)静と動のメリハリもったみごとな構成で、決して力任せに作られたものではない。北半球の世界では「ノイズ/エクスペリメンタル」などと形容されていたであろう、すばらしい芸術作品だと言える。が、しかし、これはアカデミアとは無縁な、完璧なストリート・ミュージックなのだ。

 電子化され、変容したサンバ。DJ DayehとMC Bibi Drakによる“As Mais Top”におけるねばっこいエロティシズムや、そしてDJ P7とMC PRによる“Automotivo Destruidor”のダークな電子空間からも、当たり前のことだが、昔の(生まれた階級こそ違えど)ボサノヴァやブラジリアン・ポップスとも相通じる節回しがある。しかしながら彼ら新世代の発想力は圧倒的で、そのテクスチャーは北半球のマキシマリズムやフットワークにも通じている。DJ Pablo RBの“Boca de Veludo”は、本作のなかではわりと馴染みがあるテクノ・ダンスと言えるが、それでもこの曲の前では、ザ・レジデンツでさえもMORなのだ。『Funk.BR』において、もっともぶっ飛んでいる曲のひとつはDJ BlakesとDJ Novaesによる“Beat das Gal​á​xias”で、これは周波数による耳への攻撃というか何というか……。ハンマーで粉砕された電子サウンドは、ときには鋭い刃物型の音響彫刻にもなる。

 シーンのなかには、動画編集ソフトを使って作っている者もいれば、スマートフォンだけで作っている者もいるというが、ファンキとは、クリエイティヴな音楽制作に必要なのは、高価な機材ではないということのお手本のようなシーンでもある。エレクトロニック・ダンス・ミュージックにはまだまだ発明できる領域があった。そんなわけで、ブラジルはサンパウロ内の1600万人以上が暮らす貧困地帯でこの10年磨かれてきたダンス・ミュージックが、ここ1〜2年でいっきに北半球でも注目され、話題になっている。我々も、このトレンドを楽しもう。 

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