「UR」と一致するもの

interview with Waajeed - ele-king

 もしあなたがハウスやテクノといったダンス・ミュージックを愛していて、まだワジードの存在を知らなければ、ぜひとも彼の音楽に触れてみてほしい。
 ワジードは00年代にヒップホップの文脈で頭角をあらわしながら、ここ10年ほどはハウスやテクノの作品を多く送り出しているデトロイトのプロデューサーだ。2022年秋に〈Tresor〉からリリースされた現時点での最新アルバム『Memoirs of Hi-Tech Jazz』のタイトルを最初に目にしたとき、古くからのデトロイト・テクノ・ファンはこう思ったにちがいない。これはギャラクシー・2・ギャラクシーを継承する音楽だろう、と。
 たしかに、一部のシンセやジャジーなムードにはG2Gのサウンドを想起させるところが含まれている。が、本人いわく同作はとくにマイク・バンクスから触発されたわけではなく、父の思い出から生まれたアルバムなのだという。タイトルの先入観を捨て去って聴いてみると、なるほど『Memoirs of Hi-Tech Jazz』にはシカゴ・ハウスやダブの要素も盛りこまれていて、デトロイトに限らずより広く、ハウスやテクノがどこから来たのかをあらためて喚起させてくれる作品に仕上がっていることがわかる。先日の来日公演でも彼は、ブラック・ミュージックとしてのハウスを大いに堪能させてくれるすばらしいDJを披露したのだった。
 2週間後に発売となる紙エレ年末号(2010年代特集)には「BLMはUKをどう変えたのか」という記事を掲載している。音楽業界におけるホワイトウォッシュへの意識が高まったことの背景のひとつにBLMがあることはほぼ疑いないといっていいだろう。BLMはそして、デトロイトも「少なからず」変えたとワジードは述べる。音楽がコミュニティの一助となることを強調し、かつてNAACP(全米有色人種地位向上協会)が所在していたのとおなじ建物でアンダーグラウンド・ミュージック・アカデミーなる音楽教育機関を運営してもいる彼は、『Memoirs of Hi-Tech Jazz』が2020年のジョージ・フロイド事件のころ制作しはじめたものであり、BLMの流れを汲むアルバムであることを明かしている。
 といってもその音楽はけして堅苦しかったり気難しかったりするものではない。それはどこまでもダンスの喜びに満ちていて、スウィートでロマンティックな瞬間をたくさん具えている。「ジャズもテクノも、比喩表現ではなく革命のための音楽」だと言いきる彼の、美しいダンス・ミュージックをまずは知ってほしい。(小林)

(ラジオでエレクトリファイン・モジョが)いつも「玄関の灯りをつけろ!」ってMCで言うんだよ。そうするとまわりの家々が一斉に明るくなっていく。そうでもしないと真っ暗で、町が物騒な雰囲気に包まれてしまうからさ。そういう思い出から、アンダーグラウンドの音楽がいろんなコミュニティの助けになって、なにかしら変革につながるってことを俺は学んできたんだ。

日本に来るのは3回目ですよね。

Waajeed(以下W):3回以上のような気もするけど、たぶんそうだね。

日本にはどんな印象を持っていますか?

W:そりゃもう、ぶっ飛ばされてるよ(笑)。文化にせよテクノロジーにせよ。クラブではブラック・ミュージックへの感謝をいつも感じるな。すべてにおいて好きな国だ。ホームにいるよりいいかも!

あなたはデトロイトに対する愛情をいつも表現していますが、(日本とは)あまりにも違いすぎて変に感じることはないんでしょうか。

W:たしかにそうだね。デトロイトはハードな環境だし。昨日、俺は携帯をタクシーに忘れてしまって、「見つけるのは絶対無理だな」って凹んでたんだけど、タクシー会社に連絡したらあってさ。そんなことはデトロイトだとありえない(笑)。

最近の日本だと見つからないことのほうが多いと思いますよ。

W:ラッキーだったんだな。でも、やっぱり日本のことは安心できる国だと思ってるよ。

あなたが音楽シーンに認知されたのはスラム・ヴィレッジが最初で、ワジード名義の初期の作品もすごくヒップホップ色が強かったですよね。でも2010年代からはハウスやテクノに急接近していきました。そのきっかけはなんだったんでしょうか。

W:ジャンルとしてはまったく違うけど、自分の注目しているようなゾーンはつねに未来にあったんだ。スラム・ヴィレッジにいたころも、未来を見ていた。1999年ごろから、すでにテクノへの意識はあったな。

ぼくも何回かデトロイトに行ったことがあるんですが、2000年代の初頭ごろにスラム・ヴィレッジの “Tainted” が流行っていたのをいまでも覚えています。ラジオをつけるたびにかかっていて。デトロイトといえば、ヒップホップがすごくメジャーなものじゃないですか。そのなかでアンダーグラウンドな文化でもあるテクノやハウスへ接近していった理由というのは?

W:なんだっけ、(エレクトリファイン・)モジョのラジオをよく聴いてたからかな? アンダーグラウンド・カルチャーはスピーディに動いていて、つねになにかが先にはじまるんだ。だから、そこから発生するものはなんでも吸収しようとしてたな。

モジョのラジオを聴いていたのはホアン・アトキンスなど上の世代ですよね。あなたはもっと若い世代なのに、なぜ追いかけていたんでしょうか。

W:いや、ホアン・アトキンスとはそんなに変わらないんじゃないかな(笑)。

彼は50代か60代で、ぼくとそんなに変わらないはず(笑)。

W:ああ、そうなんだ。

俺のなかではジャズもテクノも、比喩表現ではなく革命のための音楽だから、そういう思いを込めた。

ちなみに、あなたはデトロイト時代にどのような少年時代を過ごしていましたか?

W:モジョを聴いてた子どものころは、母親がやんちゃな兄貴のことを心配してたな。銃声なんかもバンバン聴こえるしさ(笑)。だから、ラジオをかけて気分を落ち着かせようとしてたんじゃないかな。モジョのラジオ・ショウにチューニングすると(彼の番組の)「ミッドナイト・ファンク・アソシエイション」が聴けるんだけど、彼はいつも「玄関の灯りをつけろ!」ってMCで言うんだよ。そうするとまわりの家々が一斉に明るくなっていく。そうでもしないと真っ暗で、町が物騒な雰囲気に包まれてしまうからさ。そういう思い出から、アンダーグラウンドの音楽がいろんなコミュニティの助けになって、なにかしら変革につながるってことを俺は学んできたんだ。

ラジオDJが社会的不安の支えになり、街の治安を守っていた、と。すごいエピソードですね。話は戻りますが、〈Dirt Tech Reck〉というあなたのレーベルについて教えてください。

W:ダーティ・テクノ、つまりはそういうこと!

(笑)。どんなコンセプトではじめたんでしょうか?

W:もちろん、ダーティなテクノだよ(笑)。コンセプトはエクスペリメンタルでありながら、ダンス・ミュージックでもあることかな。2013年にニューヨークからデトロイトに戻ったタイミングで立ち上げたんだ。

ニューヨークにいた時期があるんですね。どのぐらいの期間ですか?

W:むちゃくちゃ長いよ。2005年から2013年まで、8年間だ。

エレクトリック・ストリート・オーケストラという名義でアルバムを2枚出していますよね。面白いコンセプトで。すごくアシッドでいろんな要素が入り混じっていて、まさにダーティなテクノで。

W:自分だけのプロダクションではなく、ほかのプロジェクトに関わることで、外から見られている自分のステレオタイプを潰すようなコンセプトがあったかな。ブーンバップだったり、そういうことではない、違うことに挑戦したかった。

なるほど。ちなみにあれは2枚で終わりなんですか? 次を楽しみにしていたんですが。

W:まあね(笑)。基本的には俺は別のプロジェクトは、2枚ぐらいで終わらせるんだ。

ではアルバムについての質問を。『Memoirs Of Hi-Tech Jazz』、これはURに捧げたものなんでしょうか。

W:そうなのかな、たぶんそうじゃない(笑)。あまり関係ないかな。基本的には、亡くなった俺の父親との思い出がコンセプト。ちなみに、今日は彼の誕生日なんだ。親父は俺が小さいころ、ウィードを吸いながらライトを消して、ジャズをよく聴いていたな。グローヴァー・ワシントン・ジュニアとか、ハービー・ハンコックとか、ジョージ・デュークとか。俺の少年期は、家の片側からは親父のジャズが聞こえてきて、もう片側ではモジョのラジオが流れているような状況で、それが音楽の知識になっていった感じだな。初期衝動的なね。そういったことがアルバムを形作っている。だからURの影響下にあるわけじゃないんだ。もちろんマイク(・バンクス)のハイテック・ジャズもいいと思うけど、直接的なつながりはないね。

シングルのリミックスをURが手がけていますが、UR側からタイトルについてなにか言われなかったんでしょうか。

W:いや、だからリスペクトも込めて、URにリミックスを頼んだんだよ(笑)。名前についてはまったく訊かれてないかな。

まさにギャラクシー・2・ギャラクシーの続きを聴いているようなアルバムだな、という感想を最初は抱きました。

ポスト・ギャラクシー・2・ギャラクシーということですね。

W:おお、それはいい表現だ。

なので、直接的には関係がないという話を聞いて驚きました。ところで3曲目の “The Ballad of Robert O’Bryant” というのは、だれのことを指しているんでしょうか。

W:俺だね。父の名前でもあるし、そのまた父の名前でもある。俺は3世なんだ。亡くなった親父に向けたバラードだよ。俺が1989年、ハイスクールに通っていたころ車で親父が学校へ送ってくれてたんだ。俺はバック・シートでよく居眠りしてたんだけど、そういう思い出を込めた曲さ。たぶん、車のなかではURとかテクノ、ジャズなんかが流れてたんじゃないかな。

サイレンの音からはじまる曲なので、なにか事件などと関係があるのかなと思ったんですが。

W:ああ、この曲は2020年のコロナ禍のはじまりのころ制作しはじめたんだけど、その時期にジョージ・フロイドの事件があっただろう。あのときに起こったプロテスト、つまりBLMの流れを汲んだドキュメンタリーでもあるんだ。俺のなかではジャズもテクノも、比喩表現ではなく革命のための音楽だから、そういう思いを込めた。

制作中にあの事件が起きて、BLM運動がはじまっていったとのことですが、それ以降デトロイトの状況は変わりましたか?

W:ああ、少なからずは。(事件を機に)なぜ自分は音楽をつくっているのかということも考えるようになったし、同じブラックたちの抗議活動の重要性もあらためて認識した。けど、実際に抗議活動に参加するのもいいが、やはり俺の仕事は外に出るより、スタジオで音楽をつくることなんだ、とも思ったね。そういうスピリットをあらためて実感したよ。彼らが抗議活動に行くように、俺は音楽をつくる。それはおなじことなんだ。

他方であなたはアンダーグラウンド・ミュージック・アカデミーという音楽教育機関をやっていますよね(https://www.undergroundmusicacademy.com/)。あれはどういうコンセプトのプロジェクトなのでしょうか。

W:コロナイズド、植民地化されたブラック・ミュージックや黒人文化をディゾルヴ(克服)するためのプロジェクトだね。ただバシバシとやってるだけのダンス・ミュージックを、もう少しオリジンへ、つまりデトロイトが培ってきたものへと戻すためのものだ。


アンダーグラウンド・ミュージック・アカデミーのサイトより。

日本に来るといつもあらゆる場所がきれいに整理されていて、完璧な状態が保たれている。でも、デトロイトはもう少しロウな感じなんだ。物騒で、汚れていて。だから、自分がなにをしたいかをはっきりと意識して自分を強く保たないと、生きていけないんだ。なにをするにも大変な街だけど、だからこそ人びとは生き生きとしている。(日本と)完全に真逆だよな(笑)。

ディフォレスト・ブラウン・Jr. のことを知っていますか?

W:ああ、もちろん。美しい青年だ。

すごく彼の考え方と似ているな、と思って。テクノをブラックの手にとりもどす、という。

W:そうだね。音楽のつくり方やDJのやり方を教えるだけじゃなくて、真実を教えるための場所さ。

ブラック・ミュージック・アカデミーは、むかしNAACP(全米有色人種地位向上協議会)があったのとおなじ建物を使っているのですよね。

W:キング牧師も来たことがある場所だし、俺たちもエレクトロニック・ミュージックでおなじことをしようとしてるから、深い意味合いがあるんだ。16歳ぐらいのころにも行ったことがあったな。3階建てで、1階はマイクが借りててミュージアムになってるんだ。アフロ・フューチャリズムについてのね。2階はレコード屋。DIYでペンキを塗ったりしてな(笑)。

アルバムではデトロイト・サウンドと同時に、シカゴ・ハウスやダブの要素もブレンドされていました。それはやはりサウンド面においてもブラック・ミュージックの歴史を継承していく、というような意志があったのでしょうか?

W:いや、そういうわけではなく、音楽的にそうなっただけ。ただ、自分の方向性や興味は、過去のものを継承して新しいものをつくりだしていくことにあるのは間違いない。けっしてシカゴ・ハウスやダブをつくろうと思って完成させたわけではないんだ。そういった要素はもちろんブレンドされているけどね。

なるほど。では最後の質問です。あなたが感じるデトロイトの文化的なよさとは、なんですか? 

W:真実と情熱に満ちあふれていて、正直さがあることかな。それはほかにはないものだ。たとえば、日本に来るといつもあらゆる場所がきれいに整理されていて、完璧な状態が保たれている。でも、デトロイトはもう少しロウな感じなんだ。物騒で、汚れていて。だから、自分がなにをしたいかをはっきりと意識して自分を強く保たないと、生きていけないんだ。なにをするにも大変な街だけど、だからこそ人びとは生き生きとしている。(日本と)完全に真逆だよな(笑)。デトロイトは剥き出しの街なんだ。そこが俺は好きなんだ。

interview with Kazufumi Kodama - ele-king

レゲエにおけるカヴァーというのはちょっと他のジャンルとはちがう、独特の創造性というか、センスが盛り込まれるんです。好きな歌を編曲を変えて歌うカヴァーと、レゲエ・アレンジで演奏するカヴァーというのは。ジャマイカ本国でも素晴らしいカヴァー曲が数え切れないくらいあるんです。その影響もあります。

 私は「悲しみ」と向き合うことがつらくなっていた。誰だって多少はそういうところがあるだろう。出かけたり、人と会う機会が激減したコロナ流行の時期に急激に老いていった家族の介護があり、ニュースを見れば戦争で子どもたちが残酷に殺され、嘆くことしかできないおとなたちが嘆く。私には現実がつらすぎる。どこをみても、くるしくて、ある日、息ができなくなって救急車を呼んだ。それでも私の体はどこもかしこも健康体で、きょうも生きている。「悲しみ」と向き合いたくなくて、悲しい歌や楽しいリズムをぼんやりと聴く。
いきなりあまりにもあからさまな話で、こんな話は誰かにするようなことではないと思いながら、いっぽうで、もっともっと悲しくて、だからこそそれに向かい合えない誰かがいることも想像できる。

 こだまさんへの久しぶりのインタヴューを終えて、すっかり時間が経ってしまった。こだま和文とダブステーション・バンドによるカヴァー・アルバム『ともしび』を聴いてすぐに話を聞かせていただいたというのに。
 ひさしぶりに対面した私は少し緊張していたが、こだまさんのグラスのビールがなくなるころには、“いつもの” こだまさんに、(いつもの)私が、少し絡むみたいに話が転がっていった。
 私は悲しみと向き合わなくなっていたことを、こだまさんと話して、最終的に、私は思い出した。なんて不真面目な態度だろう。
 こだまさんの、まじめな、それはきまじめとさえおもえることもあるくらいの、ていねいでひとつひとつの音が沁みてくるようなトランペットは、こだまさんが「悲しみ」とずっと真面目に向き合っているからだと思う。
 そんなことを言ったら、こだまさんは「なにをいっているんだ」と言うだろう。あいかわらず水越はなにも見えてないと言うだろう。そうなのかもしれない。「悲しみ」というものに、こんなに不意に、ぐいっと向かい合ってしまったのは、それでもこだまさんから聞いた話をやっと真面目に受け止めたからだ。私がここしばらく、目を逸らし続けていた「悲しみ」についての話をうかがった。うまく聞けなかったが、そのことをうかがったのだと思う。

自分にとって必要なものはそんなに多くなかったんだなということがはっきりするんです。例えばファッションとか、クラブ・シーンの喧騒とかですね。これは反論もあると思うけど、例えば冠婚葬祭なんかもそうでした。

最近はここ(立川AAカンパニー)でライヴもされているんですね。こだまさんのアルバムが飾ってあったり、過去のライヴ・ポスターがあったり、本当にホームグラウンドという感じですね。いつからやってるんですか?

こだま:ここは2年くらい前からですね。ベースのコウチが店長の店で、コロナ禍のさいちゅうに、ライヴができるように空気清浄機からなにから整えてくれてくれたんです。

SNSでこだまさんの暮らしというものはちらちらと垣間見えたりしていますけど、特にコロナ・パンデミックの間、いま振り返るとどんな時間でしたか?

こだま:まあライヴをやるものにとってはみんなそうでしたが、大きな打撃でしたよね。否応なく活動できなくなることになって、もちろん金銭的なことも重なりますし。とにかく否応なしに制約されてしまう。日頃「自由が大事」というようなこと言ってた人間がですね、抗うこともできない。あんなことは本当に初めての経験ですからね。中世からの歴史の一場面を見ていたような感じでしたね。当初、そんなに大袈裟じゃないと思っていたけど、だんだん、これは歴史的なことなんだなと思うようになっていましたね。

世界のどこにも逃げ場もなかったですよね。前のアルバムは19年の『かすかな きぼう』で、21年には HAKASE-SUN とのユニットで「café à la dub / カフェアラダブ」がリリースされました。バンドとしてはコロナ禍を跨いで4年ぶりのアルバムですが、カヴァー集で作ろうというのはどういう気持ちで?

こだま:『かすかな きぼう』を、バンドで出すことができて、やっぱり次にまた作りたいと思いますよね。その間にコロナ禍があって、このことが、僕の中で「やれることがあったらやっておきたい」という気持ちを強くしましたね。コロナ禍の中で、否応なしに活動を狭められた中で、自宅に引きこもるというほどではなくても、自宅にいる時間が長くなりますよね。それが「いま何ができるんだろう」ということにつながっていった気もするんです。
 それから、コロナ禍になる以前に、なんかこう、微妙に価値観が変わってきつつあったんですよ。それは自分の年齢やいままでやってきた活動のことも含めて、消極的になるというか、ネガティヴになるというか。いや、そうじゃないな。コウチが僕に働きかけてくれることで、ダブステーション・バンドというのは長い間、維持できていて、そのことに集中できていたということもあるんです。でも、コロナ禍で、狭いところに閉じ込められるような感じの中で、でもむしろそのことが、まんざら自分には合ってるかもしれないなんていうことも思った。これは言葉をたくさん必要とすることだから難しいけど、さかのぼれば「日々の暮らし」ということについて、わりと思っていたわけですよ、以前から。
 世界中でいろんなことが起きるし、価値観の変化やトレンドなんかもある。でもそういうことが、自身の中で絞られていくんです。やっぱり自分の日々の暮らししかないなと。コロナ禍でますます価値観の焦点がそこに合っていき、じっさいそういう暮らしをするんです。飯を作って、その写真をネットにあげるような。

「日々の暮らし」ということはたしかに以前からこだまさんの大事なテーマでしたよね。

こだま:そうです。さらにそれをクリアにさせることになったんです。

ツイッターに投稿されるご飯の写真を見ても、ですからそこには違和感はなくて、ああこれはこだまさんだとスッと入ってきましたね。

こだま:ありがとうございます。あれはネットにあげてるわけですから、自分の飯をね。まったくたいしたものじゃないというか、半ば自慢にもなってしまうしね、自分でも「なにやってんのかな」とときどき思いながらも、「日々の暮らし」ということで、自分の日々の飯をさ、ネットにあげたりして。でも単なるメシ自慢でもなく、あれは自分で作ったものだということなんです。つまり絵を描こうが、曲を作ろうが、僕が作ったものということです。ま、こだまはこんな暮らしをしてますという。人とは「元気でいます」ということにもなるし。ときどき、これは嬉しいことでもあるんだけど、レシピを問うてくださる方もいるんだけど、でもそれはちょっと違うんですよね。僕は料理研究家ではないので、これは……

ご飯でもあるし、こだまさん自身の「日々の暮らし」の表現でもあるし、デザインされた写真という表現物でもあるんですね。

こだま:そうですね。僕は音楽をやってきたわけで、CD出したりライヴやったりするのは、ミュージシャンこだまのいちばん見せたいところだったかもしれないけど、受け入れられるられないは別としても、それと別のところでのこだまというのはこんな感じの人間なんですよという表示ですね。
 そんなことする必要はないし、そんなことする必要はないということは重々わかりながら、それができたのはネットですからね。

こだまさんは以前は昔はデジタル全否定だったのに……。

こだま:そうでもないけど。使ってしまっている。

そういう使い方を発見したんですね。

こだま:そうだよ。野田くんは「ツイッターなんかやるんですか!」なんて言ってたよ。僕はやりませんよって。それをときどき思い出すよ。

ツイッターの中にあっても、こだまさんの静かな感じがいいですね。

こだま:そういう中でやれることはやりたいと言う思いはありました。ことさらネガティヴにということではないですけど、次々に迫ってくる嫌なこと、この数年だったらコロナ禍があり、ウクライナでの戦争があり、いままたパレスチナでしょ。それと国内の政治的な状況もある。そういうことが次々と気になってくるわけです。それと自分の年齢とを考えるわけです。さらに僕に年の近いいろいろな方が亡くなっていくということもあった。「ああ、そうなのか」という思いですね。

そういう時期、起きたことを考えると「ひとつの時代」といってもいいと思いますが、この曲を残したい、この曲を演奏したいということで今回のアルバムで選ばれたわけですよね。

こだま:そう。このダブステーション・バンドで次のライヴ、そのまた次のライヴをやって、活動全体を充実させていきたいという気持ちが強いけど、そうそう新曲を作れるわけじゃないですから、カヴァー曲というのは魅力なんですよね。バンドの場合。個人でうちで曲を作っている分にはそれなりに作ることはできるんだけど……

なるほど、新しい曲をバンドで演奏することが難しいわけですよね。ライヴの機会がないわけですし。

こだま:うん。一から作り上げていく大変さというのがオリジナル曲にはあるわけだよ。カヴァー曲なら、曲名を伝えればみんなそれを拾ってくれて、形にしやすい。それに、レゲエにおけるカヴァーというのはちょっと他のジャンルとはちがう、独特の創造性というか、センスが盛り込まれるんです。好きな歌を編曲を変えて歌うカヴァーと、レゲエ・アレンジで演奏するカヴァーというのは。ジャマイカ本国でも素晴らしいカヴァー曲が数え切れないくらいあるんです。その影響もあります。カヴァー曲をバンドで演奏できるというのはかなりな魅力なんですよ。

私は “花はどこへいった” から、“What A Wonderful World” まで、物語を感じたんですよね。野田くんが「新橋駅前で売ってるような」と表現したこのジャケットの写真の小さなバラが、“花はどこへいった” の「花」から、“Wonderful World” の「赤いバラ」までたどり着くまでの確たるストーリーはないけれど、一貫した物語です。私も散歩しているときにスマホで写真を撮るんですけど、あの小さな蕾のバラがそういう「日々の暮らし」を感じさせる写真なんですよね。すごくなにげなく、構えた感じでなく、撮った人の視線、大切に思うこと、生活というか日常を感じさせる雰囲気がある。真っ赤な、もうすぐ咲きそうな蕾の滲みのような色が、私には涙が滲むような感じでもありました。
 一方で、こだまさんの、世界に対する姿勢、アティチュードというのが、原発事故から、いえ、その前からですが、強いものがありましたよね。そういう意味での強さというようなものは、コロナ禍での生活でどうなりましたか? どうなりましたかというのも曖昧ですが、私はあの期間、見える世界も自分の生活も人生も、曖昧で茫漠としたというか、時間が止まってしまったように感じていた時期がありました。自分がとても無力に感じられていたんです。

こだま:そもそも必要なものというのが、僕にはそれほど多くなかったんですけど、それがなおいっそう、自分にとって「必要なもの」、それは「やれること」に置き換えてもいいんですけど、自分にとって必要なものはそんなに多くなかったんだなということがはっきりするんです。例えばファッションとか、クラブ・シーンの喧騒とかですね。これは反論もあると思うけど、例えば冠婚葬祭なんかもそうでした。結婚式も、以前なら、本当に祝福しようという気持ちがあればそれはすごくいいんですけど、でもなにか義理があったり、上司だからとか後輩だから、ご近所だからなどといったような価値観みたいなものを強いられていたと思うんですね。それはルールという言葉でも言えるかもしれない。こういう場所にはこういう服を着ていかなきゃいけないなんていうことです。そういうもろもろの、制約とかルールみたいなものが、自分には必要なかったんだなと思ったんです。じゃあ必要なことってなんだろうと思うと、せめて選挙にだけは行こうとか、人が嫌な気持ちになることはしないでおこうとか、当たり前のいくつかのことが浮き彫りになってきたと言えばいいか。価値観の崩壊とは言わないけど、全否定ということもありうるんですよね。全否定と言ったら最後には命をたつとか、そういうことにもなるけれど、だけどそうする前に、そうなる前に、自分にはなにが大事でなにをやっていくのかということを考えるようになったんです。

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悲しみ、ということなんです。大きなテーマとしてあるのは。哀愁の悲しみではなくて、涙でもなくて、どうしようもない「悲しみ」というものが、ずっとあるんですよ。

こだまさんは幼い頃から病気とつきあったり、いろいろな人たちの死と向き合うようなご経験をされてきたと思いますけど、私はコロナ・パンデミックになって、親が年老いていて、たぶん初めて(起きてしまった死ではなく)近未来に確実にある死というものを感じたと思うんです。怖いと思いました。こだまさんはそんなふうに狼狽えることもないのでしょうけど……

こだま:僕はもう親も亡くなってるし、身近な人が何人も亡くなっていったということもあるし、そこにまつわる決まり事みたいなことで動いていたことが、つまらないなってはっきりさせたんですよね。客観的に自分で突っ込んでみれば、よりエゴイストになったのかという声も聞こえちゃうんですけど、心の問題なんですよね。人が亡くなったときに弔ったり、悔やんだり、そこがいちばん大事で、そこに絡んでくる決まり事はどうでもよかった。
 世の中でも葬式も小さくなり、お墓もいらないんじゃないかということまで、話はもうきてますからね。昔ながらの家族制があって、家父長制のようなものがあって、それでうまくやれていた時代は大きな葬式やお墓で良かったのかもしれないが、いまはみんな生きるのに精一杯。そういうことがコロナ禍でようやくはっきりさせることができた。

なぜこんなことをうかがったかと言うと、このアルバムには歌が入っている曲が何曲かありますが、そのなかで “You've Got A Friend” と “What A Wonderful World” の歌詞に不思議な感覚を覚えたからなんです。前者は「君が悲しいとき、私の名前を呼んで、私はすぐに隣にくるよ」というようなもので、後者は「世界には戦争があり、悲しみにあふれている。でも小さなところを見れば薔薇が咲いていて青い空が見える、祝福の日に友だちが握手をしている、赤ちゃんの鳴き声がきこえる、なんてすばらしい世界なんだろう」と。
 こうした歌詞は私が日本語に直して理解するからかもしれないし、私は美しい世界も人間の友だちも信じられない貧しい心の持ち主であるということかもしれないけれど、どちらも神さまとか創造主のような視点で人間を見ているように聞こえるんです。「名前を呼べばそばにいることを約束してくれる人」だったり、「世界にはたくさんの瑕疵があるけれど、(私が創造したこの世界は)美しい世界ではないか」みたいな。とはいえ私は無神論なので、もう一度捻れるんですが、つまりこの解釈によれば、このアルバムにこうした曲が並んでいることで、単なる人生讃歌が表現されているのではない何かを感じる。ますますコロナ禍のような大きな見えない力に制御される人間が、それでもその力をある種ナナメに見たり、ずっと遠くに引いて感じたりするというような、まったく言いえていませんが、選曲やレゲエの世界にそういう複層的な世界を感じたわけです。

こだま:うーん? うーん。

すみません、また私の感想を長々と。

こだま:いや、嬉しいご感想ですよ。そうねえ、神っていう単語が出てくると恐縮ですけど、いまの僕がおおやけに、それを言っちゃあダメですよということがいくつかあるんですよ。二つ三つ。そんな僕が、この『ともしび』の前に出したタイトルが『かすかな きぼう』ですよ。「それを言っちゃおしまいよ」ということとはたとえば人の生き死にに関すること、自分の生き死にに関すること。僕はそれを「見えないゴール」と言ってるんですが、そのゴールを自分で作ってしまうということ、つまり自殺とはどういうことなんだとかということもよく考えるんです。僕自身はまだ、それこそ「日々の暮らし」というグラウンドにまだ立っていられるわけで、ゴールを引くことはしませんけど、でも子どもたちが自殺したり、目に見えて増えたようなんですね、若い人たちの自殺ということが。そういうものを考えると、自分が音楽をやっていくとき、ネガティヴではやっていけないので、本当にかすかでもやる気を出して、聴きにきてくださるリスナーのために、というのは口幅ったいけど、共にありたいという気持ちで作るんです。それには「それを言っちゃおしまいでしょ」ということを、どういうふうに話していくかということだとも思います。自分のことで言えば先はそんなに長くないと。そういうことは前にも語っていたけど、生命の寿命と、アーティストとして演奏できるという意味での寿命は違うんですよね。楽器も演奏できなくなるかもしれないとか、そんな日々迫ってくる「見えないゴール」みたいなものを、他のアーティストの方々が次々亡くなっていく中で考えさせられたわけです。

そう言われると、こだまさんのアティチュードや音楽にも、昔からそういう、「それを言っちゃおしまいよ」の一歩手前を意識するような緊張感というか、強さのようなものがあったようにも思いますが、マッチョな強さとは違うけれど、そうした強さがこのアルバムではなんというか達観というか、「おしまい」自体をある距離のところから鳥瞰しているような感じがします。
 たとえばここに入ってくるときに貼ってあるこだまさんのライヴのポスターで使っている写真って枯れた花だったりして、盛りの花じゃないんですよね。

こだま:花は、季節が変わって咲いていくものですからね、こんな世の中になってもまだ季節感のようなものを残して、花は咲くんだなと。そういう季節を捉えるということもありますよ。時間の経過でもあるし、

では、あの「枯れているひまわり」も、咲いていた日にも撮っていたということですか。

こだま:そうです。そうなんです。

でも枯れている方をポスターにした。

こだま:うんそれは「セプテンバー」というタイトルでしたからね。

9月には9月に咲く花もありそうですけど、そこは違うんですね。そういう盛りのものじゃないものを。

こだま:野田くんがときどき僕のことをペシミストだと書いてくれているんだけど、それに僕は反論する気持ちはなくて、これも「それを言っちゃな」という中の言葉なんだけど、「悲しみ」しかないんですよ。最近、人として。
 ついこないだのパレスチナの病院爆破のことにしても、ああいうことを人間がやってしまう。そこはまた言葉をすごくたくさん要するところなんだけど、水越さんの話を大きくまとめると、これは、悲しみ、ということなんです。大きなテーマとしてあるのは。哀愁の悲しみではなくて、涙でもなくて、どうしようもない「悲しみ」というものが、ずっとあるんですよ。
 で、またちょっと変な言い方になるけど、じゃあ「悲しみ」を伝えるのに、マイナー調の曲ならいいのかということではない。いや、じっさいマイナーな曲も多いけどね、それは僕の作るものが自然とそちらを向いてるからそうなってしまったからで、“What A Wonderful World” なんかはもう大メジャー進行の曲なんですよ、曲としては。でもそっちの方が悲しみが表現されていることがあるんですね。チャップリンの “スマイル” という曲とか。そういう、大きなというか、「人とは」というような意味での「悲しみ」ということなんですよ、僕がやるのは。それがまた反転して、喜びにもつながる。うまく言えないことが多いんですけど、「テーマ」というほど大袈裟なことではないが、その前に「静けさ」というものがあったんです。もう少し静かにしてたいなというか。

必要なかったものもたくさんあったんだということも思います。でもそういうもの全部が血肉になって、だからこそ「それは必要なかった」ということもわかったりするんですよね。つまりさ、そんなに世の中にいいものはたくさんはないぞと。

「静けさ」ということで言うと、私はコロナ・パンデミックの最初の緊急事態宣言のとき、毎日、こだまさんの歌詞の “End Of The World” が頭の中で回っていたんです、本当に毎日。マンションの部屋の窓から外を見ると都内の少し大きなバス通りなんですが、緊急事態宣言で車がほとんど一台も通らなくなってしまったんです。ちょっと信じられないような光景でした。大きな交差点の真ん中を自転車が一台、ゆっくり走っているだけで、人間も歩いていないなんていう日も多かった。窓から、飛行機も飛ばない静かな空と自動車も人もいない道路を見ていると、まるで世界が終わったような感じでした。その風景に、以前ライヴで聴いたこだまさんの歌詞のこの曲が思い出されて、まさに「いま」のために歌われた歌じゃなかったかと思っていたんです。実際の歌詞は失恋をした人に「それは世界の終わりじゃないよ」と言っているんですけど、この比喩がまさに比喩じゃなくなっていた。だからこの曲をアルバムで聴けて、とてもうれしいです。カヴァー曲集というのは、そういう複層的、重層的な聞こえ方──聴き方と言うより、聞こえてしまう聞こえ方──を聴く人それぞれが味わえるんじゃないかと思いました。古い記憶と新しい経験がひとつの曲の上で交差したり折り重なったりするんですね。

こだま:パンデミックでいろんなことを思う中で、また揺れ戻ってくるというか、自分にしっくりくるものが、自分が作ったものにあったんだろうなあ。やっぱり、日々の暮らしが切実になる中で、少し前にこんな歌詞を書いてたんだなと。それも意識するわけじゃなくて、ふわふわと自分の中に蘇ってくるんですよ。
 それにやっぱり、過去に作った作品だったり、過去に書いた歌、歌詞で、いいと言っていただけると、うれしいんですね。

それは、名曲、古典、懐かしい歌となって良かったという「良い」とは違って、いまの時代に再びぴったり焦点が合ってしまうという意味で「いま、良い」ということになったりするんですよね。
 そういうことで言えば、ミュート・ビート “キエフの空” がふたたび衝撃とも言えるものになってしまいましたね。この曲はチェルノブイリ原発事故に思いを寄せたものでしたが、20数年後に、同じ空がまた違う災禍に見舞われてしまっている。なんということなんだと。

こだま:いまは「キーウ」というんですね。僕もセットリストには「キーウ」と書くようになりましたね。そのときそのとき曲を作ってきて、その僕はあんまり変わっていないんだと思いますね。

きっとそうですね。そして世界も、これはとてもよくない意味でですが変わっていないところがたくさんあるんですね。

こだま:パンデミックというのは話のひとつの節目として、過去に聴いたり読んだりした音楽、文学なんかもあったけど、この節目に来て、必要なかったものもたくさんあったんだということも思います。でもそういうもの全部が血肉になって、だからこそ「それは必要なかった」ということもわかったりするんですよね。つまりさ、そんなに世の中にいいものはたくさんはないぞと。

こだまさん、それを言っちゃおしまいですよ! あ! 言っちゃった。
 ところで “ゲゲゲの鬼太郎” は、いつ頃からやっていたんですか?

こだま:最近ですね。ここ2年くらいで、まだライヴでは数回しかやっていないですね。

あの曲は、聴く人みんな、歌詞を知っていると思うんですね。ここでの演奏では歌はありませんが、聴いている人の頭の中ではみんな歌詞も再現されていると思うんですね。

こだま:うん。「試験も何にもない」ってね。

そう。それがすごくこだまさんワールドで、納得という感じなんですよね。こだまさんがよくおっしゃってる「比べない、競わない」という世界に通じているんじゃないかと。

こだま:ええ。水木しげるさんの熱心なファンとは言えませんが、好きな世界です。ただこの曲はそういう世界観から入るというのではなく、曲調が、僕の中ではリー・ペリーだったんですよ。
 リー・ペリー、アップセッターズの『スーパー・エイプ』というアルバムがあるんだけど、あの “ゲゲゲの鬼太郎” のメロディ自体が、ベースラインみたいなんですよ。最初のところなんかもまんまダブのフレージングと重なるんです。それが自分の中で自然につながってしまったんですね。これは僕の中ではリー・ペリー解釈なんです。なおかつ、歌詞の世界、そしてあの漫画自体が持つ幻想性、ロマンみたいなものが孕んでいるわけだから、これはこのダブステーション・バンドでやりたいとすぐに結びついたんです。あれも「それを言っちゃあ」の中に含まれるでしょ、「試験もなんにもない」って。水木しげるさんという人はとても大きく人というものを見ていた方なんだろうなと思います。
 音楽を作るのは、自分で意識して探しているわけではないんだけど、ちょっとしたひらめきの集まりですからね。ひらめきがある以上は何かやっていけるんじゃないかと。しかしその光の強さの強弱というものもあって、だんだんだんだん「ともしび」になりつつあるということもあって(笑)

そんなあ(笑)。でもたしかにカヴァー・アルバムにはそういうひらめきは特に重要なんでしょうね。

こだま:そうですね。パンデミック前まではそういうものももっと曲がりなりにもあったと思うんです。それは年齢とも関係すると思うけど、だんだん、ひらめきもね、かぼそくなっていくんだけど、その分輝きは強かったりするの。線香花火が消える前がいちばん輝きが強かったりするんじゃないかと。

えー! またそんなあ(笑)。

こだま:でも、そのぶん、たぶん熱も高いんじゃないだろうか。

野田:僕はこのアルバムのブックレットに載っている、誕生日ケーキを囲んだ写真を見てすごく思ったんですが、こだまさんは幸せ者なんじゃないかと。いつも悲しい悲しいと言っているけど、とても幸せじゃないかって(笑)。

こだま:うーん。そうですね。

野田:よくいうけど、マクロの世界は最悪だけどミクロの世界ではいいことがあるって。そういう感じですね。

まさに “What A Wonderful World” ですね。

こだま:つねに、自分のことをよく知る自分と、自分のことなのによくわかっていない自分とふたつあって。僕は締め切りがなきゃ作らないような人間ですからね。日々の暮らしだけですんでいれば、それはそれで幸せというか、「試験も何にもない」世界ですから。でもそれだって否応なしに孤独とか「見えないゴール」が迫ってくるから、そんなに大きな違いはないのかもしれないけど。

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“ゲゲゲの鬼太郎” のメロディ自体が、ベースラインみたいなんですよ。最初のところなんかもまんまダブのフレージングと重なるんです。それが自分の中で自然につながってしまったんですね。これは僕の中ではリー・ペリー解釈なんです。

野田:『ともしび』を聴いてそんなにペシミスティックな気持ちにならないんですよね。それはなぜでしょう? ペシミズムが表に出なかったのはどうしてなんでしょう。

こだま:それはよくわからないけど、まだ『かすかな きぼう』とか『ともしび』というようなものを自分の中に持っているからでしょうかね。そうしたものを失って、絶望までいったら終わりということでしょうから、絶望し切らないままに日々暮らすということですかね。

私は60になったんですが、そうなると、過去の10年15年の長さを思い、この先同じ時間の長さを思うと、人生は短いよなと驚いています。

こだま:そうか。だけどね、もっとご年配の方もおられるわけですよね。生まれたばっかりの人もいる。でも「今日」という日は同じなんですよ。生きている人にとって。若いとか老いているということは関係なく、幼い子どもはべつにしても、青年も、ご年配の人もいて、みんな「見えないゴール」が先にある。でも「今日」という日だけを見たらそれは誰にとっても同じ「今日1日」ということなんですよね。過去の年月というのはいわばすでに過ぎてしまってきていて、あるのは「今日」という日だけなんですよ。貯金じゃないんだから、あたしは何十年生きてきましたといっても、それはもう過ぎてしまった時間なんです。
 だからと言って「今日という日を大切にしよう」みたいな言い方もしたくはない。そういう感じで、僕は言葉をどんどんどんどん失くしていっているんですよ。ほんとうに、言葉が減っていきますよ。それと経験したことも含め、世界で起きていることも含め、現実はもう言葉を超えてしまっているわけだから、絶句、ということですよね。だけどそれじゃあダメだろうとも思う。声を上げていかなきゃみたいなこともある。でもそれも僕の中ではどうなんだろうという気持ちもある。あとは大事なことというのは、あえて言葉にして言いたいのは、人も自分も傷つけずに、ということですよ。そんな暮らしをしていきたいというのかな。言葉としては数少ないんです。散々人を傷つけてきましたからね、幸いそれを知らされていないというだけで、都合良く生きてきましたから。

いやいや、どこに話を持っていこうというんですか!

野田:若いミュージシャンもいて、でもいまは長い音楽生活をしてきた人たちもたくさんいて、僕はいま、老年期を過ごしているミュージシャンの音楽にすごく興味があります。もちろん18歳の声というものは重要だけど、同じように68歳のときの声も絶対重要だと思う。

こだま:そうですね。音楽というのは運動ですからね、ボディというか、パフォーマンス。アスリートほどではないにせよ、人前で演奏して聴いていただくというパフォーマンスなんですよね。で、パフォーマンス年齢というものがあるから、なかなか絵画とか文学のような表現とはちがって、老年の表現はわかってもらいにくいですよ。やっぱり人はステージの上で元気に踊ったり、動きを見せたり、大きな声を出せたり、盛り上がろうぜと言えるエネルギーを持っている方が、パフォーマンスにはふさわしかったりしたんですね。いままで。野田くんがおっしゃったような、年齢を経てきたようなパフォーマンスというものはまだまだ受け取ってもらえるような状況ではない気がしますね。見た目もあるし、特にポップスの面では、若い人たちが音楽をキャッチして、それに憧れたりしていくわけでしょ。

野田:こだまさんのライヴを長い期間見させてもらっていて、イラク戦争の後だったと思うけど、まだバンドじゃなくてひとりでやっていた頃、ラジカセを持ってきてECDの曲をかけたことがあったんですよ。「ECDがいいこと言ってるぞ」と。自分の曲を演奏しないでECDの曲をかけてた。それがこだまさんっぽい。そんなことを自分のライヴでやるなんてめちゃくちゃじゃない。

こだま:ああ、あったな。そうだった。あの頃、自分の中で大事にしているのが「自由」ということでしたね。それを自分が率先したいと思っていましたね。批判があろうが、ある種のルール違反だったりしても、自分のいちばん大事なパフォーマンスの場で「自由でいる」ということを大事にしたかったんですね。最近はあまり使わなくなりましたね。

自由と言えば、いまももちろん大切ですよね。でも20世紀は、人びとがわりと心置きなく自由に向かっていかれた時代だった気もしますが、いまはその自由を権力者や富裕な人たちが存分に謳歌するようになっていて、弱い人にはむしろ過酷な環境の要因にさえなっていたりする。たとえばアメリカは自由だけど、貧困層やホームレスの人たちの悲惨さは先進国では異様に際立っていたりしますよね。

こだま:その「自由」は「自由民主党の自由」だね。アメリカはその上に医療の皆保険がないからね。僕の友人の奥さんががんの手術をしたんだけど、その手術の当日に家に返されちゃうんですよ。それを聞いたときに、アメリカというものをひとつ知りましたね。がん手術の当日に、点滴をつけたまま家に帰るんだよ。入院は莫大なお金がかかる。
 限られたプールの中で泳いだ方が楽しかったりして、大海で流されたら、相当自由だけどおっかなかったりする。つまりそういうことなのかもしれないですね。

サメがいますから、そういう面はありますよね。

こだま:「自由」ということのリスクがあるんだな。

経験したことも含め、世界で起きていることも含め、現実はもう言葉を超えてしまっているわけだから、絶句、ということですよね。だけどそれじゃあダメだろうとも思う。声を上げていかなきゃみたいなこともある。でもそれも僕の中ではどうなんだろうという気持ちもある。

野田:こだまさんは長い間やってこられて、達成感というものも感じるんじゃないですか。

こだま:まあ、アルバムを作ったり、ライヴをやったり、でも達成感というものではないですね。達成感というのは目標や目的があってのことでしょう? それがそもそもないんだから……
 でもあえていえば、今年の、あのうんざりするほど暑かった夏に、一曲曲を作ることができたんです。それは “海” という曲なんですけど、それが完成しはじめたとき、原発の汚染水を海に流しはじめたんです。それまでタイトルは考えていなかったけど、その状況があって、タイトルを「海」にしたんです。それはいまの自分がいちばん無理せず、大きな狙いもなく、ひけらかすものもなく、ものすごくいい感じで演奏できる曲を意識したんですよ。
 トランペットというのは、ハイトーンの楽器なんですよね。ソプラノとかせいぜいアルトで、華やかな音をパーンと出して聴いていただくということがあったんですよ、いままでの歴史上でトランペットというのは。ものすごい勢いでインプロして、衝撃的なハイトーンを出して人を惹きつけていくということができるときと、否応なしに高い音が出せなくなっていく自分というものもあるわけです。さっきの話で言えば、例えばピカソが10代でものすごく緻密な絵を描いていたけど、晩年には緩やかな線を引く絵を描くようになっていたということにつながるんだと思うけど、まあいい曲ができたんですよ、自分の中で。ただ派手さはないから、どれだけそこに耳を傾けていただけるかどうかはわからないけど、僕としてはこれからの自分がまだパフォーマンスを続けていく中で、それと作品としてのやっていき方のきっかけになった曲なんです。それはダブということでもそうですし……。ひとつのフレーズなんですね、大事なのは。
 アスリートは体力とパフォーマンスで、記録を即座に出すという過酷な仕事ですよね。100メートル走にしても野球やサッカーにしても。音楽にもそういうところがあるんです。たとえば高い音を出すには、大袈裟にいうと、皮膚とか筋肉というものと密接なんですよ。歌を歌う人も少しキーを下げたりしますが、トランペットでも出なくなった音は無理して出さない。つまり、無理してまで出せない音は出さなくていい。パンデミック下でのことにまた結びつきますが、パンデミック後には無理してまで生きていこうとしなくてもいいじゃないかと。
 なんでかというと、毎日毎日、ひとりで自主練をするんです。でも上達しないんですよ。若い頃は、練習すればするほど少しずつでも次なるステップなるものが見えたんですよ。つまり、アスリートがいっくら走り込んだって、過去の記録は出せなくなっていくんです。でもそれもやらなかったら現状維持もできない。練習もなかなかできないんです。へとへとになっちゃうんです。

でも音楽というのは高い音や速弾きがいいというわけでもないじゃないですか。

こだま:うん。でもつねに、そういう種類のものを望む世の中というものがあるんだよ。クラシック音楽というものも僕は好きでときどき聴くけど、全部ピッチが上がってるぜ。みんなやっぱり、世界の動きに応えていっている。スピードやアクロバット的なものを求める。人って、けっきょく、何秒で走れるとかすごく速弾きできますよということにまず目が行くわけですよね。パフォーマーというのは、悲しいことに道化みたいなところがあるんですよ。静かな道化師じゃ絵にならない、誰も相手にしないんだ。ライムライトみたいになっていくんですよ。気がつくと劇場に誰も人がいないというふうに……。
 パフォーマーが自分のいちばん良かったときをキープしたいと望むのは、宿命みたいなものだから。苦しいけど、望まざるを得ない。何か術があれば、なんでも取り入れたい、利用したいという誘惑も、パフォーマーであれば願ってしまうと思いますよ。でもその価値観が、果たしてどうなのかという話なんです。でも人はみんな、受け手と表現するものとの間にある違い、ギャップというものはあります。

聴き手は「音程が全部あっていて高い声の上手な歌」を聴きたいわけではないのにね。

こだま:たしかに、たまにオリジナルの作曲者が、シンガーに歌わせてヒットした歌を、何年も経って歌ってみたらそれが良かったりというようなこともある。そう言えばさっきの達成感の話だけど、“End Of The World” の歌詞を書いて、あれは原曲の歌詞とは違う、いわば替え歌ですけど、その歌詞を書き、チエコ・ビューティーに歌ってもらってレコーディングするというアイディアを思いついたときは興奮して眠れないくらいでしたね。それで、その後も聴くたびに、これは本当に良かったなと思っていた。それを今回、アリワに歌ってもらえてまたうれしかったですね。

自己顕示欲というものがひとつのエネルギーなんですよ。「俺はこうだ」というエネルギーを、持っている間はいいんですけど、自分の中では価値として見出せなくなっても、やっていくわけですから、そこでなにをやるのかということなんです。

野田:ご自分の過去のアルバムをいま聴いて、お好きなのは?

こだま:あのね、自分のアルバムを聴くことはあまりなくなってきてるけど、YouTubeにリスナーの方がアップしてくれているのをたまに聴くことはありますよ。そうか、こんな曲もあったんだなと。

野田:それはなんの曲だったんですか?

こだま:それは『NAZO』っていうアルバムに入っている曲でしたね。

おもしろいですね。自分の曲に、他人の曲のように出逢い直してしまう。それでアルバムを聴き直しましたか?

こだま:聴き直しましたね。

どうでしたか?

こだま:うん。いいなって思いましたね。

そうですか。そうですよね。

こだま:これも「それを言っちゃおしまい」ってことですけどね。

それ、いっぱいありすぎますよ。2、3個じゃないじゃないですか。でも、たくさんの「それを言っちゃおしまい」ということを伺っていて思えてきたことなんですけど、このアルバムについて、最初に “花はどこへ行った” からはじまる。すごく悲しい曲だけど、私がいま聴くと少しアナクロだと思うくらいちょっと時代を超えた、そういう反戦歌からはじまって、“ゲゲゲの鬼太郎” も含めて、次第にこの世界をなんだかんだ言って肯定していく雰囲気というものがすごくあって、でもしかし、そうなんだけど、単なる肯定ではないですよね。「とりあえず肯定しますよ」という感じなんです。「しなきゃしょうがないでしょ」というか、「否定しちゃしょうがないでしょ」、つまり「それを言っちゃおしまいでしょう」ということかもしれないんですけど。

こだま:うん。つまりさ、ガザの病院を爆撃する人がいるわけですよね。そこで怪我をする病人や怪我人を治療する人もいる。そういう世界なんです。さっき言われた「マクロを見ればどうしようもない世界」だけど、小さなところを見ていけばそうじゃないところもあるだろう、救いもあるだろうということなんですよ。僕も。

だけど「救い」だけを見ていたら、悲劇を肯定することになっちゃうでしょと。

こだま:そう。病院を爆撃する側と、それに右往左往してる医師や市民の両極がある世界がまず見えますよね。それからもっと引くと、どっちでもない人たちがたくさんいますよね。なにを考えているのかわからない人びとが。なんか、そんなようなことなんですよ。
 でももう先は知れてるわけですよ、この先ね。たかだか……

いや、そういうことを言ってる人に限って90までやってるということは往々にしてありますよね。バランスとれた食事もしているし。

こだま:いや、自分で客観的にそういうふうに自分に突っ込むときありますよ(笑)。「お前、悲しみだのなんだのと言ってるのに、実はさ、体のこと考えながら豆腐や納豆食ってるんだろ」って。
 いろいろ話しましたが、思うのは、自己顕示欲を削いで、でもパフォーマンスしていくことの難しさということですね。自己顕示欲というものがひとつのエネルギーなんですよ。「俺はこうだ、俺はこうだ」ということです。でもそうじゃなくて、パフォーマンスあるいは音楽を作っていくということの違いを、思っているところです。それはなかなか難しいんです。思い余って、「俺はこうだ」というエネルギーを、持っている間はいいんですけど、自分の中では価値として見出せなくなっても、やっていくわけですから、そこでなにをやるのかということなんです。

自己顕示欲って、表現の原動力として有効というか、いいものですよね。ほかのことだと、自己顕示欲なしでできることはたくさんあると思いますけど、

こだま:願わくはそういう職業につければ良かったと思うこともありますよ。
 それから最後に、いろいろ話した後に抜け落ちていることに気づくのは、寝たきりの人もいるし、体の不自由な人もいるということですね。つねに抜け落ちるんですよね。そうすると、自分が語ったことなどどうでも良くなってしまう。けっきょく、そういう人にとっても、政治というものはすごく大事なんです。だからやっぱりそれは考えていたい。なぜ差別というものがあるのか。なぜ隣国の人を嫌うのか。差別っていうのは根拠もないことで人を排除したり嫌ったりするんですよね。根拠がない、どこにもなんの理由もないんです。

KODAMA AND THE DUB STATION BAND
LIVE ♪冬のともしび♪ 飛石2DAYS

公演日:12月26日(火)、12月28日(木)
会場:立川A.A.カンパニー
出演:KODAMA AND THE DUB STATION BAND
時間:開場19時 開演20時
料金:6,500円+1D
http://livehouse-tachikawa-aacompany.com

Sleaford Mods - ele-king

 「死んだ方がマシなときもある/銃を自分のこめかみに当てて」という歌い出しからはじまるHi-NRGサウンド。ペット・ショップ・ボーイズの永遠の名曲“ウェスト・エンド・ガールズ”を、なんとスリーフォード・モッズがカヴァーし、Bandcampや配信で発表した。そもそも1980年代半ばのこの大ヒット曲は、サッチャー政権下のヤッピー文化(小金持ちの若者文化)を風刺した曲と言われている。「ぼくたちに未来はなく過去もない。ただ今日だけがある」、いかにも英国風のひねりの利いたこの曲をスリーフォード・モッズがカヴァーすることが面白い(先行発表のMVはオリジナルのパロディで、笑える)。しかも、この曲の収益は、ホームレスを支援している団体に寄付される。ペット・ショップ・ボーイズ本人たちもこのシングルを讃え、シングルでは自らリミキサーとしても参加。そしてこうコメントしている。「スリーフォード・モッズは、大義のためにイースト・エンド(労働者階級)の少年たちをウエスト・エンド(繁華街)のストリートに呼び戻してくれた」
 ちなみにジェイソン・ウィリアムソンは、「ペット・ショップ・ボーイズのアルバム『Please』と『Actually』をよく聴いている」そうだが、この2枚、ほんとうに名作です。PSBといえば、この2枚さえ聴いておけばいいくらいに。
 なお、フィジカルの発売は12月15日。


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Bandcamp

 また、スリーフォード・モッズは最近は、ドイツのミニマリスト、Poleのリミックスも発表している。これが結構いいんです。
 

11月のジャズ - ele-king

 先日、ele-king年末号で「2010年代のジャズ」に関するコラムを寄稿し、その中で英国マンチェスターのゴーゴー・ペンギンについて「テクノやドラムンベース的な生演奏を現代ジャズでやってしまう」と解説したのだが、スコットランドのエジンバラを拠点とするヒドゥン・オーケストラもそうしたタイプのアーティストである。


Hidden Orchestra
To Dream Is To Forget

Lone Figures

「アコースティックなスタイルでエレクトロニック・ミュージックを創生する」というコンセプトも両者に共通するものだ。ただし、ゴーゴー・ペンギンがバンドであるのに対し、ヒドゥン・オーケストラはマルチ・ミュージシャンであるジョー・アチソンのソロ・プロジェクトである。形態としてはジェイソン・スウィンスコーのシネマティック・オーケストラに近く、実際の作品制作やライヴにおいては様々なミュージシャンやシンガーが参加しまたフィールド・レコーディングを大幅に取り入れた制作スタイルをとる。ゴーゴー・ペンギンよりも少しキャリアは長く、2010年に〈トゥルー・ソウツ〉からファースト・アルバムをリリースしている。2010年といえば英国リーズのサブモーション・オーケストラもデビュー作をリリースしたが、ドム・ハワード率いるこちらは人力ダブステップ・バンドと形容されたが、ヒドゥン・オーケストラの方はジャズ、エレクトロニック・ミュージック、ポスト・クラシカルなどが結びついた存在と言えるだろう。

 最新アルバムの『トゥ・ドリーム・イズ・トゥ・フォゲット』は、前作『ドーン・コーラス』から6年ぶりのスタジオ・アルバムで、これまで作品を発表してきた〈トゥルー・ソウツ〉から離れ、アチソン自身が設立した新レーベルの〈ローン・フィギュアズ〉からのリリースとなる。基本的にはこれまでの路線を踏襲するものの、以前に比べてフィールド・レコーディングスは少なくし、音楽的なテーマやアイデアをより直接的なアレンジメントに落とし込んでいる。ジェイミー・グラハム(ドラムス)、ティム・レーン(ドラムス)、ポッピー・アクロイド(ヴァイオリン)など、これまで多く共演してきたメンバーに加え、ジャック・マクニール(クラリネット)、レベッカ・ナイト(チェロ)など新たなミュージシャンも迎え、重厚で繊細なオーケストラ・サウンドはより深みを増している。“スキャッター” はヒドゥン・オーケストラお得意のドラムンベースを咀嚼したようなリズム・アプローチで、スロヴァキアの民族楽器であるフヤラが尺八のようにエキゾティックな音色を奏でる。小刻みなドラミングと怪しげなクラリネットがサスペンスフルなムードを駆り立てる “リヴァース・ラーニング” も、現代ジャズとドラムンベースやダブステップの邂逅というヒドゥン・オーケストラを象徴するような世界だ。


Laura Misch
Sample The Sky

One Little Independent / ビッグ・ナッシング

2017年頃から作品をリリースするサウス・ロンドンのサックス奏者のローラ・ミッシュは、トム・ミッシュの姉として既に名前が広まっており、この度デビュー・アルバムの『サンプル・ザ・スカイ』をリリースした。サックスのみならずいろいろな楽器を操るマルチ・ミュージシャンで、作曲からヴォーカルまでこなすシンガー・ソングライターでもある。1年ほど前よりエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーであるウィリアム・アーケインとコラボを重ね、そして完成したのが『サンプル・ザ・スカイ』である。

 エレクトロニックなプロダクションであるが、“ハイド・トゥ・シーク” に代表されるように全体のトーンは非常にオーガニックで、それは柔らかでナチュラルな彼女の歌声や風をイメージしたというサックスによる部分が大きい。そして、“リッスン・トゥ・ザ・スカイ” をはじめとした作品では、自然や草木、花などをモチーフにした歌詞、ハープなどの弦楽器やアンビエントなサウンドスケープ、鳥のさえずりなどのフィールド・レコーディングを盛り込み、空を浮遊するような感覚に襲われる作品集だ。“シティ・ラングス” のようにフォークトロニカ的な作品もあり、ギターと歌とサックスが織りなす優しい世界は非常に魅力的だ。


Astrid Engberg
Trust

Creak Inc. / Pヴァイン

 アストリッド・エングベリはデンマークのコペンハーゲンを拠点とするシンガー・ソングライター/プロデューサー/DJで、2020年にファースト・アルバム『タルパ』を発表した。デンマークをはじめとした北欧ジャズ界の精鋭が多く参加したこのアルバムは、現代ジャズにエレクトロニック・ミュージックのプロダクションを持ち込み、伝統的なジャズ・ヴォーカルやクラシックの声楽とネオ・ソウルやR&B的なヴォーカル・スタイルを邂逅させ、デンマーク・ミュージック・アワード・ジャズの年間最優秀ヴォーカル作品賞を受賞するなど高い評価を得た。そうして一躍期待のミュージシャンとなったアストリッドの3年ぶりのニュー・アルバムが『トラスト』である。『タルパ』から『トラスト』にかけての間、アストリッドは母となって長男を出産し、『トラスト』のジャケットでは赤ん坊を抱く彼女の写真が用いられている。子育ての中で『トラスト』は制作されたそうで、そうした子どもの存在や母としての自覚が信頼というアルバム・タイトルに繋がっている。

『トラスト』はトビアス・ヴィクルンド(トランペット)、スヴェン・メイニルド(サックス、クラリネット、フルート)など前作からのメンバーに加え、アメリカからミゲル・アットウッド・ファーガソンが参加する。ミゲル・アットウッド・ファーガソンが2009年にJ・ディラのトリビュートとして作った『スイート・フォー・マ・デュークス』を聴いて以来、アストリッドは彼の生み出すストリングスのファンとなり、切望してきた共演が本作で叶ったのである。その共演作である “スピリッツ・ケイム・トールド・ミー” は、ストリングスやフルートがアラビックで神秘的なフレーズを奏で、アストリッドの歌がスピリチュアルなムードを高めていく。


Kiefer
It's Ok, B U

Stones Throw

 2021年の『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』から2年ぶりの新作『イッツ・OK、B・U』をリリースしたキーファー。『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』はDJハリソンカルロス・ニーニョなど多くのゲスト・ミュージシャンが参加し、初期のジャジーなヒップホップ・サウンドから、より複雑で熟成されたサウンド・アンサンブルへ進化を遂げていった。そうした中でキーファーもビートメイカー的なピアニストからトータルなサウンド・プロデューサーへとさらにスキル・アップしていったわけだが、『イッツ・OK、B・U』はゲストも最小限にとどめてほぼ独りで作っており、『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』以前の作風に帰ったものと言える。そして、改めてビートメイクとピアノをはじめとしたキーボードのコンビネーションに注力している。

 ヘヴィなビートに引っ張られる “マイ・ディスオーダー” はキーファーのビートメイカーならではのセンスが表われた作品で、“ドリーマー” やタイトル曲でのタイトなビートとメロウなピアノのコンビネーションは彼の真骨頂である。ジャジーなヒップホップだけでなく、“ドゥームド” のようなエレクトロとニューウェイヴの中間のようなビートもあり、ビートメイカーとしてもさらに幅が広がった印象だ。また、アンビエントな “フォゲッティング・U』は、キーファーの新しい一面を見せるに十分な楽曲である。そして、『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』での体験がピアニストとしてのキーファーのキャリアも高めたようで、より繊細で複雑な表現力を持つピアニストとなっていることが、“ヒップス” や “ヘッド・トリップ” などを聴くとわかるだろう。

Zettai-Mu “KODAMA KAZUFUMI Live in Osaka 2023” - ele-king

 長きにわたり KURANAKA a.k.a 1945 が大阪でつづけてきたパーティ《Zettai-Mu》。その最新イヴェントになんと、こだま和文が登場する。関西公演はおよそ5年ぶり、パンデミック後としては初とのこと。バッキングDJは KURANAKA が務める。ほか、メインフロアにはDUB LIBERATION、Tropic Thunder、motokiらが出演、セカンド・エリアにも関西クラブ・ミュージック・シーンを代表するDJたちが集結する。12月16日(土)、スペシャルな一夜をぜひ NOON+Cafe で。

Galen & Paul - ele-king

 自分の10代の頃の憧れだったミュージシャンが、年老いて老害となるのを見るのはつらいものだ。しかしなかには、年齢を重ねながら、昔よりも好きになったミュージシャンもいる。ポール・シムノンは、そんなひとりだ。元ザ・クラッシュのベーシストは2011年6月、グリーンピース活動家のひとりとして、北極圏の石油掘削に反対するキャンペーンのため、はるばる船に乗って、ヨーロッパ最大の石油・ガス会社、ケアン・エナジー社が管理する北極海に面した石油掘削施設へと赴き、石油流出時の対応計画を提出するよう要求した。が、要求は拒否され、抗議者18人は不法占拠の罪で投獄された。こうした一連の政治活動において、また、刑務所のなかでも、シムノンは自分が元ザ・クラッシュのポールであることを言わなかった。シムノンは船内における料理係で、仲間からは「コックのポール」で通っていたそうだ。その彼があのポール・シムノンだとわかったのは、事件が全国ニュースになってからのことだった。
 「彼は本当によく働き、通常はコックの休日である日曜日でさえ料理をしていた」と、同行した航海士は『ガーディアン』の取材で答えている。じっさいの話シムノンは料理が得意で、その腕前は刑務所のなかでも発揮されたという。「(刑務所内の)食事があまりにひどかったので、看守にポールが料理をすることに同意してもらった」と、抗議者のひとりも証言している。彼は刑務所で、美味しいベジタリアン料理を作った。
 この記事を読んで、いままでスルーしていたハヴァナ3AMを聴かないわけにはいかなかった。ロカビリーにマリアッチ。永遠の音楽。自分のとってのザ・クラッシュというバンドは、高校時代に学校をサボって、静岡から東京まで東海道線で4時間かけて来日公演を見に行ったほどのスーパー・ヒーローだ。もっともその視線はジョー・ストラマーとミック・ジョーンズに集中していたのだけれど。しかし、それから30年の時を経て、ストラマーが歌のなかで訴えていた社会意識の高さを、バンド内でもっとも寡黙だったベーシストがそのさらにうえを行くように継承している事実を知った。デーモン・アルバーンがシムノンといっしょにザ・グッド、ザ・バッド・アンド・ザ・クイーンを組んだのは、彼の肩書きがたんなる「元ザ・クラッシュ」ではないからだろう。

 さて、ここからが本題である。「コックのポール」は、素晴らしいことに、ケヴィン・エアーズの娘の舌も満足させたのである。「人は自分が料理上手だと思いたがるから、どんどんいろいろなものを加えて、シンプルさや新鮮さを奪ってしまう。しかし、ポールのヴォンゴレは完璧だった」と彼女はある取材で答えている。

 それにしてもポール・シムノンとケヴィン・エアーズの娘、ギャレン・エアーズがいっしょにアルバムを作るとは、これはこれで面白い話だ。
 彼女の父ケヴィン・エアーズは、1960年代後半のUKアンダーグラウンドから生まれたソフト・マシーン(創生期にはデイヴィッド・アレン、ほかロバート・ワイアットがいたことで知られる)のオリジナル・メンバーのひとりで、ピンク・フロイド時代のシド・バレットやティラノザウルス・レックス時代のマーク・ボランのような、UKでは「ソフト・メンズ」と言われる、寛容な子育ての恩恵を受け、成熟した男らしさを拒否した最初の世代に属する人物でもあった。彼の歌声はバリントンだったが、いわば“ストロベリー・フィールズ/イエロー・サブマリン”の系譜というか、『おもちゃの歓び』や『月に撃つ』、『いとしのバナナ』といった初期のソロ・アルバムのタイトルからもその志向がうかがえよう。自由人エアーズは、60年代後半にはUKを離れ、当時のヒッピーたちが目指したスペインのマヨルカ島やイビサ島、モロッコにも住んでいたこともある。(ピンク・フロイドが音楽を手がけた映画『モア』を思い浮かべてしまう)
 フランスのコミューンで生まれ、スペインのマヨルカ島で育ったギャレン・エアーズが音楽活動をはじめたのは、大学のためロンドンに移住してからだった。レコード・デビューは2008年で、それはSiskinというバンドの一員としての作品だったが、2018年には最初のソロ・アルバム『Monument』をリリースしている(翌年にはライヴ公演のため来日もしている)。さらに補足すると、2013年の父の死は彼女の音楽への情熱をさらに高めたそうだ。 
 ギャレンとシムノンとは共通の友人が多く旧知の仲だったが、ことのはじまりはコロナ渦をマヨルカ島で過ごしたシムノンにあった。島の小さな漁村に滞在中、絵を描き、曲作りにも励んだ彼はロンドンに戻ると、自らのアイデアを具現化すべく、エアーズに声をかけた。話は早く、互いに曲を持ち寄って、シムノンが夕食を作っているあいだそれぞれの曲を流し、議論しながらアイデアを発展させていったという。

 『Can We Do Tomorrow Another Day?』は、ひとことで言えばレトロ・ポップなアルバムで、レゲエやラテンのフレイヴァーをスパイスに、ここにはデル・シャノン(ビル・ドラモンドがもっとも理想とする歌手)、60年代のフランス・ギャル(渋谷系も聴いた夢見るシャンソン人形)、リー・ヘイズルウッド(ジャーヴィス・コッカーやボビー・ギレスピーも尊敬)&ナンシー・シナトラ(渋谷系にも人気だった60年代ポップ歌手)を参照した痕跡があり、さらにここにはオーガスタス・パブロ(ダブ仙人)のメロディカ、ジェリー・ダマーズのようなオルガンやザ・スペシャルズの “ゴーストタウン”(暗い時代を預言した名曲)を彷彿させる暗いフィーリングもある。古風な質感が特徴で、プロデューサーは大ベテランのトニー・ヴィスコンティ、テクノロジーに頼らずやることがひとつのテーマだった。ちなみにドラマーは、初期のサンズ・オブ・ケメットでも叩いているセバスチャン・ロッチフォードである(良い人選だ)。
 ザ・クラッシュのファンにはよく知られている話だが、シムノンは歌がうまいわけではない。が、あの “ガンズ・オブ・ブリクストン” のぶっきらぼうな歌い方で先述したようなポップスをしかも女性といっしょに歌うのは、これはこれで趣がある。しかも彼はこんな歌詞の歌を歌っているのだ。

  家をたたんでこの街を出ていく
  バイバイと手を振って
  家賃がとんでもなく上がってしまった
  ここにはもう誰ひとり住んでいない
  みんないなくなってしまった
  Oh 小さな町よ
  心を失ってしまったんだね
“ロンリー・タウン”

 音はレトロだが、歌詞はたったいま起きていることを正確に捉えている。ポール・シムノンは自分が昔、パンク・バンドにいたことからまったく逸れていない。我が友よ、ほかにも良い歌詞があるので、これは対訳付きの日本盤で聴いて欲しい。また、考えてみれば、男らしいバンドの代表格でもあったザ・クラッシュの元メンバーがこうして男女のデュオをやるというのも、いまの時代に対応していると言える。
 アルバム・タイトルの『私たちは明日をあらたな日として迎えることができるのか?』は、ダブルミーニングではないのだろうか。ひとつは将来への不安を意味し、音楽を聴いていると明日=未来など要らない(no future)と言っているようにも思えてくる。未来の都市、最先端のテクノロジー、いまこの社会が進行していった場合の明日、そこにどんな幸せな夢があるというのか。言っておくけれど、テクノ・ミュージックの始点をデトロイトにするなら、それは安価なテクノロジーで制作された音楽のことで、高価で最先端な環境で作られたそれを意味しない。
 好奇心旺盛な20代〜30代のリスナーに、この音楽をゴリ推しするつもりは毛頭ない。だが、憶えておいて欲しいことはある。ザ・クラッシュというパンク・バンドが、偏差値の高そうな連中相手に社会(ときには左翼的なヴィジョン)を語るのではなく、定職にも就かず朝からビールを飲んでいるような連中相手に語っていたこと、それもかなり一生懸命に。そしてバンド内でもっともハンサムだったベーシストは料理が上手で、とくに得意なのは本人いわく「パエリア、スパゲッティ・ヴォンゴレ、マヨルカ島の魚のスープ」……という話はいいとして、革命は必ずしもテレビ(写真)には映らないということを。

Oneohtrix Point Never - ele-king

野田努

 ダニエル・ロパティンのアーティスト写真は、今回はいまいち表情が見えない。笑っているのか、それともしかめ面なのか。『Again』を聴いて最初に戸惑うのは、表現主義的と言えばいいのかもしれないが、その錯乱した展開にある。弦楽器によるクラシカルなアンサンブルにはじまるアルバムは、しかし、シュトックハウゼンの初期の電子音楽作品を茶目っ気をもってポップ化したように展開する。エレクトロニックで、断片的で、とりとめがない。このサウンドコラージュ作品は、コーネリアスの〝霧中夢〟にも似たイリュージョニズムの結晶体とも言える……が、ただ、音のスラップスティックというか、どたばたエレクトロニカというか、落ち着きがまるでない。アンビエントとグリッチ、クラシカルな響きとアメリカーナの記憶、幾何学的な目眩、アシッドなフィルターを通してミックスされたレジデンツのエキゾティシズム……。このアルバムのおそらく膨大な参照リストは、ワンオートリックス・ロパティン本人にしかわからないだろう。
 『Again』のアートワークは、我々が抱いているワンオートリックス・ポイント・ネヴァーに対するイメージを簡潔に表現している。たしか90年代後半あたりに一時的だがPC用に使われた卓上スピーカーの数々、いまや誰も用見向きもしないゴミ=ジャンクが束ねられているそれだ。「Web2.0以降におけるトラッシュ・アメリカーナの開拓者」、たったいま制作中の紙エレキング年末号における「2010年代の音楽」特集のなかの原稿で、僭越ながらぼくはOPNについてそう説明した。彼がシーンに登場したゼロ年代のUSインディは、ボン・イヴェールが60年代アメリカーナを、アニマル・コレクティヴは手当たり次第にアシッド・フォークやらビーチ・ボーイズやらをリサイクルしていた時代だった。フォーキーなトレンドに馴染めなかったロパティンはアメリカ的伝統主義とは断絶し、たわいのないノイズや光の当たらないジャンル、たとえば70年代ベルリン・スクールのシンセサイザー音楽をはじめ、嘲笑の的であったニューエイジ音楽のカセット作品、そしてインターネット上で拾えるあらゆるジャンクな音源を使って作品を作った。DVDR作品の『Memory Vague』(09)から『Returnal』(10)、そして『Replica』(11)といったOPNの傑出したアルバムは、オンライン文化がもたらした情報の過飽和状態における、皮肉めいた遊び心を感じさせる(ゆえにヴェイパーウェイヴとも接続する)、と同時に、エレクトロニック・ミュージックにおける表現形態の可能性を広げるものだった。『R Plus Seven』(13)がその集大成だが、これは、ダンス・カルチャーを母体として発展したエレクトロニック・ミュージックでもなければ、また、アンビエント・ミュージックに端を発したそれとも違っている。MACプラスの倒錯的ラウンジ・ミュージックもそうだが、ハイブローなアムネジア・スキャナー、ヘルム、ホリー・ハーンドンのようなプロデューサーによる、10年代の新種のエレクトロニカ作品のきっかけを作ったのはロパティンだった。(その先祖にはコンラッド・シュニッツラーがいるとぼくは思っている)

 ロパティンは、大学で図書館学を学んだほどの生粋のアーキヴィストで、誰もがマニアックな音楽から専門的な知識までを即時に入手できる現代にあっては、時代の申し子という言い方もできよう。そんな彼が自己言及を3回(*1)もやるのは、情報を酸素のように吸って育ったデジタル世代としては、じゃあ、いま俺の記憶に残っているものは何かという自己調査の必要があったのではないのだろうか、と訝しんでいる。ぼくのようなアナログな人間はシンプル極まりない。ロック、パンク、レゲエ、レイヴ、テクノ……世界を変えようとした音楽。しかし、Web2.0以降の情報過飽和環境で思春期を過ごした最初の世代であろうロパティンは、きっとそんな単純な話ではないのだろう。元ソニック・ユースのリー・ラナルドとジム・オルークのゲスト参加が、ロパティンにとってのアメリカ内におけるリスペクトを意味していることはわかる。が、『Again』のなかでときおり見せるマキシマリズム(過剰主義)は、面白がっているのか、感情の破片なのか。リスナーを困惑させるのはこの作品の欠点だが、じつは長所でもある。というのも、確実に言えるのは、これは念入りに作り込まれた作品であるということだから。いま彼は、後方を見ながら前方に突っ走っている。しかし、繰り返すが、問題はどこに向かって走っているのかわからないことだ。2年後に聴いたら印象は変わるかもしれない。


(*1)ロパティンの最初の自己言及とその注釈めいた作品は2015年の『Garden Of Delete』、ロックやメタルばかり流すアメリカのラジオ環境に晒された思春期の体験が元になっている。前作にあたる2020年の『Magic Oneohtrix Point Never』は、OPNをはじめたばかりの頃を回想しながら作られたアルバム。そして今作『Again』は、ロパティンいわく思弁的自伝(スペキュレイト・バイオ)だそうで、つまり、勝手に想像してみた自分史ということ。

■ 紙エレキング年末号では、ダニエル・ロパティンが彼の無名時代を振り返りつつ、まだ仕事をしながら音楽を作っていた時代(2010年前後)の話、ニーチェの影響、マーク・フィッシャーへの共感、『Eccojams』再開への意欲など、自分語りしまくりの興味深い話満載です。ご期待ください。

野田努

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小林拓音

 ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー通算10枚目のオリジナル・アルバム『Again』は、これまでのOPNらしさと未知の世界、双方を探索する果敢な1枚に仕上がっている。
 いろんな音の断片が予想しづらいタイミングで入れかわり立ちかわり登場する点において、本作はコラージュ的だ。そこは『Age Of』と似ている。あるいは『Replica』までの彼を特徴づけていたJUNO-60とおぼしきシンセ音の挿入。それはすでに『GOD』『Age Of』『mOPN』でも試みられていたことだけれど、今回はだいぶ頻度が高い(ちなみに今年10周年を迎えた名作『R+7』がいまでも新鮮に響くのは、その音色に頼らなかったからかもしれない)。
 他方で『Again』は新しい試みに満ちてもいる。アルバムを円環構造にするNOMADアンサンブル(指揮はロンドン・コンテンポラリー・オーケストラ創設者のロバート・エイムズ)の演奏。ソニック・ユースのリー・ラナルド、ジム・オルーク、LAの実験的ロック・バンド、シュー・シューの参加。話題のOpenAI社製品の導入。けれどもそれらはあくまで全体を構成する要素の一部にとどまっている。
 今回の新作は「半自伝的」三部作の完結編であり、また「思弁的自伝」なのだという。ダニエル・ロパティンはキャリアの初期からずっと、過去や記憶にたいする強いこだわりを見せてきた。すでにそれは彼の作家性になっている。興味深いのは、『Again』が「半」自伝的であり「思弁的」自伝だと主張されている点だろう。つまり、本作は自伝ではないのだ。
 振り返れば、OPNが活躍した2010年代はネットやスマホやSNSの普及により、だれもかれもが手軽に自分をアピールできるようになった時代だった。みずからをダシにすることでロパティンは、そういうオンライン上にあふれる無数の「わたし」をアートとして表現しているようにも思える。
 だからこそいちばんグッときたのは “World Outside” のリリックだった。小刻みな電子音。パーカッション的な役割を果たす吐息。弦。『R+7』風の声楽。ロパティン本人によるキャッチーな歌。ノイズ。そしてギター。それらが主導権争いを繰り広げるこの曲では、「World Outside(外の世界)」なるフレーズが繰り返されている。
 インタヴューを読むかぎりこれは、20代はじめのティーンエイジャーでもなければオトナでもない微妙な時期に「外の世界(outside world)」の気まぐれに振りまわされたことを主題にしているのだろう。ただ本作が自伝ではないことを踏まえるなら、西海岸が用意した「わたし」だらけの世界の外部を希求しているようにも聞こえる。こんな世界は嫌だ、と。
 一見自分史をテーマにした『Again』はまさにそのコンセプトのおかげで、みなが自分へと向かう現代のすぐれた診断にもなっているのだ。

小林拓音

yeule - ele-king

 ある一定の世代──具体的には平成初期から中頃あたりに生まれ育った、ぎりぎり “Z” の枠組みから漏れた層──の音楽的な原体験は、どちらかといえばオンライン上よりも「オフライン上の雑踏」にあったように思える。

 それは、たとえばレンタルビデオ屋の片隅であったり、大型古本チェーンのワゴン棚や中古CDショップ、あるいはファストフード店の有線放送などの、日本のごく一般的な日常を彩る風景の一部に溶け込んでいた音楽体験である。もしくは、平日夕方にティーンエイジャーが自らの激情を未熟なりに、自由気ままにぶつける貸スタジオやライヴ・ハウスの風景だとか、電車に独り佇む少し大人びた少年のイヤホンから鳴る音漏れだとか。

 封切りから約5年が経過した「mid90s」ではなく、いわば「late90s」あるいは「early00s」あたりの時期、そんな「かつてあった日々」へのノスタルジアを強く想起させられるような作品が、どういうわけか2023年の秋口に、シンガポール(現在はロサンゼルス拠点とのこと)の “グリッチ・プリンセス”、yeule(ユール)の新譜としてリリースされた。

 『softscars』、直訳すると柔らかな傷跡。ノンバイナリーである yeule には、自身のみが抱えるさまざまな苦しみが数えきれないほどあっただろう。制作中に親しい友人がオーバードーズで亡くなった、などの痛ましいエピソードも明かされており、アルバムを紡いでいく過程で自身の人生観や深層心理に至るまでの深い自己対話が繰り広げられたことは容易に想像できる。

 そんな、いまは癒えきった過去の体験が、どうしてか心のささくれを再び刺激するような作品が、yeule のサード・アルバムである。シューゲイズ・サウンドを通過した90年代後期~ゼロ年代的なオルタナティヴ・ロックが、近年高度に発達したDAW上におけるポスト・プロダクション技術と結びついた上で、名門レーベル〈Ninja Tune〉からリリースされる。

 それはつまり、四半世紀にわたり爆発的な発展を遂げ、好事家の趣味からインフラへと駆け上がったインターネットを窓口に、シンガポールと日本はついに文化的に地続きとなった、ということの証左でもある。「なんとも不思議な時代を生きているんだな」というごく個人的な感傷が、シーンやジャンル、音像や作品構成といったレヴューされるべき諸要素よりも先に脳裏をよぎった。そこまでが一聴したときの所感であった。

 さて、作品を大まかに見通していくと、本作は概ねふたつのパートに区分されているような感覚を受けた。全12曲のうち、M1. “x w x”~M6. “dazies” までの楽曲群には在りし日のインディ・ロックへのオマージュが随所に感じられるものの、その音像は2020年代以降のハイブリッドな空気感に包まれている。そして岩井俊二監督『花とアリス』(2004)のサウンドトラックのカヴァー、M7. “fish in the pool” から作品を取り巻くムードは流動的に変容していき、M8. “software update” やM9. “inferno” からはシューゲイズ・サウンドに加えシンセ・ポップにグリッチのスパイスを効かせたかのようなエレクトロニカへと徐々に移行していく。

 このような聴かせ方を踏まえても、楽曲ごとのクオリティ・コントロールにとどまらぬ高度なトータル・プロデュース力を感じさせる秀作である、と言えるだろう。なかば共同作業者として yeule の作品に携わるシンガポールのプロデューサー、キン・レオンや20年代以降のポップ・スター筆頭、ムラ・マサといった存在が背後を賑わせる構図は、それこそポップスという営みにしばしば現れる強固なパートナーシップを感じさせる。
(世代的にはごくわずかにズレた90年代末の作品が強く筆者のノスタルジーを喚起するのは、インターネットを通じた追体験によるものである。25歳の yeule も同じはずだろう)

 いや、やはりどうしても、自分の90年代後期~ゼロ年代への憧憬は、とてもじゃないけど “柔らかな傷” では片付けられなさそうで……。作品を俯瞰しきることが難しくなるほど、幼心に感じたあの空気感がオーヴァー・ラップする。といっても、あくまでも『softscars』で描かれているのは現代と未来のことでもあり、きたる2024年(=「mid20s」へ!)のムードを垣間見るようなハイブリッド感が、やはり本作の魅力であろう。DAW上に冷凍保存されたようなギター・サウンドと、復活の兆しを見せるエレクトロニカとの融和を前に、(できれば使用を拒否したい)「ハイパー」という語句でカテゴライズされてきた現代ポップスの次なる流れも、このアルバムを出発点としていずれ整理できそうな予感がある。

 ちなみに、本作の視聴環境はけっしてクラブのサウンド・システムやスタジオ並みのスピーカーである必要はなく、下手したら Air Pods Pro や高価なDAC、ハイレゾ音源なんかも必要としないかもしれない。手元のスマートフォンやラップトップのスピーカーから、適当にそのまま流すラフな向き合い方こそジャスト・フィットする。開け放った窓から吹きすさぶ木枯らしで頭を冷やしつつ、温かい飲み物を片手に浸るような、ベタで恥ずかしいような浸り方が似合う、不思議なサウンドスケープが拡がる作品だろう。そんな日常的な接し方こそアウトサイダーとして現実をサヴァイヴしようとする yeule の本懐だろうと信じて、あえてローファイな環境で本作に触れてみてはいかがだろうか?
(もちろん、本作をクラブのサウンド・システムで鳴らしても抜群の視聴体験足り得ることは、筆者自身ふだんのDJのなかでよくよく理解しているつもり!)

* 編集部注:先週WWWで設立15周年を記念するショウケース公演をおこなった〈KITCHEN. LABEL〉もシンガポールのレーベルであり、Haruka Nakamuraや冥丁など日本と当地をつなぐリリースをつづけてきた。

AMBIENT KYOTO 2023最新情報 - ele-king

 好評開催中の「AMBIENT KYOTO 2023」、最新情報のお届けです。会場ごとに撮りおろした参加アーティストの作品動画が本日より公開となります。坂本龍一+高谷史郎、コーネリアスバッファロー・ドーター山本精一の4組分、2023年末までの限定公開です。

 あわせて、イベント情報も発表されています。12月10日(日)、坂本高谷作品が公開されている京都新聞ビル地下1階にて、原摩利彦+中山晃子、古舘健+YPY(日野浩志郎)、E.O.U.+Saeko Ehara、小松千倫+jvnpeyによるパフォーマンスが披露されます。その後京都メトロにてアフターパーティも予定されているとのこと。ぜひ足を運んでみてください。

AMBIENT KYOTO 2023
-撮り下ろし作品 スペシャルムービーを2023年11月20日(月)より期間限定公開
-コラボレーションイベント ACTIONS in AMBIENT KYOTO 12月10日(日)開催決定
会期:2023年10月6日(金) - 12月24日(日)

2023年10月6日(金)より12月24日(日)まで、京都の2会場を舞台に開催されている、アンビエントをテーマにした音・映像・光のインスタレーション展「AMBIENT KYOTO 2023」より最新情報をお送りします。

参加アーティスト 坂本龍一 + 高谷史郎、コーネリアス、バッファロー・ドーター、山本精一 の作品動画を、会場ごとに撮り下ろし、11月20日(月)より2023年末まで、期間限定で公開いたします。

また、「AMBIENT KYOTO 2023」とのコラボレーションイベントとして、「ACTIONS in AMBIENT KYOTO」の開催が決定しました。12月10日(日)には、「坂本龍一 + 高谷史郎 | async - immersion 2023」作品が展開されて いる京都新聞ビル地下1階にて、ライブ・パフォーマンスが行われます。
その他、「Farmoon x Miu Sakamoto "wonder" X AMBIENT KYOTO 2023」が開催されるなど、会期終了まで様々 なコラボレーションイベントも実施する予定です。

会期も折り返し地点を迎えた「AMBIENT KYOTO 2023」をさまざまな角度からお楽しみください。

◉会場: 京都新聞ビル地下1階
坂本龍一 + 高谷史郎 | async - immersion 2023

動画リンク: https://youtu.be/6TzTRUlqb9A

坂本龍一が2017年に発表したスタジオ・アルバム『async』をベースに制作 された高谷史郎とのコラボレーション作品の最新版。京都新聞ビル地下の広 大な空間を使い展開するサイトスペシフィックなインスタレーション。

作品詳細・アーティストコメント
https://ambientkyoto.com/exhibition

◉会場:京都中央信用金庫 旧厚生センター
Cornelius、Buffalo Daughter、山本精一 3組のアーティスト作品

動画リンク: https://youtu.be/70Y0hRh3EjM

Cornelius : QUANTUM GHOSTS / TOO PURE / 霧中夢 -Dream in the Mist-
Buffalo Daughter : Everything Valley / ET(Densha)
山本精一 Silhouette

詳細は下記よりご覧ください。
作品詳細・アーティストコメント https://ambientkyoto.com/exhibition
作品&アーティスト概要資料 https://www.how-pr.co.jp/pressrelease/2023_AmbientKyoto_works.pdf

【コラボレーションイベント】
ACTIONS in AMBIENT KYOTO

京都新聞本社ビル地下1階の坂本龍一+高谷史郎による「async - immersion 2023」のために設置された横幅20mを超えるLEDスクリーン、そして、30台以上のスピーカーを活用した4組のコラボレーション・ライブ・パフォーマンスを開催します。広大な空間にエクスペリメンタルな音響が漂います。終演後にはmetroにてアフターパーティーを開催予定。詳細は、下記ウェブサイトをご覧ください。
https://interference-resonance.ekran.jp/

開催概要 日時:12月10日(日)
会場: 京都新聞ビル地下1階

ライブパフォーマンス
・原摩利彦と中山晃子が初のコラボレーション。
・古舘 健とYPYこと日野浩志郎によるオーディオビジュアルのデュオパフォーマンス。
・近年、クラブ/レイブシーンで大きく注目を集めるE.O.U.のパフォーマンスに、AIとジェネラティブアートを組み合わせたビジュアル作品を発表しているSaeko Eharaが映像で参加。
・現代美術と音楽の間で活動する小松千倫と新進ビジュアルアーティストであるjvnpeyによるコラボレーションパフォーマンス。

公式ホームページ. https://ambientkyoto.com
X.  https://twitter.com/ambientkyoto
Instagram. https://www.instagram.com/ambientkyoto
Facebook. https://www.facebook.com/ambientkyoto

水谷:まずこの写真を見てください。これ91年の『The Source』っていう雑誌なんですけど、この年のヒップホップのチャートなのですが。

山崎:1位はNWA。大々的に取り上げられていますね。

水谷:歴史的にはこの4位のパブリック・エナミーはどうかなと思いますが、PEやNWAはすでに大スターで別世界なので置いといて。2位がブランド・ヌビアン。3位がATCQの『Low End Theory』。5位がデ・ラ・ソウル。で、6位にメイン・ソースの『Breaking Atoms』なんですけど。

山崎:6位に『Breaking Atoms』って当時の日本の状況からしたらこれはものすごく評価が高いですね。7位のゲトー・ボーイズ、これも日本ではあまり聞かなかった気がします。

水谷:ゲトー・ボーイズは本国アメリカでは当時から評価が高いです。リリックがいいんですよ。日本人ではわからない部分ですが、それでこの評価がついていると思います。このアルバムに入ってる「Mind Plays Trick On Me」はクラシックですね。

山崎:僕はこの頃はレアグルーヴ一色でヒップホップを全然聴いてなかったので、当時の状況はあまりわからないですが、ナイス・アンド・スムースはオザケンがらみで人気があったとか、そんな事しか記憶ないです。『Low End Theory』とかはもちろん後から聴きましたけど。

水谷:今回は『Breaking Atoms』のサンプリングの芸術性について語らせていただきたいのですが、この写真の中で比べてみると、デ・ラ・ソウルはアルバム通してかなりの楽曲数をサンプリングで贅沢につかっているので、カラフルな仕上がりになっている。Mighty Ryedersの「Evil Vibrations」使いで有名な、「A Roller Skating Jam Named "Saturdays"」もここに収録されています。ATCQの『Low End Theory』はセンスの良いサンプリングとそもそものレコーディング状況がめちゃくちゃ良くて音質が良いという印象。1曲目のロン・カーターのベース演奏がとても評価されてましたね。ギャングスターはジャズ・サンプリングで、DJプレミアはまだネクスト・レベルに行っていない頃。サイプレス・ヒルのこれは名盤ですね。この後ロックな方向にいくのですが、このアルバムはネタの使い方がよくていいですよ。

山崎:当時この並びに『Breaking Atoms』が入ってくるってちょっと驚きですね。今ではその良さは広まっていますが。アメリカでは最初から高評価だったんですね。

水谷:そうですね。当時は『Breaking Atoms』は渋いというか、派手さはあまり感じなかったので僕もそうでもなかったのですが、でも今あらためて振り返ってみると、このアルバム、サンプリングですごいことをやっているんですね。

山崎:確かに聴いてみると複雑な作りをしているというか、同時代の主流だったネタ一発ではないですよね。

水谷:今回は細かなところまで分析しつつ、『Breaking Atoms』におけるメイン・ソースの偉業を伝えられればと思います。またVGAのYouTubeチャンネル、MOMOYAMA RADIOでは『MAIN SOURCE SAMPLING 90% ORIGINAL PEACH MOUNTAIN MIX』と題して、メイン・ソースのサンプリング素材のみで作ったMIXも公開中です。ぜひ聴きながらご一読ください。

□Snake Eyes

水谷:冒頭を飾るこの曲の始まりのネタはIke Turner and The Kings of Rhythm の「Getting Nasty」。

山崎:この始まり方は(良い意味で)渋いですね。

水谷:デ・ラ・ソウルはどちらかというと「Evil Vibrations」がわかりやすい例ですけれど、洗練されたサウンドを上手く使いますが、メイン・ソースは60年代後半のソウル/ファンク系をよく使いますね。泥臭い楽曲というか。当時は僕も高校生なので、どうしてもお洒落で派手なデ・ラ・ソウルを優先して聴いていましたね。

山崎:でもラージ・プロフェッサー(メイン・ソースの主要メンバー)もまだ十代後半か、二十歳そこそこ。このセンスは日本人からするとそうとう大人っぽい。

水谷:このイントロを経てJohnnie Taylorの「Watermelon Man」からJesse Andersonの「Mighty Mighty」へと展開する。どちらも60年代の楽曲です。

山崎:渋いサンプリング・センスですが1曲目にふさわしいテンション高めの楽曲に仕上げているところが素晴らしいですね。

□Just Hangin' Out

水谷:メインのネタになっているのはSister Nancyの「Bam Bam」なのですが、これもまたメイン・ソースの特徴ですね。レゲエ・ネタをよく使います。ラージ・プロフェッサー以外の2人のメンバー、K-CutとSir Scratchは兄弟なんですが、ジャマイカ系のカナダ出身なんです。

山崎:エディー・グラントを親族に持つらしいですよね。

水谷:メイン・ソースというとラージ・プロフェッサーばかりが目立っていますが、K-CutとSir Scratch(の兄弟)もいい仕事してたんだと思います。メイン・ソースの音には彼らのエッセンスも大きく反映されている。
そしてそこに重ねてくるもう一つのネタが、Vanessa Kendrickの「"90%" of Me Is You」です。

この曲はグウェン・マクレエのヴァージョンがヒットして有名ですが、このVanessa Kendrickの方がオリジナルなんです。このレコード、ノーザン・ソウル人気曲でもあるんで800USD以上で落札されたりもする激レア盤なのですが、91年でグウェン・マクレエじゃなくてこっちを使っているって相当すごいですよ。

山崎:グウェン・マクレエよりもこっちのバージョンの方が内容もいいですね。でも普通なら市場に数の多いグウェン・マクレエを使いそうですが。

水谷:この曲が入っているグウェン・マクレエのアルバムにはもう一つネタものとして有名な曲もあるので、グウェンの「"90%" of Me Is You」はネタとしては定番なのですが、他とは違うことをやってやろうというラージ・プロフェッサーの気概が感じられるチョイスです。

□Looking At The Front Door

水谷:これもまたメイン・ソースの重要な楽曲です。

山崎:これはドナルド・バードの人気曲「Think Twice」ネタですね。

水谷:ATCQ も『People's Instinctive Travels And The Paths Of Rhythm』(1990年)収録の「Footprints」で同じ曲の同フレーズをサンプリングしていますが、厳密に言うと使っている場所は全然違う箇所です。ATCQではフレーズそのままなのに対してこちらはThe Pazant Brothers and The Beaufort Expressの「Chick A Boom」を重ねて使っているあたり、メイン・ソースの方が一歩先に行っている感じがします。「Looking At The Front Door」のシングル・カットは1990年と、この二つはほぼ同時期のリリースなのでどっちが真似したとかはないかと思いますが。

山崎:「Footprints」はStevie Wonderの「Sir Duke」のイントロで始まって「Think Twice」に繋がっているので今聴くと大味に感じてしまいますね。

水谷:メイン・ソースはコーラスというか歌ネタの重ね方がうまいんですよ。普通なら別曲のメロディを重ねるって音と音がバッティングしてうまくいかないと思うんですけどね。相当な技量と努力を感じますね。

山崎:イントロもDetroit Emeralds の「You're Getting a Little Too Smart」を使っていてかっこいい。ビートのセレクトのセンスも抜群です。

水谷:イントロから曲に入る箇所でKen Lazarusの「So Good Together」の声を使用していてそこもハマっている。これもレゲエですね。で、このネタは次に繋がるんです。

□Large Professor

山崎:次の曲はその名も「Large Professor」です。

水谷:この曲のトラックのメインで使われているネタ、以前はわからなかったんですよ。でも好きな曲だったので、この軽快なカッティング・ギターの原曲はなんなんだろうってずっと思っていました。で、その後、判明したんですけど、これも先ほどのKen Lazarusの「So Good Together」なんです。

山崎:調べてみたらこの曲はカナダのモントリオール出身のシンガー・ソングライター、アンディ・キムのヒット曲のカバーなんですね。レゲエ・シーンでもほぼ知られていない、こんな超マイナーな楽曲を91年にチョイスしているなんて驚きです。

水谷:カナダといえばK-CutとSir Scratchもカナダ出身なので、そこでつながってきますね。

山崎:この流れからCharles Wright & The Watts 103rd St Rhythm Bandの曲を経て、The Mohawksの「The Champ」に繋がる流れもスムースですね。The Mohawksはジャマイカ系イギリス人バンドなので、ここでもレゲエ要素が入っている。しかもお決まりのブレイクではない、オルガン部分を使っています。

水谷:ジャマイカ系カナダ人ならではの知識とラージ・プロフェッサーのセンスがあわさったからこそこの曲はできたんだと思います。奇跡の楽曲ですね。

□Just A Friendly Game Of Baseball

水谷:これはLou Donaldsonの「Pot Belly」使いですね。この曲はUltimate Breaks & Beats25th(1991)にも入っています。

山崎:この曲はDivine StylerのIt's a Black Thing(1989)やATCQの「Can I Kick It?」(1990)のB面に入っているシングル曲、「If the Papes Come」(1990)でも使われている定番曲ですね。メイン・ソースもこれはほぼそのまま使用していますが、途中でJBや9th Creation に加えてElephant's Memoryというサイケロックバンドの楽曲「Mongoose」を差し込んでくるあたりのセンスは素晴らしいです。

□Scratch & Kut

山崎:この曲はちょっと珍しい感じですね。ドラムマシン的なビートにその名の通りスクラッチとカットインがメインのインスト曲です。K-CutとSir Scratch、二人のスクラッチもかっこいいですね。

水谷:この曲はタイトルも二人の名前ですし、兄弟がメインなのではないでしょうか。
ザ・サイエンスが幻のセカンドとして、兄弟だけになってしまったサードの『Fuck What You Think』はラージ・プロフェッサー脱退という事実が先行しての低評価ですが、意外と良いネタをサンプリングしているんですよ。そのチョイスは本『Breaking Atoms』でもうかがい知れますし、やはり3人揃っていいバランスなんですね。

山崎:ここまででざっとではありますが、A面の楽曲を解析しました。B面の話は次回ということで。

水谷:B面には「Live At The Barbeque」もありますから。

山崎:これもネタ定番のBob James「Nautilus」を革新的な使い方しているので詳しく分析しつつ、ザ・サイエンスについても触れながらアナライズしていきましょう。


Main Source / Breaking Atoms
https://anywherestore.p-vine.jp/en/search?q=main+source


MAIN SOURCE / THE SCIENCE Limited Test Pressing
https://vga.p-vine.jp/exclusive/vga-5012/

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