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山本精一

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山本精一

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松村正人   Jan 29,2021 UP
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 昨年のアルバムだがみすごすのもどうかしている。あるレコードのすばらしさは新しさが左右するものではない。むしろときの経過とともにじわじわと真価がきわだつ作品も稀にだが存在する。
 山本精一の『セルフィー』はその典型である。世に出たのは昨年暮れ、そのことは6曲目の「ハッピー・バースデイ(to invisible something)」の丸括弧内の文言にあらわれている。「目にみえないなにか」の誕生を祝うこの歌はギターの弾き語りを土台にシンセサイザーが彩りを添えるフォーク調の楽曲で、歌唱法も衒いなさとあいまった朴訥な印象が支配的だが、不穏なムードが満ち潮のごとく高まるシンセの間奏直後の「お誕生日おめでとう 永遠の一里塚」につづき、堰を切ったように「ずっとおめでとう」のリフレインがはじまるころには山本の歌う「目にみえないなにか」とはまちがいなく新型コロナウイルスであろうと思いあたり、世界を前にした聴き手の視界はぐんにゃりゆがむ。
 なんとなれば、山本精一が社会的事象をこれほど直截に歌いこむのもめずらしい。むろん山本の、ことに歌の系列の音楽の背後には現代性が束になって脈打っている。ただし山本はそれらをあからさまな共感や抵抗のかたちにあらわすのをよしとしなかった。社会性は主体のフィルターが篩にかけられたあと抽象的、象徴的な平面に定着し、それらのことばとポップでときにサイケデリックなサウンドからなる楽曲は絶妙な均衡をみせる――山本精一の「うた」のあり方の一端をしめすこの方法論は90年代に羅針盤の諸作や Phew との協働作『幸福のすみか』(1998年)などの傑作に実を結び、世紀もあらたまり10年たった2010年代以降、より稠密な顔つきをしめすようになった。2010年の『プレイグラウンド』、翌年の『ラプソディア』から2014年の『ファルセット』さらに『童謡(わざうた)』とつづく楽曲志向の作品では書法はさらに巧みに、編曲は大胆さをましている。この時期山本は『ライツ』や『パーム』などでアコースティック・ギターの作曲と演奏と録音の実験を並行してすすめており、結果山本の2010年代以降のアルバムはこれらの要素が斑状にあらわれる、その調停の手さばきをさして職人的とも形容できる境涯は山本精一の孤高を意味する一方で、作品のもつ力線は外よりも内に向かうかにみえた。すなわち内省による探求であり、それにより作家性はきわまったが、しかしいたずらな難解さにおちいることもなかった。その事態をさして私は職人的といい、日々の営みのごとくときを置いてとどく山本精一の音楽を心待ちにいていた。
 それがかわったのはおそらく2020年のコロナ禍によるものであり、幾多の音楽関係者をさいなみ、いまなおその「禍中」にとらえて離さない事態の深刻さと無関係とはいえない。ことにその影響はソーシャル・ディスタンスにも配信にもなじみがたい小規模のライヴハウスに顕著で、山本が店長兼オーナーの大阪の難波ベアーズでも、さまざまな工夫と苦闘をくりひろげているのは昨年来ちらほら耳にする、そのことと『セルフィー』の関係性は推測の域だが、2010年代なかばまでの作品の空気と異なるのはあきらかである。
 原因のひとつに編成の変化をあげることできる。この10年の山本のソロはおもに千住宗臣が担ったドラムスをのぞき、歌とギターとベースは山本自身の手になることが多かった。ドラムスさえも、たとえば『童謡(わざうた)』などでは手ずから味のあるリズムを刻んでいる。すみずみまで意識のおよんだその音楽空間こそ山本精一のひととなりであると同時に、先にあげた内側への志向を裏書きするものだが、スタジオにおける録音という行為を密室化する思考でもある。それによりスタジオは居室と化し録音は宅録ににじりよるから機材の水準と場所の記名性を問わない。どこにいてもそうなのだ。ところが『セルフィー』ではドラムスの senoo ricky、鍵盤関係では西滝太、IEGUTI、坂口光央など、過去数作とはくらべものにならないほど(というほどではないけれども)参加人員はふえている。ひとの出入りが風通しのよさにつながっているとは、いささか牽強付会だが、いくつかの手が楽曲に加わることで密室的な空気感が減じているのもたしかである。ただし歌の底流にながれるものはかわらない。ギターのフィードバックとトリルではじまる1曲目の “フレア” はカーテンを開き窓の外をながめるような幕開けらしい楽曲だが、視線の先にひろがるのは渺々たる充足とは無縁の世界である。世界認識におけるこのような見立ては『ラプソディア』の “Be”、『童謡(わざうた)』の “ゆうれい” でも聞こえる山本精一の歌詞の根底をなすもので、そこには存在論的な不安のようなものに穿たれ、空洞化した主体が夢のなかでみずからをみつめつづけるような自己言及的で背理的な空間がひろがっている。『セルフィー』にもそれは再帰し、“フレア” にも分身譚を想起する一節があるが、主題よりむしろ主題の影にちかく、歌詞にうかがえる志向はむしろ外に向かっているのは「急に発火すること」が転じて「急変すること」を意味するフレアの語義から推測できる。付言すると、フレアとは写真が趣味の方には太陽などのつよい光源にレンズを向けるとおこる光学現象とも、天文ファンには太陽の表面の爆発をさす天文用語としてもおなじみだが、フレアがおこるのが太陽の大気にあたるコロナなのも、なにやら関係がありそうである。というのはさておき、内と外どちら向きでも山本精一の自己問答の旅は終わらないのは2曲目の表題曲 “セルフィー” の「自分を追いかけてどこまでも歩いて」の一節にもあらわれている。それではあまり変わらないではないかともうされる御仁にはそのとおりだとも、そうではないともお応えしたい。
 というのも、本作における変化の主眼は主体ではなく環境の側にあるからである。ポストメディア時代の社会/環境における権力が規律型からコントロール側に変容するのはドゥルーズの指摘をまつまでもなく自明だが、そのような空間はたとえばこれまでの学校や会社のような閉じた規律型の空間ではなく、ネットワークをとおした「開かれた環境」になる。だれもがそのなかを自由に、いわば外向きに横切ることができるが、パスワードとかICカードとか所定の認証のなければどのような門もくぐれない。主体どうしはネットワークでつながるもバラバラで、出来事ごとに流動的にむすびつく。きっかけになるのは情動であろう――などと述べると堅苦しいが、情動をエモさや共感と言い換えると、身のまわりの現実がたちどころにあらわれはしまいか。1990年代とも2000年代とも、10年前ともちがうこのような環境下では音楽よりもそれをいかに伝えるかが大きなウェイトを占めることになる。
 伝達の変化は音楽と聴き手の距離をつづめ、それにより親密さの質もかわっていった。親密さは対象との心理的な距離というより図式化した情動への即時的な反応となり、ときとともに亢進したこの構図は音楽そのものに還流する。音楽家とリスナーによる際限のない先読みのゲームはベンヤミンのいう創作の産屋である孤独さえゆるさず、その回路となるネットワークはかつてベッドルームを外部につなげるバイパスだったが、いまやそこをたどって外部が逆流する裂け目になった。
 あらゆる場所が開かれていく多動的な環境下で山本精一は表現をたもちつづけた。『プレイグラウンド』以降、2010年代の諸作を一貫する対抗的なあり方をオルタナティヴといわずして、なにをそう呼べばいいのか私はわからないが、これらの作品は超然とした面持ちとあいまって名人芸的な受け止められ方だったのではなかったか。
 『セルフィー』も方法的にはその延長線上だが、2010年代にあがった成果をとりまとめ、新たに踏み出した一歩といえる。アコースティック基調の “セルフィー” や “カヌー” はフォークよりもトラッドよりも武満徹のギター曲を私に想起させるし、「どんな顔にでも足跡がついている どんな顔にも指紋が浮かんでいる」と歌い出す4曲目のタイトルはポール・サイモンのサイモンと同じく「Simon」と書いて仏語読みで「しもん」というが、聴くたびに思い出すのはトー・ファット(Toe Fat)のファーストのレコード・カヴァーである。このジャケットを手がけたのはヒプノシスで、バンドの中心人物ケン・ヘンズレーはのちにユーライア・ヒープの『対自核』で大仕事をやってのけたが『セルフィー』の発売の2週間前に世を去っている。むろんこれは余談だが、そのようなものまで、ザッパ的な共時性にまねきよせるのが山本精一の総合力であり、その底なしの懐にはノイ!的なメトロノミック・ビートもクラスター風のアンビエントも入れば、Satoshi Yoshioka の手になる “windmill” のIDMを思わせる微細なビートもふくまれる。曲を重なるごとにサイケデリックな潮位は増し、やがて “Future Soul” と題した終曲でゆっくりと閾値を超えていく。『セルフィー』とはそのさいに放射する白熱した逆光のなかに浮かび上がる山本精一の真新しい自画像をさすのであろう。

松村正人