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山本精一

山本精一

山本精一カバー・アルバム第一集

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松村正人   Mar 11,2013 UP
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 まいどまいど、とりあげるのが遅くなったのを詫びてばかりいるので今回はあやまらない。とりあげる時期で作品の価値が変わるわけでなし、もし変わると思うならあなたはメディアリテラシーという言葉にいいように踊らされた半可通にすぎないとか偉そうなこといってもうしわけありません。
 このアルバムが出たとき、私はレヴューを一本も書けないほど忙しかったのだろうか、もう思い出せない。何日か前のことはおろか、昨晩何を食べたかのかもあやふやになっている。私は子どもが保育園に通うので、園に渡す日誌を書くが、そこに昨晩何を食べたか書く欄があり、そこで筆が止まり、「昨日の夜何食べたっけかね?」と訊ねてみると娘はムッツリだまっている。気分を害したのではない。質問の意味が飲み込めないのだ。「昨日」という概念が定かでないのである。子どもにとっては2日前も3日前も過去として等しく昨日であるようである。一昨年、日弁連が出した子どもの司法参加を求める意見書にも「誘導・暗示に陥りやすい子どもの特性に配慮し、子どもからの聴取りは専門的訓練を受けた面接者が行う」という一文がある。外的要因に左右されがちな子どもの供述を司法に組み入れるための指針が提案されているが、大人だからといってつねに記憶が定かなわけではあるまい。

 山本精一がカヴァー・アルバムをつくろうと思ったとき、彼の記憶のどこからこれらの歌は呼ばれてきたのだろうか。『山本精一カバー・アルバム第一集』と題した本作の収録曲は"ターン・ターン・ターン"(ピート・シーガー)、"アイ・ビリーヴ・イン・ユー"(ニール・ヤング)、"サークル・ゲーム"(ジョニ・ミッチェル)、"フォー・アブセント・フレンズ"(ジェネシス)、"オーブル街"(ザ・フォーク・クルセイダーズ)、"失業手当"(高田渡)、"そして船は行くだろう"(あがた森魚/岡田徹)、"ランブリン・ボーイ"(トム・パクストン/高石友也/岡林信康)、"からっぽの世界"(ジャックス)、"ウィ・シャル・オーヴァーカム"(ピート・シーガー)の10曲、ライヴでもおなじみの曲を洋楽/邦楽(とひさしぶりに書いたが)半々選んでいる。フォーク・ソングといい条、それは音楽のスタイルとしてだけでなく、フォークをより言葉の元の意味に近い場所へ、匿名の民衆の歌であり、プロテスト・ソングであるフォークへと遡行させていくことは、本作がピート・シーガーではじまり終わることをほのめかしている。間に入る曲は50~60年代中心だが70年代初頭もある。たとえば「そして船は行くだろう」は去年、岡田徹のムーンライダーズ休止後の初のアルバム『架空映画音楽集II erehwonの麓で』の収録曲で、さきごろ岡田とYa-To-Iを再開した山本精一もこのアルバムに参加している。だからこのカヴァー・アルバムは第一集と銘打っているが厳密には愛唱歌を古い順にまとめたものではない。私は「カバー」の「第一集」とうたわれることで、自然とそれが編年的なものであるかのごとく、気をまわしてしまうが、むしろ一貫しているのはフォークに範をとった演奏による音の響きであり、山本精一は70年代をひとつの境に、今日ではとくに、オリジナリティを求めるがゆえに語りの主体と方法とを問題にせざるを得ないフォークの潮流を、50~60年代のそれと向き合わせることで異化するかにみえる。単にノスタルジーであれば昭和を懐かしむ輩と変わらない。たしかにシンプルだが。かそけ さを帯びている。フラットな歌唱と抑制したギターの底でハレーションを起こしかけた音の粒が泡立っている。基調となるのは「白」であり、「光」であり、だから「昼」である、と私は思う。そんなもの曲解だ、とおっしゃらないでいただきたい。いやむしろ山本精一の解釈が光をあてる。

 ジャックスの"からっぽの世界"は彼らのファースト『ジャックスの世界』(1968年)の収録曲で、山本のカヴァー・アルバムでも山になっている。『ジャックスの世界』はいうまでもなく日本のロック史上もっとも重要な作品のひとつである、ということになっている。私も学生のころから何度となく聴いた。だけでなく、2011年の湯浅学氏監修によるファースト・アルバムを復刻するシリーズ「EMI ROCKS The First」ではライナーさえ書いた。そのときも聴き直したが、印象は昔とさほど変わらなかった。というか、白状すると重たくも感じた。それはこのアルバムが早川義夫の「嵐の晩が好きさー」("マリアンヌ")ではじまるからであり、この距離感のない、森敦流にいえば密蔽した世界に入って行くには私には余裕がなかった。つまり「夜」が広がっていて、その後の"時計を止めて"のいかにも60年代フォーク的な抒情性、"からっぽの世界"の歌詞と相反する洒脱なアンサンブルに耳が届く前に、黒々とした闇に塗り込められ鼻をつままれてもわからない気がした。それが山本精一のフィルターを通すと白々と明けてくる。茶谷雅之とのカオス・ジョッキーの"Asph"を思わせる潮の満ち引きのような山本のエレクトリック・ギターとフラットな歌唱は混沌としてサイケデリックではあるが、70年代以降、つまりブルース/ハード・ロック的なファズを利かせたサイケではなく、ヴェルヴェッツや西海岸の60年代のそれに近い。だが歌詞にはラヴもピースもあらわれない。むしろ愛と平和に対抗するように死をあつかっている。ジャックスの、早川義夫の歌唱では死が鈍器のようであった。ジャックスのころの世界ではその現状に対抗するためにそのように声を上げなければならなかったのはよくわかる。ところが山本精一のヴァージョンでは歌詞はサラリと歌い過ぎ、歌い手のエモーションが蒸発した"からっぽの世界"の真空状態はニヒリズムさえたやすく招き寄せない。
 まるでジャケットにあしらった山本精一が撮った写真のように山本精一はそこで影になっているようである。影は実体と相似だが実体そのものではない。そして影はまた昼の産物であるが昼のなかに闇をうむ。

 山本精一はカヴァー・アルバムという形式を利いた風に使うのではなく、歌に主導権を譲りわたし、しかし存在の痕跡をそこに刻み、歌の歌うがままにする。もちろん曲を選んだのも歌も演奏も山本精一であるのだから彼らしささはゆるがないが、曲はそれぞれ自律している。そして響き合っている。すべてが移ろうと歌った"ターン・ターン・ターン"からニール・ヤングの"アイ・ビリーヴ・イン・ユー"へ。さらにヤングと同じ時期トロントに居合わせたジョニ・ミッチェルの"サークル・ゲーム"へ歌はめぐり、「For Absent Friends(不在の友のために)」歌ったジェネシスへ。2009年にみずから世を去った加藤和彦の「オーブル街」から、多くのフォーク・ソングを日本語の息吹をあたえた高田渡の"失業手当"(この曲も原曲はラングストン・ヒューズである)へ。"ランブリン・ボーイ"は"失業手当"と共鳴し、"失業手当"のひしゃげたギターが"からっぽの世界"の先触れとなる。
 歌に何かを託し言葉がメッセージとなることを、私たちはよく知っているが、生と死を遍歴し彷徨する山本精一の世界はひとつの価値観に収斂するものではない。19世紀初頭、老境のゲーテが人妻マリアンネと、14世紀のペルシャの詩人ハーフィズの詩を元に交わした詩が『西東詩集』となったように、過去とも現在とも、そして未来とも唱和し暗示する。そしてこのアルバムが"ウィ・シャル・オーヴァーカム"で終わるとき、私は去年、紙「エレキング」の水玉対談で水越さんが「"ウィ・シャル・オーヴァーカム"は『We Shall Overcome』のところじゃなくて『Some Day』ってのがいいんだよ」といっていたのを思いだした。
 いますぐ実現しっこないと思えたことがいつか実現するとき、そこから過去になった現在をふりかえった私のおぼつかない記憶はこのアルバムを聴いている今日をどのように思いだすだろうか。
 今日は3月11日である。

松村正人