「ele-king」と一致するもの

DJ Deep - ele-king

 終電で渋谷へ。10月に入り湿気もいくらかマシになり、深夜のクラブ活動もずいぶん動きやすくなった。道玄坂周辺は相変わらず盛り場を愛する人々でごった返していたが、僕には早くこの雑踏をかき分けて〈O-EAST〉へ向かう理由がある。今夜はフランスのハウス・シーンにおける重要DJが東京へ帰還する日だ。
 DJディープことシリル・エティエンヌ。ロラン・ガルニエとともに――彼らがやっていたパーティ名のごとく“目を覚ませ!”とばかりにパリにアンダーグラウンドなダンス・ミュージックを叩き込んだ張本人のひとり。こと90年代フランスは、フィルター・ハウスやフレンチ・タッチなる言葉が注目されていただろうし、カシアスやダフト・パンクが商業的成功をもって迎えられた時代と言えるかもしれない。
 しかしその時代、〈F Communications〉のようなシーンの良心と関わり、サン・ジェルマンを模範としながら、パリの〈Rex Club〉にムーディーマンをいち早く招聘するなど、この地に根を張りハウス・ミュージックに並々ならぬ情熱を注ぎ続ける男がいたのだ。

 ん? 到着したと思ったら入り口が閉まっているような……。戸惑っていると、どうやら3Fのロビーのみ使用するとのこと。なるほど、メイン・フロアは使わず一部のフロアとバー〈東問屋〉で構成された〈MIDNIGHT EAST〉の形態があるのか。日にちを間違えてないことに安堵しつつ入場。このバーではムードマンをはじめスロウモーションズの面々が今夜を演出するようで、気になりつつも足早に階段を上がる。フロアは例えるなら表参道〈VENT〉のメイン・フロアをさらに一回りこじんまりさせた感じか、さらに小さいかも? そこでは、ヴォヤージュ・ヴォヤージュのプレイが終盤を迎えつつあり、横にはすでにDJディープが構えていた。
 やせ型で長身のこのフランス人は、Tシャツ一枚に眼鏡というシンプルな装いで――フランス人らしい上品さは垣間見えるものの、レコード屋でディグってきた音楽オタクがそのままフロアに現れたような出で立ちだった。自身のYouTubeでは、〈Nu Groove〉などレーベルTシャツを着用しつつ愛するレコードを素朴に紹介していたが、フロアでもまったく同じ雰囲気を放っていた。当たり前だが、DJの選んだ音楽を媒介にそこに居合わせた人々が夜を明かすのに、大仰な舞台やブランドの服はあってもよいが、必須ではないということだ。そのままの取り繕わない佇まいにプレイまえから信頼度が高まる。

 (ここからはシャザムの力を借りつつ)全体的には彼の得意分野であるハウスを軸としながら、いろいろな音が鳴っていた。序盤はヴォーカルを中心に据えた選曲が目立ち、ルイ・ヴェガ率いるエレメンツ・オブ・ライフ “Children of the World” やテン・シティ “Love Music” など往年のヴェテランの近年作を回していたのが印象的だった。ピアノ、ホーン、ゴスペル調のヴォーカル……四つ打ちに乗せてさまざまなサウンドが繰り出されるなか、中盤以降になるとシャザムもお手上げになっていき、音の質感もいくらかテッキーに、フロア仕様のサウンドへと突き進んでゆく。
 ふとあたりを見ると、友人と談笑しながら身体をかすかに揺らすひと、スピーカーの目のまえに陣取り音の響きを体感するひと、音に聴き入りながらひとりただ踊るひと、それぞれが音楽を共有しつつ、しかしみな違う感じ方をしていたように思えた。終盤に差し掛かるといってあっと驚くような山場を作るわけでもない。ミキシングの曲芸で魅せるスタイルでもない。プレイに派手さはなかったかもしれないが、DJディープは最後までこのささやかで自由な空気をキープするプレイに徹していたように思う。この2時間はあっという間に過ぎ去り、締めのゴンノへとバトンタッチされた。
 このままフロアに残るかバーで余韻に浸るのも良いかと思ったが、少し早めにフロアを去る。夜明けまえのいちばん冷たい時間が好きだ。ぎゅうぎゅう詰めの汗だくなフロアも楽しいが、今夜のように多くはない人数が親密な空間で多様に踊っている夜もまた素敵だな、なんて思いふけりながら歩いていると、もう肌寒い秋の夜風を実感した。

YUKSTA-ILL - ele-king

 東海地方を拠点に長きにわたる活動を続け、同世代のコレクティヴ〈1982S〉(MASS-HOLE、MR.PUG、仙人掌、 ISSUGIらが所属)にも名を連ねる三重県鈴鹿市在住のラッパー・YUKSTA-ILLが、およそ2年半ぶりとなる13曲入のニュー・アルバム『82PLACE』のリリースを発表し、ジャケット、トラック・リストを公開。リリース日は2025年11月5日(水)とのこと。

 その長いキャリアのなかで築き上げた絆は固い信頼関係となり、プロデュースにはRAMZAやKojoeといったアーティストもかかわっている。以下、作品詳細。

Artist:YUKSTA-ILL
Title:82PLACE
Label:P-VINE, Inc. / WAVELENGTH PLANT
Format:Digital / CD / Cassette
Release: 2025.11.5
品番: CD / PCD-27094 TAPE / PCT-75
定価: CD / 2,970円(税抜2,700円)TAPE / 2,750円(税抜2,500円)

【購入はこちらから】
https://anywherestore.p-vine.jp/collections/yuksta-ill

Tracklist
※TAPEはSIDE AがM1-6、SIDE BがM7-13になります

1. FULL CIRCLE(produced by OWLBEATS)
2. LOOK BACK FOR THE...(produced by T-TRIPPIN' from DAZZLE 4 LIFE)
3. HUMBLE PEEPS(produced by UCbeats)
4. RIGHT ON CUE feat. GINMEN(produced by GRADIS NICE)
5. QUESTION feat. J.COLUMBUS(produced by Cedar Law$)
6. Y.O.L.O. feat. CJ from HOMEBOYZ(produced by P3T-BUSTARD / directed by DJ KIYOSHIRO)
7. IT IS WHAT IT IS(produced by MATSUIGODZILLA)
8. ROLLIN' RING 'RESE(produced by M.A from BONGBROS)
9. GRIT-N-GRIND(produced by RAMZA)
10. MINDFULNESS feat. MILES WORD(produced by MET as MTHA2 / scratched by DJ 2SHAN)
11. 82PLACE feat. 1982S(produced by MASS-HOLE)
*1982S are MASS-HOLE, MR.PUG, 仙人掌, ISSUGI & YUKSTA-ILL
12. SUBWAY feat. JASS & Äura(produced by Kojoe)
13. NEW DECADE(produced by DJ SCRATCH NICE)


 東海エリアのクルー「RC SLUM」に所属し、同世代コレクティヴ「1982S」にも名を連ねる三重県鈴鹿市在住のラッパー、YUKSTA-ILL。地元をベースに長きに渡ってヒップホップ・シーンで活躍し、近年ではMCバトルのシーンにも復帰して絶妙なバランス感覚で界隈でも活動しており、2023年には自身のプロダクション「WAVELENGTH PLANT」を設立したことも大きな話題となったが、約2年半ぶりの通算5枚目となる待望のニューアルバム『82PLACE』のジャケット、トラックリストが公開!

 ラッパーとして短くないキャリアを誇るYUKSTA-ILLだけに全国各地に同胞とも言える仲間たちが多数存在しており、本作は「82PLACE」のタイトルの示す、自身の現在地、これまでの軌跡、その過程で見つけた居場所をコンセプトに地域/クルー/世代の枠を超えた面々が集結。客演としてその1982Sの面々(MASS-HOLE、ISSUGI、仙人掌、Mr.PUG)を筆頭にMILES WORD(BLAHRMY)、JASS(Tha Jointz)、J.COLUMBUS、GINMEN、CJ(HOMEBOYZ)、Äura、プロデューサーとしてGRADIS NICE、DJ SCRATCH NICE、KOJOE、MASS-HOLE、RAMZA、T-TRIPPIN'(DAZZLE 4 LIFE)、Cedar Law$、MET as MTHA2、OWLBEATS、MATSUIGODZILLA、M.A(BONG BROS)、UCbeats、P3T-BUSTARDが参加!

 また今アルバムのアートワークは、主宰するレーベルWAVELENGTH PLANTからリリースされたこれまでの作品や企画するイベントのフライヤ等を手掛けるデザイナーのSaäkåが担当しており、CDには全収録曲のデザインが収められたブックレットを含め、Saäkåプロデュースのアート作品として楽しむ事の出来るものとなっている。

<プロフィール>

YUKSTA-ILL

三重県を代表するRAPPER。東海屈指名古屋RC SLUMに所属しつつ、地元に根差すレーベルWAVELENGTH PLANTを主宰。ホーム鈴鹿や隣町四日市にて複数のパーティーを仲間達と企画。時としてILLADELPHの名の元にDJを嗜む。
これまでに最新作「82PLACE」を含めフルアルバム5枚、ミニアルバム2枚、MIXCD3枚、そしてシングル曲を無数にドロップ。様々なアーティストの作品に名を連ね、客演バースをキック。MCバトルには重きを置かず、距離を取りながらも意表を突いて参戦。UMB2007名古屋、UMB2009名古屋、12年のブランクから復帰後、KOK2023三重のタイトルを奪取。
また、HIPHOPとバスケを繋げる草の根活動を展開。好きが高じてハーフタイムショーを主とするユニットGNGを結成。すべての側面において自己新更新を心掛け、力を尽くす1982式のMC。

Jakob Bro & Midori Takada - ele-king

 あなたに出会うまで。
 この「あなた」という言葉から、誰の顔が思い浮かぶだろうか。

 デンマーク出身のギタリスト、ヤコブ・ブロは、〈沈黙の次に美しい音〉を掲げるジャズ/現代音楽レーベル〈ECM〉から数多くの作品を発表してきた。彼は、コペンハーゲンで見た高田みどりのパフォーマンスに感銘を受け、共演の願いを託して彼女に一通の手紙を送った。
 クラシックを出発点に、環境音楽やアフリカ・アジアの音楽、即興や演劇まで、ジャンルを超えて探求を重ねてきた日本のパーカッショニスト、高田はその手紙に戸惑い、返事を出すまでに約2年の歳月を要した。
 やがて、ベルリンで初共演を果たしたふたりは、いくつかのライヴを経て、東京で初の共作アルバムを録音する。それが本作『あなたに出会うまで』である。

 オープニングのタイトル曲 “Until I Met You(あなたに出会うまで)” では、まだ出会えていない誰かを探し求めるかのような、揺らぎと余白に満ちた音像が姿を現す。ブロのギターのフレーズを、高田のマリンバがそっと追いかけ、ときにぴたりと重なり合う──一音ごとの対話が、この作品の核心を象徴している。
 “Landscape 2, Simplicity” では、高田の奏でる多彩な音色が、中心部のメロディの周縁に薄くきめ細やかな膜を幾重にも重ね、そこに生命の気配を宿していく。その響きは、まばたき──目を閉じ、開き、また閉じる一瞬の動き──を引き伸ばし、7分45秒間にわたる聴覚の風景を映し出す。
 ギターとピアノがユニゾンで旋律を紡ぐ “Infinity” は、螺旋を描きながら絶えず形を変えていくミニマルな構造だ。風に運ばれてゆっくりと表情を変える雲のごとく、音は決して同じ輪郭をとどめない。
 “Sparkles” では、ブロのギターが艶やかに弾け飛ぶ。チクタクと刻む時計を思わせるリズムが、アルバム全体の景色に眩い輝きと力強さを与えている。
 ラストを飾る “Floating Forest” は、開始直後から即興的な呼応が生まれ、ゴング(銅鑼)の音色が水面に波紋を描くように広がり、作品全体へ溶け込んでいく。そしていつしか、その佇まいは聴き手の耳の奥からも姿を消す。

 このアルバムは、どこか子守唄のような、まどろみの境界に漂う淡い気配をまとっている。だがそれは、決して眠りへと誘うだけのものではなく、私たちの内側へと深く降りてゆき、感情や記憶の層を少しずつ解きほぐしていく。
 高田はかつて、2017年にリイシューされた『鏡の向こう側』のライナーノーツ掲載のインタヴューで、(クラシック音楽とアフリカやアジアの音楽の対比を踏まえながら)音楽は本来、外の世界に向けて力を誇示するものではなく、自分の体の変化や他者との関係を確かめながら、自らの内面に向かってできていくものである──といった趣旨の考えを示している。その音楽観は今作にも受け継がれ、音の隅々にまでその思想が刻み込まれている。
 子守唄の例えは、単なる比喩ではない。かつて歌い手自身をも慰め、支えるものであったように、この作品もまた、私たちが自分自身の深部へと入り込み、忘れかけていた感覚や意志を呼び覚ますための契機となっている。

 ふたりの音楽へのまなざしには、根底に共通するものがある。
 高田は、2024年の『ele-king vol.33』のロング・インタヴューで「私がミニマリストであるとか、アンビエント・ミュージシャンであるとか、自分でそういうふうに限定したことは一度もない」と語っているが、その姿勢はブロにも重なる。
 2025年4月の対談*で、ブロは自身について、ギターを弾くという行為そのものに執着はなく、ジャズ・ミュージシャンとすら考えていない、と語り、こう続ける。「私とみどりさんに共通しているのは、スタート地点にオープンさと自由さがあること」
 ふたりを貫く創作の精神には、既存の枠組みを超えてなお、表現の地平を押し広げ、まだ見ぬ可能性を掘り起こそうとする意志が息づいている。
 同じ対談のなかで、高田はその背景にある考えを次のように語る。「まずは自分を否定すること。それは辛いし、とても恐怖ですが、そこを乗り越えて初めて手に入ることってあると思うんです。(中略)そこで初めて、孤独に耐えてまでやりたいことがある、という強い意志を持っている人が得られる自由がある」

 『あなたに出会うまで』というタイトルは、ブロと高田の出会いの時間を指し示すにとどまらない。
 それは、自身の奥底へと分け入り、恐れや孤独を引き受けながらもなお、何かを求めて歩み続ける過程の先にしか触れ得ない、到達点の一端をも暗示している。そして音楽とは、そうした、まだ名もなきものへと手を伸ばし続ける営みなのかもしれない。
 この作品に耳を澄ませるとき、私たちはその “あなた”──すなわち、制約から解き放たれた自己と、静かに向き合うことになるのだ。


* Always Listening by Audio-Technica(オーディオテクニカ)|高田みどりとヤコブ・ブロが語る、境界線の向こう側 ——音楽の本質をめぐる対話
https://www.audio-technica.co.jp/always-listening/articles/midoritakada-jakobbro/


Terry Riley - ele-king

 満90才になった現在も日本で暮らしながら精力的に作曲活動を続けているテリー・ライリー(1935年6月24日、米カリフォルニア州コルファックス生まれ)。その卒寿を一緒に祝いたいと、去る6月には盟友デイヴィッド・ハリントンがクロノス・クァルテットを率いて自腹で来日し、共演コンサートもおこなわれたが、この豪華ボックス・セットもソニーからの卒寿祝いということだろうか。箱に収められたのは、米CBSの「コロンビア・マスターワークス」レーベルからリリースされたライリーの初期4作品——『In C』(68年)、『A Rainbow in Curved Air』(69年)、ジョン・ケイルとのコラボ作『Church of Anthrax』(71年)、『Shri Camel』(80年)で、日本盤にはデイヴィッド・バーマンなど当時の制作プロデューサーたちによる詳細な回想録の完全和訳及び独自の解説文を収めたブックレットも追加されている。テリー・ライリーという音楽家が何者で、どういうことをやってきたのかが入門者にもよくわかるはず。
 作曲家/演奏家としての60年以上にわたるキャリアにおいて、ライリーの表現スタイルや手法は時代と共に変化してきたわけだが、根幹となる部分、具体的に言えばミニマリズム、サイケデリア、ニュー・テクノロジーの活用、一種のガイア思想、即興、インド音楽、純正律といった特質はこの「コロンビア・マスターワークス」の作品群においてほとんど確立されていた。その後今日に至るまでの膨大な作品も、これらを土台として展開、深化してきたと言っていい。そういう意味でもこのボックスは、マニアにとってもライリー初心者にとってもありがたい。

ハ長調で書かれた53の短いパターン(フレーズ)の譜面を演奏者たち(人数も使用楽器も自由)が任意に繰り返す“In C”こそは、20世紀現代音楽の新しい扉を開いたアメリカン・ミニマリズムの金字塔である。64年に作られたこの曲はジャケット裏面に楽譜が印刷されたオリジナルLPではAB面に分断して収録されていたが、CDではもちろん途切れなしの全1曲。お披露目ライヴ時にエレキ・ピアノで参加したスティーヴ・ライヒはこの作品の革命的構造にインスパイアされ、以後、彼なりのミニマリズム道を開拓していくことになる。
 アルバム『In C』の68年の録音に参加したニューヨーク州立大学バッファロー校演奏芸術センターのメンバーには、デイヴィッド・ローゼンブーム(ヴィオラ)やジョン・ハッセル(トランペット)、スチュアート・デンプスター(トロンボーン)など、その後前衛音楽シーンで活躍する作曲家/演奏家たちが名を連ねた。オープニングでピアノの高音パルスを叩き、最後までアンサンブル全体をリードしたマーガレット・ハッセル(当時のジョン・ハッセルの妻)とは、86年にカンのスプーン・レーベルからもソロ・アルバムを出すカトリーナ・クリムスキーその人である。
 ちなみに、本作が録音された68年4月末といえば、カンもいよいよバンドとして始動した頃だが、そもそもイルミン・シュミットが欧州最先端の現代音楽を捨ててポップ・ミュージックに転向するきっかけも、66年の渡米時にテリー・ライリーやラ・モンテ・ヤング等による新潮流に触れたことだった。ライリーの自宅セッションにもしばしば参加したシュミットは、特別な演奏技術を持たない者でも参加できる新しい音楽に激しいショックを受けたという。リーダーを決めず、参加者ひとりひとりの自由意志でアメーバのように形が変わってゆくスポンテイニアスな本曲について、ライリーは後年こう語っている。「この曲では、良いアイデアを持っている音楽家どうしが演奏しながらお互いのアイデアをひとつにして音楽を作りあげていくことを学ぶ。それは今の世の中ではとても必要なことだと思う」。その表現の根底を貫く自律性とデモクラシー、あるいは一種のアナキズムこそは、カンの基本信条でもあった。
 2024年暮れには、京都・清水寺の大舞台で日本人音楽家たちとライリーによるライヴ(ライリー自身が参加する実演はこれが人生最後と本人が明言)がおこなわれて大きな話題になったが、この曲ほどジャンルを問わず世界中の様々な音楽家たちから演奏/録音されてきたライリー作品は他にない。
 厳格な理論に支えられた無調音楽が幅を利かせていた現代音楽シーンに向けてひとつの明澄なトーン(しかもハ長調)だけで切り込んだこのレコードは、ライリーが12音技法などを学んだカリフォルニア大学バークリー校の教授たちにショックを与え、音楽学部からは追放されたというが、批評家たちからは「20世紀の決定的な傑作のひとつ。新たな美学を定義する最重要作品だ」などと絶賛された。当時学生だった作曲家ジョン・アダムズは「驚くほど挑発的で、学術至上主義モダニズムの狭量で形式ばった世界に対してロバート・クラム(60年代アンダーグラウンド・コミックス運動の創始者)の中指を突き立てているようなアルバムだった」と回想している。

 ライリーの音楽哲学あるいは生き方の基本理念が打ち出された『In C』に続き、翌69年に出たのが東洋/インドの香り濃厚な完全ソロ・ワーク『A Rainbow in Curved Air』だ。ロック/ジャズ・シーンにも強い影響を与えたこの名作は、私が初めて聴いた(高2の1975年)ライリー作品ということもあり、個人的にもとりわけ思い入れの強いアルバムだ。過去何度も書いてきた紹介文の中から2本だけ再掲しよう。
 「これぞ聖典。新しい手法とスタイルで現代音楽のニュー・フェイズを提示し、更に70年代以降のロック/ジャズから今現在のエレクトロニク・ミュージックまで絶大な影響を及ぼし続けているという意味で、20世紀音楽史上最重要作品のひとつである。電子オルガン&パーカッションによる即興ソロ演奏を多重録音したアルバム・タイトル曲(LPのA面)では、左手がシーケンサーのように規則的に刻む奇数拍子の低音パターン上で、右手が東洋風のモーダル・パッセージを高速で展開してゆく。もう1曲(LPのB面)の〈Poppy Nogood and the Phantom Band〉は、タイムラグ・アキュムレイター(時間差集積機)なる独自開発のテープ・ディレイ・システム(言うまでもなく元祖フリッパートロニクス)を駆使した電子オルガン&ソプラノ・サックスの複雑な多重録音。ジョン・コルトレインのモード・ジャズやビル・エヴァンスの多重録音作品『Conversations With Myself』等とも絡めて語られるべきか」    
 「60年代、ひたすらドローンの強度と反西洋的/反近代的音響を追求し続けた頑固者のラ・モンテ・ヤングに対し、同じくミニマリストながら、テリー・ライリーはテープ・ループ・システムなどの新技術を用いての巧みな即興とか、モーダルでミステリアスなメロディ展開といった点でロックやジャズのリスナーに対する訴求力が強く、いわば“ポップな幻覚性”をもってロック・シーン(サイケ~プログレ)にも絶大な影響を及ぼした。その代表的アルバムが68年の『In C』と69年の本作だろう。電子オルガンが奏でる類型化した細かい音のモデュールが、テープ・ループ・システムによって次々と再生されてゆき、その微妙なズレの堆積の中、天空から光のシャワーが降り注いでくるようなマジカルな感覚が生み出されるアルバム・タイトル曲は、まさにサイケデリックそのもの」
 あるいは、レッド・ツェッペリン『フィジカル・グラフィティ』の解析論考文中で「イン・ザ・ライト」に触れた箇所には「インド風味たっぷりのイントロ部分、キーボードのモーダルなうねりと弓弾きギターのドローン音が醸し出すヒプノティックなムードは、『A Rainbow in Curved Air』や『Persian Surgery Dervishes』といったテリー・ライリーの初期作品そのままである」なんてくだりもあったり。
 ライリーがテープ・ループ・システムという新技法に取り組みだしたのはまだカリフォルニア大学バークリー校で学んでいた60年代初頭のことで、その技法を62~63年のパリ遊学時代に究めた彼は60年代後半にはソロ・ライヴで実践するようになった。また、パンディット・プラン・ナートの下で70年から本格的に学びだすインド音楽も、既に60年代から熱心に聴いていた。あるインタヴューで彼は、60年代前半にサンフランシスコでラヴィ・シャンカール&アラ・ラカのコンサートを聴いた時の感動と覚醒についてをこう語っている。
 「アメリカでは彼らはまだ無名で、観客はその音楽に戸惑っていたけど、私にとってはまったく奇妙に聞こえなかった。ステージ上の2人は楽しそうで、素晴らしいジャズのやり取りを思い出させた。私は本当にそんなものに出会ったことがなかった。そして、それが自分の音楽が進むべき方向だと気づいたんだ」
 当時の若者たちに対して本作が強い訴求力を持ったのは、これが反戦とラヴ&ピースの時代の空気にぴったり合致していたからでもあった。LPのジャケット裏に書かれた「そしてすべての戦争は終わった。あらゆる種類の武器は禁じられ、人々は嬉々としてそれらを巨大な鋳造所に持ち込み、武器は溶かされ……(略)すべての境界が消滅した……」という詩的文言が表明する一種のユートピア思想は、60年代から現在まで一貫してライリーの背骨になってきたものであり、それはたとえば宇宙探索をモティーフにしたクロノス・クァルテットとの共作『Sun Rings』(2019年)でもはっきりと謳われている。

 『A Rainbow in Curved Air』の発売(69年10月28日)からわずか3ヵ月後に録音されたのが、ジョン・ケイルとのコラボ作『Church of Anthrax』だ。これは「前衛音楽とロックは接近してひとつになりつつある」と考えたジョン・マクルーアの提案で実現したもので、『A Rainbow in Curved Air』とほぼ同時期に録音されたケイルの初ソロ・アルバム『Vintage Violence』(70年3月発売)の翌71年にリリースされた。マクルーアはライリー、そしてヴェルヴェット・アンダーグラウンドを抜けたケイルと同時期にアーティスト契約を結んだCBSコロンビアの統括ディレクターだ。ラ・モンテ・ヤング率いるドローン・コレクティヴ「シアター・オブ・エターナル・ミュージック」のメンバーとして60年代半ばからの友人だったライリーとケイルはマクルーアの提案を喜んで受け入れたが、具体的に案を練ったり意見をすり合わせる時間がなかったため、ほとんどスタジオ即興セッション風の録音になった。
 準備不足だったことは、完成した作品からも伝わってくる。ケイルの生ピアノによるミニマルなコード・プレイにライリーのソプラノ・サックス多重録音が蔦のように絡みつく「ヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊(The Hall of Mirrors in the Palace of Versailles)」はまさにこの2人ならではの世界だが、残りの4曲ではケイルの腕力の強引さ(英ウェールズの炭鉱町育ち!)がしばしばライリーの魅力をかき消してしまっており、全体的に中途半端な印象は否めない。ライリーは、録音セッション自体は楽しんだものの、完成した作品にはかなり不満があったようで、後年こんな発言をしている。
 「最終的なミックス作業の際、既に録音済みのトラックにジョンが大量のエレキ・ギターを重ねだしたため、私が大切にしていたキーボードの演奏が聴こえにくくなってしまった。このことで意見が衝突し、私はミックス作業の途中で退席した。結局アルバムは、私抜きでジョンとマクルーアによって完成させられた。そのことで精神的に疲弊した私は、ニューヨークの部屋を引き払い、カリフォルニアに戻ることにしたんだ」
 と言いつつも、ライリーはケイルの音楽家としての才能は十分認めていたし、時の流れと共に、ロック的な彼らのやり方にも一理あったと思うようになり、90年頃には『Church of Anthrax II』を作ろうとケイルに提案したという。しかしケイルはコラボ作ではなく、自分がライリーのソロ・アルバムをプロデュースしたいと主張したため、結局企画はご破算になった。ケイルがプロデュースしたライリーのソロ・アルバムってのも聴いてみたかったが。
 ちなみに、ケイルが書いたヴェルヴェッツ風のヴォーカル入り曲“The Soul of Patrick Lee”で歌っているアダム・ミラーは、当時ケイルと親しかったシンガー・ソングライターで、ケイルがプロデュースしたニコの『Desertshore』(70年12月発売)にもコーラスとハルモニウムでゲスト参加している。また、2人のドラマー、ボビー・コロンビーとボビー・グレッグは、前者がブラッド・スウェット&ティアーズのリーダーで、後者はボブ・ディランやサイモン&ガーファンクル他の作品でも活躍した敏腕セッションマンだ。

 『Church of Anthrax』からなんと9年。「マスターワークス」からの最終作として80年にリリースされたのが『Shri Camel』だ。70年1月に『Church of Anthrax』を録音して間もなくライリーは、北インド古典音楽キラナ派の声楽家パンディット・プラン・ナートの正式な弟子となり、インド音楽に没入していった。60年代後半、ライリーと親友ラ・モンテ・ヤングは一緒に、プラン・ナートのラーガ歌唱を収めたテープを熱心に聴き、心酔していたという。当初、多少のためらいもあったライリーの弟子入りは、先に入門していたヤング&マリアン・ザズィーラ夫妻から背中を押されてのことでもあったようだ。プラン・ナート自身はヒンドゥー教徒だが、生まれ育ちはパキスタンのラホールで、音楽の師もイスラム教徒だったせいか、両方の教義を守り、その歌唱にもスーフィズム(イスラム神秘主義)の色が濃い。プラン・ナートはまた、ラーガ(インド音楽の旋法)の伝統を重視しつつも、ラーガを通して自由に表現することを心掛けており、その開かれた姿勢にライリーは強く惹かれたという。弟子入り後のライリーは毎年のようにインドに赴いてラーガの習得に励んだ。「特に70年代の前半は、だいたい1年の半分はインドで修業し、半分はヨーロッパやアメリカで演奏したりプラン・ナートのライヴを企画・運営したりしていた」という。
 彼は既に60年代後半から譜面を書かずオルガン+テープ・ディレイ・システムで自由に即興演奏するようになっていたが、70年代の厳しい修業に伴いその表現はインド音楽とスーフィズムのニュアンスをどんどん強めていった。そうしたスタイルの総決算とも言うべき1枚が、このアルバムである。西ドイツのラジオ・ブレーメンからの委嘱で75年からプロジェクトがスタートし、76年に最初のヴァージョンを上演。改良を重ねて77年にサンフランシスコで録音され、80年にリリースされた。
 リボンコントローラーやタッチヴィブラートなどシンセサイザー的機能も備えたライリーの愛機「ヤマハ YC-45D コンボオルガン」(マイルズ・デイヴィスも使っていた)を純正律にチューニングしているのはいつもどおりだが、ここでは2台のテレコによるタイムラグ・アキュムレイターの代わりにデジタル・ディレイ・システムを使い、16チャンネル・テレコで録音している。結果、サウンドの質感は以前とはちょっと変わっている(クリア化)が、格段に細分化された純正律音が揺らめきながら複雑に絡み合い、多層化し、全体の構造が迷宮性を深めている。旋律のつらなり方からは、ライリーがいかにラーガを習得してきたか、そしてジャズをどれほど深く愛しているかがはっきりと窺えよう。また、最後に収められたスペイシーな大曲「氷の砂漠(Desert of Ice)」などは、本作が作られていた頃に出たアシュラ/マニュエル・ゲッチング『New Age of Earth』(76年)との共振も感じさせる。
 ライリーは本作の録音後まもなく、クロノス・クァルテットとの出会いをきっかけに譜面での作曲を再開し、クラシック(現代音楽)の世界にも純正律を取り込んでゆくわけだが、純正律の魅力については、ラ・モンテ・ヤングの金字塔的作品「The Well-Tuned Piano」(64年から作曲し始め、87年に5枚組LPとしてリリース)を引き合いにだしながら、こう語っている。
 「『The Well-Tuned Piano』は、純正律のピアノ音楽における真の偉業であり、私自身もこの方法で音楽制作に取り組みたいという気持ちにさせてくれた。純正律にチューニングし直すと、ヨーロッパのピアノとは全く異なる、より純粋で豊かな音色になり、様々な表情が生まれてくる。倍音成分が互いに共鳴し合い、独特の響きになるんだ。ピッチ自体がひとつの作品と言えるだろう」
 この作品によって60~70年代のライリーの表現は集大成された感があるが、そこに至る流れを詳細に把握し、ライリーの本質により深く触れたい人には、70年代に様々なレーベルからリリースされたヒプノティックな作品群を聴くことをお勧めする。たとえば、71年ロサンジェルス&72年パリのライヴ音源集『Persian Surgery Dervishes』(72年)、75年ベルリンでのライヴの記録『Descending Moonshine Dervishes』(82年)、『Happy Ending』(72年)や『Le Secret De La Vie』(75年)といったサントラ盤、あるいは82年にミュンヘンで録音された『Songs for the Ten Voices of the Two Prophets』(83年)等々。「ミニマル・ミュージックの作曲家というよりはサイケデリック・ミュージシャン」を自認するヒップな修行僧の姿をはっきりと確認できるはずだ。

 イギリスの即興集団AMMの活動でも知られるドラマー/パーカッショニスト、エディ・プレヴォが9月末から10月頭にかけて15年ぶりの来日公演を行った。これが最後の来日公演になる可能性が高いという。プレヴォといえば半世紀以上前にフリー・インプロヴィゼーションの新しい領域を切り拓いた、まさに歴史上の人物であり、「生ける伝説」である──半ばそうした思いも抱きつつライヴへと足を運んだところ、伝説と呼んでしまうのはとんでもない、ただただ現役のミュージシャンとして非常に素晴らしかった。終演後には短い時間だったが取材ができ、ライヴの所感や音との向き合い方など、エディ・プレヴォ本人から貴重かつ示唆に富む証言──彼は自らを「旧石器時代の洞窟人」に喩える──を得ることもできたので、ここにライヴ・レポートを兼ねて記すことにした。なぜ彼があのように独創的な表現へ至ったのか、その核心が垣間見える証言になったのではないかと思う。

 まずは駆け足で来歴を紹介する。エディ・プレヴォは1942年生まれ、御年83歳。1965年にキース・ロウ、ルー・ゲアとともにAMMを設立し、1967年には名盤『AMMMusic』(1966年録音)を世に送り出す。当時プレヴォはまだ20代半ばだった。AMMの歩みについては拙稿*を参照いただきたいが、プレヴォによれば、もともとモダン・ジャズのドラマーとして活動していたものの、「(……)流れが重なってルーとキースと私が集まり、当時の正統派から離れていくようになった。アルバート・アイラーやオーネット・コールマンといった人たちに触発されて、彼らが『不従順でいていい』と許可を与えてくれたようなものだった。そこから発展していった」という**。しかし他方、アメリカにおいて公民権運動と連動して発生していたフリー・ジャズのムーヴメントという文脈はイギリスにはない。つまりアイラーやオーネットの「不従順さ」をそのまま踏襲することはできないとも考えていたようで、「私たちは、1965年のロンドンに暮らす若い三人の男として、シカゴやニューヨークに暮らす黒人の若者たちと同じ人生経験や文化的背景を持っていないことを、早い段階で理解したと思う。彼らの音楽をそのまま演奏するのは馬鹿げているように思えた。だから私たちは、自分たち自身の音楽を発明しなければならないと決めた」ともプレヴォは話す。「自分たち自身の音楽(our music)」を追求することから、アメリカのフリー・ジャズとは異なる、イギリスならではのフリー・ジャズ/フリー・ミュージックを開拓したのである。

 ドラマー/パーカッショニストとして活動するかたわら、エディ・プレヴォは1979年にレーベル〈Matchless Recordings〉を設立。さらに執筆活動も行なっており、1995年に最初の著書『No Sound is Innocent』を刊行している。プレヴォは1960年代のイギリスにおけるフリー・ミュージックの開拓者の一人であるが、同時に、とりわけ1990年代以降、即物的な響きにフォーカスしたいわゆる音響的即興の領域において新たなサウンドを開拓した人物でもある。ドラムセットを四肢を駆使して巧みに演奏するだけでなく、シンバルや金属類を弓で擦り、物と物を接触させ、振動現象を引き起こし、その響きの生成と変化を見つめる──そうしたアプローチはAMM(メンバー変遷を経てエディ・プレヴォ、キース・ロウ、ジョン・ティルバリーのトリオに落ち着いた)でも聴かせていたが、ソロ・アルバムとしては、フリーフォームのドラミングと音響的アプローチの両面を捉えた1996年リリースの『Loci Of Change (Sound And Sensibility)』に最初の成果が結実している。とはいえ、フリー・ジャズにせよ音響的即興にせよ、プレヴォからしてみればそれぞれの異なる領域を開拓したわけではなく、1960年代から一貫して音の探求を続けてきた足跡が、振り返るとそれぞれの領域の開拓者に見えるというに過ぎないのだろう。その意味でドラムセットの演奏も打楽器から振動現象を引き起こす試みも地続きであるのではないだろうか。

 この度の来日公演は、もともとプライベートで日本を訪れる予定だったものの、AMMがSachiko Mと共演した2004年録音の発掘盤『Testing』が今年リリースされたことがきっかけとなり、ライヴの企画へと発展していったという。エディ・プレヴォは2000年にAMMで来日ツアーを行なっており、その10年後の2010年にはサックス奏者のジョン・ブッチャーとのデュオでやはり来日ツアーを敢行。それから15年が経った2025年、単独での来日が実現することとなり、9月26日から28日にかけて渋谷公園通りクラシックスで3Days公演が開催された。このうちわたしは27日と28日の公演に立ち会うことができた。なお10月1日には神保町試聴室で、10月3日には両国門天ホールで、それぞれ異なるゲストを迎えてライヴが行われた***。

 渋谷公園通りクラシックスにおける3Days公演の二日目は、Sachiko M(サイン波)と大友良英(ギター)とのデュオをそれぞれ1セットずつ行った。ステージには向かって左側にドラムセットが設置され、右側には大太鼓や打楽器類が置かれていた。1stセットのSachiko Mとのデュオでは、エディ・プレヴォは右側の打楽器類がセッティングされた場所に座り、シンバルの弓奏や大太鼓を擦ったり叩いたりすることで音響現象を発生させていくアプローチの演奏を行った。静謐な空間に微かなサイン波の持続音とシンバルを擦る響きが広がっていく。かつて弱音系即興とも呼ばれた、静けさ、沈黙、間、音のテクスチュア、空間性、余韻などが辺りを満たしていくような緊迫した空気。途中、客席から椅子の軋みや足音、ドアの開閉音も闖入したが、そうした音が気にかかるほどには繊細な演奏だ。面白かったのは、エディ・プレヴォの演奏はまるで電子音響のようにアンフォルメルで抽象的だったのだが、他方にSachiko Mのサイン波が鳴り続けているために、むしろプレヴォが演奏する音の身体的な揺らぎ、楽器的なノイズなどの微細な差異が際立っていた点だった。約40分ほどの演奏を終えると、休憩を挟んで2ndセット、大友良英とのデュオへ。こんどはプレヴォはステージ左側のドラムセットに着席する。互いに様子を窺いながら、探り合うようにセッションが始まった。大友がヴォリュームペダルを駆使したノンイディオマティックなギターで仕掛けると、プレヴォはブラシワークを皮切りにジャズ・ミュージシャン時代を彷彿させるような流麗かつ激しい演奏を展開していった。シンバルを弓奏することで繊細な音響を紡ぎ出すイメージが強かっただけにこうした目紛しいスティック捌きには驚いてしまった。手数の多いフリーフォームなドラミングに、大友もギアが入ったのか、徐々に大友良英らしいノイジーなギター・サウンドも織り交ぜていく。静謐な緊迫感に満ちた1stセットとは一転、火花を散らすような濃密なやり取りを約30分にわたって繰り広げた。

 3Days公演の三日目は、ゲストにサックス奏者の松丸契、パーカッショニストの松本一哉を迎え、エディ・プレヴォがそれぞれとのデュオ・セッションを行った。プレヴォの希望もあってこの日は比較的若い世代のミュージシャンとの共演となったそうだが、結果として、まさにグッド・チョイスと言いたくなる組み合わせだった。1stセットは松丸とのデュオ。前日と同じくドラムセットと打楽器類、それぞれ二箇所の演奏場所が設けられ、松丸とのデュオではプレヴォはドラムセットを使用した。乱れ打つパルス・ビートに加え、時にシャッフル・ビートさえ取り入れたジャズ要素のあるプレヴォのドラミングに対し、松丸はサックスとは思えぬ音響の万華鏡的な広がり、高速フレーズ、さらには軋るような咆哮も放ちながら応じていく。触れたら切れてしまいそうなほどの緊張感だ。冒頭はリラックスしているように見えたプレヴォも、松丸の演奏に接して並々ならぬものを感じたからか、途中、二回ほどスティックを落下させてしまっていた。いや、現実には単に手が滑っただけなのだろうけれど、それほど興が乗ってきたと思えるほどの真剣さと愉しさに溢れたやり取りに聴こえた。同時にプレヴォはさすがは百戦錬磨のインプロヴァイザーでもあり、松丸の演奏を上手く引き立たせる術を心得ていたようにも感じた。中盤ではプレヴォがフレーズをリズミカルに反復させ、松丸のサックスの叫びと合わさって祝祭的な空気さえ醸し出していた。演奏時間は約30分。続いて休憩後、2ndセットで松本一哉とのデュオが始まった。松本はステージ中央に巨大な銅鑼を置き、その前に波紋音などの打楽器類を設置。プレヴォはドラムセットではなく打楽器類がセッティングされた場所に座った。パフォーマンスが始まると、松本は何かを探索するようにステージ周囲を歩き回る。無音状態が続き、プレヴォが先にシンバルの弓奏を始めた。だがその後、松本がタイミングを見計らって銅鑼に近づき、ゴム製のマレットで擦ると、まるで人の声のような、あるいは電子音のような、摩訶不思議なサウンドが鳴り響いた。巨大な銅鑼を見て力強い打撃音を想像していた向きには驚きが走ったことだろう。実際、銅鑼の響きを聴いた瞬間、プレヴォは「Wow!」といったふうに目を見開き、自らも銅鑼のような打楽器を用いた演奏へとシフトしていった。楽器から物質へと還元された素材が生み出す、音楽と名前がつく手前にあるような音響現象の交感。後半では松本は波紋音などを叩き音階を出していき、プレヴォもシンバルや金属類、弓などを組み合わせて応じていった。セッションは最後、両ミュージシャンが演奏を止めた後もしばし無音が続き、プレヴォがタオルを手に取ると、万雷の拍手によって約30分のパフォーマンスが締め括られた。

 83歳という年齢を全く感じさせないパフォーマンスだった、というのが、エディ・プレヴォの演奏を観た率直な感想である。むろん若い頃に比べて肉体的な変化は否応なくあることだろう。とりわけドラムセットや打楽器は身体の動きが演奏に直結する楽器でもある。しかしそれらのことを踏まえた上で、プレヴォは彼自身が積み重ねてきた音に対する向き合い方を、むしろ今現在でなければ表現できないような、探究と経験に裏打ちされた最良の形でパフォーマンスとして披露していたように思う。それと共に思ったのは、現役のミュージシャンとはいえ、やはり、エディ・プレヴォはフリー・インプロヴィゼーションの領域を切り拓いたパイオニアの一人なのであって、彼が開拓した世界のその先に、Sachiko Mや大友良英がおり、そして松丸契や松本一哉がいる、ということだった。それは必ずしも直接的な影響関係を意味するわけではない。だが、日本勢のゲスト・ミュージシャンたちの表現の節々に、プレヴォの音楽的実践の残響のようなものが谺しているとも感じたのである。もしもプレヴォがいなければ、即興を主体とする自由な音楽の現在のありようは、少なからず異なるものとなっていたのではないだろうか。パイオニアの一人と、彼が切り拓いた地平のさらに彼方で新たな試みに挑む最先端のミュージシャンが、邂逅する——もしも歴史上に刻まれる「伝説」なるものがあるとしたら、まさにこの来日公演がそうだったと言えるのかもしれない。****

 3Days公演最終日の終演後、エディ・プレヴォに少しだけ取材をすることができた。親子どころか孫ほども世代が離れたミュージシャンとの共演について、彼がどう感じたのか、素朴に気になったことを投げかけてみた。すると彼は優しげな微笑みを浮かべながらこう話してくれた。

「若い音楽家たちがこの音楽を演奏していることを、私は喜ばしく思う。世界中にコミュニティが広がり、成長しているようだ。彼らは自分たちが何をしているのか完全には意識していないかもしれないが、安易な商用音楽や、息苦しいアカデミックな音楽とは違う何かを作ろうとしている。彼らは自分たちのアイデンティティを築きつつあり、志を同じくする人々と共に活動している。私はそのことをとても嬉しく思う。彼らは本当に刺激的だった。競争的ではなく、しかし同時にサウンドやその源を自在に操る力を持っていた。私は彼らがそれをさらに発展させるだろうと思うし、それこそがまさに正しい心構えだ。私たちはその姿勢を育み、励まし、応援していく必要があると思う」(エディ・プレヴォ)

 さらに共演について掘り下げて話を訊いていくと、エディ・プレヴォは自らを「旧石器時代の洞窟人」に喩えて、音とどのように向き合っているのかを語ってくれた。彼は「突飛に聞こえるだろうか?」と冗談めかした笑いを浮かべたが、その話を聞いたわたしの頭に過ぎったのは、誰あろうデレク・ベイリーのことだった。年齢的にはプレヴォよりも一回り年上(1930年生)であるものの、そしてプレヴォとは当初別のシーンに属しながらも、しかし同じように1960年代のイギリスでフリー・インプロヴィゼーションの新しい領域を切り拓いたベイリーもまた、人類最初の音楽演奏は自由な即興以外あり得なかったはずだと、かつて主張したことがあったのだった。その意味でプレヴォの比喩は突飛に聞こえるどころか、むしろ、音楽の普遍的かつ根源的な思想および実践に触れている話だと思ったのである。

「(今回の共演は)どちらもチャレンジングだったが、それぞれ違った形での難しさがあった。私はまだ、自分がAMMで演奏するときに使っているのと同じアプローチを適用していた。音を探す、素材が何をできるのかを見極める。私はそれを見ている。その物質の織り目を、そして『これをやったら何が起きるのか?』ということを。私がそうやったときに何が起こるのかを観察し、どうすればそこから一番いい音を引き出せるかを考えている。私は自分を──これは複雑だが──旧石器時代の洞窟人のように見ている。5万年前に生きていた人間のことだ。彼らは全く違う文化を持っていたが、同じような願望を抱いていた。同じ身体的な機能を持ち、同じように考えていた。進化生物学者たちは、5万年前のホモ・サピエンスは今の私たちとほとんど変わらなかった、と言っている。だから私たちの反応もそれほど違わないはずだ。文化は違うがね。私は彼らが音楽をつくっていたときのことにインスパイアされる。彼らはどのようにして、何を考えながらそれをしていたのか? 彼らは現代のような理論を扱っていたわけではない。トニック・ソルファやメトロノームのことを考えていたわけではない。そんなものは持っていなかった。だから彼らは素材を探り、音を探求していた。そしてしばしば、私が『創造の洞窟』と呼ぶ場所──つまり壁画が残っている洞窟の中でそれを行っていたのだ。私はある程度の確信をもってそう言える。というのも、考古学者たちはそうした場所の発掘で骨笛を見つけているからだ。つまり絵が描かれた場所は、同時に音を生み出す場所でもあった可能性が高い。では彼らはどうやっていたのか? なぜそうしていたのか? それこそが私を魅了するところであり、私は自分をその洞窟の中に想像しようとするのだ。『ここが洞窟だ』と思い、音を探している。自分の持っている素材から、面白い音を引き出そうとしている。それは狂気じみているだろうか? 馬鹿げすぎているだろうか? とんでもなく突飛に聞こえるだろうか?——まあ、老人の戯言はこのくらいにしておこう」(エディ・プレヴォ)

* 細田成嗣「大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論」(ele-king ウェブ版、2018年8月22日公開)https://www.ele-king.net/columns/006473/

** エディ・プレヴォの発言は全て当日の取材で本人から聞いた内容を引用している。

*** 10月1日の神保町試聴室では佐藤允彦、八木美知依と共演。10月3日の両国門天ホールは池田謙との「間に在るもの」と題したコンサートで、ゲストで遠藤ふみが出演した。

**** なお、渋谷公園通りクラシックスでの3Days公演に関しては、ライヴ録音が行われていることもアナウンスされており、いずれ録音作品としてリリースされる予定があるようだ。さらに公演当日は撮影も行われていた。撮影を担当した映像作家でドキュメンタリー映画『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』の監督でもある青山真也によれば、映像もいずれなんらかの形で世に出すことを予定しているとのことである。

Sai Sei Sei 2025 - ele-king

 アンビエントないし環境音楽の波がつづいている。11月1日(土)から2日(日)にかけ、京王多摩センターにあるグリーン・ワイズにて、アンビエントや環境音楽にフォーカスしたフェスティヴァルが開催される。ふだんは緑化事業を手掛け、近年はサウンド分野にもとりくんでいる企業のGREEN WISEと、レコード店のKankyō Records、そしてスピーカー・ブランドのADAM Audioの3者による企画で、ヴィジブル・クロークスのスペンサー・ドーランによる新プロジェクト、コンポニウム・アンサンブルをはじめ、尾島由郎+柴野さつき、SUGAI KEN畠山地平伊達伯欣、カール・ストーン、INOYAMA LANDなど強力な面々が集合する。都市型環境音楽フェスということで、ほかにはないロケーションで音楽を体験できそうだ。詳細は下記より。

Sai Sei Sei 2025 – GREEN WISE × Kankyō Records × ADAM Audio。
都市と自然の関係を問い直し、未来へとつながる “リジェネラティブ=再生成” な環境と文化を考える都市型フェスティバル 〈Sai Sei Sei 2025〉 を開催します。

〈Sai Sei Sei 2025〉 は、会場となるGREEN WISEの植物温室を舞台に、音楽、アート、トーク、そして食を通じて、 “リジェネラティブ=再生成” な体験を楽しむ、総合的な都市型フェスティバルです。様々な環境共生事業を展開する〈GREEN WISE〉と、住環境での音楽体験を追求する〈Kankyō Records〉のコラボレーションによって誕生しました。

出演アーティストは、Visible CloaksのSpencer Doranが新たに始動したプロジェクト〈コンポニウム・アンサンブル〉や、Yoshio Ojima + Satsuki Shibano、Carl Stone、INOYAMA LAND、Sonic Mind(Yumiko Morioka & James Greer)、Sugai Ken、Chihei Hatakeyama、Tomoyoshi Dateなど、国内外のアンビエント・エクスペリメンタルミュージックの重要アーティストたちです。

そして、このフェスティバルを象徴するような新しい音楽体験の試みとして、人間と自然の環境共生をコンセプトに数人のアーティストたちが即興演奏で空間を作る、回遊型特別ライブセッション〈Sai Sei Sei Live Installation〉が両日行われます。会場全体の音響はベルリンのスピーカーブランド〈ADAM Audio〉によるサウンドシステムを導入し、超高解像度な音楽体験を提供。

そのほか、〈GREEN WISE〉によるアートインスタレーションや、自然、生きもの、地域がつながる循環型レストラン〈Maruta〉プロデュースによるフード&ドリンク、高品質な輸入カーペットを取り扱う〈Oshima Pros〉による手触りの良いカーペットなど、人間の様々な感覚が呼び起こされるような、まったく新しいタイプのフェスティバル体験をどうぞお楽しみください。

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Sai Sei Sei 2025

開催日時:
●2025年11月1日(土)
OPEN 15:00 / CLOSE 21:00
●2025年11月2日(日)
OPEN 15:00 / CLOSE 21:00

出演アーティスト:
●11/1
・Componium Ensemble(Spencer Doran)
・Yoshio Ojima + Satsuki Shibano
・Sugai Ken
・Chihei Hatakeyama
・Tomoyoshi Date
and more...
●11/2
・Carl Stone
・INOYAMA LAND
・Sonic Mind(Yumiko Morioka & James Greer)
・Jesus Weekend
・Tatsuro Murakami
・grrrden
and more...

Art Exhibition: GREEN WISE
Sound: ADAM Audio
PA: Nekomachi
Lighting: Yasushi Harada
Carpet: Oshima Pros
Food & Drink: Maruta
Graphic Design: Yudai Osawa

開催場所:
株式会社グリーン・ワイズ(〒206-0042 東京都多摩市山王下2-2-2)
※駐車場はご利用できません。ご了承ください。
Google Map: https://maps.app.goo.gl/QDLw6eSNL9oGQGyN8

チケット(完全予約制):
●通常チケット(各日90枚限定):¥9,000
●早割チケット(各日10枚限定):¥8,000
●2daysチケット:¥16,000
↓予約はKankyō RecordsのECサイトから
URL: https://kankyorecords.com/?pid=188559316
※未就学児無料
※実物チケットはありません。当日エントランスにて、予約時に記載のお名前をお伝えください。

企画・制作:
GREEN WISE
Kankyō Records
ADAM Audio

協賛:
Maruta
Oshima Pros

イベント公式INSTAGRAMアカウント:
https://www.instagram.com/saiseisei/

9月30日 レツゴー正司(レツゴー三匹) - ele-king

※安田謙一(略歴担当)による序文はこちらから

レツゴー正司(レツゴー三匹)

1940年8月10日生まれ。漫才師。兄はルーキー新一。キューピー人形のように愛くるしいボケのレツゴーじゅん、ソウル歌手の如き風貌を持ちとぼけた顔で美声をきかせるレツゴー長作とのトリオ、レツゴー三匹を結成。身体を張った舞台で人気を博す。じゅんでーす、長作でーす。三波春夫でございます。

1917.8.4-2006.9.30
●レツゴーじゅん1945.7.2―2014.5.8
●レツゴー長作1943.9.29―2018.2.1

佐藤忠志(予備校教師)

1951年5月4日生まれ。予備校講師。代々木ゼミナール講師として高級スーツに高級時計を身にまとい教壇にあがる。入試に特化した英語授業と派手なファッションとのギャップとともに、「金ピカ先生」の異名で人気者に。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などタレント活動、教育評論もこなす。

1951.5.4-2019.9.24

淡谷のり子(歌手)

1907年8月12日生まれ。歌手。東洋音楽学校の声楽科でクラシックを学び、ソプラノ歌手に。流行歌歌手に転向、シャンソン、タンゴなど洋楽の日本語カヴァーなどを歌う中で、服部良一作曲の「別れのブルース」が大ヒット。ブルースの女王と称される。晩年も「ものまね王座決定戦」の審査員で人気者に。

1907.8.12-1999.9.22

林家三平(落語家)

1925年11月30日生まれ。落語家。父は7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)。テレビ「新人落語会」の司会を機にお茶の間の人気者に。「よし子さん」、「どうもすいません」などのギャグを大流行させる。死の間際、医者からの「あなたは誰ですか」という問いに「加山雄三です」と答えた。

1925.11.30-1980.9.20

今東光(作家)

1898年3月26日生まれ。作家。「悪名」、「こつまなんきん」、「河内カルメン」など河内地方が舞台の小説(映画)で人気を博す。週刊プレイボーイ連載の人生相談「極道辻説法」では無頼漢の魅力を発揮。僧侶として谷崎潤一郎、川端康成に戒名を、瀬戸内「寂聴」に法名を与える。参議院議員も務めた。

1898.3.26-1977.9.19

2パック(ラッパー)

1971年6月16日生まれ。ラッパー。ブロンクス出身。ブラックパンサー党員の両親を持つ。元デジタル・アンダーグラウンド。ソロで「カリフォルニア・ラヴ」、アルバム『オール・アイズ・オン・ミー』などヒット作を放つ。ヒップホップ界の東海岸と西海岸の抗争に巻き込まれ、96年、凶弾に倒れる。

1971.6.16-1996.9.13

毛沢東(政治家)

1893年12月26日生まれ。政治家。中国共産党の指導者として、第二次大戦後、中国国民党との内戦に勝利、49年に中華人民共和国を成立、国家主席に。近代中国の英雄としての評価と共に、強制的な粛清や大量の犠牲者を出した大躍進政策など失策も多く、権力を行使した文化大革命も強い非難も受けた。

1893.12.26-1976.9.9

黒澤明(映画監督)

1910年3月23日生まれ。映画監督。「姿三四郎」でデビュー。「羅生門」でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。世界のクロサワに。「野良犬」、「生きる」、「七人の侍」、「用心棒」、「天国と地獄」など多くの名作を残す。見切れていた家を「あの家消して」と指示するなど、完璧主義者の伝説も数多い。

1910.3.23-1998.9.6

 今日、それがジャズであれブルースであれロックであれハウスであれラップであれ、「ポップ・ミュージック」と英語で括られてきた音楽とは、アメリカで生まれ(そしてイギリスとのキャッチボールのなかで)発展してきた音楽のことを指す。しかしながらアメリカとは、今日のトランプ政権を見れば一目瞭然だが、世界中に害悪をまき散らしてもいる。そう、そんなことはわかっている。ここで問題にしたいのは、そんな単純なことではない。

 単なる暴君に見えるトランプと彼のチームだが、じつのところ、かつて極右に抗したカウンター・カルチャーの論法を極右のなかに取り込んでいるのである。そう、かつて反抗のシンボルだったビートニク的なドレスダウン、ヒッピー的なオーガニック志向、ポップ・アート的なキャッチーなセンス、ファッション的なトレンドをテック産業の起業家たちが取り入れているように。
 悔しいけれどそうなのだ。で、彼らが解放した政治思想においては、もはや左派エリートの批判からもみずからを解放させている。彼らは民主主義を否定し、とにかく彼らの「自由」を手にしようとしている——これを専門用語で、「新反動(ネオ・リアクション)」と呼ぶ。カルトに思えるこんな考え方が、しかしホワイトハウスの頭脳を動かしている——事態は思っている以上にやっかいだ。なぜなら、自己批判能力を欠いた意識高い系が、ただただ彼らを批判し続けているあいだ、オルタ右翼は力をつけ、ヘタしたら私たちはガラス越しに彼らの革命を見ていただけだったのかもしれないのだから。

 いまアメリカで起きていることが何なんか、そもそもアメリカとはいったいどんな国なのか、なんでアメリカからかくも世界中を魅了するブラック・ミュージックが生まれたのか、そして日本人にとってそれはどんな意味があるのか、TVやネットからは見えないアメリカがここにある。
 これは文化戦争だ。「さよならアメリカ、さよならニッポン」……ではなく、これはあらためて「こんにちわアメリカ」なのだ。ふだんアメリカの音楽に親しんでいる読者のみなさん、より深く現在のアメリカを知っておこう、文化のなかの迷子にならないためにも。そんなわけで『アメリカ──すでに革命は起こっていたのか』、ためになるのでどうぞよろしくお願い申し上げます。

『別冊ele-king アメリカ──すでに革命は起こっていたのか 新反動主義の時代におけるカルチャーの可能性』

インタヴュー:
・基本をおさらい、アメリカのはじまりから現在トランプがしていることの意味まで ▶渡辺靖
・アメリカを知るために、まずは二つの大きな矛盾に気づこう ▶大澤真幸
・ブラック・カルチャーが超重要な理由 ▶酒井隆史
・直近、ここ半年ほどのアメリカの状況を押さえておこう ▶三牧聖子
・話題の「新反動主義」ってなに? ▶岡本裕一朗
・いま「カウンターエリート」と呼ばれる人たちが出てきている ▶石田健

コラム:
・試しにアメリカから生まれた音楽がいっさいなかった世界を想像してみると…… ▶イアン・F・マーティン
・歴代大統領が掲げたキャッチフレーズからヴォネガットを連想してみる ▶水越真紀
・ケンドリック・ラマーを単純に支持できない理由 ▶緊那羅:Desi La
・数々の映画からアメリカの深層心理を探ってみる ▶三田格
・アメリカでは自分たちが世界の中心だと教えられる ▶ジリアン・マーシャル
・ヒップホップとトランプの親和性はつねにあった、でもそれだけじゃなくて…… ▶二木信
・トランプ的なもののルーツは、じつはヨーロッパにあり? ▶土田修
・アメリカへの複雑な思い、ウィルコの音楽を聴きながら ▶木津毅

編者:ele-king編集部
菊判/192ページ
ISBN:978-4-910511-97-9
本体1,800円+税
2025年9月22日発売

https://www.ele-king.net/books/011912/

目次

序文──もしくは21世紀の文化戦争から(野田努)

■インタヴュー
渡辺靖 アメリカは再び求心力を取り戻すことができるのか──破壊者にして救世主、トランプがもたらした「分断」のゆくえ
石田健 リベラルを敵視する「カウンターエリート」たちが夢見る未来──トランプ政権に影響を与えたピーター・ティールとカーティス・ヤーヴィンの思想
大澤真幸 アメリカという国の特殊性──過剰な宗教性、根強い黒人差別、そして異様なまでの冷戦への情熱
三牧聖子 いまこそ本当のポピュリストが求められている──2025年、アメリカ合衆国の現在地
岡本裕一朗 新反動主義が共感を集めることができた理由──ピーター・ティールやカーティス・ヤーヴィンが登場してきた背景
酒井隆史 カウンター・カルチャーを再構築すること──ブラック・カルチャーからネオリベラリズムをとらえるとアメリカが見えてくる

■コラム
さよならアメリカ、さよなら日本(イアン・F・マーティン/江口理恵訳)
多様性の夢と包摂のパラドックス(水越真紀)
我が魂を引き裂くもの(緊那羅:デジ・ラ/野田努訳)
アメリカは「世界の終わり」を夢見ている(三田格)
国のない女──アメリカでアメリカ人として生まれ育つということは?(ジリアン・マーシャル/江口理恵訳)
ヒップホップの「抵抗」について考える──彼らはただ韻を踏んでいるだけではないのだ(二木信)
「米国第一主義」の源流はヨーロッパにあった?──欧州「極右」勢力の台頭とトランピズム(土田修)
アメリカを巡る曖昧な愛情(木津毅)

アメリカを知るためのブック・ガイド
(野田努、水越真紀、三田格、土田修、木津毅、二木信、小林拓音)

interview with Lucrecia Dalt - ele-king

 このインタヴューは、いまから10年ちょい前の話からはじまる。エレクトロニック・ミュージックのシーンでは明らかに異変がおきていて、それはざっくり大別すると、ニューエイジ的なるものとそうではないものだった。そして後者においては、ダンス・カルチャーの周縁部かその外側で、特筆すべき混淆が起きていたことが、時間が経ったいまではよりクリアに見える。それは、クラシックの分野で前衛音楽と括られるものとさまざまな大衆音楽(ないしはモダン・クラシカル、ノイズ、アンビエントやなんか)との雑交で、あたかもニューエイジ的な居心地の良さに反するかのような、サウンドの考究者たちの、遊び心のこもった冒険だった。
 このマージナルなシーンでは、多くの女性たちが目立っていたことも特筆すべきだろう。ローレル・ヘイロー、フェリシア・アトキンスン、サラ・ダヴァチー、クライン、メデリン・マーキー、ケイトリン・オーレリア・スミス、ホーリー・ハーンドン、クララ・ルイス、コリーンetc——コロンビア出身で、当時はベルリンに住んでいたルクレシア・ダルトもそんなひとりだった。

 前作『¡Ay!』によっていっきにその名を広めたダルトだが、それに次ぐ新作『A Danger to Ourselves』は、さらに多くのファンの心を掴むアルバムとなっている。ラテン版スコット・ウォーカーというか、南半球のポーティスヘッドというか、この暗闇のなかの光沢は、彼女の味のある「歌」、そして凝ったサウンド工作によって構成されている。ネジが狂ったクンビアのリズムからはじまるアルバムの冒頭“cosa rara”は、マッシヴ・アタックをコロンビアの地下室にテレポートしたかのようだ。この喩えに沿えば、デイヴィッド・シルヴィアンはトリッキーで、つまり幽霊のようにこの曲に参入する。しかし、それに続く曲“Amorcito Caradura”ではジュリー・クルーズめいたドリーミーな舞台をみせ、広大な視界へとリスナーを連れ出すのだ。そして、ラテン・ジャズ・エレクトロニカ(などと呼んでみたくなる)“stelliformia”やレトロ・ポップとグリッチとの美しい協奏“divina”等々——妖光を放つ曲がいくつも収録されたこのアルバムは、間違いなく今年のベストの1枚に入るだろう。

 ダルトは、現在アメリカに住んでいる。ロンドン在住の坂本麻里子氏に質問表を渡し、取材は日本時間の深夜に決行された。彼女の人となりもわかるインタヴューになったと思う。


Photo : Sammy Oortman Gerlings @sammyoortmangerlings

私の家は女性仕立屋の家柄で、ドレスや洋服を作っていて。それで個人相手の洋裁レッスンをおこない、そのかたわらで音楽を作っていった。そうしながらデモ・テープをMySpaceにアップしたところ、グートルン・グートが「コンピレーションに参加しないか」とコンタクトを取ってくれて。あれがもう、自分にとっては非常に強力なシグナルだったというか……

あなたの新作を聴いているとき、たまたまコーヘイ・マツナガと話す機会がありました。

ルクレシア・ダルト(LD):そうなんですか! ワーオ……!(嬉しそうに笑いながら)コーヘイとはもうずいぶん長いこと音信不通になっているけれども……。

「今度、ルクレシア・ダルトにインタヴューするんだよ」と彼に言ったら、喜んでくれて。10年前、コーヘイがベルリンに住んでいた頃、彼はあなたやローレル・ヘイローらと交流があったそうですね。とくにあなたには良くしてもらった思い出ばかりのようでした。

LD:わぁ、嬉しいな。

いっしょに公園に行ったり、自転車をプレゼントされたり——

LD:アハハッ! いや、あれは私のルームメイト。彼女がバースデー・プレゼントとして、彼に自転車をあげたんです。それに誕生パーティも開いて。

はい、お誕生会をしてもらったと言っていました。

LD:あのときはゼリーをたくさんこしらえました(笑)。

(笑)ゼリーを??

LD:(笑)ええ、彼が誕生日にゼリーのなかに浮かびたいと言っていたので、私たちはゼリーでいっぱいのケーキを作ったり、とにかくゼリーまみれになって。アハハハハッ! ゼリー中心のパーティで、あれはとても楽しかった……。

なるほど。それにジュリア・ホルターを紹介してもらったりした、と教えてくれました。こういう楽しそうな話を聞くと、まだベルリンの家賃も安かった時代、そにには、ボヘミアン気質のアーティストたちのコミュニティ的なところがあったのかなと想像します。

LD:はい。

ちょうどその当時は、〈PAN〉みたいなレーベルの周辺には、ダンスフロアとアカデミアとポストパンクの溝を埋めるようなエレクトロニック・ミュージックのシーンが発展途上でしたよね。あの頃は、みなさんどんな感じで活動されていたのでしょうか?

LD:記憶を呼び起こしてもらえて、とても嬉しいです。あの頃自分がいた時/場所を思い出しますね……あの時代のことはちょっと忘れ気味になっていました。というのも、あれは私が自作レコードの大半を作曲したアパートメント、あそこに移る以前の話なので。当時私はまだ友人と同居していましたし、暮らしていたのはとても妙なアパートメントで、バスルームは共同で屋外にありました(笑)。
 だからおっしゃる通り、何もかも、とてもボヘミアンな雰囲気でした。けれども私たちはあの頃に、コーヘイ、ラシャド・ベッカー、ローレル・へイローといった面々と過ごすチャンスを得たわけで……思うに異なる文脈を通じて、だったんでしょうね。非常にまとまりのあるコミュニティがあったとは思いませんし、むしろ個別のグループがポケット的に存在していて、とあるスペースに行くと出くわす面々がいて、また他の場所に行くと別の人びとと出会う、という具合で。私はずっととても多くの領域で実験してきたので、そういった可能性の数々を、音楽/ミュージシャン小集団のすべてを通り抜けて行くことができました。

坂本:なるほど。ゆるやかに連携した、異なる細胞群のようなものですね。

LD:ええ、そういうことです。少なくとも私自身はそう捉えていた。さまざまなグループに参加していましたし、そうするうちに私のいた集団の人びとはもっと「アーティストたち」になっていったというか……まあ、もっと折衷的でいろいろな人々の集まりだったんですけどね。それにあの頃のベルリンには、エレクトロニック・ミュージックのプロダクションの本当に多彩なレヴェルに触れられる、という側面がありました。おっしゃっていた通り、知的/アカデミックなものからより身体/感情に訴えるパンク的なもの、そしてもっと純粋にエレクトロニックなものまで。ですからベルリン時代は素晴らしかったなと感じます。


Photo : Louie Perea @perea.photo

つまりボレロの歌もロバート・アシュリーも、私にとっては同レヴェルに存在し得るし、かつそのどちらもリズム、質感、テクスト等について考える際のアーティストとしての私の組成にとって同等に重要。

あの時代、かつて前衛と括られていた音楽、リュック・フェラーリ、ロバート・アシュリー、アルヴィン・ルシエ等々を、アカデミアの文脈から切り離して現代のエレクトロニック・ミュージックのなかで再文脈化するみたいなことがあったと思います。かつてアカデミアのなかで聴かれていたような音楽が、いきなDJミュージックのひとつとして面白がられるみたいな。またその一方、あなたは〈Other People〉から発表したミックス作品では、さらに前衛ジャズを中心に選曲し、ドゥルッティ・コラムやコイルなどと交えていました。こうした、世界の非商業的な実験音楽を横断的に探索するみたいな動きが、なぜあの頃に起きたんだと思いますか?

LD:うーん、どうしてだったんでしょうね(笑)? とにかく……それが私のアートに対する考え方の一部だ、としか。本当に多くのさまざまなソース/諸グループから影響を受けるということですし、いまの例で言えばドゥルッティ・コラム、そしてロバート・アシュリーなんて、いっしょにするのはほとんど不可能に思えますけど(苦笑)、どういうわけか私からすれば理にかなっている。
 口で説明するのはむずかしいんですが、思うに——あの頃、私は友人で素晴らしいアーティストであるラヒーナ・デ・ミゲル(Regina de Miguel)とコラボレートしていて、そのときとても自由を感じました。彼女はヴィジュアル・アート畑出身の人なので、実に多彩なソースから影響を引いてそれらをミックスしていた。あれがとにかく、自由奔放に物事を混ぜ合わせることを恐れるな、というインスピレーションを自分にもたらしてくれたんじゃないかと思います。それに、感じるんです……だから、アーティストは脳の持つ折衷性を享受すべきだし、そのあるがままを許し、存在させてあげよう、と。
 というのも、そういう状態が起こるのは素晴らしいことだと思うんです! 私はコロンビア出身なので、そうしたさまざまなものはすべて同じレヴェルにある、というか。つまりボレロの歌もロバート・アシュリーも、私にとっては同レヴェルに存在し得るし、かつそのどちらもリズム、質感、テクスト等について考える際のアーティストとしての私の組成にとって同等に重要。ロバート・アシュリーは言うまでもなく、スポークン・ワーズ部がとても複雑ですよね。もちろんローリー・アンダースンにも同じことが言えますし、他にも数多くいますが。だからミュージシャンであれば、そうやって数限りない可能性に触れることになる、というのに近い。音楽のおかげでそうした小領域の数々に参加できるのは最高だと思います。あるときはジュリアン・ラーバー(Julian Rohrhuber)のような人と同じステージに立ち、今度はフェリックス・クビーン(Felix Kubin)と一緒にプレイし、その次にはもっと伝統的な意味でのバンドとも共演できる。そうした様々な飛び地のなかで居心地良く、自分をエイリアンのように感じるのが本当に好きなんです(笑)。

坂本:外世界からの訪問者、と。

LD:(笑)その通り。それは好きですね。

なんでこんなことを訊いたのかというと、あの時代、エレクトロニック・ミュージックのシーンは、癒し的なニューエイジに向かった人たちと、あなたやローレルやコーヘイのように過去の前衛を探索した人たちとに大別されると思うからです。

LD:はい。

リーマンショックから数年後の(暗いご時世のはじまりの)ことなので、ニューエイジに向かいたくなる気持ちもわからなくないのですが、その一方で、敢えて難解な音楽のほうに向かうってどういうことだったんだろうかと興味深く思っているからです。

LD:(笑)なるほど。私の場合——そこに関しては、バルセロナ現代美術館(MACBA)の功績も認めなくちゃいけません。というのも、同館のウェブラジオ主任のアナ・ラモス、彼女は本当に素晴らしい人で、サウンドの収集はもちろん、極めて複雑な音楽を制作したアーティストの作品を紹介することも考えた。彼女がウェブラジオ向けのポッドキャストを編集するのを当時手伝っていたおかげで、自分がそれまでまったく知らなかった驚異的なマテリアルの数々に触れることになった。それに彼女は、フランスのGRM(Groupe de Recherches Musicales/音楽研究グループ)でのレジデンシーにも招待してくれました。で、あの頃私はアーロン・ディロウェイ、これまたテープ・ループ等々に非常に入れ込んでいる人とのコラボレーションもはじめていて……
 というわけで、そうですね、「どうしてか」を説明するのはむずかしいんですが、思うにたぶん——ああ、ベルリンではCTMというフェスティヴァルも開催されていますね。CTMも、私たちにああした音楽を表現するためのスペースを提供してくれた重要なプラットフォームだと感じます。ですから私たちは現代美術館でああした、あらゆる類いの物事をミックスすることをやっていましたし、それは音楽的な領域はもちろん、それとは別の文脈においてもつじつまが合っていた。CTMフェスティヴァルは、異なるさまざまな主題にのめり込んでいたああした多彩な人びとを探し出し、出演させるという意味でとても賢明だったなと。ですから、ローレル・へイローの音楽と私の音楽には大きな隔たりがあると思う人もいるでしょうが、もしかしたら私たちは、知的な参照点の多くは共有しているかもしれない。で、それはほぼ同時期に起こっていたわけで、私たちはたとえば『The Wire』誌だったり——

坂本:(笑)なるほど。

LD:——(笑)たまたま同じ書籍を読んでいたからかもしれません。そんなわけでどういうわけか、私からすれば何もかもが均等化しましたし、音楽についての異なる考え方を抱くチャンスがもたらされた。それがアーティストとしての自分の成り立ちの一部になってくれて、本当に良かったと思います。

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ですから私たちは現代美術館でああした、あらゆる類いの物事をミックスすることをやっていましたし、それは音楽的な領域はもちろん、それとは別の文脈においてもつじつまが合っていた。

質問は、コロンビア時代の話になります。あなたがコロンビアのメデジン大学で土木工学を専攻した理由はなんでしょうか? ちょっと珍しい選択に思えますが……。

LD:(苦笑)たしかに。まあ、子供の頃はあれと同じくらいアートにも興味があったと思います。歌も好きで、絵も描いたし、バレエ教室に通ってダンスを学んだ。ただ、私にはとても理路整然と組織的な、すごく頭脳派とでもいうのか(笑)、数学・物理学等々が大好きな面もあるんです。80年代にコロンビアで育ったわけですが、あの頃「音楽で食べていく」という発想は、実際的・実利的に言っても当然のごとく筋が通らなかった。ですからとにかく、音楽は趣味になっていくんだろうな……と思いましたし、あくまで本業はエンジニアであって、アーティスティックな面は片手間に、自分の心を満足させるために(笑)音楽を作ろう、と。
 ところが工学の勉強を修了し、とある会社で働きはじめたところ、たちまち——あれは25歳のときでしたが、「自分が生きたい人生はこれじゃない」と悟りました。で、「いまこそ、そのタイミングだ」と思いましたし——と言っても、会社や仕事に対してまったく不平はありません。本当に素晴らしい職業だったと思います。ただとにかく、自分の直観とのコネクション、そしてアーティストになりたいという思いがとても恋しく思えて。で、私の父、そして友人のリカルドも「だったら少しの間やってみたら? 試しに2年くらいやってみて様子を見ればいい」と言ってくれた。それで「オーケイ、縫製業でお金はなんとか作れそうだ」と判断しました。
 私の家は女性仕立屋の家柄で、ドレスや洋服を作っていて。それで個人相手の洋裁レッスンをおこない、そのかたわらで音楽を作っていった。そうしながらデモ・テープをMySpaceにアップしたところ、グートルン・グート[※初期ノイバウテン、マラリア!等]が「コンピレーションに参加しないか」とコンタクトを取ってくれて。あれがもう、自分にとっては非常に強力なシグナルだったというか……グートルン・グートみたいにとても、とても重要な、シーンを、とくに女性アーティストのシーンを支援し続けてきた人が、自分のやっていることに何かを聴き取ってくれたんだ! と思いましたから。当時は自宅のベッドルームで、ごく安物のマイクロフォンに、MIDIキーボードひとつを相手に音楽を作っていました。それっきり。他には何も無し。でも、彼女は私のやっていたプロセスを信じてくれたし、私も「やっているこれらのことについて、ひたすら自分の直観を信じてそこに賭けよう」と感じはじめた。
 以後、土木系エンジニア業は振り返らずにやって来ました。そんなわけで、音楽の道を選んでからすいぶん経ったいまとなっては、自分が土木工学を学んだのは奇妙に思えますね、エンジニア職を辞めてもう20年にもなりますから(笑)。

その、音楽の道を選んだ決心について、あなたは『The Wire』とのインタヴューで「バルセロナのMACBAで開催された哲学者ジル・ドゥルーズに関する会議に参加することになって。彼の時間観について語り合ううちに、遂にすべてに納得がいくようになっていきました」と答えています。ドゥルーズの時間観(idea of time)について話したことがどうしてあなたに音楽の道へと進ませたのか、もうちょい説明を加えてもらってもいいでしょうか?

LD:私は哲学者ではないので、彼の大きな作業を完全に理解し、説明するのはもちろん無理です。でも思うに、視覚的な面で——なんというか、あの会議の講演者が時間について、「時間の折り重なり」というドゥルーズの時間観を話しはじめたんですね、著書『襞:ライプニッツとバロック』でも彼が模索したところですが。そこで自分にとってすべてつじつまが合いはじめたのは、私自身も、自分のやっていることは決して直線的ではないと思うからです。つまり、私のやっていることはもつれ合いのようなもので、そのなかから徐々に何かが意味を成していく、という。こんな風に(と、両手を重ね合わせ層を描くジェスチャー)。そこから、地質学を考えはじめました。たとえば深いところにある地層が突如隆起して、土地景観を変化させてしまうことがありますよね。
 というわけで、時間の非直線性に関するあのちょっとしたコメントを聞いて、その後も長いあいだ、大いに考えさせられることになって(笑)。それに、自分が土木系エンジニアとして働いていた事実を正当化する方法を見つけようとしてもいた、というか。エンジニアとしてさまざまな研究をおこなっていたとき、土壌分析他のために地質学由来のインフォメーションを常に考慮に入れていました。で、そのパートはいつも私には詩のように思えたんです、というのもそうした情報を通じて、その文脈において何が起こっていたのか、突如として自分は何千年も昔に引き戻されるので。そうやって「ここのこの土壌は、こんな風に探査できる」「ここはこういう風に切り出せる」と言えるだけでも、さまざまな形状やフォルムの基盤となるものを作り上げられますが、それでも私たちははるか昔の地層の情報すべてに責任を負っている、という。
 ですからある意味あのおかげで、エンジニアとしての自分の記憶群をよみがえらせるひとつの方法がもたらされました。そして、詩とそれが私自身の文脈に持ち込んでくれるさまざまなイメージに沿って活動していくやり方も。それでなんというか、(苦笑)かつて自分が長いあいだエンジニアとして働いた事実との一貫性、なぜそうだったかの根拠がもたらされたというか。

音楽をやるうえで、まずはバルセロナに移住したのはなぜでしょうか? スペイン語圏であることが大きかったのでしょうか? また、そこからベルリンに移住した理由は?

LD:バルセロナに移ったのは、私の当時のパートナー、彼があそこで暮らしていたからです。一緒に暮らしたくて移住することにしました。そのおかげで、彼の視点・考え方等々を通じて、それまでとはまったく違う人生が自分の前に開けましたね。
 続いてベルリンに移ったのは……あの頃にもう、「自分には変化が必要だ」と感じていました。ベルリンは良さそうに思えましたし、先ほどあなたがおっしゃったように、当時のベルリンはまだ物価・家賃も安く、とてもクリエイティヴな街で。それに、もっと刺激に富んだ環境に身を置く機会を自分に与えたいと思ったんです。30代前半でしたし、「よし!」と——だから、自分にはまだとても急な思いつきを実践できそうに思えましたし、そこで荷物は段ボール箱4つだけでベルリンに移った。最初に暮らした部屋は家賃が90ユーロだったんです!

坂本:(笑)嘘のような話ですね……。

LD:(笑)ええ。だから生活もちゃんと成り立つ、みたいな。と言ってもごく狭い小部屋で、ベッドの脇に「スタジオ」を組んで……というものでしたが、そんな風にはじまりました。そして、たしか音楽委員会(Berlin Music Board)という名称の機関に助成金を申請し、それでドイツ映画研究をスタートするきっかけが生まれた。そこから、ドイツで私が初めて作ったアルバム『Ou』(2015)に繫がりました。というわけで、実に多くの人びとと出会い様々な形でインスパイアされることになった、とても大事な場所になりましたね。

いえ、『¡Ay!』はブレイクスルー作品ですが、その前の作品、『No Era Sólida』が生まれた背景/経緯をお話いただけますでしょうか?

LD:『No Era Sólida』はとても……自然に無理なく出来ていった、声を用いてどんなことができるかを探った作品ですね。とても多くの事柄が元になった作品ですが、とにかくアイディアとしては、どうやったら自分自身を、自分の声を解放し、そうすることでそれをほぼ自律した存在にできるだろうか、ということでした。アフリカのルンバ音楽等を聴いて頭をそれに馴らし、そのフィーリングを念頭に置きながら、言葉や、ヴォイスのフローの邪魔になるものをすべて排するようにしました。
 あの頃ラシャド・ベッカーと親しくて、実際、ノード・モジュラーとヴォコーダーの可能性を探るように励ましてくれたのは彼でした。それで私は、一般的ないわゆる「ヴォコーダーのサウンド」とは違うものを出すにはどうすればいいか、かなりリサーチしはじめたんです。「どうやったらやれるだろう?」とものすごくオタクっぽくハマりましたし(笑)、『No Era Sólida』はだいたい、そういう風にできた作品です。とてものびのび自然にやったアルバムですし、そのほとんどはファースト・テイクというか。もちろんその後でいくつかの要素にプロダクション面で手も加えましたが、主要なアイディアは「とても即興性の高いジェスチャーからどうやってアルバムを1枚作るか?」にあった、そういう作品です。

アーロン・ディロウェイとの共作『Lucy & Aaron』はたいへんユニークなものでしたが——

LD:フフフッ!

あなたにとって彼との共同作業はどんな意味がありましたか?

LD:とても意義がありました。というのも、私は彼の作品/活動が本当に好きで――彼のライヴ・ショウが大好きなんです。彼とはMADEIRADiGというフェスティヴァルでいっしょになったことがあって。ポルトガル領の、アフリカ大陸に近いマデイラ島で開催されるフェスなんですが、彼がそこで演奏しているのを観て、テープ・ループくらいとても単純なものを使ってリズムを生む、という彼の考え方に強い感銘を受けた。彼のリズムは、テープ・ループの反復から生じるという類いのものです。
 そんなわけで私たちがコラボでとったプロセスはとても素敵でした。私から彼にシグナルを送り、彼がそれをキャッチしてループをこしらえ、ふたりでとても奇妙な素材を作り出し、それに載せて私が歌う。そしてそれを軸に更にオーディオ部も録音し……という感じで、お互いの発するシグナルと、それぞれに異なる作業のやり方とに作用し合った。アーロン・ディロウェイ、そして新作でのアレックス・ラザロもそうですが、私自身のヴォキャブラリーの、自分の歌の感覚の上に積み重ねていく可能性をもたらしてくれる、ああいうコラボレーションは私にはレアなんです。
 ですからアーロン・ディロウェイとの共作レコードで、私たちは「歌のフォルム」を少し探っていたなと感じます。たとえば〝Ojazo〟、あの曲を私はほとんどもうフラメンコの歌、フラメンコのラメント[※節の一種]に近いものにしたいと思いましたが、でも実際はそれとは無関係なテープ・ループの上に載っている、という。あのレコードは本当に気に入っています。あの作品にふたりで取り組めて本当に良かった。


Photo : Louie Perea @perea.photo

デイヴィッド・シルヴィアンはまず何よりも、指導者ですね。そして言うまでもなく、その指導の過程を通じていろいろなことが起こった。たとえば何曲かでギターを弾いていますし、ドラムスの録音場面にも立ち会い、コメントをいろいろと出してくれた。彼との仕事で本当にたくさん学んでいます。

デイヴィッド・シルヴィアンとはどのように知り合ったのでしょうか? 

LD:2、3年前にツィッター(現X)経由で彼にメッセージを送ったんです。私は『¡Ay!』を作っていて——というかリリースしようとしていたところで、あのアルバムの制作において彼の作品の影響が非常に大きかったと本人に伝えたかったので。とくにシンセサイザーのサウンド、そして歌としてのフォルムを維持しようとしつつもサウンド面に関しては自由奔放にやろう、という彼の独特な考え方ですね。それをきっかけにふたりの間で対話が始まり、仲良しになり、そしてその対話はいまも続いている……という(笑)

そうした流れで恊働することになった、と。彼の耽美的なアプローチは、あなたの世界と親和性があると思います。『A Danger to Ourselves』というアルバムにとって、彼の果たした役割はどのようなものだったとお考えでしょうか? 指導者/良き相談役?

LD:はい。彼はまず何よりも、指導者ですね。そして言うまでもなく、その指導の過程を通じていろいろなことが起こった。たとえば何曲かでギターを弾いていますし、ドラムスの録音場面にも立ち会い、コメントをいろいろと出してくれた。で、私はアルバムのプリ・ミックスを自分でやり、その上で彼が最終的なミキシングをまとめた。ですから実に多くのレヴェルで関わり、貢献してくれている。自分にはツールが不足していると感じたというか……だから、彼との仕事で本当にたくさん学んでいます。ヴォイスのレコーディングひとつとっても——あれは私にはまったく謎の領域で、これ以前はとても苦戦してきました。ところが彼と一緒に作業することで、私はとても特別なマイクロフォンを購入することになり、非常に多くの物事について、これまでとはかなり違う考え方をするようになっていった。彼は……自分が「ここにあるべきだ」と思った通りの場所にヴォイスを据える、その助けをしてくれました。彼みたいな人にしか、その助言はできなかっただろう、そう思います。というのも彼は——だから、彼自身の音楽にしても、たとえば『Blemish』(2003)でヴォイスはほとんどもう、聴き手の心にまっすぐ届く、そんな感じ。で、私は本当に、ヴォイスに込めた情動性を超えたかったし、ミキシングの技術を通じてそれを達成したかった。彼はそれを可能にしてくれたと思います。

新作がどのように生まれたのかを知りたく思います。前作『¡Ay!』のようなひとつのテーマに沿ったコンセプチュアルな作品ではない、『A Danger to Ourselves』はあなたの生活/人生経験から生まれた音楽という理解でいいのでしょうか?

LD:間違いなくそうですね、今回はもっと私自身が出ています。ただ、自分の生きてきた経験を通じ、そこにどうフィクションを交えるか、という面もあります——私の歌はときに、核となるアイディアはとてもシンプルな事柄、ロマンティシズムや官能性、人生をパートナーと共にする、といったことだったりします。そして、その上にシュルレアリズムといったフィクションの層を重ねていく。たとえば〝mala sangre〟では、私が何を描写しようとしているかはっきり目に浮かぶと思います。ほとんどネオ・ノワール映画の一場面に近いというか、何か奇妙なことが起こっているように思える。けれども奇妙だなんてことはなくて、とてつもなく大きな情熱を抱くとああしたことを実際に感じるんです。だから私はある意味作為的なトリックを使って、とてもストレンジな、この「愛」なる現象を説明しようとしている、という。

新作は、いままで以上に「歌」が際立ったアルバムだと思いました。もちろんすべての曲にはあなた独自のテクスチャーがあるのですが、誤解を恐れずに言えば、これはルクレシア・ダルト流のポップ・ミュージックではないのかと。

LD:ええ、そうだと思います。同感。

ほとんどパーカッションで構成される〝cosa rara〟でも歌が耳に入ってきます。2曲目の〝amorcito caradura〟などは、ジュリー・クルーズ風のドリーム・ポップに近いものを感じました。アルバム中もっともポップな〝divina〟も魅力的な曲です。

LD:ありがとう。

作者の狙いとしては「歌」であること、「ポップ・ミュージック」の領域に接近することは意識されたのでしょうか?

LD:ポップなアルバムを作るのが重要、というわけではありません。ただ、いつもそう思うのですが、私はバラッド、シンプルなバラッドが本当に好きで。たとえばザ・フリートウッズのようなグループの歌ですね。それで、シンプルなバラッドくらい効き目のあるものを作り出す方法は何かないだろうかとずっと考えてきました——ただし、自分のヴォキャブラリーと作業の仕方を用いて。というわけで、あれは自分への問いかけに過ぎませんし、〝divina〟のように歌になったと感じる例もありますし、〝covenstead blues〟のような凍り付いたバラッドというか、ぞっとするような、ダークなトラックもある。それでもシンプルなコード群にまで絞り込めば、ああした曲だってジャズ・ミュージシャンが演奏するとシンプルなスタンダード曲的なものになるだろう、と(笑)。
 だから、さまざまなレイヤーすべてをひとつにまとめる、というアイディアが好きなんだと思います。なぜなら私にはまだ、ああした多彩なインフォメーションのすべて、それらも「私」なわけですが、それらが必要なので。それはつまりサウンド・デザイン、音でデザインされた世界ということですし、サウンドと空間を特殊なやり方で考えてみるわけです。たとえば、遠くにあったように思えた要素が急に目の前に迫って来る、とか。ああいうやり方で曲を作ると、本当に楽しいなと感じます。コンポーザーとして、私はひとつの環境を、それ自体のリアリティを内包している世界を作り出したい、というか。そして、そこに奇妙さと共に美も持ち込みたい。というのも、自分を満足させてくれるのがそういう音楽なので。で、このアルバムで私はそういうことをやらずにいられなかったし、しっくりきました。実際、このようなアルバムをもっと作り続けていけたら良いな、と思っているくらいです。

あなたの「歌」にはジャズからの影響も感じるのですが、実際のところ意識されているのでしょうか?

LD:はい。ジャズの数々の側面が大好きですし、たとえばジャズ・ソングが……そうですね、具体的な例を挙げたいんですが(とPCスクリーンをチェックしながらつぶやく)、最近聴いたもので、あのタイトルは……ちょっと待ってください……ああ! チャーリー・へイデンの、キース・ジャレットも参加したデュエット集アルバム『Closeness』(1976)。これはもう、本当に傑出した作品です。とくに〝Ellen David〟というピースや——あるいは私のファイヴァリットなジャズ・レコードの1枚であるギル・エヴァンスの『ギル・エヴァンスの個性と発展 (The Individualism of Gil Evans)』(1964)にしろ、マイルス・デイヴィスのサントラ『死刑台のエレベーター』(1958)にしろ、情動面で惜しみないジャズを聴きながらその中を旅していくのがとにかく好きで。
 それにジャズ界のミュージシャン相手の方が、自分は概して仕事しやすい気がします。というのも、彼らは演奏楽器に関してとても変化に対応しやすく、実験に対しても非常にオープンなので。クラシック音楽を学んだ人の場合、「思いつく限りヘンな音を出してもらえますか?」と頼むと、怪訝な顔で「どういう意味でしょう?」なんて答えが返ってくることもたまにある(苦笑)。対してジャズ・ミュージシャンにそう話すと、「ああ、良いね! 弦でこんな音を出せる。やってみよう!」と。今作でベースを担当してくれたサイラス・キャンベルの場合、最高でした。彼は狙いを見事に把握してくれましたし……すご過ぎでした(笑)。私もたまに、「1秒でいったいいくつの音を出せるの? こんなのあり得ない」と思ったくらいで。しかもコントロールはばっちり、という。でも、何かの一部になり、それに対してオープンになるのは、とてもシンプルなことだったりする。私もフリーにやっていたし、とある時点で彼もほぐれてくれて、〝hasta el final〟のエンディングのアップライト・ベース部は本当に見事だと思いますが、あれはすべて彼の即興のテイクなんです。このレコードに彼があれを持ち込んでくれたのは、とにかくアメイジングです。でも、それはドラマーのアレックス・ラザロも同じですね。彼はジャズ・パーカッション学を修了したので、その道のエキスパート。だから彼も、コンポーザー/混成者として自由になるためのインフォメーションをすべて備えている人だと思います。

アートワークの写真とヴィジュアルについてのあなたの狙いを教えてください。

LD:ああ、あれはある意味、議論の的になっていて——

坂本:(笑)そうなんですか?

LD:(苦笑)はい。あのジャケットが気に入らない、あるいは私の表情が好きじゃない、という人が多くて。ただ、自分としては——このアルバムは多くの部分で、「自己を省みる」という発想に触れていると感じます。たとえばジャン・コクトーは「鏡を見ると人は死に近づくことになる」[※映画『オルフェ』/1950に関する発言]と言いました。なぜなら鏡は、見る者に時の経過を思い出させてくれるとも言えるからです。で、私はたまに自分の見た目を確認できるこの道具がなかったら、世界はどんなに違っていただろう? という空想をもてあそぶことがあります。もしかしたらもう少し自由で、さまざまなことに対する心配もやや薄まるんじゃないでしょうか?
 というわけで、私は忘れないための方法として自己イメージを使っていますし、またある意味では闘ってもいる。私たちは自分たちをどんな風に提示するか、という点について。ですから私からすれば、ほとんど誰も予期しなかったような、そういう表現を今回やれてとても良かった。というのも、満足し切った喜びの表情等々はとてもよく目にしますが、自分は「いや違う、このレコードにはもっと迫力のある、攻撃的とすら言えるイメージが必要だ」と感じたので。アルバムのタイトルにも「a danger to ourselves(自分たち自身を傷つけかねない危険)」を選びましたし、だからある意味自分自身と闘っているとも言えます。愛を掘り下げているのと同じくらい、このアルバムはその点、自ら招く危険も探求していますね。つまり、何かを考え過ぎたり、あるいは自ら植え付けてしまった内なる狂った声に耳を傾け過ぎることを通じて、自らを危険にさらすこともある、という。

ところで、あなたは現在アメリカが拠点だそうですね?

LD:はい。南西部にいます。

いまなぜアメリカに移住したのでしょうか? 政治的には決して良い状況ではないと思われますが。

LD:(苦笑)ええ、その通りですよね……ただ、私はかなり奇妙なポケットめいた、砂漠地帯に暮らしていて、ここは本当に、とてもマジカルな生活環境だと思います。いまここで暮らせるのは、何もかもから隔絶したアウトサイダー的存在に近いというか。そうですね、日々私たちが目にしている現実の外側にいる気がします。自然にふっと思い立って、ここに来ることにしたんです(笑)。恋人との関係を続けていこうという思いもありましたし……。

坂本:すみません、何もあなたの私生活を詮索するつもりではないんですが――

LD:(笑)わかっています。構いませんよ!

ただ、アメリカに移るタイミングとしては、いまはかなりやばいのではないか? と。

LD:はい、そうですよね。その点はちゃんと自覚していますが、と同時に……このエリアで実に素晴らしいアーティストの数々に出会ってきましたし、自分は本当に恵まれていると思います。それにこの砂漠、景色の美しさも息を呑むほど素晴らしいですし、自分はそれらからインスピレーションを受け続け、かつ私たちがいま生きているクレイジーな現実の中で活動を続ける励みをもらっているんだ、そう思います。

(了)

9月のジャズ - ele-king

 英国はレゲエをはじめ、スカやダブ、ダンスホールなどの影響が強い国である。かつて統治下にあったジャマイカからの移民が多く住み、サウンドシステムなどの音楽文化やダブ・ミックスの手法が育まれていくなかで、レゲエやダブはほかの音楽と交配してきた歴史がある。それはジャズの世界においても言えるところであり、今月はそうしたレゲエ/ダブの要素が濃厚な作品が集まった。

Steam Down
I Realised It Was Me

Ganix Recordings

 スティーム・ダウンはマルチ・インスト奏者のアナンセことウェイン・フランシスによって2017年に結成されたグループで、音楽制作からイベント開催など複合的な活動をおこなう。ウェイン・フランシスはかつてユナイテッド・ヴァイブレーションズのメンバーで、テオン・クロスやイル・コンシダードなど南ロンドンのジャズ・シーンのアーティストらの作品にも加わると同時に、ディーゴ&カイディ、IGカルチャー、ポール・ホワイトなどクラブ・カルチャーにも関わってきた。
 ロンドン南東部のペッカムを拠点に活動するスティーム・ダウンは、ドミニック・キャニングなどのジャズ・ミュージシャンからラッパーやシンガーもいろいろと参加しており、ライヴやレコーディングごとにメンバーが入れ替わるコレクティブに近い形態である。2019年にデビュー・シングルの “Free My Skin” をリリースするが、アフロビートとダブステップ、グライムが結びついたエズラ・コレクティヴに近いようなナンバーで、自らをアフロ・パンク・バンドと形容する彼ららしい作品と言える。その後、2020年に〈ブルーノート〉のオムニバス企画『Blue Note Re:Imagined』への参加を経て、2021年にEPの「Five Fruit」を発表。ジャズ、アフロ、ヒップホップ、グライム、R&B、ドラムンベース、ダブステップなどが結びついたストリート・サウンドを展開している。ジャズとクラブ・サウンドの融合具合では、エズラ・コレクティヴ、ブルーラブビーツノイエ・グラフィック・アンサンブルなどに匹敵するか、それ以上とも言える。

 その『Five Fruit』から久々にリリースしたのがファースト・アルバムの『I Realized It Was Me』となる。今回もジャズとアフロやクラブ・サウンドの融合は見られるが、全体に感じられるのはレゲエやダブとの結びつきの深さである。“Sum Of Thing” はボブ・マーリー、ピーター・トッシュ、アスワド、サード・ワールドといったレゲエのレジェンドたちを彷彿とさせる作品で、ソウルやファンク、ジャズ・ファンクと結びついて独特のUKレゲエが生み出された英国の音楽文化ならではの果実と言える。シンガー/ラッパーのアフロノート・ズーをフィーチャーした “Tempest” は、ジャズとダブ、ダブステップを融合した作品でサンズ・オブ・ケメットに近い作品。アフロノート・ズーの歌も、例えばホレス・アンディやビム・シャーマンのような往年のレゲエ・シンガーのそれを彷彿とさせる。“Let It Go” は深みのあるダビーなソウル・ナンバーで、サックスやドラムの即興的な演奏は南ロンドンのジャズらしい。レゲエやダブ・カルチャーと密接に結びついていたマッシヴ・アタックやスミス&マイティーなど、ブリストル・サウンドやトリップ・ホップと近似する部分も見いだせる楽曲だ。


Joe Armon-Jones
All The Quiet (Part 1) / All The Quiet (Part 2)

Aquarii / ビート

 リリースとしては春から夏にかけてだが、ジョー・アーモン・ジョーンズが『All The Quiet』をパート1と2に分けてリリースした。ジョー・アーモン・ジョーンズは自身のレーベルの〈アクエリー〉を2021年にリリースしてから、ジャズよりもほかの音楽的要素の強い作品をリリースする傾向があり、2024年にリリースした「Wrong Side Of Town」「Ceasefire」「Sorrow」という一連の12インチEPは、完全なレゲエ/ダブ集というべきものだった。『All The Quiet』についてはジャズ・ファンク、アフロ、ソウル、ブロークンビーツ、ヒップホップなど雑多な要素が結びついたジョー・アーモン・ジョーンズらしいアルバムであるが、やはり彼の音楽的基盤のひとつであるレゲエやダブの要素も入っている。

 演奏メンバーは全てクレジットされていないが、ヌバイア・ガルシアオスカー・ジェロームといったいつも演奏を共にするメンバーが参加。そして、ウー・ルー、ヤスミン・レイシー、グリーンティー・ペン、ハク・ベイカー、アシェバー、ゴヤ・グンバニらがシンガーとして参加。このなかでハク・ベイカー、アシェバー、ゴヤ・グンバニはアフロ・レゲエやラガマフィン系の歌を持ち味とする人たちだ。ハク・ベイカーをフィーチャーしたパート2の “Acknowledgement Is Key” はディープなテイストのジャズ・ファンクで、ジョー・アーモン・ジョーンズの鍵盤演奏も往年のウェルドン・アーヴィンを彷彿とさせる。楽曲全体にダビーなミックスが施されており、後半のハク・ベイカーの歌はナイヤビンギのようにラスタファリの思想に満ちている。スピリチュアリズムという点ではルーツ・レゲエに通じる作品と言えよう。
 アシェバーをフィーチャーしたパート1の “Kingfisher” は、ブロークンビーツ調のリズムとアシェバーの開放感に満ちたヴォーカルが結びついて、ジャマイカン・ジャズというかカリビアン・ジャズとでも言うような作品となっている。パート1の “Lifetones” は1980年代初頭のポスト・パンク~ニューウェイヴの時代に活動した幻のエレクトロニック・ダブ・ユニットで、近年再評価が進むライフトーンズに捧げた楽曲だろうか。ほかの曲においても大々的にレゲエのモチーフはなくとも、メロディの断片にその片鱗が見られたり、ダブ・ミックスの手法を用いるなど、ジョー・アーモン・ジョーンズにとってのレゲエ/ダブの影響が随所に感じられるアルバムだ。


Ebi Soda
Frank Dean And Andrew

Tru Thoughts

 ブライトン出身のエビ・ソーダも、リーダーのウィル・イートンがトロンボーン奏者ということもあり、ジャズやジャズ・ファンクとレゲエ/ダブを折衷した音楽を一貫してやっているバンドだ。アルバムは2022年にセカンド・アルバムの『Honk If You’re Sad』をリリースしているが、ゲストにヤズ・アーメッドを迎え、重低音の効いたリズム・セクションとホーン群の情熱的な演奏にエレクトロニクスを交え、全体的にはダビーな空間構成がなされた作品だった。そうしたダブの影響下にあるサウンドと、サイケやクラウトロック、ニューウェイヴの要素も交えた混沌とした世界も楽しめるところもあったわけだが、それから3年ぶりの新作『Frank Dean And Andrew』が完成した。

 今回は今まで以上にダブの要素が強い作品集だ。“Bamboo” というタイトルや、中国とベトナムのハーフである英国人ラッパーのジアンボをフィーチャーした “Red In Tokyo” など、日本や東洋に馴染みのある曲が並んでいるが、その “Bamboo” はダビーなサウンド・エフェクトを交えたメロウなジャズ・ファンク。どっしりと低音を支えるリズム・セクション、メランコリックなメロディや空間構築、低音のトロンボーンやトランペットなどの管楽器のアンサンブルなど、全てにおいてダブからの影響が強い楽曲だ。“When Pluto Was A Planet And Everything Was Cool” はダブステップ調のビートを持つダークな楽曲で、リチャード・スペイヴンゴーゴー・ペンギンなどにも通じる。クラブ・サウンドも柔軟に取り入れるエビ・ソーダらしい楽曲だ。“Horticulturalists Nightmare” はサイケデリックで前衛的な側面も持つ楽曲だが、リズム構成やミックスなどにおいてやはりダブの影響が強い。“Grilly” や “Toucan” についても言えるのだが、今作は演奏はもちろんのこと、ことさらミックスにおいてダブの手法が大々的に用いられている点が特徴と言えるだろう。


Nat Birchall
Liberated Sounds

Na-Bi

 マンチェスター出身のナット・バーチャルはキャリア的にはベテランに属するサックス奏者で、ジョン・コルトレーンファラオ・サンダースの系譜に属するプレイヤーである。彼のずっと後輩にあたるマシュー・ハルソールがそのサックスに惚れ込み、自身のバンドで演奏してもらって数々のアルバムをレコーディングしたほか、ナット・バーチャルもマシューが主宰する〈ゴンドワナ〉からリーダー作品を数枚リリースしている。それらは基本的にシリアスなモード・ジャズ、スピリチュアル・ジャズと呼ぶべき作品集だが、一方でブレッドウィナーズというレゲエ/ダブ・バンドを組むプロデューサーのアル・ブレッドウィナーや、スカタライツのドン・ドラモンドの息子であるヴィン・ゴードンなどとコラボして、完全なレゲエ/ダブのアルバムもリリースしている。それもアルバム1枚というわけではなく、数枚のアルバムやダブ・ミックス・アルバム、7インチ、12インチに渡る数々のリリースがあるので、ナット・バーチャルは相当レゲエやダブに入れ込んでいるのだろう。

 新作の『Liberated Sounds』はアル・ブレッドウィナーやヴィン・ゴードンなどの力を借りることなく、すべての楽器演奏(サックス、フルート、ベース、ドラムス、ピアノ、キーボード、ギター、パーカッションなど)とプロデュース、ミックス、レコーディング、マスタリングなど全ての業務をナット・バーチャルただひとりでおこなっている。表題曲の “Liberated Sounds” を筆頭に、1960年代後半にジャマイカからイギリスに渡って広まったスカにインスパイアされたアルバムである。なかでもドン・ドラモンド、トミー・マコック、ローランド・アルフォンソ、レスター・スターリング、ババ・ブルックス、デイジー・ムーア、ロイド・ブレベット、アーネスト・ラングリン、ジャッキー・ミットゥー、ロイド・ニブ、ドラムバゴなどに対するオマージュとナット自身が述べているのだが、こうした面々の名前が上がるところから、彼がいかにジャマイカ音楽に対して知識や愛情を持っているかが伺い知れる。こうしたミュージシャンの多くはもともとジャズ・ミュージシャンで、プリンス・バスターズ・オールスターズ、スカタライツ、ババ・ブルクス・バンド、キング・エドワーズ・グループといったバンドで演奏してきた。そこにはジャマイカにおけるジャズとレゲエの関係性があり、ナット・バーチャルもそこを理解した上で、ジャズなりレゲエやスカなりを演奏していることがわかる。

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