「MARK」と一致するもの

Coppé - ele-king

 エレクトロニカからジャズまで横断し、精力的に活動を続ける音楽家、みずからを「火星人」と名乗るCoppé。彼女がアリゾナ州で自身のレーベル〈Mango + Sweetrice〉を立ち上げ、「Coppé」名義で活動を開始してから今年でちょうど30周年を迎える。それを記念し、最新作『30rpm - i wish i had a brain -』の発売が決定、同日リリース・パーティの開催もアナウンスされた。
 会場は青山BAROOM。共演にモジュラーシンセ界の重鎮HATAKENらを招き、ゲストDJとしてミックスマスター・モリスや徳井直生らが顔をそろえる。特別な一夜をぜひ。

『Coppé 30rpm. Release Party at BAROOM』
日時:2025年11月28日(金)
OPEN 19:00 CLOSE 23:30
LIVE 20:00-21:00 ※自由席
ENTRANCE:¥5,000(1ドリンク別)
会場:BAROOM|バルーム
https://baroom.tokyo/
東京都港区南青山6-10-12 1F

Live:
Coppé (voice + OP-1)
HATAKEN( modular synthesizer )
STEEEZO (OP-1 + TP-7 / Manipulator)
Kevin M ( piano + accordion)
Mark Tourian (double bass)
Hiro (guitar)

Fabulous Dancing Lights
Brightone by Quasar

DJ:
Mixmaster Morris
Nao Tokui (Neutone)
Nick Luscombe (Mscty)
KNS (Phaseworks)

【LIVE情報】
<Mango + Sweetrice>設立30周年記念
Coppé 最新作『30rpm - i wish i had a brain -』
リリース・パーティー開催決定!
青山 BAROOM の円形ホールにて、Coppé スペシャル・ライブセット!
ゲストDJとして、Mixmaster Morris の出演も決定!
1995年、米アリゾナにて自身のレーベル〈Mango + Sweetrice〉を立ち上げ、Coppé として音楽活動をスタートしてから今年で30周年を迎える。
それを記念してリリースされる最新作『30rpm - i wish i had a brain -』の発売に合わせ、スペシャル・リリースパーティーの開催が決定した。
これまでに Orbital、Luke Vibert、Nikakoi、Plaid、Kettel、Atom™、DJ Q-bert など、世界各地のさまざまなジャンルのアーティストとコラボレーションを重ね、独自の宇宙的ヴィジョンで活動を続けてきた Coppé。
30周年を記念し、豪華バンド編成によるスペシャルライブが青山 BAROOM の円形ホールで披露される。
今年のフジロックのステージでも Coppé とデュオで共演したモジュラーシンセ界の重鎮 HATAKEN をはじめ、無数の OP-1 を自在に操る Steeezo、ピアニストの Kevin、ダブルベースの Mark、ギターの Hiro といった豪華メンバーが集結。
さらに、光を操る集団 Brightone by Quasar によるライティングも加わり、視覚と音響が融合した唯一無二のライブ体験を創出する。
またライブ前後のバーエリアでは、豪華DJ陣がアニバーサリーを彩る。
アンビエントとチルアウトの伝道師 Mixmaster Morris、AI × 音楽のフロントランナー Nao Tokui(Qosmo / Neutone)、英国 BBC でも活動した選曲家 Nick Luscombe、偏愛ディガー KNS(Phaseworks)といった Coppé の盟友たちが、ヴァイナル・オンリーの DJ セットで30 周年を祝う!

『30rpm - i wish i had a brain -』
祝!レーベル〈Mango + Sweetrice〉設立30周年
ジャパニーズ・エレクトロニカ・ゴッドマザー、Coppé 最新作!
Orbital のアルバム参加でも注目を集めた “ジャパニーズ・エレクトロニカ・ゴッドマザー” こと Coppé。主宰レーベル〈Mango + Sweetrice〉の設立30周年を記念するアルバム『30rpm - i wish i had a brain -』がついに完成!
Aphex Twin の盟友としても知られるレジェンド Luke Vibert、ジョージアが誇る至宝 Nikakoi とその息子 Luna9、WARPの重鎮 Plaid、モジュラーシンセ界を牽引する HATAKEN、天才ピアニスト Jacob Koller といったおなじみのアーティストたちに加え、多数の新たなコラボレーターたちも参加。ダブ、トリップホップ、エレクトロニカはもちろん、アンビエントからドドイツまで――その振り幅の広さに驚かされる、唯一無二のサウンド宇宙が広がる。さらに、2024年にイギリスで開催された「Cassette Week UK」で初披露され、話題を呼んだ楽曲「It’s you!」も収録。まさに Coppé にしか創り出せない、異次元の音楽世界が詰め込まれている。
アートワークは前作と同様に、イギリスの伝説的デザイン集団 The Designers Republic が担当。マスタリングは、John Zorn のレーベル作品をはじめ、Laurie Anderson や Roy Hargrove なども手がけ、グラミー賞も受賞している名エンジニア Marc Urselli が前作に続いて参加している。CD、レコード、カセット、デジタルの4形態でリリース。なお、各フォーマットごとに一部収録曲が異なり、カセットのみ「Cassette Week」商品として先行発売される。

mark william lewis - ele-king

 霧の街のソングライター、マーク・ウィリアム・ルイスには様々なアクセス・ポイントが存在する。映画制作・配給会社A24が始めた音楽レーベル〈A24 Music〉が契約した最初アーティストであり、バー・イタリアの3人やダブル・ヴァーゴのふたりの後ろでドラムを叩いていた男、のとりわけ『The Redeemer』の陰鬱な空気を身にまとい、ジェフ・バックリィやエリオット・スミスなどのシンガーソングライターの方向からでも辿り着くことができ、さらにはニューヨークのラッパーMIKEのアルバム『Burning Desire』やtiny deskにも姿を見つけることができる。ゴールドスミス大学でアートを学び、音を手にした詩人でもある彼は作家の父親のもとで育ち、アレン・ギンズバーグ、ジェイムズ・ジョイス、T・S・エリオットに影響を受けたようだ。そうして21年にEP「Pleasure Is Everything」22年に自主制作の1stアルバム『Living』を作り上げロンドンのアンダーグラウンド・シーンでその名をささやかれ続けてきた。

 そして今年2025年に〈A24〉からリリースされたこの2ndアルバムが素晴らしいのだ。ボブ・ディランやニール・ヤングというようなアコースティック・ギターにハーモニカを携える伝統的なシンガー・ソングライターのスタイルの土台の上にそっと色を重ねるように彼は音色のテクスチャーを置く。それはエレクトリック・ギターの柔らかく歪んだ響きであり夜の街に溶けていくようなハーモニカの音であり、控えめに添えられるシンセサイザーの粒である。
 たとえば “Spit” のような曲ではダウナーなバー・イタリア・マナーで薄く重ねるシンセと他の曲と比べて高く明瞭なヴォーカルメロディをのせる。“Petals” ではヴィニ・ライリーを強く意識したであろう浮遊感のあるギターのフレーズを中心に組み立て左右の空間に色を置いていくかのごとく音を重ねる。悪夢のように歪んだギターの音から始まる “Brain” はディーン・ブラントの要素が色濃く残り、彼がドラムを叩いていた〈World music〉のバンドたちに通じるような曲に仕上げている。
 そして彼の低く柔らかに伸びる声がこの音楽をより一層魅力的にしている。“Recent Future” や “Ugly” での寄り添うように静かに思索を重ねるバリトン・ヴォイスはもちろんのこと “Senventeen” ではエリオット・スミスを彷彿させるようなコーラスワークを披露し伸びやかな声を重ね世界を形作る。ハーモニカの音の後に続けられるそれは清涼感と同時にわずかな喪失感を与えてくる。あたかも過ぎ去った年月を見つめているかのように。「誰もそのことを話さない/何が起こったのか本当のことを誰も知らない」固有名詞を使わずにはっきりと何かを指し示すことのない彼の曖昧のささやきは音と合わさり宙にイメージを浮かばせる。距離があるからこそ俯瞰して見ることが出来る、極端ではない小さな感情のざわめきがそこにはあるのだ。

 夜の街を一人歩くときのサウンドトラック、街の明かりの粒に足音のリズム、かすかに香る人の気配、それらは夜の闇で思索する意識の中へと消えていく。マーク・ウィリアム・ルイスの音楽は徹底的に滑らかだ。付け加えられる全ての要素はアクセント、隠し味のスパイスとして機能して、決してやりすぎず中心にはなりはしない(中心におかれるのはいつだってギターとその声だ)。勢いまかせに投げ込むのではない70%の意図を弾くストレート。彼はまるで夜の風景をスケッチするかごとく音像を描いていく。シンプルにしかし謎めいて。頭の中に浮かぶそれはまるでいつか見ようと胸に抱えた映画のように反芻される。

 実のところ22年当時、バー・イタリア虫ジャケット『bedhead』のいびつな美しさにやられていた僕はマーク・ウィリアム・ルイスの整えられた映像的な美にいまいちピンと来ていなかった。だが間をおき様々な音楽を経由することで(ヴィニ・ライリーというのが自分にとってのポイントだったのかもしれない)その魅力にアクセスすることができた。そうやって改めて最初のEPから聞き直し彼の魅力に気がついたのだ。

 そう、マーク・ウィリアム・ルイスには様々なアクセスポイントが存在する。沼のようにはズブズブと沈まない、雨というには軽やかで、ひんやりと濡れるような気配がし、つかみどころがない。やはりマーク・ウィリアム・ルイスの音楽は霧なのだ。そうしてこの霧はきっと何年経っても同じように夜の孤独を優しく迎え入れてくれるだろう。冷たい空気に寄り添い幻想的に街の灯りを歪ませる、小さな空白がここにはあるのだ。

Cecil Taylor/Tony Oxley - ele-king

 予感。沈黙の縁にぶら下がりながら、同じ旅路を託したその相手がいつ応答するのかを思いめぐらす。セックスよりも自発的に。私はセシル・テイラー(1929年生 – 2018年没)をいちどしか見たことがないが、彼の最大のパートナーが沈黙と予感であることを知っている。セシルは、1956年以来、フリー・ジャズ、あるいはファイア・ミュージック、あるいはファー・アウト・ミュージック——呼び名が何であれ——の背後にある比類なき自然の力であり、ピアノを携えて、またバンド・リーダーとして、セシル・テイラー・ユニット名義や数多くのソロ演奏によってアブストラクト・ジャズの急進的な運動を先導した。セシルの人となりは豪快で知られている。彼のピアノ演奏もまたそうで、旋律と不協和のまったく独自の言語を作り上げた。その強度において彼に比肩しうるのは、サン・ラーの音楽だけである。

 このアーカイヴ音源でのトニー・オクスレイ(1938年生 – 2023年没)は、セシルと息を合わせる共演者、あるいは乗客である。なぜなら、1988年に録音されたこのデュオ作品『Flashing Spirits』においては、未知の領域を切り拓いていくべく舵を取っているのはセシルだからだ。『Flashing Spirits』は今年の7月にひっそりとリリースされたため、一見すると大きな出来事には見えないかもしれない。しかしジャズの連続体のなかで捉えれば、その意義は間違いなく重大であった。1988年は、トニー・オクスレイとセシルの長きにわたる友情と音楽的パートナーシップのはじまりを示す年なのだ。
 このふたりは、すでにそれぞれの国においては高く評価される革新者だった。セシルが1960年代初頭にアヴァンギャルドのピアニストへと変貌した一方で、イギリスではトニーがデレク・ベイリーや、多くの仲間たちとともに「Company」録音やその他の作品に参加し、〈インカス・レコード〉からリリースされた(たとえば1975年に発表された彼自身の名を冠した素晴らしいアルバムのような)数々の作品によって進化を遂げていた。テイラーと同じく、トニーも数多くの輝かしい録音を生み出している。したがって、両者がステージを共有することが、活動開始から20年以上も経ってからであったという事実は、きわめて注目すべきことなのだ。

 1988年の夏、セシルはベルリン市の要請を受けて、ドイツ・ベルリンで1か月にわたる連続コンサートに参加した。そしてトニーと組まされたことで、花火が打ち上げられた。7月17日、彼らは初めて演奏し、その最初の魔法は『Leaf Palm Hand』として解き放たれた。『Flashing Spirits』はそれからわずか2か月後のことである。その事実だけで、彼らの相乗作用がいかなるものであったかを示すに十分であろう。なぜなら「ときおり共演する」という音楽上のパターンは、しばしば物事を新鮮に保とうとする前衛的音楽家たちの選択肢だからだ。
 ゼロから出発し、ゆっくりと構築していく——形が現れはじめるとともに予感の障壁を取り払っていく。その「ことが動き出す」までには、およそ2分半を要する。しかしこの文脈において「動き出す」という言葉は理解しにくい。というのも、そこには激しい綱引きがあり、一定したダウンビートが存在しないからである。

 この録音は単なるドキュメントにすぎない。そしてこれは、はじまりがわかっていて終わりに酔いしれるクラシック音楽でもヘヴィメタル音楽でもない。これは運動体としての、本当に生きた音楽なのだ。そして聴き手は、セシル・テイラーの両手が鍵盤を駆け抜け、明確な旋律がいくつもの音域でピンポンのように反響するのを見ながら、椅子の端に腰掛けて右へ左へと視線を走らせる子どもにならねばならない。セシルは座っているが、完全に座っているわけではない。なぜなら、どんな新しいアイディアも彼を飛び上がらせるかもしれないからだ。彼はトニーに盗み見るような視線を送るが、トニーの方がむしろセシルに注意を払っているだろう。というのも、彼は「このマザーファッカーはクレイジーだ」とわかっていて、セシルがいつ気を変えるかわからないからである。

 あなたがこの音楽にピンこないのないのなら、私は無理に好きになれとは言わない。だが、もしこれがあなたにとって日常の糧であるならば、クール・ジャズのレコードとこれとの違いを、心の奥底ではすでにわかっているはずだ。ひとつは、煙草を吸い、特別な香りのワインを手に恋人とともにくつろぎ、あるいは笑い合いながら楽しむためのもの。だが『Flashing Spirits』のような録音は、まったく別の物語だ。それは、普通の人間が入り込むことのできない場所への入門である。まさにそのために、私は『Flashing Spirits』のようなジャズをひとつのコード(暗号)だと感じる。最初は判読不能だが、集中(そしておそらく多少の献身)をもってはじめて理解することができる。プログラミング言語や宗教的なイニシエーション(入門儀礼)と同じように。入門を果たした者たちは、この録音を持っていることの幸運を知るだろう。そしてなんてことだ、この音の素晴らしさ! ドラムとピアノは驚くほど明瞭で、まるで自分が彼らの目の前に座っているかのように感じられる。私はセシルのレコードを山ほど聴いてきたが、これは間違いなく自分のトップ10に入る作品だ。

 少しのあいだ、私の脳は問いかけていた——なぜだ? なぜこれは良いのか? なぜ私は惹きつけられているのか? いったいなぜ? そして私は再び聴きはじめた。深いリスニングを。特製のノイズキャンセリング・ヘッドフォンをつけ、街を歩きながらフレーズを拾い上げると、セシルの後継者たちを気取る新しいピアニストと、セシル自身との違いを聴き分けることができた。セシルは旋律に囲まれて育ったのだ。ゴスペル、ブルース、クラシック、その他いろいろ。旋律の中心から、セシルはカコフォニー(不協和音の奔流)を抱きしめ、そしてそれを抱きしめたとき、彼は自身に刻み込まれた旋律を一緒に連れていった。これはノイズではない。彼は若き日のすべての旋律をリミックスして、新たなチョコレートケーキへと仕立て上げ、旋律を刻んでは歪めているのだ。だから、あの狂騒と混沌を通しても、私は旋律の断片を次々と、かたまりごとに聴き取ることができる。私の母には決して聴き取れないだろうが、それでまったく構わない。

 これは録音されたのは1988年、英国での〈Outside in Festival〉、そのときセシルは58歳か59歳だった。その事実をもういちどよく考えてほしい。私は、39歳で膝や背中の痛みを口にする人びとを知っている。トニーは少し若く、およそ50歳だった。だが私は、30歳で階段を上るのにも苦労する若者を知っている。このアルバムは、その鮮烈さや旋律的な気迫や激烈さ、あるいは「ジャズ的時代精神」の体現として——ファイア・ミュージックの誕生から20年を経た後で演奏されたにもかかわらず——十分に鼓舞的であるはずだ。仮にあなたを鼓舞しないとしても、より深いリスニングと、そして何より「身体を動かすこと」の大切さを思い出させてくれるだろう。


Anticipation. Hanging on the edge of silence wondering when the person you have entrusted to go on the same journey with you will respond. More spontaneous than sex. I have only seen Cecil Taylor (b. 1929 - d.2018) once but I know that his greatest partner is silence and anticipation. Cecil, the preeminent force of nature behind free jazz or fire music or far out music or whatever you may choose to call it since 1956, spearheaded the radical movement with the piano and as band leader in abstract jazz with numerous releases under his Cecil Taylor Unit and solo performances. Cecil`s personality is known to be brash and so is his dominance on the piano making a totally unique language of melody and dissonance that is only rivaled by Sun Ra`s in its intensity.
For this particular recording, Tony Oxley (b. 1938 - d. 2023) is his focused co-partner or passenger since it is Cecil who is navigating very extraterrestrial terrain here in this 1998 duo recording titled “Flashing Spirits” (Burning Ambulance Music) released this past July. “Flashing Spirits” with its quiet release, doesn’t seem monumental but in the jazz continuum, it was. 1988 marked the beginning of Tony Oxley and Cecil’s long friendship and partnership in music. This despite each of them being highly respected innovators in their respective countries. While Cecil transformed into THE avant gardist pianist in the early 1960`s, over in the UK, Tony was evolving with the likes of Derek Bailey and many others who participated in the Company recordings and other releases put out on Incus Records (like his brilliant self named record put out in 1975) in the late 60`s onward. Like Taylor, Tony created numerous brilliant recordings so it is quite remarkable that neither shared the stage til 20 plus years after they began.

It was the summer of 1988 that Cecil took part in a month long series of concerts in Berlin, Germany at the request of the city and in being matched with Tony, fireworks were set off. On July 17th, they first performed and that initial magic was released as “Leaf Palm Hand.” “Flashing Spirits” was only 2 months later. That alone should illustrate their synergy as the pattern in music of “occasionally collaborating” is often the chosen course for left field musicians aiming to keep things fresh.
Starting from zero and slowly constructing, taking away the barriers of anticipation as the forms begin to appear, it takes nearly 2 and a half minutes before things are “going.” But “going” is a difficult word to understand in this context because there is a vicious tug of war and no consistent downbeat.
This recording is just a document and this is not classical music or heavy metal music where you know the beginning and revel in the end. This is kinetic really live music and you have be the kid sitting on the edge of his seat looking back and forth at Cecil Taylor as his hands wiz past keys and clear melodies ring ping ponging on numerous registers. Cecil is sitting but not exactly, because any new idea might make him jump. He will sneak glances at Tony but Tony is more likely to be paying attention to Cecil cause he knows “this motherfucker is crazy” and may change his mind at any minute.
If you don`t like this music then I can`t convince you. But if this is your bread and butter, then you should already know at heart the difference between a cool jazz record and this. One is for smoking and getting chill or giggly with a significant other over wine with a special scent. Recordings like “Flashing Spirits,” are a totally different story. They are initiations into places the average person cannot enter. It is because of this that I feel jazz like “Flashing Spirits” is a code. Illegible at first, it takes concentration (and maybe a little dedication) to be able to comprehend. Similar to any coding language or religious initiation. Those initiated will know they are lucky to have this recording and damn, the sound for this is gorgeous. The drums and piano are pretty freaking clear and it feels like I am sitting right in front of them. I have listened to a bunch of Cecil records but this is definitely going in my top 10.
My brain for a minute was even was asking why? Why is this good? Why am I engaged? Freaking why? And then I started re- listening. Deep listening. Walking down the street with my special noice-cancelling headphones on picking up on the phrases and I could hear the difference between new pianists that try to sit on the mantle of Cecil and Cecil himself. See Cecil grew up surrounded by melody. Gospel, blues, classical and what not. From the center of melody Cecil embraced cacophony and when he did, he took his engrained melodies with him. This isn`t noise. He is remixing all the melodies of his youth into a new chocolate cake with melodies chopped and screwed. So through the frenzy and the chaos, I still hear chunks and chunks of melodies. I am sure my mother wouldn`t but that`s just fine.
When this was recorded in 1988 at the Outside In Festival in the UK, Cecil was 58 or 59. Please read that sentence again cause I know people who are 39, talking about pains in their knees and backs. Tony was a little younger at 50 approximately. Still I know kids who have difficultly walking up stairs at 30. If this record isn`t inspiring for its vibrancy or melodic swagger or intenseness or jazz zeitgeist nature despite being performed 20 years past the birth of fire music, then it should be an inspiration to practice more deep listening and most importantly, to exercise!

Stereolab - ele-king

 未来を見つめるために過去を振り返るのは、つねにステレオラブの習慣の一部だった。アートワークには1960年代の実験的なステレオ・テスト・レコード盤の要素を取り入れ、音のルーツはクラウトロックの攻撃的でモータリックなモダニズム、フランス現代思想や戦後のマルクス主義の変種などの緩めの解釈、ルチア・パメラやノーマン・マクラレン等の創造力豊かな変わり者たちによるポップ・カルチャーの難解な奥義などの多岐にわたる過去から引き出したあらゆる要素が、政治批判、技術楽観主義、そして子どものようなクリエイティヴな遊びを融合させた、進歩の土台となる精神を構築してきた。
 
 だが、その進歩という考え方が、なかなかトリッキーではある。ステレオラブの新譜があなたを本当に驚かせたのはいつが最後だっただろうか? 私にとって、それはおそらく2001年の『Sound Dust』だったのではないかと思うが、すでに1997年に『Dots and Loops』がリリースされた時点で、ステレオラブのアルバムを思い浮かべるときに必要なすべての要素が揃ったと感じていたことにも言及しておきたい。とはいえ、それ以降の作品に創造性が欠如していたわけではない。グループはしばしば、自分たち自身で障害物をこしらえて、グルーヴを壊し、プロセスを複雑化して、お決まりのパターンに陥るのを防ぐことを繰り返してきた。2004年の『Margerine Eclipse』で特にその手法が際立っているが、このアルバムは“デュアル・モノ”方式で録音され、ふたつの独立した録音が各チャンネルにあり、それらが組み合わさって音が聴こえてくるというものだった。

 『Instant Holograms on Metal Film』の制作過程でもそのような仕事がなされたのかは知る由もないが、2008年の『Chemical Chords』のセッションからの音源で編まれた2010年の『Not Music』以来の今回の新譜は、まさにステレオラブのアルバムらしい音に聴こえる。完璧なメロディの再構築、音楽的要素やテーマなど、愛聴家たちが期待するものが揃っている。私の周りの人びとの意見はというと、眩暈がするような興奮を覚えた人と、期待はずれだったという人に二分されている。ある人は“自動操縦(オートパイロット)化されたバンド”という表現で総括した。
 私はその批判は、的外れであると思う。何よりもその精緻な再現性だけで、“オートパイロット”化という言葉がほのめかす怠惰という疑いを晴らすことができるからだ。それよりも私が感じとったのは、17年ぶりに集まったミュージシャンたちがこの“ステレオラブ”と呼ばれるものの記憶を呼び覚まし、再構築するために懸命に努力する様子だった。最後に一緒に奏でた音楽から彼らを隔てた長い時間自体が、そのプロセスを複雑化する障害物として機能し、再びステレオラブになるという行為がその概念の枠組みとなっているのだ。
 これは、単なる技術の実践を超えたもののように感じてしまう。長い時間、離れていた音やプロセス、そして人同士が再接続を果たすという感情的な行為なのだ。

 冒頭から、“Mystical Plosives”の電子的なアルペジオが“Aerial Troubles”へと突入すると、何か強烈なものの存在を感じる。ビートが予想より一瞬だけ早く始まり、ポップなフックに辿り着こうと焦っていかのようだ。メロディとテーマだけで、アルバム発売前のシングル“Melodie Is A Wound”が“Ping Pong”と同じ作曲者によるものだとわかるが、いずれも、より広がりのある密度の濃い作品となっている。この曲とA面全体が、新しい家のすべての部屋を見せたくてたまらない、無我夢中な案内人に連れまわされているような感覚だ。
 ティム・ゲインとレティシア・サディエールはどちらも前回のアルバム以来、活発な活動を続けており、この再構築されたステレオラブの構造にも、それぞれの作品の要素が絡まっている。ティムのプロジェクトであるキャヴァーン・オブ・アンチ・マターのホルガ―・ツァップもゲスト参加した、インストゥルメンタルな“Electrified Teenybop!”はふたりのアルバムの一枚にも違和感なく収まりそうな曲だ。一方、レティシアが頻繁にコラボレートするマリー・メルレ(アイコ・シェリーの)がバック・ヴォーカルで参加している。
 ある意味、ティムとレティシアの、その間の数年にわたる活動が、彼らが自分たちの過去を振り返るというプロセスを必要とした大きな理由のひとつかもしれない。キャヴァーン・オブ・アンチ・マターがシンセティックなモダニズムのサウンドに激しく傾倒したのに対し、レティシアの方は、特に昨年の『Rooting For Love』では物理的なものと精神的なものに対峙していた。ステレオラブの開発ツールは、両者が再び一緒に演奏できるようにするだけでなく、それぞれの創造的なこだわりを追求する余地を提供しており、その枠組みのなかで両者のアプローチが絡み合うことが織り込み済みなのだ。

 『Rooting For Love』では、現代政治がかなり強調されていたが、それはより抽象的な形で詩的に表現されていた。だが『Instant Holograms on Metal Film』 では、資本主義の破壊的なダンスと、機能不全を好む独裁体制を、執拗に、鮮明に描いている。

「Is there some form of justice possible or (なんらかの正義の形というものは実現可能なのだろうか、それとも)/So long, public’s right to know the truth(国民の真実を知る権利の終焉か)/Gagged, muzzled by the powerful(権力者に口を塞がれて封じられ)/Cultivate ignorance and hate(無知と憎しみを増殖させる)」

 と、レティシアは「Melodie Is A Wound(メロディとは傷である)」で問いかけ、こういった率直な真剣さを嫌がる人たちの目を白黒させる。

 A面の、歌詞を通じて現在の混乱した社会情勢に対する社会的、政治的、そして経済的な批判をアルバムの基盤とするやり方は、音楽のより理論に基づいた側面と結びつき、彼女の宇宙的な進歩の処方への、ある程度の具体的かつ抽象的な入口を構築している。
 そして、おそらくここが A面の政治に対する真剣さに賛同していた人のなかでも、レティシアの政治観が精神的なものばかりでなく、ニューエイジの領域に近い要素にまで密接に結びついているために、離れてしまう人が出てくる分かれ目になっているのかもしれない。とはいえ、このアルバムは、ステレオラブがこれまで表現してきたなかでもっとも完全な、政治的かつ個人的な宣言となっている。全体を貫いているのは、ただ問題点を明らかにする
だけでなく、ある種の解決策への道筋を示そうとする献身である。 

「Juncture invites us to provide care (この岐路は私たちにケアの提供を促している)/Palliative (一時しのぎの緩和ケアを)/ For dying modernity (死にゆく現代性に)/While offering antenatal care for the inception of the new, yet undermined future (一方でまだ定まっていない新たな未来の始まりに産前ケアを提供しながら)/ That holds the prospect for greater wisdom (より大きな英知の可能性を持つ未来のために)」

 レティシアはこのように“Aerial Troubles”で語り、『Rooting For Love』の歌詞は、彼女の革命的な実践において、対立ではなく愛と共感を中心に据えていると言及している。

 “Wisdom(知恵・英知)”は彼女が繰り返し使う言葉だが、その使い方は“明晰さ”と大体一致しており、社会という名のフィルターを通して見る訓練がなされる前に世界を見透かしてしまう、子ども特有の純真さのような感覚のことなのかもしれない。おそらく、多少はフランス左派の哲学者、コルネリュウス・カストリアディスの影響もあるのだろう。彼はイド、自我と超自我に分割される前の子どもの精神を、精神的な単子(サイキック・モナド)と説明し、健全な社会には、内省のための精神分析的なツールが不可欠であると考えた。そのような自己分析なしでは、私たちは自分たちの意欲に気付けないばかりか、真の自律性を獲得することができず、自治制のない社会は機能しないからだ。
 フランス語のつづりによる“Monade”は、もちろん、レティシアが自身の名前のみを使って活動するようになる前に音楽をリリースする際に使用した名称だが、これは単なる精神分析学的な用語ではなく、グノーシス主義とも強く結びついた神秘的な言葉である。
 アルバムのB面へと進み、とくに豊かでサイケデリックなC面になると、歌詞の社会批判は、診断的な内容から治療の段階へと進み、彼らが描く救済への道には、だんだんとグノーシス主義的な宇宙論が映し出される——資本主義の現実主義的支配者、デミウルゴス(“Vermona F Transistor”の神のふりをするジョーカー)が、人類が英知や啓発を得て、モナドの高潔で純粋な光の中で真の人間性を手に入れるのを妨げようとするが、その神聖な一部の火花は本来、我々がそれぞれ内包しているものなのだ。

 だが、ここで重要なのは、これらの表現方法のすべてが、本質的には個人的なものへと行き着くことなのだ。レティシアが“Vermona F Transistor”で「The architect, our higher self (建築家という私たちの高次なる自己)」と歌うその言語は霊的なものであり、「Explore without fear the rhizomic waves (恐れることなく、根茎状の波を探索せよ)」と歌うところでは、ドゥルーズとガタリの批判理論を想起させるが、“Esemplastic Creeping Eruption”のタイトルでは、コールリッジの詩の言葉を引いており、一体感(wholeness)と結合(union)という繰り返されるテーマは、宗教、心理学、政治と愛における語彙の核心的な部分だ。  「統合」のテーマは、バンドの再結成という文脈において、特に心に迫るものだ。“Esemplastic Creeping Eruption”のエンディングの歌詞

「It is because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Eternally entwined, mirage of separateness(永遠に絡み合った、分離と言う幻影)/Meeting with a stranger, a lost part of myself (見知らぬ人との出会い、失われた自分の一部) /It’s because I am you, it’s because you are me (なぜなら、私はあなたであり、あなたは私だから)/Two halves of one(一個の二つの半身)/Union, compound (結合、複合)」

は、人間に共通する普遍的なテーマとしても解釈できるが、ステレオラブ自身にとっても、強力な響きを持つ文脈となっている。

 アルバムの最終面は、注目を集めたがるA面や暗さのあるB面、サイケデリックなC面とは対照的に軽やかで、爽やかさと安心感のある音調になっている。最終面より前の面でも探求された多くのテーマを再訪するが、アルバムと同様に、次へと漕ぎ出す出発点として過去に焦点を当てている。“Colour Television”が「Open are the possibilities(可能性は無限に広がっている)!」と宣言し、“Flashes From Everywhere”では、「冒険的な進み方」を約束している。

 最終的に、政治批判や哲学、心理学、宇宙論といった深遠な風景を駆け抜ける、目の回るような旅の後にステレオラブが『Instant Holograms on Metal Film』で提示する前進への道は、決して不明瞭なものではないし、大袈裟なものでもない。彼らはただ、こう言っている。「自分自身の意欲と偏見について熟考し、明晰さと自律性を獲得しよう。その明晰さで異なる可能性を探求し、自分自身と他者を、精神的、社会的に、あるいは長年離れていたポップ・グループとして、同一のものの一部として結びつき、大胆に、自由に創造しよう」


by Ian F. Martin

The idea of looking back in order to look forward is one that’s always been a part of Stereolab’s praxis. The artwork that drew from 1960s experimental and stereo test records, their sonic roots in the aggressive, motorik modernism of krautrock, various loosely interpreted strains of French Theory and postwar mutant Marxism, the pop cultural esoterica of creative eccentrics like Lucia Pamela and Norman McLaren — it all drew from the past to construct an ethos combining political critique, technological optimism and childlike creative play as a platform for progress.

That idea of progress is a tricky one, though. When was the last time a new Stereolab album really surprised you? For me, perhaps that was 2001’s Sound Dust, although I’d argue that all the key elements you need to imagine a Stereolab album were in place with the release of Dots and Loops in 1997. That’s not to say there was a lack of creativity at work beyond that point, though: the group would often construct roadblocks for themselves to throw themselves off their groove, complicate their process and prevent themselves from falling into patterns. They do this most strikingly in 2004’s Margerine Eclipse, which was recorded in “dual mono” with two independently coherent recordings, one in each channel, that combine to create the song you hear.

Whether there was some process of that kind at work behind the scenes of Instant Holograms on Metal Film, I don’t know, but this first new album since 2010’s Not Music, which was itself pieced together from recordings made during the 2008 sessions for Chemical Chords, sounds exactly like a Stereolab album: an immaculate recreation of the melodies, musical elements and themes a fond listener would expect. Opinions among people around me have been split between giddy excitement and disappointment: a feeling one person summed up as of “a band on autopilot”.

I think that criticism misses the mark. The meticulousness of the recreation alone absolves the band of the suggestion of laziness “autopilot” implies. Rather, the sense I get is of musicians working together for the first time in seventeen years, working hard to remember and reconstruct this thing called Stereolab — the gulf of time that separates them from their last music together itself functioning as a roadblock that complicates their process, the act of becoming Stereolab again its own conceptual framework.

It feels more than just a technical exercise, though. It’s an emotional process of reconnecting with sounds, processes and people after a long time.

From the start, as the electronic arpeggio of Mystical Plosives bursts into Aerial Troubles, there’s something insistent, beats kicking in just a moment before you’re expecting them, almost an impatience to get to the pop hook. Both in melody and themes, early single Melodie Is A Wound is identifiably the same songwriters who wrote a song like Ping Pong, but it’s both more expansive and densely packed. The song, and the whole of side A, really, feels like being swept along by a deleriously enthusiastic guide, eager to show you all the rooms of their new house.

Tim Gane and Laetitia Sadier have both been active over the years since their last album, and elements of both their own work twine through the structure of the reconstructed Stereolab. Holger Zapf from Tim’s project Cavern of Anti-Matter makes an appearance, and the instrumental Electrified Teenybop! would fit just as easily into one of their albums. Meanwhile, Laetitia’s frequent collaborator Marie Merlet (of Iko Chérie) joins on backing vocals.

In a way, Tim and Laetitia’s work in the intervening years may be a big part of what makes this process of looking back on their own past necessary. Where Cavern of Anti-Matter leaned hard into the sound of synthetic modernism, Laetitia, especially on last year’s Rooting For Love, sought to engage with the physical and the spiritual. The Stereolab toolkit allows them both to play together again, offering space for each to explore their own creative obsessions within a framework where the intertwining of those approaches is baked in.

Where contemporary politics underscored much of Rooting For Love, they do so lyrically in a more abstract way. Instant Holograms on Metal Film, though, lays out with urgent clarity the destructive dance of capitalism and its dysfunctional lover authoritarianism.

“Is there some form of justice possible or / So long, public's right to know the truth / Gagged, muzzled by the powerful / Cultivate ignorance and hate,” Laetitia asks on Melodie Is A Wound, no doubt causing all the sorts of people who cringe at such direct earnestness to roll their eyes.

The way Side A grounds the album in a social, political and economic critique of the current troubled climate both links the album lyrically with the more theoretical side of the music, and constructs a more or less tangible entry point for her more cosmic prescription for progress.

This is probably the point where even some of those who were OK with the political earnestness of Side A begin to check out, because Laetitia’s politics are woven intimately with something spiritual, even new age-adjacent. However, the album maps out what might be the most complete political and personal manifesto Stereolab have ever expressed. What underscores it all, throughout, is a devotion to not just identifying problems but mapping out some sort of route to a solution.

“The juncture invites us to provide care / Palliative / For dying modernity / While offering antenatal care for the inception of the new, yet undetermined future / That holds the prospect for greater wisdom,” she says on Aerial Troubles, and ss on Rooting For Love, the lyrics here centre love and compassion rather than conflict in her revolutionary praxis.

The word “wisdom” is one she returns to again and again, used in a way that seems to be roughly congruent with “clarity” and perhaps the sense of childlike innocence that sees the world clearly through eyes that haven’t yet been trained to see through society’s filters. There’s perhaps the influence of French leftist philosopher Cornelius Castoriadis in this, who describes a child’s psyche before it is broken up into the id, ego and superego as the “psychic monad”, and saw the psychoanalytical tools of self-reflection as crucial to a healthy society, because without such examination, we cannot be conscious of our motivations and therefore be truly autonomous, and a society cannot function without autonomy.

Monade (in the word’s French spelling), of course, was the name Laetitia used to release music under before settling into using her own name alone, and it’s not just a psychoanalytical term but a mystic one with strong connections to gnosticism.

As the album moves into Side B and especially the richly psychedelic Side C, and the lyrics’ social critiques move from the diagnostic to the curative, the route they sketch out towards salvation increasingly mirrors gnostic cosmology — the archons of the capitalist realist demiurge (“the joker who pretends a God to be,” of Vermona F Transistor) holding humanity back from attaining wisdom or enlightenment and experiencing their full humanity in the incorrubtible pure light of the monad, part of whose divine spark we each contain.

Importantly, though, all these modes of expression come down to something fundamentally personal. The language is spiritual on Vermona F Transistor when Laetitia sings “The architect, our higher self”, it recalls the critical theory of Deleuze and Guattari where she sings “Explore without fear the rhizomic waves”, it draws language from the poetry of Coleridge in the title Esemplastic Creeping Eruption, and the repeated theme of wholeness and union is a key part of the vocabulary of religion, psychology, politics and love.

That theme of union is a poignant one in the context of the band’s reunion. The ending of Esemplastic Creeping Eruption with the lines “It is because I am you, it's because you are me / Eternally entwined, mirage of separateness / Meeting with a stranger, a lost part of myself / It’s because I am you, it's because you are me / Two halves of one / Union, compound” can be read as a general statement about collective humanity, but rings powerfully in the context of Stereolab itself.

The final side of the album takes on a lighter, breezier, more reassuring tone than the attention-hungry Side A, the darker side B and the psychedelic Side C. It revisits many lof the points explored on the earlier sides, but perhaps like the album itself, its focus is on summarising the past as a kicking off point for where to go next. “Open are the possibilities!” declares Colour Television, with Flashes From Everywhere promising an “Adventurous way to proceed”.

For all the giddy journey they take you on through this esoteric landscape of political critique, philosophy, psychology and cosmology, the route forward Stereolab offer on Instant Holograms on Metal Film isn’t an obscure one, in the end. It’s not a grand one either. It simply says: reflect on your own motivations and biases in order to achieve greater clarity and autonomy; use that clarity to explore different possibilities; see yourself and others united as part of the same thing, whether spiritually, as a society, or maybe even as a long-separated pop group; and create boldly and with freedom.

マーク・スチュワートが永眠したのは2023年4月のことだった。そしてここに、彼の最後の言葉が綴られた遺作がリリースされた。

 昨年、思うところあってフランクフルト学派について、ほんの少し……ほんのひとかけらでありますが、でも勉強したことがあった。こと文化批評に関心がある人なら、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ヴァルター・ベンヤミン、マックス・ホルクハイマー、ユルゲン・ハーバーマスといった、いかにも気難しそうなドイツ人の名前にどこかで出会っているだろう。20世紀初頭、正確には1923年にフランクフルト大学との提携関係で生まれたマルクス主義(およびフロイトの精神分析学)の研究機関を通して論じられた資本主義批判および先駆的な文化批評は、こんにちでも、とりわけ悲観的な社会論評でしばしば引用されている。より身近なところで言えば、いまから8年前に我らがジェイソン・ウィリアムソン(スリーフォード・モッズ)がこの学派の本を読んで、歌詞のなかに活かしたことはコアファンの間では知られている(*)。また、マーク・フィッシャーの「アシッド・キャピタリズム」ではマルクーゼが再訪されているが、それは心が病むような労働からの解放を期して書かれた、フィッシャー最後の論考のほとんど下地になっている。

 フランクフルト学派はドイツ革命後に始動した、言うなれば(具体的な党派性には依拠しない)「文化系マルクス主義」、その先駆けだ。のちに実践派マルクス主義(肝心ななことは変革というマルクスの言に従った実力行使派)からの批判を大々的に浴びながら、彼らの研究は止むことなく数年後にはドイツを支配するファシズムへと向けられる。当然のことながらユダヤ系ドイツ人たちにとって、自分たちの生存のため、アメリカへの亡命は避けられなかった[*ベンヤミンのみ欧州で自害]。
 マルクス主義のドイツ人たちが1940年代のアメリカで歓迎されたのは、批判の矛先が両者ともにナチスにあったからだが、興味深いことにフランクフルト学派は、ファシズムを否定した精神をもって、自分たちを歓迎したアメリカへも批判の眼差しを向けるのだった。のちにマルコムXが「私たちはだまされていたんだ」と憤慨したり、ザ・レジデンツが「サード・ライヒン・ロール」と皮肉ったり、パブリック・エナミーが「ハリウッドなんて燃えちまえ」とラップしたように、もちろんムーディーマンがアメリカを「地上最大の盗人」と呼ぶよりもずっと前に、この理論家たちはアメリカに対して、ドイツから逃げてきたけどなんだかここにもファシズムの匂いがするぞと、おおよそ同じようなことを(マルクスという言葉を隠しながらも)遠慮なく言っているのだ。
 これら怒れるドイツ人たちは、戦争が終わってドイツに帰国しても資本主義への批判を緩めず、そしてまた、自らも大いに批判されもした。とくに学派の中心人物で、もっとも辛辣な皮肉屋として知られるアドルノは、実践こそを重視する新左翼にとっては批判の的だった。この頑固じいさんがジャズにケチを付けている話は有名だが、プロテスト・ミュージックも格好の批判対象で(*2)、当然ビートルズに対してもいい顔などしなかった。書を捨て町に出ようだと? そんなものは考えることを諦めた人間の自己憐憫だ、アドルノならそう言っただろう。嫌われて当然というか、それでもぼくは、アドルノが「理論を爆弾に変えること」を「安易」だと批判し、急進派のあまりの一途さを警戒した点については理解できる。ハーバーマスにいたっては、60年代後半に「左翼ファシズム」(*3)という言葉を発しているが、気難しいドイツのオヤジ連中は革命的衝動が全体主義へと、わりと容易に変貌してしまうことを知っていたのである。
 ただし、それがすべてではない。ここ10年で、スリーフォード・モッズやフィッシャーが蘇らせたマルクーゼは60年代末、若い実践派たちを擁護したどころか、新左翼の思想的支柱となり、自らも運動に参加した。おそらくベンヤミンも生きていたら同じことをしただろう、というのが識者たちの大方の見解だ。
 いずれにせよ、みんな同じなわけではなかった。活動家たちからは「所詮あんたらは、アカデミアという安全圏から不毛な批判理論を見せびらかせているだけ」と糾弾されても、ひたすら理論の研磨を続けたアドルノと、アメリカにおけるカウンター・カルチャーの拠点たるカリフォルニア大学に在籍し、その熱狂のさなかにいたマルクーゼは激しい論争をしている[*ちなみにその頃のマルクーゼのもっとも高名な教え子のひとりに、アンジェラ・デイヴィスがいる]。とにかく賛否両論、つねに矛盾をはらんでいたと言えるフランクフルト学派が、ではなぜいま関心を集めているのかと言えば、文化系マルクス主義者としての彼らが、誰よりも先んじて、文化産業や消費社会への容赦ない批判を繰り広げていたからにほかならない。アドルノたちが提示した資本主義がもたらす精神的荒廃は、現代ではスリーフォード・モッズがストリート言葉に翻訳しているのだ。

 少々乱暴に言う。労働者階級が自分の好きなブランドの服や車を買えるようになった時代においては、革命の主体となるはずだったプロレタリアートはすでに満足しているのだから、もはや世界を変える必要はない。そうなのか、いや、違う、マルクーゼが提起したのはこういうことだった──資本主義社会のなかで、車や洗濯機、しわになりにくいスラックスに囲まれて暮らしている者こそ、もっとも貧しい存在であり、そればかりか、もはや正気を失いかけてすらいると、そういう話だ。「貧困」とは生々しい経済のそれを指していると同時に、抑え込まれた可能性への意識も意味し、疎外され、非人間化された意識も含意している、と。なぜなら我々は、広告の正体をわかっていながらも買うことを止められない。我々は服を買っているのではなく、服が我々に買わせているのだ。消費社会が仕向ける支配構造。ぼくが「消費者ファシズム」という言葉を初めて聴いたのは高校生のときだった。ザ・ポップ・グループの7インチ・シングル「We are all Prostitutes」の歌詞で繰り返されていたのだ。

 ザ・ポップ・グループがUKポスト・パンクを代表するバンドであることは周知の通りである。彼らのサウンドが形式化されたパンクから著しく離れていたことは──要するにパンクにはできなかったことをやったという本来の意味でのポスト・パンクであったことは、きわめて重要だったとここで強調しておきたい。ザ・ポップ・グループには、形式化されたパンクが絶対にやらなかったリズムがあった──ファンクだ。
 また、ザ・ポップ・グループはマーク・フィッシャーが「ポピュラー・モダニズム」と呼んで賞揚したもの──20世紀初頭の芸術運動としてのモダニズムの要素(文学からシュルレアリスムまでの、その実験性、革新性、形式の刷新など)を大衆文化のなかに持ち込むこと──これはもう、パンク/ポスト・パンクに限らず、ザ・フーしかりデイヴィッド・ボウイしかりロキシーしかりイーノしかり、ほか多数しかり──、その象徴的なひとつでもあった。
 マーク・スチュワートは大きな人だった。じっさい背も高かったが、寛容力もあったと思う。いくつかの取材のなかで、ぼくはあまり面白くない質問、そのときの流行の音楽についての感想を訊いた。たとえば──フレンチ・エレクトロのような、ファッショナブルな流行はどう思うか? スチュワートは全面的に肯定してみせる。素晴らしい、俺は大好きだ。新しい世代の台頭にも肯定的だった。LCDサウンドシステムのような連中はどう思うか? 素晴らしい、俺は彼らのファンだ。一途な左翼思想を曲に込めたブリストル人の心は広かった。それは、経験のなかで拡張されたのかもしれない。ザ・ポップ・グループ時代には、共産主義者連盟や反アバルトヘイト運動、CNDなど、ガチな政治団体——すなわち実践派マルクス主義——との接触が多々あったわけだから、それはもういろいろ経験しているだろう。

 この夏にドロップされるマーク・スチュワートの遺作『The Fateful Symmetry』を聴いていると、彼のそんな大きさを思い出す。ここにも「ポピュラー・モダニズム」が生きている。カフェOTO[*実験/即興などハイブローな音楽のライヴで知られるロンドンのヴェニュー]系とトム・モウルトン[*70年代ディスコのDJ。リミックスの発明者]を分け隔てるべきではない主張するスチュワートにしたら、アルバムで援用されているクンビアやダブは、言うなれば敷居の低い大衆的な実験音楽だ。
 だが、そんなことよりもひっかかるのは、アルバムの題名である。これは、おそらくはウィリアム・ブレイクの有名な詩(The Tyger)の最後の一文からの引用だろう。だとしたら、スチュワートは本作が遺作になることをわかって作ったと言える。10代の彼は、ロートレアモンやフランス象徴主義の詩作品を好む文学青年だった。ブレイクも若き日に心酔した詩人のひとりで、彼のマフィア時代の12インチ・シングル「エルサレム(Jerusalem)」も極貧を生きた19世紀英国の詩人の言葉から取ったのではないだろうか。
 遺作にロマン主義文学といえばマリアンヌ・フェイスフルもそうだった。彼女の場合はキーツやバイロンの詩の朗読で、そしてスチュワートがブレイクときた。反資本主義から反植民地主義と、“政治的な”作品で知られるマーク・スチュワートの遺作はなんとも詩的で、いかにもロマン主義的なアプローチによって「魂の栄光」に向けられている。ピアノ演奏をバックに歌う“ This is the Rain”のような詩情あふれる曲が、これまでのスチュワートにあっただろうか。“Everybody’s Got to Learn Sometime”(エイドリアン・シャーウッドがミックス)は彼のダブへの愛情がたっぷり注がれたカヴァー曲だが、アルチュール・ランボー風の激しく幻想的な詩がこだまする“Stable Song”や“Twilight’s Child”、そしてより深く沈潜した“Crypto Religion”を聴いていると、スチュワートは自分の最期をわかっていて詩を書いたに違いない、そう思えてくる。

 ぼくは『The Fateful Symmetry』を聴きながら、いまあらためて彼の不在を悼んでいる。2011年に渋谷で観た、再結成したザ・ポップ・グループのライヴにぼくはそれほど興奮したわけではなかったけれど、パブで1パイントのビールを呑んでいたオヤジたちがそのままステージに上がってパンク・ファンクを演奏しているみたいで、自分が大好きな世界ではあった。彼らには──アンチエインジグなどクソ食らえとでも言わんばかりの──正直な格好良さがあったのだが、でも待てよ、ライヴを観ながらぼくは思った。考えてみれば、ザ・ポップ・グループの『Y』は連中が18歳のときの作品じゃないか。ああ、なんということだ! あの「We are all Prostitutes」 も、あの『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?(我々はいったいいつまで大量殺人を黙認し続けるというのか?)』も、19歳の若者たちが作ったなんて、とても信じられない。サウンド面においても政治性においても、だ。
 “She is Beyond Good and Evil” がニーチェの『善悪の彼岸』[*このドイツ語の書物の英訳が “Beyond Good and Evil” ]で、“Thief of Fire” がギリシャ神話のプロメテウスの火を主題にしていることをぼくが知ったのは、それらを聴いてから15年以上もあとのことだ。「We are all Prostitutes」 も『For How Much Longer〜』もリアルタイムでは批判もあった(*4)。歌詞が左翼の説教じみているという話だったが、しかしこれらのメッセージは、悲しむべきことにいまでも十二分に有効なのである。後者のアルバムには、当時の彼の一途さがうかがえる、“There are no Spectators(傍観者などない、中立などありえない)”という重要曲のひとつがある。

 2023年4月のクワイエタスに載ったマーク・スチュワートの追悼記事には、彼がインポスター症候群に苦しんでいたと書いてある。最初はなんのことか理解できなかった。あんなに豪快に笑う彼が、自分のやっていることに自信を持てずに悩んでいたと、そういうことなのだろうか。泣き叫ぶようなあの声は、どうしても自分を肯定できない彼の内的な叫びだったのだろうか。思い当たる節もある。初来日時の、アダムスキーとのライヴ・パフォーマンスは、すごかったと言えばとんでもなくすごかったが、観客に指を突き刺すようなナルシスティックな振る舞いとは対極にあった。どこか自分の身の置き場のない、どこか居心地の悪そうな、不安定な大きな塊に見えたこともたしかだ。『The Fateful Symmetry』の“Blank Town”で反復される「虚無」とは、自分自身に向けている言葉なのかもしれない。
 しかしスチュワートは、自分の苦しみを最後まで外に見せなかった。周知のように、彼は前向きで闊達な人だったと思われていたし、音楽もまた身体性に根ざしていた。たとえば、アルバム冒頭の“Memory of You”[*ユースとの共同プロデュース、ホリー・クックがバッキング・ヴォーカル]はスチュワートのダンス・ミュージック愛の賜物だろう。高校生の頃からファンクがかかる地元のクラブに通って、80年代にはワイルド・バンチがニューヨークから輸入したヒップホップに刺激を受けた。踊れる音楽であることは、たとえどんなに政治的に過激であっても、実験とポップが一体となる彼の作品に不可欠な要素だった。ダンスは、「コミュニティ」や「仲間」という概念と違って人を内側と外側に選別しない。だから、1990年の“Hysteria”には遠く及ばないとしても、続く“Neon Girl”[*ユースとの共同プロデュース、元レインコーツのジーナ・バーチをフィーチャー]もそうだが、彼はクラブ・ミュージック的なものとの接点を失いたくなかったのだ、とぼくは想像する。
 とはいえ、『The Fateful Symmetry』には踊れない曲が多い。何度も聴いていると、むしろ最初の2曲のほうが全体では浮いているようにも感じる。ソロ・アルバム『The Politics of Envy』(2012)以降も、それからザ・ポップ・グループの再出発のアルバム『Citizen Zombie』(2015)以降も、70年代末〜1990年までの作品にあったような圧倒的な何かを感じることはぼくにはなかったけれど、彼はノスタルジア産業に吸い取られないよう未来に向けてのメッセージを言い続け、音響工作にも変わらぬ情熱を注いでいたことは、多くの共演を介して生まれた晩年の作品からもわかる。周囲からの注目がなくなっても手を緩めなかったが、マーク・フィッシャーの追悼会で弔辞を読んだ彼は、あるとき力尽きたということなのだろうか。
 いや、そうではない。ウィリアム・ブレイクの詩から引用したこのアルバム・タイトル(すさまじき対称性というような意味)を日本人が解すのは、19世紀英国のロマン主義文学を専攻していたとしても難しいと思われるが(*5)、アルバムをなんども聴いていると見えてくることがある。ザ・ポップ・グループのフロントマンとしてデビューして以来、ずっと「虎」であり続けてきたスチュワートとは 、たしかに対称的な側面がここでは晒されているのだ。こんな思いを抱きながら俺は闘ってきたんだよと、アルバムの向こうからは、そんな声が聞こえる。クローザーとなる“A Long Road”という曲は、リスナーへのお別れの挨拶のようだとぼくには思える。「長い道が続いている。君は俺の命を連れてどこにでも行けるだろう。俺は、自分のベストを尽くしてみるよ、大丈夫オッケーだ」
 これが彼の最後の言葉である。当方、ぜんぜん大丈夫オッケーではないが、ベストを尽くすしかない。2023年4月、ぼくたちは偉大なアーティストを失った。だが、失ってはならない魂はここに、いや、すべての作品に残されている。

(*1)https://www.theguardian.com/music/2017/mar/05/sleaford-mods-guide-to-modern-britain-lots-of-pain-english-tapas

(*2)アドルノの辛辣さは、いまも生きている。その例をひとつ言うなら、ビヨンセの『レモネード』を「よくできた資本主義の商品だこと」と両断したベル・フックスだ。

(*3)パンクもまた急進的左派からファシスト呼ばわりされている。コーネリアス・カーデュー[*英国にジョン・ケージを紹介し、イーノに影響を与えたひとり]が1977年に刊行した機関誌『コグズ・アンド・ホイールズ』の創刊号で「パンク・ロックはファシストである」という記事を掲載したことはその筋ではよく知られた話だ。いわく「若者の怒りの資本化で、それはガス抜きにしかならず、ザ・クラッシュは反動的」……。ロック・アゲインスト・レイシズムが立ち上がってから、カーデューたちはその言葉を撤回したが、しかし英国の急進派たちの一途さもパンクに対する疑いを失うことはなかった。ザ・ポップ・グループが「ナショナル・フロント」を歌詞のなかで名指しで批判しているにも関わらず、である。
ちなみに、ファシズムに陥りやすい人間のことをアドルノは次のように表現している。「伝統的価値基準の衰退に異様に取り憑かれ、変化への適応力を欠き、自分たちの『内集団』に属さない他者への憎悪に囚われ、退廃から伝統を『守る』ためと称して暴力的行動に出る」ような人物。

(*4)「We are all Prostitutes」を「左翼の説教」だと真っ先に批判したのは『Y』を絶賛したイアン・ペンマンである。マーク・フィッシャーやサイモン・レイノルズに影響を与えたポスト・パンク時代の『NME』の人気ライター。『For How Much Longer〜』は、当時の第三世界における欧米の植民地主義をかなり具体的に批判した内容なので、これまた賛否両論だった

(*5)鏡像関係を意味していていると思われるが、ブレイクの「虎」の訳に関しては、岩波文庫の『ブレイク詩集』でもそうとうご苦労されている。「汝の恐ろしい均斉」では、難しい漢字を使っているだけで意味がようわからんです。ちなみに「虎」とは、ヴァルター・ベンヤミンが革命家のメタファーとしても使っている。

 2025年1月、ロサンゼルス(以下、LA)を襲った山火事は現地に住む多くの音楽家たちの生活を奪い、コミュニティを離散させた。そんななか、LAの音楽シーンを支えてきたインターネット・ラジオdublabの日本ブランチであるdublab.jpは、支援と連帯を示すためのチャリティ・コンピレーションを制作。『A Charity Compilation in Aid of the 2025 LA Wildfires -resilience-』と銘打たれた作品には、岡田拓郎、王睘 土竟(荒内佑 + 千葉広樹)、食品まつり a.k.a. FoodmanBUSHMIND、Daisuke Tanabe、Albino Sound & Daigos (D.A.N)、SUGAI KEN、優河、Ramza×hotaru、TAMTAM嶺川貴子、白石隆之など、主に日本の有志たちによる楽曲が収録されている。

 ここまでジャンルレスに多彩な顔ぶれが揃うコンピレーションも珍しいが、それこそがLAの音楽文化の豊かさを表しているとも言える。そして、あまりに豊かで横断的であるがゆえに、シーンを俯瞰的に観測することは容易ではなく、相関図を作ってみたところで線が入り組みすぎてしまうだろう。

 では、現地の事情に詳しい人たちに、彼らの視点でシーンを切り取って語ってもらおうというのが今回の鼎談企画だ。語り手は、コンピレーションにも参加している岡田拓郎、dublab.jpの発起人であり自身のレーベル〈rings〉から現行LAシーンの作品もリリースしている音楽評論家の原雅明、そしてコンピレーションのプロデューサーでありdublab.jpの現代表の玉井裕規。なぜ私たちはLAの音楽に惹かれるのか、その答えが朧げに見えてきた。

LA的感性の根底にある「リスニング」志向

レコードが好きな人たちが好む音楽と、プレイヤーがやりたい音楽、クラブ・カルチャーの人が聴きたい音楽とが全部交差してシーンとして成立しているというか。(岡田)

玉井:今年1月にLAの山火事が起こった当初、報道からは断片的な情報しか入ってこなかったので、dublab.jpではLA現地のdublabやその周辺のコミュニティから状況を教えてもらって、よりリアルな実態を把握するための記事や支援団体に繋げるための記事を出したりしたんです。
それから、現地のメンバーと定期的に連絡をとるなかで、現地でも報道が減って風化していたり、保険金や支援金を受けるのにも複雑で長期的な対応を迫られるだとか、家を失った人たちのその後の生活とか、それこそ壊滅状態になってしまった音楽シーンのことなど、たくさん課題をたくさん聞いていて。
大金を集められるわけではないけれど、我々から現地の音楽コミュニティに対して、音楽によって支援できることはないかと考えてチャリティのコンピレーションを作ろうということではじまったのが今回の「A Charity Compilation in Aid of the 2025 LA Wildfires -resilience-」です。準備期間も要しましたが、結果として発生から5ヶ月が経ってからのリリースになったことは、ニュース性よりも長期的な支援を訴える上では良かったんじゃないかと思っています。

 参加アーティストは、dublabと関係があったり、LAの音楽カルチャーに影響を受けている方々に声をかけていった結果、本当に幅広い顔ぶれになりました。昨年LAでレコーディングされてらっしゃった岡田拓郎さんもその参加アーティストのひとりです。


玉井裕規(dublab.jp)

岡田:僕がLAに行ったのは2023年の5月が初めてです。Temporal Drift の北沢洋祐さんとは繋がっていて、元々2020年にちょろっと行ってみようと予定していましたがパンデミックになってしまい、ちょうど渡航のためのPCR検査などが必要なくなったのがそのタイミングでした。アメリカに行くのもそのときが初めてで、パンデミックが落ち着いてきて、生きてる間にいろんなところ行ってみよう! みたいな気持ちで向かったので、特にレコーディングのために行ったわけでもありませんでした。
 現地に着いたら、たまたまいろんなミュージシャンに会えたり、集まれば演奏したり録音しはじめたりみたいな感じで、もう音楽の生活への根づき方にびっくりして。
 Yohei(鹿野洋平)さんのことも知っていたので連絡して自宅にお邪魔したら、ちょうどPhi-Psonicsのセスさん(Seth Ford-Young)が「近くにいるから遊びに行くよ」ってことでコントラバスを持って来てくれて。
 Yoheiさんの家は庭がスタジオなんですよ。そこでせっかくだからセッションして録音しようよって、旅の写真を撮るような感じで半日ジャムって遊んでもらいました。そのときの録音のひとつが今年リリースした「The Near End, The Dark Night, The County Line」に収録されてます。


岡田拓郎

玉井:LAでは庭にスタジオを構えることは珍しくないですよね。Yoheiさんは素晴らしい作曲家でありプロデューサー、かと思えばローディーとしてブレイク・ミルズや斉藤和義、ロバート・プラントのツアーに参加していたりと、すごくフットワーク軽く活動している人で僕も正体がつかめていないのですが(笑)、元々はレコードの再発レーベルをやりたくてアメリカに渡った人なんですよね。

岡田:僕が個人的に好きなLAのシーンに対して抱いているイメージって、レコードが好きな人たちが好む音楽と、プレイヤーがやりたい音楽、クラブ・カルチャーの人が聴きたい音楽とが全部交差してシーンとして成立しているというか。そういう場所って世界を見てもあまりないと思うんです。すごく実験的なことをやったとしても、最終的にはリスニング・ミュージックとして楽しめる録音物に落とし込むというか。
 エクスペリメンタルと呼ばれるような音楽も僕は好きですが、そういった音楽は例えばインディ・ロックやポップス好きにはときに厳し過ぎる側面があると言いますか。LAではそういう音楽でも、あくまでリスニング作品として楽しめるものが多いように感じます。LAのいまのシーンで活躍している人たちが持っているおおらかなムードが、そういう作品づくりを可能にするんじゃないかと思います。ああいう空気感があると、出てくる音楽は当然変わってくるだろうなと。

原:dublab.jpで放送をスタートさせた2013年当初、LAのメンバーからは「どんな放送でも必ずアーカイヴしろ」としつこく言われたんですよ。まだ慣れないなかで内容がグダグダな番組もあって、こんなの残したくないよって言ったんですけど(笑)。当時はすべてのデータをLAのサーバーに保存する決まりになっていたので、提出しないわけにはいかなくて。渋々やっていたけれど、続けていくうちにアーカイヴすることの価値の大きさがわかってきました。LAには、必ずレコーディングして残す、という習慣のようなものが根付いているように感じます。例えば、カルロス・ニーニョは即興的なセッションをやったとして、その素材を使ってあれこれ編集したものをプライベートプレスでもいいから必ずレコードとして残すんですよ。そういう、リスニングの楽しみがわかっているというか、リスナー側のことをしっかり理解している人が多いなと思いますね。
 ミュージシャンって、どうしても演奏することがゴールになってしまいがちな節があると思うんですが、LAでは演奏とレコーディングが対になっている。その大切さをよくわかっているから、優れたレコーディング・エンジニアが育つし、質の高いスタジオが維持されてるんではないでしょうか。


原雅明

コロナ禍以降、ひとりで音楽を作ったりクラブでの演奏以外の活動が模索されたなかで、競争から離れるミュージシャンが増えて、その受け皿としてLAがあったという面もある気がします。(原)

そういう文化の源流になっているものは何なんでしょうか?

玉井:まずLAにはジャズやポップスなどのシーンと平行して、映画産業に紐づいた音楽産業がありますよね。

岡田:映画の(劇伴などの)仕事があることで、ミュージシャンたちがクラブ回りをする以外の食い扶持を得ることができたというのはLAらしい環境ですよね。

玉井:譜面が読めるミュージシャンが圧倒的に多いエリアとよく言われてたそうですからね。

原:仕事があるからLAにいる、ということは大いにあると思います。いまだったら、例えばNetflixから仕事をもらえるとか。コマーシャルなものとインディペンデントなもの、両方があって往来できるから、ネイト・マーセローやブレイク・ミルズみたいな人たちが大きい仕事もしながら実験的な作品も自由に作れているわけですよね。
日本でもそういう状況がもっとあればいいなと思うんですけどね。そうすれば、それこそ岡田さんみたいなアーティストがもっと活動しやすくなる。

岡田:そうですね。シカゴ時代のジム(・オルーク)さんのように、自分の作品を作りつつ、プロデュース、エンジニア業を行ったり来たりできたらなあとこの10年間やってきたところはあります。僕みたいなタイプのミュージシャンはLAにいけばいくらでもいると思いますが、日本の土壌だとまあまあ大変ですね(笑)。
 LAはコミュニティという単位で動くという意識も強いと思うので、コマーシャルなところにもクリエイティヴなまま関わることができている気がしますね。例えばプレイヤーはその現場に合わせてスタイルをいろいろ変えて合わせていくというよりは、そのプレイヤーのカラーが欲しいからその現場に呼ばれ、集まると言いますか。ジェイ・ベルローズとかメジャーな人とやっても、小さなクラブでプレイしても全然スタイルは変わらない。これって当たり前のようでいて、いざ自分の国のプロダクションの仕組みを省みるとなかなか難しいことだったりもする。これはLAに限ったことではありませんが。

原:なぜLAに音楽家が集まるのかということについては、気候が温暖で居心地がいいこともやっぱり大きいと思いますね。古くはストラヴィンスキーやマイルス・デイヴィスもキャリアの晩年はLAに移住していたりするわけですけど。ニューヨークのような場所は緊張感があってそれはそれで良いけれど、それが辛くなってきた人はLAの穏やかな環境に移っていくという動きが、近年のアメリカのジャズシーンでも現れていますよね。

岡田:LAとニューヨークで、やっぱりミュージシャンのカラーの違いは明らかにありますよね。

原:ありますね。ニューヨークはヒエラルキーがあって、ランク付けがつねにされているようなところがあります。それが収入にも直結していくような緊張感がある。それがやりがいと感じられる人もいるけれど、疲弊する人も当然いるわけです。それがコロナ禍以降、ひとりで音楽を作ったりクラブでの演奏以外の活動が模索されたなかで、競争から離れるミュージシャンが増えて、その受け皿としてLAがあったという面もある気がします。スピリチュアルな方面に目覚めるミュージシャンも多かったですし。

玉井:そういうムーヴメントやコミュニティも、今回の山火事で破壊されてしまったわけですよね。火災発生直後から、多くのアーティストたちは「GoFundMe」というクラウドファンディングのプラットフォームを使って各々が支援金を募る動きが活発だったんですけれど、いま、そういう形で資金を得ていた人々が政府からの補助金を受給しにくいという事態になっていたり、申請作業自体が非常に煩雑でそのやりとりだけで相当の時間を要するということも言われていたりするんですよ。
 そうなってくると、人材がどんどんLAから出ていってしまうんですよね。例えば、日本でもファンが多いファビアーノ・ド・ナシメントなども。LAの音楽産業から人材や頭脳の流出がすでにはじまってしまっている気がします。

岡田:僕が面識のあるLAの人たちは、みんな直接火災の被害は受けていなくて家屋も無事なんですけど、灰の被害がひどすぎて結局土地を離れてしまっている人が結構いますね。Tenporal Driftのパトリック(Patrick McCarthy)さんは火災の直後、しばらくは家を離れなくてはならなかったと言っていました。

原:マッドリブの家も焼けてしまって、機材やレコード・コレクションも失われたらしいですが、ちょっと信じられない損害ですよね。

岡田:ジェフ・パーカーとよく一緒にやってるポール(Paul Bryan)も、同じくスタジオの機材が燃えてしまったと聞きました。

原:この火災が今後どういうかたちで、どれくらいの損失を出すのか、まだ全く予想がつかない。

玉井:にもかかわらず、現地でも山火事に関する報道はほとんどされなくなってしまっているらしく、支援の動きが盛り下がってしまうことが心配です。

改めて振り返る、2000年代〜2010年代のLAシーン

そういうムーヴメントやコミュニティも、今回の山火事で破壊されてしまったわけですよね。LAの音楽産業から人材や頭脳の流出がすでにはじまってしまっている気がします。(玉井)

原さんがLAのシーンを意識したり、関わりはじめた当初のこともお聞きしたいです。

原:LAのdublabが立ち上がるのが1999年ですが、それよりも前に、dublab創設者のフロスティ(Mark “Frosty” McNeill)とは知り合っていたんです。彼はその頃から日本のアンダーグラウンドな音楽をやたら掘っていて。そういう作品のリリースに僕が携わっていたからか、直接コンタクトしてきたんですね。Rei Harakamiを聴かせたらのめりこむようにファンになってた。dublabがスタートしてからは、すぐに竹村延和を出演させたり。

玉井:それ、99年の放送ですよね。当時聴いていました。

原:その後、コーネリアスが初めてアメリカ・ツアーをしたときにもdublabに出てましたね。
LAに初めて行ったのは2008年。当時雑誌だったTOKIONからの依頼で、世界の各都市の音楽シーンを巡る企画の一環でした。僕はLAを希望したら行かせてもらえた。良い時代ですよね(笑)。ちょうど「LOW END THEORY」がスタートした年で、J・ディラが亡くなってから2年経っていたタイミングですね。そのときに行った「LOW END THEORY」には〈Warp〉からリリースする前のフライング・ロータスが出ていました。ほかにも、ラス・Gが働いていた〈POO-BAH-RECORDS〉やdublabのスタジオに行ったり。
 そこから 2010年になると、いろいろなことが爆発的に生まれていくわけです。フライング・ロータスの『Cosmogramma』が出て、それまでも盛り上がっていたビート・ミュージック・シーンから、アリス・コルトレーンのようなスピリチュアル・ジャズの源流につながっていくものも現れて。一方で、カルロス・ニーニョはジェシー・ピーターソンと『Turn On The Sunlight』を出して、ビート・シーンとは離れた場所でアンビエントやフォークっぽいアプローチに行く。
 『Turn On The Sunlight」は僕がレコードも出したんですが、カルロスいわく「ジョン・フェイヒーとブライアン・イーノが出会ったらこんな音楽になる」って言っていて、当時はそれがよくわからなかったというか「これはどこに向かっている音楽なんだろう?」と思ったりしました(笑)。でも、そこからほどなくして、ニューエイジ・リヴァイヴァルと言われる音楽に注目が集まり、『I Am The Center: Private Issue New Age Music In America, 1950-1990』のようなコンピレーションが〈Light In The Attic〉から出るようになった。
 そして、そういう動きと並行して、カマシ・ワシントンとかオースティン・ペラルタとか、ジャズ・ミュージシャンたちも当時はビート・ミュージックのレーベルだった〈Brainfeeder〉からジャズのアルバム(2015年にカマシ・ワシントン『The Epic』がリリース)を出すということも起きはじめる。
 さっき岡田さんが言っていたような、プレイヤー的な音楽もリスナー的な音楽もすべてが混ざり合っていくような土壌は、こういう動きのなかで完成されていったように見えるんですよね。

アンビエント的なものを内包したジャズというのは確実に出てきていますよね。こういう潮流が現行のLAシーンから生まれたということと、さらにその源流にはアリス・コルトレーンが1970年代に建てたアシュラム(僧院)があるんじゃないかと思います。(原)

そういうクロスオーヴァーな動きを牽引するようなミュージシャンたちは、どんな現場で育成されているのでしょうか?

原:例えば、LAジャズのメッカといわれるレイマート・パークにあるThe World Stageという老舗のジャズ・クラブはワークショップもおこなうコミュニティ・スペースでもあって、カマシやテラス・マーティンなんかも演奏していた。カマシたちが台頭したことで、The World Stageが綿々と続けてきたことにスポットライトが当たるようになりました。その後も、新しいプレイヤーを輩出し続けていて、いまのLAシーンで活躍している人たちにもここで地道に演奏してきたミュージシャンがいます。

玉井:THE PAN AFRIKAN PEOPLES ARKESTRAもThe World Stageのあるサウス・セントラルという地域で生まれていて、そうしたローカルなコミュニティからジャメル・ディーンのような新しい才能が出てきていますよね。

原:The World Stageはコミュニティをサポートして、教育の場になっているイメージですね。UKのトータル・リフレッシュメント・センターにも近い感じかな。

玉井:THE PAN AFRIKAN PEOPLES ARKESTRAのメカラ・セッションというドラマーのドキュメンタリー作品をdublabのフロスティとアレ(Alejandro Cohen)がプロデューサーとして制作しているんですが、ジャズ・スピリットがどうやって継承されていくか、みたいなことが語られていて。その系譜のなかにカマシやジャメル・ディーンたちがいるんだということがわかります。

https://www.pbssocal.org/shows/artbound/episodes/the-new-west-coast-sound-an-l-a-jazz-legacy
The New West Coast Sound: An L.A. Jazz Legacy

音楽が静かになっていく、その心とは?

昨今のLAのコンテンポラリーなジャズ・ミュージシャンたちは、一見オーセンティックでストレートアヘッドなジャズをやっていても、カルロス・ニーニョが提示したような感覚を持ってやっているというのは感じます。皆、極めて静かな演奏をしますよね。(岡田)

原さんから語られた2010年代の動きがその後向かった先のひとつが、昨今のジャズとアンビエントが接近したようなサウンドということにもなるわけですね。

原:「アンビエント・ジャズ」という呼称が適切なのかはわからないのですが、アンビエント的なものを内包したジャズというのは確実に出てきていますよね。象徴的だったのはやはりアンドレ3000がカルロス・ニーニョたちと作った『New Blue Sun』です。ヒップホップ・アーティストがスピリチュアル・ジャズやニューエイジにアプローチしたような作品で、もうこれが決定打になった感じがします。

 こういう潮流が現行のLAシーンから生まれたということと、さらにその源流にはアリス・コルトレーンが1970年代に建てたアシュラム(僧院)があるんじゃないかと思います。80年代にはLA郊外のさらに広大な土地に移って、商業的なリリースに背を向けてヴェーダ聖典を学ぶ人びとに向けて音楽活動をおこなっていた。
 フライング・ロータスや、アンドレ3000のバンドでキーボードを弾いているスーリヤ・ボトファシーナなんかは、アシュラムに出入りしていた人たちなんですよ。スーリヤはアリスの愛弟子で、アシュラムで育ったあとに名門のニュースクール大学に行ってジャズを学んでもいる。彼のようなミュージシャンも登場していて、カルロス・ニーニョと当然のようにつながっているわけです。
 『Cosmogramma』もそのきっかけのひとつだけど、アリス・コルトレーンのような音楽が再評価されて、一般的なリスナーにも聴かれるようになったことというのが、大きな流れのなかで影響を及ぼしているんじゃないかと思いますね。

岡田:クラブ・ジャズの文脈でスピリチュアル・ジャズの再評価がされた時代がありましたけれど、今日の視点は少し異なりますよね。それこそアリスの音楽はそこからも漏れてしまっていたと思いますし。

原:カルロスがビルド・アン・アーク(Build An Ark)をはじめたときはそういうクラブ・ジャズの流れで評価されていたわけだけど、それ以降のカルロスはビートを外す方向に行くわけです。おそらくですが、カルロス本人の考えとして、ビートを外さないと次にいけないと思ったんじゃないかと思うんですよね。ビルド・アン・アークはミュージシャンの集まりで、カルロスはほとんど演奏しないけどバンド・リーダー的な影響力があって、例えるならキップ・ハンラハンみたいな存在でもありました。でも、そのままプロデューサーに進むのではなく、プレイヤーとリスナーの中間みたいな居場所を見つけようと模索していたんではと思います。だから、ニューエイジやアンビエント的なものに振り切れば、いろいろなことができると思ったんじゃないかと。

玉井:カルロスが『ユリイカ』のインタヴューで語っていたことですが、「人は成熟するにつれてビート・ミュージックから離れていくものなんだ」みたいな、なかなか過激なことを言っていましたね(笑)。フィジカルに高揚するものではなくて、より自由な音楽の形を自己の内側に求めていたということなんでしょうね。

岡田:アンビエント・ジャズのようなサウンドは、まさにリスニング視点から生まれたものとも言えますよね。例えばマイルス・デイヴィスの黄金クインテットなんかは流動的に伸縮する身体性が注目される印象です。ですが、スタジオ作品においては抑制されていると言いますか、非常にプロデュース的な作品であったりもします。言わずもがな黄金クインテットのライヴは極上ですが、ここにおけるある種のプレイヤーズ・ミュージック的なセッションの部分がその後のプレイヤーや評論家に過度に注目され語られ引き継がれていった部分も少なくないように感じています。
 カルロス・ニーニョがビートを外したっていうのは、こうしたジャズにおけるこういった意味での火花が散るようなプレイヤーズ・ミュージック的なセッションへの再考と実践でもあるように感じています。そしてこれは必ずしも身体性との訣別というわけではありません。ビートこそありませんが、近年の彼の音楽の持つ身体性や自然環境のような流動性は作品を追うごとに増しています。熱を必ずしも外側に放射するのでなく、内的な熱にフォーカスすることもできる。前者が熱を帯びた会話や議論だとするなら、後者は会話もするけど、そんな大きな声も出さなくても会話ができるしそのなかにはビーチベッドでチルしてる人がいても良い感じと言いますか(笑)
 昨今のLAのコンテンポラリーなジャズ・ミュージシャンたちは、一見オーセンティックでストレートアヘッドなジャズをやっていても、カルロスが提示したような感覚を持ってやっているというのは感じます。皆、極めて静かな演奏をしますよね。大きい声を出さなくても会話ができる環境といいますか。

玉井:そういうアプローチはウェストコースト・ジャズでは昔からあるように思っていて、例えばジミー・ジュフリーがやっていたような絶妙な均衡で成り立っているアンサンブルのサウンドって、静謐で、ともすれば眠たくなるような演奏だけれど、それこそ現代のアンビエント・ジャズ的な耳で聴くとすごく良い。そういう音がジェフ・パーカーとか、いまのLAのジャズ・ミュージシャンに継承されているんじゃないかという気もしますね。

岡田:思えば、ジェフ・パーカーがETAでやっていたような(ETA IVtetの)セッションって、チコ・ハミルトンとかガボール・ザボのような、ドローンが基調にあってハーモニー的な起伏はできるだけ何も起こらない、当時のジャズ好きからしたら退屈とされてしまった音楽を思い起こさせますね。そしてこのミニマルな感覚は現代のLAジャズに通底するトーンを想起させます。

原:ジェフ・パーカーのソロ・ギター作品について「フリー・インプロヴィゼーション」ではなくて「フリー・コンポジション」とプレスリリースで説明されていた。即興演奏ではなくて、作曲しながら即興演奏しているんだと。それは言い得て妙ですよね。

岡田:これは本当に面白いですよね。カルロスがビートを外したことを踏まえて、その上で再びビートを取り入れ、複数人でお互いの演奏に耳を傾けながら即興的に組み立てていく。一見静かだけど、本当にスリリングで刺激的なサウンドだと思います。

ベーシックな文脈の上に、新たな行き先を提示する

僕はジョシュ・ジョンソンですかね。作品はもちろんですが、彼が去年dublabの番組に出た際の選曲がすごく良かったんですよ。それこそアンビエント・ジャズを俯瞰するような内容で。(玉井)

みなさんがいま追っているLAのアーティストやコミュニティについてもお聞きしたいです。

玉井:僕はジョシュ・ジョンソンですかね。作品はもちろんですが、彼が去年dublabの番組に出た際の選曲がすごく良かったんですよ。それこそアンビエント・ジャズを俯瞰するような内容で、ジョシュア・エイブラムスの新譜とかもかけていて、ジョシュのルーツにシカゴ音響派と呼ばれたような時代の音楽もやはりあるんだろうか、とか。

https://www.dublab.com/archive/frosty-w-josh-johnson-celsius-drop-10-10-24

岡田:トータスをはじめシカゴの音響的な音楽を聴いていたジャズマンがミニマルなジャズをやったら絶対おもしろいじゃん、とかそういうことを考えている人が当たり前にいる世界なんですよね。ゴリゴリにジャズができるけど、タウン・アンド・カントリーも吉村弘も好きみたいな人がたくさんいる。僕もそういう話だけをしていたい……(笑)。

玉井:(ジョシュの選曲のなかで)あとはダニエル・ロテムとかもかけていて。

岡田:多重録音で作ってるひとですよね。すごく良かった!

原:ダニエル・ロテムの作品を出している〈Colorfield Records〉というLAのレーベルはすごく良いですよね。アンビエント・ジャズっぽいものも出しているレーベルなんですが、例えばマーク・ジュリアナやラリー・ゴールディングスの作品も普段の作風とは異なる音響感になっていたりする。レーベルのプロデューサーがピート・ミンという人なんですが、彼は必ずアーティストとマンツーマンでスタジオに入って一緒に作品を作り上げるというスタイルらしくて。

岡田:理想的ですよね。優れたジャズ・プレイヤーにこんな演奏をしてほしい、っていうコミュニケーションをしながら作品を作っていくというのは。ジャズの人たちはみんな演奏力が高いから、言ったことをなんでも体現してくれる。

原:プロデューサーとして正しいことですよね。とりあえず一緒にスタジオ入ろう、っていうのは。

岡田:一対一の〈ECM〉みたいな。

玉井:マンフレート・アイヒャーとマンツーマンは怖いですね(笑)。

最後に、岡田さんが注目しているアーティストは誰でしょうか。

岡田:ディラン・デイというギタリストですね! 彼は本当に面白いギタリストです。日本にはサム・ウィルクスのライヴで来ていましたけど、やばい音を出す人だなと思ってステージの足元を見に行ったら、チューナーしか置いていなかった(笑)。いわゆるデレク・トラックス的な上手さもある人なんですが、マッチョな演奏ではなく、すごく抑制が効いていて。スライド(・ギター)のプレイも時にサイン波の電子音のように聴こえたり。

 プリミティヴなアメリカーナがルーツなんだと思うんですけど、サム・ウィルクスみたいな未来的な志向のあるサウンドにエフェクターなしで入り込めちゃうというのは、ちょっとショックですらありますね。Phi-Psonicsの次の作品にも参加しているらしく、自分のかたちを変えないでどんな音楽にでも入っていけるというのは、いまの時代に珍しいスタイルだと思います。
 ディラン・デイしかり、SMLなどに参加しているグレゴリー・ユールマンとか、ジャクソン・ブラウンの来日公演で観たメイソン・ストゥープスとか、すごく面白いギタリストがLAからたくさん出てきている。トラップが全盛だった2010年代というのは、多くのギタリストはギターの役割について向き合わなくてはいけない時代で、自分もそういうことを考えていた。いま一度、ギターという楽器を楽曲のなかでどう位置づけるか、どうやって新しいサウンドを見つけるかという模索を、彼らもこの10年してきたんじゃないかという気がします。それを経て2020年代に入って新しい可能性を提示しているんじゃないかと。

彼らに共通している特徴を見出すことはできますか?

岡田:いまはエフェクターでできることが拡張しているなかで、テクノロジーを使ってどんな音を出すかを模索するうちに、どんな変わった音を出すかというペダリストに陥ってしまいがちな時代だと思います。ときに鳥の鳴き真似合戦になってしまっていないか、とか(笑)。彼らはユニークな音も扱うけど、極めてギターをギター的に弾くことで勝負できる人たち。ブルース、ジャズ、カントリーというベーシックなアメリカの音楽史の流れのなかでのエレキ・ギターが、ギターについて本当によく知っていますし、現代の音楽に対してこの古典的な楽器でどうアプローチすれば、どこに向かっていけば面白いのか、について本当によく考えていると思います。そういう文脈がないと、音楽自体がどこへ向かっていけばいいかわからなくなってしまうようにも思う。文脈がないと、結局ペダリストになってしまうとも言えるし。だから彼らのことは、120%支持したいですね。

Pulp - ele-king

 1995年という年は、いまとなっては当時の1965年と同じくらい遠い過去になった。1995年、グラストンベリー・フェスティヴァルのメインステージに、ストーン・ローゼズの代役として突如ヘッドライナーとして登場したパルプにとって、それはバンドの飛躍を意味したものだったが、同時に、イギリスのポップ・カルチャーにおける決定的な出来事でもあった。当時リリースされたばかりのシングル「Common People」は、その瞬間にして90年代を象徴するポップ・ソングとしての地位を確立したのだった。
 あのときの勝利は、周縁に追いやられてきた人びと、置き去りにされてきた人びと──インディ・キッズ、労働者階級、学校でいじめられ、スーパーマーケットの駐車場で暴力を受けていたような“変わり者”たちにとっての正当性の回復のようにも感じられた。
 あれから30年──2025年に(あまりうまく隠し通せなかった)シークレット・セットとして同じステージに戻ってきた彼らは、明らかに年齢を重ね、白髪も混じった風貌のバンドとなっていた。もっとも、ジャーヴィス・コッカーはもともと“老けた若者”のような佇まいで、彼の身体がようやく年齢に追いついただけとも言える。その意味では、彼の佇まいはあまり変わっておらず、2025年のパルプのライヴは、驚異と美しさに満ちたものだった。90年代の楽曲がひとつずつ演奏されていくにつれ、時間が逆流していくような錯覚を覚える。ジャーヴィスの表情や身振りが、いつしか過去の写真のなかの彼自身と重なっていき、ひとつひとつの曲が、ふたたび若さを帯びながら息を吹き返していくのだ。

 パルプの新作アルバム『More』は、こうした熟年期の彼らが生み出した作品である。そこには人生の静かな失望や諦念が、擦り切れた袖口のように滲んでいる。だがこのアルバムは同時に、過去の断片や未完の思考と緩やかにつながりながら、それらを現在へと開かれた「連続体」の一部として再構築している。過去と対話を重ねることで、それをいまなお生き続ける何かとして復活させている。

 オープニング曲 “Spike Island” は、1990年にザ・ストーン・ローゼズが敢行した伝説的な野外コンサートを参照している。この公演は、音響の不備や場当たり的な運営が問題視された一方で、インディ・カルチャーが時代精神を掌握した象徴的瞬間であり、パルプが1995年にグラストンベリーのメインステージに立つまでの流れを形成する上でも、重要な踏み石となった出来事だ。 “Slow Jam” に登場する「Cos I’m the resurrection man(だってぼくは復活の男だから)」という一節もまた、ザ・ストーン・ローゼズの代表曲 “I Am the Resurrection ” を想起させつつ、彼らが生み出した時代の空気がパルプの台頭を後押ししたという文脈をほのめかしている。
 アルバムにはその他にも、ポップ・カルチャーへの言及が点在している。 “Tina ” のなかの「Your lipstick on my coffee cup(コーヒーカップについた君の口紅)」という台詞は、90年代UKポップスの寵児テイク・ザットへのウィンクとして響く。そしてラスト曲 “A Sunset” では「I’d like to teach the world to sing(世界中に歌を教えたい)」というフレーズが繰り返される。これは、1971年に放映されたコカ・コーラのCM──海辺の夕焼けを背景に、若者たちが合唱するあの映像──に記憶の起源をもつかもしれないが、同時にオアシスの初期代表曲──ロジャー・クックとロジャー・グリーナウェイによる原曲 “I’d Like to Teach the World to Sing ” のメロディを流用していたことで知られている── “Shakermaker ” をも想起させる。

 もちろん、このアルバムにはパルプ自身の歴史も随所に織り込まれている。 “Got to Have Love ” でジャーヴィスが綴る「L-O-V-E」の綴り方は、1995年の名曲 “F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E. ” を明確に呼び起こすし、 “Grown Ups” における「Are you sure?(本気かい?)」という一言は、 “Common People” での印象的な語り口をなぞる。そして “Background Noise ” で告白される「Don’t remember the first time(最初のときのことは覚えていない)」という一節は、1994年の出世作『His’n’Hers』に収録された名曲 “Do You Remember the First Time? ” への静かな応答でもある。過去と現在、記憶と再演──それらはこのアルバム全体を通して繰り返し響き合いながら、パルプという存在の継続性を、静かに、しかしたしかに証明している。

 とはいえ、こうした過去のポップ・カルチャーにまつわるイースターエッグ[*復活祭に飾られるカラフルな卵/復活の象徴]の数々は、どちらかといえば時間の経過を示す通過点のようなものであり、このアルバムの核心にあるのは、ジャーヴィス自身による老いについての私的な黙想にほかならない。そしてそれは、かつて彼の楽曲を特徴づけていた、性的欲望や覗き見るような痛みを描いた物語の精緻な語り口とまったく同じ文体で遂行されている。
 2曲目 “Tina” は、 “Something Changed ” の構造を逆転させるような楽曲だ。あの曲では、語り手はまだ出会ってもいない女性との未来を夢見ていたが、 “Tina” では(おそらく既婚の)男が、実現しなかったもうひとつの人生──ある女性との長年にわたる幻想の関係──を回想するというかたちをとる。いや、より正確には、電車やカフェでふと目にする女性たちに向けて日常的に抱く、現実とは切り離された空想の象徴といった方がいいかもしれない。
 この曲の核心にあるのは、「老い」がいかにして人間から「別の人生」の可能性をひとつひとつ奪っていくか、という痛切なメタファーである。そしてそのメタファーは、女性の名前に込められた言葉遊びによって強調される。 “Tina” とは、マーガレット・サッチャーがかつて語った有名なフレーズ──「There Is No Alternative(他に選択肢はない)」──の頭文字なのだ。

“My Sex ” は、より近過去の記憶を反映している。ギリシャ悲劇のコロスを思わせる鋭く語りかけるようなバッキング・コーラスは、ジャーヴィス・コッカーが2019年に始動させたプロジェクト《Jarv Is...》の作風と語り口を彷彿とさせる。一方、 “Got to Have Love” は、別の興味深いアプローチを取っている。2000年前後に書かれたが一度はお蔵入りとなった楽曲を再構築し、いまのバンドの状況にふさわしいかたちで蘇らせているのだ。ディスコ的な律動が執拗に反復されるこの曲は、バンドの絶頂期の痛切な渇望──とりわけ “She’s a Lady” に通じるもの──をもっとも明示的に喚起するものだが、同時にジャーヴィスは、当時と現在とのあいだに広がる時間の隔たりを自覚的に見つめている。「It cannot be denied, I waited far too long / To believe, to believe in the words, I once wrote to this song(否定できない、ぼくはあまりに長く待ちすぎた/かつてこの曲のために綴った言葉を信じるために)」
 しかしながら『More』は、ブラーの近作『The Ballad of Darren』と同様、強いポップ性を前面に押し出すよりも、静かなテンポと内省的な憂いに重心を置いた作品である。ブラーのデーモン・アルバーンが“ダレン”という誰でもない架空の存在を媒介に老いについての思索を展開したのに対して、ジャーヴィス・コッカーはより直接的で、感傷に浸ることなく語りかけてくる。曲そのものも、しっとりとしたトーンのなかに、どこか切迫した緊張感を保っている。
  “Partial Eclipse” は、パルプがこれまで録音してきたなかでも屈指の名曲のひとつと言ってよいだろう。そしてアルバムを締めくくる “A Sunsets” は、すでにライヴでのハイライトとしての風格すら漂わせている。録音ではブライアン・イーノとその家族がバック・ヴォーカルに加わっているが、その響きはまるで、イーノの名作『Before and After Science』のB面に収められていても不思議ではないような、静謐かつ奥行きある余韻を残す。
 『More』に欠けているのは、作品全体を貫く強固な「音の輪郭」だ。少なくとも、それが『His’n’Hers』にあったような、きらめくシンセとグラム・ロック的華やかさで構築されたウォール・オブ・サウンドであったり、『This is Hardcore』のような、コカインの幻覚と偏執的閉塞感、そしてオーケストラルなギター・ノイズが渾然一体となった不穏な音響的スープであったりするような形では、ここには存在していない。

 もっとも、『More』も『This is Hardcore』と同じく、管弦楽的アレンジへの愛着を共有してはいる。だが本作を特徴づけているのは、むしろ過剰さを排した端正なプロダクション──それぞれの楽曲に必要な空間だけを与え、個々の曲が独立した輝きを放てるように配慮された、ミニマルで清潔な仕上げである。その意味で、アルバム全体の印象は『Different Class』に近い。じっさい、この『Different Class』との関係こそが、本作について考えるとき何度も立ち返ってしまう視点である。『More』は、90年代のあの名作の、老いを経た鏡像のようにも感じられる。年月に磨耗しながらも希望を失わず、どの曲も同じように独自性をもち、洗練され、控えめなながらしっかりとした自信をたたえた、もうひとつのポップの結晶としてそこにあるのだ。


Ian F. Martin

1995 is is distant in the past now as 1965 was then. When Pulp stepped onto the main stage at Glastonbury in 1995 as last-minute replacement headliners for The Stone Roses, it was a breakthrough moment for the band and a defining event in British pop life, cementing the position of their then-new single Common People as the iconic pop song of the decade. It felt like a triumph and vindication for the outsiders and the left-behind: the indie kids, the working class, the weirdos who got bullied at school and beaten up in supermarket car parks.

When they stepped onto that same stage for a (not very well kept) secret set in 2025, it was as an older, greyer, more weathered group. Jarvis Cocker always looked to me like an elderly man just waiting for his body to catch up, so he inhabits this ragged state well. This also means that he is remarkably unchanged, and Pulp live in 20205 is a thing of wonder and beauty: as the songs from their 90s unfold, time seems to flow backwards through them, Jarvis growing impossibly younger as the set goes on and one by one he begins to inhabit those photographs of another time.

Pulp’s new album, More, is a creature born of this older band — music that wears the quiet disappointments of life on its worn sleeves — but throughout, it connects to and runs with loose threads from the past, turning the past into part of a still-living continuum, in conversation with its older self.

Opening song Spike Island references The Stone Roses’ legendary 1990 outdoor concert, notorious for its poor sound and slapdash atmosphere but a key moment in indie culture’s seizing of the zeitgeist and an important stepping stone on Pulp’s route to that stage in Glastonbury. The line “Cos I’m the resurrection man” on Slow Jam also perhaps calls back to The Stone Roses and the role they had in shaping the atmosphere that enabled Pulp’s rise. Other pop cultural reference points dot the album too. The line “Your lipstick on my coffee cup” from Tina gives a wink in the direction of Take That. Meanwhile, closing song A Sunset repeats the line “I’d like to teach the word to sing”, which perhaps has its roots in a childhood memory of a 1971 Coke advert, featuring a choir of youngsters singing the line against the backdrop of a seaside sunset, but also summons the memory of Oasis’ early hit Shakermaker, which stole the melody of Roger Cook and Roger Greenaway’s original song.

Naturally, Pulp’s own history extends through the album too. The way Jarvis enunciates the letters “L-O-V-E” in Got to Have Love echoes F.E.E.L.I.N.G.C.A.L.L.E.D.L.O.V.E. from 1995, The line “Are you sure?” on Grown Ups nods to his famous delivery of the same phrase in Common People, and his confession of “Don’t remember the first time” in Background Noise calls back to Do You Remember The First Time? from Pulp’s 1994 breakthrough (and best) album His’n’Hers.

But all these little easter eggs from past pop moments are more like waypoints to symbolise the passage of time, while the heart of the album is Jarvis’ own personal meditations on growing old. This he does with all the storyteller’s attention to detail that characterised his early tales of sexual frustration and voyeuristic heartache. Second track Tina inverts the structure of Something Changed, where instead of the narrator dreaming of a future with a girl he hasn’t yet met, it takes the form of a (possibly married) man loking back over a decades-long fantasy of a life he never had with another woman — or more likely an avatar for all the other women he idly fantasises about in trains and cafés. The song underscores its metaphor for the way age closes down one alternative life path after another by making the woman’s name an acronym for Margaret Thatcher’s famous declaration of cancelled futures everywhere: “There Is No Alternative”.

My Sex reflects the more recent past, with its sharply delivered Greek chorus backing choir recalling the style and tone of Cocker’s 2019 Jarv Is project. Meanwhile, Got to Have Love takes another interesting approach, resurrecting an abandoned song from around the turn of the millennium and retooling it for the band’s current circumstances. With its insistent disco pulse, it’s the song that most explicitly summons the painful longing of the band’s heyday, particularly She’s a Lady, but with Jarvis noting the distance between the song’s roots and the band’s current lives as he sings “It cannot be denied, I waited far too long / To believe, to believe in the words, I once wrote to this song”.

Like Blur’s recent The Ballad of Darren, though, More leans less on bold pop statements and harder on its downtempo, melancholy side. Where Damon Albarn wrapped his own musings on advancing age in the distancing device of everyman Darren, though, Jarvis is more direct, less mournful, the songs still crisp and urgent in their own way. Partial Eclipse might be one of the best songs Pulp have ever recorded, and closing song A Sunset already feels like a live showstopper, the recorded version recruiting Brian Eno and most of his family on backing vocals for a tune that already feels like it could have sat comfortably on Side B of Before and After Science.

What More doesn’t have is a strong overarching sound of its own, or at least not in the way His’n’Hers did with its shimmering, glittering, synth-glam wall of sound or This is Hardcore did with its paranoid, claustrophobic brew of cocaine-sleaze and orchestrally-augmented guitar noise. While it shares the latter’s love of orchestral arrangements, the overall sound it’s characterised more by a tidy, unfussy production style that gives each of the songs what they need to shine individually, and in this way it more closely resembles Different Class.

It’s that relationship with Different Class that I keep coming back to with this album, and in many ways it feels like an older mirror to its 90s counterpart: worn down by the years but still hopeful, and each song every much as unique, elegantly crafted and quietly confident a piece of pop in its own more understated way.

Adrian Sherwood - ele-king

 先日少しお伝えしたエイドリアン・シャーウッド13年ぶりのソロ・アルバム『The Collapse Of Everything』がいよいよ8月22日にリリースされる。同作にはマーク・スチュワートやキース・ルブランへの追悼の意が込められているそうで、ルブランの演奏も使用されているようだ。さらには、ブライアン・イーノが書いた曲も含まれているとのことで、大いに期待できそうです。
 またこれにあわせて、今年もDUB SESSIONSの開催がアナウンスされた。11月19日(水)@六本木EX Theater、11月20日(木)@名古屋Club Quattro、11月21日(金)@大阪Gorilla Hallの3都市を巡回する。今回はシャーウッドが(新作にも参加している)タックヘッドのダグ・ウィンビッシュ──元々はシュガーヒルのハウス・バンド、つまりオールドスクール・ヒップホップの代表曲、グランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイヴの “メッセージ” でベースを弾いていた人ですね。凄まじいテクニシャンなので必見です。ちなみにキース・ルブランはその時代のドラムです──をフィーチャーし、ライヴを披露するのみならず、マッド・プロフェッサー&デニス・ボーヴェルという、巨匠2組もステージに立つ予定。いやはや、なんとも強力な組み合わせだ。今年も見逃せない一夜になること間違いなし、早くも秋が楽しみです。

Adrian Sherwood

13年ぶりとなるソロアルバム『The Collapse Of Everything』を発表!!!

〈On-U Sound〉を率いるUKダブの総帥エイドリアン・シャーウッドが、13年ぶりとなるソロアルバム『The Collapse Of Everything』を発表! タイトルトラックが公開された。繊細かつ重層的なサウンドデザインと、ダブを基盤にジャンルの境界を越えて展開される冒険的な音響世界。マーク・スチュワートやキース・ルブランへの追悼の意も込められた本作は、シャーウッドの音楽人生と感情が凝縮された意欲作。ダグ・ウィンビッシュを中心に卓越したミュージシャン陣が集結。キース・ルブランの演奏やブライアン・イーノによる作曲を織り交ぜ、挑戦的かつドープなサウンドスケープを描き出す。
さらに国内盤CDには、アルバムに先駆けて発表されたEP作品『The Grand Designer』から、亡きリー・スクラッチ・ペリー参加曲「Let’s Come Together」含め3曲が追加収録される。


Adrian Sherwood - The Collapse Of Everything
YouTube https://youtu.be/KxDqK1QI6Yg
配信リンク https://on-u-sound.ffm.to/thecollapseofeverything

UKダブ界の名プロデューサー/ミキサーとして知られるエイドリアンだが、今回はミキシング・デスクの背後から前に出て、自身の冒険心に満ちたサウンドをこれまで以上に新たな領域へと押し広げている。そして、他アーティストのプロデュースと自身の作品との違いについて、次のように語っている。

「今まで何百枚も他人の作品を作ってきて、どれも誇りに思っている。でもソロ作品では、自分がすべての判断を下せるし、他の誰かを満足させる必要がない。今回のアルバムをライブでどう表現していくかも楽しみだし、多くの人が気に入ってくれると嬉しい。これは本当に良い作品だと思うんだ。」


新作完成を祝してUKダブの巨匠3人が、遂に一堂に会す!
20年目のDUB SESSIONSはマジカルな音の祭壇と化す!

ADRIAN SHERWOOD presents
DUB SESSIONS 20th ANNIVERSARY
THE COLLAPSE OF EVERYTHING
feat. ADRIAN SHERWOOD live with DOUG WIMBISH, ALEX WHITE, MARK BANDOLA

very special guests:
MAD PROFESSOR Electronic Dub Show

DENNIS BOVELL UK dUb MaNiAc (DJ SET)

東京 2025.11.19 (wed) EX Theater
名古屋 2025.11.20 (thu) Nagoya Club Quattro
大阪 2025.11.21 (fri) Gorilla Hall

open 18:00 / start 19:00
前売:8,800円(税込 / 別途ドリンク代)※未就学児童入場不可
info:[ http://www.beatink.com/ ] / E-mail: info@beatink.com

そんなエイドリアンの新作完成を祝して、UKダブ・シーンの3大巨匠たちが集結! 激熱ダブ・パーティーの開催が決定した!

長年にわたってUKダブの最前線を走り続けるエイドリアン・シャーウッドが手がけるシリーズイベント『DUB SESSIONS』が、今年ついに20周年を迎える。これまでに古くはリー・ペリーやザ・スリッツらを招き、近年では一昨年の大反響を巻き起こしたアフリカン・ヘッド・チャージとGEZAN、昨年はホレス・アンディと〈ON-U Sound〉の原点バンド=クリエイション・レベルが共演するなど、毎回毎回、錚々たる伝説級の出演者たちがシーンもフロアも大激震の熱い内容でソールドアウトを連発してきた。

今年のラインナップも超豪華だ。エイドリアン・シャーウッドが13年振りとなるソロ名義の新作アルバム『The Collapse Of Everything』を引っさげて、タックヘッド、シュガーヒルの伝説的ベーシスト、ダグ・ウィンビッシュら3名から成るバンドを引き連れライブDUBパフォーマンスを披露する。

さらに、80年代UKデジタル・ダブの先駆者としてその名を轟かせ、独自のサイエンスとユーモアでダブの表現領域を拡張し続けてきたMad Professorが、超絶ミキシング・テクニックを武器にスペシャル・ライヴ・ダブショウを披露。

そして、マトゥンビでの活動をはじめ、ポップ・グループやザ・スリッツなどの先鋭音楽においてもラヴァーズ・ロックにおいても数々の大名盤を創り出してきた真のレジェンドDennis Bovellが極上のDJセットで空間を揺らす。

UKで奇妙な進化を遂げたダブという音楽を根底から支え続けてきた3人のマスターが奇跡的に集う、まさに“DUB SESSIONS”。マジカルな音響と重低音に身を投げ、全身で体感せよ!

エイドリアン・シャーウッド待望のニューアルバム『The Collapse Of Everything』は8月22日(金)世界同時リリース。国内盤CDにはボーナストラック3曲と解説書を封入。LPは通常盤(ブラック・ヴァイナル)に加え、限定盤(クリア・ヴァイナル)が発売。限定盤LPは数量限定の日本語帯付き仕様(解説書付)でも発売される。国内盤CDと日本語帯付き仕様盤LPは、Tシャツ付きセットも発売決定。

【チケット詳細】
前売:8,800円 (税込 / 別途1ドリンク代) ※未就学児童入場不可
・東京:1F オールスタンディング / 2F 指定席
・名古屋・大阪:オールスタンディング

先行発売:
BEATINK主催者先行:7/2(wed)18:00~ (※限定枚数・先着、Eチケットのみ)
イープラス・プレイガイド最速先行受付:7/3(thu)12:00〜7/6(sun)23:59~(抽選)

[東京]
LAWSONプレリクエスト:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~
イープラス・プレオーダー:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~

[名古屋]
QUATTRO WEB先行:7/7(月)12:00〜7/8(火)23:59
イープラス・プレオーダー:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~
ぴあプレリザーブ:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~
LAWSONプレリクエスト:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~

[大阪]
イープラス・プレオーダー:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~
LAWSONプレリクエスト:7/7(mon)12:00〜7/8(tue)23:59~
ぴあプレリザーブ:7/7(mon)10:00〜7/8(tue)23:59~

一般発売:6月28日(土)10:00〜
[ イープラス ]
[ チケットぴあ ]
[ LAWSON TICKET ]
[ BEATINK ]

問合せ:
[東京] INFO: BEATINK 03-5768-1277 www.beatink.com
[名古屋] 名古屋クラブクアトロ 052-264-8211 http://www.club-quattro.com/
[大阪] SMASH WEST 06-6535-5569 https://smash-jpn.com/

公演詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=15187

label: On-U Sound / Beat Records
artist: Adrian Sherwood
title: The Collapse Of Everything
release: 2025.8.22
商品ページ: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=15197

01. The Collapse Of Everything
02. Dub Inspector
03. The Well Is Poisoned Dub
04. Body Roll
05. Battles Without Honour And Humanity
06. Spaghetti Best Western
07. The Great Rewilding
08. Spirits (Further Education)
09. Hiroshima Dub Match
10. The Grand Designer
配信: https://on-u-sound.ffm.to/thecollapseofeverything

CD+Tシャツセット

LP+Tシャツセット

CD

限定LP

LP

Nazar - ele-king

 ナザールはこの7年間で、もっとも躍動的な新世代ブラック・エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーのひとりとなった。彼は、インダストリアル・ノイズとアフリカン・ビートの神学とが直感的に衝突することに熱烈な愛を抱いている——それは、論理、政治、宗教、そしてアフリカ大陸の歴史の深層に根を持つものだ。ナザールの音楽的探求は、1980年代にアンゴラで生まれた大衆ダンス音楽クドゥーロの土壌から芽吹いている。アンゴラ発のクドゥーロはこの数十年のあいだ、地元アンゴラの無数のプロデューサーたち、あるいは欧州へと渡った移民、またはナザールやDJナルシソのような第一世代の息子や娘たちによって、鮮やかに再構築され、変容を遂げてきた。
 ナザールの眼を通して見れば、彼のクドゥーロは混成的なものだ。それは独自の領域にあり、伝統的なプロデューサーならば恐れて足を踏み入れぬような新たな環境のなかを、彼は自由に歩んでいる。「Enclave」EPと初のフルアルバム『Guerrilla』は、ヨーロッパ各地のダンス・ミュージック・プロデューサーのなかにおいて、彼独自の声を確固たるものとして示した。彼のアイデンティティにおいて決定的だったのは、アンゴラの戦争、そしてその戦争における家族の関与と、それに対する音楽を通じた内省だった。彼のデビュー作では、そのテーマ性と鋭利なビートが健康的に融合していた。

 あれから5年が過ぎ、ナザールは『Demilitarize』で再び姿を現した。これは明らかに、彼の出世作『Guerrilla』への「呼応」であり、前作同様にタイトルは声明である。ただし今回は、目の前の風景を予見するのではなく、むしろ内なる精神の解放を指し示している。ナザール自身もこれはより「個人的な」アルバムだと述べており、サウンドスケープはまさにそれを裏づけている。

 『Guerrilla』をパンデミック初期に発表し、続いてCOVIDの合併症により1年近く死の淵を彷徨うような病に苦しんだナザールは、すべてを経て自ずと別の視座に至った。オープニング・トラック“Core”は、彼の新たな美学への温かく誘うような導入部である。かつてのような耳を刺す粗さは影を潜め、厚みのある音像はなおも跳ねるが、より空気のように、スピーカー越しに漂い出る異質さが、アルバムの最後まで全曲を貫いている。『Demilitarize』は、非常に統一感のある、一貫したアルバムである。
 大きく異なるのは、ナザールが「個人的な」方向へと向かうなかで、アルバムの大半において自ら歌うという選択をした点だ。この選択こそが、『Demilitarize』の印象を大きく変えている。とりわけ印象的なのは、その歌声のほとんどが意味を捉えがたく、にもかかわらず前面に出て美しいアレンジを背景へと押しやることで、音像が平坦に感じられる点だ。楽曲の構造は主にヴォーカルを支えるものとなり、ビート・アルバムとは異なる時間感覚——より速く過ぎていくような印象——をもたらす。全体の尺が短く感じられるのはそのためだろう。

 これは、現在の「男性の感情の脆さを表現する」ソーシャルな波に対する、ひとつの参与とも読める。ビートは引っかかり、途切れ、また唐突に現れては消える——まるで時間自体が不安定になっているかのように。だからこれは、ダンス・レコードではない(踊りたくなる瞬間はあるとしても)。これはヘッドフォンで聴く音楽であり、よりポップへの希求に傾いた作品だ。歌詞はしばしば時間を攪乱する——旋律だけではなしえない方法で。歌詞、あるいは歌声の感触は、時間そのものを変容させる。このアルバムがインストゥルメンタルのみで構成されていたならば、印象はまったく異なっていたに違いない。
 そして、それが聴き手の求めるものであるならば、この作品はすばらしいだろう。ただし全体の尺は36分30秒。この簡潔さは、音のなかを浮遊したり、潜り込んだりする快楽に逆らう——というのも、身体がようやくその中に安住しかけた頃には、すでに音は過ぎ去っているからだ。『Demilitarize』は繰り返し聴くに値する作品だが、同時に、より大きな作品へと至るための「通過点」としてのアルバムでもあるのではないかと私は考えてしまう。デジタル的な音響の美しさは豊潤だが、2曲目以降、アルバムの流れは容赦なく突き進み、ほとんど呼吸の余地を与えない。36分30秒の終盤、9曲目“Heal”においてようやく、それまでの圧力から抜け出すように音楽は水面へと浮上する。海の底から現れるクジラのように——ここでようやく、楽器そのものが主導権を握る。アルバムのラストは、音楽のなかでの苛立ちと不確かさに対する、意図された吐息のようだ。

 けれど、私はまだ問いを抱えている。というのも、5年ものあいだ大きなリリースがなく、ようやく届けられた作品がEP程度の分量であることが、やはり気になるのだ。そんなふうに思いを巡らせていたら、ふと1920年へと思いが跳んだ。
 『春の祭典』が初演された年だ。あの伝説的な上演——新しい音響に対して聴衆が激しく反発したあの出来事。ストラヴィンスキーがこの全楽曲を書き上げるのにかかったのは、わずか1年半である。コンピュータなどなかった時代、すべての楽器パートの譜面を手書きしなければならなかった。しかも、まったく未知の楽曲の力学を、オーケストラに教え込まねばならなかった。そして、その演奏時間は33分だった。


Nazar has become one of the best producers of kinetic new black electronic music in the last 7 years. Fervently in love with intuitive clashes of industrial noises and African beat theology rooted deeply in the core of the continent`s history, logic, politics, and religion, Nazar grows his musical explorations from the soil of Kuduro, an Angolan popular dance music that began in the 1980`s. The music of Kuduro from the country of Angola has been over the last couple of decades vibrantly recalibrated and mutated by the numerous local Angolan producers and those who immigrated to Europe or were first generation sons and daughters such Nazar or Dj Narciso. Through Nazar`s eyes, his Kuduro is a hybridity, in its own realm, surrounded by new environments that free him to walk down new roads traditional producers would fear. The “Enclave” ep and his first full album “GUERRILLA” firmly established his voice among other producers of dance music across Europe. Key to his identity at this time, was the back drop of the war in Angola, his family`s participation in it, and reflections on it through his music. The subject and constant sharp beat merged healthily together with his debut.
5 years have passed and Nazar has re-emerged with Demilitarize. An obvious “response” to the “call” of his breakthrough album Guerrilla, the title is again a statement like his last but this time pointing toward the release of the inner psyche rather than forecasting the landscape before the eye. He has stated that this is more of a personal album and the soundscape of the release proves that true.
Nazar, having released Guerrilla directly at the start of the pandemic, having survived an almost year long near death sickness due to COVID complications, came out of all that naturally out with a different perspective. “Core”, the first track, is an inviting warm introduction to his new aesthetic. Previous abrasion lacking, soundscapes are still thick bouncing but more ethereal through your speakers emitting an otherness that connects all the tracks til the very end. Demilitarize is a very united consistent album.

What is different is that in turning toward the “personal” Nazar made the choice to sing throughout the majority of the album. This choice makes Demilitarize feel different. Namely cause most of the vocals are mostly unintelligible, the vocals take centerstage and end up pushing the beautiful arrangements to the background, and feel monotone. The music mainly supports the vocals and time itself feels different, faster than a beat album. It feels remarkably shorter. This is a push toward inclusion in the current social wave of expressing male vulnerability while beats jerk and stop, jerk and stop. Sometimes disappearing totally before they mysteriously reappear.
So to be clear, this isn`t a dance record (though you may be inclined to do so at times), it`s a headphone listen. And a lean toward more pop yearnings. Lyrics often disrupt time in ways pure melodies cannot. Lyrics or the feel of lyrical vocals changes time. This album would be viewed vastly differently if only instrumental.
And all this is good if that is what you are looking for. But the whole album is 36:30 minutes. The brevity works against the beauty of the floating and diving that you do when surfing on all the sounds cause they are over before you can relax within them. Demilitarize is worthy definitely of many listens but I also wonder if it is a stepping stone album, an album that is needed for an artist to reach an even greater work. The digital sonic beauty is luscious but from the 2nd track, the flow of the album plows right ahead not allowing for much breathing room. The tail end of the 36:30 feels more like a whale arising to the air. This emerging from the depths of the ocean in the 9th track “Heal” lets the instrumentation take charge. The end of the album a purposeful exhale for the frustration and uncertainty in the midst of the music.
But I still have questions. Because fives years of no major releases is a long time to only get a ep`s worth of music. Because in wondering many things, I have to ponder back to 1920 when

“The Rite of Spring” was performed. A quite legendary performance. Fierce discontent by the audience from the new sonorities. It`s a fact that it only took Stravinsky a year and a half to write all the music for the composition. There were no computers so all the sheet music for each instrument had to be painstakingly written to perform. And the orchestra had to be taught the dynamics of the unknown composition. And it was also 33:00 minutes.

interview with Rafael Toral - ele-king

 Bandcampに掲載されたラファエル・トラルのプロフィールによると、彼はそのキャリアを通して、‶サウンドのなかの音楽と、音楽を超越したサウンドのあいだを行ったり来たりしている〟という。このポルトガル出身の音楽家は、実験音楽の世界でもう30年以上も極めて重要な存在であり続けているが、目下のところ、昨年のアルバム『Spectral Evolution』をきっかけに再評価の波に乗っている。このアルバムは、トラルの尽きることのない探求心の溢れる実践のさまざまな要素——初期の『Wave Field』(1995)などで聴かれた液化したようなギターの音色や、2004年から2017年に取り組んだ「Space Program」時代に収集した、規則にしばられない自由なDIYの電子楽器の数々など――が融合された、記念碑的な作品なのだ。なかでも、鍵となる構成要素は、伝統的なジャズのハーモニーで、“アイ・ガット・リズム”や“A列車で行こう”の即座に認識可能な(ただし、氷河の形成のごとくゆっくりとした)コード進行が、アルバムに意外な情感の重みを与えている。
『Spectral Evolution』は、3年がかりの骨の折れる緻密な制作プロセスの結果であり、その間トラルは作品の56ものヴァージョンを制作した。アドヴァイスを求めて友人のジム・オルークに聴かせると、感銘を受けたオルークは、長年休止状態にしていた自身のレーベル〈Moikai〉を再始動させ、アルバムを発売するために動き出したのだった。
 2008年以来となる日本ツアーでオルークと石橋英子と共演する前に、トラルはEメールでのやりとりを通じて、音楽家としてのジャズとの関わり、ますます醜くなっていく世界のなかでの美の重要性、そして、『Spectral Evolution』をライヴで演奏した際に経験した‶愛のフィードバック〟について語ってくれた。
 この会話は明確さの保持と長さを考慮して編集されている。

ますます醜くなっている世界において、私たちは美しいもの、広い意味での美しさ、単に綺麗というだけではなく高潔さをそなえたもの、たとえば、誠実さなどから手を離すべきではないんだ。

『Spectral Evolution』についての昨年のトーン・グロウとのインタヴューで、あなたは「このレコードを作るために多くのことを学んで研究し、開拓する必要があった」と語っていました。これについて、もう少し教えていただけますか?

ラファエル・トラル(Rafael Toral、以下RT):まず、このアルバムにはたくさんのジャズ・コードが含まれているんだけど、それらを繋ぎ合わせるためには、自分が何をやっているのかを明確に知らなければならなかった。ひとつの音符が本来あるべき所からずれるだけで、和音が違う色調に変化する仕組みを理解する必要があったんだ。私にはその準備ができていなかったから、正しい形に仕上げるために説得力を持たせて、最終的に美しく仕上げるまでに相当な努力を要した。その過程でジム・オルークに助言を求めたら、彼がリリースを決断してくれたという経緯がある。

あなたとジムとの関係について教えてください。ふだんから、制作途中の作品を共有することはあるのでしょうか? それとも、今回だけが特別だった?

RT:ジムとは1995年頃からの大の仲良しで、最初に出会ったのはシカゴでだった。彼は常に忙し過ぎるぐらいだったから、私のことで煩わせようなんて思ったことはなかったんだ。でも、今回だけは違った。アルバムでやろうとしたことが自分の能力を超えてしまい、私はアレンジやハーモニーのことで苦慮していた。だから背に腹は代えられないと思った。ジムが私よりも音楽の多くの分野で知識が豊富だと知っていたから、友人として音を聴いてほしいと頼んだんだ。

ご自分の能力の限界を突破するのは、あなたの仕事では日常的なことのように思うのですが、このような挑戦を続けるための意欲はどこから得ているのでしょう?

RT:私はただ、自分がすべきことを理解しようと思っているだけかな。自分の力をどこに注ぐべきなのか、やりたいことの中核はどこにあるのか、その時の前向きな動きとは何か、何が言われているのか、そしてそれが私の名を冠してやる価値のあることなのかどうか。多くの場合、それは私が土台から築き上げなければならないもので、約束とヴィジョンを伴うものでもある。私はたとえそれで自分を追い込むことになっても、実行するしか選択肢がないことが多いんだ。もっと言えば、私たちはまだ進化が終わっていないことを忘れがちだけど、人間には進化する義務があると思っているんだよ。

あなたの仕事において、美の役割があるとすれば、それは何ですか?

RT:(考えながら)うーん、役割ではないかもしれないけれど……私は一方では、20世紀の文化に浸って育ってきた。つまり、大雑把にいえば、キュビズムからパンク、セリエリズムからグリッチまで、構造の解体や脱構築、破壊することで忙しかった。私が若い頃には、美しいものを真っ当な芸術として見なすべきではないとする風潮があったんだ。これは当然、ものすごく粗雑な一般論だけど、私はそういった束縛から自分を解放して、美を現代の芸術には不可欠な要素として受け入れる必要があると思った。これは延々と議論することができる話で、要約するのは難しい。もう一方で、美というのは、単なる文化的で美学的な話でもなくて、個人の好みを超えたところにあるものだ。好みと、私たちが目で見て、耳で聴くことへの生物学的、そして神経学的反応には、多くの重複する部分がある。例をあげると、完全5度の響きを美しく感じるのは、実は単純な数学的な比率の3対2の隔たりに基づく音程で、自然な振動現象だ。その振動が人の身体の細胞を共鳴させ、背筋が寒くなるぐらい良い音だと感じると、もう何が起きているのかわからなくなる。美とはそれほど深いところにまで届くんだ。最後にもうひとつ、ますます醜くなっている世界において、私たちは美しいもの、広い意味での美しさ、単に綺麗というだけではなく高潔さをそなえたもの、たとえば、誠実さなどから手を離すべきではないんだ。

ピタゴラスは正しかったというわけですね! この科学的な側面について、深く掘り下げたことはありますか?

RT:私は科学にはあまり入こんでいないかな。科学は文明の柱のひとつではあるけれど、測定できないものや、説明できないことを欠いている側面もある。むしろ私は、頭でそういったことを‶知る〟ことを避けている。私は直感で自分の動きを確認するようにしているんだけど、それは直感が脳よりも身体に根差した知識からくることが多いからだ。そして、何よりもその辺はリスナーが音楽を自分なりに取り込むことができるように、オープンにしておきたい思いがある。

あなたが言及された‶高潔さ〟という資質は、優れた芸術と凡庸な芸術を差別化する要素のひとつでもある気がします。美しさについての考えを再考することになった特定のきっかけはあったのですか?

RT:今日、醜さが飛躍的に増加していることや、文明の衰退……なんかであることはたしかだね。不思議なことに、美を守り続けるのは、生存戦略となりつつあり、精神の健全さを保つための意識的な努力にほかならない。それは、広義に理解された美しさのことだ。たとえば、嘘を広めるよりも、事実を認識する方が美しい。あるいは、対立する世界を結んで、対話を促すような美しさ。それが『Spectral Evolution』の核心なんだ。

『Spectral Evolution』に収録された最終ヴァージョンを制作するのに、それだけの労力がかかっていることを踏まえると、それをライヴで演奏したときの感覚はどのようなものだったのでしょうか?

RT:コンサートは、アルバムから構造的な恩恵を受けているので、非常に隙の無い構成になっていて、ライヴで聴く音の響きは、まるで物理的にサウンドフィールド(音場)に没入しているような感覚になる。ハーモニーの情感的な側面と、振動の物理的な体験が結びつけられているんだ。オーディエンスにとっては、とても強烈な体験になっているようで、たまに「泣きそうになった」と打ち明けてくれる人もいる。私にとって、リスナーを音に引き込むことが重要で、それによって愛のフィードバックが生まれるんだよ。

‶愛のフィードバック〟とは、素晴らしい表現ですね! これはあなたとオーディエンスの関係性についての多くを物語っていると思います。

RT:一部のコンサートでは、その感覚が非常にクリアに感じられるんだ。このアルバムとすべての音は愛を込めて制作され、オーディエンスもまた、愛を込めた聴き方で受け入れてくれ、彼らの積極的な関与と、感情の質がステージに送り返されてくるんだよ。

私は常にオーディエンスを敬愛してきたし、彼らの人生で活用できる何かを提供できることにすごく感謝している。何かを捧げて、それが良い受け取り方をされると、それ自体が自分にまた贈り物として戻ってくるんだ。私はいつも、彼らが自宅を出てチケットを購入し、私が演奏するどんな音をも聴くために時間を費やしてくれることを思うと、それに値するものを提供しなければいけないと、心に誓っている。

あなたのキャリアを通じて、オーディエンスとの関係性は、どのように発展してきたのでしょうか?

RT:私は常にオーディエンスを敬愛してきたし、彼らの人生で活用できる何かを提供できることにすごく感謝している。何かを捧げて、それが良い受け取り方をされると、それ自体が自分にまた贈り物として戻ってくるんだ。私はいつも、彼らが自宅を出てチケットを購入し、私が演奏するどんな音をも聴くために時間を費やしてくれることを思うと、それに値するものを提供しなければいけないと、心に誓っている。

『Spectrum Evolution』をライヴで演奏す際に経験されたという激しい感情的な反応は、
新しいことなのでしょうか? 過去の他のプロジェクトからも同じような反応を引き出したことはありますか?

RT:これは新しい体験なんだ。過去にやってきたことよりもずっと情感のこもった作品だし、ライヴではそれを激しい形で表現しているから。

アーティストのなかには、‶感情的(ルビ:エモーショナル)〟な音楽を、あなたが先ほど美しさについて述べたような、疑いの目で見る人もいると思います。あなたもおっしゃったように、これはあなたにとって新しい領域だと思いますが、どうやってここに辿り着いたのでしょう?

RT:はっきりとした感情を扱うのは、私にとっては新しいことだけど、決して意図的なものではなかった。私としては、感情をオープンにしながらも、抽象性を保つことで、リスナーが自分自身の感情を投影できるようにしたいと考えているんだ。これらのハーモニーには感情が組み込まれていて、そこから逃れることはできないと思う。でも、実は、私はそのサウンド自体により興味があるんだけど。

『Spectral Evolution』のライヴは、パフォーマンスごとにどれほど違うものなのでしょうか?

RT:ライヴ版は、拡張されていて、一部の移行部はよりゆったりとしたテンポで演奏している。当初、このアルバムは、ライヴ演奏をする前提で作ったものではなかった。だから、可能な限りライヴでは多くのギター・パートを実際に演奏し、そのいくつかでは即興している。それでも、全体的にはすごく一貫性を保っているよ。細部のヴァリエーションはあるけどね。会場の響きとPAの設定が決定的な影響を与えるから、毎回良い音にするために、何時間もサウンドチェックに費やしている。

あなたのサウンドチェックにはどういったことが含まれますか? その一連の流れを効率化するためのメソッドをお持ちですか? それとも毎回が新しい挑戦のようなものなのでしょうか?

RT:その両方だね! 良い会場で良いPAシステムがあれば作業は楽になることもあるけど、普通は、課題が見つかるものだ。もちろん順序立ったやり方をしていて、強烈でありながらも人びとを誘い込むような、サラウンドな、コクのある音を作るのを目標にしている。誰かを無理に押すようなサウンドではなく、引き込むような音。支配するのではなく、包み込むようなサウンドをね。会場ごとに全然違うから、綿密なチューニングが必要なんだ。

昨年末にあなたが『The Wire』誌で発表した「Wire Mix」を聴いていたのですが、あれはアルバムの素晴らしい補完物となっていますね。ケニー・バレルは本来、私の好みではないのですが、この文脈では完璧に理に適っています。興味本位でお聞きしますが、あなたと伝統的なジャズとの関係はどのようなものなのでしょうか?

RT:常に軌道上の衛星になったような感覚だね。ものすごく注目しているけど、自分は別の場所に立っているような。以前、フリージャズに影響を受けた私のエレクトロニクスのプロジェクト「Space Program」について、こう言及したことがある。‶音楽以外の、すべてがジャズだ〟と。それとはまったく異なる理由から、同じことが『Spectral Evolution』にも当てはまるんだ。ジャズにおける高い人間性には心からの敬意を抱いている。学ぶべきことも、感じるべきことも多い。(ジャズには)知性と心のための深い層が存在するんだ。

あなたのジャズへの理解と、先ほど挙げていただいたような特徴は、歳を重ねるごとに深まっていると思いますか?

RT:ああ、それは確かだね! 私が15歳だった頃、ジャズは理解できなかったし、興味も持てなかった。たまには良いと思えるものに出会うことはあったけれど、それを理解するための知識や経験がなくて、5年か10年経ってから、ようやくその真価を認められるようになった。それらの意味や価値は、それをどのように採り入れるかによって変化していく。例えば、初めてケニー・バレルを聴いたときには、彼がもっとも刺激的なジャズ・ギタリストだとは思えなかったけど(なんとも二〇世紀らしい考え方だね)、自分が演奏するようになってからは、彼をより尊敬するようになった。

あなたはジャズのギタリストとしての技術を持っていると思いますか?

RT:えーっ? いや、まったく! できるだけ学んで吸収したいと思ってやってはいるけど、それはジャズ・ギタリストを目指してやっていることではないし。私は実際の‶音楽〟ではなく、演奏される音に興味を持っているんだ。

「Space Program」時代には、完全にギターから離れていたのですか?

RT:15年間ギターに触っていなかったね。より多くを要求されるギター文化を受け入れるようになった今、まるで一から始めるような気持ちになる。学ぶべきこと、練習すべきことが多くてハードルも高いから、8歳ぐらいの子どもに戻ったような感じだ。困ったことに、自分はほとんどのギター特有の表現法に興味がないのに、それでも演奏はしたいから、どうやったらいいのかと考え中だ……。

あなたは最近、「Layers」という新作からの抜粋を発表しましたね。それについて何か教えていただけることはありますか?

RT:「Layers」は、持続音が蓄積されて、少しずつ互いを置き換えていくという作品で、調性音楽から無調に変化させながら演奏される。その後、とんでもなく複雑に変化し続けるハーモニクスを生み出す装置に通されるんだ。これは、完全にライヴで演奏するための新作だ。「Layers」は、創作過程としてのパフォーマンスを指向した、単一の作品であるのに対し、『Spectral Evolution』は、作曲における繋がりの広い領域を表している。「Layers」はすでに未来の一部であり、自分が愛することを実践している。未知と対峙するということを。


■ラファエル・トラル公演概要
Scaffold #1

2025.06.26
京都 Club METRO | OPEN 19:00 / START 20:00  
早割¥4,000 ドリンク代別途 [受付期間:5/19 17:00〜5/23 23:59迄]
前売¥5,000 ドリンク代別途
https://www.metro.ne.jp/schedule/250626/

2025.06.28
鳥取 jig theater | OPEN 18:00 / START 19:00  
前売 \ 5,500 (定員80名)
https://x.gd/WLRbt

2025.07.01
渋谷クラブクアトロ| OPEN 18:00 / START 19:00
前売 ¥6,000 ドリンク代別途
https://www.club-quattro.com/shibuya/schedule/detail/?cd=017126
出演者: Rafael Toral / Jim O‘Rourke×石橋英子

お問い合わせ:
京都Club METRO: ticket@metro.ne.jp
鳥取jig theater:mail@jigtheater.com
渋谷クラブクアトロ:03-3477-8750

主催 (Organize):PARCO
制作(Produce):DOiT / CLUB QUATTRO
協力(Cooperation):Club METRO / jig theater

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interview with Rafael Toral

Written by James Hadfield

As Rafael Toral’s Bandcamp profile puts it, he’s spent his career “bouncing between the music within sounds and the sounds beyond music.” The Portuguese musician has been a vital presence in the world of experimental music for over three decades, but he’s currently enjoying a renaissance on the back of last year’s “Spectral Evolution.” A landmark work, the album unites different strands of Toral’s endlessly inquisitive practice: the liquefied guitar tones heard on early releases like “Wave Field” (1995); the menagerie of unruly DIY electronic instruments he assembled during his “Space Program” period, which ran from 2004-2017. The key ingredient is classic jazz harmony, including the instantly recognisable (if glacially slow) chord progressions of “I Got Rhythm” and “Take the ‘A’ Train,” which give the album a surprising emotional heft.
“Spectral Evolution” was the result of a painstaking three-year process, during which Toral produced 56 versions of the piece. When he turned to his friend Jim O’Rourke for advice, the latter was so taken by what he heard, he revived his long-dormant Moikai label in order to release it.
In an email exchange with Toral ahead of his first tour of Japan since 2008 – where he’ll be sharing a bill with O’Rourke and Eiko Ishibashi – the musician discussed his relationship with jazz, the importance of beauty in an increasingly ugly world, and the “feedback of love” he’s experienced while performing “Spectral Evolution” live. The conversation has been edited for clarity and length.

Speaking about “Spectral Evolution” in an interview with Tone Glow last year, you said you “had to learn and study and develop a lot in order to make this record.” Can you expand on this?

Well, the album has lots of jazz chords and to connect these chords together you need to know what you’re doing. I had to understand why and how a single note out of place steers a chord into a different colour. I wasn’t prepared for that, so a lot of work went into having it done correctly, then convincingly, then beautifully. As I was struggling with that, I asked Jim for advice, and that’s how he decided to release it.

Can you tell me about your relationship with Jim? Do you often share your works-in-progress with him, or was this a special case?

Jim and I have been great friends since 1995 or so; we first met in Chicago. He’s always been way too busy, so it doesn’t occur to me to distract him with stuff. But this case was different: I was struggling with the harmonies and arrangements, because the album was beyond my capacities and I knew I didn’t have a choice but to climb up to that bar. I knew Jim has much more knowledge in many fields of music than myself, so I asked him to listen, as a friend.

Reaching beyond your capacities seems to be a regular thing in your work. Where do you find the motivation to keep pushing yourself like this?

Well, I just try to make sense of what I am supposed to do: Where should my energy go, and where is the nexus of what I want to do; what is a positive move in its time, what is being said, and whether it should bear my name. Very often, it turns out to be something I must build from the ground up and it entails a promise, a vision. I don’t really have a choice but to fulfil it, even if that means I’ll be pushing myself. Besides, I guess it’s easy to forget we’re not done with evolution: I think we actually have the obligation to evolve.

What role does beauty have in your work?

[Thinking] Well, maybe not a role, but… on the one hand, I’ve grown up immersed in 20th century culture, which, broadly speaking, was mostly busy with dismantling/deconstructing/destroying structures, from cubism to punk, from serialism to glitch. When I was young, anything that was “beautiful” was not to be considered seriously as legitimate art. This is a very gross generalisation, of course. But I felt I needed to claim freedom from that and embrace beauty as something integral to today’s art. We could discuss this forever – I can’t really put it in a nutshell. On the other hand, beauty is not simply cultural/aesthetic; it goes beyond one’s likes and dislikes. There’s a lot of overlap between preferences and our biological and neurological response to what we see and hear. Like, a perfect fifth sounds great and is beautiful, but it’s an interval from a simple mathematical proportion, 3/2, and is a natural vibrating phenomena that has the cells in your body resonating, and who knows what else is happening, when a sound gives you chills down the spine because it’s so good – beauty does go that deep. And lastly, the world is getting so ugly that we better hold on to what is beautiful – in a broad sense, not just pretty, but anything that contains elevated qualities, like integrity, etc.

Pythagoras was right! Have you delved much into the science of this?

I haven’t gotten into the science much. Science is a pillar of civilisation but also lacks everything it can’t measure and explain. I also try to keep away from “knowing” that sort of thing with my head. I try to validate my movements with intuition, often from a kind of knowledge that pertains more to the body and not so much to the brain. And besides, I always prefer to leave that open, for the listener to have their own way to integrate the music.

I think the elevated qualities you’re talking about are also often what separates great art from the mediocre. Was there any particular impetus that made you reconsider your thoughts about beauty?

Definitely today’s exponential increase of ugliness, the decline of civilisation… holding on to beauty is strangely becoming a survival strategy, a conscious effort towards sanity. And yes, beauty understood broadly. Like, acknowledging facts is beautiful, as opposed to spreading lies. Or the beauty of bringing opposite worlds together and having them talk to each other: That’s what “Spectral Evolution” is all about.

Given how much work was involved in producing the final version of “Spectral Evolution” heard on the album, what’s it been like performing it live?

The concert benefits from the album’s structure, which makes it very solid, and the way it sounds live is like being physically immersed in a sound field. It connects the emotional aspects of harmony with the physical experience of vibration. It seems to be intense for the audience; sometimes people tell me they almost cried. For me, it’s important to draw listeners into the sound and that creates a feedback of love.

“Feedback of love” is a great image – I think it says a lot about the relationship you have with your audience.

In some concerts, it can be felt very clearly. These sounds and this whole album have been made with love and it’s been met with a loving way of listening by the audience, and that engagement, that quality of feeling, beams back to the stage.

How has your relationship with your audience developed over your career?

I’ve always respected the audience very much and I’m grateful for how I’m able to contribute something they use in their lives. When you give something and it’s well received, that receiving is in turn a gift back to you. I always commit myself to deliver something that justifies their getting out of their homes and buying a ticket and spending their time listening to whatever I play.

Are the intense emotional reactions you’ve encountered when performing “Spectral Evolution” something new, or have you elicited similar responses with other projects in the past?

This is new, as it’s much more emotional than anything I’ve done before, and it’s delivered with intensity.

I think there are artists who'd view "emotional" music with the same suspicion you talked about earlier, in relation to beauty. As you said, this is new territory for you, but how did you arrive here?

Dealing with clearer emotions is new to me and is unintentional. I like to keep emotions open and abstract so that the listener can project their own. These harmonies have emotions built-in and it’s almost impossible to escape them. I’m more interested in their sound, however.

How much does “Spectral Evolution” vary from one performance to the next?

The live version is expanded; some transitions take a more relaxed time. The album was not originally conceived to be played live, so I play as many live guitar parts as possible, and a few of those are improvised. But it’s very consistent: The variation is in the details. The room acoustics and the PA configuration have a decisive effect, and that’s why I spend hours of soundcheck making it sound good every time.

What does your soundcheck involve? Have you found any ways to streamline the process, or is it always a challenge?

Both! I mean, sometimes a fine PA in a good venue makes things easier, but it’s usually a challenge. I do have a sequenced method and the goal is to create a surround body of sound that is intense but invites people in. A sound that doesn’t push you, but pulls you instead. A sound that isn’t there to dominate, but to embrace you. Every room is different, so the tuning has to be very precise.

I was listening to the mix you did for The Wire at the end of last year, and it’s a fascinating complement to the album – Kenny Burrell isn't normally my thing, but he makes perfect sense in this context. Out of interest, what’s your relationship like with the jazz tradition?

It’s always been like a satellite in orbit. Totally focused in but standing elsewhere. Once I said about the Space Program (my previous free-jazz inspired project of electronics), “It’s all jazz, except the music.” For entirely different reasons, the same applies to “Spectral Evolution.” I have a lot of admiration for the heightened humanity of jazz. There’s a lot to learn and a lot to feel. Layers of depth for the mind and heart.

Do you think your appreciation of jazz, and the qualities you mentioned, has deepened as you get older?

Oh yes, indeed! When I was 15, jazz just didn’t make sense to me and I didn’t have any interest in it. Sometimes, I’d come across something that I could acknowledge was good but I didn’t have the references or experience to process it, eventually becoming able to appreciate it only 5 or 10 years later. The meanings and values change with respect to how you integrate them. For example, when I first heard Kenny Burrell, I thought he wasn’t the most exciting jazz guitarist (there goes the typical 20th-century thinking). But when I started playing, now I’ve come to respect him a lot more.

Do you have jazz chops as a guitarist?

Gosh, no! I do try to learn and absorb everything I can, but it’s definitely not towards becoming a jazz guitarist. I’m interested in the sound of the guitar as it’s played, more than the actual “music”.

Did you completely step away from the guitar during your Space Program period?

I didn’t touch a guitar for 15 years. As I’ve embraced a much more demanding guitar culture, I feel like starting from scratch. There’s so much to learn and practice, because the stakes are so much higher, so it’s almost like I’m 8 years old or so. To make it more difficult, I find myself uninterested in most guitar idioms, but I still want to play – so I’m figuring out what…

You recently released an extract of a new piece called “Layers.” What can you tell me about it?

“Layers” is an accumulation of sustained notes, gradually replacing themselves, played with varying degrees of tonal intention. Then it goes through some gear that brings out incredibly complex and shifting harmonics. It’s a new piece to be played fully live. “Layers” is just one specific thing, more simple and completely oriented to performance as a creative process, as opposed to “Spectral Evolution” which is a broad field of connections in composition. “Layers” is already part of the future and doing what I love: engaging with the unknown.

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