「ele-king」と一致するもの

Bendik Giske - ele-king

 サックスの音がとにかく軋んでいる。古いドアを開けているような音。ギーギーと耳障りで世界が壊れていく気分。ノルウェイ(現ベルリン)のサキソフォン奏者によるソロ3作目は、パベル・ミリヤコフやローレル・ヘイローといった近年のコラボレーターとの作業が反映された様子もなく、基本的なフォーマットは5年前のデビュー・シングル “Adjust”に立ち返ったような7曲入りとなった。前作のようにダブやドローンと組み合わせることもなく、シンプルにサックスの演奏を聴かせるかたちで、オーヴァーダビングもなし。それこそ原点に戻ったという意味で自分の名前をアルバム・タイトルにした……のかなと。ミニマルの要素を強めて、前作『Cracks』のような物語性を回避し、一部だけを拡大する醍醐味。鎖骨を強調したアルバム・ジャケットはレヤ『Eyeline』の別カットみたいなテイストで、いわゆるクィア・アートを強調している。

 管楽器では圧倒的にトランペットが好みなので、これまでサックスの演奏に深く親しんできたとはとてもいえず、サックスがメインの曲で僕が忘れられない曲といえば(立花ハジメ『H』のようにサックスを別な楽器に置き換えると別な味が出そうな曲は除外して)アルトラボックス “Hiroshima Mon Amour”やフィリップ・グラス “Are Years What? (For Marianne Moore)”など数えるほどしか思い浮かばない。ベンディク・ギスケのサックスはそうした数少ない曲のどれにも似ていず、むしろエルモア・ジェームズのブルース・ギターなどを想起してしまう。気持ちよく吹くわけではなく、内面の葛藤が音に出るタイプ。でも、どうやらそういうことではないらしい。幼少期をインドネシアで過ごしたギスケはディジェリドゥーが身近にあり、それに慣れ親しんだせいで、現在のような吹き方になってしまったものらしい。内面ではなく、身体性に導かれた結果だと。

 とはいえ、今回はプロデューサーにベアトリス・ディロンが起用され、弾むようなテンポがこれまでとは一線を画す作風になっている(“Adjustt”はもっとダウンテンポの部類だった)。ウラ・シュトラウス “I Forgot To Take A Picture”を倍速にしているような曲が多く、いつものようにサックスが軋み、重く沈み込もうとしても、リズムが停滞を許さない。ディロンらしくトライバルな妙味を効かせたパーカッションが、おそらくはループされているせいで、サックスも一気には調子を変えようがないといった曲の進み方。ループ(多分)なので、グルーヴにも限界があり、ダンス・ミュージックにもインプロヴィゼ’ションにも着地しない。同じ方法論を繰り返すことでリズムに支配されない身体性を探り出そうとしているというか、“Rusht”ではテンポを変えていく試みなどもあり、J・リンのバレエ音楽『Autobiography (Music From Wayne McGregor's Autobiography)』に近いものが感じられる。そうか、観念的にはジュークへのアンサーなのか。オープニングからやたらとテンポが速いのはそのせいだったか。アカデミックな舞台に進出したジュークをフォローし、アコースティックに特化したかたちで発展させる試み。そう考えると個人的にはかなりすっきりする。久々にブラック・ミュージックとは異なる身体性の追求で面白い音楽を聴いたかもしれない。力任せに踊る世界ではあるけれど、そのことがまったく美しくないというわけではない。

“Startt”“Rise and Fallt”“Rusht”“Slippingt”と身体性を強く感じさせるタイトルに混ざって1曲だけ違和感を覚えるのが“Rhizomet”。ドゥルーズのアレだろうか。それとも単に「根っこ」という意味だろうか。このところツイッターが自滅していくのでよく考えることだけれど、ツイッターがダメになったのはイーロン・マスクがCEOになってからではなく、トレンドを表示するようになってからだったのではないかと。ツイッターというのはそれこそ根っこのようにあちこちに広がって誰と誰がつながっているのかよくわからなかったから情報がアナーキーな価値を持つことができたのに、多くの人が集まっている場所や話題を可視化してしまったことで、ドゥルーズのいう「ツリーからリゾームへ」を逆行し、旧来の情報システムと同じ凡庸なヒエラルキー思想に絡め取られてしまったのではないかと。ツイッターの利用者も自由な表現から情報のコマに格下げされてしまったというか。逆にいえば大多数がどこにいるのかを把握していないと権力というのはやはり不安なんだろうな(大衆自身も「権力」に含まれる)。まったくの余談でした。

 エンディングのみビートレスで、軋んだサックス音が地を這い、戦い済んで日が暮れていく感じでしょうか。ここだけはトランペット奏者のジョン・ハッセルが思い浮かぶ。

interview with Jitwam - ele-king

 不思議な感覚だった。こんなにも裏表がなくて、ピュアで、正直で、でもどこか計算されている部分もあって、冷静だ。僕がジタムと出会った第一印象はそんなところだ。ムーディーマンが2016年に放った『DJ-KICKS』のミックスにより、彼の名が一躍注目されることになった。その後も立て続けにローファイなビートメイクとプリンスを彷彿とさせるような甘いヴォーカルを武器にEPやアルバムをリリースし、ロックとソウルが絶妙にブレンドされた2019年のセカンド・アルバム『Honeycomb』で一気に火が着いた。ビート・プログラムから、ソングライティングをほぼ自分自身で手がけ、ヴォーカルまで務める彼のDIYなプロダクションはどこか聴いたことあるような懐かしさと、馴染みのないフレッシュさが共存しているように感じられる。つねに自身のバックグラウンドを全面に押し出すスタイルも、共感が持てるポイントだろう。

 そして満を辞して3枚目のアルバム『Third』をリリース。ソロでのビート・メイキングから飛躍して自身と所縁のあるミュージシャンとバンドでのサウンドを追求。より音楽性が高くなり、同時に新たなジャンルのファン層を取り込むことに成功したと思う。今回のジャパン・ツアーでもジタムのプレイを見ようとたくさんのオーディエンスが駆けつけてくれたが、ヒップホップが好きな人、ロックが好きな人、そしてデトロイト・ヘッズなど、日本でもオーディエンスの融合がなされていたのは印象的だった。

 昨今、ビジネスとアートを両立させるのは益々難しい時代になってきた。そんななか、絶妙なセンスと経験値を糧にインディペンデントな音楽史シーンをサヴァイヴし続ける彼の姿は一緒にいるだけで本当に刺激になった。訪れた先々で彼のパフォーマンスを聴いた人はこの感覚がわかると思う。とにかくポジティヴで、ダンス・ミュージックの固定観念を次々と破壊していくポテンシャルを持っている。このインタヴューは彼の生い立ちやバックグラウンド、ニュー・アルバム『Third』についてだけでなく、日々移り変わるシーンのなかでどうやって自由に音楽を表現し続けられるかというヒントも詰まっている。インドにルーツを持ち、オーストラリアで幼少期を過ごし、ロンドン、ニューヨークと拠点を移しながら世界を股にかけて活躍するひとりのアーティストに人生を豊かにする処世術を伺った。

最初のシングル「Whereyougonnago?」をムーディーマンが彼のコンピレーションに入れてくれたんだ。この出来事なしに僕の音楽を語ることはできないよ。

改めてジャパンツアーはどうだった?

J:日本は本当に素晴らしいよ! 食べ物、景色、音楽、文化、アート、ファッション、すべてが映画みたい。実際に体感してみると、それ以上のものだったね。オーディエンスは僕のことを真摯に受け入れてくれて、レコードを持ってきてくれる人もいたんだ。最高の時間を過ごしたね。そして、ここで音楽を共有する機会を得られたことに本当に感謝している。改めてツアーの成功のためにサポートしてくれた皆さん、本当にありがとう。

東京、大阪、京都、広島、金沢、名古屋と6都市を回ったね、ツアーで特別な思い出はある?

J:音楽はもちろんだけど、食べることも好きだから日本で食べた物は全部ハイライトになったね。特に金沢で食べたディナーは信じられなかったよ! 他にも、鉄板焼き、ラーメンに、お寿司、カレーなんかも。でも僕がツアーで得たことの大部分は、人との繋がり。文化をもう少しだけ理解して、自分の世界観を広げ、自分の生活に取り入れていくことで人生をよりよくしていくことだと思う。

素晴らしいね、では音楽について話しましょう。いつから作曲をはじめたの?

J:音楽をやっていなかったっていう時期が一度もないんだ。つまり、生まれてからずっと音楽をやっているってことになるね。

最初に勉強した楽器は?

J:最初の楽器はおそらくキーボードだったと思う。母さんが若い頃に買ってくれた小さなカシオのキーボードでレッスンにも通ったんだけど、まともに弾く感じが自分に合わなくてその後すぐにギターに移ったんだ。それでギターからちょっとしたエフェクトペダルを買ったんだけど、そこにはドラムマシンも付いていて、それでビートを細かく刻んでオーヴァーダビングしはじめたんだ。それが最初のプロデュースになるのかな?

何歳くらいのエピソードだったの?

J:たぶん10歳くらいの出来事じゃないかな? 思い返すと自分でも驚きだよ。子どもの頃はひとりきりが多かったから、音楽が自分のはけ口になってたね。僕にとって音楽は、いつでも戻ってくることができる唯一の友人のようなものさ。2017年頃からより真剣に音楽に取り組むようになって、最初のシングル「Whereyougonnago?」を出した。それをムーディーマンが彼のコンピレーションに入れてくれたんだ。この出来事なしに僕の音楽を語ることはできないよ。まさしく音楽が僕にたくさんの祝福を与えてくれたんだ。音楽なしの人生は考えられないね。

ムーディーマンとのエピソードについて、もう少し掘り下げてもいいかな?

J:彼とは本当に不思議な縁があって、僕が最初に買ったレコードもムーディーマンだった。白いジャケットにスタンプが押してあるだけだったから、誰のレコードかなんて3年くらい気づかなくて、後で振り返ると本当に驚いたよ。その2年後に僕が最初のレコードをリリースしたときに、〈!K7〉のスタッフから突然連絡が来て、彼が僕の曲を出したいって言ってきたんだ。

本人に直接会ったことはある?

J:ムーディーマンのライヴを初めて見たのはロンドンでのコンサート。そのとき、彼はローラースケート・ツアーのようなものをやっていて、シカゴやデトロイトから15人くらいのの子どもたちを招待して、クロアチア、ロンドン、ポルトガルなどヨーロッパ全体のフェスを一緒に回っていたんだ。子どもたちは国はおろか、自分たちの地域を離れたこともなくて、そんな若者のために新しいコミュニティをもたらして、それを世界と共有している光景が僕にとっても本当に大きなインスピレーションだった。それで僕は彼に自分の絵も描いてあるビート入りのCDを渡して、その何年か後に彼のチームが僕に声をかけてくれたんだ。改めて彼のサポートに感謝したい。彼のコンピレーションに参加したことを思い出すといまでも緊張するよ。最近ベルリンのクラブで僕のトラックをムーディーマンがプレイしているのを聴いて「あぁ、なんてことだろう!!!」ってね。とにかく、感謝してもしきれないんだ。それに、日本からのフィードバックもたくさんあったのを覚えている。日本にはムーディーマンのヘッズがたくさんいるって聞いてたし、日本はいつも……「デトロイト」だよね。

デトロイト好きな日本のオーディエンスは喜ぶと思うよ。

J:あの街が魅力的なのは間違いない理由がある。デトロイトは本当にインスピレーションに満ちた街。多くの異なるジャンルを融合し続けてるし、ひとつのスタイルに束縛されたり、ひとつの演奏方法に固執したりしない土壌があるよね。彼らはつねにヒップホップ、ファンク、ジャズ、テクノ、ソウルの間を難なく行き来してて、それが僕に大きなインスピレーションを与えてくれたんだ。DJや楽曲制作のなかで、僕もいろんなジャンルやリズム、そしてサウンドを行き来するのが好きだからね。デトロイトは僕にとっても本当に大きな影響を与えてくれているよ。

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インドの長い歴史のなかで、例えばアラビア数秘術を取り入れてそこから新しいものを生み出したり、日本文化を取り入れてきた歴史だってあるんだ。それが僕の音楽に対するヴィジョンに繋がっていると思う。

ジャンルの話が出たけど、自分の音楽のスタイルをどう表現している? 『COLORS』のインタヴューでもいろんなジャンルをフュージョンさせていくって言ってたけど……。

J:僕自身、インド人として過去のインドの偉大な作曲家たちを見ていると、つねに世界中で出てくるサウンドを融合してそれをミックスしてきたような気がするんだ。R・D・バーマン(インドで最も影響力のある作曲家のひとり)はディスコ、サイケデリック・ロックを地元の伝統音楽と融合させてきたから、僕も同じ軌道を辿っていると感じるし、偉大なインドの作曲家たちの遺産を引き継ごうとしているよ。自分の音楽がカルチャーのメルティング・ポットになればいいよね。インドの長い歴史のなかで、例えばアラビア数秘術を取り入れてそこから新しいものを生み出したり、日本文化を取り入れてきた歴史だってあるんだ。それが僕の音楽に対するヴィジョンに繋がっていると思う。それから、僕はロンドン、ニューヨーク、メルボルンだったりと、多くの異なる文化の場所に住んで、いろんな人びとに出会ってきた。だから、自分が恵まれてきたすべての経験から、何か新しいものを生み出すことが自分の責任だと感じているよ。

インタヴューのなかに「ANGER/怒り」っていうキーワードにも触れていたけど、その意味は?

J:まず、昨今の世の中を見てみると貧富の差が本当に大きくなっているよね。富裕層はさらに裕福になって、貧困層はさらに貧しくなるように設定されているのがよくわかる。「人類が地球上で生き残れるか?」って疑問について、人びとのヴィジョンが似合わないくらい現代社会はおかしなことになっていて、いわゆる「ヒューマニティー3.0」みたいな違った物の考え方が必要だと思う。なぜならいま、僕たちが進んでいる道はそれではないから。だから僕みたいな茶色い肌の人間が世界的な音楽シーンで活動しているだけで、別の物語を見せることができる。アーティストが皆、必ずしも同じストーリーを語ることはできないからね。

つまり自分の感情に潜むメッセージを音楽に込めているってこと?

J:間違いなく、ほとんどの楽曲がそうだね。楽曲の全てが僕の人生を反映しているし、自分自身を楽曲に注ぎ込んでなかったら音楽にとっても失礼に値すると思う。いつも110%のチカラで音楽に取り組んでいるし、自分の音楽が誰かと似ているとも感じているよ。もちろん、誰かの影響を受けてるとか、あのアーティストに似ているねと言うことだってできるけど、この音は僕だけのものさ。そしてそれを本当に誇りに思ってる。

では実際どのようにして音楽を作ったり、書いたりしているの? もちろん誰かとジャムやコラボレーションすることも多いよね?

J:もちろん、コラボレーションは大好きだ。基本的に自分で頻繁にビートを作ったりしてるけど、最近出したアルバムのときはスタジオにこもっていろんなミュージシャンとセッションしたり、曲を書いたりしたね。特にこのアルバム『Third』では、より自分の個性を前面に出したかったから、自分のビートやトラック、歌詞をバンドに落とし込んで、よりユニットとして音楽を掘り下げることが重要なプロセスだった。だから新譜には生演奏がたくさん盛り込まれていて、もちろんこれからもこのスタイルを続けていきたいと思ってる。エレクトロニックとライヴ・ミュージックの間を探求すること、それが前のアルバムからより進歩した部分かな。もちろんいままでの楽曲にも生音はたくさんあったけど、このアルバムではミュージシャンとより入念に取り組んだって感覚も強いよ。

僕みたいな茶色い肌の人間が世界的な音楽シーンで活動しているだけで、別の物語を見せることができる。

将来誰かとコラボレーションしたい人はいる?

J:そうだね……沢山いるけれど、アシャ・プトゥリなんかは夢のひとりだ。彼女は欧米でも活躍したインドを代表する名シンガーで、インド人にとってもアイコン的な存在なんだ。いまではみんなも知っている「ボリウッド(インド映画)」のサウンドを国外に広めたキーパーソンでもあるし、あとはガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュなんかも憧れの存在。でも有名、無名なんてことは関係ないし、現に今回のアルバムでもたくさんのミュージシャンとコラボレーションできたんだ。とにかく、自分だけのクリエイションに納めずに、共演するアーティストと自然な形で音楽を育んでいけたら最高だよね。

日本のアーティストで気になる人は?

J:少し前に小袋成彬のリミックスをやったばっかりだし、また近いうちに彼の住んでいるロンドンに行く機会があるからまたセッションできたらいいね。それと、BIGYUKI、椎名林檎の楽曲も聴いてるよ。日本は本当に素晴らしいアーティストがたくさんいると思う。

自身のプロダクションと並行してレーベル〈The Jazz Diaries〉もやっているよね。

J:元々、レーベルは自分のレコードを出すためにはじめたもの。僕らの音楽は本当にインディペンデントな業界だから、買ってくれたレコードのお金がどこに流れていくかを可視化するのが重要だと思った。だからレーベルは自分自身のためにあるし、実際に他に手がけたリリースも僕が世界を旅して実際に出会ったアーティストだけなんだ。音楽のおかげでたくさんの仲間ができたり、お金を稼いだり、行ったことのない場所を旅できている。結局、僕の人生の大半は音楽で、レーベルもそのなかの一部ってことさ。特に、南アジアのアーティストを集めたコンピレーション『Chalo』(2020)は、まだスポットライトの当たっていないアーティストやミュージシャンの仲間たちにとってとてもいいキッカケになったと思う。ダンス・ミュージック・シーンは欧米のアーティストが中心だけど、まだまだ知られていない素晴らしいアーティストが世界中にいて……。そう! まさに日本だって、世界のトップDJに引けを取らないくらい素晴らしいDJがたくさんいるよね。とにかく、そういう長い間光が当たらなかったアーティストをフィーチャーできたのは最高の機会だ。これからも続けていきたいな。

そういうところも踏まえて、音楽にできる最良のことって何だと思う?

J:そうだね、まず自分にとって音楽は人生だし、人生が音楽だ。一生のサウンドトラックみたいに、仲間との出会いや子どもの頃からのいろいろな思い出が音楽になっていくんだ。音楽のチカラは本当に強い。日本に来て、僕は日本語も話せないし、日本人も英語を話せない人もいたけれど、僕の音楽を聴いてシェアしてくれる人がいる。それはただのドラムビートや楽器から鳴る音を超えて、音楽で繋がる人間関係なんだと思う。だから皆、「音楽は世界共通言語」なんて言うし、そこに文化や、年齢、人種は関係ない。それが自分たちやそれぞれのカルチャーを表現することも忘れてはいけないよ。

それじゃあ最後に、「一ヶ月音楽禁止!」って状況になったら何をすると思う?

J:あまり考えたこともなかったけど、何かクリエイティヴなことだったり、アイデアを溜めたりもするかもしれない。でももし音楽をやっていなかったら何かビジネスをしてるかもしれないね。結局、僕に取って音楽は自身の頭のアイデアを形にすることの延長線上にあって、生きるために何かをはじめていると思う。それに、音楽もビジネスの一部だし、ミュージシャンでいることは起業家と同じこと。それはいまも昔も変わらないことで、素晴らしいミュージシャンやアーティストでも、それを持続可能にして継続させるためのビジネスの洞察力がなくて失敗している人も大勢いたと思う。だからこそ、過去の成功や失敗を多くのミュージシャンや起業家から学んで自分の活動に取り入れているのかもね。

キングダム エクソダス<脱出> - ele-king

『アダムス・ファミリー』や『メン・イン・ブラック』で知られるバリー・ソネンフェルド監督『ワイルド・ワイルド・ウエスト』はとても評価が低い。スカスカで中身がなく、アイディアは空まわりだし、そもそもつくりが雑だ、と公開当時最悪の映画に贈られるゴールデンラズベリー賞を受賞するに至っている。作品全体には差別用語があふれかえり、あまりに下品で、さらに主役がビンタ野郎のウィル・スミスときては救いの手を差し伸べる余地もない。これだけの不人気に迫れるのはいまのところ河野太郎とマイナバンバーカードぐらいしかないだろう。しかし、同作が公開された1999年はポリティカル・コレクトネス(以下、PC)がまだ力を持ち始めた初期段階で、当時の観客はソネンフェルドがわざと差別用語を撒き散らしていることはわかっていたし、むしろそうした風潮を跳ね返そうとする風刺のパワーを楽しんでいた。つくりが雑で、美術がハリボテに近いのも、要するにわざと「意識の低さ」を狙っていたのである。それがいまは配慮に欠けた駄作でしかない。ありとあらゆる意味でお話にならない作品であり、どうあがいても『ワイルド・ワイルド・ウエスト』に再評価の気運は訪れない。近いうちに視聴不可になる可能性すら感じる。

 70年代の文化戦争を下地にして増殖・発展を遂げたPCは人種差別や女性蔑視を助長してきた言葉狩りを皮切りに、いまやあらゆる弱者差別を否とする「正しさ」の実践として機能している。しばし「行き過ぎ」という批判が巻き起こるものの、そうした反動には倍返しのようなリスポンスがあり、徹底的にキャンセルされるのが常となっている。アメリカでは学校の図書館から次々と差別表現を含んだ本が撤去され、トニ・モリスンまで視界から消え去った時はさすがに日本でも話題になったけれど、こういった規制を次々と発動することがいまは政党活動として最もわかりやすいアピールなのだという。「あの本を葬った!」「この本を追放した!」と競って告発することが共和党にとっても民主党にとっても手っ取り早い政党キャンペーンとなり、それだけPCを強化することは人々の共感を得やすい「方法論」になっていると。アメリカ人はいまやPC道を突き進み、それを極めることがすべてにおいて優先課題なのである(先頭を走っているのはいまでもフォレスト・ガンプか?)。

 70年代の文化戦争で付け加わった人種差別や女性蔑視を別にすれば、PCが求める政治的正しさは、しかし、けして新しいものではなく、むしろ19世紀のアメリカを支配していたピューリタニズムが再帰したものといえる。現在のアメリカは不倫や怠惰を許さず、勤勉や禁欲に生きた19世紀のアメリカを再現し、20世紀はなかったことにしているだけだといえる。清廉潔白な人格をよしとするまでのプロセスはまったく異なっているにもかかわらず、どうやら19世紀も21世紀も結論は同じなのである。そう、20世紀は堕落と放縦の世紀だった。ジャズやロックやヒッピーやフリーセックスは一時的に悪魔にのりうつられただけであり、いまはそれらを追い出しているのだと、映画『エクソシスト』を評したスティーヴン・キングの言葉はほぼそのような内容だった。悪魔を追い出せば元に戻るのだと。ピューリタニズムというのは、そして、プロテスタントの分派であり、プロテスタントが生み出した経済理念が新自由主義というやつである。働いても恵みが少なければそれも神の思し召しといって諦めるのがカトリックで、働いたら働いただけのものは欲しいと要求し出したのがプロテスタント。信仰を勤勉に置き換えることでピューリタニズムと新自由主義の種が誕生したのである。そして、ヨーロッパを捨てたプロテスタントによって建国されたアメリカがピューリタニズムや新自由主義を純粋培養するのは、とても自然なことである。

 19世紀にはアメリカだけの理念で済んだことだったが、世界に影響を及ぼす大国となったアメリカが同じようにPCや新自由主義を推し進めれば世界中の文化圏に影響を与えることは当然である。アラブ諸国の女性たちはライフ・スタイルが変化し、「ヴォーグ・アラビア」が創刊されたり、ドイツではオスのひよこをシュレッダーにかけることは禁止となり、世界各地にバリア・フリーが浸透すれば、マイナーな地域での人種差別も可視化が進んでいる。しかし、「#MeToo」に対して、フランスではカトリーヌ・ドヌーブが「男性が女性を誘うのは犯罪ではない」とこれに抵抗を示す発言をしたり、食文化からクジラを外さない日本やノルウェーなど、アメリカン・ウェイ・オブ・PCに必ずしも従順な国や文化圏ばかりが存在するわけではない。そうした影響のなかには漠然としていて何が起きているのか明瞭でないものも含まれているだろうし、結論が出るまでに長い葛藤を抱いているものも少なからずだろう。そうした不協和の蓄積に終止符を打ち、違和感を一気に吐き出したかに見えたのがラース・フォン・トリアー監督『キングダム』だった。上映時間5時間半。鬱期を脱したフォン・トリアーが本作では躁状態で疾走状態に入っている。

 オリジナルは1994年と1997年に製作したTVドラマ・シリーズ『The Kingdom(Riget)』で、時期的に『ツイン・ピークス』の影響を強く受けた内容。旧シリーズは全8話からなり、デンマーク本国では50%超の視聴率を記録したという。第3部をつくる前に主役を筆頭に5人の登場人物が死亡したため、完結に至らなかった話を本作は25年後にセルフ・リメイクし、『The Kingdom: Exodus(Riget: Exodus)』として第9話から始まる設定になっている。フォン・トリアー監督は同時期にパーキンソン病を発症し、治療を受けながらの撮影になるとも発表していて、旧シリーズとは関係を薄める(=独立した作品にする)ともコメントしている。オープニングは『イディオッツ』(98)に出演していたボディル・ヨルゲンセン演じるカレンが旧『キングダム』のDVDを観ているところから(ほとんど目のアップを横から撮っているだけ)。DVDを観終わるとカレンは悪態をついて自分の体をベッドに縛りつけ、夜中になって目が覚めるといとも簡単に拘束をほどき、外へ出かけていく。閉められた扉には「夢遊病者」と書かれている。家の前にはタクシーが止まっていて、TVドラマの舞台となっていたデンマークの国立病院(通称〝キングダム〟)」まで連れられていく。鳥に導かれて病院内に侵入したカレンは、しかし、夜間受付で院内に立ち入ることを拒否され、病院の地下に潜り込こうとする。カレンのエピソードはオリジナルには存在せず、いわば本編と並行して進むパラレル・ストーリーとして展開される。カレンに力を貸し、共に病院の地下で大冒険を繰り広げるのは『キリング』でブク大臣を演じた我らがニコラス・ブロ。

 場面変わって昼間の病院では「ラース・フォン・トリアーのせいで、この病院の評判はガタ落ちよ」などとメタな会話が飛び交うなか、ミカエル・パーシュブラント演じるヘルマー・ジュニアがスウェーデンからヘリコプターに乗って赴任してくる。TV版ではスティグ・ヘルマーという役名なので、その子どもという設定のよう。デンマークではスウェーデン人は差別されているという認識が最初から示され、その通り、ヘルマーは冒頭から嫌味と嫌がらせを雨あられと浴びせられる。病院内にいるスウェーデン人たちが一致団結して人種差別に抗うという話がひとつの骨格をなし、病院内にはそのためのレジスタンス組織が存在していることが徐々に明らかになってくる。そのような対立軸が明白になる前に、病院内のキャラクターがほとんど奇人変人の集まりのように描かれていくところがまさに『ツイン・ピークス』で、それぞれのキャラクターに馴染んでいく過程が得も言われない面白さになっている。そうこうしているうちにスウェーデン人たちの怒りはマックスに達し、ついに「バルバロッサ作戦」が実行に移される(このあたりはまるで『翔んで埼玉』)。本作はロシアのウクライナ侵攻よりも前に撮影されているはずだけれど、「バルバロッサ作戦」というのは独ソ不可侵条約を結んでいたナチス・ドイツがいきなり旧ソ連を裏切ってソ連領土に侵攻し、330万人のソ連兵や民間人、そして100万人のユダヤ人を殺害した軍事作戦で、これがまさに現在、ウクライナ侵攻をプーチンが正統化している理由になっていたりする。偶然なんだろうけれど、「バルバロッサ作戦」について交わされる会話もなんともはや感慨深い。『キングダム エクソダス〈脱出〉』で実行される「バルバロッサ作戦」は、しかし、ルカーチが提唱したサボタージュがメインで、効率的な労働をしないという闘争であり、これがほんとにショボい。新自由主義に対する抵抗も虚しく、「働いたら負けかな」発言の方がまだ気概を感じられるというか。

 スウェーデン人差別を筆頭に『キングダム エクソダス〈脱出〉』にはPCによって抑制がかけられている表現がところどころで暴発する。白人だらけのキャスティングに唯一紛れ込んでいる黒人の扱いもけしていいとはいえないし、病院の意思決定を行う評決の場面ではどう考えても老人たちはバカにされている。なんというか、はっきり書けない人たちも出てくるし、極め付けはオリジナルにも登場するリーモア・モーテンセン(ギタ・ナービュ)が神出鬼没の車椅子で移動する患者の役ながら意味不明の行動によって身動きが取れなくなり、身体障害者に対するリスペクトがまるで感じられないこと。また、セクハラや病院内の訴訟事案を受け持つ弁護士(アレクサンダー・スカルスガルド!)はなぜかトイレにオフィスを持っていて、PC案件の解決が闇取引のようにしか描かれていないのもなかなかにシュール。現実感がないので、一見、躁状態になったフォン・トリアーが次から次へと悪ふざけを思いついているかのようにも見えるけれど、ここにあるのは『ワイルド・ワイルド・ウエスト』にあったPC破りというよりは、やはり、その背後にあるピューリタニズムへの懐疑であり、現在のアメリカ的なるものに対するカウンター的な価値観だろう。(以下、ネタバレ)。並行して進められていたカレンの物語は病院にかけられた呪いを解くために最終的に「悪魔を蘇らせる儀式」へとなだれ込んでいく(というほど簡単ではないけれど、あまりにややこしいので、そういうことで)。上にも書いたように、それはアメリカの20世紀や60年代の価値観、ジャズやロックやヒッピーやフリーセックスの復権を「悪魔」に喩えたものなのだろう。北欧はキリスト教も深くは浸透せず、エソテリックな宗教が色濃く残っている土地であり、品行方正で勤勉に働く人だけが「正義」だというプロテスタントの世界観にフォン・トリアーは抵抗を示し、屈するいわれはないと主張している。

 TV版『キングダム』はフォン・トリアーらが92年に設立した映画製作会社ツェントローパが最初に手掛けた作品で、同社はメジャーな作品を送り出す会社としては珍しくハードコア・ポルノの製作にも携わった製作会社であり、「女性が見る上質のポルノ」をつくることができるという絶大な評価もヨーロッパでは得てきた。ツェントローパの作品は隣国ノルウェーでポルノ合法化にも寄与するほど大きな影響力を持ったものの、英語圏と取引を始めた段階でそれらはうまくいかなくなり、結局、ハードコア・ポルノの製作から撤退する。『アンチクライスト』や『ニンフォマニアック』といった作品でフォン・トリアーが性表現をエクストリーム化し、論争を巻き起こした背景にはそのようなリヴェンジの感覚もあったわけである。英語圏とはすなわちピューリタニズムである。愛国法で身動きのできなくなったアメリカの道徳心を批判した『ドッグヴィル』(03)と同じく、フォン・トリアーはアメリカが輸出するピューリタニズムが世界を息苦しく、人々の生き方を窮屈にしていると告発し、糾弾したいのである。そのためには悪魔も呼び出すぞと。

Tokyo Riddim 1976-1985 - ele-king

 在英日本人DJのKay Suzukiが主宰する要注目のディガー系のレーベルのひとつ、〈Time Capsule〉からなんとも面白いコンピレーションがリリースされる。『Tokyo Riddim 1976-1985』は、レーベル曰く「レゲエと融合した昭和の歌謡曲を中心に集めた魅惑の和製ラヴァーズ・ロック・コンピレーション」。近田春夫のプロデュースによる平山みきのニューウェイヴ・レゲエをはじめ、小坂忠、小林”ミミ”泉美の、八神純子、越美晴、Marlene、リリィらによる計8曲のレゲエ調の魅力的なポップスが収録されている。アートワークもかなり良い感じで、アナログ盤には、当時の写真、そして収録曲とその時代背景を詳述したライナーノートも付いている。ディガー度高めのこのアルバムは、配信は無しで、アナログLPとアルバム・ダウンロードのみの販売。予約はすでにはじまっている。レーベルのサイトをチェックしよう


V.A.
Tokyo Riddim1976-1985

Time Capsule
TIME016
※発売は9月1日予定

 で、レーベルのサイト見るとすぐわかるように、〈Time Capsule〉は昨年、『Anime & Manga Synth Pop Soundtracks 1984-1990』を題して、日本アニメや漫画のサントラに収録された、シンセ・ポップに特化したコンピレーションもリリースしている。こちらもディガー度が高く、面白いです(読み応えのあるライナーノーツ付き)。チェックしてください。

Tomorrow Comes The Harvest - ele-king

 やはりジェフ・ミルズにとってトニー・アレンとのコラボは相当大きな経験だったようだ。新プロジェクトの名は、彼らのコラボ・シングルのタイトル「Tomorrow Comes The Harvest」を継承している。以前、ミルズ、アレンとともにツアーをおこなっていたヴェテランのキーボーディスト、ジャン=フィ・ダリーとのザ・パラドックスなるプロジェクトもあったけれど、今回は新たにタブラ奏者プラブ・エドゥアールが参加。トリオとして機能するようにあらためてコンセプトを練り上げたそうだ。即興演奏をつうじて音とリズムを交わらせ未知の領域を探索する──発売は9月8日、ミルズの新たな進化=『Evolution』に注目を。ワールド・ツアーも決定しています。

Label: Axis Records
Band: Tomorrow Comes The Harvest

Artists: Jeff Mills, Prabhu Edouard, Jean-Phi Dary
Title: Evolution
Format: Album
Release Format: Vinyl, CD, digital
Release Date: September 8, 2023

共演者らの証言から浮かび上がる坂本龍一の実像

目次

INTRODUCTION
國分功一郎 坂本さんはずっと考えていた

INTERVIEW
デイヴィッド・シルヴィアン
アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)
フェネス
テイラー・デュプリー
小山田圭吾
ZAK
サイモン・レイノルズ

ESSAY
岩井俊二 坂本さんからのメール
北中正和 とりとめもない思い

「日本のサカモト」
近藤康太郎 音が生まれ、響き、消える。
湯山玲子 奢らず、乱用せず、堕落しない。
水越真紀 「人民の音楽」と「人民の森」

「世界のサカモト」
ジェイムズ・ハッドフィールド インターナショナルな坂本龍一
リズ・ワーナー 坂本龍一がデトロイトに与えた永続的な影響
緊那羅デジラ 3つのフェイズ

DISCOGRAPHY
ディスコグラフィー(デンシノオト、内田学、三田格)

千のサウンド
三田格 ①タイトで、マッシヴに
高橋智子 ②深く、広く
伊達伯欣 ③「音楽」から「音」へ

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King Krule - ele-king

 親になることを主題とするシンガーソングライターの作品は多い。いや音楽に限らず小説にしろ映画にしろ、それが人生における大きな変化の契機であり続けている以上、テーマになるのは自然なことだ。しかし……、キング・クルールの4作目『Space Heavy』ほどメランコリックに父になることを表現したものを、僕はすぐに思いつかない。
 前作『Man Alive!』のリリースの際に自分が書いた文章(https://www.ele-king.net/columns/007475/)を読み返してみると、すでに僕はアーチー・マーシャルが父になったときの心理状態を心配している。余計なお世話かもしれないが、しかし、『Man Alive!』が現代の荒廃にドライで攻撃的な音を援用しながら対峙した作品だったことを踏まえた上で、彼の混乱は親になることでかえって深まるのではないかと想像したのである。個人的にもちょうど、友人や知人に子どもができて、彼らの将来への不安を聞いていたことも関係している。どうやら未来は明るいようには思えない、だとしたら、この子に何を伝えてやれるのか?

 マーシャルが父親になってからすぐにパンデミックがやって来て、『Space Heavy』はその時期の内省的な日々から生まれた。そういう意味ではここ数年多く作られたロックダウン・アルバムのひとつではあるのだが、マーシャルの場合はこれまで活動してきた南ロンドンと家族と暮らすリヴァプールを行き来する過程に強く影響されたとのことで、その地に足のつかない感覚を探ったようなところがある。サウンド的には相変わらず雑食的で、ブルージーな冒頭の “Filmsier” のイントロから、ポスト・パンクというかノーウェーヴ的にも聞こえる荒々しさを持った “Pink Shell”……と、序盤はキング・クルールを聴いてきたひとの意表を大きく突くものではないだろう。だが、続く “Seaforth” で少し違うぞ、と思わせる。これまで以上にメロディアスなギターが鳴るなかで、マーシャルが優しい歌声を聴かせる。なんてことのない弾き語りのギター・チューンのように……おそらく『Space Heavy』はこれまででもっともソングライティングにフォーカスしたアルバムで、これまでの投げやりにも感じられた彼のヴォーカルもかなり変化している。4歳の娘のマリナの名前がクレジットされているこの曲で、そして、マーシャルは父親として語りかけるように歌う。「僕たちは僕たちの間にある暗い日々を共有しているんだ」。
 それから “That Is My Life, That Is Yours”、“Tortoise Of Independency” とダウナーなギター・ナンバーが2曲。“Empty Stomach Space Cadet” ではイグナシオ・サルヴァドーレスのサックスとともにキング・クルールらしいジャジーな感覚がムードを高めつつ、断片的なストリングスが抽象的な響きを残すアンビエントの “Flimsy” 辺りから、アルバムはより曖昧な領域に踏みこんでいく。ダークで陰鬱なジャズ・ロック “Hamburgerphobia”、マーシャルの気力のないヴォーカルに対して存外に爽やかなギター・ロック・チューンにも聞こえる “From The Swamp”、気鋭のソウル・シンガーであるラヴェーナが参加するアンビエント・ポップ “Seagirl”。気分が定まらない様をそのまま捉えているような危うさがここにはあるし、世界に対する混乱も家族に対する愛情も明瞭な形を見つけられないまま過ぎ去っていく。たしかに存在するのは、解決することのない憂鬱だ。

 前作には社会に対する苛立ちや怒りがはっきりと入っていた。『Space Heavy』はそれを通過したあとで、あらたに家族を持つということとパンデミックという予想を超えた変化が自分の人生にやってきた心象をぼんやりと眺めているようなアルバムだ。湧き上がってくる娘に対する愛情と世界が壊れているという認識との間のどこかを彷徨い、自分の場所を見つけられない。これはいま、多くのひとが共有しうる感覚ではないだろうか。その言葉では捉えがたいタッチを追い求めるように、ギターは乱暴に鳴らされたり繊細に爪弾かれたりしながら、空間に溶けて消えていくようにはかない響きを残していく。
 恐るべき子どもとしてアイコニックな佇まいでシーンに現れた頃を思えば、マーシャルは自身の人生を作品にダイレクトに注入するタイプだったということだろうし、それが彼の作品により複雑なニュアンスを与えることになった。人びとが忘れ去ったものとしてのビートニクに憧憬していた少年は――それはどこか厭世的な逃避でもあっただろう――若い父親になり、自分の小ささになおも震えている。そしてアルバムは、アブストラクトな美を頼りなく求めるような “Wednesday Overcast” で「多くのことが変わって、いまは多くのことが僕に意味を持っている」との言葉で締めくくられる。不安と憂鬱に苛まれながらも、変化することをどうにか受容するような一枚だ。

坂本慎太郎 - ele-king

 日比谷公園には開演1時間前に着いた。都心部では唯一と言える、広い森林地帯と明治時代に建てられた歴史的な建築物が残されているこの貴重な場所も、再整備という名のもとで木々が伐採され、風景が変えられようとしている。ぼくは公園の噴水を越えたところに昔からある売店で缶ビールを買ってベンチで飲んだ。こうした心和む変わってはいけない風景はどんどん変えられる。坂本慎太郎は歌う。「あざやかな夕闇につつまれて/ひとつずつ思い出が消えてゆく」

 なんでも日比谷公園は、日比谷の商業施設と巨大なブリッジで繋がれるらしい。渋谷の宮下公園の高級化をはじめとする、商業・オフィス高層ビルによる再開発が実現している「快適さ」は、その風景に溶け込める人たちのみを歓迎し、そうではない人たちを疎外する。「キャンドルがゆれる部屋でセンスのいい曲がかかり/大人たちが泣いている/何も感じない」、と坂本慎太郎は “義務のように” のなかで歌っている。

 梅雨の真っ只中だったがその日の天気は良く、湿度はあっても夕暮れになれば涼しいし、缶ビールも美味しい。ぼくは屋台でもう一本飲んでから、本番に臨むことにした。そして、かつてRCサクセションやボアダムスやフィッシュマンズなんかを聴きに来たこの場所で、いま坂本慎太郎を聴いている。ロックの予定調和をことごとく外したこのロックのライヴには、いつものことだが、いろんな人たちが集まってくる。年齢層もいろいろだし、ファッションもいろいろで、これほどリスナーの多様性が豊かなライヴもないのではないかと勝手に思ったりもした。形式化されたロック的な高揚感のないこのライヴは、しかしものすごく人気があり、チケットは抽選で運良く当たった者のみが購入できるのだ。

 1曲目の “できれば愛を” がはじまったとき、ぼくはその日3本目の缶ビールを求めて列に並んでいた。まだ空は明るく、ゆったりとしたビートが大気のなかに溶けている。ああ気持ちいい。歌は、胸にぽっかり穴があいた男が「はずかしいでしょ/あわれでしょ」と憐れみながら「ここにすっぽりとはまる/何か入れてください」と懇願する。「なんでもいいけれど、少しは愛を込めて」というリフレインは、柔らかい歌と曲のなかのとつとつとした歌詞において、私たちのなかの「空洞」と、それとは相反する強い何かをじわじわと喚起させる。いずれにせよ、坂本慎太郎の楽曲は、日比谷野音の解放感と相性が良かった。

 昨年のライヴは、ほとんどがアルバム『物語のように』からの楽曲を演奏していたが、今回は全作品からの選曲だったから、ファンには「次はどの曲を演るのだろうか」という楽しみもあった。 “めちゃくちゃ悪い男” (『ナマで踊ろう』収録)がはじまったときには当然歓声が上がったし、いや、 “鬼退治” (『できれば愛を』収録)も意外なほどノリノリで、“義務のように” から “仮面をはずさないで” ( 『幻とのつきあい方』収録)という、日本社会を辛辣に風刺しているように思える曲で前半は盛り上がった。

 ライヴの後半、気分はゆっくりと上昇する。ぼくが4杯目の缶ビールのために並んでいるときに “物語のように” がはじまり、この奇妙なほど緩やかな曲でオーディエンスの気持ちはさらにほっこりする。そして、しばらくしてはじまった “ディスコって” のグルーヴが場内をまるごと踊らせるのだった(野外での演奏が似合う楽しい曲だが、これもまた、日本のLGBT法への当てつけにも聞こえる)。

 続いて演奏された “ナマで踊ろう” は、この晩のクライマックスだった。それから “幻とのつきあい方” と “動物らしく”の2曲を演奏し、メンバー紹介をするとバンドはそのままステージから消えた。いつものようにアンコールはなかった(おそらくは、最後の2曲がライヴでよくあるアンコールに相当するのだろう)。野音にやって来た人たちのほとんどがそれをわかっているので、片付けられているステージを名残惜しそうに眺めながらも席を立ち、何人かはしばらくのあいだ席に座ったままライヴの余韻に浸っていた。

 ぼくは、自分にとってこの野音で見るライヴは、坂本慎太郎が最後になるかもしれないなと思った。だとしたら、ぼくにとっては、これほどそれに相応しいライヴもないかもしれなかった。完全に別世界が演出されるホールやライヴハウスでのライヴと違って、野音でのライヴは周囲の景色——高層ビルやらなんやら——が否応なしに視界のどこかに入ってくる。自分がいま暮らしている街のなかで聴いているんだなという意識をどこかに保持しながらその音楽に集中するという感覚はここでしか味わえないものだ。坂本慎太郎の音楽は、決してなにか思想を強制するものではないが、この生きづらい街で生きていくうえでの心持ちの調整を助けてくれる。この晩の、「今日めざめて君はそう決めた」を聴いて勇気づけられた人だって少なくないだろう。

 同じ形の繰り返しで出来上がったビル群が作り出す蜃気楼のグリッチのような光景の上に、赤や緑に光る企業ロゴの花が咲いている。ビル群に近づいて各階層の細部が見えるようになっても、全身を覆い尽くす高密度な湿気を孕んだ夏の空気が、その光景は本当に蜃気楼なのかもしれないと私に思わせようとする。湿気に喘ぎながら少しでも澄んだ空気を取り入れようと顔を上げれば、忠誠だけが取り柄の騎士たちのように等間隔に並んだ監視カメラと目が合って別の息苦しさをおぼえ、歩道の中に居場所を見出そうと立ち止まれば、私のシャツの裾を掠めるように猛スピードで電動バイクが走り去ってゆく。そのバイクが吠えたてるクラクションのドップラー効果の余韻も、どこかで別の誰かに向かって吠えている別のクラクションにかき消されてしまった。

 約四年ぶりに訪れた深圳の街は相変わらずサイバーパンクものの舞台のような、猥雑さと支配の曖昧なバランスの上に成り立っていた。以前、重慶に行ったときに現地の友人から「ここは『ブレードランナー』の街の造形にも影響を与えたサイバーパンクの街だ」と言われ、街全体に降り続いていた雨と、排水溝から立ち上る水蒸気がその話に説得力を持たせていた。しかし深圳はシリコンの街であり、今世紀に入ってから急成長したという街の成り立ちや、海沿いに位置して横長に成長しているという形状も含め、深圳の方がギブスンの小説に登場するスプロール化したLAや、『サイバーパンク2077』の中のLAに近いような印象がある。至る所に生える椰子もそのイメージの形成に協力しているようだ。
 『ニューロマンサー』に登場する「チバ」ではあらゆるものが手に入るが、この街にもそんな印象がある。深圳のあるエリアには伊勢丹や東急のような、百貨店の形状をした建物が大量に並んでいるが、その中で売っているのはエルメスのスカーフやルイ・ヴィトンのトランクなどではない。ドローンや電子顕微鏡、あらゆる種類のディスプレイやチップなどである。深圳の友人から聞いた話だが、この街でそれなりのスキルを持っていれば、iPhoneを300ドル程度で作れ、さらにはカスタムまでできるらしい。この街にある程度のまとまった期間滞在して、自分でシンセサイザーやドラムマシンを作ることができたら楽しいに違いないと思い、いくつかのモールを少し徘徊し、店主が無造作に置いた茶器や、別の店の主と打ち合っている途中の碁盤の下で影になったガラス・ショーケースの中を覗いてみたが、ある種の実用品向けのものが多く、ピッタリ目当てのものはうまく見つけられなかった。どこかにはあるのだろう。

合理化と支配

 北京がファシズムの力を使って推し進めるDX化に、深圳の存在がどれほど重要なのかは知らないが、見たもの全てがそのふたつを一直線に繋いでいるように思えてならない。レジに1ダースほどの決済ブランドが並ぶ日本と違ってWechat PayとAli Payのふたつの決済システムが非常に高い利便性を提供しているが、同時に国が個人の経済状況を把握することを容易にしている。街路に並んだ監視カメラは顔認証システムで警察と連携し、行動や経済状況から個人を格付けするシステムが出来上がっている。日本もマイナンバーをあらゆるものに紐づけることで経済状況や行動から体内まで把握しようとしているが、いまのところ利便性も安心も提供されず、国の方もうまく支配できるシステムを構築できないでいる。
 中国の小学校ではスマートフォンのアプリを使ってやらなければいけない宿題が出るらしい。デジタルの時代に適応させるための教育の一環ではあるようなのだが、家にお年寄りしかおらず、スマートフォンがない家の子どもたちや、経済的な事情などでスマートフォンが買えない家庭の子どもたちには、その宿題をやる方法がないそうだ。家庭の経済格差が教育格差を生み、教育格差が経済格差の再生産に繋がるという話は前世紀から言われ続けているが、DX化でそれが目に見えて加速するとは全く思っていなかった。中国に限らず、この世界がすでにそうなっているが、健康状態についても同じことが言える。経済的に力のあるものはあらゆる医療にアクセスすることができ、スマートウォッチなどで日々の健康状態を管理し、時間の余裕の中でマインドフルネスなどを駆使して心身の健康の維持ができる。そしてまたビジネスに取りかかる。しかし、心身のいずれかにでも健康状態に困難を抱えていれば、経済的な力を得るまでの障壁も多くなり、負のループがそこに生まれる。

 支配のシステムがうまく働けば、ある程度の利便性は確実に提供されるだろう。しかし、安心と安全が監視の強化によって提供されるかといえば全くそうではない。伊藤計劃が『虐殺器官』の中で書いたように、あるいはフーコーがアウトローと権力の構造的な蜜月関係について書いたように、それはまやかしなのである。市民にとってアウトローたちは危険な存在であるが、権力にとって危険な存在はアウトローではなく、その政敵である。治安が悪化すれば権力の側は「安心安全のために」というスローガンのもとで監視権力を強化でき、その監視は政敵に対して使われるのである。陰謀論のように聞こえるかもしれないが、日本共産党が公安の監視対象であるという事実が、この説を非常に説得力のあるものにしている。そして逆に完全にアウトローであるはずのカルトが権力の中枢にまで深く入り込んでいる。こうして権力は恣意的な善悪の空気を市民の中に作り上げていく。

 少し前に、このコラムを載せているele-kingの編集長である野田さんに誘われ、ジェフ・ミルズの作品に合わせて洗脳をテーマにしたDommuneの番組に出演し、トークに参加した。内容は大雑把にまとめればミクロ、マクロ、あらゆる角度から洗脳を検証し、脱洗脳へ向かうために音楽がどう機能できるのかというものだった。話の文脈上、私はそのときに洗脳を「自律心を奪い、恣意的に操作すること」と定義づけようとしたが、それに従えば先に書いた支配の形は洗脳と呼ぶに相応しいものだろう。
 私はこの番組にサイキックTVのTシャツを着て行ったのだが、これは「自律」を重要視しAnti-Cultを掲げるTemple Ov Psychick Youthの思想が、私を支えるバックボーンのひとつであり、私にとってのパーソナルな「自分だけの身体」「自分だけの精神」そして「自分だけの魔術」がとても重要で、ダンス・ミュージックをやる上で不可欠な要素だからである。

私の肉体

 私にはずっとサイボーグ願望がある。それは幼少期にキカイダーやターミネーターなどへの憧れから生まれ、成長した後も塚本晋也の『鉄男』や、石井聰互とアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの『1/2 Man』、そしてクローネンバーグの諸作品などを経て、『攻殻機動隊』の草薙素子や『ニューロマンサー』のモリーへと引き継がれた。そこには冷たい金属が持つ生々しさや、クローム仕上げの眼窩へのフェティシズムと、自己決定あるいは自律の象徴であるサイボーグへの憧憬が同居している。先天的な要素でなく、純粋な自身の選択によって自分自身を形作りたいという願望である。身体的な部分では、この願望を少しでも埋めるために私はタトゥーを入れ、ピアスを着け、ネイルをしている。カリフォルニアのサイボーグ・コミュニティであるGrinderや、サイボーグ化によって色を聴くことができるようになった色盲の青年ニール・ハービソンにまつわる記事などを読んで希望を感じ、サイボーグ化が普及する未来を夢想していた。

 身体の気軽な改造は、フィクションの世界ではもちろん可能である。冒頭でも少し触れたゲーム、『サイバーパンク2077』の中で「もう少し身体のベースにいろいろなヴァリエーションがあれば」とか「男/女の性別の境界をもっとグラデーションにしてほしい」など、要望はいくつかありつつも、私は大いに身体の改造を楽しんだ。ヘアスタイルやタトゥー、ピアス、ネイルはもちろん、眼球のデザインまで変えることができたし、モジュール化した身体を改造して、理想の戦い方を追い求めることができた。しかし、その過程で私は思わぬ気づきに頭を打たれることになった。理想の身体を手に入れるためにはお金が必要であり、お金のためにはあらゆる仕事をしなければならず、仕事のためには仕事を効率的にこなせる身体にならなければならなかった。『サイバーパンク2077』の世界は企業が支配するデフォルメされた極度の資本主義世界だが、いまの私たちが生きるこの世界にもその兆しのような事象は多々見受けられる。

 私たちのほとんどはスマートフォンを外部記憶装置として機能させ、インターネットに繋がることと社会的なつながりを持つことをほぼ同義とし、テクノロジーなしには生きていけない身体になっている。これをある種のサイボーグ状態と呼ぶことは的外れではないだろう。テクノロジーによる身体の改造という点では、レーシック手術や美容整形も近いポジションに置くことができる。「もっと良い視力を手に入れたい」「もっと好きな顔にしたい」、こう書けば「先天的な要素でなく、純粋な自身の選択によって自分自身を形作りたいという願望」に合致するように思えるかもしれないが、パイロットが仕事を続けるためにレーシックをしたり、社会が持つルッキズムに劣等感を煽られての美容整形や、企業のルッキズムを抱えた審査をパスして仕事にありつくための美容整形をするとなったら、話は全く変わってくる。自分が望んだのか、何かに望まされたのか。

 社会は「売春」を悪とし、売春をおこなっていない者は汚れがないかのように振る舞っているが、ゴダールが「全ての職業は売春である」と語ったり、マーク・フィッシャーが「生きることの不可避な売春性」と語ったように、自身を物として売ることが避けられない社会になっている。アンディ・ウォーホルが「誰でも15分は世界的な有名人になれるだろう」と言った世界から55年が経ち、SNSが支配する「スマートフォンひとつで稼げる、誰にでもチャンスがある時代」になったらしいが、これは自身を物として売ることがさらに簡単になったというだけの話なのではないか。そして買う側の基準に見合わなかった人の困難が「自己責任」で片付けられるようになっているように思えてならない。この市場の原理が身体をも支配するのが現代のサイボーグである。これは私が理想とし、憧れたサイボーグ像とは全く異なったものだ。私が憧れたサイボーグはいつ自律を獲得することができるのだろうか。

そして私の精神と魔術

 17世紀に世界から魔術が失われ、純粋理性は悩みを抱える人間に対して「太陽光に当たってセロトニンを分泌させましょう」あるいは「この薬を飲めばそんなことは忘れて働けます」と説くようになった。私は以前、自身の抱える問題の解決の一助になればと臨床心理士のカウンセリングにかかったことがある。人選を間違えたのかもしれないが、話の行き着くところは「仕事ができるか」だった。私の精神が物質と経済活動における有用性へと分解され、全く自分のものではないかのような経験をすることになった。痛みを取り除くためにはシステムに身を委ねるか、寝そべり族のように太陽光を浴びながらシステムの崩壊を待つかしかないのだろうか。しかし、私は確実にその痛みを取り除き、束の間ではあるが私の精神に解放をもたらす場所をふたつ知っている。ひとつは多くの人が経験があるだろう利害関係に依らない人と人の愛情の中であり、もうひとつが暗闇に鳴る重低音の中である。「低音とエコーの向こう側」というのは私も所属するBS0Xtraのコピーであり、Protest Raveでもセッティングのときに低音を重要視している。「ONLY GOOD SYSTEM IS A SOUND SYSTEM」という言葉があるが、サウンドシステムという祭壇が放つ重低音という魔術は、何度も私の精神を救ってきた。私の精神が救われたことに対して、純粋理性や再魔術化後の世界がどういう説明をするかは知らないが、私はあくまで重低音と私の精神との関係の中に、自分だけの魔術を見出したいのである。

Temple Ov Subsonic Youth

 行動を支配し、肉体を支配し、そして精神を支配する。徐々に伸ばされてきた支配の触手。私はサイボーグとしてそれらに抵抗し、自身を守り、一時的にでも自律を感じたい。「自分だけの身体」「自分だけの精神」そして「自分だけの魔術」を手に入れるための儀式として、私は自分が望んだ装飾で身を覆い、ドラムマシンやシンセサイザーを外部の臓器とし「半分人間」の状態から重低音を響かせてみることにした。その儀式の名前は「Temple Ov Subsonic Youth」。このプロジェクトは、私が持つ解放へのパトスとポスト・ヒューマン的フェティシズムが絡み合った欲望のために始まった。願わくはこの欲望が、ダンスフロアを共にした者たちそれぞれの欲望に火を着けんことを。

interview with Matthew Herbert - ele-king

馬は、猫なんかよりもはるかに深く人間とつながっている。人間と多くの関係をもったナンバーワンの動物なんだ。

 ユニークなることばは日本では「風変わりな」「奇抜な」といったニュアンスで使われることが多い。本来の意味は「唯一無二」だ。マシュー・ハーバートのような音楽家がほかにいるだろうか? ハウス、ジャズ、フィールド・レコーディングにコラージュ、コンセプト、メッセージ──どれかひとつ、ふたつをやる音楽家はほかにもいる。ハーバートはそれらすべてを、30年近いキャリアのなかでずっと実践してきた。しかも、シリアスなアーティストが陥りがちな罠、深刻ぶった表情にはけっしてとらわれることなく。ハーバートこそユニークである。

 90年代後半、彼はまずミニマルなテック・ハウスのプロデューサーとして頭角をあらわしてきた。トースターや洗濯機といった家にあるモノの音を用いた『Around The House』(98)、人体から生成される音をとりいれた『Bodily Functions』(01)などの代表作は、彼が卓越したコラージュ・アーティストでもあることを示している。ビッグ・バンドを迎えた『Goodbye Swingtime』(03)はひとつの到達点だろう。政治的な言動で知られる言語学者チョムスキーの文章がプリントアウトされる音をサンプリングしたりしながら、他方で大胆にスウィング・ジャズ愛を披露した同作は、ブレグジットに触発された近年の『The State Between Us』(19)にもつながっている。
 ここ10年ほどを振り返ってみても、一匹の豚の生涯をドキュメントした『One Pig』(11)、ふたたび人体の発する音に着目した『A Nude』(16)などコンセプチュアルな作品が目立つ一方、『The Shakes』(15)や『Musca』(21)では彼の出自たるダンスの喜びとせつなさを大いに味わうことができた。パンデミック前は意欲的にサウンドトラックにも挑戦、尖鋭的なドラマーとの目の覚めるようなコラボ『Drum Solo』(22)もあった。彼の好奇心が絶える日は永遠に訪れないにちがいない。

 この唯一無二の才能が新たに挑んだテーマは、馬。気になる動機は以下の発言で確認していただくとして、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラと組んだ新作『The Horse』ではサウンド面でも新たな実験が繰り広げられている。馬の骨はじめ、全体としてはフィールド・レコーディングの存在感とフォーク・ミュージック的な気配が際立っているが、自身のルーツの再確認ともいえるダンス寄りの曲もある。コンセプトとサウンドの冒険が最良のかたちで結びついた力作だと思う。
 もっとも注目すべきはシャバカ・ハッチングスの参加だろう。ほかにもセブ・ロッチフォード(ポーラー・ベア)やエディ・ヒック(元ココロコ)、シオン・クロスと、サンズ・オブ・ケメット周辺の面々が集結している。2010年代に勃興したUKジャズ・ムーヴメントのなかでも最重要人物たるハッチングスまわりとの接続は、長いキャリアを有するハーバートが現代的な感覚を失っていないことの証左だ(ハッチングスが若いころに師事した即興演奏のレジェンド、エヴァン・パーカーの客演も大きなトピックといえよう)。

 ちなみに本作で馬との対話を終えた彼は現在、バナナに夢中だという。スーパーやコンビニなど、いまやどこにでも安価で並んでいるバナナ。その光景がグローバリゼイションと搾取のうえに成り立っていることを80年代初頭の時点で喝破したのが鶴見良行『バナナと日本人』だった。どうやらいまハーバートもおなじ着眼点に行きついたらしい。早くも次作が聴きたくなってきた。

彼にお願いしたことは、「フルートを演奏した世界初のミュージシャンになった気持ちを想像しながら演奏してくれ」ということだけ。彼が参加してくれたのはほんとうに光栄なことだった。シャバカ・ハッチングスというミュージシャンはつねに疑問を持ち、考えている。

新作のテーマは「馬」です。音楽と馬との関わりでまず思い浮かべるのは、ヴァイオリンの弓が馬のしっぽからつくられていることです。つまりクラシック音楽の長い歴史は、馬なくしては成り立ちませんでした。また音楽以外でも馬は、移動手段としての利用をはじめ、人間と長い歴史を有しています。今回馬をテーマにしたのはなぜなのでしょう?

H:じつは最初から馬を選んだわけじゃないんだよ。馬のほうからぼくを選んでくれたんだと思う。最初のアイディアは、なにか大きな生き物の骸骨を使ってレコードをつくるといういうものだった。そこで eBay でいちばん大きな骸骨を検索したんだ。ティラノサウルス・レックスとか、恐竜のね。でもそれはなくて、購入することができるいちばん大きな骨は馬の骨だったんだ。だから馬の骨を買ったら、数週間後にものすごく大きな箱がスタジオに届いてさ(笑)。「なんてことをしてしまったんだろう」とそのときは少し後悔したよ(笑)。でもぼくはその骨格から楽器をつくりはじめて、それで音楽をつくりはじめた。そしたらどんどん馬の魅力に夢中になっていったんだ。馬や、馬にまつわる物語にね。馬は、猫なんかよりもはるかに深く人間とつながっている。人間と多くの関係をもったナンバーワンの動物なんだ。そこで、馬は自然界と人間の関係の謎を解き明かす鍵であり、その関係をあらわすとても素晴らしい比喩になると思った。そんな成りゆきで、今回のアルバムを作るに至ったんだよ。

通訳:そもそもどうして骸骨を使いたいと思ったのでしょう?

H:正直、それは覚えてない。そのアイディアを気に入ったのはたぶん、骨というものが多くの動物が共有するものだからだったと思う。骨は見えないけれども私たちのなかに存在しているものだから。毎回レコードをつくるたびにぼくにとって重要なのは、その作品制作をとおしてなにかを学ぶことなんだ。自分が知らないことに触れ、それを学び、そしてそれをオーディエンスを共有することがぼくの野心なんだよ。

以前は「豚」をテーマにしたアルバムを出していますよね。それと今回の「馬」とは、テーマのうえでどう異なっているのでしょう?

H:豚の場合、あれは一匹の豚の人生の旅路がアルバムの大きなテーマだった。その豚が生まれてから食べられるまでの人生を記録したのがあの作品。そして、その豚が食べられた瞬間にその記録はストップするんだ。その記録はある意味ドキュメンタリーのようなもの。ある一匹の豚のドキュメンタリー、あるいは物語なんだよ。僕は、あの一匹の動物の一生のほとんどすべてを知っていた。その豚が生まれたときも、食べられたときもその場にいたし、旅の間中ずっと一緒だった。でも今回の馬についてはなにも知らないんだ。競走馬であること、ヨーロッパ生まれであること、そしてメスであることだけは知っているけど、知っているのはその3点のみ。だから今回のアルバムはほとんどその馬の死後の世界のようなもので、その馬の霊的な旅、幻想的な旅、神聖なる旅といった感じなんだ。馬の骨を手にしたときからすべてが未知だった。つまりぼくにとってこのアルバムはドキュメンタリーではなく、探検や未知の世界であり、かなり抽象的な作品。この馬は数年前に亡くなったんだけれど、ある意味アルバムをつくることで、その馬のために死後の世界を作ったようなものなんだ。

非常にさまざまな音が用いられていますが、制作はどのようなプロセスで進められたのでしょうか? リサーチと素材の収集だけでかなりの時間を費やさなければならないように思えます。

H:そう。かなり大変だったね。今回はレコードの制作期間が半年しかなかったから、骨組が届いてから完成するまではとても早かった。最初はなにをどうしたらいいのかわからないままアルバムづくりをスタートさせて、まずヘンリー・ダグに脚の骨を使って4本のフルートをつくってもらったんだ。そのあと骨盤からハープをつくってもらい、サム・アンダーウッドとグラハム・ダニングに骨を演奏できる機会をつくるのを手伝ってもらった。そうやってできあがった新しい楽器の演奏方法を発見しながら素晴らしいミュージシャンにそれを演奏してもらったんだ。とにかく即興で音を演奏し、ストーリーをつくっていった。今回はカースティー・ハウスリーという監督と一緒に作業をしたんだ。彼女はイギリスの有名なシアター・カンパニー Complicite で多くの演劇を手がけている。そしてもうひとり、イモージェン・ナイトというムーヴメント・ディレクターとも一緒に作業した。ぼくと彼女たちの3人は、ドラマツルギー(戯曲の創作や構成についての技法、作劇法)について考え、物語の構成や内容について考えることにかなり長い時間を費やし、この馬の骨にまつわるストーリーと、音楽にまつわるすべての可能性について話しあったんだ。最初のアイディアがエキサイティングであったと同時にすごく厄介だったし、時間も限られていたから、けっこう途方にくれてしまってね。そこでカースティーとイモージェンが物語の構成を考えるのを手伝ってくれたんだ。

アウトサイダーやエキセントリックなひとたち、もしくはシーンの端っこで面白い音楽を作ってきたひとたちをこのレコードに招き、ここで彼らに自分の居場所を見つけてほしかったんだよ。そして彼らをこの空間で祝福したかったんだ。

今回の制作でもっとも苦労したことはなんでしたか?

H:もっとも苦労した、というか大変だったのは、その馬に対して誠実で忠実な作品をつくること。ぼくはその馬のことをなにも知らなかったから、自分が知らないものについて音楽をつくるというのはかなり難しいことだった。まるで、会ったこともないだれかのプロフィールを書くようなものだからね。もうひとつは、骨という唯一残されたその馬の一部に魂を見出すこと。骨はぼくが持っているその馬のすべてだったから、もちろんぼくはその骨に敬意を払いたかった。でも骨というものに魂を見出すことが最初は難しくてね。生きているものと違って、骨はカルシウムと炭素とシリコンでできている。骨はもう生きていないわけで、生き物の遺骨と魂の関係とは何かを考えるというのが、ぼくにとってはすごく複雑だったんだ。

“The Horse’s Bones And Flutes” では、馬の骨からつくられたフルートをシャバカ・ハッチングスが演奏しています。彼はサックス奏者ですが、日本の尺八などさまざまな管楽器を探究しています。また彼はアフリカの歴史を調べたり、非常に研究熱心です。彼の探究心について、あなたの思うところをお聞かせください。

H:最初に今回の件を依頼したとき、彼は「無理だね。俺には演奏できないよ」と言ったんだ。でも、もちろん彼は才能あるミュージシャンだから、10分後には完璧にフルートを演奏していた。そこでマイクをセットし、ひたすら彼に演奏してもらい、2時間かけてそれを録音したんだ。そしてその演奏をとにかく聴きまくりながら、僕らはたくさん話をした。僕が最初に彼にお願いしたことは、「フルートを演奏した世界初のミュージシャンになった気持ちを想像しながら演奏してくれ」ということだけ。そこから2時間の即興演奏ができあがり、ぼくがそのなかからとくにいいと思った部分をいくつか取り出し、曲をつくりあげたんだ。ぼくは彼の探究心が大好き。だからこそ彼を選んだし、彼が参加してくれたのはほんとうに光栄なことだった。シャバカ・ハッチングスというミュージシャンはつねに疑問を持ち、考えている。音楽というものはときに超越を意味するものだと思うんだ。そして、考えるということと降伏することのあいだにはとても複雑な関係がある。彼はかなり興味深い視点やヴィジョンを持ってるんだ。演奏や即興をやっているときはとくにそう。彼は演奏しているときつねに考え、つねになにかを創造しながらも、そこには同時に自由が存在する。彼のなかではそのアンバランスが成り立っていているんだよ。自由で好奇心旺盛でありながらなにかを達成しようとするのはすごく難しくて複雑なことだと思う。でも彼はそれをとてもうまく表現できていると思うね。

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人類が最初に音楽をデザインしたとき、それは複雑なものではなかった。でも人間が進化するにつれて、音楽もより複雑に進化してきた。だからぼくたちは出だしのほうの音をすごくシンプルなものにしたかったんだよ。

本作にはポーラー・ベアのセブ・ロッチフォードや元ココロコのエディ・ヒック、またシオン・クロスも参加しています(全員サンズ・オブ・ケメットでも演奏経験あり)。2010年代後半はロンドンを中心に新たなジャズのムーヴメントが勃興しました。これまでもジャズを小さくはない要素としてとりいれてきたあなたにとって、そのムーヴメントはどのように映っていますか?

H:イギリスには昔から面白いジャズが存在していて、その歴史は長い。以前は新しい世代は昔からの物語を引き継ぎ、昔からのまともなジャズを継承してきたんだ。イギリスのジャズにはつねに、ある種のアンダーグラウンドで探究的な伝統が尊愛してきたからね。でもいまはジャズとダンス・ミュージック、そしてリズムのあいだですごくエキサイティングなコラボレーションがおこなわれていると思う。ジャズの歴史のなかでリズムというのはこれまでとくには追求されてこなかったと思うんだ。でもいまの新しい世代は、ダンス・ミュージックからリズムとアイディアを借り、それを即興演奏にとりいれている。しかもそれをかなりうまくやっていると思うね。ぼく自身そういったサウンドが大好きだし、例えばシオン・クロスのようなミュージシャンはチューバを演奏しているけれど、ぼくはそこが好きなんだ。チューバは通常ジャズの楽器ではないからね。新しい楽器、新しい音、そして新しい声を見つけるというのは本当にエキサイティングだと思うし、彼らが集まっていっしょに演奏するようなコラボレーションがあるのもこのシーンの素晴らしさだと思う。彼らは互いにサポートしあっているし、まるでエコシステムのように機能している。ほんとうにポジティヴだと思うよ。

ひるがえって、エヴァン・パーカーやダニーロ・ペレス(Danilo Pérez)といった巨匠も参加しています。彼らを起用するに至った理由は?

H:エヴァン・パーカーはぼくの近所に住んでいるんだ。彼とは友人の紹介で知り合い、参加してもらうことになった。ダニーロ・ペレスとは数年前パナマで一緒に映画のサウンドトラックを制作したことがあって知り合ったんだ。ぼくにとって今回のレコードに昔の世代のミュージシャンも招くのは重要なことだった。今回は若い世代から年配の世代まで、幅広い世代のアーティストをフィーチャーしたくてね。楽器の製作者にかんしても同じ。ヘンリー・ダグは昔の世代の楽器製作者だし、ぼくらは彼以外に若い楽器製作者にも参加してもらった。ぼくはアウトサイダーやエキセントリックなひとたち、もしくはシーンの端っこで面白い音楽を作ってきたひとたちをこのレコードに招き、ここで彼らに自分の居場所を見つけてほしかったんだよ。そして彼らをこの空間で祝福したかったんだ。

馬と権力はこれまでずっと結びついてきたし、いまでもそれは続いている。王や貴族、権力を象徴するものとして。馬に乗れるということは、自然をコントロールできるということなんだ。馬は権力と自然を支配することの象徴なんだよ。

通訳:エヴァンとダニーロとの実際に曲づくりをしたプロセスを教えてください。

H:エヴァンは、彼がぼくのスタジオに来て、彼に骨のフルートを渡し即興で演奏してもらった。彼はサックスも吹いているんだけど、あれがいちばんの成功だったと思う。というのは、今回のアルバムでぼくにとって大切だったのは、音楽が自由であることだったから。その自由さで、馬の精神、想像力の精神、音楽家の精神を表現し、それを感じてもらいたいと思っていたんだ。エヴァンはそれを表現してくれた。彼は自由に、とても美しく、感動的なものをもたらしてくれたんだ。
 ダニーロとの作業はそれとは少し違っていた。パナマでレコーディングし、彼にも即興で演奏してもらったんだけれど、彼には馬と対話するように演奏してもらうようお願いしたんだ。「馬が出す音を聴いて、それに合わせてピアノを弾くれ」ってね。そうすることで新しい表現の形をいっしょにつくっていった。その異なるプロセスがそれぞれ違ったものをもたらしてくれたんだ。

2曲目の太鼓の響きや4曲目の旋律などからは、西洋ポピュラー・ミュージックとは異なる、民族音楽やフォーク・ミュージックと呼ばれるものを想起しました。そういった点もテーマの「馬」と関係しているのでしょうか?

H:原始的な楽器を使ったから、民族音楽のように聞こえないことはむしろありえなかったと思う。馬の皮やウサギの皮といった動物の皮を引き伸ばして作られたものだから、かなりベーシックな楽器なんだ。そのシンプルな太鼓を演奏しているだけだから、フォーク・ミュージックのように聞こえないほうが難しいと思うね。現代の楽器と比べると、その楽器から得られる音やテクスチャーの幅はかなり限られているから。ぼくは今回のアルバムで音楽の歴史も表現したかったんだ。人類が最初に音楽をデザインしたとき、それは複雑なものではなかった。でも人間が進化するにつれて、音楽もより複雑に進化してきた。だからぼくたちは出だしのほうの音をすごくシンプルなものにしたかったんだよ。2曲目では、最後にひとつのコードが出てくるんだけど、それはハーモニーの出現を表現している。そんな感じで、このアルバムでは音楽の進化も表現しているんだ。だからアルバムの最初のほうはフォーク・ミュージックのようにとてもシンプルにはじまり、そこからオーケストラのようになり、エレクトロニックになっていく。アルバムのなかで、音楽がどんどん複雑で奇妙なものに発展していくんだ。

本作には、かつてサフラジェットのエミリー・デイヴィソンが命を懸けて馬の前に立ちふさがった、その競馬場で録音した音も含まれているそうですね。フェミニズムもまた本作に含まれるテーマなのでしょうか?

H:あの音源を使ったのは、ぼくが権力の表現に興味があるから。もちろんフェミニズムはその重要な一部ではあるんだけれど、フェミニズムがテーマというわけではないんだ。馬と権力はこれまでずっと結びついてきたし、いまでもそれは続いている。王や貴族、権力を象徴するものとして。馬に乗れるということは、自然をコントロールできるということなんだ。馬は権力と自然を支配することの象徴なんだよ。そして、自分たちの楽しみのために馬を競わせる競馬という点もそうだし、女性が権利のために立ち上がるという点もそうだし、あの場面ではいくつかのストーリーがひとつになっているように思えたんだ。権力がどのように交錯するかを説明するための有力なストーリーがね。権力とフェミニズムの関係だったり、権力と環境の関係だったり、貴族制度と競馬、つまりはスポーツやギャンブルの関係、権力と搾取の関係もそう。権力がどのように社会と交差しているのかを表現するのに役立つと思った。ほんの小さな出来事だけれど、僕にとってあの出来事と場所は、権力にかんするいくつかの物語が結晶化したものなんだ。

ダンスフロアはたんにレッドブルやウィスキーを飲むための場所じゃない。ダンスフロアが政治的でありつづけること、政治化されつづけることは、ぼくはすごく重要なことだと思っている。

今回フィールド・レコーディングだけでなく、インターネットから集められた馬の鳴き声も使用されているのですよね? パンデミック中はIT関係のテック企業やシリコンヴァレーのひとり勝ちのような状況になり、富める者がさらに富むような側面もありましたが、それでもインターネットを使わざるをえない現代のアンビヴァレントについてどう思いますか?

H:インターネットのよさは、その巨大さ。インターネットは人間の脳の巨大な地図のようなもの。だから、クリエイティヴな部位もあり、怒りの部位もあり、セクシーな部位もあり、情報の部位もあり、機能的な部位もある。ぼくはその詰まり具合が好きなんだ。インターネットをとおして過去のさまざまな人びとやアイディアとコラボレーションできるのも素晴らしいことだと思う。それに、ぼくは新しい技術を使うことに興味があるんだ。たとえば機械学習とかね。馬の鳴き声を集めるために使ったのがこの技術。このアルバムでは非常に初期の原始的な技術である骨のフルートから機械学習にまで触れたかったんだ。

“The Horse Is Put To Work” や “The Rider (Not The Horse)” にはダンス・ミュージックの躍動があります。90年代~00年代初頭、あなたはハウスのプロデューサーとして名を馳せ、2021年の『Musca』もハウス・アルバムでした。あなたにとってハウス、もしくはダンス・ミュージックとはなにを意味していますか?

H:ぼくが最初にダンス・ミュージックをつくりはじめたころは、ダンス・ミュージックのレコード会社もそれをつくるアーティストもそれほど多くはなかった。それがいまでは何百万人、何千万人という人びとがそれをつくっている。だからダンス・ミュージックは以前と比べると薄くなり、パワーが少し弱くなった気がするんだよね。政治的な意味も希薄になってしまった。とくにハウス・ミュージックはアメリカのブラック・クィア・カルチャーとして、安全にプレイされるための場所としてはじまったのに。ダンスフロアはたんにレッドブルやウィスキーを飲むための場所じゃない。ダンスフロアが政治的でありつづけること、政治化されつづけることは、ぼくはすごく重要なことだと思っている。とくにイギリスでは政治も新聞も、どんどん右傾化してしまっているんだ。そんななかでダンスフロアのような安全な空間をつくり、それを育てていくことはほんとうに重要だと思う。なのにダンス・ミュージックの形態が、音楽的に言えば、少し保守的になってきてしまっているのは残念だよ。気候変動だったり、ぼくたちはいま実存的な危機的状況にあると思う。そんななかで音楽があまりにも保守的だったとしたら、それはぼくらの助けにはなれないと思うんだ。

これまでもあなたは人間の身体やブレグジットなど、さまざまなテーマの作品をつくってきました。ただ音の効果や作曲行為などのみに専念するアーティストがいる一方で、あなたがそうしたなにがしかのコンセプトを自身の音楽活動に据えるのはなぜなのでしょうか?

H:好奇心と、なにかを学びたいという気持ちだろうね。いまぼくは映画やテレビ音楽の仕事をしている。次のプロジェクトはバナナがテーマなんだ。いまはドミニカ共和国でバナナにマイクをくくりつけて、ドミニカ共和国からぼくの朝食として出てくるまでの道のりを録音し、記録しているところ。これはもう映画のような作品なんだ。映画であり、記録ドキュメンタリーでもある。今回バナナをコンセプトにした理由は、ぼくがバナナについてなにも知らないことに気がついたから。毎朝バナナを食べているのに、それについてなにも知らなかったから、バナナについて調べなきゃと思ったんだよね。バナナは世界でもっとも食べられている果物なのに、品種はひとつしかない。そして、パナマ病のせいで危機に瀕している果物なんだ。もしよかったらチキータ・ブランドについて調べてみて。バナナの歴史に暗い影を落としているから。

通訳:以上です。今日はありがとうございました。

H:こちらこそ、ありがとう。

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