「Red Hot」と一致するもの

 

 こんにちは、NaBaBaです。年の瀬迫る今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年もあっという間に過ぎてしまいましたが、ゲーム業界的には非常に盛り上がった1年でした。PlayStation 4とXbox Oneの二大次世代機も北米と欧州ではついに発売となり、どちらも品切れ続出の大人気のようです。

 そんな僕もじつはPlayStation 4の北米発売日である11月15日に、ロサンゼルス旅行に行ってきました。あいにくゲーム機そのものは手に入らなかったのですが、発売日の深夜販売に合流してみたり、個人のゲーム・ショップで店員さんたちといっしょに遊んだりして、向こうのゲーム熱を直に感じてきたのです。

 
L.A.市内のゲーム・ショップ『World 8』にて。店員さんたちと開封したてのPlayStation 4で遊んだときの様子。

 そしてこのロサンゼルスを舞台のモチーフにしているのが、今年最大の超大作である『Grand Theft Auto V』です。〈Rockstar Games〉の看板シリーズであり、昔『Grand Theft Auto III』が日本で発売されたときには、その暴力的内容から神奈川県で有害図書に認定されるという事件もありました。そうしたことから名前だけは知っている方も多いのではないでしょうか。

 そんなシリーズの最新作である本作は発売されるや否や、数々の記録を打ち立てています。まず開発費が約2.65億ドルと歴代ゲーム1位(2位は前作『Grand Theft Auto IV』の1億ドル)で、しかも発売初日に8億ドル以上売り上げ、発売6週で約2,900万本も売り上げるなど、化物みたいな数字が目白押し。さらにVGX等の数多くのアワードでもGame of the Yearを受賞しています。

 そんなあらゆる面において今年を代表し、また今世代の集大成と呼ぶにふさわしい本作のレヴューで以て、このコーナーも今年を締め括りたいと思います。

■進化・改善と新要素

 先程『Grand Theft Auto V』を今世代の集大成と呼んだのは、何も比喩的な意味ばかりではありません。〈Rockstar Games〉の作品としては、今世代に発売された『Grand Theft Auto IV』のオープンワールドゲームとしての骨格の上に、『Red Dead Redemption』の自然表現やランダムミッションシステム、『Max Payne 3』のシューティングシステム等といった長所を組み合わせた、正しく字のままの集大成として仕上がっているからです。

 舞台となるSan Andreas地方は、都市部と自然が織り成す、〈Rockstar Games〉の作品の中ではもっとも広大なもの。そこに詰め込まれているアクティヴィティも膨大で、現代のロサンゼルスに存在するであろう、あらゆる事物を徹底的に再現し、その上で現実では体験できないフィクションを織り交ぜています。シリーズはおろかオープンワールドゲームの中でも史上最大の物量だと密度と言っても過言ではありません。

 
シリーズ最大の舞台を、もっとも洗練されたゲーム・システムで楽しめる。

 さて、こうした進化と改善に対して、今回からの新要素はなんといっても3人の主人公によるザッピングシステムでしょう。本作ではMichael、Franklin、Trevorというそれぞれまったく別の境遇の3人組が、お互い協力して数々の犯罪に挑んでいきます。そしてゲーム的にもプレイヤーはこの3人を使い分けながら攻略していくことになり、ゲーム全体を通して非常に重要なシステムとしてフィーチャーされています。

 ではここから、前半はオープンワールドとメインミッションについて、後半は世界観の考察を交えながら、シナリオに対してこのザッピングシステムが持つ功罪について、考えていくことにしましょう。

本作の特徴についてはこの公式解説動画がもっとも纏まっている。

■3人の主人公と3種類の視点

 オープンワールドゲームとしてのこの主人公のザッピングシステムは、まずはミッション中でなければ基本的にいつでも自由に操作キャラを切り替えられるという点で、遊ぶ上での利便性に寄与しています。たとえば別々の場所にいる主人公たちを切り替えることで移動の手間が多少省けるし、また、いまやっていることに飽きても他の主人公に切り替えることで、心機一転して別のことに取り組むきっかけになるのが面白い。

 しかしそれ以上に個性や行えることが違う主人公たちを切り替えることで、ひとつの舞台を三者三様の角度から楽しむことができるのが効用としてはもっとも大きいと感じます。典型的なのがTrevorで、彼の破滅的な性格、言動はプレイヤーの遊び方をも自然と暴力的な方向に導いていく。MichaelやFranklinでは性格的に似合わない大量虐殺もTrevorだったら起こし得るし、実際そういう趣旨のイベントもたくさんあります。

 
Trevorの狂気はプレイヤーの暴力的衝動を掻き立ててくれる。

 前作『Grand Theft Auto IV 』でリアリティとシリアス路線の観点からトーン・ダウンしたシリーズ元来の暴力的ハチャメチャプレイが、Trevorというキャラによってリアリティを損なうことなく実現できた意義は大変大きい。シリーズのどのタイトルのファンにとってもうれしい改善だと言えます。

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■格好良い+ 格好良い +格好良い=超格好良い!

 『Grand Theft Auto V』の遊びの本軸となるメインミッションでも、先程のザッピングシステムは効果を発揮しており、ここではひとつの出来事を多角的に、かつよりスペクタクルに描き出すものとして、さらには攻略における戦術的オプションとしても機能しています。

 本作のメインミッションは前述した通り、3人が協力して大仕事に挑むパターンが多い。プレイヤーは異なる役割の3人を任意に切り替えたり、または自動で切り替わったりするなかでひとつのミッションを攻略していくことになります。

 これは簡単に言えば、3人の主人公の格好良い瞬間を切り貼りして、全体が構成されているという感じ。なので展開が常に引き締まっていて中弛みがなく、ひとつの出来事を多角的に見れるので物語としての厚みも増す。また役割が3人に分散するので、従来のゲームに見られた、主人公がひとりで全部やるみたいなことが起きず、リアリティにも貢献しています。

ミッション中のザッピングシステムの機能は、映像を直接見てもらうのが理解する近道だろう。

 メインミッションでは大抵の場合頻繁にキャラクターを切り替えることになりますが、こうしたシステムで懸念材料になるのが、キャラクターを切り替えたときに状況が把握しきれず混乱しかねないことだと思います。しかし本作では不思議なくらいこの問題は起きませんでした。

 それは良くも悪くもこのシリーズのミッションには、もともと戦略の自由度が無いからなのでしょう。とくに04年発売の『Grand Theft Auto: San Andreas 』以降のミッションは紋切型ばかりで、大局的な目線で立ち回りを考えたりといった、創意工夫を許す余地がありません。この点がいままでは欠点のひとつとして度々指摘されてきたわけですが、しかし本作に限ってはその指示された通りやればいいという単純さが、むしろ主人公を使い分ける際に混乱を抑制するプラスの効果を生んでいるのです。

 また違う立場のキャラクターに切り替える機能は戦略の幅には寄与しなくとも、局所的な戦術という意味では自由度を増やしてくれています。たとえば1人が迷路のような場所を進み、もう1人が遠方からスナイパー・ライフルで援護するというシチュエーションの場合、片方の操作に専念するか、交互に使い分けるか、またその割合等もプレイヤーの裁量に委ねられるのです。

 
定番の狙撃で援護する場面も、する側とされる側を自由に切り替えられるとなれば俄然面白くなる。

 そうした点を考えれば、紋切型という根本的な構造自体は変わっていませんが、むしろ紋切型としては、従来のゲームには無いシステムがとても新鮮で、かつそれがしっかり機能していて、とても面白いものに仕上がっていると思います。

■リーマンショック以降のアメリカ社会を切る

 問題はシナリオで、ザッピングシステムがほぼ完璧に機能していると感じた先の2件に比べて、こちらは不満に感じる部分が結構ありました。しかしその点を語る前に、まずは本作の全体的な世界観から考察していきたいと思います。

 このシリーズの世界観の特徴は、一貫してアメリカ社会の風刺であると思っていますが、本作ではとくにその傾向が強い。なぜなら今までのシリーズはギャングやマフィアといった裏社会の出来事を中心に描いていたのに対し、本作ではより一般人と表社会に近いところで物語が展開されるからです。

 もっともわかりやすい例が主人公たちに仕事を依頼するクライアントや敵対者たちで、これまでのような裏社会の犯罪者はほんのわずかで、かわりに実業家やFIBやIAA(FBIとCIAのパロディ)の捜査官、パパラッチやエクササイズ・マニアだとかいった、ほとんどが表社会や公的機関の人々。そんな彼らが金を稼ぐため、社会で生き残るため、あるいは狂気の結果として、主人公たちに不正行為の外注をするわけです。

 
実業家のDevin Weston。儲け話でそそのかしながら、報酬を出し渋る嫌な奴だ。

 さらに街を見回してみると、現代社会のさまざまな事物が強迫観念的に誇張されて描かれています。経済問題やセレブの堕落といった話題がニュースの紙面を賑わせ、IT会社のCEOは児童労働を高らかに宣言し、保守主義と社会主義の知事候補が日々過激な罵り合いを繰り広げ、TwitterやFacebookを模したSNSを見ると人々はヤクやセックスの話ばかりしている。

 
現実では建前の奥に隠している本音も、本作では皆堂々と曝け出している。

 そこから浮かび上がってくるのはリーマンショック以降のアメリカの姿です。不景気や相次ぐ社会問題に喘ぎ、しかしかつての栄華を捨てきれずに体裁だけ整えようと、皆が必死になっている姿がそこにはある。劇中ではどれも表現が過激で往々にしてコミカルに見えるますが、捉えている問題は極めて現実的でシリアスなものです。

 そんな世界において、主人公たちはある意味ではもっとも被害者なのかもしれません。なにしろほとんどの場合クライアントからは報酬が支払われない。これまでのシリーズでは仕事を請け負えば必ず報酬がありましたが、本作では何かと理由を付けてケチられたり、そもそも初めから無銭労働を強いられる場合も多い。

 当然主人公たちはジリ貧です。物語的にはもちろん、ゲーム的にも出費だけがかさみ、そのうち何もできなくなり、最終的には自ら企画立案した仕事=強盗に挑まざるを得ない状況に追い込まれていく。

 
本作の自主的な強盗の動機は、基本的に生活苦なのである。

 つまり本作は本質的には労働者の物語なのです。これは言うなればウォール街を占拠せよ運動で語られた、1%の富める者と99%の貧する者たちによって繰り広げられる死の舞踏なのです。問題の発露、あるいは解決に犯罪行為が選ばれているだけで、問題そのものはわれわれ一般人の生活のなかにあるものを捉えている。

 そして本作の凄いところは、こうした社会風刺を言うまでもなくオープンワールドゲームとして表現している点にあります。これまでゲームに限らずあらゆるメディアに社会風刺的な作品は存在しましたが、風刺の対象となる社会そのものを仮想現実的に再現してしまうことに関しては、このシリーズに勝るものは他にありません。とりわけ本作はいままで以上に一般人の目線に立った世界観と、先述したシリーズ最高のゲーム・システムが組み合わさり、シリーズとしてもメディア作品としても風刺表現のひとつの極みに達していると言えます。

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■三兎を追う者は何とやら

 問題はここから。世界観と全体的なテーマは文句なしですが、3人の主人公個々の物語として見ると話は違ってきます。結論から言えば主人公が3人になったぶん、視点が分散してしまい、両者とも十分に掘り下げきれないまま話が終わってしまう印象を受けました。

 少なくとも中盤までは大変面白い。ストリート・ギャングと決別し、より現実的な方法で成功を望むもうまくいかず悶々としているFranklinは同世代として共感できるし、家庭崩壊と己の性に苦しむMichaelはいままでのゲームには無かったキャラクター像でとてもユニークです。そんなふたりに正真正銘の外道であるTrevorが合流し、毎回乱痴気騒ぎをしつつも全体的に駄目な方向に堕ちていく様子は、まさに現代版死の舞踏といった感じで、悲劇でも喜劇でもありながら独特の緊張感がある。

 
ついには家族に出て行かれてしまうMichael。

 しかし後半以降になると途端に展開がマンネリ化してしまいます。まずFranklinは本人の目標を早々に達成してしまい、話の本筋にあまり絡まなくなってしまう。TrevorはMichaelのことをチクチク言葉責めするばかりで関係に進展がほとんどないし、3人のクライアントもほぼFIBに固定化されてしまう。

 
Franklinはときどき元ギャング仲間との絡みがあるだけで、後半はほとんど彼自身の物語が展開されない

 こうした後半のマンネリ化に続いて、終盤で物語が収束していく段になっても、個々の出来事にいまひとつ説得力が欠けているのです。極めつけはエンディングです。3種類に分岐するのですが、どれもいままで積み重ねた伏線を回収しきれずに終わるか、もしくはまるで打ち切りマンガのように強引に風呂敷を畳む感じになってしまい、いずれにせよ不満が残ります。

 以上のようなシナリオになってしまったところに、3人主人公というシステムの難しさを感じずにはいられません。エンディングについて、「もっと尺を取って個々の伏線にしっかり決着をつけるべきだった」と言うのは簡単ですが、おそらく律儀にそれをやっていたらただでさえ長大な物語がさらに気の遠くなる長さになっていたに違いありません。後半のマンネリも、3人の個々の物語を展開しつつ、本筋の大きな物語に歩調を合わせることの困難さが露呈してしまっています。

 どうすればうまくいったのか簡単には思いつきませんが、つまりはそのワン・アイディアが足りなかったということでしょう。結論としては一般的なゲームのシナリオとしてはユニークさも完成度も十分と言えますが、個人的にシリーズ最高だったと思っている『Grand Theft Auto IV 』の主人公Nikoの物語と比べると、今回の3人の物語は数段落ちるのが残念でした。

■まとめ

 お金をつぎ込めるだけつぎ込み、現在考えられる究極のゲームを作ったとしたら? その答えのひとつが『Grand Theft Auto V』であり、その圧倒的物量は前代未聞の領域。新しいシステムも含め全体的な完成度はとても高い。

 唯一、シナリオの後半以降の粗が目立ってしまうのが玉に瑕ですが、現代アメリカの風刺としてはこれ以上無いほど極まっており、総合的に見て『Grand Theft Auto』シリーズの名に恥じない傑作と断言できます。ゲーマーは勿論、普段ゲームに興味の無い人にも手にとってほしいと感じる逸品。

 最後に、『Grand Theft Auto V』はとても多義的な作品です。今回はゲーム・システムと物語という観点からレヴューしましたが、よりアメリカン・カルチャーに根ざしたところから本作を考察することもできるでしょうし、犯罪映画の数々と比較して語ることもできるでしょう。

 そして『ele-king』的には何よりも音楽ではないでしょうか。本シリーズは毎回劇中のラジオという形で、時代性に即したさまざまな実在の楽曲が収録されていますが、本作もまた古くはザ・スモール・フェイセスの『オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク』から、近年ならジェイ・ポールの『ジャスミン』等、幅広いジャンルの曲が選ばれています。

 こうした観点からのレヴューも非常に興味深いに違いありませんが、あいにく僕は音楽の専門化ではないので書くのは難しい。むしろ他の誰かが書いてくれないかな! という淡い期待を寄せつつ、本年のレヴューを締め括らせていただきたいと思います。それでは皆さん、よいお年を。



 もういい歳こいてることは重々承知、僕は未だに自分の放浪癖を更正するすべを知らない。この原稿を書いている現在も、何の因果かヨーロッパを放浪している。これは、まあ、そのドリフト録とでも言うべきものだ。そもそもはふとした思いつきでLAに向かったことから始まるこの生活だが、今回の最終目的地もいちおうのところLA。僕の放浪はLAに始まりLAに終わるのだ。いや、終わればいいんだけれども。

 といいつつ、この記録を書きはじめた10月には、ローブドア(Robedoor)のヨーロッパ・ツアーのコラボレーターとして暗雲立ち籠める最悪の欧州をドリフトしていた。しかし彼らとの出会いは僕が初めてLAに長期滞在していた2009年に遡る。当時はLAの〈エコー・パーク〉をヤサにしていて、ローカルたちが集うギャラリーや人ん家で夜な夜な催されるアホなパーティーを通じて親交を深め云々、そこからずっとつながる縁である。

■Oct14th
 ローブドアのブリット(〈NNF〉主宰)とアレックスにベルリンにて久々の再会を果たし、昨年LAでの対バン以来初めて観る彼等のデュオ編成でのパフォーマンスに度肝を抜かしたのは言わずもがな、今回のツアーの前半戦をサポートしたスウェーデンからのナイスガイ、マーティンによる初めて見るサンド・サークルズ(Sand Circles)のライヴ・セットは素晴らしいものであった。〈NNF〉からの過去のテープはどちらもヴァイナルをプレスするにじゅうぶんなクオリティであるが、それを納得させるセットだ。
ショウ終了後、再会の感激冷めやらぬ我々はベルリンの寒さをものともせず、さらに寝床を提供してくれたお姉チャンの家が5階で勿論エレベーターが無いため全力で機材を持ち込むことによって全員熱気すら放ち、ヨーロッパの一般的ボロ・アパートの何たるかを忘れシャワーの順番を譲り、みなを起こさぬよう悲鳴を抑えながら3日ぶりのシャワーを冷水で浴びていた。

■Oct15th
 翌朝ムニャムニャのままプラハに向け出発。国境を越え、チェコに入国した途端に濃霧に包まれるハイウェイ。ようこそ暗黒のチェコへと言わんばかりの歓迎にテンションも上がる。幻想的なプラハの町並みに感銘を受けながらダンジョン感全開のハコでのショウ。この日のローブドアのセットは素晴らしかった。勿論この土地で得た僕の心象風景とローブドアのサウンドが相乗効果をもたらしたのであろうが。僕が嗜好するような音楽シーンがこの土地に根づいているのかはわからないが少なくともこの日集まった多くのオーディエンスが熱烈にソレを求めているのがビンビンに伝わってきた。この日の主催者たちが運営する〈アムディスクス(AMDISCS)〉等のDIYレーベルが放つ多くのリリースからもそれをうかがい知ることができる。


そしてこの画のように野暮ったい。しかし野暮なオーディンスこそがリアル。ノー・ハイプ・シット。見よ前列のお姉ちゃんを。

寝床への道中、マシンガントークで町のあっちこっちの歴史を熱弁するこの日のプロモーターの一人(名前失念)は最高だった。僕らのために用意してくれた寝袋のひとつがテントだったのは意味わからんかったけども。

■Oct 16th
全員が早起きした。宿先の正面にそびえ立つ重そうな教会前(Church of the most sacred heart of our load)で朝市が催されており、僕らは大量の新鮮な果物とチーズを購入し……って、そう、チーズ。ローブドアのアレックスは食品輸入関係の仕事をこなしているためか、とにかくチーズに目がなく、僕らはツアー全日程を通してあらゆるチーズをつねに喰っていたため、車内はつねにチーズ臭で充満していたであろう。
この日のショウはウィーンのフラック(Fluc)で移動時間に余裕のある僕らは満場一致でクトナー・ホラのセドレツ納骨堂に寄ることにした。メタル系バンドのジャケで写真が濫用されているアレである。ノリでホトケをLEGOのごとく積み上げてみました的な実物に感銘を受けながら僕らは今回初めての観光らしい観光に充足した。

 フラックで僕らを迎え入れてくれた〈ヴァーチャル・インスティテュート・ヴィエナ(VIV)〉を主催するステファンとシーラは間違いなくウィーンでもっともイケてるカップルだ。シーラは最高の手料理をふるまってくれ、サウンドチェック後に僕らはそれを堪能し、ステファンは自身のNHKヴァイヴなプロジェクトJung An Tagenでナイスなオープニング・アクトを務めてくれた。ハコのサウンドシステムもさることながら、この日はDJ陣が素晴らしかった。SKVLKRVSHと名乗るアンチャンは僕の今年度のヘヴィロテをほぼ網羅してくれたし(D.R.I.からピート・スワンソンのミックスとか最高過ぎる)、そして何故かジェノバ・ジャクジーが80'sゴス全開のDJを……。
どうやらヨーロッパ・ツアー中であったアリエル・ピンクス・ホーンテッド・グラフィティに参加していた彼女は、最高潮に達したメンバー間の不和によりツアー半ばにして脱退し、強引にソロ・ツアーを慣行していたらしい。アナーキー過ぎる……。


酔いどれアレックスとジャクジー。何でジャクジーなのよってツッコんだら超真顔で本名だからと仰っておりましたが……

■Oct 17th
 お次はチューリッヒへ、ちなみに僕は今回のドリフトに際してビザも帰りの航空券も取得しておらず、EU加盟国でないスイスに入国するのを危惧していたが、問題なく国境を通過できた。高架下とスケート・パークに隣接するハコ〈Klubi〉は、どことなく新大久保〈アースドム〉を彷彿させる構造と音作りで、爆音での演奏を熟知しているようだ。プロモーションからアテンド、サウンドメイキングまで手掛けてくれたロジャーはソルト(Soult)としてホーラ・ハニーズ(Hola Honeys)のプロモーション・ツアーでNHKと共に来日もしている。ソリッドなDJを担当していたお姉ちゃんが用意してくれた豪勢な食事は、あまりのうまさに全員が無言でガッついていた。
満腹で弛緩しながらも、このあまりにも勿体ない待遇の何たるかを、僕にとって初めてのヨーロッパ・ツアーであるがゆえのカルチャー・ショックなのか、それとももしかしたらヨーロッパにおけるミュージシャンシップはゲストを快く迎え入れることがひとつのステイタスなのかしらんなどなど夢想しながら眠りについた。

無駄にドリフトは続く……

 レイバーディ・ウィークエンド(日本でいう勤労感謝の日、9月最初の週末)に、ブルックリンのインディ・レーベル〈キャプチャード・トラックス〉の5周年記念パーティ(CT5)がブシュウィックのビアガーデンのウエルで開催された。ラインアップは以下の通り。

DAY 1  8/31 (sat)
HEAVENLY BEAT (ヘヴンリー・ビート)
CHRIS COHEN (クリス・コーヘン)
MINKS (ミンクス)
BLOUSE (ブラウス)
MAC DEMARCO (マック・デマルコ)
DIIV (ダイヴ)

DAY 2 9/1 (sun)
ALEX CALDER (アレックス・カルダー)
SOFT METALS (ソフト・メタルス)
SPECIAL GUESTS (スペシャル・ゲスツ)
WIDOWSPEAK (ウィドウスピーク)
BEACH FOSSILS (ビーチ・フォシルス)
WILD NOTHING (ワイルド・ナッシング)

 チケットは1日$30。同じ日(8/31)にユニオンプールのサマー・サンダーでサーストン・ムーアとダニエル・ヒグスをフリー見たあとに$30(!)と思ったが、フェスが終わる頃にはそんなことも忘れた。

 〈キャプチャード・トラックス〉は、設立者マイク・スニパーのバンド、ブランク・ドッグス他、ダムダム・ガールズ(マイクは初期ダムダムのメンバー)、グラス・ウィドウ、オーシーズ、レターエス、ヴェロニカ・フォールズなどのバンドのシングルから、最近はビーチ・フォシルス、ワイルド・ナッシング、スウェーデンのホログラムス(インタヴュー最後でマイクが話している、彼の聞きたかったパンク・バンド)などをリリースしている。モノクローム・セット、クリーナーズ・フロム・ヴィーナス、ウェイク、サーヴァンツなどの、英国バンド、シューゲイザーの再発にも力をいれている。また、このフェスの週末から、ヴァイナルのみのレコード屋もグリーンポイントにオープンした。
https://capturedtracks.com/news/captured-tracks-shop-now-open/

 2日目のスペシャル・ゲスツ、ダイヴ、ビーチ・フォシル、ワイルド・ナッシング、マック・デマルコのスーパーグループ(シット・ファーザー)では、〈キャプチャード・トラックス〉から再発されたクリーナーズ・フロム・ヴィーナスの「オンリー・ア・シャドウ」、「ヴィクトリア・グレイ」、レーベルオーナーのバンドであるブランク・ドッグスの「ティン・バード」のカヴァー。
 その他、ザ・ウェイク(ボビー・ギレスビーが一時メンバーだった)の「ペイル・スペクトル」では、コールがブラウスのチャーリに変装(?)してプレイ。ワンピースと黒のロングヘアで、本物と同じぐらい可愛いし、このスーパーグループは、レーベルのいまと再発バンドを楽しめる良い企画だった。



 ウィドウ・スピーク、ビーチ・フォシルス、ワイルド・ナッシングと代表アーティストを続けて見たが、何層にも重なったギター・サウンドやファジーなガレージ・ロック、ドリーミー・ポップなどすべてにスーパー・バンドで見たような80年代の英国音楽の影響を感じさせながら、独自の音楽を発展させていた。物販テーブルでは、お客さんやスタッフたちが情報交換し、一番前でノリノリの人から、後ろでまったりしている人、いろんな種類の人が〈キャプチャード・トラックス〉を軸に集まっていたのは、一昔前のインディポップ・フェスっぽくもあった。

https://www.brooklynvegan.com/archives/2013/09/mac_demarco_col.html

 以下、レーベル設立者のマイク・スニパーへの話をバッド・ヴァイブスのサイトから抜粋。
https://www.gimmebadvibes.com/...

〈キャプチャード・トラックス〉の声明を教えてください。

マイク(以下、M):メジャー・リリースがないアーティスト、PRをすでに築き上げているアーティストにサインすること。音楽が一番だけど、レーベル関連の考えには疑問を持っていたから、〈クリエイション〉、〈ファクトリー〉、昔の〈4AD〉の凄さについて考えさせられた。彼らの主要アーティストはそのレーベルに最初からいるし、〈クリエイション〉に関してはアラン・マッギーに発見され、その後盗まれている。
 現代のたくさんのインディ・レーベルより、60~70年代のメジャーがイケてた頃の、たとえば60年代の〈アトランティック〉や70年代後期から初期80年代の〈サイア〉のことを考えてみようよ。現代とは違う時代だけど、少なくとも彼らは、『ピッチフォーク』や『NME』のお墨付き(もしくはそれに値するもの)を待つことなく、新しい才能を見つけることに頭を使っていたし、それに賭けていた。もしエコー・アンド・ザ・バニーメンがいま現れたら、たぶんアンダーグラウンドのためのレコードを作って終わっていると思うし、すべてのメジャー・レーベルやコロンビアは目も向けなかっただろうね。スミスやジーザス・アンド・メリーチェインがデモを送っても「お墨付きがない」というだけで無視されてただろうね。

レコード会社やレコード会社というコンセプトは、2000年代に終わってしまったと考えますか?

M:ここ5年、たくさんのレーベルは自分たちの好みでアーティストを開拓しようとしていないのはたしかだね。僕のヒーローのひとり、ダニエル・ミラーは「ミュートは働いていた人の好みの反映だったから良いレーベルだったし、レーベルを信用する人たちにも反映していた」と言った。デペッシェ・モードやイレージャーだけでなく、ノン、ディアマンダ・ガラスみたいな違ったモノをリリースしていたことが素晴らしい。まさに理想だよ。アイデンティティを持っていても、レーベルのリリースは音楽のスタイルで制限されていなかった。だいたい現代では、ほとんどの人が去年のベストワン・レコードがどのレーベルから出てるかなどは気にしていないだろう。

あなたが指摘した、ヒップなレコード会社のA&Rが欠けているという点は面白いと思います。レコード会社は、昔からのレコード会社というより、ブログ的な物になると思いますか?

M:ブログを非難しているわけじゃないよ。というか、実際たくさんのレコード・レーベルは『ピッチフォーク』や『ゴリラVSベア』や『20ジャズ・ファンク・グレイツ』、『ステレオガム』なんかに借りがあるから。彼らが音楽を発見し、熱狂的になるのに文句を言う筋合いもない。でも、これらのひとつが反応を示すのを待っているという現代のA&Rポリシーはかなり問題だよね。だから、A&Rなんてものは除去して、会計士に取引させておけば良いと言ったんだ。だって、自分のレーベルから最初のリリースがないなんて、それではいったいレーベルの役割って何なの? おいおい......。

〈キャプチャード・トラックス〉は、あなたが最初に持っていた7"のヴァイブをもつ良い名前ですね。なぜこの名前にしたのですか? また、あなたの音楽の選択にどのように反映していますか?

M:僕が、声に出して良く言ってたから、僕のガールフレンドが、「レーベル名に良いんじゃない」と言った。当時は、レーベルがどこまでいくのか想像もしてなかったら、名前を選ぶのに深く考えてなかったし、「OK、じゃあそうしよう」って感じだった。ただ、●●●レコーズとか、レコーズで終わる名前だけにはしたくなかった。

〈キャプチャード・トラックス〉が行き着く、最終的な美しい形はどうなりますか?

M:まだ100%定義しているわけじゃないけど、アイデンティティを持っているバンドが好きだ。音楽的には多くなくても、僕以外にその人がすべてのバンドが好きというケースが作れたら嬉しい。例えば、ティム・コーヘンはソフト・メタルに似ていないし、ソフト・メタルはワイルド・ナッシングに似ていないし、ワイルド・ナッシングはソフト・ムーンに似ていない。
 視覚的には、アートやデザインのバックグラウンドがあって、最初は工場のように、僕がデザインするシステムに入れるよう遊んでみる。サクリッド・ボーンズが既に似たような事やっていたんだ。僕がケイラブ(Caleb)のレーベルからEPをリリースしたときに、ケイラブのLPフォーマットを発展させた。僕らが相互にデザインした(定番レコードをベースにした)何かでつながっていくのは良いと思った。去年のゾラ・ジーザスのレコードを見て、「僕らがデザインしたブランク・ドッグスEPデザインはまだまだ強い」と思ったな。話が逸れたけど、〈キャプチャード・トラックス〉は、このルートでは行かないと決めて、それはよかったと思う。できたときのアートワークに意見は言うけど、アーティストに僕の美学を押しつけたくないから。サクリッド・ボーンズを否定しているんじゃないよ。僕はファンだし、見栄えも好きだ。

〈キャプチャード・トラックス〉の再発シリーズも楽しんでいますが、インターネット文化のなかでは、再発の紹介やリリースは新しいバンドとして無理があると思いますか?

M:僕たちが手がける再発は、所属アーティストに関連しているけど、尊敬の念を込めて推そうとしているわけでもない。元レコード屋店員、現在レコード店経営者という立場から言えば再発市場は強い。再発のために新しいレーベルをはじめるというプレッシャーがあったけど、いまと昔のバンドに迷惑になると思った。これが存在しないふりをして新しいレーベルでリリースするなんておかしいよね。
 僕らのアーティストは自分のことをやっている。リヴァイヴァルではないが、彼らの影響は無視していない。「進行のための進行」はよいが、ヴィジュアル・アート界がすでに成し遂げている。「そこからどこに行くのか」というぐらい、70年代のミニマリズムに行くまで、ヴィジュアル・アートはあっという間に進んだ。ヴィジュアル・アートはそれ以来、過去や技術について考え直すことに戻ってきた。すでに発掘されたことは、発掘され終わったことを意味しないと気がついたからね。音楽ライターは、まだそれで奮闘していると思う。それらを書類棚に寝かせてしまうには、あまりに用意ができすぎて軽蔑的だから。

一番驚いた成功は何ですか?

M:ソフト・ムーン。「これは良いレコードだね。たぶん2000枚は売れるんじゃないかな」ぐらいに僕は思っていたけど、それをとっくに通り越した。素晴らしい。つい最近まで、メインストリームのインディにこんな音楽が入る場所はなかったのを覚えているし、こうなることに貢献できたのも嬉しい。

〈キャプチャード・トラックス〉はサイト上をミックスし、インターネットをうまく包含していますね。インターネット文化内で働くことがレーベルを保持できたと思いますか?

M:もちろんテクノロジーの利益を無視したりしないよ。僕らはニューポートのボブ・ディランを見捨てるピート・シーガーじゃない。レーベルのアーティストが「僕らはデジタルはしない」と言ったけど、「何で?」と答えた。単純な質問だけど、まだ良い答えをもらっていない。デジタル技術は、物理的フォーマットやメジャー・レーベルがやっていることを殺さなかったし、誰かが本当にレコードを買いたいと思ったら、いまでも買う。たくさんの人は、消費者を過小評価していると思ってるよ。人びとはアーティストを支持したいし、彼らの努力を認識する何かを持ちたいと思っている。デジタルを買う人はそのなかの一部だ。彼らはレコード、CDプレイヤーを持っていないからね。それらを得る一つの選択として、メディアファイア上で、誰かが裂いた歌を盗んで欲しい? 人びとに支持する機会を与えようよ。

音楽に関して、英国はこれから来るバンドなどに対して停止しているように見え、アメリカは有り余るような刺激的なことが起こっているように見えます。どう思いますか?

M:これに関しては長く話せるよ。でも僕が事情に通じている見解を持っているとも言いがたいけどね。英国では、アメリカ、ヨーロッパ大陸、日本、オーストラリアと違って、遺産という感覚が少ないと思う。音楽とは別の何かどんちゃん騒ぎでもないと勢いを表せない報道のやり方に問題ありだよね。何でもかんでも新しい物につばを付けるようなものだ。
 陸的にも近く、英国とほとんど同じ市場ということもあるけれど、フランスやドイツがいまだ英国プレスに支配されているのが不思議だよ。アメリカのバンドはヨーロッパで売れるためには、いくつかの例外はあるけど(スペイン、イタリア、スウェーデン)、英国でのブレイクが必要で、なぜヨーロッパ大陸が自分たちの国のプレスを発展させないのか疑問だ。僕は支持するけどね。
 英国には、何よりも先にマネージャーをつけるという慣習がある。僕は、マネージャーは自分たちが本当にマネッジが必要になったときにつければ良いと思っている。僕たちは英国マネージャーから終始求められるけれど、マネージャーがついた名もないバンドにサインするのは順番で言って最後だね。いまは2013年だぜ。レコード売り上げのグラフをみて、君の7インチか何かに会計士が必要なのかな? 違うでしょう。決してマネージャーを否定しているわけじゃないけど、そこにはしかるべき時期ってものがあるんじゃないかな。マネージャーをつけることより、自分たちで歌を録音して、ショーをして、レーベルと話すのが先だ。マネージャーが長所を証明するのに必要なぐらい、十分なことが起こるのを待って、マネージャーに彼が君のディールを見つけたと証明させないようにね。
 これはただの意見だよ。バンドはしたいようにすれば良いんだ。でも僕は、7インチもリリースしていないバンドのマネージャーと取引することはしないってことだ。過去、英国の音楽のすべてのサブジャンルに対する世界的な影響が明白だったということは、恥じるべきだと思う。ニルバーナなどのアメリカの90年代は、ビッグ・ドラムやメタリック・ギター・サウンドを人気とし、アメリカのギター・ベースのインディ・ロック・バンドは英国の影響を殺し、さらにメタルになった。ブラーやスエード、パルプなどのメロディ重視のバンドはアメリカでは比較対象として無視されていたし、英国の音楽プレスでは内部の見解を作成し、長すぎたブリット・ポップにも関わらず、戻ってこなかった。僕はアメリカ人だから、他に何があるのかわからない。

他には、どんなレコード、バンドをチェックすれば良いでしょうか?

M:レーベル以外で? 2011年に出たニューラインというバンドのセルフLPがよかったよ。誰も気にしてなかったけど僕は好きだった。他には......わからないな。すべてがまわりにありすぎるよね。ハードコアじゃなくて、明らかにパンクでもない、ただアグレッシヴな新しいパンク・バンドが聴きたいかな。聴いたときにわかるよ。誰かリリースしてくれないかな。だって、最近は50~60年代のジャズばかり聴いているから。

   ────────────────────

 このフェスの週末にオープンしたレコード店にもお邪魔した。白を基調としたクリーンなイメージの店内で、キャッシャーの後ろにはレア盤がずらりと並んでいる。その奥にはオフィスがあり、パックマン、ギャラガーなどの、昔なつかしのゲーム・テーブルもあった(マイク曰く、バンドやスタッフとのコミュニケーション道具だとか)。店内には、レーベル・アーティストがピックアップしたお勧めコーナーがあり、さすが元レコード屋と思わせる、隅から隅までチェックしたくなるインディ泣かせなセレクションを。「自分の感覚を信じて、消費者に機会を与えることが僕の役目」と言いながら、「ゲームする?」と一緒にギャラガーをプレイしてくれた。5年目、〈キャプチャード・トラックス〉の挑戦は続く。


Buffalo Daughter
ReDiscoVer.Best,Re-recordings and Remixes of Buffalo Daughter

U/M/A/A Inc.

Interview Amazon iTunes

 9月22日(日)、代官山UNITにてBuffalo Daughter結成20周年の記念イヴェントが開催される。その名も〈Buffalo Daughter 20th Anniversary Live at UNIT TOKYO〉。実際にベスト・アルバムにも名を連ねる豪華ゲストたちの参加が、続々と決まっているようだ。KAKATO(環ROY×鎮座DOPENESS)、日暮愛葉(THE GIRL)、有島コレスケ(told)、小山田圭吾、立花ハジメ、Avec Avec、Kosmas Kapitzaベテランからフレッシュなアーティストまで、さすがの幅広さ。
 来場者には貴重な特典も準備されている。「Playbutton(プレイボタン)」をご存知だろうか。本体にフラッシュメモリーと音声データの再生用ソフトウェアなどが内蔵され、その用途をめぐって新しい可能性が期待されている缶バッジ型の音楽プレイヤーだ。当日は、あちらこちらで耳にするようになってきたこの新ガジェットに、なんとその日のライヴ音源1曲をインストールしたものが配布されることが決定しているとのこと。バッジのデザインは立花ハジメ! このチケットについては売り切れ必至、ぜひチェックしてみよう。


結成20周年を迎え、初のベスト『ReDiscoVer.』をリリースしたバッファロー・ドーターが、アルバム参加のゲスト陣を交えた豪華アニバーサリー・ライブを開催!

また、追加情報として、10月5日(土)、6日(日)の2日間、箱根は富士芦ノ湖パノラマパークにて開催される音楽フェスティバル〈天下の険〉にBuffalo Daughterが出演する事が決定。

東京からもアクセス容易な最高のロケーションで良質な音楽を提供するこの野外イヴェントは昨年からスタート。今年も、吉田美奈子、Cosmic Blessing Ensemble〈Calm×CitiZen of Peace×Kakuei×Kaoru Inoue×Kuniyuki×Yuichiro Kato〉、DJ NOBU、Nabowaら、ユニークなラインナップで注目を集めている。野外でBuffalo Daughterのライヴを体験することは飛び切りの体験となるはずなので、こちらもお見逃しなく!!

Buffalo Daughter の20周年記念ベスト・アルバム『ReDiscoVer.』は〈U/M/A/A〉から発売中。ライヴに足を運ぶ前にぜひチェックを!!

■Buffalo Daughter 20th Anniversary Live at UNIT TOKYO

日時:2013年9月22日(日/祝前日)  OPEN 18:00 / START 19:00
会場:代官山UNIT

GUESTS:
KAKATO(環ROY×鎮座DOPENESS) / 日暮愛葉(THE GIRL) / 有島コレスケ(told) / 小山田圭吾 / Kosmas Kapitza / 立花ハジメ / Avec Avec

チケット:
ADV.4,000yen(tax incl./without drink)*もれなく20周年記念特典付
前売チケット取扱:ぴあ(P:207-986) / ローソン(L:78864) / e+

More information:UNIT 03-5459-8630 www.unit-tokyo.com


■箱根ミュージックフェスティバル 天下の険2013 ~厳選音泉掛け流し~

日時:2013年10月5日(土)、6日(日) 2日間開催
会場:
富士芦ノ湖パノラマパーク 特設エリア
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根143-1
https://www.princehotels.co.jp/amuse/hakone-en/play/access.html

出演:
吉田美奈子、indigo jam unit、Cosmic Blessing Ensemble、SILENT POETS 他

開場時間:
10月5日(土) 開場 11:00 開演 13:00 終演 22:30 予定
10月6日(日) 開場 08:00 開演 10:00 終演 20:00 予定

入場料金:
前売り券
2日券 ¥10,000 / 1日券 ¥6,000
当日券
2日券 ¥12,000 / 1日券 ¥7,000

主催: 天下の険実行委員会
イベントオフィシャルHP:https://tenkanoken.jp/

■CD情報
Buffalo Daughter
『ReDiscoVer. Best, Re-recordings and Remixes of Buffalo Daughter』
発売中!!
UMA-1022-1023、¥2,600 (tax in)

●1CD+書き込み可能な生CD-R付
●バンドヒストリーを綴った24P カラーブックレット+解説・歌詞・対訳付
●初回のみICカードステッカー*付
*交通機関用非接触型ICカードに貼ってデコレーションできるステッカー

●トラックリスト
1. New Rock 20th featuring KAKATO (環ROY×鎮座DOPENESS)
2. Beautiful You 20th featuring 日暮愛葉&有島コレスケ
3. LI303VE
4. Great Five Lakes 20th featuring 小山田圭吾
5. Dr. Mooooooooog
6. Discothéque Du Paradis
7. Cold Summer
8. Peace Remix by Adrock
9. Socks, Drugs and Rock'n'roll Live (Sax, Drugs and Rock'n'roll) featuring 立花ハジメ
10. Volcanic Girl
11. A11 A10ne
12. Cyclic Live
13. バルーン Remix by Avec Avec
14. ほら穴  
Compiled by Nick Luscombe (Flomotion/ BBC Radio 3/ Musicity)

詳細: U/M/A/A <https://www.umaa.net/what/rediscover.html


工藤キキのTHE EVE - ele-king

 285 KENTはサウスウィリアムズバーグにある中箱のウェアハウスで、がらんとしたダンスフロアとステージとチープなバーがあるだけのシンプルな箱だ。その285 KENTで月1ペースで開催している「Lit City Rave」は、Jamie Imanian-Friedmanこと J-Cushが主宰するJuke / Footworkのレーベル〈Lit City Trax〉がオーガナイズするパーティ。たぶん私が出入りをしているようなダウンタウンまたはブルックリンのパーティのなかでも極めてクレイジーで、この夜ばかりはステージの上も、DJの仲間たちの溜まり場になるステージ裏も、一応屋内喫煙が禁止されているNYで朝の5時までもうもうもと紫の煙が立ちこめている。
 基本的には、Chicago House直系のベース・ミュージック──Ghetto Houseから、Grime、Dub Step、UK Garageなどのビート中心で、特にJuke/FootworkをNYで逸早く取り上げたパーティだと思うし、例の'Teklife'という言葉もここではCrewの名前として日常的に、時に冗談めかしで使われている。

 DJ RashadやDJ Manny 、DJ SpinnそしてTraxmanはこのパーティのレジデントと言っていいほど「Lit City Rave」のためだけにChicagoからNYにやって来て、彼らのNYでの人気もここ数年の〈Lit City Trax〉の動きが決定づけたと言ってもいいんじゃないかな? さらに興味深いのがTRAXを経由したChicagoのミュージック・ヒストリーをマッピングするように、DJ DeeonなどのOGのDJ/プロデューサーから、Chicagoローカルの新人ラッパーのTinkやSASHA GO HARDが登場したり、ARPEBUことJukeのオリジネイターRP BOOのNY初DJ(!)などを仕掛けるなど、そのラインナップはかなりマニアックだ。
 本場ChicagoのようにMCがフロアーを煽るものの、Footworkersが激しくダンスバトルをしている......というような現場は実はNYでは遭遇したことがないかも。人気のパーティなので毎回混んでいるし、誰しも踊り狂っているけど、パーティにRAVEと名はついているものの俗にいう"RAVE"の快楽を共有するようなハッピーなものではない。はっきり言って毎回ハード。アンダーグラウンドで生み出された新しい狂気に満ちたビートを体感し、自らファックドアップしに行くといったとこだろう。振り落とされないようにスピーカーの横にかじりつきながら、踊るというよりもビートの粒を前のめりで浴びにいくような新感覚かつドープでリアルなセッティングで、本場Chicagoのパーティには行ったことがないけど毎回「果たしてここはNYなのか?」と思ってしまう。

Pphoto by / Wills Glasspiegel

 J-Cushは実はとてもとても若い。LONDONとNYで育った彼は、Juke/FootworkがGhetto Houseの進化系としてジャンル分けされる以前からDJ DeeonなどのChicago Houseには絶えず注意を払っていた。2009年頃からChicago Houseの変化の兆候をいち早く読み取り、一体Chicagoでは何が起きているのか? とリサーチをはじめた。それらの新しいChicagoのサウンドは彼にとってはアフリカン・ポリリズムスまたはアラビック・マカームのようにエキゾチックであり、UKのグライムのようにフューチャリスティックなサウンドに聴こえたそうだ。それからはJuke/Footworkを意識して聴くことになり、〈Ghettotechnicians〉周辺や〈Dance Mania〉のカタログを総ざらいした。
 その後NYでDJ Rashadと出会うことになり彼が生み出すビート、圧倒的かつ精密なまでにチョッピング、ミックスし続ける素晴らしくクレイジーなプレイに未だかつてない程の衝撃を受け、それに合わせて踊るQue [Red Legends, Wolf Pac] や Lite Bulb [Red Legends, Terra Squad]というFootworkersにもやられた彼は、Chicagoのシーンにのめり込むことになり〈Lit City Trax〉というレーベルを立ち上げるに至る。

 NYのパーティは割とノリと気分、ファッション・ワールドの社交の場になっているものも多く、「Lit City Rave」のようにビートにフォーカスし、かつ毎回趣向を凝らしたラインナップで続けているパーティは案外少ない。東京とブリティッシュの友人たちに多いギーク度、新旧マニアックに掘る気質がやはりJ-Cushにもあるし、そして彼は単なるプロモーターでは無い。ジャンルを越境できるしなやかなパーソナリティを持っているし、ストリートからの信頼もあつく、気鋭のビートメイカーたち、Kode9、Oneman、Visionist、Brenmar、Dubbel Dutch、Durban、Fade to Mindのkingdom、Mike Q、Nguzunguzu、もちろんTotal FreedomやKelelaなども早い段階から「Lit City Rave」に招聘している。

Photo by Erez Avis

 J-Cush自身もDJであり、常日頃から新しいビートを吸収しているだけあってスタイルはどんどん進化しエクスペリメンタルなGarageスタイルがまた素晴らしい。そのプレイは先日『THE FADER』や『Dis Magazine』のwebにMixが上がっているので是非チェックしてみて。
 さらにJ-CushとNguzunguzuとFatima Al Qadiriで構成された'Future Brown'というCrewでトラックを作りはじめていたり、今後の「Lit City Rave」ではUSのGrimeや、さらに地下で起きているアヴァンギャルドなダンスシーンを紹介していきたいと語っていた。
 そんなわけで、先週の「Lit City Rave」ではドキュメンターリー映画『Paris Is Burning』で知られたBallのダンス・パーティの若手DJとしても知られている〈Fade To Mind〉のMike Qがメインで登場。こっちのダンスシーンもプログレッシヴに進化を遂げているんだなと、ヴォーギング・ダンサーズのトリッピーな動きに釘付けになったのでした。

https://soundcloud.com/litcity

Lit City Traxからのリリース
https://www.beatport.com/release/teklife-vol-1-welcome-to-the-chi/919453
https://www.beatport.com/release/teklife-vol-2-what-you-need/982622

Download a Mix from Lit City Trax
https://www.thefader.com/2013/08/02/download-a-mix-from-lit-city-trax/

J-Cush XTC MIX
https://dismagazine.com/disco/48740/j-cush-xtc-mix/

Femi Kuti - ele-king

 フェラ・クティの音楽的継承者としての姿を求める人には、このフェミ・クティよりも彼の異母弟(フェラの末っ子)シェウン・クティの方がより"正統"として響くだろう。62年生まれのフェミより20年もあとの80年代に生まれたシェウンは、父親の音楽に、一定の距離を置いたところからかなり純粋な畏怖と憧憬をもって接している印象を受ける。現在30代以下のミュージシャンをして、70~80年代サウンドを"新しいもの"として解釈させるようなポジティヴな隔世感も少なからず作用しているだろうが、末っ子シェウンは父フェラのアフロ・ビート様式の泥臭さをフレッシュなものとしてほぼ全肯定し、自分の手で素直に再提示できるメンタリティーを持っている......つまり、父親のバンド:エジプト80を引き継ぐにふさわしい(無論いい意味で)ピュアな継承者なのだと思う。
 それに対し、父親の黄金期の70年代から父のバンドで修業し、そのスタイルを間近で学んだ長男フェミは、当然独り立ちする際には父親との差別化を意識したに違いない。加えて、ときは80年代、いわゆる"ワールド・ミュージック"が、主にパリ経由で、一定の西欧ナイズ&モダナイズを強要されながら......というか、事実その効果で、世界のマーケットに食い込み始める時期だ。フェミの西欧マーケットを視野に入れた〈アフロ・ビート×モダニズム〉の方向性は、おそらくそのときから一貫している。彼がしばしばインタヴューで語る"自分の音楽の原則"も実に明快だ。曰く:〈基礎が堅牢なアフロ・ビートの原理をあまり危うくしないこと〉。それは、父親の音楽様式をそのまま継ぐつもりはない、という意思の婉曲表明になっている。

 しばらく前にパリのエリゼ・モンマルトルでフェミ・クティのライヴを見たときに驚いたのは、演奏よりもむしろそのMC......というより演説だった。アフリカの窮状、その原因となっている西側諸国とアフリカ諸国の権力者間の密約、それによるアフリカの政治腐敗と、西側の後ろ盾によって温存され続ける、アフリカの市民が搾取される構造、慢性的貧困。それを理論的に担保する新自由主義経済/グローバリゼイション・システムの欺瞞を、演奏の合間に何度も、長々と、激しい口調で語るのだが、その演説がすべてフランス語だったのだ。
 生まれこそロンドンだが、旧英国領で英語を公用語とするオリジン国ナイジェリアのラゴスで育ち暮らすフェミが一体いつどこでフランス語を習得したのかと思ったら、実はラゴスのアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)に自分から通い、それを音楽活動が軌道に乗って久しい30代に入って以降もしばらく続けていたらしい。そう報じる《ラディオ・フランス》の最新インタヴューでのフェミは、次のようなことも語っていた。

 ......フランスはアフリカ音楽の"メッカ"だ。サリフ・ケイタもアンジェリック・キジョもフランス経由で世界的な名声を得たし、昔、父がアフロ・ビートを世界に広めようとした際も、フランスより旧宗主国イギリスの方が父の音楽に対してずっと冷淡だった。その後、自分が初めてヨーロッパで公演しようとした際も、イギリスでブックできたのは2ヶ所だったが、フランスでは15ヶ所で演奏できた。財政面の問題で自分のバンド:ポジティヴ・フォースが解散の危機にあった際、在ラゴスのフランスの文化機関が尽力してナイジェリア=フランス文化交流イヴェントに招聘してくれたことで、オレのことをフランスの新聞が一面で評価してくれ、それが自分にとって決定的な転機となった、と。

 今回のアルバムでは、近作(『Day by Day』『Africa for Africa』)にあった派手さや、ポップなフィーリングが、音の生々しさ、ゴツゴツした感じに取って代わられている。しかし15年来の相棒であるフランス人プロデューサー/エンジニアのソディ・マルシスヴェール(Sodi Marciszwer)との共同作業の流れのなかで見れば、ああなるほど、今回はこういう音にしたかったんだな、と、すんなり腑に落ちる。

 これまでは単に Sodi と表記されることが多かったソディ・マルシスヴェールは、日本ではほとんど語られることがないが、フランスのストリート・ミュージック/プロテスト・ミュージックの分野では篤い信頼を置かれている人物だ。古くはレ・ネグレス・ヴェルト、マノ・ネグラから、IAM(アイアム/仏ヒップホップ・グループの最高峰)、ラシッド・タハ(ぼくが先日レヴューした『Zoom』のパリ録音部分のエンジニアは彼だ)など錚々たる面々と仕事をしてきたが、なにより1980年代後半以降、つまりパリがアフリカ音楽にとって最大の友好的"ハブ都市"になって以降の晩年のフェラ・クティが、時代感覚に長け、世界に売れるアフリカ音楽の音を作れる男と踏んで信頼を置いたエンジニアが彼なのである。それでソディはフェラの『Just Like That』『Beasts of No Nation』『O.D.O.O.』、遺作『Underground System』で仕事をするようになったし、フェラが没したのち、エイズ・チャリティーのフェラ・トリビュート盤『Red Hot + Riot』でも活躍したのだった。

 父が他界したあとにそのソディと15年以上もタッグを組んでいるフェミが父親から最も直接的に引き継いだのは、思うに、アフロ・ビートの様式以上に、その政治性、闘争心と、時代感覚に優れた相棒のソディなのである。父のバンド(音)を引き継いだのがシェウンなら、そのブレインを引き継いだのがフェミ、という対比を見ることもできるわけだ。そのシェウンの録音のプリミティヴな質感も当然意識したに違いないし、ここ最近の世界中のアフロ・ビート・バンドの、アナログでパワフルでシンプルな音のトレンドも考慮して、フェミは今回の音をソディとともに作ったはずだ。フェミ特有の持ち味(ソウル・ジャズ~ファンク・テイスト、メロディアスなヴォーカル・ライン、キャッチーでアップリフティングなホーンのリフ、コーラス隊とのコール&レスポンス etc.)はそのままに、それを近作にない"raw"なストロング・サウンドで表現したのだ。

 つまり戦略。フェミは戦略の人だと思う。アフロ・ビートを伝統芸能として守ることが目的ではなく、アフリカの問題が世界の問題(の象徴)である以上、より広く世界規模でその現状をつまびらかにすることを第一義と考える、そんな音楽家/活動家である。その手段として、(最もそれを届けなくてはならない対象である)西側のリスナーの耳を常に意識し、彼らに馴染みやすいそのときどきの時代の音を適度に採用することを全く厭わない。むしろその方が逆に、雄弁で舌鋒鋭いメッセンジャーとしてのフェミのキャラが鮮やかに立ち上がってくる。"アフロ・ビートの原理をあまり危うくしない"ように留意しながら、毎回そこを緻密に計算していると思うのだ。

 今作のリード・チューン"The World is Changing"のPVも、同じ意味で実にフェミらしい。例によって分かりやすい英語で歌われ、さらに非英語話者でも理解しやすいようにすべての歌詞を随時表示し、重要な単語は視覚的に強調されている。地球が苦しみに変わっていく......というテーマのヘヴィーさに軽快なギターの刻みとポップでテンポのいい映像が対置されて観る者を引き込む工夫がなされているし、持たざる者とすべてを失った者が呆然と立ちすくむとき、その背後に、歌詞で一切触れずして、地球規模で暴利をむさぼる打倒すべき巨大な権力構造を、観る者に意識させる。この、誰も心躍らない気の重いテーマを、いかにスムースに伝えるかに心を砕くのがフェミなのである。(余談だが、もちろんシェウンのプロテスト性もかなりのもので、『From Africa with Fury : Rise』でも〈モンサント〉や〈ハリバートン〉といった企業を名指しで糾弾していたくらいだが、その直接的なやり口も父親譲りな気がするし、その点のフェミとシェウンの表現法の違いに注目するのも面白いだろう)

 とにかく、そういう汎地球的メッセンジャーたらんとするフェミのアティテュードを思うに、彼が自分からフランス語を習得したことにも合点がいく。もちろん相棒ソディが仏人であることや、アフリカ音楽にとってのフランスの重要性を身をもって知ったフェミが、その自分を評価してくれ、世界へメッセージする足掛かりとしてもふさわしい場所を重要な活動拠点に位置づけようとしたことも、その大きな要因だろう。
 しかし、おそらく彼にとってフランス語のもっとも大きな有用性は、ツアーで各地を回ってステイジ上からメッセージする際、西側のフランス語圏だけでなく、フランスやベルギーの旧植民地/旧統治領であったアフリカ諸国の"同胞"にも、その国の公用語で語りかけられることなのだろうと想像する。ひとくちにアフリカといっても、植民地政策の成り行きから公用語の面で主に英語圏とフランス語圏とに二分されてしまっている。フェミの性格からしたら、"アフリカ・ユナイト"主義のメッセンジャーとしての理想像をストリクトに追求しそうではないか? 仏語圏アフリカのトップ・ミュージシャンで英語も使える人はいても、その逆はそう、いない気がする。

 そうしたフェミとフランスとの関係はあまり知られていないと思うが、ついでに言えば、フェミは自分のマネージメント・オフィス、レコード会社、ビジネス上のコネクション、銀行もすべてパリに置いている。そんな事情もあってだろう、前掲の《ラディオ・フランス》のインタヴューでのフェミは、〈パリのナイジェリア人〉とも形容されていた。ジョージ・ガーシュウィン『パリのアメリカ人』以降長らく、この言い回しはお約束の決まり文句なのだが。
 その〈パリのナイジェリア人〉は、この新作『No Place for My Dream』のワールド・ツアーを、パリ郊外のラ・デファンスからスタートさせた。ラ・デファンス地区とは、世界有数の多国籍企業が数多くそのフランス支社を構える同国最大のビジネス街、つまりフランスでもっとも新自由主義を象徴する場所だ。その場所で、この悲惨きわまりない荒廃したゴミの街(ラゴスのスラム)のジャケットの新作をアピールしたのである。近未来的な高層ビルが林立する、世界でも屈指の"ハイパー・アーバン"なビジネス街に、このポスターが貼られた場面を想像してみて欲しい。それがフェミ・クティのやり方なのである。

‪Femi Kuti‪ - The World is Changing (official video)‬

Vol.8 『BioShock: Infinite』 - ele-king

 


Bioshock Infinite
テイクツー・インタラクティブ・ジャパン

Amazon

 皆さまこんにちは、NaBaBaです。今回は『BioShock: Infinite』のレヴュー。前回の『Dishonored』に引き続き、〈Looking Glass Studios〉(以下LGS)特集としていままで勿体ぶってきたわけですが、ついに書くときが来ました。

 4月25日の国内発売からここ1ヶ月、メディアからは絶賛の嵐でしたが、僕の身のまわりでも本作は大きな話題になり続けていました。僕自身も2回クリアし、今日まであれこれ考えを巡らせていたのです。それぐらい本作は事件性の強い作品だったのですね。

 この『BioShock: Infinite』は、Ken Levine率いる〈Irrational Games〉の最新作。前回ご紹介した『Dishonored』や『Deus Ex: Human Revolution』等と同じく、いまは亡き〈LGS〉の遺伝子を備えた作品ですが、とくに99年に発売された『System Shock 2』との繋がりが深い。『System Shock 2』はKen Levineの実質デビュー作であり、以降のいわば『Shock』シリーズは、〈2K Marin〉が開発した『BioShock 2』を除き、氏が一貫してディレクターを務めています。

 彼が手掛けるこの『Shock』シリーズは他の〈LGS〉系の作品とシステム的に共有している部分が多々ありますが、一方で主観視点での没入型のストーリーテリングに重きを置いている点が、他とは異なる特徴になっています。

 99年の『System Shock 2』は、当時最新鋭だった『Half-Life』的なサヴァイヴァル演出を基調としつつ、オーディオ・ログや成長システムなどRPG的な要素も盛り込んだ傑作。ここでできあがったゲーム・システムの骨子は後の『Deus Ex』や『Dishonored』にも引き継がれています。

『System Shock 2』はGOGの他、今月からSteamでの再販も開始された。

 続く07年の『BioShock』は、ゲーム的には前作と比べより即興重視になり、ストーリーテリングも前作同様、閉鎖空間でのサヴァイヴァルを基本にしつつ、ビデオ・ゲームの一方的な側面とそれを疑わないプレイヤーの関係をメタ的に批判する表現も盛り込んだ、やはり当時を象徴する傑作でした。

 
『BioShock』は海中都市というケレン味溢れた世界観も特徴で、このコンセプトは『BioShock: Infinite』では空中都市という形で引き継がれている。

 こうした流れのなかにあって『BioShock: Infinite』はいままで以上に物語重視の作品となることが予告されていました。彼のいままでの作風と実績、またここ数年の主観視点の表現の停滞感に、何か一石を投じてくれるに違いない、もしかしたら『Half-Life 2』に匹敵する革新性を見せてくれるのではないかという期待感を業界全体に募らせていたと思います。

 はたしてその期待は実現したのでしょうか。メディアの評価を見る限りはあちこちで大絶賛ですが、一方で海外のファン・コミュニティの間ではかなりの物議を醸しているという話も聞きます。

 じつは僕もファン・コミュニティの反応は納得できてしまう。本作は確かにめちゃくちゃすごい。極まっていると言ってもいいぐらいです。しかし逆に極まっているからこそ、手放しには褒められない今世代のFPS全般にまたがる、宿命的な問題を感じたのです。今回のレヴューではその点を中心に論じていきたいと思います。

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■物語の高度化がゲーム・プレイとの間に乖離を起こす

 いきなり結論から言ってしまえば、『BioShock: Infinite』は、『Half-Life 2』型FPSの到達点であると同時に限界点でもあると言えます。本作には今世代のFPSが『Half-Life 2』を起点として方々で進化発展させてきた表現手法が、まさに全部入りという感じで濃縮されています。しかしそうであることが、この表現手法が構造的に持っている弱点をいままでになく際立たせてもいるのです。

 何より本作は、前評判どおりに物語が非常に強くクローズ・アップされており、『BioShock』以前のサヴァイヴァルを主眼にした内容から、囚われの少女との空中都市からの逃避行という、よりヒロイックで劇的な演出を盛り込んだものに変化しました。なおかつ既存の様式に縛られない、FPSとしてはかなり複雑なシナリオとテーマを描いているのも特徴です。

 また物語をプレイヤーに体感させるためのギミック、リアリティを裏打ちするための世界観構築も超一流で、今世代のゲームの一側面である「体験する映画」としては、最上級のものであることに異論の余地はありません。

 
空想世界の作り込みは圧倒的で他の追随を許さない。

 しかしその反面、『Half-Life 2』型のゲーム共通の課題も本作には見られました。そのなかでももっとも深刻に感じたのが、物語が高度になり見た目のリアリティが増すにつれ、実際のゲーム・プレイにおけるリアリティとの乖離が顕著になるという問題です。

 本作の主人公のBookerやヒロインのElizabethはFPS史上最大級とも言える緻密な人物造形がされており、リアリティを表現するための演出も幾重にも散りばめられています。そのなかには戦闘で深手を負ったBookerをElizabethが介抱するシーンもあり、そこで巻いてもらった包帯はゲームの最後までつけていくことになるのです。

 負った傷は現実ではそうすぐには治らない。そういうことを象徴しているかのような演出ですが、しかしいざ戦闘になるとBookerは結局他のゲームと変わらず、アイテムで何度でも回復し、ひとりで何百という敵を倒す超人になってしまうのです。しかも本作はそのあたりにある食べ物でも回復できるため、状況によってはひたすら拾い食いして回復しまくるというシュールな事態にもなってしまう。せっかくの演出もこれでは興ざめです。

ファンが作ったパロディ・ムーヴィー。本作の仕様を面白おかしく皮肉っているが、問題の本質を鋭く抉ってもいる。

 とりわけ本作はインドアの複雑な攻防が主体だった前作から一転し、大量の敵を相手にするアクション重視のゲーム性になっており、これもまた現実離れ感に拍車を掛けています。

 こうした現象は本作に限らず、およそ現代のすべてのゲームに見られる問題であります。いままではそれをゲームのお約束として見てみぬふりをしてきたわけですが、『BioShock: Infinite』レヴェルになると物語も見た目も素晴らしいがゆえに、いよいよ見過ごせない違和感が生まれてきたと感じます。

 この問題に関連性がある話として、Ken Levineはインタヴューで「FPSにおける戦闘は映画のミュージカル・シーンのようなもの」と語っています。彼のその考えが反映されているのか、本作も中盤までは戦闘時と非戦闘時がかなり明確に分けられています。舞台となるコロンビアの街並を、インタラクティヴな仕掛けとともに眺め歩く時間がしばらく続いたと思ったら、ある瞬間いきなり戦闘になり、それ以降は再び切り替わるまでずっと続くのです。

 
それまで平和だったのが突然阿鼻叫喚の場面に。こうした転換はたびたび見られる。

 ここには敢えてお約束感を強調することで、そういうものとしてプレイヤー側に受け入れさせるような意図を感じました。しかしそれは物語とゲーム・プレイとの一致という点では一種の敗北ではないのでしょうか。

 また後半でコロンビアがほぼ戦争状態になり、ゲーム的にも戦闘が占める割合が増えてくることで上記のような不和は若干解消されていきます。しかしそれはそれで、やはりFPSでゲーム・プレイと物語を一致させようと思ったら戦争を描くしかないという事実に、残念な気持ちにもなるのです。

■守るべきなのに守る必要が無いヒロイン

 こうした問題点を解決する一発逆転的なものとして、僕はElizabethというコンパニオン・システムにいちばんの期待を寄せていました。うまくいけば彼女の存在が接着剤となり、物語とゲーム・プレイの一致を果たしてくれるのではないかという期待があったのです。

 少なくとも彼女は物語的にはとても重要な役割を発揮して深みを与えているし、健気だけど危うさも感じるキャラクター像も魅力的。恐らく洋ゲー史上最も可愛く、ある意味日本の美少女像に近づいたキャラだと思います。要するに守ってあげたい気持ちになるのです。

 
洋ゲーのヒロインがこんなに可愛いわけがない、と真面目に思ってしまうぐらいElizabethは魅力的。

 またAIとして見た場合も、彼女の行動にいっさいの破綻がないのは、これまでのコンパニオンの歴史を考えると感慨深い成果と言えます。広く高低差が激しいマップをプレイヤーが縦横無尽に駆け巡っても、しっかり後についてくる点などは素直に驚きました。FPSで初めてコンパニオン・システムを導入し、歴史に残る大爆死を遂げた『大刀』の登場から苦節13年。コンパニオンはついにここまで成長しました。

 しかしここまでは素晴らしいのに非常に残念でならないのは、彼女をゲーム・システムとして見た場合、存在意義が希薄なことです。彼女は無敵なので敵にやられる心配はいっさいなく、なおかつ直接戦闘に加勢してくれるわけでもありません。かわりに戦況に応じてアイテムをくれたり、プレイヤーの指示で別次元から戦闘をサポートするギミックを呼び出してくれるのですが、これがあまりよろしくない。

 一見すると有能のようにも感じますが、プレイヤーが彼女の能力発動を完全にコントロールでき、またリスクもまったく無いわけです。これではほとんどプレイヤー自身の能力の一部といった感じで、独立した他者というイメージが弱い。わざわざコンパニオン・システムにしている意味が感じられません。

 
別次元のものを呼び出す超能力のTearは、便利すぎてElizabethがやってくれることの意味がほとんど無い。

 おそらくコンパニオンがプレイヤーの足を引っ張る事態になるのを避けたのでしょう。駄作の代名詞『大刀』を例に挙げずとも、なまじコンパニオンをプレイヤーに近い立場にしたばかりに、すぐ死んだり不用意に戦況を掻き乱したりして、最早コンパニオンのお守りをするのがメインみたいな、破綻したゲームは枚挙に暇がありません。

 本作はそんな先人を教訓にして、徹底して面倒が掛からないコンパニオンを目指したのでしょうが、逆にお利口すぎて存在感があまり無いという、何とも皮肉な事態になってしまっています。

 じつはここにもまた物語とゲーム・プレイとの乖離が生じているのにお気づきでしょうか。本作の物語でElizabethは守るべき存在であることが何度も強調されます。しかしゲーム・プレイの面では守るどころかまったく気にかける必要がない。この矛盾により物語への感情移入がし難くなり、ゲーム・プレイでの彼女との関わりは淡白なものになってしまっているのです。

 僕の意見としては、やはりストレスが生じるリスクを多少踏んででも、Elizabethを守ったりいたわるような要素がゲーム・システム的に必要だったと思います。むしろこんな可愛いキャラならお守りしてあげてもいいと思わせるぐらいの開き直りが見たかった。それができればプレイヤーにより深い感情移入を促し、物語とゲーム・プレイを一致させる文字どおりの革新になり得たかもしれないのです。

 結局のところ、僕にとってElizabethにもっとも興奮させられたのは発売前のトレーラーでした。能力の使いすぎで息も絶え絶えになっていたり、敵に連れ去られそうなのを必死に抵抗していたり。そんな危うさをプレイヤーが守ってあげる、それが楽しくできるゲーム・デザインというのが、本作がすべき挑戦だったと思わずにはいられません。

大変驚かされたE3 2011でのゲーム・プレイ・デモ。Elizabethに限らず、このとき見られた要素の多くが製品版では無くなったりスケール・ダウンしてしまったなぁ。

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■まとめ

 ゲームを含めたコンテンツへの評価軸は、完成度と革新性の2種類があると思います。『BioShock: Infinite』は、完成度の観点から見ると非常に高く評価できる作品です。それはまさに今世代の集大成と言っていい仕上がりであり、これまでのFPSの歩みを感じさせるとともに、その一歩一歩を最高品質で結実させていて感動的。これだけでも本作は傑作の称号を得るにはあり余る成果を上げています。

 一方、その輝かしい歩みの陰で、物語とゲーム・プレイとの乖離という問題は、本作の下ではもはや見逃せないばかりに膨らんでおり、目前には暗く厚い雲がたちこめています。僕はこの行き止まりをさらに突き破ってくれることを本作に期待していましたが、しかしそこまでの革新性を示すまでには至らなかった。そこが本当に残念でした。

 ある意味、本作はいまの時勢を象徴しているとも言えるでしょう。05年のXbox 360の登場によりはじまった今世代機の歴史は、いままさに終わりを迎える直前で、今年の年末にはいよいよ次世代機がリリースされる機運が高まってきています。本作は、そんなハードの事情と歩調を合わせて、今世代のFPSの終焉を告げているような気もします。

 次世代のFPSはどうなるのでしょうか。誰しもが予想できるのが、よりグラフィックスや演出が強化されていく方向性だと思いますが、そんな単純な拡張主義が続く限りは、本作が到達したその先に行くことは本質的に不可能だと思います。必要なのは発想の抜本的な転換であり、それによってゲーム・プレイと物語との乖離が解消されて初めて、FPSの真の次世代がはじまる気がします。

 それまでしばらくは、本作を覆う暗く厚い雲が、ゲーム業界全体をも包みつづけることでしょう。

 

工藤キキのTHE EVE - ele-king

 NYに来てからいろんなパーティに行ったけど、たぶん去年一番多くの時間をこの夜に費やしたと思う。毎週日曜、グリニッチビレッジにあるBar、Sway Loungeでの「Smiths Night」だ。その名の通り、かかっている音楽はスミスまたはモリッシーが全体の70%をしめる。

 東京の友だちはこの2013年に私がスミスで踊っていると聞くときっと驚くと思うけど、いまのところどんなパーティに行っても結局はここに戻ってきたいと思っている。とはいえ、私がほぼ毎週行ってると話すとNYの友だちですら「えっ、まだやってんの? 昔はよく行っていたけどね...」と驚く人も多い、去年で10年目を迎えた老舗パーティのひとつ。

 どうしてスミスにまったく影響を受けてこなかった私がなぜ行きはじめたかというと、レジデントDJのひとりがGang Gang DanceのBrian Degrawだからでもある。
 「Smiths Night」はBrianとファッション・デザイナーとしてのキャリアも持つBenjamin ChoがメインのDJ。Brian曰く「全生涯をかけていると言っても過言でない!」ほど、幼少期から世界中でリリースされたスミスとモリッシーに関するあらゆるレコードを集めているコレクターでもある。そしてこのコレクションを熟知していて、いつもその'レア'度に感心を寄せていたクロエ・セヴィニーとその兄のポールから「こんなにたくさんのコレクションがあるんだったら、スミスしかかからないパーティをすれば? 」という提案を受けて、Brianが同じく筋金入りのスミス・ファンのBenを誘ってパーティはスタートした。

 はっきり言ってSwayは普段友だちとハングアウトするようなダウンタウンやブルックリンの雑多なバーとは少し毛色が違う。
 DJブースの周りにはBrianたちの友だちしかいないけど、奥のテーブルには「今夜はリンジー・ローハンが来ているよ」とか、年齢層は様々だけど、ダンスフロアにはミッドタウンで紙袋をぶら下げて歩いているようなファッション系、モデル風の子たちも多くて、ハイプで少しデカタンな香りもする。

 いまでこそ日曜日の夜は人で溢れているけど、初期はBrianたちの友人10~15人程度しか来てなかったそうだ。大げさな言い方だと'宣教'の10年という感じで、スミスをもっと多くの人に聴いてもらうことがBrianにとっての重要なテーマだった。それこそ初期はスミスのポスターを貼るとかデコレーションに凝ったり、スミスのTシャツを着てきたらフリードリンクみたいな仕掛けも用意したが、リリックが苦手という人も多くてなかなかパーティが浸透するのに時間がかかった。
 それが結果的に15人程度のお客さんから人が増えたのはファッションワールドがモリッシーのヘアスタイルやバンドTに興味を示したからというのは否定できないと言っていた。そういえばブラックフレームのメガネとかリーゼンとかテディボーイ的なスタイルとか00年代のはじめとかに一時流行ったかも......。  

 音楽ではなくファッションが入口となったのを目の当たりにしたのは「本当に奇妙なサイコロジカル体験」とBrianは言っていたけど、いまではそこに彼らのバンド系やアンダーグラウンド寄りの友だちがランダムに交じりフロアは"ASK"や"The Last of Famous International Playboys"、"I'm so Sorry"、「Interesting Drugs」がかかるのを待っている。
 とはいえ初期は本当に100%スミスしかかかってなかったみたいだけど、いまではBrianはスミスもかけるけど、 Deep House からGhetto Base、メキシコで見つけたTechnoや、「ダンボ」のサントラとかオールディーズ、そしてダイナソーJrやRIDEだったりと選曲はかなりランダム。そして流石バンドマンなだけに巧みなCDJ使いで、DJというよりライヴ感があふれていて、やっぱりミュージシャンなんだなという感じが強い。既成のダンスミュージックをかけるというよりも、ランダムにいろいろな音を混ぜるあたりがバレアレックサウンドにも聴こえる。
 東京では普通に使っていた音楽のカテゴライズとかも、こっちのミュージシャンとかはあまり気にしてないようで、前にBrianに彼のDJとバレアリックの関係性は? みたいな話しをしたことがあったけど、そのあたりはまったく意識をしたことがないとのこと。彼のDJのベースはなんと、スミスのライヴの直前のウォームアップ用にモリッシーが選曲した音だったりする。
 例えばBilly FullyやJayBee Wasden、Diana Dorsなどの60'sのイギリスのロカビリーやオールディーズ、Dionne WarwickやNico、New York Dolls、Klaus Nomi、Jobriath、Sparks......などモリッシーがいままでに影響を受けてきた音楽なんだけどBrianはこの客入れ(?)時の音も会場で録音したりして集めていたらしく、これが彼のDJのベースになっているそうだ。なるほど。

 そんなライヴを見に行くような感覚で毎週通っていたけど、結果的にトリコになったのは実はBenのDJだったりする。
 Brianも言っていたけど、Benはこの10年ほぼ同じ曲をかけ続けている。それは70%はスミスであとは、Erasure -A Little Respect 、The Pet Shop Boys -Always On My Mind 、The Cure -Just like Heaven 、David Bowie -Queen Bitch、 Freda Payne -Band of gold、A Flock Of Seagulls -Space Age Love Song、Juanes-La Camisa Negra 、Bell &Sebastian -The Boy With The Arab Strap、The Slits -I Heard It Through The Grapevine ......などの子供の頃に耳にした70'sや80'sのヒットソングからインディロック。これが本当にほぼ毎回同じ展開でかかるんだけど、イントロがかかっただけで甘酸っぱい思い出がこみ上げてくるような、まさに私が高校生のときに行ったロンドンナイトでTracey Ullman-Breakawayがかかるのを待っていたことを思い出す......。
 とはいえ、毎週同じ曲がかかるとはいえ夜ごとのバイブスは違う。だからクレイジーにもスローな夜にもなる。それこそ奇妙なサイコロジーで居合わせた人の気分次第でパーティの熱度はどうにでも変えることができる。

 いつでも誰でも新しい何かを求めていると思うし、新しい刺激はいつでも魅力的で、飽きるのもはやい。だけどBenはいつもここにいて、淡々と自分が好きだった曲をかけ続けている。それを若い子は追体験し、大人たちは在りし日を思い出しながらまどろむ。この日曜日の夜だけは、スタイル・ウォーズな日常からの逃避のような、懐かしい時間に戻れる気がする。
 前にGang Gang DanceのLizzieとお茶をしていたとき、窓ガラスの向こうの通りに昼間から、うつらうつらと寝ながら歩いている男性が見えた。「たぶんヘロインやってるんだよ」と彼女が言うので、「でも、あんな状態で楽しいのかな?」と聞くと、「10分間ぐらいは天国にいるみたいだからね、誰でも忘れたいことがあるでしょ」と言っていた。思春期特有の苦悩に細い手を差し出してくれるようなスミスの音楽は、薬物の酩酊状態のときに見る数分間の天国にも近いのかもしれない。それは不確かで不道徳かもしれないけど、忘れたいことに対してやさしい。

 実はBrianとBenによる日曜日のSmiths Nightはもうじき終る。Brianは木曜日に移ってダンス・ミュージック中心のパーティをはじめることになるけど、Benは変らず日曜日にSwayにいるみたい。NYにお越しの際はぜひ一度遊びに行ってみて。

「ぼく自身はあのプロダクションにすごく惹かれるんだよね。あと、あの時代の音楽には、すごく純粋な感触がある気がする。ある意味すっごくシリアスなんだけど、同時にシリアスでもないっていう。」ジャック・テイタム(本誌インタヴューより


Wild Nothing -
Empty Estate

Captured Tracks / よしもとアール・アンド・シー

amazon iTunes

エイティーズのUKインディ・ロックへの思慕をあふれさせた美しい2枚のアルバムにつづき、ワイルド・ナッシングことジャック・テイタムからささやかな音の贈り物が届けられた。ミニ・アルバム『エンプティ・エステイト』は5月15日リリース。終わらない夢のつづきを、この10曲とともにたどってみよう。"ア・ダンシング・シェル"ではディスコ色が加味され、エール・フランスからメモリー・テープス、パッション・ピットまで想起させる涼しげなダンス・ビートが感じられるが、それでも依然として彼の夜はプール・サイドやクラブにはない。前作ののちにブルックリンに移り住んではいるが、それはいまだ、どこかジョージアあたりの田舎の家屋の、静かな窓のなかにある。

Wild Nothing "A Dancing Shell"


3月15日に行われた初来日公演もソールド・アウト!

米ヴァージニア州出身のドリーム・ポップ/シューゲイズ・バンド、ワイルド・ナッシングのミニ・アルバム『エンプティ・エステイト』のリリースが決定!!

3月15日に行われた初来日公演もソールド・アウト。ここ日本でも大きな注目を浴びる米ヴァージニア州出身のドリーム・ポップ/シューゲイズ・バンド、ワイルド・ナッシング。昨年の8月(日本は9月)にリリースされ、iTunesの「2012年ベスト・オルタナティヴ・アルバム」も獲得した傑作セカンド・アルバム『ノクターン』に続き、全10曲入り(日本盤ボーナス・トラック含む)ミニ・アルバム『エンプティ・エステイト』のリリースが決定。日本盤のみミシェル・ウィリアムズ(『マリリン 7日間の恋』『ブルーバレンタイン』『ブロークバック・マウンテン』)をフィーチャリングした「パラダイス」の別ヴァージョン他、ボーナス・トラックを3曲追加収録。

■ワイルド・ナッシング『エンプティ・エステイト』
Wild Nothing / Empty Estate
2013.05.15 ON SALE!
¥1,400 (税込) / ¥1,333 (税抜)
歌詞/対訳付
★日本盤ボーナス・トラック3曲収録★

[収録曲目]
01. The Body In Rainfall / ザ・ボディ・イン・レインフォール
02. Ocean Repeating (Big-eyed Girl) / オーシャン・リピーティング(ビッグ・アイド・ガール)
03. On Guyot / オン・ギヨー
04. Ride / ライド
05. Data World / データ・ワールド
06. A Dancing Shell / ア・ダンシング・シェル
07. Hachiko / ハチ公
08. Paradise (Radio Edit) / パラダイス(レディオ・エディット)*
09. Paradise (featuring Michelle Williams) / パラダイス(フィーチャリング・ミシェル・ウィリアムズ)*
10. Paradise (Setec Astronomy Remix) / パラダイス(セテック・アストロノミー・リミックス)*
* 日本盤ボーナス・トラック
All songs written and produced by Jack Tatum (ASCAP)

[バイオグラフィー]
ワイルド・ナッシングはアメリカのポップ・バンドだ。ただ、バンドと言ってもジャック・テイタムしか在籍していないワンマン・バンドである。2010年、21歳のテイタムはヴァージニアのブラックスバーグの大学の最終学年に籍をおいていた。そしてこの年の春にリリースされたのが、ワイルド・ナッシングのデビュー・アルバム『ジェミニ』である。このアルバムは2010年の夏のカルト・ポップ・レコードとなった。80年代のインディ・ポップをルーツに持つこの作品は、インターネットを通して瞬く間に人気を獲得することになり、評論家からも極めて高い評価を獲得した。2011年、テイタムはセカンド・アルバム『ノクターン』の制作を開始。「僕の理想世界の中でポップ・ミュージックは何だったのか、またどうあるべきなのか、といった感覚を表現したアルバムだ」と彼自身が語るこのニュー・アルバムは、まさにテイタムのポップ・ミュージックに対してのヴィジョンが詰め込まれた傑作となった。アルバムは、iTunesの「2012年ベスト・オルタナティヴ・アルバム」も獲得し、2013年3月に行われた初来日公演もソールド・アウトとなった。

※日本オフィシャル・サイト: www.bignothing.net/wildnothing.html


Vol.7 『Dishonored』 - ele-king

 

 突然ですがみなさん、いま〈Looking Glass Studios〉が熱いです。と言っても何がなにやらわかりませんね。すみません、NaBaBaです。年度初めの今日このごろ、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 いきなりで失礼致しましたが、今回の連載は昨年から予告していた『Dishonored』のレヴューをついに行いたいと思います。〈Arkane Studios〉が開発したこのオリジナル新作は昨年遊んだ作品のなかでもとくに素晴らしいもので、ぜひ書こうと思いつつ延びに延びてこの時期になってしまいました。

 しかしいまこの時期となると、ゲーマーの間でいちばんの注目の的となっているのはやはり26日に発売された(国内では4月25日)『BioShock: Infinite』ではないでしょうか。現代のゲーム業界きっての名手、Ken Levine率いる〈Irrational Games〉が開発した同作の評判はすさまじいもので、海外ゲーム・レヴュー・サイト各所でも満点の続出で、「IGN」では「全てのジャンルを前に推し進める革新的な作品」と、異例の絶賛ぶりが披露されています。

 かくいう自分にとっても今年の一、二を争う期待作なのですが、じつはこの『BioShock: Infinite』と『Dishonored』はある種の兄弟関係にあることはご存知でしょうか。これら2作のそれぞれの開発スタジオは、どちらもあるひとつのスタジオから分離した会社なのです。

 その大元でいまや伝説となっているのが、冒頭で述べた〈Looking Glass Studios〉(以下LGS)。90年代に大活躍したこの技巧派のスタジオは、『Thief』や『System Shock 2』等のゲーム史に残る名作を数多く生み出し、後続に多大な影響を与えるとともに、多くの名クリエイターを輩出しました。

 たとえば連載第3回にご紹介した、『Deus Ex』を手掛けたWarren Spectorもそのひとりで、『Deus Ex』自体は〈Ion Storm〉という別スタジオが主導の作品ですが、『System Shock 2』のスタッフも多く出入りして開発されていたようで、〈LGS〉とは非常に深い関係にあったと言えるでしょう。

 しかしながら〈LGS〉は2000年に倒産しています。ではすでになきスタジオが何故いま熱いのか。それは〈LGS〉の遺伝子を受け継いだ人々が、近年各所で目覚ましい活躍を見せているからです。

 その先駆けとなったのが一昨年発売された『Deus Ex: Human Revolution』。開発した〈Eidos Montreal〉は〈LGS〉や初代『Deus Ex』の開発陣とは直接的な繋がりはありませんが、本作で確かな完成度を発揮し、シリーズのリブートを成功させました。

 また今年に入ってからは『BioShock』シリーズの前進である『System Shock 2』が、長きにわたる権利関係のゴタゴタによる販売凍結状態を乗り越え、遂に〈GOG.com〉で再販を果たし、さらに〈Eidos Montreal〉が今度は〈LGS〉のもうひとつの名作、『Thief』シリーズの9年ぶりの最新作を発表しています。

『System Shock 2』はKen Levineの実質デビュー作であり、後の〈LGS〉系作品の独特の自由度はこの作品で確立された。

 そしてもちろん忘れてはならないのが大本命の『BioShock: Infinite』と、今回主役の『Dishonored』です。〈Irrational Games〉と〈Arkane Studios〉はともに〈LGS〉から独立・派生したスタジオであり、比較的近い時期に両スタジオの作品が出揃ったのは、90年代来の洋ゲー・オタク的にはぐっと来るものがあるのです。熱い、これは熱いのですよ。

 こうした背景もあるので、当初は〈LGS〉を振り返りつつ、『Dishonored』と『BioShock: Infinite』の両方を同時にレヴューしようかとも思いましたが、ちょっと長くなりすぎるような気がしたのと、これを執筆している時点で『BioShock: Infinite』を遊ぶまでまだ少しかかりそうだったので、2回に分けて書いていきたいと思います。そういうわけで今回は『Dishonored』のレヴューです。

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■業界の異端児スタジオに多くの才能が集結した

 『Dishonored』はいまどきでは珍しい一人称視点のスニーク(隠密)アクション。女王殺害の冤罪を着せられた主人公が、自らを陥れた相手に復讐していくストーリーで、潜入からターゲットの暗殺に至るまでのアプローチの多彩さや、豊富なガジェットや特殊能力による自由度の高さが売りの作品です。

 開発した〈Arkane Studios〉は前述した通り〈LGS〉倒産後独立したスタジオのひとつで、これまで『Arx Fatalis』や『Dark Messiah: Might and Magic』等、〈LGS〉の名作『Ultima Underworld』の名残を感じさせるファンタジー作品を手掛けてきました。といっても両作品とも当時の主流からは外れたゲーム・デザインで、良く言えばユニーク、悪く言えば奇ゲーという評価が多数の、いまひとつマイナー・スタジオの域を出られていなかったように思えます。

 
『Dark Messiah: Might and Magic』は近接戦に力を入れたファンタジー作品で、そのノウハウは『Dishonored』にも生きている。

 『Dishonored』も、見た目やシステムの奇妙さがこれまでの〈Arkane Studios〉節を彷彿させ、発売直前まで一抹の不安があったのは事実です。しかし遊んでみると同スタジオらしさは良い方向に作用しているとともに、表面上の奇抜さに反して実際のゲーム・デザインは、〈LGS〉作品の持ち味をとても忠実に継承していると感じました。

 これは今回新たにプロジェクトに加わったViktor AntonovとHarvey Smith両氏の力が大きいのでしょう。

 Viktor Antonovは連載第1回でご紹介した『Half-Life 2』で特徴的なアートを手掛けた人物で、今回は氏の持ち味がさらに全面的に発揮されていますね。時代掛かったイギリス風の街並みに無機質な金属の構築物が埋め込まれたかのようなデザインは大変ユニークで、それに説得力をもたらす世界観の構築も非常に緻密。これまでの同スタジオの作品はもちろん、他の同時代のゲームも軽く凌駕するオリジナリティがある。ことアートワークに限って言えば、ここ4、5年でもトップクラスと断言出来ます。

 
骨組み剥き出しの建造物の数々が、作品に得も言われぬ威圧感を与えている。

 一方、本作のディレクターのHarvey Smithは、かつては〈LGS〉に在籍し、また『Deus Ex』ではプロデューサーを務めた人物で、本作のゲーム・デザインも彼の経歴がとても色濃く反映されています。
 それこそ遊んだときの第一印象、とりわけ問題解決のための手段の多さはすごく『Deus Ex』らしさを感じたし、豊富な超能力を駆使するところは『System Shock 2』や『BioShock』も想起させます。そしてダークな世界観や観視点でのスニーキングに主眼をおいたゲーム・デザインは『Thief』に通ずるものがある。

 実際のところ本作のゲーム・デザインの骨組みは、宝を盗むのがターゲットを暗殺することに替わっている以外は『Thief』にとても似通っています。むしろそうした骨子に適合する範囲で他の〈LGS〉系列のゲームのシステムや、その他諸々現代のトレンドを組み合わせたのが『Dishonored』とも言い換えられるでしょう。

■二つの方角から掘り下げられた自由度

 具体的に見ていくと、まずゲームはステージ性で、各ステージはターゲットの拠点とその周辺地域が舞台となり、その範囲内でプレイヤーは自由に歩きまわれるデザインです。ステージはとても複雑かつ立体的に構成されていて、主要な建物は内装がしっかり作りこまれている凝り具合。当然ターゲットのもとにたどり着くまでには無数のルートが存在し、どのように進めるかはプレイヤー次第となっています。

 このあたりの自由度はいかにも『Thief』や『Deus Ex』的と言え、自分の頭で考えて進むべき道を決めていけるのは楽しいし、ルートごとにしっかり差別化されつつゲームに破綻が生じないのは見事。『Deus Ex』のレヴューでも触れましたが、ゲームの自由度という点において即興性が重視されるようになった現代に、レベル・デザインの作り込みで遊ばせてくれる作品は希少です。

 逆に『Thief』や『Deus Ex』と違っていまどきのゲームらしいのは、ルートの多彩さが予めプレイヤーに開示されていることが多い点でしょう。どういうことかというと、本作では後述する特殊能力を駆使して屋根や屋上等高所を移動ルートとする機会が多いのですが、その高所は先の状況を一望できる絶好のポイントにもなるわけです。高所なら敵に見つかる心配がないので、安心してじっくり戦略を練ることができるというメリットもある。

 また市民の立ち話や拾った書類等に、秘密の部屋だとか警備が手薄な場所だとかの情報があると、自動的にジャーナルのリストに追加されます。いちいち覚えていなくてもジャーナルを見ればどんな攻め方が有効か一目瞭然で、これもまた選択肢をプレイヤーに開示している例のひとつでしょう。

 こういう親切設計はじつにいまどきのゲームらしく、『Deus Ex』当時ではあり得ないものですが、自由度の高さを楽しんでもらうための誘導としてよく機能しているシステムだと思います。

 
屋根に登って下を見下ろし、先へ進む戦略を考える。これが本作の基本だ。

 対してもうひとつの特徴である豊富なガジェットや超能力もよくできています。とりわけ超能力は『Deus Ex』のAugや『BioShock』のPlasmidを原型にしていると感じられますが、その種類は短い距離を瞬間移動するものから時を止めるもの、なかには周囲の小動物や人間に乗り移るもの等々、一見すると変てこなものも多いです。

 しかし実際に使ってみるとどの能力も意外なくらい使い勝手が良くて、たとえば瞬間移動は屋根から屋根、道なき道を進んでいく手段としてゲーム中もっとも重宝する他、敵の目前を気づかれずにすり抜けるのにも使えます。乗り移る能力であればネズミや魚に乗り移れば排水溝を伝って建物内に潜入できるし、ターゲットに乗り移れば人目のないところまで誘導してから暗殺するということも可能。

 
動物に乗り移れば不審がられることなく衛兵の横を通過できる。しかし足元に寄りすぎると踏まれるので注意。

 このように各能力は応用性が高く、プレイヤーの想像力次第でステルスから戦闘までいろいろな使い道が考えられます。これはレベル・デザインとは違いより即興的な自由度とも言え、その場の思いつきをその場で実験したくなる魅力がありますね。とくに戦闘時にこれは顕著で、瞬時の判断が求められる状況で創意工夫して敵を倒し弄ぶ楽しさは、『BioShock』もかくやと言わんばかり。

 こうした即興性は『Thief』や『Deus Ex』に欠けていた要素であり、逆に『BioShock』は即興性優先で、レベル・デザインの濃さは大分減退していました。『Dishonored』の優れているところはその両方を持っていることであり、〈LGS〉の系譜のさまざまな要素をまとめ上げた、これまでの総決算的な作品であると評価することが出できます。

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■「何でもできる」は良いことばかりではない

 さて、〈LGS〉の系譜の現代的復刻という点で思い出すのが『Deus Ex: Human Revolution』ですが、この作品と『Dishonored』は当然似ている部分がありつつも、根幹の方向性はやや異なっています。

 最大の違いは自由度の範囲で、『Deus Ex: Human Revolution』はオリジナルに比べ敵との戦闘に大きくフォーカスしていて、反面複雑・立体的なレベル・デザインは減退し、より直線的なゲーム進行になっていました。言ってしまえば普通のアクション・シューティングに近くなっていたと言えます。

 
『Deus Ex: Human Revolution』の戦闘重視のデザインは、これはこれでまた評価がわかれるところではある。

 対する『Dishonored』は自由度をかぎりなく拡張していく姿勢で作られており、その点をもって僕はこの作品は楽しめたわけですが、しかしこれは人によって評価が分かれるところだろうとも思うのです。

 本作はスニーク・アクションというジャンルではありますが、コソコソ隠れるだけでなく敵とガチンコで戦うことも可能で、なおかつその振れ幅も大きく、ひとりの敵にも見つからずにクリアすることができれば、正面玄関から殴りこんでの皆殺しも可能になっています。この手のゲームにしては主人公がかなり強いということもあり、本作のスニークというのは生存戦略上の必然というよりも、プレイヤーの好み次第という面が強いのです。

 しかし本作に限らずステルスも皆殺しも自由自在みたいなゲーム性は今世代のゲームではとてもよく聞く謳い文句のひとつなのですが、プレイ・スタイルをプレイヤーの好みに委ねている分、効率だけを追求されたら途端に味気ない遊びになる恐れや、どんなプレイ・スタイルでも遊べるということは、逆に何をやっても何とかなるという意味でもあり、全体的に緊張感が欠けてしまうという問題点が付きまとっています。

 本作もこの点を完全には払拭できていないのが残念なところで、無傷で手軽に進みたければ、屋上からペシペシ撃っていればそれでOKみたいな、身の蓋もない事態になる危険性は否定できません。自由度を高くしたがゆえの、楽勝な進め方が存在してしまっています。

 
ただ倒したいだけだったらピストルを何発も撃ちこめばいい。これもまた自由ではあるが味気ない。

 ただプレイヤー側が遊び方に明確な目的意識を持てば、それに見合った楽しさが返ってくるところに救いはある。敵にいちども見つからずに進めようと思ったらやはり相応の手応えは生じてくるし、なるべく多くの武器を使いこなして敵を殲滅してみようとすれば、こちらの戦術に柔軟に対応してくる敵の反応を見ることができるはずです。

 そういう意味では人を選ぶゲームであることには違いなく、おもしろさのポテンシャルは高いんですが、楽しみ方をわかってないとそれを十分に味わえない恐れがある。それに比べると『Deus Ex: Human Revolution』は、自由度が減退した分、遊び方は明快になっていて、どんな遊び方でも比較的一定のおもしろさや手応えが保障される面があるのは確か。

 だからと言ってどっちの方が優れているという話ではありませんが、少なくとも『Dishonored』を遊ぶ際は上記の点は予め留意しておいた方が、より楽しめるかと思います。

■まとめ

前述した〈LGS〉の系譜の総決算という言葉がふさわしい作品で、自由度の高さは近年では屈指のもの。〈LGS〉ファンはもちろん、自由度の高いゲームが好きな人や、ユニークな世界観が好きな人にピッタリの作品です。

逆にそれらが好きでない人には合わないゲームでもあり、また自由度が高いとは言え純粋なアクションやスニークと同等の面白さや緊張感を求めても期待外れになるでしょう。あくまでも自由度の高さを楽しみ、味わう作品だと思います。

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