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Home >  Columns > 演奏行為が織り成すメタ・ミュージック- ──KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』

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演奏行為が織り成すメタ・ミュージック

演奏行為が織り成すメタ・ミュージック

──KAC Performing Arts Program 2018 / Music #1 中川裕貴『ここでひくことについて』

@京都芸術センター 2019年2月22日(金)‐24日(日)

文:細田成嗣 Oct 09,2019 UP

音楽の成立条件を問うこと──幽霊的な演奏行為を通して

 分断された視聴覚、コンサートという形式、そして選択する聴取体験。これら三つの公演を貫いていたのは、単なる組織化された音響ではなく、作り手の身振りや行為、空間や物体、受け手の記憶や知覚作用など、音を取り巻く音ならざる要素によって音楽と言うべき出来事が成り立っていたということである。なかでも演奏行為によって出来事が生み出され、あるいは出来事が演奏行為として立ちあらわれることは、『ここでひくことについて』の核となるテーマでもあった。このように音楽における行為を前景化する試み──それもミクストメディア、音楽的演劇、遊歩音楽会とも言い換えられるような実践からは、かつて1950年代から60年代にかけて盛んにおこなわれたシアター・ピースを思い起こすことができる。行為や身振りなどを音楽の要素として取り入れたシアター・ピースは、庄野進によれば二つの流れに分けて捉えることができる(*6)。ひとつはジョン・ケージらに代表されるアメリカを中心とした流れであり、音をともなう行為によっていま・ここで生起する偶然性を、作り手が意図し得ない出来事の総体としてあるがままに現出するという非構成的な傾向である。もうひとつはマウリシオ・カーゲルやディーター・シュネーベルらに代表されるドイツを中心とした流れであり、身振りや言葉といった演劇的な要素を音楽の素材として作曲していくという構成的な傾向である。この二つの流れは様相を異にするもののいずれも非物語的であり非再現的であるという点で共通しており、この意味でそれまでのオペラやミュージカルをはじめとした音楽劇とは一線を画していたと庄野は言う。そのため「劇場は模倣され、再現されたものを伝達し、理解する場ではなく、そこに居合わせる人々とともに、その場で起こる出来事を共有し、しかも日常生活へとそれを持ち帰り、常に我々の生の意味を確認し、再活性化するための『コミュニオン』の場」(*7)となっていったのである。

 しかしこうしたシアター・ピースにおける基本的な性格として見落としてはならないのは、どちらの流れにおいても第一に演奏家の身体を「再発見」したという意義があったことである。その裏には演奏行為が置かれ続けてきた立場を見なければならない(*8)。西洋音楽の歴史においては長らく、演奏行為とはまずもって解釈行為のことだった。創造の源泉となるのは記譜された作曲作品であり、その作品のイデアルな芸術性を受け手に届けるために、作品を解釈し、現実の鳴り響きとして具体化することが演奏家の役目だった。このとき演奏行為は作曲作品の芸術性をできるだけ損なうことなく受け手に伝達することが重要であり、アルノルト・シェーンベルクが語ったとされる「演奏家はおよそ不要な存在なのだ。十分に楽譜が読めない気の毒な聴き手に楽曲をわからせるため、演奏してみせる場合を除いて」(*9)という言葉のように、ときには透明であることさえ望まれるような音楽の付帯的な存在でしかなかった。それはたとえヴィルトゥオーゾのように演奏家自身の創造性に光が当てられることがあったとしても、あくまでもまずは作曲作品があり、その解釈において生み出されるヴァリエーションとしてしか輝くことができなかった。だが音楽の現場にいるのは演奏家であり、音を発するのもまた演奏家である。そしてどれほど理想的な解釈であろうとも、作曲作品のイデアそのものに到達することはできない。むしろ音響が生起する場所を考えるならば、作曲作品こそが音楽における付帯的な要素とさえ言えないか。ここから演奏家というものの重要性があらためて立ち上がる。音楽が生まれる現場には演奏家の身体があるという当たり前と言えば当たり前の事実に気づくことになる。

 このように見出された演奏家の身体を、しかしシアター・ピースのようにあらためて作曲家の創造性を伝達するための媒介物とするのではなく、演奏行為それ自体が創造の源泉であり、むしろそれのみが音楽を成り立たせているのだと捉えるとき、期せずしてヨーロッパにおける自由即興の文脈へと近接していくことになる。自由即興もまた、作曲家を中心とした西洋近代主義的なヒエラルキーに対して、貶められてきた演奏家の役割を取り戻すという批評性があったのである。すなわち演奏行為について思考と実践を徹底的に積み重ねるならば、なかば必然的に即興性をめぐる問題へと関わっていく(*10)。むろん『ここでひくことについて』は三つのプログラムが三日間をかけてそれぞれ三回反復されており、そのためのリハーサルもおこなわれている。その意味ではどの公演も即興性とは相容れない再現性を持っているように見える。だが同時にこれら三つの公演は、記号の領域へと抽出し、別の場所で別の人物によって再現できる性格のものでもない。京都芸術センターという特有の空間があり、そして中川裕貴および「、バンド」という集団の個々の身体と密接に結びつきながら、はじめて実現し得る出来事なのである。その意味ではいま・ここにある個々の身体を離れては再現不可能な出来事であり、だからこそそれぞれの受け手にとってもまた再現不可能な経験がもたらされている。それは作曲作品において尊ばれる同一性よりも、即興性がその原理において触れるところの非同一性を湛えている。あたかも演劇が同一の舞台公演を反復しながらも、ひとつとしてまったく同じ出来事にはなり得ないように。

 演劇ではステージ上の人々がここにはいない人物を演じ、ここには存在しないはずの物語を立ち上げる。それに対して演奏行為はステージ上の人々がまさに当の本人であることによって、ここにしか響くことのない音楽を立ち上げる。だが本公演を通して経験してきた出来事は、どれもここで起きることが不確かなものであり、目に見えるものと耳に聞こえるものが、いま・ここで繰り広げられている演奏行為とは別様に体験されるということだった。わたしたちは視覚と聴覚が結びつくことの無根拠さを経験し、音楽を享受することを規定している形式性を経験し、そして異なる時間/空間へと聴覚的に旅することによって演奏行為の無力さを経験してきた。それらはシアター・ピースにも似ているものの、それは単にいま・ここにある身体的な行為を前景化しているからというよりも、むしろいま・ここにはないものを現出するという意味で演劇的なのである。三度反復される演奏行為は同一のものの再現ではなく、いま・ここへと徹底的に縛られた即興性が原理的に非再現的であるようにして、しかしながらいま・ここには存在しないはずのものの根源的な非同一性としてその都度現出する。そして受け手であるわたしたちはこの幽霊のように見えないものと聞こえないものに立ち会うことになる。このとき演奏行為は音楽を鳴り響きとして現実化するための手段ではなく、わたしたちがなにを音楽として捉え、どのように享受し、あるいはいかにして接することができるのかということの、いわば音楽の成立条件を経験のうちに明らかにするものとしてある。そうであるがゆえに『ここでひくことについて』における演奏行為は音楽へと捧げられていたと言ってもいい。それはこれまでの音楽秩序を破壊していたのでも、あらたな音楽秩序を構築していたのでもない。そうではなくむしろ、その成立条件に触れることで明かされる音楽秩序なるものの不安定な揺らぎを、破壊的か構築的か容易には判別のつかないような行為によって、すなわち幽霊的な演奏行為の「衝突」を発生させることから、来たるべき音楽の姿として呼び寄せていたのではないだろうか。

  • *6 庄野進「新しい劇場音楽」(『音楽のテアトロン』庄野進・高野紀子編、勁草書房、1994年)。
  • *7 同前書、51頁。
  • *8 もうひとつの背景として、松平頼暁が「アクションなしのサウンド」と述べたように、録音音楽さらには電子音楽といった、行為を必要としない音楽が一般化してきたことも挙げられる。なお、松平はシアター・ピースを「従来の演奏行為の延長としてのアクション」と「インターメディアまたはマルチメディア的な手法で、サウンド以外のメディアとしてアクションが加わるもの」という二種類のアプローチに区分けし、前者の例としてケージらを、後者の例としてカーゲルらを挙げている(『音楽=振動する建築』青土社、1982年)。
  • *9 大久保賢『演奏行為論』(春秋社、2018年)13頁。
  • *10 反対に即興性に関する思考と実践を徹底的に積み重ねることは必ずしも演奏行為をめぐる問題に突き当たるわけではない。たとえば Sachiko M がサンプラーそれ自体に内蔵されているサイン波を発する動作、あるいは梅田哲也が動くオブジェクトを会場に設置していく振る舞いなどは、即興的なパフォーマンスとは呼べるものの演奏行為および身体性とは異質な側面があるということには留意しておかなければならない。
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