Home > Interviews > interview with Wool & The Pants - 東京の底から
最初はインストゥルメンタルからはじまった。トリップホップ──ポーティスヘッドやマッシヴ・アタックなどを参考にしながら曲を作って、CDRに焼いた。それを大学で配ったことが第一歩だったという。
「けどやっぱり誰もまともに聴いてくれなかったですね。それでも作り続けて、CDRを何枚か作っていくなかで、自分の声を一回だけ吹き込んだんです。そうするとけっこう聴いてくれて。良いか悪いかは別として、面白がってくれたんですよね」
彼は昔のことをよく覚えている。ここでは端折っているが、あたかも昨日のことのように事細かに話している。「本当はラップしたかったんですけどね。でも、家でリリックを書いたときに文字量がエグいってことに気づいて。歌と比べると圧倒的に多いじゃないですか。こりゃ時間かかるなと思ってやめたんですよね」
音楽は彼の生活そのものだった。彼の生活を支配するのは音楽だけだった。「ずーっと宅録していて」と彼は続ける。「しばらくしてタワレコでバイトをはじめたんですよ、大学も全然楽しくなかったんで。その頃マッシヴ・アタックの『ヘリゴランド』とかフライング・ロータスの『Los Angeles』とか出た頃で、好きな新譜がたくさん出てて、音楽を聴いているのは超楽しかったんですけど、大学にはあんまり友だちはいないし、パーティな感じにも馴染めなかったんです。で、タワレコで働いているとき、偶然いまのメンバーがお店に買いに来たんですよ。『お前見たことあるぞ』みたいなことを言われて、『お前同じ大学だろ』みたいな。それで『バイト終わったら飯いかない?』って。それがけっこう嬉しくて。そいつがいまのベース(榎田賢人)なんですけど」
まあ、音楽の話ができる友だちができることは、そいつの人生において大きな財産である。ふたりは情報交換した。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンからフガジ、ジェームス・チャンスにDJシャドウ……いろんな音楽を聴いたようだが、そもそも德茂は上京してからの多くの時間をレコード店で働いている。それはおのずと音楽の知識が身につくことを意味しているが、ぼくがもっとも興味深いと思ったのは、彼の口から突然段ボールの名前が出たことだった。
『Wool In The Pool』のサウンドは、ノン・ミュージシャン的なアプローチによる創意工夫から成り立っている。あらかじめ教科書があり、楽器の演奏スキルを上げるために鍛錬して演奏する音楽ではない。教科書を破り捨て、スキルよりも発想を重んじるアートとしての音楽だ。つまり、彼のやり方はポストパンクのバンドと同じである。ヤング・マーブル・ジャイアンツやレインコーツやワイヤーやジョイ・ディヴィジョンやそういうバンドたちは、演奏力しか取り柄のないバンドよりも数百倍面白い作品を作っている。Wool & The Pantsはこの系譜にいる。
「CDRを配りはじめた頃、ベース弾いてくれないかって、初めて一緒に録音しましたね。ちょうど僕はブラック・ダイスにハマっていたんで、彼のベースをコラージュしたりして。いま聴いたらめちゃくちゃ恥ずかしいんですけど、そのときに彼となら面白いことできるかなと思ったんです」
德茂がライヴを意識したのは、同級生たちが就職先を決めるべく忙しくする大学4年のときだった。その数か月後には、同級生たちは自分の人生の安定のために紺のスーツに身を包んで、朝晩満員電車に乗っている……というのに、彼の頭にあったのはどうしたらバンドでライヴができるようになるかだった。
「みんな就活してるなか、ライヴのことを考えていましたね。ライヴするなら、じゃあメンバー3人必要なんじゃないかって。とりあえずドラム必要だよねって。いまのドラム(中込明仁)を誘いました。そいつも同じ大学で、バトルスのDVDを見せたりして、一所懸命練習してもらいましたね(笑)」
「食えるタイプの音楽にたどり着くとは考えてなかったので、ぼくは大学3年の終わりくらいに就職決めてました。1社だけ受けて1社受かって。でも入って1週間で辞めました(笑)。で、ユニオンに入ったんです。だからライヴをはじめた頃はユニオンで働いている時代ですね。ユニオンではスワンプ/フォーク担当でした」
あるときECDの部屋の写真を見て、そこにあった機材を買おうと。それがいまも使っているやつです。ローランドの機材なんですけど、高くて買えないので、安いジャンク品を買いました。姉の彼氏にヤフオクで落としてもらって(笑)。
当たり前の話だが、バンドとはそう簡単にはいかないものである。卒業後にベースは個人的な事情で東京を離れ、バンドはドラムとのふたり組で活動する。数年後、地元でハードコア・バンドを組んで歌っていたベース担当は、個人的な事情によって再度東京にやって来る。バンドは3人編成に戻ったが、まとまりは悪かった。
「Wool & The Pantsと名乗る前に、別の名前でやってて、ベースと半々でまったく違うタイプの曲を作って交互に歌ってました」、德茂はバンドがどのようにディペロップしていったのかを話しはじまる。「2012年〜2014年まで、3年くらいやりましたね。2015年くらいにいまのスタイルに近いバンドのイメージが浮かんで、それをやりたいと。そのイメージだと全曲僕が考えた曲をやることになっちゃうんですが、なんやかんやでふたりは受け入れてくれて。ベースはその頃このバンドとは別にハードコア系のバンドを組んでました。それも結構面白くて灰野敬二さんと対バンしたりしてました」
そしてスライ&ザ・ファミリー・ストーンからの影響についての説明を加える。「僕の方向性も少しづつ固まっていきました。ヒップホップに戻っていったんですけど、大きかったのはスライでした。スライの作品にはすべてがあるじゃないですか。ヒップホップ、ダブ、テクノ、スワンプ的でもある。めちゃくちゃハマりましたね。それで、スライ的なことを別のスタイルでやってみようかなって思いはじめた頃に、バンド名をWool & The Pantsに変えました」
■それは、クール・アンド・ザ・ギャングのパロディなわけでしょ?
德茂:フェイクっぽい名前にしたかったんで。シリアスな名前とか、クールな名前にはしたくなかったんです。
当時ジェームス・パンツにハマっていたんで、パンツ欲しいなって(笑)。で、カールトン&ザ・シューズとか、衣類系いいなみたいな。あとスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、プリンス・アンド・ザ・レボリューションとか格好いいバンドってだいたい「and The〜」付いてるなと。メンバーからは「別にいいんじゃない?」みたいな感じでしたけど、僕はけっこう気に入ってて、Wool & The Pantsって名前を思いついたときに音楽性も固まっていった気がします。
■ライヴのほうはうまくいったの?
德茂:うまくいってないですね。最初は、無力無善寺とかUFOクラブあたりでやってたんですけど、客5人くらい。友だち多めなバンドにマウントされてました。
■1stアルバムの時点で音の世界観ができてるんだけど、これっていうのはどうやって生まれたんだろう? 社会からなのか、自分の内面からなのか?
德茂:内面ですかね。社会的なことは内面にも影響してるはずなので。言葉に関してはボクシングの挫折がひとつ大きいですね。試合が近づくと、朝練・昼練・夕練・夜練ってあったんですよ。空いてる時間は全部ボクシング。それが無くなって、いろいろ考える時間が増えて、そこを少しずつ音楽で埋めていった感じですね。とくに今回アルバムに入っている曲の半分はその頃、18〜20歳くらいのときに書きました。“Bottom Of Tokyo”の詞もその頃ですね。
■18歳の青年がなんで女性言葉で?
德茂:いくつか理由はありますけど……女性の言葉の方が表現しやすいと思ったんじゃないですかね。もちろん男性の言葉で書いている曲もありますけど。
■それは德茂くんのなかに、女性性があるってことなのかな?
德茂:うーん。僕がめちゃくちゃ女系一家で。小さい頃父はずっと単身赴任で、ずっと離れて暮らしていたんですよ。姉がふたりで僕が末っ子で。母親と姉ふたりのなかで暮らしてて。いとこも三姉妹なんですよ。親族があつまると女の人ばかりで(笑)。そういう環境で育った影響はあるかもしれないです。
■“Bottom Of Tokyo”は底辺の生活を歌っている曲じゃない? 18歳のときの歌詞なんだね。
德茂:そうです。その頃からあまり変わらないですね。
■作品のリリースについてはどう考えていたの?
德茂:興味を持った人が聴いてくれればいいかなって思ってましたね。だからどこからリリースするとかはとくに考えずに、Soundcloudにずっとあげてました。ユニオンで働きながらライヴして、Soundcloudにできた曲をあげるっていう。二桁再生されたら嬉しいなって感じで。
■ずーっと曲は作り溜めていたわけでしょ?
德茂:めちゃくちゃありますね。
■メモリーがないわけだからどうやって保存してたの?
德茂:ボイスメモですね。全部ボイスメモです。
■全部ボイスメモなんだ。
德茂:ボイスメモをPCに出して。それで送ったって感じですね。
■Soundcloudにあげてたものも?
德茂:そうですね。無料サイトでWAVファイルに変換しただけっすね。
■それで独特の籠もった感じが出てるのかなあ。
德茂:でもめちゃくちゃフィルターかけてますね。フィルターかけて、その上で劣化して。リー・ペリーからの影響ですね。スライの『暴動』とリー・ペリーの『スーパー・エイプ』、ずっと僕の音触りのゴールがそこなんです。で、ふたりともメロディははっきりしてるじゃないですか。あのざらついた音と、そうじゃない僕のメロディとで、いまの音楽になりましたね。
■作ってるときはひとり?
德茂:“Bottom Of Tokyo”だけ3人でスタジオ入ってミックスしてますけど、他の曲はすべて、僕が家で全部の楽器を演奏して録ってます。
それまでの生活は
ひどく貧しくて
わたしの性格も
ひどく貧しくて
くたびれた
“Bottom Of Tokyo”
“Bottom Of Tokyo”は貧しい生活にうんざりして人知れず旅に出る女性の心情が歌われている。“Just Like A Baby Pt.3”は、「僕と外へ」「逃げて」と繰り返す。“Sekika”は「星の出ない夜も」「月の出ない夜も」「愛されない」といい、そして“Wool & The Pants”では「まあいいのさ」と何度も繰り返される。永遠のやり切れなさがここにはある。Wool & The Pantsはそうしたネガティヴな感情をドライに表現する。そして、ダンス・ミュージックとダブを通過したサウンドは官能的でさえある。そうすることでWool & The Pantsは、この見通しが暗い日々を乗り越えているのだ。
あるいは決別すること、これもまた彼の歌詞を特徴付けるコンセプトであり、とりわけ“Edo Akemi”という曲は、朝早く、部屋を片付けて旅立つ人の覚悟をもった心情にリンクする。それは彼がインディで感じてきた同調圧力への決別にも思える。
その“Edo Akemi”は日本のポストパンクにおいて重要バンドのひとつ、じゃがたらの“でも・デモ・DEMO”のカヴァーだが、やかましいオリジナルとはまるっきり別のむしろ囁くように静かな、完璧なまでに自分のサウンドに変換したカヴァーだ。
取材・文:野田努(2020年6月17日)