「Noton」と一致するもの

You'll Never Get To Heaven - ele-king

 なぜ私たちが来たのか
 いつだってうまく思い出せない
 わからない
 私たちはなぜ来たのだろう
ブライアン・イーノ“バイ・ディス・リヴァー”

 “バイ・ディス・リヴァー”は、曲もいいが歌詞もいい。人生の真理だ。イーノが1977年にリリースした『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』の収録曲で、ドイツの電子音楽デュオ、クラスターとの共作としても知られているこの名曲をカヴァーしていのがアルヴァ・ノト&坂本龍一、マーティン・ゴア(デペッシュ・モード)、それからエレキングでお馴染みのイアン・F・マーティンと、ユール・ネヴァー・ゲット・トゥ・ヘヴン(以下、YNGTH)というシニカルな名前で活動するカナダの電子音楽デュオである。
 YNGTHは、2012年にデビューして以来、2014年にくだんのカヴァーをふくむシングルを1枚、それから2017年にセカンド・アルバムを出しているだけで、だからこの10年で本作を入れてわずか4作品しかないのだが寡作家というわけではない。メンバーのチャック・ブレイゼヴィックは、ドリームスプロテイション、スロー・アタック・アンサンブルというふたつのプロジェクトでも活動している。前者はエレクトロニック、後者はクラシカルで、両者ともに音数は少なく、ともに空間があり、とにかくドリーミーだ。要するにサウンドの指向性は、YNGTHとさほど変わらなかったりする。スタイルがアンビエントであろうとシンセポップであろうとクラシカルであろうと、彼らの音楽は蒸気であり、綿であり、夢のなか。「You'll Never Get To Heaven=決して天国へは行けない」というバンド名は、反語なのである。
 
 あてどなく歩き、ふと気がついたら川辺にいる。前に進めず立ち止まり、空を仰いで、どうしてここに来たのか理由が思い出せないことをそのとき知る——カフカめいた人生観を彷彿させるこれがイーノによるオリジナル版“バイ・ディス・リヴァー”だと言うのなら、YNGTHによるカヴァーは、川辺で立ち往生しながら別次元に入って気持ちよくなってしまっている。思い出せないことは快楽とでも言うかのように。そう、天国にしか行けない。
 もっとも、ドリーミーではあるが潔癖症的で、なるほど日本の「環境音楽」に影響を受けたという話も頷けなくもないのだが、かつては、彼らのサウンドからレイランド・カービー(ケアテイカー)めいた“幽霊たちのボールルーム”を引き出した人もいたのだった。たしかに、少し手を伸ばせばボーズ・オブ・カナダやブロードキャストにも届くのかもしれない。が、他方ではエリック・サティのカヴァーもしている彼らのアンビエントには上品な静寂があり、癒やしもあり、滲むように広がるアリス・ハンセンのささやき声は、彼らの美しい空間を演出する一要素として機能している。『降雪列車にあなたの月光帽子を振る』というタイトルはノスタルジーというよりはシュールであって、じっさいこれは詩的な音楽でもある。
 まあ、好きなように解釈すればいいだけの話だ。1年の終わりというのはとかく感傷的になりがちで、ひとりでこの音楽に浸るにはもってこいの時期だったりもする。いやー、なにかと疲れました。我々はyahooニュースやそのコメント欄や新聞の見出しのなかに生きているのではない。ときには休息、川辺に佇むことが必要なのだ。

Roy of the Ravers - ele-king

 そう、いま我々に必要なのはパン、そして笑いだ。ああ、腹の底から笑いたいぜ。そう思いながら、この鬱屈した状況下で息を吸って吐いている人も多いことだろう。しかしだからといって、アシッド・ハウスを延々と3時間というのも、レイヴの楽しさを知らない人やそのいかがわしさを面白がれない人には拷問かもしれない。いや、わかる、わかります、ずっとあの音がウニョウニョいってるだけだもの。それは低俗漫画と抽象絵画のあいだに広がる危険なゾーンを彷彿させる。つまり、これはミニマリズムだ。アートだ。とはいえ、間違っても高尚なものではないし、そうなることを忌避しているとも言える。アシッド・ハウスはダブにも似ている。奥深く解釈することもできるが、一笑に付すこともできる。曲名も簡単だ。〜ダブ、〜ダブ、〜アシッド、〜アシッド。
 
 1986年にシカゴで生まれたアシッドは、目を光らせながら暗闇に佇む野獣のように、2021年も終わろうとしている現在でも、そのいかがわしさをアンダーグラウンドで発光し続けている。たとえば、ノッティンガムのDJ/プロデューサーのRoy of the Ravers(サム・バックリー)が2020年にカセットテープと12インチのアナログ盤でリリースした「ザ・ルチェスター・ミックステープ」と「メルチェスター Acid EP」をチェックして欲しい。オンサイドには“ホームゲーム・アシッド”、オフサイドには“アウェイ・アシッド”が収録されている。それぞれ45分……とはいかないがそれぞれ20~30分はあるし(少年サッカー時間だ)、言葉に関してもなかなかのセンスの持ち主である。ちなみにRoy of the Raversとは、UKのフットボール雑誌に連載された少年向けのスポーツ漫画『Roy of the Rovers』のもじりで、主人公が所属するチームがマンチェスター・ユナイティドをモデルにしたであろう「メルチェスター・ローヴァーズ」なのだ。

 先日、ロイ・オブ・ザ・レイヴァーズ(以下、ROTR)がクリスマスのための特別作品をリリースした。そのアルバム『ロイ・オブ・レイヴァーズのクリスマス・スペシャル』は新作ではない。2019年の『Advent 2019』なる作品の改訂版に過ぎないとしてもまったく問題はない。そもそも、ROTRに代表されるカセットテープ&アシッドのUKアンダーグラウンドについてはあまり知られていないし、知る必要もないとも言える。こんなもの、時間の無駄でしかないのだから。が、しかし、蕩尽こそ人の喜びなのだ。それにROTRのアシッドは、ごくごく初期AFXを想起させたりもする。とくにROTRのヒット曲“Emotinium”は、AFXに酷似しているから困ったものだ。遊び心たっぷりで、いや、遊びでしかないのだろう。それなのに、なぜか切ない叙情性がとめどなく溢れるという。無難に作られた音楽とは偉い違いで、人はいまも我が道をひたすら追求したDIY音楽に心が温められるものなのである。泣けたぞ。
 ところで、漫画の主人公のほうのロイだが、ヘリコプターの事故で左足を失い選手生活を終えている。なんとも過酷な運命だが、物語は終わらない。その息子のロッキーがメルチェスターの選手となり、ロイはその監督と就任するのだった。結局『ロイ・オブ・ザ・ローヴァーズ』は、50年代に誕生し、70年代から連載がはじまり、2001年に雑誌が休刊するまで続いたという。
  
 ええい、サッカーの話は今年はしたくないので、話題をアシッドに戻そう。UKのニューカッスルに〈Acid Waxa〉という名のアシッドに特化した珍妙なレーベルがある。ぼくがロイのことを知ったのも、じつはこのレーベルを通じてのことで、彼はずいぶんと作品をリリースしている。〈Acid Waxa〉もまた、クリスマス・コンピレーションをリリースしたのだが、こちらはチャリティで収益はすべて慈善団体に寄付される。以前にも彼らは、たとえば難民海難救助団体やらウガンダの子供支援やら、アイルランドの貧困家庭支援などに寄付している。なんて美しい話だろう、アシッド・セイヴド・アワー・ライフ。で、今回のクリスマス・コンピのほうには、“ラスト・クリスマス”からはじまるクリスマス・メドレーのクソくだらない(要するに最高にいかした)アシッド・ヴァージョンもあり、また、レーベルの顔であるROTRも1曲提供している。なんとか毎日息を吸って吐いて寝たり起きたりしていると、いまでもこんな粋な連中に出会えることもあると、これまさに僥倖です。メリー・アシッド・クリスマス。

Pip Blom - ele-king

 たとえばそれはサッカーのリズム良く回るパスだったり、野球の糸を引くようなアウトローのストレートだったり、よどみなく喋る実況や会話のテンポのよい合いの手だったり、小気味よいと感じるものが世の中にある。小気味よさとは「痛快な感じがあり、胸のすっとするような快さを感じるさま」だとググった先の辞書が教えてくれたけど、「つまりそれってピップ・ブロムの音楽みたいなやつだよね?」とヘッドフォンをした僕は思う。
 オランダはアムステルダムのピップ・ブロムという名前の女の人がはじめたバンド、その名もピップ・ブロム(そのままズバリ)。イギリスの名門レーベル〈Heavenly〉と契約して2019年に1stアルバムをリリースして、そうして2021年の11月に『Welcome Break』というタイトルの2ndアルバムがやっぱり〈Heavenly〉から出た。ジャンルはインディのガレージ・ギター、あるいはギター・ポップと呼ばれるようなもので、かき鳴らされるギターの音とピップ・ブロム(つまりはバンドではない方の彼女のことだ)の快活でそれでいて少しメランコリーを感じさせる声が何度も「小気味よさ」を運んでくる。ピップ・ブロムのギターのリフは爽やかでセンチメンタルであり、塩気の効いたパンのように少しそっけなく、それがもうたまらなく病みつきになってしまう。それはよそ行きではない日常に潜む快感で、これこそがまさにインディ・ギター・バンドに求めている音だとそんな気分にだってさせてくれる。

 そしてその音はどこか誰もいない放課後の夕暮れの教室を思わせる。どうしてこんな風に感じるのかと少し考えると、それはおそらくピップ・ブロムがキャリアの初期に〈Nice Swan Records〉からリリースした「Babies Are A Lie / School」の7インチのタイトルとオレンジ色したジャケットに引っ張られているせいだろう(このジャケットはお気に入りで見えるようにして部屋に飾っている。手にとって眺めてもやっぱり良い)。ついでだからとそのままその頃のピップ・ブロムの事をちょっと考える。この7インチにしてもそうだし、ピップ・ブロムはオランダのバンドだけどなんとも最近のUKシーンのバンドみたいな動きをしている。最近のUKシーンのバンドというのはつまりブラック・ミディスクイッドブラック・カントリー・ニュー・ロード、あるいはピップ・ブロムと〈Nice Swan〉でレーベルメイトだったスポーツチームのことで、彼らはみんな新興のインディレーベルから素晴らしい7インチ・シングルあるいは12インチのEPをリリースした後、アンダーグラウンドにとどまることなく大きなレーベルに移って、その姿勢を保ったまま活動の幅を広げていった。この動きはサウス・ロンドン・シーンとして知られる最近のUKバンドの特徴のひとつだけれど、オランダのピップ・ブロムはこれらのバンドに先駆けてこの道筋をたどっていったのだ。ホテル・ラックス、コーティング、イングリッシュ・ティーチャーなどと契約し最近また勢いに乗っている〈Nice Swan Records〉のレーベル第4弾としてピップ・ブロムのレコード「Babies Are A Lie / School」はリリースされた。スポーツチームやデッド・プリティーズより前にリリースされているということからもピップ・ブロムの特殊性がわかるかもしれない。これは2017年に7回にも渡るUKツアーを敢行したということと無関係ではないだろう。当時のイングランドはまさにサウス・ロンドン・シーンが勃発し勢いを増し広がり続けているまっただ中で、野心を持ったレーベルも素晴らしいバンドと契約すべくこぞってライヴハウスに足を運んでいた。そんな中でピップ・ブロムはUKのバンドと肩を並べ自身の魅力を放っていたのだ。
 だから僕はピップ・ブロムのことを広義の意味で、サウス・ロンドン・シーンのバンドだとも捉えている。ゴート・ガールシェイム、ソーリー、ブラック・ミディ、スクイッド、数多くのサウス・ロンドン・シーンのバンドのアーティスト写真を撮っているロンドンの写真家 ホーリー・ウィタカがピップ・ブロムの “Babies Are A Lie” のビデオを撮影したのがまさにその証拠だろう。このビデオは2017年当時のシーンのドキュメンタリー・ムービーみたいなもので、マット・マルチーズが登場しソーリー、ゴート・ガール、シェイムのメンバーがバンド活動を通して友情を育んでいく姿が描かれている(余談だがこのビデオは後々サウス・ロンドン・シーン初期から中期にかけての空気を知るという資料的価値が出てくるのではないかと思っている。そのサウンドトラックがオランダのバンドの曲なのはなんとも奇妙な話ではあるが、しかしそれこそがこのシーンの特徴であったようにも思える。インターネットを通じそのアティチュードは国を超えて共有されていったのだ)。人が集まり、そこで音楽が鳴る、いまのこの日常、流れる時間がかけがいのないものだとわかっている、ピップ・ブロムの音楽はそこにぴったりハマるようなそんな魅力がある。

 そしてこの2ndアルバム『Welcome Break』はまさにそのかけがいのない特別な日常感に溢れたアルバムだ。小気味の良いギターのリフ、さりげないが気の利いた気持ちの良いコーラス、快感の裏側に潜んだセンチメンタリズム、それらが曲ごとにバラバラに入っているのではなく同じ曲の中に混在しているというのがこのアルバムの素晴らしいところだ。1stアルバム『Boat』と同じ路線ではあるが、曲の強度がグッと上がり、そして混ぜ合わされるセンチメンタリズムのバランスが絶妙でピップ・ブロムの持つ魅力が遺憾なく発揮されている。正直に言うと「Babies Are A Lie / School」の素晴らしい調合のバランスが『Boat』では少し崩れ、快活さはあっても感傷が足りてないと感じていたので、これこそが求めていたピップ・ブロムだとこの2ndアルバムを聞いて嬉しくなってしまった。“Keep It Together” では澄み切った空のようなギターが海辺を走る自転車みたいな快感をもたらして、そして若さの裏側にあるほんの少し感傷を覗かせる。“I Know I'm Not Easy To Like” は不機嫌なキンクスのように進行し、フラストレーションを解放し、それと同時に小さな後悔を滲ませる。“I Love The City” では感傷を前面に出すことで、その裏側に潜む快感が下地からにじみ出してくるような曲に仕上がっている。アルバムを通して響き渡るのは青春映画のあの感覚で、特別なイベントなどなくとも日常が特別になりうるということを教えてくれる。小気味よく、その中で静かに情熱が胸にくすぶり続けているようなバランスがきっとその空気を作っているのだろう。ピップ・ブロムの2ndアルバムは一筋縄ではいかない味わい深さとシンプルな快感が両方あって、だからいつだって聞く度に胸を小さくドキドキさせてくれる。それがなんとも小気味よく感じるのだ。

クリスチャン・マークレー - ele-king

 音というものはつくづく不思議なものだ。高らかに鳴り響いたかと思えば、地を這うように轟きわたり、郷愁をさそうメロディの他方で聴くものを拒絶するノイズと化し、熱狂した観衆は踊り狂い、その瞬間に音はそのこと自体を言祝ぐファンファーレとなり、陶然とする私たちはただそれを描写することしかできない──

 上のような横書きの文字列が東京都現代美術館で開催中のクリスチャン・マークレーの展覧会「トランスレーティング[翻訳する]」の会場にはいってすぐの方形の展示スペースをかこんでいる。冒頭で「ような」とことわったのは文章そのものは私がうろおぼえで書いた創作だからだが、だいたいこのようなことが日本語で記してあったと考えていただいてさしつかえない。むろん私とて出版人のはしくれ。引用は正確の上にも正確を期すべきだとわかっている。わかっているが、この作品のテキスト自体、意味の伝達を優先しない。なんとなれば、今回の展示テキストはカタロニア語からの訳出で、その前が何語だったかは寡聞にして知らないが、本邦初披露のさいの展示はドイツ語からの翻訳で、このたび二度目のおめみえとなる。ただし前回と今回の文章は微妙にちがっているはずだ。翻訳=トランスレーションが逸失(ロスト)と不可分なのは日本を舞台にした映画の題名にもなったのでごぞんじの方もすくなくないが、聴覚に働きかける音ないし音楽という現象を対象とする場合、まかりまちがえばその懸隔はおそるべきものとなる。音を書くとは、その点で不可能事に属することは、ゆめゆめわすれてはなるまいが、それらを他言語に移しかえるともなれば、こぼれおちるニュアンスもひとしおであり、そのとき「翻訳」は「伝達=欠落」となる。


2.《ミクスト・レビューズ》 1999
壁に貼られたテキスト
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay.

 この作品のタイトルは《ミクスト・レビューズ》。1999年の発表で、新聞や雑誌に載った音楽にまつわる幾多のレヴューからサンプリングしたセンテンスをつなぎあわせ、文意はとおっていそうなのに全体的にはなにをいっているかわからない(わからなくてもいい)テキストになっている。クリスチャン・マークレーの個展「トランスレーティング[翻訳する]」はこの作品がぐるりをめぐる中央に「リサイクル工場のためのプロジェクト」と題した、ブラウン管式PCモニターやメディアプレイヤーなど、廃物を利用したメディアアートないしインスタレーション作品を設置した第一室からスタートする。サンプリングとリサイクリング、オブジェクトとコンセプトといった作者を基礎づける2作品、かつて国内で公開したなじみぶかい2作品でクリスチャン・マークレー「トランスレーティング[翻訳する]」展をおとすのである。


5. 「リサイクルされたレコード」のシリーズ 1979-1986
コラージュされたレコード
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York

 第一室をあとにした観客は通路沿いの《リサイクルされたレコード》、その前後をはさむように設置したふたつの映像作品《ファスト・ミュージック》《レコード・プレイヤーズ》を目にすることになる。ともに活動初期の作品で、ことにレコード盤にじかにマーカーで記号を書いたりシールを貼ったりするだけならまだしも、切り離して別のとくっつけて外見ばかりか中身もコラージュした《リサイクルされたレコード》はマークレーが特異なターンテーブル奏者としてニューヨークの即興音楽界隈で頭角をあらわしはじめた当時の代名詞というべき一作。ここでの「代名詞」の語には代表作や名刺代わりの含意があるが、そのように記す私はこの「代名詞」なる用語の匿名性と交換可能性をたのみに、言語そのものがマークレー的表現世界の一端であるかに思いはじめている。
 本展はこの「マークレー・エフェクト」とでも呼びたくなる現象の多面性をたしかめる場でもある。それらはレディメイド、フルクサス、ノーウェイヴ、DJカルチャーなど、歴史的文脈にも接続可能だがいずれも微妙に食いちがい、そのわずかばかりの空隙を発生源とする。たとえば初期サンプラーの粗いビットレートやいびつなループ感は時代性の傍証であるとともに特定の形式を想起させる記号でもある。いまでは80~90年代のサンプラーの解像度を再現することはたやすいが、マークレー・エフェクトはそのようなテクノロジー依存的で定量的なシミュレーションとはことなる原理原則に接近しながら働く法則だといえば、いえるだろうか。
 その点でマークレーはデュシャンやケージら考え方の枠組みを転換した先達の系譜につらなっている。ただし彼らのようにその前後を分割したりはしない。もっとカジュアルでしばしばコミカルなのは、お歴々ほど近代や制度や社会や教育や教養といった課題に真正面からとりくまなくてもよかったからかもしれない。むろん美大生時代のボストンでのノーウェイヴ体験、卒業後に出てきたニューヨークの都市の磁場も無視できない。80年代のニューヨークには猥雑で折衷的な空気が瀰漫していたと想像するが、先端的なモードのなかで近代なるものは失調しかけていた。モダニティの革命幻想が晴れてしまえば、あらわれるのは「post festum」としての事物と状況である。剥き出しのレコード盤を転々流通させることで、音楽から本来とりのぞくべきノイズを外部から付加するのみならず、エディションを一点ものに変化させる《レコード・ウィズアウト・ア・カバー》や、レコード店のエサ箱から中古盤のジャケットを改変した《架空のレコード》、おもにクラシックとポップスのジャケットをかさねて視覚をおもしろがらせるのみならず、鑑賞者固有のイマジナリーサウンドスケープの再生ボタンを押す《ボディ・ミックス》など、本展の中盤の要となる80年代末から90年代初頭の諸作の情報攪乱的なコンセプト、すなわち黎明期のサンプリング・カルチャーの戦術はおそらく先に述べた時代背景にも影響をうけている。また制度との摩擦熱を動力源とするこの戦術はおよそ形式や序列や経済性が存在すれば、どの分野にも応用可能であり、そのことを証明するように2000年代以降、マークレーは作風の裾野をひろげていくのである。


14 「ボディ・ミックス」シリーズより 1991-1992
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
©Christian Marclay. Courtesy Paula Cooper Gallery, New York

 とりわけ2002年の《ビデオ・カルテット》は映像分野の劃期として一見の価値がある。作品に登場するのは過去の映画から抜き出した音にまつわる場面で、マークレーは数百にもおよんだという断片を、カルテットの題名通り、四つの画面に矢継ぎ早に映し出しながら、時間の前後のみならず空間の左右にも目配せしつつ緊密に編みあげている。私はこのおそるべき労作を前にするたびに畏怖の念と笑いの発作におそわれるが、なんど鑑賞してもあきないのは作品の自律性によるものだろう。《ビデオ・カルテット》でマークレーはサンプリングした映像を人物や事物といった事象に分解しその記号的な側面を強調したうえで同時時進行する4面の映像と音が連関するようたくみに構成するのだが、そのありようは、ジャズのアンサンブルにも、実験的ターンテーブリストのエクササイズにも、チャールズ・アイヴズのポストモダン版になぞらえられなくもない。


9. 《ビデオ・カルテット》 2002
4チャンネル・ビデオ(同期、カラー、サウンド) 14’ 30”
「クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]」展示風景
(東京都現代美術館、2021年) Photo:Kenji Morita
サンフランシスコ近代美術館蔵 © Christian Marclay.

 きわめて音楽的であるがゆえに時間的な《ビデオ・カルテット》の主題はのちに長大な《The Clock》などに展開する。一方で速度や強度といった音楽体験の土台となる主観的な時間単位は「アクションズ」や「叫び」のシリーズで絵画という古典的な形式に擬態するかにもみえる。クリスチャン・マークレーの「翻訳」とは、それら相補的な問題の系を横切りながら、そのたびになにかを「欠落」していくことにほかならない。あたかも音の不在が沈黙を析出するように、翻訳のさい反語としてうかびあがるもの。私のいうマークレー・エフェクトもそこに淵源するが、そのことを体感するには本展のような企画はぜひとも必要だった。
 いうまでもなく「翻訳」とは二言語間に限定できず、言語の数だけ存在するなら、その行為は本来的に増殖的である──そのことを体感するのにも本展はうってつけといえる。やがて鑑賞者は本展後半にいたるころには、マークレーがアートそのものの翻訳作業にかかり、度外れにその意味を拡張するなかで、意図的に主題を空転させ、真空状の記号にすべての意味をすいあげさせていることに気づくであろう。翻訳行為にはえてしてこのようなパラドックスがつきまとうが、よくよく考えると、存命中の美術家でクリスチャン・マークレーほどパラドキシカルな作家もそうはいないわけで。私は本展の多様な作品を前にして上のようなことを思ったが、他方であらためて作品を前にして、マークレーを語るにあたってコンセプトに隠れがちな細部の繊細さ、情報が覆う作品表面の風合いや素材の質料や質感にも目をひかれた。《無題》と題した2004年のフォトグラムなどはそのことをさらに作品化したものともいえるのだろうが、ほかにもレコード盤やジャケットやマンガ雑誌の切り貼り、シルクで刷ったカンバスの表面、幾多のファウンド・オブジェクトに作者の手の痕跡のようなものを感じたのも本展の収穫だった。展覧会場の最終コーナーにもうけた「フェイス」シリーズや《ノー!》などの新作にも手の痕跡はみとめられる。2作品ともに2020年の発表で、コロナパンデミックというきわめて現代的で文明的な状況における人間のありようをマンガのコラージュであらわした作品だが、そこでは感情や身体性の表出が意味伝達の速度をおいこしていくのがわかる。その傾向は2021年の最新作《ミクスト・レビューズ(ジャパニーズ)》へ伸張し、ろう者であるパフォーマーが冒頭でとりあげた《ミクスト・レビューズ》を日本語へ手話通訳する模様をおさめた映像では音や口頭言語の伝達機能が希薄化するのと反比例するように身体性がたちあらわれるのである。この作品をもって「トランスレーティング[翻訳する]」は円環を閉じるように幕をひくが、そのとき私たちは「翻訳する」ことにみちびかれ、思えば遠くに来たもんだと、ひとりごつのである。

Yusa Haruna - ele-king

 エレキングが2022年にリリース予定の作品でもっとも期待している1枚に、遊佐春菜のソロ・アルバム『Another Story of Dystopia Romance』がある。浅見北斗と遊佐春菜が時代の暗闇と向き合ったこのメランコリックな問題作から、去る12月20日に先行曲“Night Rainbow”の配信が開始された。ハウス・ミュージックの艶めかしさと刹那の切ない思いが入り交じった良い曲です。
 年明けの1月26日には第二弾“ミッドナイトタイムライン”の配信があり、また2月にもMVなどが公開される予定だとか。アルバムは〈キリキリヴィラ〉から4月にリリース予定。なお、アルバムには高木壮太(DJ善福寺)やSugiurumn、Satoshi Fumiらのリミックスも収録される。

Kiefer - ele-king

 いまさらではあるが、いまもっとも充実しているレーベルのひとつが〈ストーンズ・スロー〉ではないだろうか。レーベルの歴史は長く、これまでもさまざまな名作や話題作を提供してきた〈ストーンズ・スロー〉だが、基本的にはヒップホップを軸に、ファンクやソウルなども幅広く扱っている。扱う音楽の種類が増えるに従ってサブ・レーベルもいろいろと生まれ、〈ナウ・アゲイン〉のように独立・派生していったレーベルもある。マッドリブ、メイヤー・ホーソーン、ジョージア・アン・マルドロウ、アロー・ブラックなど、優れた才能を次々と世に送り出していった。
 そんな〈ストーンズ・スロー〉だが、近年はヒップホップ色がすっかり薄れているのも事実だ。ジャズ、ラテン、ソウル、ファンク、ディスコ、シティ・ポップ、AOR、ビート・ミュージック、エレクトロニカ、アンビエントなどほとんどありとあらゆる音楽を扱う総合レーベルとなっている。そして、とにかくリリース量が多い。2021年を見ても月に2作ほどのアルバムをリリースしていて、その中には以前レヴューで取り上げたアピフェラの『オーヴァースタンド』、ジョン・キャロル・カービーの『セプテット』、ザ・スティオプルズの『ワイド・スロー・ジ・アイズ・オブ・ノー・ワン』があり、これを見ても〈ストーンズ・スロー〉の充実ぶりがわかるだろう。ほかにもベニー・シングス、ノレッジ(knxwledge)、マインド・デザイン(mndsgn)など人気アーティストたちの新作をリリースした。

 キーファーはそんな近年の〈ストーンズ・スロー〉の核となるアーティストのひとりだ。本名はキーファー・シャックルフォードといい、〈ストーンズ・スロー〉のオーナーのピーナッツ・バター・ウルフと同じドイツ系アメリカ人だ。サン・ディエゴ出身でハイ・スクール卒業後にロサンゼルスへやってきたが、幼少期は父親の影響でジャズ・ピアノを学び、クラシックのレッスンも受けていた。ロサンゼルスに出てきたのもUCLAでジャズを専攻するためで、ケニー・バレルやジェイムズ・ニュートンといった巨匠たちに師事している。卒業後はジャズ・ピアニストとしてエイブラハム・ラボエリ、ギルバート・キャステラノスらと共演する一方、マインド・デザインやジョン・ウェインなど〈ストーンズ・スロー〉周辺のビートメイカーたちともコラボをするようになる。

 そうしたところから自身でもビートメイクやプロデュースをおこなうようになり、2017年に『キッキンイット・アローン』というアルバムを〈ストーンズ・スロー〉傘下の〈リーヴィング・レコーズ〉からリリースする。〈リーヴィング・レコーズ〉の主宰者でもあるマシューデヴィッドとジョン・ウェインもミキシングなどで制作協力したこのアルバムは、ギターが入るほかは基本的にキーファーのピアノとビートメイクで作られたもので、LAビート・シーンの流れを汲むジャジー・ヒップホップ集と言えるものだ。しかしながら、キーファーの本格的なジャズ・ピアノが入ることにより、よくあるジャジー・ヒップホップにはない洗練された味わいを生み出していた。そして、このアルバムをリリースした頃にはテラス・マーティンのバンド・メンバーとして来日公演を果たしており、ジョナ・レヴィン・コレクティヴの一員としてアルバムもリリースするなど飛躍していく。アンダーソン・パークやケイトラナダなど著名なアーティストとの共演も増え、キーファーは注目のピアニストとなっていった。

 2018年にセカンド・アルバムとなる『ハッピーサッド』を〈ストーンズ・スロー〉からリリースし、以降は『スーパーブルーム』(2019年)、そして新作の『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』(2021年)とすっかり〈ストーンズ・スロー〉の顔のひとりとなっている。『ハッピーサッド』と『スーパーブルーム』は、基本的には『キッキンイット・アローン』の延長線上にある作品で、キーファーのピアノ演奏とビートメイクのコンビネーションで聴かせるアルバムだった。それに対して新作の『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』はアンドリュー・ランダッツォ(ベース)、サイモン・マルティネス(ギター)、DJハリソン(ギター)、ウィル・ローガン(ドラムス)、ジョナサン・ピンソン(ドラムス)、サム・ワイカーズ(ベース)、ジョシュ・ジョンソン(サックス)、カルロス・ニーニョ(パーカッション)、アンディ・マッコーレイ(ベース)、エリン・ベントレージ(ヴォーカル)などのミュージシャンと共演し、セッション・スタイルで作り上げたアルバムだ。カルロス・ニーニョやブッチャー・ブラウンのDJハリソンなど、LAシーンのキーパーソンたちが参加する点も見逃せない。

 こうしたこともあって、『ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド』はそれ以前のアルバムに比べて複雑で豊かな演奏やアンサンブルを聴かせる作品だ。メロウで透明な空気に包まれた “アイ・リメンバー・ディス・ピクチャー” は、キーファーの洗練されたピアノの素晴らしさはさることながら、DJハリソンらと共に作り出すバンド・サウンドによって、いちミュージシャンではなくトータル・プロデューサーとしてのキーファーの力量を示すもの。全体的にはフュージョンやクロスオーヴァー的なジャズをやっていて、“リフト・サムボディ・アップ” はジョシュ・ジョンソンのアルト・サックスをフィーチャーし、ポスト・バップとジャズ・ファンクの中間的な演奏にコズミックなサウンド・エフェクトも加えている。“アーリー・シングス” は〈ストーンズ・スロー〉のレーベル・メイトであるリジョイサーにも通じる、ジャズ+アンビエント+ビート・ミュージック的な作品。“クライベイビー” も同傾向のナンバーで、オーガニックな質感のパーカッションとキーファーのキーボードのコンビネーションがイマジネーション豊かな世界を作り出す。キーファーはアルバムの中でアコースティック・ピアノほか、ローズ、プロフェット600、アープ600、コルグ・モノポリー、コルグ・クロノス、ジュノー106、モーグ・サブ37、ローランド202ストリングス、ヤマハDX7、ユーロック・システム、ソリーナ・ストリング・アンサンブルとさまざまなキーボードやシンセを駆使し、特にストリングス系のシンセによって複雑で深みのあるサウンドを作り出すことに成功している。

 キーファーのピアノが作り出すメロウなメロディは彼にとっての武器のひとつだが、比較的以前からのジャジー・ヒップホップ路線に則った “カーリー” は、そんなキーファーの美メロが最大限に発揮されたナンバーだろう。“アーティズ・ラヴ” も美しいキーファーのピアノがフィーチャーされるが、ここではローズとのコンビネーションによって透明感に満ちた音色を聴かせる。この “アーティズ・ラヴ” や “ウィズ・ユー・ホエア・ユー・アー” はキーファーのアンビエント感覚が生かされた作品だが、特に後者におけるエリン・ベントレージのワードレスなヴォイスの使い方もとてもセンスに溢れている。タイトル曲の “ホエン・ゼアーズ・ラヴ・アラウンド” は冒頭で出てきた “アイ・リメンバー・ディス・ピクチャー” に繋がるような楽曲で、往年のアジムスやロニー・リストン・スミスの作品が持っていたメロウネスを感じさせるフュージョン・タッチの作品。改めて聴くと、キーファーの演奏もロニー・リストン・スミスやアジムスのジョゼ・ベルトラミなどの影響を受けているなと思わせる。

グソクムズ - ele-king

 このアルバム『グソクムズ』は、懐かしい。この懐かしさは確かに、「〇〇のような」(〇〇に代入されるのは、サニーデイ・サービスであったり、キリンジであったり、キンモクセイであったり、デビュー間もない頃の never young beach であったりするだろう)という、これまでの邦ポップス史に現れた様々なアーティストとの音楽的類似によるのも大きいだろうが、そのような参照関係を超えた、何かもっと複層的で多面的な「懐かしさ」を蔵しているふうだ。

 「はっぴいえんど史観」という言葉がそれなりの説得力をもって流通している通り、1990年代以降の邦ポップス・シーンにあって、都会的な洗練をまとったフォーク・ロックの系譜というのは、かなり豊かなものがある。グソクムズもそうした系譜の上に現れたバンドであることは、そのサウンドを聞いてみてすぐにわかるだろうし、「“ネオ風街” と称される4人組バンド」とプレス資料にあるように、そうした都会的フォーク・ロックと、かつてのティン・パン・アレー~シュガー・ベイブ周辺のシティ・ミュージックを大いに参照しているのもわかる。
 主に北米の1970年代ポップス~ロックの芳醇な蓄積を源泉に据え、〈URCレコード〉や〈ベルウッド・レコード〉から連綿と流れる、フォークからニュー・ミュージックへと発展していく同時代の日本産音楽に多大なインスピレーションを受けたインディー・ポップ。これらを指してここ10年ほどで盛んに用いられた(やや漠然とした)用語に、「グッド・ミュージック」というのがあるが、グソクムズの音楽はまさしくこの「グッド・ミュージック」志向の最新継承形と考えるのが適当だろう。

 グソクムズは、東京・吉祥寺を拠点に活動するバンドだ。「風街」とは、(松本隆のコンセプトによれば)1964年の東京オリンピックを境に様変わりしてしまった青山・渋谷・麻布界隈のかつての原風景を空想的/詩的に捉えようとした概念であったわけだが、その「風街」喪失の物語類型も、後の都市開発の波とともにだんだんと西方に遷移してきて、いまでは吉祥寺に根をおろしている、ということなのかもしれない。都心部の「あの頃」を映したはずの「風街」は、いつしか郊外の「あの頃」を映すようになった。
 これは、グッド・ミュージック的系譜の主な発信地が、都心から渋谷、下北沢、吉祥寺等の武蔵野地域へと時代を下りながら移っていったのにも対応しているように思う。つまり、「風街」というコンセプトのリアリティが都市の中心から徐々に周縁化していく軌道と、シティ・ミュージックからシティ・ポップ、渋谷系、ポスト渋谷系から東京インディーへ、という都会的ポップスの展開の時系列的変遷が対応しているのではないか、ということだ。そういった意味で、2021年においてグソクムズの音楽が奏でられるのは、おそらく必然的に吉祥寺でなければならなかったわけだ。

 アーバンとルーラルの境界の混じり合った性質=郊外性が、吉祥寺という街の微妙な文化的アイデンティティを形作ってきたのは間違いのないところだろう。「風街」からやってくる東風がそよぎわだかまる場所としての吉祥寺にはかつて、日本のフォークの歴史を振り返るときに外せない「ぐゎらん堂」があったり、アヴァンギャルド・ミュージックの梁山泊たる「マイナー」もあった。1980年には(元祖「風街」文化圏とも何かと関連の深い)PARCOがオープンしているし、いまももちろん現役で街の音楽文化をもり立てる「曼荼羅」グループの各店をはじめ、様々な音楽関連施設がある。
 私自身、数年前まで吉祥寺の近くに暮らしていたので、実際、グソクムズの若々しくも品のあるフォーク・ロック・サウンドが、あの街の風景によく馴染みそうなのがよくわかる。どこかでローカリティと非洗練の匂いを残している街並みには、このアルバムで聴けるような(あるいは、はっぴいえんどが架空的に鳴らしたような)、都会的洗練と泥臭さが入り交じったサウンドが似合う。「都市に暮らしている」ということへの自己言及性と、それゆえの含羞としてのルーラル志向が拮抗する様。もしかすると、それこそがはっぴいえんど以来の都会人による邦ポップスを駆動してき基調論理だったのかもしれない、と思ったりもする。

 既に見たように、「風街」という概念には、その発祥の時点からしてノスタルジアが含まれていた。とすると、グソクムズの「ネオ風街」は、さらにその外側にもう一枚のノスタルジアを纏っている、ということになる。
 実のところ、こうした「二重のノスタルジー」というべきものは、例によってはっぴいえんど以後の系譜をたどっていくと、さして珍しくはない。というか、はっぴいえんどという(この場合、バンドというかコンセプト)を、(無自覚な例も含めて)事後から参照するにあたって必然的に引き受けなければならない戦略だともいえる。かつて1990年代にサニーデイ・サービスが描いた音楽の中には、その時点ですでに1970年代初頭の風景への集合的ノスタルジアが溶け込んでいたし、更には、1970年代初頭(ポスト「1968年革命」時代)に芽生えた更に前の時代へのノスタルジアが折りたたまれていた。昨今のシティ・ポップ流行りにしてもそうで、ある側面からみれば、1950年代末〜1960年代初頭の『アメリカン・グラフィティ』的な風景への憧憬を孕んだ1980年前後のニュー・ミュージックを、更に現在から愛でているという現象でもある。

 ここで、無粋を承知の上であえて比較してみたいのが、2010年代に隆盛したヴェイパーウェイヴにおけるノスタルジア観だ。
 ヴェイパーウェイヴでのそれは、過去(主に1980年代から1990年代前半にかけて)に抱かれていた輝かしい未来像にノスタルジアを投影する入り組んだ構造=「挫折した未来へのノスタルジア」が見られたわけだが、「風街」系譜のノスタルジアとは、やや性格を異にしている(ドメスティックな系譜としての「グッド・ミュージック」的価値観は、そもそもヴェイパーウェイヴ的なものとは長らく交わらずに来た)。
 「ネオ風街」は、ヴェイパーウェイヴがそうしたようにテクノロジカルな未来像を追慕するのではなく、「素朴なノスタルジア観へのノスタルジア」を含み込んでいると言うのが適当だろう。当然これは、通常の一義的なノスタルジア欲求とも違う。つまりここでは、挫折した未来観を懐かしむというヴェイパーウェイヴ的ノスタルジアの反響的相似形として、1970年代からそれ以前を眼差した場合のようにありし日を思慕しようとする素朴なノスタルジアを現在では懐き得ないことへの哀切の念=「素朴なノスタルジア観へのノスタルジア」が喚起されているのではないだろうか(オリジナルの「風街」コンセプトが、そのように素朴な心性に起動されていたものだったのか、そしてそれは多分違うだろう、という議論はここでは置いておきたい。重要なのは、かつての「風街」的ノスタルジアが、現在ではそのように「好ましく」「素朴」なものとしても眼差されているのではないか、という点だ)。
 「素朴なノスタルジアを抱き得たあの時代」への追慕/哀切の念が、また新たなノスタルジアを駆動するような状況。要するに、「素朴なノスタルジアを抱くことに対するメタ的なノスタルジア」。これこそが、「ネオ風街」という概念が辛うじて、しかしごく批評的な機能をもって現在性を担保し得ている領域なのではないか。素朴に過去を思慕する契機を奪われた現在の若者たちが、「風街」からの引導を受け取りながら、いま一度好ましく過去を想うための時空を、音楽を通じて立ち上がらせようとしている……という。

 『グソクムズ』は、その音楽も「グッド・ミュージック」的であるとすれば、当然その言葉(歌詞)も「グッド・ミュージック」の粋を集約したものに聴こえてくる。
 主情主義的な感情の吐露は巧みに抑えられ、あくまで身近な「風景」を切り取り、それらを自然主義的に描写する品の良い言葉が列せられていく。一方で、「君」と「僕」はあくまで彼らの生活意識の延長に配置され、奥ゆかしい描写でもってキャラクタライズされていく。こうした音楽を奏で歌うグソクムズのメンバー自身の生活風景も、きっとこのようにさりげないあれこれに彩られているのだろうと想像させてくれる。少しの憂いや倦怠も、こうした風景の切り取り術にとってはむしろ望ましいペーソスなのかもしれない……。
 このように書くと、何やら彼らの歌詞をいかにも「リアリティ」に欠けた「雰囲気重視」だと指弾しているように思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。ある意味でこれは、(そのサウンドと同じく)従前の邦ポップス史において豊かに実践されてきた手法の率直な継承であるし、元をたどるならやはり、かつて松本隆がはっぴいえんどで試みた風景論的詩作法(繰り返すが、ここにはかなりハイコンテクストな問題提起があったはずなのだが)を素朴に内在化し、彼らなりにコンバートしたものだろう。
 これもまた、上のノスタルジアの議論を通過した耳で聴くと、そのような詩作がなされた「あの時代」への憧憬と追慕ゆえの(結果的にメタ的な批評性を帯びざるをえない)実践ととるのが適当かもしれない。

 はっきりといえば、ここに描かれたような「ネオ風街」の風景からは、「社会」が剥落しているのではないか。私にとってはそう聴こえてくるし、「ネオ風街」という「思想」も、あたかも現在の社会的アクティヴィティからの柔らかなシェルターのようにも思えてくる。その点をもって、夢想的なエスケーピズムの匂いを嗅ぎ取って論難するのは簡単だろう。しかし、グソクムズのメンバーが無自覚だったとしても(というより、無自覚だったとしたらより一層その効果を増すわけだが)この音楽は、素朴なノスタルジアを抱きえた時代への追慕・哀切がみずみずしく鳴らされているという点で、結果的に現在の社会への批評的視座が付与されている、ともいえる。
 この音楽が、「社会不在」に聴こえてしまうのなら、ある意味でそれは、現代都市社会が抱え込んだなにがしかの不全ゆえのことかもしれないのだ。

Snail Mail - ele-king

 スネイル・メイルの 1st アルバム『Lush』の “Intro” から二曲目の “Pristine” に入るあの瞬間、そのギターの音を覚えている。未完成の完成形みたいだったギターの音、一言で言うとそれは若さで、はじまりを予感させるようなもので、輝きがあって、けれど同時に長くは続かないことが示唆されていて、いつか消え去ってしまうという予感があるからこそ特別に感じられるような、それはそんな音だった。

 あれから3年余りが経って、スネイル・メイルの 2nd アルバムは声からはじまる。タイトル・トラックの “Valentine”、シンセサイザーの音色の上に声が乗る。感情を意識して押し殺したような静かなはじまりから炸裂するギターに叫び声。これまでと重なる部分と異なった部分、この曲でスタートするのはどこか続編ものの映画を思わせて、少しくすんだギターの音とより一層複雑な感情を表すようになったリンジー・ジョーダンの声とがあわさり前作との間に流れた時間が描写されていく。だからもうこの曲が終わる頃にはこのアルバムがどんなアルバムなのか指し示されている感じだ。1st アルバムの時間は過ぎてすべては変わっていった。

 “Ben Franklin” のビートが頭を揺らす。心をかきむしるようなリンジー・ジョーダンの声は低く静かに語りかけ、叫び声よりも鋭く尖った塊を届ける。自らの傷口をえぐるかのように。けれどそれは決して過剰ではなくてある種の物語として機能する。スネイル・メイルことリンジー・ジョーダン、16歳で最初のEPを作り、10代最後の年を 1st アルバムのツアーで過ごし、そうして彼女の20代のはじまりの時間がこのアルバムの中に存在する。「前に進んでも/真実だって思えることはなにもない/時々あなたじゃないっていうだけで彼女が嫌になる/リハビリのあと、自分が本当にちっぽけだって思える」 2020年の終わり頃、リンジー・ジョーダンはアリゾナのリハビリ施設で45日間を過ごした。若くしてスネイル・メイルをスタートし、インディ・スターとしてのイメージが作られて、それまでとは何もかもが変わってしまった。輝きが苦悩に変わる。しかしそれでも彼女は音楽を作ることを止めなかった。ストーリーを紡ぎ、その中でキャラクターを演じ、物語として外に出すことで自らに潜む感情と向き合う。スネイル・メイルは表現者として存在し、だからこそこのアルバムは単に感情を発露しただけのひとりよがりなアルバムで終わらなかったのだろう。

 全ての曲は短くコンパクトにまとめられ31分余りの時間の中で彼女の物語が描き出される。血の滲む傷口と失われてしまったものを求める心、それを否定しようとすることで余計に自分にとってそれがどんなに大切なものであったのかが浮かび上がり、そうしてまた血が滲んでいく。冒頭の “Valentine” を除く曲のなかでリンジー・ジョーダンは叫ぶことなく自らに言い聞かせるような皮肉まじりの歌声を響かせる。作品の中に潜んだ感情のかけら、失われた愛に葛藤、現実の重さ、境界線、そして希望、物語はだからこそ必要で、このアルバムはコンパクトにまとめられているからこそそれらが生きて、物語を通したメッセージがイメージとして伝わってくるのだ(ポップ・ミュージックを通して聞く人間が受け止められるだけでの分量で。どうやってそれを伝えるのか、その選択こそがセンスなのだと思う)。
 そして工夫もある。過剰摂取にならないように、間に挟まれる “Light Blue” や “c. et al.” のようなアコースティックな曲たちが根底に流れる空気を維持しながらも雰囲気を緩め柔らかくしメリハリをつけてアルバムの時間を進めていく。緊張感はそうして続き、頭と心が整理されていく。曲順に関してもこのアルバムはしっかりと考えられているはずだ。ただの曲の集まりではない時間の流れ、それは不可逆で、感情がアルバムというポップ・ミュージックのフォーマットに則って伝えられていく。

 スネイル・メイルは表現者として存在する。自らの置かれたシチュエーションを、感情を、整理がされないままのそれを作品の中に落とし込む。直接的な言葉ではない、物語を通してこそ伝わるものがきっとある、それこそがポップ・ミュージックの魅力のひとつのはずだ。アルバムの中でリンジー・ジョーダンの時間が流れる。次の物語を見てみたいと思うのは、音楽の中に彼女の人生の一部が溶け込んでいるからなのかもしれない。音楽に限らずリアルタイムのエンターテインメントの良さとはきっと同じ時間を生きられるということなのだろう。時の流れの中で人が変化していくその過程を目撃できる。1st アルバムの面影をかすかに残して、時間が流れ、スネイル・メイルはゆっくりとその先へと進んでいく。それを見ることができるのはきっと幸せなことなのだろう。

RIP Greg Tate - ele-king

 アメリカの文化批評、ことブラック・ミュージックにおける批評家(もしくは思想家)として名高いグレッグ・テイトが急逝したことを、『ピッチフォーク』をはじめ各メディアが報じている。
 
 グレッグ・テイトは「ヒップホップ・ジャーナリズムのゴッドファーザー」と呼ばれていた人で、その知性と思想性および硬派な態度から、リロイ・ジョーンズ/アミリ・バラカ(『ブルースの魂』『ブラック・ミュージック』の著者として知られる詩人かつ批評家)の後継者とも喩えられていた。じっさいテイトを尊敬する人は多い。イギリスの批評家サイモン・レイノルズやコジュウォ・エシュン、アメリカの作家ジェイソン・レイノルズや詩人のムーア・マザー、それからテクノ・アーティストのジェフ・ミルズもテイトを尊敬している。
 黒人音楽(文化)について書く人は数多くいるが、たとえばマイルス・デイヴィス、ギル・スコット・ヘロン、ウータン・クラン、アジーリア・バンクス、カラ・ウォーカー、ドレクシア、そしてアフロフューチャリズム、これらを同列に深みをもって語れる人がほかにいるのだろうか。アメリカの黒人音楽ジャーナリズムにおけるこの素晴らしい知性を日本に紹介しようと、ele-king booksからは来年、テイトの代表作である『Flyboy 2』の翻訳を押野素子氏/山本昭宏氏の共訳で刊行することが決まっていた。生前テイトと交流のあった押野氏によれば「最近で一番嬉しい出来事」と話していたそうで、なんともやりきれない思いだ。
 昨年刊行した別冊エレキング『ブラック・カルチャーに捧ぐ』では、巻頭インタヴューがグレッグ・テイトだった。いま黒人音楽を特集するとしたら、その巻頭には彼の言葉がどうしても必要だった。そしてテイトは、Zoomを介して、本に囲まれた彼の書斎からブラック・ライヴズ・マターについて(そしてヒップホップとデトロイト・テクノについて)語ってくれた。
 今年64歳だったというが、まだまだ書きたいことがたくさんあったろうし、BLM以降の時代において彼の言葉はさらにもっと必要だった。偉大な先達の安らかな眠りをお祈りします。(野田努)

3D - ele-king

 マッシヴ・アタックの3Dが興味深い動きをしている。ソーシャル・メディアにおける、気候に関する虚偽の情報、誤解を招くコンテンツ、グリーンウォッシング(企業が消費者に対しておこなう、いかにも環境に配慮しているかのような誤解を与える訴求)などをフラグ立てするAIシステムを立ち上げたのだ。「イコボットネット(Eco-Bot.Net)」と呼ばれるそれが対象にするのは、フェイスブック、インスタグラム、ツイッター。アーティスト/研究者のビル・ポスターおよびデイル・ヴィンスと共同で開発したという。本気で環境問題に取り組んでいる3Dの姿勢が伝わるニュースだ。

「Eco-Bot.Net」公式ホームページ
https://eco-bot.net/

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