「Noton」と一致するもの

Maisha - ele-king

 ジャズの源流はアフリカ音楽にあり、その歴史の中でもデューク・エリントン、ランディ・ウェストン、マッコイ・タイナー、ファラオ・サンダースなど、さまざまなミュージシャンがアフロ・リズムやアフリカ民謡を取り入れた演奏をおこなってきた。現在でもカマシ・ワシントンなどはアフリカ色の濃いミュージシャンの筆頭に挙げられるが、ジャズ・シーン全体を見るとイギリスのミュージシャン、特にサウス・ロンドンのミュージシャンにアフリカ志向を強く打ち出している人が多い。イギリスにはアフリカ系の移民やその子孫が多く住み、1960年代頃からジャズ、ロックなどがアフリカ音楽を融合してきた長い歴史があるので、そうした影響がいまも根強いということが理由としてあるのだろう。特にロンドンにはアフリカ、およびその子孫にあたるカリブ系ミュージシャンが多く、シャバカ・ハッチングスモーゼス・ボイドなどがディアスポラという民族意識やアフリカ回帰色を演奏に強く打ち出している。TMとフェミ・コレオソ兄弟、ジョー・アーモン・ジョーンズらによるエズラ・コレクティヴ、オスカー・ジェロームらによるココロコ、タマル・オズボーン率いるカラクター、ベン・ブラウン率いるワージュ、アイドリス・ラーマンやレオン・ブリチャードらによるイル・コンシダード及びワイルドフラワーなど、さまざまな形でアフリカ音楽を取り入れたバンドが活動しているが、ドラマーのジェイク・ロング率いるマイシャも極めてアフリカ色の濃いグループだ。

 ジェイク・ロング自身は白人だが、ジョー・アーモン・ジョーンズのように南ロンドンの黒人ミュージシャンたちと交流が深く、そのジョーとマックスウェル・オーウィンによる『イディオム』(2017年)でも演奏している。彼が率いるマイシャは6人組で、サックス奏者のヌビア・ガルシアとギタリストのシャーリー・テテという女性ミュージシャン、日系キーボード奏者のアマネ・スガナミ、ベーシストのトゥーム・ディラン、パーカッション奏者のティム・ドイルがメンバー。ヌビアとシャーリーはネリヤという女性バンドも結成し、特にヌビアは自身でもリーダー作をリリースするなど、南ロンドン勢の中でもよく知られる存在だ。マイシャは2016年に〈ジャズ・リフレッシュド〉からEP「ウェルカム・トゥ・ア・ニュー・ウェルカム」でデビュー。ライヴ録音となるこのEPでは、その名もずばり“アフリカ”という曲はじめ、アフリカ色の強いモード・ジャズ、ディープなスピリチュアル・ジャズを披露しており、ジェイクのドラムはエルヴィン・ジョーンズあたりの影響を感じさせる。そのエルヴィンと一緒にコルトレーンのグループの中核を担ったマッコイ・タイナーは、1970年代にアフリカ回帰色を打ち出した作品をリリースしているが、マイシャにはそうしたマッコイの諸作を彷彿とさせるところがあった。その後、2018年になってリリースされたオムニバス・アルバム『ウィー・アウト・ヒア』でも、“インサイド・ジ・エイコン”というアリス・コルトレーン風の瞑想的な楽曲を披露している。そのほかボイラールームでのイベントでサン・ラー・アーケストラのサポートを務めたり、ロンドンのセッション・イベントの《チャーチ・オブ・サウンド》に出演するなどライヴ活動も活発におこなっており、このたび〈ブラウンズウッド〉からファースト・アルバム『ゼア・イズ・ア・プレイス』をリリースする。

 『ゼア・イズ・ア・プレイス』のレコーディングは今年の半ば頃に3日間かけておこなわれ、マイシャの6人のほかサポート・ミュージシャンとしてパーカッションのヤーエル・カマラ・オノノ、トランペットのアクエル・カナー・リンドストロム、そしてストリングス・セクションやハープも加わり、「ウェルカム・トゥ・ア・ニュー・ウェルカム」に比べてずっと厚みや奥行きのあるサウンドを展開している。収録された5曲はマイシャのこれまでのライヴから生まれてきたもので、リハーサルでのアイデア的な原型から、何度もライヴを重ねる中でさまざまなアプローチ、インプロヴィゼイションによる試行錯誤を経て磨かれていき、最終的な完成形がこのアルバムに収められている。古代エジプト神の名前がつけられた“オシリス”は12分近くに及ぶ大作で、マイシャの音楽性や特徴をもっともよく表す楽曲である。ヌビア・ガルシアの幻想的なフルート、土着的なパーカッションによる荘厳なムードはまさに神話的な世界を思わせるもので、中盤からストリングスを交えて盛り上がり、ジェイク・ロングのドラム・ソロによってヒート・アップ。前半から打って変わった高速ビートとなり、シャーリー・テテのギターが疾走感を煽るという展開。1曲の中にいろいろな物語があり、メンバーそれぞれのインプロヴィゼイション、ダイナミックな爆発力が収められている。そして、ストリングスの用い方にはカマシ・ワシントンの諸作に通じるところも見いだせる。“アズール”でもヌビア・ガルシアはフルートを用いているが、本作において彼女はところどころでフルートを重用しており、アフリカ音楽の持つ神秘性を表現するのに効果的な役割を果たしている。この“アズール”はユセフ・ラティーフの楽曲を彷彿とさせ、マイシャの深遠で美しい世界が浮き彫りとなっている。一方“イーグルハースト/ザ・パレス”では、ジェイクのアフロ・ビートとヌビアの情熱的なサックスによるインプロヴィゼイションが楽しめる。シャーリー・テテのギター・ソロも大きくフィーチャーされ、マイシャにおいてこの3名が重要な鍵を握っていることがわかる。変拍子の“カー”はハープを用いることにより、エチオピアン・ジャズのような不思議な哀愁を帯びている。アマネ・スガナミのキーボードとジェイクのドラムが深く沈み込むようなグルーヴを生み出し、その後は熱を帯びたヌビアのサックスをきっかけにトライバルなアフロ・ジャズが展開される。タイトル曲の“ゼア・イズ・ア・プレイス”はアリス・コルトレーン的なメディテーショナルな世界で、フルートとストリングスのコンビネーションが美しい。ジャズとアフリカ音楽の接点にあるディープでスピリチュアルな感覚、抒情的で美しい情感、太古と宇宙を繋ぐミステリアスなフィーリングを収めたのが『ゼア・イズ・ア・プレイス』である。

vol. 106:中間選挙 2018 - ele-king

 昨日11月6日は中間選挙だった。少し前から「投票しよう!」という呼びかけが、あちらこちらで見られたので、この時期なのだ、と思い出された。

 この日の夜は、このスーパーボウルと同じくらい複雑なシステムを理解しようと、選挙ナイトに繰り出した。2年前は、アップステイトで結果を知ったので、今回はNYCで、友だちに説明してもらいながら、開票結果を見ていた。
 トランプ大統領にとって、就任後初めて国民的な審判を受けるのが中間選挙である。

 シティバイクが、投票者が投票場所に行けるように、フリーで自転車を貸し出したり、「投票しました」というステッカーを見せると、半額になったり、スペシャルがあるバーやレストランが続出した。1人1人の票がアメリカを変えるかもしれない、ひとつの票が大事なのである。この日は1日雨で、しかもグリーンポイントやウィリアムスバーグでは、投票の機械が壊れるなど(4つのうち3つなど)、投票者は長い列を2時間も待たないとダメ、という結果だったが、投票が終わった後は、みんな、あーだこーだ言いながら、行きつけのバーに集まってきた。今日は、スクリーンに開票結果の模様が映し出されている。私は、政治に詳しくないし、選挙権もないので、今回の結果がどうこう言うつもりはないが、友だちに色々聞いてみた。

 私は、NYはてっきり民主党だと思っていたら、アップステイトはほとんど共和党だと指摘され、NYに何年も住んでるのに、まだ故郷のジョージア州で投票している人がいたり、自分が登録した学区でないと投票出来なかったり(仕事先の近くではダメらしい)、それぞれの州が違う法律を持つなど、アメリカの大きさ、アメリカの政治の複雑さを、長々と語ってくれた。

 今回の中間選挙については、「これでダメだったら、アメリカは終わりだね」と諦めている人が大多数だった。みんな投票に行っているが、誰に投票したか、などは話題に上らず、自分も100%理解しているわけじゃない、と一般論を長々と話し合った。

 私が興味があったのは、テキサス州の民主党候補者のベト・オルーク氏。昔、アット・ザ・ドライヴ・インのセドリックと一緒にバンドをやっていたという経歴を持ち、たくさんのミュージシャンが彼を支持していたので、30年間共和党だったテキサス州が変わるかもしれない(その差1%)、とドキドキしていた。が、結局共和党のテッド・クルーズが再選。「これが現実か」と愚痴言ってたら、「テキサス州なら選挙の機械を不正稼動させることもありえるわよ。なにせテキサス州よ」とピシャリと言った友だちがいた。それ以上は聞けなかったが、テキサス州には、特別な法律があるらしい。

 ミッドナイトを過ぎたので、開票結果を待たずに、選挙パーティはお開きになったが、彼らの意見を繰り返し思い出しながら歩いていたら、どこのバーでも、大きなスクリーンで開票結果を映し出し、みんなが集まっていた。これが選挙日の夜に、見られる光景なのであるが、普通の日とも変わらない、とも思った。

Stine Janvin - ele-king

 このところ「もっとも暮らしやすい国」とか「高齢者の住みやすい国」といったアンケートでは必ず1位になるノルウェイからジェニー・ヴァルに続いてキュートな実験音楽を。大所帯のジャズ・バンド、キッチン・オーケストラやフィールド・レコーディング主体のネイティヴ・インストゥルメンタルとして活動してきたスティーン・ジャンヴァン・モットランド(現ベルリン)がソロ3作目にして、ついに〈パン〉にリクルート。メデリン・マーキー『Scent』(12)と同じく、すべて声を加工しただけでつくられたサウンドは(もちろん、そうとは思えないけれど)、女性特有のソプラノを断片化し、ループさせたり、ブリープ化することで、タイトル通り「フェイク・ミュージック」として成立させている。ノルウェイではもはやヴェテランともいえるスパンクのマラ・S・K・ラジェが地鳴りのような吠え声に挑んだり、広い音域を駆使するのとは対照的にソプラノだけにフォーカスし、キラキラと光り輝くイメージを構築していく。ニューヨークのエントリーレイディオの解説によると、黎明期の電子音楽にインスパイアされ、レイヴを脱構築したものだということになるそうだけれど、この場合の「レイヴ」は「怒鳴る」とか「わめく」という元の意味を指しているのだろうか。ということはヒステリックに叫んだ声を「素材」にしたということで、それはそれで合点が行くほど「高い声」しか使われていない。ずっと聴いていると、ちょっと気が遠くなってきたり。

 メレディス・モンクやオノ・ヨーコなど声だけでパフォーマンスしてきた女性は多い(なぜ女性ばっかりなんだろう)。それが声だけでつくられているとはすぐにはわからないほど加工してしまうようになったのはごく最近のことで、ダイアマンダ・ギャラスもシーラ・シャンドラもここまでではなかった。ポップ・ミュージックなどでも盛んにオート・チューンなどが使われ、肉声というものに対する愛着が薄れていたりするのだろうか。スティーン・ジャンヴァンの場合、どれだけ声を変調していても、ライヴなどでは息切れや疲れなどが伝わってくることも多く、身体性というのはどこからでも漏れ出してくるものだななとは思ったりするけれど、1枚のアルバムとしてまとめられた『Fake Synthetic Music』にはそういった破綻はなく、見事なほど現在形の「人工性」がパッケージされている。彼女が「フェイク」と表現する方法論には、実際には肉声も混ぜられており、それらが不可分のコンポジションになっているところも上手いとしか言いようがない。合成音には倍音が含まれることはなく、それが合成音のいいところだったりするけれど、いわばシンセサイザー・ミュージックのように聞こえるにもかかわらず、倍音がどこで出てくるかわからないとういう意味では二重にフェイクなのである。

 そもそも女性の声は社会的に高くなってしまう傾向にあり、必要以上に人工的なのだという考え方もある。スティーン・ジャンヴァンはそれを誇張して変形させることによって女性が置かれている位置を戯画して見せているともいえる。かつてローリー・アンダーソンは自分の声を男性の声に変えてパフォーマンスしていた。日本青年館で観たライヴはいまだにインパクトが薄れていない。ローリー・アンダーソンとスティーン・ジャンヴァンがもしも裏表の価値観で結びついているとしたら、誰か、ふたりの共演を実現させてくれないだろうか。滝沢カレンのヒューマン・ビートボックスを加えて(ウソ)。

水曜日のカンパネラ × yahyel - ele-king

 もののけ姫でしょうか? これまた興味深いコラボが実現しました。水曜日のカンパネラとヤイエルが本日正午にコラボ・シングル「生きろ。」をリリース。タイプの異なる彼らが組んだらいったいどんな音楽が生み出されるのか? その答えは下記リンクから。

https://wedcamp.lnk.to/yahyel_ikiro

Spiral Deluxe - ele-king

 デトロイト・テクノとジャズの結びつきは古くからあり、カール・クレイグのインナーゾーン・オーケストラやマッド・マイクのギャラクシー・トゥー・ギャラクシーなどが成功例として知られる。こうした背景には、そもそもデトロイトがジャズやソウルの町として発展してきた経緯があり、テクノ・アーティストたちの中にもDNAとしてそうした音楽が刻み込まれている部分がある。そして、ギャラクシー・トゥー・ギャラクシーの“ハイテック・ジャズ”に顕著だが、アフリカ系たちのアフロフューチャリズムとゲットー感覚が、ブラック・ミュージックのシンボルとしてのジャズと、未来的なコズミック志向のテクノを結び付けているのである。テクノ・アーティストの中でもジャズを志向する者は、カール・クレイグにしろマッド・マイクにしろ、テクノの枠にとらわれない多様な音楽性を持つことが特徴だ。ジェフ・ミルズもそうしたひとりで、マッド・マイク、ロバート・フッドとアンダーグラウンド・レジスタンスを結成する以前、もともとヒップホップDJとしてキャリアをスタートしており、映画音楽からアンビエント、ポスト・クラシカルにも通じる幅広い音楽性を有している。ジェフ・ミルズとジャズの結びつきはデビュー前にさかのぼり、高校時代にジャズ・バンドのドラマーをやっていたそうである。2000年ごろにやっていたミルザートというプロジェクトは、ギャラクシー・トゥー・ギャラクシー同様にジャズやアフロとテクノやアンビエントなどエレクトロニック・ミュージックを結び付けたものと言える。近年はパリに移住してトニー・アレンと共演をし、改めてジャズに対するアプローチを見せている。そのコラボ作品『トゥモロー・カムズ・ザ・ハーヴェスト』が話題となった同時期、スパイラル・デラックスというバンド・プロジェクトのミニ・アルバム『ヴードゥー・マジック』もリリースされた。

 スパイラル・デラックスはジェフ・ミルズ(ドラム・マシン、パーカッション、ドラムス)のほか、アンダーグラウンド・レジスタンスやギャラクシー・トゥー・ギャラクシーのメンバーでもあるジェラルド・ミッチェル(キーボード)、エスクペリメンタル・ロック・バンドのバッファロー・ドーターのメンバーとして知られる大野由美子(ムーグ・シンセ)、ジャズ・トランペッターの日野皓正の息子で自身はジノ・ジャムというバンドを率いる日野賢二(ベース)からなるカルテット。ミルズは2014年にパリのルーヴル美術館オーディトリアムでレジデンシーを任され、そのときに一夜限りのバンドを結成。それをきっかけに、いろいろな分野で素晴らしいスキルを持つミュージシャンを集めたスーパー・グループを作りたいという構想が生まれ、2015年9月に東京と神戸で開催されたアート・フェス「TodaysArt JP」に現メンバーが集まり、パフォーマンスを披露したことが活動の発端となっている。そのライヴの模様はEP「神戸セッション」にも収められ、その後2016年にワールド・ツアーを行い、10月のヨーロッパ公演の録音はEP「タタータ(サンスクリット語で真理の意味)」としてリリースされている。この2枚のライヴ録音を経て、今回はスタジオ録音盤としてリリースするのが『ヴードゥー・マジック』で、改めてジャズ・カルテットとして打ち出したデビュー・アルバムとなる。録音はパリのフェルベール・スタジオで2日間に渡って行われ、“レット・イット・ゴー”にはニューヨークで活動するシンガーのタニヤ・ミシェルをフィーチャーし、またデトロイトの重鎮DJであるテレンス・パーカーがリミックスを手掛けている。

 初のスタジオ録音盤ではあるが、アルバムのほとんどはワンテイクで録音され、メンバーそれぞれのインプロヴィゼイションに委ねるという方向を打ち出している。ジェフは基本的にドラム・マシンを扱っているので、ビート面ではどうしてもプログラミングによる四つ打ちパートが多く、純粋なジャズと比較するとリズムの面白さや即興性に欠けるところがあるかもしれない。“E=MC²”は1990年ごろに流行ったジャズ・ハウス風で、ある意味でレトロな味わいがする。インプロヴィゼイションのスリルを求めるにはやや肩透かしを食らうが、基本的に演奏の主軸となるのはジェラルド・ミッチェルのピアノと日野賢二のフェンダー・ベースで、大野由美子のムーグ・シンセがアクセントを加えていくという構成。BPM 120くらいの四つ打ちから途中で4ビートのモダン・ジャズへと移行したり、ピアノが次第にスイング風のメロディを奏でたりという面もあり、そのあたりはライヴ感覚を生かしたものとなっている。表題曲の“ヴードゥー・マジック”はジャコ・パストリアスばりのベース・ソロに始まり、それにドラム・マシンが呼応しながらビートを刻むという形となっている。ドラム・マシンの「楽器」としてのインタープレイを楽しむなら、この曲が一番かもしれない。ジェフがパーカッションを演奏する“ザ・パリス・ルーレット”はファンクとフュージョンの中間的な演奏で、ディーゴやカイディ・テイタムなどのブロークンビーツあたりに通じるナンバーとなっている。“レット・イット・ゴー”のオリジナル・ミックスは、曲調としてはソウルフルなムードのディープ・ハウスで、アルバム中で唯一ジェフがドラムを演奏している。もともとドラム・マシンだった部分をドラムで録音し直したもので、彼のドラム演奏音源のリリースは今回が初めてだそうだ。全体を通してスパイラル・デラックスのポイントは、マシン・ビートを土台とした上で、ピアノとベースがどれだけ自由度の高い演奏をできるかだろう。革新性や新鮮さについては正直なところ薄いが、基本的にはギャラクシー・トゥー・ギャラクシーなどと同じように、エレクトロニック・ミュージックとジャズのエッセンスの融合を目指したユニットと言える。

Ground - ele-king

 「大阪で生まれた人の名字はみなオオサカなのヨ」とは大坂なおみのジョークだけれど、大阪のDJグラウンドの本名もオオサカなんだろうか(なんて)。Gr◯un土 a.k.a. Ground名義のファースト・アルバム『Sunizm』の1曲めは“Osaka Native”というタイトルが付けられ、なぜか“ソーラン節”がサンプリングされているので、ちょっと混乱もするけれど、べっとりと地を這うようなトライバル・ドラムを軸にズイズイと進んでいく曲調はちょっと癖になる。大阪というよりジャングルをふざけて匍匐前進しているような気分に近い(それとも大阪というのはそういう街なんだろうか?)。続いてシングル・カットされた“Logos”もやはりパーカッションがメインの曲ながら全体に跳ねるというよりは地に足が吸い付くようなノリで、随所に散りばめられている日本のエスニシティよりも、そうしたリズム感の重心の低さだったり、もしかすると摺り足で踊れてしまうようなところが日本を感じさせるアルバムといえる。汎アジア的な曲調の“Follow Me”や、なんとなくインドネシアあたりが思い浮かんでしまう“Lady Plants”も同じくで、なんとかして日本風を装おうとするのではなく、適当にアジアっぽいムードをごちゃ混ぜにしながら、それでいてとっ散らかったような印象を与えることもなく、じわじわと身体感覚に訴えかけてくるところが『Sunizm』はいい。スガイ・ケンや食品まつりもそうだけれど、日本的な記号を導入しながらも、それをクラブ・ミュージックとしてまとめるときに絶妙の距離感をもってミックスしているので、それこそ、去年、紙エレキングでコムアイに取材した際、無理に日本的なことをやろうとしなくても、日本的なものがサウンドに「滲み出ればいいかな」と話していた通り、グラウンドもトヨムも「滲み出させる」スキルが高いのだと思う(シャフィック・チェノフとジョイント・アルバムをリリースしたカツノリ・サワやエナはまるっきりガイジンだけど)。僕の覚えている限り、80年代以降、日本のエスニシティをポップ・ミュージックに融合させようとして、もうひとつポップ・ミュージックとしての完成度を損なってしまった先達たちとはどこかが違う。上々颱風とかね。

 DJ Gr◯un土のキャリアは長く、15年ではきかないみたいだけれど、僕は紙エレ20号でモリ・ラーの記事を書いているときにその存在を初めて知ることになった。和物のエディットで注目を集めたモリ・ラーと御山△Editというユニットを組んでいるということを知り、なんだろうと思ったのが最初。活動の範囲は広いようで、地元・大阪でDJ喫茶、ChillMountainHutteをプロデュースし、4年間営業を続け、どういう経緯なのか、南米のミュージシャンとも交流が深いらしい。デビュー・アルバムとなる『Vodunizm』は自ら主催する〈チル・マウンテン・レック〉から2015年にリリース。アフリカやアジアを溶け合わせたサウンド・スタイルはすでに確立され、これがリンスFMで大きく取り上げられたり、以後は海外活動も増えていったようである。ジェイ・グラス・ダブスやダッピー・ガン・プロダクションズといった眩しいリリースが続くブリストルの〈ボーク・ヴァージョンズ〉からリリースされたカセット『MIZUNOKUNI』では生真面目なアンビエント・ダブを聴かせ、このところのミュジーク・コンクレートやアカデミック・リヴァイヴァルではなく、しっかりとクラブ・ミュージックのサイドに立っていることを印象付ける。これに関しては新しさはないかもしれないけれど、完成度は高い。シーカーズ・インターナショナルとレーベル・メイトというだけで、そこはOKというか。ちなみに〈チル・マウンテン・レック〉からは2013年の時点で新人を中心に和泉希洋志や7FOを加えた全19組による2枚組CD『ChillMountainClassics』もドカンとリリースされている(未聴)。

 『Sunizm』の後半はスピリチュアル度がアップしていく。ベースで包まれていくような感覚が増大し、食品まつりの『EZ Minzoku』とは対照的に、エスニシティを記号として捉えるのではなく、良くも悪くもそのような音を出すことに内面も伴わせたいという欲求が強く働くのだろう。ラジオ・ノイズを使った“Koot Works”ではキューバ音楽のようなものがループされ、いわゆる南洋気分が全開で、スピリチュアルとの距離感とも相まって、どうしても細野晴臣の陰がちらつくものの、細野サウンドとは何かが決定的に違う。同じものを目指したとしてもバックボーンから何かがあまりにも違うということなのだろう。むしろ最後を飾るタイトル曲は(そのように感じる人はあまりいないかもしれないけれど)ボアダムズを完全に脱力させたような響きがあり、なるほど“Osaka Native”ではじまる意味はそこにあるのかもしれない。関西ゼロ年代は続いていたというか。

Sun Araw - ele-king

 去年このサイトで書いたように、やっぱり邦画は面白くなっているんじゃないかと思うんだけれど、あんまり変わらないかなと思うことに映画音楽がもうひとつピンと来ないということがある。吉田大八監督『羊の木』や濱口竜介監督『寝ても覚めても』は脚本も演出も演技もいいのに、どうにも音楽がマッチしているようには思えなくて作品への没入がどこか妨げられてしまった。今年の作品でいいと思ったのは瀬々敬久監督『友罪』ぐらいで、これは半野喜弘がラッシュを観た後に「音楽をつける必要はないんじゃないですか」と監督に告げたというエピソードがすべてを物語っているといえる。映像ソフトにはよく吹き替えヴァージョンや監督による解説の垂れ流しヴァージョンが選べるようになっているので、邦画に関しては音楽のアリ・ナシも選択機能に組み込んだらどうなのかなと思ってしまうというか。風景描写にポコッポコッとか音が入るやつとか、ほんといらねーよなーと思ってしまう。

 『Guarda in Alto』はミュージシャン名を伏せて聴かされたら、誰の作品か、たぶん、わからなかったと思う。イタリア映画のサウンドトラック盤としてリリースされたサン・アロウことキャメロン・スタローンズのソロ11作目。どの曲も圧倒的にシンプルで、ほとんど効果音に近い音楽が12曲収められている。イタリア映画は下火だし、日本ではほとんど公開されないので、どんな映画なのかさっぱりわからないままに聴くしかないけれど、これがひとつの世界観を明瞭に表現したアンビエント・アルバムになっていて、いろんなことで意味もなく心が揺れている夜などに聴いても、スッと心が落ち着いていく。メロディと呼べるようなものはほとんどなく、ベースのループやミニマルなパーカッション、あるいは弦楽器らしきもののコードをパラパラと押さえるか、ギターにリヴァーブだけにもかかわらず、しっかりとイメージを構築してしまう手腕はさすがとしか言いようがない。ジュークからベースやドラムを取り去ってもダンス・ミュージックとして成立させることができるかというテーマを追求し続けている食品まつりa.k.a foodmanがサン・アロウのレーベルから新作を重ねたことも必然だったのだなと納得してしまったというか。

 サン・アロウの作曲法はブライアン・イーノのそれとは何もかもが違っている。イーノのサウンドはよく湿地帯に例えられるけれど、単純にしっとりさせる効果があるのに対し、サン・アロウは圧倒的に乾いている。現代音楽を基盤としているかどうかも両者は異なるし、イーノが余韻で聴かせるのに対し、サン・アロウはリズムだけを骨格として取り出してくる。共通点があるとすれば、レゲエやダブへの関心、あるいは時代がニューエイジに埋没し切っている時に、それに染まっていないということだろう。これは大きい。サン・アロウはロサンゼルスというニューエイジの聖地にあって、しかもアンビエント表現を試みているにもかかわらず1ミリもニューエイジには接近せず、独自のヴィジョンを揺らがせることはない。こういうことは相当な意志の強さか音楽的信念がないと遂行できないのではないだろうか。もっと言えば2年前にはニューエイジの立役者ララージとジョイント・アルバム『プロフェッショナル・サンフロウ』をつくっているというのに……(同作はそれなりにダイナミックなプログレッシヴ・ロック風だった)。

 サン・アロウのこれまでの諸作もアンビエント・ミュージックとして聴くことはぜんぜん可能だった。しかし、『Guarda in Alto』はそれらとはやはり異なるアティチュードによってつくられたアルバムである。初めて聴いてから10年近くが経とうとしているのに、サン・アロウにまだ延びしろがあるとは驚きとしか言いようがない。ちなみにサン・アロウと食品まつりのコラボレーションはないのかな?

Drexciya - ele-king

 再評価がとまらない。なぜドレクシアはかくも海の向こうで称賛され続け、幾度も蘇生を繰り返すのだろう? 昨年から故ジェイムス・スティンソンのリイシューや未発表音源の発掘が相次ぎ(ジ・アザー・ピープル・プレイスジャック・ピープルズなど)、ジェラルド・ドナルドも活発にリリースを重ねている(ドップラーエフェクトXORゲイトなど)。あるいは、スティーヴン・ジュリアンやアフロドイチェらの新譜には如実にドレクシアからの影響が表れ出ている。
 そのような流れを踏まえてのことだろう、去る10月16日、ロンドンの音楽メディア Resident Advisor がドレクシアにかんするヴィデオ・エッセイを公開した。
 これがまた非常に良く練られたドキュメンタリーで、ドナルドをはじめ、DJスティングレイジェフ・ミルズらが音声で登場、それどころかスティンソン本人の肉声まで登場するから驚きだ(出典は、彼が他界する直前の2001年12月2002年5月に収録されたインタヴュー)。
 90年代の最重要盤といっても過言ではない『The Quest』、そのブックレットに記された決定的な神話、サン・ラーやリー・ペリー、ジョージ・クリントンなどのアフロフューチャリズム、YMOやクラフトワークの電子音楽、イジプシャン・ラヴァーのエレクトロなどについても説明されており、コドゥウォ・エシュンにも触れるなど最後までぬかりはない。船から女性が投げ捨てられるシーン、あるいは海中遊泳や惑星の映像など、視覚面でもとても丁寧に作り込まれている。素晴らしいドキュメンタリーです。

※ドレクシアについては紙エレ22号のアフロフューチャリズム特集でもとり上げていますので、ぜひそちらもご参照ください。

Joe Strummer - ele-king

 昨年あるイギリス人から、フリッパーズ・ギターやコーネリアスの作品っていうのは、『サンディニスタ!』みたいなものだと言われたことがあった。これはぼくには納得できる話で、こういうことを言うと、一本気なロック・ファンからは、渋谷系のどこがパンクの戦士とリンクするのだと怒られそうだが、過去の音楽の再利用という点では大いに似ている。というか、音楽制作におけるアプローチの仕方は、ある位相においては同じだと言えるだろう。
 ザ・クラッシュの音楽をあとから自分なりに分析していったときに、多くの曲が、誰かのカヴァーやじつは昔の誰かの曲の引用からできていることに驚いたことがある。たとえば『ロンドン・コーリング』に収録されている“ロンゲム・ボヨ”は60年代のジャマイカのバンド、ルーラーズのカヴァーとなっているが、ザ・クラッシュはその曲にロック・シンガー、フランキー・フォードによる59年のヒット曲“シー・クルーズ”のブラス・セクションのメロディを組み合わせている。そう、これはまるでDJシャドウの『エンドトロデューシング』のような作り方なのだ(そういう意味では21世紀の今日でも通用するモダンな感性を携えたひとだった)。
 敢えてシングルのB面をカヴァーするローリング・ストーンズ、なるべく知られていない曲で踊るノーザン・ソウル、あるいはアルバムごとにスタイルをリセットするプライマル・スクリームのように、ザ・クラッシュもまた、いかにもイギリス的なバンドだった。自分の好みを追求したうえでの豊富な知識の応用(再利用と加工、雑食性)に長けていたのだ。レゲエからロカビリー、フォーク、ジャズ……など、古い曲のカヴァーが多いことでも知られているが、“ジミー・ジャズ”のような曲はやはりファンカデリックの“ノー・コンピュート”のギターをパクったんじゃないのかと、しかし逆に言えば、『コズミック・スロップ』を聴いてあの曲をパクるというそのセンス、慧眼、目利き、目の付けどころに感心してしまうのである。そして、そうしたザ・クラッシュの音楽面における頭脳のたいはんはジョー・ストラマーにあったのだろう。

 『001』は、ジョー・ストラマーのお宝音源(未発表音源)が12曲も収録された2枚組コンピレーションで、ザ・クラッシュ以前/以後の代表曲・レア曲も収録されている。チャック・ベリー風のリフをアコギで弾いて歌う1975年のデモ曲“Letsagetabitarockin’”から80年代ドラムマシンとシンセサイザーが絡む10分以上の“US North”まで、どれもが男前の曲だし、『ロンドン・コーリング』と『サンディニスタ!』といった名作にはジョー・ストラマーのある種音楽的な包容力/オープン・マインドが大いに作用していることがあらためてわかる。既発曲だが、コンガによるアフロ・キューバンなリズムに導かれる“Afro-Cuban Be-Bop”や同じようにラテン・パーカッシヴな“Sandpaper Blues ”などは、まさに『サンディニスタ!』に収録されていてもなんら不思議はない名曲だ。ジャズからケルトまで混ぜてしまう彼の素晴らしい雑食性が堪能できるのは、既発曲だけで構成されている1枚目のCDのほうかもしれない。
 映画『ルードボーイ』で、ピアノで弾き語るストラマーを観てなんて格好いいんだろうと思った記憶がある。しかしその姿は、いわゆるパンクのイメージとは違っていた。3コードの魔法と優れた歌詞によって、もっといろいろなものを受け入れている大人に見えた。ジョー・ストラマーを語るうえで、なにかとその人間性に言及されることが多い。ぼくは高校をさぼって片道4時間かけてザ・クラッシュのライヴを観にいったことはあるが、松村正人が『スタジオボイス』の編集長をやっていた頃にメスカレロスで来日したストラマーを取材しないかとオファーされても断ってしまった。ただのファンに質問なんてできないだろうと。

Moses Boyd Exodus - ele-king

 今年後半も次々と重要なリリースが放たれるサウス・ロンドンのジャズ・シーンにあって、本作はもっとも待ち望まれていた一枚と言えるだろう。若き天才ドラマーの名をほしいままにするモーゼス・ボイドの初リーダー・アルバムである。2015年のMOBOアワーズにおけるベスト・ジャズ・アクトに選出され、ジョン・ピールやジャイルス・ピーターソンが主宰するアワーズなど数々の賞を受賞するなど、ここ数年でもっとも注目されてきた若手ドラマーのモーゼス・ボイドは、ザラ・マクファーレン、ジョー・アーモン・ジョーンズ、ヌビア・ガルシアなど南ロンドンのアーティストたちの重要な作品やセッションに参加し、サックス奏者のビンカー・ゴールディングとのユニットであるビンカー・アンド・モーゼスでも活動してきた。ほかに自身のプロジェクトであるエクソダスでもEPやシングルのリリースは行っているが、アルバムはビンカー・アンド・モーゼスでのリリースがあるのみだったので、本作はようやく発表されたソロ・アルバムである。

 本作は基本的にモーゼス・ボイド・エクソダスとしての活動の延長上にあるもので、彼の名を一気に高めた2016年のシングル曲“ライ・レーン・シャッフル”(ライ・レーンは南ロンドンのペッカムにあるストリートの名前で、この曲はいまや南ロンドンのアンセムでもある)と“ドラム・ダンス”も収録されている。この“ドラム・ダンス”はトニー・アレンとジェフ・ミルズのコラボのようなジャズ・ミーツ・テクノ的な楽曲だが(ちなみに、モーゼスはトニー・アレンのアフロ・ビートのレクチャーも受けている)、このようにエクソダスはモーゼス・ボイドのジャズ・ミュージシャンとしての側面に加え、エレクトロニック・プロデューサーとしての側面を融合したプロジェクトである。ただし、本作でエレクトロニック色が前面に出ているのは“ドラム・ダンス”や、ヒップホップやネオ・ソウル的な要素を持つ“ウェイティング・オン・ザ・ナイト・バス”くらいで、アルバム全体で見るとアコースティックなジャズ演奏が基軸となっている。その演奏の中心にあるのが『ディスプレースド・ディアスポラ』というアルバム・タイトルである。ディアスポラとは祖国を離れて異国で暮らす民族の意味で、古くはパレスチナ外のユダヤ人のことを指し、近年ではチカーノやインド系移民などにまで解釈が拡大している。この中でブラック・ディアスポラはアフロ・アメリカンやカリブの黒人、ヨーロッパの黒人移民などに渡り、アフリカ系移民の子孫やカリブ系黒人が多く暮らすペッカム周辺は、ロンドンにおけるディアスポラの象徴的な地区でもある。南ロンドンにはシャバカ・ハッチングスやザラ・マクファーレンはじめ、こうしたディアスポラの意識を強く持つ黒人ミュージシャンが多く、本作はモーゼス・ボイドの自身の中にあるルーツに迫ったものでもある。

 ディアスポラの意識の表れとして、本作には多くの楽曲にケヴィン・ヘインズ・グルッポ・エレグアというグループが参加している。このグループはアルト・サックス奏者のケヴィン・ヘインズ率いるバンドで、ナイジェリアを発祥とするヨルバ民謡とアフロ・キューバン音楽にフォーカスした活動を行っている。ケヴィンはサックスのほかにヨルバ語のヴォーカルや民族楽器のバタ・ドラムを演奏し、またバンドにはジョー・アーモン・ジョーンズもピアノで参加している。シャバカ・ハッチングスがバンド名にも用いた“アンセスターズ”は「祖先」という意味で、土着的なドラムとヨルバ語の歌がモーゼスたちの中に流れる血を強く喚起している。この曲や“ラッシュ・アワー/エレグア”では、そうしたフォークロアなサウンドのバックに薄くエレクトロニクスが用いられているのも特徴で、単に伝統的な演奏をなぞるだけでない新しさも見せる。こうした古いもの、伝統的なものと、新しいもの、実験的なものとの融合が、本作のテーマのひとつとも言えるだろう。“フロントライン”や“マルーンド・イン・S.E.6”にはケヴィン・ヘインズのサックスのほかに、ギターやチューバの演奏が印象に残る。クレジットはないが、恐らくチューバはサンズ・オブ・ケメットでも演奏するテオン・クロスで、ギターはマンスール・ブラウンかシャーリー・テテあたりではないだろうか。特に“マルーンド・イン・S.E.6”はレイドバックしたカリビアン風味が心地よく、カマシ・ワシントンの『ヘヴン・アンド・アース』にも通じる部分があるとともに、サン・ラーとファラオ・サンダースが共演したような雰囲気さえ抱かせる。そして、ザラ・マクファーレンが歌う“シティ・ノクターン”は、まさに「夜想曲」というタイトルがふさわしいムーディーなバラード。ザラのジャズ・シンガーとしての才能を改めて知らしめる美しい曲だ。ザラやジョー・アーモン・ジョーンズなど参加ミュージシャンのクレジットは一部に留まっているが、恐らくテオン・クロスやピーター・エドワーズなど、南ロンドンのジャズ・ミュージシャンの多くが参加していると推測される。モーゼス・ボイドのソロ作で、もちろん彼のドラムの凄さも隅々から感じられるが、『ウィー・アウト・ヒア』のように南ロンドンのジャズ・シーン全体の熱い息吹が伝わってくるアルバムでもある。

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