Home > Reviews > Album Reviews > Dopplereffekt- Cellular Automata
2002年、ジェイムズ・スティンソン=ドレクシアは死んだ。その深海から発せられる「信号」のようなマシン・ソウルなデトロイト・テクノ/エレクトロ・サウンドは生きながらにして神話的・伝説的であったわけだが(エイフェックス・ツインも彼に称賛の声を贈る)、2002年というまだ世界が完全にインターネット化(=可視化)する直前に亡くなったことで、彼は本当に「伝説」になり「神話」になった。 じじつ、ジ・アザー・ピープル・プレイスやジャック・ピープルズ名義など、彼の「遺産」を発掘するかのように、リイシューや未発表トラックのプロジェクトは現在でも続いている。彼の死は中断ではなく、継続としてある。
では、ジェイムズ・スティンソンの死以降の世界、つまりは、このどうしようもないほど荒廃した時代を生きる者たちは、どうサヴァイヴしていくべきか。ジェイムズ・スティンソン=ドレクシアによる深海の信号のごとき狂気のエレクトロニック・サウンドは永遠不滅だが、しかし彼が生きていた時代より世界はさらに「荒廃」してしまった。深海からの信号も、世界のノイズによって掻き消されてしまいそうにもなるだろう。となれば、その十字架を新しい神話として解放しなければならない。
ジェイムズ・スティンソンとともにドレクシアとして活動をしてきたジェラルド・ドナルドは神話の十字架を十二分すぎるほど背負っているはず。じじつ、彼のユニット、ドップラーエフェクトはデトロイト・テクノの「神話」の継承者ではあり、開放者でもある。
本作は、そのドップラーエフェクト、10年ぶりの新作だ。リリースはベルリンの〈レジャー・システム〉。アルバムとしては、2002年の『リニア・アクセラレーター』(〈インターナショナル・ディージェイ・ ジゴロ・レコード〉)、2007年の『カラビ・ヤウ・スペース』(〈リフレックス〉)に次いで3作目になる。10年ぶりのアルバムとはいえ2013年以降は〈レジャー・システム〉から継続的にEPをリリースしており、2014年には同レーベルからあのオブジェクトとのスプリットEP『ヒプナゴギア』を出し話題を呼んだ。まさに新作への機は熟していたといえよう(現在のメンバーは、女性エレクトロ・アーティスト、ミカエラ・トゥ=ニャン・ バーテル)。
それにしても、やはり、この新作には驚かされた。まさかビートレスな作風でアルバムを1枚制作するとは(2013年にリリースされたヴィソニア(Visonia)との共作『Die Reisen』にその傾向はあったものの、である)……。
しかしこれまた不思議なのだが、ビートレスになったことでデトロイト・テクノ的な感覚がより全面化したようにも思えた。なぜだろうか。むろん、ビートレスとはいってもベースはあり、シーケンスとベースが絡み合うことで独自の律動と身体性はある。だが、それより重要なことがあるのだ。
そう、あの湿った、そしてクリアな、シンセ・パッドの音色である。あの錆びた工業地帯に滴る冷たい雨のような電子音である。それは未来への夢想と、相反する憂鬱で湿ったブルース感覚であり、シンセサイザーによる感情の表出だ。同時に本作には感情をメタに再構築していくような数学者のような知性も感じる。レーベルからは「反復プロセスとしての数学的成長や低下にアプローチしており、それぞれのデータインプットは全体モデルに対して個別に考慮されている」という謎めいた一文もアナウンスされているほどだ。
そう、ジェラルド・ドナルドは、明らかに世界の「荒廃」を意識しているのではないか。「反復プロセスとしての数学的成長や低下にアプローチ」しているのだから。それゆえ本作の音楽/音響は、まるで荒廃した地上に降る雨のように鳴り響いている。「雨」とは、メッセージであり、現象であり、音楽である。深海から発せられる「信号」から、地上に降り注ぐ「雨」へ。「雨」は世界も濡らすが、その冷たい質感は世界のありようを変えてしまうだろう。つまりは音楽のように。もしくは世界への救済のように。じじつ、2曲め“Von Neumann Probe”には、まるで讃美歌のような澄んだ声が鳴っているではないか。
ジェラルド・ドナルドは彼のやり方で、ドレクシア(とデトロイト・テクノ)を継続し受け継いでいるのだろうか。荒廃した世界に、音楽/音響という雨を降らすことによって。それもまたマシン・ブルースのひとつの方法だ。むろん、それは相当にハードなことではあるのだが……。
デンシノオト