「PAN」と一致するもの

interview with Unknown Mortal Orchestra - ele-king

 いったいいつからそこに洗いざらされていたのかわからない......何十年も風雨を凌いだようにも、またつい昨日そこに置かれたばかりのようにも感じられるUMOのサウンドは、タイムレスという表現ではなく、ロスト・タイムと形容するのがふさわしいかもしれない。
 オープンリール式のテープ・レコーダーやディクタフォンなどを用いながら、丹念に音を作っていくというルーバン・ニールセンは、アリエル・ピンクからえぐみをとったような、ヴィンテージだがトレンドを突いたローファイ感をトレード・マークに、サイケデリックなファンク・ロックを展開し10年代シーンに頭角を現した。今月リリースされたセカンド・アルバムでは、グラム・ロック風の楽曲などUKロック的なアプローチをさらに強め、ポップ・アルバムとしての幅を広げた印象だ。
 しかしUMOの音は、懐古趣味というにはあまりにいびつで、ニュー・スタイルだというにはあまりに時代掛かっている。どこに置いても少しずつ違和感を生んでしまうような、いつの時代からもロストされ、どの思い出にも安住できないような、微量の孤独を感じさせるところに筆者は無限の共感を抱くのだが、その心は実のところは如何ばかりか。

 今回、ホステス・クラブ・ウィークエンダーへの出演のため来日していたメンバーに話をきくことができた。中心人物であるルーバン・ニールセンと、ベースのジェイコブ・ポートレイト。ルーバンはよく知られるように、以前はニュージーランドの老舗インディ・レーベル〈フライング・ナン〉の重要バンド、ザ・ミント・チックスを率いて活躍していた人物でもある。場所をアメリカに移し、ひっそりとこのサイケ・プロジェクトをはじめていたわけだが、ルーバンのソングライティングの底にあるものは、自身が述べているように、どこにも属することなく渡り歩くブルースマンのそれに似通ったところがあるのかもしれない。古今東西の音が審級もなく膨大に蓄積されつづけるネットワークのなかを、静かな光を放ちながら漂泊するUMOの音楽に、そのイメージはいくばくか重なっている。われわれが惹きつけられ、共感を抱くのは、ルーバンのそのようなあり方に対してでもあるだろう。

古い機材にこだわっているわけでもないんだけど、いまの時代、きれいな音を出すほうが簡単だったりするからね。そうじゃないことをやろうとすると、やっぱり時間がかかるよ。でもそもそもそのままでおいしい肉がそこにあるのに、わざわざマヨネーズをつけたりいろいろな手を加えたりしてるだけかもしれないよね。

“ファニー・フレンズ”(ファースト・アルバム『アンノウン・モータル・オーケストラ』収録)が聴けて感激しましたよ。あの作品が出た頃はレコード屋で働いていたんですが、それはもう毎日店頭でかけて......

ルーバン:それは素敵だね!

はい(笑)。あの頃は〈ウッジスト〉とか〈メキシカン・サマー〉とかがまさに旬で、そのあたりと部分的に共振しながら、チルウェイヴというトレンドも爛熟期にありました。

ルーバン:そうだよね。

グレッグ:たしかに。

で、UMOのちょっとガレージーな感じ、ローファイな感じ、こもった感じ、リヴァービーな感じっていうのは、そうした当時のシーンの雰囲気ととてもシンクロしていた部分があると思うのですが、あなたがたのファンクネスは、ちょっとめずらしくて、際立っていました。UMOには、ミント・チックスの体験を引いている部分もあるかとは思うのですが、パンクからファンクへというリズムの変化があるのは、ミント・チックスやパンクに対するひとつの批評なのでしょうか?

ルーバン:基本的には、前のバンドのドラマーがあんまりファンクできる人じゃなかったんだよね(笑)。どっちかというとパワー・プレイが持ち味で。僕自身は、いまやっているような音に昔から興味があったし、父親がジャズ・ミュージシャンだったこともあって、馴染みもあったんだ。でもはじめたのはたまたまパンク・バンドだった。パンクのなかに徐々にファンキーな要素とかを入れていきたかったんだけど、なかなかああいうグルーヴは腕のある人じゃないと出せないんだよね。当時はまあ、無理だったんだ。だからバンドを離れてひとりで音楽を作ることになったときに、どうしてもちょっと古風なグルーヴを持ったものへと変わっちゃったんだよね。

なるほど、古風なグルーヴという認識なんですね。今作はちょっとグラムっぽいいうか、UKロック的な音楽性が特徴になってるかなと思います。〈ファット・ポッサム〉にはヤックとかロンドンのバンドもいますけど、アメリカでいまUKロックというのはどんなふうに聴かれているんですか?

ルーバン:ヤックとかはたしかに人気があるよね。バンドによると思うけど、「ブレイクした」って規模の話になると、アークティック・モンキーズくらいかな。

ジェイク:でも、イギリスのバンドがいまアメリカで人気を高めているかっていうと、それは疑問だね。いま「きてる」のは、やっぱりサンフランシスコのガレージ・ロック・シーンだと思うよ。ガールズとかタイ・セガールとか......。

ルーバン:アメリカでイギリスのバンドが成功するのは難しいよね。ビッグにはじけるのは、アデルとかエイミー・ワインハウスとかポップなものでさ。

そうですよね。ガールズやタイ・セガールなんかは、ちょっとヴィンテージな音づくりをしますね。UMOにも共通するところはあると思うんですが、そんなふうにレトロな音楽性に向かうのは、一種のノスタルジーからなんですか? それともいまの時代に疎外感のようなものがあったりするんでしょうか?

ルーバン:ノスタルジーっていうのはぜんぜんちがうかな。その昔を知っていないと感じられないものだからね。僕らがいま好きで聴いているサイケなものっていうのは、実際は僕らが知らない昔のものだ。ここ8年くらい、そういうものが気になってよく聴いてるんだ。僕にとってリアルにノスタルジックなのは、TLC、ブランディ(笑)、あのへんのR&Bだったら若い頃の思い出とともに懐かしむことができるよね。
 サイケデリックな音楽を聴き込めば聴き込むほど思うのは、たとえばピンク・フロイドの『夜明けの口笛吹き』とかが典型だけど、あれですべてが変わったなと思えるぐらいの衝撃度――新たなクオリティ、新たなスタンダードを設定したようなね――を伴っているところがすごいんだ。あの当時の作品のすばらしさはそこにあると思う。バンドとしての僕らのありかたは、機材だって新しいしモダンだと思うんだけど、好みのサウンドはたまたま60年代のものとかが多くなってしまうんだ。

なるほど。モダンだっていうのはすごくよくわかります。曲についてなんですが、前作も今作も、あなた(ルーバン)がとても優れたソングライターなのだなということがよくわかるのですが、プロダクションについてはどうなんでしょう? ローファイっぽさを大切にしながら、とてもこだわり抜かれた音作りがされていると思うんですね。実際のところどのくらいの時間をかけて、どんなふうにサウンド・メイキングを行っていらっしゃるんですか?

ルーバン:ドモ、アリガトウゴザイマス(笑)。すごく時間はかかるんだ。いっさい妥協しないから。古い機材にこだわっているわけでもないんだけど、いまの時代、きれいな音を出すほうが簡単だったりするからね。そうじゃないことをやろうとすると、やっぱり時間がかかるよ。そもそもそのままでおいしい肉がそこにあるのに、僕はわざわざマヨネーズをつけたりいろいろな手を加えたりしてるだけかもしれないよね。さらにはその料理の方法がすごくアナログだっていう。ローファイじゃなきゃいけないと思っているわけではないんだ。

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ゾンビーズの『オデッセイ・アンド・オラクル』はとっても好きなアルバムだけど、あれだとちょっとロックさが足りない。キャプテン・ビーフハートも好きだけど、そうするとちょっとプリティさが足りない。そのちょっとの足りなさを自分で補いながらアルバムを作っていくんだよ。

うーん、なるほどなあ。では曲についてなんですが、 “フェイデッド・イン・ザ・モーニング”などのブルージーなサイケ・ナンバーがある一方で、“ドーン”のようなシンセ・アンビエントが収録されていることは、この作品の持つサイケデリアが単純なものではないことを証明するようにも思います。“ドーン”はどのようにでき、どのような意図で収録されているのでしょうか?

ルーバン:いじりかけの曲を、すごくたくさんPCのフォルダにまとめてるんだけど“ドーン”はそのなかのひとつだったんだ。すごくいい感じにできてるから、もったいないし何かに使いたいって思ってた。今回はアルバムをぶっ通しで聴いてもらうんじゃなくて、何か箸休めというか、ブレイクがあるといいかなと考えてもいたんだよね。そんなときだよ、“フェイデッド・イン・ザ・モーニング”の詞のなかに「徹夜明けで日差しがまぶしい」って部分があるんだけど、あの時間で日がまぶしいってことは、その前に夜明けが来てなきゃおかしいよなって思って、いじりかけの曲に“ドーン”って名前をつけて、そこに入れることにしたんだ。ちょうどね(笑)。
 とにかく好きなレコードがたくさんあるから、それに触発されて作りたいと思った音を、自分のレコードのなかに落とし込んでいく、そういうやり方なんだ。ゾンビーズの『オデッセイ・アンド・オラクル』はとっても好きなアルバムだけど、あれだとちょっとロックさが足りない。キャプテン・ビーフハートも好きだけど、そうするとちょっとプリティさが足りない。そのちょっとの足りなさを自分で補いながらアルバムを作っていくんだよ。

ああー。プリティさは大事ですね。UMOにはありますよ。“ソー・グッド・アット・ビーイング・イン・トラブル”“ノー・ニード・フォー・ア・リーダー”などは、ダックテイルズやジェイムス・フェラーロなどともどこか共鳴するような、どろっとして白昼夢的な音作りがされていると思います。〈ウッジスト〉や〈ノット・ノット・ファン〉〈ヒッポス・イン・タンクス〉といったようなレーベルに共感する部分があったりしますか?

ルーバン:いやー、ほんとにいまは才能ある人々に囲まれている時代だなという気がして、いま言ってくれたようなレーベルとか、この時代の人たちといっしょに名前を語られるのはうれしいよ。ただ、新しく出るレコードをチェックしきれてない部分はあるから、ほんとに新しいものは追いきれてなかったりはするんだよ。で、ふと気がつくと友だちのレコードだったり。

友だちのレコード、教えてくださいよ。

ルーバン:ええとね、フォキシジェン(Foxygen)、彼らはレーベル・メイトでもあるけどね。あと、ワンパイア。ジェイクがプロデュースしたんだ。

ああ!

ジェイク:仲良しなんだよね。ポートランドのバンドなんだ。

うわあ、やっぱりポートランドはいいですね。

ルーバン:なんか力になれればなって思って、ツアーに連れて行ったりしてる。

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ある意味、自分のアイデンティティを目立たないように消していくのが、いまの僕のあり方なのかもしれないな......。でもアメリカに住むこともアメリカの音楽も大好きだから、問題はないよ。

ちょうどポートランドの話題が出ましたけど、ニュージーランドからポートランドに移住したというのは、日本人からすればまあけっこう大きな決断にも見えるんですが、実際のところなぜアメリカだったのか、そしてなぜポートランドだっだのか教えてもらえますか?

ルーバン:前のバンドのツアーで来たのがきっかけかな。たまたま叔父がポートランドに住んでたというのもあったんだけど、当時は例の『ポートランディア』っていうテレビ番組がはじまる前だったから、べつに有名でもなかったし、とくに何か特別な期待は抱いていなかったんだ。でも街を歩いてみるとみんな着ているものはオシャレだし、かっこいいし、バーに行けば好きなアルバムがかかっているし、ちょっとここに住んでみようかなって気持ちになったんだよね。ニュージーランドの友人たちからは「なんで?」って言われたよ、たしかに。ほんとにポートランドはいまみたいに有名じゃなかったんだもん。でも、いまはわかるんじゃないかな。

みんな住んでないけどよく知ってますよ。ニュージーランドのローカルな音楽シーンって、ポートランドのローカルなシーンと似てたりしますか?

ルーバン:まず、生活のペースは似てるかな。それから、ニュージーランド時代からインディ・シーンに興味があったから、ザ・クリーンとかザ・チルズとかはチェックしてたんだけど、彼らの雰囲気とこちらのインディ・シーンの感じも似ているといえば似ていると思う。〈K〉と〈フライング・ナン〉のノリとかね。ただ、ニュージーランドのほうが、バンド同士が競い合うムードが強かったと思う。ポートランドのほうが仲間意識やコミュニティ感覚が強いかな。

今作のように〈ジャグジャグウォー〉からリリースということになると、UMOも世界的にはUSインディの重要バンドとして認識されていくことになると思います。ご自身のアイデンティティの問題として、こうした点に何か思いはありますか? 

ルーバン:ある意味、自分のアイデンティティを目立たないように消していくのが、いまの僕のあり方なのかもしれないな......。でもアメリカに住むこともアメリカの音楽も大好きだから、問題はないよ。それがパーフェクトなあり方だとは思わないんだけどね。でも、アメリカはミュージシャンとしては活動しやすい国だし、そもそもニュージーランドは小さな国で、音楽をやっている人に限らず、いつかはそこを出ていくというのがカルチャーの一部としてあるんだよね。外に出ていろんなものを発見して、はじめて自国の良さにも気づくっていう(笑)。そういう、外側から国を見つめてその価値を再認識するという昔ながらのニュージーランドのやり方を、いま僕もやっているのかもしれないね。

なるほど、日本とは違いますね。UMOの曲って基本的にはすごくポップなんですけど、どことなく孤独とか諦念のようなものが漂うように感じます。暗いわけじゃないけど、けっしてハッピーというわけでもない。あなたには実際に「Swim and sleep like a shark does」(“スウィム・アンド・スリープ(ライク・ア・シャーク・ダズ)”)していた時期があるのでしょうか?

ルーバン:いまでもそういう気分になることがあるよ。でもそういう気持ちを曲に書くことでどうしたいかというと、みんなに「こういう思いをしている人が他にもいるんだよ」ってふうに共感してほしいってことなんだ。孤独や疎外感みたいなものを助長しようと思っているわけではなくてね。この気分にはまり込んでもらいたくはない。
昔からブルースのアーティストなんかが悩みを歌にしたりしているのは、悲しい音楽の役割として、悪い状況からの救いになる部分があるからだと思うんだ。同じような思いをしている人が他にいるってわかることで救われるというのが、悲しい音楽の役割のひとつだと僕は思っていて。基本的に、僕が曲を書く根本には音楽を通じてみんなとつながりたい、コミュニケートしたいという思いがあるんだ。ただ、自分の気持ちに正直であればあるほど、ダークなものが表に出てくる。けどそこで終わらずにどこか明るいところを見せたい、見てほしいって思ってるよ。

ああ、いいお話が聞けました。ありがとうございます。最後にひとつだけ、前作のジャケットの写真ってユーゴスラビアの建物なんですか?

ルーバン:あれはクロアチアだね。もともとああいうふうな写真をベルギーの写真家が撮っていて、いいなと思ってたんだ。だけどその写真を買わせてくれって言ったらあまりにも高い値段を提示されて(笑)。だから観光客の撮った写真をいくつか探して、それをフォトショップで作り直したんだ。もともとのものと似た感じのアングルにして、モニュメントの前に立ってる人間は、僕のまわりの人を撮って組み合わせたりしてね。

Thee Oh Sees - ele-king

 ジ・オー・シーズは、USのライヴハウス・シーンではもっぱら愛され続けているバンドで、どのくらい愛されているかというのは、沢井陽子さんのレポートを読んでください
 ポジティヴな意味で、アメリカらしい足を使って、汗を流しているバンドである。東京公演には、ゲラーズ、そしてザ・ノーヴェンバーズも出るし、来週の月曜は渋谷〈O-nest〉、火曜日は名古屋〈KD JAPON 〉、そして、水曜日は大阪〈Conpass 〉で騒ごう。



[いいにおいのするThee Oh Sees JAPAN TOUR2013]

サンフランシスコ発世界中で大ブレイク中のアヴァンギャルドでpopなガレージ・サイケ・バンド、 Thee Oh Sees 、遂に日本に降臨!
なんと、大阪公演には、西宮の狂犬・KING BROTHERS(キングブラザーズ)が、東京公演には、トクマルシューゴ含むGellers、いまをときめくTHE NOVEMBERSが出演!

東京編 2/18@O-nest
Open/18:00 Start/19:00
adv/3.000 door/3,500
■Pコード:【191-065】,
■Lコード:【76462】,
e+
【出演】
Thee Oh Sees
Gellers
THE NOVEMBERS
Vampillia

名古屋編 2/19@KD JAPON
Open/18:00 Start/19:00
adv/2.500 door/3.000(+1drink )
■Pコード:【191-065】 ,
■Lコード:【46947】,
e+
【出演】
Thee Oh Sees
MILK
Nicfit
Vampillia

大阪編 2/20@Conpass
Open/18:00 Start/19:00
adv/3.000 door/3.500(+1drink )
■Pコード:191-314 ,
■Lコード:54081 ,
■e+
【出演】
Thee Oh Sees
KING BROTHERS
Vampillia


■Thee Oh Sees
Thee Oh Sees は、John Dwyer (Coachwhips, Pink and Brown, Landed, Yikes, Burmese, The Hospitals, Zeigenbock Kopf) の、インスト・エクスペリンタルな宅録作品をリリースするためのプロジェクトとして開始された。
その後、いくつかの作品を経て、フルバンドへと進化を遂げたのである。彼らのサイケデリックな作風は、一見するとレトロなものとして、とらえられるかもしれない。
だが、彼らは、数々の最先端のアレンジを細部に施すことで、サイケデリックでありながらもしつこさを感じさせない、スタイリッシュでキレの良い全く新しい音楽として、リスナーに強く印象づけているのである。
その作品群はPithforkをはじめとする数々のレビューサイト、音楽雑誌で軒並み高評価を獲得している。
だが、数々のメンバーたちと共に録音されたこれら作品群だけでなく、常軌を逸したエネルギッシュなライブパフォーマンスこそが、ライトニングボルトと同じベクトルにある彼らの本質ともいえる。

ツアー詳細:https://iinioi.com/news.html



interview with Michael Gira - ele-king


Swans
The Seer

Young God Records

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 およそ22年ぶりの来日となるので、よほどのベテラン・リスナーでもないかぎり、スワンズの来日公演を観た方は、とくにele-kingの若い読者におかれましては、すくないだろう。一介のオッサンである私でさえそうなのだから。
 あのときスワンズは過渡期にあった。82年の結成以来、『Filth』『Cop』の初期作でノーウェイヴと共振し、ジャンク・ロックの旗頭として、ひしゃげた音塊を打ち鳴らし、押しも押されもせぬアンダーグラウンドの王の地位にあったスワンズは『Greed』(86年)以降、しだいにその殺伐とした音響をスローにひきのばし音の伽藍を築くにいたった。その空間で上演する音楽は儀式というより反・祝祭としての祝祭を思わせる昏い輝きを帯びていた。スワンズの名に、いまでも多くのリスナーが抱くイメージはそれだろう。しかしながらスワンズは不変ではなかった。一貫しながら変わり続けた。80年代の終わり、ビル・ラズウェルのプロデュースでメジャーから出した『The Burning World』など、賛否両論ある作品もあるが、それにしても、彼らが音楽を前に進めようとしてきたことの証にほかならない。やがて90年代に入り、スワンズはスローさに拍車がかかり、ブレーキをかけた機関車が重い車体を引きずるように、97年には活動も停止したが、そのとき表舞台にいたのは80年代末のニューヨークのインディ・シーンで彼らと表裏の関係だったソニック・ユースだった。それから10年あまり、スワンズは、というか、マイケル・ジラは眠っていたわけではなかった。エンジェルズ・オブ・ライトとしてスワンズで未消化だった歌もの路線を探求し、〈Young God〉のオーナーとして、デヴェンドラ・バンハート、アクロン/ファミリーからジェームス・ブラックショウといった、フリーフォークないしはウィアード(weird)な、そしてこの閉塞的な世界で反転した反・祝祭とさえなり得る音楽を送り出してきた。
 それらをひとつに集約するように、スワンズは2010年、『My Father Will Guide Me Up A Rope To The Sky』でふたたび活動を開始したが、2011年3月に予定していた来日公演は東日本大震災で中止になった。今回は2年越しの待望の再来日となるが、その間にスワンズは畢竟の大作『The Seer』をリリースしている。「予言者」「先見者」と題したこの黙示録的なアルバムをひっさげ、一夜かぎり(しかも400人限定!)のステージで何をみせるか、このインタヴューがその先触れとなれば。

スワンズの演奏はどこかスピリチュアルな面での影響力があると僕たちは思うし、同じように感じるひとも観客の中にはいるようだね。例えばタントラ・セックスのように、緊張と開放、つまり自己を失うと同時に発見する感覚なんだ。

復活したスワンズは2年前の3月に22年ぶりの来日公演を予定していいましたが、東日本大震災で延期になりました。そのニュースを耳にされたとき、あなたは最初、どう思われましたか?

マイケル・ジラ:誰もがそうであったと思うけれど、ひどくショックを受けた。悲しく、忘れられないできごとだった。僕たちはそのとき、オーストラリアにいて、ちょうど日本へ出発しようとしていたんだ。それでも行きたいとみな思ったけれど、プロモーターからそれはムリだと説明があった。しかもそのときは災害の規模がどれほどのものであったかを知る前だったしね。そう、ニュースを聞いてとても悲しかったよ。いまの日本の状況はどう? 復興作業は進んでいる?

表面的にはいくらかは進んだのでしょうけど、福島の原発の問題をふくめ、復興というにはほど遠いうえに、それを置き去りにして経済を優先することにしたらしいです。ところで、そのとき、私たちには復活したスワンズの音としては『My Father Will Guide Me Up A Rope To The Sky』だけでしたが、昨年の『The Seer』を聴いて、スワンズの音がさらに進化/深化していることに驚きました。この2作の間にバンドに訪れたもっと顕著な変化は何だったのでしょう?

マイケル・ジラ:それは一年間のツアーを経験したことだね。ライヴでの演奏を通して、音が変わっていったんだ。『The Seer』の曲も、演奏を繰り返すうちにずいぶん変化した。

自然に変化していったということですね。

マイケル・ジラ:そう、行ったり来たり。試行錯誤で、僕の場合メンバーをなだめながらやっていく必要もあった。良くも悪くも僕はバンド・リーダーだからね。ときには喜びと怒りでバンドに大声を出すことだってある。まさにライヴの作業だ。そうやって奮闘しているうちに少なくとも僕たちにとっては最高だと感じられるものができて、そのときやっと頂点に辿り着いたと実感できるんだ。

僕はミュージシャンとして正式な訓練を受けたわけでもないし作曲家でもないから、すべて直感で仕事をしている。そして何ごとも恐れず、ひとつの映画を制作するまでの映画作家のように試行錯誤しながら作業をする。

前作『My Father Will Guide Me Up A Rope To The Sky』もそうですが、『The Seer』には何らかの宗教的な主題が込められていると思われます。私たち日本人はからずしもすべての人間がそうであるとはかぎりませんが、宗教的に「曖昧」であり、スワンズの言葉の信仰的および背徳的な面がわかりにくいところもあります。今回、あたなは『The Seer』にどのようなコンセプトをもたせたのか、詳しく教えてください。

マイケル・ジラ:日本人にとって特別わかりがたいとは思わない。僕はあまり言葉のコンテンツについて語るのは好きじゃない。なぜなら誰もが自由にそれぞれの想像力を働かせ、何かを経験する機会を持つべきだと思うから。曲のコンテンツについて語ってしまうと、まるで大学の試験にでも答えるかのように終わってしまう。そういう意味ですべてを解放したままでいたい。音楽のスピリチュアルな面については、僕は特定の宗教に属しているわけではない。けれど、スワンズの演奏はどこかスピリチュアルな面での影響力があると僕たちは思うし、同じように感じるひとも観客の中にはいるようだね。例えばタントラ・セックスのように、緊張と開放、つまり自己を失うと同時に発見する感覚なんだ。それが僕たちが興味をもっていることのひとつ。日本の仏教の禅宗や瞑想にも通じるところがあるんじゃないかな? 自己を深く認識するのと同時に、すべてを解き放す感覚なんだ。

『The Seer』は2枚組2時間におよぶ大作(DVD付き3枚組もある)ですが、音楽作品のトレンドがLPサイズになってきている思しき昨今、このような作品をリリースすることに、レーベル・オーナーとしても、ためらいはありませんでしたか? 私は『The Seer』には一瞬たりとも退屈は瞬間はないと思いましたが。

マイケル・ジラ:(キッパリと)ためらいはまったくなかった。なぜなら僕はもうそういうことを気にしていないから。ひとがどう思おうが関係ないんだ。もちろん僕だって生きていくためにはレコードを売らなくてはいけないけど、僕と僕の仲間は音楽が導くところに迷いなく進もうと決めていた。このレコードの制作を始めたときも色々と録音し、僕がそれらを膨らませたり、アレンジしたりするうちに最初に録音したものが成長していったんだ。その時は4枚くらいのCDで4時間くらいの長さになるかと思っていたよ。結果的に2時間に収まったけれど、別に特別なフォーマットに収めようとムリしたのではなく、たまたま3枚のCD、2つのLPであったということ。とりあえずサウンドが誘導するところへ進んでいき、どうやってリスナーにそれを提供するかは後で考える。すでにもう一枚アルバムを制作できるくらいの素材があるけれど、それがどんな形になるかはまったくわからない。

『The Seer』の"The Seer""A Piece Of The Sky""Apostate"などは組曲的な構成ですが、これらの曲はどのような構想のもと生まれたのでしょう? またレコーディングでは、これらの曲は即興的な要素も含むライヴな手法で録音されたのでしょうか? スコア的なものに基づき、厳密に構成されているのでしょうか?

マイケル・ジラ:直感で構成していく。ほとんどがまずアコーステックギターから始まる。"The Seer" のように規模の大きい、長い曲もそう。バンド・メンバーと仕事をしていくうちに、だんだん成長し、新しい姿が形成されていく。誰かが僕をワクワクさせることをやった瞬間にはそれを追究してみて、それが新しいセクションになったりね。反対に誰かが僕の気に入らないことをすれば、それはカットしようと話す。すべてがそんな感じに育成されていくんだ。核となるミュージシャンたちと基本的な録音が終わった時点で、僕のいわゆるレコード・プロデユーサーという役割がはじまる。曲に何が必要かを想像して、たとえば曲そのものだけではなく、イントロダクションが必要だと判断したりする。"A Piece of the Sky" はまさにそうだった。曲の前半は僕と僕の友人たちが自然に曲を形成、そしてレコーディングして、後半部分に実際のバンド・メンバーが加わったんだ。僕はミュージシャンとして正式な訓練を受けたわけでもないし作曲家でもないから、すべて直感で仕事をしている。そして何ごとも恐れず、ひとつの映画を制作するまでの映画作家のように試行錯誤しながら作業をする。

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もちろんいまも昔もドローンやトーン・クラスターなどに惹かれるけれど、僕にとにかくコード チェンジは気が散ってしょうがないんだ。正直なところ、コードを一回チェンジするのだって気が散ることがある。


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The Seer

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サウンド面についてお訊きします。新生スワンズは通常のロック・バンドのスタイルに加え、ハンマー・ダルシマーやオーケストラ・ベル、ラップ・スティール、そのほか多楽器主義的な編成になっています。スワンズがこのようなスタイルをもつに至った経緯を教えてください。

マイケル・ジラ:友人たちがたまたま演奏している楽器だから取り入れたまでだよ(笑)。でも、特にハンマー・ダルシマーは、開放的な余韻がとても気に入っているし、ベルも同じだよ。どのようにレコードを編成していくかについては、スワンズの基本的なメンバーが演奏を終了してから、その曲が何を必要としているかを想像して、メンバーに声をかけるんだ。ときには楽器ではなくある特定の人物を思い描くこともある。この曲はビル(Bill Rieflin/ビル・リーフリン Honorary Swanとクレジットされているサイド・メンバー。元ミニストリーのマルチ・インストゥルメンタリスト)が必要だ、とかね。僕の親友のビルはこのレコードでおよそ十はくだらない楽器を演奏している。まだ彼がなにも聴いていないうちにスタジオへ飛行機できてもらって、そのときあるがままの曲を聴かせてどう思うかと訪ねてみた。すると彼はじゃあここはピアノの演奏を入れようとか、ここはベースを入れようとか何かしら提案するんだ。でも、すばらしい感受性を持っている彼の存在自体が大切で、僕は彼がどのように演奏しようとかまわなかった。ときには歌ってもくれたしね。

2000年代にアメリカのアンダーグラウンドで盛り上がったドローンはスワンズを雛形にしている部分があると思いました。この意見についてどう思われますか? またドローン、あるいはトーン・クラスター的な音響手法はスワンズにとって重要なものでしょうか?

マイケル・ジラ:たしかに雛形になっている部分はあるかもしれないけれど、審美的、または知的な意味では違う。もちろんいまも昔もドローンやトーン・クラスターなどに惹かれるけれど、僕にとにかくコード チェンジは気が散ってしょうがないんだ。正直なところ、コードを一回チェンジするのだって気が散ることがある。でも、きみが気づいてくれているようにひとつのサウンドは沢山のニュアンスと無限の可能性を秘めている。だからひとつの音をただ持続させているのではなく、僕たちのサウンドには常に動きがある。それは様々な楽器や、モジュレーションを駆使しているからだ。いつも何かが変化している。リズムが変化している。そういう方法をとったほうが効果的に波にのることができると思うんだ。

私はあなたが「The Quietus」というサイトに発表した、13枚のお気に入りのアルバムを拝見しました。ストゥージズ、ドアーズ、ボブ・ディラン、マイルス・デイヴィスらの作品に混じって、そのなかに、ヘンリク・グレツキ、アルヴォ・ペルトというふたりの作曲家の作品をみつけましたが、彼らがともに東欧系であるのは偶然でしょうか? あるいは、たとえば、バルトーク・ベラのような東欧的な作風に何か惹かれるポイントがあるのでしょうか?

マイケル・ジラ:ああ、あれは良いウェブ・サイトだね。そうだな、たぶん惹かれるところがあるんだと思う。昨夜ペンデレツキを聴いていたんだけれど、あれはとてつもない。ああいった感情に極限的なインパクトを与える音楽を好む傾向があるんだろうね。ひとはそれを音楽の暗い面というかもしれないけれど、僕はちっとも暗いと思はない。ただただ感動的だと思う。グレツキの"交響曲第2番"をはじめて聴いたとき、スワンズのサウンドにそっくりだと思ったんだ。でも彼は作曲家だから、もっとサウンドにバリエーションがある。それにあの曲はグレツキの作品の多くがそうであるように、最初はまるで世界の終わりを思い起こさせるようだけど、次第にとても穏やかで美しいものへと流れていく。彼の"交響曲第3番"を聴いたことがあるなら、とても美しい曲だとわかるだろう。あれはなぜか80年代に彼のポップ・ヒットとでもいえるようなものになっていたよね。とにかく、そういったサウンドに惹かれるのはたしかだ。

イスラエルに滞在していたとき、僕のヒッピー仲間が相当な量のハシシを残していった。バカでナイーブだった僕はエルサレムの地元のホステルでそれを売ろうとして、そこを現行犯で警察に捕まって、結果的に3ヶ月半拘留された。

スワンズ、エンジェルズ・オブ・ライト、あなたのソロ名義や〈Young God〉のヴィジュアル・アートワークは印象に残るものが多いのですが、『The Seer』のジャケットを手がけたサイモン・ヘンウッドや過去の作品の多くを手がけたデーリック・トーマスなど、彼らペインターとの関係性と作品に対する思い、またアート・ディレクターとしてのあなたのヴィジュアル・アートワークに対するこだわりを教えてください。

マイケル・ジラ:彼らは僕の友人。サイモンのアートは大好きだよ。ここ数年彼の作品はものすごく成長しているけれど、あらためてなんといったらいいかは......わからないな(笑)。僕は近日行われる彼の結婚式でベストマン(花婿の付添人)を務めるんだから。彼は僕の友人で、彼の仕事が僕は大好きだ。デーリックも僕の良い友だちだけれど、サイモンほどは親しくないかな。彼はちょっとしたアウトサイダーなんだ。アーテイストとして訓練も受けているけれど、アートの世界にはまったく従事していない。彼はブロードモア精神病院で患者にアートを教えているんだ。僕にとって彼はウォルト・デイズニーとヒエロニムス・ボスを組み合わせたような人間だね。

アートワークについてのこだわりはどうでしょう?

マイケル・ジラ:特にこだわりはないよ。でも、良いセンスは持っていると思う。通常イコン的な画像を探すけど、シニカルなことをいうとその作業も一種のブランド化だからね。明確かつ簡潔、即時に目がいくような画像をとにかく中央に配置するようにしている。レーベルとスワンズ両方にとってしっくりくる画像を探すんだ。

ウロおぼえなので勘違いであればお許しください。その昔、あなたのインタヴューで読んだ気がするのですが、あなたがローティーンの頃にヨーロッパをヒッチハイカーとして旅していて最終的にイスラエルでハシシを売った罪で半年も拘留されていたというのは本当ですか? この場をかりてあなたの少年時代の話を是非ともおききしたいです。

マイケル・ジラ:ほぼ本当だよ。子どもころ、家出したんだ。14~15歳だったかな。そのとき僕はドイツにいた。ヒッチハイクしながらヨーロッパを横断し、ユーゴスロビアからギリシャ、そこからトルコに渡った。イスタンブールに何週間か滞在していたんだけれど、お金が底をついてきて、そのころ僕と僕のヒッピー仲間たちが仕事を見つけられるようなところといったらイスラエルだったんだ。だからイスラエルへ彼らと行き、そこでしばらくいっしょに過ごした後、彼らが去って行くときに相当な量のハシシを僕に残していった。バカでナイーブだった僕はエルサレムの地元のホステルでそれを売ろうとして、そこを現行犯で警察に捕まって、結果的に3ヶ月半拘留された。でもイスラエルはトルコと違うし、もちろん恐ろしいことも目撃したし自分の世界観が変わるようなできごともあったけれど、それでもまあイスタンブール刑務所にいれられていたわけじゃないからまだ良かった。拘留されているときに学んだこともある。ひとの行き来が多少あったので独房とまではいかなかったけど、ひとりでいる時間がかなりあって時間というものの大切さと必要性について考えるようになったんだ。機械的な賃金奴隷のような生活に屈服せず、いかに自分の時間を想像力豊かな方法で活用することが大切か分かったんだ。もちろん、僕を含むどんなひとにとってもそうすることが難しいのはある程度は仕方がない。刑務所にいるときは刺激というものがとても制限されるから、とにかくその部屋にいる自分の体に意識が集中して、ときにはためになり、ときには気が狂ってしまいそうだった。ひとつよかったのはたくさん本を読むようになったこと。そういう意味で僕を助けてくれた経験でもあるね。

エンジェルズ・オブ・ライトのリリックはわりと物語的なのに対してスワンズは過去も現在も非常にシンプルな散文詩を唄っているように思われます。その象徴的な言葉を使いはスワンズの名を冠して活動することに対しての重要な要素でしょうか? また、そうであれば過去と現在のスワンズではリリックを書き上げるインスピレーションはどのように変化していますか?

マイケル・ジラ:正直なところ、まだ曲を書けること自体がありがたい。たくさんの曲を書いてきたからかもしれないけど、昔に比べて曲を書くのが難しくなってきた。それにとても忙しくて、刺激になるようなことに費やす時間がない。本を読んだり、映画をみたり、イマジネーションを活性化させる時間がないんだ。でも、スワンズの言葉がどう違うかといえば、断定的ではなくあくまでも一般的に、音楽が襲いかかるように盛り上がってしだいに強くなっていくとき、物語的なリリックを導入するとなんだかがっかりするし、音楽が小さく聴こえてしまうだろう? そういったリリックはなぜか歌い手が中心となってしまうしね。そうではなく、音楽にもう一層積み重ね、聴き手が抱く疑問に答えなくともイマジネーションを活性化させるイメージやフレーズを探すんだ。大きな曲の上に物語を語ろうとすると、音楽が小さく聴こえてしまう。そういう意味でゴスペル音楽に共感するところがある。ゴスペル音楽がどんどん登り詰めていき、最後には同じフレーズを連呼するあの感覚。あれに似たアプローチなんだ。

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もう昔のスワンズの形態には戻りたくないんだ。この新しい形で進んでいきたい。


Swans
The Seer

Young God Records

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私は〈Young God〉Recordsの多くのリリースに魅了されてきたのですが、あなたのプロジェクト以外で今後も新たなバンドのリリースは予定しているでしょうか?

マイケル・ジラ:今のところないな。しばらくはないと思う。スワンズの活動で忙しいから、レーベルの他のアーテイストに時間を費やすことができないし、音楽業界の経済状勢もご存知の通りだからね。残念だけど、あまり有利な仕事とはもういえないかもしれないね。

デヴェンドラ・バンハート、アクロン/ファミリーなどのアーティストから、あなたが影響を受けたことがあるとすれば、それは何ですか?

マイケル・ジラ:特にないな。でも、いろんな意味でインスピレーションを受けた。おもに彼らの魔法のような独創力、それに彼らの若さとやる気にね。いまは彼らも年を取ってしまったからそうでもないかもしれないけれど(笑)、シニカルなところが一切なく、音楽をつくってレコーディングすることを心から愛しているひとたちと仕事をすることは当時とてもインスピレーションを受けた。もちろん、いまあげたアーテイストたちは非常に才能があったし賢い人たちだったから、とても価値ある経験だったよ。

『The Seer』には、前作にひきつづき参加したマーキュリー・レヴのグラスホッパーのほかにも、ヤー・ヤー・ヤーズのカレン・O、ロウのアラン・スパーホウクとミミ・パーカーなどが参加しています。彼らが参加した経緯を教えてください。またスワンズの子どもたちともいえるミュージシャンが活躍する現状を、結成から30年経ったいま、あらためてふりかえって、どう思われますか?

マイケル・ジラ:先ほど話した通り、僕はレコード プロデユーサーなので音楽を客観的に見るように心がけているんだ。自分の作品だからうまくいってないかもしれないけど。スワンズの基本メンバーと僕以外の人材が必要だと思ったときは、彼らを招くようにしている。例えば、僕は"Song For A Warrior"を歌っているとき、自分の声がひどいと思ったんだよ。曲にまったく合っていない。良い曲だと思ったけれど、僕の声ではダメだった。この曲はある意味、僕の6歳半の幼い娘に向けたラヴレターであって、つまり僕が死んだ後娘に聴いてほしい曲なんだ。だから他のひと、あるいはどこか母性的な声の持ち主に歌ってほしかった。ソロで歌っているときのカレンの声は本当に温かくセンシュアル、セクシーではなくてセンシュアルな歌声だと思うんだよ。彼女ならぴったりだと思ったから歌うのをOKしてくれたときはとてもうれしかった。アランやミミもいうまでもなくすばらしい。彼らは造物主との直接的な繋がりがあるんじゃないかと思うほどだよ。アランは何年も知り合いだし、彼は僕が住んでいるここニューヨーク州北部の近所に住んでいるんだ。スワンズの子どもたちについては、彼らが心から愛していることを仕事にし、生活できているのを見るのはとても幸せだよ。おかしいけど、デヴェンドラに初めて逢ったとき、彼は文無しだったんだ。家もない状態だったけれど、一年、一年半経たないうちにミュージシャンとしてある程度の生活を維持できるようになって、それを見ているのはとてもうれしいことだったよ。

ジャーボーは『The Seer』にゲスト参加していますが、ライヴで共演することはないのでしょうか?

マイケル・ジラ:たぶんないな。ゲスト参加してくれたのはうれしかったけれど、もう昔のスワンズの形態には戻りたくないんだ。この新しい形で進んでいきたい。

ジャーボーといって思いだしたのですが、あたなと彼女はかつてスキンというユニットをやってましたよね? 「スキン」というのは、あなたの作品に頻出する単語でもあります。これはある種の身体と境界を意味すると思いますが、あなたはこの言葉に何を託されていますか?

マイケル・ジラ:フハハハ。僕は、Skin は脱ぎさる(脱皮する)ものだと強く信じているんだ。

現在のアメリカ政府の社会保障政策、とくに医療保険改革、銃規制に、あたなは賛成ですか反対ですか?

マイケル・ジラ:僕は(U2の)ボノではないから演説する気はいっさいないけど、個人的な意見としては、われわれは北欧をモデルとした社会主義を目指すべきだと思う。より穏健な世界へ繋がる道は、一種のリベラルな社会主義であると思う。この場でたしかなことはいえないが、(アメリカには)たぶん希望は持てないだろう。われわれは彼らほど聡明でないし、確実に国としての統一性(団結)もないからね。

オリジナルメンバーであるハリー・クロスビー氏に、心よりご冥福をお祈りいたします。何か彼との印象的な思い出があればお聞かせください。

マイケル・ジラ:ハリーには20年もの間逢っていなかったけれど、印象的な思い出といえばこの間ジャーボーも話していたことがある。ハリーはスワンズが活動しはじめたころはものすごい酒飲みで、メンバー全員そうだったけど彼はとくに過激でたくましい人間だった。80年代マンハッタンのアルファベット・シテイと呼ばれていた地域のアパートにいっしょに住んでいたころの話。ジャーボーと僕はベッド・ルームにいたんだけれど、廊下からものすごい音がしたと思うと、ドアが閉まって何かがぶつかる音がしたんだ。そのころ、近所には焼き尽くされた車があちらこちら路上に乗り捨てられていて、酔っぱらったハリーは笑いながら車の前方を取り外し、頭の上に持ち上げたままそれをアパートに持ってきて自分の部屋に放り投げたんだ。その後彼は酔いつぶれて、次の日目が覚めると「あれはなんだ?」と。ハリーは怪力だったから、なんだかムシャクシャしていたのかわからないけれど、あるとき酔っぱらって道路のマンホールカバーを持ち上げて窓に放り投げたこともあったよ。しかし同時に彼はとても知的なヤツで、賢いとても頭が切れて話し上手だった。よく移動中のバンの中でみんなでワード・ゲームをしたんだけれど、いつも彼が勝ってたのを憶えているよ。

あたながいまもっとも大切だと思うもの/ことは何ですか?

マイケル・ジラ:それはちょっと個人的な質問だけど、もちろん音楽と僕の子どもたちだよ。

2月19日の日本公演を楽しみにしております。来日公演にかける意気込みをお聞かせください。

マイケル・ジラ:日本に行くのがとても楽しみだ。最後に訪れたのはたしか20年前だったかな? ショウは独自の命をもっているから、あえて日本に合わせられるかはわからないけど、演奏する僕らと同じように、観客のみんなも純粋に心を動かされるショウになることを願っているよ。(了)

みんなサイボーグ

もう若い子にとっては音楽は何らかの付帯情報、映像だったり、写真やイラストだったり、サンプリング・コラージュだったり、そういった情報要素が混ざった集合体として捉えられていくのかもしれませんね。(佐々木)

サンプリング自体、90年代から00年代のある時期まで、厳しい著作権の監視下によって表に出れなかったんですけれど、ネットの普及とともに、サンプリング文化自体がまた盛り返しているのも面白いですね。(野田)


HMOとかの中の人。(PAw Laboratory.) - 増殖気味 X≒MULTIPLIES
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初回盤 通常盤

野田:ダークスターという、ダブステップ・シーンから登場したバンドが2009年に出したシングルに“エイディズ・ガール・イズ・ア・コンピュータ(エイディの彼女はコンピュータ)”という曲があります。当時ヒットしたし、評論家受けもしたエポックメイキングな作品なんですけど、これが初音ミク的にコンピュータのソフトウェアに歌わせた曲でしたね。それまでダブステップに歌がのる場合、たいていはR&B調のヴォーカルだったんですが、ダークスターはコンピュータのソフトが合成する声に、アンニュイなシンセポップを歌わせたんですね。
 今回、佐々木さんにお会いするので、僕なりにミク的なものを考えてみたんですけど、いろいろありました。そもそも、エレクトロニック・ミュージックのこの10年は、「声の10年」だったとも言えるかもしれないんです。たとえば、ジェイムス・ブレイクの“CMYK”、この曲の元ネタがケリスの“コート・アウト・ゼア”とアリーヤの“アー・ユー・ザット・サムバディ”だということはいまでは知られていますが、最初は誰の声かわからないほど加工されていました。
 こうした声ネタ加工が流行した発端は、レイヴ・カルチャーだったんじゃないかと思います。たとえばプロディジーは、声ネタのサンプリングを子どもの声になるようなハイピッチでやって、そのまま使って馬鹿馬鹿しさを出した。DJスクリューはまったくその逆で、速度を落として再生して、お化け声みたいものを面白がった。ダブステップ世代になると、たとえばブリアルなんかは、バカみたいな甘々のラヴ・ソングR&Bの言葉を幽霊のような声に加工しているんですね。00年代以降のポップスの主流はR&Bなわけですから、日本で言えばエグザイルみたいな連中の曲の歌の断片をリエディットして、意味まで別にものにしているんですね。そのいっぽうで、R&Bの泣き虫(ウーピー)系は、カニエとかドレイクとか、オートチューンを使いまくっていました。ポップスのサボーグ化とういか、ポップスのなかで声の加工という領域がここまで盛んだったことは過去になかったように思います。昔は、ギターが生から電気になっただけで騒がれたほどで、声は生にとって最後の領域だったと思いますが、それがいよいよ大々的にサイボーグ化している。
 そういうなか、メデリン・マーキーは最新型です。彼女は、ヴォコーダーを使って小鳥のさえずりのような音を出すんです。かつて戦争兵器として使われたなんて考えられない、というようなすばらしい使い方です。僕なりに初音ミクに繋がるような、いろいろレコードやCD持ってきたんですが、これがまずその1枚です。
 もうひとつ、音楽作品というのが、ソフトウェアとなったというか、ソフトウェアとしての音楽作品というのを実践したのが、ビョークが去年リリースした『バイオフィリア』でしたね。これは、アプリとしても制作・販売しています。それによって1曲1曲をインタラクティヴに楽しめるというのが彼女のコンセプトでしたが、これは、ソフト開発というものが技術屋ではなくて、アーティストの仕事になっていくという事態を象徴する作品だったと思うんですね。この道ではそれこそモノレイクが先駆的に、ソフトウェアの開発者でありIDMの作家であり続けていますが......。そういえば、昔、ローランドの909の発案者に取材で会いに行ったことがあったんですが、開発者はふつうに社員なんですよね。でもこれからはそうじゃなくて、909を作った人がアーティストになるようなことです。
 それから、もうひとつ、ヴェイパーウェイヴという新しいジャンルがあって、これもある意味初音ミク的というか......、いや、ミクのジャンク・ヴァージョンのように思います。アメリカ人ですが、日本語を多用していて、それも適当な翻訳ソフトで翻訳したであろう、壊れた日本語になっています(笑)。
 ヴェイパーウェイヴのサンプリング・ネタのほとんどはユーチューブであったり、ネット上に落ちているものです。作品自体は凡庸で、とくに新しいわけではないんですが、ネット上の海賊盤の交流会みたいな感じが新しいんです。ヒップホップのミックステープと違って、自分の音楽の売り込みのためにやっている感じではないんです。むしろ売る気がぜんぜんないというか、まったくやる気がないというか、「がんばれば君もポップスターになれるかもしれない」という夢をいかがわしい虚妄として見せているようにも解釈できるので、反資本主義などと評価されたりするような、デジタル時代のカオスがあるんですね。しかも、外から見た日本のイメージがかなり偏ったカタチで流用されています。ヴェイパーウェイヴでは、日本のアニメやオタク文化は、健全なアメリカ社会がもっとも望まないであろう、忌まわしきアイコンとなっているようなんです。ミクはアニメじゃありませんが(笑)。とにかく、やってしまえという感じでやってしまって、いまいちばん意味を求めているシーンです。
 もう1枚紹介させてください。メイン・アトラクションズです。クラウド・ラップというジャンルに分類される、USのラップ・グループです。この「クラウド」という言葉はサウンド・クラウドとかのクラウドです。やはりいろんなところから音を引っぱってきて、ルーピングしたりする。ギャングスタなのに、パフュームなんかも使っているほどです(笑)。〈タイプ〉というUKのアンビエント系のレーベルからも1枚出てるんですけどね。
 サンプリング自体、90年代から00年代のある時期まで、厳しい著作権の監視下によって表に出れなかったんですけれど、ネットの普及とともに、サンプリング文化自体がまた盛り返しているのも面白いですね。

佐々木:声から受ける情報は、人間にとって他の音とは比較にならないほど大きいし、重要ですから、エレクトロニック・ミュージックにしろ『声を扱える可能性』を持っていた時点でこうなる運命だったのだと思います。ヒップホップとか、ドラム+語りですしね(笑)。野田さんが言及されている声にまつわる音楽は自分にとっても興味深いです。ダークスターなどダブステップの拡散の中で、声の効果的な活用法というのは先鋭化されているのは音楽の流れとして必然と思いますし、メデリン・マーキーなどドローンのソースとしての声は、「動物の鳴き声」を掘り下げるような試みで、意味深に聴こえます。声の応用でサウンドメイクしているという情報と、波長が強調された音像が相まって身体的・肉感的な音楽に聴こえますね。まぁ妄想ですが(笑)。
 ヴェイパーウェイヴなど動画共有サイト時代のサンプリング感覚に関しては、おっしゃるとおりにもう時代は変わってしまっていて、情報=音源に関する認識も変わっていっているなと思います。もう若い子にとっては音楽は何らかの付帯情報、映像だったり、写真やイラストだったり、サンプリング・コラージュだったり、そういった情報要素が混ざった集合体として捉えられていくのかもしれませんね。それが「初音ミク的」と呼ばれるのであれば、同時代的なのだろうなと。親戚みたいな感じでしょうか。

野田:高周波数のサンプリングが一般化していく一方で、ロービット・サウンド熱も高まっていますよね。チップチューンとかね、一部の人たちがゲームボーイで音楽を作りはじめました。むしろ8ビット・サウンドがかっこいいんだという。その種の反動というのは必ずあるもので、もしかしたら初音ミクを用いる人にも無意識にそうした傾向があるのかもしれないですね。エイフェックス・ツインがジョン・ケージをカヴァーするいっぽうで、ガバをやるようなものです。

佐々木:そうですね、そこは表裏になっているなという感じもしていて、ロービット・サウンドの前にも、パトリック・パルシンガーのバキバキに歪んだテクノとか、エリック・Bのモコモコしたビートとか、そこまで音を悪くしなくていいでしょう? というくらいダンゴになったようなサウンドの人たちがいましたよね。昔はそれ自体が作家オリジナルであり異端でした。ユーチューブからのサンプリング・コラージュも、たぶん15年前だと〈ロス・アプソン?〉とかが世界中から集めて売っていたような、変態的な(笑)人々の音楽、というような認識しかなかったわけで、変わりましたよね。昔は、アナログ作業的でマイノリティでしかなかったものが、いまだと別の意味性を帯びてコラージュされたりしているわけですから。
 とにかく、変な音とか、気になる音とか、音に対して行き過ぎた興味を持っていくと、どういうふうになるんだろう? という好奇心が自分のなかにはあって。自分はそもそも音に対する捉え方が狂っていたなと思います。そういうなかで、初音ミクというのは、それまで自分のなかでイメージしたことのなかった「機械による可愛い声」を目指したものでもあったんです。でも、その「可愛い」自体がちょっとズレていたんですけどね。自分がアニメなどのカルチャーに詳しい人間だったらいちばんには選ばないような、基本「歌わない」人をセレクトしたし、自分が声優ファンではないからこそ、テンションの低いディレクションをしたんだろうなとは思います。
 余談ですが、自分が聴いた声の加工のなかでいちばん怖かったのは、エイフェックス・ツインが竹村延和の『チャイルズ・ヴュー』のリミックスでやってたものですね。あのなかで、声のピッチをグニャグニャにいじってすごく綺麗でロリータっぽくしている部分がありますが、あれは狂気です。綺麗で可愛い声を、暴力的に扱っている感じが怖かったですね......。

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『D.o.A.』、ポルノ、初音ミク

(藤田咲さんの声は)「個人性=我」の強い声だなと思ったんですね。濃いと思ったわけです。それを録って、ぶった切って、ボーカロイドに入れて、ボーカロイドの声として出てきたときはその自己主張のところがバラバラに崩れて、「そもそも自己主張が強かったもの」の残骸として出てくるんですよね。(佐々木)

次のボーカロイドは、モチーフがDX-7からEOSになっていたので、肌が白くて金髪だったんですけど(鏡音リン・レン)、アメリカ人から見れば、ロリータ声でこのヴィジュアルだと道徳的にあまりにひどいから、すぐにやめてくれと。(佐々木)


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野田:なるほど。女性の声を選ぶときに、セクシーな大人の声か、ロリータかという選択肢があったと思うんですけど、少女っぽいほうにしたのはなぜなんですか?

佐々木:ロリータ系の声というのは、いっぱい聴いたんですよ。要は声優さんの声って、ロリータのヴァリエーションの宝庫だったりするわけなので......。いろんな声を聴きましたが、この藤田咲さんというのは、ある種、演じるというより少々感情的に声を前に出すのが強い演者さんで。「個人性=我」の強い声だなと思ったんですね。濃いと思ったわけです。それを録って、ぶった切って、ボーカロイドに入れて、ボーカロイドの声として出てきたときはその自己主張のところがバラバラに崩れて、「そもそも自己主張が強かったもの」の残骸として出てくるんですよね。それが個人的にはおもしろいなーと思っていて。ある意味では、素人性みたいなものにフォーカスしたところがよかったなと思っています。

野田:そこに挑発はなかったですか? たとえばイギリスは、ロリータに対して厳しい国です。イギリスの友人が日本に来てモーニング娘。を観たときに怒り狂ってました。「ありえねえよ!」って(笑)。多くのイギリス人はAKBにも怒るでしょう。マッシヴ・アタックの3Dが反イラク戦争のデモに参加して、反ブレアを訴えていた頃、当局は彼を幼女ポルノ画像を集めていた罪で逮捕しましたからね。ドラッグよりもロリータのほうがスキャンダルなんです。

佐々木:初音ミクの次、2作目(鏡音リン・レン)を作っていたときに、頻繁に電話をかけてくる人はいましたね。次のボーカロイドは、モチーフがDX-7からEOSになっていたので、肌が白くて金髪だったんですけど、アメリカ人から見れば、ロリータ声でこのヴィジュアルだと道徳的にあまりにひどいから、すぐにやめてくれと。真剣に何度も説得されました。そんな電話対応の記憶もありますね(笑)。

野田:佐々木さん自身はどうなんです?

佐々木:それこそモーニング娘。があり、その前の東京パフォーマンスドールがあっておニャン子クラブがあってという流れ、「若さ」とか「生命力としての鮮度」を誇張するトレンドのなかで、ロリータというのは重要な記号にどんどんなっていっているんだろうなとは思います。コンビニエンス・ストアなんかに行くと、アダルト雑誌のコーナーなんてとんでもないことになっているわけじゃないですか。のどかな田舎も含めた日本全国。そういうものがすごくノイジーだなとは思いますね。自分が中学生の頃にレンタルビデオ店でデスファイルってのが流行ってたんですけど酷い国だなと思いましたね......(苦笑)。

野田:スロッビング・グリッスルの『D.o.A.』もそうですよね。あのジャケットは、当時イギリスではずいぶんと物議を呼んでいるんですよね。幼女のパンツ姿が映っていたからです。タブーだからこそ彼らはやったわけです。

佐々木:スロッビング・グリッスルって「脈打つ男根」って意味でしたっけ(笑)。小難しい空気もありつつ、小学生男子のスカートめくり的というか、直感的におもしろがってやっている風というか、彼らはファンキーですよね。それを喜ぶリスナーも、まぁ子供っぽいというか直感的ですよね(笑)。ストック、ハウゼン&ウォークマンで、おもちゃと性器がコラージュされているような、いたずらの感覚に近いと思いますね。そもそもノイズやコラージュと、ファッションやロリータ、エロって親密じゃないですか。カエルカフェの白石さんや、嶽本野ばらさんや、ディアステージの喪服ちゃんとか、皆さんそんな要素を持っている方が、90年代~00年代の東京アンダーグラウンドに根付いていた。
 たとえば実験音楽のCDショップに行ったらもっとひどいものあります。部屋のなかにレコードをざーっと敷き詰めて、その上で猫とか豚とかを殺しまくって返り血を浴びせまくった返り血レコードだったり、豚の頭の剥製で鼻ところにカセットテープがポコッとはまっていたり、っていうジャケットとかですね。刺激的で目立てばなんでも良い世界(苦笑)。自分は、10代の頃にサウンドアートにハマってしまった関係で、それはそれで表現の極北っていう感じがあったので......。全部、人間の所業として存在するものと感じます。 
 ただ、アートとしてのエログロと、コンビニでエロマンガだとかDVDだとかが無造作に並んでいるような状況は、それはまたべつの次元ですごいものだな、とは思っていて。そのあたり、インターネットで気軽に検索してはいけないワード(惨殺動画~グロ動画)とか、xvideos(何でもありのエロサイト)とか、いろんなものをキャーキャー喜んで見ることができるというような状況が一般的になっているのはアングラ文化ではないわけで。もしくは世界中がアングラを気にしないようになったんですよね......。特に日本は性的な興味関心の部分ではずっと先取りしていたんじゃないかなというようなことは感じます。CD-ROMが安くなった時点からコンビニにはハッキングまがいの裏ツール本とか、エロデータ本とか、そういうものが並んでいたわけですから。
 それに、日本のエロマンガとかのデフォルメの仕方もそうですよね。日本のなかの性的暴力と幼児退行みたいな感覚は、物心ついたころからそのへんに兆しがあふれていたし、音楽でもマゾンナやゲロゲリゲゲゲ、もしくはへーターズ的なアートもノイズ文化として一部で支持されていました。自分のなかでは、そうした極端な表現や破滅的な表現の傾向は、個人の好き嫌いに関係なく、すでに世のなかにあるものとして考えています。だから自由という暴力がまかり通るインターネットの時代に「目立てばなんでも良い表現」がクローズアップされてしまうのも、現状しょうがないし当たり前のものになっていくのだろうな......としか言いようがありません。

YouTube(=海)の向こうの初音ミク

インターネットで、世界同時にいろんなものが見れてしまうという環境のなかで、いまの10代の子たちの感覚っていうのは、けっこうクォンタイズされてきているという気もします。みんな似たような感覚で、似たようなものに注目している。(佐々木)

野田:初音ミクは海外でもかなり多くの人に受け入れられていると聞いています。ライヴでも、アメリカや台湾ですごい人数の現地の人たちが日本語で歌っているとか......。

佐々木:これはほんとにショックですよ。日本のライヴよりも、アメリカや台湾のライヴのほうがお客さんが熱狂してるんですよ。日本人は比較的冷静というか、精鋭のファンたちが集まってるといった感じになってるんですけどね。日本では、みんなで作ってみんなで選別してっていう、ウェブ上でみんなが育てた実感のあるインタラクティヴなカルチャーが、台湾や西海岸の人たちには変なバイアスがかかってハイパークールジャパン(笑)みたいに受け入れられている。日本からとんでもないカルチャーが出てきた、みたいな感じですね。それに、インターネットで、世界同時にいろんなものが見れてしまうという環境のなかで、いまの10代の子たちの感覚っていうのは、けっこうクォンタイズされてきているという気もします。みんな似たような感覚で、似たようなものに注目している。ユーチューブの再生数であるとか、ものの注目のされ方、ネットの構造みたいなところにそれが表れている。みんながどういうふうに時間を使っていくのか――学生は時間があるわけじゃないですか、そんな子たちが見ているものが、似てきていると思うんですね。世界同時に。自分もたまにユーチューブのアクセス解析みてみるのですが、初音ミクはやばいです......。

野田:やっぱ、エクストリームなものとして受け入れられてるんでしょうね。ホントに『D.o.A.』ぐらいに、キリスト教的な縛りから解放しているのかもしれませんよ(笑)。向こうのマッチョイズムは日本なんて比較にならないぐらいすごいから、その分、ナードなものがカウンターとして機能して、熱狂を生んでいるのかもしれませんね。

――いま佐々木さんがおっしゃったなかには、日本の中高生も海外のティーンの子たちも、ウェブで見聞きする情報に対しては同質な視線やリアクションを持っているのではないかという問いが含まれていましたが、そのあたりはどうですか?

野田:初音ミクがこの先、どこまで広まっていくのか興味がありますね。テクノは、00年代以降もさらに国境を横断しています。ジャカルタとか、イスタンブールとか、サンパウロとか、イスラエルのガザまで。ケン・イシイが海外のレーベルから出て、「テクノは国境を越えた」なんて言ってましたけれど、まだまだ欧米文化圏のなかでの話でした。それが最近はさらに多様な文化圏を横断しています。僕は初音ミクのグローバリゼーション......というと語弊がありますが、その広がりに期待したいですけどね。あれで世界中を腑抜けにさせるとか(笑)。

佐々木:まぁ、腑抜けという表現は鋭いですね(苦笑)。自分の立場でいうと、逆に従来のロックやテクノがいまとなっては真面目な硬いカテゴリー過ぎるんだと思うところがあります。今後、大多数の電子音楽が気になるような若者たちは、ゲーム音楽とテクノと初音ミクのエレクトロニカ風ポップスを区別しないでしょう。テクノには、チルアウトなアンビエントがありますが、リラックスする聴き方はあっても、ユーモラスだったり、ジョークだったり、もしくはプリティだったり、日常的な表現は少なかった気がしますね。 昔、電気グルーブがプッシュしていた、ポンチャックっていう、韓国のテクノ歌謡がありましたが、あんなテイストは本当に少なかった。ポンチャックのような、日本で言うところの嘉門達夫もしくは昔の電気グルーヴやスチャダラパーの言動のような「緩さ」や「日常のなかの感覚」は、いまの他のジャンルの音楽に本当に少ないですよね。それが、ニコニコ動画や初音ミク・カテゴリーではすごく上手く取り上げられていて、他のエンタメにない魅力の一部として確立されつつあります。ただただ、ひたすらに需要があったのだと思います。

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音楽カルチャーの敷居

同人音楽やボーカロイドなんかは、とっかかりの敷居が低い上に、コミュニティへの入り方も整備されているので、新しいファンやクリエイターへの受け入れ態勢があるんだと思います。これからの若い子が、アートをリアルに思えるかどうかって、自分「たち」との距離感で決まると思いますね。(佐々木)

だから、初音ミクを好きな若い人にも、いつかデリック・メイやオウテカを聴いてほしいと思っています。それで、「なんでこんな音楽に昔の人は涙したのだろう」と不思議に思ってくれれば幸いです。(野田)


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野田:佐々木さんの昔のインタヴューを読んでいたら、ムスリムガーゼという名前まで出てくるからびっくりしましたよ。その名前はよほどのハードコアなリスナーでないと出てこないです。「この人のテクノ愛はハンパじゃない」と思いました。彼らはマンチェスターのIDM系の人たちですよね。10年以上前ですが、イラン女子卓球チームのテーマ曲を作っています。イスラム文化の女性の服装規制に抗議するためにね。

佐々木:ムスリムガーゼは、本当にイスラムという文化的なコンセプトを最後まで貫き通していてカッコ良かったです。ヒーローですね。あの多作性も含めて個性が強すぎて、シーンとか、テクノ・カルチャーから切り離されているのもイイ。やっぱり自分はY.M.O.やクラフトワークからテクノを聴きはじめたわけではないんで、電子音楽の歴史観はちょっと狂ってますね。まず、『アンビエントワークス』とか、ピート・ナムルックとか、『ガーデン・オン・ザ・パーム』とかから超個人的な妄想っぽい音楽から出発していて(笑)。ベットルーム・テクノというより、夢のなかのグニャグニャしたエフェクト音を聴いていた気がします(笑)。「これは何なんだろう?」という驚きのようなものが根元にあるんですね。『高城剛X』って深夜番組でタンツムジークを聴けた変な時期(笑)。抽象的なものが尖っていてカッコイイんだなぁとも思ったし。クールにぶっ飛んでれば、作家として認められるんだーとも思いましたね。いま思うと結構勘違いですが(笑)。ともあれ、自分としてはテクノは自由で、発展途上の可能性があって、カッコイイ! とすんなり思えたんですね。これはとても重要だった。
 いまの若い子たちは、物心ついた頃からジャンルも細分化していて、いろんな名称で呼ばれるいろんな音楽があるわけですよね。しかも新しい手法的は結構出尽くしていて、テクノにしても『音の新しさ』『新しい流行』みたいな単純な評価軸は少なくなっている。しかもテクノやハウスのコア・ファンやメディアはコマーシャルな音や、ポップ過ぎる音を無視する風習もあるじゃないですか? なので、敷居の低いテクノ風のゲーム音楽やジブリのリミックスなんかから入った子が、気軽にジャンルにのめり込める環境がなかったりする。
 同人音楽やボーカロイドなんかは、そういうとっかかりの敷居が低い上に、コミュニティへの入り方も整備されているので、新しいファンやクリエイターへの受け入れ態勢があるんだと思います。これからの若い子が、アートをリアルに思えるかどうかって、自分「たち」との距離感で決まると思いますね。既成のシーンのような、すでに確立されてしまっているムラ社会に入りこんでいって評価されるのは難しいよね、っていう気持ちもあるでしょうしね。で、敷居が低くて、かつ面白い音楽やショートムービーが、動画サイトなんかで世界の一般向けに増幅されて伝わっていくという流れになっているのではないでしょうか。
 結局、アニメ・ソングだって、みんなが知ってるものだからみんなで盛り上がれるというだけであって、ジャンルではないです。初音ミクの曲だって、実際のところ初音ミクに歌わせなければならない曲なんていくつあるか知れたものではないんですが、ミクが歌っているという共通意識があればそこから入っていきやすくなります。それに初音ミクの曲は無尽蔵にありますから、それを網羅している評論家や、決定的な評価軸がないんですね。ですから、ミクを語るということについてはすごくゆるい状態があります。ミクについて、ボカロについて、自分の知っている断片的な情報から好きなことを言えばいい。そこが、若い人にしてみれば「ウザくない」ということになるんだと思います。その傾向が発展していけば、AKBがJ-POPビジネスを破壊したように、ボカロが20世紀ルーツの音楽評論の一部を破壊することにもなってしまうんですが。とにかく、若い人にとっては初音ミクの声が気に入らなくても、この音楽を聴くことはウザくないんです。それはもしかすると日本でも海外でもいっしょなんじゃないか。僕はそういう部分を「アリかもな」と思いつつ、一方ではさびしいなと感じています。

野田:商業的には大成功なわけですから、佐々木さんのなかにその葛藤があるのは、変な話ですが、良いですね(笑)。ヴェイパーウェイヴなんか、ポストモダン的な面白さはあるけど、音楽の快楽性ということで言えば、まあ、聴いてとくに面白いものでもないんです。僕の父は修行を積んだ板前だったこともあって、ずぶの素人でもマニュアル通りやれば料理として売れるファミレスのような文化には抵抗があります。だから、初音ミクを好きな若い人にも、いつかデリック・メイやオウテカを聴いてほしいと思っています。それで、「なんでこんな音楽に昔の人は涙したのだろう」と不思議に思ってくれれば幸いです。もちろん、だからといって、素人がモノを作るってことは、絶対に否定できないもので、僕も下手の横好きでしたが、音楽を作るのが好きでした。サッカーだって、観るのもいいけれど、下手でも自分でプレイすることも楽しいわけで、初音ミクのヒットは創作の快楽ともうまく結びついているんじゃないかと思います。

佐々木:テクノの価値基準は特殊で、オウテカなんかは現代音楽的だったり芸術的とも言えるわけですが、一般的な商業音楽って、いつしかTVドラマのタイアップで恋愛を彩るように仕組まれているものが多くなり、CMとか、アニメの主題歌や、メジャーなゲーム音楽は、ある種プッシュ型で大勢の耳に届くように構造設計されている。「よく聴く音楽って、どこかの企業が、リスナーというか消費者に聴かせるもの」になっているわけです。若者にとって刺激的でカッコイイとされてきた音楽が、メディアや代理店の都合で調整されているなんて、音楽とプロモーションの歴史的な難しい事情を知らない若い人からしたら、酷い話じゃないですか。自分はボーカロイドの音楽とリスナー、支持者の心理はそういったTVを中心としたメディアギミックへのアンチテーゼなのかと思う所もあります。強いて言うなれば、ニコニコ動画の音楽は、皆で雰囲気を楽しむお祭りの音楽や、皆で合奏して踊ったり騒いだりするラテン系の音楽にも近い。視聴者が受け身になる商業音楽に対して、ネットの音楽は視聴者のストレス発散要素が高い。ボーカロイドの周辺のムードというのは、良い意味でしきたりが無いと思うんです。既存の音楽ジャンルでは上の世代の耳や先輩のアーティストを気にしながら、ジャンルに入っていこうとしても入口は狭いし、まず、先駆者や功労者が飯を食えるようなピラミッド型の仕組みになっている。それでいてメジャーなスポーツほど後続を育てて引き立てる仕組みになっていない。はっきり言っていまの若い人って才能があっても既存の音楽ジャンルの枠で活躍していくのはかなり難しいですよね。音楽に限らず、ダンスでも映画でも同じ。スポーツみたいに「身体の衰え」が表面化しないジャンルは、そういう傾向だと思います。
 ただ、ボーカロイドというのは、シンガー自体が虚構ですから、それを取り巻く付き合いがなく、しがらみが弱く、若い発想で何か表現をしたい人たちが、何かに入っていくためのポイントとして、可能性を見せてくれていると思っています。過去と未来を歴史的につないでいくような、積み上がっていくものじゃないもの――断片化して集合化して、それでもジャンルいうかテリトリーとして成立するような見え方・あり方というのは、今後重要になっていくのかなとは思います。

「コンセプチュアル」ではない、コンセプトを

ボーカロイドの音楽とリスナー、支持者の心理はそういったTVを中心としたメディアギミックへのアンチテーゼなのかと思う所もあります。強いて言うなれば、ニコニコ動画の音楽は、皆で雰囲気を楽しむお祭りの音楽や、皆で合奏して踊ったり騒いだりするラテン系の音楽にも近い。(佐々木)

ロックやポップスというのは、極端なことを言えば、「そいつがどんなことを言っているのか」という文化だと思います。テクノというのは、聴覚の愉しみを追求した文化です。では、テクノの 次に何があるのかと考えたときに、コンセプトじゃないかと思ったんですね。(野田)

野田:三田格と『TECHNO definitive 1963-2013』を書いたんですが、テクノって何だろうって考えて、僕は、それは「聴覚の歴史」じゃないかと結論づけたんです。クラシックは譜面(作曲家)の文化、ジャズは演奏者の文化ですよね。レコード店でも演奏者別に区分けされています。ロックやポップスというのは、極端なことを言えば、「そいつがどんなことを言っているのか」という文化だと思います。テクノというのは、聴覚の愉しみを追求した文化です。では、テクノの次に何があるのかと考えたときに、コンセプトじゃないかと思ったんですね。いま、ロンドンにハイプ・ウィリアムスという男女のふたり組がいます。インガ・コープランドというロシア系の白人女性とディーン・ブラントというアフリカ系の男性ですが、まず、ハイプ・ウィリアムスという名前は、すでに実在する有名な映像監督の名前なんですね。で、インガ・コープランドとディーン・ブラントという名前も偽名、昨年、『ワン・ネイション』というアルバムを出していますが、真っ白がレコードがあるだけで、タイトルも曲名は一切なし、盤にも「818/1000」といかにも限定版を思わせるシリアル・ナンバーが入っていますが、これもたぶん大嘘なんですよ。

佐々木:そこまで行くと徹底的ですね(笑)

野田:2012年は『ブラック・イズ・ビューティフル』というアルバムを出したんですが、そのタイトルはどこにも書かれていないんです。代わりに「エボニー」と書いてあります。すべてデタラメなんです、ひとつもたしかなものがないんですね。アイロニーとも解釈できます。彼らは、音楽性がどうかというより、コンセプトが面白いんです。さっき言ったヴェイパーウェイヴにも似ています。音自体やスタイルではなくて、コンセプトに新しさを注ぐというやり方は、これからもっと出てくるんじゃないかと思います。
 さっき佐々木さんがいまのテクノは敷居が低くないって意味のことを言ってましたが、たしかにその通りで、出てきたばかりのテクノは敷居がもっとも低いジャンルでした。それが20年経って、熟練の域にさしかかってしまっています。「うまい」「下手」というのが、素人にもわかるようになっているんです。敷居が低すぎるのも、古本屋がブックオフみたいになって嫌なんですが、テクノがブルースのギター教室のように制度化されたら、それはそれでマズいと思います。エイフェックス・ツインがガバをやるのも、いちどそれを破壊しないと、昔のような自由な感じにはなれないということをわかっているからでしょう。ホアン・アトキンスが、エレクトロにディストピアというコンセプトを加えたことでデトロイト・テクノが生まれたように、いまは新しいコンセプトが求められているんだと思います。

佐々木:パンクとか、ダブとか20世紀的なジャンル・コンセプトは確実に真新しさが無くなってますよね。定着したので当たり前ですけど。コンセプトは必須ではないと思いますが、どんなジャンルのエンタメでも一定条件を満たす「コンセプト」がないと新しい世代の若者にどんどん無視されていくような気がして気になります......。昔はテクノと言っただけで、一般の方もコンセプトは認識してましたよね。「低音がドンドンドンドンってやつ」みたいな。そういえば、当時聴いていたもので、日本で作られた、はっちゃけたコンセプチュアル・ミュージックとしては、アステロイド・デザート・ソングスっていう......

野田:あははは、すごい、よく知ってますねー(笑)。

佐々木:はい(笑)。あれは自分のなかで大きなショックのひとつなんですが、好きか嫌いかで言えば、最初はすごく苦手だったんですね。フリージャズなんかもそうですが、コンセプトが強すぎてクオリティが低い気がした。無音のレコードとかなると、もう訳がわからないし(笑)。

野田:決して新しいとは言えませんけどね。「コンセプチュアル・ミュージック」ということになると、それこそジョン・ケージは先駆者だし、マイルス・デイヴィスやPファンク、レジデンツやアート・オブ・ノイズ、ザ・KLF、それこそ今回の『増殖』もそうだと思います。

佐々木:ええ、ええ。なんというか、アステロイド・デザート・ソングスの話をさせていただくと、あれってすごくぐちゃぐちゃで、テンポも合っていなければ、バランス無視でベートーヴェンにエレクトロビートを勢いだけで乗せる、その上でチビ声ラップが乗る、でもグルーブ感は結構ヨレてる、みたいな音楽でしたよね(笑)。バンドとしては、ライターさんとかの集合体だったわけですけども、あのかたたちは、いろんな音楽を聴いてきた結果としてああいう音を鳴らしていたわけではなくて、おもしろいと思ったアイディアをごちゃまぜにしていったという側面のほうが強かったと思うんです。それは昨今で言うところのニコニコ動画的なものというか、2ちゃんねる的なものと、いまから考えればけっこうな類似性があったんじゃないか。コンセプトということをきいて、いまそんなふうに思いました。

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音楽とルーツの関係

DTMでも、リズムやテンポの扱いが、ソフトウェアによってもっと感覚的になっていったら、日本人ぽいズレや、リズムのヨレのような、民俗音楽的な部分を含めての身体感覚に落ちていく可能性はあると思うんです。(佐々木)

カンやタンジェリン・ドリームに比べて、クラフトヴェルクはあまりに愛国的に過ぎやしないか、っていう。でも、海外から見たときにそれはドイツのイメージにぴったりはまっていた。初音ミクも、海外から見たときの日本のイメージにぴったり収まるところがあるんじゃないですか?(野田)


HMOとかの中の人。(PAw Laboratory.) - 増殖気味 X≒MULTIPLIES
U/M/A/A Inc.

初回盤 通常盤

佐々木:思えば過去にあったよねというアイディアはいくらでもあって、いまの音を新しいと思う瞬間は少なくなっていると思います。DTMでも、リズムやテンポの扱いが、ソフトウェアによってもっと感覚的になっていったら、日本人ぽいズレや、リズムのヨレのような、民俗音楽的な部分を含めての身体感覚に落ちていく可能性はあると思うんです。逆に本格的に、DTMによっていろいろな楽器の音が、無秩序に自由になり、奏法を無視して扱うのが当たり前になったりすると、それはそれで可能性ではありますが、いろいろな音がデジタル・ツールの操作の中でのクリシェや、グリッドという範囲のなかで、印象が似てきてしまうというか、その人のルーツや血につながる空気感や身体感覚で合奏しているようなグルーヴの違い方というのは余り出てこないんじゃないかなという気がします。国境やルーツ、そもそも自分が根ざしていたという部分への意識が、今後薄くなっていくんだろうなと。そして、民族が薄くなっていくからこそコンセプトを欲してしまうというか。積極的にコンセプトを欲しがるのか、それとも自分のなかにルーツが無くなるから別立てしてコンセプトを持たなければならないのか、そうなるとしたら、ひょっとしたら初音ミクみたいなものに依っていかざるを得なくなるのか......ともかく、音楽ジャンルが、歴史で積み上げられた音楽内容や民族性ではなく、もっと個人の趣向的なコミュニティや、コミュニケーション・スタイルを指し示すワードになる気がします。

野田:ルーツっていうことで言えば、この先雑食化は進みつつも、なくそうと思っても失えないものもあるんじゃないでしょうか。変わってゆく同じモノは黒人音楽だけのものではないと思います。弘石君(U/M/M/A Inc.代表)みたいに、ロンドンに住んでもカツ丼を食べたがるのと同じようなものです。たとえばMIAってスリランカでしたよね。8歳でイギリスに亡命して英語を覚えても、スリランカ訛りだけは消えなかったというように、音節なんかにもそれは残るでしょう。
 クラフトワーク――本当はクラフトヴェルクなわけですが――とか、タンジェリン・ドリームとか、アシュ・ラ・テンペルとか、カンとか、あの頃のクラウト・ロックのバンドの名前は、みんな英語の名前ですよね。曲名も英語のタイトルが多い。そのなかでクラフトワークは、全部ドイツ語の曲名だし、デザインは思いっきりバウハウスで、いかにもジャーマンでインダストリアルなスタイルを持っていた。それで当時はドイツ国内からの批判もあったそうですね。カンやタンジェリン・ドリームに比べて、クラフトヴェルクはあまりに愛国的に過ぎやしないか、っていう。でも、海外から見たときにそれはドイツのイメージにぴったりはまっていた。初音ミクも、海外から見たときの日本のイメージにぴったり収まるところがあるんじゃないですか?

佐々木:言葉の音韻は影響しますよね。日本人である以上、ジャパニーズ・ヒップホップの呪縛ように、大勢の日本人に対して主義主張がそれと認められるには、分かりやすい日本語であることは決して避けられない。ポルトガル語の歌がどんなに音楽的に美しくても、歌が言葉である以上、声が綺麗なことより「意味が読み取れないデータ」ってことになっちゃいがちですから。初めの話に戻りますが、たとえば竹村延和さんは、ずっと子どもをテーマにしていくわけですけれども、そこには子どもや鳥の鳴き声のなかにしかない暴力性や無(無邪気)の感覚、あるいはアジアのにおけるイタコや巫女のようなもの、アメリカ等とは違うニュアンスでの処女みたいなものをどう見ていくかという。日本人は無意識の世界などにドラマを感じ続ける。考えても終わらない、むしろ妄想的になっていく日本人文化の流れを感じるんですね。 テクノで言い換えると、ケンイシイさんの『ガーデン・オン・ザ・パーム』で「え、何これ?」って思って、フレアを聴いて「抽象的なすごさは、何なんだろう?」、『グリップ』を聴いてテンポ・チェンジが激しい曲でさらにわけがわからなくなって、『リ・グリップ』を聴いて、竹村さんが出てきてグリップの音源を暴力的にスクラッチしてて「ああ、もうダメだ」と......

野田:はははは!

佐々木:そしたら『メタル・ブルー・アメリカ』になって、「ああー」と納得できた(笑)。とても頭のいい人が作った音楽で、商業音楽にもなるんだと。日本の音楽レーベルは前衛芸術家を育て続けるのかと思った(笑)。
 音楽と作家のルーツ文化という観点でインドで切り取ると、タルビン・シンなんかは直接タブラを持ち出すわけですが、ケンイシイさんが当時アンビエント作家として推薦してたベドウィン・アセントは、直接そこには行かないで、先にドローンやアンビエントをやって、〈ライジング・ハイ〉の流れでドラムンベースともドリルンとも言えない妙にパーカッシヴなビートを作っていて、「個性的過ぎるけど何なんだろうな?」と思っていたらインドの音楽がスパイス的に効いているんですね。DJオリーブ、ラプチャーなんかが実践してますけど、一段階、溶け込んだかたちでルーツが出てきているようなものが、これからもっとネットを通じて見えてくるようになるのかなと思います。あと、前情報でインドって強く思うとインドにしか聴こえないわけですよ、マハラジャみたいなイメージが付きまとう。日本人=芸者とアニメみたいな(笑)。オリエンタルが良い悪いじゃなくて、オリエンタル文化はインパクトが強すぎてイメージを支配をする。絶妙のバランスじゃないと料理できない。北海道の羊料理みたいな。

野田:いま、2012年に、ベドウィン・アセントの名前を聞くとは思わなかったです(笑)!

佐々木:はい(笑)。彼は「インド人でござい」と出てきたわけではないし、そういうふうにはならなかった。あくまでルーツのようなものがにじみ出ているというだけです。またそもそもインドの音楽の発想がアンビエントと似ているということもあります。

野田:ああ、それを言えばテクノ全般もそうですよね。クラフトワークの『マン・マシーン』のエンジニアって、アメリカの人で、たしか黒人なんですね。その人はクラフトワークの音を初めて聴いたときに、黒人だと思い込んでいたらしいんです。で、会ってみたら白人が来てびっくりしたと。あんな真っ白な音が、黒い耳には黒く聴こえてしまうという音のマジック。音楽の伝わり方はつくづく不思議ですよね。

佐々木:ええ。グルーヴやノリの話もとても深いですよね。でも逆にクラフトワークやベドウィンみたいな自身のルーツに対してストイックな音楽もあれば、一時期のビル・ラズウェルみたいに「とりあえずヤバい民族楽器のフレーズにディレイかけた音をカブせればいいじゃん。ワールド・ワイドで斬新な音楽じゃん?」というようなものもあって。音って、テンポやキーさえ合わせてしまえば混ぜられるというようなところがあると思うんですけど、そのなかでも音響に寄っていく律儀なやり方もあれば、にぎやかしを優先してエスニックな要素を入れていくというやり方もあるわけですよ。
 で、音楽ってかつて何度となくミクスチャーされてきたものだし、80年代のリヴァイヴァルなんかも、もうリヴァイヴァルとは呼べないようなレベルで溶けてしまっていますよね。僕はそういう意味で、ネット時代で、音楽が飽きられたり、再発見される......といった、リヴァイヴァルの2周め以降、限りなくミクスチャーが進んでいってグルグルグルグル混ざるのだろうなと思っています。実際に音や聴かれ方がどうなるということはわかりませんが、インターネットなんかを介して、感覚的にも、概念的にも、音楽を作る人のハードディスクにデータがどんどんたまっていって、時間が膨れ上がっていって、俯瞰してみるとひとつひとつ粒が小さくなっていく......そうすると最後にいったい何がもたらされるのか。それとも、文化を意識することと、音楽を楽しむこととは、近かったけど、また別のことなので、それぞれは別軸に進んでいったりもするのかな? とか。なんかTTPとかとも無関係じゃない時代の流れなのかな? とか。

いま、なぜ『増殖』なのか

坂本龍一さんはオヴァルが出てきたときに積極的に関わったりとかしてますが、こういう『増殖』的なコンセプト――デジタル的な意味でものごとが増殖していく、データが増えていくといったことにはとても意識的だったと思います。(佐々木)

サン・ラーがフリー・ジャズにいかなかった理由は、「笑いがないからだ」と本人が言っていますが、僕も笑いがない音楽は嫌いです。『増殖』にはそういう意味では日本らしからぬ、とてもドライな笑いがあります。(野田)

――最後に、この『増殖気味 X≒MULTIPLIES』では企画段階から佐々木さんも制作にご協力されていたということですけれども、いかがでしたか? ボーカロイド3(現在開発中の、Vocaloid3エンジンを使った初音ミク英語版βヴァージョン)も貸し出されているとのお話ですが。

佐々木:まず『増殖』に関してですが、そもそも坂本龍一さんなんかは一時的ではなく、70年代からいままでずーっとコンセプトに意識的な方ですよね。リアルな未来派と初音ミクって結合はそもそも面白い切り口なんだと思います。彼はオヴァルが出てきたときに積極的に関わったりとかしてますが、こういう『増殖』的なコンセプト――デジタル的な意味でものごとが増殖していく、データが増えていくといったことにはとても意識的だったと思います。それは彼が『未来派野郎』とかでやろうとしていたことなどに、おそらくどこかで結ばれている。しかも音像としてのぎこちなさがおもしろいというような感覚は、あのときに出揃っているというか、そのプロトタイプではあったんだろうなと思いますね。

野田:日本社会のネガティヴな伝統のひとつとして、なにかというと陰湿な、ウェットな方向に進みがちになるということがありますが、『増殖』には、そういう意味では日本らしからぬ、とてもドライな笑いがあります。しかもけっこう、ブラックで、危険な笑いです。だいたい、『増殖』とは、わかりやすく喩えれば、忌野清志郎にとってのタイマーズですからね。僕にとっては、唯一リアルタイムで買ったY.M.O.の作品でした(笑)。サン・ラーがフリー・ジャズにいかなかった理由は、「笑いがないからだ」と本人が言っていますが、僕も基本、笑いのある音楽が好きです。“アナーキー・イン・ザ・UK”は笑い声ではじまっているし、ドレクシアにだって笑いはあります。話は逸れましたが、『増殖』には当時としては画期的な笑いがあったと思います。

佐々木:はい。これは日本のポップスの枠で成立した実験音楽作品だと思います。そして笑いもニヒルさも含まれている。だから『増殖』は圧倒的に異端でヤバい。正直なところ僕はY.M.O.をそれほど好きだったわけではないんですが、何だったのかということを考えると、やっぱり時代を解きほぐした発想のセンスであったり、そういうものをうまく配して、コンセプチュアルに固めていたところかなと思います。HMOさんの『増殖気味』もその辺りは、SF作家の野尻抱介さんを迎えるなどしてアップデートされているのが、挑戦的で素晴らしいと思います。デトロイト・テクノとかのほうが黒人とか宇宙とかコンセプトがストレートだったなと思うんですが、こういう社会風刺的な部分もふくめた音楽のあり方というのは、初音ミクとも繋がってくるし、音楽に何か一枚、かぶせてるなと思うんですよね。いまはとにかく人を惑わせるものが多く、鬱屈していて先が読めないみたいな、情報社会の弊害が大きくなっていく時代で、『自分にとって楽しいコンセプト』を求めている人たちは、案外いっぱいいるのかなと思います。まぁ、AKBなんかも音楽中心かどうかはともかく、完全にそうですよね......。

野田:AKBとか、僕はホント、いまだによくわかっていないんですが、洋楽がいまほど売れない、聴かれないということは、当たり前ですけど、かなりの問題意識があります。音楽について書いている人やメディアが極端に邦楽に偏っている状況に問題があると思います。今回の司会をやっている橋元優歩なんかは海外旅行に興味がないそうですが、先進国で海外旅行に興味がない国といえば、アメリカです。多くのアメリカ人はまた、海外の音楽も聴きません。しかし、アメリカの若い世代はインターネットの普及で、上の世代が聴かなかったクラウトロックやテクノや日本のロックを聴いています。逆に日本の若い世代が古いアメリカのように、洋楽を聴かないようになってきているとしたら、なんだか内側で妄想に耽っているようで、すごくマズいんじゃないかと思います。僕の世代の女性の多くは、洋楽を聴いていれば、ほぼ間違いなく、大胆に海外に出かけています。女性が海外文化の紹介者でもあり、媒介者でもありました。DJのマユリちゃんなんかその代表格で、日本にテクノを紹介したのも、実は女性たちの力も大きかったんです。あの頃活躍した女性が、現代では、初音ミクになっているのでしょうね。だから今回、こうして、ミクの力を借りて、ちゃっかり洋楽をアピールさせてもらいました(笑)。

佐々木: 女性の大胆さと適応力は推進力になりますよね。弊社の海外担当もみな女性です。また、自分もいま、ソニー・ミュージックで〈ソニーテクノ〉の立ち上げに関与し、当時のアンダーワールドから〈ワープレコード〉までを相手に、様々な交渉や調整などを担当していたレーベル・マネージャーの女性の元でプロモーション戦略についての勉強させてもらってるんです。当時の音楽と洋楽の繁栄を成功体験として知っている人に学ぶところはいまだからこそ大きいと思います。
初音ミク現象については、2005年くらいからいまにかけて、ネットの進化と相まって、音楽の聴かれ方が大きく変わったと思っています。エレキングを0号から読んできて、テクノを軸に文化的なことや音楽に関する考察の面白さを教えてもらった人間として、テクノ専門学校の卒業生として(笑)、このいまのネットの状況には思うところがあるし、野田さんと対談させてもらって、趣味としてライフワークとして音楽×社会のことは意識し続けたいと、対談を通じてあらためてそう思いました。ボーカロイドや音声合成ソフトもリアルになるでしょう。それこそドラム音源ソフトのように一聴すると生か機械かわからないような時期が、早ければ10年後には来ると思います。声って複雑で感情的で神秘的ですらあったわけですが、それがデータになって揺らいできてる。音楽のなかの楽器やルーツ文化という記号が、もっと溶けてしまうこの時期に、楽器って何だったんだろう? 声って何なんだろう? ってことを、初音ミクを通じて考えたり、感じたりするのは来るべき時代の文化にとって予兆になりえると思います。それこそ90年代に、高橋健太郎さんらが、ハードディスクや音楽データを題材に語っていたわけで、日本人が未来を信じていた頃にサスペンスと思い込みたかったような予言が、初音ミクといっしょにちらほら現実化してきていると痛感しています。

〈StarFes.2013〉に期待できること! - ele-king

斎藤:僕が怪獣エレキングだぞー、ガオー! エレレレレレレレ! チュドーン!

菊地:もう1月も終わってしまったのに、なに言ってんだよ斎藤くん!

斎藤:いやいや、盟友・菊池くん! 僕は昨年のトラックスマン来日公演でクラブ遊びしたとき信じられないほど楽しかったのが衝撃的で、それ以降も友だちとイヴェントで踊ったり遊んだりする楽しさもあらためて体感できたから、いろいろ音楽の鳴る方へガオーっと出没できたらなって思ってるんだよ。

菊地:それだったらさ、この〈StarFes.2013〉(https://star-fes.net)っていうイヴェント知ってる? 

斎藤:いやー、まったく知らなかったな。昨年からやってる新しめのイヴェントなのか。自分でイヴェント企画をしたり、いまもいろんなライヴ会場で手伝いをしている菊地くんから、おすすめポイントを教えてくれよ。

菊地:実は僕も〈StarFes.2013〉のことを知らなかったんだけど、3月23日(土)に、神奈川県の川崎市にある東扇島東公園で開催されるイヴェントらしいんだ。

斎藤:ああ! その公園って、僕が第0回目の〈フリードミューン〉でアルバイトしたところじゃないか! 実はあの日、現場の公園にいたんだ。本当に大変な荒天で中止になっちゃったけど、ロケーションがとてもいい公園(☆1)だったことを鮮明に覚えてるよ。高い建造物も周りになくて、空が広いんだ。海を臨んでいて、地面も原っぱで、コンクリートの道もあって会場はほどよい広さだから移動もしやすいし。あそこでフェスが開かれるなんて、最高に気持ちよさそう。あの場所で音楽浴びながらビール飲みたい!

菊地:そうそう、野外なんだよね!

斎藤:あのきもちよい野外で10時開場/11時開演か。 最高だな! 土曜の朝から公園でビール飲めるなんて! バイト先のチーフがたまに「幸福ってなんだっけー」って歌い出すんだけど、幸福とは休日の午前から飲むビールでしょ(☆2)!

菊地:それ推すね(笑)。そういえば僕も去年、相模湖で開催された〈XLAND FESTIVAL〉に遊びに行ったんだけど、神奈川県ってそもそも音楽のイヴェントが開催されるようなイメージがなかったから、まずそれだけで新鮮だと思ったし、興味が湧いたんだよね。単純にどんな場所でやるんだろうっていうかさ。

斎藤:そうなのか。近すぎて盲点だったのかもしれないね。

菊地:っで、実際に行って感じたのは、新潟みたいな大自然ではないけれど、ローカル過ぎないし、そのバランスがとにかく素晴らしかった。神奈川っていうのは、実はすごくフェスに適した良い場所なのかもって思ったね。〈StarFes.2013〉も神奈川県だし、そういう環境に適したイヴェントを期待したいな!

斎藤:「都市型音楽フェス」と謳っているだけあって、東京やその周辺からなかなか遠出しづらい人たちといかにフェスを作り上げていくかを考えているみたいだね。おまけに今回の会場最寄駅の川崎駅は、品川駅から約10分前後で行けちゃうようなところだから、都心からのアクセスのしやすさといったら半端じゃないよ(☆3)。駅から会場の公園までは無料シャトルバスも出るみたいだし。

菊地:そもそもフェスっていろんな楽しみ方を自由に選択できる場所なんだけど、いわゆる、有名な大型のフェスって良くも悪くも詰まってるというか、余韻に浸る隙間があまりない気もするのよ。出演するアーティストがたくさんだから、疲れちゃうけど観なきゃっていうかさ。

斎藤:それは本当に言えるね。疲れを乗り越えたり無理をしてこそフェスっていうわけでもないし、ほどよく楽しみたい人がちゃんと満喫できるイヴェントがこうしてあるのはいいことだよ。会場も広すぎないし。なおかつ、“日本一早い夏フェス”っていうのも、つまりはその解放感を打ち出していきたいっていう意識なのかな。開催日は立派に春だから、暖かいといいなー。ビール、ビ--ル!

菊地:〈XLAND FESTIVAL〉はステージが少ないぶん、ポイントが分かりやすかった。だから昼から遊びに行っても全然疲れなかったもんねー。同じくらいの規模だし、そういうの期待しちゃうなー。

斎藤:アクセスが良くて、野外の公園で昼からきもちよくビール飲めて、ライヴやDJが観れて、申し分ないね。都心からのアクセスのよさもあるし、昼から遊んで土曜の夜遅すぎない時間に帰ることもできるだろうから(☆4)、次の日に負担がかかったりしないのはありがたいね。終わった後ゆったり余韻に浸ることもできれば、そのままどこかまた遊びに行ったりもできるじゃん! 僕は友だちといっしょに気軽に遊びに行きたいかな。パーティーをハシゴできるー! HoooooooooooooOOOOOO!!!!!!!!!!!!

菊地:ちなみにさ、前売り券の値段いくらだと思う?

斎藤:いやー、気になるのはそこだけだよ、マジで。ラインナップは有名どころ多いし、海外のアーティストもけっこう来てくれるみたいだし、安くて7000円とか、そのくらいなんでしょ。お金のことは考えないようにしてここまで会話が弾んでたのに......。

菊地:なんと前売3500円なんだって! これってクラブと同じくらいの値段でフェスに参加できる(☆5)ってことだよ、つまり!

斎藤:マジかよ! 安いな、おい。 普段の小さなライヴとかクラブと変わらない入場料でフェスが楽しめるのか! しかも出演アーティストは大物揃い(☆6)じゃん! ジャザノヴァとか、渋いとこ押さえてるよなー。 Pヴァインから昨年に出たポール・ランドルフのアルバムは部屋でひとり笑っちゃったほど気持ちよかったし。セオ・パリッシュも昨年の来日公演が観れなかったから楽しみだよ。

菊地:斎藤くんからみて、他にも気になるアーティストってなんだろう?

斎藤:日本のアーティストも有名どころが出るよね。regaやmouse on the keysのようなインストロック勢だったり、AFRAとDaichiのヒューマンビートボクサーとしての競い合いにも期待できるかな。DE DE MOUSEDJ KENTAROのようなエレクトロニック/ダンスの趣もあるし、昨年のロンドン五輪の公式イヴェントでヘッドライナーにもなったフレンドリー・ファイアーズが日本でのDJでなにをかけるか楽しみだな。あとは、HIFANAを観たい! 僕がいっしょにラップをやってる友だちもHIFANAのサンプラー演奏を観てヒップホップを作りたくなったって言ってたし、いまどんな衝撃を与えてくれるかが楽しみ。昨年開催された、〈StarFes.2013〉出場権をかけたコンテスト・イヴェント〈StarExhibition.2012〉を見事勝ち抜いたregaとDaichiの2組も楽しみだね。若手(Next Star)枠として出場するわけだけど、大御所に囲まれるなかでどう勝負に出るのかってのも見所だろうね。電気グルーヴ昨年のエレグラでも人が多すぎてフロアに入れなかったから、ちゃんと観たい!
 ふだん小さいイヴェントにしか行かない僕みたいな人間は、有名なアーティストの音楽とかライヴって実は知らなかったりするから、ぜひこの機会に楽しみたいな。

菊地:本当にこういうフェスこそ、まだフェスっていうものに行ったことがない人に是非参加してもらいたい(☆7)。

斎藤:いやー、いいこというね。菊地くんもいっしょに音楽浴びながら昼からビール飲もうよ。

菊地:ねえ、斎藤くん、それ言いたいだけでしょ!

斎藤:夜は川崎の隣駅、飲み屋がたくさんの蒲田で食って飲もう。あるいはハシゴでクラブでもいいよ! 僕はギャングスタだぞー、ガオー!


☆1:会場が野外の公園で、ロケーションが快適。

☆2:土曜の昼前から音楽とお酒がたのしめる。

☆3:都心から驚くほど近くて、アクセスがよい。無料シャトルバスもあり。

☆4:土曜の昼にはじまり、夜遅すぎない時間に帰れるので、祭りのあとのほどよい余白がある。

☆5:前売り券が3500円ととても良心的。普段のライヴやクラブと変わらない値段でフェスに参加できる。

☆6:出演は有名どころ多数。海外のアーティストもおもしろいところを押さえてある。

☆7:フェスをふだん敬遠しがちなひとも気軽に参加できそう。初心者にもおすすめ。



出演アーティスト紹介

■The Orb
1993年、英国のグラストンベリー・フェスティヴァルの土曜日のトリがジ・オーブだった。数万人をいちどにトランスさせたそのときのライヴは、伝説となっている。さて、ジ・オーブことアレックス・パターソンは、説明するまでもなく、アンビエント・ハウスのオリジネイターで、テクノの大ベテランとして長きにわたってシーンに君臨している......君臨? いや、仰々しいと思われかもしれないが、もうそう言って良いだろう。初期の2枚のアルバムはリマスリングされ、再発され、昨年はリー・ペリーとの共作でも話題になった。ダンスのビートとダブの空間、トランシーで色とりどりの電子音。ある意味では、ジ・オーブこそ野外に相応しいと言えるだろう。ソロ・アーティストとしても人気の、トーマス・フェルマンももちろん参加。つまり、完璧なジ・オーブである。(野田努) 

■電気グルーヴ
彼らは、変な話だが、アウェイ感のある場にいくと力を発揮すると言われている。昨年のエレクトラグライドが良い例である。そういう意味では、今回は、どっちなんだろうか......、アウェイというよりもホームに近い、よりホームに近いアウェイと言えるのだろうか。ともかく、今年は新作を出すんじゃないかと期待されている日本のテクノ・シーンの、いまだ主役をはっている電気グルーヴの出演は心強い。大きな会場でのパフォーマンスも保証済み。ナンセンスと笑いと、そして昨年のエレグラではイタロ・ディスコめいた(ジョルジオ・モロダーめいた)ビートで会場を100メートル押し上げている。今回のフェスでもみんなを満足させる請け合いである。(野田努)

■FRIENDLY FIRES
2007年のシングル『パリス』の衝撃は、2000年代のリアルなインディ・ロック・リスナーには深く記憶されていることだろう。ダンス・オリエンティッドなロック・バンドの最新鋭としてマーキュリー・プライズにノミネートまでされたUKの3ピース。ニューレイヴと呼んで親しまれた多くのバンドのなかでもひときわ輝く存在だったが、とくに彼らのバレアリックなフィーリングはセカンド・アルバムにおいてさらに突き詰められ、シカゴ・ハウス・リヴァイヴァルの気運へもつながっていくこととなった。DJセットには、ミックス・アルバム・シリーズ『Bugged Out!』で見せたような正統的なダンス色に加え、もともとのロック的な出自が反映されることもぜひ期待したい。 (橋元優歩)

■JAZZANOVA feat. PAUL RANDOLPH
ベルリンのクラブ・ジャズの大ベテラン・チームで、昨2012年は、久しぶりのアルバムを発表。健在ぶりを証明している。ヴォーカルとベースで参加するポール・ランドルフは、年季の入ったアーティストで、ムーディーマンのレーベルからも作品を出している。ソウルフルなグルーヴで、会場を温めること請け合いだ。(野田努)

■Theo Parrish
もっとも影響力の高いデトロイト・ハウスのDJ/プロデューサー。それがどれほどのものかといえば、フォー・テットやカリブーに影響を与えているほど。ハウス・ミュージックといっても極めて実験性が高く、エディットから音響加工まで、ほとんどサイケデリックな領域で語ってもいいほどのインパクトを持っている(ゆえに、ロック・リスナーにもファンが多い)。彼の黒いグルーヴを体験しよう。(野田努)

■80KIDZ
東京のクラブ・シーンを大いに盛り上げてきた80KIDZが堂々のスター・フェス 2013出演決定! 笑みを浮かべずにはいられない、まるで魔法のようなユーフォリック・ハートブレイクなメロディーや、刺激的でヴァリエーションに富んだリズム・パターンは、僕やアナタを惹き付け、時間を忘れさせてくれること間違いなし! 年内4枚目のアルバム・リリースを控えている彼らに今一度注目だ! 80KIDZで踊りましょう!(菊地佑樹) 

■DJ KENTARO
 13才頃からDJを始めて、その7年後にはバトルDJの世界大会(DMC WORLD FINAL)でアジア人として初の1位を獲る......人の活躍に年齢は関係ないとはいえど、それはたとえばDJケンタロウのように実際活躍している人がいてこそ説得力をもつ言葉だろう。ヒップホップを根っこに持つ英国の〈ニンジャ・チューン〉から昨年もアルバムをリリースし、海外をツアーしている。日本国内のシーンを俯瞰できる確かな認識を本誌インタヴューでも語ってくれていたが、昨年におけるダンス・カルチャーの盛り上がりを経て、この2013年の春にどういった展開への導きを披露するのか。(斎藤辰也)

■DE DE MOUSE
サンプリング・ヴォイスが、キャッチーで明快かつ重層的なシンセリフと重なり、煌びやかな演出が神奈川の会場を包んだとき、僕らは夢を見るだろう。DE DE MOUSEが作り出すユーフォリックなサウンドには、どんな深い孤独も、まばゆい光に変えてしまう希望がある。そう、あとはビートにあわせて踊るだけ。感情を解き放った君にはきっと最高の体験が待ってるはず。日本で一番早い夏フェスで、日本で一番早い感動を!(菊地佑樹)

■HIFANA
 ハイファナのふたりを観て、少年が自分でもビートを作りだす。ポスト・モダンだとかシーンの細分化とはいっても、原体験としての衝撃を与えうるにふさわしいほどハイファナの提示する姿はシンプルだ。そこにあるのはMPCだけ、でもないが、スクラッチ/パーカッションの演奏/ノブを回す......なかでも、やはりMPCのパットを叩く光景は、楽器が最高のおもちゃであることを教えてくれる。ユーモアあふれる映像へのこだわりも、自分たちのあまりにもシンプルな姿のライヴをいかにショーとして、観客を楽しませるか、そしていかにより自分たちも楽しむかを考えてのものだろう。このいい循環しか生まないサービス精神をもつユニットも、デビューから10年経つ。(斎藤辰也)

■AFRA
 ケンタロウのターンテーブルもハイファナのMPCも、それはヒップホップの姿として非常にシンプルなものだが、やはりこのヒューマンビートボックスという形態以上にシンプルな姿はないだろう。それは広くビートを持つ音楽のなかでも最もシンプルだ。人がいるだけなのだから。2004年、アフラがテレビに登場した時の衝撃は、やはり忘れられがたいものがある。ヒューマンビートボックスを日本に驚きをもって認知させた彼は、昨年、曽我部恵一とも手を組み、ヒューマンビートボックスの繊細な息遣いを打ち出している(なかでも、はっぴいえんどの“春らんまん”での逆回転はナイスなアイディアだろう)。フェスティヴァルのなか、どんなステージをつくるのだろうか。(斎藤辰也)

StarFes.2013
開催日 2013年3月23日(土)
時間  OPEN:10:00 START:11:00
会場  東扇島東公園(神奈川県 川崎市)
出演
*第三弾発表アーティスト
THE ORB / 電気グルーヴ / Theo Parrish / 80KIDZ / [Champagne]

*第二弾発表アーティスト
FRIENDLY FIRES -DJ SET- / JAZZANOVA feat. PAUL RANDOLPH / DJ KENTARO / DE DE MOUSE

*第一弾発表アーティスト
mouseon the keys / HIFANA / AFRA / rega / Daichi  and more !!

料金 
前売:3,500円(税込)
・イープラス
https://eplus.jp/starfes2013
・チケットぴあ
https://pia.jp/t/starfes/
・ローソンチケット
https://l-tike.com/starfes/

お問合せ:Zeppライブエンタテインメント 03-5575-5170 (平日13時~17時)

主催:StarFes実行委員会
企画:Zeppライブエンタテインメント
制作:インフュージョンデザイン / turquoise / TOW
特別協力:YME事務局
後 援:「音楽のまち・かわさき」推進協議会/公益社団法人 川崎港振興協会/川崎港運協会

注意事項
※当イベントは、20歳未満の方のご入場は一切お断りさせていただいております。
チケットご購入の際は十分にご注意ください。
※当日、入場の際に全ての方にIDチェックをさせていただきますので、運転免許証・パスポート・住民基本台帳カード(写真付きのみ)・外国人登録証のいずれか(コピー不可)をご持参ください。
※出演アーティストの変更等による払い戻しは行いません。
※雨天決行・荒天中止
※会場に駐車場はありません。川崎駅からの無料シャトルバスでご来場ください。

きのこ帝国 - ele-king

 アキ・カウリスマキの映画に出てくる人たちは、まず、笑わない。あの映画の、人びとの笑わなさ、坂本慎太郎的な抑揚のなさが、多くのドラマと一線を画している。そして、あの、徹底的な笑わなさが、愛情表現の押し売りの戸棚の底から、その目立たないずっと奥から、何か美しいものを引っ張り出したのだ。基本的に、僕は笑いのある表現を好むが、作り笑いは必要としない。そして、ときとして、容赦なく笑いを剥奪するものに心惹かれることがある。自分もまた、カウリスマキの映画に出てくる人たちのような、笑いを奪われた人間のひとりであることを意識する。きのこ帝国は、そして佐藤の歌は、僕から笑いを奪う。

 "夜鷹"は、滑らかで、トランシーで、サイケデリックなエレジーだ。この1曲は、佐藤がラップに触発された曲だと思われるが、トラックからは、オウガ・ユー・アス・ホールを彷彿させる柔らかい音響空間が広がっていく。佐藤の、魅惑的な、確固たる"孤独"は変わらない。しかし、彼女の歌詞......だけで語るのが野暮なほど、演奏されるすべての楽器の音色が夜空の星々のように煌めいている。宮沢賢治の天体趣味が、モータリック・ビートと出会ったとでも喩えられそうな、ロマンティックな曲。きのこ帝国のセカンド・アルバム『ユーリカ』の決定的な曲である。続く"平行世界"にも、バンドの真新しい響きを感じることができる。この曲も音数の少ない演奏を活かした空間的な録音によって、佐藤の詩世界をひと際輝かせている。
 
 とはいえ、『ユーリカ』は、決してまとまりの良いアルバムではない。歴史上の多くのロック・バンドのセカンドのように、彼女ら彼らは、あーだこーだといろいろやっている。"国道スロープ"から"Another Word"への展開は、このアルバムのもうひとつの表情だ。抑揚があり、ドラマティックで、ときに感情を噴出させる。クールにはなりきれないのだ。
 バンドがセカンド・アルバムで可能性を探ることそれ自体はしかるべき態度だ。その探り方が、ただがむしゃらなのか、それとも考慮の末の結実なのか、それとも......。ひとつ言えるのは、きのこ帝国は、もはや、忌々しくも、寒々しくも、苛立たしくも、腹立たしくもないということだ。来る日も来る日も泣いていた彼女は、ある朝、起き上がり、靴のひもを結び、歩き、あるいは少しずつ、走り出したのかもしれない。卑俗な人たちのいない場所などないことがわかっていながら。

 "風化する教室"や"Another Word"、"明日にはすべてが終わるとして"......といった曲ではポップ・ソングを試みている。これらの曲を最初に聴いたとき、僕は、きのこ帝国もいよいよ音楽産業との妥協点を見いだしたのかと勘ぐってしまったが(もちろんそうは思っていない)、そうしたネガティヴな早とちりは、僕がふだん灰色の音楽ばかり聴いているからというだけではあるまい。
 きのこ帝国というバンドには、まだ本人たちが気づいていない以上のポテンシャルがある。その大きさが小さく揺らいでいるとき、リスナーは引き裂かれ、困惑するのだ。"Another Word"など、最初の32小節までは、ファイスト風の爽やかなアコースティック・サウンドではないか。葬送のための陰鬱な音楽とはほど遠い......が、それでも、きのこ帝国は簡単に笑顔を売らない。"ミュージシャン"など、失恋中の友人にはとても聴かせられない曲だが、それ以上に、たとえば「狂った頭でいろいろ考えて/不安を抱えて老いぼれていくんだろう」という言葉に同意する人も少なくないだろう。
 
 それは、アルバムにおいて、もうひとつの笑えない曲だ、が、しかし、非情さもない。『若きウェルテルの悩み』の系譜のスローバラードである。これが3番目、"春と修羅"が2番目、いや、"平行世界"が2番目に好きな曲かな、僕は。その2曲のみが、ビートがダンサブルだというのも大きい。振るのは頭ではない、腰だ。踊ってばかりの国だ。
 佐藤がステージで見せる、あの傲慢さ、あの苦悩、あの冷淡さ、あの誠実さも、"夜鷹"のなかに美しく凝縮されている。自信を持って僕はこの曲を推薦する。それが、『ユーリカ』を聴いた僕の感想である。

殺すことでしか生きられないぼくらは
生きていることを苦しんでいるが、しかし
生きる喜びという
不確かかだがあたたかいものに
惑わされつづけ、今も生きてる
"夜鷹"

Gabby & Lopez, Dustin Wong, tickles - ele-king

 2月11日、3連休の最後の日。場所は青山のCAY。楽しい連休のフィナーレを心地よい音楽とともに締めくくってみませんか? ほっこりと幸せな気分になるナイスなアーティストを集めたイヴェント〈BUILD〉が開催されます。
 注目はなんといってもギャビー&ロペスのライヴです。なにせ、この人たちはめったにライヴをやりませんから。昨年は5年半振りに素晴らしいアルバム『Twilight For 9th Street』(ele-kingにて栄誉ある"E王"も獲得)をリリースしたにも関わらず、その後、ライヴを披露したのは2回だけ。今回はむちゃくちゃ貴重なライヴになります(しかもバンド・セットでパフォーマンス!)。え、そもそもギャビー&ロペスを知らないって? たしかにアルバムは5年半振りだし、ライヴもほとんどやっていませんから、知らないという方がいても不思議じゃないでしょう。ギャビー&ロペスはナチュラル・カラミティやウマウマで知られる森俊二とティカの石井マサユキというふたりのベテラン・ギタリストによるプロジェクトで、マーク・マグワイヤとか、マニュエル・ゲッチング、あるいはドゥルッティ・コラムあたりのサウンドが好きな人ならば、もうこりゃ堪らんといった感じの音だと思います。トミー・ゲレロやレイ・バービーみたいなフィーリングもあるので、その手の音が好きな人にもオススメです。まあとにかく聴いていると、綺麗な星空の下、誰もいない浜辺で穏やかな波の音を聴いているような......、なんともおおらかで、心地よくて、ちょっと素敵な気分にさせてくれる音楽なんですね。彼女や大事な人と一緒に聴きたくなる感じです。伝わるかな、この感じ?
 共演するアーティストたちも素晴らしいです。ビーチ・ハウスやダーティー・プロジェクターズのUSツアー、ジャパン・ツアーに出演し、いま日本でもファンが急増中のダスティン・ウォン。多数のエフェクターを足元に並べ、ディレイやループなどを駆使し、様々な音像を作り、重ねていく彼のパフォーマンスは、まさに"エフェクターの魔術師"という異名の通り。まるでオーロラのようなその美しさといったら......、かつてライヴ会場では、手を合わせ、祈っている人がいたほどです。
 またCDの帯につけた「線路は続くよ どこまでも」という名キャッチ・コピーこそ野田編集長にダメだしされたものの、その音楽性においては非常に高い評価を得た〈MOTION±〉のティックルズも出演。聴いていると胸がグッと熱くなる魔法のようなメロディ、エレクトロニクスと生楽器をブレンドした温かみのあるサウンドは、いつまでもずーっと聴いていたくなる心地よさです。そんなほんわかしたサウンドを作っていながらも、バックボーンはゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラー、エンヴィ、トータスだったりもするので、その辺も記憶の片隅に置きつつ彼のパフォーマンスを見ると、またいっそうグッとくるものがありますよ。
 さらにDJとして、山崎真央(gm projects / AKICHI RECORDS)、鶴谷聡平(NEWPORT)、青野賢一(BEAMS RECORDS)によるDJユニット「真っ青」も参戦。ディープな音もお洒落な音も知り尽くした3人によるスリリングなバック・トゥ・バックに注目です!
 DJスタートは早めの16時、ライブは17時から。美味しいお酒でも飲みながら、心地よい夕刻のひと時を一緒に過ごしましょう!
(加藤直宏)


MOTION± presents BUILD
2013年2月11日(月・祝日)
CAY(スパイラルB1F)
OPEN / START 16:00 *ライブ・スタート 17:00

出演: Gabby & Lopez / Dustin Wong / tickles
DJ: 真っ青

料金: 前売り ¥2,800 / 当日 ¥3,300
- チケットの取り扱い: 1月11日より発売開始
≪プレイガイド≫ ローソンチケット 0570-084-003 [Lコード: 76209]
- 前売チケットのご予約: 1月11日より受付開始
≪電話予約≫ CAY 03-3498-5790
≪メール予約≫ CAY 申し込みフォーム
 
企画・制作: MOTION±
お問い合わせ先: MOTION± 03-3793-5671 / motionpm@music-airport.com
CAY 03-3498-5790
MORE INFO: https://motion-pm.com/?p=2439

 カラフルな音色とともに、絶妙の浮遊感と叙情感を紡ぎ出す3アーティストによる待望の共演が実現。コンポージングではなくインプロヴィゼーションを繰り返して楽曲を制作し、ライヴではさらにインプロ度合いの増したスリリングな演奏をみせるGabby & Lopez。
 一方、緻密にコンポーズされた楽曲を、足元にならべた多数のエフェクターを駆使し、ミニマルでカラフルなレイヤーを描き出し再構築していくDustin Wong。そしてエレクトロニクスとリアル・タイム・サンプリングを駆使した、胸打つメロディを幾重にも重ねていくライヴ・スタイルが高い評価を得ているtickles。
 さらにはクラブのみならず、ファッションショーやホテル、ショップ、カフェなど、およそ音楽と触れ合うことが出来る空間すべてに良質な選曲を提供してきた、山崎真央(gm projects / AKICHI RECORDS)、鶴谷聡平(NEWPORT)、青野賢一(BEAMS RECORDS)の3人の頭文字を並べて命名されたユニット「真っ青」がDJで参加。
 ドリーミーで心地よくも極めて刺激的な、めくるめく音の共演に酔いしれて頂ける一夜になること必至。是非ご自身で体感して下さい。

Gabby & Lopez
森俊二(Natural Calamity)と石井マサユキ(Tica)の二人によって2000年に結成されたギター・インストゥルメンタル・ユニット。2004年にファースト・アルバム『Straw Hat, 30 Seeds』を発表。続いて2006年に発表したセカンド・アルバム『Nicky's Dream』はその年のベスト・アルバムとして多くのメディアで取り上げられた。同アルバムからの楽曲は、様々なコンピレーションや映画『ホノカアボーイ』のサウンドトラックにも収録。2012年4月には渾身のサード・アルバム『Twilight For 9th Street』をリリースした。また、トリップ感溢れるライヴ・パフォーマンスも各方面で絶賛され、これまでにFUJI ROCK FESTIVAL、GREENROOM FESTIVAL、Sense of Wonder、SUNSET LIVEなどの大型フェスへも出演を果たしている。

Dustin Wong
ハワイで生を受け、2歳の時に日本へと移住。中高時代はパンクやオルタナに開眼し、ハイティーンの頃には友人のユタカ、Delawareの点、そして立花ハジメとLow Powersのメンバーでもあったエリと、携帯電話の着信音をオケに使用し歌うというユニークなバンド、The Japaneseを結成し活動した。そしてボルティモアに渡った後、マット・パピッチとエクスタティック・サンシャインの活動を始める。同時に彼は通っていた美術大学のクラスメート達と共にポニーテイルを結成。カオティックなサウンドと怒濤のライヴ・パフォーマンスは瞬く間に話題となる。また、エクスタティック・サンシャインとしても〈カーパーク〉からデビュー・アルバムをリリースし、多方面から高評価を得るもののダスティンは脱退する。ポニーテイルもさらなるブレイクを期待されていたが突然活動休止を発表(2011/9/22に解散を発表)。そしてダスティンは〈スリル・ジョッキー〉と契約し、サード・ソロ・アルバムをリリースした。多数のエフェクターを足元にならべ、ディレイ、ループ等を駆使し、ミニマルでカラフルなレイヤーを描き出していくギター・パフォーマンスは注目を集めている。2012年通算4作目となるアルバムをリリースし、4月にはレコード発売記念の日本ツアーも敢行。NHKライヴ・ビートへの出演も果たす。7月にはNYで行われたダーティー・プロジェクターズの最新作のリリース記念ライヴのオープニングに抜擢され、10月の日本ツアーでも全公演オープニングを務めた。9月から10月前半にかけてビーチ・ハウスとのUSツアーを行った後、朝霧JAM2012にも出演を果たした。

tickles(MOTION± / madagascar)
エレクトロニクスと生楽器を絶妙なバランスで調和させ、力強さと繊細さを自然体で同居させる。湘南・藤沢を拠点に活動を続け、人間味溢れる温かいサウンドを志向するアーティスト、鎌田裕樹による電子音楽団tickles(ティックルズ)。2006年発売のファースト・アルバム『a cinema for ears』リリース後から続けてきたバルセロナやローマ、韓国などを巡ったライブ・ツアーでは、人力の生演奏を取り入れたスリリングでドラマチックなライブ・パフォーマンスで大きな賞賛を得た。そんな数々の経験を経て紡がれた珠玉の楽曲をたっぷりと詰め込んだ待望のセカンド・アルバム『today the sky is blue and has a spectacular view』(2008年)は自身のレーベル〈madagascar(マダガスカル)〉よりリリースされ、TOWER RECORDS、iTunesを中心にセールスを伸ばし、高い評価を得た。2011年、次なるステップへと進むべく〈MOTION±〉と契約。ピアノ、シンセサイザー、フェンダー・ローズ、ピアニカ、オルガン、鉄琴、オルゴール、ギター、ベースなど、様々な楽器を駆使しながら感情的なメロディーと心地良いリズムを生み出していくスタイルに更なる磨きをかけ、2012年4月にニュー・アルバム『on an endless railway track』をリリース。6月にはSchool of Seven Bells来日公演のサポート・アクトを務めるなど、リリース後はエレクトロニクスとリアルタイム・サンプリングを駆使するライブ活動を精力的に展開。柔らかいビートの上で胸を震わせる旋律が幾重にも重なり合い、交錯していく夢幻のサウンドスケープは、聴く者の心を捉えて離さない。

真っ青
クラブのみならず、ファッションショーやホテル、ショップ、カフェなど、およそ音楽と触れ合うことが出来る空間すべてに良質な選曲を提供してきた山崎真央(gm projects / AKICHI RECORDS)、鶴谷聡平(NEWPORT)、青野賢一(BEAMS RECORDS)の3人の頭文字を並べて命名されたユニット「真っ青」。20年以上のDJキャリアに裏付けされたスキル、レコード・CDショップのバイヤー経験がもたらす豊潤な音楽的バックグラウンド、そしてアート、文学、映画などにも精通する卓越したセンスから生まれるそのサウンドは、過去、現在、未来に連なる様々な心情を呼び起こし、聴くものの目前に景色を描き出すものである。リミックスを手掛けた「中島ノブユキ/Thinking Of You (真っ青Remix)」 はまさに青いサウンドスケープ。

vol.6 『Journey』 - ele-king

 

 明けましておめでとうございます。と言ってもいまさらですね。年が明け、早くもひと月が過ぎました。本来ならこの記事も1月中に載せたかったのですが、あーだこーだしているうちに月をまたいでしまい、この挨拶の部分も書き直すことになってしまいました。

 それはともかく、今年は次世代ゲーム機の発表が予想されている他、〈Valve〉のSteam BoxやOuya、〈Nvidia〉のProject Shieldなどなど、新しいコンセプトのゲーム機も続々と発表されており、業界の転換期が近く訪れるのではと個人的に思っております。

 さて新年1発目のレビューなのですが、当初は年末企画での予告どおり、『Dishonored』について書こうかと思っていました。しかし正月に遊んだ『Journey』が何かと考えさせられる作品だったので、急遽こちらのレヴューを行いたいと思います。

 『Journey』(邦題『風ノ旅ビト』)は昨年PlayStation 3専用ソフトとして発売されたアクション・ゲーム。開発の〈thatgamecompany〉においては、PlayStation 3での3作めのリリース(『Flow』『Flower』に次ぐ)となり、前評判から発売後まで一貫して非常に高い評価を集め、また数多くの受賞を果たしている作品です。

 本作をはじめ〈thatgamecompany〉の作品は、どれも大作志向とは正反対のミニマルで雰囲気重視の作風で、その点では多分にインディーズ的と言えます。しかし一方でソニーと独占契約を結び、大資本のバックアップ下で作品を作ってきたという点では、他のインディーズ・スタジオとは違う特殊な立ち位置にあるとも言えましょう。

 
初期作の『Flow』はPCでもこちらで遊ぶことができる。

 そんな傑作と呼び名の高い『Journey』ですが、しかし僕は元来天邪鬼なところがあって、あまりにも周りで絶賛されているのが逆に鼻について、発売当時はやる気が起きませんでした。それから1年近くが経過してさすがに話題になることも少なくなってきたので、こっそりやってみたのですが、まぁやっぱりすごい作品でした。

 ただ僕は世間の評価軸とは違う部分で考えさせられた点がひとつあり、それはインディーズ・ゲームのなかでもとりわけアート・ゲームと呼ばれる作品との関係性についてです。

 インディーズとひと口に言ってもそのなかにはさまざまな系統があり、いままでの連載でご紹介した『Fez』や『Hotline Miami』は、古典ゲームへの懐古主義的な側面を強く持っていました。そしてこれとはまた別の思想で作られているゲームのなかに、アート・ゲームと分類されるものがあるのです。

 数々のアート・ゲームをリリースしつづけているベルギーのゲーム・スタジオ〈Tale of Tales〉や、また昨年『Dear Esther』で注目を集めた〈the chinese room〉等がその中心的な存在と言え、彼らの作品はメジャー・ゲームや一般的なインディーズ・ゲームともまた違った肌触りがあります。

 
〈Tale of Tales〉は最も勢力的なスタジオ、ジャンルを牽引している。画像は最新作の『Bientôt l’été』。

 しかし現状アート・ゲームの定義は曖昧にされがちで、世間では雰囲気重視でミステリアスな作風のゲームはなんでもかんでもアート・ゲームと呼んでいるような一面があるのも確か。

 この大雑把な括りで言えば、今回の『Journey』もアート・ゲームに分類されて不思議ではありませんし、〈Tale of Tales〉の作品や『Dear Esther』と類似する点も多々あります。しかし実際に遊んでみるとコアの部分ではむしろ真逆の性質を持っている作品だと気づきました。

 『Journey』のこの絶妙な立ち位置を大変興味深く感じたとともに、本作を比較対象としていけば、曖昧な定義のままにされがちなアート・ゲームについてもわかりやすい説明づけができるのではないか。これが今回のレヴューを書こうと思った動機です。

 そんなわけで今回は名目上は『Journey』のレヴューですが、これ自体についてはすでに語り尽くされている感もあるので、むしろ『Journey』を引き合いにしてアート・ゲームとは何か、その特性と問題点、今後どうなるべきかを中心的に書いていきたいと思います。

■旅という名の原始体験

 とは言え、まずはたたき台となる『Journey』についての解説からはじめましょう。本作は見た目もゲーム性もとてもシンプルで、プレイヤーは旅人に扮し前進しつづける。言ってしまえばそれだけの作品です。

 しかしその旅路はとてもディテールが深くかつ美しく描かれており、例えば上り坂や下り坂などといった地形の微妙な変化に細かく対応する移動感、そしてその移動感を乗りこなして新たな土地に到達し、その光景に見入るカタルシスという、まさに旅とか探検とか登山などの体験性と面白さを、そのままゲームとして再現しています。

 
美しい背景に見入りつつ、ひたすら前に進む。その体験は作品のタイトル通り、まさに“旅”だ。

 また本作を評価する上で欠かせないのが、いっさいの言語的説明に頼っていないという点。次に向かうべきところはどこかという目下の課題から、そもそも主人公は何を目的で旅をし、この世界は何なのかといった大局的な話にいたるまでのすべてを、プレイヤーは目の前の情景から察する他ありません。

 しかしここでのプレイヤーへの誘導が本作はとてもうまい。次に向かうべきところを自然とプレイヤーに感じさせつつ、安易な説明を省くことで、プレイヤーが能動的に目標を発見できたと感じさせることに成功しています。物語についても同様で、あえてミステリアスにすることで、プレイヤーに自主的に想像させ、自らの意志と力でゲームの世界に参加し、旅をしていると感じさせることができています。

  本作のオンライン機能もこの延長線上にあり、プレイヤーはゲーム中、同じエリアにいる他のプレイヤーと出会うことがありますが、ここでもシグナルを発する以外の意思伝達手段が設けられていません。しかしそれによって性別や国の違いなどさまざまな現実のしがらみをシャットアウトし、いまここにともにいる旅人同士の一期一会な関係に素直に感じ入ることができるようになっています。

 
ゲーム中に出会う他の旅人は、同じタイミングで同じ場所を遊んでいるどこかの国の誰かだ。

 まとめると、『Journey』は旅という行為を原始体験と呼べるレベルにまで抽出・再現した作品で、その原始性の純度の高さは、時代や特定の文化圏に左右されない普遍性を備えるまでにいたっていると言っても過言ではありません。だからこそ国内外問わず高い評価を集めたのでしょう。

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■アート・ゲームか否かは攻略性の有無にあり

 さて、ひと通り『Journey』の特徴について解説し終えたところで、改めて考えてみましょう。『Journey』はアート・ゲームなのか否か。答えはノーです。理由は簡単で、作品の面白さの根幹がゲームとしての「攻略性」に頼って設計されているからです。

 先ほども説明した、環境に細かく左右される移動感、言語説明が省かれた不明瞭な目標は、プレイヤーにとっては攻略すべき課題なのです。このふたつはスキルの習熟と謎解きと言い換えることもできるでしょう。

 環境と移動感の対応を学び、状況に応じて最適な操作をすることで、より素早くスムーズに移動できる気持ちよさ。周りの光景の因果関係を突き止めて適切な操作をすることで、新たな道が開けたり、秘密の部屋を発見できる気持ちよさ。本作のゲーム的な構造を分解すると、以上のふたつの掛け合わせで成り立っていると考えられます。

 
どこかに隠されていて、手に入れると飛行距離を伸ばせる光のオーブは、本作の攻略性を象徴している。

 詳しくは後述しますが、これらふたつの要素について、難易度はきわめて低く保ちながらも、攻略できたときの気持ちよさを最大限にプレイヤーに感じさせているところに、本作の尋常じゃないセンスと革新性がある。しかしいまここで考えたいのは、攻略性を軸にゲームの面白さや感動を形作っているという構造が、本作とアート・ゲームの違いを考える上での重要なポイントになるということです。

 ここで『Journey』からいったん離れ、今度は『Dear Esther』という作品について触れてみましょう。冒頭でも挙げたとおり、本作は明らかにアート・ゲーム側の作品ですが、ゲームの目的がひたすら前に進むのみという点では『Journey』にとても似た作風でもあります。

『Dear Esther』はもともとは『Half-Life 2』のMODとして開発された。
今回は触れないがMOD界にも実験的で魅力的な作品は多い。

 しかしながら『Dear Esther』が『Journey』と異なるのは、操作に習熟していったり謎を解いていくような要素、つまり攻略性がないということです。そしてこのゲームとしての攻略性のなさこそが、『Dear Esther』に限らず、アート・ゲームと呼ばれるもの全体の構造的な特徴とも言えるのです。

 僕のこの定義のひとつの根拠となっているのが、一昨年行われた“NOTGAMES FEST
”という小さなゲーム・エキスポ。インディーズ・ゲーム界ではあちこちでローカルなパーティをやっており、このNOTGAMES FESTもそのうちのひとつなのですが、注目すべきはトレイラーの冒頭に出てくるこの一文。「Can interactive media express ideas without competition goals winning or losing?」(インタラクティヴ・メディアは、そのアイディアを競争やゴールや勝ち負けなしで表現できるのか?)。



 要するにゲームをゲームたらしめる重要な要素である攻略性、これを用いずにゲームというかインタラクティヴ・メディアを成立させられるのか、というわけですね。もちろんこの発言はあくまでもNOTGAMES FEST内での提言に過ぎませんが、実際さまざまなゲームを遊んでみても、この線引きは有効だと感じています。

 そう考えると『Journey』という作品は、アート・ゲームと類される作品が否定しているゲームの攻略性、またそこから生じる感動を機軸にしている点においては、じつはアート・ゲームとは対極的な作品とも言えるのです。

■アート・ゲームは純粋体験を追い求める

 アート・ゲームについて、もっと詳しく掘り下げていきましょう。僕が個人的にこのジャンルを興味深く思っているのは、ゲームの攻略性を否定しようとしているところが、翻って純粋な没入感や体験性そのものへの追求に繋がっているからです。

 一方で観客自らが参加し、そこで得られる体験を至上とする点や、あるいは単純にアートという名称を使っているところからは、インタラクティヴ・アートとの類似性も指摘できるでしょう。しかしアート・ゲームがインタラクティヴ・アートの文脈ともまた異なるのは、母体となっているゲームが持つ攻略性以外の要素を、逆に深く引き継いだ上で体験性を構築している点にあるのです。

 これは同時にかつてのマルチメディア作品との違いとも言えます。ゲームには過去にも純粋芸術に近づいたジャンルがあり、90年代に当時のマルチメディア・ブームに乗る形で現れた、多分に実験的でゲーム性が極端に乏しいゲーム、つまりはマルチメディア作品と呼ばれていたものがそれです。

 日本では恐らく〈シナジー幾何学〉の『GADGET』がもっとも有名で、ゲーム的な駆け引きがいっさい無いまま架空世界をさまよう内容は、現代のアート・ゲームの性質に似ている。また先程のNOTGAMES FESTにも『Ceromony of Innocence』という当時のマルチメディア作品そのものが出展されており、現代のアート・ゲームの下敷きになっているのは明らかです。


上から『GADGET』及び『Ceremony of Innocence』。『GADGET』の方は近年iPhone、iPad向けに復刻された。

 90年代のマルチメディア作品の流れは、以降のゲーム市場の成熟と淘汰のなかでいったん途絶してしまいます。それから時は流れ、今度は07年あたりに台頭しはじめたインディーズ・ゲームの流れから現代のアート・ゲームが生まれてきたわけですが、重要なのはこの間に体験性や没入感に関わる表現手法は驚くほど進化し、アート・ゲームも当然その進化の上に立っているということですね。

 もともとこの進化はメジャー・ゲームが牽引してきたものですが、一方でメジャー・ゲームはマス向けの商品として成立するために、没入感を磨く以外にも、正しく攻略性であるとかゲームとして遊べる要素も同時に作品に込めていかなければなりません。もちろんマス向けであるがゆえに、表現内容そのものもある範囲で規定されてしまう。

 またときにゲームとして遊べるようにするために、かえって没入感が阻害されてしまうようなケースもままあり、そうでなくとも近年のメジャー・ゲームは没入感や体験性というものに対して挑戦的な作品が減ってきているという事実があります。

 アート・ゲームは、そんなメジャー・ゲームが築いてきた手法を継承しつつも、メジャー・ゲームでは掘り起こせていない体験性や没入感を、それに特化して追求できる、それができる可能性を持ったジャンルだというところに魅力があるのです。

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■アートと言えば何でもあり、なわけはない

 しかしながらこれは多分に理想論的な話であって、実際にアート・ゲームを名乗る作品のすべてがユニークな体験を生み出せているわけではありません。ハッキリ言ってしまえば、ほとんどの作品は完成度が低いのです。

 とくに説明不足、要素不足で後はあなたの方で想像してください、というパターンがとても多いのですが、これは僕から言わせれば投げっぱなし。想像力に委ねること自体には意義がありますが、それは決して作品側の不足を鑑賞者に埋め合わせさせるようなものであってはなりません。このバランスはじつに難しいのですが、ほとんどの作品が踏み誤っているのが実情です。

 また上記の煙に巻くような内容に、アート・ゲーム特有の攻略性のなさが加わると、本当に何の取りとめもない体験になってしまうし、他にも操作性が劣悪だったりとか、アートに関係なくゲームの基礎がなってないことも多いのが悲しい。

 完成度の低さはインディーズ全般の問題ではあるのですが、とりわけアート・ゲームに酷さが目立つのは、おそらく「アート」であることが逃げ口上になっている部分があるからでしょう。現代のアート・ゲームの直接的なはしりである〈Tale of Tales〉の『the Graveyard.』からしてそもそもそういう作品でした。

 08年初頭というインディーズがちょうど台頭しつつあるときに出てきた『the Graveyard.』は、老婆を操作して教会前のベンチに座らせて、BGMを聴き終えたら来た道を戻る、たったそれだけの内容です。当時は「これでゲームって言っちゃうの!?」みたいな感じで一部で議論を呼びましたし、それもあって後続のアート・ゲームの呼び水になった部分はあると思います。しかし素直に作品として見ると、やはり圧倒的に要素が足りない。

 
『the Graveyard.』は、製品版では老婆がランダムで死ぬ要素が追加されている。うーん......

 そういう事情もあり、期待感とは裏腹に現時点で僕が本当に良いと思えているアート・ゲームは、同じく〈Tale of Tales〉の『The Path』と、前半でも名前を挙げた『Dear Esther』の2作のみ。

 『The Path』は赤ずきんをモチーフにした作品で、『the Graveyard.』の翌年09年にリリースされました。アート・ゲームのお約束どおり、いっさいの攻略性がない代わりに、プレイヤーが触れたものに応じて結末が変わるという、分岐というか双方向的な変化を楽しむシステムになっていています。ヴォリュームも必要十分に備えており、『The Graveyard』の反省も活かされていて、アート・ゲームのもっとも典型的かつお手本的な良作と言えます。

『The Path』数あるTale of Talesの作品のなかでも最高傑作だ。
6人の赤ずきんの物語が不気味なホラータッチで描かれている。

 また『Dear Esther』のほうは前項でも触れたとおり、ただただ歩くだけの作品で、『The Path』の双方向的な面白さもありません。しかしモデリングやオブジェクトの配置のセンスが抜群に良く、さらに砂埃のエフェクトや風の音響等の繊細な表現が加わることによる環境の実在感は、ただ歩いているだけなのにゲームの世界に深く没入させてくれます。

 
単純なテクノロジーで『Dear Esther』より高度なグラフィックスのゲームは数多くあるが、実在感という点で匹敵するものはない。

 これはまさに『Half-Life 2』が示したグラフィックスと演出の向上による深い没入感と同一線上にある表現で、そこからさらにいっさいのゲーム性を廃し、純粋に没入するためだけの作品に仕上げたという点では、アート・ゲームの理念にいちばん忠実な作品とも言えるでしょう。

 これらの2作はいままでの僕のなかでは理想的なアート・ゲームという評価でした。しかし今回感じたのは、じつはこれらすらも『Journey』には及んでいないということです。ここにアート・ゲームとしての今後の課題が見出せるかと思います。

 ■『Journey』というベストアンサー

 再び『Journey』に話を戻しましょう。本作をアート・ゲームと比較して改めて感じるのは、プロダクトとしてまったく隙がないということ。無駄が無く最小限の要素が完璧に機能していて、またそれらすべては気持ち良さの表現という方向性で一貫している。

 とくにアート・ゲームとの分かれめになっている攻略性がすばらしく機能していて、攻略していく行為が本当に気持ち良い。しかも本作は難易度は低く抑えているにも関わらず、攻略したときの気持ちよさを最大限に描けているのは革新的とさえ言ってもいいでしょう。

 いままでの常識では、課題の難易度と攻略したときの気持ちよさは比例関係にあるとするのが普通でした。難しい課題を乗り越えたときほど、達成感や気持ちよさも高まるもの。しかしこの関係は一歩誤ると、難易度が必要以上に高くてストレスが溜まったり、攻略に精いっぱいでかえって没入感を削いでしまうことが起こり得ます。逆に難易度が低いと攻略行為が単なる作業と化してしまい、これまた没入感を削いでしまう。

 とりわけ『Half-Life 2』の登場以降、没入感や体験性重視のゲームは戦場を主な表現の舞台にしてきたわけですが、戦場の極限状態をプレイヤーに体験させる上で、どうしてもこのジレンマがつきまとってきました。そして今日にいたるも根本的打開策は見出せておらず、この問題は半ば放置されつつあります。

 一方で、そもそもこうした攻略性と体験の衝突を忌諱して、アート・ゲームは攻略性を捨て、それでも成立する純粋体験の確立を目指しているのですが、そこにもいろいろと問題がある、ということを前項までで書いてきました。

 『Journey』の攻略性はこれら既存の問題点をすべて乗り越えた上に成り立っています。そしてそれを成立させているのは、攻略性そのもののデザインのセンスが圧倒的に良いことももちろんあるのですが、卓越した演出力による部分も相当大きい。

 グラフィックスから音響まで一級品で、絵作りの方向性はインディーズ的ですが、完成度は他とは比較にならないぐらい高い。そしてこれらが、課題をクリアしたときや迫る脅威をダイナミックに演出していて、実際以上に物事を大きく感じさせることに成功しています。

 
先に進むために橋を架ける。やることは簡単だが、その結果は壮麗に演出される。

 この、かつてはゲーム・デザインで表現していた感動を演出で代替するという考え方は、没入感や体験性重視のゲームの基本ではありますが、これほどうまくいっている作品はいままで遊んだことがありませんでした。そして本作のこのアプローチと成果は、攻略性を捨てて純粋体験を追い求めていたアート・ゲームの界隈にとっては、痛烈なカウンターになっているのではないでしょうか。

 『Journey』は攻略性の有無という点でアート・ゲームとは決定的に違うと書いてきましたが、逆に言うとその点以外はとてもアート・ゲーム的なアプローチを取っている作品です。それがかえって現状のアート・ゲームの問題点を浮き彫りにしているし、いっぽうアート・ゲーム側からすれば『Journey』から学び取れることは多大でしょう。

 たとえば『Dear Esther』なら、『Journey』のような攻略性を入れろとは言いませんが、少なくとも地形によって変化する移動感は、そのまま取り入れるだけでもかなりプラスになるはず。坂や階段、ぬかるんでいたり草が生い茂っていたりと、現実で起こり得る移動感を克明に描写することは作品のテーマに沿っているし、とくに『Dear Eshter』は一人称視点ですから、これによる没入感の向上は『Journey』以上のものになれる期待も持てるはずです。

■まとめ

 『Journey』自体は紛うことなき傑作。PlayStation 3を持っている人なら誰もが遊ぶべき価値ある作品です。そのいっぽうで『Jouney』以外のアート・ゲームの作品、とくに『The Path』や『Dear Esther』にも触れてみてほしいのが僕の正直な気持ちです。総合力では『Journey』には及んでいませんが、それぞれユニークな体験をさせてくれる作品であることには変わりありません。

 正直に言って、『Journey』は見かけはインディーズみたいだけど、予算も開発体制もまるで違うはずなので、それを考慮すると『Journey』と他のアート・ゲームを比較するのはフェアじゃない気もするし、越えられない壁は確実にあると思う。

 しかしいざ市場に出ると、こういった生まれの差はまったく関係なく同じ土俵で評価されるのが海外のゲーム業界の面白いところでもあります。つまり究極的には感動させたもの勝ちの世界であり、感動させるのに必ずしも大規模な開発リソースが必要なわけではありません。

 今後のアート・ゲームは『Journey』から見習える部分は見習い、よりいっそう表現内容を突き詰め完成度を上げていってほしいし、そのいっぽうで『Journey』に物怖じしないユニークな作品を作り続けてほしいです。

 2012年にツイッターで話題になった音楽ジャンル(orタグ)はなんだろう? シーパンク#Seapunk/ヴェイパーウェイヴ#Vaporwave/ジューク#Juke/ウィッチハウス#Witchhouse/ニューエイジ#Newage/ゴルジェ#Gorgeとか。
 ゴルジェ? そんな音楽あったの? グーグルで「gorge」と検索してみる。「インド~ネパールの山岳地帯のクラブシーンで生まれた新ジャンルの音楽「Gorge」について。」というツイートのまとめページが出てくる。まとめられているツイートもほとんど一部の人たちだけが扇動しているだけ。アーティストのインタヴュー記事など、情報はすべて日本語だ。
 ならば発祥の地のアーティストはどういうひとたちがいるのかと思い、ためしに「india gorge music」で検索してみる。トップに出てくるのは―――ジョージ・ハリスン(George Harrison)のウィキペディアだ。

 そこで僕は、トラックスマンの熱にうなされながら、日本国内で行われた「Gorgeフェスティバル・イヴェント」であるらしい「Gorge I/O Tokyo 2012」(10月27日)へ潜入した。桜台で。桜台? 「インド~ネパール」の音楽のイヴェントが桜台なの? ラーメン二郎を食べてから向かったまるで工場や用水路の跡地のような会場(POOL)には、インド人もネパール人もいない。ただそこにあるのは、DJマッチポンプによるSE、インダストリアルなノイズやテクノやアンビエントのライヴ、そして「GORGE was Fake」というTシャツを着た愉快な日本人たち、そしてあたたかそうな山飯......。

 そんな、そんな日本解釈の「ゴルジェ」を標榜するアーティストたちが、なぜかシカゴ発祥の日本国内のジュークのアーティストたちと抗争を起こしており、その決着をイヴェントとして見世物にするようだ。

 ことの経緯はジョージ・ジュークムラややカムキ・マヒトなるアーティストたちのバンドキャンプを参照してほしい。

 イヴェント詳細は以下。もちろん僕も向かおうと思う。パブリック娘。の重要会議がちゃんと終わったらね!

遂に日本で全面対決へ!? 「2/2 Juke VS Gorge」 - GORGE.IN.CLIPS:
https://gorge-in.tumblr.com/post/41506798782/2-2-juke-vs-gorge


果たしてこの全面抗争が和解の方向に向かうのか、さらなる確執へと発展していくのか。その結論が出るのが2/2である。

さらにサウンド対決に加えて、この抗争をおさめるべく出演者によるトークセッションも予定されているという。

全世界が注目するこのイヴェントに、審判として来場できるのは日本在住の方の僥倖であるはずだ。

そして場外乱闘として、広島のCRZKNYが提唱されたとされていた、GogeとJukeの鬼っ子的ジャンル、"Gorjuke"について、その起源めぐる争いが勃発している模様だ。

詳細は各トラックのリリースノートを呼んで欲しい。

広島で行われる[GHETTOMANNERS vol.3] とともに、2/2は日本のゲットーシーンにおいて何かが変わる音を聴く決定的な日になることは約束されている。その日を安穏として過ごすか、その現場に向かうかは、あなたの判断に任せられている。

『JUKEvsGORGE』
https://www.super-deluxe.com/room/3338/

六本木SUPER DELUXE
開場 18:00 / 開演 18:00
料金 予約 2000円 / 当日 2500円 (ドリンク別)

■Juke Side
D.J.Kuroki Kouichi [DJ]
FRUITY[DJ]
Guchon [Live]
Boogie Mann [Live]

■Gorge Side
HiBiKi MaMeShiBa[DJ]
hanali [Live]
kampingcar [Live]
K2 (uccelli + Gorge Clooney) [Live]

■Talk Session
「The mystery of juke&gorge」
Kuroki Kouichi × hanali × uccelli × fruity × ?



Darkstar - ele-king

Sitting in an English garden,
Waiting for the sun.

(英国庭園に腰をおろして/太陽がくるのを待っている)

The Beatles "I Am The Warlus" (1967) 筆者日本語訳

 いまから2年前にロンドンでライヴを観て以来、おすすめの音楽を訊かれるたびにダークスターというひとたちががいいと答えてきた。しかし不安でもあった。ダークスター――ちょ、ちょっと、名前がダサくないかな......? 前作『ノース』ではクラブ・ミュージックからも離れつつあったし、あのあまりにも陰鬱な音楽が果たして来日公演にまで至るのだろうかと、勝手に気に病んでいた。片思いはつらいだけ――僕はまったく期待していなかった。
 しかし、すばらしいことに、ダークスターは見事に裏切ってくれた。良く悪くも、おそらくすべてのファンを。今作のレーベルは〈ドミノ〉や〈4AD〉でもない。〈ウォープ〉のスタッフはいっそ椅子から転げ落ちたくなったのではないか。
 男3人による完璧ではないものの美麗なコーラスのハーモニー。全編に鳴るオルゴールやハープシコードらしき撥弦楽器、グロッケンの音色。アンビエンスを含んだ優しいシンセサイザー。目を閉じずとも、トラディショナルな英国式の庭園や邸宅が、メランコリックで、幻想的で、まるで手にはふれられない、しかし現(うつつ)のごとき夢の光景として立ち現れてくる。これは、もはやポスト・ダブステップでさえない。〈ハイパーダブ〉なんて、とんでもない。『ニュース・フロム・ノーウェア』は、シンフォニックな響きを讃えたポップ・ソング集である。

 ユニット名や自主レーベルの名にしても、彼らにはSF趣味があったはずだが(註1)、フィクション作家としてまったく別の舞台を描いてみせたかったのだろうか、鮮やかに咲きみだれる花が変色して写るアートワークが示唆するように、今作は牧歌的で――しかし奇妙な世界へとリスナーを誘う。オフホワイトの視界から夢は滑らかにはじまる。アンビエントでドリーミーなドローンに包まれながら、「僕を目覚めさせてくれ、光のなかへ」と歌いだすジェイムス・バッタリーの甘い声。せわしない振り子の音が奥に聞こえるなか、光にみちびかれていく。そして、まったく別の世界――どこでもないところ――「ノーウェア」の時(とき)の針が、オルゴールを回すようにゆっくりと確実に動きだす。「タイムアウェイ」のシングル・リリース時はどこか浮ついた印象をもっていたが、あらためてアルバムの文脈のなかで聴けば、オープニングとして立派に機能している楽曲だ。小さくこだまするひとつひとつの音が優しく発光している。
 
 また、今作を聴いていると、意外なことにジョン・レノンの顔がちらつく。例えば、メランコリックで幽玄な「タイムアウェイ」につづいて唐突におどけた音色からはじまる3曲目の"アルモニカ"。どこか調子を外したようなギターの和音、フランジャーめいたエフェクトでくぐもったようなニヒルなヴォーカルや、シンセの逆回転風の加工など、(アルバムにおいて同じく3曲目でもある)ザ・ビートルズの「アイム・オンリー・スリーピング」をはじめとする1966~67年のジョン・レノン的な発想が散りばめられながらも、オマージュとしての記号の配置などに留まってしまうことなく、ダークスターの幻想性を有機的に表現している。
 明るいドローンのなかトム・ヨークめいた自己陶酔的なヴォーカル・チャント"-"(無題?)を挟んだあとの、5曲目の"ア・デイズ・ペイ・フォー・ア・デイズ・ワーク"のコーラス部分はジョン・レノンの"(ジャスト・ライク)・スターティング・オーバー"のそれとよく似ている。ピアノの質感もまるでジョンのデモテープのようだ。生活感をにおわせるタイトルも、アルバムをフィクションに閉じ込めきらないよう、ほどよく卑近な肌ざわりを与えている。たとえば経済的に貧しいなかでもクリスマスの夜を小さく祝うような、寄り添う温もりがある。

 ジョージ・ハリスンの"マイ・スウィート・ロード"におけるマントラ的アプローチに触発されたという7曲目の"アンプリファイド・イース(「増幅された安楽」)"は、発表時からよく言われているように、ポリリズムのコーラスがアニマル・コレクティヴとかなり似通っているものの、土埃がたちのぼるトライバルな躍動感というよりも、ヨーロピアンで壮麗な教会めいた響きがある。
 続く楽曲にも反復のコーラスが用いられており、そのままアルバムのラストまで瞑想的なアンビエンスが通底している。つつましくも勇ましいチェロの祝祭的な音。草原のなかの小川のようにせせらぎつづける電子音。アルバムは流麗な展開で締めくくられる。

 「ダブステップは終わった」。2009年の時点ですでにダークスターはそう語っていた。「自分たちはクラブに馴染まない」とも。
 そんな彼らに今作で見切りをつけたダブステップ期のファンは少なくないだろう。それだけでなく、『ノース』における暗いポスト・ダブステップのアプローチを好んだ層をも突き放してしまいかねないほど、ダークスターは音楽作家として歌(song)への挑戦を選んだ。ダークスターの"ニード・ユー"を会場SEにしていたトム・ヨークがポスト・ダブステップの沼へずぶずぶとハマりこんでいくのとは面白いほど対照的な道を、トムのファンが進んでいく。誰かひとりの趣味ではなく、3人全員が足踏みをそろえて、これまでの功績から離れ、別の景色へ向かっていけるなんて。すばらしい。英国フォークがほんのり薫るトラッドでシンフォニックなシンセ・ポップの次に、彼らの音楽の行く先はどこだろう。庭園を抜け、英国の森の奥へさらなる歩みを踏みだすのか、はたまた海を越え、ブルックリンか、南アメリカ、あるいはアフリカ、インドだろうか、あるいはどこでもないところ......。
 「思いもよらなかった内容に、最初聴いたときは間違えて別のCDをセットしてしまったのかと思ったほどだ。いやいや、間違っていない、これだ、ダークスターだ。」(野田努)とは、喜ばしいことに、前作についてだけの言葉ではなくなった。これから先も、何度でもそう言わせてほしい。ダークスターの3人には、どこまでも、どこでもないところへ旅をつづけて、返送先不明の便りを届けてくれることを願う。

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