Home > Reviews > Album Reviews > きのこ帝国- eureka
アキ・カウリスマキの映画に出てくる人たちは、まず、笑わない。あの映画の、人びとの笑わなさ、坂本慎太郎的な抑揚のなさが、多くのドラマと一線を画している。そして、あの、徹底的な笑わなさが、愛情表現の押し売りの戸棚の底から、その目立たないずっと奥から、何か美しいものを引っ張り出したのだ。基本的に、僕は笑いのある表現を好むが、作り笑いは必要としない。そして、ときとして、容赦なく笑いを剥奪するものに心惹かれることがある。自分もまた、カウリスマキの映画に出てくる人たちのような、笑いを奪われた人間のひとりであることを意識する。きのこ帝国は、そして佐藤の歌は、僕から笑いを奪う。
"夜鷹"は、滑らかで、トランシーで、サイケデリックなエレジーだ。この1曲は、佐藤がラップに触発された曲だと思われるが、トラックからは、オウガ・ユー・アス・ホールを彷彿させる柔らかい音響空間が広がっていく。佐藤の、魅惑的な、確固たる"孤独"は変わらない。しかし、彼女の歌詞......だけで語るのが野暮なほど、演奏されるすべての楽器の音色が夜空の星々のように煌めいている。宮沢賢治の天体趣味が、モータリック・ビートと出会ったとでも喩えられそうな、ロマンティックな曲。きのこ帝国のセカンド・アルバム『ユーリカ』の決定的な曲である。続く"平行世界"にも、バンドの真新しい響きを感じることができる。この曲も音数の少ない演奏を活かした空間的な録音によって、佐藤の詩世界をひと際輝かせている。
とはいえ、『ユーリカ』は、決してまとまりの良いアルバムではない。歴史上の多くのロック・バンドのセカンドのように、彼女ら彼らは、あーだこーだといろいろやっている。"国道スロープ"から"Another Word"への展開は、このアルバムのもうひとつの表情だ。抑揚があり、ドラマティックで、ときに感情を噴出させる。クールにはなりきれないのだ。
バンドがセカンド・アルバムで可能性を探ることそれ自体はしかるべき態度だ。その探り方が、ただがむしゃらなのか、それとも考慮の末の結実なのか、それとも......。ひとつ言えるのは、きのこ帝国は、もはや、忌々しくも、寒々しくも、苛立たしくも、腹立たしくもないということだ。来る日も来る日も泣いていた彼女は、ある朝、起き上がり、靴のひもを結び、歩き、あるいは少しずつ、走り出したのかもしれない。卑俗な人たちのいない場所などないことがわかっていながら。
"風化する教室"や"Another Word"、"明日にはすべてが終わるとして"......といった曲ではポップ・ソングを試みている。これらの曲を最初に聴いたとき、僕は、きのこ帝国もいよいよ音楽産業との妥協点を見いだしたのかと勘ぐってしまったが(もちろんそうは思っていない)、そうしたネガティヴな早とちりは、僕がふだん灰色の音楽ばかり聴いているからというだけではあるまい。
きのこ帝国というバンドには、まだ本人たちが気づいていない以上のポテンシャルがある。その大きさが小さく揺らいでいるとき、リスナーは引き裂かれ、困惑するのだ。"Another Word"など、最初の32小節までは、ファイスト風の爽やかなアコースティック・サウンドではないか。葬送のための陰鬱な音楽とはほど遠い......が、それでも、きのこ帝国は簡単に笑顔を売らない。"ミュージシャン"など、失恋中の友人にはとても聴かせられない曲だが、それ以上に、たとえば「狂った頭でいろいろ考えて/不安を抱えて老いぼれていくんだろう」という言葉に同意する人も少なくないだろう。
それは、アルバムにおいて、もうひとつの笑えない曲だ、が、しかし、非情さもない。『若きウェルテルの悩み』の系譜のスローバラードである。これが3番目、"春と修羅"が2番目、いや、"平行世界"が2番目に好きな曲かな、僕は。その2曲のみが、ビートがダンサブルだというのも大きい。振るのは頭ではない、腰だ。踊ってばかりの国だ。
佐藤がステージで見せる、あの傲慢さ、あの苦悩、あの冷淡さ、あの誠実さも、"夜鷹"のなかに美しく凝縮されている。自信を持って僕はこの曲を推薦する。それが、『ユーリカ』を聴いた僕の感想である。
殺すことでしか生きられないぼくらは
生きていることを苦しんでいるが、しかし
生きる喜びという
不確かかだがあたたかいものに
惑わされつづけ、今も生きてる
"夜鷹"
野田 努