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「佐藤」と名乗るぶっきらぼうな佐藤 文:水越真紀
きのこ帝国 渦になる DAIZAWA RECORDS/UK.PROJECT |
佐藤。......なんてぶっきらぼうな名前なんだ。しかもすばらしく反時代的だ。なにしろ検索できないじゃないか。これじゃフェイスブックにだって登録できない(たぶん)。ざまみろフェイスブック、ざまみろグーグル。と、他人のふんどしで罵ってみた。いかんせんフォロワーとストーカーとCCTVの違いがわからず、いまだ番外地に暮らす私なのだ。
それはともかく、きのこ帝国のソングライターでヴォーカリストでギタリストの佐藤だ。その声は「佐藤、なるほど」と頷かせられる素っ気ない、ユニセックスで透明な、同時に「これが(あのぶっきらぼうな)佐藤?」(あの、と言っても面識はないが)と言いたくなるようなウェットな声で、それが時折切なく歪み、聴いてる私の目の上辺りをぐさりと突き刺す。その声がメランコリックなメロディとナイーヴなつぶやきを連れて来る。
ところでまた話が逸れて心苦しいのだけれど、ちかごろ日本という「絶望の国」で若者たちは幸せなんだと言われている。ほんとなの? 「幸せ」と「お幸せ」は違うんだよなんて、私はフォローもフォロワーもいない虚空につぶやく。私が感じるところでは、私の属するこの世のなかでは寛容と不寛容が奇妙に入り組んで増大している。その寛容と不寛容がもたらす自由と不自由の数は結局のところ30年前と変わっていないのではないか? 寛容と不寛容は次第に馴れ合い、それぞれのパワーは減退している。セーフティネットと呼ばれる管理の網の目は細かくなり、寸止めの寛容と不寛容が真綿で首を絞めてくる。
佐藤のつぶやく、あるいは弾む、ときに小さく叫ばれる言葉は、距離感、というものを想起させる。それはストイックな距離感だ。
「許せない言葉もやるせない思いも/いずれは薄れて忘れてゆくだろう/でもたまに思い出し、お前に問いかける/憎しみより深い幸福はあるのかい」"退屈しのぎ"、「許されたいけど許せないから/誰も愛してくれない、君はそう言うだろう」"The SEA"、「復讐から始まって終わりはいったいなんだろう/償い切れない過去だって決して君を許さないよ/それでもやるしかないとか、それもエゴだって話」"夜が空けたら"と、収録された7曲にこんなに許す許さないって話が出て来る。いったい誰が誰を許さないのか? 誰のどんな行為が、許されないほどの罪なのか? あるいはこれは先鋭化した承認問題とも言えるのだろうか?
繰り返し現れる、どこか宗教性をかんじさせるこの観念が、宗教的であるが故に日本人が余り使えない、使いたがらないこの言葉が、佐藤を世のなか(ソーシャル)から浮き上がらせている。この不寛容がフォロワーあるいはCCTVが日々どこかで見せる待機型突発性不寛容(あるいはその裏腹にある過剰なまでの寛容)とは異質に見えるのは、直截的な言葉遣いだけでなく、それが向かう方向が、いつでも(経由を含め)自分自身に向かっているからだ。どこにも流れていくことのない観念が、渦巻くほどのエモーションの出口を求めて佐藤の視線を空へと向けさせる。埋められない、埋めたくない、埋めようとしない距離感を見失わせる渦、あるいは空を見る時に襲うめまいの感覚が、そのサウンドと相まって臨場感となっている。
「佐藤」と名乗るぶっきらぼうな佐藤の、つぶやきのようなヴォーカルから溢れてくる、捨てられないエモーションが、私を過去のさまざまな時間に引き戻す。「悩んで悔やんで迷って息して/生きる意味を探している/探してゆく」なんてね、ちょっと人前ではつぶやけないさまざまな時間に......。
文:水越真紀