「ピカ」と一致するもの

Sequoyah Murray - ele-king

 アトランタといえばいまじゃトラップのいわば聖地だが、セコイア・マーレイ(Sequoyah Murray)を虜にしたのはグライムスだった。そして彼はエレクトロニック・ミュージックに興味を抱き、地元のDIYコミュニティや即興/ジャズのシーンに出入りした。マーレイが今年の5月に〈スリル・ジョッキー〉からリリースしたデビューEP「Penalties Of Love(恋の罰)」は、“黒いアーサー・ラッセル”としてこぞって評価されているが、22歳になったばかりの若者の才能には、もっとさまざまな感覚が詰まっているという点において自由で、魅惑的かつ新鮮であることが先日リリースされたばかりのファースト・アルバム『Before You Begin』によって明らかになった。
 3オクターヴほどの音域を行き来しながら、バリトンヴォイスを自在に操るマーレイのヴォーカリゼーションは、ありし日のビリー・マッケンジーのようである。たしかにアーサー・ラッセル風だった「Penalties Of Love」とはまた違って、『Before You Begin』はグライムスの影響から来ているのであろうシンセポップ風の曲もあることも一因となって、色気と荘厳さを兼ね備えたマッケンジーを彷彿させる。つまり、イヴ・トゥモアがデヴィッド・ボウイならこやつはロキシー・ミュージックだ。恋がはじまったら、やがて終わりゆくであろうその甘美な時間は、しかし終わってはならない、断固として。

 両親ともに音楽家で、家にはプロのドラマーの父が作ったスタジオがあるという恵まれた環境で育ったセコイア・マーレイはポップスも大好きで、とくにビヨンセのファンであることを公言している。終わってはならない甘美な時間はポップスの本質でもあり、本作においてはミルトン・ナシメントとトロピカーナからの影響もあるそうだ。色気に満ちた声と実験性のあるポップ・サウンド(ゴスペル、アフロ、ラテン的サイケデリア)との素晴らしい結合は、この先大きな舞台にも昇りそうではあるが、ある記事によると今年ベルリンでマイク・バンクスに感銘を受けたというから、この若者はまだまだいろんなものを吸収していきそうである。
 近年はOPNであるとかローレル・ヘイローであるとか、ドレイクやジェイムス・ブレイクもしかりだが、ゼロ年代後半に脚光を浴びはじめた人たちもすっかりベテランと呼べるような年になって、そして同時に今後10年に重要な働きをしそうな若い世代が出はじめている。が、それにしても“Penalties Of Love”はキラーすぎる。

国府達矢 - ele-king

 前作『ロックブッダ』(2018年)が、あのすばらしい『ロック転生』(2003年)のその先を見つめた身体のアルバムであったならば、この『スラップスティックメロディ』と『音の門』は精神のアルバムである。もちろん、心身二元論をうんぬんしたいのではなく、ひとつのたとえであり、整理のしかただと思ってほしい。

 「コブシを回して歌ったほうが身体が喜ぶ」「頭の中が真っ白になった時に、アジア的な旋律が突然生まれた」「意識していないところでそうした音楽が肉体に刻み込まれていたのかもしれない」「アジア的なものに立脚して音楽を考えてみようと思い付いた」と、『ロックブッダ』の制作について国府達矢は語っている(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/17323)。BAD HOP が言うところの「内なるJ」ではないけれど、国府はおそらく、それよりもべつの視点と深度で自身の身体に埋め込まれた非意識的なものへと向き合った。極東の島国にうまれ、生きる者として避けがたくある、なにかに。そうした対峙が、独自のグルーヴと奇妙な拍節感をともなったリズム、旋律、節回しであらわされたロック・ミュージックへと、13年がかりで実を結んだのが『ロックブッダ』だった、と。

 対して、この『スラップスティックメロディ』と『音の門』は、『ロックブッダ』の制作過程で「廃人」となり、完全なる「鬱」状態のなかで副産物のように生まれたアルバムだという(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/22921)。

 うつ、ひいてはメンタルヘルスの問題というのは、いま、とにかくトピカルで、アクチュアルなものだ。(ある種の映画や小説とはちがって)音楽の世界では、どうも作り手がそれをオープンにし、共有することで聞き手を勇気づけよう、エンパワメントしよう、という論調になりがちで、それが求められているきらいさえある。それを否定したいわけではないけれど、それに窮屈さを感じる瞬間もある、とわたしはおもう。なにもやる気が起きない、だるくて起き上がれない、ねむれない、食事をする気力さえない、なにもかもがどうでもいい……。もちろん、手助けも社会的包摂も必要だ。それでも肯定的なものに、どうしてもインクルードされえないネガティヴィティというものがあるとして、それをそのままのものとして、ただあるがままに受け入れ、提示できるうつわや表現というものも、あってはいいのではないか。

 今回のふたつの作品についてミュージック・マガジン誌に語ったインタヴューで国府は、自身の父親について言及している。ギャンブル依存の父によって国府の家庭は壊れ、その父はいま、生活保護によって暮らしている、と。「そういう人とか、路上で生活をしている人を見ると、他人事だとは思えないんですよね」。社会に、ぎりぎりのところでインクルードされている者も、セーフティネットからとりこぼされてしまった者も、国府はじっと見つめる。そして、網の目のほつれから転がり落ち、路上にねそべる自身の姿を幻視する。彼は歌う。「だれにもなれず どこへもいけず/なんにもできずに/ただ ただよう だけのもの」(“日捨て”)と。あるいは、「あんまり かんじないから/ぼんやりとしてたから/きょうも いきていられた」(“うぬボケ”)と。

 『スラップスティックメロディ』と『音の門』での国府の歌、詞、音は、自身のネガティヴィティを認め、それをただそのまま素描しているかのようだ。わたしも抑うつ状態におちいったことがある、そのなかでこんな歌が生まれた、それによってわたしは回復した、あなたもこれを聞いてがんばってほしい、わたしもがんばるから、応援する、と言うのではない。スナップショットや記録映像のような、ただただこうだった、という、むきだしのなまなましさがここにはある。それ以上でも以下でもなく、なにかを考えることでさえおっくうだ、といわんばかりの歌がレコードとして定着され、音楽としてかろうじてつなぎとめられている。シンプルなメロディとふくよかなリズムで語られるロック・レコードの『スラップスティックメロディ』よりも、まるでデモのようなざらっとした音質の弾き語りを中心とした、アシッド・フォーキーでさえある『音の門』のほうに、とくにそれは顕著である。とはいえ、世を捨てつつも、『スラップスティックメロディ』の“not matter mood”や“fallen”といったエレクトロニックなプロダクションの曲では、ハイハットのあつかいかたなどに現代的な音と向き合う姿勢が感じられる点もまた、おもしろい(制作中にドラムを生に差し替えた、ということも国府は語っているので、おそらく、これらはそれ以前のなごりではないかとおもう)。

 曲を書く、つくる、歌う、吹き込む、という行為が自己治癒になりうることは、フランク・オーシャン(あるいは、兄が刑務所で受けたセラピーに着想を得て『Psychodrama』をつくりあげたデイヴ)などを参照せずとも、これまで多くの音楽家から語られてきたことではある。だが、国府の『スラップスティックメロディ』と『音の門』はセラピー的ではない。彼は自身の内側にびっしりと生えた、ざらざらとした表面の襞にひっかかったままの、どろどろとした言葉や音をそのまま吐き出している──二作を聞いていると、そんなふうに感じられるのだ。パーソナルだの、内省的だの、闇をさらけだしただのという粗雑な形容でこれらふたつのレコードをかたづけてはいけない、とわたしは感じている。重みを重みとしてそのまま引き受けること。否定性を否定性としてそのまま受け入れること。こぼれたもの、あぶれたものを、そのままのものとしてただ見つめること。国府が聞き手に手渡したこのふたつのアルバムは、そんなことを提示しているようにおもう。

The Mauskovic Dance Band - ele-king

 かつて1950年代から1960年代にかけて、ダンスホールやクラブには専属のバンドやオーケストラがいて、その頃のダンス音楽の主流であるラテンやアフロ・キューバンの生演奏を繰り広げる時代があった。その後1970年代に入り、ダンスホールはディスコティークに取って替わられて、バンドの役割も次第にDJへと変換していくわけだが、当時のディスコ時代でもMFSBやサルソウル・オーケストラなどはそうしたダンス・バンドの系譜を受け継ぐ存在で、バンドからDJカルチャーへの橋渡しをおこなった。ヨーロッパにおいても同様で、1950年代から1970年代にかけては多くのラテン・バンドが存在していた。ベルギーやオランダではニコ・ゴメス楽団、チャカチャス、エル・チックルズ、ショコラッツといったグループが活動していて、チャカチャスの“ジャングル・フィーヴァー”はムード・ラテンにディスコを取り入れた最初の例として世界中で大ヒットした。ベルギーとフランスの混成バンドのショコラッツは、セローンやドン・レイがいたコンガスと共にアフロ/ラテン~トロピカル・ディスコを確立した。オランダを拠点とするニック・マウスコヴィッチ率いるダンス・バンドは、それらかつてのラテン・ディスコ・バンドの現代版と言える存在だ。

 ニック・マウスコヴィッチはアムステルダムで活動するマルチ・ミュージシャン/プロデューサーで、トルコ系のミュージシャンたちによるサイケ/フォーク・バンドのアルティン・ガンに参加する一方で、マルチ・ミュージシャンのジャコ・ガードナーとニューウェイヴ/バレアリック・ディスコ・ユニットのブラクサスを組んでいる。そんなニックによる5人組ダンス・バンドは、彼の兄弟のチョコレート・スペース・ドニー(キーボード、エフェクト)、マーニックス(ギター、シンセ、パーカッション)、マノ(ベース)が中心となり、そこにクンビア・ミュージシャンのフアン・ハンドレッド(ドラムス)が加わっている。2017年にデビューしてスイスのレーベル〈ボンゴ・ジョー〉からシングルを2枚リリースし、その後2018年にアフロやカリビアンなどワールド・ミュージック/辺境音楽系に強いUKの〈サウンドウェイ〉から「ダウン・イン・ザ・ベースメント」というEPをリリース。この中の“コンティニュー・ザ・ファン(スペース・ヴァージョン)”という曲がジャイルス・ピーターソンのコンピ『ブラウンズウッド・バブラーズ・13』に収録され、彼の催す「ワールドワイド・アワーズ・2018」の“トラック・オブ・ザ・イヤー”にノミネートされるなどして注目を集める。そして7インチの“シングス・トゥ・ドゥ”を経て、ファースト・アルバムとなる本作を〈サウンドウェイ〉からリリースという流れとなる。アムステルダムのスタジオで録音された本作は、現在ポルトガルのリズボン在住のジャコ・ガードナーによってミックスされた。

 ザ・マウスコヴィッチ・ダンス・バンドのサウンドは、直接的には1980年代前半頃のアフロやラテン・ジャズと結びついたオルタナティヴ・ディスコやエレクトロ、ポストパンク~ニューウェイヴ・ディスコの中でも特にパーカッシヴでトライバルなサウンド、あるいはファンクとラテンが結びついたファンカラティーナなどの影響が強い。具体名を挙げればUSならアーサー・ラッセルによるダイナソー・Lやインディアン・オーシャン、オーガスト・ダーネルによるキッド・クレオール&ザ・ココナッツやサヴァンナ・バンド、リキッド・リキッド、コンク、ワズ・ノット・ワズ、UKならファンカポリタン、モダン・ロマンス、ブルー・ロンド・ア・ラ・ターク、ファンボーイ・スリー、ピッグバッグ、リップ・リグ&パニックなどだろうか。彼らのサウンドに共通するのは、どこか特定の国の本格的な民族音楽に倣うのではなく、世界の様々な民族音楽や辺境音楽をゴチャ混ぜにしたような無国籍感が漂うもので、ある意味で本場のサウンドではない偽物ならではの怪しさが漂うものだった(さらにそれらの源にあるのは、マーティン・デニーやレス・バクスターなど1950~60年代のエキゾティック・サウンドだろう)。
 ザ・マウスコヴィッチ・ダンス・バンドもそうしたB級感覚を継承していて、それこそがダンス・バンドといういかがわしい存在を体現している。チープなドラムマシーンやアナログ・シンセにキーを外したヴォーカルがフィーチャーされる“ドリンクス・バイ・ザ・シー”や“セイム・ヘッズ”がまさにそうで、1980年代のレトロ感満載のサウンドだ。性急なビートの“スペース・ドラム・マシーン”やファンカラティーナ調の“ダンス・プレイス・ガレージ”は、パラダイス・ガレージでラリー・レヴァンがプレイしていたようなアンダーグラウンド感一杯のもの。“パーカッション・アンド・スパジオ・サウンズ”は文字通りマッドでコズミックなパーカッション・トラック。スティールパンのようなパーカッションの音色が印象的な“アルト・イン・ヴァカンザ”では、このバンドにとってダビーなテイストも重要な要素であることを示していいて、“レイト・ナイト・ピープル”や“イッツ・ザ・ロング・グッディ”にもそうしたディスコ・ダブの要素が表われている。レトロなラテン・バンド・スタイルを下敷きにしつつ、ニューウェイヴ・ディスコやディスコ・ダブの要素を交えて現代的にアップデートさせた彼らは、2010年代以降のヴェイパーウェイヴの流れの中にも位置づけられる存在と言えるだろう。

Tom Zé Japão Tour 2019 - ele-king

 これまた事件です。60年代、カエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらとともにトロピカリア運動を盛り上げ、90年代にデヴィッド・バーンによって再“発見”された偉人、10年代以降も精力的に作品を発表し続けている現役バリバリの御大(『21世紀ブラジル音楽ガイド』をお持ちの方は165頁を開きましょう)、ブラジル音楽の生ける伝説、トン・ゼーが齢82歳にして初めての来日公演をおこないます。東京では単独公演、静岡では《FESTIVAL de FRUE 2019》に出演します。こんな機会はもう二度とないでしょうし、これは何がなんでも観ておきたい……SS席はすでにソールド・アウトですが、A席・B席の販売が7月10日12:00より開始予定。早めに申し込みましょう。

Tom Zé Japão Tour 2019

https://frue.jp/tomze2019/

Tom Zé in Tokyo
10.31 (木)
場所:三鷹市公会堂光のホール
(東京都三鷹市野崎1-1-1)
開場:18:30 / 開演:19:30
前売チケット
SS席:15,000円
S席:12,000円
A席:10,000円
B席:8,000円

FESTIVAL de FRUE 2019
11.2 (土) ~ 3 (日)
場所:静岡県掛川市 つま恋 リゾート彩の郷
(静岡県掛川市満水(たまり)2000)
LINEUP:
Tom Zé
and many more artists...

ハテナ・フランセ 第20回 - ele-king

 みなさんボンジュール。5月25日に終了したカンヌ映画祭について。私自身が参加していたわけでも、インサイダー情報があるわけでもないが、カンヌの映像を見ていてぼんやり思ったことを。

 審査員賞を『Bacurau』と共に受賞した『Les Misérables』は、2008年のパリ郊外で起きた暴動事件を下敷きにしたLadj Ly(ラジ・リー)の初監督作品。5月15日に正式上映されたこの作品のレッド・カーペットと授賞式が個人的に非常に印象に残った。そこにはKourtrajmé(クートラジュメ。クー・メトラージュ=短編の逆さ言葉)の面々が顔を揃えていたからだ。Kourtrajméは、映画監督キム・シャピロン、同じく映画監督ロマン・ガヴラス、ラジ・リー、そして映像作家トゥマニ・サンガレによって96年に立ち上げられたアーティスト集団。所属するのは当時は駆け出しの映像作家、ラッパー、グラフィティ・アーティスト、ダンサーなど。それぞれの表現手段はさまざまながら、ヒップホップ色が強めだった。彼らは名前の通り短編映画をとにかく量産しまくっていた。内容は、内輪受けギャグ的なしょうもない&意味不明なものも多かった。だがとにかく衝動的に仲間とクリエイトする、ということを標榜していたのだと思う。当時のKourtrajméのなかでは、ラッパーたちが比較的知名度のある方だった。Kourtrajmé正式メンバーのモロッコ系兄弟2人によるLa Caution(ラ・コーション)はインディながら大きめでカッコいい〈ワーグラム〉レーベルと契約していた。また、当時〈ニンジャ・チューン〉傘下の〈ビッグ・ダダ〉と契約して話題となっていたTTCなどもゆるく繋がっていた(TTCのMVをキム・シャピロンが撮っている)。TTCのテキ・ラテックスは、彼らをフックアップするべく、キム・シャピロンやロマン・ガヴラスの名前を要チェックの映像作家としてインタヴューで当時よく挙げていた。2000年前後のパリでは、Kourtrajméは大変イケていたのだ。その後キム・シャピロンは2006年にいち早く初監督作品『変態村』を、ロマン・ガヴラスはジャスティスの超暴力的MV「Stress」で物議を醸した後、2008年に初監督作品『Notre jour viendra(日本未公開)』を発表する。さらに2012年にはジェイ・Zとカニエの「No Church in the Wild」も手がけている。そしてキムの初監督発表と同時期に、それぞれが個別のキャリアを築き始めたことで「Kourtrajméとしてできることは、やりつくした」として解散した。

 そもそも、70年代の伝説的グラフィック・アーティスト集団バズーカのメンバー、キキ・ピカソことクリスチャン・シャピロンとマチュー・カソヴィッツがお隣さんだったことから、Kourtrajméは始まったと言っていいだろう。クリスチャンの息子キムは子供の頃からカソヴィッツの撮影現場などに出入りし、その友人でもあり、監督2作目『憎しみ』の主演俳優でもあるヴァンサン・カッセルとも自然に親しくなったという(カッセルは『変態村』の主演も務めた)。95年にカンヌ映画祭で監督賞を受賞した『憎しみ』は、パリ郊外の移民系青年達の絶望的な状況を見事に描き切った傑作だ。だが、この作品の監督マチュー・カソヴィッツは、映画監督の父を持つ決して貧しいとはいえない家庭出身、主演のヴァンサン・カッセルは大物プロデューサーの息子。公開当初から作品そのものは非常に高い批評を得たが、なかにはブルジョワ出身であるカソヴィッツが、郊外のゲットー文化を我が物顔で語ることに疑問を呈する批評家もいた。

 そしてその疑問は『Les Misérables』のレッド・カーペットを見ながら私が抱いた「どうやったらラジ・リーとキム・シャピロンが繋がるんだろう」という素朴な疑問にも繋がるのかもしれない。パリ郊外モンフェルメイユのシテ(フランスのゲットー)でマリ人の両親の元、13人兄弟の中育ったラジ・リーと、当時のパリで相当イケていたであろう先鋭的グラフィック・アーティストの息子キム・シャピロンの行動範囲がどう重なったのかわからないのだ。だが、5月27日付の新聞『Le Parisien』のなかにその答えが見つかった。ラジ・リーの住むモンフェルメイユにあるエルジェのContre de Loisirs(ソントル・ドゥ・ロワジール=学校のバカンス中に子供を預けられる施設)で10代前半の2人は出会ったのだそう。この託児施設は、ラジ・リーの学区とは若干ずれていたが「親父がちょっと高くてもブルジョワの子供の行く施設の方が規律がしっかりしてるだろう」との判断で行くことになったそう。そして、キム・シャピロンは祖父母の瀟洒な家が近所だったということでバカンスの間、エルジェに行くことになったのだ。このように普段の生活の文脈から離れた場所で出会った、ブルジョワの子供と移民の子供が仲良くなったのだと想像する。

 今回のレッドカーペットでは当事者のラジ・リーはもちろん、Kourtrajmé創立メンバーに加え、今や売れっ子テレビ司会者(日本でいうと有吉弘行みたいな感じ)となっている、ムールード・アシュール、いつの間にかKourtrajméの一員になっていたストリート・アーティストで写真家のJR、Kourtrajméの一員というイメージではないポエティックで真面目系ラッパー、オキシモ・プッチーノ、そして創立当時からKourtrajméのゴッドファーザーであったマチュー・カソヴィッツやヴァンサン・カッセルまで、関わった作品がない限り簡単にスケジュールを押さえられないような超豪華なメンバーが総揃いした。おそらくそれほど彼らの繋がりは強いものなのだろう。主題的にも資金集めが簡単ではなかったはずのラジ・リーの初監督作品が、カンヌ映画祭の、しかも正式上映に選ばれたということは、Kourtrajméにとっては祭り以外の何物でもなかったのでは。受賞の際にもちろんラジ・リーは授賞式まで参加したKourtrajméの面々の名前を挙げ感謝を捧げた。

「ジレ・ジョーヌへの機動隊の暴行で注目が集まったけれど、彼らの暴力は今に始まったことじゃない。この作品は僕なりの警笛なんだ」という『Les Misérables(原題、邦題未定)』は日本でも公開予定だそう。

La Caution Thé à la menthe
Kourtrajméのメンバーも多数出演しているMV。ヴァンサン・カッセルが出演している『オーシャンズ12』の劇中で使用された。

TTC Je n'arrive pas à danser
キム・シャピロンによるTTCのMV。不条理なユーモアとKourtrajméのメンバーが満載。

Justice Stress
ロマン・ガヴラスによるジャスティスのMV。あまりの暴力描写にメディアで叩かれまくった。

『Les Misérables』のフランス公開予告

Vampire Weekend - ele-king

 前作『Modern Vampires of the City』から6年もの時を経て届けられたヴァンパイア・ウィークエンドの新作『Father of the Bride』を繰り返し聞きながら、ぼくは複雑な気持ちになっていた。なんだかノれない。いや、正確にいうと、今年1月にリリースされた最初のシングル、“Harmony Hall”と“2021”を聴いたときからそうだった。次のシングルである“Sunflower”と“Big Blue”、そして“This Life”と“Unbearably White”を聞き、ますますその思いは深まっていった。これらの楽曲からは、ある種の音楽的な保守性を感じていた。鮮烈な2008年の『Vampire Weekend』とそれに続く2010年の『Contra』、そして悩ましげな2013年の『Modern Vampires』をそれぞれ初めて聴いたときの驚き、“A-Punk”や“White Sky”、“Step”や“Ya Hey”の力強さは、そこにはなかったと言っていい。6年前に沈鬱な面持ちでニューヨーク・シティを眺めていた吸血鬼たちの姿は消え、代わりに見えてきたのは、陽光が降り注ぐLAでにっこりと笑ってわが子を抱えたエズラ・クーニグの姿だった。そう、クーニグ自身が語るように、「人生は進む」。後ろに進んだら大変だからだ。

 “Harmony Hall”のシンコペーションするピアノやクワイア、コンガの響きからはローリング・ストーンズの“無情の世界(You Can't Always Get What You Want)”を、あるいはそれを意識的になぞったプライマル・スクリームの“Loaded”や“Come Together”を思い出した。そして、スティーヴ・レイシーとの“Sunflower”や“This Life”のギターの音色(『Father of the Bride』はギターのアルバムでもある)からは、一貫してバンドの音楽にインスピレーションを与え続けきたアフリカのポップ・ミュージックにおけるそれを想起した。つまりそこから聞こえてくるのは、驚きや鮮やかさというよりは、ある種の安心感をともなった既視感、既聴感。ぼくは『Father of the Bride』を聞いて、西アフリカのザイールを代表するギター・ヒーロー、フランコのCDを引っ張り出してみたり、持っていなかった彼の作品をいくつか買い足したりした。それから、大陸南部にあたるジンバブエの、トーマス・マプフーモのミニマルで陶酔的だが同時に戦闘的なチムレンガに思いを馳せたり、キューバ音楽からの影響が色濃いギニアのベンベヤ・ジャズ・ナシオナルをランダムに聞いてみたりもした。そんなことをしながら、〈シラール・レコーズ〉のファウンダーであるイブラヒマ・シラの娘、ファンタ・シラが書いた記事「ヴァンパイア・ウィークエンドに父の遺産を聞いて」を興味深く読んだ。

 〈シラール・レコーズ(Syllart Records)〉は1981年に設立されたパリのアフリカ音楽レーベルで、セネガルのユッスー・ンドゥールやマリのサリフ・ケイタを西欧世界に送り出し、1980年代から1990年代の、いわゆるワールド・ミュージックという市場の確立、その興隆に一役買った(忘れられがちなことだが、北・西・中央アフリカに多くの領地を持っていたフランスは、ワールド・ミュージック市場の要地だった)。その設立者の娘、ファンタは姉から手渡されたヴァンパイア・ウィークエンドのファースト・アルバムを聞いたとき、そこに父が紹介した音楽からの影響を見て取って、誇らしい気持ちになったという。セネガルのンバラ、コンゴレーズ・ルンバやスークース、ズーク・マンディング、コール・アンド・レスポンス……。コロンビア大学の学生たちによる無邪気で知的なアフロポップ風のインディ・サウンドは、「文化の盗用」という以上に植民地主義的だったが、そこにもっとも自覚的になれるはずのシラ自身にとっても問題は複雑だった。彼女はヴァンパイア・ウィークエンドの音楽が好きだったし、大切なものにも感じていたからだ。だが同時に、批判をまぬがれえないともシラは考える。彼ら自身がつけたバンドの見事なコピー「アッパー・ウェスト・サイド・ソウェト」も、スークースやルンバから影響を受けている彼らの音楽にはふさわしいものでなく、ナイーヴだとすら彼女は感じる。どうしてコンゴのキンシャサじゃなくて、南アフリカのソウェトなのか? シラはそう問いかける。

 ここにあるのは、大陸のそこここで独自の文化と様式を持ち、発展している多様なアフリカ音楽の一面化やステレオタイプ化の問題だ。ビザの問題で自国外へのツアーが困難になっているアフリカの音楽家たちを思いながら、シラは「アフロポップ」、「アフロビーツ」、「トロピカル」、そして「ワールド・ミュージック」という曖昧なタームに疑問を投げかけている。彼女のテキストを意訳するならば、アフリカの音楽やミュージシャンたちには(自国でそうされているように)尊敬とともに適切な名が与えられることが必要だということだろう。「アフロポップ」や「ワールド・ミュージック」といった定義の定まらない、ふわっとした言葉をあてがうのではなく、ましてや西アフリカの音楽から影響を受けたニューヨークのバンドを「アッパー・ウェスト・サイド・ソウェト」と呼んでしまうのではなく。

 コンゴ民主共和国の複雑な歴史性とアイデンティティを反映したルンバ/スークースの影響下から離れたとき、バンドは新しい道筋を描き出すだろうとシラは結論づけている。しかしヴァンパイア・ウィークエンド=エズラ・クーニグは、『Modern Vampires』で一度手放したかのように思えた西アフリカの音楽の要素を『Father of the Bride』で自覚的に、再び呼び戻したかのように思える。もちろん、このアルバムを構成しているものはそれだけではないとはいえ、“Rich Man”ではシエラレオネのギタリスト、S.E.・ロジーの“Please Go Easy With Me”がサンプリングされており、先の“This Life”や“Flower Moon”はフランコのギターの音色や音楽を連想させる。クーニグはこのアルバムをインスパイアしたものとして、セガのテレビゲームや三宅一生、ガンダムのポスター、ノースフェイスのテント……といったものを挙げているが、そういったものを並べあげる前に、『Father of the Bride』を音楽的にインスパイアしたものをあきらかにするべきなのではないかと、ぼくは正直にいってそう思った。

 アメリカを憂いながらもクーニグが自身の人生と新たな生命、そして伴侶を祝福するこのアルバムを、だからといって聞く価値がないものだと切り捨てるつもりはない。特にクーニグの言葉には、これまで以上の鋭さや詩的な熱を感じさせるものがたしかにある。たとえば、「怒りは声を求め、声は歌を求める/やがて何も聞こえなくなるまで、歌い手たちはハーモニーを響かせる」(“Harmony Hall”)という詞はエコー・チェンバーの描写として見事だと思ったし、「ベイビー、憎しみは常に門の前で待ち構えている/朝出かけるときには鍵をかけたはずだったけれど」(“This Life”)というラインからは、ヘイトを外部にあるものとして一面的に遠ざけるのではなく、内在し、逃れえない感情として向き合う姿を感じさせる。

 吸血鬼たちのビルドゥングスロマンとしても聞くことができる三部作を経て、ひとつのフェーズを終え、役割をまっとうしたヴァンパイア・ウィークエンドというバンドは、『Father of the Bride』で新しい展開を見せている。クーニグがカニエ・ウェストのレコーディングに参加した経験を念頭に、一曲ごとに複数のミュージシャンを関わらせた制作手法やソングライティングは、これまでにない試みだろう。きっと、ここがバンドの新たな始点になる。ピッチフォークのマイク・パウエルはこのアルバムをボブ・ディランの『セルフ・ポートレイト』や『新しい夜明け』にたとえているけれど、そのアナロジーをじぶんなりに言い換えれば、『血の轍』や、あの苛烈な『欲望』とローリング・サンダー・レヴューはこのあとにやってくるということ。ぼくはヴァンパイア・ウィークエンドの音楽にもう一度驚かせてもらえると、そう信じている。

内田裕也(1939.11.17-2019.03.17)さま

 2019年3月17日、あなたの訃報には驚きました。樹木希林夫人の葬儀への列席の際など、ここしばらくテレビで拝見する時は決まって車椅子に乗っておられましたし、通常の速度での会話もままならぬ様子に、「何故この人は身体を弱くしてしまったのだろう、まだ若いのに……」、と疑問を感じていました。死因は「肺炎」との事でしたが、癌などで治療中の人間が亡くなっても直接には「肺炎」となる事が多いと聞きました。わたしの父親も同じでした。やはり他にも大きな疾患があったのではないでしょうか。とにかく驚きました。
 ここ30年ほど、あなたは「ロックンロール」と「シェケナベイビー」、これらふたつのキイワードで世間を渡っていたという印象があります。2014年には指原莉乃と「シェケナベイベー」というシングル盤(エイベックス AVCD-48977/B)を出していました。29年ぶりのシングルという触れ込みでした。わたしは発売時に店頭で取り寄せて入手、今でも手元にありますが、付録のDVDは未だ観ていません。このシングル盤を切っ掛けにしたのでしょうか、同年7月には福岡でHKT48のコンサートにも出演していたのですね。失礼ながら全く知りませんでした。

 裕也さん、わたしが思い出すあなたの記憶は、確かテレビでザ・フラワーズのリーダーとして、“アイ・サンキュー”を唄った時です。1968年だった筈です。原曲はサム・アンド・デイヴのR&Bですから、ニュー・ロックのフラワーズとしてはちょっと違和感がありますが、“アイ・サンキュー”という表現自体がわたしには珍しかったので、今も憶えています。カットの最初と最後は裕也さんの顔アップじゃなかったかな。
 でもその前から存在は知っていました。何しろビートルズの前座を務めていたのですからね。覚えていますよ。3年ほど前にこの時の武道館公演の全てを録画で観る機会がありました。あなたは出番の後、一般客の入れなかったアリーナ最前列に座って彼等を観ていたのですね。あの4人に一番近い距離です。テレビにも映っていたかも知れません。
 4月3日青山葬儀場で行われた「ロックンロール!葬」のテレビ報道では、その時一緒に唄った尾藤イサオさんが「裕也さんはね、『前座じゃねえ、共演してやってんだ』ってずっと言ってました」と笑顔で語っていました。これ、とても良かったな。
 その他、加山雄三の映画『エレキの若大将』にバンド合戦の司会者役で出て来たのも観ています。こちらも上手くハマっていました。ただ“アイ・サンキュー”の印象は、それら以上に強く残っています。何故なのか分かりません。

 1968年当時の日本列島はグループ・サウンズの狂乱状態にありました。テレビもラジオも週刊誌もGSだらけ。小綺麗なお揃いの衣装を着て可愛らしい少年を装った不良たちが、「花」とか「小鳥」をモチーフに純真な「愛」を叫んでいました。ところが欧米ではすでに十代向けのビート・ポップスが、演奏や録音技術の成長と共に世の中を投影する表現行為に変貌しつつあったのです。その音楽は「ロックンロール」から「ロック」と呼ばれ始めていました。中学生の子供だったわたし自身も、漠然とではありますが世界の大きな流れを感じたつもりで、「何か革命的な事をしなくちゃ」と勝手に思い込んでいました。その頃の若者の殆どが、多かれ少なかれこういう思いに駆られていた筈です。しかしこの世界的胎動は断片的な芸能ニュースとしてしか日本に伝わらず、時代の変わる本質を捉えていた人たちは、ほんの一握りしかいませんでした。60年代後半の欧米で毎日のように起こっていた衝撃的な事実は、極東の島国に於いては海の向こうで起こっている出来事でしかなかったのです。
 裕也さん、あなたはビートルズと「共演してやった」後の1967年に、若者文化の震源地ロンドンの他ヨーロッパを旅していたんですね。そして帰国後その現地現場で実際に感じた意識を日本に持ち込んだのです。それが具現化されたのがフラワーズの結成で、この演奏集団はグループ・サウンズではなく、日本にはそれまでになかった真性ロック・バンドでした。
 1969年発表のLP『チャレンジ!』(コロムビアHMJA-108 再発)からは「欧米のロックに追いつけ追い越せ」というリーダー内田裕也の純粋な意欲、高い志が伝わって来ます。ジャケットは、草原に立つメムバの全裸写真。これだけでも充分に欧米水準です。GSの童謡モドキに惚けていたこの国では驚きでした。実はヴォーカル担当の麻生レミさんが他のみんなと一緒に裸になる事に拒否反応を示したので別撮りの合成で仕上げた、という噂もありますが。

 この作品がそのまま受け入れられるほど日本は進んでいませんでした。いま20世紀を知らない世代から逆説的に評価されているとはいえ、このLPには収録されなかったシングル曲“ラスト・チャンス”はモロ歌謡曲で、欧米のロックはまだ遥か遠い存在だったのです。
 フラワーズは、GS人気に陰りが見えお客さんもあまり入らなくなったジャズ喫茶出演の活動が中心でした。70年にスティール・ギターの小林勝彦さんとレミさんは「本場」アメリカに渡る事になり、グループは新たにメムバを増強。この時には裕也さんのもっと本格的なロック・バンドを創るんだ、という想いがありました。そして現れたのがジョー山中さんです。彼は491(フォー、ナイン、エイス)というキリスト教の教えに由来する名前を持ったグループ・サウンズで世に出ましたが、時すでにGS協奏曲は最終楽章で良い結果を出せず思案していたところを、裕也さんに掬い上げて貰ったのです。赤坂のクラブ出演中に見い出されたと聞いています。
 麻生レミと小林勝彦に、まだジョー・アキラとクレジットされているジョー山中を加えた過渡期の最強軍団フラワーズは2枚組LP『ロックンロール・ジャム’70』(Pヴァイン PCD-7228/9 再発)で聞けます。このアルバムは、モップス、ハプニングス・フォー、ザ・ゴールデン・カップス、そしてフラワーズが、渡辺プロダクションの運営だった銀座の「メイツ」というクラブで行った実演の記録です。グループを超えてメムバ相互のセッションも含まれた画期的な演奏会です。これ自体がおそらく裕也さん、あなたの企画ではないでしょうか。1969年に発表された『ライヴ・アドヴェンチュアズ・オヴ・マイク・ブルームフィールド・アンド・アル・クーパー~フィルモアの奇蹟』(ソニー SICP-5368/9 )が頭にあったのかも知れません。出演者たちは皆、欧米水準の同時代的音楽創造意欲を持っていました。
 ここでのフラワーズは凄いですよ。明らかにロックの音を出しています。ギターにはもうビーバーズから石間秀樹(今は秀機)さんが入っていて、レッド・ゼペリンのデビュー・アルバムに収められていた“ユー・シュック・ミー”を、ほぼ完璧に再現していました。この後フラワーズは、ジョー、石間秀樹、そしてベイスは上月ジュンさん、ドラムズに和田ジョージさんを擁して、ザ・フラワー・トラヴェリン・バンドとなります。裕也さんも基本的にはメムバの一人だったのですが、「リード・タムバリン」という人を食ったような楽器の担当で、実際の演奏に加わる事はありませんでした。彼が心の中で目指していた新しいサウンドに、自分は不要だと判断したのでしょう。でも活動には常に同行して、舞台にも上がっていました。結成直後の70年に「花の瘋癲楽団」が朝の若者向けヴァラエティ生テレビ番組「ヤング720(セヴン・トゥー・オウ)」に出演した時、裕也さんはスロウ・テムポーのロックに合わせて、静かに、思わせぶりにリード・タムバリンを振っていました。

 裕也さん、あなたをわたしが初めてぢかに見たのは、あなたがまだザ・フラワー・トラヴェリン・バンドの一員だった時です。場所は京都で、比叡山ロック・フェスティヴァルとかいう名の、スキー場で夜通し行われた音楽大会でした。お昼過ぎから翌朝まで長い時間の開催だったのですが、他の出演者は稲垣次郎とソウル・メディア、そして北山修しか思い出せません。
 真夜中を過ぎて会場に着いたザ・フラワー・トラヴェリン・バンドは別格的なカッコ良さでした。知り合いに会うと深夜なのに「あ、おはようございます」なんて言ってるのもプロっぽかった。野外の音楽会ですから比較的自由に動けたので、わたしは惹かれるようにすぐそばをウロついていたのです。裕也さんに声を掛けたら「おう」と気軽に挨拶を返してくれました。そのすぐ後でツボを抑えられず時間のかかった音響セッティングに苛立っていたのも覚えています。グループはまだ欧米ロックのコピー演奏をしていました。キング・クリムズンの“21世紀の精神異常者”やレッド・ゼペリンの“胸いっぱいの愛を”などは迫真の出来で、大ウケでした。他には「チャーリー・マッセルホワイト・ブルーズバンドの……」と裕也さんが紹介した重たいブルーズ曲も忘れられません。
 裕也さん、あなたはこのステージでリード・タムバリンを打ち鳴らす事はありませんでしたが、演奏に加わらないメムバとして微妙な立場を維持していました。その距離感と身なりが全くもってクールでカッコ良かった。わたしはシビレました。

 その頃の日本に於けるロックは、海外の流行や国内のレコード会社に振り回されていたのが実情です。大きなアムプリファイア、エレキギターを始めとする電気楽器、騒々しい大音量、そしてヒッピーのような風俗と、見た目はそこそこですが、肝心な音楽の主題が希薄でした。結局は借り物で、外側を真似しているだけだったのです。それでも裕也さんは「インタナショナルにならなきゃダメだ」という主張を訴えました。
 この時にザ・フラワー・トラヴェリン・バンドが目標としていたのはイギリス風なハード・ロックだった筈です。レッド・ゼペリンの衝撃波は世界中に凄まじく伝わり、極東の島国にも及びました。わたしは当時からこのグループを目の敵にするほど嫌いなのですが、彼らによって音楽の悦びに目覚めた人たちがこの国にも大勢いる実状は、認めざるを得ません。
 電気楽器、演奏技術の進歩、大音量化、そしてブルーズ的な歪みが美徳になり始めた世の中でポップ音楽がハード・ロック的に進んでいくのは自然な流れで、この国の洋楽ジャーナリズムもハード・ロックを支持していました。裕也さん、あなたは欧米に堂々と対抗出来る、オリヂナル曲を持ったレッド・ゼペリン級のハード・ロック・グループを国内で結成し、世界に君臨する事を目指していたのですね。
 そのためにメムバを送り出した、無謀とも言える1971年のカナダ武者修行で、彼らは途方に暮れていたそうです。見知らぬ土地で頼れるのは自分たちだけ。演奏家ユニオン加入もままならず、仕事を取る手立てもない。「本当に困ってると、いつも裕也さんがお金を持って来てくれた」、これは石間秀機さんから聞いた話です。
 「インタナショナルで勝負するために英語で歌うんだ」これが裕也さんの絶対に譲らない持論でした。GS以前からこの国では「洋楽は邦楽より一階級上の音楽」というおかしな価値基準が定着していて、原語で唄うのがカッコ良く本格的とされていましたから、音楽愛好少年たちがバンド編成で操るのは、覚束ないとはいえ自然と英語になります。それを裕也さんは「インタナショナルで勝負するために」と、強く意識して徹底したのです。
 すでに当時この国では「フォーク」という音楽領域が、青少年を蝕みつつありました。奴らは時折り反体制的な姿勢を見せますが、ほとんどは私小説のような痴話を生ギターで爪弾きながら語る、これがこの国の「フォーク」音楽です。GS騒動で疲弊した音楽業界、次のスターやヒット曲を求める若い世代はすぐ飛びつきました。ロックに較べて装備が軽く真似もし易い。自作楽曲もテキトーにすぐ作れます。
 この形はあっという間に全国津々浦々で定着しました。舞台の上で椅子に座って譜面台を置いてギターの弾き語りをする日本のフォークの様式は、この時に始まったのです。ボブ・ディランは決してそんなスタイルで唄わなかったのに。
 一方で、バンド編成でロック的な音楽性を持っていても母国語、つまり日本語でオリヂナル曲を書き唄うグループが登場し始めます。こちらの代表は、はっぴいえんどです。彼らはエイプリル・フールという名前で新宿のディスコティックやゴー・ゴー・クラブなどに出演していて、中心人物、柳田ヒロのオルガンをフィーチュアしたハードなプログレ的ロックを得意としていました。1969年発表のLP(コロムビア YS-10068)で、その現実を確認出来ます。彼らもまた「外国での反響を知る為には英語でないと……」という方針から、日本語詞を持つ歌はアルバム中2曲だけでした。
 そのエイプリル・フールが発展的に解消し新規に組まれたグループが、はっぴいえんどで、自分たちが日常で接した事象を、普段しゃべっている言葉で、ロック編成の趣味の良いアンサムブルに乗せて唄うという新機軸でした。日本語詞という事でフォーク系の演奏会にもよく出演し、松本隆さんの描いた都会の情景、細野晴臣さんに代表される手堅い演奏で人気を集め、徐々に高い評価も得て行きました。
 裕也さん、あなたはこれが面白くなかったんですね。月刊音楽雑誌『ニュー・ミュージック・マガジン』は、他の音楽誌や電波媒体が採り上げないこの国に於けるロック現象を、いつも現場から真剣に捕らえ、誌上で重要な主題として展開していました。そこでよく行われたのが座談会形式の討論です。あらゆる状況が過渡期だったその頃は、さまざまな問題について語り争われましたが、最も燃え上がるのは「フォーク対ロック」、「日本語対英語」論争でした。もちろんロック派、英語派の代表は内田裕也です。これらの座談会は大抵興奮気味に終わっていました。

 ところで、今も昔もこの国の一般的な人たちの英語力は、それほど高くありません。洋楽を聞いていても、殆どは何を唄っているのか分からない人が殆どで、わたし自身もそこに含まれます。何で日本人が日本人の為に英語で歌わなきゃいけないんだ、と矛盾を感じていた人たちが多くいたのも事実です。
 この頃の欧米にカブレて作られたロックには言葉がなかった。だからフォークにやられてしまったんです。キャロルが1972年に最初のアルバムを吹き込む時、詞(ことば)を英語にするか日本語で行くか、真剣に討議されたと聞きます。英語だったらあんな成功は成し得なかったのではないでしょうか。
 この言語論争にしても裕也さんは「インタナショナル」以外の根拠が希薄で、“銃を取れ”、“世界革命戦争宣言”などを刺激的な日本語で唄った頭脳警察のパンタとは仲が良かったですから、何も日本語で唄う事の全てを忌諱していた訳ではないのでしょう。フォークと呼ばれる健全で保守的、絶対安全地帯の雰囲気、器用に立ち回る小賢しさ、ビューチフルな優しさを強調する軟派な心情が、若者として許せなかったんだ、わたしはそう考えています。まして「ですます」調で都会東京に育った微熱少年の繊細な心の動きを唄う「はっぴいえんど」の動きは大いに癪に障った筈で、これには当時からわたしも同感でした。ただ若者たちのはっぴいえんど支持は強くなる一方で、それが更にあなたを苛立たせたんでしょう。
 この裕也さんの心意気は、田舎育ちの人間にも共感出来ます。その頃のわたしはエルモ・ジェイムズに出会ったばかりでブルーズ音楽にイカれかけていたのですが、迷う事なく裕也派に従いていました。

 今世紀になってはっぴいえんどはとても高い評価を受けるようになり、メムバの細野晴臣さん、大瀧詠一さんは神様のような存在です。そういう再評価の時に、裕也さんとのせめぎ合いの事実がどこからも語られないのが、わたしとしては大いに物足りない。面白い話があります。この論争が激しかった頃、恐らくは1971年前後だったでしょう。はっぴいえんどその他の「フォーク」な人間たちが裕也さんに呼び出されて詰問されたというのです。場所は品川の方で、座敷に座らされて「お前らどういうつもりだ」と、責められたそうです。これは呼び出されたひとりの方から聞きました。ただその場の誰にもこの人は何を言っているんだろう的な印象しかなく、はっきりとした答えも出ないままシラけて散会となったそうです。
 こうした独り相撲や空回りは、常に裕也さん、あなたの得意技でした。まだバンド付きの専属歌手として唄っていた頃、自分のリパトゥワにデューク・エリントンの“キャラヴァン”を選び、一生懸命に稽古して「どうだ、参ったか」とばかりに披露するつもりだったその日、ジャズ喫茶で出順が先だった別のグループが同じ“キャラヴァン”を採り上げ、フツーに唄われてしまったそうです。裕也さんは激怒、「どういうつもりだ」とその唄い手を裏口に呼び出し、半ば喧嘩腰で抗議したという話が自伝に出ていました。当の相手は何の話なのかさっぱり分からなかった事でしょう。

 1970年代初頭の音楽会は大抵がフェスティヴァル形式で、個人やグループの単体公演などはまだ現実的ではありませんでした。そういう場合には関わる全てを取りまとめる人間が必要です。企画立案から始まって、日時場所の決定、出演料、出順、使用機材、告知宣伝、入場券販売、警備そして一番大切な精算など全般を取り仕切る顔役として「プロデューサー」がいなければ開催は出来ません。裕也さんはロックの代表としてこの大役をいつも背負っていました。他に誰もこの種の業務を引き受け、行える人間がいなかったからです。しかも大抵の場合は自分も出演者のひとり。「全部仕切って自分も唄って、それでみんなにギャラ払ってっていうの、ひとりでやるんじゃ辛いね」こんな事も言ってましたね。その通りでしょう。プロデューサーは名誉職ではありません。
 その頂点が1974年の郡山ワンステップフェスティヴァルでしょうか。福島県郡山市の陸上競技場で行われたこの野外音楽会には全国から41組もの「ロック」演奏集団が参加した大規模なものでした。ヨーコ・オノ・アンド・プラスティック・オノ・スーパー・バンドを出演させられたのも、高く評価された点です。内田裕也の考えるロック革命が一歩実現に近づいたのです。一般公演で来日中だったクリス・クリストファスンとリタ・クーリッヂが飛び入り的に出ていたのは、わたしもこれまで知りませんでした。確かに「インタナショナル」です。
 ただし当然ながら現場はかなり混乱していたようで、関係した人たちは終わってからもさまざまな処理に追われました。なのにこの一大催事はすぐに忘れられてしまうのです。わたしより15歳ほど年下で地元郡山出身の非常に真面目なロック音楽好きが、このワンステップフェスティヴァルについて全く知らなかったのは少々驚きでした。
 裕也さん、あなたはここで当時はキャロルのメムバだった矢沢永吉さんと揉めたんですよね。彼の「ヘリコプターで会場に降りたい」という要望を主催者であるあなたが拒否したのが原因だったとか。この確執はその後も続いたようで、ふたりは仲が良くないというのが通説でした。しかしキャロル最終公演のゲストとしてエーちゃんに「ロックンロール・ウチダ・ユーヤ」と呼び出され「俺と矢沢はいろいろあったけど、解散と聞いて残念に思う。4人のメムバに暖かい拍手を送ってやってくれ」と感動的な檄を飛ばしています。小雨のパラつく1975年4月13日、日比谷野音が一番盛り上がった瞬間は、この時でした。わたしも観客としてそこに居ました。実況録音盤『1975.4.13』(フィリップス PHCL-3031)で、次に唄われた“ジョニー・ビ・グーッド”に繋がる流れを聞く事ができます。
 さて内田裕也プロデュースのワンステップフェスティヴァルは翌75年にワールド・ロック・フェスティヴァルとなります。今度は一箇所ではなく札幌、名古屋、京都、東京、仙台を転戦する全国的な催事でした。海外からはジェフ・ベックが、マクス・ミドルトゥン、バナード・パーディらを連れて参加。他にもニューヨーク・ドールズ、フェリクス・パパラルディが出演しました。目玉となるジェフ・ベックが京都と仙台の公演を体調不良で欠場したものの、結果は成功。国内演奏家も海外からの参加者も対等に扱う姿勢に、裕也さんの「インタナショナル」感覚が現わされていました。この時に「イーストランド」という名の事務所も設立されたのではないですか。これが40年以上続いている毎年大晦日に始まって元旦に終わるニュー・イヤーズ・ロックフェスティヴァルに繋がっているのでしょう。

 1973年4月にフラワー・トラヴェリン・バンドの活動が休止状態になると、裕也さんも人前に出る事がなくなりました。それで本腰を入れてロックンロールを唄い出しました。正式なデビューは1959年で、持ち歌はロックンロールと洋楽ヒットのカヴァでしたから、原点回帰とも言えます。ただフラワー・トラヴェリン・バンド時代にだって、得意とするロックンロールは冴えていました。このグループは「欧米に堂々と対抗出来るレッド・ゼペリン級のハード・ロック」が目標でしたし、独自の東洋風なオリヂナリティも加味されていましたから、実演では重たくて複雑な長時間演奏という楽曲が続くのです。その中間部に、裕也さんが登場して古いロックンロールを数曲、チョコチョコっとキメる。これが何とも言えずカッコいい。当時出回っていたレッド・ゼペリンの海賊実況録音盤なども参考にしたのでしょうが、こんなイカした組み合わせはなかったですね。ピカリと光ってました。お客さんも大喜びで気分転換にもなり、重たくて複雑なフラワーの後半戦もより充実します。
 この内田裕也短縮版ロックンロール・ショウには、実はわたしも参加した事があります。72年のフラワー凱旋公演の前座を務めた時に、楽屋でわたしの奇妙な衣装を裕也さんが気に入ってくれて「ユーは何を弾くんだね」と声を掛けてくれたのです。「ピアノです」と答えると、「真ん中でロックンロールを演るから、そん時に出て来いよ、ただし、そのままのカッコで」と誘ってくれました。高校3年生の向こう見ずは喜び勇んで飛び入りしました。キイはその場で石間英機さんが指で教えてくれました。“ブルー・スウェード・シューズ”は「D」で二本指のVサイン、“のっぽのサリー”は「G」なので五本指、じゃんけんの「パー」です。
 わたしは遅れてきた単純なロックンロール好きで、その頃は周囲に数多蔓延るハード・ロック狂どもにひとりで抵抗を続ける毎日でしたが、ここでカタキを取れました。生まれ育った静岡市で1972年に毎月開催されていたサンシャイン・コンサート第3回の出来事です。

 唄い手に戻った裕也さんは専属の「1815ロックンロール・バンド」と共に活動を続けますが、何しろここはメンバが不定で、独自の響きを追求したわけでもありません。リパトゥワにも余り変化はなく、リード・ヴォーカリストの属性だけで維持されていた感が強いですね。結局ロック系フェスティヴァルでの賑やかし的な域を超えられなかったような気がします。
 個人名義のレコード制作も数えてみれば数になりますが、わたしには消化不良となるものが多く、単純なロックンロール好きには、1973年の『ロックンロール放送局』が一番しっくりと来ます。
 その後、裕也さんは映画に出るようになります。前述のように若い頃から端役で何本もの作品に出演していますが、70年代後半からは、いわゆる「問題作」から重要な役どころで声が掛かるようになり、1986年発表の『コミック雑誌なんかいらない』では脚本も担当しました。
 この頃から「内田裕也はコワモテで乱暴な男」という一般認識が強くなって来たように感じます。確かに昔から気に入らない事があると、すぐ喧嘩腰になって言い掛かりを付けるような性格でしたが、ロックに命をかけていた頃のあなたはある意味で謙虚だった。映画に出るようになってからは、確立した「危険な」一般認識の中だけで生きるようになってしまったように見えます。
 もちろん世の中にはそれがカッコいい、として持て囃す人たちが大勢いる事も分かっています。ただ裕也さん、あなたには功成り名を遂げた芸能人が一番売れた頃の自分のパロディを演じて生きるような事は、して欲しくなかった。
 1991年の都知事選立候補も納得が行来ません。政見放送を見ました。あれではただのスタンド・プレイと取られても仕方ないのではないでしょうか。得票は意外と多かったようですね。投票した人たちは何をあなたに託したかったのでしょう。芸能人であろうと運動選手でも、政治に興味を持つのは当然と考えているわたしの見解です。

 裕也さん、あなたが日本にロックを浸透させようと躍起になっていた頃、あなたはふたりの人たちに助けられています。ひとりは中村とうようさんです。1969年にニュー・ミュージック・マガジン社を設立し、「ロックのリトル・マガジン」として『ニュー・ミュージック・マガジン』を創刊した、初代編集長です。
 ふたりの関係を象徴的に現す出来事に、わたしは出くわしています。以前、月刊誌『出版人・広告人』という業界誌の2015年3月号に書いたので、そこから引用いたします。「中村とうよう お別れの会」での話です。

  中村とうようニュー・ミュージック・マガジン(1980年ミュージック・マガジンに改名)編集長は後年、博識な民族音楽愛好家、重鎮として音楽界に君臨していたので、弔辞も「ワールド・ミュージック」への貢献を讃える内容が多く、会全体は非常にアカデミックな雰囲気に満たされていました。
  その最後に、ロックンロール内田裕也が突然登壇。「ワールド・ミュージックが何だ。俺たちにとって中村とうようの最大の業績は、この国に『ロック』を正しく紹介した事にあるんじゃないのか」というような啖呵を切ったのです。カッコ良かったですよ。
  集まった人たちは今でこそ、様々な音楽業務、研究、愛好に携わっていますが、69年のニュー・ミュージック・マガジン創刊期、あの夜明け前に、同じ夢をロックに託した人たちのはず。そこを振り返らないで、ナーニが民族音楽だ、というひと言。みんな凍り付きました。
  何となくお上品な雰囲気がつまらなかったわたしは、その時に思わず「異議なし」の拍手をしました。極めて自然な反応だったのですが、周囲からの冷やかな視線放射を、全身に浴びせられました。そこをカメちゃんが「あ、拍手が起こりました」と被せてくれ、すぐに雰囲気は楽になりました。

 これは、この会で司会を務めた亀渕昭信大先輩について書いた文章ですので、少し焦点がズレていますが、雰囲気は伝わりますでしょうか。遅れて来た裕也さんは白髪を肩まで長く伸ばして、ステッキを突き、上着、ズボン、スニーカーまで白という恐ろしい出で立ち。それだけで、参加者全員が震え上がりました。
 確かに『ニュー・ミュージック・マガジン』誌の創刊はこの国の音楽にとって意味ある事でした。それまで音楽産業に於ける消耗品的だったポップ音楽が世界を変えて行く原動力になりかけていたこの時代に、その動きに対応していたのは『ニュー・ミュージック・マガジン』だけです。そして紹介される音楽の中心はロックでした。
 中村とうよう編集長は誰よりも裕也さんを可愛がっていたように見えます。同じ関西出身者という事よりも、相手が誰であれ世界水準の音楽と対等に接する姿勢、そして長いものには巻かれない反骨精神に共鳴したのではないでしょうか。先に述べたように、他のどんな媒体からも無視されていたこの国に於けるロック現象を重要な主題として展開していた『ニュー・ミュージック・マガジン』を読めば、常に孤軍奮闘という表現がぴったりの裕也さんの動向も測り知ることが出来ました。
 1972年11月号に掲載された、ふたりの半ば個人的なやりとり「ロックンローラーの苦悩につての往復書簡」は、生々しく感動的な内容であると共に、当時の困窮したロック状況を的確に伝えてくれます。実際その頃のロックの人間は本当の食うや食わずで喘いでいました。この時代に彼等がどうやって生計を立てていたかは、大きな謎です。内田裕也もそのひとり、いや代表でしょうか。「金持ちのボンボンかヒモでもなけりゃ、ロックは続けられない」という名台詞を吐いたのも裕也さん、あなたでしたね。
 1973年5月号からは本誌で内田裕也対談が始まります。第1回は五木寛之が相手。その他沢田研二、パンタ、ロンドン取材では犬猿の仲だった成毛滋、フェイセズに加入した山内テツなどが登場、ロックの事実に則る充実した対論が繰り広げられました。連載終了後も何度か内田裕也は誌面に登場します。「内田裕也をなんとか助けよう」そんな情熱的な想いが中村とうよう編集長にあったとわたしはずっと感じています。
 最新の2019年6月号ではあなたの追悼巻頭特集が組まれていて、長いお付き合いのあったエディ藩さんと近田春夫さんの対談が面白かったですね。本音で語られた様々な出来事の思い出から、裕也さんの人格が浮かび上がって来ます。ただこの特集自体が、わたしには大いに意外でした。マガジンとの関係は1991年の都知事選出馬以降、断絶状態だった筈です。中村とうよう元編集長が亡くなった後の2011年10月号に掲載された2頁の談話記事以来でした。現在の編集部員に裕也さんと接触のあった人間はいないでしょう。
 さてもうひとり、あなたを守ってくれたのは折田育三さんです。日本グラモフォンから新設のワーナー・パイオニアに移った折田さんは、ロックの世界をリードしていた親会社ワーナー・ブラザーズに倣ってロック路線を突っ走りました。その代表格がフラワー・トラヴェリン・バンドです。折田さんの理解と協力がなければ『サトリ』から『メイク・アップ』までのレコードが作れなかっただけでなく、グループの存続すら危ぶまれた事でしょう。アトランティック・レコードのネスヒ・アーティガンとの間でシングル盤「サトリ パートII」全米発売の契約を結べたのも、橋渡しをした折田さんのおかげです。その後も内田裕也名義でLPを何枚か作ったり、日本テレビ夕方の子供番組「マンガ・ジョッキー」の主題歌として裕也さんに「マンジョキ・ロックンロール」(ワーナー・パイオニア L-1141E)を唄わせたのも、絶対に折田育三さんの仕業だと睨んでいます。
 裕也さんを大切にしていたという点では、折田さんもとうようさんに負けないでしょう。ワーナー・パイオニアが六本木にあった頃は、彼の権限で内田裕也専用の机が置かれ専任者も出入りしていて、事務所のように使わせてもらっていましたね。あの人はグラモフォン時代に担当していたスタックスのR&Bが大好きな、音楽の分かる人間でした。オリヂナルで世界水準の音楽を作ろうと努力している裕也さんに、大いにこと寄せたのではないでしょうか。
 1981年12月、わたしは六本木ピット・インで、シカゴからやって来たジョン・リトル・ジョンが演奏するブルーズ・ショウのラジオ放送用収録をしていました。その開演直前に、「今そこで裕也にあったんだよ。本物のブルーズのライヴだから、お前も観とけって誘ったんだけど、あいつ来ねえんだよ」、という会話を耳にしました。喋っていたのは、中村とうようさんか折田育三さんのどちらかです。憶えていませんか、裕也さん。

 袖すり合う程度の縁を頼りに、わたしたち静岡ロックンロール組合が1973年に自主制作した『永久保存盤』を送ったら、「このレコード全国で出してやる」と六本木のアマンドに呼び出されました。そしてすぐそばのトリオ・レコードに連れて行かれて、担当者に引き合わされ「マスター・テイプを持って来い」となりました。偶然そこにかまやつひろしさんが居合わせて、「こいつロックンロールなんだ」なんて紹介されて、もうわたしは舞い上がりの絶頂に昇り詰めました。ただ肝心の裕也さんは、この後にすぐニューヨークへジョン・レノンとオノ・ヨーコに会いに行く予定が控えていて、頭の中はそれで一杯だったようでした。「俺はロペに寄ってく。じゃあな」と外苑東通りを信号無視して渡っていった姿を、まだ鮮明に覚えています。ベルボトムにロンドン・ブーツ履いててカッコ良かった。
 マスターはすぐ届けたのですが、結局この話はそれっきりでした。この年は「ロックンロール馬鹿」公演や結婚もあってご自身が忙しかったから、それどこじゃなくなったんでしょう。1990年代に取材でお会いした時、赤坂の蕎麦屋で先の「ロックンロール共演」やこの『永久保存盤』の一件を話したのですが、潔いほど何も覚えてくれていませんでした。そうそうトリオ・レコード事業部の前原進さんという、その時の担当にも後年お会いする機会があったのですが、この人の記憶にも全くなかった。ほぼ幻のような話です。わたしたちにウラミツラミは何もありません。確証はありませんが、この手の話は他にもあったんじゃないか、そんな気がします。
 その何年か後に『週刊プレイボーイ』の企画で「内田裕也が選ぶ12枚のロックLP」に組合の『永久保存盤』入っている、と人づてに聞いた事があります。わたしは実際に確かめた事がなかったのですが、先日の訃報の後で知り合いが証拠写真を送ってくれました。選出の厳密な基準は分かりませんが、スライやストーンズ、キャロル、頭脳警察と並んでいるのは密かな誇りです。フラワーが入っていないのはいいのかな。
 この自主制作盤は2008年、若い世代に「発掘」されCDになりました。正直なところ、とても恥ずかしかったですね、聞き直すのは。

 裕也さん、あなたはいつも時代の狭間に生きていました。わたしがそれに気づいたのは、20歳を過ぎた頃です。例えばロカビリー歌手でデビューした1959年にはもう時代は変わっていて、明るく楽しく健全な洋楽ヒットに日本語詞を乗せたカヴァ・ポップスが台頭していましたから、ここでは大見得を切る事が出来なかった。66年から押し寄せたグループ・サウンズの狂乱期にはすでに10代の男の子ではなく年長者でしたから、渦の中には入れませんでした。大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」であのGS筆頭タイガースをスカウトしたにも関わらず、です。当初はメムバのひとりで、グループ名も「内田裕也とファニーズ」ではなかったでしょうか。それがプロダクションの意向で追い出されてしまった。そしてロックの時代には初めから重鎮でしたから、思うように動けなかったようにも見えます。周りの人もあなたの扱いには困った筈です。
 常に時代とのズレがあって、早いのか遅れているのか微妙な位置でした。これは運命とも言えます。先に挙げた『ニュー・ミュージック・マガジン』の連載対談の中では、この自分の動きと同期しない時代との葛藤が何度か顔を覗かせていて、自分を振り返りながら今までになく深い思考と共にあったような憶えがあります。終生付き纏った、いや、あなたを支配したと言っても良い、潜在的な劣等感にはこの皮肉な現実が作用したのでしょうか。わたしの知りたいところです。
 アルファ・レコードから“学生街の喫茶店”の大ヒットを飛ばしたガロ、彼らを見出したのも、裕也さん、あなただったそうですね。レコード制作の話が裕也さん主導で進んで行く中である日、打ち合わせにはミッキー・カーチスさんが出て来た。メムバのヴォーカルこと大野真澄さんが「裕也さんは……」と尋ねたところ、ミッキーさんが「いろいろあったんだよ」と吐き捨てるように答えたそうです。この話も面白くありませんか。

 裕也さん、あなたはとんでもない照れ屋だったのではないですか。MCなどに英語を使うのは、その現れに見えます。その反面、強烈な自己顕示欲を義務であるかのように背追い込んでいる。この矛盾に適切な対処が出来ないまま、「ロックンロール」と「シェケナベイビー」だけで世を凌ぐ存在が、一般的な印象になり浸透してしまった。これは悲劇です。
 1973年以来続いた不思議な夫婦関係も大いに話題となりましたが、結局は相手が樹木希林さんという少々変わった、しかもしっかりした女優だったからこそ面白い話となったのではないでしょうか。「ここ数年間、ずっと芸能界的なところから離れよう、離れようと努力し続けて来た」、これはあなたがロックの流布に没頭していた頃に、ふと漏らしたひと言です。わたしの心には強い説得力を持って響きました。「芸能界的なところ」とは、かつて在籍していた渡辺プロダクションなのかも知れません。ただ結局は大物女優の破滅型亭主という芸能人で終わってしまった。これも悲劇です。
 わたし自身、裕也さん、あなたから大きな影響を受けたひとりだ、と自信を持って言えます。子供の頃から音楽の裏方仕事を志したのも、あなたの姿を見たからでしょう。唄う人、楽器を弾く人だけじゃなくって、その周りで動く人が大切なんだ、こんな考え方は、裕也さんから学んだ事柄です。決して表方になれなかった負け惜しみではありません。どうもありがとうございます。
 つい色々な想い出話で長くなりました。ご長女の也哉子さんが4月3日の「ロックンロール!葬」で「安らかに眠るな」と送ったそうですね。でもわたしが捧げる言葉は違います。今もたったひとつだけ、引っ掛かる点がありますけれど、裕也さん今度ばかりは、どうぞゆっくりと落ち着いてお休み下さい。

Helado Negro - ele-king

 アルバム・タイトルはジャメイカ・キンケイドが〈ザ・ニューヨーカー〉に1978年に発表した短編『ガール』からの引用。キンケイドはカリブ海東部の島々からなるアンティグア・バーブーダ出身の作家で、とくに初期の自伝的な作品群では母と娘の関係を軸にして、隠喩的にポスト・コロニアルにおける支配/被支配の緊張を描き出していた。ある種、地域性を問わずに共感を得る思春期の少女の物語として。
 だけど、どうなのだろう。この、素晴らしくなめらかに仕上げられたヘラド・ネグロとしては6枚め、ロベルト・カルロス・ラングによる『ディス・イズ・ハウ・ユー・スマイル』にどれほど「ポスト・コロニアル」というテーマが入りこんでいるのか、シンプルな英語詞はまだしもスペイン語がここで「響き」に聞こえてしまう僕には、正直わからない。それに何よりも……サウンドにおいて、エクアドル移民である彼のルーツとしてのラテン音楽とゼロ年代ブルックリンの成果が綺麗に溶け合っているではないか。すでに「ボラ・デ・ニエベのベッドルーム・ポップ・ヴァージョン」などと形容されているように、ラテンからの音楽的恩恵がここでは21世紀型のドリーミーなポップ・ミュージックへと見事に変換されている。

 サヴァス&サヴァラスへの参加やジュリアナ・バーウィックとのコラボレーション、それに前作までスフィアン・スティーヴンスが主宰する〈アズマティック・キティ〉からリリースしていたことからもわかるが、北米インディの美味しいところを気持ちよく漂ってきたカルロス・ラング。ヘラド・ネグロ名義はブルックリンに移ったゼロ年代後半から使用しているが、なるほど前作『Private Energy』をあらためて聴き直すと、いかにもアニマル・コレクティヴ以降の遊びに満ちたエクスペリメンタル・ポップの跡を見出すことができる。だが、〈RVNG〉からのリリースとなる本作ではオープナーの“Please Won't Please”から、簡素なリズムとあくまで柔らかいシンセの調べに乗せて線の細い歌がゆるく、優しく続けられる。わたしたちがゼロ年代後半によく親しんだアンビエント・ポップのフィーリングが、10年かけた洗練を経て届けられる……きめ細かく変わってゆく光を浴びながら。もちろん、ヘラド・ネグロらしいトロピカル・サイケなフォーク・ナンバー“Pais Nublado”なども耳を引くが、ハイライトのひとつである“Running”などはそれこそライのファンも思わずうっとりするようなメロウなソウル・チューンである。いずれにせよ、それらが大きな起伏を生み出さないように生音のオーガニックな響きを大切にしながら、じつにゆったりと連なっていく。いくらかファンキーなグルーヴを感じさせるミドルテンポの“Seen My Aura”、伝統的なラテン・フォーク・ギターとスティール・パンの音色が控えめに寄り添う“Sabana de Luz”、曲によって要素は変われど、穏やかなサイケデリアが途切れることはない。

 前作で「若く、ラテンで、誇り高い」や「僕のブラウンの肌」といった象徴的な言葉を並べていたカルロス・ラングだが、本作における彼のラテン人としてのアイデンティティはあくまで音として彼の現在地と和解している。わたしたちがスフィアン・スティーヴンスとデヴェンドラ・バンハートとサヴァス&サヴァラスとアニマル・コレクティヴを地続きで聴くような感覚が本作でひとつになっており、ルーツにも現在にも等しくオープン・マインドな佇まいや自然体の折衷性はブラジルのシンガーソングライターであるフーベルの昨年絶賛されたアルバム辺りにも通じるだろう。映画『ROMA/ローマ』を例に挙げるまでもなく北米において中南米との関係性が問われている昨今だが、英語とスペイン語、ベッドルーム・ポップとラテン・フォークが継ぎ目なく共存する本作を聴いていると、音楽は「ポスト・コロニアル」のその先を模索しているように思えてならない。

「笑い」とともにある音楽史

新しい・珍しい・奇妙
ジャズやオペラからラップにテクノ、EDMにいたるまで、日本人は新しい音楽を常に「ノベルティソング」の形で受容してきた――「笑い」とともにある音楽史

【著者略歴】
矢野利裕(やの・としひろ)
批評家、ライター、DJ。1983年、東京都生まれ。2014年「自分ならざる者を精一杯に生きる――町田康論」で第57回群像新人文学賞評論部門優秀作受賞。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)、『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀』(おうふう)など。

目次

まえがき

第1章 明治・大正──大衆音楽とノヴェルティソングの始まり
川上音二郎とオッペケペー節から/オッペケペー節と自由民権運動/オッペケペー節のノヴェルティ性/演歌師・添田唖禅坊の登場/政治的演説における音楽性/ノヴェルティソングとしての演歌/ヒットメイカーの添田唖蝉坊/「東京節」のヒット/意味から解放された言葉/浅草オペラの隆盛/“猥雑”な場所、浅草/大衆化するオペラ

第2章 戦前・戦中──ジャズと演芸と戦争
エノケンとカジノフォーリー/ジャズと都市のスピード感/身体を動かす音楽/日本で最初のレコード歌手、二村定一/エノケンと二村はすぐれた芸人である/あきれたぼういずの登場/「ジャズ浪曲」と国民の創出/あきれたぼういずのDJ的センス/あきれたぼういずの背後に戦争の影/左翼出身の漫才作者、秋田實/わらわし隊による戦地慰問/柳家金語楼のジャズ演芸/許しがたい人物が奏でる素晴らしい音楽/戦時下におけるジャズの解放感

第3章 戦後1──ニューリズムの奔流
忘却される戦後日本の「起源」/笠置シヅ子と戦前日本/ブギのリズムと戦争のない世界/音楽によって明日を生きる/戦後日本を代表するノヴェルティソング「東京ブギウギ」/「ゲテモノ」登場、美空ひばり/洋楽を歌いこなす美空ひばり/コミックソング歌手としての美空ひばり/美空ひばりとジャニー喜多川の意外な関係/美空ひばり、リズム歌謡を歌う/リズム歌謡のおかしさ/トニー谷の音楽と言葉/日米のはざまで不気味にうごめく/様々なるリズム歌謡/マンボ、チャチャチャ、カリプソ/ツイスト、タムレ、ロカンボ/ロカビリーに流れるコミックソングの水脈/謎のリズム? スクスク、ドドンパ/リズムで売るという商法/中川三郎の透徹した視線/カヴァーポップスと漣健児/コミックソングから来た漣健児

第4章 戦後2──コミックバンドの系譜
フランキー堺とスパイク・ジョーンズ/リズム歌謡として見るフランキー堺とシティ・スリッカーズ/クレージーキャッツの誕生/音楽と身体をともなった笑い/井原高忠の番組演出に見る音楽性/ヴァラエティ番組発の名曲「上を向いて歩こう」/「スーダラ」という奇怪な言葉/クレージー行進曲のルーツは軍事教育!?/ザ・ドリフターズの登場/ロックがニューリズムとして流行した時代/ライ麦畑でドリフターズをつかまえる/志村けんの黒人音楽センス/笑いを通じた友川カズキの再評価

第5章 一九七〇~一九八〇年代──ニューウェイブと小劇団文化圏
一九六〇~一九七〇年代のコミックソング/トロピカル三部作からYMOへ/YMOにおけるノヴェルティソングの戦略/コミックソングとテクノサウンド/スネークマンショーの先進性とギャップ/タモリにおけるジャズのノリ/いとうせいこうによるヒップホップの試み/音楽と笑いと演劇をつなぐ文化圏

第6章 現代的なコミックソング
スチャダラパーにおける演劇の影響/ノヴェルティソングとしてのヒップホップ/日本のヒップホップを巡る対立/USヒップホップもノヴェルティソングだった!?/笑いと共に根づくハードコア・ヒップホップ/リズム歌謡の系譜としての小室哲哉/小室哲哉による笑いへの興味/「PERFECT HUMAN」の新しさ/ネット時代のヒット、ピコ太郎「PPAP」/音楽における身体的な楽しさ、再び/大瀧詠一の後継、マキタスポーツ/「作詞作曲モノマネ」に見る音楽の広がり/ノヴェルティソングであるからこその喜び

あとがき

 先日のモッキーとのライヴも超パンパンだった坂本慎太郎のほやほやニュースです。
(以下、レーベルからの資料のコピペ)
 サンパウロのO Ternoのニュー・アルバム『atrás/além』に、坂本慎太郎、デヴェンドラ・バンハート1曲参加。その参加曲「Volta e meia」を、zelone recordsより7inchリリース。
 ブラジル・サンパウロを拠点に活動するバンド、O Ternoのニューアルバム「atrás/além」に坂本慎太郎とデヴェンドラ・バンハートが1曲参加し、その参加曲「Volta e meia」の7inch vinylを、5月22日(水)にzelone recordsより発売が決定しました。 
 坂本慎太郎がソロ初LIVEを行なった、2017年ドイツ・ケルンで開催された”WEEK-END Festival #7”にO Ternoとデヴェンドラ・バンハートも出演。そこでの交流がきっかけとなり、O Ternoからのオファーで実現した今回のコラボレーションです。
 共演曲「Volta e meia」は、O Ternoの今までのソウル/ロック路線とはまた違う、淡いサウダージとメロウネスを醸し出す、洗練されたソフトサイケなMPB。c/wの「Tudo que eu não fiz」は、ニューアルバムの冒頭を飾る、ほのかにサイケな珠玉のトロピカリア/ソフト・ロック・チューンで、どちらも新作を代表する2曲です。
 zelone版7inchは坂本慎太郎によるアートワーク仕様になります。
 この「Volta e meia」は4月16日、ニュー・アルバム『atrás/além』は4月23日にブラジルより世界配信されます。

2019年5月22日(水) zelone recordsより発売!

Volta e meia / O Terno feat. Shintaro Sakamoto & Devendra Banhart

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SIDE A: Volta e meia / O Terno feat. Shintaro Sakamoto & Devendra Banhart [3:17]

Biel Basile – drums, mpc, percussion
Guilherme D’Almeida – bass
Tim Bernardes – vocals, acoustic and electric guitars, synthesizers
Felipe Pacheco Ventura – violins
Amilcar Rodrigues – flugelhorn, trumpet
Shintaro Sakamoto - vocals
Devendra Banhart - vocals


SIDE AA: Tudo que eu não fiz / O Terno [3:47]

Biel Basile – drums
Guilherme D’Almeida – bass
Tim Bernardes – vocals, electric and acoustic guitars
Felipe Pacheco Ventura – violins
Douglas Antunes – trombone
Amilcar Rodrigues - trumpet
Beto Montag - vibraphone

O terno: Biel Basile, Guilherme D’almeida and Tim Bernardes
Compositions, arrangements and musical production: Tim Bernardes
Co-production: Gui Jesus Toledo, Biel Basile, Guilherme D’almeida

Recording and sound engineering: Gui Jesus Toledo
Mixing: Tim Bernardes
Mastering: Fernando Sanches

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品番: zel-019 (45rpm)
発売日: 2019年5月22日(水)
形態: 7inch Vinyl (exclusive 7inch)
価格: ¥1,000+税
Distribution: JET SET https://www.jetsetrecords.net 
More info: www.zelonerecords.com

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●O Ternoプロフィール●  

Tim Bernardes、Guilherme D’Almeida、Biel Basileによるサンパウロのソウル / ギター・ロックバンドで、新世代ブラジル音楽の重要な担い手として注目を集める。
2012年6月、1stアルバム「66」をリリース。The Globe誌によって”ブラジルのバンドの最も印象的なデビューディスクの1つ”と、Rolling Stone Magazine Brazil による2012年の25枚のベストアルバムに選出された。 
2013年、Tom Ze EPのFeicebuqui Courtのために2曲をレコーディングし、EP 「TicTac-Harmonium」リリース。
2014年に、Charlie and the MalletsとLuiza Lianのような7つの他のバンドと共に、レーベル”RISCO”を結成。
同年8月、メンバーによって書かれた12曲を含む2ndアルバム、「 O Terno」をリリース。
2015年3月、バンドの編成が変わり、Victor Chavesが脱退し、現在のBiel Basileがメンバーに加入、そして新生O TernoとしてLollapalooza Festivalに出演。
2016年、RISCOレーベルの最初のコレクション、レコーディングに参加し、 5月下旬から6月上旬にかけて、”Primavera Sound Fes”を含むEUツアーを敢行。
9月には3rdアルバム「Melhor Do Que Parece」をリリース、”トロピカリズム、ロック、ソウル、そしてブラジルの音楽のミックス”、と世界的に評された。 
2017年、ドイツケルンで開催された”WEEK-END Fes#7”に出演。そのフェスには、ソロ初のLiveを行なった坂本慎太郎、そしてデヴェンドラも出演。 
同年、Vo, GuitarのTim Bernardesは、ソロアルバム「Recomeçar」をリリース。"現代ブラジルのブライアン・ウィルソン"とも評されている。

https://www.oterno.com.br

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