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30年前に大好きだったペイル・ファウンテインズのシングル集のようなCDを買った。ほとんど全部、持っているのになぜか衝動買いだった。そして、久しぶりにまとめて聴いたら......こんなにヘタだったのか......ガーン......
忌野清志郎のソロ・アルバム『レザー・シャープ』でエンジニアを務めたチャールズ・ハロウェルはペイル・ファウンテインズのサード・アルバムをプロデュースし、そして、失敗に終わったと話してくれたことがある。クラッシュからドロップ・アウトしたトッパー・ヒードンと失業状態のスティーヴ・ヒレッヂがその時、目の前にはいた。清志郎は「♪曲がり角のところで~」と歌い出す。RCサクセションとして次のアルバムをつくるはずだったのに、ひとりでロンドンにいる清志郎も含め、誰ひとりうまくいっている人はいなかった。ペイル・ファウンテインズの話をする時、ハロウェルは少しうな垂れていた。「スタジオ内は完全に煮詰まって、どうにもならなくなってしまった。半分までできたところで終わりだということがなんとなくわかったよ」
ハロウェルは夢を見ない若者だった。階級社会のイギリスが彼には一生、労働者だという自覚を与えていたのである。80年代といえばパワー・ステーションのドラムがすぐに引き合いに出される。あれはハロウェルがつくった音だ。自分のドラムの音をあれと同じにされたといってトッパー・ヒードンはカンカンに怒っていた。トッパー・ヒードンを黙らせたのは清志郎だった。清志郎は80年代を受け入れようとしていた。チャールズに向かって清志郎が「素晴らしい!」と英語でいった。「マーヴェラス!」。清志郎はハロウェルを日本に迎えてもう1枚のアルバムをつくった。「マーヴェラス」を縮めた『マーヴィー』だ。典型的なメンフィス・サウンドといえる「シェルター・オブ・ラヴ」をいかにもニューウェイヴ風のアレンヂで聴かせているのは清志郎とハロウェルの接点がそこにあったからである。仮ミックスが終わると、「チャールズ! マーヴィー!」と、清志郎は何度もマイクに向かって小さく叫んでいた。
ペイル・ファウンテインズの透き通るようなサウンドを、あの瑞々しい音楽を、「夢を見ない」ハロウェルはどのように受け止めていたのか。諦めの裏返しとして有効な響きがそこにはあったのだろうか。そして、あの瑞々しさが重々しく変化していった時に、彼の心には何か感じることはあったのだろうか。さらには重い音さえ出せなくなってしまった時には......。
ヴァンパイア・ウィークエンドは怖ろしいほど清々しい。これは何かの裏返しなのかと勘繰る気持ちさえ起こさせない。「どんな音楽?」と聞かれればファーストはトーケンズがカヴァーしたモノクローム・セットの「アポカリプソ」だったけど、セカンドはそれほどふざけてはいなくて「ファン・ボーイ・スリー+ハワード・ジョーンズ」と答える。ロスタム・バットマングリー(......って、コウモリだらけなんですけど)による別働隊、ディスカヴァリーからのフィードバックだったのか、セカンド・アルバムではエレクトロニクスが随所で取り入れられ、そのせいで、もはやアメリカのバンドが頭に思い浮かぶことはない。このセンスは完全にイギリスのものだし、とはいえ、ペイル・ファウンテインズの隣に彼らの音楽を置くのも抵抗がある。これがいまのアメリカだとしかいいようがない。アン・ライス以来、アメリカではゲイの比喩だとされてきた吸血鬼を名乗り、ソカやスカのリズムにのせて爽やかなメロディを歌う彼らが全米で1位をマークするという流れ。アメリカは何かに疲れてしまったのだろう。これが10年前には(イギリスから強引に取り寄せた)レイディオヘッドをアンセムとして称え、20年前にはニルヴァーナをトップに置いてきた国のその後の姿だとしかいいようがない。一方にアニマル・コレクティヴやTV・オン・ザ・レイディオがいることを思えば、サイケデリック・ムーヴメントに対するサイモン&ガーファンクルのようなものになろうとしているのかなとか(まだ、そこまでの強度はないけれど)。
ヴァンパイア・ウィークエンドはペイル・ファウンテインズのように煮詰まることはないだろう。彼らの清々しさは何かと引き換えにして出てきたものでは、たぶん、ないからである。変化することを楽しんでいるバンドのようだから、次で一気にエレクトロニカということもありうるのかもしれないけれど、あまりおおっぴらに記号化しない方がきっと長い支持は得られることでしょう。小手先の面白さでは、もしかすると、いま、一番なんだから。
三田 格