「Beautiful」と一致するもの

Common - ele-king

 4年前、2016年のアメリカ大統領選挙直前に通算11枚目となるアルバム『Black America Again』を発表した Common だが、今回の選挙でも投票の4日前に本作『A Beautiful Revolution (Pt 1)』をリリースした。本作はアルバムではなくEP、あるいはミニ・アルバムという位置付けのようであるが、『Black America Again』および昨年(2019年)リリースのアルバム『Let Love』と同じく Karriem Riggins がメイン・プロデューサーを務めており、さらに Common、Karriem Riggins とのスーパーユニット=August Greene の一員でもある Robert Glasper も参加するなど、ここ数年の Common 作品と同じ流れにある。ヒップホップとジャズを軸にしながら、優れたミュージシャンたちと共に高い音楽性を実現すると同時に、人種差別など様々な社会的な問題に対して自らの姿勢を表明し、そして聞く人々を励まし、気持ちを鼓舞する。

 アルバムの核となっているのが先行シングルでもある “Say Peace” だ。エッジの効いたアフロビートのトラックに乗った Common と Black Thought によるマイクリレーが凄まじい格好良さで、平和を勝ち取るための彼らの「美しき革命」がポエティックな表現によって綴られている。Common 自ら「黒いダライ・ラマ」をラップしているように、彼らの戦い方はあくまでも平和的な姿勢が貫かれていて、それは女性シンガー、PJ(Paris Jones)のコーラスにある「Say peace, we don't really want no trouble」という一節にも表れている。その一方で Capleton、Super Cat、Shabba Ranks といったレゲエ・アーティストの声がスクラッチで挿入されるパートは実に戦闘的でもあり、アフロビートの本質が強く引き出された一曲となっている。

 Black Thought 以外にも、デトロイトの詩人 Jessica Care Moore など、多数のゲスト・アーティストが参加している。たとえば Lenny Kravitz が参加した “A Riot In My Mind” は、ロックの要素が強いこの曲のテイストに Lenny Kravitz のコーラスが見事にマッチしている。さらにインパクトが強いのが、Stevie Wonder が参加した “Courageous” だろう。タイトルが示す通り、「勇気とは何か?」ということを問うこの曲であるが、最初のヴァースで「It's like a lyric by Stevie Wonder」という一節を挟んだ上で、曲の最後の最後で Stevie Wonder の吹くハーモニカが登場するという構成が実に見事で、ハーモニカを手にした Stevie Wonder の姿が見えてくるような生々しく美しいメロディに心打たれる。

 『A Beautiful Revolution (Pt 1)』というタイトルから察するに、本作はシリーズとして今後も続いていく可能性が高いが、この「美しき革命」という言葉は今現在の Common が行なっている表現活動そのものとも非常にマッチするし、本作の示す方向性を見事に表している。Common による「美しき革命」がアメリカ社会はもちろんのこと、音楽シーンに対しても少なからず影響を与えることを期待したい。

Autechre - ele-king

 長い間、オウテカのファンはふたつの陣営に分類される傾向にあった。デュオが発するあらゆる最新のメッセージを熱心に貪るリスナーたちと、『Tri Repetae』以来、ノンストップで抽象的な自慰行為に堕ちて行っていると感じていた人たちである。後者のほとんどが老人ホームに隔離されているいまとなっては、この論争は、問題がスタイルから量的なものへとシフトしている。過去10年の間のオウテカの一連のリリースは、それぞれの尺が2倍に延び、8時間に及ぶラジオ・レジデンシーを集約した『NTS Sessions 1-4』と題された作品で最高潮に達した。ここにはたくさんの素晴らしい音楽があったが、そこがまた問題でもあった──とにかく膨大だったのだ。

 オウテカのアウトプットに魅了された体験が、いつの間にか疲れ果ててしまうものへと変わってしまった人には、『SIGN』 は彼らの世界に戻ってくる良い機会となるだろう。ショーン・ブースとロブ・ブラウンの最近の作品の文脈で考えると、これほどメロディックなアルバムをリリースすること、1枚のCDに収まってしまうほど短いことは、ほとんどラディカルにさえ思える。そして『SIGN』は明らかに『elseq1-5』 と『NTS Sessions 1-4』で聞かれるようなアルゴリズミックな実験の延長戦上にあり、オウテカは、どうやって到達するのか忘れかけていたような所にまで踏み込んでいる。

 オープニングトラック“M4 Lema”では、ローラント・カイン風のサイバネティック(人工頭脳的)なノイズが、まるでコンピュータのメインフレームが咳払いをするような、シューッという音の斉射で未来を提示するが、突然、みずみずしく豊かなパッドと骨格のようなヒップホップのビートに変わり、時折サブベースがうねる。続く“F7”では、興味深いメロディが互いのまわりに円を描くように交差しながら、決着することはなく、『Oversteps』で登場していてもおかしくないようなものだが、いまやチューニングは従来の西洋的なものからは大きく外れた所で浮かんでいる。

 このトラックは、オウテカが未知のハーモニックな領域に踏み込んだ、より明白な事例のひとつで、ヴァーチャルな楽器を、平均律の暴政から離れるように促している。「esc desc」のシンセサイザーには『ブレードランナー』のような威光があるが、初めて聴くと、ヴァンゲリスがデッカードの空飛ぶ車で乗り物酔いをしているかのようだ。

 リピートして聴くことでこの違和感は薄れ、これは時間をかけて、できればまともなヘッドフォンでじっくり聴くべきアルバムであることが分かる。2018年にブースはele-kingに「ぼくはすべてのエレメントがあからさまではない、シネマティックな奥行きに惹かれるんだ」と語っており、『SIGN』 に収録されたトラックのいくつかは活気に溢れ、聴力の限界に達している。 陰鬱なトーンと貧弱な4/4拍子の“psin AM”は、ミックスのエッジの周りで踊る不安定なハーモニーがなければ、ほとんどヴォルフガング・ヴォイトのGASプロジェクトの見失われたトラックと間違えそうだ。オウテカが“sch.mefd 2”で、一定のビートを走らせるのは、他のエレメントとの間の相互作用がいかに予測不可能なものであるかを強調するために残しているのだ。

 おそらく最大のサプライズは、このアルバムの音の多くが、どれほど心を奪う響きに聴こえるかということだ。“gr4”には最も牧歌的なフェネスのような、薄織の温かさがある一方、超絶的なクロージング・トラックの“r cazt”は、坂本龍一の「async」時代のプレイリストに並べて入れても違和感がないだろう。オウテカは、エイリアンのように耳障りだと誇張されがちだが、『SIGN』 は彼らのとんでもなく〝ありえねぇ〟美しさを想い出させてくれる歓迎すべき作品だ。


by James Hadfield

For a long time, Autechre fans tended to fall into two camps: listeners who eagerly devoured every fresh transmission from the duo, and people who thought they’d been on a non-stop descent into abstract wankery ever since Tri Repetae. Now that the latter are mostly sequestered in retirement homes, the debate has shifted from questions of style to quantity. During the previous decade, each successive Autechre release seemed to double in length, culminating with the eight-hour radio residency collected on NTS Sessions 1-4. There was a lot of excellent music here, but that was also the problem: there was a lot of it.

If your experience of Autechre’s output has tipped over from enthralled to exhausted, SIGN is a good time to jump back on-board. In the context of Sean Booth and Rob Brown’s recent work, releasing an album this melodic—and short enough to fit on a single CD—feels almost radical. And while SIGN is clearly an extension of the algorithmic experiments heard on elseq 1-5 and NTS Sessions 1-4, it goes places I’d almost forgotten Autechre knew how to reach.

Opening track “M4 Lema” indicates what’s in store, when a volley of swooshing, Roland Kayn-style cybernetic noise—like a computer mainframe clearing its throat—suddenly gives way to lush pads and a skeletal hip-hop beat, bolstered by occasional surges of sub-bass. That’s followed by “F7,” whose intersecting melodies, circling around each other without ever quite resolving, could have appeared on Oversteps—except that they’re floating way outside conventional Western tuning now.
The track is one of the more obvious instances where Autechre venture into uncharted harmonic territory, coaxing their virtual instruments away from the tyranny of equal temperament. There’s a Blade Runner grandeur to the synths on “esc desc,” but on first listen, it’s like Vangelis getting motion sickness in Deckard’s flying car.

The strangeness is less apparent with repeat plays, and this is definitely an album to spend time with, preferably listening through a decent set of headphones. Speaking to ele-king in 2018, Booth said he was increasingly interested in “cinematic depth, where not every element is obvious,” and the tracks on SIGN teem with activity, some of it on the threshold of audibility. With its sepulchral tones and anaemic 4/4 beat, “psin AM” could almost be mistaken for a lost track from Wolfgang Voigt’s GAS project, if it weren’t for the unstable harmonies dancing around the edge of the mix. When Autechre leave a steady beat running, as on “schmefd 2,” it just serves to highlight how unpredictable the interplay between the other elements is.

Perhaps the biggest surprise is how inviting a lot of the album sounds: “gr4” has a gauzy warmth that recalls Fennesz at his most bucolic, while transcendent closing track “r cazt” wouldn’t sound out of place on a playlist alongside async-era Ryuichi Sakamoto. Autechre’s reputation for alien harshness is overstated, but SIGN is a welcome reminder that they can be pretty goddamn beautiful.

Nubya Garcia - ele-king

 昨今異常な盛り上がりを見せるUKのジャズ・シーンにおいて、ユセフ・カマールジョー・アーモン・ジョーンズらと並び日本でも人気を集めるアーティスト、ヌバイア・ガルシアのニューアルバム『Source』がリリースされた。僕が最初に彼女の存在を知ったのは2017年に〈Jazz Re:freshed〉から出た『Nubya's 5ive』(アルバムの中の “Red Sun” を初めて聴いたときはジョン・コルトレーンの楽曲かと勘違いしてシャザムしたのをいまでも覚えている……)。そこから約3年間の飛躍を考えると驚くべき成長速度である。UKジャズの決定版とも言えるコンピレーション『We Out Here』(9曲中5曲に参加するという異例の抜擢)や女性メンバー主体の7人編成のアフロビート・バンド「ネリヤ」、そして盟友ジョー・アーモン・ジョーンズのソロ・アルバムにも参加するなど、活動は多岐に渡り、まさに駆け抜けるような素晴らしいキャリアをここ数年で築き上げた。デビュー当時は「女性版カマシ・ワシントン」という呼び声もあったが、様々なコラボレーションや活動を通して自身独特の演奏と音楽を披露しているのがこのアルバムを聴いてもわかる。

 リード曲となる “Source” では『We Out Here』周辺のコミュニティーに共通して見えるレゲエやカリビアンなサウンドの縦ノリに力強くサックスが絡み合い、曲の展開が進むにつれてその熱量がさらに高くなっていく。ハウスやブロークンビーツ界隈のアーティストとも交流があってか、とにかく彼女のサックスは非常にグルーヴを感じる。激しすぎず、緩すぎずな絶妙なバランスが常にキープされていて、メロウなジャズから激しいレゲエ調まで緩急も素晴らしい。アルバムのなかで僕がいちばんオススメしている T.4 の “Together Is A Beautiful Place To Be” はジョー・アーモン・ジョーンズの美しいピアノのソロに乗せて、まるで歌っているかのような美しい音色を奏でてくれる。アルバム終盤ではコロンビアのマルチ・インストゥルメンタル・トリオ「ラ・ペルラ」とのコラボレーションで “La cumbia me está llamando (featuring La Perla)” を披露。ロンドンのローカル・ラジオ「NTS Radio」にてラジオDJも務める彼女はジャズやレゲエに混ざって時折クンビアも紹介していたが、まさかアルバムにこのような形で入ってくるのはサプライズだった。スタンダードなジャズ・アルバムというよりは彼女のサックスを軸に自身の吸収した様々な音楽をヌバイア・ガルシア流に表現したと言ってもいいだろう。DJ的な目線でも色んなジャンルの間に挟んでも違和感がないし、幅広いジャンルのリスナーに受け入れられるアルバムに仕上がっている。

 ジャイルス・ピーターソンも彼女を絶賛し、次の10年、20年の音楽シーンの担い手としても期待のかかる彼女のフル・アルバムは様々なジャンルを内包したUKジャズ・シーンのマイルストーン的な作品と言っても過言ではないだろう。今頃であればアルバムをリリース後、順調にワールドツアーもおこない、ここ日本の地でもライヴを披露してくれただろうがしばらく実現できないのは残念。代わりに先月披露された NPR Music の名物企画 Tiny Desk (なんと彼女の自宅から放送)もぜひお見逃しなく。観葉植物で囲まれた空間が逆にUKジャズ特有のDIYなコミュニティーを象徴するかのようだ。


Boldy James / Sterling Toles - ele-king

 いざレコ評などを書こうと思うまで自分が聴いている音楽をどんな人がつくっているとか、僕はとくには調べないし、それほど気にならない。つい最近も4年ぐらい前から好きで聴いていたポスト・ロックのユニットを『エレキング別冊 カン大全』で取り上げることになって初めて調べたらライムと同一人物がやっているとわかってかなり驚いた。ドローンからダンスホールに転じたユニットだったので、ポスト・ロックまでやっていたとは想像以上に多彩なんだなーと。スターリング・トールズも2005年にCDRでリリースされた作品が最近になってアナログ化されて……とか、そんなんことぐらいしか知らなかったので、ラッパーのボールディ・ジェームズと組んでリリースしたジョイント・アルバムについて、こうしてレヴューを書こうと思い、最初にウォーミング・アップでユーチューブで何か曲でも聴いてからと思ったら、彼がデトロイトの高校で音楽の授業を教えている光景が出てきてびっくり。え、学校の先生だったの? スターリング・トールズってユニット名か何かだと思ってたけど、人の名前だったの? と、ついそのまま見ていると、いい感じで授業が進んでいくじゃないですか。生徒たちみんなでインプロヴィゼーションをやってアルバムを1枚つくろうとか、そんな話し合いをしている。とんでもない勢いでドラムを叩き、鬼気迫る音楽をやっている人とは思えず、静かに崩壊していく自分がわかるというか。さらに追っていくと、スターリング・トールズがデトロイト・ヒップホップの歴史を語るという映像は800人しか観てない。クリフトン・ペリーとスターリング・トールズはヒップホップを変えたルネッサンス・メンだか話している「デトロイト・イズ・ディフェレント」は300人。同じ趣旨でもう一本は150人しか観ていない。何も知らない時は、音楽だけを聴いていてどんなスゴい人なんだろうと思いがちなものだけど、いやあ、どんどんイメージが変わっていくなー。過剰な情報は音楽そのものを殺しかねないなー。

 それでは『Manger on McNichols』を覗いていきましょう~。ラッパーのボールディ・ジェームズは10年前にはデビューしていて、今年はすでにアルケミストと組んだ『The Price Of Tea In China』という面白いタイトルのアルバムもリリースしているものの、実はこの人のラップにはぜんぜん興味がない。『Manger on McNichols』でもMCが主導している“Detroit River Rock”まではそんなに興味がわかない。俄然、面白くなるのはトールズのドラムがフリーキーに暴れはじめる“B.B. Butcher”からで、ここからの3曲は何度も繰り返し聴いている。トールズが2005年にCDRでリリースした『Resurget Cineribus』もフィールド・レコーディングやゲットーテックがぐちゃ混ぜとなり、実に混沌としたアルバムで、とくに印象に残るのが破天荒なドラミング。トールズの演奏がとにかくスゴいんだと漠然と何年も思っていた。そう、こうしてレコ評を書きはじめるまでは。デトロイト再建を意味する『Resurget Cineribus』は1967年のデトロイトをテーマとしたもので、トールズの父親、デニス・エドワード・トールズがマーヴィン・ゲイのレコードに合わせてたわごとを喋るという行為からスタートしたらしい。トールズは1967年のデトロイト暴動を楽譜に起こせないかと模索しはじめ、リサーチの段階でデトロイトを再建するスローガン「Resurget Cineribus」にたどり着く。それはもともと1805年に起きた大規模な火災からデトロイトから立ち上がるためにつくられたもの(Rebuilding Detroit→https://www.youtube.com/watch?v=M3sGZsQZx80)。彼の父親が依存症から回復しようとしている時にこのスローガンが彼のなかでなんらかの意味を持っていると判断したトールズは67年のニュース映像からサンプリングした音と父親が葛藤しながら吐き出し続ける言葉をスコア化するという方法で音楽をつくり進める。ミュジーク・コンクレートがポップ・ミュージックのフィールドに降りてくる直前の時期だったと思うけれど、トールズ自身もそれは意識し、オーネット・コールマンやジョン・ケージがやるようにデトロイトを表現し、デトロイトが持っている「美しく弾力のある精神(the beautiful and resilient spirit )」に「肉と顔を与えた(to give flesh and a face)」のだという。言葉がわからないので半分以上意味不明だけど→https://sector7grecordings.bandcamp.com/album/resurget-cineribus

 『Resurget Cineribus』を聴いたDJアゾールトとミスター・ディー(Mr. De)は「まるでインディーズ映画を見ているようだった」と感想を残し、この作品はデトロイトの活動家たちに愛され、カイル・ホールダキムのような「境界を突破しよう」と試行錯誤しているミュージシャンたちにインスピレーションを与えたと評価されている。そして、僕が漠然と「最近になってアナログ化された」と思っていたのは、それがデトロイト蜂起から50周年を記念していたということも初めて知った。なるほど。そういうことだったのか。さすがにこれを知ると、もっと身構えて聴くものだったという反省的な気分に。そして、『Resurget Cineribus』の作業が終わるのを待ちかねていたボールディ・ジェイムズがすぐに『Manger on McNichols』のレコーディングを開始しようと言い始め、そこからレコーディング作業は12年にも及んだという。「マクニコルズ」というのは鉄鋼メーカーのことのようで、アルバム・タイトルは格子状になっている鉄の上で食事をしているという意味か(?)。よくわからない。ジェイムズもトールズも音楽産業だったり、他人に聞かせることを目的とせず、自分たちのためにレコーディングしていたそうで、とはいえ、個人的なトラウマが集団的なカタルシスとして共有されることには疑問がなかったという。レコーディングが伸びまくっている間にベースを弾いていたアンプ・フィドラーの兄は亡くなり、トールズの説明は読むのが面倒なほど長く多岐にわたっている(ので省略)。ゲストはその間にかなりの数まで膨れ上がり、“Welcome to 76”で侘しげなサックスを吹いているのはマッド・マイク。同曲ではエレクトリファイン・モジョの声もサンプリングされている。全体を通して聴くと、デトロイト・ヒップホップという文脈しか存在せず、それ自体がどんなトレンドにも属していないといえ、クエル・クリスなどと同じく単独で独自のヒップホップをやっていますよという感じ。トラップは5秒と聴く気がしなくなっている僕としてはもちろん彼らの方が興味深い。

Cuushe - ele-king

 Cuusheがついにソロ・アルバムを完成させた。タイトルは『WAKEN』、「めざめる」という意味に相応しく、いままでにないリズミックな躍動に満ちている。ジェシー・ランザやマリー・ダヴィッドソンらともリンクしている。ちょっと意外なことに、クラブよりのサウンドを試みているのだが、しかし彼女らしい綺麗なメロディは健在。
 発売は11月20日、flauレーベルより。これは楽しみですね。
 
WAKEN (teaser)

Hold Half

 アートワークはCuushe「Airy Me」のMVで文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞を受賞し、その後も映画、漫画と様々なメディアで活躍する久野遥子による書き下ろし。


Cuushe
WAKEN

flau
2020年11月20日, CD/LP/DIGITAL

1.Hold Half
2.Magic
3.Emergence
4.Not to Blame
5.Nobody
6.Drip
7.Beautiful
8.Spread

https://flau.jp/releases/waken/
■ 視聴/予約:
https://smarturl.it/Cuushe-WAKEN/

Cuushe
ゆらめきの中に溶けていくピアノとギター、 空気の中に浮遊する歪んだシンセサイザー、拙くも存在感ある歌声が支持を集める京都出身のアーティスト。Julia HolterやTeen Daze、Blackbird Blackbirdらがリミキサーとして参加したEP「Girl you know that I am here but the dream」で注目を集め、デビュー作収録の「Airy Me」のMVがインターネット上で大きな話題となる中、全編ベルリンでレコーディングされた2ndアルバム 『Butterfly Case』を発表。独創的な歌世界が絶賛され、海外の主要音楽メディア/ブログで軒並み高評価を獲得。近年はアメリカTBSのTVドラマ「Seach Party」、山下敦弘 x 久野遥子による「東アジア文化都市2019豊島」PVへの音楽提供や、イギリスのロックバンドPlaceboのStefan OlsdalとDigital 21のデュオ作や、Iglooghost (Brainfeedder)、Populous、Skalpel(Ninja Tune)の片割れMeeting By Chanceらの作品にボーカル参加。長らく自身の音楽活動からは遠ざかっていたが、今年新たなプロジェクトFEMと共に再始動。

Miley Cyprus - ele-king

 マイリー・サイラス(Miley Cyrus)だと思って聴きはじめたら違った。よく見るとマイリー・サイプラス(Miley Cyprus)だった。「P」がひと文字多い。ジャケット・デザインもちゃんと見ると知的だし、マイリー・サイラスのわけがなかった。いや、マリー・サイラスもミシガン州の水道問題を告発した活動家をヴィデオに登場させたり、フェミニズムや人種問題に対する発言もかなりしっかりしている。それどころか素っ裸にペニスのおもちゃだけをつけた格好でライヴをやったり(客も全員、全裸)、フレーミング・リップスと“Lucy In The Sky With Diamonds”を録音したり、インスタグラムには野原で小便をしている自撮りをアップしたりと(女性です。念のため)、とてもディズニー・スターだったとは思えない活動の限りを尽くし、ひと昔前だったらどう考えてもアンダーグラウンドな存在だったはずで、カニエ・ウエストのようにいちいち騒がれないのが不思議なほどではあるのだけれど。しかし、マイリー・サイ「プ」ラスのそれは芸能界のそれではなく、V/Vmだとかハイプ・ウイリアムスと同じカテゴリーのもので、ポップ・アートそのものに対する批評性が内包されているタイプ。で、もしかしたら、本当にリーランド・カービーやディーン・ブラントが新たな変名を繰り出したのではないかと疑って調べてみたのだけれど、7月7日現在、何ひとつわからなかった。〈ピース・アタック〉という(ソニック・ユースの曲名からとったらしきネーミングの)レーベルはこれまでにカイル・ミノーグ(Kyle Minogue)だとかマッド・ドンナ(Mad Donna)といったふざけた名義のアルバムを乱発し、マス・コンフュージョンを画策する一方、今年の初めにはザ・ウィドウ(The Widow)による素晴らしいアルバムを世に送り出すなどグラウンド・デザインはちゃんとしたレーベル……だと思う(シンセポップを乱数表でこじらせたようなザ・ウィドウは不協和音の玉手箱のようで、短いながらもなかなかインパクトがあった)。

 厳かなパイプ・オルガンの演奏にリズムボックスを組み合わせた“Weasle(イタチ)”で『Telephone Banking』は幕を開ける。そのままオーケストレイションが加わり、“Danger in the East”でさらに重厚な演奏が続く。オルゴールやハープシコードを思わせる可愛らしい音を多用した前作『Space Pervert(宇宙の変態)』とはかなり趣が異なった導入部。“Luxembourg Lane”から少し雰囲気が変わり、静かだけれども油断のできない日常というのか、微妙な不気味さを讃えながら“Rene”ではその違和感が増していく。映画『MIB』のように周囲の人びとがみな宇宙人に思えてくる曲というか。さらにSFちっくな“Night Walk”へ。ここで初めて明確なビートが刻まれる。危険と美、あるいは恐れや魅惑といった正反対の概念が同時に聞き手を包みこんでくる。いつも見慣れていた景色がどんどん違って見えはじめ、続く“Hecque”ではその歩みに確信を持ちはじめる。なんというか、音楽に誘導されて次から次へと自由連想が働いてしまう。これこそ架空の映画音楽だろう。イメージ喚起力がとてつもない。実際にはブレイクビートと管楽器による控えめな不協和音が鳴っているだけなんだけれど……。“Checker”は優しげな響き、タイトル曲では導入の雰囲気に戻って世界を不安が覆い尽くす。これに「銀行の電話サーヴィス」というタイトルをつけるのはどういう意図があるんだろう。ゆったりと間をあけて刻まれるシンバルやハンドクラップ音が不安を倍増させる。そのまま“On the Line”でしつこく同じムードを厚塗りし、一転して虚無感を際立たせた“Beautiful Music ”ですべては終わる。この展開があまりにスピリチュアルで、この感覚を味わうためにすべてがあったと思うほど全体の構成はよくできている。曲を並べるとはこのことだなというか。ドローンのようにモノトーンの持続や徹底的に刺激から遠ざけることによって感覚を麻痺させ、いわゆる瞑想状態にもっていくこととは異なっている。あくまでも音楽による「物語」であり、言葉はないけれど、ロジカルな面白さなのである。トリップでもないし、不安や虚無を甘美なタッチで聴かせるという意味ではザ・ケアテイカー『A Stairway To The Stars」(02)にも匹敵するものがあるかも知れない。星の階段をのぼって壮大に昇天してしまうのが『A Stairway To The Stars」だとしたら『Telephone Banking』は世界の風景が一変し、どこかに放り出されるような経験といえ、世界は逃げ出すところではなく、見方を変えるものになっているという変化も感じさせる。“Danger in the East”というタイトルには東方の三博士が見え隠れし、虚無を美ととらえる感覚には禅のようなニューエイジも含まれるだろう。そこはしかし、稲垣足穂やエドガー・アラン・ポーを思考の補助線として、なんとかして俗流にまみれず、この瞬間だけでもスノッブとは切り離されていたい(そんなもの、いまはいくらでもあるし)。

 新型コロナウイルスが終息した武漢からライアン・ブランクリーによるアンビエント・ミュージックにもニューエイジとの綱渡りは感じられる。各曲のタイトルには時間を澱ませる表現がいくつか見られ、エンディングは近過去を表す“2017”で結ばれる。元々、武漢は地方都市として発展途上にあり、人口も北京や上海を抜きかねない勢いを示し、それまでは上海や北京に出て働くことが若者の主要な選択肢となっていたものの、この2~3年は武漢にとどまり、地方都市で働くことがクールになりかけていた刹那、新型コロナウイルスに襲われるというタイミングでもあった。「逆行」「一時停止した未来」「低速度進行」といったタイトルには急速に変わりつつある武漢に対する違和感がストレートに醸し出され、後ろ向きの情緒にはやはりニューエイジ特有の甘さが滲み出ている。ただ、これまで北京や上海、あるいは杭州の一部だけが目立っていた中国からの音楽発信に武漢も加わったという意味でスロット・キャニオンズが『Sketches』を送り出してきた意味は大きい。しかも、ザ・フィールドのようなアンビエント寄りのシューゲイザーだとか、その逆でもなく、アンビエントとシューゲイザーの割合がほぼ拮抗的に配分された音楽性にも見るべきものは多く、大陸的なおおらかさをあてどなく探求する姿勢も意外とレアだろう。一方で“An Ode To”のしめやかさや“Future Paused”の抑制と穏やかさは『Music For Films』(76)や『Apollo』(83)のブライアン・イーノを思わせ、“A Seagull’s Flight”もとても美しい。ステイホームを余儀なくされ、終わりのない孤独感と限られた機材のみでつくるしかなかったという制約が吉と出たのかもしれない(マスタリングは〈ホーム・ノーマル〉のイアン・ホーグッド)。「スロット・キャニオン」というのは峡谷の狭間のことで、ダニー・ボイル監督が『127時間』で題材にしたアレ。先も見えず、身動きもできない。コロナ禍を表現する時に、そんな巨大な比喩が出てくるところも中国ならではか。

NYクラブ・ミュージックの新たな波動 - ele-king

 ホームNYのみならず、世界中のダンス・ミュージック・フリークから注目を集める野外レイヴ・パーティ「Sustain-Release」の国外初となるサテライト・イベント「S-R Meets Tokyo」がいよいよ今月25日(土)に開催される。「Sustain-Release」を主宰するDJ/プロデューサーの Aurora Halal をはじめ、前編・中編にわたって紹介してきた DJ Python や Beta Librae、Galcher Lustwerk ら“NYサウンドの新世代”が東京・渋谷「Contact」に一堂に会す。これだけは冒頭でちゃんと述べたいが、もし今のクラブ・シーンを見にNYへ行ったとしてもこれほど旬なラインナップのパーティなんてそうそう出合えない。それほど「S-R Meets Tokyo」は、スペシャルなのである。

 2014年にスタートしてから今では1000人限定の“特別なパーティ”となるまでに大成した「Sustain-Release」は、今年で開催7回目。参加者の友人1人まで招待できる完全招待制という崇高なシステムを導入していながらもチケットは毎度たった10分でソールドアウト、オンラインメディア「Resident Advisor」の月間「Top 10 Festivals」において4年連続で1位を獲得するほど、多くの人々がそのドリームチケットを羨むような新時代のレイヴだ。

©Raul Coto-Batres

 そんなビッグ・パーティを成功させた Aurora Halal は、毎週世界のどこかでプレイする人気DJとしてアメリカとヨーロッパで知られているものの日本ではまだまだミステリアスな存在。だからこそ、今のNYのダンス・ミュージック・シーンにおいてキーパーソンである彼女のバックグラウンドを紹介したい。


Aurora Halal のセルフレーベル〈Mutual Dreaming〉のEP「Liquiddity」。
収録された “Eternal Blue” には Wata Igarashi のリミックス・ヴァージョンも

 Aurora Halal がダンス・ミュージックに打ち込むようになったのは、まだ大学生だった2004年ごろのこと。地元ワシントンD.C.を拠点に00年代後半から活動するDJユニット Beautiful Swimmers の Andrew Field-Pickering がペンシルバニアにあるゲティスバークの森で開いていたハウス・パーティがきっかけだった。そこで流れる「Paradise Garage」のようなクラシックなディスコや、当時「Cybernetic Broadcasting System(CBS)」と呼ばれていたオランダの「Intergalactic FM(IFM)」のようなコズミック・ディスコ、 Newworldaquarium こと Jochem Peteri、Arthur Russell などのジャンルにとらわれないギークでおもしろいサウンド、そして何よりそのパーティでの体験が、のちに「Sustain-Release」となる前身のパーティ「Mutual Dreaming」へと発展させることに。
 大学を卒業してからブルックリンへ移り住んだ Aurora Halal は2010年、かつてイーストウィリアムズバーグにあったクラブハウスのような独特な雰囲気のスペース「Shea Stadium」でパーティをスタート。あえてクラブでなく、これまで一度もダンス・パーティが開催されたことのないようなスペースをその時々で選んでは、借りてきたスピーカーを持ち込んで、ブースを設置。さらに当初は、彼女が集めていた70年代のビデオアートがライティングの代わりに投影された。一から十までくまなく手がかけられた「Mutual Dreaming」は、「自分たちと同世代がやりたいことをやれるような場所が当時のNYには少なかった」と話す、Aurora Halal 自身が行きたいと思うパーティのカタチをDIYで組み立てていったのだ。


Mutual Dreaming 2011 Flyer

 そうやって手探りで始めたパーティはトライアンドエラーを繰り返しながらも、新しいスタイルを求めていたオーディエンスをはじめ、パーティに必要不可欠なサウンドシステムやライティングのチーム、Beautiful Swimmers や〈L.I.E.S. Records(以下、L.I.E.S.)〉のファウンダー Ron Morelli、Traxx、Steve Summers、DJ Sotofett を筆頭とするプレイヤーなど、さらなるレベルへと押し上げる多くの人々の協力を得ることでより新鮮で強いエネルギーを放つコミュニティへ成長。それは、ちょうど「Bossa Nova Civic Club」がオープンしたばかりで、〈L.I.E.S.〉や〈White Material〉などのレーベルが軌道に乗り始めたころと同時期だった。NYのファンジン『Love Injection』のインタヴューで当時のことを Aurora Halal はこう語る。「私のコンセプトは、自分が考えていることの可能性を実行し、リアルなパーティを作ることだった。〈L.I.E.S.〉や〈White Material〉などのアーティストは、それまでにあったNYのダンス・ミュージック・シーンの一部ではなかったし、その一部になりたいと望んでもいなかった。だから、ブルックリンに新しいタイプのカルチャーが生まれたの。それがこのシーンの始まりで、そのころの記憶にある強烈な新鮮味と情熱はいまだに忘れられない」。

©Raul Coto-Batres

 それから2年が過ぎた2014年。「森のなかで、もっと大きな『Mutual Dreaming』をやりたかった」と話す彼女は、ついに「Sustain-Release」を実行する。ここでもう一度言うならば、「Sustain-Release」は、いわゆるヨーロッパの花形“フェス”でなく、 Aurora Halal を初心にかえさせるゲティスバーグの森に強くインスパイアされた“レイヴ”だ。「Freerotation」というイギリスのフェスに何年も通っていた初期のチームメイト Zara Wladawsky と初めて会った2013年から一緒に空き地を探し始め、ようやく見つけたロケーションで、500人限定の最初の「Sustain-Release」をローンチ。2016年にはNY市から車で2時間ほどの場所にある現在のキャンプ場「Kennybrook」に開催地を移し、2017年には Zara Wladawsky から Ital や Relaxer などの名義で知られる Daniel Martin-McCormick が共同ディレクターへ。毎年、回を重ねるごとに少しずつマイナーチェンジを行い、9月の週末を大自然に囲まれたアップステートの野外で快適に過ごすことができる現在の環境を作り上げた。

©Raul Coto-Batres

 これまでの出演者を振り返ると、ヨーロッパからは DJ Sprinkles、Lena Willikens、Optimo、PLO Man、Helena Hauff、LEGOWELT、DJ Stingray、DVS1、Vladimir Ivkovic など、日本からは DJ Nobu、Wata Igarashi、POWDER など、ホームNYからは Aurora Halal をはじめ、Anthony Naples、Huerco S.、 DJ Python、Galcher Lustwerk、Umfang、Beta Librae、Hank Jackson、DJ Healthy などそうそうたるラインナップだ。こうやって出演者を羅列するとめちゃくちゃ豪華に感じるけれど、各年にフォーカスすると一概に「豪華」というにはかなり語弊がある。なぜなら、彼女が本当におもしろいと思えるプレイヤーを「Sustain-Release」ならではの審美眼で選んだユニークなラインナップだといえるからだ。


Sustain-Release YEAR SIX flyer


©Raul Coto-Batres
The Bossa stage

 過去4年間、キャンプ場にある屋内競技場を利用したメインステージはテクノが中心の巨大なレイヴ・パーティのヴェニューに、「Bossa Nova Civic Club」にちなんだ半屋内の「Bossaステージ」はブルックリンのローカルDJを中心にハウスやトリッピーなダンス・ミュージックがかかるワイルドなフロアに変わる。もちろんここにあるのはダンス・フロアだけじゃなくて、野外の森には、落ち葉とウッドチップが重なり合うフカフカの地面に敷いたマットに寝そべりながらアンビエントやエクスペリメンタル、リスニング・ミュージックを聴けるチルな「The Groveステージ」も。

©Raul Coto-Batres
The Grove stage

 さらに敷地内にはバスケットボールコートとプール、小さな湖があって、開催初日の昼はバスケットボールトーナメント、土曜の昼はプールサイドで1日限りの「Saturday Pool Party」を開催。踊り狂うもよし、プールで泳ぐもよし、カヌーに乗るもよし、疲れたら昼寝するもよし、大自然のなかで人々の声欲(しょうよく)を満たすプログラムが62時間にわたってしっかり組み込まれているのだ。

©Raul Coto-Batres


©Raul Coto-Batres
バスケットボールのコートサイドでプレイする DJ Python

 ロケーションやサウンド、プログラムのほかに、「Sustain-Release」においてライティングも重要なパートのひとつ。森の木々を幻想的に照らし出すブルーやパープル、ピンクなどのカラーライト、ダンス・フロアの天井に張り巡らされた光のライン、時折視界に射し込んでくるレーザーの強い光線。「Sustain-Release」での体験をより印象的なものにするライティングには、電気工学を学び、数々のライブパフォーマンスやイベントデザインを手がけてきた Michael Potvin 率いる団体「NITEMIND」と、彼らが輩出したアーティストの Kip Davis が任されている。

©Raul Coto-Batres Instagram: @rl.ct.btrs
The Main stage

 「NY」とか「新しい世代」とか「レイヴ・パーティ」とか、やっぱり日常的になじみの薄い言葉を字詰めするとただの夢物語に感じさせるかもしれない。そして、できることなら現地の「Sustain-Release」に遊びに行ってもらいたいのだが、東京にいながらこのシーンの一部を体験できるのが「S-R Meets Tokyo」だ。いろいろ考えてみても、文化の水準が違う日本で、アメリカと同じように自由なクラブ・シーンは生まれにくいだろう。だけど、少なくとも東京とNYにいる人たちの交流を通じて文化をシェアしていけたら、これから日本やアメリカで始まる新しい何かにつながるかもしれない。

Sustain-Release presents “S-R Meets Tokyo”

2020年1月25日(土)東京・Contact
OPEN 22:00
出演
Aurora Halal (NY)
Galcher Lustwerk (NY)
Wata Igarashi (Midgar | The Bunker NY)

DJ Python (NY)
Beta Librae (NY)
AKIRAM EN
JR Chaparro

Mari Sakurai
Ultrafog
Kotsu (CYK | UNTITLED)
Romy Mats (解体新書)
Celter (Eclipse)

OFFICIAL GOODS
Boot Boyz Biz (NY)×葵産業

NEON ART
Waku

料金
BEFORE 11PM ¥2500 | UNDER 23 ¥2500 | ADVANCE ¥2500 | GH S MEMBERS ¥3500 | W/F ¥3500 | DOOR ¥4000
詳細:https://www.contacttokyo.com/schedule/sustain-release-presents-s-r-meets-tokyo/

gummyboy - ele-king

 Mall Boyz として発表した “Higher” が大きなヒットを飛ばし、Tohji とともに一躍2019年を代表する存在となったラッパーの gummyboy。昨秋は Mall Boyz の全国ツアーも開催し、まさにいまノりにノっている彼が、本日、新曲 “f***in' boy” をリリース。同時にMVも公開されている。今年はさらなる飛躍を遂げるだろうこの新星、まだ知らない人はしっかり注目しておいたほうがいいですよ。

Tohji と共に Mall Boyz を率いる gummyboy がニュー・シングル「f***in' boy」をMVと共にリリース。

2019年を象徴する楽曲となった “Higher” のリリースや、観客を圧倒する数多くのショーケースで、いまジャンルを超えて東京で最も注目されている存在の Mall Boyz。Tohji と共にクルーを率い、ソロ活動での飛躍も期待される gummyboy の新作が待望のリリースとなる。

本作「f***in' boy」は2020年2月リリース予定の新作ミックステープからの先行シングル第一弾。 内省的でエモーショナルな楽曲の印象が強い gummyboy だが、“f***in' boy” はアッパーなトラックの上に、新しいフローが乗った印象的な楽曲となった。

ミュージック・ビデオのディレクターは、同年代ラッパーのビジュアルやビデオを多く手がけ、アナログテープやカメラを多用した作風で注目を集める lilsom を起用。これまで見ることのできなかった gummyboy の新しい側面が、独特の質感でアグレッシブに表現されている。

全国ツアーの開催、O-East や LIQUIDROOM といった大きなステージでのパフォーマンスなど、飛躍の年となった2019年を経た gummyboy の第二章がこのシングルから始まる。

「f***in' boy」MV
https://www.youtube.com/watch?v=rkYBpGM9tnc

リリース情報
アーティスト:gummyboy
タイトル:f***in' boy
リリース日:2020年1月10日

gummyboy bio

guumyboy / アーティスト

2018年末、1st EP「Ultimate Nerd Gang」をリリース。直後 Tohji と共に Mall Boyz として「Mall Tape」を発表。収録された “Higher” が大ヒットとなり、2019年のヒップホップを代表する曲となる。Tohji と共に超満員の O-East や LIQUIDROOM、また Ultra Korea への出演を果たし、その人気を確固たるものとした。

2nd EP「pearl drop」では、gummyboy の魅力である叙情的なリリックとキャッチーなメロディが遺憾無く発揮され、典型的なヒップホップとは一線を画すそのアーティスト像がより洗練された。2020年2月には自身初のミックステープのリリースを控えており、いまもっとも勢いに乗るラッパーの一人。

lilsom bio

1995年生まれ。ディレクター、フォトグラファー。

2017年、jinmenusagi “BEAUTiFULL” のMVでディレクターとしてデビュー。その後ヒップホップを中心に、Tohji、TRASH ODE、ACE COOL など同世代アーティストのMVやアーティスト写真を撮影している新進気鋭の作家。

映像、写真共にアナログテープやフィルムによる実験的なアプローチを好み、独特の質感で印象的な作品を残し続けている。

またこれまでのキャリアを生かし、スタイリングやヘアーのディレクションも行うことが多く、全体的なクリエイティブ・ディレクションを得意とする。

Stereolab - ele-king

 1993年から2004年にかけてのステレオラブは、1970年代のデヴィッド・ボウイにも似た活躍を見せ、毎年、新しくて非凡な作品をリリースしていた。個々の作品は単体で見ても優れているのだが、全体として捉えてみると、それがバンドの成長と進化の記録そのものとなって我々を魅了する。

 今回のキャンペーンで再発されるのは、グループ(彼らはたびたび自分たちのことを“group”ではなく“groop”と称する。発音は同じだがgroopには「排水溝」という意味がある)がこの期間にリリースした7枚のスタジオ・アルバムだが、この数字だけでは、当時のステレオラブがどれほど旺盛に制作を行っていたかを説明するにはいささか物足りない。7枚のアルバム以外にも、2枚のミニアルバム、2作品からなるコンピレーション・シリーズ『Switched On』、さらには前衛音楽の伝説的バンド、ナース・ウィズ・ウーンドとコラボレーションした数枚のEPが、同じ時期に生み出されているのだから。彼らに関して興味深いのは、結成して活動を始めたときからバンドとしての完全な形態を成立させており、下積みの期間を飛び越えて、そのままデビューアルバム『Peng!』と複数のシングルとEPを完成させ、それを『Switched On』の1作目に繋げたことだ。

 ステレオラブの下地となっているのは、1980年代のイギリスおよびアイルランドのギター・ポップ・シーンである。このころティム・ゲインが中心メンバーだった騒々しく反抗的な左翼バンド、マッカーシーに、レティシア・サディエールが加入し、バンドにとって最後の(そして最高傑作である)アルバム『Banking, Violence and the Inner Life Today』が制作された。マッカーシーの歌詞は、1980年代のイギリス左派による政治闘争を主要なテーマとしており、しばしば皮肉を込めて、敵対する政治スタンスをあえて標榜し、そうすることで相手の明らかな不合理や偽善を風刺しようとした。マッカーシーの最後のアルバムを聴けば、そこからステレオラブのサウンドが芽生え始めていたことがわかる。ギターの騒がしい音はわずかに鳴りを潜め、それまで以上に瑞々しく多層的なキーボード主体のサウンドが“I Worked Myself Up from Nothing”などの楽曲に現れている。このアルバムでとりわけ興味深い楽曲が“The Well Fed Point of View”で、マッカーシーの定番とも言える、敵の立ち位置を歌に乗せて風刺する手法を採用している──この曲では、自身の幸福と感情の安寧は本質的に個人の問題だと捉えるべきだと聴き手をけしかける。反面、この世界にある残酷さと不公正さもまた、個人に帰する問題だとしている。マッカーシーが言外に主張しているのは、これらは本来、個人の問題ではなく社会の問題だということだ。こうして培われた思想の中核が、やがてはステレオラブの世界観の根幹を成すことになる。すなわち、個人の問題と、社会的もしくは政治的問題の間には、切り離せない相互関係があるということだ。

 ステレオラブが活動を始めたころ、バンドは主にロンドンのミュージシャンたちと交流を持っていた。こうした集まりは「自画自賛の界隈」などと軽蔑されながらも、後のブリットポップに繋がる、何でもありのインディー・ロックシーンを形成していた。当時ステレオラブの周辺には、スロウダイヴ、チャプターハウス、ラッシュなどのシューゲイザーのバンド、またはマッドチェスターの残り火から熱を受け取って早々に名を上げたブラーのようなバンド、そしてシー・シー・ライダー、ガロン・ドランク、ザ・ハイ・ラマズなどの一風変わったパフォーマンスをするバンドなどが存在していた。初期のステレオラブのサウンドには、周囲から受けたさまざまな影響が渾然となっていて、マッカーシーが築いたものをある程度引き継ぎながら、ギターポップとシンセサイザーを組み合わせるだけでなく、シューゲイザーや実験的ポップスの要素も取り入れられている。

 他に初期の彼らに多大な影響を与えたのがクラウトロック、とりわけノイ!というバンドの存在だった。1992年に壮大な叙事詩的傑作『Jehovahkill』をリリースしたジュリアン・コープとともに、ステレオラブは90年代初めにクラウトロックへの注目が再燃した際に中心的役割を果たした。その影響が何よりも華々しく描かれているのが、新たに〈Warp Records〉から再発される作品の中でもっとも古い『Transient Random-Noise Bursts with Announcements』である。再発されるアルバムの中でも──そしておそらくステレオラブの全アルバムのなかでも──これがバンドにとってもっとも荒削りで、獰猛なサウンドの作品だ。冒頭の曲“Tone Burst”は素っ気なく始まるが、次第にサウンドは分裂し不協和音の層に溶け込んでいく。それでいて、このサウンドを際立たせるのがサディエールによる幻想的で夢のような歌詞だ。このように粗さと優美さを並列させるスタイルは、次の“Our Trinitone Blast”でも続き、ヴォーカルは前面に出る声と後ろを支える声に分かれ、片方が粗野に歪めば一方が甘く歌うというように、まるでラッシュのようなハーモニーを奏でている。“Golden Ball”では、間断なくかき鳴らされるギターコードとともに、特定の箇所で明らかにテープが途切れたかのような効果が再現され、ノイ!のセカンド・アルバム後半で積極的に採用されているような、故意に曲のスピードを変化させる一筋縄では行かない演出を真似ている。対して“I'm Going Out of My Way”では、ほとんど若者向けのバブルガム・ロックと言っていいようなガレージ・ロックのグルーヴを取り入れ、ひたすら反復を続けることでトランス・ミュージックに似た作用を引き出している。

“Pack Yr Romantic Mind”では、ステレオラブの原動力を示す別の重要な一面が見られる。それは、情念もしくは冷笑主義のどちらかに裏打ちされたサディエールの抑揚のない平板な歌い方と、その後ろに聞こえるメアリー・ハンセンによる「ba ba ba」という歌声との間に生まれる相互作用だ。また、『Transient Random-Noise Bursts』が、ザ・ハイ・ラマズのメンバーだった(その前はアイルランドのインディー・バンド、マイクロディズニーのメンバーだった)ショーン・オヘイガンを正式に迎え入れ、初めてその存在を前面に出して制作されたステレオラブのフルアルバムだという点も見逃せない。この時点で、オヘイガンはギター・ポップからより実験的な方向へという自身の転向を踏まえてバンドを導いていた。そこにはブライアン・ウィルソン、ヴァン・ダイク・パークス、バート・バカラック、フィル・スペクターの他、多くのアーティストの影響があった。アルバムの持つ粗さにもかかわらず、“Pack Yr Romantic Mind”のような曲を聴くと、このころから前衛的なイージーリスニングの影響を受けるようになったことが明白だ。これは後にステレオラブの作品においてますます重要な特色となるものであり、ザ・ハイ・ラマズの1994年のアルバム『Gideon Gaye』にも、オヘイガンによる特色として現れている。それでもやはり、この歌とアルバムの他の曲との共通点をひとつ挙げるなら、それはマントラのような繰り返しに専念していることで、歌詞はひとつのフレーズを途切れることなく何度も復唱するものになっている。

 しかしながら、ノイ!が用いたような4ビートのモータリック・サウンドこそが、『Transient Random-Noise Bursts』の特徴としてもっとも強力なもので、楽曲“Jenny Ondioline”の要となっている。歓喜に満ちた18分の歌を構成するのは、のらりくらりと奏でられるキーボード、幾層にも重なるシューゲイザーのギター、反抗的でありながら純真さのあるサディエールの独特な歌声であり、そうした寄せ集めの中で、無限に広がる至福の音が神々しいまでの領域に達している。

 『Transient Random-Noise Bursts』がステレオラブのもっとも荒削りなアルバムであるとすれば、1994年の『Mars Audiac Quintet』は、もっとも激しい怒りが歌われているアルバムかもしれない。明るい曲調の“Ping Pong”の軽快なメロディーは、それまでにない都会的なポップ・サウンドで、同時期に日本で渋谷系と呼ばれ始めていたものと類似する。だが、表面的には前向きなこの曲も、歌詞を見ればその様相が一変する。マッカーシーの戦略を引き継いで、語り手は作詞者の真意とは対極にある考え方を持ち、安心させるような口調で、世の中のことで悩むのはやめるようにと聴き手を促す。

「心配いらない 歴史のパターンはもうわかっているから/経済のサイクルがどんなふうに回っていくか/何十年という周期の中で 3つの局面が繰り返し現れる/不況と戦争があっても そこから挽回して元に戻り さらに上を目指していく」

 この架空の語り手は、厳しい時代でも悩むことはないと聴き手を煽る。なぜなら「ものごとは自然に良くなっていく」からであり、「凄惨な戦争があって死ぬのは数百万人 だから心配いらない/せいぜい彼らの命とその次の世代の命が失われただけのこと」と強調する。最終的には、社会の現状に対してメンバーたちが抱く怒りや不安が、「悩まなくていい 何も言わず そのままでいい 受け入れて幸せになりなさい」という言葉で封殺されていることを明らかにする。

 “Three Longers Later”は、平和を実現するという名目で戦争を行うことの不合理について語る。これは、徴兵制度によって家族から父親を奪われた子供の目を通して描かれる──作詞をしたサディエールの祖国フランスでこの徴兵制度が終了したのは、アルバムリリースの2年後だった(そして本稿執筆時の2019年夏、現大統領エマニュエル・マクロンが何らかの形でこの制度を復活させようと試みている)。このテーマを表現するため、楽曲は童謡と言っていいほど穏やかなメロディーから始まり、やがて爆発してスペースロックと呼ぶにふさわしいクライマックスを迎える。

 “Transporte sans Bouger”では、ますます断片化していくように見える世界を嘆く。人びとは空しい「仮想の夢」の中で生き、「隣人のことを知る必要がない」夢の世界で「一定の距離を置いて愛し合う」。1994年には、まだインターネットが人びとの生活に深く浸透していなかったことを考えれば、これは見事な先見性ではないだろうか。徐々に失われていく友好的な地域社会を懐かしむというのは、いくぶん保守的な考え方だ。だが、ステレオラブは左派としてのスタンスにもかかわらず、現在の問題の解決策を探るために過去を振り返ることを決して厭わなかった。
“International Colouring Contest”は、エキセントリックな音楽家で塗り絵帳の制作者であるルチア・パメラの持つ、創造性と宇宙時代的な楽観主義に対する賛辞のようなものだ。曲の冒頭は、ルチア・パメラによる「私の頭の中はアイデアでいっぱい 最高のアイデアを教えてあげる!」という高らかな声のサンプリングから始まっている。ステレオラブは、創造性とは根本的な変革をもたらすものであり、自由の概念と密接につながっているという意識に繰り返し立ち返っている。

 反対に、想像力を発揮するための道筋を塞いでしまうものがあれば重苦しく感じられるだろう。“L'Enfer Des Formes”は、冷笑的な態度が、変化をもたらすための行動をどのように阻害するかということを述べ、クラウトロックの影響を受けた“Nihilist Assault Group”は検閲制度と道徳的な危機を題材に、それがいかに批評的な感性を潰えさせ、問題を効率的に対処するためのあらゆる現実的な手段が犠牲になるかということを描く。“Wow and Flutter”とアルバムを締めくくる“New Orthophony”は、現在の状況を避けられないものとして受け入れるのではなく、異議を唱えることの必要性に触れる。

 『Mars Audiac Quintet』では、前作同様クラウトロックのリズムセクションの技法に頼っているが、それとともに、紛れもなくアヴァンポップの分野に進んでいる。“Ping Pong”に加えて“L’Enfer Des Formes”もまた、表面的には明るいポップなメロディーを奏で、一方“The Stars Our Destination”と“Des Etoiles Electroniques”では、リズムマシンによる陽気なループ音と、夢幻的なシンセと、絡み合うヴォーカルのメロディーラインが組み合わさって流麗で重層的なサウンドを生み、バンドが進む新たな方向性を示している。

 歴史を辿る旅の次なる停車駅は、1996年の『Emperor Tomato Ketchup』だ。本作でこのバンドのサウンドは完全に刷新されているが、それにもかかわらずステレオラブとすぐに認識できる特徴が残っている。前作までと同様、バンドは前進する過程において過去の芸術を参考にしていて、例えばタイトルは日本の劇作家で映画監督の寺山修司による1971年の同名の映画(『トマトケチャップ皇帝』)から取られたものであり、ジャケットのアートワークは1960年代にリリースされたベラ・バルトーク作曲の『Concerto for Orchestra』のジャケットを下敷きにしている。やはりステレオラブにとってお馴染みの要素がアルバムの中核を成しており──繰り返しのリズム、多層的な音作り、あえて外した曲調のポップス、作用しあうサディエールとハンセンのヴォーカル、そしてマルクス主義を遠回しに表現する歌詞──たとえ今作でいっそう洗練された姿へと進化していても、その点は変わっていない。

 最初の“Metronomic Underground”では、クラウトロックの中でもファンク寄りの部分、つまりノイ!ではなくカンのようなサウンドを引き出しているが、フレーズの繰り返しとドラムのループが変わらず全体を包みながら、それぞれの歌がモータリックのリズムを刻み続ける。例えばアルバムと同タイトルの楽曲“Emperor Tomato Ketchup”や“Les Yper Sound”では、そこにヴォーカルが融合し、数々のアルバムのなかでもとくに甘美でポップなメロディーが用いられている。華麗な“Cybele's Reverie”はプルースト風の内省によって記憶を巡り、ステレオラブのポップ・ミュージックへの傾倒を踏まえて、より豪華でオーケストラ的な演出を志向している。一方他の場面では、バンドは繰り返しとループ再生を探求する中で、さらに新しくて興味深い手法を発見しており、それはミニマル・ミュージックの“OLV 26”や左右のギターが鏡合わせのように鳴らされる“Tomorrow is Already Here”といった曲で窺える。

 歌詞においては、それまでのアルバムと比べてさらに抽象的な世界を探求しているが、このアルバムが個人と社会の関係性というテーマをもっとも明示的に扱っていると言えるかもしれない(少なくとも、ステレオラブの全作品の中で、確実にこのアルバムが一番多く「社会」という言葉を使用している)。“Spark Plug”は、個々の人間やあるいは人間の集団が見せる内なる生命の輝きを、抽象的に捉えるのではなく、実際にあるものとして認識することの重要性を描く。“Tomorrow is Already Here”では、本来は社会に資するために用意された、いくつもの制度が、今では対象を抑圧する元凶となっていることに着目する。対して“Motoroller Scalatron”は、子供向けの歌のように質問と答えを歌詞にするという構成になっていて、社会というものが脆弱な基盤の上に成り立っているのだと語り、現在の社会を維持するには、脆弱な基盤が確かに存在し、そしてそれがしきりに変動しているという考えを共有するしかないと述べる──そして皮肉なことに「言葉の上に築かれた」社会では、我々が言った言葉、あるいは言わないことを選択した言葉が、最後には計り知れない結果を招くことがあるのだとも述べる。

 そしておそらく、さらに意義ある変革が、次のアルバム『Dots and Loops』で成された。『Emperor Tomato Ketchup』がリリースされたのと同時期に、シカゴ出身のバンド、トータスが画期的なアルバム『Millions Now Living will Never Die』をリリースし、その少し前にはドイツ生まれのデュオ、マウス・オン・マーズがセカンド・アルバム『Iaora Tahiti』をリリースしていた。3つのグループはいずれも、急速に拡大したにもかかわらず定義が曖昧なままだったポスト・ロックというジャンルのなかで大きな役割を担った。1990年代当時のポスト・ロックを理解するには、ジャーナリストのサイモン・レイノルズの記述がもっとも適しているだろう。「ロックの楽器編成をロックではない用途に使い、ギターはリフやパワーコードを奏でるのではなく、音色や響きを補助するものとして使用される」

 コラボレーション相手としてマウス・オン・マーズを選び、トータスのジョン・マッケンタイアをプロデューサーに迎えたことで、『Dots and Loops』はポスト・ロック黎明期の才能がぶつかり合う場となった。ディストーションのかかった電子音で始まり、そのまますぐに軽快なブレイクビーツに続く“Brakhage”では、サディエールが夢のような声で、消費主義の影響を受けて感覚が麻痺してしまうことを嘆く。一方、先行シングルの「Miss Modular」は、ラウンジ・ミュージックの美しい作品で、歌詞は、戯れや神秘、そして目の錯覚といった比喩に言及している──抽象的な比喩表現のために主題がわかりにくいかもしれないが、フランスの状況主義(人の行動は状況によって決定されるところが大きいとする考え方)の先導者ギー・ドゥボールが消費主義を批判したその著作『スペクタクルの社会』にバンドが親近感を抱いていることからも明らかなように、こうした比喩表現が暗示しているのは、人為的なもの──すなわちスペクタクル──が現実と想像、あるいは歴史と終わらない現在の違いを見極める人間の能力を圧倒してしまうときに、社会的な関係性がより広い意味を持つということであるのは確かだろう。このアルバムに特定のテーマがあるとすれば、それは孤立かもしれない。社会や近しい人たちからの孤立だけでなく(そして個人と社会は不可分だとするステレオラブの世界観を考えれば必然的に)自我や自身の感覚からの孤立もまたテーマである。

 マッケンタイアとの関係は続く2枚のアルバム、1999年の『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』と2001年の『Sound Dust』でも続き、その2作には、共同プロデューサーとしてジム・オルークが加わった。『Dots and Loops』に比べればエレクトロニック・サウンドはあからさまではなく、この2枚のアルバムでは、バンドはジャズの影響を取り入れて純然たるアヴァン・ポップの方向に進んでいった。

 『Dots and Loops』が孤立の感覚を携えているとすれば、『Cobra and Phases』はバンド史上もっとも希望に満ちた音が鳴るアルバムである。少なくともその要因の一端は、ゲインとサディエールの間に子供が誕生したことにある。それは“People Do it All the Time”ではっきりと言及されていて、歌詞では、創造的営みの混沌たる作用である生命の誕生を大いに喜んでいる。「混沌のなかから創造が生まれる/ひとつの形に結びついて/酒飲みが正気になるように」そして子供は希望で満たされるべき器であると位置づけ「あなたにはのびのびと育ってほしい/私たちが守っている古い考えを蘇らせて」と宣言する。

 自由に育っていくことは「古い考えを蘇らせる」ことと両立しなければならないという考え方は、ステレオラブが繰り返してきた、前に進むには振り返ることも必要になるだろうというテーマに対する新しい切り口だ。アルバム全体を通して、(単なる誕生や発見ではなく)生まれ変わりや再発見というイメージが繰り返し登場する。“The Free Design”でサディエールは「願いが届きいつでも復活させられる/私たちにできるのはプロジェクトを再生させるだけ」と歌い、過去のプロジェクトで未完成のまま残されたものがあることをほのめかしている。一方“Puncture in the Radax Permutation”に登場する「孤独に歩む人の形をしたもの」は、それが「五感を取り戻」そうとする姿を通して「自分の歩調を再発見する」ことの象徴として描かれる──新しさとは過去を振り返ることに結びついている、そして、生命のサイクルと生まれ変わりが意味するのは、新しいものは必ず何か古いものと同一であるということだ。そのような考えが、ここで再度強調されているのかもしれない。

 『Cobra and Phases』は官能的なアルバムで、最初と最後には愛についての歌が並び、大地と自然のイメージに何度も立ち返っている。本作は、サディエールが女性として生きることをはっきりと単刀直入に歌っている希有な事例であり、フェミニズムのテーマが「Caleidoscopic Gaze」や、クラウトロックにわずかながら回帰した「Strobo Accelleration」で前面に出ている。

 『Cobra and Phases』では楽観的な姿勢が念頭にあったが、『Sound Dust』はさまざまな意味でステレオラブのもっとも陰鬱なアルバムで、資本主義に内在する人間性の剥奪と社会の抑圧を扱うテーマに戻っており、“Gus the Mynah Bird”では「自己決定とは事実として存在しなければならない/本来は権利などではない」と断言して、資本主義は偽りの自由を提供し、嬉々として社会の抑圧と結託するのだと示唆する。“Space Moth”で参考にしているのは2人の映画監督、ジャン・ルーシュとエドガール・モランで、彼らによる1960年の映画『ある夏の記録』は、フランスの多様な人々、なかでもとりわけ労働者階級の人々にとっての幸福をテーマに、幸福とは政治と自由に密接な関連があるという考えのもと、戦争、検閲制度、人種の問題に触れ、ホロコーストを痛切に描いている。この歌の「人間はその職に応じて変わる」というフレーズは、再度、資本主義を自由と相反するものとして位置づける。

 “Nothing to Do with Me”の歌詞は、イギリスの風刺作家クリス・モリスによる陰気でシュールなコメディーから直接引用されている。そのテレビ番組『ジャム』は、不気味なアンビエントミュージックを短編コメディーに組み合わせ、タブーを破り、ドクターと呼ばれる人種は利他的な人々ではないという描写を用いたことで、イギリスで議論の的となった。モリスが描くドクターは、しばしば混沌の仲介者となる。それは自分たちに頼る人々の信頼を不明確な理由で悪用する権威の象徴である。「私の娘に1ポンドのヘロインを処方したの?」と歌の途中でサディエールは尋ねる。他の箇所では、顧客と依頼人という微妙に異なる立場の関連性に混乱が生じ、ひとりの女が配管工に頼みごとをする。「先日は本当に助かりました/おかげでボイラーが直りました/今度はうちの赤ちゃんを直してくれませんか/あの子はもう3週間も動かないの」どちらの例においても、社会的な関係性が悪用されているのだが、社会的に定められた当事者同士の関係性は、それでもなお形式的には妥当な手続きに守られており、穏やかで理性のある様子を見せることは、他者を威圧する非常識な人間に付け入られることに繋がる。

 だが、それ以上に『Sound Dust』は二重性についてのアルバムだと思われる。ステレオラブの曲の多くが、対立する概念を考察して真理に至ろうとする弁証法的アプローチを採用し、2つの対立する勢力や立場に折り合いをつけることを論じていて──命題とそのアンチテーゼがあってこそ、総合的な判断ができるということだ──その構造が変わらず存在する。「Baby Lulu」の歌詞は「両極端なものは一致していた/即興を奏でる/合理的にそして詩的に/すぐに矛盾を見極めながら」と述べている。そしてこれは、バンドにとって、これまででもっとも率直に邪悪という概念に向き合ったアルバムだということでもある。「Naught More Terrific than Man」の歌詞に「ふたつの対極点が人の歩みを導く」とあり、対極点のうちのひとつが邪悪そのものとして描かれる。そして「Suggestion Diabolique」では、邪悪の概念が明らかに聖書を意識した内容で表される。メロディーの華麗さや温かさや美しさは、歌詞の暗さや厳粛さと相まって、アルバムのテーマと同様の二重性を有している。

 このような特徴は、アルバムの音楽的な構成にも反映されており、多くの曲がふたつのパートで構成されている。曲の前半と後半では、メロディーもアレンジも、まったく別のものが展開される。もっとも際だった事例が、楽しげな“Captain Easychord”で、生と死のサイクルというテーマに戻り、それを突き詰めた結果、もっとも基本的な息を吸って吐くという行為のサイクルによってそのテーマを表現している。

 『Sound Dust』はメアリー・ハンセンが参加した最後のアルバムとなった。ハンセンが翌年、交通事故で他界したからだ。今回の再発キャンペーン最後のアルバムとなる2004年の『Margerine Eclipse』には、ハンセンに捧げるという側面がある。楽曲“Feel and Triple”では直接別れに言及し、“Need to Be”では、今あるものを認めるために、痛みや寂しさや死への恐れを受け入れることの必要性を語り、そして“…Sudden Stars”では、愛に向き合って喪失の悲しみを尊重することを伝える。

 当時のヨーロッパやアメリカの政治状況もまた、アルバムのあちらこちらに影を落としている。それは、アフガニスタンやイラクでの戦争、自分たちの中にムスリムという「他者」がいることで具体化したテロの恐怖の増大、そしてますます過度になる国家の監視という姿で現れている。“La Demeure”はこの他者への恐怖を描き、“Bop Scotch”は、我々は自由と安全を天秤にかけられるのかという問いかけを論じる。

 死と恐怖が影を落としているにもかかわらず(あるいは、だからこそと言うべきか)『Margerine Eclipse』はステレオラブのもっとも明るいアルバムのひとつでもあり、また、間違いなくもっともファンク寄りのアルバムで、豊かで濃密なシンセとベースのサウンドが派手に鳴らされながら推進する。そしてこれはもっとも明確に愛を謳ったアルバムであり、最後の曲“Dear Marge”では愛することと学ぶことを関連づけていて、反面、愛と共感が欠けていれば人は学ぶことも成長することもままならないという含みを持たせている。

 『Sound Dust』と同様、弁証法的な構成が『Margerine Eclipse』の基礎を作っている。『Margerine Eclipse』では、ミックス時にすべての楽器の音が極端に右か左にパンをした状態で配置されていて、左右それぞれのサウンドが独立して成立していながら、それでいて同時に聴いたときに2つが統合されるように設計されている。

 この期間に製作された作品を聴いた上で改めて問うてみよう。ステレオラブにとって、バンドとして本当に重要なことは何だろうか?

 このバンドを理解するためのひとつの手段は、同じ時代の見地から彼らを探ってみることだ。この7枚のアルバムは、ソビエト連邦の崩壊に始まり、2001年9月11日にワールドトレードセンターが攻撃され冷戦後のアメリカにもはや敵はいないという意識が粉砕された10年間と、密接に重なっている。

 経済学者フランシス・フクヤマによって「歴史の終わり」と表現されるこの時代には、社会全体が持つ大規模な想像力が通用しなくなったという特徴がある。20世紀に繰り広げられた巨大なイデオロギー同士の闘争は終焉を迎え、自由資本主義が勝利を収めた。それに取って代わるものは存在しなかった。そして評論家マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」と呼んだ考え方が浸透した結果、さまざまな未来の展望が示されても、すべてが必ずしも「二番煎じ」とは限らなかったにもかかわらず、それらを一律に実現不可能なものとして扱う風潮が生まれた。

 この考え方こそ、ステレオラブが繰り返し非難してきた敵そのものだ。『Mars Audiac Quintet』収録の“Wow and Flutter”の歌詞が、それをもっとも明快に表現している。

 「IBMはこの世界とともに誕生したのだと思っていた/アメリカの旗は永遠に漂うのだろう/冷淡な敵対者は早々にいなくなった/資本家はこれからもついていかなくてはならない/それは永遠でも不滅でもない/そう きっと変わっていくだろう/それは永遠でも不滅でもない/化石のような法律なのだから」

 資本主義リアリズムは人の想像力に制限を加えることで、狡猾で抑圧的な力を持つ。そしてステレオラブにとって、これを克服するには、意識を高く持ち、独創的な(そして夢想的な)精神を発揮するより他にない。状況主義の誕生と、1968年のパリで起こった五月革命(学生たちの運動に端を発したフランスの社会的危機で、世界中の社会運動に多大な影響をもたらした)で示されたように、個人の創造性と構想力が発揮される類まれな瞬間に、社会にショックを与えて、ひとつのサイクルを終わらせ、世のなかを新しい段階へ引き上げることができる。ちょうど『Emperor Tomato Ketchup』のジャケットに描かれた螺旋のように、変わらず周回を続けながらも、常に空に向かって上昇するのである。この意味で、ステレオラブの展望には、フィッシャーが不慮の死の直前まで展開していた思想や、彼が「アシッド共産主義」と称した概念と共通する部分がある。この意味における共産主義とは、資本主義者の自己満足に向かって投げ込まれた修辞上の爆弾であり、20世紀の共産主義体制の再現ではない。そもそもスターリンの抑圧体制は、フィッシャーやステレオラブのような人びとにとっては常に恐怖の対象だった。むしろ彼らは五月革命の子供世代(フィッシャーとサディエールは共に1968年生まれ)であり、アシッド・ハウス全盛のときに成人を迎えた──両者の展望は、地域社会に分散した自発的な活動の影響を受けている。「アシッド共産主義」の「アシッド」という名称は幻覚剤から取られたものかもしれないが、その真の意味は、言葉が持つ以上のものがある。アシッドすなわちLSDは、意識を上昇させ新たな段階に引き上げる行為の同義語となっており、さらにその背後には実験や探求という意味合いも込められるようになった。これはまた、ステレオラブが新たな表現に至るために再三にわたって創造性を引き出そうとしていることと深く合致している。そして『Mars Audiac Quintet』では明確にこのテーマに向き合っており、“Three-Dee Melodie”にはこう歌われている。

 「存在することの価値は/宗教やイデオロギーによって与えられるのではない/意味があろうとなかろうとそれは崖っぷちに出現する/それこそが創造的に生きることで得られる唯一の力」

 では、フィッシャーが語っていたように「未来が取り消された」とき、それをもう一度、発見し直すにはどうすればいいだろうか? ひとつの手段は過去に目を向けることだ。

 取り消された未来の幻影は、現在を生きる我々を苛む。その姿は、あるときはノスタルジーとなり、あるときは俗悪なものとなり、あるときは我々の充実感を潰えさせるほどの威力を持ったままで現れる。フィッシャーは、過去と現在が共存する不自然なこの状況を「憑在論」と呼んだが、前を向く人々にとっては、このように未来が失われたことは、一旦退いた上で新たな道を探して前進するための好機となる。1960年代のヒッピーによるカウンター・カルチャー、1968年の五月革命、昔のサイエンスフィクション作家たちが描いた理想郷の姿というように──ステレオラブの美的価値観は、彼らが過去を掘り進め、独自の理想郷への道を開いていることから、ときに「レトロフューチャー」と評される。初期におけるクラウトロックへの執着もまた、過去の光景を想像しながら再訪し、その先に何か新しいものを追い求めることで、未来に目を向けるためのものである──この結果として、図らずもポスト・ロックが誕生する一助となったのである。

 往々にして革命の実体は幻影のようなものだ。なぜなら、それは現実となるまでは物質的な姿を持たない概念として存在し、静かに現在の体制を脅かしていくからだ。よく知られているように、マルクス自身が共産主義を「ヨーロッパに取り憑いた」亡霊であると表現したが、この場合のより適切な描写は、1819年のピータールーの虐殺(選挙法の改正を求めてマンチェスターの広場に集まった群衆を騎兵隊が鎮圧しようとして多くの死傷者を出した事件)で犠牲になった人びとについて急進的詩人パーシー・ビッシュ・シェリーが述べた「彼らの墓所からは輝かしい幻が飛び出してくるだろう」という表現だろう──果たされなかった革命は、それでもなお、いずれ蘇ってその目的を達成するかもしれないという脅威を孕んでいる。1960年代に成し得なかった革命の数々は、取り消されたその他のあらゆる未来と同じように、ステレオラブの楽曲に息づいている。

 ステレオラブの作品で中核となる弁証法的手法があるとするならば、彼らは問題を解決するために、常に意識を高めて創造性を抑制しないという方向性を目指しているように見受けられる──想像や創作から何か新しいものが生まれる希有な瞬間、それはより自由な世界へ突き進むための革命的手段として世界に登場する。そこに立ちはだかるのが、世界はともすると同じパターンやサイクルを繰り返してしまうという事実だ。例えば、不況で経済が落ち込み戦争が起こり回復していくように、愛が花開いて枯れていくように、そして死と再生のサイクルがあるというように。ステレオラブの音楽は、それ自体がこの世界に呼応している。その形式は繰り返しによって定められながら、創造的発見が生まれる類まれな瞬間に前進して新しいパターンを獲得する。あるいは別の言葉で表すなら、これはまさにアルバム『Dots and Loops』のタイトルのごとく「点とループ」が織りなすシンフォニーだ。

 

Stereolab in the years 1993 to 2004 were like David Bowie in the 1970s in that every year saw them release something new and extraordinary, each a wonderful record in its own right, but taken together adding up to a fascinating document of a band’s growth and development.

The current batch of re-releases encompasses the seven studio albums the group (or “the groop”, as they often referred to themselves) released over that period, although this slightly understates just how productive Stereolab were at that time, with two mini-albums, two volumes of their excellent “Switched On” compilation series, and a couple of collaboration EPs with avant-garde legend Nurse with Wound also falling within the same timeframe. What’s interesting about them is that they start off with the band fully-formed in their first incarnation, skipping over the period of finding their feet that that defined their debut album “Peng!” and the singles and EPs that made up the first “Switched On” compilation.

Stereolab’s background lies in the British and Irish 1980s guitar pop scene, with Tim Gane having been a key member of the jangly and defiantly left-wing McCarthy, joined by Laetitia Sadier for their last (and best) album “Banking, Violence and the Inner Life Today”. McCarthy’s lyrics mostly focused on the political struggles of the 1980s British left, often ironically adopting the stance of political enemies in order to satirise their perceived absurdities or hypocrisies. It was on that final McCarthy album that you start to hear the early murmurs of Stereolab, with the band dialing the guitar jangle back slightly in favour of a more lush, layered, keyboard-based sound on songs like “I Worked My Way Up from Nothing”. A particularly interesting song on this album is “The Well Fed Point of View”, which takes the standard McCarthy approach of satirically vocalising their enemy’s position – in this case, a voice encouraging listeners to see their happiness and emotional wellbeing as essentially individual issues, with the flipside of that being that the cruelty and injustice of the world is also the problem of individuals. McCarthy’s implied message, that these are actually social rather than individual issues, lays down a key idea that would become a key part of Stereolab’s worldview: the inseparable interrelationship between the personal and the social or political.

In Stereolab’s early days, they were connected to a cluster of musicians in London, known cynically as “the scene that celebrates itself”, as well as the eclectic pre-Britpop indie scene. Around them at that time were shoegaze bands like Slowdive, Chapterhouse and Lush, bands like Blur, who had risen to early fame heated by the dying embers of the Madchester scene, and oddball acts like See See Rider, Gallon Drunk and The High Llamas. The early Stereolab sound shows a mixture of these influences, picking up in part from where McCarthy left off, combining guitar pop with synthesisers, but also drawing on elements of shoegaze, and experimental pop.

The other big influence in these early days is krautrock, and Neu! in particular. Along with Julian Cope, whose epic cosmic masterpiece “Jehovahkill” came out in 1992, Stereolab were key figures in the revival of interest in krautrock that bloomed in the early ’90s. It’s this influence that and the expresses itself most spectacularly on the oldest of the new Warp Records re-releases, “Transient Random-Noise Bursts with Announcements”. Of all the re-releases – perhaps of all Stereolab albums – this is the band’s rawest and most sonically brutal. The opening song, “Tone Burst” begins simply, but gradually dissolves into layers of sonic discord, but set against this are Sadier’s deamily romantic lyrics. That juxtaposition of harsh and sweet continues on “Our Trinitone Blast”, with the vocals pinging back and forth, one part harsh and distorted and the other sweet, Lush-like harmonies. “Golden Ball”, with its relentless, clanging guitar chord, fakes an apparent tape breakdown at one point in a way that echoes the frequent, deliberately awkward speed-changes in side two of Neu!’s second album. Meanwhile, “I’m Going Out of My Way” takes a garage rock, almost bubblegum, groove and turns it into something trancelike through sheer repetition.

“Pack Yr Romantic Mind” showcases another key aspect of the Stereolab dynamic: the interplay between Sadier’s plain vocal delivery, uninflected by either passion or cynicism, and Mary Hansen’s backing “ba ba ba”s. It’s telling as well that “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s first full album to feature Sean O’Hagan of The High Llamas (formerly of Irish indie band Microdisney) as an official member. O’Hagan was at this point navigating his own transition from guitar pop to something more experimental, drawing on the influences of Brian Wilson, Van Dyke Parks, Burt Bacharach, Phil Spector and more. Despite the album’s harshness, tracks like “Pack Yr Romantic Mind” reveal the beginnings of an avant-garde easy listening influence that would become an increasingly important feature of Stereolab’s work, as well as O’Hagan’s on The High Llamas’ 1994 album “Gideon Gaye”. Nonetheless, one thing the song has in common with the rest of the album is its dedication to mantric repetition, with the lyrics just a single phrase repeated over and over again in a loop.

The motorik sounds of Neu! are what most powerfully define “Transient Random-Noise Bursts” though, and the centrepiece is Jenny Ondioline, a joyous 18 minutes of droning keyboard, layered shoegaze guitars, and Sadier’s uniquely disaffected-yet-wide-eyed vocals that punches through pastiche into a heavenly realm of cosmic sonic bliss.

If “Transient Random-Noise Bursts” is Stereolab’s harshest sounding album, 1994’s “Mars Audiac Quintet is perhaps their lyrically angriest. On the upbeat “Ping Pong”, the bouncy melody parallels the sophisticated emerging pop sounds that were starting to get called Shibuya-kei in Japan at this time, but the song’s superficial positivity is undercut by its lyrics. Following the McCarthy playbook, the narrator adopts a position opposed to the author’s true intentions, taking the reassuring tone of someone urging the listener to stop worrying about the world.

“It's alright 'cause the historical pattern has shown / How the economical cycle tends to revolve / In a round of decades, three stages stand out in a loop / A slump and war, then peel back to square one and back for more.”

The fictional narrator urges the listener not to worry about bad times because “things will get better naturally”, noting that “There's only millions that die in the bloody wars, it's alright / It's only their lives and the lives of their next of kin that they are losing,” and finally revealing their own anger and disquiet at seeing the status quo questioned by declaring, “Don't worry, shut up, sit down, go with it and be happy.”

“Three Longers Later” talks about the absurdity of waging war in order to achieve peace through the eyes of a child seeing their father ripped away from his family by military conscription – a system that wouldn’t be ended in lyricist Sadier’s home country of France until two years later (and which current president Emile Macron is, at the time of writing in summer 2019, trying to bring back in some form). It does this over a melody that begins quietly, almost like a nursery rhyme, and then explodes into a spacerock climax.

“Transporte sans Bouger” laments a world that seems to be becoming increasingly atomised, with people living in a lonely “virtual dream” with “no need to know your neighbour”, in which we “make love at a distance”. Given that the internet hadn’t penetrated people’s lives very deeply in 1994, this seems prescient. It is also rather conservative in its yearning for an increasingly lost sense of neighbourly community, but despite their leftist outlook, Stereolab were never averse to looking back to the past to find solutions to the problems of the present. “International Colouring Contest” is a tribute of sorts to the creativity and space-age optimism of eccentric musician and colouring book creator Lucia Pamela, who is sampled at the beginning of the song exclaiming, “I’m so full of ideas, and here’s a good one!” Repeatedly, Stereolab return to the notion that creativity is a fundamentally revolutionary act, and one inextricably bound up with the idea of freedom.

The inverse of that is that anything that closes off routes through which the imagination can travel is oppressive. “L’Enfer Des Formes” notes the way cynicism kills action for change, while the krautrock-influenced “Nihilist Assault Group” is concerned with censorship and moral panic, and how that annihilates critical sensibilities at the expense of effectively dealing with problems in any real way. “Wow and Flutter” and the closing “New Orthophony” both touch on the need to challenge rather than accept as inevitable the way things currently are.

While “Mars Audiac Quintet” relies on a similar toolbox of krautrock rhythms as its predecessor, things are also clearly moving forward into avant-pop territory. In addition to “Ping Pong”, “L’Enfer Des Formes” is another superficially upbeat pop melody, while “The Stars Our Destination” and “Des Etoiles Electroniques” both combine bubbly rhythm machine loops, dreamy synths and intertwining vocal lines into a smooth, layered sound that points a new way forward for the band.

The next stop on that journey was 1996’s “Emperor Tomato Ketchup” which completely blew apart the band’s sound while remaining instantly recognisable as Stereolab. As before, there are nods to the past in how the band move forward, with the title being drawn from Japanese playwright and director Shuji Terayama’s 1971 film of the same name and the cover artwork being based on a 1960s release of Bela Bartok’s “Concerto for Orchestra”. Nevertheless, the familiar Stereolab elements still make up the core of the album – the repetitive rhythms, the layered production, the off-kilter pop tunes, Sadier and Hansen’s vocal interplay, and the obliquely Marxist lyrical themes – albeit now developed into something far more sophisticated.

The opening “Metronomic Underground” draws from a funkier side of krautrock, more Can than Neu!, but still wrapped up in repetition and looping rhythms, while the songs that retain motorik rhythms, like the title track and “Les Yper Sound” marry it with vocal lines that employ some of the albums sweetest pop melodies. The gorgeous “Cybele’s Reverie” is a Proustian meditation on memory, that takes Stereolab’s pop inclinations in a more lushly orchestral direction, while elsewhere the band find ever more new and interesting ways to explore repetitions and loops, from the minimal “OLV 26” to the mirrored guitar clang of “Tomorrow is Already Here”.

Lyrically, it explores more abstract places than previous albums, but it’s perhaps the album most explicitly concerned with the relationship between the individual and society (certainly it’s the album in Stereolab’s catalogue that uses the word “society” most). “Spark Plug” is concerned with the importance of recognising the innate spark of life in an individual or collective group rather than viewing them in the abstract. “Tomorrow is Already Here” deals with institutions originally set up to serve society, now become something oppressive. Meanwhile, “Motoroller Scalatron”, with its children’s song-like question-and-answer structure talks about the fragile basis on which society is constructed, maintaining its existence only on a shared agreement that it exists, and constantly in flux – as well as the irony that, in a society “built on words”, the words we say, or choose not to say, can end up having huge consequences.

Perhaps an even more significant shift came with the next album, “Dots and Loops”. At around the same time that “Emperor Tomato Ketchup” was being released, Chicago-based Tortoise were releasing the landmark “Millions Now Living will Never Die” and German duo Mouse On Mars had recently released their second album “Iaora Tahiti”. All three were key acts in the burgeoning but nebulous genre of post-rock, which at this point in the 1990s can best be understood using journalist Simon Reynolds’ description as, "using rock instrumentation for non-rock purposes, using guitars as facilitators of timbre and textures rather than riffs and power chords."

Bringing in Mouse on Mars as collaborators and Tortoise’s John McEntyre as producer, “Dots and Loops” was a collision of early post-rock talent. Opening with a burst of electronic distortion, it swiftly moves into the skittering breakbeats of “Brakhage”, Sadier dreamily bemoaning the narcotising effects of consumerism. Lead single “Miss Modular”, meanwhile, is a beautiful slice of lounge pop with lyrics touching on imagery of games, mystery and tricks of the eye – abstract imagery with an opaque subject, but one that, for a band undoubtedly familiar with French situationist leader Guy Debord and his consumerist critique “The Society of the Spectacle”, surely hints at wider social relevance in the way the artificial – the spectacle – overwhelms our ability to discern a difference between reality and representation, history and endless present. If there’s a particular theme of the album, it might be that of alienation, not only from society and people close to you, but also (and necessarily given the way the individual and society are inextricable in Stereolab’s worldview) alienation from the self and one’s own feelings.

The collaboration with McEntyre continued over the next two albums, 1999’s “Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night” and 2001’s “Sound Dust”, with Jim O’Rourke joining as co-producer on both albums. Less explicitly electronic than “Dots and Loops”, these two albums see the band picking up on its jazz influences and advancing with them into pure avant-pop.

If “Dots and Loops” carried a sense of alienation, “Cobra and Phases” is the band’s most hopeful sounding album, with at least part of that coming from the birth of Gane and Sadier’s child, explicitly referenced on “People Do it All the Time”, which revels in the birth as a chaotic act of creation, “Out of chaos, a creation / Binding into one form / Lucid drunkenness” and positions the child as a vessel of hope, declaring, “I want you free when you grow, boy / Revive the old idea that we carry.”

The idea that growing up free should go together with “reviving an old idea” is a new angle on Stereolab’s recurring theme that moving forward may require looking back. Throughout the album, images of rebirth and rediscovery (rather than simply birth and discovery) keep cropping up. On “The Free Design” Sadier sings “The request is here ready to resurrect / What else can we do but recover the project” hinting at a past project left unfinished, while the “lonely walker humanoid” of “Puncture in the Radax Permutation” is described as “rediscovering your own pace” as it tries to “repossess the senses” – the idea of newness being linked to going back to something, and perhaps also of the cycle of life and rebirth meaning that everything new is something old just come round again.

“Cobra and Phases” is a sensual album, opening and closing with songs about love, and constantly returning to images of earth and nature. It’s also a rare example of Sadier singing explicitly and directly about being a woman, with feminist themes coming to the fore in “Caleidoscopic Gaze” and krautrock slight return “Strobo Accelleration”.

With the positive attitude of “Cobra and Phases” in mind, “Sound Dust” is in many ways Stereolab’s darkest album, returning to themes touching on the dehumanisation and oppression inherent in capitalism in songs like “Gus the Mynah Bird”, which declares “Self determination should be a fact / not essentially a right,” and suggests that capitalism offers false freedom, and will happily collude with oppression. “Space Moth” references the filmmakers Jean Rouch and Edgar Morin, whose 1960 film “Chronicle of the Summer” deals with the subject of happiness among various, mostly working class, people in France, touching on war, censorship, race, and poignantly the Holocaust, with the idea that happiness is closely linked to politics and freedom. The line in the song “L'homme est réduit à son travail” – “man is reduced to his job” – again positions capitalism as antagonistic to freedom.

The song “Nothing to Do with Me” takes its lyrics directly from the dark, surreal comedy of British satirist Chris Morris, whose TV show “Jam” combined eerie ambient music with comedy sketches and was controversial in the UK for breaking the taboo against portraying doctors as less than altruistic people. Morris’s doctors were often agents of chaos: figures of authority who abused the trust of people who relied on them, for opaque reasons. “Did you prescribe my daughter a pound of heroin?” asks Sadier at one point in the song. Elsewhere, the relationship between customer and client is turned on its head as a woman asks a plumber, “You did such a great job / With the boiler last time / Please can you mend my baby / He hasn't moved for three weeks.” In both instances, a social relationship is being abused, but the socially defined relationships between the participants are still followed in a formally proper way, the form and appearance of calm rationality put into the service of the terrifying and absurd.

More than this, though, “Sound Dust” feels like an album about duality. Many of Stereolab’s songs are dialectic in that they deal with reconciling two opposing forces or positions – the thesis and antithesis birthing a synthesis – and that structure is still present here. “Baby Lulu” delivers the line “extremes reconciled / improvisation / rational and poetical / summing up contradictions”. It’s also the most direct the band ever were about the notion of evil, referencing it as one of the “two poles guiding his step” in “Naught More Terrific than Man”, and giving it an explicitly Biblical face in “Suggestion Diabolique”. The lushness, warmth and beauty of the melodies works in a similar dualistic way with the darkness or gravity of the lyrics.

This is reflected in the musical structure of the album too, with many of the songs having a two–part structure, where the first and second half of the song follow quite different melodies and arrangements. The most striking example is the joyous “Captain Easychord”, which returns to the theme of the life and death cycle, boiling it down to its most basic representation in the cycle of inhaling and exhaling breath.

“Sound Dust” was the final album to feature Mary Hansen, who was killed in a road accident the following year. The last album of this current batch of re-releases, 2004’s “Margerine Eclipse” is in part a tribute to Hansen, with the song “Feel and Triple” a directly addressed farewell, “Need to Be” talking about the need to embrace pain, loneliness and fear of death in order to recognise the now, and ‘…Sudden Stars’ dealing with embracing love and respecting loss.

The political situation in Europe and America at the time also hangs over parts of the album, in the shape of the wars in Afghanitan and Iraq, rising fear of terrorism embodied in the “other” of the Muslim in our midst, and increasingly intrusive state surveillance. “La Demeure” references this fear of the other, while “Bop Scotch” deals with the question of whether we can trade freedom for security.

Despite (or perhaps because of) the death and fear hanging over it, “Margerine Eclipse” is also one of Stereolab’s most upbeat albums, and certainly their funkiest with its rich, thick, squelchy synth and bass sounds. It is the album that most explicitly addresses love, with the closing “Dear Marge” tying love up with learning, with the implied flipside that lack of love or empathy prevents us from learning or growing.

Like “Sound Dust” there is a dialectical structure underlying “Margerine Eclipse”, with the album being mixed with all the instruments panned to the extreme right or left, with each channel designed to work either independently or as a synthesis of the two made when both are listened to together.

After listening over this span of work, what is Stereolab really about as a band though?

One way to make sense of the band is to look at them through the prism of their times. These seven albums closely overlap with the ten-year period after the fall of the Soviet Union and the aftermath of the September 11th, 2001 attack on the World Trade Center that shattered America’s sense of post-Cold War invulnerability.

This period, described by Francis Fukuyama as “The End of History”, was characterised by a shutting down of the public imagination on a mass scale. The struggle between great ideological movements of the 20th Century was over and liberal capitalism had won: there was no alternative. A mindset took hold of what the critic Mark Fisher called “capitalist realism”, which made any vision of the future that didn’t essentially amount to “more of the same” seem impossible.

This mindset is the enemy against which Stereolab constantly rail. The lyrics to “Wow and Flutter” from “Mars Audiac Quintet” express it most clearly:

“I thought IBM was born with the world / The US flag would float forever / The cold opponent did pack away / The capital will have to follow / It's not eternal, imperishable / Oh, yes it will go / It's not eternal, interminable / The dinosaur law.”

The limits capitalist realism place on the imagination are what make it such an insidiously oppressive force, and one that, for Stereolab, can only be overcome by the lifting of consciousness and the opening up of the creative (and the romantic) mind. As with the situationists and the 1968 Paris Spring, unique moments of individual creativity and imagination can jolt society out of one of its cycles and elevate it to a new level, like the spiral on the cover of “Emperor Tomato Ketchup”, ever-circling but always reaching skyward. In this sense, Stereolab’s vision shares something in common with the ideas Fisher was developing before his untimely death, and which he referred to as “acid communism”. In this sense, communism is really functioning as a rhetorical bomb thrown into the midst of capitalist complacency rather than a recreation of the communist regimes of the 20th century. The repressiveness of Stalin would have been a horror to people like Fisher and Stereolab: rather they were children of the Paris Spring (both Fisher and Sadier were born in 1968), who came of age at the height of acid house – both visions of decentralised, spontaneous, communal action. The “acid” of “acid communism” may take its name from psychedelic drugs, but its true meaning perhaps lies more in what it represents. Acid or LSD has become synonymous with the act of elevating consciousness to a new level, with an underlying meaning of experimentation and exploration. This again locks in very well with Stereolab’s repeated invocation of creativity as a route to revelation. Again, “Mars Audiac Quintet” tackles the theme explicitly, this time on “Three-Dee Melodie”:

“The meaning of existence / Can't be supplied by religion or ideology / The sense or non-sense that will emerge from the precipice / Is only the impact of a creative activity”

So when, as Fisher put it, “the future has been cancelled”, how do we rediscover it anew? One way, is to look to the past.

The ghosts of cancelled futures haunt the present, sometimes as nostalgia, sometimes as kitsch, sometimes as something that still has the power to jolt us out of our complacency. Fisher referred to this uneasy coexistence of past and present as “hauntology”, but for those of us looking ahead, these lost futures can provide opportunities to step back and find a new route forward. The hippy counterculture of the 1960s, the 1968 Paris Spring, the utopian visions of old science-fiction authors – Stereolab’s aesthetic is often described as “retro-futurist” because of the way they mined the past for routes towards their own utopia. Their early obsession with krautrock is another way of looking to the future by revisiting past visions of what it might be like and pursuing those lines towards something new – in this case, helping to bring post-rock into existence in the process.

Revolution often takes the form of a ghost because, before it can become real, it will exist as an idea without corporeal form, silently threatening the status quo. Marx himself famously described communism as a spectre that “is haunting Europe”, but more pertinent in this case might be the radical poet Percy Bysshe Shelley’s depiction of the victims of the 1819 Peterloo Massacre as “graves from which a glorious Phantom may burst” – an unfinished revolution that nevertheless threatens to return and complete its work. The failed revolutions of the 1960s live on in Stereolab’s songs, as do all the other cancelled futures.

If there is a central dialectic process at work with Stereolab, the direction they seem to be trying to resolve it in always leans towards a kind of raised consciousness and unrestrained creativity – unique moments of imagination and creation bringing something new into the world as a revolutionary means towards pushing forward into a place of greater freedom. Against that lies a tendency of the world to fall into repeating patterns and cycles, whether they be destructive cycles of economic depression, war and recovery, the blooming and dying of love, or the cycle of death and rebirth. Stereolab’s music itself parallels this, its own forms defined by repetition, driven forward into new patterns by unique moments of creative revelation – or to put it another way, it is a symphony of “dots and loops”.

What’s the point of indie rock? - ele-king

 2019年になったいま、日本のなかで、あるいは世界の他の国々のなかで生まれている、もっとも刺激的で、また文化的な意義をもった音楽を思い浮かべてみるとき、ただちに気づくのは、どうやらそこにインディー・ロックのバンドは入ってきそうにないということだ。ヒップ・ホップやダンス・ミュージック、あるいはアイドル音楽でさえもがいま、定期的に、誰も予想していなかったような新しいアイデアを、この世界にたいしてはっきりと表明している。そのいっぽうでインディー・ロックは(あるいはより一般的にいってロック・ミュージック全般は)、刺激的で文化的な音楽の場から引きこもってしまい、ジャズに似たポジションを占めることになっている。つまりそれは、ニッチな世界のなかでは実験的な可能性を残しているものの、そうした世界を超えた先での影響は断片的なものにとどまり、より文化的な意義をもった音楽の形式によって、たいていの場合ノスタルジーに溢れた楽観的な雰囲気とともに参照されたりサンプリングされたりするという、そんなポジジョンに置かれているわけである。
 
 2018年におけるインディー・ロックのハイライトを振りかえってみるとそこには、1990年代の影が覆いかぶさっているのが、ありありと見てとれる。そこにはヨ・ラ・テンゴ、ザ・ブリーダーズ、ガイデッド・バイ・ヴォイシズ、クリスティン・ハーシュ、ロウ、ジェフ・トゥイーディー、そしてスティーヴン・マルクマスといった、いずれもその当時に高い評価を受けたアルバムをリリースしているバンドが登場してくるわけである。そうしたアーティストたちの多くは、ブライアン・イーノが「農夫たち farmers」と分類した者たちである。彼らは同じ土地の一角で何年も何年も仕事を続け、その土地を豊かで生産的なものに維持してはいる。だが彼らが新たな領域へ踏みこむことはけっして起こらない。インディー・ロック界には多くの農夫たちがいるが、カウボーイはごくわずかしかいないのである。
 
 このことは、そうしたアーティストたちが間違っているということを意味するわけではないし、まして彼らが、否定的な意味でノスタルジックだということ意味するわけでもない。彼らがいかにザ・フーやチープ・トリックや、その他の過去の古典的なロックを参照しているかを聴いてみればわかることだが、ガイデッド・バイ・ヴォイシズは、あからさまにノスタルジックなバンドである。だが彼らがそうした要素を操作するやり方は同時に、みずからを記念碑的な何かへと変えようとするロックのもつ傾向を、まったく意に介すことのないものだ。ガイデッド・バイ・ヴォイシズの素晴らしく多産なソングライターであるロバート・ポラードにとって、ロックはつねに動きつづけるものであり、そしてそのバンド名にもあるとおり、ひとりの「ガイド」としての彼がもっている理念は、まったくラディカルなものでありつづけている。すなわち、ロックの曲を生みだすことなど簡単なことであり、誰にだって可能なことなのだというわけだ。

 それじたい皮肉な話だが、ノスタルジックなものはまた、われわれが過去に夢見ていた未来のヴィジョンを想起させるものでもある。ヨ・ラ・テンゴの『ゼアズ・ア・ライオット・ゴーイング・オン』のいくつかの曲は、クラウトロックのもつ流れるようでモータリックな未来主義をふたたび取りあげていながら、しかしどこかで、物悲しい雰囲気に取り憑かれてもいる。クラウトロックのような音楽が当初われわれに約束していた未来に、いったい何が起こってしまったというのだろうか。やはり90年代からの難民のひとりである音楽プロデューサーのジェフ・バーロウも、ビークの『>>>』において、ヨ・ラ・テンゴと同じような領域を探求している。じっさいのところもはやロックとは見なせないほどに、進歩的で実験的なロックやエレクトロニカの領域へと進んでいるといいうるこのアルバムの特徴は、次のような重要な問いを喚起するものだ。すなわち、インディー・ロックがいままでとは異なった何かをやるとすぐに、別のカテゴリーに分類されてしまうのだとしたら、ではいったいどうやってそれは、いまより以上の何かに変化することを望んだらいいというのだろうか。 

 2018年のもっとも優れたインディー・ロックのアルバムであり、ことによればその年のベスト・アルバムともいえるものだったのは、ロウの『ダブル・ネガティヴ』だった。そのなかに集められた曲はどれも美しく、たがいに絡みあい、歪曲しあい、引き裂かれあっている。この作品は、いっぽうで幻惑的で、スリリングで、爆発的な斬新さをもつものでありながら、同時に、ロウのその長いキャリアのなかの他のどんな作品より、巧妙かつ控えめなものになりえている。われわれが習慣的に「ロック」と呼んでいるものからあまりにも遠ざかっているがゆえに、にわかには認めがたく、別の何かに分類したくもなるが、しかしにもかかわらず彼らの作品は、その核心部分においてひとつのロック・アルバムであり、ひじょうに洗練された美しいものとなっているのである。

 いったいどうすればインディー・ロックが、2019年において意義のあるものとなるのかを理解するためには、ここであらためて、それがどのようなものとして開始されたのかについて考えてみるべきだろう。おそらくそこには、それぞれに重要なものといいうる三つの点が存在している。

 第一に、インディー・ロックはメインストリームなポップ・カルチャーから距離を取り、そのなかに見られる強迫観念的で弱い者いじめ的な消費にたいするトップダウン式の命令から距離を取った空間を提供するものだ、という点が挙げられる。ポップ・カルチャーはひとを疲れさせるものである。それがかたちづくっている機械はすべてを飲みこみ、搾取して、その金属製の顎のなかに入ってくるありとあらゆるものを抜け殻に変えて吐きだしていく。そうしたものにたいし、1980年代におけるその誕生の時点でインディー・ロックは、(それじたい不完全で、多くの場合困難を抱えたものではあったわけだが)オルタナティヴなインフラや、理念や、美学をつくりだすことによって、パンクが中断してしまった空間をふたたび取りあげていたのわけである。

 そして第二に挙げられるのは、メインストリームなものから離れた世界は、これまでにないような魅力をもつオルタナティヴな存在でなくてはならない、という点である。インディー・ロックは、万人受けするようなやり方で物事を組織する必要はないのだということを示すものでなくてはならない。そしてだからこそ問題は、音楽さえあればそれだけでいいということにはならないわけだ。

 ミュージシャンたちがじっさいに演奏する音と同じくらいに、音以外の部分でのその表現や、それと分かるような目印がとなるものが、音楽にとって重要な要素となってくる。他のどんなミュージシャンよりもデヴィッド・ボウイが今日的な意義を保ったままであるその理由の大部分は、ジェンダー規範がことさらに保守的なものだった時代のなかにあって、男性性の再定義にたいし、彼がどれほど寄与したかという点にこそある。2018年の年末アンケートのなかで、多くの評者がソフィーやイヴ・トゥモアのようなジェンダーの揺らいだエレクトロニックなエイリアンの出現を賛美しているのを見ればわかるとおり、ボウイの遺産はいまやあきらかに、ロックというジャンルの範囲を超えて広がっている。

 インディー・ロックが1980年代に自立したものとなっていったのは、パンクのDIYという理念や、それがもっていた場所や時間についての現代的な感覚が、1960年代や70年代の音楽をノスタルジックなかたちでふたたびじぶんたちのものにすることと融合するなかでのことだった。ザ・スミスなどというバンド名のもつ、キッチンシンク派的な単調さと、モリッシーのグラジオラスの花にも例えられる波打つような派手な動きや、ジョニー・マーのリズミカルなギターの旋律との対比は、1980年代のマンチェスターにおける灰色をした郊外の団地の只中で、美しいものを熱望する憂鬱さをあらわしている。その音楽とイメージによって、それまで誰にも承認されることのないままに過ごしてきた者たちによってじっさいに生きられている現実と、彼らのもつロマンチックなものにたいする渇望を同時に表現することによって、ザ・スミスは、以上のような点をはっきりと象徴するバンドだったといえる。

 欧米では、ロックはだんだんと、白人による伝統的で文化的な庶民的表現にすぎないものとして、安易なかたちで見放されていくことになる。そんななかでインディー・ロックも、白人のミドルクラスによる庶民の表現という曖昧な役割を担っていくことになる。UKのエンド・オブ・ザ・ロードのようなフェスにひしめいている溢れるような白い顔の群れがはっきりと示しているように、こうしたジャンルの音楽は、だんだんと文化や人種が混淆したものになっている国家の多様性にたいして語りかける言葉をもってはいない。こうした問題は部分的に、有色人種のアーティストたちーーとくに黒人のアーティストたちーーが、インディー・ロックの分類の外に置かれ、「ブラック・ミュージック」として分類されるジャンルのなかに組みいれられているからだといえる。LAを拠点にしたシンガーソングライターであるモーゼス・サムニーの音楽はたとえば、両者からの影響によって特徴づけられるものであるにもかかわらず、ほとんどの場合インディー・ロックというよりソウルと呼ばれている。パンクの遺産を非白人アーティストのために解放することを目指したロンドンのデコロナイズ・フェスティヴァルによって、ロックの白人性にたいするバックラッシュは進んでいる。こうした傾向はやがて、トラッシュ・キットやビッグ・ジョニーのようなバンドを介して、インディー・ロックのなかにも広がっていくはずである。

 そのアルバム「ビー・ザ・カウボーイ」を多くのライターが2018年のベストにあげていた日系アメリカ人のシンガーソングライターであるミツキの人気は、彼女の音楽的才能だけではなく、そのアイデンティティーにも由来している。彼女のよくできたギター・ロックのなかには、ことさらにラディカルなところがあるわけではない。だがその音楽が、斬新でユーモアがありつつ、感情をさらけだすような正直さでじぶんじしんを表現するスキルをもった、非白人で女性のアーティストの視点から生みだされているという事実によって彼女は、いまのアメリカをかたちづくっているように見える攻撃的な白人男性たちからなる世界にうんざりしたオーディエンスに訴えかける声となっているのである。ミツキはじしんの弱さをさらけだして表現していくことを恐れないが、いっぽうでその歌詞は、ある意味でひとを元気づけるような、そんな世界観を提示するものでもある。クリスティン・ハーシュによる素晴らしいアルバム「ポッシブル・ダスト・クラウズ」のなかに聞かれる、自己を引き裂くような1990年代のジェネレーションXに特有のパニック発作のような調子と比べると、ミツキは、希望のかすかな光や慰めを提示している。そしてそうしたものこそが彼女の世界を、よりぞっとするような時代のなかで育ってきたファンたちにたいしてアピールする場所へと変えているわけである。

 根本的に白人的かつ男性的なものとしてのインディー・ロックにたいする批判は、たとえば日本のような、アジアの国の音楽を取りあげる場合、そのまま当てはまるものではない。もし西洋のオーディエンスが包括性や異種混淆性をいまよりももっと評価するようになっていけば、きっと日本は世界にたいして、多くのものを提示することができるようになるはずだ。だが、エレクトロニカやポップ・ミュージックの界隈では、じぶんたちが何をすべきなのかが自覚的に推し進められている傾向にある一方で、日本のインディー・ロックはいまだに多くの点で、イギリスやアメリカの音楽に頭の上がらない状態にあり、じぶんたちが崇める欧米のアイドルたちの美学を模倣し、それに適応することに夢中になっている。

 2018年の日本でリリースされたなかで、もっとも優れたインディー・ロックのアルバムはおそらく、ルビー・スパークスによるセルフタイトル・アルバムだろう。この作品は、まるで1995年のUKで製作されたかのような音を聴かせるものなのだが、いずれにしても美しく、魅力あるアルバムである。同様のことは、彼らと同じシーンにいる仲間たち、たとえば去年の夏にパンキッシュなシングル曲「バッド・キックス」をリリースした活きのいいバンドであるDYGLについても当てはまる。どちらも日本の音楽シーンにエキゾチックで斬新な何かをもたらしてはいるが、それは彼らがその音楽によって、当の欧米それじたいのなかでもはや失われてしまった欧米らしさを、わずかに漂わせているからだ。いっぽうで、インディー・ロックの周辺に位置しているクラン・アイリーンやクジャクのようなバンドは、サイケデリック・ロックやノイズ・ロックといった日本に固有の力強い伝統から多くの要素を引き出すことによって、Jポップのメインストリームにたいするオルタナティブを、よりはっきりと日本文化のなかに根づいたかたちで提示しているが、しかしそうしたバンドはいまだ、ニッチななかでもさらにニッチな場所に留まっている。

 インディー・ロックが日本のなかで、欧米の音楽と関係しないままでは立ち行かないような状態にある理由のひとつは、おそらく、それがもつ三つ目の価値に関連しているはずである。インディー・ロックがメインストリームから離れた空間を提供するものであり、そしてそうした場所が物事のあり方にたいする魅力的なオルタナティブをもたらすものなのだとしたら、定義上それは、いずれにしろ何かしらのレヴェルで、メインストリームなものと敵対するような関係のなかに入っていくことになる。いうまでもなく、日本のアーティストたちのなかで、あえてそうした関係のなかに入っていこうとする者たちは、ほとんど見られない。ルビー・スパークスやDYGLのようなバンドがやっているのは、Jポップ的なメインストリームなものに肩をすくめてみせることであり、そしてその上で、海外に慰めを求めることだ。だが、日本におけるインディー・ロックが、たんに「メジャーに行くほど有名ではないロック・ミュージック」以上の何かを意味するために必要なのは、お行儀のよさや寛容さを捨てさることであり、みずからを、支配的な自国内のポップ・カルチャーにたいするより明確な批判へと変えていくことなのである。

 より露骨にいっておこう。ロバート・ポラードがいっていることにもかかわらず、日本の場合であれ、他のどこかの場合であれ、インディー・ロックというものはもはや、わざわざそれを生みだそうと思うような音楽ではないのだ。いまの人々の生活のなかには、グループになって集まって曲を作ったり、練習したりするような自由な時間はない。みなリハーサルやレコーディングのために使う金をもっていないし、(とくに日本の場合に見られることだが)自腹を切ってライブをするのに使うような金をもっていない。いま現在でもっとも取っつきやすく、だからこそすぐに新たな才能を吸収していくことにもなる音楽は、じぶんの部屋のラップトップ上で、ひとりで聞くことのできるような音楽なのである。

 インディー・ロックはいま、1980年代や90年代におけるその全盛期にあったような意義を失ってしまっている。だが歴史にその身を委ねる必要などないのだ。アーティストたちがじぶんたちを取りまく世界に目覚め、そこに介入し、それに立ちむかい、それを批判して、その世界から疎外されている人々のありようを表現し、そして失われた過去の夢をふたたび取りあげることによって、あるいはじぶんたちじしんのまったく新しい何かを鍛えあげることによって、オルタナティヴなものを作りだすために動きだすことができるなら、インディー・ロックはきっと、人々との繋がりを保ちつづけ、彼らにたいし、ホームと呼べるような音楽的な空間をもたらすことになるはずである。 

What's the point of indie rock?

text : Ian F. Martin

The year is 2019. Try to think of the most exciting, culturally relevant music happening in Japan or the rest of the world is right now and the chances are it's not an indie rock band you're thinking of. Hip hop, dance music, pop, and even idol music regularly throw new and unexpected ideas out into the world. Meanwhile, indie rock (and rock music more generally) has retreated from the conversation and now occupies a position similar to jazz, where experimentation is possible within its niche, but its influence beyond that is fragmentary, referenced and sampled with what is often a wistful air of nostalgia by more culturally relevant musical forms.

Looking back over the indie rock highlights of 2018, the shadow of the 1990s looms long, with Yo La Tengo, The Breeders, Guided By Voices, Kristin Hersh, Low, Jeff Tweedy and Stephen Malkmus all releasing well-regarded albums. Many of these artists are what what Brian Eno would categorise as “farmers”, working the same patch of land year after year, keeping it fertile and productive but never really raiding new territory. Indie rock has many farmers and very few cowboys.

That doesn't make these artists wrong or even nostalgic in a negative sense. Guided By Voices are openly nostalgic in how they hearken back to The Who, Cheap Trick and other classic rock of the past, but the way they operate is also disdainful of rock's tendency to turn itself into a monument. Rock, for GBV's ridiculously prolific man songwriter Robert Pollard, is a constantly moving thing, and his guiding ethos remains a radical one: that writing rock songs is easy and anyone can do it.

It's ironic too, perhaps, but nostalgia can also remind us of future visions that we dreamed of in the past. Several tracks on Yo La Tengo's “There's A Riot Going On” revisit the sleek, motorik futurism of krautrock, but they're haunted by an air of melancholy. What happened to the future that this music originally promised us? Fellow '90s refugee Geoff Barrow explores similar territory on Beak's “>>>”, an album that some might argue pushes so far into the territory of progressive or experimental rock and electronica that it can't really be considered indie rock anymore. This raises the important question that if indie rock is immediately recategorised as soon as it does something different, how can it ever hope to become more than it is now?

The best indie rock album of 2018, and possibly the best album of the year full stop, was Low's “Double Negative” – an album that takes a collection of beautiful songs and twists, contorts and tears them apart. It manages to be as subtle and understated as anything Low have done in their long career, while at the same time dazzling, thrilling, explosively fresh. It's so far from what we conventionally think of as “rock” that it's tempting to discount or reclassify it, but it's nevertheless a rock album at its core, and it's an exquisitely beautiful one.

To understand how indie rock can be relevant in 2019, it's worth taking some time to think about what indie rock is for to begin with. There are perhaps three things it can do to be of value.

The first is that it provides a space away from mainstream pop culture and its obsessive, bullying, top-down dictates to consume. Pop culture is exhausting: it's a machine that eats up, grins down and spits out the empty husks of all who enter its metal jaws. At its birth in the 1980s, indie rock picked up where punk left off by building an alternative (albeit imperfect and often troublesome in its own way) infrastructure, ethos and aesthetic.

Secondly, this world away from the mainstream needs to be an attractive alternative. It needs to show that things don't have to be the way they are in a way that feels relevant to people, and for that, music alone isn't always going to be enough.

Music is just as much about representation and identification as it about the actual sunds the musicians are making. The reason David Bowie, more than any other rock musician, remains relevant is in large part because of how he helped redefine masculinity in an age where gender norms were particularly conservative. With 2018 year-end critics' polls lauding gender-fluid electronic alien visitations like Sophie and Yves Tumor, it's clear that in many ways Bowie's legacy has outrun the rock genre.

When indie rock began to come of age in the 1980s, it did so by wedding the DIY ethos and contempory sense of place and time of punk to a nostalgic reappropriation of the music of the 1960s and '70s. The contrast of the kitchen-sink drabness of a band name like The Smiths with Morrissey's gladioli-waving camp and Johnny Marr's chiming guitar lines expressed a melancholy longing for beauty amid the grey housing estates and suburbs of 1980s Manchester. The Smiths meant such a lot because the music and image articulated both the lived reality and the romantic aspirations of people who had never felt recognised before.

In the West, rock is increasingly easily dismissed as merely the traditional cultural folk expression of white people, with indie rock taking the even more dubious role of folk expression of the white middle classes. The sea of white faces that populates indie music events like the UK's End of the Road festival makes it clear that the music doesn't speak to the diversity of an increasingly culturally and racially heterogeneous nation. Part of the problem is that people of colour – especially black artists – are often classified out of indie rock and into genres coded as “black music”. The music of LA-based singer-songwriter Moses Sumney is more often described as soul than indie rock, despite being informed by influences of both. There has been a backlash to rock's whiteness, with London's Decolonise festival seeking to reclaim the legacy of punk for nonwhite artists, and this may yet spill over into indie rock via bands like Trash Kit and Big Joanie.

The popularity of Japanese-American singer-songwriter Mitski, whose album “Be the Cowboy” topped many writers' 2018 polls, owes as much to her identity as it does to her talent as a musician. While there's nothing particularly radical about her well-crafted guitar rock, the fact that her music comes from the perspetive of a nonwhite, female artist combined with her skill at articulating herself in a fresh, funny and emotionally honest way makes her a powerful voice for audiences tired of the aggressively white, male world America seems to have become. While she is unafraid of dwelling on her own frailties, Mitski's lyrics also offer a worldview that is on some level empowering. Compared with the self-lacerating, 1990s Generation X panic attack of Kristin Hersh's excellent “Possible Dust Clouds”, Mitski offers a glimmer of hope and comfort that makes her world an appealing place to fans growing up in these more frightening times.

The critique of indie rock as being something fundamentally white and male is less straightforward when we look at music in an Asian nation like Japan. If Western audiences are coming to value inclusiveness and heterogeneity more, Japan could have a lot to offer the world. However, electronic and pop-adjacent acts are still driving the agenda, while Japanese indie rock is still in many ways tied to the apron strings of British and American music, its artists hung up on trying to imitate and match the aesthetics of their Western idols.

Probably the best Japanese indie rock album of 2018 was Luby Sparks' self-titled debut album – a beautiful and charming record that nonetheless sounds like it could have been made in the UK in 1995. The same is true of fellow travellers like the effervescent DYGL, who dropped the punkish “Bad Kicks” single last summer. These are both bands who bring something exotic and fresh to the music scene in Japan, but at the expense of offering the West little musically that it doesn't already have in spades. Drawing more from Japan's own powerful tradition of psychedelia and noise-rock, bands on the fringes of indie rock like Klan Aileen and Qujaku offer an alternative to the J-Pop mainstream more recognisably rooted in Japanese music culture, but bands like these remain as yet very much a niche within a niche.

One reason indie rock might struggle in Japan without an umbilical relationship with Western music could be related the third aspect of indie rock's value. If indie rock is to offer a space away from the mainstream, and if that place is to offer an attractive alternative to the way things are, it is by definition entering into what is, at least on some level, an antagonistic relationship with the mainstream. Needless to say, this is something few artists in Japan seem willing to do. What the likes of Luby Sparks and DYGL do is shrug at the J-Pop mainstream and look for comfort overseas, but what indie rock in Japan needs if it is to ever mean anything more than simply “rock music that's not popular enough to be on a major” is to become less polite, more intolerant, and let itself become a more explicit critique of the dominant domestic pop culture.

More broadly, despite what someone like Robert Pollard says, indie rock in Japan and elsewhere is no longer a particularly accessible form of music to make. People's lives don't have the free time to gather as a group to write and practice. People don't have the money to spend on rehearsals, recording and (in Japan) pay-to-play live shows. The most accessible music, and therefore the kind that absorbs new talent most readily, is the music that you can make alone in your room on a laptop.

Indie rock is clearly not as relevant as it was in its heyday in the 1980s and '90s, but it needn't consign itself completely to history. If artists can wake up to the world around them, engage with it, confront it, criticise it, articulate people's alienation from it and work to build alternatives – whether reviving lost dreams from the past or forging fresh ones of their own – indie rock will continue to connect with people and give them a musical space they can call home.

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