「レイヴ・カルチャー」と一致するもの

Westbam & Takkyu Ishino - ele-king

 なんとウェストバムと石野卓球がタッグを組み、東阪ツアーをおこないます。東京は2月7日(金)LIQUIDROOM、大阪は2月8日(土)Club joule。ウェストバムといえば、われわれも『夜の力』という自伝を翻訳刊行していますけれど、ドレイクやタイラー、ケンドリックなど、昨年リリースされたアルバム『The Risky Sets!!!』のそうそうたるゲスト陣を見てもわかるように、ドイツにおける伝説級の大物です。昨年はベルリンの壁崩壊30周年ということでその壁でプレイしたりと、いまだハングリー精神も衰えることなく……それがご存じ盟友=石野卓球との共同ツアーとなれば、これはもう行かない理由がありません。詳細は下記。

日英世間話あるいはブレグジットの憂鬱 - ele-king

(某日日本時間18時、英国時間その8時間前)

野田 ういす。(ビールを飲みながら)

高橋 あー、もしもし。(シラフで)

野田 聞こえる?

高橋 はい。

野田 デヴィッド・スタッブス(※『フューチャー・デイズ』の著者)の講義はどうだったの? 

高橋 まあ、そんな新しいことは喋ってないですよ。講義のタイトルは「BURIAL Leaving The 20th Century」で、いわゆるレイヴ・カルチャーからの繋がりを考えた上でベリアルがなんでそれまでのアーティストと違うのか、マーク・フィッシャーの論に沿って言ってるんで。ベリアルをもってして20世紀の音楽は終わった、もしくは新しい時代に突入したとスタッブスは言ってましたね。彼が新刊の『Mars By 1980』で書いていたように、宇宙を目指すような進歩的な未来像が20世紀の電子音楽には共有されていたけれど、フィッシャーが指摘したように、ベリアルの音楽はそれとはまったく別のことをしている、といった内容でした。

野田 あー、その感じはわかるな。

高橋 野田さんは共感できるでしょう(笑)?

野田 そりゃあ、ベリアルは20世紀最後のムーヴメント(=レイヴ・カルチャー)へのレクイエムなわけだから。

高橋 ところで、いきなりどうしたんですか?

野田 いや忙しくて書く時間がないんで、こうして喋って……。ネット時代といいながら、昔よりもイギリスの本質的な情報が日本に伝わってこない気がしてさ。ブレグジットの問題だって、ボリス・ジョンソンを批判すれば済むってほどそう単純な話じゃないでしょ?

高橋 単純な話じゃない……ですね。労働党党首のジェレミー・コービンも、ここまで来たら良い方向でブレグジットをやろうと言ってますからね。批判すべきはブレグジットそのものではなく、それをやみくもに推し進めようとするやからですよ。

野田 もともとコービンはブレグジット賛成だったじゃない?

高橋 いまもそうでしょ。彼には国内に解決しなきゃいけない課題がたくさんあるのに、ブレグジットにだけ論点を集中させている場合じゃないっていうか。それに、フランスに別荘を持っているような階級の人たちが「ブレグジット反対」と言ってるような感じになってきちゃってるし。この前、反ブレグジッドの大きなデモがロンドンであったじゃないですか? あのなかのプラカードに、「このままじゃ私の犬が来年からフランスのスキー場に行けなくなる」的なやつがあって、なんかもう……という感じでした。だから野田さんがイギリス人だったら、ブレグジットに賛成してますよ(笑)。

野田 ううう。

高橋 賛成っていうか、ここまで来たらどうしようもないしょ、選挙でみんなで一度決めたことだし、っていう立場かな。日本から見ると意外に思われるかもしれませんが、ラディカルな左派のひとたちでもそう思っているひともいますよ。EU経済でスペインやギリシャがぐしゃぐしゃになってしまったことを見ているから、もっと違った経済体制でイギリスは国際社会に貢献するべきだという意見だってあります。

野田 なるほど、決して20世紀初頭に戻るって意味ではないのね。しかしこと一刻と状況は変わっているんだな。

高橋 これはつい先日決まったことなんですが、EU圏外からの留学生にとっては大きな発表があって。2012年にデイヴィッド・キャメロン政権下で内務大臣だったテレザ・メイがEU圏外からの留学生が学校が終わったら数ヶ月で自国に帰らなければならない法律に変えたんですよ。それで、その改正前では学校が終わっても1年はイギリスに滞在できたんですけどね。その間に留学生はヨーロッパで就活をしたり、進学の準備をすることができたんです。いま思い返せば、2011年に、学部生だった僕はグラスゴーへの留学の準備を日本でしていたんですが、あの時も留学で使用できる語学テストの変更があったりして留学生を混乱させる出来事があったけれど、あれもテレザ・メイの政策の一環だったんですね。でも留学生のビザなんかはじつは氷山の一角で、当時のテレザ・メイはイギリス国内の移民や難民を可能な限り減らそうと、いろいろ法をいじってます。違法移民の強制送還が過激になってきたのもこの頃です。最近では、ジェイムズ・ブレイクのパーティ/レーベル〈1-800 Dinosaur〉のクルーとして知られるクラウス(Klaus)が、移民の強制送還への抗議運動に参加していましたね。

野田 ほぉ。

高橋 そんな背景があって、当時国内の移民を減らそうと躍起になっていたテレザ・メイがはやく帰れということにしたんですけど、ボリス・ジョンソン政権の新しい法案だとコースが終わったあとの2年間ビザが支給されることになったんですよ。これはけっこう重要な変革で、ぼくは内心嬉しいんですけど、この7年、ビザが切れて帰国を余儀なくされた人や現地の人と結婚してまでも滞在した人とか、大きな選択をした人をいろいろ見てきてるんで、政府の意向によって人間の自由が左右される現実はどうなんだろうかと思いますね。

野田 え、しかし、なんでそんなことをしたの?

高橋 ブレグジット以降のEU圏外の諸外国との関係を強化するためじゃないですか。留学はひとつの市場でもありますからね。ブレグジッドがどういう形で施工されるのかは不透明な部分も多いんですけど、EUからの人の流れは確実に変わります。現時点でも、イギリスに住んでいるEU出身者は、新たに身分証明書のコピーの提出を義務付けられたり、将来的に移民法が変わってもイギリスに住み続けられるように、いまのうちに永住権を申請する人びともいたり。そんな具合に近隣諸国との関係の雲行きが怪しくなるなか、その他の遠方の国との関係を変えるための政策の一環としても今回の改正は捉えられます。そういえば、日本の首相は、この前のプーチン大統領との会談でも、ロシア人の学生にビザを出しやすくするとか言っていましたよね。「学生は外交の道具じゃねぇ!」って話ですよ。

野田 じゃ、音楽の話をしよう。どうよ?

高橋 まあ、今年はヒップホップが強いですよね。

野田 やっぱデイヴって言うんだろ(笑)?

高橋 やっぱデイヴの年でしょうね。今年出たデビュー・アルバムの『Psychodrama』はマーキュリー・プライズを受賞したし。あれこそ現代のジョイ・ディヴィジョンですよ(笑)。彼が描くブラック・ブリテンのリアリティも共感を呼んでいます。デイヴは最近、ネットフリックス製作のドラマ『TOP BOY』の新しいシーズンへの出演も話題になりました。

野田 時代はブルーだしな。『Psychodrama』は、うつ病がテーマにあるってことも重要だよね。

高橋 イギリスではいま若者のうつ病を含めたメンタル・ヘルスがイシューになってますからね。アルバムで表現されていたようなカウンセリングに通うことが、若い世代ではとても一般的になっています。NHSを利用すれば、無料で診断を受けられますからね。

野田 メンタル・ヘルスの認識に関しても日本は後進国だから。デイヴの赤裸々な告白が良い刺激になって欲しいな。

高橋 デイヴがああやって自分の葛藤をラップすることによって、救われた若者たちは多いんじゃないかなぁ。うつ病についてずっと考えていたマーク・フィッシャーが生きてたら、デイヴについてなんて書いてたのかな、っていう人が僕も含めてちらほらいますね。

野田 人種差別とうつ病もじつは切り離せない問題ではあるし……。しかしな、俺もシンタのように歌詞がわかれば、もっと入っていけるんだけどな。

高橋 そんなこといったらイギリスのロックだって(笑)。

野田 もちろん声と音だけでも良いと思うけどね。91年にマッシヴ・アタックが出て来たとき、ジョイ・ディヴィジョンみたいだって言われたけど、マッシヴ・アタックやトリッキーとも通底するセンスも感じるし。ストリングスの感じとかとくに。いずれにしても20歳ぐらいとは思えないなんか毅然としたものがあるよね。

高橋 ラップでいえば、あとはやっぱりストームジーですね。グランストンベリーのステージが最高だった。イギリスの黒人がヘッドライナーを飾るのが初めてというのも本人は自覚的で、ステージ上でワイリーやディジーにはじまるグライムの先人たちの名前を読み上げる姿は感動的でもありました。デイヴがステージに出てきたのもよかったなー。

野田 高橋はすっかりイギリスに馴染んでるんだな。

高橋 Tohji も好きっすよ。この前にダブル・クラッパーズのシンタくんやボーニンゲンのタイゲンさんも出てた、くだんのロンドンのライヴでは、僕も前の方でケータイ片手に“Higher”でジャンプしてましたよ(笑)。

野田 楽しそうだな。じゃ、またスカイプするわ。

Ultramarine - ele-king

 この広い宇宙から見たらほんの小さな、あまりぱっとしない銀河系のなかのさらにまた小さな太陽系において、地球時間でいう365日かけて1周まわり24時間かけて自転する惑星の、75億いるサルの子孫のひとりに過ぎない自分のことなど、たわいもないものだ。
 ぼくはわりとくよくよ悩むほうで、くよくよ悩んでも解決しないとわかっていながらくよくよ悩んでしまい、そういうときは宇宙規模でものごとを考えると気が楽になることがある。ま、たいていの場合はアルコールで誤魔化すか忘却するのを待つしかないのだが、しかし、ウルトラマリンの6年ぶりの新作を聴いていると、思わず空を見上げたくなるのは事実だ。もういいかげん地球にいたくないから空飛ぶ円盤でもやって来てくれないかというわけである。

 ナンセンスであり、なおかつピースであるというのは、ちょっと禅的な感じもするけれど、何かと世知辛いこのご時世、相変わらずこんなに微笑ましい音楽をやっている彼らは素晴らしいとしか言いようがない。ウルトラマリンは、レイヴ・カルチャーの時代に登場したエセックスの2人組で、彼らの音楽を特徴付けているのは、UKジャズ・ロック(いわゆるカンタベリー系)と90年代前半のエレクトロニカとの融合だ。ロバート・ワイヤットやケヴィン・エアーズ、ジャズ・サックス奏者のエルトン・ディーンなどといったリジェンドたちと共演している経歴からもその出自がうかがえる。あるいはまたこうも言えるだろう。ボーズ・オブ・カナダやフォー・テットの登場よりも5年早く、あの感じを先取りしたのがウルトラマリンだったと。

 6年ぶりの新作、『宇宙へのシグナル』は、どうやら巨石文化に関係するコンセプトがあるようだ。じっさい内ジャケットにはいろんな石がデザインされているわけだが、ぼくの妄想によれば、これはもうそろそろ地球に飽きたよ助けてよということなのだろう。ブレグジットがたいへんなことになっているUKでは、パブに入って良い頃合いになれば、ところどころで唾を掛け合うような激しい議論が起きているかもしれない。そんなところでひとりだけ、ただひたすらぼけーっと窓の外を見ているひとがいると、それが『宇宙へのシグナル』から聴こえる牧歌性である。
 クラスターとクラフトワークがボサノヴァで踊っているような、素晴らしいアイデアの曲からはじまる『宇宙へのシグナル』は、ゲスト・ヴォーカリストのアンナ・ドミノをフィーチャーしたジャジー・トリップホップへと展開する。アルバムはいつも通りの、ルーク・ヴァイバート系のエレクトロニカとハウス&テクノのダンス・ミュージックと、そしてカンタベリー系ジャズ・ロックという3つの点を行き交う列車となって進行する。
 しかしながら、その3点以外にも、アンビエントやECM系ジャズという起点もある。いずれにせよ、彼らはその線路から外れることも、どちらかに寄りすぎることもなければ、過剰になることもない。つまり、完全なエレクトロニカになることもなければ、完全なハウスにもなれずに、完全なジャズにも完全なアンビエントにもならないという、なんとも中途半端な音楽なのだ。
 そして7曲目の“Du Sud”がやって来ると、空の星はまたたきはじめる。さあ、あなたは星の旅行者だ。じつは自分がサルの子孫ではなく、アンドロメダ大星雲のなかのさらにまたさえない銀河の彼方から来たことを思い出すかもしれないけれど、そんなことすらもうどうでもいいだろう。地球が動いているので、部屋のなかに太陽の光が差し込む。部屋の埃や塵、布団の汚れを露わにしながら温度を上げていく。無意味で騒がしい昼が待っている。春だしビールでも飲みながら、ウルトラマリンの美しい音楽をいま聴けることがただ嬉しい。

遠くで鳴るビート、蒸気を吸いそして Chill-out……
エイフェックス・ツイン最大の問題作を読み解く

リリース25周年!
エイフェックス・ツイン、あるいはテクノ、アンビエント、ヴェイパーウェイヴのファンであるなら避けては通れない本、テクノ史上もっとも謎めいた名作の秘密をさぐる快著、ついに翻訳!
アンビエント/IDMのオーソリティーが膨大な資料のもとに構成する、世界で唯一のエイフェックス・ツインの単行本。

発売当時、明晰夢によって作曲された音楽だと本人が解説した『セレクテッド・アンビエント・ワークス・ヴォリューム2』。
曲名のクレジットもなく、ダンス・カルチャー全盛期に、いっさいのビートを削除した作品。リリース当時はリスナーとメディアを大いに困惑させた問題作。いまとなっては傑作と言い切れる先駆的なアルバム。
その『セレクテッド・アンビエント・ワークス・ヴォリューム2』を紐解きながら、ブライアン・イーノのアンビエント、レイヴ・カルチャーにおけるチルアウト、そして21世紀のオンライン・カルチャーにおけるアンビエントまでを解読していく。

【著者】
マーク・ウィーデンバウム(Marc Weidenbaum)
サンフランシスコ在住。著述家。アンビエントとエレクトロニカに特化したサイト『Disquiet.com』の設立者。アメリカでもっとも有名なサイト『Boing Boing』や科学系のサイト『Nature』などにも寄稿。メディアやアンビエントにかんする講義もおこなっている。

Jay Glass Dubs - ele-king

 忘れがちなことだけれど、2012年あたりのオリジナル・ヴェイパーウェイヴの特徴のひとつにスクリューすることがあった。スクリューというのはですね、2000年に夭折したヒューストンのヒップホップDJ、DJスクリューが編み出したテクニックで、再生の回転数を下げることで得られる効果を駆使すること(一説によれば咳止めシロップの影響下による)。ゴーストリーな音声などはその代表例だが、スクリューは面白いことにヒップホップ・シーンの外部であるLAのアンダーグラウンドなインディ・ロック・シーン(昨年、食品まつりを出したサン・アロウなんかも関わっていたシーン)へとしたたかに伝播し、そしてヴェイパーウェイヴにも受け継がれた。そうすることによって「蒸気=ヴェイパー」な感触が生まれたのだった。
 スクリューは、楽曲をメタ・レヴェルで操作することによって別もの(ヴァージョン)を創造するという点においては、ダブと言えるだろう。もちろんジャマイカのオリジナル・ダブとは、スタジオにおいて録音されたマルチトラック上のヴォーカルないしは楽器のパートを抜き差しし、あるいはエフェクト(リヴァーブ、そしてエコーやディレイ)をかけながらオリジナルとは別もの(ヴァージョン)を作ることである。音数を減らし、引き算足し算しながら骨組みだけにすることから「レントゲン(x-ray)音楽」とも呼ばれる。
 しかしながらスクリューやオリジナル・ヴェイパーウェイヴのようなデジタル時代の音響工作は、キング・タビーとはあまりにも違っている。なによりも「レントゲン音楽」的ではないし、楽器の部品(パート)を操作するのではなく、音の位相(レイヤー)を操作する。そしてその音像は独特のくぐもり方をする。ジャマイカのダブには、サイケデリック体験における酩酊のなかにも霧が晴れていくような感覚があった。しかし、スクリュー以降の新種のダブはむしろ霧を呼び込んでいるようなのだ。Mars89の作品でも知られるレーベル〈Bokeh Versions〉からリリースされたジェイ・グラス・ダブスの『エピタフ』がまさにそうだ。

 OPNの『レプリカ』をリー・ペリーにコネクトしたような感じというか、『エピタフ』はジャマイカのオリジナル・ダブの基盤であるドラム&ベースを削除することなく継承しつつも、まったく違ったものになっている。鄙びたサウンドシステムもなければ埃もたたないピクセルの世界に踏み込んでいるからだろう。それはひとの生活の何割かがインターネットの向こうに及んでいるというリアリティをただ反映しているぐらいのことかもしれない。
 あるいはまた、“セイキロスの墓碑銘”からはじまる『エピタフ』はコクトー・ツインズと初期のトリッキーをスクリューしたようでもあり、ジェイムス・ブレイクの新作は生ぬるい(ぼくは嫌いじゃない)というひとが聴いても面白いかもしれない。Burialが深夜の侘びしい通りから聴こえるレイヴ・カルチャーの記憶だとしたら、こちらはいったいなんだろう。アルバムには“模倣の新しい型”という曲名があるけれど、タッチスクリーンの向こう側の、暗闇なきダークサイドから聴こえるダンスホールなのだろうか……。いや、この音楽からはなにも見えてこないのだ。
 ジャマイカのオリジナル・ダブにおける音の断片化は、ディアスポラの記憶すなわち観念上の“アフリカ”=理想郷の想起ではないかという説がある。しかし『エピタフ』にはそうした音の断片化はないし、理想郷も想起されない。にも関わらず、エコーがさらにエコーし、ディレイがさらにディレイする世界……いったいどこに連れて行く気だ? 
 なんにせよ興味深いなにかが起こっている、そんな気がしてきた。

interview with Mark Stewart - ele-king

当時初めてマーク・スチュワート+マフィアでブリストルでライヴをやったことは、ブリストル・シーンが生まれるきっかけになった。このアルバムはバンクシーがいちばん好きなアルバムだし、ダディーGのお気に入りでもある。

 ただ生きるのに、なぜこうも金がかかるのだろう……。いや〜、きつい。だれにとってもこのきつい新自由主義しか生きる道はない、ひとびとにそう信じ込ませるリアリズムを分析し描いたのがマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』という本で、その副題は「ほかに道はないのか?」だ。本当に、ほかに道はないのか? ぼくたちはこの終わりなき倦怠感のなかでじたばたするしかないのだろうか? 
 音楽ファンであるフィッシャーが、そうしたやっかいな資本主義リアリズムにおける外部の可能性について思考をめぐらせるとき、レイヴ・カルチャーやダブに行き着くのは納得のいく話ではあるけれど、それは過ぎ去った昔のことではないのかという声もあろう。が、「ほかの道」は意外なことに、いちど殺され死滅したものたちこそがしめすかもしれない。死者が無言であるとはかぎらないのである。

 1970年代なかばのリー・ペリーがジャマイカで繰り広げた音響実験は、UKに渡るとパンクを通過して、エイドリアン・シャーウッドによってさらに拡張された。そのクライマックスのひとつに数えられる1983年の『ラーニング・トゥ・コープ・ウィズ・カワディス』は、味気ない灰色の街の抑圧のなかにさえも「ほかにも道はあるだろう」と言っているようだ。バンクシーがこのアルバムを好きなのはなんとなくわかるような気がする。ここには抵抗とともに至福の王国(=エルサレム)も描かれている。熱狂的でもあるのだ。マッシヴ・アタックのダディーGがこれをいちばん好んでいる理由は明白だ。『ラーニング・トゥ〜』は、マーク・スチュワートの数あるアルバムのなかでもっともレゲエ寄りだからだろう。
 とはいうものの、ルーツ・レゲエ・バンド、クリエイション・レベルあるいはダブ・シンジケートのメンバーたち、そしてエイドリアン・シャーウッドといっしょに作り上げた『ラーニング・トゥ・コープ・ウィズ・カワディス』は、初期の〈On-U〉におけるダブの冒険が次のステージ(=オールドスクールのヒップホップ・ビート)へと進む手前の作品である。以下のインタヴューでマーク・スチュワート自らが言っているように、ザ・ポップ・グループのジャズ・ファンク路線からレゲエへとシフトするちょうどのその真っ直中を通過したあたりにドロップされている。なるほどそのサウンドは、たしかにのちのBurialにも繫がっている。

 マーク・スチュワートは読書家で、博識である。そしてその表現が頭でっかちにならないのは彼が本当にいろんな音楽を愛しているからで、たとえばこのインタヴューでいうと、それはスキンヘッドの話に垣間見れる。政治的な人間は、とかく右だ左だと分ける。しかしよく行くパブにはスキンヘッドもいる。自分と同じように、このきつい社会を生きている人間のひとりとして。だから意見はちがっても、マーク・スチュワートは彼らと対話する。そうした人間的な泥臭さは、音楽ならではのものである。

マーク・フィッシャーと同じくらいパンクでワクワクさせる理論を提唱したのがすでに他界したフランスの哲学者のジル・ドゥルーズで、彼に関する展示会を今年の終わりにゲントで企画しているんだ。ジャン・ボードリヤールやジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ。彼らの執筆は、それこそジョー・ストラマーが描く歌詞の世界と同じくらいクールだった。

こんにちは。今回は野田努さんというジャーナリストからの質問になります。これまで何度も取材を受けていると思いますが、よろしくとのことです。

マーク:俺からもよろしく伝えてくれ。日本には数人クールなジャーナリストがいるから顔を見たら誰かすぐにわかるだろう。

ありがとうございます。で、早速ですが、最初にまず、お元気ですか? 

マーク:元気にやっているよ。ありがとう。君の方はどうだ? 

はい、元気です。

マーク:お願いがひとつあるんだが、彼から質問されているって雰囲気を出す意味で、低い声で話してもらえるかな。

(笑)かなり無理がありますが、できる限り頑張ります。で、パリの黄色いベスト運動をどのように受け止めましたか? 

マーク:正直多忙過ぎて状況を詳しく把握できてないから答えるのは難しい。言えることは、同じベストの括りで違う内容の抗議運動が多発しているということだ。政治的な質問ばかりになるのかな。取材を受けると政治のことばかり聞かれるもんだから。

政治の質問ばかりではありません。

マーク:俺をマーガレット・サッチャーと勘違いしているのだろうか。

そんなことはありません。

マーク:それが俺からの答えだ。

フランスでは68年の5月革命以来のできごとだと解釈している向きもあるようです。だとしたら、その影響、余波はUKにもおよぶはずですが、じっさいのところいかがでしょうか?

マーク:どうだか。もしいま君と俺が地元のパブで話をしていたとしたら、一緒に(黄色いベスト運動について)グーグル検索してそれを元に話ができただろう。でも俺は限られた情報しか持ち合わせていない。フランスに住む友人も大勢いる。彼らからそれぞれ違う視点からの話は聞いている。町ごとに抗議内容が違うんだ(※UKではむしろ右派が黄色いベストを着て、EU離脱に向けてのデモ行動をしている)。
 フランスは元々抗議活動が盛んな国だ。農家でさえ地元の自治体に肥料を遺棄して抗議運動をするくらいなんだから、そういった抗議活動は伝統的に存在する。それがいま組織化されつつあるようだ。発端になったのはどうやら燃料費の増加か何かのようで、消費者による抗議デモのようだ。でも詳細は知らないからコメントは避けたい。

まあ、これがまた信じられないような話でね。まるで『レイダース失われたアーク』のようだったよ。エルサレムのソロモン王の神殿の地下を一生懸命掘って聖なる埋蔵品を発掘したテンプル騎士団そのものだ。

マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』は読まれましたか?

マーク:もちろん読んだよ。マーク・フィッシャーは親しい友人でもあった。彼は何年もの間俺の音楽を応援し続けてくれた。ミドルセックス州から多くの理論家が出てきた時期があった。〈Hyperdub〉所属のKode9を含む、素晴らしく頭脳明晰な連中だ。urbanomics (都市経済学)についての考察だ。マークの提唱は、パリに住む俺のかつてのシチュアシオニストの友人たちを彷彿とさせる。それと記号学(semiotics)も。今回の再発に辺り、マークの志を継承するイタリアの理論家(※おそらくフェリックス・ガタリのこと)たち、Obsolete Capitalism(※ガタリを使った12インチをリリースしている!)と組んで、エッセイを書いてもらった。当然、マーク本人にエッセイを執筆して貰いたかったが、彼は自決してしまった……。
 マークの頭のなかは輝くダイヤのようだった。彼は音楽を愛した人でもあった。彼の葬儀では俺も弔辞を述べた。彼の兄弟にも声をかけてもらった。頭脳明晰な連中が俺の音楽から様々な思想を見出していることに俺自身が驚いている。(自分の作品に)そんなものが存在していたなんて俺自身も知らなかった。驚きでしかない。このアルバム(『ラーニング・トゥ・コープ・ウィズ・カワディス(Learning To Cope With Cowardice)』)がきっかけでインダストリアル・ミュージック、トリップホップが生まれたと言われるけど、何故なのか俺にはわからない。俺はいまでも無邪気に、子供のように、いまだに好き勝手実験を繰り返している。なぜかはわからないけど、柔軟な考えを持てば、周りも柔軟な考えを持つようになる、ということなんだろう。質問に戻ると、マークは素晴らしい。原稿を集めた本が再発されたようだ(※k-punk: The Collected and Unpublished Writings of Mark Fisher 2004-2016)。
 個人的には彼と同じくらいパンクでワクワクさせる理論を提唱したのがすでに他界したフランスの哲学者のジル・ドゥルーズで、彼に関する展示会を今年の終わりにゲントで企画している。ジャン・ボードリヤールやジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ……。彼らの執筆は、それこそジョー・ストラマーが描く歌詞の世界と同じくらいクールだった。本当に素晴らしい。人びとはもっと彼らのような人たちの書物を読むべきだ。俺にとってのきっかけはシチュアシオニストやダダイズムだった。俺はそういう原稿をハイパーテキストと呼んで魅力を感じているし、アイディアを拝借することもある。おっと、ここではそんなこと言っちゃだめだな。

なぜ上記の質問をしたかというと、〈ミュート〉から送られてきた資料に、マーク・フィッシャーが『ラーニング・トゥ〜』への讃辞を送っていたという旨が記されていたからです。じつは今月末、マーク・フィッシャーが『ラーニング・トゥ〜』について触れている原稿も収録した『Ghosts of My Life』の日本版『わが人生の幽霊たち』を刊行します。

マーク:彼は本も出すのか。

はい。

マーク:最大の敬意を送るよ。俺からも日本で出してもらいたい本があるかもしれない。ところで誰が翻訳をしているんだ?

翻訳者までは把握していないです。すみません。

マーク:ぜひ、同じ理論家の人に訳してもらいたいものだね。俺自身ボードリヤールやボードレールの訳書も多く読むからわかる。その筋の人にしかわからない行間の意味などがちゃんと汲み取れる人でないとなかなか訳すのは難しい。(※訳者の五井健太郎はシュルレリスム研究が専門)

わかりました、そのように伝えておきます。それでは、アルバムについて伺っていきたいのですが、言うまでもなく、『ラーニング・トゥ〜 』は、あのポストパンク時代においても、もっともインパクトの強い作品の1枚であることは、リアルタイムで聴いたこの質問者にはよくわかります。革命的なサウンドからアートワークにいたるまで、あなたのソロ・キャリアにおいてももっとも素晴らしい1枚に挙げられる作品だと思います。その名盤にヴァージョン違いをふくむとはいえ10曲もの未発表音源「The Lost Tapes」が残っていたことがまずは驚きでした。これはいったいどういうことなのか、あらためて説明をお願いします。

マーク:まあ、これがまた信じられないような話でね。まるで『レイダース失われたアーク』のようだったよ。エルサレムのソロモン王の神殿の地下を一生懸命掘って聖なる埋蔵品を発掘したテンプル騎士団そのものだ。今回のプロセスを説明するなら、超自然な考古学だ。『As The Veneer Of Democracy Starts To Fade』のアルバムでも同じことが起ころうとしている。発売から何年も経っているにも関わらず、再発を考えはじめた途端に、どこからともなく人が現れて、「こんな音源がありますけど」と言ってくるんだ。世にも不思議な物語さ。
当時、このアルバムを完成させてから数年経った後にロンドンのエイドリアン(・シャーウッド)の家を訪ねたとき、雨が降っていたんだけど、マスターテープを詰め込んだ箱が外に置いてあったんだ。で、「これどうするつもり?」と聞いたんだ。当時は経費節約のためにマスターテープをそのまま再利用することが多かったからね。例えばリー・ペリーなんかは同じテープを何度も何度も使っていたよ。前に録音したものの上から上書きしてしまうんだ。で、エイドリアンは「家に置き場所がなくてね」と答えたんだ。これは「荷物を減らせ」って奥さんから言われるようになる前の話だ。友だちはみんな持っているCDを処分されないように隠すのに必死だよ」。

日本でも「断捨離」って言うんですよ。

マーク:(笑)女性がハマるんだよね。君の旦那さんも気の毒に。

で、マスターテープの話の続きをお願いします。

マーク:そうそう。で、てっきりマスターテープはすべてなくなってしまったと思っていたんだ。でも、当時から俺はなんでもすべて録音していた。何をやるにもエンジニアに「これを1/4インチテープに録音しておいてくれ」とお願いしていた。というのもマルチ・ダブ、マルチ・テ-プの手法をとっていたから。俺がとったアプローチは、曲を構築する際に、違うテープから一番いい部分をつなぎ合わせたというもので、タイトル曲の“Learning To Cope With Cawardice”なんかは1曲だけで87のエディットがあった。細かいテープの切れ端を壁に全部貼り付けて、「ああでもない、こうでもない」と、まるでシュールレアリズムのモンタージュのようにつなぎ合わせていったんだ。
で、これらの元ネタになった音源、つまり、我々が切り刻んでしまう前のちゃんと楽曲の形をしていた音源が収められていたテープがあって、俺はてっきりそれもすべて処分されてしまったとものだと思っていた。それがいきなりだ。何年も活動していると世界中でコンサートに何度も来る客と親しくなるわけだけど、俺もエイドリアンも親しくしている医者で〈On-U〉の熱狂的ファンがいて、その人から「マーク、古いマスターテープを大量に修復したんだ」と連絡があった。だから「へえ、『ラーニング・トゥ〜』からは何かある?」と聞いたんだ。ちょうど〈Mute〉から再発の話をもらっていたから。そしたら「いくらでもあるから送るよ」と言ってくれたんだ。
というわけで、エイドリアンとふたりで彼のスタジオで修復された当時のマスターテープを全部聴き直す作業をした。なかには30分間ひたすらハイハットとスネアにいろんなエコーを試しに掛けているだけのテープもあった。ルー・リードの『メタル・マシン・ミュージック』ではないが、変わった音を出そうとしてね。俺とエイドリアンが聴く分には面白いけど、〈On-U〉以外の人間が聴いて面白いとは思わないような(笑)。
今回再発盤を出すにあたり、俺もエイドリアンも深く関わっていて、きちんとした物語を伝えたかった。掘り出した音源をラジオ番組のような形で公開することにしたんだ。「これは流石に退屈だろう」という部分だけを除いただけで、他は当時のものをそのまま残している。これらのマスターテープはどういうわけだかポルトガルに流れ着いて、それをオランダに住む俺の友人が、ポルトガルにいる持ち主とファンが集まるチャットで知り合って、オランダで修復作業をして我々に送ってくれたんだ。
他にも似たようなことがあった。アメリカに住むファンがThe Mafiaでのライヴ音源を送ってくれた。そうやって音源を大事に持っていてくれる人たちが世の中にはいるもんだ。
俺もかつてロキシー・ミュージックで同じことをやっていたけどね。我々がまだ子供だった頃、ロキシー・ミュージックのコンサートにカセット録音機をコートに隠して内緒で持ち込んだものだった。今回にしても、レコード会社の倉庫にあった単なるデモ・テープの寄せ集めにならなくて本当に良かったと思っている。
個人的にはいつだって未来のものを発信したいと思っているよ。過去の作品を再発をするのであれば、絶対にクールなインディ・レーベルから、自分たちがすべて監修をおこなう形でしかやりたくない。アートワークから使う紙の材質に至るまですべてに関わっている。実際俺とエイドリアンは今回の「The Lost Tapes」をまとめるのに、オリジナルのアルバムよりも多くの時間を費やしているんだ。

未発表音源の「The Lost Tapes」のクオリティも申し分のないものでした。これらの曲をお蔵入りにした理由は、当時のあなたとエイドリアンが求めていたサウンドには達していなかったからなんでしょうか?

マーク:いや。単に実験的なことがしたかったんだ。美しい曲を書いたら、まずはそれを壊すところからはじめるんだ。つまり、できた曲を録音して、そのテープを切り刻んで、風変わりなものにする。なぜなら、そうしたいと思ったから。それがこそが自分の表現方法だと思ったから。それだけだ。

“Conspirasy”のような曲にはジャズへのアプローチも見られますが、これなんかはシャバカ・ハッチングスをも彷彿させるというか。ほかにも“May I”にしても、とても実験的なサウンドですよね?

マーク:いまも昔もそう。いまも何時間分もの新しい楽曲の音源に囲まれている。さらには近所のスタジオの仲間が一緒に取り組んでいる新しい曲を10曲届けてくれたところだ。常日頃から楽曲を多く作っていて、そのなかから、そのときどきで選りすぐったものだけが作品として世に出る、ということだ。「作りたい」という衝動が絶え間なく押し寄せる。マーク・フィッシャーも同じだっただろう。彼も絶えず書き続けていた未発表の原稿が何箱もベルリンの自宅にあるだろう。創造を止めることはできない。いざ作品を出すときにはそれらから抽出して、ひとつの声明としてうまく組み合わせて形にいく。
よく質問されるんだけど、自分の制作プロセスを言葉で説明するのは難しい。でも、今度の「The Lost Tapes」も、ひとつの声明として満足しているね。いま考えると、当時マフィアとしての最初のコンサートとザ・ポップ・グループとしての最後のコンサートは同じ日に行われたんだよ。ちょうどそのころ、核軍縮キャンペーンに深く関わっていて、ロンドンで行われた核兵器に反対する大きなデモに参加したんだ。団体のトップに「音楽があった方がいい」と言われて、「ちょうどいい。自分もバンドをやっているし、友人のキリング・ジョークなんかにも声を掛けてみるよ」と言った。
そこで俺は古いプロテスト・ソングを歌いたかったんだ。集まった群衆の年長者たちも共感できるような曲を歌いたかった。トラファルガー広場に50万人も集まったんだよ。ライオンの像の内側がステージだった。で、アメリカでいうところの“ウィ・シャル・オーヴァーカム”のイギリス版となるプロテスト・ソングと言えば、ウィリアム・ブレイクによる“ジェルサレム(エルサレム)” (※1804年の作品でユートピアとしてのイギリスを歌っている愛国歌)だった。社会主義的アンセムだった。デモでどうしてもその曲を歌いたいと思った。でも当時のザ・ポップ・グループはフリー・ジャズっぽい方向性に行っていて、それに対して俺は“ジェルサレム” のレゲエ・ヴァージョンがやりたかったんだよ。だから、ザ・ポップ・グループが演奏した数時間後に俺はまたステージに戻って、そのときに一緒に演奏したのが、ジャマイカ生まれでイギリス育ちのラスタファリアのマフィアの連中だった。まったく同じ日にふたつのグループで入れ替わるようにライヴを行ったんだ。
あのときのデモに参加したことがきっかけで社会活動や抗議運動の精神が芽生えたし、いまでもそれは変わらない。今回の再発にあたっても、イギリスのあるチャリティーと手を組んでいるんだ。古い流し釣り漁船を何隻も改装して、水上の診療所に変貌させて、世界各地の戦地に送り込んで、地雷などで負傷を負った子供たちを治療する活動を支援している。

今回のリリースに際して、あらたに手を加えたのはどんなところでしょうか?

マーク:新たに手を加えた部分はない。

そうなんですね。

マーク:さっきも話したように、どの曲も10ヴァージョンほど録音して、それらをバラバラに切り刻んで、違うテイクを組み合わせて構築していくんだ。重ねて録りも多用している。だから「The Lost Tapes」に入っている曲にしても、“Conspirasy”のようなジャズっぽいものから、“Paranoia”、“Vision”といった曲はどれも、アルバムに収録する曲のために切り刻む前の元ネタ音源のようなものなんだ。“Jeruselum”はサウンド・エフェクトを乗せる前のプロトタイプのようなものだ。これらはすべて当時録音したものをそのまま収録している。劣化部分を修復したマスターテープを何時間分も聴き返して、これ、というものを選び出したんだ。もうあんな高音は出せないよ。

じっさいのところ、このアルバムはどのくらいの期間で制作されたものなのでしょう?

マーク:制作をどこからどこまでって考えるかにもよるけど。歌詞のアイディアの話をし出したら、例えば“Liberty City”なんかはタイトルのヒントになったのはマイアミ近郊の人種暴動が起きた町だった。ちょうど自分が当時住んでいたブリストルのセイント・ポールズでも同様に暴動(1980年)が起きていた。“The Paranoia of Power”はロンドンの地下に眠る秘密のシェルターについての本がヒントになった。アイディアはいつ何時どこからでも湧いてくるものだ。歌詞に関してはそれこそ9歳にまでさかのぼることだってある。その一方でレコーディングに関しては、かなり短時間で作った。その頃にはエイドリアンが〈On-U Sound〉でいろいろなクールな作品をすでに手がけていたから面白いミュージシャンたちが大勢溜まっていた。サックスのデッドリー・ヘッドリーはプリンス・ファー・ライと組んでいて、彼はもともと多くの素晴らしいホーン・プレイヤーを輩出しているジャマイカのAlpha Boys School出身だ。ザ・ポップ・グループのジョン・ボティングトンも何曲かにギターで参加してくれている。オリジナル・アルバムはじつは制作にあまり時間がかかっていないんだ。実際スタジオを使った日数で考えるとね。ただし、夜通しの作業だった。当時は深夜の方が料金が割安だったからね。

アルバム・タイトルにある「Cowardice(卑怯者)」はどのような意味で使われたのでしょうか? その意味を21世紀のいま再解釈するとどんな風になりますか?

マーク:基本的に俺は当時もいまも変わっていない。むしろより無邪気で子供のようになったくらいだ。当時と比べて多くを学んだ。再発は来週発売だけど、これまで話をした人からよく言われるのは、この作品の歌詞がいかにいまの時代にぴったり当てはまるか、ということだ。難民問題、暴動、パラノイヤ、はいまの時代も健在だ。俺はある時代に特化した歌詞は書かない。自分なりの意味付けはあるけどね。
 最近もザ・ポップ・グループの古い音源を掘り起こしていたんだけど、こういう古い作品をあらためて聴き返してみて面白いのは、──『ラーニング・トゥ〜』を作ったときに自分が何歳だったか忘れたけど、例えば22歳だったとして──、22歳の自分が年月を超えて語りかけてきて、アドヴァイスをくれている感覚になる。交霊会みたいな感じさ。俺はまだ死んでいないけど(笑)、上手く説明できないな。
 基本的に俺は説教師ではない。人に何かを説き勧めようとしているわけじゃない。俺がやっていることというのは、アイディアの断片を、ちょっとした情報や面白いサウンドとともに全部鍋に投げ入れてごった煮にして世に出すんだ。「俺は面白いと思って作りました」って感じでね。そこからまた誰か他の人が断片を組み取って何かを生み出すかもしれない。大きな壊れたジグソーパズルみたいになることがある。原理原則があるわけじゃない。もっと開けたものなんだ。道教にも「the path of the open hand」という教えがあるように。

数年後にはジーザス&メリー・チェインがレコーディングを行っていた。CRASSもいて、FUGAZIもいた。アメリカのハードコアの創成期だった。素晴らしかったよ。そこで出会ったジャマイカ生まれのミュージシャンたちとレコーディングしたことと、ザ・ポップ・グループで訪れたアメリカで耳にしたヒップホップからの影響がこのアルバムの礎になっている。

それにしても“Liberty City”は、ジェントリフィケーションによって高級化された世界の都市、ロンドン、NY、パリ、ベルリン、そして東京もそうですが、ネオリベラリズム支配によって灰色と化した都市においてはあまりにもハマリすぎの鎮魂歌として聴こえます。

マーク:当時何が起きていたかというと、ちょうどこのアルバムの曲作りをしていた頃、俺が生まれ育った街でいまでも頻繁に行くブリストルで、UKで初めて黒人居住区で暴動が起きたんだ。俺の母親が生まれ育った地域で、俺もレゲエ・クラブに良く通っていた。警察があるカフェを強制捜査しようとして、セイント・ポールズの街全体が暴徒化したんだ。ちょうどこのアルバムを作っていた頃だ。ちょうど同じ頃にテレビのニュースでマイアミで起きた暴動が報道されたのを見たんだ。そしたら、その町の名前がLiberty Cityだという。その名前をそのままタイトルに拝借させてもらった。これは当時のでも、いま起きていることでもない。これから起きるかもしれないことかもしれない。詩(Poetry)という言葉はあまり使いたくないけど、自由に解釈できる限定されないモチーフなんだ。それは、支配や洗脳という発想だ。カルト教団についての面白いドキュメンタリーを見てたんだけど、消費主義も同じで、消費主義が横行しているあまり、人びとは現実に目を向けないような仕組みになっているという発想。言葉で説明するのは難しい。だから俺は歌詞を書く。歌詞は音楽と組み合わさったときに大きな影響力を持つ。そういう発言をすると、まるでスティングになったような気分になる(笑)。
 今度マークの本を出すという話があったけど、いまのジェントリフィケーションの話にしても、俺は永遠の楽観主義者だ。俺の友人の多くは不満ばかりを口にする。俺はFacebookで世界中のアーティストや執筆家、活動家と繋がっている。なかには頭脳明晰なのに、「昔は良かった」というような愚痴ばかりこぼす連中もいて、たまにうんざりしてしまう。変化には新しい可能性がついてくるものだ。だから俺の哲学は、明日の世界に目を向けて、新しいテクノロジーや発明をすべて、自分たちのために使いこなすということだ。そうやって物事を自分流にアレンジして利用すればいい。何もせずに「最悪だ。お先真っ暗だ」と不平を言ってても何もはじまらない。諸刃の剣なんだ。インターネットにしても最初に考案したティム・バーナーズ=リーの当初の発想は非常に理想主義的だった。欲しい情報が自由に何でも得られる、と言う。それがいまではいろいろ規制しようと言う動きになっている。そのこと自体はこのアルバムとは関係ないかもしれないけど、そういった不都合なことは常にいろいろ起きるものなんだ。トランプ政権のことにしても何にしても文句ばかり言って、まったく行動を起こそうとしない友人たちには呆れるよ。it only takes for good people to do nothing for evil to prevail (善人が何もしないことが悪を蔓延らせる要因だ)という格言があって、いま、何が問題かというと、意識の高い人たちが、どちら側の思想だろうと、みんな文句う言うだけで、何もしてない。前向きな提案や、次の選挙に向けた準備をすればいい。
 俺は永遠に楽観主義だ。いまの世のなかにも素晴らしい理想を掲げた素晴らしい人材は多くいる。民主主義に則った選挙で誰かが当選したということであれば、それは文化を反映している。人びとの考えを変えるには、その文化、そして思想を広めることだ。パンクが起きるまで、小さい地方都市には何もなかった。でもいまではアート・センターやユース・センターができている。そういう地元レヴェルでは確実に積み上げられているんだ。

ちなみにあなたはインターネットやスマートフォンとどのように付き合っていますか?

マーク:テクノロジーは人びとを解放する、という概念を持っている。現代ではパンクもデジタル化が進んでる。インターネットが文明開化に拍車をかけている。いまではアフリカの砂漠の真んなかでヤギ使いが衛星電話を使って子供に助けを呼ぶことだってできる。世界は確実に変化している。最近他界した俺の父親はイカれた科学者だったのだが、研究開発の分野での進化発展は想像を超えるほど凄く先をいっていて、スマートフォンといった消費者向けの製品でさえ、AIやアルゴリズムといった技術は開発者たちでさえ全貌を把握しきれていない。我々が生活しているのはまだ中世かもしれないが、画面の向こう側の光ファイバーの先の世界はまるで違う。それらのゲートウェイを支配する人たちこそが世界を支配する人たちなんだ。
 支配の話は別にして、こういう技術を恐れるのではなく、積極的に利用するべきだと俺は思う。ティム・バーナーズ=リーは非常に理想主義的な意図でインターネットを発明した。『ラーニング・トゥ〜』の頃からすでに人びとは自由な電子の領域について話をした。報道の自由、検閲反対と言った議論はいつの時代もある。中世にも活版印刷の登場で同じことが起きた。いつでも対応できるように、新しい技術に関しても常にアンテナを張ってないといけないと思う。

あなたたちとCRASSのようなアナルコ・パンクとは当時どのような結びつきをされていたのでしょうか?

マーク:不思議な縁があって、いま元フガジのイアン・マッケイと組んで何かやろうとしているんだ。彼のことはすごく尊敬している。当時もだし、いまもそうだけど、俺が〈Mute〉と契約しているのには理由がある。自分たちのレーベルもある。ディストリビューションの政治から自分たちを切り離し、独立してDIYですべてやることで検閲に対抗することが、音楽そのものと同じくらい重要だった。インディ・レーベルという発想だ。〈ラフ・トレード〉、〈Mute〉、〈Soul Jazz〉、〈On-U Sound〉といったレーベルとは深い関わりがあった。つまりは、チャンネルを開けておくための手段だった。
 〈Mute〉のダニエル・ミラーがインディであることの重要性を語っている。君はマークの本を出すと言うが、日本でそんなことをしようとする出版社は他にそうそういないだろう。そういう人たちの存在が自由を支えているんだ。CRASSのディストリビューションにしてもCRASSのスタジオにしても、非常に開放的で社会主義的だった。そんな彼らの思想に敬意を持っていた。それと、その場に集まる人たちも魅力だった。数年後にはジーザス&メリー・チェインがレコーディングを行っていた。CRASSもいて、FUGAZIもいた。アメリカのハードコアの創成期だった。素晴らしかったよ。そこで出会ったジャマイカ生まれのミュージシャンたちとレコーディングしたことと、ザ・ポップ・グループで訪れたアメリカで耳にしたヒップホップからの影響がこのアルバムの礎になっている。彼らはみんな同志だった。いまでもそう。ペニー・ランボー(CRASSの創始者)は俺の大事な友人だ。

あなたから見て、『ラーニング・トゥ・コープ・ウィズ・カウアディス』においてもっとも重要な点はなんだと思いますか?

マーク:俺にとって意義深かったのは、ザ・ポップ・グループはまだ若くて、一緒に楽器を覚えて、誰の靴がいちばん尖っているかって言うようなパンクの影響が強かったのに対して、大のレゲエ好きだった自分が何度も聴いた作品で実際に弾いてるミュージシャンたちとプレイできたのが大きかった。プリンス・ファー・ライやジュニア・デルガードやリー・ペリーは俺にとっての英雄だ。そんな彼らの作品に参加していた大物ジャマイカ・ミュージシャンたちが俺を認めてくれたことが嬉しかった。ぶっ飛んだアイディアを抱えたまだ若造だった俺に。
 それからエイドリアン・シャーウッドの柔軟な姿勢が俺を成長させてくれた。お互い切磋琢磨して影響し合ってともに成長した。いまでもしょっちゅう仕事をしている。何かお互い感じ合うものがあるのだろう。なんだか涙ぐんできたよ(笑)。
 そこには魔法があった。過去を振り返ることは葬式までとっておけばいいと思っているから俺はしないんだけど、当時のセッションを思い起こすと、ひっくり返すと魔法が起きていた。「現実をひっくり返す」という発想で、何か「ここだ」って思ったときに「ひっくり返してみよう」と言うと、何かが起こるんだ。シャーマンに近いものがあった。音楽の世界にはもっとジャニス・ジョップリンやジム・モリソンのような別次元に行っちゃう人がもっと必要だ。パティ・スミスもそうだった。彼女と仕事をしたとき、別次元に行っていた。シャーマンのようにね。でも周りに支えてくれる人も必要だ。ビジネス面を見てくれる人、プロデューサー、ミュージシャンたち。彼らがいてくれるから安心して途方もないことができる。「何をやってるんだ」「こんなのはナンセンスだ」と言わない人たちだ。「精神病院に入れるぞ」とかね。

(笑)あなたは数年前はスリーフォード・モッズを誉めていますが、彼ら以降であなたが共感するアーティストはいますか?

マーク:イギリスにOctavianという素晴らしいラッパーがいる。彼は3、4年ホームレスだったんだけど、素晴らしい作品を次々と出している。あとは、ハンズというアーティストがいて。昔はゲットーテックと呼んでいたんだけど、マイアミ・ベースっていうのか、いま、ベース・ミュージックがまた面白い。あとブリストルも、いまでも自分の誇りだ。友人がバンクシーと仲が良くて彼についての本を書いたんだけど、当時初めてマーク・スチュワート+マフィアでブリストルでライヴをやったことは、ブリストル・シーンが生まれるきっかけになった。このアルバムはバンクシーがいちばん好きなアルバムだし、ダディーGのお気に入りでもある。
 いまのブリストル・シーンも、Giant SwanやKahn、Young Echo Collectiveといった若手が素晴らしい作品を出しているのがとても嬉しい。あの街の何かがそうさせるのだろう。いつの時代も刺激的だ。いま世界中で起きているポスト・パンク・リヴァイヴァルのお陰もあって、若手のアーティストが、我々が当時やっていたのと同じような実験を無邪気にやっている。フリー・ジャズやダブ・レゲエを、いまは機材もすごく進化していて、ブーティー・ベース・サウンドといったいまならでの音と融合させていて、当時我々がやっていたのと同じような精神で変形が生まれる。彼らにとって『ラーニング・トゥ〜』を聴くことは、例えば我々がサン・ラーを聴いてた感覚に近いのだろう。彼らの創造の泉の源泉になれることは嬉しい限りだ。

ブレグジットをめぐる議論が白熱していますが、いったいどうなのか誰にもわからないのが現状だと思いますが、あなたはどうなって欲しいと思っていますか?

マーク:ひと言で答えられるものではない。政治の話題を取り上げるのであれば、答えはマーク・フィッシャーの著書くらい長くなる覚悟が必要だ。問題は、みんなが本質を見失っていることだ。ニュースはこの話題をばかりを取り上げているが、肝心なことが議論されていない。本当に何が起きているのか、俺にもわからないし、誰にもわかっていない。しかも、今後の経済の動向を予測して金儲けをしている連中もいるそうだ。一体どうなっているんだか。俺自身は「◯◯反対」とか「△△反対」という明確な姿勢をとっていない。でも、みんながこれまでにない形で政治に関心を寄せていることは興味深い。
 もし受け入れられない意見に直面したとき、必要なのは対話だ。昔パブでつるんでいた頃を思い出すと、友人のなかにはスキンヘッドになって馬鹿げた活動をしはじめた奴らもいた。右翼で暴力的なこともした。でもブリストルは小さい街だからパブの数も限られている。彼らにしても、夜遊びに行く場所といったら、ブラック・ミュージックを流している店に来て踊るしかなかった。ただ無視するのではなく、対話が重要だ。俺は親戚ともちゃんと話をする。母方の家族は普通のワーキングクラスのブリストル人たちだ。みんな違う意見を持っている。それぞれが自分の考えを示して対話ができれば、その対話を通じて、彼らも自分も何かを学ぶことができる。そうやってコミュニティーはひとつになれるんだ。ただ反対するばかりで「それは間違っている。自分が正しい」としか言わないようだといつまでも溝は埋まらない。そして一般市民は自分たちの声を誰も聞いてくれない、と思ってしまう。
イギリスには根深い階級問題がある。俺がしばらく住んでいたドイツのベルリンにはあまり階級問題がなかった。日本もそうではないだろうか。工場で働く人たちも、それなりの賃金が与えられる。イギリスでは金持ちが労働者をクソみたいに扱う。これは中世の時代にまで遡る。一般労働者、さらには職人たちへのリスペクトがまったくない。いまは少しでも多く賃金を削り取ろうと必死だ。なぜか労働者を下に見ている。でも一概に労働者の方がいいとも限らない。ただ羨ましいと思っているかもしれない。事情はいろいろ入り組んでいる。最悪なのはスケープゴートを見つけ出して責任をすべてなすりつけることだ。それこそが本質を見失っている。
 人は目の前の現実に責任を取らないといけない。俺は敢えて結論を出さないように努めている。今朝のニュースだと、メイ首相は国会で通そうとした法案を棄却された。どうしてそういう話になったのかはわからない。保守党を支持する人たち、労働党を支持する人たちはそれぞれの言い分がある。他の角度からも見てみようと思って新聞の経済欄を見てみると、ポンドが上がっているんだ。市場に投資している人たちは、この混乱に乗じて儲けているんだ。マルコム・マクラーレンがかつての言っていたように「混乱は金になる」んだ。
例えば戦争なんかも、当初国民に伝えられていた理由とはまったく違う背景があったことを20年後に知る。今度のEU離脱の件も20年後に振り返ったときに、まったく違う力が動いていたって明らかになるかもしれない。それが良いとか、悪いとか言っているのではなく、それが現実だって話で、その現実をできるだけ把握して、参加することが大事なんだ。
なかなか面白い時代だと思う。新しい時代を切り開くチャンスであり、新しい取り組み方というのも生まれるだろう。過去ばかり振り返っていても駄目だ。なかには冷戦時代を「良い時代だったと」目を潤ませながら懐かしむ人がいる。理解に苦しむよ。最近書いた曲があって“Forever Now”という曲なんだけど、最低でも「いま」に目を向けて生きる。仏教徒の教えにもあるように。でもできるなら「未来」に目を向けて生きようよ。「未来」を我々の手で築くんだ。だって、「未来」はそこにあるのだから。ジョー・ストラマーの言葉にもある。「未来はまだ書かれていない」って。これが結びだ。

今日はありがとうございました。

マーク:ジャーナリストの彼に伝えてくれ。なかなか良い思想を持っていると。応援してくれてありがとう。マーク(フィッシャー)も感謝しているだろう。

Mansur Brown - ele-king

 ひとりの亡霊が音楽シーンを徘徊している――アンビエントという亡霊が。いや、べつにいまにはじまった話ではないけれど、とりわけ近年はさまざまなジャンルにアンビエント的な発想が浸透していることを改めて実感させられる機会が多い。もちろん一口にアンビエントと言っても、イーノ的なそれだったりレイヴ・カルチャー以降のチルアウトだったり、あるいはグライムのウェイトレスだったりヴェイパーウェイヴだったりといろんな展開のしかたがあるわけで、その亡霊はヒップホップやロックの分野にも、そして当然のようにジャズの領域にも忍び込んでいる。フローティング・ポインツの『Elaenia』(2015年)なんかはその好例だし、そしてこのマンスール・ブラウンのアルバムにもまた同じ亡霊がとり憑いている。

 現在のUKジャズ・ムーヴメントを加速させる契機のひとつとなったユセフ・カマールのアルバム『Black Focus』に参加したことで注目を集めたマンスール・ブラウンは、もともとはトライフォース(Triforce)という当時大学生だった面々が組んだバンドの一員で、そのときの超絶的なギター・プレイが話題となりシーンに浮上してきたギタリストである(トライフォースのアルバム『5ive』もユセフ・カマールとほぼ同時期にリリース)。その後アルファ・ミストやリトル・シムズの作品に客演した彼は、2018年のジャズの流れを決定づけたコンピ『We Out Here』にもトライフォースとして参加、松浦俊夫のアルバムにもフィーチャーされるなど着実に知名度をあげていき、最近ではハーヴィー・サザーランドの新曲に参加したり、まもなくリリースされるスウィンドルの新作にも名を連ねたりと、ますます活躍の場を広げていっている。その勢いに乗って放たれたファースト・ソロ・アルバムがこの『Shiroi』だ。

 ギタリストとしての彼についてはジミ・ヘンドリックスの名がよく引き合いに出されているけれど、本作における彼はそのようなスタイルを抑圧し、静穏な演奏に徹している――とまで言ってしまうと語弊があって、たしかに“Godwilling”や“Flip Up”のようにエレクトリック・ギターの唸りが大いに華を添えている曲もないわけではない。ただ、それ以上にリスナーの耳に突き刺さるのは、アルバム全体を覆うどこまでも幽遠なディレイのほうだろう。それによって生成されるアンビエント的なムードは、たとえば先行シングルとなった“Mashita”によく表れ出ていて、雨音のような具体音とギターの残響とが密やかに重ね合わせられていく様には息を呑まざるをえない。遠くの谷からこだましているかのようであり、逆に窓のすぐ外で奏でられているかのようでもある不思議なエコー、それらが織り成すなんとも幻妖な音色の数々は、どうしたってドゥルッティ・コラムを想起させる。
 冒頭“The Beginning”ではそのディレイが、左右に振り分けられたテープの逆再生音と絡み合うことでサイケデリックな趣を醸し出しているが、他方でベースの動きもおもしろく、独特の拍の強弱が肉体的な躍動感をもたらしてもいる。続く表題曲でも淡いギター・エフェクトとグルーヴィなベースとの対比が強調されていて、低音パートもまたこのアルバムのたいせつな要素であることがわかる。“Back South”や“Simese”などのファンキーなベースはその何よりの証左だし、“Me Up”や“Flip Up”で鳴らされるブロークンビーツ由来のビートも非常に良い効果を生んでいる。ようするに、霧のごとく宙を漂うギター・ディレイとグルーヴィな低音パートとの幸福な出会いこそがこのアルバムの肝であり、「地に足の着いた浮遊感」とでも表現すればいいのか、彼岸へと連れ去られそうになる意識をご機嫌なベースラインがしっかりと此岸に引き止めてくれている。

 2018年はUKジャズの画期として記憶されることになるだろうけれど、そのUKジャズの熱気とアンビエント的なものの浸透とを一手に引き受けたこの『Shiroi』は、どちらの観点から眺めてみても異色の魅力を放っている。こういう作品がぽっと生み落とされるからこそムーヴメントはおもしろいのだ。マンスール・ブラウン、しばらくは彼の動向から目が離せそうにない。

編集後記 (2018年12月28日) - ele-king

 年間ベスト・アルバムを選ぶ作業は面白いには面白いが、正直なところ、ある種の罪悪感もある。作品の順列を付けることにではない。音楽を聴くという体験はその年の作品に限られることではないし、さいしょに聴いたときは好きになれなかったけれど、2年後には気に入ってしまったという作品だってある(その逆もある。そのときは良いと思っても2年後には売りたくなるような作品)。
 また、音楽を聴くという体験は商品として流通している“もの”だけに限定されることでもない。年間ベスト・アルバムでは語られないことのほうが重要だったということは、個人単位ではおうおうにしてある(そのことは紙エレvol.23のコラム原稿を読んでいただいてもわかる)。先日、コリーンのインタヴューを掲載したのも、彼女が2017年に発表したアルバムは、ぼくにとっては2018年も聴き続けた作品であって、聴いた回数でいえばもっとも多いかもしれない作品だった。リスナーにも文化がある。重要なのは音楽を聴くという体験=行為であって、それから引き起こされることの意味について考えてみることだ。
 こういう話はめんどうくさいし、めんどうくさい現実から逃れたいから音楽を聴いているんだという反論なら死ぬほど浴びてきた。が、めんどうくさい現実から逃れるのだけが目的であればカラオケでもハロウィーンでもゲームでも代替可能な、ほかの多くの娯楽と並列されるべき“もの”ということになる。自分も若い頃はテクノでぶっ飛んで踊っていた人間のひとりなので、バカ騒ぎは大好きだ。が、ただそれだけならほかにも選択肢はある。
 結局のところ、ぼくが音楽(それを聴いて書くこと)にこだわっているのは、音楽とはたんに耳に流し込む砂糖菓子ないしはアルコールさもなければドラッグのカクテルではないと考えているからだろう。誤解してほしくないのは、ぼくは耳に流し込むアルコールさもなければドラッグ・カクテルとしての音楽を、まあいまはそれほどでもないけれど、ほんの10年前までは本当に好きだった。だからというわけではないが、決して否定はしない。しかしこの価値観が万能ではないことは、たとえばジョン・ケージの“4分33秒”を曲として認めるひとには説明不要だろうし、逆説的な話だが、ドラッグのカクテルとしての音楽のもっともハードコアな形態すなわちレイヴ・カルチャーを体験しなかったら、ぼくの場合は、社会や政治への関心もいまほど高くはなかったと思う。
 音楽を聴き続けることによって、自慢するほどではないけれど少なからず教養を得てきたと思うし、考えるということの契機を与えられてきているのはたしかだ。音楽メディアの役割もぼくはそこにあると思っている(マウンティングすることではない)。24時間テクノで踊ってもそこに意味はないし言葉があるわけではないという意見に対して、ぼくはそこにも意味と言葉があると思っている。作品は作者の奴隷ではないし、作品を聴くという行為もまたクリエイティヴになりえるはずだ。そうでなければ音楽は文化としての強度を失うだろう。

 さて、唐突ながら、ここで2019年1月に刊行される3冊の単行本の紹介をさせていただきたい。
 まず1月9日にはマーヴィン・リン著(島田陽子訳)の『レディオヘッド/キッドA』。著者はアメリカのオンライン・マガジン『タイニー・ミックス・テープス』の編集長。2013年にele-kingで取材しているひとである。ヴェイパーウェイヴが好きなひとは特別な感情をいだいているメディアかもしれない。パフュームから食品まつりまで、日本の音楽にも積極的にアプローチしているメディアとしても知られている。それはともかく、『レディオヘッド/キッドA』は、音楽を聴くこととはいったいなんなのかという大きな命題にも立ち向かっている本で、ここまでぼくが書いてきたことともリンクするが、著者はより複数のレイヤーをもって『キッドA』について考えている。
 ちなみに同書のなかに次のような一節がある。
 「僕らの好みの中枢というのは、文脈を解き明かすことよりも、聴きながらその体験を深めるために選んだ(無意識の場合もある)価値観に左右されるのだから、時間が魔法の杖を振るったおかげで安全になった枝の上にちょこんと止まって、「なあ、みんなすっかり勘違いしていたんだ、あれはいい音楽だったじゃないか」と言うのは簡単だ。なぜならその視点は対象の音楽が置かれた元の文脈からすでに遠くに隔てられ、それぞれがどんな形で取り組もうと、頭の中で簡単にその文化的位置づけを改められるのだから。そう、どんな形式の音楽だって僕らは「楽しむ」ことができる。とりわけ歴史が政治的、美的にとんがった部分を丸くしてくれたあと(あるいは社会経験を積んだ結果そういうエッジが見えなくなった時)なら、ますます楽しめるだろう」
 昨今でいえばニューエイジ・リヴァイヴァルなどはその典型だ。文化的位置づけに関していえば、ニューエイジはいま旬な砂糖菓子といったところだろう。数年前のヴェイパーウェイヴにおけるミューザックもそうだし、1980年代では『RE/Search』という雑誌による「Incredibly Strange Music」特集もそうだ。60年代の他愛もないカクテル音楽をあらたな文脈で捉え直すこと、ザ・ケアテイカーによる1930年代の78回転盤のソフト・クラシックやジャズのサンプリング・ループもそうした試みである。来年そうそうにはライターの柴崎祐二がいま日本で起きているこうした音楽の読み替えによる文化のあらたなる、活気づいているボトムについてのコラムを書くことになっているのでお楽しみに。
 1月にはほかに、23日に松村正人の『前衛音楽入門』も刊行することになっている。磯部涼の『川崎』ではないが、音楽は地理的/社会的アイデンティティと結びつくことによって意味を成すことがおうおうにしてある。社会学はいまだに音楽を語るうえで多々用いられている。しかしながら、とうぜんのごとく社会学的でも砂糖菓子でもない音楽も存在する。いま現在ぼくたちは「アヴァンギャルド」「実験的」という言葉を、曖昧な意味(耳慣れなさ、ハーモニーの拒否、複雑、破壊的、ノイズ、とっつきづらいetc)で使っている。ジム・オルークは今年ele-kingで掲載したインタヴューで、「私は音楽を楽しみのために作っているわけではありません」と言い切っているが、『前衛音楽入門』とは社会学でも砂糖菓子でもない西洋の音楽の、複雑であり続けた歴史だ(もちろん、その複雑さが反転してミニマルへと発展したし、社会学的な説明だってできるだろう。たとえばシュトックハウゼンはアカデミシャンだがケージは在野であるとか、皮肉なことにパリ万博という資本主義の大波がサティにガムランを教えたとか)。
 西洋音楽が世界の音楽のなかでもとりわけ優秀であるという根拠はないし、むしろ西洋的な評価基準から離れることは大切だと思うが、西洋音楽がもっとも議論を重ねてきた音楽であることは事実だ。『前衛音楽入門』は、20世紀におけるその議論と結実の軌跡を描いている。
 ビートルズの『ホワイト・アルバム』の“レヴォリューション#9”を聴いて、最初は「なんてクソなんだろう」と思っていたのに、数年後には「これってじつは面白いんじゃないか」と思えてきたという経験を持っているひとは少なくないだろう。明らかにある種の音楽はぼくたちの感性を拡張するし、拡張することは悦びであり、それはきわめて音楽的な体験のひとつである。
 ましてや21世紀における前衛音楽〜実験音楽の遺産が、学究肌のための音楽ではなくなっていることは、エレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにはわかる話だろう。誰もがかんたんにロバート・アシュレーを聴けることはポジティヴなことだろうし、音のカットアップなら、なんでもかんでもミュジーク・コンクレートと書いてしまうことも、まあニュアンスは伝わるから良いとしよう。現代音楽用語は氾濫しているし、シニカルにいえばちょっと利口そうに見られたいひとが乱用する。だからこそ(ぼくたちがブラック・ミュージックやロックンロールについて知っているのと同じように)知っておきたい歴史があるし、だれかの有名な言葉のように、歴史を知らずしてどうして前に進めるのかということだ。そもそも松村正人はアカデミシャンではなく、ひとりの在野の書き手であり、彼のような人間が「前衛音楽」について書くという行為そのものが21世紀的であるといえる。

 1月31日には、マーク・フィッシャー著(五井健太郎訳)の『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑存論、失われた未来』を刊行する(予定)。『資本主義リアリズム』の著者の、生前のこした3冊のうちの1冊で、もっとも音楽について書かれているのがこの本である。「いつから時間は止まったのか」、そして21世紀がなぜ幽霊たちの時代なのか……。ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』を活用しながら繰り広げるまったく素晴らしい「トリッキー論」「ジョイ・ディヴィジョン論」そしてBurialやザ・ケアテイカーのインタヴュー原稿もある。人文系の読者のためにぼくと坂本麻里子で註釈を加えて、さらに髙橋勇人に解説も書いてもらっている(現時点では未着)。

 「かつてないほどにいまこそジョイ・ディヴィジョンが問題になるのだとしたら、それは彼らが、われわれの時代の憂鬱な精神をとらえていたからにほかならない。いまJDを聴いてみると、このグループはわれわれの現在を、つまり彼らの未来にあたるものを、そのカタトニー的な症状をとおして伝えているのだという、そうした逃れがたい印象を受けるはずである。最初から彼らの作品は、ひとつの深い予兆に覆われていた。つまり未来は閉ざされ、あらゆる確かさは消滅し、向かう先にはただ暗澹たるものが広がるばかりなのだという感覚に覆われていた」(同書より)

 いまのような世知辛い時代に、よほど恵まれているひとでもない限り、2000円以上の出費にはそれなりの覚悟がいることは重々承知している。いま挙げた3冊は、少なくとも1日で読み終えてしまう500円の雑誌とは違って、まあ、1ヶ月以上は楽しめる中身の濃い本ではあることは自負できるけれど、3冊すべてを買うとなると5千円はゆうに超える。ただ、しつこいけれど、リスナー人生において大きなインスピレーションを与える本でもあるので、いつかは3冊とも読んでいただけたらとは思う。
 しかしね……、まずはなによりも、2019年もなんとかサヴァイヴすることが重要だよね。いっしょにがんばりましょう。なんとかね。

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Northan Soul - ele-king

 素晴らしい。あの『ノーザン・ソウル』(https://www.ele-king.net/news/005958/)の一般上映が決定しました。2/9(土)より、新宿シネマカリテ、神戸・元町映画館ほかで劇場公開。ちょうど1年前、最初に自主上映したAfter School Cinema Clubさんに拍手です。

 もういちど繰り返しましょうか。『さらば青春の光』、『ビギナーズ』、『トレインスポッティング』、『24アワー・パーティ・ピープル』、『THIS IS ENGLAND』……あるいはまた、レイヴ・カルチャー、DJカルチャー、ダンス・ミュージック、レア・グルーヴ、週末若者たちが勝手に集まること、労働者階級とアンダーグラウンド……上記のなかで2つ以上が好きなひとは必見。3つ以上あるひとは2回以上観る必要があります。

 『ノーザン・ソウル』は70年代のさびれた地方都市の労働者階級が創造したレイヴ・カルチャーの青写真を描いた映画で、ダンス・ミュージック史における最大のミステリーと言われた“ノーザン・ソウル”とは何だったのかを知ることができるます。ソフト・セルがなぜ“テインティッド・ラヴ”のようなソウルの王道ではヒットしなかった曲をカヴァーしたのかもわかります。映画のエンディング・クレジットのスペシャルサンクスのなかにニール・ラシュトンの名前もありました。誰かわかりますか? デリック・メイの最初のマネージャーで、デトロイト・テクノをUKにもっとも紹介した人物=ノーザン・ソウルのDJです。
 最後にノーザン・ソウルに関するもっとも有名な言葉を引用しておきます。

 ノーザン・ソウルはドラッグを燃料とした労働者階級を魅惑するユース・カルチャーとして存在していた。ハウスと違ってそれは決して産業にコントロールされることはなかったし、音楽業界はその存在すら知らなかった。ノーザン・ソウルは真の意味でほぼパーフェクトなまでにアンダーグランドだった。 ──ジョン・マックレディ

Kode9 & Burial - ele-king

 たぶんその解釈は正しい。スポンサー付きの牙を抜かれたレイヴからは死んでも見えないところ。ぼくは見ている。1992年にその場所にいたから。いまは亡きもの、思い出として。だが、その場にいなかったひとたちも想像して継承する。多少オリジナルとは別モノになろうが、時間を経ている分、文化としての辛酸も舐めている分、より本質を際立たせることができるかもしれない。よりコントラストは上がるだろう。ベリアルがまさにそうだった。その解釈はある意味正しい。Jungle Buddhaによる初期ハードコア・ジャングル、“Drug Me”がドロップされるとき、ぼくはこのミックスCDが意図するところを理解したし、ぼくの記憶も巻き戻しされる。
 たとえばゴールディーの『タイムレス』というアルバムがある。ジャングル(ドラムンベース)の最高潮の瞬間を祝福するものとしてのあまたの賞賛によって見えづらくなっているが、この作品は光よりも影が多いアルバムだ。じつは暗い作品で、ジャングルが初期から抱えている拭いがたい暗さを継承しているアルバムだ。
 1992年〜1993年の時点で、ジャングルのシーンはメディから見下されていた。クラブ系メディアがちやほやしていたのはバレアリック/プログレッシヴ・ハウスのシーンだった。やたらハードで、やたらラガで、しかもダークで、洗練とはほど遠いジャングルはせいぜい警察の天敵になるのが関の山だった。“Drug Me”という曲は、まあ曲名も曲名だが、いわゆるパーティ・ピープルも真っ青な、ジャングルにおけるもっともダークな部分が露呈したトラックだ。そしてこれをいまあらためて聴くとベリアルの原型であることがわかる。

 極論を言えば、クラインもオーケーザープもフットワークも、あるいはなぜか2曲も入っているルーク・スレイターも、このミックスCDにおいてはツマミのようなものだろう。後半には、(三田格が大好きだった)Friends, Lovers & Familyによる“The Lift”というトラックが待っている。まだイリーガルなアンダーグラウンド・レイヴが生きていた時代のテクノ系ブレイクーツのヒット・シングルのB面曲だ。そのトラックの後には、BPMのピッチ合わせなどクソ食らえとでも言わんばかりの強引なぶっ込みでミックスされるAK1200によるラガ・ジャングル、ディジタルのリミックスによる戦闘的なハードコア・ヴァージョンが待っている。
 それでいい。そこはスマートなハウスがかかる小綺麗なクラブなんかじゃない。DJもMCもダンサーもレイヴァーも、そこにいるほぼ全員がすでに時間の感覚を失っているのだ。彼らは週末が待ち遠しいのではなく、週末という概念などなくなってしまえと思っている。
 このCDには、全体的にチリノイズがかかっている。中古レコードの目安で言えば、VGクラスのノイズ。あたかも古く亡霊じみた風景を想起させるかのようだし、これが現在ではないことを強調しているかのようだ。これがかつてあったものであること、これが録音物であること、絶対的に現在ではないということ。その果てしないメランコリー。まさにベリアルの音楽。あるいはまた、ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』、サイモン・レイノルズの「レトロマニア」、マーク・フィッシャーの「ホーントロジー(憑在論)」……日本盤のライナーは髙橋勇人だし。

 ドクター・フーでも007でもなんでも、トニ・ブレア以降のロンドンの風景、とくにテムズ川沿い、とくにロンドン・ブリッヂのあたりの風景を映画で見る度に、ぼくはいまも悲しみで涙を抑えきれない。90年代初頭、とめどくな広がるレイヴ・カルチャーを鎮圧させるために、ときの政府は軍の力も借りたし、法律さえも改変した。が、レイヴ・カルチャーを本当に終わらせたのは戦車でも法でもなかった。都市の高級化(ジェントリフィケーション)という経済政策によって、都市における社会主義的空間は一掃されたのだった。かつて人気のなかった倉庫街にはイタリアンレストランや洒落たカフェが並んでいる。スクオッターや犬を連れたヒッピー・アナキストの姿は見事に街から消えたし、多くのひとが居場所を失ったことだろう。
 これと同じことが、ぼくが90年代後半に暮らしていた代官山というエリアでも起きている。ある時期までの代官山には、七尾旅人がいうところのおじいちゃんおばあちゃんのコミュニティがあり、銭湯もあった。売れない芸術家や活動家も住んでいた。が、21世紀に入って、東京もロンドンを追いかけるように都市の高級化に向かい、やがてあたりは一変した。住む人も店も街並みもすべてが激しく変えられた。そして途方もなく大きな何かが失われた。メランコリーの根源はこの喪失にある。音楽は予言的であるという、ジャック・アタリの有名な科白にならって言えば、ダークコア・ジャングルほど来るべきメランコリーを激しく直観していた音楽もそうそうない。

 これはリリース前にからニュースになっていたコード9とベリアルのふたりによるミックスCD。Fabricの100番目のリリースを飾るに申し分のない配役であるどころか、いわばメタ・レイヴ・カルチャー・ミュージックという観点からも興味深い1枚である。というか、まさに焦点はそこでしかない。それは、ある時期を境にあまり語られなくなった初期ジャングルのむき出しのダークさにある。ふたりはその亡霊をいまここに展開しているというわけだ。

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