Home > Reviews > Live Reviews > バクバクドキン、下津光史、カタコト、LOWPASS- @下北沢 THREE
各自やりたいことをやりたいだけやるように、ハイ、解散。......からはじまる林間学校と言えばいいだろうか。この日の〈THREE〉には、ショウの緊張感に並んで自由な雰囲気やくつろぎやすさがあった。
ゆるいとか締まりがないとかいうことではない。個性も属性もバラバラだけれども、ミュージシャンという制服を着ないという点では一致するような、未知数で、若く、貪欲な表現スタイルを持った面々が集まっている。そういう空気やエネルギーを浴びる場所だというふうにも思えた。到着して重い扉を開けるとバクバクドキンの可愛らしい声が絡みついてくる。ここからLOWPASSまで繋ごうというのだから、おそらく今日のイヴェントに予定調和はない。ジャンルに縛られることもないし、バラバラなファン層が乗り入れているから閉鎖性もない。快適なぼっち観覧が期待できそうだった。やる側同様、聴く側も自由解散スタンスだ。その意味ではクラブのようでもあり、ライヴ・イヴェントに独特の風通しを生んでいたと思う。
前座のバクバクドキンは初見。ダボ着したTシャツから素足を出し、機材机の向こうで棒立ちをきめる女子二人組だ。DJフミヤが手掛けたという2010年のデビュー作はハルカリなどに比較されていたが、たとえば花澤香菜がCSSをやったらと言えばイメージしてもらえるだろうか、萌えヴォイスと聴きやすくしたバイレファンキ、ポップでキュートな音使い、詩的な飛躍の強い言葉をリフレインするさまには、ちょっと古風ではあるが、「青文字」という言葉が生まれる遥か以前から脈々とつづく、メタで知的な(もちろん無知を装う)女子ポップの一類型が感じられた。
かなり場慣れた様子もある。ピコピコ、ザワザワ、ララララという擬音や、「改造人間になりたい」「グッピーちょうだい」という"お願い系リフレイン"を散りばめながら、まよいなくわがままでファンシーな世界を立ち上げていく。このイヴェント出演にあたっては、カタコトやLOWPASSの前座ということもあって、彼女たちなりの「ヒップホップ的な」セットリストを意識したという。筆者の前にいた当のB・ボーイたちは、ときどきちょっと小馬鹿にするような身振りで笑いあったりしていたが、あれはたぶんバカにしていたというよりも、照れていたんじゃないだろうか。カワイイ女子から発せられるカワイイ声、そして気のきいたトラック(クラウドラップ風、ネオアコ風、EDM風、さまざまな"風"がコンパクトにまとめられていた)で巧妙にコーティングされた媚態の正体を、まっすぐ見ることができなかった、というような。ということは彼女たちの勝ちかもしれない。MCでは今回のショウについて「あたしたちヒップホップの人たちじゃないから照れくさい」と感想。なるほど余裕綽々である。LOWPASSのライヴで毎度必ずキレて抗議する人がいるが(そしてこの日も鮮やかにキレていたが)、もしあの人が観ておられたなら、バクバクドキンにキレるのもよかったかもしれない。
カワイさに敬意を表して『アイドルマスター シンデレラガールズ』に興じながら次を待っていると、下津光史は毎度のごとくふらりとステージに姿を現した。どこからかやってきてどこへともなく消えていくという風体。本物の風来坊に見える。ダテでもパロディでもなく、彼の生き方や生活がそのままこのスタイルなのだろうと感じさせる。
「いい夜だ」と、真意のつかめない表情で夜を祝うのもいつものとおり。下津光史の歌をはじめるためには、まずいい夜が必要なのかもしれない。
ギターが鳴って歌がはじまると、オーディエンスや場の雰囲気はなんとなく車座のようになっていく。以前〈渋谷7th FLOOR〉で観た折に、開演後オーディエンスが自然にその場に座りはじめたことがあった。そのとき、そうか、下津光史は座って囲んで聴くものなのかもと妙に納得したのを覚えている。観せているのではなくて、文字通り、聴かせているのだ。よってわれわれも体育座りをして、直に弦の軋みを聴きとり、直に言葉を受け取る、本来そういう規模の演奏なのではないか。その彼の辻説法のようなフォーク・スタイルは、四畳半の自意識や社会的抗議をリプリゼントするものというよりは、まさに辻や往来の無意識を拾う艶歌であり民衆歌のように感じられる。それに、"踊ってはいけない"や"セシウム"も、国や特定の対象へ向けたメッセージとしてだけとらえると正確さを欠く。それは生まれてきたからには生きなければいけない、生きよう、という、もっと普遍的で根源的なことを喉とコードを使って歌いきる、ふるえるようなブルーズだ。もちろんどちらがいいとかわるいとか言うのではない。下津にとっての歌や音楽がどのようなものなのか、ライヴを観るととてもよくわかるということだ。シンプルなスタイルだが、それだけ圧倒的な情報量を持っている。
ショウを作っていくのではなくて、やったことがショウになっていく。その点では、カタコトも油断ならない存在感を放っている。
紙版『ele-king vol.10』にも登場してもらった謎の男、ドラゴンと仲間たちが繰り広げる、何というのだろう、セッション・アドベンチャーというか(言い方ダサくてすみません)。ヘドバンを決めさせられるラップ・グループ、ラップを聞かされるサイケデリック・ファンク・バンド、何と呼んでも隔靴掻痒、めいめいのやりたいことをやりたいだけやるというようなキメラなフォームの楽曲(セッション)は、ジャンルレスというむずがゆい言葉を遠く置き去りにしていた。
既視感のなさ、というのはそれだけでものすごく価値のあるものだと思う。よくできたものではなく、何かおもしろいものを見たいという人にはカタコトをおすすめしたい。新しい音楽があるわけではないけれども、既視感もない。見たことのないものをやる男子たちを久しぶりに見た。それは彼らに見たことのないものをやろうという意志があることを示している。
ラップがあって、メタルがあって、ビートはファンクで、と書くとミクスチャーやラウドといった印象になってしまうが、ジャズのサンプリングなどネタも幅広く、かつ急転直下の展開でスラッシュがはじまったりハードコアになったり、ポップ・パンク調の歌やポスト・パンクやサッドコアまでがぶつ切れにはさまったりする。
ジャンクという感覚とも違う。人力のMADというか、ラップをやりたい人、ギター・リフをギンギンにきめたい人、シンコペートしたい人、カットアップの構築にかまける人、フリースタイルを披露する人、互いの抑制や調和よりも、それを直列つなぎしたときのエネルギー量を信じるような、痛快にしてスリリングなアンサンブルだ。そうしたところに突如「まだ夏じゃない」という叙情と微量のメランコリーが忍び込んでくるところもにくい。ひとつひとつがまだ発展途上の技量であり未知数でありながら、それがきちんとかたちになっているところもいいなと思う。メンバーのそれぞれが、そのセッション冒険譚の少年主人公のようにも見えてくる。
それも、友情、努力、勝利のカードをひとつずつ裏返しに伏せていくような、悪くて不気味な主人公たちだ。なにせ「夜は墓場でヒップホップ」なのだ。ドラゴンのTシャツには足の切れたいやなチキンが描かれている。福田哲丸は「みんなもっと不安になったほうがイイよ」とMC。"夜の学校"というのは曲名だっただろうか......まさに夜の学校を舞台にした、妖怪たちの宴である。なるほどこの不完全形で異形のヒップホップは、鬼太郎のように片目がなかったり、あるいはその親父のように目だけだったりする、欠損や負のエネルギーを抱えつつもどこかコミカルな妖怪たちのイメージよってしっくりと視覚化される。「俺たちがブライテスト・ホープだぜ」という謎のボースティング(?)が線香の煙のように立ち昇っていった。
一方で「朝から晩まできみの部屋で遊んでいるよ」というような言語センスも素晴らしい。妖怪シチュエーションにも思えてくるが、繊細な語の選択と配置によって、主体の不鮮明な意図が最大限に気味悪く、かつ詩的に増幅されている。一瞬でビリっと空気を異化する、印象深いフレーズだ。
ヒップホップのシーンにもインディ・ロックのシーンにも加わりきらない、本当にマージナルな場所から聴こえてくる音として(「マージナル」で連想されるものは、大抵がすでにマージナルな場所にはない)、奇妙な緊張感を湛えるバンドである。アルバムも期待したい。
さて、ちょっと書きすぎてしまったのと、筆者ではこのシーンの新しい牽引者を語るのに役不足だという理由から、LOWPASSについては詳述できないけれども、彼らがスタイルという点ではこの日最も洗練された存在であり、静かな迫力があったのは間違いない。洒落たセンスのトラックに、日常会話と変わらないトーンでスキルフルなラップが乗る。「USヒップホップを貪欲に吸収」といった紹介がよくなされているけれども、なるほど輸入盤を聴くような抑揚を持つ彼らの音楽は、「ヒップホップだし言葉を聞かなきゃいけない」という筆者のような門外漢のオブセッションをするすると解いてくれる。聴いていればいいんだ、音に身を委ねていればいいんだ、という開放感は、彼らにしてみれば本意ではないかもしれないけれども、少なくとも何も知らずにただ音を楽しみにきた人間を拒まない、特筆すべき性質だと思った。
耳をこじ開けることばかりが正解ではない。GIVVNの軽く静かなステップを眺めながら、このスマートさはジャンルを超えて散見される、若手の特徴のひとつでもあるように感じられた。押し付けないし、押し付けられない。拒絶することなく個を保つには、あるいはストイシズムにしばられることなく個を確立するには、という全方位にやわらかいぼっちのマナーが、あるいは彼らの生み出す音のなかにも吸収されているものなのかもしれない。
文:橋元優歩