Home > Reviews > Album Reviews > 古池寿浩- 井の中の蛙
松葉色の味わい深いくすみが路辺に生きる雑草を思わせる紙ケースの片隅に、井の字をあしらった切り抜きが拵えられている。そこからは生まれ落ちて成育し、楽器を手にして次の世代を残す蛙の姿の、延々とつづく生命の循環の一コマが顔を覗かせており、盤面を回転させることによって、そのサイクルを辿っていくことができるようになっている。書籍の装幀などを手掛けてきた谷田幸によるこの小粋な容れ物に収められているのは、トロンボーン奏者の古池寿浩による初のソロ・アルバムとなる『井の中の蛙』である。
1974年生まれの古池は、いわゆる音響的即興を活動の中心に据えつつも、渋さ知らズや藤井郷子オーケストラ、宇波拓率いるHOSEなどでも活躍し、元コンポステラの中尾勘二と関島岳郎とともに組んだバンド・ふいごにおいては、今年で結成15周年を迎えるという手練れである。その苗字から連想される芭蕉の名句を体現するかのような音楽は、しかし自然を模すことによって生み出されたものというよりも、彼のトロンボーンに対する飽くなき探究心が、偶然にもその音色と交差していく様子を聴き取ることができるようなものとなっている。
欧州に滞在した経験もある古池は、彼の地では日常的に行われているという自宅コンサートを、ここ日本において定期的に開催してきた。極小の空間で奏者と聴者の親密な関係性のもとに行われるライヴは、音量を抑えなければならないという物理的な制約も手伝って、微弱な音の中にある豊穣な音楽を紡ぎ出すという、音響的アプローチが中心となった試みである。その企てを発展させるかたちで大崎〈l-e〉において月に一度のペースで開催してきたイヴェント〈井の中の蛙〉の、本盤は集大成であるといってもよいだろう。お玉杓子(オタマジャクシ)、鳴嚢(鳴き袋)、黒斑紋(トノサマガエルなどにみられる模様)、蟾酥(ヒキガエルから抽出される生薬)、それに森青やオットン(ともに日本固有の蛙の名称)といったように、すべての曲名が蛙と関連づけられており、その音色もどこかこの生き物を思わせるものである。しかし一度そうした連想を断ち切って響きに沈潜してみれば、はたして本当にトロンボーンひとつによるものなのかと驚くほどに、多様な音を聴き取ることができる。引き延ばされた一音から湧き出る粒子状の音、抑制されたホワイトノイズ、打楽のような破裂音、あるいはモンゴルの伝統的歌唱法であるホーミーにも似た重音奏法による旋律。
それはわたしたちがふだん、奏されるものとしてのこの金管楽器に潜在する音を、まるで聴き逃しながら接しているということに対する気づきとも言い換えられる。雑音/楽音の境界線は、知的には切り崩されていようとも、西洋音楽の規範を内面化して生きざるを得ないこの国にあっては、いまだに人々の奥深くに居座りつづけている。トロンボーンを吹くということが、単旋律を奏でるという意味で即座に解されることへの驚きのなさ。であればこそ、こうした試みには、過ぎ去った潮流の残り香として無視してしまってはならない現在的な価値があると言えるのだ。だが古池はさらに特異な歩を進めている。圧し殺された楽器の声が、奏者の全身を賭して掬い上げられるとき、すなわち気息が関与することで奏するものと奏されるものが一体となった音楽が生み出されるとき、それがわたしたちの記憶の底に埋れた響きと重なり合う瞬間がおとずれる。ここに散乱する表題が生きてくる。環境的な音に具体的なかたちがあらかじめ呈示されていることによって、わたしたちはほとんど奇跡としか呼びようのないトロンボーンと蛙の邂逅に立ち会うこととなる。それは大海を知らぬ井の中の蛙が、されど空の高さを知るようにして、トロンボーンという固有の道具から無限の想像力を引き出すことに成功している。
細田成嗣