Home > Interviews > interview with Seiho - ピクセルを切り裂いて
「去年どんなアルバムがよかった?」と話したときに、みんな2013年の12月に出たものを挙げたことがあって。それはつまりみんな2年くらい新譜を聴いていないってことかと(笑)。それから同じ世代の間で空気がボヤッとして止まっているように思えたところがありました。
![]() Seiho Collapse Leaving Records/ビート |
■ライヴを「動」とすると、こちらは「静」なわけだけど、俺はセイホー君のライヴがすげーと思ったんだよね。あの、30秒と同じループが続かないスピーディーな展開、デジタル時代のスラップスティックというか、すっごい新しいと思ったんだよね。
ちょうどセイホー君が脚光を浴びた頃は、ヴェイパーウェイヴとかシーパンクとか、新しいキーワードも一緒に出てきたでしょ。初期のジャム・シティみたいなベース・ミュージックも更新されたり、いろんなところで新しい動きが見えたときでもあった。そういうなかにあって、セイホー君がライヴで繰り広げるときの素速い展開って、インターネットの画面をどんどんクリックする感覚と重なるんだよね。すごい情報量が流れているというか。
S:上の世代から情報が多いって言われるんですけど。でもトーフ君とかまわりの人たちと話していると、情報が多いやつらはもっといるんです(笑)。情報量を多くした意図はないんですけどね。
■なんていうかな、ここに情報過剰の竜巻があるとしたら、それを切り刻んでコントロールしているような音のイメージがあって。
S:そこは意識しているかな。サンプリングするにあたっても、食材の切り方よりも、食材をどう選ぶかって行為の方を重視しているっていうか。切るという行為に僕はフェティッシュをあんまり感じなくて。僕の選び方って文脈から外れているんですよ。サンプリングって脈絡を大事にするじゃないですか? でもそれはどうでもよくて、なんでそれを僕が選んだかが重要なんですよね。聴き心地とかフェチな部分で音を選んでいるんですけど、それが羅列されるので情報量が多いように聴こえるのかな。
■展開の速さが情報量を彷彿させるんじゃないかな。曲で展開するって、じょじょに上がっていくとか、最初には白だったのに気がついたら赤になっていたとか、そういう言い方があるとしたら、セイホー君の場合は、白が来たと思ったらいきなり三角に展開するとか。そこにカタルシスがあるじゃない?
S:僕は音楽を作るときに頭に浮かぶヴィジュアルを参考にすることが多いですね。カメラの長回しは好きなのですが、ストーリーに沿った時間軸の組み立てに興味が無く、無駄な長回しや、ストーリーと関係ないカットが好きです。
■そうでしょ。その感じは思い切り出ているよね。
S:たとえばSF小説を読んでいても、人の話を聞いていても、話の内容がまったく頭に入ってこない。でもラストのひとことで、理解はできないけど感動できる瞬間ってあるんです。それは『裸のランチ』みたいなビート文学を読んでいても、僕は同じ感覚があるんです。カットアップですよね。それが意味もなくチョップされているわけではなくて、その作者の選択によって切り刻まれることによってすべて経験したら、作者と似たような感情が芽生えてしまう、みたいな。
■なりほどね。ぼくは、圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにしているんでね、本当に頭のなかが真っ白になるようなライヴだったんで。しかし、毎回あのテンションでライヴを続けるのもたいへんだよね。しかも、「新世代代表でセイホー」みたいなブッキングも多かったと思うし、「なんで俺はここにいるんだろう?」って思ったりもしたんじゃない?
S:あります(笑)。でも僕の場合は外に出ていないと自分の家に帰れないんですよね。
■イベントに出まくってもストレスはなかった?
S:ないです。僕の場合、(ライヴを終えて)家に帰ってくる道が楽しいんですよ。崎陽軒のシュウマイ弁当を買って新幹線で食うっていう(笑)。帰ることによって、自分が来た場所を認識できるじゃないですか? ぼくが拠点を東京に移さないのも、大阪から来ているという点をみんなが見てくれているからで。自分がどこから来ているかはすごく大事なことですね。
■じゃあ、とくに今回は、ライヴを終えたときの感覚が出ているのかな。しつこいけど、ライヴの激しさを残してほしかった気も正直あるなぁ。
S:2013年以降、みんなの高揚感が分岐しちゃったのも大きいんですよね。みんなが共有していた良さがあったのに、それをみんなが見てしまったがゆえにバラバラになってしまって。
■世代の共有意識が分裂していったということ? たとえばトーフビーツが真面目にJポップを目指すようになったのもそういう話なのかな?
S:だと思います。何をしても許される世界にパッと入ったから、何をするかが重要になってしまって。13年、14年は散らばったというよりは、支度をはじめた感じですね。
■あの頃はいくつだったの?
S: 23、24歳のときですね。
■まあ、あの頃が時代の風に乗ってやっていたとしたら、今回は、ある意味では、自分がやりたかったことを自分できちんと見せることができたとも言えるよね?
S:でも僕はこの作品をあまり解釈できていなかったんです。作品が僕の思想や哲学の先を行ってしまっているんです。
■それはたいへんだね(笑)。
S:いままでの作品って、作る前からそこがかなり明確だったんですよ。だから、すでに頭のなかにでき上がっている曲の設計図をコピーするだけだったのが、なぜかわからないけど設計図が渡されていてそれを作っても、やっぱりわからないみたいな(笑)。
■はははは。
S:でもここ2年くらいのものを聴いていると、作品から哲学を教わることも多いんです。1曲目の“Collapse”を作ったときに、僕は人がいない世界を想像していたんですよ。
■それはディストピア?
S:そうだと言えばそうなんですけどね。たとえば、50年後のTwitterを見てみたら何が書いてあるんだろう? みたいな。誰もいないのに広告だけが出続けている状態というか。現実世界では人は誰もがいないのにジュースは配送されているし、自販機でもジュースが買えるし、蛇口をひねれば水も出てくるし……。そういう世界ですよね。単純にわかりやすく説明しちゃいましたが、僕にとって自然現象(雨が降る、水が流れる)と人間社会の現象(商品の配送や、水道、コンビニに人がいて商品を買えるなど)は、両方とも同じ自然現象、事象として捉えていて。人間特有の社会形成も自然現象の一部として考えているんです。
■へー、そういうイメージなんだ。聞かなければ良かった(笑)。
S:はははは。
■それでなぜジャズなの?
S:あれをぼくはジャズという捉え方をしていないんですね。フィールド・レコーディングの音は、自分で録ったものとサウンドライブラリーの映画用の音源とふたつ使っているんです。演奏の方も自分で録ったものとサンプルのものが両方あるんです。これはどっちが良い悪いというわけではなくて、そこがずっとボヤッとしていて。想像のなかで言うと、スピーカーから流れているのか、そこで流れているのか、僕らにとって関係のない世界というか。演奏している人が人間であるかどうかも関係ないというか。そういう要素として、僕のなかでジャズには人の温かみがないんですよ。
■その感覚が面白いよね。ジャズをカットアップして、それがコラージュと言われようがミュジーク・コンクレートと言われようが、そういうコンセプト自体は目新しいことでない。でも曲を聴いたときに「面白い」と思ったんだよね。なんかこう、異次元的な感じがしましたよ。
S:トランペットが宙に浮いて演奏していたら楽しいじゃないですか(笑)。
■はははは、そういう感じあるよね。そうやって音を細かく設計するのには時間がかかるの?
S:全体を作るのはめちゃくちゃ早くて、それを削る作業の方が長いです。
■音数を削っていくということ?
S:音数も、ニュアンスも。例えばジャズでブレスの音が入ると、一瞬で人が吹いてるってわかるわけだから、その音をカットしていく。ピアノもタッチの音がしたら人が弾いているってわかるから、そこを修正していくとうか。逆に人間味のないアナログ・シンセサイザーを、どう人間が演奏しているかのように見せるために削るというか。だから作り方は彫刻を削る作業に似ているんですよね。
■今回は前作よりはいろんな曲が楽しめるじゃない? エイフェックス・ツインにたとえるならポリゴン・ウィンドウっていうかさ。
S:ここ数年であまりにも多くのジャンルが出てきたじゃないですか? それこそヴェイパーウェイヴやシーパンク、〈PC Music〉まわりの音もそうだし、ロウ・ハウスやハウスのリヴァイヴァルも含めて。それを僕らは大喜利的に楽しんでいたんですよ。このお題で自分がどうするか、みたいな。でもいろいろ出まくった結果、自分のなかでそれをひとつ決めるのも楽しくないというか。かといって、その全部から良いとこ取りの音楽を作ろうという気もしなくて、そのときの自分の気持ちに従ったらこうなったというか。ヴァリエーションをつけることが目標だったわけではなくて、いろいろ経由してきたから、結果的にいろんなジャンルが生まれてしまったんです。
■なるほどね。さっき言ったようなコンセプトがある以上、アルバムの曲順は考えられているんだよね? 後半はアブストラクトになっていくもんね。
S:〈Leaving Records〉の要望に合わせたんですけど、ホントは2曲目と3曲目は逆がよかったんですけどね。でもおっしゃるように、曲順も含めて世界を表現したかったですね。
■〈Leaving〉からリリースすることは意識したの?
S:マシュー・デイヴィッドといっしょにツアーを回ったのが2012年なんですが、楽屋裏でマシューがアルバムを作ろうと言ってくれて。そのときは「OK、OK」みたいな(曖昧な)感じで終わったんですけど、その後、僕がオベイ・シティというニューヨークのアーティストとEPを出して、マスタリングをしてもらったのがマシューだったんですけど、そのときに正式にオファーをもらいました。2014年ですね。僕のなかではストップがかかっていたときですね。「どうしようかなぁ。〈Leaving〉のカラーもあるしなぁ……」と思ったままいろいろ作ってました。でも2015年の真ん中ぐらいで、「もしかして、いままで作ってきたものって意外とまとまるんじゃないか?」と気づいたんです。それでこの作品ができたって感じですね。あとは、マシューがハマっているニューエイジ・カルチャーですよね。マシューが考えるヒッピー思想的な部分。
■マシューが考えるヒッピー思想的な部分とセイホー君は全然ちがうんじゃないの?
S:その部分と、僕が思う人がいなくなった世界がミスマッチにリンクする部分があったんです(笑)。
■ほほぉ。
S:僕が思うヒッピーたちって、自分が強いんですよね。キリスト教と対極的だと僕は思っていて。アメリカ人の友だちと話していてわかったんですけど、キリスト教ってひとつの運命というか結末を進むじゃないですか? でもヒッピーの人たちって、偶然の連続のなかに結末を見ていくみたいな。その偶然の連続みたいなものを決断するのは自分自身だから、人間が強くないとああいう思想は持てないなと。
取材:野田努(2016年5月16日)